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宗教

2022年1月24日 (月)

キリストの受難(passion)を我が身で感じることとカウンセリングの「共感」的理解 -インタラクティヴ・フォーカシング-

たまたまTwitterで、

 

ロジャーズの論においてなぜ受容が難しいか?というのは痛みを拒否しているからだと思う。痛みを感じずに受容しようとするからこねくり回す。受容とは痛みを感じ、その痛みを通して相手を理解すること、そのものだと思う

 

受容が難しい理由をアレコレ考えていたけど、キリスト教的視点に戻ったとき、そう思った。

 

というご意見を目にしたので、

 

"suffering"を"com-passion"する、という言葉が思い浮かびました。私なりの聖書的理解ですが。

 

とお返しした。

 

私はクリスチャンではないか、すでに別の記事でも書いたように、中学時代から、スイスの宗教的著述家、カール・ヒルティの「幸福論」「眠られぬ夜のために」をはじめとする著作に傾倒してた時期があるし、高校もプロテスタントのミッション系である。聖書には英訳を含めて親しんできた。

"suffer"とは「被る」という意味であるが、キリスト教的には、イエス・キリストの十字架に至る苦しみの「受難」を指すことになる。

キリストの「受難」とは英語で"passion"である。バッハの「マタイ受難曲」が"Matthäus-Passion"であることをご存知の方もあるだろう。

更に哲学の分野では、デカルトが「情念論(仏: Les Passions de l'âme、英: The Passions of the Soul)」という本を書いているが、精神の働きに能動(意志)と受動というものがあり、「情念(Passions)」というものが、(わかりやすく言えば)環境から末梢神経を通しての脳への刺激として「受身的(passive)」に生じるという考えを述べている。

話をキリスト教に戻すと、14世紀のイタリアではペストの流行によって社会不安が蔓延し、ドミニコ会修道士の指導のもと鞭で体を打つことで功徳を得ようとする「鞭打ち苦行団」が組織された。

これは、キリストが身体に受けた傷を、自分も受けることで追体験し、贖罪を得ようとするものである。

この苦行は、映画「ダ・ヴィンチ・コード」でも描かれたので、ご存知の方もあるだろう。

このような苦行は極端なものであるとしても、キリスト教において、イエスが心身に受けた苦悩を偲ぶことが、自らの苦悩の癒やしとする考えがひろくみられることは確かだろう。

さて、来談者中心療法の祖であるカール・ロジャーズのいう「共感的(正確には、感情移入的="empathic")理解というのは、あくまでも、「あたかも(as if)その人の感じている「かのように」感じてみるということです。

この"empathy"に対して、私も指導を受けたフォーカシング教師、ジャネット・クラインは、"compassion"という態度があると主張し、区別しました。

フォーカシングにおいては、自分の感情や悩みを「身体の内側の非言語的な感じ」それ自体(フェルトセンス)として直接注意を向け、感じてみるという態度を取るわけです。

これをフォーカシングを学んだカウンセラーの場合で言えば、クライエントさんの言語的・非言語的メッセージを、カウンセラー自身が、自分の身体の内側の感じとして、言わば「疑似体験」しようとすることになります。

まさに、身体の感じを通しての「痛み-の-共有(com-passion)」をしようとする姿勢ということになります。

もとより、あくまでも「疑似体験」ですが、自分がかつて感じたこころの「痛み」を、身体を通して追体験しようとする姿勢です。

もちろん、身体症状化した人の痛み「それ自体」とか、肉体的虐待を受けた人の痛み「それ自体」は感受できないでしょうが、そこで感じた苦しみの感情に対する、身体次元で波長を合わせての想像力というものは、限界があっても持つことはできるかと思います。

クラインは"empathy"で接する時と"compassion"で接する時を、はっきり別の段取りとして区別します。

前者では、あくまでもクライエントさんの感じている「であろう」認知枠に忠実であろうとし、後者ではカウンセラー自身の体験と身体感覚次元で共鳴させてしまうことを求めるわけです。

このふたつは混同されてはならず、今からするのはempathicな応答である、それに対して今度はcompassionとしての応答であるとはっきり示してしまいます。

compassionとしての応答は、カウンセラー自身が自分の体験と重ね合わせていますので、当然「思い込み」の要素があります。
ですから、あくまでも「私は」こう感じた、と、そっと差し出す姿勢が重要で、クライントさんにそれを「修正」してもらい、それを再び受容的に傾聴することになります。

ところが、このような相互作用を丁寧に進めると、クライエントさんは、自分が感じていた以上の新鮮なことを感じられるようになるという、促進的な作用をすることが少なくないです。

それどころか、クラインは、この後の手続きとして、ここまで進めた結果、「カウンセラーが」とのような「感じ」でいるのかについて、クライエントさんに「感情移入」して感じてもらい、言葉にしてもらう、という、相互的(インタラクティヴ)なやりとりの往復として行うことを定式化しました。

