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書籍・雑誌

2022年1月24日 (月)

キリストの受難(passion)を我が身で感じることとカウンセリングの「共感」的理解 -インタラクティヴ・フォーカシング-

たまたまTwitterで、

 

ロジャーズの論においてなぜ受容が難しいか?というのは痛みを拒否しているからだと思う。痛みを感じずに受容しようとするからこねくり回す。受容とは痛みを感じ、その痛みを通して相手を理解すること、そのものだと思う

 

受容が難しい理由をアレコレ考えていたけど、キリスト教的視点に戻ったとき、そう思った。

 

というご意見を目にしたので、

 

"suffering"を"com-passion"する、という言葉が思い浮かびました。私なりの聖書的理解ですが。

 

とお返しした。

 

私はクリスチャンではないか、すでに別の記事でも書いたように、中学時代から、スイスの宗教的著述家、カール・ヒルティの「幸福論」「眠られぬ夜のために」をはじめとする著作に傾倒してた時期があるし、高校もプロテスタントのミッション系である。聖書には英訳を含めて親しんできた。

"suffer"とは「被る」という意味であるが、キリスト教的には、イエス・キリストの十字架に至る苦しみの「受難」を指すことになる。

キリストの「受難」とは英語で"passion"である。バッハの「マタイ受難曲」が"Matthäus-Passion"であることをご存知の方もあるだろう。

更に哲学の分野では、デカルトが「情念論(仏: Les Passions de l'âme、英: The Passions of the Soul)」という本を書いているが、精神の働きに能動(意志)と受動というものがあり、「情念(Passions)」というものが、(わかりやすく言えば)環境から末梢神経を通しての脳への刺激として「受身的(passive)」に生じるという考えを述べている。

話をキリスト教に戻すと、14世紀のイタリアではペストの流行によって社会不安が蔓延し、ドミニコ会修道士の指導のもと鞭で体を打つことで功徳を得ようとする「鞭打ち苦行団」が組織された。

これは、キリストが身体に受けた傷を、自分も受けることで追体験し、贖罪を得ようとするものである。

この苦行は、映画「ダ・ヴィンチ・コード」でも描かれたので、ご存知の方もあるだろう。

このような苦行は極端なものであるとしても、キリスト教において、イエスが心身に受けた苦悩を偲ぶことが、自らの苦悩の癒やしとする考えがひろくみられることは確かだろう。

さて、来談者中心療法の祖であるカール・ロジャーズのいう「共感的(正確には、感情移入的="empathic")理解というのは、あくまでも、「あたかも(as if)その人の感じている「かのように」感じてみるということです。

この"empathy"に対して、私も指導を受けたフォーカシング教師、ジャネット・クラインは、"compassion"という態度があると主張し、区別しました。

フォーカシングにおいては、自分の感情や悩みを「身体の内側の非言語的な感じ」それ自体(フェルトセンス)として直接注意を向け、感じてみるという態度を取るわけです。

これをフォーカシングを学んだカウンセラーの場合で言えば、クライエントさんの言語的・非言語的メッセージを、カウンセラー自身が、自分の身体の内側の感じとして、言わば「疑似体験」しようとすることになります。

まさに、身体の感じを通しての「痛み-の-共有(com-passion)」をしようとする姿勢ということになります。

もとより、あくまでも「疑似体験」ですが、自分がかつて感じたこころの「痛み」を、身体を通して追体験しようとする姿勢です。

もちろん、身体症状化した人の痛み「それ自体」とか、肉体的虐待を受けた人の痛み「それ自体」は感受できないでしょうが、そこで感じた苦しみの感情に対する、身体次元で波長を合わせての想像力というものは、限界があっても持つことはできるかと思います。

クラインは"empathy"で接する時と"compassion"で接する時を、はっきり別の段取りとして区別します。

前者では、あくまでもクライエントさんの感じている「であろう」認知枠に忠実であろうとし、後者ではカウンセラー自身の体験と身体感覚次元で共鳴させてしまうことを求めるわけです。

このふたつは混同されてはならず、今からするのはempathicな応答である、それに対して今度はcompassionとしての応答であるとはっきり示してしまいます。

compassionとしての応答は、カウンセラー自身が自分の体験と重ね合わせていますので、当然「思い込み」の要素があります。
ですから、あくまでも「私は」こう感じた、と、そっと差し出す姿勢が重要で、クライントさんにそれを「修正」してもらい、それを再び受容的に傾聴することになります。

ところが、このような相互作用を丁寧に進めると、クライエントさんは、自分が感じていた以上の新鮮なことを感じられるようになるという、促進的な作用をすることが少なくないです。

それどころか、クラインは、この後の手続きとして、ここまで進めた結果、「カウンセラーが」とのような「感じ」でいるのかについて、クライエントさんに「感情移入」して感じてもらい、言葉にしてもらう、という、相互的(インタラクティヴ)なやりとりの往復として行うことを定式化しました。

