「ウマ娘の精神分析(1)」メロンブックスに続きとらのあなでも取り扱い始まりました。
#ウマ娘 の精神分析(1)( ケー・エフ・シー 阿世賀浩一郎 )のご注文は #とらのあな 通信販売で! https://t.co/IBek2WXEHg #メロンブックス に続き販売となりました。#同人誌
— ウマ娘の精神分析 (阿世賀浩一郎 メロンブックスととらのあなで委託販売中) (@umamusumeshinri) September 27, 2022
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#ウマ娘 の精神分析(1)( ケー・エフ・シー 阿世賀浩一郎 )のご注文は #とらのあな 通信販売で! https://t.co/IBek2WXEHg #メロンブックス に続き販売となりました。#同人誌
— ウマ娘の精神分析 (阿世賀浩一郎 メロンブックスととらのあなで委託販売中) (@umamusumeshinri) September 27, 2022
やりとりの転載を許して下さった、@rUzXiU1EAoeYjhQ さんには感謝申し上げます。
このことをわきまえていたら、一部の「#フェミニスト」と一部の「#弱者男性」との間の不毛な争いなんて、一気に解決と思いますが。
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阿:マジでいうが、転移や逆転移をこじらせるくらいなら、#出会い系 とかで相手確保しとくべきではないか(断じて私はやっていないが)。
E:逆転移(患者に惚れる)で困ったことはあり、だけど、それって出会い系とかで相手確保して済むものではないでしょうに。別に好きになるなら単数でなく複数いてもやむを得ん。一応、貴殿は、逆説で言っているとは思うがね。
阿:だから、#ウマ娘 プレイしてれば十分なのだよ。育成シミュレーションはいいぞ。
E:肉(リアル)の女を好きになるのを予防するに、#バーチャル な女を確保するは、それなりに効果があるとは実感する。薬物療法も精神療法も行き詰まった患者に(頼るべき相手がリアルでは少なすぎの患者に)レパートリーが少なすぎだからバーチャルな対象を見つけたらと助言したが、結末はここでは書けない。
但し、明確なる区分があります。揚げ足取りする意思はゼロですが、リアルは、ひょっとしたら、現実社会で間違い(不利益)の可能性あり。バーチャルは、その恐れはほぼ無しです。
阿:バーチャルか生身かに関係なく、パーソナルに関係が持てる #異性 を分散して確保しておく(指名の美容師さんとかを含めて)ことは精神衛生上好ましいことが多い気がします。下心から「行動化」しないで、更に「害のない(出さない)代替を見つけるように指導する必要がある場合があるかと思いますが。
この世のかなりの部分の異性は害のない振り方をこころえていて、そういう経験から適切な距離の取り方次第に学ぶのが理想でしょうが。
別にツイートしましたが、「振られるということは嫌われたということではない」とわかるだけですごい悟りになります。
E:「振られる」の理由として場合分けします。
①異性として全く興味がない
②私には彼氏や配偶者がいます
①は言葉通りで、人格否定でなく、#性欲 対象否定であります。
②は、当然人格否定でない、さらに性欲対象否定でもない。ただSEXの相手として、タイミングが合わなかったということに過ぎず。
阿:全く同意です。
①を「人格否定」ではないと理解できるかどうかがなかなか困難で、告白を拒んだあとの日常で全く普通に接してくるので、まだ脈ありと誤解して再アプローチをかける悪循環になり、#ストーカー 化することがあるわけですね。「好かれる」か「嫌われる」かの二択しか認知枠がない。
結局、自分の自尊感情を確認するのに異性を媒介とするのを卒業しろ、という課題が横たわることになります。
#恋愛 で自己実現しようとしないということにたどり着けるかどうか。
結局、異性と関係を持たなくても生きるのに何も困らない人間だけが、恋愛する資格がある、という結論に行きついてしまうわけですが。
E:生きるのに困らない人間だけが恋愛する資格がある。恋愛をあまり必要としなくなった人間だけに許されるのが、恋愛だ。
自己矛盾の塊のようだ。
恋愛を必要としている人たちは、恋愛することによって傷つくのに、敢えて恋愛を強迫的に性欲にドライブされている。
これは、若人の繰り返される歴史だ。
日本フォーカシング協会主催 「フォーカサーの集い」に参加、引き続いて 同人誌即売会 (於:沖縄コンベンションセンター)サークル参加のために、当初3泊4日の予定で沖縄旅行。
台風14号、4日めまでは全く影響なかったが、帰りの便が欠航、翌日がそのしわ寄せで全便満席、更に1泊となり、5泊6日の長期沖縄滞在となった。
おかげでタクシーをチャーターしての、南部戦跡を中心とする慰安旅行もでき、沖縄を堪能。
さて、私が合同会社 ケー・エフ・シーを立ち上げたことはこのメーリングリストでも
お伝えしましたが、10月27日に、福岡市天神(正確には今泉公園隣接)にカウンセリン
グルームを構えることにいたしました。
「カウンセリングルーム ケー・エフ・シー」
と申します。
西鉄福岡(天神)駅南口、および福岡市営地下鉄城南線天神南駅から徒歩5分の好立地
です。
1フロアに3室しかない低層マンションの、しかも1階、玄関口から10秒といったと
ころです。
●コース
1.一般個人カウンセリング
2.フォーカシング個別指導 (Focuser as Teacher,壷イメージ療法、インタラクティブ・フォーカシング、夢フォ
ーカシング等)
Skype,Google meetingも使用可
以上、50分6000円 各種IDカード、Qコード決済可能
家族・カップル面接対応、この場合50分9,000円。
3.月間コース
電話カウンセリング 1か月7:00-24:00対応で回数無制限(業務や交通機関移動、疲
労時と重ならない限り)
12,000円
驚かれるかもしれませんが、私はこのスタイルをこの半年ほど採用して、ひどい依存に
陥らせたことは一例もありません。「今仕事ー」「今寝てるー」であっさり引き下がっ
てくれます。電話に出た瞬間からの構造化というものが熟練すればできるものです。ダ
ラダラとした傾聴はしません。
統合失調症の人の幻聴・妄想も20分前後でおさめてしまいます(了解不可能な幻聴や妄
想は存在しません)。そういうことを10回ぐらいしていれば、頻度も減り、ついには定
期面接の軌道にも少なからぬ場合乗ります。
こうした際には、すでに翻訳したジェンドリンの論文に書かれた傾聴を、tightにさらっ
と用いることが役に立つようです。
4.訪問カウンセリング
1回6000円 食費交通費別
これは3.と併用すると大きな効果が出るようです。
以上のコース、障害年金受給者、生活保護受給者は値引きに応じます。
5.最大5名程度のフォーカシング勉強会
せいぜい1回2500円ぐらいで、13時-17時 土曜日月1回を予定。
6.全国へのセミナー・ワークショップ講師(依頼・開催含む)
一日ワークショップ 講師料原則20,000円(交通費・宿泊費別)
開業時間 月・火・木・金・土(祝日含む)13:00-20:00
久留米のフォーカシングルームはやめたわけではなく、お客様の動向を見ながら徐々に
福岡市中心にシフトすると思います。
共通電話番号 080-9532-1148
メール kfc20220801@gmail.com
10月中旬にはSEO対策も万全の公式Webサイトをオープンいたします。
Web制作会社のこだわりが半端なものではない、ユニークなサイトになるように共同作
業が進んでいます。
皆様
「集い」「総会」直前ですが、私が日ごろ感じていて、耳にしたり目に入ったりしてい
ることに基づいて、狭い世界から見ているに過ぎないかもしれないことについての私見
を、これを機会にまとめて述べさせていただこうかと思います。
現在の日本フォーカシング協会が、会員数500名程度で停滞し、新たな展開の糸口を見
失っているとのことです。
私はこのことの一つの要因が、「パートナーシップ」中心の状況にあると考えています
。
フォーカシング学習が、互いにフォーカサーとリスナー(ガイド)が役割交換可能な形
で「身につける」ことをますはめざすのがふさわしいことは言を待ちません。
しかし、あと一歩進んで、日常の中で、必要を感じた時にひとりでフォーカシングして
成果を上げられることは増えていくこと、敢えて言えば、「条件反射」の域に到達し、
全く意識しなくても、起きている時も寝ている時もフォーカシングを「している」状況
(夢フォーカシングも慣れれば自動化します)にも到達することを理想とすべきと私は
考えます。
私は日常の中で意識的にフォーカシングすることはもう滅多にありません。よほど不測
の事態の対人関係が生じた時だけであり、今回会社設立→天神での開業に関しても、税
理士や役所、不動産会社、Wweb制作業者をはじめとして、他の職種の方々との交渉を重
ねましたが、全く無駄のないtightなビジネス交渉をして行けて来たと感じてます。そ
れはすべての瞬間に自分の中でフォーカシングを無意識の内にでもして来れたからだと
思っています。
ある意味では、ガイドのいるフォーカシングには、相手に対する見栄や配慮などという
「不純な」ものが入り込み、かえってシビアではなくなり、自分の責任で自分のために
フォーカシングをするという姿勢に限界を与えるとすら感じています。
パートナーシップ中心主義は、フォーカシングに未熟な者同士の「なれあい」となり、
いつまでもフォーカシングの勉強会に「依存」させるのではないか、むしろさっさと「
卒業」していく形で「回転率」が上がるくらいになるのが健全かと思います。
「卒業」して、それぞれの日常や現場で役立つという手ごたえがある人が増えれば、そ
うした評判から新規の学ぼうとする人たちが自然と出て来る・・・という、良循環です
。
思い出したときに、ふるさとのようにクループや「集い」に参加する、それでいいので
はないかと。
最近ではPTSDやDVをはじめとした、新たな方向への心理療法への適用が、どの流派でも
トレンドな課題となっているのは時代の趨勢で、全く正しい姿と思っていますが、一つ
間違うと「流行」を追い、「新しい」ものを「みてまわる」表層性に陥る危険もあるか
と思います。
そういう意味では「原点回帰」といいますが、とっくの昔に書かれた論文や著作、トレ
ーニング法を、ほんとうに地に足がついた形で学べているかに立ち返ることが大事かと
思います。
すでに私が訳出してみましたが、ジェンドリンの統合失調症者に対するアプローチは、
1961年の「体験過程と意味の創造」と1964年の「人格変化の一理論」の間のたった3年
間に「完成」されていました。私は改めて読み返してみて、私の現場臨床ですでにあた
りまえにできていることが書かれていることを再確認しました。
そこで描かれているのは、面接現場のただ中で、セラピストの側がフォーカシングし続
け、「そこ」から何を言葉にするか、しないままにするかを当意即妙に、オープンに(
しかし実は厳密に)守るということに他ならなかったわけですが、この「フォーカシン
グの『臨床適用』とは、治療者自身が自立したフォーカシング能力を獲得して面接現場
に接すれば、おのずからスタイルが定まる」ということは、7「フォーカシング事始め
」を分担執筆させて歌だいた時点ですでに書いていたことです。
もとより、それを文字通り実践することができるまでには、私個人の人生上の課題が多
すぎたと感じています。
単純明快に、特に儲けようという気がないけど、「日々の糧を得るために(中井久夫)
」開業カウンセリングに専念しようとしてきた時、私の中の余計なものはすべてそぎ落
とされ、やっと効果を発揮するようになってきたという印象です。
敢えて言いますが、個性やオリジナリティというものは一切不要だと思います。
私の場合で言えば、「フォーカシング入門マニュアル」の時点でのアン・ワイザー法の
習得→Focuser as Teacherの習得→インタラクティブ・フォーカシングの習熟(おまけ
で夢フォーカシングにもなじんでおくこと)、ここまでできれば、フォーカシングの学
習は、王道を、最もtightに省エネで極めたとことになり、あとは各自が「応用問題」
を、興味と関心のままに展開していけばいいかと思います。
いささが傲慢とうけとられないことは承知ですが、私も62歳を迎え、残り10年ほどしか
後輩の育成に時間が残されていないと覚悟と責任を感じるようになりました。
そうした中で感じていることを、「集い」直前、福岡市に開業の拠点を移すにあたり、
お伝えするタイミングかと、私のフェルトセンスが言っておりましたので、敢えて「空
気を読まずに」発信いたします。
訓練中の認知的参照枠(frame of reference)としてのクライエント中心療法:セラピー中のフォーカシングの使用について(1980)
ユージン・T・ジェンドリン(Ph.D.
