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歴史

2022年1月24日 (月)

キリストの受難(passion)を我が身で感じることとカウンセリングの「共感」的理解 -インタラクティヴ・フォーカシング-

たまたまTwitterで、

 

ロジャーズの論においてなぜ受容が難しいか?というのは痛みを拒否しているからだと思う。痛みを感じずに受容しようとするからこねくり回す。受容とは痛みを感じ、その痛みを通して相手を理解すること、そのものだと思う

 

受容が難しい理由をアレコレ考えていたけど、キリスト教的視点に戻ったとき、そう思った。

 

というご意見を目にしたので、

 

"suffering"を"com-passion"する、という言葉が思い浮かびました。私なりの聖書的理解ですが。

 

とお返しした。

 

私はクリスチャンではないか、すでに別の記事でも書いたように、中学時代から、スイスの宗教的著述家、カール・ヒルティの「幸福論」「眠られぬ夜のために」をはじめとする著作に傾倒してた時期があるし、高校もプロテスタントのミッション系である。聖書には英訳を含めて親しんできた。

"suffer"とは「被る」という意味であるが、キリスト教的には、イエス・キリストの十字架に至る苦しみの「受難」を指すことになる。

キリストの「受難」とは英語で"passion"である。バッハの「マタイ受難曲」が"Matthäus-Passion"であることをご存知の方もあるだろう。

更に哲学の分野では、デカルトが「情念論(仏: Les Passions de l'âme、英: The Passions of the Soul)」という本を書いているが、精神の働きに能動(意志)と受動というものがあり、「情念(Passions)」というものが、(わかりやすく言えば)環境から末梢神経を通しての脳への刺激として「受身的(passive)」に生じるという考えを述べている。

話をキリスト教に戻すと、14世紀のイタリアではペストの流行によって社会不安が蔓延し、ドミニコ会修道士の指導のもと鞭で体を打つことで功徳を得ようとする「鞭打ち苦行団」が組織された。

これは、キリストが身体に受けた傷を、自分も受けることで追体験し、贖罪を得ようとするものである。

この苦行は、映画「ダ・ヴィンチ・コード」でも描かれたので、ご存知の方もあるだろう。

このような苦行は極端なものであるとしても、キリスト教において、イエスが心身に受けた苦悩を偲ぶことが、自らの苦悩の癒やしとする考えがひろくみられることは確かだろう。

さて、来談者中心療法の祖であるカール・ロジャーズのいう「共感的(正確には、感情移入的="empathic")理解というのは、あくまでも、「あたかも(as if)その人の感じている「かのように」感じてみるということです。

この"empathy"に対して、私も指導を受けたフォーカシング教師、ジャネット・クラインは、"compassion"という態度があると主張し、区別しました。

フォーカシングにおいては、自分の感情や悩みを「身体の内側の非言語的な感じ」それ自体(フェルトセンス)として直接注意を向け、感じてみるという態度を取るわけです。

これをフォーカシングを学んだカウンセラーの場合で言えば、クライエントさんの言語的・非言語的メッセージを、カウンセラー自身が、自分の身体の内側の感じとして、言わば「疑似体験」しようとすることになります。

まさに、身体の感じを通しての「痛み-の-共有(com-passion)」をしようとする姿勢ということになります。

もとより、あくまでも「疑似体験」ですが、自分がかつて感じたこころの「痛み」を、身体を通して追体験しようとする姿勢です。

もちろん、身体症状化した人の痛み「それ自体」とか、肉体的虐待を受けた人の痛み「それ自体」は感受できないでしょうが、そこで感じた苦しみの感情に対する、身体次元で波長を合わせての想像力というものは、限界があっても持つことはできるかと思います。

クラインは"empathy"で接する時と"compassion"で接する時を、はっきり別の段取りとして区別します。

前者では、あくまでもクライエントさんの感じている「であろう」認知枠に忠実であろうとし、後者ではカウンセラー自身の体験と身体感覚次元で共鳴させてしまうことを求めるわけです。

このふたつは混同されてはならず、今からするのはempathicな応答である、それに対して今度はcompassionとしての応答であるとはっきり示してしまいます。

compassionとしての応答は、カウンセラー自身が自分の体験と重ね合わせていますので、当然「思い込み」の要素があります。
ですから、あくまでも「私は」こう感じた、と、そっと差し出す姿勢が重要で、クライントさんにそれを「修正」してもらい、それを再び受容的に傾聴することになります。

ところが、このような相互作用を丁寧に進めると、クライエントさんは、自分が感じていた以上の新鮮なことを感じられるようになるという、促進的な作用をすることが少なくないです。

それどころか、クラインは、この後の手続きとして、ここまで進めた結果、「カウンセラーが」とのような「感じ」でいるのかについて、クライエントさんに「感情移入」して感じてもらい、言葉にしてもらう、という、相互的(インタラクティヴ)なやりとりの往復として行うことを定式化しました。

