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2022年11月15日 (火)

母が天寿を全うしつつあることについて

実はまもなく(といっても、3日後になるか、1週間後になるか、2か月後になるかわからないけど)99歳の母が老衰で天寿全うすることを、医師の、非常に丁寧なインフォームドコンセントのもとに宣告されました。

そのことについての感慨を書かせていただきます。

ついに来たか、あと半年持って、100歳の誕生日を祝えたらな、そうすれば天神での開業がそこそこ安定する様子も報告でき、安心してもらえるのにとまずは思いました。

新事業を始めたことは、母にも伝えていて、若干認知症気味(といっても重度のアルツハイマーには全然届かない)の母にも、理解できる形で伝わっていたと思いますが、結果を示したかったですね。

でも、天神開業の場所の整備と、申告手続きがちょうど終わり、一息ついたタイミングだったことは幸いと思います。

母の終焉に、腰を据えてつきあえますから。

さて、私って、もはや普段の日常の中では、意識的にフォーカシングをすることはない人間です。完全に「条件反射」化している。つまり、自分の中に生じて来たあいまいなモヤモヤ(フェルトセンス)、言葉で説明できない違和感には瞬時に注意が向き、それに自動的にフォーカスし、相手にも通じる、「的確な」言葉を見つけて対応できるスキルを身につけています。これは現場臨床でも大変役立っています。「治療者の逆転移の活用」そのものだと思っています。

このことは既に「現代のエスプリ」410「治療者にとってのフォーカシング」を伊藤研一先生と編著させていただいた中で書かせていただいています。

クライエントさんに意図的に「フォーカシング」してもらう必要はないんですよ。治療者側が面接場面のただ中でフォーカシングし続けていればいいわけです。

そういう私が、意図的にひとりフォーカシングするのは、自分のシミュレーションになかった、突発的な事態に、こころが動揺した時にほぼ限られます。

今回の母の老衰死の宣告は、少なくとも私のシミュレーションより早かったので、やはり少し動揺しました。

だから意識的に、完全に手順通りのフォーカシングを自分に課しました。

フェルトセンスと「的確な距離を取り」「共に-いられる」ようになるまでは、難なくできました(ここまでは、少し慣れれば多くの人がそうなれますよ。「シフト」を期待しなければいいのです)。

これって、マインドフルネスの状態に近いと思います。

私はここで眠り込んでしまいました。

「途中で眠り込んでもフォーカシングに意味がある」とは、私が大学院生の時に、はじめて公の場で論考を発表した時にすでに書いています。

そして、夢を見ました。

起きた私は、当然のごとく「夢フォーカシング」をはじめました。

夢の中に母と亡き父は登場していました。

それは、母が38歳の高齢出産で私を生んだ時、帝王切開で、その際に、子供は私一人だけでいいからと、子宮摘出をしてしまったことを、母が父に抗議しているという内容。

「子宮摘出は、私の判断ではない。父の独断だ」と母は夢の中で抗議しているのです。

これは「実際に」そうだった可能性も否定できません。

独断で私と母に人生上の重要な決定を押し付けるのは私の父の名物でしたから。

父が、非常に鋭い現実シミュレーション能力を持つ、頭脳の回転が半端でなく速い、即断即決で外れを引かない、たいへんなリアリストであったことは確かですが。

しかし、同時に父が非常に見栄っ張りであり、湯水のように金を使い母を贅沢させていました。

それは母に喜んでもらうことを父がほんとうに生きがいとしていたということであり、関東在住中の私にそれを知らせずに、海外旅行とかし放題だったことをあとで知った時、私は母に嫉妬したものです。

父の死の時にはかなりの額の借金があり、父母の住んでいたマンションを売り払うことで遺産のかなりは使い果たされました。

そういう、オモテとウラの二重性というのは、他ならぬ私にもあります。

恐らく、ネット上での私は、ナルシスト?それとも非常に誠実?と意見が分かれていると思いますが。

こういうネット上では書けないことも現実にはしています。そのための責任はすでに取っていますが。

いずれにしても、私は「はったりかましている」部分と、常に自分のアタマで考え、こころで感じ、自分なりの自分のコトバを紡ぎ出す面が共存しています。

ある意味で、「飲み込みがいい」人間だと思います。ジェンドリンの「人格変化の一理論」を一読めからスラスラ理解できた特殊な才能を持っていたことはすでに何度も「自慢話」してきましたが、例えば他の流派の心理療法についても、レジェンド自身の本は読むとは限りませんが、その要点を理解し、現場で役立てられるまでの手際はいいと自負しています。少なくとも面接の最中に、すでに学会とかで聞きかじった知識がスラスラと思い浮かび、「そうか、それはこういう意味だったのね」と納得して、私なりに活用していく行くタイプです。

