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学問・資格

2022年1月26日 (水)

何のかのといって、なぜ私は結構健全に育ってきたのだろう?

私自身が若い頃、女性への劣等感のかたまりの「弱者男性」そのものだったから思うのだが、男って、結構、一回風俗ではない女性と関係を持てたら、相手がそこそこいい人である限り、非常にあっさりと性的劣等感の壁は超え、それ相応のスキルも急速に身につくことも多いのでは?

私の経験では、いっぱい実際告白していっぱい振られてみると、女性がどういう心境で生きているのかについての経験値が増えて、どういうふうに交際していかないとその先に行けないのかにも気づいていった。どれだけふられようが自己肯定感が揺るがなかったのは、自分の仕事への自負があったからだと思う。

おたく趣味持ってる人が性的に奥手であると決めつけるのも全くの偏見で、深い交際できて幸せな人はいくらでもいると思っている。

今でもいろいろと未熟で、不勉強で、決して幅広い人たちに満足していただけてきたカウンセラーとは思わないし、実際反省するようなことばかり重ねてきたし、過去の事例記録を読み返したりしたら目も当てられないとは思っているが、それでも自己肯定感は揺るがないできたのはなぜだろう?

私にとっては「うらやましい」は若い頃から「魔法の言葉」だった。

これは誰に教わったわけではない。

「自己嫌悪」とは「ねたましい」の「抑圧」された形であり、「ねたましい」は「うらやましい」のこれまた「抑圧」された形であると、ある時突如洞察したのである。

自分より現場臨床の力があるなと言う人に接したら、自己嫌悪するというより、「うらやましい」と思い、どう技量を「盗んで」やろうかと思うタイプだった。

20代までは、対人恐怖症そのもので劣等感の塊だったと思うが、自分の(専門を含む)おたく性には妙に自負があった。そこに、非常に寛容で受容的なカウンセラー仲間や先輩方に受け入れてくださってきたのも支えとなった。今振り返れば私の生意気なところによくあれだけつきあってくださったと感謝している。

変に権威主義的で、自分のプライドを守るために人をおとしめるようなことがなく、攻撃的でもない、腰の低い、謙虚な先輩方に恵まれてきたのも幸いだったと思う。

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2022年1月24日 (月)

キリストの受難(passion)を我が身で感じることとカウンセリングの「共感」的理解 -インタラクティヴ・フォーカシング-

たまたまTwitterで、

 

ロジャーズの論においてなぜ受容が難しいか?というのは痛みを拒否しているからだと思う。痛みを感じずに受容しようとするからこねくり回す。受容とは痛みを感じ、その痛みを通して相手を理解すること、そのものだと思う

 

受容が難しい理由をアレコレ考えていたけど、キリスト教的視点に戻ったとき、そう思った。

 

というご意見を目にしたので、

 

"suffering"を"com-passion"する、という言葉が思い浮かびました。私なりの聖書的理解ですが。

 

とお返しした。

 

私はクリスチャンではないか、すでに別の記事でも書いたように、中学時代から、スイスの宗教的著述家、カール・ヒルティの「幸福論」「眠られぬ夜のために」をはじめとする著作に傾倒してた時期があるし、高校もプロテスタントのミッション系である。聖書には英訳を含めて親しんできた。

"suffer"とは「被る」という意味であるが、キリスト教的には、イエス・キリストの十字架に至る苦しみの「受難」を指すことになる。

キリストの「受難」とは英語で"passion"である。バッハの「マタイ受難曲」が"Matthäus-Passion"であることをご存知の方もあるだろう。

更に哲学の分野では、デカルトが「情念論(仏: Les Passions de l'âme、英: The Passions of the Soul)」という本を書いているが、精神の働きに能動(意志)と受動というものがあり、「情念(Passions)」というものが、(わかりやすく言えば)環境から末梢神経を通しての脳への刺激として「受身的(passive)」に生じるという考えを述べている。

話をキリスト教に戻すと、14世紀のイタリアではペストの流行によって社会不安が蔓延し、ドミニコ会修道士の指導のもと鞭で体を打つことで功徳を得ようとする「鞭打ち苦行団」が組織された。

これは、キリストが身体に受けた傷を、自分も受けることで追体験し、贖罪を得ようとするものである。

この苦行は、映画「ダ・ヴィンチ・コード」でも描かれたので、ご存知の方もあるだろう。

このような苦行は極端なものであるとしても、キリスト教において、イエスが心身に受けた苦悩を偲ぶことが、自らの苦悩の癒やしとする考えがひろくみられることは確かだろう。

さて、来談者中心療法の祖であるカール・ロジャーズのいう「共感的(正確には、感情移入的="empathic")理解というのは、あくまでも、「あたかも(as if)その人の感じている「かのように」感じてみるということです。

この"empathy"に対して、私も指導を受けたフォーカシング教師、ジャネット・クラインは、"compassion"という態度があると主張し、区別しました。

フォーカシングにおいては、自分の感情や悩みを「身体の内側の非言語的な感じ」それ自体(フェルトセンス)として直接注意を向け、感じてみるという態度を取るわけです。

これをフォーカシングを学んだカウンセラーの場合で言えば、クライエントさんの言語的・非言語的メッセージを、カウンセラー自身が、自分の身体の内側の感じとして、言わば「疑似体験」しようとすることになります。