このことを繰り返すと、カウンセラーとクライエントさんの間に、非常に深い信頼関係と「絆」が形成されます。

これを、カウンセリング場面に限定せず、パートナーや親子などに、役割を交代しながら日常の中でもやってもらえるように「コーチ」する、というのが、クラインのめざしたスタイルです。

興味をお持ちの方は、ジャネット・クラインの「インタラクティブ・フォーカシング・セラピー」をお読みください。

なお、以下にリンクしたAmazonのレビューに、私自身の更に詳しい解説っがあります(3つしかないのでどれが私のレビューか、すぐわかるでしょう。やたらと長大なの)。

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2022年1月23日 (日)

昔、小林よしのりと論争した時に思ったこと

このご時世では、いかなる「ムーブメント」も、それが価値観の押し付けになり、個人自身の感じ方を抑圧する装置となれば、結局は全体主義を促進する作用しかもたらさないと思う。敢えていうが、狂信的なフェミニズムすら、「全体主義の一翼を担う」装置の一部となり得ると思う

私はいかなる価値観の「押し付け」にも反対する。一人ひとりが自分だけのユニークな価値規範を生み出し、それに基づいて行きていくことを理想して掲げる。

ひとり一思想であり、共感できるひとりひとりの人間と、「個々の条項で」同意できる場合においてにのみ共闘を結ぶ。

そもそもすべての点において同意できる相手なんて、この世には存在しないのではないか。すべては「条件付きの」信頼であり、共闘だと思う。

昔、小林よしのりが「自分の頭で考えろ」と「ゴーマニズム宣言」で書いたので「すべての人がひとりひとりゴーマ二ストになるべき」と手紙を書いたが、次の誌面で「それでは価値紊乱の社会になる」と逆襲された。私は価値紊乱でいいと思うけど。手を組むところだけ手を組む。それが個人主義だと思うが。

仮に私が今より名前が知られるようになったとしても、私は決して「信者」を求めないだろう。批判者だらけがふさわしい。それで個々の人がいうことがもっともだと思ったら個別に同意するだけだ。

親鸞も「歎異抄」で「俺を師としてたてまつる奴らはアホだ。偉いのは阿弥陀如来様だけ」と言っている。

何かあまりに「正義」の名のもとに人を屈服させ、洗脳しようとしている人が多い気がしたから、相当なストレスになってるので、思わず書いてみた。

「正義」をふりかざすことは、すべて「全体主義」への誘惑だと思う。

敢えて宣伝すれば、実は、フォーカシングというのは、他人の言うことへの、すぐには言葉にならない「違和感」にとことん敏感になり、それを相手に「通じる」形で言語化するスキルを磨きあげ、徹底した「個人主義者」を生み出す装置だったりする。

それと矛盾するようだが、他人のいうことは、何らかの意味で「正しい」。その「正しい」部分だけを選り分け、自分の糧にすることが、人間の貪欲な成長なのだと思う。

もっとも、自分が「違和感」を感じた意見に、いちいち自分から反論したり挑戦したりは、よほどのことがない限りしません。 スルーして、その人がその後どういう見解を述べていくかを「観察」する方が、「省エネ」だし、余計な誤解や先入観で泥沼化しないで済みますから。 挑まれれば受けて立ちますが。

Twitterでは、基本的には、その人の言うことに新鮮な発見と学びがあり、一理あると思った時にだけ「いいね」やリツイートをして、それでも「更に」同意したい時だけ引用リツイートやレスを返します。

自分が狭い世界に生きていて、大抵の人の言うことに、その人なりの生活の「現場」があり、そこから抽出された意見や思いだったりすると思うし、その人なりに探求してきた「博識」があると感じるから、滅多に自分のオリジナルのツイートはしなくて、むしろ「圧倒されて」、学びばかりと思っていますが。

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2021年11月16日 (火)

このままでは、日本のリベラルは現実社会に影響を行使できないまま、ナショナリスト勢力に敗北する。

今野 元 (著)ドイツ・ナショナリズム-「普遍」対「固有」の二千年史(中公新書)を読んで感じたことなんですが。
←私のレビューも載っています。

今野氏は、この著作の中で、戦後のドイツの歴史をとらえる上で「道徳の鉄槌」という言葉を繰り返し使っている。

最初は、第二次世界大戦終結後のニュルンベルク軍事裁判について。連合軍の「正義」の名のもとに審理がなされたという点について。

次に、その後のドイツ思想界における、過去の反省に基づくドイツ史全否定「ドイツ後進国」論を自らしていく潮流に関して。

そして、緑の党の躍進による環境主義の台頭について。

最後にフェミニズムの台頭について。

今野氏は明らかにノスタルジーに基づく過去復権論者でも保守主義者でもないにもかかわらず、こうした流れがグローバリズム的「普遍」主義に基づく価値観の押しつけという側面を持つことについて注意を喚起している。

