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歴史

2021年11月16日 (火)

このままでは、日本のリベラルは現実社会に影響を行使できないまま、ナショナリスト勢力に敗北する。

今野 元 (著)ドイツ・ナショナリズム-「普遍」対「固有」の二千年史(中公新書)を読んで感じたことなんですが。
←私のレビューも載っています。

今野氏は、この著作の中で、戦後のドイツの歴史をとらえる上で「道徳の鉄槌」という言葉を繰り返し使っている。

最初は、第二次世界大戦終結後のニュルンベルク軍事裁判について。連合軍の「正義」の名のもとに審理がなされたという点について。

次に、その後のドイツ思想界における、過去の反省に基づくドイツ史全否定「ドイツ後進国」論を自らしていく潮流に関して。

そして、緑の党の躍進による環境主義の台頭について。

最後にフェミニズムの台頭について。

今野氏は明らかにノスタルジーに基づく過去復権論者でも保守主義者でもないにもかかわらず、こうした流れがグローバリズム的「普遍」主義に基づく価値観の押しつけという側面を持つことについて注意を喚起している。

むしろ非常に醒めたリベラリスト、個人主義者という印象である。

思うに、日本における左派リベラルの流れも、無自覚的に、西欧の「進歩的」価値観を受け入れてしまっている。

これでは、イスラム圏や中国との関係における多文化主義、体制の共存と対話という観点からしても、非常に硬直した、自分の立場からの、価値観と道徳の押し売りになる可能性があると思う。

そして、日本における国家主義の台頭に対しても、実は簡単な問題ではなく、自分のリベラル的な立場の対象化自己点検を経ての、用意周到な方略がないと、SNS上での叫びにはなっても、一般の人々の投票行動に結びつくアピールにはなり得ないのではなかろうか。

眞子さん複雑性PTSD診断「公表」問題をめぐっての議論も、この診断を受けた当事者に対して偏見が生じることについての当事者への連帯という意見が全くに近く見られず、ただ素朴な皇室への同情か、ゴシップ的な上げ足を取る中傷かにリベラル勢力すら大勢を占めた現実なども省みるにつけ、暗澹たる思いである。

差別の問題についても、単に優生思想を批判するだけでは、ホンネの次元に踏み込む形での、内なる「排除」意識との対峙に結びつかないと思う。

2021年11月13日 (土)

今野 元 (著) ドイツ・ナショナリズム-「普遍」対「固有」の二千年史 書評

トイトブルクの戦いからメルケル引退まで網羅しているにもかかわらず、もう、学習指導要領的ドイツ史観を見事に洗い直してしまって、最新の筆者の知見を紹介しているという、密度が高い本です。

そもそも従来の歴史用語(地名から党名まで)、全部みなおしてる。

エステルライヒ、シュヴァルツ、ベートホーフェンなんて序の口。

フランス革命なんて完全に相対化。

ローマ帝国(断じて「神聖」を頭につけない)は、ドイツナショナリズムの萌芽ではあるが実はヨーロッパの「普遍国家」志向、時代は下ってアメリカもソ連も「普遍国家」をめざした点では同列と。

メッテルニヒは反動主義者ではない、3B政策など存在しなかったとか。ゲーテがいかに後世、政治的に持ち上げられ、利用されていったかとか。

私はドイツナショナリズムがナポレオン戦争ではじめて顕在化したと思っていたのですが、はるかに遡れることについての文献的解説もあります。

マックス・ウェーバーの立ち位置についても、ちょうどウェーバー読んだばかりだからおもしろかったです。リベラリストとしての面よりナショナリストとしての面が強調されている。

ナチス(これまた意地になってNSDAPとしか呼ばない)時代については意外とあっさりしてます。

世界史ではほとんど全く教えない、戦後1960年代までの東西ドイツがそれぞれいかに屈折したサバイバルし、路線転換して復活していくかについてむやみとくわしいです(本書の後ろ半分を割いてる)。

ハーバーマスやマイネッケ、ドイツ歴代首相政権の位置づけもおもしろい(これまた見事に醒めた見方でもあるんですが)。

今wikipediaで調べたら、著者は、ウェーバーが特に専門みたいですが、とてもそんな枠ではでは捉えきれない学者みたいに思います。ドイツ史全体の新鮮な俯瞰能力が半端ではない気がします。

1972年生まれ。2021年フィリップ・フランツ・フォン・ジーボルト賞受賞。

ほんとに油に乗っている人なのだと思いますが。


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2021年10月22日 (金)

宇宙を覆い尽くすような超強大な竜に地球が汚染される夢

今朝の夢は、私が過去覚えていた範囲では一番スケールが大きい夢であった。

雲ひとつない、しかも天の川も見えそうなくらいに澄んだ夜空を、覆い尽くさんばかりの龍が、天の川の星々のような細かい粒状の光で現れる。

それをアメリカ(国連?)の空軍(宇宙軍?)の全部隊が迎撃に向かう。

しかし龍によって散り散りに粉砕されてしまう。

地上に龍の吐き出した薄茶色の茶色の粒が3センチほど降り積もる。

それには毒性があるといわれる。

家に中にいた人にはそのことに気づかないままの人もいる。

なぜかTV中継などはされていない様子である。

私はそれを(どうやってそうしたのかはよくわからないが)多くの人にふれて回る。

その中には、(亡き)父の住む部屋も含まれている。

******

私の海外の師であるアン・ワイザー・コーネル女史が、"Treasure Map"(こころの宝探し)という技法を開発している(ネットで検索したら、韓国のバラエティ番組に同じタイトルのものがあるようですね)。

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私はこの技法にはそんなに関心がなかったが、この技法について直接アンさんから学んだ、今では日本のフォーカシング界の有力なトレーナーのひとり(私の教え子なのだが)が、アンさんが、「夢の中でドラゴンが出てきたら、どういう武器で戦うかを想像すべきだ」と教えたのに対して、彼は「東洋では、龍は神の化身ともされ、神聖視されるのだが」と答えたという。