まさに、身体の感じを通しての「痛み-の-共有(com-passion)」をしようとする姿勢ということになります。

もとより、あくまでも「疑似体験」ですが、自分がかつて感じたこころの「痛み」を、身体を通して追体験しようとする姿勢です。

もちろん、身体症状化した人の痛み「それ自体」とか、肉体的虐待を受けた人の痛み「それ自体」は感受できないでしょうが、そこで感じた苦しみの感情に対する、身体次元で波長を合わせての想像力というものは、限界があっても持つことはできるかと思います。

クラインは"empathy"で接する時と"compassion"で接する時を、はっきり別の段取りとして区別します。

前者では、あくまでもクライエントさんの感じている「であろう」認知枠に忠実であろうとし、後者ではカウンセラー自身の体験と身体感覚次元で共鳴させてしまうことを求めるわけです。

このふたつは混同されてはならず、今からするのはempathicな応答である、それに対して今度はcompassionとしての応答であるとはっきり示してしまいます。

compassionとしての応答は、カウンセラー自身が自分の体験と重ね合わせていますので、当然「思い込み」の要素があります。
ですから、あくまでも「私は」こう感じた、と、そっと差し出す姿勢が重要で、クライントさんにそれを「修正」してもらい、それを再び受容的に傾聴することになります。

ところが、このような相互作用を丁寧に進めると、クライエントさんは、自分が感じていた以上の新鮮なことを感じられるようになるという、促進的な作用をすることが少なくないです。

それどころか、クラインは、この後の手続きとして、ここまで進めた結果、「カウンセラーが」とのような「感じ」でいるのかについて、クライエントさんに「感情移入」して感じてもらい、言葉にしてもらう、という、相互的(インタラクティヴ)なやりとりの往復として行うことを定式化しました。

このことを繰り返すと、カウンセラーとクライエントさんの間に、非常に深い信頼関係と「絆」が形成されます。

これを、カウンセリング場面に限定せず、パートナーや親子などに、役割を交代しながら日常の中でもやってもらえるように「コーチ」する、というのが、クラインのめざしたスタイルです。

興味をお持ちの方は、ジャネット・クラインの「インタラクティブ・フォーカシング・セラピー」をお読みください。

なお、以下にリンクしたAmazonのレビューに、私自身の更に詳しい解説っがあります(3つしかないのでどれが私のレビューか、すぐわかるでしょう。やたらと長大なの)。

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2022年1月23日 (日)

北山修「幻滅論」からの連想

「無意識」というものを他の人が「言い当てる」ことは不可能だと思う。そうした「言い当て」はすべてそれを言う人の「投影」だろう 。本人が漠然と感じている「感じそれ自体」をその人自身が感受して行き、言葉になったことだけが、その人の無意識「だった」ということになるだけだ。

他人に気持ちを「察して」もらわないと相互作用が成り立たないなのは、ある意味では赤ん坊だけだと思う。幼児になれば、大人との言葉「も」介したコミュニケーションの中にあり、子供からの自発的・言語的訴えを大人が「引き出す」コミュニケーションを主導する形になっていくのだと思う。

成人になってくれば、相手に自分の気持ちを「理解させようとする」言語スキルを磨くことになってくる。そのためには自分で自分の気持ちを「理解」し言語化できる前提がある。 もとより、そのスキルを磨いてもらうための援助をする他の人間は必要であり、自己責任に帰することはできない。

非常に個人主義的で、日本的「察し」の文化ではない理想論かもしれないが、原則的にはそう思う。

ネットのような、表情や身体の態勢、息遣い、声の調子、臭いなどの非言語的なもの(仮に画像があっても3Dではなく、presence=臨在性が低い)が伝達されない媒体を通してのコミュニケーションというのは、よほど用心しないと、行き違いだらけになるのも宿命かと思う。

「臭い」なんて、極端なこといいますけど、コロンを変えたなとかもあるし、フェロモン(性的な意味だけではなく)同士の原始的相互作用というのだって、動物ではない人間にも多大に実はあると思います(臭いについては、中井久夫先生も触れている文献があります)。

私は、カウンセラーとは、クライエントさんが「自分なりの新鮮な」言葉(それはカウンセラーにとっても全く新鮮なものでものであることも多い)で自己理解をしていくのを「援助」する存在でしかなくて、クライエントさんの気持ちを「言い当てる」ことへの欲望を持つべきではないと考える。「偶然」当たることはあっても。

人が「悲しい」と言っている「悲しい」も100人いれば100通りの「悲しい」であり、それを「その人が」心身でどのような「質感」で感じてる事象であるかは本人にしかわからないと思う。そのことの「尊厳」は守った上で「共感しようとしてみる」のだ。

 

ひょっとしたら「理解しあえた」というのは「理解したつもり」と「わかってもらえたつもり」という双方の「幻想(錯覚)」がたまたま一致しているだけかもしれない。「あの時同じ花を見て美しいと言った二人」の心が通い合っているのかどうか?