このことを繰り返すと、カウンセラーとクライエントさんの間に、非常に深い信頼関係と「絆」が形成されます。

これを、カウンセリング場面に限定せず、パートナーや親子などに、役割を交代しながら日常の中でもやってもらえるように「コーチ」する、というのが、クラインのめざしたスタイルです。

興味をお持ちの方は、ジャネット・クラインの「インタラクティブ・フォーカシング・セラピー」をお読みください。

なお、以下にリンクしたAmazonのレビューに、私自身の更に詳しい解説っがあります(3つしかないのでどれが私のレビューか、すぐわかるでしょう。やたらと長大なの)。

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2022年1月23日 (日)

昔、小林よしのりと論争した時に思ったこと

このご時世では、いかなる「ムーブメント」も、それが価値観の押し付けになり、個人自身の感じ方を抑圧する装置となれば、結局は全体主義を促進する作用しかもたらさないと思う。敢えていうが、狂信的なフェミニズムすら、「全体主義の一翼を担う」装置の一部となり得ると思う

私はいかなる価値観の「押し付け」にも反対する。一人ひとりが自分だけのユニークな価値規範を生み出し、それに基づいて行きていくことを理想して掲げる。

ひとり一思想であり、共感できるひとりひとりの人間と、「個々の条項で」同意できる場合においてにのみ共闘を結ぶ。

そもそもすべての点において同意できる相手なんて、この世には存在しないのではないか。すべては「条件付きの」信頼であり、共闘だと思う。

昔、小林よしのりが「自分の頭で考えろ」と「ゴーマニズム宣言」で書いたので「すべての人がひとりひとりゴーマ二ストになるべき」と手紙を書いたが、次の誌面で「それでは価値紊乱の社会になる」と逆襲された。私は価値紊乱でいいと思うけど。手を組むところだけ手を組む。それが個人主義だと思うが。

仮に私が今より名前が知られるようになったとしても、私は決して「信者」を求めないだろう。批判者だらけがふさわしい。それで個々の人がいうことがもっともだと思ったら個別に同意するだけだ。

親鸞も「歎異抄」で「俺を師としてたてまつる奴らはアホだ。偉いのは阿弥陀如来様だけ」と言っている。

何かあまりに「正義」の名のもとに人を屈服させ、洗脳しようとしている人が多い気がしたから、相当なストレスになってるので、思わず書いてみた。

「正義」をふりかざすことは、すべて「全体主義」への誘惑だと思う。

敢えて宣伝すれば、実は、フォーカシングというのは、他人の言うことへの、すぐには言葉にならない「違和感」にとことん敏感になり、それを相手に「通じる」形で言語化するスキルを磨きあげ、徹底した「個人主義者」を生み出す装置だったりする。

それと矛盾するようだが、他人のいうことは、何らかの意味で「正しい」。その「正しい」部分だけを選り分け、自分の糧にすることが、人間の貪欲な成長なのだと思う。

もっとも、自分が「違和感」を感じた意見に、いちいち自分から反論したり挑戦したりは、よほどのことがない限りしません。 スルーして、その人がその後どういう見解を述べていくかを「観察」する方が、「省エネ」だし、余計な誤解や先入観で泥沼化しないで済みますから。 挑まれれば受けて立ちますが。

Twitterでは、基本的には、その人の言うことに新鮮な発見と学びがあり、一理あると思った時にだけ「いいね」やリツイートをして、それでも「更に」同意したい時だけ引用リツイートやレスを返します。

自分が狭い世界に生きていて、大抵の人の言うことに、その人なりの生活の「現場」があり、そこから抽出された意見や思いだったりすると思うし、その人なりに探求してきた「博識」があると感じるから、滅多に自分のオリジナルのツイートはしなくて、むしろ「圧倒されて」、学びばかりと思っていますが。

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北山修「幻滅論」からの連想

「無意識」というものを他の人が「言い当てる」ことは不可能だと思う。そうした「言い当て」はすべてそれを言う人の「投影」だろう 。本人が漠然と感じている「感じそれ自体」をその人自身が感受して行き、言葉になったことだけが、その人の無意識「だった」ということになるだけだ。

他人に気持ちを「察して」もらわないと相互作用が成り立たないなのは、ある意味では赤ん坊だけだと思う。幼児になれば、大人との言葉「も」介したコミュニケーションの中にあり、子供からの自発的・言語的訴えを大人が「引き出す」コミュニケーションを主導する形になっていくのだと思う。

成人になってくれば、相手に自分の気持ちを「理解させようとする」言語スキルを磨くことになってくる。そのためには自分で自分の気持ちを「理解」し言語化できる前提がある。 もとより、そのスキルを磨いてもらうための援助をする他の人間は必要であり、自己責任に帰することはできない。

