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歴史

2022年11月 7日 (月)

広島同人誌即売会で、TAMさんにまどマギの「コネクト」リクエストした。

TAMさんというYouTubeやニコニコ動画で活躍するばかりか、世界をまたにかけてライブしている著名なアニメ・ミュージックのバイオリニストがおられる。

私は未知の方だったが、広島での同人誌即売会で、ちょうど向かい側のブースでCD等を売っておられて、いつも人が絶えなかった(その時の写真撮っておけばよかったな)。

即売会閉会後に、ミニコンサートとなったのだが、リクエストを募られたので、私は思い切って「まどか☆マギカ」の「コネクト」をリクエストした。

「コネクト」なら、バイオリンソロでも重音奏法(ダブル・ストップ)で軽快に弾きこなせる可能性があり、ステージ映えするし、若い人まで皆知っているから喜んでリクエストに応じてくれると直感してのリクエストだったが、期待通りに弾いてくださった。

これなら動画にもありそう、と漁ってみたら、ニコニコ動画に、二重録音のものはあったのでご紹介。

 

******

遡って書けば、広島には前泊したが、新幹線で広島駅に着いた後、まずは広島電鉄の路面電車で平和祈念公園に向かった。

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原爆ドーム

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原爆の子像

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原爆の火

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平和記念館

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平和記念館の窓から全景

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広島即売会設営

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サイバーリンクパソコン工房

2022年10月15日 (土)

今頃になって 柄谷行人 の「意味という病」を唐突にはじめて読み始めた。

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まだ最初の「マクベス」の章だが、シェイクスピアは主要作ひととおり読んでいるからとっつきがいいけど、この人の教養水準いったどうなっているんだという印象(それがわかるくらいにはついて行けてるというナルシシズム)。

でも、ともかく刺激的な問題提起の書であり、臨床家(内容をある程度理解できるくらいの幅広い教養水準があればの話だが)が読むと頭がブンなくられるくらいの衝撃波があるような予感がする。

ともかく、臨床家は、得てして「意味という病」の最重症患者だ。

あと、「物語を読み解く」とはどういうことか、いわゆる「心理学的理解」の限界と活用をどう見据えるかという点で、私の執筆活動の相対化にも役立ちそう。

「意味という病」を更に2,3ページめくったら、明かりついたまま寝落ちしていた。これはつまらないからとか難解だからではなく、当然寝てる時間になっていたから。中途半端な寝方になったので、寝なおす。

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気持ちいい目覚め。実は夢の中では「意味という病」読み進めていて、いつの間にか数十年は前の(昭和48年刊行時の)もうぼろぼろになった、ページがちぎれたのを綴り合せた、雑誌刊行時のものを読んでいる形になっていた。

別に「古過ぎる」という無意識の示唆ではなく、まさに「当時の時代に立ち返れ」ということかと。

更に、62歳にもなって、SCの面接を受けに行こうと、心もとない思いをしている展開に。先日の「大学を出て3年たっても社会に居場所がない」夢よりわずかに「進化」しているが(爆)、「お前はまだ入り口に立ったばかり」という「無意識様」からのご宣託かな。

「もうベテランぶりやがってさ」という。

第2章である「夢の世界」を読んでいるが、この章、臨床家としての私から見ても、もう無茶苦茶すげえ。殊に私は #夢解釈 については専門の自負がある(学会誌のの査読論文もあるから探してみ)が、それでもすげえと思う。

この章についてだけでも紹介するレビューを書いてみようかと思う。未だ色褪せない問題提起がある。統合失調症者の妄想や幻聴についての指摘も当を得ていると思う。

柄谷行人氏は「シンタクシス(統語法)」によって「物語」化される以前の、「体験それ自体」という「距離の取れない」現前性のある次元を重視しているのだが、柄谷氏はサリヴァン読んではいないと思うのだが、いつの間にか同じ用語使って、相通じること書いてるやんけ。すげえ。

第2章「夢の世界」は、柄谷行人氏に完全に「噛み合った」形でスラスラ読めてしまった。

マジ、柄谷行人論を「人間性心理学研究」に投稿してみたい気分になった。

まだご存命のようだが、直接お会いして「サリヴァン読んでますよね?」とお伺い立ててみたいくらい。

とんでもない鉱脈堀りあてた。

第3章「私小説の両義性」に進んだら、今度は木村敏先生の「自覚の精神病理」を当たり前のようにさらっとひきあいに出すなよ!! 更には #ハイデッカー (「#存在と時間」は私読んでます)の「不気味さ(unheimlich)でごさいますか。