このことを繰り返すと、カウンセラーとクライエントさんの間に、非常に深い信頼関係と「絆」が形成されます。

これを、カウンセリング場面に限定せず、パートナーや親子などに、役割を交代しながら日常の中でもやってもらえるように「コーチ」する、というのが、クラインのめざしたスタイルです。

興味をお持ちの方は、ジャネット・クラインの「インタラクティブ・フォーカシング・セラピー」をお読みください。

なお、以下にリンクしたAmazonのレビューに、私自身の更に詳しい解説っがあります(3つしかないのでどれが私のレビューか、すぐわかるでしょう。やたらと長大なの)。

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2022年1月23日 (日)

昔、小林よしのりと論争した時に思ったこと

このご時世では、いかなる「ムーブメント」も、それが価値観の押し付けになり、個人自身の感じ方を抑圧する装置となれば、結局は全体主義を促進する作用しかもたらさないと思う。敢えていうが、狂信的なフェミニズムすら、「全体主義の一翼を担う」装置の一部となり得ると思う

私はいかなる価値観の「押し付け」にも反対する。一人ひとりが自分だけのユニークな価値規範を生み出し、それに基づいて行きていくことを理想して掲げる。

ひとり一思想であり、共感できるひとりひとりの人間と、「個々の条項で」同意できる場合においてにのみ共闘を結ぶ。

そもそもすべての点において同意できる相手なんて、この世には存在しないのではないか。すべては「条件付きの」信頼であり、共闘だと思う。

昔、小林よしのりが「自分の頭で考えろ」と「ゴーマニズム宣言」で書いたので「すべての人がひとりひとりゴーマ二ストになるべき」と手紙を書いたが、次の誌面で「それでは価値紊乱の社会になる」と逆襲された。私は価値紊乱でいいと思うけど。手を組むところだけ手を組む。それが個人主義だと思うが。

仮に私が今より名前が知られるようになったとしても、私は決して「信者」を求めないだろう。批判者だらけがふさわしい。それで個々の人がいうことがもっともだと思ったら個別に同意するだけだ。

親鸞も「歎異抄」で「俺を師としてたてまつる奴らはアホだ。偉いのは阿弥陀如来様だけ」と言っている。

何かあまりに「正義」の名のもとに人を屈服させ、洗脳しようとしている人が多い気がしたから、相当なストレスになってるので、思わず書いてみた。

「正義」をふりかざすことは、すべて「全体主義」への誘惑だと思う。

敢えて宣伝すれば、実は、フォーカシングというのは、他人の言うことへの、すぐには言葉にならない「違和感」にとことん敏感になり、それを相手に「通じる」形で言語化するスキルを磨きあげ、徹底した「個人主義者」を生み出す装置だったりする。

それと矛盾するようだが、他人のいうことは、何らかの意味で「正しい」。その「正しい」部分だけを選り分け、自分の糧にすることが、人間の貪欲な成長なのだと思う。

もっとも、自分が「違和感」を感じた意見に、いちいち自分から反論したり挑戦したりは、よほどのことがない限りしません。 スルーして、その人がその後どういう見解を述べていくかを「観察」する方が、「省エネ」だし、余計な誤解や先入観で泥沼化しないで済みますから。 挑まれれば受けて立ちますが。

Twitterでは、基本的には、その人の言うことに新鮮な発見と学びがあり、一理あると思った時にだけ「いいね」やリツイートをして、それでも「更に」同意したい時だけ引用リツイートやレスを返します。

自分が狭い世界に生きていて、大抵の人の言うことに、その人なりの生活の「現場」があり、そこから抽出された意見や思いだったりすると思うし、その人なりに探求してきた「博識」があると感じるから、滅多に自分のオリジナルのツイートはしなくて、むしろ「圧倒されて」、学びばかりと思っていますが。

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2022年1月 7日 (金)

心の問題をあれこれ「考える」必要はない。

さて、以下の、私のやっている #フォーカシング 「導入部」についての紹介に基づき、 #マインドフルネス との類似性と私が考えることを少し解説してみましょう。

●マインドフルネス認知行動療法とフォーカシングの導入部の類似性

#ジェンドリン はフォーカシングと #瞑想 は、心の中に降りていく「深度」が異なり、瞑想ほど「降りていく」ものではない、と、来日時のワークショップで述べていました。

ところが、フォーカシングにおける導入部としての"clearing a space(空間づくり)"に限定して言えば、ある意味で瞑想と似たところがある気がします。

生じてくる心の中の気がかりを、ひとつひとつ、脇に積み上げてしまうのですね。

そしてそうした気がかりをすべて積み出した後の、「広大な空間」を感じられれば、ひとまずよしとし、それで満足するならば、フォーカシングの段取りをそれ以上先に進める必要はない、必要なことはそれだけでも自然と生じてくることが多いとすら、著書「フォーカシング」の中で書いています。

 