非常に個人主義的で、日本的「察し」の文化ではない理想論かもしれないが、原則的にはそう思う。

ネットのような、表情や身体の態勢、息遣い、声の調子、臭いなどの非言語的なもの(仮に画像があっても3Dではなく、presence=臨在性が低い)が伝達されない媒体を通してのコミュニケーションというのは、よほど用心しないと、行き違いだらけになるのも宿命かと思う。

「臭い」なんて、極端なこといいますけど、コロンを変えたなとかもあるし、フェロモン(性的な意味だけではなく)同士の原始的相互作用というのだって、動物ではない人間にも多大に実はあると思います(臭いについては、中井久夫先生も触れている文献があります)。

私は、カウンセラーとは、クライエントさんが「自分なりの新鮮な」言葉(それはカウンセラーにとっても全く新鮮なものでものであることも多い)で自己理解をしていくのを「援助」する存在でしかなくて、クライエントさんの気持ちを「言い当てる」ことへの欲望を持つべきではないと考える。「偶然」当たることはあっても。

人が「悲しい」と言っている「悲しい」も100人いれば100通りの「悲しい」であり、それを「その人が」心身でどのような「質感」で感じてる事象であるかは本人にしかわからないと思う。そのことの「尊厳」は守った上で「共感しようとしてみる」のだ。

 

ひょっとしたら「理解しあえた」というのは「理解したつもり」と「わかってもらえたつもり」という双方の「幻想(錯覚)」がたまたま一致しているだけかもしれない。「あの時同じ花を見て美しいと言った二人」の心が通い合っているのかどうか?

・・これ、作詞者の北山修先生が問題提起したことですよ。

興味がある人は、北山先生自身の「幻滅論」読んでみてください。

ここでいう「幻滅」とは精神分析家、メラニー・クラインのいう"disillusion"(脱錯覚)のことであり、否定的な意味ではありません。

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2022年1月17日 (月)

カウンセラーは、自分の欠点について絶えず気づき続ける訓練は受けてはいるが、決して完成された「人格者」ではない。

何回か書いてきたが、心理カウンセラーというだけで何か「人格者」であるかのように思い込む誘惑にはカウンセラー自身も敏感であるべきだが、同時にカウンセラーであるというだけで「人格者」であるかのように想定され、言葉尻を取って攻撃されることは、仕方ないとは言え、結構迷惑でもある。

カウンセラー自身は、いくら専門的修練を受け、自分の心理的欠点に一般の人より敏感であるようになっている(そうでなければさすがにヤブだ)とはいえ、面接場面という「枠」を離れてまで、自分の欠点や弱みを露出しないでいられるほどの存在ではない。

現実的にみると、カウンセラーという人種は、生育歴的にみても問題を抱え、現在の対人関係や家族関係でも悩み深き存在であることが少なくないと思う。現実適応能力も、「カウンセラー」という枠を外すと、弱いくらいで、カウンセラーしかできないカウンセラーしているというのに近いケースも多かろう。

これは精神科医の場合も言えることで、他科ではとてもやっていけないから精神科に流れついたような。

もっとも、最近のように、社会人入学の人が増えている現状では、他の職業でも立派にやっていけるケースも増えていると思う。

更に、心理カウンセラーも、産業界とか、他業種との連携が必要なことも増えているから、必然的に社会性が磨かれる機会も増えていると思う。

ただし。実は、そのような、不適応者と紙一重の面を持ち、そうした自分への「自己治癒」を不断に続けなばならない存在であるということが、クライエントさんのセラピーの効果にもつながるという側面もある。 クッゲンビュール=クレイヴ著「心理療法の光と影 -援助的専門家の「力」-(創元社)を詳しくは参照。

特にユング派の専門知識がなくても読める、非常に読みやすい本です。カウンセラーに限らず、看護士、ソーシャルワーカー、教師など、およそ人を援助する仕事に関わる人間全体における「なぜ援助的専門家を志し、業(なりわい)としているのか、そのことの持つ影(ダークサイド)としての側面と、それと表裏一体となった治癒力について述べた本である。

こうしたネット上で、必要最低限の情報提供以上の発言はせず、セラピーへの勧誘、SNS上のカウンセリングはしないのは言うまでもないが、プライベートな発言を一切伏せ、心理専門家の仮面(ペルソナ)を一貫して守るというのもひとつの一貫したスタイルだと思う。

それに対して、私がネット上で採用したのは、プライバシーも出し、鎧の下のほころびをある程度自覚的にコントロールしながらもさらしていくというスタイルだ。政治的・社会的もしていく。

このことによって「透明な鏡」ではなくなるが、勝手な「投影」「理想化転移」を受けるリスクも減らせる。

あくまでもこのアカウントを「プライベート・アカウント」と位置づけ、自分のクライエントさんたちには教えない(ネット検索上は不可能)。こちらのアカウントを集客の手段として期待しない。実際こちら経由はいないに等しい)。仕事用アカウントは別に持つ (フォローは自由)@kurumefocusing