もうわかったよ。あんたのファンになったよ。

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今目を覚ました。

自分が心配だったけど、最後まで面倒見切れなった過去のクライエントさんたちが、海外に「船出」する、というオチ。

これも柄谷行人効果だ。

柄谷氏は、心理学的解釈のすごく批判的なのに実は特に現象学系の精神医学の著作に通逸している。メタ心理学的理解みたいなところがある。

敢えていうが、柄谷行人氏の「意味という病」は、ジェンドリンは別格として置いといて、私が20歳の時に、中井久夫先生の「分裂病と人類」を読んだ時以来のインパクトのある本と言っていいかもしれない。

今後、この本の影響は、臨床面を含めて、私に大きく残ると思う。

柄谷行人氏は、私の好きな芥川龍之介 には凄く批判的である。「藪の中」(黒澤明 の「羅生門」の原作として有名ですよね)彼の一見「心理学的な」小説には人工的な底の浅さがあるというのだが、言われてみればもっともなことが書いてある。

志賀直哉、森鴎外、夏目漱石 については評価が高い。

実は私は志賀直哉と森鴎外は読んだことがないのだが、ピンポイントで引用してくれてるので、言いたいことは理解できる気がする。

志賀と鴎外は読んでみたくなった。漱石は「こころ」をはじめとして何冊か読んでいるのでいよいよ納得が行く。

これからは、こうした「小説」全盛時代の小説も読んでみたい。

*****

果たして 柄谷行人氏が映画評論もしているかどうかはこれから他の本も読んでみないとわからないが、恐らく黒澤明 についてはかなり辛辣だろう。

私が実は基本的には嫌いな宮崎駿については、「千と千尋」、「ハウルの動く城」(これは私は宮崎作品で一番好き)は評価するだろう。

細田守はお気に召さないと思う。

それに対して新海誠は絶賛するし、「ペンギン・ハイウエイ」 や 「打ち上げ花火横から見るか下から見るか」は評価しそう。

とは書いたが、細田守 の「竜とそばかすの姫」で、クジラが飛んでいることは好きそう(ご覧になっていないであろうことは当然として)。

「未来のミライ」なんて、心理学で「完璧に」絵解きできてしまう(だから柄谷行人氏なら好きになれそうもない)。

「未来のミライ」は同人誌にしますが。

これも「勘」だが、柄谷行人 氏は、タルコフスキー は絶賛だろうし、押井守 なら「天使のたまご」と「イノセンス」 はお気に召すだろう。

新海誠って、「心理学的解釈」をしようと思えば、「仮説」はいくらでも立つ。

でもそれをすり抜けてしまい、「仮説」はあんたの「仮説」だよ、になってしまう。

柄谷行人氏の言葉を借りれば、「距離の取れない受け身の現前性」があるわけ。

新海さんは宮崎駿 の後継者というより、押井守の後継者。

何か知らんが、柄谷行人さんの「意味という病」を読んだら、私の映像作品のキャリアが、一気に総括できてしまいそう。

ちなみに「2001年」は柄谷さん好みでしょうね。

とにかく、柄谷行人 氏の脳細胞が、何を考えているかは、もうすでに「読めた」気がする。

「マルクスの可能性の中心」では「意味という病」と逆転した面があるそうだが、これは読んでみないとわからんな。

私は経済学だけではいくら学ぼうとしても音痴なので、ついて行けるかどうかはわからないが。

 

われわれはメタファーの”外”に立つことができない。だが、そのことがメタファーという問題の核心なのである。

(隠喩としての建築)

 

すべて自己が原因である「かのように」考える所に存ずる。”

(トランスクリティーク)


『こゝろ』の隠された主題は自殺であり、友人への裏切り、乃木将軍の殉死などの理由立ては、ともかく自殺が前提となった上で導入されたのである。(『畏怖する人間』意識と自然)

哲学的言説においては、きまって「私」一般を論じている。それらは万人にあてはまるものにすぎない。「この私」はそこから抜けおちている。私が哲学になじめなかった、またはいつも異和を感じてきた理由はそこにあった。

(『探求Ⅱ』単独性と特殊性)


分裂症の体験においてはこの非対称性がしばしば逆転し、自己と他者との主客の関係が転倒している。自己は主体であることをやめて、たんなる他者の客体になってしまう。

 

(隠喩としての建築)

