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書籍・雑誌

2021年11月28日 (日)

自己愛パーソナリティ障害の人への対処法

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 #自己愛 的な人間は、自分が優れているといううぬぼれの背後に、もし自分が人より劣っていることが露見したら、もう自分はだめだという危機感をかかえています。つまり、弱点も欠点も持ったありのままの自分を愛するということが実は全然できていません。

だから自分が常に成功し、称賛され続けるために膨大なエネルギーを使っているのですが、実際に自分のライバルになりそうな人間が出てくると、平常心ではいられず、妬(ねた)み、できるだけ早い段階で潰そう、蹴落とそうと策略をめぐらします。

#自己愛パーソナリティ 障害的な人には、その人におべっかを使い、その人の権威に預かろうとする、追従者の群れがいます。そういうシンパの連中が、普段はご本人が直接顔を出さなくても、批判する人への嫌がらせとかを代行してくれています。

実はそういう取り巻きの多くも、もしその人物が権勢を失ったら、すぐに離れていくような打算的な人たちなのですが。

世間で業績を上げた人格者だと思われている人の中にも、#自己愛パーソナリティ障害 の人はたくさんいますから、用心してください。
SNSで関わる際には、丁寧な問いかけに、それなりに敬意を持って反応してくれるかどうか、それとも横柄に傷けるような罵声を返してくるかが判断の基準になると思います。

自己愛的な人は、実は非常に傷つきやすくもあるので、むしろ被害者意識すら持ちやすく、容易に感情的に見下す反応を返してきたりします。決して謝るとか、自分の否を認めることはしません。

こちらの問いかけに、何もこたえずスルーしてくるだけなら許すべきでしょうが(そもそもネット上では、相手がスルーしてくるのを悪意とは理解しないのが、うまくやっていくためのコツです)、やたらとブロックをかましてくる人も警戒すべきでしょうね。スルーするなりミュートすればいいはずですから。

#自己愛 的な人は、自分の能力や実績以上の、ユニークな存在であるかのように自分をみせかけようとしています。そういう人たちの表面的な魅力に惑わされ、信者になってしまうと、無理に依存させられ、操縦されるばかりで、ついには捨てられてしまう危険があります。「代わりはいくらでもいる」わけで。

******

・・・と、#自己愛パーソナリティ について連投してみたのは、たまたま今度出す本の原稿で書いていた部分をそのままコピペしたものです。
実は非常にふざけたタイトルの本と思われる危険もあるのですが、このくらいのことは各章で書いています。
さまざまな心の病についての見本市になりそうです。

もちろんそうした人たちを揶揄することが目的ではなく、そうした人達自身への処方箋と、そうした人たちに被害を受けないための具体的対策についての本でもあります。


#SNS の世界をサバイバルし、被害を最小限にするためにも役立つ本になるかも。

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2021年11月24日 (水)

新著刊行についての今後の進捗(1)

明日、幻冬舎からの新著の刊行の正式契約をネットクラウドを通して取り交わします。

まさに今の社会情勢を反映した内容で、状況はあまりにも流動的、「旬」を逃すと明らかに売り上げにも影響するので、このブログへの新規記事を抑制してでも空き時間を執筆に傾倒、1月初めまでには完成原稿を送付できることはほぼ確実です。

内容は、精神分析をはじめとする、これまでの私のカウンセラーとしての知見の集大成と行っていいものになりそうで、現代の家族関係の問題を色濃く反映させたものとなるはずです。

すでに送った原稿は、担当編集者も予想以上の内容だと身を乗り出す感想をしてくれ、自分もそのテーマについていろいろ勉強してみたいと言い出しています。

自分で言うのも何ですが、非常に魅力的な文章と構成だろうと思います。

ただ、大出版社というのは、こういう時にできるだけ緊急出版する決断をするまでにはいろいろあるようで、当初私が想定していたより実際の刊行は遅れ、2022年夏になりそうです。