Twitterでも、みなさんのいうことを「剽窃」するスピードは速いですよ。

私には、オリジナリティなんて何もないと思っています。すでに誰かが言っていることばかりです。

さて、なぜこういうことを書いているかといいますと、内観療法的に言えば、母に「して返した」ことはなるでなく、「迷惑をかけた」ことばかりだと思います。

決して私に怒りを向けたことがない、やさしい母でしたが。

母の死に伴う「対象喪失」の危機と、「抑うつ」をできるだけうまくしのぎながらの「償い」をどう進めるかということです。

・・・やはり、私の貧しい、実は全然無能だったカウンセラーとしての経験から学んだことを、皆様に伝えていくことかと思います。

ここからが「宣伝」ですが、私が今度電子書籍とオンデマンド出版で刊行する「若き臨床家のために」という、なんとも偉そうなタイトルの本は、結果的にその第1弾となります。

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このコンテンツ、3章ぶんを除き、実はすでに20年近く前にブログで書いていた内容にほとんど手をいれていません。
2回ほど商業出版の機会がありつつも、その度毎に「ここで書いていることを自分は自分でやれていない。不誠実だ」と感じ抑鬱状態になっては取り下げるという、3度目の正直の刊行となります。

自分で言うのも変ですが、この本自体が、私の、私自身のための教科書としてその後機能していた内容です。

我ながら「これ書いてるの誰?」と思ってしまう。

まあ、そういう本ですが、母の葬儀等に振り回されないかぎり、今月末にはAmazonに並ぶと思うので、どうかよろしくお願いいたします。

2022年10月20日 (木)

カウンセリングルーム ケー・エフ・シー 公式サイト Openいたしました。

これに伴い、「久留米フォーカシング・カウンセリングルーム」は終了いたします。

筑後地区の皆様にはこれからご不便をおかけいたしますが、西鉄福岡(天神)駅南口(三越口)から徒歩6分ほどの、交通の便の良い土地ですので、今後ともよろしくお願い申し上げます。

●カウンセリングルーム ケー・エフ・シー

〒810-0021 福岡市中央区今泉1丁目6-16 サンハイツ今泉103号室
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2022年10月17日 (月)

合同会社ケー・エフ・シー 公式Webサイト、10月20日(木)Open予定!!!

まだ一般の方は閲覧できません。

10月20日(木)の公式サイトOpenと共に、その一部門である、「カウンセリングルーム ケー・エフ・シー」の面接予約も受け付け開始いたします。

●合同会社ケー・エフ・シー 公式Webサイト

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2022年10月15日 (土)

今頃になって 柄谷行人 の「意味という病」を唐突にはじめて読み始めた。

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まだ最初の「マクベス」の章だが、シェイクスピアは主要作ひととおり読んでいるからとっつきがいいけど、この人の教養水準いったどうなっているんだという印象(それがわかるくらいにはついて行けてるというナルシシズム)。

でも、ともかく刺激的な問題提起の書であり、臨床家(内容をある程度理解できるくらいの幅広い教養水準があればの話だが)が読むと頭がブンなくられるくらいの衝撃波があるような予感がする。

ともかく、臨床家は、得てして「意味という病」の最重症患者だ。

あと、「物語を読み解く」とはどういうことか、いわゆる「心理学的理解」の限界と活用をどう見据えるかという点で、私の執筆活動の相対化にも役立ちそう。

「意味という病」を更に2,3ページめくったら、明かりついたまま寝落ちしていた。これはつまらないからとか難解だからではなく、当然寝てる時間になっていたから。中途半端な寝方になったので、寝なおす。

******

気持ちいい目覚め。実は夢の中では「意味という病」読み進めていて、いつの間にか数十年は前の(昭和48年刊行時の)もうぼろぼろになった、ページがちぎれたのを綴り合せた、雑誌刊行時のものを読んでいる形になっていた。

別に「古過ぎる」という無意識の示唆ではなく、まさに「当時の時代に立ち返れ」ということかと。

更に、62歳にもなって、SCの面接を受けに行こうと、心もとない思いをしている展開に。先日の「大学を出て3年たっても社会に居場所がない」夢よりわずかに「進化」しているが(爆)、「お前はまだ入り口に立ったばかり」という「無意識様」からのご宣託かな。

「もうベテランぶりやがってさ」という。

第2章である「夢の世界」を読んでいるが、この章、臨床家としての私から見ても、もう無茶苦茶すげえ。殊に私は #夢解釈 については専門の自負がある(学会誌のの査読論文もあるから探してみ)が、それでもすげえと思う。

この章についてだけでも紹介するレビューを書いてみようかと思う。未だ色褪せない問題提起がある。統合失調症者の妄想や幻聴についての指摘も当を得ていると思う。

柄谷行人氏は「シンタクシス(統語法)」によって「物語」化される以前の、「体験それ自体」という「距離の取れない」現前性のある次元を重視しているのだが、柄谷氏はサリヴァン読んではいないと思うのだが、いつの間にか同じ用語使って、相通じること書いてるやんけ。すげえ。

第2章「夢の世界」は、柄谷行人氏に完全に「噛み合った」形でスラスラ読めてしまった。

マジ、柄谷行人論を「人間性心理学研究」に投稿してみたい気分になった。

まだご存命のようだが、直接お会いして「サリヴァン読んでますよね?」とお伺い立ててみたいくらい。

とんでもない鉱脈堀りあてた。

第3章「私小説の両義性」に進んだら、今度は木村敏先生の「自覚の精神病理」を当たり前のようにさらっとひきあいに出すなよ!! 更には #ハイデッカー (「#存在と時間」は私読んでます)の「不気味さ(unheimlich)でごさいますか。

