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父母

2022年11月15日 (火)

母が天寿を全うしつつあることについて

実はまもなく(といっても、3日後になるか、1週間後になるか、2か月後になるかわからないけど)99歳の母が老衰で天寿全うすることを、医師の、非常に丁寧なインフォームドコンセントのもとに宣告されました。

そのことについての感慨を書かせていただきます。

ついに来たか、あと半年持って、100歳の誕生日を祝えたらな、そうすれば天神での開業がそこそこ安定する様子も報告でき、安心してもらえるのにとまずは思いました。

新事業を始めたことは、母にも伝えていて、若干認知症気味(といっても重度のアルツハイマーには全然届かない)の母にも、理解できる形で伝わっていたと思いますが、結果を示したかったですね。

でも、天神開業の場所の整備と、申告手続きがちょうど終わり、一息ついたタイミングだったことは幸いと思います。

母の終焉に、腰を据えてつきあえますから。

さて、私って、もはや普段の日常の中では、意識的にフォーカシングをすることはない人間です。完全に「条件反射」化している。つまり、自分の中に生じて来たあいまいなモヤモヤ(フェルトセンス)、言葉で説明できない違和感には瞬時に注意が向き、それに自動的にフォーカスし、相手にも通じる、「的確な」言葉を見つけて対応できるスキルを身につけています。これは現場臨床でも大変役立っています。「治療者の逆転移の活用」そのものだと思っています。

このことは既に「現代のエスプリ」410「治療者にとってのフォーカシング」を伊藤研一先生と編著させていただいた中で書かせていただいています。

クライエントさんに意図的に「フォーカシング」してもらう必要はないんですよ。治療者側が面接場面のただ中でフォーカシングし続けていればいいわけです。

そういう私が、意図的にひとりフォーカシングするのは、自分のシミュレーションになかった、突発的な事態に、こころが動揺した時にほぼ限られます。

今回の母の老衰死の宣告は、少なくとも私のシミュレーションより早かったので、やはり少し動揺しました。

だから意識的に、完全に手順通りのフォーカシングを自分に課しました。

フェルトセンスと「的確な距離を取り」「共に-いられる」ようになるまでは、難なくできました(ここまでは、少し慣れれば多くの人がそうなれますよ。「シフト」を期待しなければいいのです)。

これって、マインドフルネスの状態に近いと思います。

私はここで眠り込んでしまいました。

「途中で眠り込んでもフォーカシングに意味がある」とは、私が大学院生の時に、はじめて公の場で論考を発表した時にすでに書いています。

そして、夢を見ました。

起きた私は、当然のごとく「夢フォーカシング」をはじめました。

夢の中に母と亡き父は登場していました。

それは、母が38歳の高齢出産で私を生んだ時、帝王切開で、その際に、子供は私一人だけでいいからと、子宮摘出をしてしまったことを、母が父に抗議しているという内容。

「子宮摘出は、私の判断ではない。父の独断だ」と母は夢の中で抗議しているのです。

これは「実際に」そうだった可能性も否定できません。

独断で私と母に人生上の重要な決定を押し付けるのは私の父の名物でしたから。

父が、非常に鋭い現実シミュレーション能力を持つ、頭脳の回転が半端でなく速い、即断即決で外れを引かない、たいへんなリアリストであったことは確かですが。

しかし、同時に父が非常に見栄っ張りであり、湯水のように金を使い母を贅沢させていました。

それは母に喜んでもらうことを父がほんとうに生きがいとしていたということであり、関東在住中の私にそれを知らせずに、海外旅行とかし放題だったことをあとで知った時、私は母に嫉妬したものです。

父の死の時にはかなりの額の借金があり、父母の住んでいたマンションを売り払うことで遺産のかなりは使い果たされました。

そういう、オモテとウラの二重性というのは、他ならぬ私にもあります。

恐らく、ネット上での私は、ナルシスト?それとも非常に誠実?と意見が分かれていると思いますが。

こういうネット上では書けないことも現実にはしています。そのための責任はすでに取っていますが。

いずれにしても、私は「はったりかましている」部分と、常に自分のアタマで考え、こころで感じ、自分なりの自分のコトバを紡ぎ出す面が共存しています。

ある意味で、「飲み込みがいい」人間だと思います。ジェンドリンの「人格変化の一理論」を一読めからスラスラ理解できた特殊な才能を持っていたことはすでに何度も「自慢話」してきましたが、例えば他の流派の心理療法についても、レジェンド自身の本は読むとは限りませんが、その要点を理解し、現場で役立てられるまでの手際はいいと自負しています。少なくとも面接の最中に、すでに学会とかで聞きかじった知識がスラスラと思い浮かび、「そうか、それはこういう意味だったのね」と納得して、私なりに活用していく行くタイプです。

Twitterでも、みなさんのいうことを「剽窃」するスピードは速いですよ。

私には、オリジナリティなんて何もないと思っています。すでに誰かが言っていることばかりです。

さて、なぜこういうことを書いているかといいますと、内観療法的に言えば、母に「して返した」ことはなるでなく、「迷惑をかけた」ことばかりだと思います。

決して私に怒りを向けたことがない、やさしい母でしたが。

母の死に伴う「対象喪失」の危機と、「抑うつ」をできるだけうまくしのぎながらの「償い」をどう進めるかということです。

・・・やはり、私の貧しい、実は全然無能だったカウンセラーとしての経験から学んだことを、皆様に伝えていくことかと思います。

ここからが「宣伝」ですが、私が今度電子書籍とオンデマンド出版で刊行する「若き臨床家のために」という、なんとも偉そうなタイトルの本は、結果的にその第1弾となります。

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このコンテンツ、3章ぶんを除き、実はすでに20年近く前にブログで書いていた内容にほとんど手をいれていません。
2回ほど商業出版の機会がありつつも、その度毎に「ここで書いていることを自分は自分でやれていない。不誠実だ」と感じ抑鬱状態になっては取り下げるという、3度目の正直の刊行となります。

自分で言うのも変ですが、この本自体が、私の、私自身のための教科書としてその後機能していた内容です。

我ながら「これ書いてるの誰?」と思ってしまう。

まあ、そういう本ですが、母の葬儀等に振り回されないかぎり、今月末にはAmazonに並ぶと思うので、どうかよろしくお願いいたします。

2021年12月23日 (木)

なぜ心理カウンセラーになったのか

これは #note の #この仕事を選んだわけ というお題に答えてみようと思ったから書くのですが。

私は一人っ子として育ったのですが、それはそれは面倒見のいい父でした。久留米で一番仕事量こなす税理士として激務だったのですが、旅行にもしばしば連れて行ってくれましたし、こちらから求めてもいないうちにいろいろおもちゃや本を買ってきてくれる父でした。

中学校に入って、私が自発的にしてクラシック音楽に興味を持った時も、結構立派なオーディオセットをある日突如電気屋に連れて行って買ってくれましたし、レコード代もしばしば現金で渡してくれました。自転車に興味を持てばサイクリング車を買ってくれるという具合。