実はこのエピソードを聴いた事自体が、この夢に反映している可能性があると思う。

******

龍が空を飛ぶ神聖な存在であるという点では、少し古いものでは、「ネバーエンディング・ストーリー」を思い出す。だから別に龍の神聖化は別段東洋の独占物ではないはずである。

日本では、「まんが日本昔ばなし」のオープニングや、何といっても「千と千尋の神隠し」で著名だろう。

「龍」というと、私には反射的に、「竜とそばかすの姫」で、ネット上の仮想世界で悪役とされた竜が、(ネタバレだが)実は家庭内虐待児が真の姿であったのも思い出されるが、私の無意識の複合体(言葉本来の意味でのcomplexであり、アドラー的な「劣等感」という意味ではないユングの用語)に含まれているのかもしれない。

しかし私の夢に出てきた龍は、それらよりはるかに巨大なスケールである。

実は私は実際の天の川というものを、大学学生相談センター時代に研修合宿で行った、長野県白洲塩沢温泉の夜空でしか観たことはない。この地は、フォッサマグナの線上にあることでも知られているが、当時は携帯の圏外にある、秘境といっていいところであった。私達は自家用車の編隊を組んで、山を超えて数時間かけてたどりついた。

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この星を観ながら、子連れだった同僚の女性のカウンセラーに、「来年はお子さんを連れておいでになればいいのではないでしょうか?」と言われたのだが、実際にはその翌年、その日が来るわずか3日前に、妻は私と大げんかして、子どもたち二人を連れてそのまま家を出ていき、それ以来、連れて行くはずであった、当時4歳の長男とは会っていない。

いろいろ連想が広がるが、先日阿蘇山が噴火して、大きな石が降り注いだ地域もあるというニュース、そして、「宇宙からの襲来を迎え撃つ」という意味では、先日ひさしぶりに観た、「アルマゲドン」のことも連想される。

宇宙から降り注ぎ、降り積もる細かい粉のようなもの、というあたりは、旧約聖書に出てくる、約束の地を求めて移動しているユダヤの民のために神が与えたという、食べられる「マナ」というものを連想させもする。

いずれにしても、私の中では、この竜から地上にもたらされたものは、実は毒などではく、天からの施しものであり、祝福であることに人間は気づいていない・・・という気がする。

地球を覆い尽くす、目に見えないパンデミックといえば、当然コロナのことも連想させるが、もちろんこれを私は神の祝福などというつもりはない。しかし、宗教的な人の中には、神から人類に与えられた罰であり、警告であると吹聴している人々など(それがいいかどうかはともかく)いくらでもいるであろう。

・・・ここまでで私の連想は現状では目一杯だが、私がこうした現象を述べ伝える役割を夢の中で負っていることは、ちょっと畏れ多い気もする。

*****

実はこれに続くかのように別の夢を観ている。

私は「JR久留米駅」にいるのだが、どうもそれは私の子供時代に「夢の中で」再訪している、という「夢」なのだ(ややこしい)。

駅は、実際とはまるで違う構造で、ヨーロッパではありふれているターミナル(終着駅)方式である。日本では今やJRでは、ある程度以上の規模があるのは、上野駅と高松駅ぐらいだろう。

私鉄の終着駅にはありふれた構造であり、阪急梅田駅(2ヶ月前となりの阪急3番街で重要な知り合いと長時間食事を共にしている)、数年前までの東急渋谷駅(東京時代に私には親しみのある駅)、そして私の地元の西鉄福岡(天神)駅などいくつもある。

あと、自由連想的に出てくるのは、「ハリー・ポッター」シリーズでおなじみの、ロンドンのキングス・クロス駅である。

いずれにしても、我が地元のJR久留米駅が、私が子供の頃の「夢」の中では、そうした巨大なターミナル駅の構造をしているのが常識だったのを「夢」の中で再訪するという「夢」という入れ子構造になっている。

どうも、私の地元時代からの男の友達が同伴者となっているようだが誰だか不明。ユング的に言えば私の分身の「影」である可能性もあるが、フロイト的な夢の登場人物の「置き換え」の理論に基づけば、該当しそうな、わたしにとっての同年代の重要人物は容易に連想できる。ただしそれが誰かはここでは具体的には言及しないでおく。

その駅の壁に掲げられた時刻表がまた変わっていて、直接つなかっている都市への時刻や料金等が掲示されているのはわかるのだが、どういうわけか兵庫県の三田をはじめとする予想外の土地への、一日一回しか列車のない(ことになっている)表示も別々に、ホームの前ごとに、大きな掲示板で書かれている。

改札口がまた変わっている。卵型をしていて、表面は陶器で覆われているのがいくつも並んでいる。 しかもその通り道の間隔がやたらとゆったりしていて、駅職員の姿はない。

乗客たちは、自由に改札口を出たり入ったりして散策しており、私達も実際それを楽しんでいる。「夢」の中ではいつもそうだったよなあ・・・と思いながら。

これなど、現在の自動改札機の、切符をうまく入れなかったり、ICカードをうまくかざせねば一発シャットアウト!というのとは対極の構造である。

私の連想では、これは、いくつもの「別の世界」への「結界」を出入りすることができるということの暗示でもあるように思われる。

*****

以上、夢が短い割に長い解釈となったが、いずれにしても基本的には「吉調」の夢であると思う。

ただし、私にのしかかる責任は重大のようだ。

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2021年10月17日 (日)

リベラルもそんなに「独裁者」が欲しいのかね?

全く同意。

民主主義の基本に立ち返ろう。

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2021年10月16日 (土)

このまる1日にnoteにアップした新記事の一覧

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こうしてまとめてみると、いわゆる左派リベラルのいう「差別はよくない」「多様性の尊重」という論調の底の浅さに違和感を覚えるのは今にはじまったものではないと感じます。

やまゆり園事件の時からなんですね。

 

 

2021年10月15日 (金)

日本に必要なのは空虚な「反権力」ではなく、本当の敵「反空気」である (note 佐々木俊尚の未来地図レポート vol.674)

有料note記事なので、前半の無料部分から抜粋します:

==============引用はじめ================

前世紀感覚の人はすぐに「権力が暴走する」「権力の乱用に歯止めをかけなければ」といったスローガンを言いたがります。しかしこの「権力の暴走」って、いったい何を指して言っているのでしょうか?