むしろ非常に醒めたリベラリスト、個人主義者という印象である。

思うに、日本における左派リベラルの流れも、無自覚的に、西欧の「進歩的」価値観を受け入れてしまっている。

これでは、イスラム圏や中国との関係における多文化主義、体制の共存と対話という観点からしても、非常に硬直した、自分の立場からの、価値観と道徳の押し売りになる可能性があると思う。

そして、日本における国家主義の台頭に対しても、実は簡単な問題ではなく、自分のリベラル的な立場の対象化自己点検を経ての、用意周到な方略がないと、SNS上での叫びにはなっても、一般の人々の投票行動に結びつくアピールにはなり得ないのではなかろうか。

眞子さん複雑性PTSD診断「公表」問題をめぐっての議論も、この診断を受けた当事者に対して偏見が生じることについての当事者への連帯という意見が全くに近く見られず、ただ素朴な皇室への同情か、ゴシップ的な上げ足を取る中傷かにリベラル勢力すら大勢を占めた現実なども省みるにつけ、暗澹たる思いである。

差別の問題についても、単に優生思想を批判するだけでは、ホンネの次元に踏み込む形での、内なる「排除」意識との対峙に結びつかないと思う。

2021年11月13日 (土)

今野 元 (著) ドイツ・ナショナリズム-「普遍」対「固有」の二千年史 書評

トイトブルクの戦いからメルケル引退まで網羅しているにもかかわらず、もう、学習指導要領的ドイツ史観を見事に洗い直してしまって、最新の筆者の知見を紹介しているという、密度が高い本です。

そもそも従来の歴史用語(地名から党名まで)、全部みなおしてる。

エステルライヒ、シュヴァルツ、ベートホーフェンなんて序の口。

フランス革命なんて完全に相対化。

ローマ帝国(断じて「神聖」を頭につけない)は、ドイツナショナリズムの萌芽ではあるが実はヨーロッパの「普遍国家」志向、時代は下ってアメリカもソ連も「普遍国家」をめざした点では同列と。

メッテルニヒは反動主義者ではない、3B政策など存在しなかったとか。ゲーテがいかに後世、政治的に持ち上げられ、利用されていったかとか。

私はドイツナショナリズムがナポレオン戦争ではじめて顕在化したと思っていたのですが、はるかに遡れることについての文献的解説もあります。

マックス・ウェーバーの立ち位置についても、ちょうどウェーバー読んだばかりだからおもしろかったです。リベラリストとしての面よりナショナリストとしての面が強調されている。

ナチス(これまた意地になってNSDAPとしか呼ばない)時代については意外とあっさりしてます。

世界史ではほとんど全く教えない、戦後1960年代までの東西ドイツがそれぞれいかに屈折したサバイバルし、路線転換して復活していくかについてむやみとくわしいです(本書の後ろ半分を割いてる)。

ハーバーマスやマイネッケ、ドイツ歴代首相政権の位置づけもおもしろい(これまた見事に醒めた見方でもあるんですが)。

今wikipediaで調べたら、著者は、ウェーバーが特に専門みたいですが、とてもそんな枠ではでは捉えきれない学者みたいに思います。ドイツ史全体の新鮮な俯瞰能力が半端ではない気がします。

1972年生まれ。2021年フィリップ・フランツ・フォン・ジーボルト賞受賞。

ほんとに油に乗っている人なのだと思いますが。


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2021年10月22日 (金)

宇宙を覆い尽くすような超強大な竜に地球が汚染される夢

今朝の夢は、私が過去覚えていた範囲では一番スケールが大きい夢であった。

雲ひとつない、しかも天の川も見えそうなくらいに澄んだ夜空を、覆い尽くさんばかりの龍が、天の川の星々のような細かい粒状の光で現れる。

それをアメリカ(国連?)の空軍(宇宙軍?)の全部隊が迎撃に向かう。

しかし龍によって散り散りに粉砕されてしまう。

地上に龍の吐き出した薄茶色の茶色の粒が3センチほど降り積もる。

それには毒性があるといわれる。

家に中にいた人にはそのことに気づかないままの人もいる。

なぜかTV中継などはされていない様子である。

私はそれを(どうやってそうしたのかはよくわからないが)多くの人にふれて回る。

その中には、(亡き)父の住む部屋も含まれている。

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私の海外の師であるアン・ワイザー・コーネル女史が、"Treasure Map"(こころの宝探し)という技法を開発している(ネットで検索したら、韓国のバラエティ番組に同じタイトルのものがあるようですね)。

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私はこの技法にはそんなに関心がなかったが、この技法について直接アンさんから学んだ、今では日本のフォーカシング界の有力なトレーナーのひとり(私の教え子なのだが)が、アンさんが、「夢の中でドラゴンが出てきたら、どういう武器で戦うかを想像すべきだ」と教えたのに対して、彼は「東洋では、龍は神の化身ともされ、神聖視されるのだが」と答えたという。