ただ、ジェンドリンは、それを、気がかりな「事柄」という水準で書いています。

私はそれを数多くのフォーカシング・トレーニング経験から、「身体の感じ」レヴェルでまずはやってみるほうがいいと判断するようになりました。これが「第1章」の前に「第0章」の訓練を設定した理由です。

ただし、ここで言う「身体の感じ」とは、腰や肩の痛み、頭痛のような、否応なしに訴えてくるような「身体症状」にとどまるものではありません。

人は、実は、身体症状のようなはっきりした感じ以前に、実は、非常に漠然とした曖昧な身体感覚というものを感受していて、それに基づいて行動しているとみなせます。ジェンドリンの #体験過程理論 でいえば「暗黙の機能」といいます。

例えば、たとえ腹痛を感じていなくても、実は、お腹の中の漠然とした感じというものは、注意を向けてみれば、感じられるのです。

いきなりお腹の中の感じだけに触れようとしても、それを識別できないかもしれませんが、例えば、背中の方の感じと「識別」しようとすれば
、気付けるようになります。

こうしたことを身体のあちこちについてやってみると、身体のあちこちに、質感の異なった感じを「実は感じながら」日常を生きて「いた」ことに気づけるようになります。

とりあえずは、そういった、身体各所の感じを、落ち着いて息をしながら、「観察」できるようになればいい。

これじゃほとんど「瞑想」ではないかと言われる人は、確かに出て来る気がします。私は瞑想については何も学んだことはないのですが。

ところが、この事ができるようになり、習慣化するだけで、日々の悩みから、かなり自由になれることも多いのですね。

******

まるで、およそ人の悩みというものは、すべて「雑念」であり、「煩悩」であるかのように見なしているのか?と言われる人すら出てくるでしょう。

私は別に、思想として、そのようにみなしているわけではありません。

しかし、私たちは、環境との相互作用の中で、「頭で」判断する以前の問題として、まずは「身体で」受け止め、そこから生じてきた漠然とした感じに基づき、さながら「条件反射」のようにして行動している側面が実は大きいなのではないかと思います。

その「条件反射」の悪循環(認知行動療法でいう #スキーマ )を断ち切って、それと距離を起き、一度自由になってみる。

それだけで、新鮮な気持ちで、リラックスして、状況に対応できていくことも多いと思います。

これは、狭い意味での「こころ」の内容(content)主義自体からの脱却とも言えます。

#神田橋條治 先生は、「人間は、"コトバ"文化に『汚染』されている」といいます。

多くの心理療法の世界は、いよいよ難しい専門用語を駆使して、ひとの心の問題をいじくりまわすだけになる危険もある、という視点もあっていいと思います。

こうした「漠然とした身体の感じ」の状態に敏感になり、注意を向けるのに慣れて来ると、激しい感情が生じてくるまでに、自分が何を考え、どう判断する「クセ」があるのかを、冷静に観察する「もう一人の自分」が育成できます。

その結果、感情に任せた軽率な行動を取り、「また、いつものようなひどいことになってしまう」という悪循環を意識でき、ちょっと「自分」をとりもどして、柔軟な、もっといい反応をしていく心の余裕を取り戻せるのが習慣化するわけです。

恐らくこうした状態を確保した上で、言葉を選んで相手に伝えれば、それは相手も冷静な方向に自然と導くことがすくなくないかと思います。

「身体が」落ち着いている人間は、それがオーラのように働いて、相手の「身体」にもクールダウンが伝播することが少なくないということです。

・・・以上が、私の実践していることと、#マインドフルネス #認知行動療法 の接点と私が考えることがらですが、いかがでしょうか。

これは、完全に私の「こころの問題とその解決」観のエッセンスそのもので、#カウンセリング の現場のみならず、私自身の「生き方」そのものです。

念の為にいいますが、自分の悩みや行き詰まりを話したい人には、ますはそれをじっくりうかがうのでして、それをしないまま上記の技法を勧めることはありません。

2022年1月 4日 (火)

初詣

遅れましたが、近所の櫛原天満宮(福岡県久留米市東櫛原町)に初詣に行ってきました。

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2021年12月31日 (金)

よいお年を

所要を済ませ、帰り道に近所の櫛原天満宮(福岡県久留米市)に立ち寄ってみましたが、まだひと気なし。

日付変わって、出直すことにしました。

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皆様、よいお年を。

2021年12月18日 (土)

「西梅田こころとからだのクリニック」放火殺傷事件に思う

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もとよりこうした放火殺傷事件の犯人は法のもとに裁かれるべきですし、被害者の方にはお悔やみ申し上げますとともに、幸い怪我ですんだ皆様に、身体の障害のみならずPTSDが残らねばいいがと案じております。

現時点ではまだ情報不足です。しかし敢えて10歩ぐらいまで先回りして、以下のことを述べておきたいと思います。

多くの病院は忙しいでしょうから、特別なことを訴えたり、面接予約時間以外に助けてくれと言われたり、書類申請とかでせっかちになる患者さんにぞんざいになりがちということには同情してもいいかと思います。しかし、そういう「特殊」ケースへの「危機管理」対応スキルこそプロの領域かとも思います。