「権力の暴走」を言う人の根っ子にあるのは、たいていの場合は太平洋戦争でしょう。「軍部が暴走して無意味な戦争を引き起こした」みたいなステレオタイプな説明は、そこらじゅうに溢れてますからね。

しかしこの「軍部の暴走」って本当でしょうか?

ひとつわかりやすい例を。伊丹十三さんのお父さんで、同じく映画監督だった伊丹万作が終戦の翌年に書いた有名な文章を引用しましょう。

「みんな、今度の戦争でだまされたと言ってる。みんなが口をそろえてる。でも私の知ってる限り、『おれがだました』って言ってる人はひとりもいないな」

全文は青空文庫で読めます。

●伊丹万作 戦争責任者の問題
www.aozora.gr.jp

終戦時、急にみんなが「だまされた!」と言い出したのには、実は理由があります。終戦の年の暮れに出版された『旋風二十年 解禁昭和裏面史』というベストセラーがネタ元なのです。

『旋風二十年』は、戦中に軍部を取材していた毎日新聞の記者たちが「暴露」したという体裁で、満州事変から日中戦争、開戦前の日米交渉、真珠湾攻撃にいたるまで、すべてが軍部の陰謀だったと決めつけています。しかしいくらなんでも、毎日新聞をはじめとした新聞メディアがあり、国民の世論もある中で、すべてを無視して軍部が戦争を始めたという言い分は無理があるでしょう。

それなのに、みんなこの適当な説明に納得してしまった。その証拠にこの本、紙不足の終戦直後なのになんと70万部も売れたそうです。

日本の終戦期の混乱を描いてピューリッツァ賞を受賞した『敗北を抱きしめて』(岩波書店、2001年)という名著があります。

著者はジョン・ダワーというアメリカの歴史学者ですが、ダワーは『旋風二十年』をこき下ろしています。

「それは、深い考察などに煩わされない、じつに屈託のないアプローチを取っていた。日本の侵略行為の本質や、他民族の犠牲などを白日のもとにさらすことにも、広く『戦争責任』の問題を探ることにも、とくに関心はなかった。既存の資料や、これまで発表されなかった個人的知識だけを主たる材料に、こういう即席の『暴露本』が書けるという事実からは、今自分たちが正義面で糾弾している戦争にメディアが加担していたことについて真剣な自己反省が生まれることはなかった」

痛烈ですね。新聞は自分たちが戦争を煽ったことをすっかり忘れて、軍部にすべての責任を押しつけてると指摘したのです。「正義面で糾弾」ってまさに……最近のさまざまなメディア報道でもよくみる光景じゃないですか。

そして新聞に煽られて、国民も戦争に熱狂しました。真珠湾攻撃で戦争が始まったとき、人々はどう感じていたのでしょうか。例を挙げましょう。中国文学研究者の竹内好はこう言っています。

「歴史は作られた。世界は一夜にして変貌した。われらは目のあたりそれを見た。感動にうちふるえながら、虹のように流れる一すじの光芒のゆくえを見守った」

作家の伊藤整は日記にこう書いています。

「大東亜戦争直前の重っ苦しさもなくなっている。実にこの戦争はいい、明るい」

いまならどちらも「ネトウヨ」扱いされて、大炎上していることでしょう。でもこういう感覚が、当時の国民一般で共有されていたのは容易に想像できます。

現代日本の戦争映画を見ると、最初から終わりまでずっと反戦思想を持っていて「オレはこの戦争には反対だったんだ……」と独白する主人公がよく描かれていますが、そんな人は現実にはほとんどいなかったでしょう(戦争終盤の悲惨な時期にはそう思うようになった人はたくさんいたとは思いますが)。

しかし日本はあっけなく大敗しました。新聞も国民も自分たちが熱狂したことはすっかり忘れて、誰かに責任を押しつけたくなった。そこに『旋風二十年』というちょうど良いタイミングの本が現れて、軍部に責任をなすりつけることにしたのです。

そうして「私たちはだまされていた」「私たちはずっと戦争には反対だったのに、みんな軍が悪い」という思い込みだけが膨れ上がって、戦後の日本映画の「オレはずっと戦争には反対だったんだ……」という幻想のセリフを生産し続けたということなのです。

では、戦争の責任は本当はだれにあったのでしょうか? 枢軸国のお仲間だったドイツやイタリアなら、「それはヒトラーとナチスのせい」「ムッソリーニのせい」と判断できるでしょう。じゃあ日本でも「それは東条英機のせい」と言えるかというと、そうではありません。

名著『失敗の本質』の著書のひとり戸部良一さんは、『自壊の病理―日本陸軍の組織分析』という最近の本で東条英機がどのようなリーダーだったのかをくわしく分析しています。

東条英機は太平洋戦争で総理大臣と陸軍大臣、それに陸軍の参謀総長と三つも兼任していたので、すべてをにぎった独裁者のように思われがちですが、実態はまったくそうではなかった。

戦前の日本には「統帥権の独立」というものがありました。統帥権というのは軍をコントロールする力のことで、これを持っているのは軍だけ。総理大臣や内閣は口出ししちゃいけない、という理念というかルールです。太平洋戦争で軍がどのような作戦をやろうと、それには内閣はまったく口出しできなかったのです。

さらにややこしいのが、当時の日本軍にもさらにふたつの系統があったということ。ひとつは作戦を練って軍隊を動かす陸軍参謀本部と海軍の軍令部。これをあわせて統帥部と呼ばれました。もうひとつは、軍隊の維持管理や給料の支払いなど行政の部分をになう陸軍省と海軍省。これは「軍政」と呼ばれます。