実はこのエピソードを聴いた事自体が、この夢に反映している可能性があると思う。

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龍が空を飛ぶ神聖な存在であるという点では、少し古いものでは、「ネバーエンディング・ストーリー」を思い出す。だから別に龍の神聖化は別段東洋の独占物ではないはずである。

日本では、「まんが日本昔ばなし」のオープニングや、何といっても「千と千尋の神隠し」で著名だろう。

「龍」というと、私には反射的に、「竜とそばかすの姫」で、ネット上の仮想世界で悪役とされた竜が、(ネタバレだが)実は家庭内虐待児が真の姿であったのも思い出されるが、私の無意識の複合体(言葉本来の意味でのcomplexであり、アドラー的な「劣等感」という意味ではないユングの用語)に含まれているのかもしれない。

しかし私の夢に出てきた龍は、それらよりはるかに巨大なスケールである。

実は私は実際の天の川というものを、大学学生相談センター時代に研修合宿で行った、長野県白洲塩沢温泉の夜空でしか観たことはない。この地は、フォッサマグナの線上にあることでも知られているが、当時は携帯の圏外にある、秘境といっていいところであった。私達は自家用車の編隊を組んで、山を超えて数時間かけてたどりついた。

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この星を観ながら、子連れだった同僚の女性のカウンセラーに、「来年はお子さんを連れておいでになればいいのではないでしょうか?」と言われたのだが、実際にはその翌年、その日が来るわずか3日前に、妻は私と大げんかして、子どもたち二人を連れてそのまま家を出ていき、それ以来、連れて行くはずであった、当時4歳の長男とは会っていない。

いろいろ連想が広がるが、先日阿蘇山が噴火して、大きな石が降り注いだ地域もあるというニュース、そして、「宇宙からの襲来を迎え撃つ」という意味では、先日ひさしぶりに観た、「アルマゲドン」のことも連想される。

宇宙から降り注ぎ、降り積もる細かい粉のようなもの、というあたりは、旧約聖書に出てくる、約束の地を求めて移動しているユダヤの民のために神が与えたという、食べられる「マナ」というものを連想させもする。

いずれにしても、私の中では、この竜から地上にもたらされたものは、実は毒などではく、天からの施しものであり、祝福であることに人間は気づいていない・・・という気がする。

地球を覆い尽くす、目に見えないパンデミックといえば、当然コロナのことも連想させるが、もちろんこれを私は神の祝福などというつもりはない。しかし、宗教的な人の中には、神から人類に与えられた罰であり、警告であると吹聴している人々など(それがいいかどうかはともかく)いくらでもいるであろう。

・・・ここまでで私の連想は現状では目一杯だが、私がこうした現象を述べ伝える役割を夢の中で負っていることは、ちょっと畏れ多い気もする。

*****

実はこれに続くかのように別の夢を観ている。

私は「JR久留米駅」にいるのだが、どうもそれは私の子供時代に「夢の中で」再訪している、という「夢」なのだ(ややこしい)。

駅は、実際とはまるで違う構造で、ヨーロッパではありふれているターミナル(終着駅)方式である。日本では今やJRでは、ある程度以上の規模があるのは、上野駅と高松駅ぐらいだろう。

私鉄の終着駅にはありふれた構造であり、阪急梅田駅(2ヶ月前となりの阪急3番街で重要な知り合いと長時間食事を共にしている)、数年前までの東急渋谷駅(東京時代に私には親しみのある駅)、そして私の地元の西鉄福岡(天神)駅などいくつもある。

あと、自由連想的に出てくるのは、「ハリー・ポッター」シリーズでおなじみの、ロンドンのキングス・クロス駅である。

いずれにしても、我が地元のJR久留米駅が、私が子供の頃の「夢」の中では、そうした巨大なターミナル駅の構造をしているのが常識だったのを「夢」の中で再訪するという「夢」という入れ子構造になっている。

どうも、私の地元時代からの男の友達が同伴者となっているようだが誰だか不明。ユング的に言えば私の分身の「影」である可能性もあるが、フロイト的な夢の登場人物の「置き換え」の理論に基づけば、該当しそうな、わたしにとっての同年代の重要人物は容易に連想できる。ただしそれが誰かはここでは具体的には言及しないでおく。

その駅の壁に掲げられた時刻表がまた変わっていて、直接つなかっている都市への時刻や料金等が掲示されているのはわかるのだが、どういうわけか兵庫県の三田をはじめとする予想外の土地への、一日一回しか列車のない(ことになっている)表示も別々に、ホームの前ごとに、大きな掲示板で書かれている。