・・これ、作詞者の北山修先生が問題提起したことですよ。

興味がある人は、北山先生自身の「幻滅論」読んでみてください。

ここでいう「幻滅」とは精神分析家、メラニー・クラインのいう"disillusion"(脱錯覚)のことであり、否定的な意味ではありません。

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2022年1月17日 (月)

カウンセラーは、自分の欠点について絶えず気づき続ける訓練は受けてはいるが、決して完成された「人格者」ではない。

何回か書いてきたが、心理カウンセラーというだけで何か「人格者」であるかのように思い込む誘惑にはカウンセラー自身も敏感であるべきだが、同時にカウンセラーであるというだけで「人格者」であるかのように想定され、言葉尻を取って攻撃されることは、仕方ないとは言え、結構迷惑でもある。

カウンセラー自身は、いくら専門的修練を受け、自分の心理的欠点に一般の人より敏感であるようになっている(そうでなければさすがにヤブだ)とはいえ、面接場面という「枠」を離れてまで、自分の欠点や弱みを露出しないでいられるほどの存在ではない。

現実的にみると、カウンセラーという人種は、生育歴的にみても問題を抱え、現在の対人関係や家族関係でも悩み深き存在であることが少なくないと思う。現実適応能力も、「カウンセラー」という枠を外すと、弱いくらいで、カウンセラーしかできないカウンセラーしているというのに近いケースも多かろう。

これは精神科医の場合も言えることで、他科ではとてもやっていけないから精神科に流れついたような。

もっとも、最近のように、社会人入学の人が増えている現状では、他の職業でも立派にやっていけるケースも増えていると思う。

更に、心理カウンセラーも、産業界とか、他業種との連携が必要なことも増えているから、必然的に社会性が磨かれる機会も増えていると思う。

ただし。実は、そのような、不適応者と紙一重の面を持ち、そうした自分への「自己治癒」を不断に続けなばならない存在であるということが、クライエントさんのセラピーの効果にもつながるという側面もある。 クッゲンビュール=クレイヴ著「心理療法の光と影 -援助的専門家の「力」-(創元社)を詳しくは参照。

特にユング派の専門知識がなくても読める、非常に読みやすい本です。カウンセラーに限らず、看護士、ソーシャルワーカー、教師など、およそ人を援助する仕事に関わる人間全体における「なぜ援助的専門家を志し、業(なりわい)としているのか、そのことの持つ影(ダークサイド)としての側面と、それと表裏一体となった治癒力について述べた本である。

こうしたネット上で、必要最低限の情報提供以上の発言はせず、セラピーへの勧誘、SNS上のカウンセリングはしないのは言うまでもないが、プライベートな発言を一切伏せ、心理専門家の仮面(ペルソナ)を一貫して守るというのもひとつの一貫したスタイルだと思う。

それに対して、私がネット上で採用したのは、プライバシーも出し、鎧の下のほころびをある程度自覚的にコントロールしながらもさらしていくというスタイルだ。政治的・社会的もしていく。

このことによって「透明な鏡」ではなくなるが、勝手な「投影」「理想化転移」を受けるリスクも減らせる。

あくまでもこのアカウントを「プライベート・アカウント」と位置づけ、自分のクライエントさんたちには教えない(ネット検索上は不可能)。こちらのアカウントを集客の手段として期待しない。実際こちら経由はいないに等しい)。仕事用アカウントは別に持つ (フォローは自由)@kurumefocusing

こちらのアカウント、専門的情報や、私のカウンセリング観は、遠慮なく発信する(逆に開業アカウントではそれを抑制する)。「他の」専門家向け、一般の方向けアカウントにしているつもりです。

ただし最近は、趣味関係の発信には相当禁欲的となり、当ブログのみを媒体とするようにしました。

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2022年1月16日 (日)

心理カウンセラーが、有資格であることの意義を喧伝することによる「反作用」をどこまで認識しているかどうか?

クライエントさんからの「陽性転移」が何らかの形で破綻する時に、うまく対応できずに(治療者側に生じる「逆転移」をうまく処理できずに、治療者側が「行動化」し)、クライエントさんを傷つけることしかできなくて、失望させることを繰り返しているケースがかなり多いのではないかという気がしている。

ある意味では、治療者の言うことに「盲従」せず、自分を殺すことなく、治療者の「言うとおりに従わない」で、率直に「文句を言う」「注文をつけてくる」能力を育成するのでないと、セラピーとは言えない気がしている。

ある意味で「拒否能力」がないからこそ、現実生活の中で苦しむクライエントさんは多いと思う。これは #神田橋條治 先生が述べていること。

だから、治療者は、敢えてサンドバックになって、それでも「生き残れる」ことをクライエントさんに示せる必要があるとすら思う。

クライエントさんは、カウンセラーをサンドバックにして「壊して」しまうことを無意識的には「恐れて」すらいると思う。治療者を「壊す」とことは、治療者に「投影同一視」している自分自身を破壊することになるわけで、それでも治療者が生き残れることを示した時、クライエントさんの中に、自己と他者への信頼が育まれる。

これについては、すでに以下の記事でも述べた。

●心理カウンセラーには、「打たれ強い」人が向いているのでは?

心理カウンセラーが、「自分は十分な教育と研修を受けた #有資格者 だから、自分のような専門家を選んでくれ」と「売り込む」ことは、それだけクライエントさんに、自分を高く「売りつけて」いるということだ。 そのことによってクライエントさんに生じる「期待」に答えられない場合のリスクを覚悟しているのかどうか?