中学生ぐらいならスラスラと読める、一般の人目線の、誰もが我がことのように感じる、関心をもたれやすい題材と思いますので、是非期待しておいてくださいね。

私のこれまでの著書は以下のとおりです:


2021年11月16日 (火)

このままでは、日本のリベラルは現実社会に影響を行使できないまま、ナショナリスト勢力に敗北する。

今野 元 (著)ドイツ・ナショナリズム-「普遍」対「固有」の二千年史(中公新書)を読んで感じたことなんですが。
←私のレビューも載っています。

今野氏は、この著作の中で、戦後のドイツの歴史をとらえる上で「道徳の鉄槌」という言葉を繰り返し使っている。

最初は、第二次世界大戦終結後のニュルンベルク軍事裁判について。連合軍の「正義」の名のもとに審理がなされたという点について。

次に、その後のドイツ思想界における、過去の反省に基づくドイツ史全否定「ドイツ後進国」論を自らしていく潮流に関して。

そして、緑の党の躍進による環境主義の台頭について。

最後にフェミニズムの台頭について。

今野氏は明らかにノスタルジーに基づく過去復権論者でも保守主義者でもないにもかかわらず、こうした流れがグローバリズム的「普遍」主義に基づく価値観の押しつけという側面を持つことについて注意を喚起している。

むしろ非常に醒めたリベラリスト、個人主義者という印象である。

思うに、日本における左派リベラルの流れも、無自覚的に、西欧の「進歩的」価値観を受け入れてしまっている。

これでは、イスラム圏や中国との関係における多文化主義、体制の共存と対話という観点からしても、非常に硬直した、自分の立場からの、価値観と道徳の押し売りになる可能性があると思う。

そして、日本における国家主義の台頭に対しても、実は簡単な問題ではなく、自分のリベラル的な立場の対象化自己点検を経ての、用意周到な方略がないと、SNS上での叫びにはなっても、一般の人々の投票行動に結びつくアピールにはなり得ないのではなかろうか。

眞子さん複雑性PTSD診断「公表」問題をめぐっての議論も、この診断を受けた当事者に対して偏見が生じることについての当事者への連帯という意見が全くに近く見られず、ただ素朴な皇室への同情か、ゴシップ的な上げ足を取る中傷かにリベラル勢力すら大勢を占めた現実なども省みるにつけ、暗澹たる思いである。

差別の問題についても、単に優生思想を批判するだけでは、ホンネの次元に踏み込む形での、内なる「排除」意識との対峙に結びつかないと思う。

2021年11月13日 (土)

今野 元 (著) ドイツ・ナショナリズム-「普遍」対「固有」の二千年史 書評

トイトブルクの戦いからメルケル引退まで網羅しているにもかかわらず、もう、学習指導要領的ドイツ史観を見事に洗い直してしまって、最新の筆者の知見を紹介しているという、密度が高い本です。

そもそも従来の歴史用語(地名から党名まで)、全部みなおしてる。

エステルライヒ、シュヴァルツ、ベートホーフェンなんて序の口。

フランス革命なんて完全に相対化。

ローマ帝国(断じて「神聖」を頭につけない)は、ドイツナショナリズムの萌芽ではあるが実はヨーロッパの「普遍国家」志向、時代は下ってアメリカもソ連も「普遍国家」をめざした点では同列と。

メッテルニヒは反動主義者ではない、3B政策など存在しなかったとか。ゲーテがいかに後世、政治的に持ち上げられ、利用されていったかとか。

私はドイツナショナリズムがナポレオン戦争ではじめて顕在化したと思っていたのですが、はるかに遡れることについての文献的解説もあります。

マックス・ウェーバーの立ち位置についても、ちょうどウェーバー読んだばかりだからおもしろかったです。リベラリストとしての面よりナショナリストとしての面が強調されている。

ナチス(これまた意地になってNSDAPとしか呼ばない)時代については意外とあっさりしてます。

世界史ではほとんど全く教えない、戦後1960年代までの東西ドイツがそれぞれいかに屈折したサバイバルし、路線転換して復活していくかについてむやみとくわしいです(本書の後ろ半分を割いてる)。