改札口がまた変わっている。卵型をしていて、表面は陶器で覆われているのがいくつも並んでいる。 しかもその通り道の間隔がやたらとゆったりしていて、駅職員の姿はない。

乗客たちは、自由に改札口を出たり入ったりして散策しており、私達も実際それを楽しんでいる。「夢」の中ではいつもそうだったよなあ・・・と思いながら。

これなど、現在の自動改札機の、切符をうまく入れなかったり、ICカードをうまくかざせねば一発シャットアウト!というのとは対極の構造である。

私の連想では、これは、いくつもの「別の世界」への「結界」を出入りすることができるということの暗示でもあるように思われる。

*****

以上、夢が短い割に長い解釈となったが、いずれにしても基本的には「吉調」の夢であると思う。

ただし、私にのしかかる責任は重大のようだ。

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2021年10月17日 (日)

リベラルもそんなに「独裁者」が欲しいのかね?

全く同意。

民主主義の基本に立ち返ろう。

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2021年10月16日 (土)

このまる1日にnoteにアップした新記事の一覧

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こうしてまとめてみると、いわゆる左派リベラルのいう「差別はよくない」「多様性の尊重」という論調の底の浅さに違和感を覚えるのは今にはじまったものではないと感じます。

やまゆり園事件の時からなんですね。

 

 

2021年10月15日 (金)

日本に必要なのは空虚な「反権力」ではなく、本当の敵「反空気」である (note 佐々木俊尚の未来地図レポート vol.674)

有料note記事なので、前半の無料部分から抜粋します:

==============引用はじめ================

前世紀感覚の人はすぐに「権力が暴走する」「権力の乱用に歯止めをかけなければ」といったスローガンを言いたがります。しかしこの「権力の暴走」って、いったい何を指して言っているのでしょうか?

「権力の暴走」を言う人の根っ子にあるのは、たいていの場合は太平洋戦争でしょう。「軍部が暴走して無意味な戦争を引き起こした」みたいなステレオタイプな説明は、そこらじゅうに溢れてますからね。

しかしこの「軍部の暴走」って本当でしょうか?

ひとつわかりやすい例を。伊丹十三さんのお父さんで、同じく映画監督だった伊丹万作が終戦の翌年に書いた有名な文章を引用しましょう。

「みんな、今度の戦争でだまされたと言ってる。みんなが口をそろえてる。でも私の知ってる限り、『おれがだました』って言ってる人はひとりもいないな」

全文は青空文庫で読めます。

●伊丹万作 戦争責任者の問題
www.aozora.gr.jp

終戦時、急にみんなが「だまされた!」と言い出したのには、実は理由があります。終戦の年の暮れに出版された『旋風二十年 解禁昭和裏面史』というベストセラーがネタ元なのです。

『旋風二十年』は、戦中に軍部を取材していた毎日新聞の記者たちが「暴露」したという体裁で、満州事変から日中戦争、開戦前の日米交渉、真珠湾攻撃にいたるまで、すべてが軍部の陰謀だったと決めつけています。しかしいくらなんでも、毎日新聞をはじめとした新聞メディアがあり、国民の世論もある中で、すべてを無視して軍部が戦争を始めたという言い分は無理があるでしょう。

それなのに、みんなこの適当な説明に納得してしまった。その証拠にこの本、紙不足の終戦直後なのになんと70万部も売れたそうです。

日本の終戦期の混乱を描いてピューリッツァ賞を受賞した『敗北を抱きしめて』(岩波書店、2001年)という名著があります。

著者はジョン・ダワーというアメリカの歴史学者ですが、ダワーは『旋風二十年』をこき下ろしています。

「それは、深い考察などに煩わされない、じつに屈託のないアプローチを取っていた。日本の侵略行為の本質や、他民族の犠牲などを白日のもとにさらすことにも、広く『戦争責任』の問題を探ることにも、とくに関心はなかった。既存の資料や、これまで発表されなかった個人的知識だけを主たる材料に、こういう即席の『暴露本』が書けるという事実からは、今自分たちが正義面で糾弾している戦争にメディアが加担していたことについて真剣な自己反省が生まれることはなかった」

痛烈ですね。新聞は自分たちが戦争を煽ったことをすっかり忘れて、軍部にすべての責任を押しつけてると指摘したのです。「正義面で糾弾」ってまさに……最近のさまざまなメディア報道でもよくみる光景じゃないですか。

そして新聞に煽られて、国民も戦争に熱狂しました。真珠湾攻撃で戦争が始まったとき、人々はどう感じていたのでしょうか。例を挙げましょう。中国文学研究者の竹内好はこう言っています。