この最後の引用、あまりにもその通りです。

テクストが表面上意図するものと異なる意味を持ってしまうのは、"深層"に真の意味が隠されているからではない。それは「形式主義」的に接近するかぎり、必ず決定不可能性に直面するほかないからである。

(隠喩としての建築)

ここらへんが、いわゆる「作品評論」、特に「心理学的解釈」というものの限界に直結するわけですね。

いずれにしても、ある意味で「心理専門家」の枠をはみ出した私の教養と関心(自分で言うなよな)に応えてくれるものとして、#柄谷行人 氏の著作は、あまりにも格好の「出会い」だと感じる。

私は 「逃走論」の 浅田彰は、パクリばっかで好きになれないのだが、#柄谷行人 との映像記録(いかにもあっておかしくないと思うが)があるなら観てみますか。

 ●柄谷行人 / 浅田彰 1 (1986)

 https://www.youtube.com/watch?v=vDwc-x5MW10


非常に貴重な映像だと思う。

●柄谷行人 / 浅田彰 2 (1986) 

https://youtu.be/G-uihYeOoZU

写真(セルフポートレート)や(自分の声の)録音の登場によって、それまで慣れ親しんでいた「自己」が「不気味なもの」として異化されるようになった。それがフロイトの登場と期を一にする。

デカルトの言う方法的懐疑が、機械とは異なる人間の「精神」が、絶えず共同体システムから離脱し、差異化し続けることであり、さもなくば思考とは、単なる「機械」、コンピューターによって代替可能ということに確かになりますね。

 

新海誠と柄谷行人がリンクしているという私の直観が、ものの見事にあたっていたようだから、「#日本近代文学の起源」、速攻で注文です。

ニーチェ的に言えば「永劫回帰」を超える「超人」ということになり、フロイト的に言えば「反復強迫」を乗り越えていく「徹底操作」ということに他ならず、ジェンドリン 的に言えば、「構造拘束的(structure-bound)」体験様式を direct reference で「過程進行中(in prosess)」にすること。

何か連投が一人言めいた、難解な内容になっているのは承知だが、きちんと哲学書を読んできて、更にジェンドリン の「人格変化の一理論」をきちんと読めている人には、まさにその通りでしょ、と認めてもらえる自負はある(哲学科出で恐らくジェンドリン理論日本最高の理解者なめんじゃねえ)。

2022年9月22日 (木)

沖縄写真集

日本フォーカシング協会主催 「フォーカサーの集い」に参加、引き続いて 同人誌即売会 (於:沖縄コンベンションセンター)サークル参加のために、当初3泊4日の予定で沖縄旅行。

台風14号、4日めまでは全く影響なかったが、帰りの便が欠航、翌日がそのしわ寄せで全便満席、更に1泊となり、5泊6日の長期沖縄滞在となった。

おかげでタクシーをチャーターしての、南部戦跡を中心とする慰安旅行もでき、沖縄を堪能。

 

●沖縄写真集(note)

 

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サイバーリンクパソコン工房

 

2022年9月 9日 (金)

エリザベス女王の死に捧げる曲

2022年9月 8日 (木)

若きカウンセラーに向けて

自分に思い込みがあったと反省する人の弁は尊重したいが、人に対して思い込みが過ぎると批判することは慎みたい。

誰でも自分自身や他者や社会について、テキトーに思い込んでいるからこそ、自我の安定は保たれているのではないか。

それなら、「私はあなたとは違う見解なのですが」と伝えるべきだろう。

「認知の再構成化」というのは、正答があるわけではなく、実は果てしなく続くステップの積み重ねなのだろうと思う。

これは単なる 「価値相対主義」とは違う。価値相対主義というのは、相手のことが「わかって」もいないのに「わかった」フリをすることだ。

およそ、「他者」との交流はすべて「異文化交流」とみなすべきであり、相手のことを「全然わかっていない」という手探りのつもりでなされるべきである。

そういう意味では、カウンセラーを見抜くのは簡単である。

人間の心のことならなんでも「わかっている」かのような発言をするカウンセラーはすべて偽物であり、「わからない」「理解できない」という前提で、ひとりひとりと一歩一歩関係づくりをしていくのはホンモノだ。

こういう問題になると、#中島みゆき は本当に辛らつだ。


「包帯のような嘘を見破ることで 学者は世間を見たような気になる」

 

世情/中島みゆき (歌詞付き)https://youtu.be/tk4VnGWU-cY
@YouTube
より

 