ハーバーマスやマイネッケ、ドイツ歴代首相政権の位置づけもおもしろい(これまた見事に醒めた見方でもあるんですが)。

今wikipediaで調べたら、著者は、ウェーバーが特に専門みたいですが、とてもそんな枠ではでは捉えきれない学者みたいに思います。ドイツ史全体の新鮮な俯瞰能力が半端ではない気がします。

1972年生まれ。2021年フィリップ・フランツ・フォン・ジーボルト賞受賞。

ほんとに油に乗っている人なのだと思いますが。


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2021年11月 7日 (日)

フォーカシング技法と、その背景にある体験過程理論の、5分で読める解説

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これから、私の拠って立つ流派、#フォーカシング 技法についての紹介をはじめます。

一番わかりやすい、しかも薄い本は、私自身のものだと思います。電子書籍版もありますので。


続いて、私自身のライブ映像。横浜で開業した20年ぐらい前のもので、恥ずかしくもありますが。


#フォーカシング は、#クライエント中心療法 の生みの親、#ロジャーズ の直弟子である #ジェンドリン (2,3年前亡くなったばかり。実際お話したのは一回だけですが)の開発した、心の中に生じる、言葉にならない漠然としたモヤモヤ(#フェルトセンス といいます)に少しずつ注意を向け、解明する技法。

#フェルトセンス とは、静かに注意を向けると身体に感じられてくる未分化で曖昧な「感じ」そのもののことで、身体症状や激しい情動とは少し違います。私たちは、フェルトセンスを「直接」対象化し、注意を向け、虚心に味わうことを、日常の中ではしないままのことが多いです。

私達は、生じてくる身体からの訴えに、性急に言葉を押し付けたり、振り払ったり、ごまかしたりしながら日常を送っているのが通例です。
そこに敢えて立ち止まって、少し間合いをおいてじっくり眺めてみるのが、#フォーカシング の基礎です(ここまで習慣化してできるようになれば、それだけで十分)。

私達は、自分の中から生じてくる訴えに対して、すぐに「お説教」をはじめることが多い。

「そんなの気のせいだ」
「そんなの、努力が足りないからだ」
「我慢しろ」
「そいういうのは他人に出してはいけない」


などと。

そういうのを #ジェンドリン は、「内なる批評家(inner critic)」と呼びます。


そうした声には、一定の役割があり、もっともなところもあるのかもしれませんが、いつもそうした訴えが自分の中から生じるたびに同じ反応をして、堂々巡りをしていることが多いものです。

こうした堂々巡りは、#認知行動療法 でいう、#スキーマ (信念体系)という概念と、大変似ています。しかし、認知行動療法では、これをより合理的な思考に置き換えようとするのに対して、#フォーカシング は、そうしたモヤモヤそのものから、心身の解放と共に、新鮮な洞察が生まれることをめざします。

ではジェンドリン自身の一般向けの本へのリンク。


私はこの本で「世界が変わって」しまいました。


でも、#ジェンドリン 自身の本より、私の海外の師である、アン・ワイザー・コーネル女史の本の方が、コミカルなイラスト入りで、わかりやすいかもしれない。

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アンさんのWebsite。

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#ジェンドリン の #フォーカシング 技法の背景にあるのは、「人はどういう時に変化するのか」「流派を問わず、カウンセリングがうまく進む時には何が生じているのか」についての「体験過程理論」という革命的な理論があります。その論文がこちら


「#体験過程 理論」もできる範囲で簡単に解説します。

従来の心理療法(フロイトとかユングとか)の心の図式には「#意識」と「#無意識」というものがあった。そして無意識下に #抑圧 されているものを「おもてに出す」ことができるようになり、「洞察」を得ることで心身の再統合がなされると考えていた。