この、#資格 という看板に「依存」して「身を守ろう」とすると、逆にクライエントさんを失望させるハードルも低くなるよ、そのことに「防衛的」な反応しかできないようでは、いよいよ資格の権威性を疑わせることになるという悪循環を、特に若い臨床家は自覚すべきと思う。

何回もいろいろな治療者に救いを求めてさまよっては失望を繰り返してきたクライエントさんが、治療者の「あら捜し」に卓越してくるのはある意味で当然のことである。それを、クライエントさんの生育歴に基づく病理の深さ、ましてや「パーソナリティ障害」とすら安易に言い出したくなる誘惑には用心すべきだろう。

いずれにしても、#資格 を持つことを喧伝しようとするカウンセラーは、その資格を盾にした #ナルシシズム への誘惑にも敏感になるべきだ。そうした防衛をうち崩すことなど、幾つもの治療機関を渡り歩いてきたクライエントさんは、容易にやってのけるという覚悟は必要だと思う。

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2022年1月15日 (土)

山崎孝明 「精神分析の歩き方」総評

心理カウンセラーは、その専門的学習・研修の過程で、まずはある特定の「心理療法」流派のオリエンテーションに基づき研鑽を積む場合が多いと思う。

著者である山崎氏にとっての精神分析技法がそうであったように、大学・大学院に入学する時点で、特定のオリエンテーションへの自発的モチベーションがあった場合もあるであろう。

しかし、多くの場合、入学時には、漠然と「心理カウンセラー」になりたいとしか思っていないケースが、今日大半だとは思う。基礎教育で様々な心理療法流派について入門的な知識等を得たり、セミナーに幾つが出てみる過程でとりあえず選択してみるという人が一番多いであろう。

もっとも、単純に、入学した大学の教育者が拠って立つ心理療法オリエンテーションに取りあえず従うしかなかったというケースもあるだろう(様々な教育スタッフを備えた指定校大学院制度の充実の中で、こうした「受け身の」選択のケースは減っていると思うが)。

いずれにしても、こうした特定の「心理療法」をある程度学んで、カウンセリングの現場に投げ出されたカウンセラーは、大抵の場合、大きな壁に直面する。

特定の「心理療法」を密室でしていればいいという現場であることが、そもそも少ない。更に、クライエントさんを、特定の「心理療法」を受けるようにカウンセラー側から誘導すると、実際にはカウンセリング過程がうまく進まないことが実に多いのである。

カウンセラー自身がこのことに無自覚なまま、特定の心理療法に「巻き込み」、押し付けていて、多くのクライエントさんをはじき出していたり、クライエントさんのモチベーションと異なる方向へとカウンセリングの進行と成果を期待されることによる齟齬が生じていることは、ままあると思う。

著者は、現場カウンセラーとしての経験を重ねる中で、こうした「痛い思い」を繰り返し、そこから「実践知」を自覚的に抽出したきた人だと思う。

第9章「モチベーション論」は、心理専門家が、どのような領域で、どのような雇用形態で働いているかに全く無関係に、面接の、クライエントさんとの合意形成に至るまでの「実践知」として、極めて優れており、自己点検のために、この章だけ独立させてでも必読かと思う。

これは確かに、どの「心理療法」をしていくか「以前の」問題なのである。「心理療法」すら求めていないクライエントさんが多いことは事実であり、何を「当面の」面接過程で目標とするかの合意は、丁寧なやり取りのなかでまずは形成されなばならない。

もっとも、クライエントさんの側に、カウンセリングに現れた自分の「無意識的」モチベーションが自覚されていないことも多く、それに無理のない形で気づいてもらえることも重要であることは少なくないが、これすら、クライエントさんの内面への「侵襲」となる危険を犯すものであることを、カウンセラー側は自覚しているべきであろう。

しかし、著者は、こうしたことを、面接過程での単なる「実戦的テクニック」として示しているだけではない。

クライエントさんがどの流派の心理療法の適用がマッチングするかといった「選択」の問題にとどまるものですらない。

著者は、主として精神分析的オリエンテーションの見地からではあるが、そもそも「心理療法」という枠組みそのものが持つ、潜在的権力構造と、期待される、社会での人格のありかた、生き方のおしつけになりかねない問題にまで視野を広げ、問題提起する。

そのことの重要性については、私も全く賛成であるが、その具体的な内容に関しては違和感がある。

果たして、認知行動療法をはじめとするエビデンス重視のアプローチは、即、「新自由主義」に適合する人間を生み出そうとするものであろうか?

私には、ここに「仮想敵」を投影的に作っている側面も感じなくはない。

これは、人格の「成熟」というものを、社会に単に「適応」的な人間になることととらえるかどうかという根源的な問題につながるものとしてとらえられるべきである。

少なくとも私の考えでは、個人心理療法が暗黙のうちに想定している、成熟した人格像というのは、左派リベラリストというのに近い。

理想とされるクライエントは、個人主義者であるが、すべてを自分の「人格の問題」としては考えない。家族や社会に対する自分の不満を自覚し、周囲に迎合せず、むしろ変化すら迫り、場合によっては社会運動に関与するだけのアサーションスキルをも磨かせる性質のものである(少なくともそれをめざさない心理療法を私はよくないものであるとすらみなす)。

認知行動療法ですら、すべてを自分自身の問題として処理するスキルを磨くにとどまらず、周囲に働きかけたり、自分と連帯できる新たな人間関係や社会的資源の活用スキルを向上させる側面を持っていなければ「おかしい」とすら思う。