つまり戦争中の日本には、内閣と統帥部、軍政という三つのパワーがあって、それぞれが勝手に動いていました。単純化すると、そういうイメージだったのです(正確には陸軍と海軍はまた別なので、さらにややこしくなる)。

そして東条英機は、内閣・統帥部・軍政のすべてのトップに立っていました。「じゃあやっぱり独裁者じゃないか!」と思われるかもしれませんが、戸部さんによると、実はそうではなかった。

東条は、内閣と軍を自分自身の中でも「けじめ」をつけてきっちり分けて、仕事しようとしました。いつもは首相官邸にいるけれど、陸軍の仕事をするときは陸相官邸に移って、そちらで仕事した。権力を自分に集中させるのではなく、二つのポストをたくみに使い分けることにたいへんな努力をかたむけたのです。このやりかたを戸部さんは「生真面目ではあったが、きわめて官僚的な方式であった」と説明しています。

さらに陸軍と海軍、軍政と統帥部のあいだでもめごとがあったりした場合には、自分が判断して決定するのじゃなくて、ひたすら現場の調整にまかせていました。自分自身はなるべくリーダーシップをとらないほうがいい、というのが基本的な考えだったようです。

「陸海軍を分裂させるかもしれないほど重大な問題ならば、トップの指導者たる自分が直接決定し、分裂を抑え、部下にその決定の実行を命じただろう。だが、東條には、そうした発想はなかった。厳しい対立を招きかねない問題は、部下による調整に委ねようとした。自らの決定を押しつけて軋轢を生じさせることは、できるだけ避けようとしたのである」

まことに日本的な、調整型リーダーですね。いわゆる「独裁者」とはかけ離れた実像だったことがわかります。戸部さんは、ガダルカナル撤退をめぐるこんなエピソードも紹介しています。ガダルカナルはよく知られているように、日本の守備隊がアメリカ軍の猛烈な攻撃を受け、包囲されたまま多くが餓死して凄惨な戦場となりました。

(中略)

日本人はいまも、強いリーダーシップに拒否感を抱く人が非常に多く、たとえば首相などが少しでも強い行動に出ると、すぐに「権力の暴走だ」「横暴だ」と騒ぎ出します。テレビや新聞の報道なんてまさにそういうものばかりです。そういう人たちやメディアは「反権力」を標榜していることが多いのですが、その「権力」っていったい何なのか?を問い直す作業が必要だと思います。これもまさに、20世紀の神話でしかないということなのです。

実のところ日本に必要なのは、反権力ではなく「反空気」ではないでしょうか。空気は勝手にさまざまな決定をし、しかし生身の人間ではないから、なんの責任もとらず雲や霧のようにあっという間にどこかに消えて行ってしまう。まさに雲散霧消です。

一連のコロナ禍でも、自民党政権はロックダウンなどの私権制限に踏み込んだ強い政策はとりませんでした。「強権政治」「権力の横暴」と批判されて支持率を落とすのを恐れたのかもしれません。しかしそのように強いリーダーシップがとられなかった一方で、「自粛」の名のもとに飲食店や観光業が大量倒産に追いやられ、しかもそれらは誰のリーダーシップによって判断されたのでもなく、ただ「空気」の抑圧があっただけだったのではないでしょうか。

コロナ禍を振り返れば、日本のおける「空気」とリーダーシップの不在は、太平洋戦争から今にいたるまでずっと続いているのだということを改めて感じます。今こそ「反空気」の旗を振っていくことが必要なのではないでしょうか。

「反権力」とスローガンを叫ぶことが政治ではないのです。そういう前世紀の古い概念は、早く終わらせましょう。

=============引用終わり==============

 

2021年10月14日 (木)

マックス・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の超解説

「職業としての政治」「職業としての学問」に続いて、ドイツの社会学者、マックス・ウェーバーの話題に戻ります。

「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の訳者の大塚久雄先生の詳しく長い解題を読んでみたのですが、わかりやすく、かなり流れが掴めた感じです。

利潤を否定する禁欲的ピューリタニズムのエートス(「倫理(ethics)」というより、社会が共有する「倫理的雰囲気」、というのに納得)が、利益追求のヨーロッパ型「近代」資本主義を生み出したという「逆説」的問題提起こそこのウエーバーの著作のキモである・・と。

中世からのカトリック世界自体は、教会の権威に服すれば、あとはさほど禁欲を求めてはおらず、一部修道会の「内部」における倫理規範の厳守に過ぎなかった。

それを転換したのがルターの聖書ドイツ語訳の際に浮かび上がった"Beluf"という鍵概念。大塚氏以前の訳では単に「職業」と訳したが、大塚氏は新訳で「天職」と意訳。

ドイツ語の"Beluf"自体は日常語もいいところで、"profession"や"work"にあたるわけですが、確かにこれは聖書的には、通常「天命」と訳されると思います。

神様に命じられた使命をひたすらに果たすということになり、見返りを求めず職務への純粋な努力の傾注となるわけです。

これが修道院を超えて、一般社会での職業倫理となるのは、カルヴァン派の浸透した地域で、これがイギリスに渡りピューリタンとなる。これはブルジョアジーのみならず、労働者も共有する労働規範である。

この"Beluf"に基づく「行動的禁欲」による職務遂行は、「結果的に」多くの利益を生み出す。しかしカルヴァン派の資本家は浪費をしないので、それは新たな事業の開拓や投資活動へという拡大循環を生み出す。

時代を経るにつれて、この「倫理観」の方は形骸化し、労働と経済活動の遂行のみが残った時、利潤追求型の「近代」資本主義は肥大化していく。

ところが、この結果、ブルジョアジーも労働者も、職務に専心するというより、いわば「楽して稼ぐ」ことを目指すようになり、ここにマルクスの言う意味での資本家によるプロレタリアートの搾取の構造の基盤が築かれる。

******

・・・本編を読んでもいないのに言うのもなんですが、何とわかりやすいんだ!!というところ。

ウェーバーの時代にはまだ完全に確立していませんでしたが、ここに更に、商品を植民地に売るという経済構造が、国内のブルジョアジーのみならすプロレタリアートを主要な消費者として対象とする現代消費社会と高福祉社会に突入する中で、当初は「イギリス病」ともいわれた職務怠慢主義の跋扈と経済の停滞となるわけですね。