しかしこれらの古典的 #力動心理学 のパラダイムにはひとつの前提があった。


それは、心のなかに、あたかも「もの(entity)」のように、心の「内容(content)」が存在していて、それを「無意識」から「意識」へと移動させれば解決する、という図式である(「内容モデル」「抑圧モデル」)。

これに対して #ジェンドリン は #ハイデガー や #デュルタイ の哲学、#現象学 を援用して、「過程モデル」を考案。
人がまず #体験 するのは、非言語的な曖昧な「感じ」そのもの。これを「暗黙の意味(implicit meaning)」と呼ぶ。
これに直接注意を向け、参照することをdirect referenceと名付ける。

この「暗黙の意味」は、複雑な分析不能な細部を無限に持ち、特定の「内容(content)」の還元できない、それを超えたものである。
この、感じられた「暗黙の意味」に直接「持続的に」注意を向ける(direct reference)ことをしていると、そこに、自然発生的に、「ひらけ(unfolding)」と呼ばれる現象が。

こうした「暗黙の意味」への直接的注意から生じる「ひらけ」→「明示的な意味」の表出→「感じ」そのものの変化→その「感じ」の「暗黙の意味」への再度の直接的注意、という循環運動のことを、「#体験過程(experiencing)」と #ジェンドリン は名付けた。

*****

以上です。

もっと早くこういうエントリー、あげとくべきでしたね。

 

2021年10月21日 (木)

無意識的にミスを繰り返すということ・・・フロイトの言う「失錯行為」

実は、ブログの代表的コンテンツをnoteにとりあえず移植し終えたことを報告する、直前の新しいエントリーをアップしようとした時、せっかく原稿が完成され、コントロールパネルから発信しようとしたその瞬間、私がその機能を自覚してすらいない、マウスのサイドボタンを指が弾き、画面が消滅するということを、何と5回繰り返しました。

どれだけ「冷静になれ」と自分に言い聞かせてもそうなるのには正直いって驚きました。

エディタで原稿は下書きして、保存していたから事なきを得ましたが、つくづく思ったのは、人間、ストレス状況下(私にとってはネットのフロントをプログからnoteに変えてしまうのは、生計を含めた、今後の人生において死活問題の分岐点です)では、ほんとうに「無意識」というものが、自分の意図に対する対抗する、もう1人の「主体」として猛威をふるって、自分の変化や成長に抵抗する、(解離まではしていませんが)「第2人格」が立ちあらわれるということ。

いわゆる「超自我」による禁制と呼ばれるものです。

フロイトが、初期に書いた超古典、「精神分析入門」で無意識的「失錯行為」の意味を取り上げて久しいですが、これゆえ人生岐路上の最悪の事態に陥った方は少なくないはずです。

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フロイトを馬鹿にしたら、取り返しのつかない事態にこれからの人生で陥るかも知れませんよ。

「精神分析入門」は、全然小難しいことは書かれておらず、人々の日常に密着した例でしか書かれていませんから、まだお読みではない方は、精神分析への偏見を持たれないためにも、是非オススメします。

2021年10月20日 (水)

noteで9つのマガジンはじめました。

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どうかご購読のほどを。

2021年10月16日 (土)

このまる1日にnoteにアップした新記事の一覧

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こうしてまとめてみると、いわゆる左派リベラルのいう「差別はよくない」「多様性の尊重」という論調の底の浅さに違和感を覚えるのは今にはじまったものではないと感じます。

やまゆり園事件の時からなんですね。

 

 

2021年10月15日 (金)

日本に必要なのは空虚な「反権力」ではなく、本当の敵「反空気」である (note 佐々木俊尚の未来地図レポート vol.674)

有料note記事なので、前半の無料部分から抜粋します:

==============引用はじめ================

前世紀感覚の人はすぐに「権力が暴走する」「権力の乱用に歯止めをかけなければ」といったスローガンを言いたがります。しかしこの「権力の暴走」って、いったい何を指して言っているのでしょうか?