 

誰が悪いのかを言い当てて 
どうすればいいかを書き立てて
評論家やカウンセラーが米を買う

 

時刻表 #中島みゆき ギター弾き語りcover https://youtu.be/4VEwH3TQPqo
@YouTube
より

 

 

君の心がわかるとたやすく言える男に
なぜ女はついていくのだろう
そして泣くのだろう

 

空と君のあいだに - #中島みゆき (フル) https://youtu.be/U2jEWTrExsg
@YouTube
より

 

 

「ここにいるよ」
でいいのだ。
「ポプラの枝になる」
でいいのだ。

ある意味で「呆然としながら」クライエントさんのそばに「たたずむ」ことしかできないことこそ、カウンセラーが「失ってはならない『初心』」である。

その意味では、経験不足の若いカウンセラーの方が「神のかたわらにいる」。神に愛されている。

「理論」や「技法」はすべて、「カウンセラーが」身を守るための「必要悪」としての「武装」である。

理論や技法も身につけた上で、それを杓子定規に行う段階を「卒業」する必要がある。

そうなって、はじめて、クライエントさんに寄り添えるようになり、カウンセリングの成果が幅広く出せるようになる。

およそ臨床的「概念」というのは、「その」概念を発案したレジェンドの臨床経験においてぴったりだった「象徴化」であるに過ぎない。

「その」レジェンドにとって、どういう患者と、どういう流れの面接過程でそれが発案されたのかを「追体験」する必要がある。

ただし、フロイトの「狼男」の症例について、本人へのインタビューで明らかになったように、レジェンド自身が、自分の事例を好都合に書き換えていることも少なくないことには留意すべきである。

これはすべての「事例研究」にいえることである。

そして「当事者研究」が意味をもつ理由でもある。

「臨床」とは、本来、患者のベッドのそばに「たたずみ」、せいぜい包帯を変えたり、水枕を変えたり、消化のいい食事を供することしかできなかった援助者の、圧倒的な「無力感」との戦いの中にこそ原点がある・・・ということぐらいは「まずは」教わるよね。

実は、ナイチンゲール の人口に膾炙した伝記は、彼女がクリミア戦争ではじめて傷口を清潔にする実践を行ったかのようになっているが、これはウソ。

ナイチンゲールは、野戦病院に送られてくるのが「遅すぎた」せいだとしか当初思っていなかった。後にそれが誤りだったと気づいた。

帰国して様々栄誉を受けた中でも彼女の罪悪感はおさまらず(統計的に証明される事実があった)、それをわずか100名程度に真相を書き送った。これについては、「ナイチンゲール 神話と真実」という本に詳しく書かれている。

私がブログでこの本を詳しく紹介しています。

●「ナイチンゲール 神話と真実」について

・・・というようなことを書いた本を出版しようという企画があったのだが、さまざまな事情で、とりやめとなったんだよね。

このあたりが、資格試験に合格した皆様への、私なりのエールかな。

私のブログに独立カテゴリー、「若きカウンセラーに向けて」があります。

当然、この時の原稿は私の手元にある。

これにその後のブログエントリーを追加して、商業出版の声がかかるきっかけとしての、「ウマ娘の精神分析」でもあるわけです。

恐らくこれまでの人生で超最悪の悪夢を見た。

それがユングのアニマの理論にパーフェクトなまでに一致した。

それに比べれば、現実世界のでの悪の住人なんて、姑息なところで小金を稼いでいるだけの、至極「善良な」人たちだ。

やくざですらそうかも。

私は、こういう夢を見せて下さった神に感謝します。

断固として女性への暴力とそれによる性被害には反対します。

しかしAV女優とその雇用者(アングラではない)には、その正当な存在意義を認めることにしました。

援助交際やパパ活をする女の子たちと同じ目線に立ってみせます。

セフレを持つ人たちの生き方も肯定します。

まあ、純粋だと思っていたのに「実は娼婦だった」女性に金をたくさんとられて、更にその女性から紹介された2人の金髪の女性と寝て、またもや多額の料金を請求され、それでも「結合」した状態のままでいたら高利貸しが現れて、困ったな・・・そんな夢。

私の中に、そういう連中のような所が少しはあっていいという解釈。

私は恩師の奥様の 村瀬嘉代子先生に認めてもらえることが夢ですが、夢を見て、先生が背負われた、負の側面と善の側面のすべてを背負った生き方の重さがやっと直観できる気がしました。