もうわかったよ。あんたのファンになったよ。

*******

今目を覚ました。

自分が心配だったけど、最後まで面倒見切れなった過去のクライエントさんたちが、海外に「船出」する、というオチ。

これも柄谷行人効果だ。

柄谷氏は、心理学的解釈のすごく批判的なのに実は特に現象学系の精神医学の著作に通逸している。メタ心理学的理解みたいなところがある。

敢えていうが、柄谷行人氏の「意味という病」は、ジェンドリンは別格として置いといて、私が20歳の時に、中井久夫先生の「分裂病と人類」を読んだ時以来のインパクトのある本と言っていいかもしれない。

今後、この本の影響は、臨床面を含めて、私に大きく残ると思う。

柄谷行人氏は、私の好きな芥川龍之介 には凄く批判的である。「藪の中」(黒澤明 の「羅生門」の原作として有名ですよね)彼の一見「心理学的な」小説には人工的な底の浅さがあるというのだが、言われてみればもっともなことが書いてある。

志賀直哉、森鴎外、夏目漱石 については評価が高い。

実は私は志賀直哉と森鴎外は読んだことがないのだが、ピンポイントで引用してくれてるので、言いたいことは理解できる気がする。

志賀と鴎外は読んでみたくなった。漱石は「こころ」をはじめとして何冊か読んでいるのでいよいよ納得が行く。

これからは、こうした「小説」全盛時代の小説も読んでみたい。

*****

果たして 柄谷行人氏が映画評論もしているかどうかはこれから他の本も読んでみないとわからないが、恐らく黒澤明 についてはかなり辛辣だろう。

私が実は基本的には嫌いな宮崎駿については、「千と千尋」、「ハウルの動く城」(これは私は宮崎作品で一番好き)は評価するだろう。

細田守はお気に召さないと思う。

それに対して新海誠は絶賛するし、「ペンギン・ハイウエイ」 や 「打ち上げ花火横から見るか下から見るか」は評価しそう。

とは書いたが、細田守 の「竜とそばかすの姫」で、クジラが飛んでいることは好きそう(ご覧になっていないであろうことは当然として)。

「未来のミライ」なんて、心理学で「完璧に」絵解きできてしまう(だから柄谷行人氏なら好きになれそうもない)。

「未来のミライ」は同人誌にしますが。

これも「勘」だが、柄谷行人 氏は、タルコフスキー は絶賛だろうし、押井守 なら「天使のたまご」と「イノセンス」 はお気に召すだろう。

新海誠って、「心理学的解釈」をしようと思えば、「仮説」はいくらでも立つ。

でもそれをすり抜けてしまい、「仮説」はあんたの「仮説」だよ、になってしまう。

柄谷行人氏の言葉を借りれば、「距離の取れない受け身の現前性」があるわけ。

新海さんは宮崎駿 の後継者というより、押井守の後継者。

何か知らんが、柄谷行人さんの「意味という病」を読んだら、私の映像作品のキャリアが、一気に総括できてしまいそう。

ちなみに「2001年」は柄谷さん好みでしょうね。

とにかく、柄谷行人 氏の脳細胞が、何を考えているかは、もうすでに「読めた」気がする。

「マルクスの可能性の中心」では「意味という病」と逆転した面があるそうだが、これは読んでみないとわからんな。

私は経済学だけではいくら学ぼうとしても音痴なので、ついて行けるかどうかはわからないが。

 

われわれはメタファーの”外”に立つことができない。だが、そのことがメタファーという問題の核心なのである。

(隠喩としての建築)

 

すべて自己が原因である「かのように」考える所に存ずる。”

(トランスクリティーク)


『こゝろ』の隠された主題は自殺であり、友人への裏切り、乃木将軍の殉死などの理由立ては、ともかく自殺が前提となった上で導入されたのである。(『畏怖する人間』意識と自然)

哲学的言説においては、きまって「私」一般を論じている。それらは万人にあてはまるものにすぎない。「この私」はそこから抜けおちている。私が哲学になじめなかった、またはいつも異和を感じてきた理由はそこにあった。

(『探求Ⅱ』単独性と特殊性)


分裂症の体験においてはこの非対称性がしばしば逆転し、自己と他者との主客の関係が転倒している。自己は主体であることをやめて、たんなる他者の客体になってしまう。

 

(隠喩としての建築)

この最後の引用、あまりにもその通りです。

テクストが表面上意図するものと異なる意味を持ってしまうのは、"深層"に真の意味が隠されているからではない。それは「形式主義」的に接近するかぎり、必ず決定不可能性に直面するほかないからである。

(隠喩としての建築)