こちらのアカウント、専門的情報や、私のカウンセリング観は、遠慮なく発信する(逆に開業アカウントではそれを抑制する)。「他の」専門家向け、一般の方向けアカウントにしているつもりです。

ただし最近は、趣味関係の発信には相当禁欲的となり、当ブログのみを媒体とするようにしました。

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2022年1月15日 (土)

山崎孝明 「精神分析の歩き方」総評

心理カウンセラーは、その専門的学習・研修の過程で、まずはある特定の「心理療法」流派のオリエンテーションに基づき研鑽を積む場合が多いと思う。

著者である山崎氏にとっての精神分析技法がそうであったように、大学・大学院に入学する時点で、特定のオリエンテーションへの自発的モチベーションがあった場合もあるであろう。

しかし、多くの場合、入学時には、漠然と「心理カウンセラー」になりたいとしか思っていないケースが、今日大半だとは思う。基礎教育で様々な心理療法流派について入門的な知識等を得たり、セミナーに幾つが出てみる過程でとりあえず選択してみるという人が一番多いであろう。

もっとも、単純に、入学した大学の教育者が拠って立つ心理療法オリエンテーションに取りあえず従うしかなかったというケースもあるだろう(様々な教育スタッフを備えた指定校大学院制度の充実の中で、こうした「受け身の」選択のケースは減っていると思うが)。

いずれにしても、こうした特定の「心理療法」をある程度学んで、カウンセリングの現場に投げ出されたカウンセラーは、大抵の場合、大きな壁に直面する。

特定の「心理療法」を密室でしていればいいという現場であることが、そもそも少ない。更に、クライエントさんを、特定の「心理療法」を受けるようにカウンセラー側から誘導すると、実際にはカウンセリング過程がうまく進まないことが実に多いのである。

カウンセラー自身がこのことに無自覚なまま、特定の心理療法に「巻き込み」、押し付けていて、多くのクライエントさんをはじき出していたり、クライエントさんのモチベーションと異なる方向へとカウンセリングの進行と成果を期待されることによる齟齬が生じていることは、ままあると思う。

著者は、現場カウンセラーとしての経験を重ねる中で、こうした「痛い思い」を繰り返し、そこから「実践知」を自覚的に抽出したきた人だと思う。

第9章「モチベーション論」は、心理専門家が、どのような領域で、どのような雇用形態で働いているかに全く無関係に、面接の、クライエントさんとの合意形成に至るまでの「実践知」として、極めて優れており、自己点検のために、この章だけ独立させてでも必読かと思う。

これは確かに、どの「心理療法」をしていくか「以前の」問題なのである。「心理療法」すら求めていないクライエントさんが多いことは事実であり、何を「当面の」面接過程で目標とするかの合意は、丁寧なやり取りのなかでまずは形成されなばならない。

もっとも、クライエントさんの側に、カウンセリングに現れた自分の「無意識的」モチベーションが自覚されていないことも多く、それに無理のない形で気づいてもらえることも重要であることは少なくないが、これすら、クライエントさんの内面への「侵襲」となる危険を犯すものであることを、カウンセラー側は自覚しているべきであろう。

しかし、著者は、こうしたことを、面接過程での単なる「実戦的テクニック」として示しているだけではない。

クライエントさんがどの流派の心理療法の適用がマッチングするかといった「選択」の問題にとどまるものですらない。

著者は、主として精神分析的オリエンテーションの見地からではあるが、そもそも「心理療法」という枠組みそのものが持つ、潜在的権力構造と、期待される、社会での人格のありかた、生き方のおしつけになりかねない問題にまで視野を広げ、問題提起する。

そのことの重要性については、私も全く賛成であるが、その具体的な内容に関しては違和感がある。

果たして、認知行動療法をはじめとするエビデンス重視のアプローチは、即、「新自由主義」に適合する人間を生み出そうとするものであろうか?

私には、ここに「仮想敵」を投影的に作っている側面も感じなくはない。

これは、人格の「成熟」というものを、社会に単に「適応」的な人間になることととらえるかどうかという根源的な問題につながるものとしてとらえられるべきである。

少なくとも私の考えでは、個人心理療法が暗黙のうちに想定している、成熟した人格像というのは、左派リベラリストというのに近い。

理想とされるクライエントは、個人主義者であるが、すべてを自分の「人格の問題」としては考えない。家族や社会に対する自分の不満を自覚し、周囲に迎合せず、むしろ変化すら迫り、場合によっては社会運動に関与するだけのアサーションスキルをも磨かせる性質のものである(少なくともそれをめざさない心理療法を私はよくないものであるとすらみなす)。