あっさり要約できた(つもり)。

遠からず、ウエーバー自身の本文にもチャレンジしますが。

******

大塚久雄先生は、本来イギリス近代経済史が専門で、「大塚学」と呼ばれる、マルクスとウェーバーの社会学の解釈で権威とのこと。

大塚先生の「社会科学の方法」も発掘。

一般向けの講演記録の新書版というには高度な内容で、何とか内容についていける感じです。

この新書のほうは、ウェーバー自体というより「大塚史観」の凝縮でしょうから、ブログではレビューは書きませんが、「社会学」が学問としてどうして成立可能かという主旨の本ですので、チャンレンジされてみるのもいいかと思います。

2021年10月13日 (水)

マックス・ウエーバー「職業としての学問」の今日的意味

先日、マックス・ウエーバーの「職業としての政治」の詳しい紹介を書き、かなりのアクセスをいただきましたので、同じような小冊子である、「職業としての学問」の方も、簡単なレビューを書いておこうと思います。

ドイツの伝統の「私講師」制度への理解(ドイツの学者の伝記みればごく普通に出てきますが)は前提でしょうが、「神なき時代」が訪れる中、しかも第1次世界大戦直後のドイツに彷彿とした、大衆レヴェルに及ぶ政治意識が高まり、学問の中に全能的存在を、教師の中に指導者の姿を求めるような期待感が生まれつつあった時代状況の中で書かれたものです(もとは講演)。

職業的学問探求の非政治性を求め(「価値からの自由の原則」というそうですね)、教師と学者と学生の政治参加を戒めています。

ある意味では学生運動に対しては批判的とも受け取れるし、日教組運動とかへの批判にも使えそうですが、同時に保守系の「御用学者」への批判としても使えそうです。

特に、学者や専門家の、ネットやTV出演等を通しての安易なアンガージュマン(政治や社会問題へのコミットメント。サルトルの用語)に警告を発する意味も読み取れそう。

うけ取りようによれば前近代的なのに、同時に、時代を超えたメッセージにもなりそうな論調に興味を覚えました。

教師も学者も学生も、余計なことは考えず、Shache(日々の仕事)に帰れというメッセージです。

私も、今回の眞子さまの件で、あくまでも専門家として「おかしな診断」と判断して、まずは複雑性PTSDの診断を受けた当事者へのセフティネットをネット上に形成するという「危機介入」を淡々とこなしただけで、ここから、まかり間違って、政治家への志向とか持たないほうがいいのでしょう。

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2021年9月21日 (火)

マックス・ウエーバー「職業としての政治」を読み解く

●リベラルは何故こんなにも絶望しているのか~「保守」にあって「リベラル」に無いもの(古谷経衡)

このツイートをきっかけに、実は積ん読にしていたし、薄い本なので、速攻で読んでみる気になりました。

何というklar und deutlich(カントの用語)で論理的な文を書く人かと思いました(カントの方が難しい。もっとも「純粋理性批判」は、一度わかってしまえばシンプルな要旨で、哲学書としては例外的)。

ホント、ドイツ語の原典購読とかにはたいへん向いているのではなかろうか。

あの有名な「伝統的支配」「カリスマ的支配」「合法性による支配」がたった半ページ強で説明されているのも驚き。

「合法的支配」について、

「これは『制定』法規に対する信念と、合理的につくられた規則に依拠した客観的(sachlich)な権限とに基づく支配で、逆にそれに基づく服従は法令の義務の履行という形で行われる」

とありますが、このsachlichという言葉は「即物的」と訳すことも可能で、ある意味では「実際的」「実用的」というのに近い含蓄があります。「客観的」という言葉を振り回す時ほど人間は主観的なわけですから(^^;)、ウエーバーは随分醒めた人だと思いました。実はこの著作には何回もこのsachlichという言葉が出てきますが、ただ「客観的」ととらえずに、ニュアンスに注意すべきでしょう。

この論文(というより、講演でしょうが)が、1918年という第1次大戦の敗北、当然ロシア革命の後、ドイツ革命の直後であることは、読む上で非常に重要でしょうね。ウェーバー自身はそれより古い時代に育ち、基盤を持ちつつも、新しい時代に希望と危機感を抱いていたようにも思います。

しかしその後のドイツがまさに「カリスマ的支配」の極限になってしまったのは歴史上の皮肉でしょう。

「近代国家は、領域の内部で(コレが大事)正当な暴力の物理的な行使を独占的に認められる唯一の装置」

などという言い方も、おそらく著名なのでしょうが、実はハフナーも、「ヒトラーとは何か」の中で、特に典拠はウエーバーだとことわりもいれずに近いことを言っています。ただハフナーの場合は「領域外に対して」という意味でも使っているわけで、このへんは抵抗がある人もあるでしょう。

「職業政治家」の登場とその歴史的必然性についての解説もわかりやすかったです。職業的政治家が一定の俸給を受けるようになる成り行きも。

官吏に高度な教育と訓練を受けたことへのプライドがなければ俗物根性に導く、というのもなるほどと思った。

ドイツが「官僚大臣」を必要とし、イギリスは議員の指導者としてのリーダーを頂点とする内閣を持つ、多数派政党の委員会のようなもの、アメリカは大統領という直接選挙に基づく、議会からは自立した権力者、というのも、あたりまえといえばあたりまえですが、実に明快に整理されている。