ここらへんが、いわゆる「作品評論」、特に「心理学的解釈」というものの限界に直結するわけですね。

いずれにしても、ある意味で「心理専門家」の枠をはみ出した私の教養と関心(自分で言うなよな)に応えてくれるものとして、#柄谷行人 氏の著作は、あまりにも格好の「出会い」だと感じる。

私は 「逃走論」の 浅田彰は、パクリばっかで好きになれないのだが、#柄谷行人 との映像記録(いかにもあっておかしくないと思うが)があるなら観てみますか。

 ●柄谷行人 / 浅田彰 1 (1986)

 https://www.youtube.com/watch?v=vDwc-x5MW10


非常に貴重な映像だと思う。

●柄谷行人 / 浅田彰 2 (1986) 

https://youtu.be/G-uihYeOoZU

写真(セルフポートレート)や(自分の声の)録音の登場によって、それまで慣れ親しんでいた「自己」が「不気味なもの」として異化されるようになった。それがフロイトの登場と期を一にする。

デカルトの言う方法的懐疑が、機械とは異なる人間の「精神」が、絶えず共同体システムから離脱し、差異化し続けることであり、さもなくば思考とは、単なる「機械」、コンピューターによって代替可能ということに確かになりますね。

 

新海誠と柄谷行人がリンクしているという私の直観が、ものの見事にあたっていたようだから、「#日本近代文学の起源」、速攻で注文です。

ニーチェ的に言えば「永劫回帰」を超える「超人」ということになり、フロイト的に言えば「反復強迫」を乗り越えていく「徹底操作」ということに他ならず、ジェンドリン 的に言えば、「構造拘束的(structure-bound)」体験様式を direct reference で「過程進行中(in prosess)」にすること。

何か連投が一人言めいた、難解な内容になっているのは承知だが、きちんと哲学書を読んできて、更にジェンドリン の「人格変化の一理論」をきちんと読めている人には、まさにその通りでしょ、と認めてもらえる自負はある(哲学科出で恐らくジェンドリン理論日本最高の理解者なめんじゃねえ)。

2022年9月15日 (木)

カウンセリングルーム ケー・エフ・シー 業務内容 予定

さて、私が合同会社 ケー・エフ・シーを立ち上げたことはこのメーリングリストでも
お伝えしましたが、10月27日に、福岡市天神(正確には今泉公園隣接)にカウンセリン
グルームを構えることにいたしました。

「カウンセリングルーム ケー・エフ・シー」

と申します。

西鉄福岡(天神)駅南口、および福岡市営地下鉄城南線天神南駅から徒歩5分の好立地
です。

1フロアに3室しかない低層マンションの、しかも1階、玄関口から10秒といったと
ころです。

 

●コース

1.一般個人カウンセリング

2.フォーカシング個別指導 (Focuser as Teacher,壷イメージ療法、インタラクティブ・フォーカシング、夢フォ
ーカシング等)

Skype,Google meetingも使用可

以上、50分6000円 各種IDカード、Qコード決済可能

家族・カップル面接対応、この場合50分9,000円。

 

3.月間コース

電話カウンセリング 1か月7:00-24:00対応で回数無制限(業務や交通機関移動、疲
労時と重ならない限り)

12,000円

驚かれるかもしれませんが、私はこのスタイルをこの半年ほど採用して、ひどい依存に
陥らせたことは一例もありません。「今仕事ー」「今寝てるー」であっさり引き下がっ
てくれます。電話に出た瞬間からの構造化というものが熟練すればできるものです。ダ
ラダラとした傾聴はしません。

統合失調症の人の幻聴・妄想も20分前後でおさめてしまいます(了解不可能な幻聴や妄
想は存在しません)。そういうことを10回ぐらいしていれば、頻度も減り、ついには定
期面接の軌道にも少なからぬ場合乗ります。

こうした際には、すでに翻訳したジェンドリンの論文に書かれた傾聴を、tightにさらっ
と用いることが役に立つようです。

 

4.訪問カウンセリング

1回6000円 食費交通費別

これは3.と併用すると大きな効果が出るようです。

 

以上のコース、障害年金受給者、生活保護受給者は値引きに応じます。

 

 

5.最大5名程度のフォーカシング勉強会

せいぜい1回2500円ぐらいで、13時-17時 土曜日月1回を予定。

 

6.全国へのセミナー・ワークショップ講師(依頼・開催含む)

一日ワークショップ 講師料原則20,000円(交通費・宿泊費別)

 

開業時間 月・火・木・金・土(祝日含む)13:00-20:00

 

久留米のフォーカシングルームはやめたわけではなく、お客様の動向を見ながら徐々に
福岡市中心にシフトすると思います。

 

共通電話番号 080-9532-1148
メール kfc20220801@gmail.com

 

10月中旬にはSEO対策も万全の公式Webサイトをオープンいたします。


Web制作会社のこだわりが半端なものではない、ユニークなサイトになるように共同作
業が進んでいます。

2022年9月 8日 (木)