ただ、私はそこまで「先回り」していろいろしてくれるものだから、自分からだだをこねてものをねだったということは皆無でした。おもちゃ屋に行っても、欲しいものをはっきり欲しいと言えない。結局父が「これはどうだ?」と言ってくれるものを買ってもらってばかりでした。

私のその後の理解では、「甘えた」ことはないということになります。「甘んじて」いた、と言ったほうがいいですね。

小学校では、運動音痴で、きょうだいの間でもまれて育っていなかったので、結構いじめの対象とされました。教員養成大学の附属校でしたから、粗暴ないじめではなかたっとは思いますが、医者の師弟とかがむやみと多かったから、恐らくそういう連中は家では厳しいしつけを受けていて、そのストレス発散の種にされたのだと思います。

私以外の全員が、いわゆる「お受験」のための英才教育型幼稚園出身で、その頃からの友だち同士が多かったですから、孤立していたとも言えます(私自身は、附属小に入るための「お受験」勉強などは特に親から求められていません)。

基本的には、私は才気煥発というタイプで、天真爛漫だったと思います。そういうのが逆に気に障ったのでしょうね。

親も、「勉強しろ」と言ったことはなかったです。そこそこ成績は取れて、中の中という感じでしたでしょうか。

ところが、附属校ではありますから、実質的には中学ヘはエスカレーターだったのですが、中学から入ってくる人たちも多い。そういう人たちのほうが秀才が多いわけです。そこで、6年生になると、学校をあげて「受験勉強」させられるわけです。

業者テストも何回も受けさせられたわけですが、私はその2回めの時に、唐突に学年2番になれてしまった。みんなはまぐれだと思った。次の回はまた馬群に沈むわけですが、ここで私は、2番の時がまぐれではないことを証明したいという気持ちに自分でなったのです。それから猛然と勉強をはじめた。

・・・で、実際に再び学年2番になれたわけです。しかし、そのことを親は特にほめてもくれませんでした。

中学に進んでも当初成績は良かったのですが、そのうちに何のために勉強しているのかわけがわからなくなりました。親は全然将来のためとかいいませんでしたからね。

自分で延々と長大な日記を書いて、「学習哲学」みたいなものを自分で考えることをしていました。

知識の実用性を重視すれば「実用主義」、将来の安定した地位を欲しい場合には「地位獲得主義」、努力すること自体に価値があるとするのを「努力主義」、純粋に知的好奇心にもとづくものを「本源主義」とか名付けました。

私はその答えを求めて、トルストイとか、ともかく小難い岩波文庫的な本を耽読するようになりました。そうして出会ったのが、すでに別の記事でも書いた、「幸福論」スイスの宗教的著述家、カール・ヒルティでした。

ヒルティは本職は弁護士だった人ですが、古今東西の書物に通じたたいへんな碩学でしたから、聖書は当然として、世界史上の哲学者や文学者などの知識人のことが情け容赦なく出てくるわけです。私の教養はヒルティによって養われたといっていいでしょう。

ところが、そうやって勉強する目的を見失なってしまったので、全然勉強しなくなったのですね。成績は低迷するようになりました。ただし、国語と社会科だけは何もしなくても学年でトップクラスでした。先生には「なぜお前は国語と社会だけできるんだ!」と怒られました。

ところが、どれだけ成績が下がろうと、親は何も叱っては来なかったんですよ。いよいよ私は人生に迷いました。

結局、多くの人が進学する、地域一の公立進学校には不合格。滑り止めの私立男子高校に入ります。ぬるま湯でして、そこそこ勉強すれば学年トップクラスにはなれました。

それでもあいかわらず勉強することには葛藤が強く、世界史と英語と古典だけは頑張りましたが、あとはかなりいい加減でした(現代国語と世界史は放っていても全国模試トップクラス)。

まあ、これで大学受験は、私立文系3科目はそろったわけで、どこかにはなんとか受かるだろうという水準にはなりました。

国語の教科書に出てきた、矢内原伊作という大学教授(サルトルの権威)のエッセイに感動して、哲学科のみをめざすことにしました。

ただ、「このまま親元にいれば自分は駄目になる」という思いから、東京の大学ばかりを受けました。

そうやって、めでたく故郷脱出に成功するわけです。六大学ではありましたが、レヴェルの高い方ではなかったので、これまた勉強はユルユルでした。すべての講義皆勤で、私が教室に現れるのが遅いと、「この時間は休講ではないか」といううわさになってマジで掲示板まで確認に行く学生もいたくらいです。

ただ、哲学科というのは、カントとかの原典購読はやっても、「人生とは何か」について学ぶ場所ではないという感じでした。「生身の人間のニオイがしない」(結局私がゼミに選んだのは記号論理学)。

そうした中、一般教養の心理学を教える先生の講義がむやみとおもしろかったのです。本来は障害児臨床が専門の先生でしたが、行動主義的実験心理学からゲシュタルト心理学、そして精神分析からカウンセリングまで、当時ですからスライドから、映写機を使った教育映画まで動員、それはそれはおもしろい講義でした。

私はここで心理学に関心を持つわけです。その先生が学生有志に協力して「臨床心理自主ゼミ」というのをやっていて、私も途中から参加するようになりました。

フロイトやユングとかも自己流でかなり読みましたね。一番惹かれたのは、「自由からの逃走」で著名なエーリヒ・フロムで、邦訳書はほとんど読みました。

実は全然就職活動というものはせず、心理系の大学院に入ることだけをめざしました。

でも、当時の名の通った心理学科って、実験心理から社会心理、統計まで、最新論文の英語を読める水準のことはできないと入れない高き門でした。臨床心理なんて、設問のごく一部なんですよ。

(指定校制度のできた現在は少し違うかもしれませんが、心理学科に入ったら、フロイトやユングについてたくさん学べると思ったら、大間違いですよ。実験や統計だらけで、まるで理系です)

2年間、聴講生などをしながら浪人しました。

この期間に、前述の、児童養護施設が専門の先生の紹介で、重度心身障害者施設(殺傷事件のあった「相模原やまゆり園」よりもっとハードなくらいのところ)の研修生などもしています。

その浪人1年目に、偶然本屋で、ジェンドリンの「フォーカシング」が目に止まります。

私は、「これこそ私が求めていたものだ」と思いました。こころをいろいろ専門的な「概念」としてこれくりまわして分析するのではなく、言葉にならない「感じ」(フェルトセンス)そのものが一番大事なんだ、という発想が非常に斬新に思えた。

自己流にフォーカシングをひとりでやってみたのですが、その当時感じていた、周囲が社会人であることへの劣等感や疎外感を随分癒やしてくれた、頭でっかちだった私が、映画とかへの感性もずいぶん開かれるようになってきた。

そこでジェンドリンのフォーカシング技法の背景にある、体験過程理論の論文、「人格変化の一理論」所収の本(現在は絶版、以下の本に収録されています)を読んだら、これまた難なく理解できました(この論文、フォーカシングを学んだ多くのカウンセラーにとってもかなり難解な本だということがあとでわかりますが。