援助的専門家には、自分に従順な患者以外には、ひどく冷淡な態度を取ることがあることが少なくないのが現実です。自分があがめたてられる教祖様になってしまうことの弊害に無自覚なのです。

むしろ「おとなしくしない」患者等との出会いこそ、治療者が成長する機会なのに。今回はこういうケースというのが私の勘です。

精神科医をはじめとする援助的専門家は、仮に善意の人であった場合すら(!!!)、自分が多くの人から慕われるようになればなるほど、自分の「影」が深くなることに非常に警戒すべきと思います。無意識に生じる「傲慢」の業(ごう)がいかに深いか。

今回の心療内科医が全くの善人であったと信じることとしましょう。しかし、唐突な連想ですが、親鸞 の「善人なおもて往生す。ましてや悪人においてをや(歎異抄 )」。悪人のほうが自分が悪いと自覚しているから極楽浄土に近いと親鸞は訴えたわけです。善人が浄土に行くのはもっとたいへんなんですよ。

もう、無茶苦茶なことを言えば、援助的専門家というのは、自分が人に「救って」欲しいから、患者さんとかに「癒やされ」「救われる」ために、そういう商売を選んだ可能性に自覚的であるべきです。自分が「救われて」おいて、金「もらう」立場にすらなってることがどれだけ「罪深い」か。

敢えていいますが、大学のセンセーとか病院勤務の援助的専門家は、自分が患者さんやクライエントさんや利用者さんに「食わせてもらっている」という立場だという「基本的構造に」一層無自覚かも。「お客様」に「救われ」、あがめてすらもらえるというのがどれだけのことか。けなされてナンボの立場。

そもそも多くの患者さんは、精神科医と接する際に、「精神科医の」機嫌を損なわないために、自分のできる範囲で、それはそれはものすごく「気をつかって」いるわけです。言いたいことの半分も言えていない。そのことに精神科医がどれだけ「助かって」いることか。

その道の専門家というのは、自分の能力にプライドと責任感を持つ一方で、自分が新たに遭遇する情報や事象や相手には、自分が実は全く無知で、これまで積み上げた能力や知識や能力が、通用しないか、弊害をもたらす可能性に開かれた姿勢を持つべきだろう。

およそ何かを「やりがい」「生きがい」にした場合、その分だけ誰かを(何かを)「搾取」し「隷属させて」いる可能性に自覚的であるべきだ。ボランティアでも趣味でも同じことかと。

少なくとも、日本的な意味での「謙虚な腰の低さ」って、実は厄介な人を引き寄せ、トラブルの種にはなると思います。

このお医者さん、自分で引き受けきれない要求まで引き受けようとしてしまったのではないか?・・・というのが私の勘です。

そして、日本的な意味での「謙虚な腰の低さ」を持つ人って、実は接する相手にすごくプレッシャーを与え、言いたいことを言えなくしてしまう気がします。自分を殺した分だけ、相手も自分を殺すわけです。 

自分が謙虚であろうとする人って、その態度を示すことで、相手を「統制」しようとしている面があることが多い気がします。そういう「謙虚な」人に、あけすけに言いたいこと言える人は少ないと思います。「処世術」にはなりますが、援助的専門家としてはそれだけではマズイ気がする。患者を萎縮させる。

そして、日本的な意味での「謙虚な腰の低さ」を持つ人って、実は接する相手にすごくプレッシャーを与え、言いたいことを言えなくしてしまう気がします。自分を殺した分だけ、相手も自分を殺すわけです。

患者(クライエント)さんの前で、多少はボヤきもユーモラスにつぶやける治療者に対しての方が、実は気易くホンネを口にできるわけですね。私が敬意を払う先輩方は、そういう人が多かったです。 「謙虚である」ことを含めて、無意識のうちに「統制」され、「マウントを取られる」ことに非常に敏感な人は結構いる気がする。非常に自覚的な形でですが、「つけいる(ツッコミをいれる)スキを見せる」ことは結構大事ではないかと。

情報不足の現段階で、このお医者さん個人を責めるつもりはないのですが、「謙虚な腰の低さ」と、無理なことは無理と相手に伝える力、そして、ある種のネゴシエーターとしてのしたたかさは、みな併せ持つ必要があると思います。

2021年12月 5日 (日)

もうひとりの自分と関わる -イマジナリー・フレンド-

イマジナリー・フレンド、日本語でいえば、「空想上の友だち」となりますが、心理学の世界では、かなり知られた概念です。

小さい頃、この、空想上の友だちを持っている人は、結構たくさんいます。

たいてい同性で、遊ぶ時に、実際に声を出しながら対話します。

名前をつけている場合もあります。

このように言うと、実は自分もそうだったと思い出す人はいるのではないかと思いますが。

著者である私にも、いましたね。

このようなイマジナリー・フレンドを持つようになる理由は、心理学者によっていくつかの仮説が立てられています。

まず、前提として、一人で安心していられる空間を家の中に与えられていることが多いとされます。

そして、その「友だち」を持つ子供は、きょうだいがいないか、いても自分と年が離れていることが少なくないそうです。

でも、親はその子供を放ったらかしにしてきたわけではなくて、普段から子供に関心を持ち、声をかけつつも、子供の行動には干渉はせずに、自由に遊ばせるような態度をとっている。