嘉代子先生は、決して私に直接お褒めの言葉を下さることはないでしょう。

でも、東京で、少しはひとり微笑まれるくらいの存在にはなってみせます。

2022年7月 8日 (金)

安倍元首相暗殺への所見

今日は簡略な日本史の年表にも刻まれる日になってしまいましたね。
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これで、SNSは、眞子様複雑性PTSD過剰診断問題、ウクライナ情勢に続いて、そのアカウントの中の人の本性が焙り出される日々が当分続くことになります。

テレビやSNSを当面見ないで、状況がはっきりするまで小説や映画(それこそ今日は「竜とそばかすの姫」見るべき)に逃避した方がいい人も多いでしょう。

それこそウマ娘でもやってろと言いたいところですが、私がフォローしているウマ娘垢まで汚染が広がっています。

いろいろ情報がすでに出ています(他の右翼団体のトップを狙ったと本人は供述しているとか)、基本的には、既成の極右、極左組織と無関係で、近年でいえば、相模原やまゆり園事件あたりが一番似たケースかもしれないですね。

いずれにしても、5メートルの至近距離からの銃撃とのことで、SPや警備の警察ほほんとうに責められるだとうと思います。

「弔い合戦」と言い出す輩は論外ですが、リベラルを含めてこの暗殺には悼みいることと死を惜しむのは、当然かと思います。

2022年1月24日 (月)

キリストの受難(passion)を我が身で感じることとカウンセリングの「共感」的理解 -インタラクティヴ・フォーカシング-

たまたまTwitterで、

 

ロジャーズの論においてなぜ受容が難しいか?というのは痛みを拒否しているからだと思う。痛みを感じずに受容しようとするからこねくり回す。受容とは痛みを感じ、その痛みを通して相手を理解すること、そのものだと思う

 

受容が難しい理由をアレコレ考えていたけど、キリスト教的視点に戻ったとき、そう思った。

 

というご意見を目にしたので、

 

"suffering"を"com-passion"する、という言葉が思い浮かびました。私なりの聖書的理解ですが。

 

とお返しした。

 

私はクリスチャンではないか、すでに別の記事でも書いたように、中学時代から、スイスの宗教的著述家、カール・ヒルティの「幸福論」「眠られぬ夜のために」をはじめとする著作に傾倒してた時期があるし、高校もプロテスタントのミッション系である。聖書には英訳を含めて親しんできた。

"suffer"とは「被る」という意味であるが、キリスト教的には、イエス・キリストの十字架に至る苦しみの「受難」を指すことになる。

キリストの「受難」とは英語で"passion"である。バッハの「マタイ受難曲」が"Matthäus-Passion"であることをご存知の方もあるだろう。

更に哲学の分野では、デカルトが「情念論(仏: Les Passions de l'âme、英: The Passions of the Soul)」という本を書いているが、精神の働きに能動(意志)と受動というものがあり、「情念(Passions)」というものが、(わかりやすく言えば)環境から末梢神経を通しての脳への刺激として「受身的(passive)」に生じるという考えを述べている。

話をキリスト教に戻すと、14世紀のイタリアではペストの流行によって社会不安が蔓延し、ドミニコ会修道士の指導のもと鞭で体を打つことで功徳を得ようとする「鞭打ち苦行団」が組織された。

これは、キリストが身体に受けた傷を、自分も受けることで追体験し、贖罪を得ようとするものである。

この苦行は、映画「ダ・ヴィンチ・コード」でも描かれたので、ご存知の方もあるだろう。

このような苦行は極端なものであるとしても、キリスト教において、イエスが心身に受けた苦悩を偲ぶことが、自らの苦悩の癒やしとする考えがひろくみられることは確かだろう。

さて、来談者中心療法の祖であるカール・ロジャーズのいう「共感的(正確には、感情移入的="empathic")理解というのは、あくまでも、「あたかも(as if)その人の感じている「かのように」感じてみるということです。

この"empathy"に対して、私も指導を受けたフォーカシング教師、ジャネット・クラインは、"compassion"という態度があると主張し、区別しました。

フォーカシングにおいては、自分の感情や悩みを「身体の内側の非言語的な感じ」それ自体(フェルトセンス)として直接注意を向け、感じてみるという態度を取るわけです。

これをフォーカシングを学んだカウンセラーの場合で言えば、クライエントさんの言語的・非言語的メッセージを、カウンセラー自身が、自分の身体の内側の感じとして、言わば「疑似体験」しようとすることになります。