「権力の暴走」を言う人の根っ子にあるのは、たいていの場合は太平洋戦争でしょう。「軍部が暴走して無意味な戦争を引き起こした」みたいなステレオタイプな説明は、そこらじゅうに溢れてますからね。

しかしこの「軍部の暴走」って本当でしょうか?

ひとつわかりやすい例を。伊丹十三さんのお父さんで、同じく映画監督だった伊丹万作が終戦の翌年に書いた有名な文章を引用しましょう。

「みんな、今度の戦争でだまされたと言ってる。みんなが口をそろえてる。でも私の知ってる限り、『おれがだました』って言ってる人はひとりもいないな」

全文は青空文庫で読めます。

●伊丹万作 戦争責任者の問題
www.aozora.gr.jp

終戦時、急にみんなが「だまされた!」と言い出したのには、実は理由があります。終戦の年の暮れに出版された『旋風二十年 解禁昭和裏面史』というベストセラーがネタ元なのです。

『旋風二十年』は、戦中に軍部を取材していた毎日新聞の記者たちが「暴露」したという体裁で、満州事変から日中戦争、開戦前の日米交渉、真珠湾攻撃にいたるまで、すべてが軍部の陰謀だったと決めつけています。しかしいくらなんでも、毎日新聞をはじめとした新聞メディアがあり、国民の世論もある中で、すべてを無視して軍部が戦争を始めたという言い分は無理があるでしょう。

それなのに、みんなこの適当な説明に納得してしまった。その証拠にこの本、紙不足の終戦直後なのになんと70万部も売れたそうです。

日本の終戦期の混乱を描いてピューリッツァ賞を受賞した『敗北を抱きしめて』(岩波書店、2001年)という名著があります。

著者はジョン・ダワーというアメリカの歴史学者ですが、ダワーは『旋風二十年』をこき下ろしています。

「それは、深い考察などに煩わされない、じつに屈託のないアプローチを取っていた。日本の侵略行為の本質や、他民族の犠牲などを白日のもとにさらすことにも、広く『戦争責任』の問題を探ることにも、とくに関心はなかった。既存の資料や、これまで発表されなかった個人的知識だけを主たる材料に、こういう即席の『暴露本』が書けるという事実からは、今自分たちが正義面で糾弾している戦争にメディアが加担していたことについて真剣な自己反省が生まれることはなかった」

痛烈ですね。新聞は自分たちが戦争を煽ったことをすっかり忘れて、軍部にすべての責任を押しつけてると指摘したのです。「正義面で糾弾」ってまさに……最近のさまざまなメディア報道でもよくみる光景じゃないですか。

そして新聞に煽られて、国民も戦争に熱狂しました。真珠湾攻撃で戦争が始まったとき、人々はどう感じていたのでしょうか。例を挙げましょう。中国文学研究者の竹内好はこう言っています。

「歴史は作られた。世界は一夜にして変貌した。われらは目のあたりそれを見た。感動にうちふるえながら、虹のように流れる一すじの光芒のゆくえを見守った」

作家の伊藤整は日記にこう書いています。

「大東亜戦争直前の重っ苦しさもなくなっている。実にこの戦争はいい、明るい」

いまならどちらも「ネトウヨ」扱いされて、大炎上していることでしょう。でもこういう感覚が、当時の国民一般で共有されていたのは容易に想像できます。

現代日本の戦争映画を見ると、最初から終わりまでずっと反戦思想を持っていて「オレはこの戦争には反対だったんだ……」と独白する主人公がよく描かれていますが、そんな人は現実にはほとんどいなかったでしょう(戦争終盤の悲惨な時期にはそう思うようになった人はたくさんいたとは思いますが)。

しかし日本はあっけなく大敗しました。新聞も国民も自分たちが熱狂したことはすっかり忘れて、誰かに責任を押しつけたくなった。そこに『旋風二十年』というちょうど良いタイミングの本が現れて、軍部に責任をなすりつけることにしたのです。