つまり、まずは、親が子供に語りかけるその様子を、子ども自身がまねすることからはじまることが多いわけです。

親は「そんな人いないよ」と否定することはありません。子供のままごと遊びとかではあたり前のことですから。

でも、その子供は、友だちも少なく、ひとりぼっちと感じていることが少なくない。そういう寂しさを埋める役割を果たしているわけですね。

その「友だち」を、親が子供を叱るように、いじめてばかりのこともありますが、自分にとっての理想像であることも多いそうです。

 

(中略)

 

・・・ここで少し、「空想上の友だち」と「幻覚」の違いについて、かなりマジなことを書いておきます。

「幻覚」というのは、統合失調症の人に「見える」「聴こえる」場合があります。

「見える」ことはあまりなく、「幻聴」だけの場合のほうが多いのですが、いずれにしても、本人には、全く空想の余地がないものとして、実際に「見え」、「聴こえる」のです。

コミックやアニメで時として描かれているような、幻想的なヴェールやオーラのようなものにつつまれていたり、声にエコーがかかったりしないのです。ほんとうに実在の姿や声と同じ、生々しい存在として体験されています。

それが自分の空想や思い込みの産物であるとは、本人にも全く感じられません。

ただ、何かとても恐ろしい体験だとは本人も感じていることが多いようです。

また、統合失調症では説明できない、非常に宗教的な、あるいはスピチュアルな体験として生じる人もいます。ほんとうに神や天使やキリストや仏様、あるいは精霊の声が聴こえ、姿が見えるわけですね。

いろいろな宗教の開祖や、後に聖者として讃えられる人が、こうした体験をしたと、書物に書かれています。こうした人は現代にもいます。

本人には嘘をついているつもりは全くありません。本気です。

自分たちのような人間とは異次元の、畏(おそ)れ多い、神聖で高貴な存在との出会いの体験、しかも特別な時の体験として感じられているようです。

そうした体験をきっかけとして、その人の人生は変わってしまい、聖者としての活動をはじめ、それを信じる人たちがまわりに集まってくることも少なくありません。こうして、新しい宗教が始まることもあるわけです。

少なくとも、それをきっかけに、それまで神様とかの存在を全然信じていなかった人が、教会の熱心な信者になったり、お坊さんになるためにお寺で修行をはじめたり、自然の中で瞑想をはじめたりすることは結構あるようです。

もちろん、こうした宗教的・スピリチュアルな体験をしたと主張する人の中には、実はただの空想であることを自覚しているのに、人々を騙(だま)して金儲しようとしている人もいて、他人がそれを区別するのは難しいのです。

ではそういう人と関わるしかなくなった時にどうすればいいのでしょうか。

その人を聖者としてたてまつる必要はありませんが、少なくとも、ご本人が神さまや天使や精霊や、仏様と出会ったというのを否定しないでおいてあげる方がいいことは多いです。

多くのカウンセラーがそういう態度をとることを勧めています。

これに対して、イマジナリー・フレンドと共に過ごす体験は、楽しいもののようです。そして、本人もそれが自分の空想だとどこかで気づいていることが多いです。

こうした「空想上の友だち」は、子供時代を過ぎると、多くの場合、いつの間にかいなくなってしまうものです。でも、青年期になっても、こうした「友だち」がかけがえのない存在である人も、時にはいます。

 

(中略)

 

ここで、「空想上の友だち」との関係から話題を広げて、私たちも、「もうひとりの自分」を話し相手として意識した方がいいということについて触れます。

自分をダメだと責めて、自己嫌悪するばかりになるようでしたら、「あなた」のことを思いやるあまりに、「あなた」の都合などおかまいなしに、いろいろ警告をしたり、おせっかいの押し売りをしてくる、「もうひとりの自分」がいるのだと思ってみるのもいいかもしれません。

そして、そういう存在に向かって、「『あなた』の言い分も一理あるけど、ちょっと聞き飽きた気もする。ちょっと黙って、『私』がやりたいようにやってみる様子を、見ていてくれないかな?」とお願いするのです。

じようにして、「あなた」のグチや泣き言やホンネを、なんでも聴いてくれる、「カウンセラー」のような存在を、心の中にはっきり作ってしまうのもいいかもしれません。

そうすると、「あなた」自身にも、自分自身のほんとうの気持ちや、ほんとうは何をどうしたいのかが、冷静に見えて来くる場合があります。

カウンセリングを受けるというのは、実は、こういう、「自分の中の『カウンセラー』を育てることである、とも言えます、結局は、相談しているカウンセラーとのカウンセリングは、いつか終わりにしないとならないのですからね。