認知行動療法ですら、すべてを自分自身の問題として処理するスキルを磨くにとどまらず、周囲に働きかけたり、自分と連帯できる新たな人間関係や社会的資源の活用スキルを向上させる側面を持っていなければ「おかしい」とすら思う。

カウンセラーは、そうした新自由主義ではないリベラリストとしてクライエントが育っていくさまを支援し、見守る役割を果たすのであり、必要とあればそれに「連帯」し、時としてはそれを主導する存在ですらあるべきと私は考える。

もとよりこれはあくまでも「私の」立場であるに過ぎないという自覚はある(ただし、このように自覚し、普遍的価値観と「みない」こと自体が、新自由主義的ではない、リベラリストの価値観だと思うが)。

これが、著者に対する私の違和感であるが、著者の問題提起の視角に価値があるとみなすことには変わりがない。

山崎孝明 「精神分析の歩き方」短評

第9章「モチベーション論」は、心理専門家が、どのような領域で、どのような雇用形態で働いているかに全く無関係に、面接の、クライエントさんとの合意形成に至るまでの「実践知」として、極めて優れており、自己点検のために、この章だけ独立させてでも必読かと思います。

私は、ここで書かれていることのある程度はできているとおもいます(来談した人に、決してフォーカシングは勧めずに、まずはニーズをうかがうことを、私なりに大事にしてきたつもりです)が、とてもここまでできていないことの方が多いと、いろいろ反省させられました。

 

2022年1月 9日 (日)

全家財道具を訪問した大学に置き忘れる夢

夢をたて続けに見た。

1つ目。

私はある大学の学園祭を訪問している。

気がつくと、ある出店が開かれたいたその建物の一室(当初は普段はゼミとかに使う部屋のように思えた)に、スマホとクレジットカード等の入った財布と背負ったリュックを置いたまま、私はタバコと携帯灰皿とライターだけを持って、大学の構外の随分離れた場所まで外に出てしまっている。

私は荷物を置いてきたことを思い出し、あわてて大学の構内に戻ろうとするがどの建物かすら当初忘れていて、焦り、途方に暮れる。

恐らくこの棟だったろう、そのこの階の一室だったろうというところまで戻るが、すでに学園祭は終わっていて、通常の講義が再開されていて、その真っ最中のようで、今更中に入りづらいことに困惑する。

*****

ここで一度私は夢から覚め、悪夢だと思った。

そして、そうしてこういう夢をいたのかはすぐに思いあたった。

その大学は、私の夢の中にしばしば登場する(学会で3回ほど行ったことがある)、大規模な指定校大学院がある総合大学である。

なぜその大学が出てくるのかと少し考えてみたが、それは全く別の、2人の臨床心理士の方と関連しそうだと気づく。

そこに「私の大事な荷物を一式置き忘れ、どこに置き忘れたのかも覚えていない」というのが何を意味するのかもあたりがつく。

眠り込む直前、私は現在本の原稿を書いていて、ある章が来るまで自信満々だったのだが、突如ある章にあてる「事例」のデータを詳細に数時間かけて点検すると、実はそのデータが全く空疎であり、そこから何か考察めいたことを書ける自信を失っていた。

それを引き金に、自分の書こうとしていた本の内容が、当初の構想のあてが外れて、今後まともな内容の章を書けないのではないかという不安に一気に襲われた。

それは更に、その本の構想と、そこで一発大逆転して、今後の私のカウンセラーとしての経営の軌道を順調にしようという構想自体の底の浅さと、そこに「みせかけの自分」を構築しているのではないかという絶望感を引き起こした。リアルな私の実情は、その程度のものではないのか?

******

ここで私はまたいつの間にか眠り込み、夢の続きを見ている。

私は自分が荷物を置いてきたのは、現在講義が再開されている教室のある階の下の、半地下の、部屋が並んでいる階であることを思い出す。

そこは、学生とか教師とかが一時的に宿泊するための、6畳くらいの部屋が廊下に並んでいる。

その中のある部屋に荷物を置いてきたはずと、あたりをつけて入室すると、そこは家具のある畳部屋になっている。

ここで、私が置き忘れてきたのはリュック等だけではなく、そもそも私が独身時代に繰り返し引っ越す際に移動させていた家具一式(1000枚のCD等も含まれる)であった、ということに夢は拡張されている。

その部屋の中に、ひとりの男子学生がすでに「住んで」いるわけだが(ここで夢はそこが「学生寮」の一室であることに拡張)、私は私の荷物を知らないかと尋ねる。

すると、突如その学生の母親が現れる(ここでその部屋は学生と親の住む、少なくとも2部屋あるアパートの一室ということに拡張)。

そして、その母親から、「安心して下さい。荷物は皆、今あなたの住んでいる住所へ送りました」と言われる。

私はほんとうに全部の荷物を「選り分けて」送ってくれたのかどうか一抹の不安を覚えるが、ひとまずほっとする。

******

ここで再び目覚める。

どうも私は私なりに学生時代から積み上げてきた「蓄積」を確かに今も「所有」しているのであり、それを「見失って」いただけで、ちゃんと再確認できている気がした。

そこで、その章にあたる内容に関連する情報をネットで調べ始めるが、どうもその「事例」そのものが、他の事例に比べると、ネット界全体での情報量がそもそも薄いことに気づく。そもそも固有な特徴に乏しい事例であるということ。