シカゴ大学行動科学部
5848 S. University Avenue, Chicago, Illinois 60637
CLIENT-CENTERED THERAPY AS A FRAME OF REFERENCE FOR TRAINING: THE USE OF FOCUSING DURING THERAPY
訳:阿世賀浩一郎
注:( )内は原文にあり。[ ]内は訳者の補足
この論文では、私たちの新しい手法であるフォーカシングを、クライエント中心療法の文脈の中に位置づけています。
私は、クライエント中心の応答が、他のどのような方法を使う場合でも、基本的なモード、つまりベースラインであり続けることを示したいと思います。
また、治療の時間を中断したり、クライアントから時間を奪ったりすることなく、フォーカシングを心理療法の中でどのように使うことができるかを示したいと思います。
もし、あなたが誰かに言われたことを正確に言い返したことがないのなら、クライアント中心療法を本当に知らないことになります。
正確に言い返すという試みは、それがいかに難しいかを教えてくれます。
そのような初歩がなければ、セラピストは本当に聴き方を学ぶことはできないのです。最初はできないことを発見するために、正確に言い返そうとする必要があります。
私たちは普段、きめ細かな聞き方をしていない。
言われたことを正確に受け止めることができないのです。ほとんどの人が身につけることのない集中力が必要なのです。
数週間、正確に繰り返す練習をしたら、次はより自然な受け答えをするようにします。
ですから、私たちは最初から、正確な[反射的応答の]繰り返しはあくまでも人工的なトレーニング装置であり、友人やトレーニングパートナーなど、意思のある人と一緒に練習するものであることを受講生に伝えています。
正確な[反射的応答の]繰り返しも、相手にとっては非常に大きな助けになりますが、それは人為的なものです。
それがうまくできるようになると、人は感情を伴った、個人的に意味のある部分だけに反応するようになります。
たとえば、ある人が長い出来事を話して、まず彼らがこうして、それから私がこうして、それから彼らが言って、私が言って、それから私が傷ついて、それからみんなで行って、それから私が帰ってきて......といった具合に。
リスナーが反応するのは、傷ついたという部分と、その原因となったものだけでしょう。
これは、交通量の多い大通りで、車、車、車、消防車、車、車......を見ている時に、あなたは消防車にだけ反応するようなやり方です。
しかし、クライアントが表現する意味の織り成す網の目全体に正確に耳を傾ける習慣がない限り、これをうまく行うことはできないのです。
そのような聴き方の中でだけ、「消防車」とそれに関係するものを正確に一緒に聴くことができるのです。
そうでなければ、「あなたは傷ついた」と言いながら、何がそうさせたのかの全体的なポイントを見逃してしまうでしょう。
クライアント中心の応答は、基本線であり、必要不可欠なものです。
これは、車を運転するときにフロントガラスの外を見るようなものです。
目の前で起こっていることに絶え間なく接触していなければならないのです。目の前のことに常に注意を向けていれば、車内で誰かと会話することもできますし、タバコを吸ったり、食事をしたり、ラジオを聴いたり、時には地図を見たりすることも可能です。
しかし、あなたの注意は常に目の前にあるか、一瞬でも消えたらすぐに戻ってこなければなりません。
走っている車の前で何か変なことが起きても、そこに注意を向けていなければ、瞬時に気づくことはできないのです。
それと同じように、私はクライアントがどこにいるのか、一瞬たりとも目を離さないようにしたいのです。
クライアントが何を感じているのかを感じ取り、何かしたらすぐに戻って、クライアントが何を感じているのか、もう一度確認しなければならないのです。
私は何か他のタイプの動きをするかもしれませんが、その時は即座にまた戻って、クライアントが今何を感じているのかを感じ取り、言い返そうとします。
そうしないと、何が起こっているのかがわからなくなり、何をやってもうまくいかなくなるのです。
多くのセラピストがこの絶対的に重要な事実をまだ学んでいないことは、私にとって驚くべきことです。
もしセラピストがクライアントの中で起こっていることに疎ければ、セラピストがする他のどんな価値あることも、ほとんど無意味になってしまうのです。
もちろん、彼らは自分が知っていると思っています。しかし、仮説や良いアイデアは、クライアントからの直接的な反射や裏付けに代わるものではありません。
単に考えて知っているのではなく、直接、具体的に触れていなければならないのです。
セッションの合間に、セラピストが理解できないようなことを聞き、受け止め、把握してくれる人を探さなければならない心理療法患者が非常に多くいます。
これは、クライエント中心型以外のほとんどのセラピーに生じている、ごくあたりまえの状況です。
セラピストは、クライアントの中で起こっていることを常に直接反映させながら接触しているので、他の方法も使うことができます。
もしセラピストが瞬時にクライアントの一瞬の反応に耳を傾け、反応しようとするなら、これまで役に立ったものはすべて、役に立つか、少なくともマイナスの負荷なしに使うことができます。
解釈的な質問をすることはできますが、瞬時にもう一度、クライアントは、もしあれば、その質問に対してどんな反応があるか、そのクライアントの反応[に立ち返り]、それ以外には何もないことを内側に感じる必要があります。
また、解釈的な質問が混乱を招くだけで、内側に響かないことが明らかになったらすぐに(たいていクライアントが話し終わる前に、顔の表情や声から[察知できます])、セラピストは
「ああ、なるほど、私が間違っていましたね、あなたが言っていたのは......」
のように言い、クライアントの最後のポイントに戻るべきです。
そうしないと、クライアントはセラピストの質問がなぜ正しくないのかを説明するのに多くの時間を費やすことになり、セラピストの考えをすぐに否定しないので、多くの努力と複雑さが必要になり、すべてが軌道から外れてしまうかもしれません。
もし、それが何であれ、クライアント自身の内なる体験に速やかに戻るならば、クライアント自身の内なる動きのプロセスとその連続性を壊すことなく、多くの解釈のアイデアを試すことができます。
同様に、ゲシュタルト療法には、他の方法にはない技法、役割の逆転があります。クライアントに立ち上がってもらい(セラピストも立ち上がる)、空の椅子の方を向いて、身体の中で新しい感じ方を想定することができます。
ゲシュタルト・セラピーのやり方を変える必要はないし、今までのやり方をやり直す必要もない。
ただ、クライアントが普段の身体の感じ方を緩めて、この新しい方法が形成されるのを許せば、それがクライアントの内側に感じられるはずです。
それが何であれ、私たちはそれを聞き、それに反応したいのです。もし椅子に向かって自発的な行動が起これば、それは歓迎すべきことです。
セラピストはそれを手本にするかもしれません。
セラピストは、椅子に向かって何らかの姿勢をとりながら(椅子の上にかがんで、こぶしを振って)、「『こんな』感じですか」と言う[こともできます]。
「いいえ......こうです......」とクライアントは言います(後ろに立ち、嬉しそうに想像上の小さなナイフを回す。
そして、もしクライアントがこれを全くやりたくないと言ったら、邪魔になるどんな感情でも、次に、再びクライアント中心の方法で、耳を傾けます。
クライアント中心の対応を基本モードとすることで、他のすべての有用な方法を統合することができます。
もちろん、他のことを頻繁に行うことはできません。
傾聴のプロセスには、長い間中断することなく、あるいは時々、一瞬だけ脱線することが必要です。
しかし、クライエント中心療法の本質を失うことなく、他の方法を統合することは可能です。
クライエントの内側に向かうプロセスは、クライエントのそれぞれの経験に対して、セラピストが常に反応し、ありのままに接触することを必要とします。
他の方法を使用するもう一つの原則は、それぞれの方法の場合、セラピストが具体的に何をしているのか、そこから何が役に立つのか、特に「この方法は、私たちがまだ持っていないものを提供してくれるのか」と問うことです。
そうすると、ほとんどの「メソッド」は本当に違いがなく、何も提供してくれないことがわかります。
いくつかの方法は、他の方法では得られないセラピスト特有の行動や概念を持っています。このようなものだけを考慮する必要があるのです。
ほとんどの「メソッド」は全体論的なシステムとして説明され、あたかも理論と実践がすべてであるかのように書かれています。
しかし、実際にはそうではありません。もし、「この中から、私たちがまだ持っていないものを使うことができるだろうか」と考えるなら、その収穫は小さいながらも貴重なものであることが多いのです。
最後に、さまざまな方法を組み合わせるには、何を使うかを内側から感じ、経験する必要があります。
それは、与えられた理論や自分の理論だけではできない。具体的にどういうふうに使うのか、どういうときに使うのか、実際に体験してみないとわからない。
このように、さまざまな方法を[単に]ひとくくりにしているわけではないのです。
むしろ、今の「方法」が具体的でないこと、まとめられるものが具体的な方法でしかないことに気づかされんます。
それも、まず具体的な機能を体験しないと、うまく使えないし、理解もできない。つまり、それらを使うときの正確な内なるステップを知り、言うことができ、また、これらの(あるいは他の)内なるステップが起こるときに、瞬間ごとに、クライアントに対応することができるのです。
このように、私たちは、あるアプローチ全体から他のアプローチに切り替えることはありません。それは常に、内側に向かう体験的な特異性と接触という、根本的に同じアプローチなのです。
ここで、私がクライアント中心療法に加える主な追加的方法であるフォーカシングについて述べたいと思います。
フォーカシングは、直接教えることができ、そして、一連の具体的な指示を与えることができます。もしそれがセラピーの最中に行われるとしたら、クライアントから時間とイニシアチブを奪い、教訓的な状況を挿入することになります。
通常、セラピー中に、このようなことは行われません。私は、それがどのように行われるかを議論し、説明したいと思います。
フォーカシングを紹介するために、私はまず、すべての治療的変化について何か言うかもしれません。
精神分析では、これは自由連想によって行われます。
クライエント中心療法では、言われたことに反応したときに、クライエントが内側に見いだす、特別な内なる感受性と空間がそれにあたります。そのとき、人は内側にある空間、つまり、何
言いたいことが聞き届けられ、何か新しいことが生まれる余地があるのです。
やがて、それは実現します。
ユング療法では、夢や白昼夢を、本人が意識している以上のものの源として用います。
人は、自分が意識している以上のものが、何らかの形で入ってこない限り、変わることはできません。
クライアント中心療法は、ある人が「無意識」と呼ぶものに直接アクセスできるというエキサイティングな事実に依存しています。
それは無意識ではなく、むしろ概念的には不明確であり、しかも感じられるものです。
クライアントは、その反応が正しいかどうか、内面を感じ取り、もし正しければ、安堵感と新しいオープンスペースを感じ取り、意識的な自己ではない、しかし明らかに無意識でもない源から、何か新しいものがそこにやってくるのを感じ取ります。
それはすぐそこにあり、気づきの中で感じられるのです。
フォーカシングは、クライアント中心のプロセスのこの内側にある側面をクライアントに示す方法であり、通常のクライアント中心のセラピーよりも、より早く、より頻繁にそれを起こさせるためのものです。
この源、内側、直接感じられるがまだ明確でないものは、もちろん身体[に生じてきます]。
しかし、人は、ほとんどの人が知っているのとは違う方法で、たとえばゲシュタルト療法とは違う方法で、身体を感じ取るのです。
身体をスキャンして、肩や腕などの場所に緊張を見いだすというようなことではありません。
そうではなく、身体の真ん中に注意を向け、常に何らかの問題や状況、自分が取り組んでいること に関連して注意を向けるのです。
フォーカシングは、クライアント中心療法が効果的に機能しているときに、クライアントが内側に向ける注意のことです。
そのような瞬間には、話されたことだけでなく、感じられた「縁」、つまり、感じられたがまだ明確でない何かがあるのです。