実は、こうして、自分の中のいろいろな「自分」と、焦らずじっくり「対話」できるようになる、ということが、その人のほんとうの心の成長ではないかと、私は考えています。

これは、私が学んだ「フォーカシング」という心理技法で、すごく大事にしていることなのですが、これ以上書くと、わたしのやっているカウンセリングの宣伝になってしまいますので、このへんで遠慮しておきます。

 

*******

 

私が今度出す本の原稿から、そのまま抜粋したものです。

 

2021年10月22日 (金)

宇宙を覆い尽くすような超強大な竜に地球が汚染される夢

今朝の夢は、私が過去覚えていた範囲では一番スケールが大きい夢であった。

雲ひとつない、しかも天の川も見えそうなくらいに澄んだ夜空を、覆い尽くさんばかりの龍が、天の川の星々のような細かい粒状の光で現れる。

それをアメリカ(国連?)の空軍(宇宙軍?)の全部隊が迎撃に向かう。

しかし龍によって散り散りに粉砕されてしまう。

地上に龍の吐き出した薄茶色の茶色の粒が3センチほど降り積もる。

それには毒性があるといわれる。

家に中にいた人にはそのことに気づかないままの人もいる。

なぜかTV中継などはされていない様子である。

私はそれを(どうやってそうしたのかはよくわからないが)多くの人にふれて回る。

その中には、(亡き)父の住む部屋も含まれている。

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私の海外の師であるアン・ワイザー・コーネル女史が、"Treasure Map"(こころの宝探し)という技法を開発している(ネットで検索したら、韓国のバラエティ番組に同じタイトルのものがあるようですね)。

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私はこの技法にはそんなに関心がなかったが、この技法について直接アンさんから学んだ、今では日本のフォーカシング界の有力なトレーナーのひとり(私の教え子なのだが)が、アンさんが、「夢の中でドラゴンが出てきたら、どういう武器で戦うかを想像すべきだ」と教えたのに対して、彼は「東洋では、龍は神の化身ともされ、神聖視されるのだが」と答えたという。

実はこのエピソードを聴いた事自体が、この夢に反映している可能性があると思う。

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龍が空を飛ぶ神聖な存在であるという点では、少し古いものでは、「ネバーエンディング・ストーリー」を思い出す。だから別に龍の神聖化は別段東洋の独占物ではないはずである。

日本では、「まんが日本昔ばなし」のオープニングや、何といっても「千と千尋の神隠し」で著名だろう。

「龍」というと、私には反射的に、「竜とそばかすの姫」で、ネット上の仮想世界で悪役とされた竜が、(ネタバレだが)実は家庭内虐待児が真の姿であったのも思い出されるが、私の無意識の複合体(言葉本来の意味でのcomplexであり、アドラー的な「劣等感」という意味ではないユングの用語)に含まれているのかもしれない。

しかし私の夢に出てきた龍は、それらよりはるかに巨大なスケールである。

実は私は実際の天の川というものを、大学学生相談センター時代に研修合宿で行った、長野県白洲塩沢温泉の夜空でしか観たことはない。この地は、フォッサマグナの線上にあることでも知られているが、当時は携帯の圏外にある、秘境といっていいところであった。私達は自家用車の編隊を組んで、山を超えて数時間かけてたどりついた。

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この星を観ながら、子連れだった同僚の女性のカウンセラーに、「来年はお子さんを連れておいでになればいいのではないでしょうか?」と言われたのだが、実際にはその翌年、その日が来るわずか3日前に、妻は私と大げんかして、子どもたち二人を連れてそのまま家を出ていき、それ以来、連れて行くはずであった、当時4歳の長男とは会っていない。

いろいろ連想が広がるが、先日阿蘇山が噴火して、大きな石が降り注いだ地域もあるというニュース、そして、「宇宙からの襲来を迎え撃つ」という意味では、先日ひさしぶりに観た、「アルマゲドン」のことも連想される。

宇宙から降り注ぎ、降り積もる細かい粉のようなもの、というあたりは、旧約聖書に出てくる、約束の地を求めて移動しているユダヤの民のために神が与えたという、食べられる「マナ」というものを連想させもする。

いずれにしても、私の中では、この竜から地上にもたらされたものは、実は毒などではく、天からの施しものであり、祝福であることに人間は気づいていない・・・という気がする。

地球を覆い尽くす、目に見えないパンデミックといえば、当然コロナのことも連想させるが、もちろんこれを私は神の祝福などというつもりはない。しかし、宗教的な人の中には、神から人類に与えられた罰であり、警告であると吹聴している人々など(それがいいかどうかはともかく)いくらでもいるであろう。