カウンセラーは、そうした新自由主義ではないリベラリストとしてクライエントが育っていくさまを支援し、見守る役割を果たすのであり、必要とあればそれに「連帯」し、時としてはそれを主導する存在ですらあるべきと私は考える。

もとよりこれはあくまでも「私の」立場であるに過ぎないという自覚はある(ただし、このように自覚し、普遍的価値観と「みない」こと自体が、新自由主義的ではない、リベラリストの価値観だと思うが)。

これが、著者に対する私の違和感であるが、著者の問題提起の視角に価値があるとみなすことには変わりがない。

山崎孝明 「精神分析の歩き方」短評

第9章「モチベーション論」は、心理専門家が、どのような領域で、どのような雇用形態で働いているかに全く無関係に、面接の、クライエントさんとの合意形成に至るまでの「実践知」として、極めて優れており、自己点検のために、この章だけ独立させてでも必読かと思います。

私は、ここで書かれていることのある程度はできているとおもいます(来談した人に、決してフォーカシングは勧めずに、まずはニーズをうかがうことを、私なりに大事にしてきたつもりです)が、とてもここまでできていないことの方が多いと、いろいろ反省させられました。

 

2022年1月14日 (金)

フォーカシングと創造性

私の目からみたら、精神分析系の人は、文学的というのに近い「華麗な」概念を「ユニークに」使えることにほとんど自己愛的に酔っていて、そういう次元での論争に明け暮れているように思えることがあるというのは偏見だろうか。

そもそも、いわゆる力動心理学と、認知行動療法や行動療法と対立的にとらえるより、むしろ実践的にみてそこに生起する現象が「共通の」ものであり、そこに別の「説明」を与えているのではないかという視点も重要だと思う。

心理療法の学派の違いなんて実は現実のカウンセリングにはほとんど影響せず、「概念」をどれだけ「血肉化」しているかという違いだけで、頭でっかちの、あるいは逆に、技法を小手先で学ぼうとする人と、臨床の「普遍」なものに気づいているかいないかのほうが大きい気もする(すごく偉そうですが)。

極論すれば、心理療法各学派間の、優劣をめぐっての「論争」は、ほとんどの場合「内ゲバ」なのではないか? 単に「折衷」するのではない意味での、効果的に活用できる臨床家に共通のエッセンスの掌握こそ、生産的な探求のように思える(私なりの理解では、#村瀬嘉代子 先生はこうした立場に近い)。

念の為にいうが、私はすでに後者の境地に十分に達していると言いたいのではない。私より優れて現場臨床的なフォーカシングに拠って立つ臨床家の数は決して少なくない。そういう人は容易に識別でき、そういう人と出会うたびに自己愛の鼻をへし折られ「負けた!!」と思う程度というのが私の現実である。

ある意味では心理療法理論をニュートンからアインシュタインに昇華してしまった #体験過程理論 を背景とする #フォーカシング を学んだ臨床家も、この例外ではないのであって、いつまでも「技法」のまわりをぐるぐるまわっていて現場臨床と隔絶している人と、それを克服した人の落差は大きい。

自慢になるのは承知だが、#体験過程理論 の基本文献である、ジェンドリンの「人格変化の一理論」を、心理学科に転籍する以前にあっさり理解でき、訳者の村瀬孝雄先生に認められたことが、私がこの業界に入れたきっかけである。

それでも、#体験過程理論 が、心理療法理論の「ポストモダン」で(すでに50年前から!!)あることまで知らない(というか、わかりやすく教えられない)フォーカシング・プロパーの人が多いと感じる。この点で自分がそういう存在になるべく一層研鑽を積む「責任」はあると感じている。

非常に単純化していえば、私たちは、言葉になる以前の「こういう」感じとしかいいようのない、一定の質感とトーンを持った「感じ」それ自体に支配されてしか生きていないという、ある意味で非常にあたりまえの前提に引き戻した点こそ、#ジェンドリン の #体験過程理論 の最大の貢献。

フーカシング「技法」を学ぶ人は、得てして、実はこれさえできればいいというベースライン以上のことをしようとしていて、かえってフォーカシングを「できない」だとか、日常や現場臨床で使いこなせないという自家撞着にはまっている。・・・ホント、これだけなんだってばさ。

この、いろいろ「説明」できる前の、曖昧な「感じ」それ自体を大事にし、それをいじくりまわさず、静かに注意をむけ、「そばにたたずんで」いられるようにさえなれば、人の中に、それまでになかった変化が始まるということを「実感」したことこと自体が私の運命的転機である。

私は、最高学府大学院という学歴の割には、高度な抽象概念を自分では使いこなせない人間で、それを完全に「血肉化」して(これは頭でっかちに信条化することとはまるで逆のこと)、使いこなせる人には敬意しか感じないが、少なくともそれを使いこなせる人の「言語の使用」についての、柔軟な「理解力」はあるつもりである。

(これはどの専門・学問領域であるかに関係なく)どんなに高度に専門化された学問的専門概念にみえるものであっても、少なくともそれを案出した創始者の中では、非常に新鮮で生き生きとした、自分の体験に密着したものなのだと思う。そういう次元に還元して理解しようと努めるべきだと思う。

それが経済の理論であろうと新しい政策であろうと商品開発であろうと芸術作品であろうと、関係なく言えることだと思う。

もっとも、その新しい概念やパラダイムの創始者自身が、それを「頭でっかちに」「ドクマとして」教条化しようとし始めたり、少なくとも弟子が「頭でっかち」をはじめることの弊害が大きい場合も多いと思う。