若きカウンセラーに向けて

自分に思い込みがあったと反省する人の弁は尊重したいが、人に対して思い込みが過ぎると批判することは慎みたい。

誰でも自分自身や他者や社会について、テキトーに思い込んでいるからこそ、自我の安定は保たれているのではないか。

それなら、「私はあなたとは違う見解なのですが」と伝えるべきだろう。

「認知の再構成化」というのは、正答があるわけではなく、実は果てしなく続くステップの積み重ねなのだろうと思う。

これは単なる 「価値相対主義」とは違う。価値相対主義というのは、相手のことが「わかって」もいないのに「わかった」フリをすることだ。

およそ、「他者」との交流はすべて「異文化交流」とみなすべきであり、相手のことを「全然わかっていない」という手探りのつもりでなされるべきである。

そういう意味では、カウンセラーを見抜くのは簡単である。

人間の心のことならなんでも「わかっている」かのような発言をするカウンセラーはすべて偽物であり、「わからない」「理解できない」という前提で、ひとりひとりと一歩一歩関係づくりをしていくのはホンモノだ。

こういう問題になると、#中島みゆき は本当に辛らつだ。


「包帯のような嘘を見破ることで 学者は世間を見たような気になる」

 

世情/中島みゆき (歌詞付き)https://youtu.be/tk4VnGWU-cY
@YouTube
より

 

 

誰が悪いのかを言い当てて 
どうすればいいかを書き立てて
評論家やカウンセラーが米を買う

 

時刻表 #中島みゆき ギター弾き語りcover https://youtu.be/4VEwH3TQPqo
@YouTube
より

 

 

君の心がわかるとたやすく言える男に
なぜ女はついていくのだろう
そして泣くのだろう

 

空と君のあいだに - #中島みゆき (フル) https://youtu.be/U2jEWTrExsg
@YouTube
より

 

 

「ここにいるよ」
でいいのだ。
「ポプラの枝になる」
でいいのだ。

ある意味で「呆然としながら」クライエントさんのそばに「たたずむ」ことしかできないことこそ、カウンセラーが「失ってはならない『初心』」である。

その意味では、経験不足の若いカウンセラーの方が「神のかたわらにいる」。神に愛されている。

「理論」や「技法」はすべて、「カウンセラーが」身を守るための「必要悪」としての「武装」である。

理論や技法も身につけた上で、それを杓子定規に行う段階を「卒業」する必要がある。

そうなって、はじめて、クライエントさんに寄り添えるようになり、カウンセリングの成果が幅広く出せるようになる。

およそ臨床的「概念」というのは、「その」概念を発案したレジェンドの臨床経験においてぴったりだった「象徴化」であるに過ぎない。

「その」レジェンドにとって、どういう患者と、どういう流れの面接過程でそれが発案されたのかを「追体験」する必要がある。

ただし、フロイトの「狼男」の症例について、本人へのインタビューで明らかになったように、レジェンド自身が、自分の事例を好都合に書き換えていることも少なくないことには留意すべきである。

これはすべての「事例研究」にいえることである。

そして「当事者研究」が意味をもつ理由でもある。

「臨床」とは、本来、患者のベッドのそばに「たたずみ」、せいぜい包帯を変えたり、水枕を変えたり、消化のいい食事を供することしかできなかった援助者の、圧倒的な「無力感」との戦いの中にこそ原点がある・・・ということぐらいは「まずは」教わるよね。

実は、ナイチンゲール の人口に膾炙した伝記は、彼女がクリミア戦争ではじめて傷口を清潔にする実践を行ったかのようになっているが、これはウソ。

ナイチンゲールは、野戦病院に送られてくるのが「遅すぎた」せいだとしか当初思っていなかった。後にそれが誤りだったと気づいた。

帰国して様々栄誉を受けた中でも彼女の罪悪感はおさまらず(統計的に証明される事実があった)、それをわずか100名程度に真相を書き送った。これについては、「ナイチンゲール 神話と真実」という本に詳しく書かれている。

私がブログでこの本を詳しく紹介しています。

●「ナイチンゲール 神話と真実」について

・・・というようなことを書いた本を出版しようという企画があったのだが、さまざまな事情で、とりやめとなったんだよね。

このあたりが、資格試験に合格した皆様への、私なりのエールかな。

私のブログに独立カテゴリー、「若きカウンセラーに向けて」があります。

当然、この時の原稿は私の手元にある。

これにその後のブログエントリーを追加して、商業出版の声がかかるきっかけとしての、「ウマ娘の精神分析」でもあるわけです。

恐らくこれまでの人生で超最悪の悪夢を見た。

それがユングのアニマの理論にパーフェクトなまでに一致した。

それに比べれば、現実世界のでの悪の住人なんて、姑息なところで小金を稼いでいるだけの、至極「善良な」人たちだ。

やくざですらそうかも。

私は、こういう夢を見せて下さった神に感謝します。

断固として女性への暴力とそれによる性被害には反対します。

しかしAV女優とその雇用者(アングラではない)には、その正当な存在意義を認めることにしました。

援助交際やパパ活をする女の子たちと同じ目線に立ってみせます。

セフレを持つ人たちの生き方も肯定します。

まあ、純粋だと思っていたのに「実は娼婦だった」女性に金をたくさんとられて、更にその女性から紹介された2人の金髪の女性と寝て、またもや多額の料金を請求され、それでも「結合」した状態のままでいたら高利貸しが現れて、困ったな・・・そんな夢。