そうして「私たちはだまされていた」「私たちはずっと戦争には反対だったのに、みんな軍が悪い」という思い込みだけが膨れ上がって、戦後の日本映画の「オレはずっと戦争には反対だったんだ……」という幻想のセリフを生産し続けたということなのです。

では、戦争の責任は本当はだれにあったのでしょうか? 枢軸国のお仲間だったドイツやイタリアなら、「それはヒトラーとナチスのせい」「ムッソリーニのせい」と判断できるでしょう。じゃあ日本でも「それは東条英機のせい」と言えるかというと、そうではありません。

名著『失敗の本質』の著書のひとり戸部良一さんは、『自壊の病理―日本陸軍の組織分析』という最近の本で東条英機がどのようなリーダーだったのかをくわしく分析しています。

東条英機は太平洋戦争で総理大臣と陸軍大臣、それに陸軍の参謀総長と三つも兼任していたので、すべてをにぎった独裁者のように思われがちですが、実態はまったくそうではなかった。

戦前の日本には「統帥権の独立」というものがありました。統帥権というのは軍をコントロールする力のことで、これを持っているのは軍だけ。総理大臣や内閣は口出ししちゃいけない、という理念というかルールです。太平洋戦争で軍がどのような作戦をやろうと、それには内閣はまったく口出しできなかったのです。

さらにややこしいのが、当時の日本軍にもさらにふたつの系統があったということ。ひとつは作戦を練って軍隊を動かす陸軍参謀本部と海軍の軍令部。これをあわせて統帥部と呼ばれました。もうひとつは、軍隊の維持管理や給料の支払いなど行政の部分をになう陸軍省と海軍省。これは「軍政」と呼ばれます。

つまり戦争中の日本には、内閣と統帥部、軍政という三つのパワーがあって、それぞれが勝手に動いていました。単純化すると、そういうイメージだったのです(正確には陸軍と海軍はまた別なので、さらにややこしくなる)。

そして東条英機は、内閣・統帥部・軍政のすべてのトップに立っていました。「じゃあやっぱり独裁者じゃないか!」と思われるかもしれませんが、戸部さんによると、実はそうではなかった。

東条は、内閣と軍を自分自身の中でも「けじめ」をつけてきっちり分けて、仕事しようとしました。いつもは首相官邸にいるけれど、陸軍の仕事をするときは陸相官邸に移って、そちらで仕事した。権力を自分に集中させるのではなく、二つのポストをたくみに使い分けることにたいへんな努力をかたむけたのです。このやりかたを戸部さんは「生真面目ではあったが、きわめて官僚的な方式であった」と説明しています。

さらに陸軍と海軍、軍政と統帥部のあいだでもめごとがあったりした場合には、自分が判断して決定するのじゃなくて、ひたすら現場の調整にまかせていました。自分自身はなるべくリーダーシップをとらないほうがいい、というのが基本的な考えだったようです。

「陸海軍を分裂させるかもしれないほど重大な問題ならば、トップの指導者たる自分が直接決定し、分裂を抑え、部下にその決定の実行を命じただろう。だが、東條には、そうした発想はなかった。厳しい対立を招きかねない問題は、部下による調整に委ねようとした。自らの決定を押しつけて軋轢を生じさせることは、できるだけ避けようとしたのである」

まことに日本的な、調整型リーダーですね。いわゆる「独裁者」とはかけ離れた実像だったことがわかります。戸部さんは、ガダルカナル撤退をめぐるこんなエピソードも紹介しています。ガダルカナルはよく知られているように、日本の守備隊がアメリカ軍の猛烈な攻撃を受け、包囲されたまま多くが餓死して凄惨な戦場となりました。

(中略)

日本人はいまも、強いリーダーシップに拒否感を抱く人が非常に多く、たとえば首相などが少しでも強い行動に出ると、すぐに「権力の暴走だ」「横暴だ」と騒ぎ出します。テレビや新聞の報道なんてまさにそういうものばかりです。そういう人たちやメディアは「反権力」を標榜していることが多いのですが、その「権力」っていったい何なのか?を問い直す作業が必要だと思います。これもまさに、20世紀の神話でしかないということなのです。