・・・ここまでで私の連想は現状では目一杯だが、私がこうした現象を述べ伝える役割を夢の中で負っていることは、ちょっと畏れ多い気もする。

*****

実はこれに続くかのように別の夢を観ている。

私は「JR久留米駅」にいるのだが、どうもそれは私の子供時代に「夢の中で」再訪している、という「夢」なのだ(ややこしい)。

駅は、実際とはまるで違う構造で、ヨーロッパではありふれているターミナル(終着駅)方式である。日本では今やJRでは、ある程度以上の規模があるのは、上野駅と高松駅ぐらいだろう。

私鉄の終着駅にはありふれた構造であり、阪急梅田駅(2ヶ月前となりの阪急3番街で重要な知り合いと長時間食事を共にしている)、数年前までの東急渋谷駅(東京時代に私には親しみのある駅)、そして私の地元の西鉄福岡(天神)駅などいくつもある。

あと、自由連想的に出てくるのは、「ハリー・ポッター」シリーズでおなじみの、ロンドンのキングス・クロス駅である。

いずれにしても、我が地元のJR久留米駅が、私が子供の頃の「夢」の中では、そうした巨大なターミナル駅の構造をしているのが常識だったのを「夢」の中で再訪するという「夢」という入れ子構造になっている。

どうも、私の地元時代からの男の友達が同伴者となっているようだが誰だか不明。ユング的に言えば私の分身の「影」である可能性もあるが、フロイト的な夢の登場人物の「置き換え」の理論に基づけば、該当しそうな、わたしにとっての同年代の重要人物は容易に連想できる。ただしそれが誰かはここでは具体的には言及しないでおく。

その駅の壁に掲げられた時刻表がまた変わっていて、直接つなかっている都市への時刻や料金等が掲示されているのはわかるのだが、どういうわけか兵庫県の三田をはじめとする予想外の土地への、一日一回しか列車のない(ことになっている)表示も別々に、ホームの前ごとに、大きな掲示板で書かれている。

改札口がまた変わっている。卵型をしていて、表面は陶器で覆われているのがいくつも並んでいる。 しかもその通り道の間隔がやたらとゆったりしていて、駅職員の姿はない。

乗客たちは、自由に改札口を出たり入ったりして散策しており、私達も実際それを楽しんでいる。「夢」の中ではいつもそうだったよなあ・・・と思いながら。

これなど、現在の自動改札機の、切符をうまく入れなかったり、ICカードをうまくかざせねば一発シャットアウト!というのとは対極の構造である。

私の連想では、これは、いくつもの「別の世界」への「結界」を出入りすることができるということの暗示でもあるように思われる。

*****

以上、夢が短い割に長い解釈となったが、いずれにしても基本的には「吉調」の夢であると思う。

ただし、私にのしかかる責任は重大のようだ。

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2021年10月14日 (木)

マックス・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の超解説

「職業としての政治」「職業としての学問」に続いて、ドイツの社会学者、マックス・ウェーバーの話題に戻ります。

「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の訳者の大塚久雄先生の詳しく長い解題を読んでみたのですが、わかりやすく、かなり流れが掴めた感じです。

利潤を否定する禁欲的ピューリタニズムのエートス(「倫理(ethics)」というより、社会が共有する「倫理的雰囲気」、というのに納得)が、利益追求のヨーロッパ型「近代」資本主義を生み出したという「逆説」的問題提起こそこのウエーバーの著作のキモである・・と。

中世からのカトリック世界自体は、教会の権威に服すれば、あとはさほど禁欲を求めてはおらず、一部修道会の「内部」における倫理規範の厳守に過ぎなかった。

それを転換したのがルターの聖書ドイツ語訳の際に浮かび上がった"Beluf"という鍵概念。大塚氏以前の訳では単に「職業」と訳したが、大塚氏は新訳で「天職」と意訳。

ドイツ語の"Beluf"自体は日常語もいいところで、"profession"や"work"にあたるわけですが、確かにこれは聖書的には、通常「天命」と訳されると思います。

神様に命じられた使命をひたすらに果たすということになり、見返りを求めず職務への純粋な努力の傾注となるわけです。

これが修道院を超えて、一般社会での職業倫理となるのは、カルヴァン派の浸透した地域で、これがイギリスに渡りピューリタンとなる。これはブルジョアジーのみならず、労働者も共有する労働規範である。

この"Beluf"に基づく「行動的禁欲」による職務遂行は、「結果的に」多くの利益を生み出す。しかしカルヴァン派の資本家は浪費をしないので、それは新たな事業の開拓や投資活動へという拡大循環を生み出す。

時代を経るにつれて、この「倫理観」の方は形骸化し、労働と経済活動の遂行のみが残った時、利潤追求型の「近代」資本主義は肥大化していく。

ところが、この結果、ブルジョアジーも労働者も、職務に専心するというより、いわば「楽して稼ぐ」ことを目指すようになり、ここにマルクスの言う意味での資本家によるプロレタリアートの搾取の構造の基盤が築かれる。

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・・・本編を読んでもいないのに言うのもなんですが、何とわかりやすいんだ!!というところ。