私の中に、そういう連中のような所が少しはあっていいという解釈。

私は恩師の奥様の 村瀬嘉代子先生に認めてもらえることが夢ですが、夢を見て、先生が背負われた、負の側面と善の側面のすべてを背負った生き方の重さがやっと直観できる気がしました。

嘉代子先生は、決して私に直接お褒めの言葉を下さることはないでしょう。

でも、東京で、少しはひとり微笑まれるくらいの存在にはなってみせます。

2022年1月 9日 (日)

全家財道具を訪問した大学に置き忘れる夢

夢をたて続けに見た。

1つ目。

私はある大学の学園祭を訪問している。

気がつくと、ある出店が開かれたいたその建物の一室(当初は普段はゼミとかに使う部屋のように思えた)に、スマホとクレジットカード等の入った財布と背負ったリュックを置いたまま、私はタバコと携帯灰皿とライターだけを持って、大学の構外の随分離れた場所まで外に出てしまっている。

私は荷物を置いてきたことを思い出し、あわてて大学の構内に戻ろうとするがどの建物かすら当初忘れていて、焦り、途方に暮れる。

恐らくこの棟だったろう、そのこの階の一室だったろうというところまで戻るが、すでに学園祭は終わっていて、通常の講義が再開されていて、その真っ最中のようで、今更中に入りづらいことに困惑する。

*****

ここで一度私は夢から覚め、悪夢だと思った。

そして、そうしてこういう夢をいたのかはすぐに思いあたった。

その大学は、私の夢の中にしばしば登場する(学会で3回ほど行ったことがある)、大規模な指定校大学院がある総合大学である。

なぜその大学が出てくるのかと少し考えてみたが、それは全く別の、2人の臨床心理士の方と関連しそうだと気づく。

そこに「私の大事な荷物を一式置き忘れ、どこに置き忘れたのかも覚えていない」というのが何を意味するのかもあたりがつく。

眠り込む直前、私は現在本の原稿を書いていて、ある章が来るまで自信満々だったのだが、突如ある章にあてる「事例」のデータを詳細に数時間かけて点検すると、実はそのデータが全く空疎であり、そこから何か考察めいたことを書ける自信を失っていた。

それを引き金に、自分の書こうとしていた本の内容が、当初の構想のあてが外れて、今後まともな内容の章を書けないのではないかという不安に一気に襲われた。

それは更に、その本の構想と、そこで一発大逆転して、今後の私のカウンセラーとしての経営の軌道を順調にしようという構想自体の底の浅さと、そこに「みせかけの自分」を構築しているのではないかという絶望感を引き起こした。リアルな私の実情は、その程度のものではないのか?

******

ここで私はまたいつの間にか眠り込み、夢の続きを見ている。

私は自分が荷物を置いてきたのは、現在講義が再開されている教室のある階の下の、半地下の、部屋が並んでいる階であることを思い出す。

そこは、学生とか教師とかが一時的に宿泊するための、6畳くらいの部屋が廊下に並んでいる。

その中のある部屋に荷物を置いてきたはずと、あたりをつけて入室すると、そこは家具のある畳部屋になっている。

ここで、私が置き忘れてきたのはリュック等だけではなく、そもそも私が独身時代に繰り返し引っ越す際に移動させていた家具一式(1000枚のCD等も含まれる)であった、ということに夢は拡張されている。

その部屋の中に、ひとりの男子学生がすでに「住んで」いるわけだが(ここで夢はそこが「学生寮」の一室であることに拡張)、私は私の荷物を知らないかと尋ねる。

すると、突如その学生の母親が現れる(ここでその部屋は学生と親の住む、少なくとも2部屋あるアパートの一室ということに拡張)。

そして、その母親から、「安心して下さい。荷物は皆、今あなたの住んでいる住所へ送りました」と言われる。

私はほんとうに全部の荷物を「選り分けて」送ってくれたのかどうか一抹の不安を覚えるが、ひとまずほっとする。

******

ここで再び目覚める。

どうも私は私なりに学生時代から積み上げてきた「蓄積」を確かに今も「所有」しているのであり、それを「見失って」いただけで、ちゃんと再確認できている気がした。

そこで、その章にあたる内容に関連する情報をネットで調べ始めるが、どうもその「事例」そのものが、他の事例に比べると、ネット界全体での情報量がそもそも薄いことに気づく。そもそも固有な特徴に乏しい事例であるということ。

そして、なるほど、その章の内容は他の章より薄めになり、「何とかでっちあげる」水準にとどまるかもしれないのもやむを得ない、30章も書くのだから、埋め草にそういう章が出てきてもしかたないではないかという思えるようになる。

すでに書いた章は、確かに興味深い「事例」が多く、内容も充実しているという自信を回復した。興味をひく「事例」から順不同に執筆しているので、今後薄味の章は増えてくるかもしれないが、全体のクオリティとしては何とかなるだろう。