「歴史は作られた。世界は一夜にして変貌した。われらは目のあたりそれを見た。感動にうちふるえながら、虹のように流れる一すじの光芒のゆくえを見守った」

作家の伊藤整は日記にこう書いています。

「大東亜戦争直前の重っ苦しさもなくなっている。実にこの戦争はいい、明るい」

いまならどちらも「ネトウヨ」扱いされて、大炎上していることでしょう。でもこういう感覚が、当時の国民一般で共有されていたのは容易に想像できます。

現代日本の戦争映画を見ると、最初から終わりまでずっと反戦思想を持っていて「オレはこの戦争には反対だったんだ……」と独白する主人公がよく描かれていますが、そんな人は現実にはほとんどいなかったでしょう(戦争終盤の悲惨な時期にはそう思うようになった人はたくさんいたとは思いますが)。

しかし日本はあっけなく大敗しました。新聞も国民も自分たちが熱狂したことはすっかり忘れて、誰かに責任を押しつけたくなった。そこに『旋風二十年』というちょうど良いタイミングの本が現れて、軍部に責任をなすりつけることにしたのです。

そうして「私たちはだまされていた」「私たちはずっと戦争には反対だったのに、みんな軍が悪い」という思い込みだけが膨れ上がって、戦後の日本映画の「オレはずっと戦争には反対だったんだ……」という幻想のセリフを生産し続けたということなのです。

では、戦争の責任は本当はだれにあったのでしょうか? 枢軸国のお仲間だったドイツやイタリアなら、「それはヒトラーとナチスのせい」「ムッソリーニのせい」と判断できるでしょう。じゃあ日本でも「それは東条英機のせい」と言えるかというと、そうではありません。

名著『失敗の本質』の著書のひとり戸部良一さんは、『自壊の病理―日本陸軍の組織分析』という最近の本で東条英機がどのようなリーダーだったのかをくわしく分析しています。

東条英機は太平洋戦争で総理大臣と陸軍大臣、それに陸軍の参謀総長と三つも兼任していたので、すべてをにぎった独裁者のように思われがちですが、実態はまったくそうではなかった。

戦前の日本には「統帥権の独立」というものがありました。統帥権というのは軍をコントロールする力のことで、これを持っているのは軍だけ。総理大臣や内閣は口出ししちゃいけない、という理念というかルールです。太平洋戦争で軍がどのような作戦をやろうと、それには内閣はまったく口出しできなかったのです。

さらにややこしいのが、当時の日本軍にもさらにふたつの系統があったということ。ひとつは作戦を練って軍隊を動かす陸軍参謀本部と海軍の軍令部。これをあわせて統帥部と呼ばれました。もうひとつは、軍隊の維持管理や給料の支払いなど行政の部分をになう陸軍省と海軍省。これは「軍政」と呼ばれます。

つまり戦争中の日本には、内閣と統帥部、軍政という三つのパワーがあって、それぞれが勝手に動いていました。単純化すると、そういうイメージだったのです(正確には陸軍と海軍はまた別なので、さらにややこしくなる)。

そして東条英機は、内閣・統帥部・軍政のすべてのトップに立っていました。「じゃあやっぱり独裁者じゃないか!」と思われるかもしれませんが、戸部さんによると、実はそうではなかった。

東条は、内閣と軍を自分自身の中でも「けじめ」をつけてきっちり分けて、仕事しようとしました。いつもは首相官邸にいるけれど、陸軍の仕事をするときは陸相官邸に移って、そちらで仕事した。権力を自分に集中させるのではなく、二つのポストをたくみに使い分けることにたいへんな努力をかたむけたのです。このやりかたを戸部さんは「生真面目ではあったが、きわめて官僚的な方式であった」と説明しています。

さらに陸軍と海軍、軍政と統帥部のあいだでもめごとがあったりした場合には、自分が判断して決定するのじゃなくて、ひたすら現場の調整にまかせていました。自分自身はなるべくリーダーシップをとらないほうがいい、というのが基本的な考えだったようです。

「陸海軍を分裂させるかもしれないほど重大な問題ならば、トップの指導者たる自分が直接決定し、分裂を抑え、部下にその決定の実行を命じただろう。だが、東條には、そうした発想はなかった。厳しい対立を招きかねない問題は、部下による調整に委ねようとした。自らの決定を押しつけて軋轢を生じさせることは、できるだけ避けようとしたのである」

まことに日本的な、調整型リーダーですね。いわゆる「独裁者」とはかけ離れた実像だったことがわかります。戸部さんは、ガダルカナル撤退をめぐるこんなエピソードも紹介しています。ガダルカナルはよく知られているように、日本の守備隊がアメリカ軍の猛烈な攻撃を受け、包囲されたまま多くが餓死して凄惨な戦場となりました。

(中略)

日本人はいまも、強いリーダーシップに拒否感を抱く人が非常に多く、たとえば首相などが少しでも強い行動に出ると、すぐに「権力の暴走だ」「横暴だ」と騒ぎ出します。テレビや新聞の報道なんてまさにそういうものばかりです。そういう人たちやメディアは「反権力」を標榜していることが多いのですが、その「権力」っていったい何なのか?を問い直す作業が必要だと思います。これもまさに、20世紀の神話でしかないということなのです。