そして、なるほど、その章の内容は他の章より薄めになり、「何とかでっちあげる」水準にとどまるかもしれないのもやむを得ない、30章も書くのだから、埋め草にそういう章が出てきてもしかたないではないかという思えるようになる。

すでに書いた章は、確かに興味深い「事例」が多く、内容も充実しているという自信を回復した。興味をひく「事例」から順不同に執筆しているので、今後薄味の章は増えてくるかもしれないが、全体のクオリティとしては何とかなるだろう。

その章の事例を書かないでおくことによって「網羅性」を失うことの損失のほうが大きいと判断できるようになった。

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ここで私はまた寝てしまう。

外国の鉄道に乗っていて、駅から降りた所。私は警察に監視されている。私は(正確には忘れたが)ルパン3世か「シティハンター」の冴羽獠みたいな存在自身になっている。

霧の中、ロシア風の洋館の並ぶ行き止まりの壁に追い詰められそうになった時、私は「絶対に追い詰められない」と警察官たちに言い残し、壁に向かっでダッシュをはじめる。

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目覚めて振り返ったが、これもわかりがいい。

警察とは、私の超自我だろう。しかし私はその「監視」をまんまとくぐり抜けてしまえるという自信にあふれた、ダーク・ヒーローのような存在になっている。トリックスター的とも言えるかも知れない。

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ここでまた寝てしまう。

私の本(今回とは全く別のテーマということになっている)の内容には、一切の取りこぼしもなく、つけ入る隙がない、完璧な仕上がりと誰もが認めるしかなくなっている。

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夢を見ることと、目覚めてワークすることの往復が、一連の過程として成立しているが、それは私が普段から自分の夢に向き合うことを完全に習慣化しているからである。

この背景には、私が臨床現場でも使いこなしている、ジェンドリンの「夢フォーカシング」のスキルを、何よりまずは自分のために身につけているということにある。

夢と向きあうことは、起きている時に不可能な次元で、「現実」と向き合うためのきっかけとなるのであり、そこでのワークは、「現実の」具体的な自分の生き方を変えていけるほど強力なものである。

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夢の「解釈」にはいろいろ専門的知識が必要と思われているかもしれないが、「いかに(how)」解析していくかの方法論は意外とシンプルであり、これは完全に定式化可能である。

これについては、私の書いた「入門フォーカシング」でも、一章を割いて、ジェンドリン自身の上記の著作を整理する形で、その方法をかなりくわしく書いている。

2022年1月 7日 (金)

心の問題をあれこれ「考える」必要はない。

さて、以下の、私のやっている #フォーカシング 「導入部」についての紹介に基づき、 #マインドフルネス との類似性と私が考えることを少し解説してみましょう。

●マインドフルネス認知行動療法とフォーカシングの導入部の類似性

#ジェンドリン はフォーカシングと #瞑想 は、心の中に降りていく「深度」が異なり、瞑想ほど「降りていく」ものではない、と、来日時のワークショップで述べていました。

ところが、フォーカシングにおける導入部としての"clearing a space(空間づくり)"に限定して言えば、ある意味で瞑想と似たところがある気がします。

生じてくる心の中の気がかりを、ひとつひとつ、脇に積み上げてしまうのですね。

そしてそうした気がかりをすべて積み出した後の、「広大な空間」を感じられれば、ひとまずよしとし、それで満足するならば、フォーカシングの段取りをそれ以上先に進める必要はない、必要なことはそれだけでも自然と生じてくることが多いとすら、著書「フォーカシング」の中で書いています。

 

ただ、ジェンドリンは、それを、気がかりな「事柄」という水準で書いています。

私はそれを数多くのフォーカシング・トレーニング経験から、「身体の感じ」レヴェルでまずはやってみるほうがいいと判断するようになりました。これが「第1章」の前に「第0章」の訓練を設定した理由です。

ただし、ここで言う「身体の感じ」とは、腰や肩の痛み、頭痛のような、否応なしに訴えてくるような「身体症状」にとどまるものではありません。

人は、実は、身体症状のようなはっきりした感じ以前に、実は、非常に漠然とした曖昧な身体感覚というものを感受していて、それに基づいて行動しているとみなせます。ジェンドリンの #体験過程理論 でいえば「暗黙の機能」といいます。