クライエントは、この "端っこ "に注意を払い、そこから次のことが起こるのを待ちます(それを発明したり、考えたりするのではありません)。
フォーカシングは、この点でクライアント中心療法と類似しています:
クライアントが[内なる]Pセラピストになり、まだはっきりしない身体的に感じられる「縁」が[内なる]クライアントになるのです。
人は、クライアント中心の方法で他の人に対応するのと同じように、この内側に感じられた 「縁」にどのように対応するかを発見します。
人はいろいろな考えを持つかもしれませんが、その代わりに、クライアントに今、身体的に感じられる「縁」を待ち、それが形成されるのを待ち、そこから何かが生まれるのを待ち、クライアント中心の方法で、何が来ても受け取るのです。
クライアント中心のセラピストが知っているのと同じように、人は、何が-、何が-、何が-、何が-、と知っているのです。
これはは、最後のステップではなく、今ここにあるものだけなのです。
もしそれが聞かれて、受け取られれば、さらに何かがやってきて、変化が起こるでしょう。
このようにフォーカシングは、クライアント中心のセラピーの一種でありますが、非常に具体的な 内側のデータ、つまり、自分が議論していることの「端っこ」を直接感じ取ることができるのです
クライアント中心療法をより正確に、より具体的な経験的方法で理解するようになり、変化が起こるときにどのように起こるかが少しずつわかるようになると、この正確な手順をもたらすことができるようにもなってきました。
今では、あらゆるタイプの心理療法の一部となり、また、療法によらずに使うこともできます。
それでは、まずフォーカシングについてお話しし、それが継続的な心理療法の一部となり得ることを抜粋して説明します。
「フォーカシング」は、問題の身体感覚に注意を向けるための具体的な手順からなり、それを教えることもできます。
最初は、これは身体的な不安の不透明な無言の質感です。
それは、自分が焦点を合わせているものが、今、どのように身体にあるかということです。
この身体感覚は、問題の一部である通常の思考や感情でもなく、問題の中にある感情でもありません。
むしろ、体によって生きている問題の全体です。身体感覚としてのみ、人は全体を持つことができます。
現在では、フォーカシングを学ぶための具体的な手順が書かれた本(Gendlin, 1978)や他の多くのバージョン(Gendlin, 1979)があります。
それには少し練習が必要です。
自分の注意を積極的に自分の体に向けなければなりません。
人は、ありがちなの考えや感情を積極的に越えていかなければなりません。
人は、全体を求めなければならなりません。
すなわち、「全体」がどのように体の中で感じられるかを求めなければならないのです。
これを行う一つの方法は、"私は、おそらく、私の体の中で、この全体について、すべて大丈夫だと感じていますか?"と尋ねることです。
そうすると、自分の身体に注意を払う必要があり、問題全体の身体感覚が形成されるのに数秒かかります。
体の真ん中、胃や胸に、ある特定の質感、通常はかなり特定の性質の不安を感じる。
この感覚は、あまり期待できないもので、快適でもなければ、非常に不快でもあり、経験の浅い人にとっては、そこから何か価値あるものが生まれるとは思えないでしょう。
それにもかかわらず、これは、非常に数秒のうちに、紛れもなく身体の中で変化し、開放され、そこから、従来は「無意識」と呼ばれていたものが出現することがあるのです
このような身体を通した方法でしか、本当の変化は起こらないというのが、私の主張です。
私たちの困難は身体を通して身体の中にあり、私たちは身体を使って人生を生きており、どんな状況も完全に身体的な方法で受け止めているのです。
だから、知的な答えはたいてい効果がないのです。
だから、何度も何度も同じ感情を感じたり苦しんだりしても、何の解決にもならないのです。
問題は、文字通り身体の中にどのように鎮座しているかが変わらなければならない。
それが変わると、人は蠢き、染み渡り、肉体の変化を感じます。
この主張に対する私の確証は、とりわけ、体験過程尺度(Klein, 1969; Gendlin, 1967)を用いた一連の調査研究によって、初期の面接から、あるいは治療全体から、治療の成功や失敗を予測できることが示されていることにより得られました。
フォーカシングは、これらの研究で成功したケースを区別した、まさにそれを行うように指示することで 構成されています。
現在、少なくとも1つの研究(Olsen, 1975)が示しているように、クライエントにフォーカシングを教えることによって、体験過程レヴェルが低いという失敗予測を覆すことが可能であり、その後体験過程レヴェルが上昇します。
その結果が常に予測された成功であるかどうかは、まだ確証されてはいませんが。
[このように言うと]私たちは常に次のような質問をされます。
「しかし、セラピストはセラピー中にこのフォーカシングの指示をどのように使っているのでしょうか?あなたが指示を出している間、あなたの時間は沈黙で構成されているのでしょうか?フォーカシング・セラピストは、セラピーの中でどのようにクライアントと一緒にワークするのですか?"」
確かに、フォーカシングを教えるだけではセラピーとは言えません。
限られた時間、時には1時間、時には4時間で、その人はフォーカシングを知ることができるのです。
しかし、フォーカシングを採用した心理療法はどのようなものでしょうか?
フォーカシングは、たとえ沈黙の中で友好的な注意が与えられるだけでも、他の人が[そばに]いればずっと容易です。
さらに良いのは、聞くことができる人、つまり、何か大きな声で言われたときに、クライエント中心の方法で反応できる人である。
人は通常、10分とか15分といった時間だけ集中することができ、そのあと、もしその前でなければ、話したくなるものです。
逆に、最初に少し話して、それから集中するのも有効です。
したがって、フォーカシングは心理療法にマッチしています。
それは、静かに内側に手探りし、感覚センサーで探っていくプロセスであり、セラピストは皆、少なくともセッション中に時々、クライアントがそうしてほしいと願っているプロセスなのです。
しかし、ほとんどのセラピストは、このプロセスがどのように機能するかを正確に知らず、感情と 全体の身体感覚の間の重要な違いも知らないのです。
もちろん、セラピストが耳を傾けて応答し、クライアントが言うことを何でも受け取ることは、これまでと同じように極めて重要です。
この意味で、私は、知性化も通常の感情や感覚も軽んじていません。
身体感覚がシフトし、オープンになれば、新しい別の思考や感情が生まれます。
確かに、私はこれらを軽んじているわけではありません。セラピストはまた、これらを受容的に対応しなければなりません。
しかし、フォーカシングを知っているクライアント、少なくとも一度や二度は経験したことのあるクライアントとは、たとえクライアントがこの特定の方法で参加するのがまだ難しいとしても、一緒に仕事をするのは非常に簡単です。
ですから、フォーカシングを知っているセラピストは、クライアントにそれを教えます。おそらく、10分間の指示として一度に教えるのではなく、早い時間帯に時々、少しずつ教えるのです。
そうすれば、時々、話を遅くするだけでも十分なことがあります。
セラピストは、言われたことの意味を味わうように、あるいはゆっくりと感じながら、意味のある場所にもっとゆっくりと反応することができます。そのようなゆっくりとした応答の間、クライアントも同じことをする可能性が高く、言葉がどのように合うか、合わないか、さらに何があるのかを内側に感じ取ることができます。
私たちは、セラピストである私たちが言ったことを "確認 "するように、クライアントを明示的に誘うことも有用であることを発見しました。
「もう一度感じてみてください。本当にそれでよいのですか?」
セラピーでも、より非公式な傾聴のトレーニングでも、私たちは聴き方だけでなく、聴かれ方についても教えています。
聴かれる側は、礼儀正しさに固執することなく、言い返されたことを内心で確認する必要があります。
「もう一度よく聞いてみて、本当にそうでしょうか?」
このようにして、クライアントもまた、最初の数時間で、セラピストがクライアントの中の何にでも喜んで、熱心に訂正してくれることを学びます。
スピードを落として内側にチェックすることに加えて、フォーカシングの指示は、収まるところに収まるように、少しずつ与えられるようにすることができます。
たとえば、こうです。
"ほら、今、あなたも内側に静かにしていて、ただリラックスして、この全体を体の中で感じることができるかどうか見てみてください"
このような短いリクエストは、すぐに集中することで満たされるかもしれませんし、クライアントが困惑した様子で話し続けるかもしれません。
後者の場合、セラピストは言われたことに受容的に反応し、後でもう一度フォーカシングを試みます。
このようにして、何時間かかけて、クライアントがフォーカシングに近づいたら、例えば、指示をより正確にする機会も出てきます。
「あなたが今、この怒りを本当に感じていることは知っています。(クライアントがうなずく)それは新しいことではありません。(クライアント:確かにそうですね) 「今、少しリラックスして、怒りだけでなく、それに付随するすべてのこと、あなたの心を忙しくさせていること(business)ビジネス全体を感じられるようになったら見てみてください」。
「あなたが怒っていること、そしてそれがあなたにとってどんな意味を持つのか、すべて一緒に感じてみてください。」
その全体が、あなたの体の中でどのように感じられでしょうかるか。" (クライアント:それは...) (セラピストが口をはさむ:) 「少し時間をかけて、リラックスして、胃や胸の中でそれがどんな感じなのかを感じ取る必要があるでしょう。 (クライアントは後ろに座り、話をやめて長い息を吐く)」。
あるいは、上記の例では、クライアントが "言いたいことを最後まで言わせてください "と言ったかもしれません。
セラピストは、"お邪魔でしたか、どうぞ "のような返事をし、またしばらく話を聞くことになります。
時には、セラピストが気づいて、"今、これを押し付けてはいけない "とか、"あなたも私に怒っている、あなたに何をすべきか言っている "というような反応をすることがあるかもしれません。
最後の例は、クライアントの中で起こることが他の何よりも優先され続け、セラピストはこの指示を与えることから起こる相互作用の出来事に気づき、それに反応し、受け入れるであろうということを示しています。
しかし、これはまれなことです。一度与えられたら、その後は押さないという場合、そのような指示は押しつけがましいものではありません。
フォーカシングの指示は、決して「内容」、つまり「何に」フォーカシングしているかということではないことにも注目してください。
それはいつも、クライアントが、すでにそこにある、あるいはこれから出てくるかもしれない何かに、どのようにアプローチしようとするかについてのみ、指示されるのです。
この区別は重要です。
セラピストは、セラピーのプロセスがどのように機能するかについての専門家であるかもしれませんが、他人の経験についての専門家ではあり得ないと私は考えています。
内容に関することはすべて、クライアントの中に生じるものによって即座に修正される暫定的な質問であるのが一番です。
フォーカシングの指示は、セラピストが専門家であっても、同じような精神で挿入することができます。それは速やかに取り下げられ、代わりにクライエントが表現するものには何でも応答されます。
私たちが使っているクライアント中心療法は、他のあらゆるもののベースラインであり、その前提条件です。
もしクライアントの中に生じるものを忠実に優先させれば、他の多くの手順が極めて安全になり、試すのに役立つようになります。
これは頻度も制限されなければならず、そうでなければ自分なりに走っていくするセラピーのプロセスは発展しません。
しかし、まれにしか行われないのであれば、他の次元を暫定的に試すことができます。
そうし中での、フォーカシングの教示は、その一例である[に過ぎません]。
クライアント中心型の対応は、自動車を運転しているときに道路から目を離さないようなものです。
他にもいろいろなことができますが、道路を見ることが優先されます。
このように、クライアントの中で起こっていることが優先され、最初に対応しなければなりません。
その後に発展するものもまた、発展することを許されなければなりません。そうすれば、後で、また別のことを試すことができます。
ここでは、フォーカシングの極めて簡単な要約だけを述べましたが、具体的な手順や正確なアプローチは他の場所で入手可能だからです。