ただし、クリエイティビティの高い新パラダイムの創始者は、決して己れの一旦打ち立てた概念や理論や方法論に飽き足らず、絶えず変化と進化を止めないのである。その変遷を「頭で」追いかけ、理解しようとする「信者」は混迷することが少なくないのだが。

いずれにしても、分野に関係なく、「クリエーター」であり続けることができている人って、別に技法として学ばなくとも、すでに #フォーカシング にあたるスキルは、天性のものとして身につけているので、今更学ぶ必要はない。

しかし、それ程の天賦の才能に恵まれていなかった人も、フォーカシングを学べば、「それぞれの分野における(それが経済や株投資(!)であろうと・・・れはジェンドリン自身が"economical instinct"として言及している)」業績を一層上げられるようになる可能性は高いと言える(大風呂敷ではない)。

そんなの下々の平凡な自分の日常には関係ないやいという人においても、いろいろな逆境におかれ対人関係や症状に苦しんでいる人についても、QOLを上げることには #フォーカシング は必ず役に立ちます(きっぱり)。それは自分と関わる「他人」すらいつの間にか変化させるくらいのパワーがあると思う。

以上書いてきたことは相当な大風呂敷に響くかと思いますが、少なくとも小手先の技法ではない次元でフォーカシングの技法を「身につけて」自分の生活に反映できているフォーカシングの指導者に学ぶ限りでは、学んで損ということは決してないでしょうね。

筋のいい人ならフォーカシングの本を読んで独習するだけで身につくのですが。 ただし、周囲の人に迎合する付和雷同なライフスタイルは超えてくことになるでしょうから、そのぶんの波風は覚悟しないとならないかとは思います。

フォーカシングを十分身につけた人間の人生は、ある意味では新たな出会いを引きよせることが多いかとは思いますが、同時にこれまでとのなれ合い的人間関係とは一歩距離を取り、孤独になることも覚悟せねばならないかとは思います(フォーカシング業界の内部でも孤独になる危険を犯すことに)。

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2022年1月13日 (木)

流派を問わず、心理治療者は、自分の用いる技法を、自分自身に対して刻々と「適用」できることができる必要があるのではないか? それが「関係性」中での治療を生じさせる前提ではないか?

#フォーカシング って、それを学ぶ臨床家自身が意識的「技法」として学ぶ域を超えて、日常生活の中で「条件反射」になるくらいに「身につけて」しまって、その効能に恩恵を感じるくらいのところまで行って、はじめて持ち味とその人なりの活用法が見えてくるものだと思う。

このネットでの私の言動すべてが、実は「条件反射」の域まで血肉化されたフォーカシングの「実践」そのものなのだ。もとより個々の発言に何も誤りや行き過ぎがないわけではないのは自覚しているが、それを「軌道修正」する能力自体がフォーカシングの統御下にある。

精神分析の人ですら、日常の中でそこまでほとんど自動的に自己分析できるべきだし、認知行動療法の人も、日常の中で自分のスキーマを刻々と自覚し、修正できるところまで行きつけるべきと思うが。それができれば、実はCLさんに何も特別な「技法」を用いようとしなくても、なぜか面接はうまくいくと思う。

要は、臨床家の側が、絶えず日常や面接場面で自分の無意識にアンテナを張れたり、自分自身の認知の歪みに刻々と気づけないまま、クライエントさんの側にそれを引き起こそうとしてもうまくいかないのは当然だと思うのだ。

もちろん、全ての技法を自分で自分に用いるだけでは自分で超えられない限界はあると思うし、自己満足になる危険もある。自分がその技法を専門家との間で施してもらう(互いに役割を交換して関係性のなかで意識的にやる)機会を定期的に持つことは大事だと思う。

言い方を代えれば、クライエントさんの側に生じる心的メカニズムは、カウンセラーの側にそれに相応する心的メカニズズムを誘発するし、カウンセラーが自分の心的メカニズムの限界を克服できれば、クライエントさんの側にもそれに相応する心的メカニズムの克服を誘発するのではないか。

私の考えでは、「関係性における治癒」とはそのようなものだし、実は流派に関係ないのではないかとすら思っている。「意識的な」技法はその上に乗っかている程度のものではないか? これは精神分析でいう「治療者の逆転移の活用」とかいう理屈を持ち出さなくとも普遍的なのでは?

例えば、治療者の側がリラックスできていない状態で、クライエントさんの側にだけリラクゼーションが効果的に生じるのだろうか?

私はこうした「関係性」の問題を無視して、「客観的『エビデンス』」を証明しようとしても、無理が出て来ると思う。・・・というか、エビデンスを証明しようとすれば、こうした治療者側の因子も測定して、はじめて正確な証明ができるのではないかと思う。

こうしたことは、単に物質的薬物の治験の場合には考慮しなくてもいいことであろうが、治療者との関係性自体が治療的因子になる心理療法の場合には考慮されるべきと思う(もっとも、物資的薬の効能すら、治療者との関係性から完全に自由ではない気もする)。

実はこのように考えてくると、カウンセラーが面接室の外側の世界でどのような言動をどのような範囲でしていくかの指針と可能性も自ずから見えてくる可能があると思う。

精神分析系の人なら絶えず自己分析をしながら、認知行動療法系の人は絶えず自分の認知の歪みに敏感であり続ければ、どのような発言や行動を「社会」に向けてしていけるかが自ずから定まるのではないか? もちろんこれだけでは「十分」ではないかもしれないか、「必要」ではあるのではないか?