まさに、身体の感じを通しての「痛み-の-共有(com-passion)」をしようとする姿勢ということになります。

もとより、あくまでも「疑似体験」ですが、自分がかつて感じたこころの「痛み」を、身体を通して追体験しようとする姿勢です。

もちろん、身体症状化した人の痛み「それ自体」とか、肉体的虐待を受けた人の痛み「それ自体」は感受できないでしょうが、そこで感じた苦しみの感情に対する、身体次元で波長を合わせての想像力というものは、限界があっても持つことはできるかと思います。

クラインは"empathy"で接する時と"compassion"で接する時を、はっきり別の段取りとして区別します。

前者では、あくまでもクライエントさんの感じている「であろう」認知枠に忠実であろうとし、後者ではカウンセラー自身の体験と身体感覚次元で共鳴させてしまうことを求めるわけです。

このふたつは混同されてはならず、今からするのはempathicな応答である、それに対して今度はcompassionとしての応答であるとはっきり示してしまいます。

compassionとしての応答は、カウンセラー自身が自分の体験と重ね合わせていますので、当然「思い込み」の要素があります。
ですから、あくまでも「私は」こう感じた、と、そっと差し出す姿勢が重要で、クライントさんにそれを「修正」してもらい、それを再び受容的に傾聴することになります。

ところが、このような相互作用を丁寧に進めると、クライエントさんは、自分が感じていた以上の新鮮なことを感じられるようになるという、促進的な作用をすることが少なくないです。

それどころか、クラインは、この後の手続きとして、ここまで進めた結果、「カウンセラーが」とのような「感じ」でいるのかについて、クライエントさんに「感情移入」して感じてもらい、言葉にしてもらう、という、相互的(インタラクティヴ)なやりとりの往復として行うことを定式化しました。

このことを繰り返すと、カウンセラーとクライエントさんの間に、非常に深い信頼関係と「絆」が形成されます。

これを、カウンセリング場面に限定せず、パートナーや親子などに、役割を交代しながら日常の中でもやってもらえるように「コーチ」する、というのが、クラインのめざしたスタイルです。

興味をお持ちの方は、ジャネット・クラインの「インタラクティブ・フォーカシング・セラピー」をお読みください。

なお、以下にリンクしたAmazonのレビューに、私自身の更に詳しい解説っがあります(3つしかないのでどれが私のレビューか、すぐわかるでしょう。やたらと長大なの)。

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2022年1月23日 (日)

昔、小林よしのりと論争した時に思ったこと

このご時世では、いかなる「ムーブメント」も、それが価値観の押し付けになり、個人自身の感じ方を抑圧する装置となれば、結局は全体主義を促進する作用しかもたらさないと思う。敢えていうが、狂信的なフェミニズムすら、「全体主義の一翼を担う」装置の一部となり得ると思う

私はいかなる価値観の「押し付け」にも反対する。一人ひとりが自分だけのユニークな価値規範を生み出し、それに基づいて行きていくことを理想して掲げる。

ひとり一思想であり、共感できるひとりひとりの人間と、「個々の条項で」同意できる場合においてにのみ共闘を結ぶ。

そもそもすべての点において同意できる相手なんて、この世には存在しないのではないか。すべては「条件付きの」信頼であり、共闘だと思う。

昔、小林よしのりが「自分の頭で考えろ」と「ゴーマニズム宣言」で書いたので「すべての人がひとりひとりゴーマ二ストになるべき」と手紙を書いたが、次の誌面で「それでは価値紊乱の社会になる」と逆襲された。私は価値紊乱でいいと思うけど。手を組むところだけ手を組む。それが個人主義だと思うが。

仮に私が今より名前が知られるようになったとしても、私は決して「信者」を求めないだろう。批判者だらけがふさわしい。それで個々の人がいうことがもっともだと思ったら個別に同意するだけだ。

親鸞も「歎異抄」で「俺を師としてたてまつる奴らはアホだ。偉いのは阿弥陀如来様だけ」と言っている。

何かあまりに「正義」の名のもとに人を屈服させ、洗脳しようとしている人が多い気がしたから、相当なストレスになってるので、思わず書いてみた。

「正義」をふりかざすことは、すべて「全体主義」への誘惑だと思う。

敢えて宣伝すれば、実は、フォーカシングというのは、他人の言うことへの、すぐには言葉にならない「違和感」にとことん敏感になり、それを相手に「通じる」形で言語化するスキルを磨きあげ、徹底した「個人主義者」を生み出す装置だったりする。