なお、この「人格変化の一理論」全文は、こちらのサイトでも読めます。

この「人格変化の一理論」、そして、前述の「フォーカシング」の論文の訳者である、当時立教大学の村瀬孝雄先生のもとで学ぶことに照準を縛りました。

ただ、当時の立教大学心理学科は、学部の受験でもすごい競争率のところでして、ましてや大学院です。

村瀬先生はすぐに私のフォーカシングについての特異な才能は認めてくれましたが、すでに書いたように、実験系の先生方を納得させる必要っがあったわけで、受験勉強は臨床心理学やカウンセリング以外のことばかりやりましたね。

こうして、挑戦3回目で立教大学院に入れました。村瀬先生はわたしを随分引き立ててくれました。

この時代に精神科病院臨床の研修も受けています。

ところが、村瀬先生は、私が博士前期課程を終える直前、唐突に「某大学」への転任が決まってしまいます。先生は私を博士後期課程まで行かせてくれる腹づもりでいたのですが、私は行き場を失った。

そこで、私は、その大学の「大学院研究生」の採用資格を自分で調べます。すると、原則はその大学の博士前期課程終了を前提としていたのですが、附則のようにして「これらと同等の経歴を持つもの」とあるのを発見します。それを村瀬先生に伝えると、「うん、それなら君を連れて行けるな」。

こうして、私は高校時代からすれば予想もできないとんでもない大学・・・カウンセリングの世界では無茶苦茶著名・・・の大学院の博士後期課程相当にもぐり込めます。

ところが、村瀬先生は私をフォーカシングの専門家としては認めてくれていましたが、「現場カウウンセラー」向きとは全然考えてくれていませんでした。

私は現場カウンセラになりたい一心で、日本ではほとんど紹介されていなかった、ピオトロフスキという人のロールシャッハテストの本の全訳までやってしまって、大人数のメンバーがいた心理教育相談室のメンバーに配布するとかもしたのですが。

村瀬先生とは相当喧嘩しましたが、結局先生は折れて、私に大学学生相談の非常勤カウンセラーの職を斡旋してくれました。

その一方、フォーカシング個別指導のカウンセラーとしては、日本で指折りの大規模カウンセリングルームでも担当させていただくことになりました。

非常勤カウンセラーだけでは収入が低かったので、幾つかの大学の一般教養の心理学の非常勤講師もしましたが、その時、すでに述べた、哲学科学部生時代の一般教養の心理学の先生の講義スタイルが随分参考になりましたね。

この頃から、学会発表もかなりするようになり、日本中のフォーカシング研究・実践家とも交流を持つようになりました。

フォーカシング技法自体も、私なりのオリジナルなアレンジを試みるようになりました。

まだ臨床心理士は「経過処置」の時代でしたから、書類審査だけで資格を得ました。

その後、The International Focuing Instituteのフォーカシング教師の国際資格も、まだ全然日本から離れたことがないのに、村瀬先生の推薦で得ることができました(その後カナダの国際会議にも出ますが)。

当時はフォーカシングの名教師が続々来日しましたが、特にアン・ワイザー・コーネル女史とは意気投合してしまいました。私の現在のフォーカシング技法はアンさん影響が色濃いものです。

私は、大人しくフォーカシングの世界に安住するタイプではなく、いろいろな心理療法分野の本を多く読み、応用してきた人間です。

このへんは、現代のエスプリの編著をさせていただく際に色濃く出ています。

認知行動療法を学ぶとなれば伊藤絵美先生、行動療法となれば山上敏子先生、精神分析となれば藤山直樹先生や松木邦裕先生、ブリーフサイコセラピーとなれば児島達美先生のセミナーじゃなくちゃ嫌だという路線できました。

その後、明治学院大学学生相談センターでは、横浜校舎のチーフ常勤カウンセラーをやらせていただいたのが、勤め人としての最後のキャリアで、その後は開業ですが、正直に言って、大学学生相談時代、そして大船での開業時代は、今から見るとかなり未熟なカウンセラーだったと思います(今でも発展途上だと思いますが)。

今でも、多くのクライエントさんと、数をこなす形でコンスタントに成果をあげるタイプとは思えず、今のあまり流行らないくらいがちょうどいいかとは思っていますが、本来は、そんなカウンセラー向きの性格だったかというと、たしかにそうではないと思います。

でも「向いている」と当初周囲に見られるかどうかは、結局どうでもよくて、結果が全てとは思っています。

このブロクで相当に偉そうなことばかり書いていますが、できるだけ自分の経験に基づき、自分の言葉で書こうと思っています(典拠は示さないことが多いですが、私が意識的、無意識的に影響を受けている先達の先生方は少なくないです。例えば相当な中井久夫先生びいきであることは、先生の著作を読んだ人にはまるわかりでしょう)。

これからもどうかよろしくお願いいいたします。

2021年12月15日 (水)

心理教育相談室の新人が皆無になり、存亡の危機に立たされる夢

観ていた夢 。

私も所属していた非常に多くの相談員をかかえていたはずの大学院の心理教育相談室の相談員が、ある年の4月、ある年突然新人ゼロとなり、私と一人の男の先輩2人だけになる。先輩は相談室閉鎖だとあっさり諦めている。私はクライエントさんたちが困るだろうとOB/OGに連絡を取りはじめる。

「これも少子高齢化が原因ではないか」ということで私と先輩の意見は一致していた。その先輩はリアルではかなりくだけた人柄で、私に大学非常勤講師の職を譲ってくれるなどしてくれた人なのだが、

母の認知症が思ったより進んでいることを施設で見せつけられ動揺した昨日の自分と、その施設で会ってくれると言っていた家族との再会の段取りが順調に進んでいないことに気落ちした自分の心境がオーバーラップした。しかし夢の中の私はそれに負けてはいない。私も希望は捨てる気はない。

母に早めに死なれてしまって遺族年金分がなくなると、かなり家計が厳しくする程度の稼ぎしか今の自分にはない。今度の本は、時流に乗った目をひく題材なのは確実で、超控えめにみて数千部は売れるはず。その印税とカウンセリングルームの宣伝になることに期待を賭けている。

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2021年10月11日 (月)

心的外傷後ストレス障害の治療的暴露に対する、SSRIと睡眠薬、スボレキサント(ベルソムラ)の効能

私は、(詳しい経過はプライバシーに関わるので伏せますが)、長期間の深刻なモラハラにさらされ、「適応障害」と診断されて15年以上通院中の当事者でもあります。

しかし、ある意味では、弱い水準でしょうが、実はPTSDの当事者でもあると思えます。

実際、ストレス状況下では、ものの置き場所を忘れる傾向が極めて強く、弱い「解離」症状が出る傾向があると思います。

精神科医、末田耕一氏によるこの本は、「すべての精神疾患はPTSDか神経症である」という極論が書かれていて、誤解を呼びかねない面もあります。

しかし、PTSDで、ひどい外傷体験を普段は「解離」している患者がその体験を安全に想起可能にするのに、うつ病治療で用いられるSSRIが効能があるということは、実は多くの医学論文に書かれています。