今述べてきたような次元で、心理専門家自身が自分の用いる技法の自分自身への「日常的」「条件反射的」適用を「身につけて」いれば、心理療法がClさんの、「特別な密室」の中での「癒やし」体験などではなく、現実生活の中での言動の変化(他者への影響力の変化)を誘発する域に達すると思う。

「治療者は、自分が行き着けたところまでしか、患者を導けない」・・・ユング「心理療法論」(林道義訳 みすず書房)。 ユングは「実用的」ではないと思われがちだが、実は相当現場臨床家に役立つ発言をしていると思う。

ある意味では、人格の成熟した完成、到達点などありえないと思う。人間は常に堕落の危機に直面しており、新たな事態に対応して行かねばならないのだと思う。もちろんこのことを現在の自分の失敗や限界の「言い訳」にしてはならないと思うが。

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2022年1月11日 (火)

私たちは身体を通して環境と相互作用している。「こころ」とは身体の働きの上に乗っかった仮像であるに過ぎない。

人間は脳神経系の中枢の統御にあるのみならず、内蔵や筋肉、皮膚感覚を含む「身体性」を持った存在として外部環境と相互作用している(ここでいう「外部」環境とは、胃の内部や肺の内部の空気も含む)。

いわゆる「こころ」の問題というのは、そうした相互作用の中で浮かび上がる幻(ファントム)としての「心像」の領域に過ぎないという視点も必要かと思う。#神田橋條治

例えば、 #パニック障害 の場合、単に脳中枢系の自律のバランスが崩れた「から」外界からの刺激に過敏になるというわけではなく、実際に群衆の中で「身体に」生じる過剰な外部刺激を受け止められなくなった「から」脳中枢系がバランスを崩すという、逆方向の相互作用的視点が重要なのは確かだと思う。

私は地方出身者で、関東に長期間在住だが、現在は故郷に帰り、たまに東京に行く人間だから痛感するが、あの駅や車内の人混みで「普通の神経」保っていられることに慣れていられる「普通の」人たちのほうが、ある意味で「異常な」環境に順応できる訓練を受けた人たちだと思う。

つまり、パニック障害を、外界に対する「正常な」反応をしている人たち、という視点もあっていいと思う。パニック障害の治癒とは、敢えて、都市生活上やむを得ない過激な環境にも「順応」できるように「人工的な」訓練を施そうとしている、というような視点。

ある意味では、脳内中枢こそ、人間の心身をコントロールする要であるという「思い込み」をいったん外してみるのも面白いのではないかと思う。

胃の内側にどういう食物が入ってくるかという外部からの刺激に対して胃の粘膜がどのように反応するかという末梢のメカニズムが、脳中枢を統御している、とか。

ある意味で、天動説と地動説の逆転、末梢の内蔵等の器官の(外部・内部)環境との相互作用が伝播するものとして、脳の働きを見てみるのである。

そしてこうして臓器と環境との間で生じる相互作用の失調が、結果的に人の「こころ」の領域に影響を行使することも多い・・・恐らくこうした発想法は、各内蔵器官の治療の専門医とかにとってはかなり普通のものではないかとすら思うのだが。

筋肉や内臓といった「末梢器官」の方が外界との相互作用を直接している要であり、脳はそうした諸器官からの情報をとりまとめる中継地点に過ぎないという発想。

高等生物でないほど脳が非常に小さな単純な器官になる。

例えばウニのどこの脳があるのか?それでもウニは環境の変化に臨機応変に順応する。

そういう原点に立って「こころ」の作用をみなおしてみればどうなるか?

「身体」と環境との関わりを安静な状態に持っていければ、「こころ」の問題のかなりが解決してしまう(少なくとも、「こころ」の問題を円滑に解決していく前提である)ということはあたりまえであろう。身体を安全な状況におけない(虐待等を含む)から精神も安定しようがないという視点。

実際に環境と身体の状態を安定した安全な状態に持っていけても、「こころの症状」(例えば些細なトリガーによるフラッシュバック)が現れるというのは、迫害的環境への身体の「正常な」恐慌反応が条件反射として成立してしまっているからであり、その条件反射を脱感作する必要があるということになる。

私自身は全然 #行動療法 の専門家ではないのだけれども、「置かれた異常な環境への『身体の』正常な反応」の残余が、かえって、すでに安定しているはずの環境への適応を阻害するというパラダイムでとらえた方がシンプルであると感じる面は大きい。

行動療法というのは、刺激と反応に人為的な影響を与えて、全体主義的社会へ適応できてしまうロボットを生み出すものといった危険な面もあるものとしてイメージされることもあると思うが、適切に活用される限り、「動物」としての人間が本来持つ環境へのしなやかな適応能力の回復を図るものなのだと思う。

実はこうしたことが人間の心身の当然の機序であるからこそ、精神科医は精神科医としての修行以前に、様々な診療科の身体疾患に関する専門的な研修の中で、ベーシックな医療モデルと治療スキルをひととおり知っていなければならない。