それと矛盾するようだが、他人のいうことは、何らかの意味で「正しい」。その「正しい」部分だけを選り分け、自分の糧にすることが、人間の貪欲な成長なのだと思う。

もっとも、自分が「違和感」を感じた意見に、いちいち自分から反論したり挑戦したりは、よほどのことがない限りしません。 スルーして、その人がその後どういう見解を述べていくかを「観察」する方が、「省エネ」だし、余計な誤解や先入観で泥沼化しないで済みますから。 挑まれれば受けて立ちますが。

Twitterでは、基本的には、その人の言うことに新鮮な発見と学びがあり、一理あると思った時にだけ「いいね」やリツイートをして、それでも「更に」同意したい時だけ引用リツイートやレスを返します。

自分が狭い世界に生きていて、大抵の人の言うことに、その人なりの生活の「現場」があり、そこから抽出された意見や思いだったりすると思うし、その人なりに探求してきた「博識」があると感じるから、滅多に自分のオリジナルのツイートはしなくて、むしろ「圧倒されて」、学びばかりと思っていますが。

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2021年11月16日 (火)

このままでは、日本のリベラルは現実社会に影響を行使できないまま、ナショナリスト勢力に敗北する。

今野 元 (著)ドイツ・ナショナリズム-「普遍」対「固有」の二千年史(中公新書)を読んで感じたことなんですが。
←私のレビューも載っています。

今野氏は、この著作の中で、戦後のドイツの歴史をとらえる上で「道徳の鉄槌」という言葉を繰り返し使っている。

最初は、第二次世界大戦終結後のニュルンベルク軍事裁判について。連合軍の「正義」の名のもとに審理がなされたという点について。

次に、その後のドイツ思想界における、過去の反省に基づくドイツ史全否定「ドイツ後進国」論を自らしていく潮流に関して。

そして、緑の党の躍進による環境主義の台頭について。

最後にフェミニズムの台頭について。

今野氏は明らかにノスタルジーに基づく過去復権論者でも保守主義者でもないにもかかわらず、こうした流れがグローバリズム的「普遍」主義に基づく価値観の押しつけという側面を持つことについて注意を喚起している。

むしろ非常に醒めたリベラリスト、個人主義者という印象である。

思うに、日本における左派リベラルの流れも、無自覚的に、西欧の「進歩的」価値観を受け入れてしまっている。

これでは、イスラム圏や中国との関係における多文化主義、体制の共存と対話という観点からしても、非常に硬直した、自分の立場からの、価値観と道徳の押し売りになる可能性があると思う。

そして、日本における国家主義の台頭に対しても、実は簡単な問題ではなく、自分のリベラル的な立場の対象化自己点検を経ての、用意周到な方略がないと、SNS上での叫びにはなっても、一般の人々の投票行動に結びつくアピールにはなり得ないのではなかろうか。

眞子さん複雑性PTSD診断「公表」問題をめぐっての議論も、この診断を受けた当事者に対して偏見が生じることについての当事者への連帯という意見が全くに近く見られず、ただ素朴な皇室への同情か、ゴシップ的な上げ足を取る中傷かにリベラル勢力すら大勢を占めた現実なども省みるにつけ、暗澹たる思いである。

差別の問題についても、単に優生思想を批判するだけでは、ホンネの次元に踏み込む形での、内なる「排除」意識との対峙に結びつかないと思う。

2021年11月13日 (土)

今野 元 (著) ドイツ・ナショナリズム-「普遍」対「固有」の二千年史 書評

トイトブルクの戦いからメルケル引退まで網羅しているにもかかわらず、もう、学習指導要領的ドイツ史観を見事に洗い直してしまって、最新の筆者の知見を紹介しているという、密度が高い本です。

そもそも従来の歴史用語(地名から党名まで)、全部みなおしてる。

エステルライヒ、シュヴァルツ、ベートホーフェンなんて序の口。

フランス革命なんて完全に相対化。

ローマ帝国(断じて「神聖」を頭につけない)は、ドイツナショナリズムの萌芽ではあるが実はヨーロッパの「普遍国家」志向、時代は下ってアメリカもソ連も「普遍国家」をめざした点では同列と。