続いて政治が「経営」にまで発展すると「政治的」官僚と専門的官僚に分化すること。

続いて古今東西における官僚システムの比較論になるが、これも視野が広い。

続いて弁護士の持つ国家システムにおける固有の役割について。

「生粋の官吏は、非政治的に任務を遂行しなければならない」

「ジャーナリストの職分は、アウトサイダーでなければならず、学者に劣らない能力と責任感を必要とする」・・・という叙述なと、耳が痛いものだろう。

続いて「政党職員」というものが生じてきた背景について。それと「名望家」がパトロン(ウエーバーはそういう言葉をつかってはいないが)となる場合の比較について。

「選挙事務長」という、政治家とはちと違う存在の役割について。

アメリカにおける「ボス」の役割。「彼は社会的名誉を求めない。上流階級からは軽蔑される。彼は権力だけを求める。彼は闇の中でのみ仕事をする」・・・何か昔、日本にも児玉とかいうそういうのがいましたね。

続いて、ドイツにおける議会の無力さについて。社会民主党の不幸について。

ドイツの今後は、指導者(Fühler=総統!)民主政を選ぶか、カリスマ性を持たない「職業的政治家」による政治となるか。後者だろうとウェーバーは言う。比例選挙制でもあり、それは党派争いの道具となり、唯一直接選挙制による大統領だけが安全弁となる。

そういう中で、資産の背景がない、政治「によって」生きる「職業政治家」へのルートはどうなるか。ジャーナリスト上がりか、政党職員上がりか、利益代表かになる。しかしこれらは世間では「ならず者」との汚名が着せられている。これに対して精神的に無防備な人間は政治家にならない方がいい。

政治家という職業が与えるのは「権力感情(Macht Geflül)」である。歴史的事件の一本一本を握っているということによって昂揚感を得られる。ここからどのような人間がその権力に値するかの倫理的な問題が生じる。

職業政治家にとって必要なのは「情熱(Leibenshaft)」、「責任感(Verantfortungsgefül)」、「判断力(Augenmaß)」(Augenは目のことでありmaßとは測定の意)である。

・・・これらが並び立たねばならないことを強調している点に注意。

「判断力」・・・精神を集中して冷静さを失わず、現実をあるがままに受けとめる能力、つまり事物と人間に対して距離を置いて見ることが必要。

政治における大罪は虚栄心である。

「戦後になって愚痴っぽいことはせず、敵に向かってこう言うであろう。『我々は戦いに敗れ、君たちは勝った。さあ決着はついた。一方では戦争の原因といなった《実質的な》利害のことを考え、とりわけ戦勝者に負わされた将来に対する責任---これが肝心な点---にもかんがみ、ここでどういう結論を出すべきか一緒に考えようではないか』と。」

・・・・これは政治に関してに比喩として語られているのだが、ドイツの被ったヴェルサイユ体制への批判でもあろう。

「戦争責任はSachlichkait(「事実に即した態度」と訳されているが、絶妙)、騎士道精神、とりわけ『品位』によってのみ可能となる」

ハフナーも「ヒトラーとは何か」の中で、第1次世界大戦が、「戦争に対する罪」という概念のもとに、多額の賠償金という形になったことを批判している。

「政治家にとってたいせつなのは、将来と将来に対する責任である。ところが『倫理』は、過去の責任問題の追求のみに明け暮れる」

このあとの「心情倫理」と「責任倫理」の違いとその止揚についてのウェーバーの論調は、ひどく白熱したものだが、実際に読んでいただくこととしよう。

「『善い』目的を達しようとすれば、まずたいていは、道徳的にいかがわしい手段、少なくとも危険な手段を用いねばならず、悪い副作用の可能性や蓋然性まで覚悟せねばならないという事実を回避するわけにはいかない。」

「善からは善のみが、悪からは悪のみが生まれるというのは、人間の行為においては真実ではなく、しばしばその逆が真実であること」

「職業的政治家になろうとするものは、(中略)すべての暴力の中に身を潜めている悪魔の力と戦うのである」

・・・すでに触れたように、ウェーバーが、国家を「法に基づく唯一認められた暴力装置」と述べている点に注意。

「10年後には反動の時代が来て、ここで述べとようなことは、恐らく実現されてはいない」

******

ここで、古谷氏が引用した箇所が来る:

 

”政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なこの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。(中略)自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が―自分の立場からみて―どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても、「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。”

 

・・・・これが実質的な結語である。

 

******

短いながらも、やはり稀代の名著ですね。

訳者あとがきによれば、敗戦でドイツ人が自虐モードでロマン主義に走っているのが我慢ならなかったとか。

私はこの「講演」がなされた背景については敢えて事前に読まないまま以上のまとめを書いたが、冷静さを失うまいとしつつも、ウエーバーの筆致は、結末に向けて物凄い情熱に満ちたものとなる。

まだ読んではいないが、これはウエーバーの著作においても異例なものではなかったろうか。

この短い本は、政治や社会学を学ぶ者にとっては、恐らく大学1年生で学ぶ必読文献だと想像するが、こんな時代だからこそ、与党野党問わず、すべての政治家に読み返して欲しいし、jジャーナリストにも教訓にして欲しいし、それどころか、政治を論じるネット民も、冷静さと、いい意味でのSachlichkaitを狡猾なまでに持つ上で、必読ではなかろうか。

 

 

 

2021年9月17日 (金)

「レインマン」と「パリ、テキサス」

自閉症(アスペルガー症候群)の実態とはどのようなものかを一般の人に幅広く知らしめたのは、1988年公開、バリー・レビンソン監督による、アカデミー賞受賞映画、「レインマン」であろう。

私は、この映画を公開時に観ているが、Eテレの精神科医、アスペルガーの生涯についての番組の紹介をしたことで、久しぶりに観なおして、詳しいレビューをする気になった。

なおこの映画のすみずみまでネタバレして解説するつもりなので、そのことをご理解の上で以下を読み進めていただきたい。

******

ロスに住む新車のディーラーであるチャーリー・バビット(演:トム・クルーズ)は、回転資金に苦労して苛立ちながら、忙しい日々を過ごしていた。

ある日、突然「父親が死んだ」という電話を受ける。

チャーリーは、同僚で恋人のスザンナ(演:ヴァレリア・ゴリノ)と週末旅行に向かう予定でいたのを取り下げて、スザンナと共に、遺言執行人のもとに向かう。

チャーリーは、母は2歳の時に死別、父とは、成績が良かった褒美として、49年式ヒュイックのロードマスターに乗らせてくれなかったのをきっかけに家を飛び出して以来、音信不通だった。