例えば、たとえ腹痛を感じていなくても、実は、お腹の中の漠然とした感じというものは、注意を向けてみれば、感じられるのです。

いきなりお腹の中の感じだけに触れようとしても、それを識別できないかもしれませんが、例えば、背中の方の感じと「識別」しようとすれば
、気付けるようになります。

こうしたことを身体のあちこちについてやってみると、身体のあちこちに、質感の異なった感じを「実は感じながら」日常を生きて「いた」ことに気づけるようになります。

とりあえずは、そういった、身体各所の感じを、落ち着いて息をしながら、「観察」できるようになればいい。

これじゃほとんど「瞑想」ではないかと言われる人は、確かに出て来る気がします。私は瞑想については何も学んだことはないのですが。

ところが、この事ができるようになり、習慣化するだけで、日々の悩みから、かなり自由になれることも多いのですね。

******

まるで、およそ人の悩みというものは、すべて「雑念」であり、「煩悩」であるかのように見なしているのか?と言われる人すら出てくるでしょう。

私は別に、思想として、そのようにみなしているわけではありません。

しかし、私たちは、環境との相互作用の中で、「頭で」判断する以前の問題として、まずは「身体で」受け止め、そこから生じてきた漠然とした感じに基づき、さながら「条件反射」のようにして行動している側面が実は大きいなのではないかと思います。

その「条件反射」の悪循環(認知行動療法でいう #スキーマ )を断ち切って、それと距離を起き、一度自由になってみる。

それだけで、新鮮な気持ちで、リラックスして、状況に対応できていくことも多いと思います。

これは、狭い意味での「こころ」の内容(content)主義自体からの脱却とも言えます。

#神田橋條治 先生は、「人間は、"コトバ"文化に『汚染』されている」といいます。

多くの心理療法の世界は、いよいよ難しい専門用語を駆使して、ひとの心の問題をいじくりまわすだけになる危険もある、という視点もあっていいと思います。

こうした「漠然とした身体の感じ」の状態に敏感になり、注意を向けるのに慣れて来ると、激しい感情が生じてくるまでに、自分が何を考え、どう判断する「クセ」があるのかを、冷静に観察する「もう一人の自分」が育成できます。

その結果、感情に任せた軽率な行動を取り、「また、いつものようなひどいことになってしまう」という悪循環を意識でき、ちょっと「自分」をとりもどして、柔軟な、もっといい反応をしていく心の余裕を取り戻せるのが習慣化するわけです。

恐らくこうした状態を確保した上で、言葉を選んで相手に伝えれば、それは相手も冷静な方向に自然と導くことがすくなくないかと思います。

「身体が」落ち着いている人間は、それがオーラのように働いて、相手の「身体」にもクールダウンが伝播することが少なくないということです。

・・・以上が、私の実践していることと、#マインドフルネス #認知行動療法 の接点と私が考えることがらですが、いかがでしょうか。

これは、完全に私の「こころの問題とその解決」観のエッセンスそのもので、#カウンセリング の現場のみならず、私自身の「生き方」そのものです。

念の為にいいますが、自分の悩みや行き詰まりを話したい人には、ますはそれをじっくりうかがうのでして、それをしないまま上記の技法を勧めることはありません。

2022年1月 3日 (月)

マインドフルネス認知行動療法とフォーカシングの導入部の類似性

2022年1月 1日 (土)

心理カウンセラーには、「打たれ強い」人が向いているのでは?

このツィートに対して、違う!!と思ってしまった。

ある意味では、人にボコンボコンにされて何も言えなくなってもそれに堪え忍べるタイプの人のほうが、#心理カウンセラー 向きだと信じています。誰でも論破できちゃうという人は、(控えめに言って)クライエントさんを萎縮させている可能性が高いかと。

そうやってボコンボコンになっても「破壊」されてはしまわず、「生き残って」、クライエントさんに接することができるからこそセラピーになるのだと思うのですが(これば #メラニー・クライン 理論的にみても言えることと思います)。

メラニー・クラインは、赤ん坊は、最初、自分の中に快感が生じると、それは「よい母親」が自分によい乳房を与えてくれているものと捉え、逆に、自分の中に不快感が生じると、「悪い母親」が、自分を迫害して、悪い乳房を差し出しているものとして空想していると考えました。

そして、この「よい母親」と「悪い母親」が同一人物であると赤ん坊は最初気づいておらず、さながら世界を天国と地獄のように体験することを行ったり来たりしていると考えたのです。

この段階のことを、クラインは、難しい言葉ですが、「分裂的-妄想的態勢」と名付けました。

さて、赤ん坊が少し成長すると、別人だと思っていた「よい母親」と「悪い母親」が同一人物であることに気づきはじめます。

ところが、赤ん坊はまだ空想の世界を通してしか外の世界と接していませんから、「悪い、迫害してくる母親」に対して自分が反撃する攻撃性が、実際に「よい母親」を「破壊」してしまったのではないかという妄想にとらわれます。