実のところ日本に必要なのは、反権力ではなく「反空気」ではないでしょうか。空気は勝手にさまざまな決定をし、しかし生身の人間ではないから、なんの責任もとらず雲や霧のようにあっという間にどこかに消えて行ってしまう。まさに雲散霧消です。

一連のコロナ禍でも、自民党政権はロックダウンなどの私権制限に踏み込んだ強い政策はとりませんでした。「強権政治」「権力の横暴」と批判されて支持率を落とすのを恐れたのかもしれません。しかしそのように強いリーダーシップがとられなかった一方で、「自粛」の名のもとに飲食店や観光業が大量倒産に追いやられ、しかもそれらは誰のリーダーシップによって判断されたのでもなく、ただ「空気」の抑圧があっただけだったのではないでしょうか。

コロナ禍を振り返れば、日本のおける「空気」とリーダーシップの不在は、太平洋戦争から今にいたるまでずっと続いているのだということを改めて感じます。今こそ「反空気」の旗を振っていくことが必要なのではないでしょうか。

「反権力」とスローガンを叫ぶことが政治ではないのです。そういう前世紀の古い概念は、早く終わらせましょう。

=============引用終わり==============

 

2021年10月14日 (木)

マックス・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の超解説

「職業としての政治」「職業としての学問」に続いて、ドイツの社会学者、マックス・ウェーバーの話題に戻ります。

「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の訳者の大塚久雄先生の詳しく長い解題を読んでみたのですが、わかりやすく、かなり流れが掴めた感じです。

利潤を否定する禁欲的ピューリタニズムのエートス(「倫理(ethics)」というより、社会が共有する「倫理的雰囲気」、というのに納得)が、利益追求のヨーロッパ型「近代」資本主義を生み出したという「逆説」的問題提起こそこのウエーバーの著作のキモである・・と。

中世からのカトリック世界自体は、教会の権威に服すれば、あとはさほど禁欲を求めてはおらず、一部修道会の「内部」における倫理規範の厳守に過ぎなかった。

それを転換したのがルターの聖書ドイツ語訳の際に浮かび上がった"Beluf"という鍵概念。大塚氏以前の訳では単に「職業」と訳したが、大塚氏は新訳で「天職」と意訳。

ドイツ語の"Beluf"自体は日常語もいいところで、"profession"や"work"にあたるわけですが、確かにこれは聖書的には、通常「天命」と訳されると思います。

神様に命じられた使命をひたすらに果たすということになり、見返りを求めず職務への純粋な努力の傾注となるわけです。

これが修道院を超えて、一般社会での職業倫理となるのは、カルヴァン派の浸透した地域で、これがイギリスに渡りピューリタンとなる。これはブルジョアジーのみならず、労働者も共有する労働規範である。

この"Beluf"に基づく「行動的禁欲」による職務遂行は、「結果的に」多くの利益を生み出す。しかしカルヴァン派の資本家は浪費をしないので、それは新たな事業の開拓や投資活動へという拡大循環を生み出す。

時代を経るにつれて、この「倫理観」の方は形骸化し、労働と経済活動の遂行のみが残った時、利潤追求型の「近代」資本主義は肥大化していく。

ところが、この結果、ブルジョアジーも労働者も、職務に専心するというより、いわば「楽して稼ぐ」ことを目指すようになり、ここにマルクスの言う意味での資本家によるプロレタリアートの搾取の構造の基盤が築かれる。

******

・・・本編を読んでもいないのに言うのもなんですが、何とわかりやすいんだ!!というところ。

ウェーバーの時代にはまだ完全に確立していませんでしたが、ここに更に、商品を植民地に売るという経済構造が、国内のブルジョアジーのみならすプロレタリアートを主要な消費者として対象とする現代消費社会と高福祉社会に突入する中で、当初は「イギリス病」ともいわれた職務怠慢主義の跋扈と経済の停滞となるわけですね。