念の為にいい添えますが、こうした過去の外傷体験の想起(除反応)は、信頼できる治療者との間の、無意識レヴェルを含む信頼関係の絆(ラポール)がないところでむやみになされてはいけません。

更に言えば、スポレキサント(商品名:ベルソムラ)という、新しいタイプの睡眠薬があります(ベルソムラについては、こちらも参照)。

これは、従来の、ベンゾジアゼピン系のいわゆる「睡眠誘導剤」(寝入りをよくする薬)と異なり、安定した深い眠りを維持する効能を持っています。

この薬が、PTSDの治療に効果的であることは、すでにいくつもの医学論文に掲載されています。

●心的外傷後ストレス障害の治療的暴露に対するスボレキサントと睡眠の利点

他ならぬ私が、この薬の効能を日々実感している人間なんです。

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私の中には、実は非常に暴力的な「別人格」があるようです。

私が一人きりの空間で、少しストレスを感じると、思わず口をつく言葉の暴力性は、もう半端なものではありません。たいていのスプラッタムービーや、「羊たちの沈黙」がおとなしく思えるほどのものですね。そういう映像やコミックの描写に脅威を感じたことはありません。

唯一、私と同じレヴェルの内なる破壊性と暴力性お持ちだなと感じたのは、永井豪の「デビルマンレディー」を読んだ時でしょうか。

 

それは、私自身が受けた深刻な「モラハラ」 以前に、実は、父の父が、旧満州の 関東軍 の 「密偵」が真の職業で、ソ連軍に追われての大連に向かう途上で、「拳銃自殺」 するのに遭遇した父の 「トラウマ」 が受け継がれたものだと思っています。

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「トムとジェリー」というアニメほど、暴力性と残虐性を笑いのエンターティメントに昇華した作品はないと思います。

どれだけ叩きのめされて身体がせんべい状態になっても次の瞬間には復活する。氷漬けから火であぶって復活とかもあたりまえ。

でも、どれだけひどい「虐待」的仕打ちを受けても、人はそこから復活できるという、生きる希望を与えてくれる、というべきかもしれないと思います。

Youtubeで適当にまずはみつかったひとつだけを貼っておきます。

穏健なのにしましたが、フラッシュバックの危険がある人は決して動画スタートボタン押さないくださいね。

2021年9月27日 (月)

私も後継の世代にたずなを渡すべき年齢か?

昨日、遠方に向かい、若い音楽関係者と会ったのだが、オーディオ談義も随分できたし、DTMにも詳しかったし、相川七瀬私のヘッドフォンで聴いてもらえたし、楽しい半日を過ごせた。

随分頑張って、精進してる様子であった。

私は、前回会った時よりは肩の力を抜いていたし、彼もその様子でしたが、それでも私は「燃え尽きて」いたようで、帰りの新幹線の「のぞみ」号は完全に爆睡していた。

「のぞみ」は博多止まりだからいいのでして、これが熊本や鹿児島まで行く「みずほ」「さくら」の自由席だったら乗り過ごす危険が高かったろう。

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・・・で、今朝方に向けて観た夢ですが。

私は学会発表をひかえているのだが、その内容が全くつまらない、根拠のないものであることに直前に気づき、非常に落ち込んで、うろたえている。

鏡をみると、頭髪はひどく薄くなっている。

私の教え子が、どんどん頭角をあらわしつつも、風体が髭を伸ばし、別人に見えるようになっていたことを思い出す。ZOOMのネット学会の際には、SHRUEの高級マイクなどを用いていたが。

 ↓  恐らくコレ。

私は、自分が絶頂期に会った頃の学会発表すら、実は内容が空疎であったことに今は気づいている(ことに夢の中ではなっている。私の夢の定番ネタ)。

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・・・実際にはかなり長い夢のように思われたが、非常に苦しい悪夢で、起きた時にはほっとした。

夢分析のプロである私は早速夢の理解を試みた。

夢の中と現実が何が違うかを重視するのも大事なことである。

まず、私は61歳になり、白髪こそ少し増えてきたが、髪の量は、母親譲りで極めて多い方に属する状態を維持している。

夢の中では、現実の変化が、より極端に表現されることはよくあることである。

私が、昨日の若い人との接触の中で、自分がずいぶん年長になってきたことをしみじみ感じさせられたことの影響が大きいであろう。

夢の中の私の教え子は、(リアルワールドの本人には迷惑かもしれないが)私の分身であり、後を託す人である。

私が自分の過去の学会発表で、今は内容が空疎だったと思っているものは確かにいくつかあるのだが、現実には、いくつか重要な功績を果たしたとは思っている。

恐らく、実は私はまだこれから成長の余地があり、努力を重ねねばならないことの示唆であろうか。

2021年8月18日 (水)

母の認知症は進行している

コロナ感染防止のために、全面面会禁止になっていたのだが、先週から、母の入所する施設での、週一度の、ビニール越しの5分間の面会が再開された。

今日2回め、会ってみてショックだったのは、半年前まではあれほど繰り言のように求めていた、再会できないままになっている孫たちについて、

母:「孫ってなんね?」
私:「私の子供たち」
母:「私には他に子供はおらんよ」

といったやりとりしかできなかったこと。

もっと早くから電話でいいからコミュニケーションを重ねるべきだったと思う。

それこそ、こちらでも書いたように、手紙でもよかったかな。

これからでも、週二回の洗濯物交換の際に、手紙と写真でも、毎回添えたいと思う。

2021年8月 9日 (月)

父の命令で慶応大学三田キャンパスをみてまわる夢。

今日は、私にとって定休日であり、この次のエントリーでも書くように、「河童のクゥと夏休み」を観て、レビューを書こうとしていたのだが、なかなかおもしろい作品なのに、ベッドでごろ寝しながら観ている(私のメインパソコンとベッドの位置関係はそういう見方を許してくれる)と、繰り返し、重い睡魔に襲われ、何度巻き戻してもそうなってしまうので、完全に動画をポーズで止めてしまい、寝ていたのだが、途中覚醒を繰り替えしながら、断続的に、次のような夢を観ていた。

******

私は20歳前後。

法政大学(実際の出身校)に通いながら、私は慶応大学の学士入学を受験し、合格したばかり。

ただし、このことは父(故人)に許可を得ないままやったことで、父に学費についてどう許可を得たものかと思っている(法政大学を辞めないまま、かけもちで通い続ける・・・そんなことは現実には不可能なのだが・・・つもりになっている)。

私は、父親の目に入りそうなところに、慶応大学の入試、入学パンフレットなどを並べ、「察して」もらおうとしている。

父は現われ、

「お前はいつもはっきり自分から『こうしたい』と相談せず、こういう、私から『察して』もらおうとするような、まわりくどいやり方しかしない」

となじってくる。私はこれで慶応への並行した入学は許してもらえないのかと覚悟した。

そこに唐突に慶応大学の学務部担当と思われる女性の職員が現れ、

「ご安心ください。本学ではこのようにして並行して入学される方のために、学費全額免除のシステムを持っています」

と告げる。

私は非常に安心するが、生協費や施設維持費等は二重払いせねばならず、費用は若干増えることには変わりがないなと思っている。

父の方は、あっさりと慶大に並行して通うことを許してくれるようだったが、その条件として、

「今からすぐに慶大に行って、キャンパスを見て回ってきて、報告するように」

と命じてくる。

私は早速慶大に向かおうとするが、三田キャンパスは思い出せるが、もうひとつのキャンパスの名前と場所がどうしても思い出せない。

(確かもう一つのキャンパス(日吉)の方が1,2年生の通うキャンパスではなかったろうか)