こうして、赤ん坊はひどく落ち込んでしまうと、クラインは考えました。この発達段階のことを、クラインは「抑うつ態勢」と呼びます。

もっとも、現実には、再び自分を愛してくれる良い母親が繰り返して立ち現れるものですから、赤ん坊のこうした思い込みは次第に解消され、自分の親を、嫌なところもあればいいところもある「一人の人間」として認識できるようになっていくわけです。

そして、そうやって「破壊」した母親を再生させようという「償い」こそが、その後の人生の営みの原動力となるわけですね。

これは別に、現実に「迫害」してきた養育者を許すとか、そういうことではなく、自らのうちに、人を愛する気持ちをもった自分を育成していくということだと思います。

だから、カウンセラーは、決して自ら攻勢に出てはならない。

「あしたのジョー」でいうノーガード戦法がいい。

打たれても打たれても立ち上げる。

ただし、パンチドランカーになってはならない。

これは、実際には「良い養育者」経験のほとんどない、虐待を受けて育ったクライエントさんと接する上でも有効なのではないかと思います。

行動療法で言う、「エクスポージャー」してもらう、なんていうのも、何かまだ、「上から目線」な気がします。

自分の中の不安や恐怖(外部環境からの被虐感)に直面するということは、実はたいてい場合、自分の 抑圧されていた攻撃性(反撃したい衝動)に直面させるということと表裏一体で、治療者側も「被爆」 を承知でしてもらうことと思いますから。

Ws000241

 

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トロントだより

  • 050601_0957
     The Focusing Instituteの第17回国際大会(2005/5/25-31)の開かれた、カナダ、トロントの北の郊外(といっても100キロはなれてます)、Simcoe湖畔のBarrieという街に隣接するKempenfelt Conference Centreと、帰りに立ち寄ったトロント市内の様子を撮影したものです。

神有月の出雲路2006

  • 20061122150014_1
     11月の勤労感謝の日の連休に、日本フォーカシング協会の「フォーカサーの集い」のために島根県の松江に旅した時の旅行記です。https://focusing.jp/  
    ご存じの方は多いでしょうが、出雲の国には日本全国の神様が11月に全員集合することになってまして、「神無月」と呼ばれるわけですが、島根でだけは、「神有月」ということになります。(後日記:「神無月」は10月でしたよね(^^;A ........旧暦なら11/23前後は10月でせう....ということでお許しを.....)  
    ちょうど紅葉の時期と見事に重なり、車窓も徒歩もひたすら紅葉の山づくしでした。このページの写真は、島根の足立美術館の紅葉の最盛期です。

淡路島縦断の旅

  • 050708_2036
     「フォーカシング国際会議」が、2009年5月12日(火)から5月16日(土)にかけて、5日間、日本で開催されます。
     このフォトアルバムは、その開催候補地の淡路島を、公式に「お忍び視察」した時の旅行記(だったの)です(^^)。
     フォーカシングの関係者の紹介で、会場予定地の淡路島Westinという外資系の超豪華ホテルに格安で泊まる機会が与えられました。しかし根が鉄ちゃんの私は、徳島側から北淡に向かうという、事情をご存知の方なら自家用車なしには絶対やらない過酷なルートをわざわざ選択したのであります。
     大地震でできた野島断層(天然記念物になっています)の震災記念公園(係りの人に敢えてお尋ねしたら、ここは写真撮影自由です)にも謹んで訪問させていただきました。
     震災記念公園からタクシーでわずか10分のところにある「淡路夢舞台」に、県立国際会議場と一体になった施設として、とても日本とは思えない、超ゴージャスな淡路島Westinはあります。

水戸漫遊記

  • 050723_1544
     友人と会うために水戸市を訪問しましたが、例によって鉄ちゃんの私は「スーパーひたち」と「フレッシュひたち」に乗れることそのものを楽しみにしてしまいました(^^;)。
     仕事中の友人と落ち合うまでに時間があったので、水戸市民の憩いの場所、周囲3キロの千破湖(せんばこ)を半周し、黄門様の銅像を仰ぎ見て見て偕楽園、常盤神社に向かい、最後の徳川将軍となる慶喜に至る水戸徳川家の歴史、そして水戸天狗党の反乱に至る歴史を展示した博物館も拝見しました。
     最後は、水戸駅前の「助さん、格さん付」の黄門様です。
     実は御印籠も買ってしまいました。

北海道への旅2005

  • 051012_1214
     日本フォーカシング協会の年に一度の「集い」のために小樽に向かい、戻ってくる過程で、他の参加者が想像だに及ばないルートで旅した時の写真のみです。かなり私の鉄ちゃん根性むき出しです。  表紙写真は、私が気に入った、弘前での夕暮れの岩木山にしました。