あっさり要約できた(つもり)。

遠からず、ウエーバー自身の本文にもチャレンジしますが。

******

大塚久雄先生は、本来イギリス近代経済史が専門で、「大塚学」と呼ばれる、マルクスとウェーバーの社会学の解釈で権威とのこと。

大塚先生の「社会科学の方法」も発掘。

一般向けの講演記録の新書版というには高度な内容で、何とか内容についていける感じです。

この新書のほうは、ウェーバー自体というより「大塚史観」の凝縮でしょうから、ブログではレビューは書きませんが、「社会学」が学問としてどうして成立可能かという主旨の本ですので、チャンレンジされてみるのもいいかと思います。

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トロントだより

  • 050601_0957
     The Focusing Instituteの第17回国際大会(2005/5/25-31)の開かれた、カナダ、トロントの北の郊外(といっても100キロはなれてます)、Simcoe湖畔のBarrieという街に隣接するKempenfelt Conference Centreと、帰りに立ち寄ったトロント市内の様子を撮影したものです。

神有月の出雲路2006

  • 20061122150014_1
     11月の勤労感謝の日の連休に、日本フォーカシング協会の「フォーカサーの集い」のために島根県の松江に旅した時の旅行記です。https://focusing.jp/  
    ご存じの方は多いでしょうが、出雲の国には日本全国の神様が11月に全員集合することになってまして、「神無月」と呼ばれるわけですが、島根でだけは、「神有月」ということになります。(後日記:「神無月」は10月でしたよね(^^;A ........旧暦なら11/23前後は10月でせう....ということでお許しを.....)  
    ちょうど紅葉の時期と見事に重なり、車窓も徒歩もひたすら紅葉の山づくしでした。このページの写真は、島根の足立美術館の紅葉の最盛期です。

淡路島縦断の旅

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     「フォーカシング国際会議」が、2009年5月12日(火)から5月16日(土)にかけて、5日間、日本で開催されます。
     このフォトアルバムは、その開催候補地の淡路島を、公式に「お忍び視察」した時の旅行記(だったの)です(^^)。
     フォーカシングの関係者の紹介で、会場予定地の淡路島Westinという外資系の超豪華ホテルに格安で泊まる機会が与えられました。しかし根が鉄ちゃんの私は、徳島側から北淡に向かうという、事情をご存知の方なら自家用車なしには絶対やらない過酷なルートをわざわざ選択したのであります。
     大地震でできた野島断層(天然記念物になっています)の震災記念公園(係りの人に敢えてお尋ねしたら、ここは写真撮影自由です)にも謹んで訪問させていただきました。
     震災記念公園からタクシーでわずか10分のところにある「淡路夢舞台」に、県立国際会議場と一体になった施設として、とても日本とは思えない、超ゴージャスな淡路島Westinはあります。

水戸漫遊記

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     友人と会うために水戸市を訪問しましたが、例によって鉄ちゃんの私は「スーパーひたち」と「フレッシュひたち」に乗れることそのものを楽しみにしてしまいました(^^;)。
     仕事中の友人と落ち合うまでに時間があったので、水戸市民の憩いの場所、周囲3キロの千破湖(せんばこ)を半周し、黄門様の銅像を仰ぎ見て見て偕楽園、常盤神社に向かい、最後の徳川将軍となる慶喜に至る水戸徳川家の歴史、そして水戸天狗党の反乱に至る歴史を展示した博物館も拝見しました。
     最後は、水戸駅前の「助さん、格さん付」の黄門様です。
     実は御印籠も買ってしまいました。

北海道への旅2005

  • 051012_1214
     日本フォーカシング協会の年に一度の「集い」のために小樽に向かい、戻ってくる過程で、他の参加者が想像だに及ばないルートで旅した時の写真のみです。かなり私の鉄ちゃん根性むき出しです。  表紙写真は、私が気に入った、弘前での夕暮れの岩木山にしました。