実のところ日本に必要なのは、反権力ではなく「反空気」ではないでしょうか。空気は勝手にさまざまな決定をし、しかし生身の人間ではないから、なんの責任もとらず雲や霧のようにあっという間にどこかに消えて行ってしまう。まさに雲散霧消です。

一連のコロナ禍でも、自民党政権はロックダウンなどの私権制限に踏み込んだ強い政策はとりませんでした。「強権政治」「権力の横暴」と批判されて支持率を落とすのを恐れたのかもしれません。しかしそのように強いリーダーシップがとられなかった一方で、「自粛」の名のもとに飲食店や観光業が大量倒産に追いやられ、しかもそれらは誰のリーダーシップによって判断されたのでもなく、ただ「空気」の抑圧があっただけだったのではないでしょうか。

コロナ禍を振り返れば、日本のおける「空気」とリーダーシップの不在は、太平洋戦争から今にいたるまでずっと続いているのだということを改めて感じます。今こそ「反空気」の旗を振っていくことが必要なのではないでしょうか。

「反権力」とスローガンを叫ぶことが政治ではないのです。そういう前世紀の古い概念は、早く終わらせましょう。

=============引用終わり==============

 

2021年10月14日 (木)

マックス・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の超解説

「職業としての政治」「職業としての学問」に続いて、ドイツの社会学者、マックス・ウェーバーの話題に戻ります。

「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の訳者の大塚久雄先生の詳しく長い解題を読んでみたのですが、わかりやすく、かなり流れが掴めた感じです。

利潤を否定する禁欲的ピューリタニズムのエートス(「倫理(ethics)」というより、社会が共有する「倫理的雰囲気」、というのに納得)が、利益追求のヨーロッパ型「近代」資本主義を生み出したという「逆説」的問題提起こそこのウエーバーの著作のキモである・・と。

中世からのカトリック世界自体は、教会の権威に服すれば、あとはさほど禁欲を求めてはおらず、一部修道会の「内部」における倫理規範の厳守に過ぎなかった。

それを転換したのがルターの聖書ドイツ語訳の際に浮かび上がった"Beluf"という鍵概念。大塚氏以前の訳では単に「職業」と訳したが、大塚氏は新訳で「天職」と意訳。

ドイツ語の"Beluf"自体は日常語もいいところで、"profession"や"work"にあたるわけですが、確かにこれは聖書的には、通常「天命」と訳されると思います。

神様に命じられた使命をひたすらに果たすということになり、見返りを求めず職務への純粋な努力の傾注となるわけです。

これが修道院を超えて、一般社会での職業倫理となるのは、カルヴァン派の浸透した地域で、これがイギリスに渡りピューリタンとなる。これはブルジョアジーのみならず、労働者も共有する労働規範である。

この"Beluf"に基づく「行動的禁欲」による職務遂行は、「結果的に」多くの利益を生み出す。しかしカルヴァン派の資本家は浪費をしないので、それは新たな事業の開拓や投資活動へという拡大循環を生み出す。

時代を経るにつれて、この「倫理観」の方は形骸化し、労働と経済活動の遂行のみが残った時、利潤追求型の「近代」資本主義は肥大化していく。

ところが、この結果、ブルジョアジーも労働者も、職務に専心するというより、いわば「楽して稼ぐ」ことを目指すようになり、ここにマルクスの言う意味での資本家によるプロレタリアートの搾取の構造の基盤が築かれる。

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・・・本編を読んでもいないのに言うのもなんですが、何とわかりやすいんだ!!というところ。

ウェーバーの時代にはまだ完全に確立していませんでしたが、ここに更に、商品を植民地に売るという経済構造が、国内のブルジョアジーのみならすプロレタリアートを主要な消費者として対象とする現代消費社会と高福祉社会に突入する中で、当初は「イギリス病」ともいわれた職務怠慢主義の跋扈と経済の停滞となるわけですね。

あっさり要約できた(つもり)。

遠からず、ウエーバー自身の本文にもチャレンジしますが。

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大塚久雄先生は、本来イギリス近代経済史が専門で、「大塚学」と呼ばれる、マルクスとウェーバーの社会学の解釈で権威とのこと。

大塚先生の「社会科学の方法」も発掘。

一般向けの講演記録の新書版というには高度な内容で、何とか内容についていける感じです。

この新書のほうは、ウェーバー自体というより「大塚史観」の凝縮でしょうから、ブログではレビューは書きませんが、「社会学」が学問としてどうして成立可能かという主旨の本ですので、チャンレンジされてみるのもいいかと思います。

2021年10月13日 (水)

マックス・ウエーバー「職業としての学問」の今日的意味

先日、マックス・ウエーバーの「職業としての政治」の詳しい紹介を書き、かなりのアクセスをいただきましたので、同じような小冊子である、「職業としての学問」の方も、簡単なレビューを書いておこうと思います。