・・・現実にそのとおりだが・・・と思いつつも、ともかく三田キャンパスの方に向かう。

私は現実には慶応のキャンパスに行ったことはないのだが、夢の中の三田キャンパスは、完全に作り変えられたもので、広大な敷地の中に、大きな校舎群が立ち並び、すごく壮観である。

キャンパスの中には、都営三田線が直接乗り入れており、2線式ホームがある。

校舎のまわりのペデストリアンデッキでは、新入生歓迎・勧誘のための出店が数多く並んでいて、盛況である。

私はその中で、3人の法大生と出会う。彼らは皆リアルワールドでも知り合いだった人達である。彼らは皆私と同じシステムでダブル大学在籍をしようとしていて、私は仲間がいることに安心する。

キャンパスの中には、建物と建物の間に、唐突に、人工の、流れ下る渓流のようなものが設けられており、上からカヌーのようなものに乗った学生が何人も続けざまに滑り降りてくる。

先程出会った同じ志の仲間の一人が、

「3科目以外に、この川下りの受験もしなければならなくてたいへんだった。僕は大きな桶に乗って下って成功したけどね」

と言う。

私は彼と同じ「地質学科」に入ったのだが、自分は3科目の筆記試験だけで合格できたのだが?と怪訝に思う。

私はまた一人になって、キャンパスを彷徨っている。

「父親にキャンパスの様子を報告するのだから、口頭だけではなく、写真を撮っておいたほうがいいかな」

とも思うが、

「最近は肖像権の問題もうるさいから、人が写り込んでしまわないようにするのは大変だ。やっぱり無理かな」

と思っていると、父が唐突に現れ、

「写真ぐらい何枚か撮っておきなさい。じゃ、俺、帰るから」

と立ち去ってしまう。

私は携帯を取り出して写真を撮ろうとするが、最近買ったばかりで、しかもスマホではなく、ガラケーで、シャッターのスイッチも小さく、そもそもモニターを見るのはどうすればいいのかわからず、まごついている。

そうこうするうちに、夕方になり、あたりは次第に夕焼け状態になり、暗くなってくる。

キャンパスの人通りも少し減ってきて、

(暗くはなってきたけど、これなら人の映り込みを気にせず写真を撮れる)

と写真を撮り出す。

しかし、人目につくと困るので、フラッシュはたかないで撮影している。

(フラッシュをたかなくても、この携帯の内蔵カメラは、最新式の高性能なものだから、自動的に輝度調整がなされて、大丈夫だろう)

と思っている。

すると、どこからともなく父の声が聴こえてくる。

「お前は、体育会系の部活動をした方がいい」

と。

私は、慶応と言えば、名門スポーツ系の部活動が多いし、そもそも2つの大学の掛け持ちだけでも、単位を落とさないのにたいへんで、とてもそんな時間がない・・・と考えるが、むしろそういう「言い訳」がたつことに安心している。

遠くのグラウンドには、夜間照明でライトアップされた、野球部が練習する様子が見える。

******

・・・・まあ、こんな内容であった。

 

最近は、空き時間は映画を一本観て、「ウマ娘」をやって、Twitterをしばらく追って、そしてブログを書くということが完全に日課となっており、恐らくフィクションに数多く接しているせいもあってだろうが、そもそも夢を覚えていることはほとんどなかったが、突然、長大な、細部を覚えていられる夢に遭遇したという感じ。

このブログでも、少し前までは、しばしば私の観た夢の報告はしてきたが、かなり久しぶりのことだろう。

*****

父に直接自分のやりたいことを言わず、婉曲に「察して」もらおうとするのは、私の子供時代の常套であった。

デパートの玩具売場に行っても、自分から、これが欲しいとは言い出さず、その玩具のあるあたりをうろついてもらうように引き寄せ、「これか?」と察してもらうことしかできなかった。このことは、どこか忘れたが、このブログでも書いたことがあったと思う。

普段は寛容な父も、ここぞという時に「絶対命令」をしてきて、私はそれに反発することなく従ってきたのも事実である。

唐突に現れ、学費に関する救いの制度を示してきた「慶応大学の学務部の職員」は、どうもウマ娘の理事長秘書、駿川たづなに雰囲気が似ていると思った。

ちなみに、現実には不可能な、大学の二重在籍から連想するのは、私が大学院浪人の際に、早稲田、都立大、法政の聴講生をしていた年があったことを思い起こさせる。

そして、立教の大学院に進んだ折りも、私は立教の奨学金システム上の「全額給付金」を受けていた。これは学業成績というより、私の家庭の経済事情を勘案しての処置だったと今では思っている。

私はそのあと更にステップアップして、○大の博士後期課程の研究生になるわけだが、この時点でも父に学費の援助を最初は受けていた。

その途中から、私は非常勤の大学学生相談室のカウンセラーとして、徐々に経済的に自立するわけだが。

夢の中に出てくる、「新しい慶応大学三田キャンパス」の威容は、私が勤務した、郊外型の法政大学多摩キャンパスを更に誇大に表現したものであるように思われた。

なぜ「慶応大学」なのかという問題は少し考えなばならない。

ひとつには、私の恩師、村瀬孝雄は慶応大学の非常勤講師をしていたこと。

恐らく慶応大学が、私の在籍した立教大学に通じる、ちょっとお坊ちゃん、お嬢ちゃん大学的なイメージを極端化したとも言えること。

私のクライエントのひとりが、慶大の運動部出身であったこと。

私の元恋人のひとりが慶大出身であったこと。

まあ、そんなところの合成であろう。

さて、仮設渓谷とカヌーについてとなると、私が結局全然観なかったオリンピックのイメージが投影されているのはひとつ言えるだろうが、私が「実技試験」なるものとは無縁(例えば、運転免許は持っていない)のまま人生を歩んできたことと関連するのかもしれない。

「渓谷を下る」ということそのものに、無意識的な象徴的な含蓄がありそうだが、今回は深追いしない。

「新しく買ったばかりの高級ガラケー」というのは、私が先日最近OPPOの(高くはないものの)最新スマホを買ったことの反映であろう。

私はガラケーで過ごした日々の方が長く、スマホに手を出したのは5年ぐらい前から、しかもその機能(画面キャプチャ、動画キャプチャ、Youtubeへの直接アップロード等)を全面的に使いこなせるようになったのは、「ウマ娘」をインストールしてから以降であるから、止むを得ないであろう。