ウェーバーの時代にはまだ完全に確立していませんでしたが、ここに更に、商品を植民地に売るという経済構造が、国内のブルジョアジーのみならすプロレタリアートを主要な消費者として対象とする現代消費社会と高福祉社会に突入する中で、当初は「イギリス病」ともいわれた職務怠慢主義の跋扈と経済の停滞となるわけですね。

あっさり要約できた(つもり)。

遠からず、ウエーバー自身の本文にもチャレンジしますが。

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大塚久雄先生は、本来イギリス近代経済史が専門で、「大塚学」と呼ばれる、マルクスとウェーバーの社会学の解釈で権威とのこと。

大塚先生の「社会科学の方法」も発掘。

一般向けの講演記録の新書版というには高度な内容で、何とか内容についていける感じです。

この新書のほうは、ウェーバー自体というより「大塚史観」の凝縮でしょうから、ブログではレビューは書きませんが、「社会学」が学問としてどうして成立可能かという主旨の本ですので、チャンレンジされてみるのもいいかと思います。

2021年10月13日 (水)

マックス・ウエーバー「職業としての学問」の今日的意味

先日、マックス・ウエーバーの「職業としての政治」の詳しい紹介を書き、かなりのアクセスをいただきましたので、同じような小冊子である、「職業としての学問」の方も、簡単なレビューを書いておこうと思います。

ドイツの伝統の「私講師」制度への理解(ドイツの学者の伝記みればごく普通に出てきますが)は前提でしょうが、「神なき時代」が訪れる中、しかも第1次世界大戦直後のドイツに彷彿とした、大衆レヴェルに及ぶ政治意識が高まり、学問の中に全能的存在を、教師の中に指導者の姿を求めるような期待感が生まれつつあった時代状況の中で書かれたものです(もとは講演)。

職業的学問探求の非政治性を求め(「価値からの自由の原則」というそうですね)、教師と学者と学生の政治参加を戒めています。

ある意味では学生運動に対しては批判的とも受け取れるし、日教組運動とかへの批判にも使えそうですが、同時に保守系の「御用学者」への批判としても使えそうです。

特に、学者や専門家の、ネットやTV出演等を通しての安易なアンガージュマン(政治や社会問題へのコミットメント。サルトルの用語)に警告を発する意味も読み取れそう。

うけ取りようによれば前近代的なのに、同時に、時代を超えたメッセージにもなりそうな論調に興味を覚えました。

教師も学者も学生も、余計なことは考えず、Shache(日々の仕事)に帰れというメッセージです。

私も、今回の眞子さまの件で、あくまでも専門家として「おかしな診断」と判断して、まずは複雑性PTSDの診断を受けた当事者へのセフティネットをネット上に形成するという「危機介入」を淡々とこなしただけで、ここから、まかり間違って、政治家への志向とか持たないほうがいいのでしょう。

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トロントだより

  • 050601_0957
     The Focusing Instituteの第17回国際大会(2005/5/25-31)の開かれた、カナダ、トロントの北の郊外(といっても100キロはなれてます)、Simcoe湖畔のBarrieという街に隣接するKempenfelt Conference Centreと、帰りに立ち寄ったトロント市内の様子を撮影したものです。

神有月の出雲路2006

  • 20061122150014_1
     11月の勤労感謝の日の連休に、日本フォーカシング協会の「フォーカサーの集い」のために島根県の松江に旅した時の旅行記です。https://focusing.jp/  
    ご存じの方は多いでしょうが、出雲の国には日本全国の神様が11月に全員集合することになってまして、「神無月」と呼ばれるわけですが、島根でだけは、「神有月」ということになります。(後日記:「神無月」は10月でしたよね(^^;A ........旧暦なら11/23前後は10月でせう....ということでお許しを.....)  
    ちょうど紅葉の時期と見事に重なり、車窓も徒歩もひたすら紅葉の山づくしでした。このページの写真は、島根の足立美術館の紅葉の最盛期です。

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  • 050708_2036
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     このフォトアルバムは、その開催候補地の淡路島を、公式に「お忍び視察」した時の旅行記(だったの)です(^^)。
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     震災記念公園からタクシーでわずか10分のところにある「淡路夢舞台」に、県立国際会議場と一体になった施設として、とても日本とは思えない、超ゴージャスな淡路島Westinはあります。

水戸漫遊記

  • 050723_1544
     友人と会うために水戸市を訪問しましたが、例によって鉄ちゃんの私は「スーパーひたち」と「フレッシュひたち」に乗れることそのものを楽しみにしてしまいました(^^;)。
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     最後は、水戸駅前の「助さん、格さん付」の黄門様です。
     実は御印籠も買ってしまいました。

北海道への旅2005

  • 051012_1214
     日本フォーカシング協会の年に一度の「集い」のために小樽に向かい、戻ってくる過程で、他の参加者が想像だに及ばないルートで旅した時の写真のみです。かなり私の鉄ちゃん根性むき出しです。  表紙写真は、私が気に入った、弘前での夕暮れの岩木山にしました。