メッテルニヒは反動主義者ではない、3B政策など存在しなかったとか。ゲーテがいかに後世、政治的に持ち上げられ、利用されていったかとか。

私はドイツナショナリズムがナポレオン戦争ではじめて顕在化したと思っていたのですが、はるかに遡れることについての文献的解説もあります。

マックス・ウェーバーの立ち位置についても、ちょうどウェーバー読んだばかりだからおもしろかったです。リベラリストとしての面よりナショナリストとしての面が強調されている。

ナチス(これまた意地になってNSDAPとしか呼ばない)時代については意外とあっさりしてます。

世界史ではほとんど全く教えない、戦後1960年代までの東西ドイツがそれぞれいかに屈折したサバイバルし、路線転換して復活していくかについてむやみとくわしいです(本書の後ろ半分を割いてる)。

ハーバーマスやマイネッケ、ドイツ歴代首相政権の位置づけもおもしろい(これまた見事に醒めた見方でもあるんですが)。

今wikipediaで調べたら、著者は、ウェーバーが特に専門みたいですが、とてもそんな枠ではでは捉えきれない学者みたいに思います。ドイツ史全体の新鮮な俯瞰能力が半端ではない気がします。

1972年生まれ。2021年フィリップ・フランツ・フォン・ジーボルト賞受賞。

ほんとに油に乗っている人なのだと思いますが。


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トロントだより

  • 050601_0957
     The Focusing Instituteの第17回国際大会(2005/5/25-31)の開かれた、カナダ、トロントの北の郊外(といっても100キロはなれてます)、Simcoe湖畔のBarrieという街に隣接するKempenfelt Conference Centreと、帰りに立ち寄ったトロント市内の様子を撮影したものです。

神有月の出雲路2006

  • 20061122150014_1
     11月の勤労感謝の日の連休に、日本フォーカシング協会の「フォーカサーの集い」のために島根県の松江に旅した時の旅行記です。https://focusing.jp/  
    ご存じの方は多いでしょうが、出雲の国には日本全国の神様が11月に全員集合することになってまして、「神無月」と呼ばれるわけですが、島根でだけは、「神有月」ということになります。(後日記:「神無月」は10月でしたよね(^^;A ........旧暦なら11/23前後は10月でせう....ということでお許しを.....)  
    ちょうど紅葉の時期と見事に重なり、車窓も徒歩もひたすら紅葉の山づくしでした。このページの写真は、島根の足立美術館の紅葉の最盛期です。

淡路島縦断の旅

  • 050708_2036
     「フォーカシング国際会議」が、2009年5月12日(火)から5月16日(土)にかけて、5日間、日本で開催されます。
     このフォトアルバムは、その開催候補地の淡路島を、公式に「お忍び視察」した時の旅行記(だったの)です(^^)。
     フォーカシングの関係者の紹介で、会場予定地の淡路島Westinという外資系の超豪華ホテルに格安で泊まる機会が与えられました。しかし根が鉄ちゃんの私は、徳島側から北淡に向かうという、事情をご存知の方なら自家用車なしには絶対やらない過酷なルートをわざわざ選択したのであります。
     大地震でできた野島断層(天然記念物になっています)の震災記念公園(係りの人に敢えてお尋ねしたら、ここは写真撮影自由です)にも謹んで訪問させていただきました。
     震災記念公園からタクシーでわずか10分のところにある「淡路夢舞台」に、県立国際会議場と一体になった施設として、とても日本とは思えない、超ゴージャスな淡路島Westinはあります。

水戸漫遊記

  • 050723_1544
     友人と会うために水戸市を訪問しましたが、例によって鉄ちゃんの私は「スーパーひたち」と「フレッシュひたち」に乗れることそのものを楽しみにしてしまいました(^^;)。
     仕事中の友人と落ち合うまでに時間があったので、水戸市民の憩いの場所、周囲3キロの千破湖(せんばこ)を半周し、黄門様の銅像を仰ぎ見て見て偕楽園、常盤神社に向かい、最後の徳川将軍となる慶喜に至る水戸徳川家の歴史、そして水戸天狗党の反乱に至る歴史を展示した博物館も拝見しました。
     最後は、水戸駅前の「助さん、格さん付」の黄門様です。
     実は御印籠も買ってしまいました。

北海道への旅2005

  • 051012_1214
     日本フォーカシング協会の年に一度の「集い」のために小樽に向かい、戻ってくる過程で、他の参加者が想像だに及ばないルートで旅した時の写真のみです。かなり私の鉄ちゃん根性むき出しです。  表紙写真は、私が気に入った、弘前での夕暮れの岩木山にしました。