そのような具体的なアプローチの一つとして、私は言及したいのですが、それは、私たちが「スペース」と呼んでいるものを、生じるあらゆるもののために作り出すことにあります。
一見圧倒されるような感情が生まれたとします。
そのとき、次のように大きなスペースを作ってあげるとよいでしょう。
「そうだ、これは私が一度に受け止めきれないほどのものだ。それは確かに、しばらくはそこにあるでしょう。少しずつ近づけていこう。その間、それはそこにあることができる、『あそこ』に。、私がそれを失わないように。また、 その中にすべて[入り込んでごちゃまぜになって]いるわけではないのだ"。
フォーカシングには、この中間の位置、逃げもせず沈みもしない位置が含まれます。
どんなものでも、その隣にいて、そこに空間や場所や存在を持たせる方法が常にある。
これから、セラピーの例をいくつか挙げます。
最初の例は、この空間作りを説明するもので、すべての例は、一見とても小さな集中の指 示がいかに大きな違いを生むかを示すものです。
あるクライアントが、大きな葛藤を抱えたまま助けを求めに来ました。
新しい人間関係のために、既存の関係を覆すことです。
新しい相手に対する彼女の引け目は、まだその相手には表立ってはいません。
このような何かを持っているとき、彼女は言いいました。
私は通常、自分らしくあろうとふるまいます。
でも、ここでそれをやるとなると、やっぱり、「あ、そうだ。でも、ここでそんなことをしたら、彼を傷つけてしまうし、そうやって目を背けてばかりいると、今にも彼を傷つけてしまいそう。それに、これ以上何もわからないんだ。彼が私のことを気にかけてくれているかどうかもわからない。気にしてるよ。いや、そんなことはない」。
もちろん、もう一方にも、同じように強く[動く感情が]、すぐそこにありました。"ありえない "と 私のためじゃない。私は何をしてるんだ?私は狂っている"
最初の1時間は、セラピストはクライアント中心で振り返り、ほぼ何もしませんでした。
特に、人がある行動について葛藤しているとき、セラピストがたまたまどちらかに偏っているために、その人の人生における何らかの決定がなされると考えると、特別な恐怖と不条理があるように思われます。
そのようなセラピストは、なんと愚かなことでしょう。
その人は、その決断の後、何年も人生を生きなければなりませんが、セラピストはその人の人生を生きる必要はありません。
後になって、「あの時、あのセラピストがこう言ったから、こうなったんだ」と言われたら、なんと醜いことでしょう...。
しかし、そのセラピストは、一つのフォーカシングの手順を、何度も行ったのです。
そのセラピストは、感情が湧き上がるたびに、最初は対立する2つの側で、こう言いました。
「そのために、良い、大きな、優しい場所を作りなさい。それを目の前に置いて、そのままにしておきなさい。『はい、わかりました......そういうことですね、わかったよお』、と」。
そうして、1時間のうちの20分ほどで、彼女の呼吸は良くなり、彼女の体は、ここ数週間で初めて、より完全で自由になっていました。
彼女は必死にスラスラと円の周りを走り回るのではなく、座ってしばらく静かにしていることができました。
もちろん、そのような沈黙の中で、[置かれた]状況の各部の根底にある身体感覚を感じ取ることができます。
その都度、私の身体の中にある「すべてのこと」が感じられるのです。
その日、彼女は何も決断しなかったのです。どんな決断も、おそらくその日は正しくなかったのでしょう。
次の週もまだ決断はなかったのですが、彼女には一週間の間ずっと[心の中に]スペスがありました。、
"とても余裕(space)があるわ "とよく言ってました。
4週間以内に彼女は決断を下し、それは完全に正しいことだと感じました。
もちろん、私は、傾聴のプロセスとその小さなものを除いて、ここでの他のすべてが彼女によって行われたことを知っていますが、私は、集中することから得られる重要な付加価値を考えています。
もちろん、これほど早く結果が出ることはありません。
長い時間をかけて多くのステップを踏む必要がありますが、この多くのステップは、それぞれの面に与えられたスペースがなければ、そう簡単には実現しません。
もうひとつ、決断の葛藤の例を挙げましょう。
ある女性が、職業上、旧姓を使うか、結婚後の姓を使うかを決めようとしたときのことです。
これは、表面的には表面的な問題に見えるかもしれません。
ここでもフォーカシングによる空間づくりが貢献していますが、今回はもう少し、フォーカシングそのものも貢献しています。
セラピストは、感情の波が来るたびに場所を与え、彼女の身体をいくらか解放した後、彼女に、葛藤の全体を受け止め、それがすべて一つの事業であると仮定して、その全体との関連で、そこに来るものを身体で感じ取るようにと頼みました。
1分ほどの沈黙の後、彼女はこう叫びました。
「ああ...ああ...確かに...はい...私は彼と一緒にいることに自信がありません」
これは彼女が以前から疑っていたこと、推測していたこと、時には他人から聞いたこと、そして彼女はしばしば内面を探りましたがそれはなかったのでした。
しかし今、1分間集中することで、それが見えてきたのです。その時、多くのリスニングが続き、そのほとんどがリスニングでした。
これらの例で示すように、しばしば集中する方向にごくわずかな付加があり、それはおそらく傾聴の間にも起こったのでしょう。
傾聴がどの程度役に立ったのか、また彼女が夫とのアンビバレンスをどの程度解決したのかはわかりませんが、彼女はより幸せそうに、またより堅実に結婚生活を送っているように聞こえました。
いずれにせよ、これはただの傾聴によるものではなく、この夫婦がこの数週間で多くのいろいろなことをやり遂げた上でのでした。
彼女の名前の問題は?それはまだ未解決のままでした。
彼女はもちろんこの時までに、双方の長所と短所をすべて検証し、何度もそれを繰り返してきました。
そして、自分の考えもわかっている。さらに、私の主義にしたがって、これを女性の問題としてとらえ、女性のグループを作りたいのかどうか聞いてみたのです、彼女はわかっているようでしただった。
他の面でも同様に、仮に尋ねてみました。
そして、再びこの問題が提起されたとき、私は彼女に焦点を合わせるように頼みました。
まず、片方の側面を取りあげました。
「仮に、旧姓が本当にまったく問題なく、使ってもいいものだとしたら、あなたはそれについてどのように感じますか?」
彼女が再びそちらを言い始めたので、私はそれを止め、代わりに「その全体的なあり方」を身体で感じるようにとお願いしました。
そのためには、そのような感覚が形成されるまで、少し時間がかかります。
おそらく丸1分くらいかかります。
それは "わくわくする "でした。
その言葉が一番しっくりくるような気がしまし。
彼女はしばらくその状態にとどまり、それがいくらか変化するにつれて、いくつもの次元が出てきまし。
彼女はそれを書き留めた。
同じ理由と同じ感情で、何度も何度も、長い間、同じ地面を乗り越えてきたのに、集中するような短い期間で、新しい、きわめて新しい何かが生まれるのは、いつも印象的なことです。
彼女がこれらのことを書き留めようとしたことは、繰り返される感情の輪から、より深く、より自分らしい、新しい何かに到達することがいかに気持ちのいいことかを教えてくれる。
そして、私は彼女に尋ねました。
「何がそれを邪魔しているのか、感じ取ってください。もちろん、わかっていると思いますが、それは待ってあげてください。こっちのほうに行くふりをして、体に何が出てくるか見てみましょう」。
その後、もう一つの側面をやってみました。
そこでやってきたのは、「結婚した女性」であることの確かな実感でした。
彼女もしばらくは[その実感]をキープしていました。
そして、"そのように行くには何が邪魔なのか "と。
この例では、セラピストは多くの指示と介入を行い、今はこう、次はああと指示を出しています。
もちろんこれは、彼女がその状況を自分自身の感覚と連続したものとして経験するのを止めた瞬間に止めたのでしょう。
また、これらの指示の間には、もちろん、影響が現れてくるので、耳を傾ける期間もあった。
ここで最も重要なのは、通常の感情的な堂々めぐりや同じような古い自己苦悩の下にある身体的な感覚に触れ、そしてその変化を感じ取ることによって得られる驚き、安堵、そして身体の解放です。
時間の中で、おそらく最も少ない、あるいは最も多いフォーカシングの指導の例を挙げてきましたが、より通常のセラピーのやりとりをテープに録音したものをいくつか挙げたいと思います。
しばしば、これらの中でフォーカシングの追加は非常にわずかであるため、私はそれを指摘しなければならないかもしれません。
そのクライアントは、自分の分野で仕事を見つけようとしています。彼女はこう言います:(この抜粋は、わからないように改変されています)。
C1:私はまだ(彼女の分野で)その就職面接を避けています。そして、男性も。
T1: その2つの分野で避けていることについては、似たようなことがありますね。
C2:そうですね。私は、失敗するチャンスをつかみたくないのだと思います。私は、本当にチャンスがあるまで続けて、それから逃げます。緊張してしまうんです。
T2:神経質という言葉がぴったりですね。
C3: そうです。ええと、そうですね...私は逃げます。
T3: 逃げる、ですか。
C4:そう、緊張していることがそうなるのではないのです。
T4: 緊張しているから逃げるのではない。
C5: いいえ。
T5: だから、逃げたいというのがどんな感じなのか、逃げたいのが何なのか、わからないんですね。
C6: そうですね、失敗するのが怖くて、それで失敗してしまうのだと思います。本当に気になるところで、もしかしたら自分はだめかもしれないと知るのが怖い。
T6: 今、先に進むことを想像すると、逃げ出したいという気持ちが湧いてきますか?
C7: ええ、逃げ出したいと感じることはありますが、もし先に進まないと決めたら、その必要はないですね。
T7: 先に進むと思わない限り、その逃げたい気持ちはないのですね。そして、それは、自分が本当に得意でないことがわかるのを恐れているのではな いかと、あなたは疑っている。
C8: そうですね。
T8: 私は、その感触のよさにも興味がありました。今、ほんの少し、走りたいという気持ちが伝わってきましたね。まだできますか?
C9: ええ、感じることができました。
T9: それを軽くたたいて、何が出てくるか見てみましょう。
ここでは、セラピストはほとんどクライアントに従って、それぞれのメッセージをできるだけ正確に言い返し、自分が言ったことが彼女が感じていることとは違うとわかるとすぐに自分自身を修正していることがわかります。
"緊張している "というのは、まさにフォーカシングのための身体感覚のようなものですが、そうではありません。
彼女は、前に進みたいという気持ちの方が重要だと言っています。
セラピストは、緊張している感じが原因ではないことを反映させながら、正確について行きます。(T4まで)
そして、フォーカシングに向かおうとする応答がある(T5)。
「だから、逃げ出したいという気持ちがどんなものか、逃げ出したいのは何なのか、私たちにはよくわからないでいるのです」
これはまさに、クライアントに何も求めないけれども、フォーカシングへの誘いなのです。
これは、本当の意味でクライアント中心の応答ではありません。
それは、彼女に「逃げたい」と思っていることを探究するように誘っているだけではありません。
この応答は、「逃げ出したいと思っているのは何なのか」という実体、何かについても言及しています。
この応答は、そのような「もの」があること、それが完全に彼女と同一視されていないこと、そして、彼女が内側に入り、この「逃げたい何か」を見つけることができること、そして、それを感じながらそれが何であるかを考えることができることを暗示しているのです。
直接感じたことを話しただけなのに、すぐに思考や記憶になってしまいます。
次にセラピストは、直接の感覚を再び呼び覚ますための方法で、彼女に集中するように誘います。
T6で「...自分が先に行くのを想像してください」と彼は彼女に尋ねますが、おそらくその時、前に進みたいという感覚がまた直接入ってくるだろうと知っています。
それは、その同じ反応のもうひとつの側面です。
しかし、彼女はこの誘いを受けて集中することはありません。
それどころか、彼女は間髪入れずに「走りたい」が何であるかを口にする。彼女はそれが何であるか知っていると思っているのです。
セラピストは言いました。
"だから、私たちは本当は知らないのです......"