そうでないとただの精神療法マニアか脳科学主義的薬物療法の信者になる。向精神薬の身体への反応は「副作用」ではなくて、むしろ当然の反応なのであり、精神症状への作用のほうが「随伴的」という見方もあっていいと思う。

例えば、ドグマチールは本来胃薬として開発されたものであり、統合失調症やうつ病にも一定の働きを持つものであることは後になって「発見」されたという経緯がある(今日ではこうした精神症状の治療薬としての選択肢としては順位が低いが)。

およそどのような身体の、そしてこころの病でも、少なくともその急性期(命を取りとめるだけの緊急処置等を含む)の治療を経た後は、その人に悪影響のある環境からいったん引き離し、落ちついた安眠が保証できる環境で休んでもらえる状況を作り出すことで、生体のホメオスタシスと自然治癒力を徐々に引き出すことがベースラインとなっているわけである。薬物等は、こうした安静な環境のもとで、はじめて本来の効能を発揮するものであろう。

そうした「環境」の構成要素として、careする人と病者との安定した関係性が重要であることは言うまでもないが、これは身体病であるか、こころの病であるかに関係なく言えることだろう。

・・・まとめれば、身体病にも、いわゆる「こころの病」にも共通する、「異常な環境への『正常な』身体的反応」が、かえってその後の「通常の」環境への適応を阻害するというモデル、そして自然治癒力をベーシックラインとするモデルを延々書いてみたが、これは医者だけではなく心理カウンセラーも馴染んでいい思考実験だと思う。

更に言えば、恐らく #心理カウンセラー においても、「純然たる身体病を含む」医学的治療に関する一定水準の知識は、必須の「教養課程」として履修する必要があるのではないか、ということになる。

フロイトの、口唇期、肛門期、男根期、潜伏期、性器期という発達段階モデルには、独断的なところもあったとは思うが、ひとつだけ彼の後継者(分派して行った人たち)が見失って行った重大な貢献があるとすれば、それは、具体的な「身体器官」を通しての「体感感覚」モデルだったという点かと思う。

#フォーカシング というのは、実は「身体」との関係性を自然な状態に回復させることを習慣化するための技法体系であるとも言える。

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トロントだより

  • 050601_0957
     The Focusing Instituteの第17回国際大会(2005/5/25-31)の開かれた、カナダ、トロントの北の郊外(といっても100キロはなれてます)、Simcoe湖畔のBarrieという街に隣接するKempenfelt Conference Centreと、帰りに立ち寄ったトロント市内の様子を撮影したものです。

神有月の出雲路2006

  • 20061122150014_1
     11月の勤労感謝の日の連休に、日本フォーカシング協会の「フォーカサーの集い」のために島根県の松江に旅した時の旅行記です。https://focusing.jp/  
    ご存じの方は多いでしょうが、出雲の国には日本全国の神様が11月に全員集合することになってまして、「神無月」と呼ばれるわけですが、島根でだけは、「神有月」ということになります。(後日記:「神無月」は10月でしたよね(^^;A ........旧暦なら11/23前後は10月でせう....ということでお許しを.....)  
    ちょうど紅葉の時期と見事に重なり、車窓も徒歩もひたすら紅葉の山づくしでした。このページの写真は、島根の足立美術館の紅葉の最盛期です。

淡路島縦断の旅

  • 050708_2036
     「フォーカシング国際会議」が、2009年5月12日(火)から5月16日(土)にかけて、5日間、日本で開催されます。
     このフォトアルバムは、その開催候補地の淡路島を、公式に「お忍び視察」した時の旅行記(だったの)です(^^)。
     フォーカシングの関係者の紹介で、会場予定地の淡路島Westinという外資系の超豪華ホテルに格安で泊まる機会が与えられました。しかし根が鉄ちゃんの私は、徳島側から北淡に向かうという、事情をご存知の方なら自家用車なしには絶対やらない過酷なルートをわざわざ選択したのであります。
     大地震でできた野島断層(天然記念物になっています)の震災記念公園(係りの人に敢えてお尋ねしたら、ここは写真撮影自由です)にも謹んで訪問させていただきました。
     震災記念公園からタクシーでわずか10分のところにある「淡路夢舞台」に、県立国際会議場と一体になった施設として、とても日本とは思えない、超ゴージャスな淡路島Westinはあります。

水戸漫遊記

  • 050723_1544
     友人と会うために水戸市を訪問しましたが、例によって鉄ちゃんの私は「スーパーひたち」と「フレッシュひたち」に乗れることそのものを楽しみにしてしまいました(^^;)。
     仕事中の友人と落ち合うまでに時間があったので、水戸市民の憩いの場所、周囲3キロの千破湖(せんばこ)を半周し、黄門様の銅像を仰ぎ見て見て偕楽園、常盤神社に向かい、最後の徳川将軍となる慶喜に至る水戸徳川家の歴史、そして水戸天狗党の反乱に至る歴史を展示した博物館も拝見しました。
     最後は、水戸駅前の「助さん、格さん付」の黄門様です。
     実は御印籠も買ってしまいました。

北海道への旅2005

  • 051012_1214
     日本フォーカシング協会の年に一度の「集い」のために小樽に向かい、戻ってくる過程で、他の参加者が想像だに及ばないルートで旅した時の写真のみです。かなり私の鉄ちゃん根性むき出しです。  表紙写真は、私が気に入った、弘前での夕暮れの岩木山にしました。