300万ドルの遺産があったが、チャーリーに遺されたのは、車とバラのみ。

それ以外の財産は、管財人のもとに預けられるという。

不満を持ったチャーリーは、そのお金が誰のためのものか探し当てようとする。

行き着いたのは、(恐らく)シンシナティの近郊にある、大規模知的障害者施設。

チャーリーがいない隙に、ひとりの男が運転席に乗り込んでいた。

「床敷の色が違う。僕は嫌いだ」

彼は兄だと聞かされる。名前はレイモンド(演:ダスティン・ホフマン)。遺産はすべて彼の今後のために管理されると。

チャーリーはレイモンドの挙動を理解できない。

視線を合わせない。言葉を一方的につぶやく。

決まった時間に「テレビ裁判」を観ないと気がすまないらしく、「一塁手はWho(誰)だ」という言葉を繰り返す。アボットとコステロのギャグだと聞かされる。「フー」という名の野球選手にかこつけたものだ。

チャーリーの病室への侵入は、彼に、いつも同じ日常をやぶられる不安を呼び起こしたようで、そういう時に前述のギャグ(本人にはその面白みそのものがわかっていないのだが)をつぶやくようだ。

野球選手の情報などに即答できる。

それでも不安がおさまらないと「オ、オウ」あるいは"VERN"という奇声を発する。

他の患者のひとりには不安を感じないらしく、その患者は「私は彼の"main man"(親友)だから」と答える。

チャーリーは、担当のブルナー医師から説明を受ける。

彼は「サヴァン」だ、と(英語ではっきりそう言っている)。

「情報のインプットと処理の過程に障害があり、意思の疎通と学習能力に障害がある。自分の感情をうまく表現できない。しかし知能は高い。外界を恐れる。日常はパターン化され、パターンが破られることを嫌う」と。

チャーリーが3歳の時に、20歳のレイモンドが施設に入所した計算になる。

******

チャーリーは無断でレイモンドを施設から連れ出す。

ロスに連れていって、それから裁判をして、遺産の半額をせしめようというのだ。

チャーリーが「カリフォルニアは遠い」というと、チャーリーは、「本物の野球を観たくないか」と誘う。

泊まったホテルでは、病室と同じ位置にベッドと机と椅子を置かねばならない。曜日ごとの食事も決まっている。当然テレビは決まった時間に観ることを要求する。

チャーリーはいらいらしながらもそれにあわせる。

恋人のスザンナは、彼の命令口調に嫌気がさし、「あなたはみんな利用しているだけよ」と、ホテルを後にしてしまう。

「本がない」というレイモンドに、チャーリーは分厚い電話帳を投げ与えていたが、翌朝、メイドの名札を見た途端に、電話番号を当ててしまう。

「Gの途中までは覚えた」と。

メイドはうっかり楊枝のケースを落とし、床にぶちまけるが、レイモンドはその数を即答する。

2人は空港に向かい、チャーリーはレイモンドを飛行機に乗せようとするが、レイモンドは各航空会社の事故がいつ起こり、何人の死者が出たかを、即答し、拒否する。

「カンタス航空だけは死者がない」

「オーストラリア経由でロスに帰れというのか?そんな便はない」

それでも無理に引っ張って行こうとするとパニック。

チャーリーはしかたなく3日かけてロスまで車で向かう決心をするが、高速の事故現場に遭遇すると、またもや事故についてのデータを語り始める。

結局一般道を走るしかなくなる。

レイモンドは、自分も車の運転ができるという。

"I'm excellent driver."

チャーリーも少し折れてきて、すれ違う車種をレイモンドに延々解説したりしはじめる。

彼はチャーリーの貸したパンツを履いていない。

「シンシナティのKマートのボクサーパンツでなければだめ」と言う。

「どこのKマートでも同じだ。Son of a bitch !」

******

チャーリーは途中の地方都市で公衆電話で精神科医を探そうとするが、その隙にレイモンドは車を降り、”Don't Walk"と信号で表示された道の真ん中で立ち止まっている。

見つけた病院は精神科ではなかったが、レイモンドが難しい掛け算や平方根に瞬時で答えを出し、電卓と一致することに医師は興味をおぼえる。「天才だ!」

しかしレイモンドは「100ドル持ってて50セント使ったらあとはいくら残る?」には答えられない。

"I don't know."・・・これもレイモンドが繰り返しつぶやく言葉だ。

「僕は絶対に自閉症ではない」

2人は、「テレビ裁判」の時間になったので、一軒家に頼み込んで見せてもらう。子供たちはアニメを観たかったのに。

ホテルで、レイモンドは「おかしなレインマン(雨男)」とつぶやく。

チャーリーは、幼少の頃、レインマンという名の、空想上の友達(イマジナリー・フレンド)に歌を歌ってもらっていた。

レイモンドがレインマン。

チャーリーの「レインマン」は、空想の産物ではなかったのだ。

二人はその歌を一緒に唄う。

やっと意思疎通ができたのだ。

チャーリーがお湯をわかそうとすると、レイモンドは「ベビーがやけどする」とパニックになる。

実はそれがきっかけで、レイモンドは自分から施設に入ったようだ。

チャーリーは、レイモンドに携帯テレビを買い与える。

******

チャーリーは借金のかたに車をみな差し押さえられてしまう。8万ドル。

食事をする時、レイモンドがジュークボックスの曲の番号を即答することにチャーリーは気づく。

レイモンドには答えが「見える」のだ。

チャーリーは、ラスベガスに立ち寄り、金時計を質屋に入れてお金を作ると、レイモンドを服屋に連れて行き、おそろいのスーツをあつらえる。

カジノのトランプ賭博で一気に稼ごうというのだ。レイモンドはすべてのトランプを一瞬で覚えているから。

それは大成功。

レイモンドはカウンターで高級売春婦に誘惑される。すでに金を持っているとみなされたのだろう。「一緒にダンスしない?」

しかし、挙動不審に、離れて行ってしまう。

チャーリーはレイモンドを抱きしめるが、パニック。

"Please forgive me."