彼女は答えます。
「えーと、それは......」と。
そして彼女は、完全に筋の通った、よく練られた説明をしています。
セラピストは、自分がまだ彼女の説明に反応していないことに気づき、今度は完全に反応します
(T7): "先に進むと思わない限りは......" と、彼女の説明の続きに。
彼女は、"まさにこれ(Right!)" と言っています。
さて、セラピストは再びフォーカシングを試み、オープンに言います(T8)。
"私は、走りたいという気持ちの質にも興味がありました。" (T9): 「それを軽く叩いて見ましょう......」。
もちろん、このクライアントは、集中する方法を知っていて、以前にもやったことがあり、自分に合わなければやらなくていいことも知っていて、やりたいと思うまでやらなかったし、セラピストがここで使っているフレーズも理解しているのです。
(沈黙)
C10: 私は悪いです、私は私を罪深く(crummy)感じています。
T10: 自分に罪深いと感じるんですね。
(沈黙)
C11: 私はそのすぐ下にそれを感じることができます、この罪深さを。それは[生じて]来たり来なかったりします。私は大丈夫だと感じることもできますし、もし罪深いのが来ても、それを無視して大丈夫だと感じることもできますよ。(笑)
T11: 罪深さはすぐそこにある、すぐ下にある、それを感じる必要はないんだ。
(沈黙)
T11a: この罪深さの感じと一緒にいましょう。なぜ罪深いと感じるのか、その罪深さのような感じ[がどういう返事を返してくるのか]聞きましょう。
C12: 小さいころ、よく踊っていました。自分流にぐるぐる回っていました。でも、周りの男の子たちは私が見せびらかしていると言いました。
T12: 悪いことだって言われた。
(沈黙)
C13: 母とよくケンカしました。母がすごく怒るんです。精神科に行ったこともあります。あるとき父が来て、"おまえがお母さんに何をしているか見てみろ!"と言ったんです。
T13: 彼はあなたが母に何かとても悪いことをしているように見せかけ[ようとした]んですね。
C14: 私は自分の道を進んでいただけで、母が望むことに合わせていたわけではありません。
T14: あなたはただ自分の道を進んでいただけなのに、彼女にとってとても悪いことのように思われた。
C15: 私が傷つけているように。
T15: 自分が彼らを傷つけているように感じさせた。
(沈黙)
C16: いつもそんな感じだった...。
T16: あなたのこの部分は、何度も何度もそれを経験しました。
(沈黙)
T16a: 今、あなたの「この」部分が来て、それが私たちに話してくれていることを本当に嬉しく思い、それを歓迎することができますか?
(沈黙)
C17: それは、そんなに罪深くク¥て悪いと感じるくらいなら、むしろ逃げ出したいのです。
T17: もしそれが悪いと感じなければならないのなら、むしろ逃げ出したいでしょう。
(沈黙)
C18: さて。それは確かに、私が考えていたのとは違いますね。
この抜粋から、フォーカシングがいかにクライエント中心療法と組み合わされるかがわかる。
本当に、もちろん、フォーカシングはどんな方法とでも、その方法をあまり損なうことなく組み 合わせることができる。
小さな、しかし重要なフォーカシングの介入は何だったのでしょうか?
私は、それらが出てきたときに指摘するようにした。もっと一般的に説明しよう。
まず第一に、セラピストは、クライアントが直接感じている問題の不明確な辺縁に直接名前を付け、言及する特別な努力をします。
クライアント中心のセラピストとして、彼はクライアントが伝えるすべてのことに応答しますが、直接的に言及すると思われるいくつかの単語やフレーズに特別な時間を費やします。
私たちの例では、最初は "神経質 "という言葉、次に "逃げる "というフレーズでした。
セラピストは、クライアントにさらにそれに注目するように頼むかもしれませんし、他のすべてに反応した後、セラピストは単にその単語やフレーズをもう一度、よりゆっくり繰り返すだけです。
次に、セラピストは、クライアントがそこに集中できるような "何か "を想像します。
セラピストがフォーカシングに慣れている場合、これは、何かがどのように表現されるかに意図的に注意を払うことなく、自然に起こります。
それでも、それはフレーズの中で顕著に現れます。このセラピストは、"前に進みたがっているのは何か "について話すことによって答えました。
これは、彼女は前に進みたくないかもしれないが、彼女の中の何かに集中することで、前に進みたいという気持ちになることを暗に示しています。
第三に、もし直接的な感覚がすぐになくなってしまっても、セラピストはそれが戻ってくるように手助けをする方法があります。
もしあなたが前進することを想像すれば、前進に反対するものがあれば、それを直接感じ取ることができます。
もしあなたが全体がうまくいっていると想像すれば、かなり早い段階で、うまくいっていないものが感じられるようになります。
第四に、クライアントに直接、集中するように要求することができます:
「しばらくその感覚にとどまって、ただそれに触れて、それが何であるか考えてみてください」。
もちろん、この基本的な集中の仕方を伝える方法はたくさんあります。
すなわち、
不明瞭なものを直接感じ取ること、
自分の注意で繰り返し触れること、
それが何なのか、その中に何があるのか、それの何がそんなに悪いのか、それが何を必要とし、望んでいるかを感じ取ろうとすること、
など。
このような、まだはっきりしない感覚に寄り添う、隣にいるための様々な問いかけの方法があります。
第五に、そのようなまだ漠然とした感覚から生まれるものを受け止める集中の仕方があります。
それは、長い間黙っていた人がやっと話すのを受け取るのと同じように、その人が話したこと、開いたこと、出てきたことを喜ぶことが重要です。
これは非常に重要なことです。
クライアントの中には、内側から来るものを親身になって受け取る必要のある、大人の人間が常にいます。
「今は何もしていない、ただ聞いているだけだ、何を言っても大丈夫だ、歓迎する」という態度です。
これをフレンドリーな空間を作るという言い方をすることもあります。
最後に、(私たちの抜粋ではありませんが)時には、こう言う必要もあります。
それはここに置いておいて、しばらく待たせましょう。
一度に全部を処理する必要はないんだ・・・と。
一度に処理する必要はなく、置いておいてから、時間をかけて少しずつ処理すればいいのです。
それが可能であることを知ったとき、人は時に大きな安堵感を覚えるものです。
それは、人が触れることのできる場所にとどまることです。
しかし、人はそれとは別に、呼吸をすることができ、それがそこにあることを知ることができるが、時間がある[という感覚を持てます]。
フォーカシングを大きなグループで教える場合、このような態度で臨むと、人々は何が起こっても、そのままにしておくことができるようになります。
さもなければ、フォーカシングの初心者は、対処するには大きすぎる何かが生じていることに気づき、その日の残りの時間を過ごすことが難しくなるかもしれません。
しかし、この態度は簡単に発見でき、数分で教えることができます。
それで安心できるのです。
"つまり、私はそれを置いても、まだそれに接することができるのですね!"
フォーカシングは、内なる感覚とのこの第3の関係を含んでいて、押し込んだり逃げたりするのでは ありません。
それは、空間的な比喩を気にしなければ、隣にいることであり、横にいることです。
それはそこにあり、あなたはここにいる。それは消えませんし、あなたも消えません。
人は、このようなあり方を突然理解すると、たいてい次のような感嘆の声を上げます。
"ああ、私じゃない。私はもっと別のものだ"
ここでもう一度、フォーカシングとは何かということを述べてみましょう。
人が普段ぐるぐる回っている思考や感情と、全体としての身体感覚とは、明らかに違います。身体は一体でありは、あらゆる関心事を統一体として感じ取ります。
自分の人生経験のすべて、自分の思考、知覚、価値観のすべてが身体の中に存在し、この身体感覚による全体の形成に関連した形で参加しています。
私が何かを感じるとき、私の人生経験がこのように入り込んできます。
もちろん、私が注目するものは何であれ、この生命経験の塊を別の全体、別の組織へと再編成します。
もし私が、たった今出会ったある人物に対する私の直接的な感覚は何かと自問すれば、私のすべての人生経験はある方法で整理され、その人物に対する明確な感覚が形成されるでしょう。
それは感じられた感じ(フェルトセンス)であり、そこから何らかのフレーズ、あるいは段落単位の描写が生まれるかもしれないし、何ページも書くかもしれないが、それでも私が今持っているその新しい人物の身体的感覚に匹敵することはないでしょう。
しかし、私が次に出会う別の人もまた、私の中にそのような感覚を生み出すでしょう。
それはまた、全体的な、全体的な身体感覚でしょう。
そしてそれは、私がある問題の非常に特定の側面に集中するときにも同様です。
ちょうど私がある状況のいくつかの詳細を感じる方法。
その瞬間、私の全体的な感覚体はこの詳細に取り込まれ、私はこの詳細の私の身体的な感覚を形成させることができます。
繰り返しになりますが、細部がどんなに小さくても、それは巨大な全体なのです。
したがって、この身体的感覚を得るのに役立ちます。
"私はこれについて全く問題ないと感じていますか?"
と自問すれば、その答えはすでに分かっています。通常、人はその答えがNoであることをすでに知っています。
それでも、このように質問し、自分の身体の真ん中に参加することで、その全体的な感覚が形成されるのです。
身体は、生きていく上でのあらゆる状況や側面を、全体的な方法で感じ取っているのです。
それは、関連するすべてのものが全体として感じられるということと、その全体が前進しているということの2つを意味しています。
息を止めているとき、息が止まっているという全体的な感覚だけでなく、息を吐き出す方向がはっきりしています。
身体は合計するだけでなく、必要なこと、起こるべきこと、プロライフとなること、次のステップとなることに向かって、合計して前進するのです。
これが身体機能に関わることであれば、それは完全に明らかです。
息を吐くことが次のステップであり、お腹が空いたら食事をし、疲れたら眠る。人間の複雑な状況を察知したとき、次に必要なステップはそれほど明確ではありません。
しかし、それはトータルな感覚の一面です。
このように、人は "今、この全体がすべて大丈夫だと感じるか?"と問いかけます。
その時、ユニークな性質として感じられるものは、単にその状況において間違っているかもしれない多くの面のうちの一つではありません。
それはむしろ、身体が前に進むのを邪魔している、全体としての「大丈夫」を邪魔している、ただそれだけのものなのです。
このように、集中することは、困難の中で無我夢中でもがくこととは異なります。そうではなく、人は困難の全体を持ち上げるのです。
その全体の身体感覚が形成されるようにするのです([ただし、]通常は、それはただそこにあって待っていてくれるとは限りません)。
それが形成されると、拡散した悪い感じが中心になって、体全体がよりよく感じられ、クリアになり、呼吸があり、エネルギーが下から流れてきます。
おそらく、人が感じるものはまったく良い感じがしないので、言葉では、人がそんなに良い感じがするのは奇妙に聞こえます。
しかし、集中のプロセスは、新鮮な空気、新しいエネルギーのような解放感を感じ、自分自身を再び、その下に、自分を抑圧していたものよりも広く、異なるものとして感じることができます。
近年、「自分の感情に触れる」ということがよく言われますが、これは「自分自身に触れる」と同義語だと間違って考えられています。
もちろん、自分の感情を閉ざしていたのであれば、それに触れることは大きな一歩です。
しかし、フォーカすることは、それとは別の、さらなる一歩です。
全体の身体感覚がシフトし、何が邪魔をしているのか、何が起こるべきなのか、核心に迫っていきます。
そして、これらの中心的な「感情」の下に、またそれとは別に、新鮮な生命エネルギーが流れ込む、まったく異なる自分自身の感覚があるのです。
"ああ、私はその全体を持っている、私はその全体ではない"。
もし人がフォーカシングを知っているならば、一見ごくわずかなものをセラピーのプロセスに加えるだけで、セラピーを大いに促進することができます。
さらに、これらのフォーカシングの追加は、それを知らないセラピストが相手でも、クライアントが提供することができますし、もちろんセラピストも提供することができます。
■参考文献
心理療法におけるフォーカシング能力、人格と創造性。Shlien, J. (ed.), Research in Psychotherapy III.に掲載されています。ワシントンD.C.: アメリカ心理学会, 1967.