私の夢には、未だにLPアナログレコードや、カセットデッキでの再生がよく登場する、これと同じ原理であろう。

******

私はここ2,3日、急に眠気が強くて、昼間のルーティンをこなすことが少し苦しくて、プチ鬱にはなりつつあるのかなと思っていたのだが、そこで「溜まって」いた何かが、この夢で一気に開放された感じである。

それは、さすがに毎日一作作品レビューを消化していくのに疲れたというのと、スマホの思いついたような買い替えがちょっと贅沢な出費だったかなと思うこと(要するに、「ウマ娘」の、私の第2厩舎たる、andoroid版のコマ送り状態を解決したいというのが最大の目的だった)が影響しているのだと思う。

だが、そうした問題を超えたところに、この夢の「補償」作用は関わっている気がする。

私の、ここ数年のライフスタイルそれ自体に対する、無意識からの揺り戻しのようにも思う。

超自我的な父親の登場も、それに関わっていると思う。

恐らく、私の仕事と、収入の得方の問題にも関わるのだが、それについてはここでは言及しないでおく。

******

いずれにしても、夢をないがしろにしてはないらない、そこにはリアルワールドでのライフスタイルの問題点に対する強烈な警告と、補正作用があるということは、皆様にもお伝えしておきたい。

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2021年7月16日 (金)

夢二題2

今回は、ちょっとグロい内容も含みますのでお許しください。

******

私は自分の家(といっても、現実には住んだことのない、アパートみたいな部屋)で、3匹の、随分大きくて、肥え太ったネズミを飼っているようです。

私は眠気と戦いながら、親族の接待をしています。

ふと気づくと、いつものように、ネズミ達を、台所のレンジの鍋に一匹ずつ入れて「入浴」させていたことを思い出します。

あわててレンジまで駆けつけると、ネズミたちは一層え肥太って、お湯にしなびたような状態になっています。

最初は少し目が開き、少し身体をまだ動かしていましたが、すぐに死に至ったようです。

私は罪悪感と後悔に打ちひしがれます。

******

夢フォーカシングに、「昨日のことは?」という質問があります。

ここから連想したのは、昨晩夜遅く、私はソーメンをゆでて食べようとしていました。

その際に、いつの間にか眠りこけていて、鍋で沸騰したお湯をわかしていたことをすっかり忘れていたのです。

そのことに気づき、あわてて駆けつけると、お湯は蒸発していましたが、幸い、レンジの安全装置によって、とっくの昔に火が消えており、鍋はすでに冷え切っていて、取っ手とかも溶けるとかなく、私はほっとしました。

そのことをまずは想起したのですが、「私の飼っていたネズミとは何だろう?」ということが当然気になります。

このネズミが私の「分身」だとしたら?

・・・何となく想起される事柄はありますが、それをこのブログで具体的に書くのは控えたい気分です。

このネズミに「なってみた」ら?

・・・そんなにこちらを恨むことはなく、むしろこれまでここまで、過剰でお節介にまでに「甘やかしてくれる」中で天寿を全うしたことについて、感謝すらしているようでした。

ところが、今これを書いているうちにハッとしたのは、十年前の父親が、まさに浴槽の中で、自動温度調節の高熱のお湯に浸かったまま意識不明で植物状態になって死に至ったということでした。

母親はそれに気づかすにいた自分、私に電話をかけようとしても電話番号を間違えてばかり、それどころか199番にすらうまくかけられなかったことを後悔し続けていました。

父は税理士で、引退したあとも、母と共に暮すマンションで、十数件の確定申告をさばいていました。

徹夜に近い状態が続き、やっと最後の1件を残すところまで来て、少し気の緩みもあったのではないか、それなのに冬の寒い晩にベランダに自転車漕ぎに出て、それから急に熱いお湯に浸かったのもよくなかったのではないかと母は推測していた・・・そのことを思い出したわけです。

******

もうひとつの夢。

父親と私は連れ立って、久留米から西鉄電車で南に数駅から更に徒歩でかなり離れたところにある、郊外店の、実に巨大な大きな電気屋にいます。

私達は、誰か(忘れました)に連絡を取る必要があることを急に思い出しますが、あいにく父も私も手元に携帯を持っていないことに気づきます。

店の中に公衆電話がとこかにないかどうか探し回るのですが、今のご時世ですが、どこにもないようです。

それで、一階の案内所に二人で向かい、受け付け嬢(2人いました)に、「電話を借りたい」と頼むのですが、

「この店には電話はありません、スマホも売ってはいませんし、店員も使用禁止になっています」

という答えしか返って来ませんでした。

「今の時代に、それでは店員も不便だろう」

と、夢の中の私は思います。

私と父は諦めて、徒歩で西鉄久留米駅まで戻ることにします。

その際私は、

「僕はこの電気屋は使っていない。北の方の宮の陣の近くにある電気屋に、自転車で足をのばすことが多いから」

と父に語ります。

でも、それは、南の方の店に父と共に向かうのが嫌ゆえの屁理屈のように自分でも感じています。

ところが、すでに述べたように、久留米から南に数駅、しかも郊外にある電気屋から、実際には、ものの数分で西鉄久留米駅までたどり着けるのでした。

****

ひとつ思い当たるのは、今日の早朝、レビューとして書いた、「君の膵臓をたべたい」で、携帯電話のメール(この物語設定ではスマホですらないみたい)が二人のコミュニケーションで重要な役割を果たしていたこでとです。

電話というのは「関係」の象徴だし、無意識へのアクセスの通路でもあります。

私は今、無意識へのアクセスは、こうして夢を見るたびに自分で夢解釈を試みるくらいですから、十分に維持していると思いますが、「外部の」他者とのコミュニケーションは?というと、狭い範囲に限られているかもしれません。

「君の膵臓をたべたい」で描かれたような、「関係の中で生かされている」という状態からは、少し実感は遠くなっている気もします。

あと、父の向かう店に共に行きたくない、反対の道を行きたいというのは、私が常々感じていた、父の言うとおりにしたらろくなことはない、という反抗心かと思います。

ところが、亡き父の方が一枚上手だったのかもしれません。

結局、父の行く道の方が、遠いようで近いということかと思います。

父の方が、よっぽどリアリストでしたしね。
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2021年7月 8日 (木)

中学時代に「男女交際」した女の子に関する夢

どうも、自宅をカウンセリングルームにして、しかもSkypeを通した面接がほとんどで、食べ物は生協の宅配なので、私は普段、面接の時を除いては、自宅でのネットサーフィンか、ブログ書きか、NetflixかTSUTAYAディスカスの宅配使ってアニメ・実写映画見てるか、ゲーム「ウマ娘」やってるか、音楽聴いてるか、Apple Watchの催促で少し運動するか、寝てばかりの単調な生活である(読書によるインプットが少ないのは問題だ)。