その章の事例を書かないでおくことによって「網羅性」を失うことの損失のほうが大きいと判断できるようになった。

******

ここで私はまた寝てしまう。

外国の鉄道に乗っていて、駅から降りた所。私は警察に監視されている。私は(正確には忘れたが)ルパン3世か「シティハンター」の冴羽獠みたいな存在自身になっている。

霧の中、ロシア風の洋館の並ぶ行き止まりの壁に追い詰められそうになった時、私は「絶対に追い詰められない」と警察官たちに言い残し、壁に向かっでダッシュをはじめる。

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目覚めて振り返ったが、これもわかりがいい。

警察とは、私の超自我だろう。しかし私はその「監視」をまんまとくぐり抜けてしまえるという自信にあふれた、ダーク・ヒーローのような存在になっている。トリックスター的とも言えるかも知れない。

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ここでまた寝てしまう。

私の本(今回とは全く別のテーマということになっている)の内容には、一切の取りこぼしもなく、つけ入る隙がない、完璧な仕上がりと誰もが認めるしかなくなっている。

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夢を見ることと、目覚めてワークすることの往復が、一連の過程として成立しているが、それは私が普段から自分の夢に向き合うことを完全に習慣化しているからである。

この背景には、私が臨床現場でも使いこなしている、ジェンドリンの「夢フォーカシング」のスキルを、何よりまずは自分のために身につけているということにある。

夢と向きあうことは、起きている時に不可能な次元で、「現実」と向き合うためのきっかけとなるのであり、そこでのワークは、「現実の」具体的な自分の生き方を変えていけるほど強力なものである。

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夢の「解釈」にはいろいろ専門的知識が必要と思われているかもしれないが、「いかに(how)」解析していくかの方法論は意外とシンプルであり、これは完全に定式化可能である。

これについては、私の書いた「入門フォーカシング」でも、一章を割いて、ジェンドリン自身の上記の著作を整理する形で、その方法をかなりくわしく書いている。

2021年12月17日 (金)

久留米フォーカシング・カウンセリングルームのネット面接、スカイプのみではなく、ZOOMにも対応

2021年12月15日 (水)

心理教育相談室の新人が皆無になり、存亡の危機に立たされる夢

観ていた夢 。

私も所属していた非常に多くの相談員をかかえていたはずの大学院の心理教育相談室の相談員が、ある年の4月、ある年突然新人ゼロとなり、私と一人の男の先輩2人だけになる。先輩は相談室閉鎖だとあっさり諦めている。私はクライエントさんたちが困るだろうとOB/OGに連絡を取りはじめる。

「これも少子高齢化が原因ではないか」ということで私と先輩の意見は一致していた。その先輩はリアルではかなりくだけた人柄で、私に大学非常勤講師の職を譲ってくれるなどしてくれた人なのだが、

母の認知症が思ったより進んでいることを施設で見せつけられ動揺した昨日の自分と、その施設で会ってくれると言っていた家族との再会の段取りが順調に進んでいないことに気落ちした自分の心境がオーバーラップした。しかし夢の中の私はそれに負けてはいない。私も希望は捨てる気はない。

母に早めに死なれてしまって遺族年金分がなくなると、かなり家計が厳しくする程度の稼ぎしか今の自分にはない。今度の本は、時流に乗った目をひく題材なのは確実で、超控えめにみて数千部は売れるはず。その印税とカウンセリングルームの宣伝になることに期待を賭けている。

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2021年11月29日 (月)

「鬼滅の刃」の主人公になって、仲直りの宴会で致命的な失敗を犯す夢

私は「鬼滅の刃」は、劇場版アニメ予告編と原作の第1話しか観ていないのですが、アニメで「遊郭編」が開始されることに関連したツイートが幾つもみられることが直接の引き金と思われる、次のような夢を観ました。

私は主人公、竈門炭治郎になっています。そして夢の中での設定としては、2つの高校の間での暴力を伴う抗争劇ということになっています。

この抗争に手打ちがなされ、両グループ和気あいあいの宴会が催されているという場面。

数々の歌や踊りが披露されているのですが、敵だった側のひとりが、自作の楽器で弾き語りを始めます。それは素晴らしいものでした。

私はその楽器を触ってしまいます。するとその楽器が壊れてしまい、「しまった!」と思います。

・・・これで夢は終わり。

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「鬼滅の刃」がいろいろな次元で差別と関連する話題になっていることも関係するとまずは思います。

この夢を要約すれば「以前は対立しあっていた人たちと関係が持てるようになる。しかし、私の小さな不注意で、その関係が台無しになる」

となるかと思います。

私は最近、眞子さん複雑性PTSD問題や「温泉むすめ」問題で、非常にデリケートな立場をネット上で維持しています。

フォロアーの方には、被害者や障害当事者のフォロアーが急速に増えました。

私はそれもあり、自分のツイートのみならず、どれをリツイートするかにまで気を配っています。

しかし、正直に言って、薄氷を踏む思いです。

現実には私の失言等で、せっかく築き上げた関係にひびを入れることはまだ生じてはいませんが、そうなりはしまいかという危惧を常に抱いています。

そういう「予知夢」「警告夢」の意味あいを持つとまずは解釈しました。

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次に、夢の中に登場するのはすべて自分の分身という捉え方も試みてみました。