Gendlin, Eugene T. Focusing. New York: エベレストハウス、1978
Gendlin, Eugene T. Experiential Psychotherapy(ジェンドリン ユージン T. 体験的心理療法). 現在の心理療法において。R.コルシーニ編、ピーコック出版、1979年。
Klein, M.H. et al. The Experiencing Scale: A Research and Training Manual. ウィスコンシン大学、ウィスコンシン精神医学研究所、1969年。
オルセン、L. 視覚的イメージの治療的使用。シカゴ大学,博士論文,1975年.
ジェンドリン:統合失調症患者を対象としたクライエント中心療法における[一見]破壊的[になりかねない]言語下のコミュニケーションとセラピストの表現力の傾向 (1963)
ユージン・T・ジェンドリン, Ph.D.
(ウィスコンシン大学ウィスコンシン精神医学研究所)
訳:阿世賀浩一郎
注:( )は原文にあり。[ ]は訳者の補足
■はじめに
クライエント中心療法、特に入院中の統合失調症患者への最近の適用 [**] から、話し合いによる言葉の内容よりも、セラピーの相互作用における2人の「体験」を中心とした心理療法が登場している。
この展開は、他の心理療法各派における最近の傾向と同様である [1, 2, 3, 16, 18, 24, 25, 26, 29, 31, 32]。今日では、心理療法における相互作用を強調し、2人の人間が関与していることを強調し、議論されている言語的「内容」だけに注目するのではなく、この2人の人間に起こっている具体的な主観的出来事に注目する傾向が強くなってきている。
この展開の基本は、心理療法には(どんな名前であれ)「経験」、つまり身体的で内側に感じるプロセスが含まれ、その方法と意味は相互作用に影響されるという見方である。内側に感じた身体の出来事がどのように「意味」を持ち、「探求」され、「象徴」されうるか、そしてこれらの具体的な暗黙の「意味」が相互作用によってどのように影響を受け、変化しうるかという理論的問題には、ある程度の注意が払われている [4, 23] 。
心理療法が具体的な感情のプロセスを含むと広く考えられている現在、認知的なシンボルと探索の(依然として重要な)役割については、あまり特定されていない。
異なる心理療法流派は、異なる認知語彙を使用しますが、彼らの患者やクライアントは、これらの語彙のいずれかを使用して動作することができるように見える。
どうやら、どんな優れた語彙でも、「ワークを通して」対話するための象徴的な道具として用いることができるようである。
それは,パーソナリティの問題は,経験の「前概念的」な意味にあるように思われる。
この論文は,1961年にニューヨークで開催されたAPA大会のシンポジウムで,「入院中の統合失調症患者に対する心理療法プログラムにおける治療的・研究的進歩」と題して発表されたものである。
このプロジェクトは、人間生態調査協会とウィスコンシン同窓会研究財団の支援を受けていた。現在は国立精神衛生研究所の支援を受けている。このプロジェクトは、ウィスコンシン大学ウィスコンシン精神医学研究所とウィスコンシン州マディソンのメンドータ州立病院において、カール R. ロジャース博士、ユージン T. ジェンドリン博士、チャールズ B. トゥラックス博士が指導し、W. J. アーベン博士と G. タイブリング博士の協力で行われている。
どうやら、「どの」語彙を使うかというよりも、「どのように」使うかが問題であるようだ。経験への「直接の言及(direct reference)」に使うのであれば、多かれ少なかれどんな語彙でもうまく使うことができる。
抽象的な説明の代用として使うのであれば、どのような認知語彙もあまり建設的な人格変化をもたらさない。
もちろん,これはこれまでの研究成果よりもはるかに多くの裏付けを待っている意見であるが [7, 10, 15, 17, 27, 28, 30],治療的思考における現在の広範な傾向であることは間違いない。
言葉の最善の使い方だけでなく,セラピストの行動の最善の使い方も,セラピストの行動が「何で」あるかよりも,その行動が個人の経験に「どのように」関連し影響を与えるかに依存するように思われる。
例えば、セラピストがこう言ったとしよう。
"あなたが感じていることの多くは、とても言いにくいことだと思います。"
あるセラピストの行動は、セラピスト自身の現在進行中の経験とある関係を持っている
(この例では、クライアントに対する暗黙の思いやりと関心、そしてクライアントからあまり連絡がないことへの失望を表現している)。
またその行動はクライアントの現在進行中の経験ともある関係を持っている(クライアントの恐れと自己表現能力について何かを意味し、不明瞭だけど辛い現在の感情を持っているとする)。
セラピストがすべきこと、してはいけないことを特定しようとする試みは、今日、どのような「行動」が使われるかというよりも、どのように「使われる」かということに関心を持つ傾向がある。
さらに、この「どのように」は、その行動が二人の体験にどのように関わるかに関わる。
例えば、数年前にクライアント中心の "テクニック "というものがあった。
それには、次のようなルールがあった。
セラピストは質問をしてはいけない。
セラピストは自分自身の感情を表現してはならない。
セラピストは、クライアントから来たものでないものは、何も注入してはならない。
セラピストは、クライアントの現在の、部分的に表現されていない感情を(可能であればより深く)言い換えるべき[とされていた]。
これらのルールの根底にある原則は、今も変わっていない。
しかし、今日、私たちはこう言えるかもしれない。
セラピストが質問する場合、クライアントの経験を指摘するか、セラピストが質問しなければならない暗黙の理由を述べることで、相互作用をよりオープンにし、おそらくより暖かくパーソナルにすることができる(セラピストはおそらくクライアントに対する何らかの興味や関心のために質問をするので)。
今日[なら]、私たちはおそらくこう言うだろう。
セラピストは、非常に無表情で、外在化され、やる気のないクライアントと仕事をするときは、自分の感情をよく表現しなければならない。もしクライアントが、相互作用を親密で、意味のある、目的のある、親密なものにしようという考えも意図も持っていないなら。
セラピストは、クライアントとの関係に関する自分の考えや感情を表現することで、自分の意見をクライアントの経験に押し付けることなく、それを可能にすることができる。彼は、クライアントの経験に最大限の関心と希望を示すことができる[9, 10, 14]。
上記のパラグラフは、基本原則が同じであっても、セラピストの行動の「種類」ではなく、セラピストの 経験からどのような「反応様式」が生じるか、そしてそれがクライアントの経験に「どのように」関わるかを説明することを意図している。
■この論文の目的
この論文の目的は、言語下の(subverbal)コミュニケーションとセラピストの表現力がどのように機能するかについて、いくつかの仕様(specifications)を提示することである。
このような仕様が必要なのは、もしセラピストがどんなことでも、どんな方法でも「表現」することをルールとするならば、明らかにガイドラインが全くない状態になってしまうからである。
しかし、そのような仕様は、セラピストの自己表現が治療法の一部となりうるかどうかではなく、どのようにセラピストの自己表現が機能しうるかに関わるものである。
同様に、「言語下的な」コミュニケーションは常に神秘的に聞こえるが、クライアントが何を意味しているのか、それが何なのか言えないとき、誰が知ることができるのであろうか?
繰り返すが、私が提供したい仕様は、クライアントが「何を」意味しているのか(そして、クライアントが「何を」意味しているのかを私たちがどう推測するのか)についてのものではない。
この仕様は、クライアントとセラピストの言葉が、経験することを指し示し、参照するためにどのように使われるかに関係している。
ここで提示された仕様は、セラピーにおいて何が最も効果的であるかということについての合意を必ずしも必要とするものではない。
むしろ、区別と仕様の語彙を構築しない限り、何が最も効果的であるかを議論することさえできない。[こうした区別と仕様の語彙を構築すれば、]ある特定の方法が効果的かどうか、議論することができる。
この論文で私が主張したいのは、そのような語彙は、異なる「流派」の間の区別(「感情の反映」、「解釈」など)によって死活的に残るのではなく、「経験」の役割に関する区別に基づくべきであるということである。
このような語彙は、すべての療法の流派に適用できるものであるが、どのような明確な反応様式が望ましいかについては、誰もが同意する必要はない。
■統合失調症患者と神経症患者・・・いくつかの研究結果
精神療法は神経症患者でも精神分裂病患者でも同じプロセスであるように思われるが、精神分裂病患者に見られる違いは重要で、[それは]通常の精神療法では見過ごしてしまうような要因が、ここでは大きく書かれており、避けられないものだからである。
そこで、私たちの研究成果をいくつか引用してみたいと思う。
たとえば、通常のセラピーでは、外在化の問題やつまらない話をすることを見過ごしがちである。
しかし、もし私たちがセラピーを受けるほぼすべての人がこの問題に直面したとしたら、私たちの反応はどれほど違ったものになるであろうか。
その場合、私たちはその問題に対処するために何かをしなければならないであろう。
統合失調症患者に対する心理療法の効果について、私たちはまだ決定的な結果所見を持っているわけではない。
ゆえに、私が話すことは評価的に値するものであるかどうかは未確定である。
むしろ、私たちがセラピーセッションで実際に行っていることや、どうして今のように進めるようになったのかについて述べたいと思う。
私たちが関わっている「統合失調症」と診断された入院患者のサンプルは、年齢、社会教育階級、性別、入院期間に基づいて選ばれたものである。
このような方法によって、心理療法は、意欲的な人、スタッフに手を差し伸べて応えてくれる人、あるいは、最もあからさまで劇的な病気を抱え、困難なケースとして注目される人に行われることが多いという、通常の選択方法を避けたのである。
そうではなく、私たちのサンプルは代表的なものを選んだ。
「統合失調症」と呼ばれる入院患者のほとんどは、このような、やる気もなく表情も乏しい人たちから構成されていると思える。
このような人たちに対して心理療法を行うことの問題点は広く議論されており、これから述べることもその一環である。
ここでは、このような人たちの初期の特徴と、彼らとの治療がどのように進行していったかを表す研究成果を紹介する。
神経症患者を対象とした以前の研究では,カートナー療法内行動尺度 [17] が使用されていた。
この尺度は、最初の面接の評価から治療の成功または失敗を予測するものであった。神経症患者の最初の面接で、感情的な困難の表現が極端に少なく、自分の性格がどのように困難の原因となっているかをほとんど認識していない場合、失敗が予測された。
この尺度をサンプルの初回面接に適用したところ、18の初回面接のうち15が失敗を予測することがわかった。
つまり、これらの人々は、やる気がなく、表現力が乏しいことに加えて、通常、自分以外のことを話すことからセラピーを始めており、これは先行研究から判断して予後不良であることを意味する。
このような人たちは、話すことと沈黙することの両方を、非表現的な方法で用いる。
つまり、話すことと沈黙することの両方が、セラピストに意味のあるコミュニケーションのきっかけを与えるという問題を提起しているのである。
我々は、統合失調症患者の2回目の面接における発話と沈黙のパターンを、神経症患者の2回目の面接と比較した。
比較の結果、0.002の有意水準で[11]、統合失調症患者は神経症患者よりはるかに多く話すか、さもなければはるかに多く沈黙していることがわかった。半数の精神分裂病患者は面接で1%以下の沈黙か、40%以上の沈黙を示す。
この初期の治療行動は後に変化する。
30回目の面接では、カートナー評価は13人中3人しか失敗を予測できない。
このように、彼らの行動は、感情的な困難を表現し、自分の人格がその困難に関与していると見なす方向に大きく変化している。
カートナー尺度で評価されたこの行動の変化は、経験尺度の変化と有意に相関している [12] 。
このように、これらの人々は、治療過程の連続体に沿った動きを示している [5、6、20、21]。
MMPIもまた、この変化を反映している [13] 。
当初、失敗が予測された人・・・面接で明確な感情的困難をほとんど表さない人・・・は、臨床的MMPI病理も低く、防衛性も高い(KとL)。
これらの被験者を最初のカートナー評価で最も失敗が予測された順に並べると、6ヶ月後には彼らのMMPIプロファイルは完全に変化している。
最も失敗が予想される半数のうち1人を除いて、上位2つの尺度さえも異なる尺度になっている。
また、Dスケールの得点も急上昇している。
この変化は、基本的な性格が大きく変わったというよりも、本当の自分を表現できるようになった、嫌な気持ちを表現できるようになったということだと思える。
このように、MMPIや治療中の行動尺度、プロセス尺度によって測定されるように、私たちは、これらの人々がよりオープンに自己表現し、治療のプロセスに参加するようになることに、かなりの程度成功した。
カートナー尺度は、失敗を予期している人は、当初もその後も本物の治療行動をとらないという認識から生まれた。
しかし、神経症患者の中でそのような人はごくわずかな割合に過ぎない。
統合失調症の患者にはこのような初期の治療行動が多く見られるため、やる気のない人、外向的な人、沈黙している人に真の治療を行うための方法を開発することが不可欠であっ [8]。
■セラピストの表現力
統合失調症患者の研究では,セラピストが表現するある種の態度が,クライアントの変化の量と治療過程の質を決定すると予想されることが大きな仮説となっている。
ロジャーズ [19, 22] は、心理療法に必要かつ十分な3つの条件を仮定した。それらは 「共感」、「無条件の配慮」、そして「一致」または「純粋性」である。この最後の "一致 "は、セラピストがいかなる個人的な、あるいは職業的な人工性を捨て、"自分自身 "でいることを意味する。
統合失調症患者への治療では、この条件がますます重要になってきている。
私たちは、決まり切った表現、それも、クライアント中心型の共鳴様式の最も特徴的なものである、「感情の反映」と呼ばれるものから非常に自由になってきた。
「共感」という言葉が示すように、私たちは、クライアントが感じている感覚を、クライアント自身の内側にある参照枠(inner frame of reference)から理解しようといつも通り努力する.