友人は、コロナでなくとも、ネットを通しての関係が多いし。

これではまるでニートのような生活である(Skypeの前ではキチンとした身なりをしているが)。

その中で、新しい、私の「リアルな」経験についてのこのブログでの新たなエントリーは、意外にも、夢の内容と解釈である。夢はウソをつかないからね。

****

私は中学生。学校に向かって、川沿いの堤防のようなところを生徒たちの群れと一緒に歩いている・・・いや、少し空も飛んでいるかな。

その中に、私が「男女交際」した女の子も混じっている。

しかし少し離れたところを先に進んでいるようだ。

****

先取りすれば、現実世界では、その女子生徒は、一見地味だがすごい優等生で、同じバトミントン部に、テニス部から移籍してきた。バトミントン部には中体連の大会はないので、その時間は随分話し込んでいた。

私は実はいつも彼女とくっついている、すごい美人の彼女の親友の方が実は好きだったのだが、この二人がいる場面でふざけてばかりだった。

そして、その女子生徒・・・私が一応「男女交際」するに至った相手のほうね・・・は、「私たちは、今、青春時代を迎えようとしています」と文集に長文を掲載されるような、ちょっとマセたところがあったのだと思う。

よりによって彼女が選んだのが、私だったのだ。

夏休みに、暑中見舞いとして、長文の手紙をもらったりした。

「好きです」とかはっきり告白されたことはなかったが、実は別のクラスで、本来は禁止されている筈の、昼食時に自分のクラスの方に来て食べるように呼び込んだりして、結構噂になったものだ。

実は、彼女の方にお熱がある積極性に、私は当惑していたが、好かれて嫌なわけがない。

「交換日記しない?」と誘われ、それには、短期間だが、応じた。

あとは、彼女はピアノをたしなんでいたので、クラシックのカセットテープを貸してあげたりした。

学校外でデートしたことはなかったが、少しは「身体接触」はあった(キスまではしていない)。

ところが、私が家族と北海道に行って、ちょうど当時流行っていた、「愛の国」から「幸福」への切符を渡したあたりから、なんとなく疎遠になりはじめた。

それからしばらくして、彼女は、所属するブラスバンド部の、別の男子生徒に心を移して、片思いしているようだと、なんとなく察した。

それからは、学校がなぜか定期的に練習させるフォークダンスで、彼女との番が来ると、お互いの手に汗をかいているのを感じる、緊張した無言の関係になった。

彼女がバトミントンの試合で、ちょっと体調を崩した時も、私は遠くから見ているだけで、「大丈夫?」と声をかける勇気もなかった。

後で思えば、その時声をかけていれば、その後の展開は違ったものになったかもしれない。

私は1年生の頃は、模擬試験で2番になることもある優等生で、後に生徒会でも活躍するが、次第に勉強することの意味を見失い、成績は落ちていった。

3年生の夏休みなど、自由研究以外の宿題を全然しなくて、全科目の問題集白紙で提出し、担任には怒られるというより、心配され、他の優秀な生徒の宿題の山を無言で見せられるだけだった。

スイスの宗教家、カール・ヒルティの「幸福論」「眠られぬ夜のために」を愛読し、トルストイを全部文庫本で読むなど、中学生としては随分マセた読書に耽った。

宮沢賢治もよく読み、特に「銀河鉄道の夜」に登場する「かおる子」・・・タイタニック号で沈没した客のひとり・・・スブ濡れで、お付きの青年と弟とともに、ジョバンニとカルパネルラの乗った車内に忽然と現れる、と言ったら思い出される皆様もいるだろう・・・と彼女を重ね合わせて感傷に浸った。

そのせいか、国語の成績だけはむやみと高くて、何も勉強しなくても学年一のこともあった。担任に「どうして君は国語だけはデキるんだ!!」と怒られる始末。

私はいわゆる「教育大付属中学校」という、そこそこ地域でエリート校に通っていて、卒業生は、地域一の大学進学校(はっきり書いていいと思うが、明善高校です)に合格していたが、数少ない不合格者となり、福岡市の滑り止め高校(西南学院高校)に入り、楽々成績上位者になったが、もちろん彼女は進学校の方に合格した。

それから1年後、同窓会があった。彼女は体育館の大きな円陣の反対側に座っていたが、もちろん何も言葉を交わさなかったが、彼女の私服姿を見た唯一の機会である。

この時点では、彼女の風体は他の参加した女の子たちと変わりがなかったように思う。

その後更に一年近くたち、その進学校に合格した、友人だった男子と久々にたまたま電話する機会があった。

彼に、「○○さん、どうしてる?」と聴いてみると、彼は口ごもり、「彼女、よくない噂が多いみたい」とだけ答えてきた。

その後、高校からの帰り、西鉄久留米駅で偶然彼女と遭遇した。

驚いたのは、長い髪にウエーブをかけ、それじゃ校則違反では? というような別人だったことだ。

私はその風体に恐れをなしたことと、自分の入れた高校への劣等感もあり、ただ、深く会釈しただけで立ち去った。

その後5年ぐらいして、再び同窓会が開かれた。

バブルの盛り上がりつつある頃で、社会人なりたての大学生になった女子たちの化粧のケバさには辟易したが、彼女は出席していなかった。

でも不参加者のメッセージは寄せられており、彼女なんとスペイン留学していて「今も自分探しをしてます」みたいなことが書いてあった。

彼女の消息はそれっきりである。

****

思わず、夢の話から、現実の自分史の話題にかかわってしまったが、このブログでここまで書いたのははじめてだろう。

彼女も私も、恋に恋する年頃だったのかもしれない。

それ以来、私の、オタクらしからぬ恋愛体質は抜けていない。

****

・・・さて、夢の続きだが、実はそんなに内容はないのである。

夢の中では中学3年生の私は、彼女が、今私のことをどう思っているのか気になる。

でも彼女はフォークダンスの中で、さながら幻想の中を舞っているようだ。

私は、その日が8月25日であることを気にしはじめていた。

 

「全然夏休みの宿題やってない」

 

*****

・・・以上。

夢自体は、読んでいて拍子抜けしそうなコンテンツであるが、すでに書いたように、自分史の中のわたしと同様に、「宿題を全然やらないまま」なのは同じである。

私は、気持ちと身体の機能(瀑)は30代と感じる一方で、自分に残された時間があまりないのではないかと感じることもある。

少なくとも、施設に入っている99歳の母親がいつ死ぬのだろう、そうなったら私はどう生きるのか? ということに焦りを覚えている。

 

なのに、「宿題」はまだ果たされていないようだ。

 

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2021年7月 2日 (金)

「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」についての、カウンセラーの立場からの小考察(第2版)

この作品は、すでに観ている人が多いであろうし、その評価も定まっている。

ここであらすじについて今更紹介する必要もないであろう。

現在も、Neiflixに加入しさえすれば、いつでも観ることができる。


 

まず思ったのは、今、介護施設にいて、コロナ対策のため、完全面解禁止で、玄関で洗濯物の交換だけを棚でしている99歳の母親に宛てて、母親がこの世を去る前に、手紙を書きたいということだ。