楽器で歌を披露する元敵側の人物は、なるほど私自身でもあるかと思います。そして、「壊れやすい手作りの楽器」とは、おそらく今私が書いている本の原稿のことを指します。

原稿の内容自体、デリケートなもので、細心の注意を払って、推敲を重ねた上で幻冬舎編集部に逐次送っていますが、これは編集会議での資料にという思いがあるからです。

ここにも、私は、注意しないとせっかく築き上げてきた信用が壊れてしまうという不安を感じながら慎重に進めています。今の所編集部には好評ですが、実はこの本を出すにあたっては、他の方の表現創造物を題材としていまして、そちらの編集元の大会社との著作権や名称権の交渉という、誠にデリケートな今後の課題をかかえています。

これが通らないと、せっかく情熱を持って書いてきた原稿そのものが無意味となり、わたし自身が精神的に参ってしまいます。

「壊れやすい楽器」とは、実は自信満々の私自身でもある。

このことへの不安と緊張が夢に反映されているのも間違いがないでしょう。

「楽器で自作の歌を歌う登場人物」となると、実は私の知り合いにそういう人が実際にいまして、デリケートなその人といい関係を保つのに腐心しています。今度私に会いに来てくれる約束をしているのでなおさらです。

さて、「夢フォーカシング」の自己分析の方略に「夢の続きはどうなるか」というのもあります。

これに従い、楽器を壊して「しまった!」と思ったところで「これは夢だな」と目をさました夢の続きを連想してみましょう。

・・・そうですね。まずは土下座して謝るんじゃないか。

そして、今度は私が歌い出すんじゃないかと思います(^^)

 

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トロントだより

  • 050601_0957
     The Focusing Instituteの第17回国際大会(2005/5/25-31)の開かれた、カナダ、トロントの北の郊外(といっても100キロはなれてます)、Simcoe湖畔のBarrieという街に隣接するKempenfelt Conference Centreと、帰りに立ち寄ったトロント市内の様子を撮影したものです。

神有月の出雲路2006

  • 20061122150014_1
     11月の勤労感謝の日の連休に、日本フォーカシング協会の「フォーカサーの集い」のために島根県の松江に旅した時の旅行記です。https://focusing.jp/  
    ご存じの方は多いでしょうが、出雲の国には日本全国の神様が11月に全員集合することになってまして、「神無月」と呼ばれるわけですが、島根でだけは、「神有月」ということになります。(後日記:「神無月」は10月でしたよね(^^;A ........旧暦なら11/23前後は10月でせう....ということでお許しを.....)  
    ちょうど紅葉の時期と見事に重なり、車窓も徒歩もひたすら紅葉の山づくしでした。このページの写真は、島根の足立美術館の紅葉の最盛期です。

淡路島縦断の旅

  • 050708_2036
     「フォーカシング国際会議」が、2009年5月12日(火)から5月16日(土)にかけて、5日間、日本で開催されます。
     このフォトアルバムは、その開催候補地の淡路島を、公式に「お忍び視察」した時の旅行記(だったの)です(^^)。
     フォーカシングの関係者の紹介で、会場予定地の淡路島Westinという外資系の超豪華ホテルに格安で泊まる機会が与えられました。しかし根が鉄ちゃんの私は、徳島側から北淡に向かうという、事情をご存知の方なら自家用車なしには絶対やらない過酷なルートをわざわざ選択したのであります。
     大地震でできた野島断層(天然記念物になっています)の震災記念公園(係りの人に敢えてお尋ねしたら、ここは写真撮影自由です)にも謹んで訪問させていただきました。
     震災記念公園からタクシーでわずか10分のところにある「淡路夢舞台」に、県立国際会議場と一体になった施設として、とても日本とは思えない、超ゴージャスな淡路島Westinはあります。

水戸漫遊記

  • 050723_1544
     友人と会うために水戸市を訪問しましたが、例によって鉄ちゃんの私は「スーパーひたち」と「フレッシュひたち」に乗れることそのものを楽しみにしてしまいました(^^;)。
     仕事中の友人と落ち合うまでに時間があったので、水戸市民の憩いの場所、周囲3キロの千破湖(せんばこ)を半周し、黄門様の銅像を仰ぎ見て見て偕楽園、常盤神社に向かい、最後の徳川将軍となる慶喜に至る水戸徳川家の歴史、そして水戸天狗党の反乱に至る歴史を展示した博物館も拝見しました。
     最後は、水戸駅前の「助さん、格さん付」の黄門様です。
     実は御印籠も買ってしまいました。

北海道への旅2005

  • 051012_1214
     日本フォーカシング協会の年に一度の「集い」のために小樽に向かい、戻ってくる過程で、他の参加者が想像だに及ばないルートで旅した時の写真のみです。かなり私の鉄ちゃん根性むき出しです。  表紙写真は、私が気に入った、弘前での夕暮れの岩木山にしました。