ドイツの伝統の「私講師」制度への理解(ドイツの学者の伝記みればごく普通に出てきますが)は前提でしょうが、「神なき時代」が訪れる中、しかも第1次世界大戦直後のドイツに彷彿とした、大衆レヴェルに及ぶ政治意識が高まり、学問の中に全能的存在を、教師の中に指導者の姿を求めるような期待感が生まれつつあった時代状況の中で書かれたものです(もとは講演)。

職業的学問探求の非政治性を求め(「価値からの自由の原則」というそうですね)、教師と学者と学生の政治参加を戒めています。

ある意味では学生運動に対しては批判的とも受け取れるし、日教組運動とかへの批判にも使えそうですが、同時に保守系の「御用学者」への批判としても使えそうです。

特に、学者や専門家の、ネットやTV出演等を通しての安易なアンガージュマン(政治や社会問題へのコミットメント。サルトルの用語)に警告を発する意味も読み取れそう。

うけ取りようによれば前近代的なのに、同時に、時代を超えたメッセージにもなりそうな論調に興味を覚えました。

教師も学者も学生も、余計なことは考えず、Shache(日々の仕事)に帰れというメッセージです。

私も、今回の眞子さまの件で、あくまでも専門家として「おかしな診断」と判断して、まずは複雑性PTSDの診断を受けた当事者へのセフティネットをネット上に形成するという「危機介入」を淡々とこなしただけで、ここから、まかり間違って、政治家への志向とか持たないほうがいいのでしょう。

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トロントだより

  • 050601_0957
     The Focusing Instituteの第17回国際大会(2005/5/25-31)の開かれた、カナダ、トロントの北の郊外(といっても100キロはなれてます)、Simcoe湖畔のBarrieという街に隣接するKempenfelt Conference Centreと、帰りに立ち寄ったトロント市内の様子を撮影したものです。

神有月の出雲路2006

  • 20061122150014_1
     11月の勤労感謝の日の連休に、日本フォーカシング協会の「フォーカサーの集い」のために島根県の松江に旅した時の旅行記です。https://focusing.jp/  
    ご存じの方は多いでしょうが、出雲の国には日本全国の神様が11月に全員集合することになってまして、「神無月」と呼ばれるわけですが、島根でだけは、「神有月」ということになります。(後日記:「神無月」は10月でしたよね(^^;A ........旧暦なら11/23前後は10月でせう....ということでお許しを.....)  
    ちょうど紅葉の時期と見事に重なり、車窓も徒歩もひたすら紅葉の山づくしでした。このページの写真は、島根の足立美術館の紅葉の最盛期です。

淡路島縦断の旅

  • 050708_2036
     「フォーカシング国際会議」が、2009年5月12日(火)から5月16日(土)にかけて、5日間、日本で開催されます。
     このフォトアルバムは、その開催候補地の淡路島を、公式に「お忍び視察」した時の旅行記(だったの)です(^^)。
     フォーカシングの関係者の紹介で、会場予定地の淡路島Westinという外資系の超豪華ホテルに格安で泊まる機会が与えられました。しかし根が鉄ちゃんの私は、徳島側から北淡に向かうという、事情をご存知の方なら自家用車なしには絶対やらない過酷なルートをわざわざ選択したのであります。
     大地震でできた野島断層(天然記念物になっています)の震災記念公園(係りの人に敢えてお尋ねしたら、ここは写真撮影自由です)にも謹んで訪問させていただきました。
     震災記念公園からタクシーでわずか10分のところにある「淡路夢舞台」に、県立国際会議場と一体になった施設として、とても日本とは思えない、超ゴージャスな淡路島Westinはあります。

水戸漫遊記

  • 050723_1544
     友人と会うために水戸市を訪問しましたが、例によって鉄ちゃんの私は「スーパーひたち」と「フレッシュひたち」に乗れることそのものを楽しみにしてしまいました(^^;)。
     仕事中の友人と落ち合うまでに時間があったので、水戸市民の憩いの場所、周囲3キロの千破湖(せんばこ)を半周し、黄門様の銅像を仰ぎ見て見て偕楽園、常盤神社に向かい、最後の徳川将軍となる慶喜に至る水戸徳川家の歴史、そして水戸天狗党の反乱に至る歴史を展示した博物館も拝見しました。
     最後は、水戸駅前の「助さん、格さん付」の黄門様です。
     実は御印籠も買ってしまいました。

北海道への旅2005

  • 051012_1214
     日本フォーカシング協会の年に一度の「集い」のために小樽に向かい、戻ってくる過程で、他の参加者が想像だに及ばないルートで旅した時の写真のみです。かなり私の鉄ちゃん根性むき出しです。  表紙写真は、私が気に入った、弘前での夕暮れの岩木山にしました。