でも、下手に書いてしまうと、母親が早死しそうで、ちょっと怖いのだが。

そんなに私の日常って変化はないし、繰り返して手紙を書こうとしても、書くネタはない。


******


「愛している」という言葉は、特に日本人は軽々しく使う言葉ではないだろう。

この言葉の安売りは、逆にウソっぽく、安易に口にすべきではないし、他人からきかされても、警戒すべきことのように思う。

ましてや、母親にこの言葉で現段階で表現するのは非常にウソっぽい。

「感謝している」とかいう言い方でもまだウソくさいかな。

内観療法で、年代ごとに、「していただいたこと」「して返したこと」「迷惑をかけたこと」という3つのお題がある。

先日、「フォーカサーの集い」で、フォーカシングに内観療法を取り入れた分科会に参加した。

短時間であったが、「小学校3年生までに、自分にとって重要な人物について内観する」ことを課題として出されたが、不思議なもので、私の場合、父母など、身内ではなく、私をいじめからかばってくれ、「親友」と呼んでくれたクラスメートのことが想起された。それは意外だった。

私は現在でも亡き父と生きている母に「甘えて」いて、ひとりの他者として対象化できていないのかもしれない。


******


この物語で登場する、自動手記人形=ドールという仕事は、ある意味で、カウンセラーとも少し似たところがあると感じた。

クライエントさんの気持ちを聴くにあたって、ただ額面どおりに鸚鵡返しにしているのでは駄目で、ある意味では、この物語でいう、「言葉の表と裏」を汲み取れねばならない。

かといって、「察した」気持ちを、そのままクライエントさんに返してしまうのも「侵入的」過ぎる。

このあたりの塩梅が難しいと思う。

自分の「気持ち」に気づくのは、クライエントさん自身が物語るなかで自然発生的になされるように寄り添う必要がある。

しかもそれが、クライエントさん自身のための「自閉的な」コトバではなく、他者(この物語で言えば、手紙の宛先の、『大事な』特定の誰か)に通じるコトバになる必要がある。

ある意味では非常に禁欲的な仕事である。自分の経験・物語を勝手にダブらせてはならないし。

でも、恐らく、カウンセラーが自分の気持ちに気づいてる程度に応じてしか、相手の気持ちを汲み取れるようにはならないと思う。

この物語で、ヴァイオレットは、自分を育ててくれた少佐の最後の言葉、「愛している」とは何なのかを知りたくて、自動手記人形の職を選ぶ。

それは、彼女自身の気持ちに気づいていくための旅路でもあるが、このTVシリーズでのエンディングの時点では、非常に控えめなものである。

しかし、それが自然な気がする。

********

・・・などと、上から目線でスミマセン。

********

最後に、不幸な事件によって、亡くなった皆様に、哀悼の意を捧げます。

そして、傷を負われた皆様と、その皆様を支えている方々の、こころ(と、ひょっとしたら身体にも?)に永遠に残る傷についても、その痛みを少しでも汲みとれればと思います。

********

【第2版で追記】: この作品を見終わったのは昨晩の10時頃。すぐにこのエントリーを書いた。

今(翌日5時)、悪夢にうなされて「これはいかん、目を覚ますしかない」と感じて目覚めた。

それはどうも、この作品を観たことがひとつの刺激になっているからだろう、と、ベッドから離れて立ち上がった瞬間に思った。

私は生涯に渡り背負わねばならない「十字架」がひとつある。

それが暴露されたら、スキャンダルになりかねないものである。

この点については、私はこのブロク上でも、一貫して、現実を隠し、私が被害者であるかのような書き方をしている。

それを私が知らせた時、亡き父は、電話の向こうで、私が生涯一度しか経験してことがないのだが、号泣した。

そのことでは、父に「迷惑をかけた」こと以外での何者ではもない。

このことについては、父に受け止めてもらえたことに「感謝」する次第である。

私はやはり、この物語でいう「火傷」を追っており、むしろそのことによって「燃えている」のだと思う。

それが私のこころを「燃えさせて」おり、永遠の「贖罪」への旅を、うながしているようにも思える。

引き続き、

●「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」Extra episodeと、劇場版第1作、「永遠と自動手記人形」観た
のエントリーもあります。

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トロントだより

  • 050601_0957
     The Focusing Instituteの第17回国際大会(2005/5/25-31)の開かれた、カナダ、トロントの北の郊外(といっても100キロはなれてます)、Simcoe湖畔のBarrieという街に隣接するKempenfelt Conference Centreと、帰りに立ち寄ったトロント市内の様子を撮影したものです。

神有月の出雲路2006

  • 20061122150014_1
     11月の勤労感謝の日の連休に、日本フォーカシング協会の「フォーカサーの集い」のために島根県の松江に旅した時の旅行記です。https://focusing.jp/  
    ご存じの方は多いでしょうが、出雲の国には日本全国の神様が11月に全員集合することになってまして、「神無月」と呼ばれるわけですが、島根でだけは、「神有月」ということになります。(後日記:「神無月」は10月でしたよね(^^;A ........旧暦なら11/23前後は10月でせう....ということでお許しを.....)  
    ちょうど紅葉の時期と見事に重なり、車窓も徒歩もひたすら紅葉の山づくしでした。このページの写真は、島根の足立美術館の紅葉の最盛期です。

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  • 050708_2036
     「フォーカシング国際会議」が、2009年5月12日(火)から5月16日(土)にかけて、5日間、日本で開催されます。
     このフォトアルバムは、その開催候補地の淡路島を、公式に「お忍び視察」した時の旅行記(だったの)です(^^)。
     フォーカシングの関係者の紹介で、会場予定地の淡路島Westinという外資系の超豪華ホテルに格安で泊まる機会が与えられました。しかし根が鉄ちゃんの私は、徳島側から北淡に向かうという、事情をご存知の方なら自家用車なしには絶対やらない過酷なルートをわざわざ選択したのであります。
     大地震でできた野島断層(天然記念物になっています)の震災記念公園(係りの人に敢えてお尋ねしたら、ここは写真撮影自由です)にも謹んで訪問させていただきました。
     震災記念公園からタクシーでわずか10分のところにある「淡路夢舞台」に、県立国際会議場と一体になった施設として、とても日本とは思えない、超ゴージャスな淡路島Westinはあります。

水戸漫遊記

  • 050723_1544
     友人と会うために水戸市を訪問しましたが、例によって鉄ちゃんの私は「スーパーひたち」と「フレッシュひたち」に乗れることそのものを楽しみにしてしまいました(^^;)。
     仕事中の友人と落ち合うまでに時間があったので、水戸市民の憩いの場所、周囲3キロの千破湖(せんばこ)を半周し、黄門様の銅像を仰ぎ見て見て偕楽園、常盤神社に向かい、最後の徳川将軍となる慶喜に至る水戸徳川家の歴史、そして水戸天狗党の反乱に至る歴史を展示した博物館も拝見しました。
     最後は、水戸駅前の「助さん、格さん付」の黄門様です。
     実は御印籠も買ってしまいました。

北海道への旅2005

  • 051012_1214
     日本フォーカシング協会の年に一度の「集い」のために小樽に向かい、戻ってくる過程で、他の参加者が想像だに及ばないルートで旅した時の写真のみです。かなり私の鉄ちゃん根性むき出しです。  表紙写真は、私が気に入った、弘前での夕暮れの岩木山にしました。