チャーリーはレイモンドにダンスのしかたを教えて、一緒に踊る。

「俺たち、バカ(fool)みたいだ」。

チャーリーからの「君を失いたくない」との連絡に、スザンナはホテルに現れる。

スザンナは、エレベーターを途中で止めて、レイモンドに軽くキスするしかたを教える。"wet"。

*****

ロスの自宅に二人は帰りつく。

チャーリーは「フレッドとアステア」のビデオを買ってきて、一緒に観る。

ブルーナー医師は、「20万ドルで手を打とう」と提案してくる。

チャーリーは「たった6日間の兄貴なんて」と拒否する。

レイモンドは台所でピザを温めようとして、レンジから失火してパニック。

チャーリーは一緒に生活する困難さを感じ始める。

裁判所に所見を提出する医師との面談。

チャーリーはあったことを正直に話し、「お金はどうでもいいから兄貴と一緒に暮らしたい」と。

「随分冒険をしたものだね」

そして、レイモンドに、病院に戻りたいか、それともチャーリーと一緒に生活したいかと尋ねる。

レイモンドの答えは両方イエス。

「チャーリーと一緒に、病院で暮らしたい」。

チャーリーも、レイモンドが病院へ帰ることを認めるしかなかった。

"You are main man."

"I'm excellent driver."

二人は頭を重ねる。

駅での別れ。

レイモンドは、「Kマートの服は最低」。

「ジョークだ」

自閉症者はジョークを理解できないはずなのに。

エンディングでは、レイモンドが助手席で途中に撮った写真が次々表示される。いかにも自閉症者が好みそうなショットばかり。

******

発達障害の人を相手にする場合、まずはその生活様式にチューニングすることが大事なのだろうと思う。

もとより、それはこの映画では、わずか一週間で達成されたのだが、現実はそうはいかない。援助者の苦労は並大抵のものではないだろう。

自閉症の人は、柔軟に周囲からの刺激を処理できないだけで、実は一般の人より「自開症」なのだと、私は産業医科大学の増井武士先生に教わった。

この「自開性」が、かえって常同的、儀式的行為を必要とする。

人は誰でも、むしろ健全な「自閉」能力を必要とすることは、神田橋條治先生も強調するところである。

発達障害ではないが、ひきこもりの人も、むしろ周囲や社会の目を気にしすぎていることも多いがする。

******

実は、トム・クルーズ自身が、学習障害で、小さい頃、文字が認識できず、更にはADHD(注意欠陥多動性障害)」であったという。この映画の中でのチャーリーのふるまいにも、多分にADHD的なところがある気がする。

ダスティン・ホフマンは、役を演じるにあたって、障害者施設に長期間入り込み、自閉症者になり切るための修練を積んだという。

彼は、典型的な、スタニスラフスキー・システムの演技メソッドの申し子である。

スタニスラフスキー・システムにおいては、とことん役になり切り、身体的にも同調し、内側から演技する訓練をすることを求められる。

マーロン・ブランドなども、代表者である。

******

さて、やっとこのエントリーの表題に入ることとなる。

この映画は、すでに前のエントリーで詳しく紹介した、ジム・ヴェンダース監督が、4年前に制作した、「パリ、テキサス」に多大なヒントを得ていると思う。

どちらの作品とも、ロードムービーの代表作と言われるだけではない。

弟(「パリ、テキサス」のウォルト、「レインマン」のチャーリー)は、共にロスで働いているし、前者は高級看板屋、後者は車のディーラーと、なんとなく似ている。

どちらも遠隔地の兄(「パリ、テキサス」のトラヴィス、「レインマン」のレイモンド)のもとに向かい、ロスまで連れ帰ろうとする。

加えて、兄はどちらも飛行機に乗ることを拒否するし、高速道路を走ることも拒否する。

トラヴィスは、同じレンタカーに乗り続けることにこだわる。

前のエントリーでは書かなかったが、「パリ、テキサス」のトラヴィスに、発達障害的な一面があることを、はからずも描いていたことは確かだろう。

もちろん、「パリ、テキサス」はカンヌ、「レインマンはアカデミー賞であり、様式に違いがあるが、デジャブーをみるかのようなシーンも多いのは確かであろう。

私など、「パリ、テキサス」を、いつの間にか、「トム・クルーズ、ナスターシャ・キンスキー主演」と記憶していたくらいである。

******

エンドロールを観る限り、「レインマン」は非常に多くの医師の監修によって制作されたようだ。

大学院生だった私の周囲には、この映画を観た人は、ひとりもいなかった。

まだ、そういう時代だったのだと思う。

今の若い世代の人は観ていない場合も多いと思うので、お勧めしたい。

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トロントだより

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     The Focusing Instituteの第17回国際大会(2005/5/25-31)の開かれた、カナダ、トロントの北の郊外(といっても100キロはなれてます)、Simcoe湖畔のBarrieという街に隣接するKempenfelt Conference Centreと、帰りに立ち寄ったトロント市内の様子を撮影したものです。

神有月の出雲路2006

  • 20061122150014_1
     11月の勤労感謝の日の連休に、日本フォーカシング協会の「フォーカサーの集い」のために島根県の松江に旅した時の旅行記です。https://focusing.jp/  
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     このフォトアルバムは、その開催候補地の淡路島を、公式に「お忍び視察」した時の旅行記(だったの)です(^^)。
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     友人と会うために水戸市を訪問しましたが、例によって鉄ちゃんの私は「スーパーひたち」と「フレッシュひたち」に乗れることそのものを楽しみにしてしまいました(^^;)。
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     日本フォーカシング協会の年に一度の「集い」のために小樽に向かい、戻ってくる過程で、他の参加者が想像だに及ばないルートで旅した時の写真のみです。かなり私の鉄ちゃん根性むき出しです。  表紙写真は、私が気に入った、弘前での夕暮れの岩木山にしました。