今ではセラピストがクライアントに対応するさまざまな行動の幅が広がっている。
純粋さ、あるいは「一致」には、自発的なさまざまな行動が含まれる。
ロジャーズがこの「一致」の条件を不可欠なものとして定式化したのは、定型化された対応方法への望ましくない傾向もあったのだと思える。
純粋に「自分自身である」ことは、セラピストがより表現的になることを意味する。
セラピストは、自分自身の感情やその瞬間の経験を表現することが多くなった。
クライアントが自分を表現すれば、当然、セラピストの現在の体験は、クライアントの意味を共感的に感じ取ることになる。
しかし、クライアントが自己表現をしないとき、セラピストの瞬間的な体験はまだ空っぽではない。
どの瞬間にも、セラピストには非常に多くの感情や出来事が起こる。
これらのほとんどは、クライアントと今この瞬間に関係している。
セラピストは、クライアントが何か親密なことや治療に関連することを表現するまで、受動的に待つ必要はない。
むしろ、セラピストは自分自身の瞬間的な体験を引き出し、そこから常に存在する貯蔵庫を見つけることができ、たとえやる気のない人、沈黙している人、外向的な人でも、治療的交流を始め、深め、継続させることができるのである。
また、セラピストにとっての「一致」とは、常に良い面を見せたり、常に理解したり、賢かったり、強かったりする必要はない、ということである。
私は時々、自分が非常に目に見えて愚かであること、間違ったことをしたこと、自分を馬鹿にしたことがあることに気づく。
私は、相互作用の中で、自分のこのような側面を可視化することができる。
セラピストが自分自身であること、そして自分自身をオープンに表現することは、私たちを多くの障害や人工物から解放し、精神分裂病患者(あるいはどんなクライアントでも)が他の人間とできるだけ直接触れ合うことを可能にしてくれる。
しかし、かつての治療行動のガイドラインの多くは消えてしまったように思われる。
基本的な態度だけが規定され、それを表出させるために何をするかは規定されていないのです。つまり、何でもやればいいということなのだろうか。
この治療者の表現方法について、さらに3つの観点から説明しよう。
(1) 「押し付けない」こと。:
異常に防衛的で、引っ込み思案で、恐れを抱く人に対しては、自分を押し付けないことがこれまで以上に重要であることがわかる。押し付けないということは、どのように一貫しているのであろうか。
[これと、]自分をもっとオープンに、もっと積極的に表現し、自分を表現することで人間関係を始めるセラピストと、どのように整合性がとれるのであろうか。
暫定的に、私はその答えを考えている。
もしセラピストが自分自身を表現するのであれば、つまり彼自身の想像力、彼自身の感情、欲求、彼の中で起こっている出来事、そしてこれを彼自身について、あるいは彼の中で今起こっている出来事についてはっきりと明確に表現するのであれば、セラピストはより活動的になり、同時にこれまで以上に押しつけや脅威を感じなくなることができる。
このようにして、彼は自分自身をよりオープンに共有するが、クライアントの経験に自分の見解を押し付けることはない。
セラピストは「自分自身のために」話しているのである。
彼は、クライアントの経験空間に何かを押し付けたり、強制したり、自分の中の出来事とクライアントの中の出来事を混同したりすることはない。
(2) "セラピストの自己注意[セルフ・フォーカシング]のわずかな時間":
自分の内側から真に反応するためには、もちろん、自分の内側で起こっていることにある程度注意を払わなければならない。
クライアントとやりとりしているとき、私の中で起こっていることの多くは、クライアントと関係がある・・・クライアントに対する私の想像、彼の反応に対する私の観察、彼に対する私の反応などで構成されている。
しかし、私の中では、これらは「私のもの」として、私として起こっているのである。
それらは「彼」についての「推論」ではない。
それらは今「私に」起こっていることであり、彼と「共に」生きた瞬間なのだ。
これらを定式化し、表現するために、私は自己注意のいくつかのステップ、私が感じていることに注意するいくつかの瞬間を必要とする。
そうすると、たいていの場合、[患者と]共有したいことがたくさん出てくる。[しかし、]私の中で起こっていることをすべて表現しているというのは間違いであろう。
なぜなら、どんな瞬間でも私の中では1000ものことが起こっており、これらの1000のことを個別に定式化することも、ましてや表現することもできないのであるから。
また、思いついたことを即座に口にすることもない。
クライアントに対して、あるいは私たちの間で起こっていることに対して、あるいは私たちの沈黙に対して、私は自分の中に何らかの反応を見出すことができるからである。
ほとんど何も語られていないときでも、私は自分の願望、恐れ、失望、そしてより有意義なコミュニケーシ ンへの願いがあることに気づく。
私はこれらを声に出すことができる。
ほんの少し自己注意を払うだけで、私はその瞬間に対する自分の純粋な反応を見つけることができる。
クライアントが話している間、私が退屈に感じても、"You bore me. "とは言わない。
数秒間、自分の経験に注意を向けることで、私の退屈は、私がクライアントから何か、興味深く、個人的なものを見逃していることに起因していることに気づく。
私は、私が見逃している彼のこのパーソナルな表現を強く望んでいることに気づいた。
私はそのために多くの歓迎を受ける準備ができていて、それが無駄になっていることに気がつく。
彼の言葉の流れに欠けていると感じるパーソナル的なコミュニケーションの種類を想像することができることに気がつく。
私は、これらの欠如、願い、想像の感覚を表現し、「私のものとして」表現することができる。
誰かと一緒にいるときの「私自身の」感情のプロセスの多くは、通常、相手に関連するこうした特定の瞬間的な出来事、反応、願い、そして感覚から構成されている。
たとえば、私がちょうど何かを言って、[患者から]何の反応もなかったとする。
それは非常に間違ったことを言ったかもしれないと思えて来る。
[しかし、]間違ったことをしたことについて、単に悪いと思う必要はない。
私はそれについて悪いと感じ、なぜそうなのか、また、これがたまたま「私が」今感じていることであり、しかし、患者が今感じていることについては全く確信が持てないということを言うことができる。
数秒間の自己注意は、ほとんどいつも、私の感じていることに2つの進展をもたらす。
(1)それは、彼についてというよりも、むしろ本当に私についてのものになる。
(2)それを共有することがより可能になる。
このように、それは対話の瞬間のクライアントに対する私の純粋な瞬間的反応であるにもかかわらず、それは純粋に私のものでもあり、彼が経験するものに押しつけるものではない。
私は、それが真実であるとき、彼がその瞬間に何を感じているのかまったくわからないと言うことができる。
このように、私が述べた二つの仕様はお互いを必要としている。
「押し付けない」ことは、私が本当に感じていることを見つけ、それを私のものとして、押し付けないように述べることができるように、「わずかな時間の自己注意」を必要とするのである。
(3) 「濁りのない応答性」
ここで、セラピストの表現力の3つ目の仕様を追加したいと思う。
クライアントが親密なもの、あるいは自己表現的なものを何も与えてくれないとき、私は自分自身の一瞬の貯蔵庫から、彼への応答-彼とこの瞬間の私の親密な表現を見つけなければならないのである。
しかし、クライアントが私に自分自身を表現する過程にあるとき、私は主に彼の表現の感覚を自分の中に見出し、彼が何を感じ、何を考えているかを、濁りのないシンプルさで彼に伝えようとする。
私が彼の経験を彼のものとして(彼自身の参照枠からできるだけ純粋に)感じ、述べることは、私の経験的な自己表現が私のものであることを明らかにすることと同じくらい重要である。
クライアントが自分自身を表現しているときに、セラピストがクライアントの考えや感じていることを単に述べる応答は、非常に多くの場合、強力に効果的な応答となる。
多くの場合、それが唯一可能な有効な反応である。
私は、セラピストの表現力の3つの仕様について説明した。
「押し付けがましくなく、自分の自己表現を述べること、セラピストがその瞬間の本当の反応を見つけることができる「セラピストの自己注意」、
クライアントが自己表現をしていて、セラピストがクライアントのメッセージを主に自分の中で感じているときにクライアントの気持ちや考えを述べる「泥臭い反応のないこと」
である。
統合失調症患者や他の多くの人々との関係を始めるのはセラピストであり、もし誰かが始めるとしたら、オープンな表現的相互作用を始め、最初に温もり、ケア、興味、人と人との質を表現することあろう。
もしセラピストが受動的に座っていたり、押しつけがましく主張しなければならないなら、セラピーや人間関係を望んでいない人と関係を築くことはできないと思える。
セラピストの瞬間瞬間の表現力は、少なくとも最初は、そして特にやる気のない人に対しては、相互作用の質を大きく左右する。
セラピストの自己表現は、たとえクライアントが一貫して沈黙していたり、つまらないことしか表現していなくても、相互作用をイベント的、個人的、そして表現的にすることができるのでる。
セラピストの表現・・・自分の中で起こっている出来事・・・が話されると、[患者は、]相互作用に関心を持ち、それを深めてくれる。
どちらか一方が自分の感じている側を言葉にしている間でも、両者とも出来事的でオープンでパーソナルな相互作用のプロセスを経験する傾向がある。
ここで、2つ目の主な観察について述べたいと思う。
■言語下における非言語的な相互作用
おそらく統合失調症患者にとって破壊的[になりかねないかに見える]相互作用が重要なのは、彼らの経験の多くが伝えられないものであり、その性質上、他の人々から切り離されているように見えるからであろう。
多くの場合、語られる内容はほんの少しで、おそらくは奇妙なもので、その内なる混乱から生じるもので、その伝わりにくい意味は、言葉の内容よりも非常に大きく、異なるものですある。
個人が経験することの伝えがたい性質と、他の人々から切り離されているという事実によって、人は言葉の内容の断片に反応するのではなく、経験することに反応することが要求される。
このようにして、人は、正常に機能している個人が生き、感じているつながり、対人関係の相互作用のプロセスを回復しようとする。
(1) 経験に言及した言葉への反応。
これは、言語化されたものがないと不思議と「体験」に反応しないということではない。
むしろ、言語化の捉え方が違う。
言葉の「内容」にこだわるのではなく、問うてみるのだ。
このちょっとした言語化は、より大きな内なるプロセスから来ているのだろうか?
この質問に対する答えは、セラピストだけが想像できる、クライアントの概念的には曖昧だが具体的な感じ[=一定のフェルトセンス]意味である、感じられた「何か」であろう。
しかし、セラピストはそれを知る必要も、推測する必要も、正しく想像する必要もない。
セラピストは、それが自分にとってどんなに未知のものであっても、自分の反応をそれに向けることができるのである。
例えば、私のクライアントは、病院に強制的に戻させる電子機械が、病院のどこにあるのか知りたいと言っている。
そのような機械があることを証明できると彼は言う。
病院の外に出る権利を持つ患者が自らの意思で病院に戻るという事実を、他にどう説明することができるであろうか?
もちろん私は、そんな機械は存在しない、存在するならば私は知っている、その件に関して真実を語る私を彼は信用していない、彼は非現実的な幻想を抱いている、と反論することができる。
あるいは、もっと彼の感情に近い言い方をすれば、病院が嫌いで、誰かが自ら進んでそこに来るのが理解できない、ということであろう。
しかし、この機械について語るとき、彼は何を経験しているのだろうか。
このちょっと奇妙な言語化の元となる「前概念」あるいは感じられたプロセスは何なのだろうか。
もちろん、私にはわからない。しかし、私は何とかしてそれに応えたい。
そこで、私は彼にこう言い返した。
「支配されていると感じるか?」
"もちろん、そうだよ "
と言うと、彼はその機械が "自分ではない "と感じさせると言い出したのである。
この言葉は、私が言葉を向けた内なる体験の何かを、何らかの形で私に伝えていると認識した。
私はこの例を使って、私が「経験」に言葉を向けるとはどういうことか、つまり、人があまり知らない広い内なるプロセス、それがそこにあること、そしてそこから(あるいはそれに関して)言語化が生じることを説明できる。
実は、私は彼が経験したことを正しく想像していなかったのである。
私としては、彼が内心で機械に強いられたと思っていたのですが、彼の次の言葉は、彼の体験の別の、予想外の、しかしやはり理解できる側面を表していたのである。
そして、こういうことがよくある。
しかし、常にそこにあるこの体験に反応することで、言語化の元となる深い意味でのコミュニケーションの可能性が生まれるのである。
この男性は、「自分らしくない」のは、小学生のときに両親が田舎に引っ越したため、雪の中をバスで何キロも通学しなければならなかったせいだと言った。
それだけで「自分らしくない」と感じるはずがない、と[読者は]思うかもしれない。
しかし、この記憶は、彼が "自分らしくない "と感じ始めた頃からの記憶のページェントの一部であるように感じられるのだ。
私は、延々と続く奇妙な、雪の降るバスの旅を想像し、彼が知っている人たちから切り離され、遠く離れた、雪の降る田舎で、その長い年月のすべてを、彼が今感じていることを感じるのである。
私は、このバスの旅と切り離された感じについて何か言い、私たちは新しいコミュニケーションの手段を確立しました。
彼もまた、"切り離されている感じ(feeling cut off) "という言葉を使うようになった。
しかし、もっと重要なことは、私は、彼が話しているときに、ちょうど彼の中で起こっていた、感じた意味や思考の塊、つまり感じつつあることプロセスに対して話したのであって、彼が言葉のコミュニケーションとして「話した」ことに対して話したのではないのである。
そして、このようにして、しばしば非常につまずきながらも、奇妙な、あるいは外在化したつまらない言語化にもかかわらず、次第により意味のあるコミュニケーションができるようになるのである。
(2) 経験することに関する沈黙への対応。
しかし、私は簡単な例を選んだ。
この人が電子機器について話す前に、私たちは6時間一緒に過ごし、雑学と沈黙だけであった。
彼はまだほとんど何も話してくれないのに、私は彼に答える必要があった。
私が彼と何をしようとしているのか、彼は知りたがった。
私はいつ終わるのか、いつ彼はもう来なくていいのか。
いつになったら彼は家に帰れるのだろう。
彼は何も言えなかった。
沈黙、さらに沈黙。あるとき私は、彼がとても静かに座って考えているように見えたこの沈黙を破って、こう言ったのです。
「あなたは何か重要な考えや感情を抱いているようですね。もちろん,私は知らないが,そう想像しているです。私は邪魔をしたくないのですが、もしあなたがその考えを私と分かち合いたいと思うのなら、そうしてほしいのです」。
[すると、]彼はとても大きな声で言いました。
「何?私って誰?何、何を考えているんだ?」
彼が驚いているのは明らかだった。
また、私の発言を不適切、虚偽、愚かだと考えているようだった。
しかし、このような瞬間に耐えることは必要である。
もし今そうでなければ、そしてどちらかがそうさせなければ、私たちの交流は温かく、親密で個人的なものになることはできないのではないでではなかろうか?
しばらくすると、私のそのような表現、想像、あるいは私たち二人が重要な感情を持っているという暗示は、もはや驚いた拒絶で満たされるのではなく、しばしば同意に近い沈黙で、そして後に、私たちの沈黙の時間が裏腹に重要で、深く、出来事的であるとクライアントの側が明確に感じ取れるようになる。
あるクライアントは、こう言った。
"私はしばらくの間、静かなセラピーを受けています"
この破壊的な相互作用で起こりうる内なる感情のプロセスをさらにうまく説明できたのは、その後、彼女がもっと具体的に説明できるようになったときであった。
彼女はこう言っている。
「動揺すると、息ができなくなるんです。もちろん呼吸はしているのですが、できない感じなのです。でも、ここに来てしばらくすると、息ができるようになるんです」。
このような沈黙の中に、内なる流れ、内なる感情のプロセスがあり、それが生きてくる、あるいは解放されるということなのだと思える。
沈黙が重要であるように見える、[しかし、]沈黙の間だけに破壊的[になりかねない]相互作用が起こると言っているのではない。
会話から得た最初の例では、私たちは沈黙と言葉(そして沈黙の前後の言葉)を観察しているが、それ以上のことがその人の内側にある感情のプロセスで起こっていることを示そうとした。
多くの場合、彼の言葉や様子から、この感情のプロセスに対応するためのヒントが得られる。し
かし、何もないときでも、このプロセスに反応し、言葉を向け、自分自身の感じられたプロセスから何かを表現することができ、それによって、深く重要な言語下における相互作用を生み出すことができるのである。
(3) 体験に関連した不完全な言語化に対する応答。
極端な例として、ある男性と半年近く隔週で面接したときのことがある。
病棟で彼の隣に立つというものであった。
私が彼にオフィスに来てくれと頼むと、彼はいつも口答えをした。しかし、私にあっちへ行け、放っておけと言うだけであった。
しかし、私が病棟で彼の隣に立つようになると、彼は、私が立ち去るとわかっているにもかかわらず、たいてい1時間ずっとそこにいるのである。
そのような時間、私たちは多くの視線、動作、そしていくつかの文言を交わすことになる。
しばしば,つまり無言の数分ごとに,私は自分が感じている緊張感や,沈黙がうまくいくようにという願い,また,彼から話を聞きたい,彼が私に対して不快感や緊張感を抱いていることを知っている,というようなことを言うことがあった。
しばらくすると、彼は毎回1つか2つの文章を言うようになった。
その多くは、現在進行中の多くの内的混乱、感情、思考から生じたと思われる要約のようなもので、次のようなものであった。
その中には、
「私は頭がおかしいのかもしれない」、
「誰かが人を利用しなければならない」、
「あなたは私に賛成なのか反対なのかわからない」、
「彼らには心がない」、
「肩を抱いて揺すって目を覚ましてやりたい」、
といったような、現在進行形の心の葛藤や感情、思考からくる要約のようなものが含まれていることが多い。
そんな表現がないまま、何時間か過ぎてしまうこともあった。
私が言葉で応じると、
"プレッシャーをかけないで"
"好奇心が強すぎる"
"私に反対しているのかもしれない"
"今日はひどい暑さだ "
などと、静かにしている方が話しやすいことを教えてくれることもあった。
私のちょっとした動きや、不明な点、言葉遣いに、彼は突然黒い目で反応したり、3フィートも跳びはねたりするのである」。
だから私は、彼が話している間は黙っていることを覚え、おそらく数分後には、それについて私が考えていることを彼に話すかもしれない。
その数分後には、そのことについて私が考えていることを話すことができるだろう。
私がこの男の隣に立って沈黙していたとき、何も起こらなかったかというと、そうではない。
明らかに、彼は自分の中で非常にアクティブで、私にとっても、彼の中のプロセス、そしてそのプロセスのクオリティに、私が大きく関わっていることは明らかであった。
このような相互作用を私は "言語下の(subverbal) "と呼んでいる。
初期のインタビューから後期のインタビューへの発展は、言語下の相互作用の確立を含んでいる。
量的には、2回目から30回目のインタビューまで、発話と沈黙の比率は変わらない[11]。
しかし,カートナー尺度や経験尺度の知見が示すように,沈黙が下位言語的に重要で治療的であるばかりでなく,言語化もより重要なものとなっていくのである。
このように、言葉を介さない相互作用は、言葉による治療をあきらめるのではなく、むしろ、あらゆる瞬間にあらゆる人の中に起こり、その中で心理療法が行われる「経験」 [4, 21] という深く広い感情のプロセスに到達するものなのである。
言葉は、いかに関連性があろうとなかろうと、そこからのメッセージであり、経験の象徴に過ぎないのである。
私は、その人がこの大部分破壊的な相互作用の中で快方に向かうのか、それとも、より言語的に困難を克服することによって初めてそうなるのか、わからない。
私たちの観察によると、少なくとも初期の段階では、そしてしばしば後期の段階でも、心理療法は個人の中で起こっている感情のプロセス(「経験」)に基づいた、主に言葉による相互作用で成り立っているようである。
対話の場でのセラピストの自己表現は、この言語下の相互作用を生み出し、このフィーリング・プロセスのあり方に治療的な影響を与えることができるのである。
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[20] ロジャーズ,C. R. 心理療法のプロセス・コンセプション(A process conception of psychotherapy). The Amer. Psychologist, 1958, 13, pp.142-149. また、『人になることについて』(On Becoming a Person. Houghton-Mifflin, 1961, pp.125-159.
[21] ロジャーズ,C. R. 心理療法におけるプロセス測定のための暫定的尺度. E. A. Rubinstein and M. B. Parloff (Eds.), Research in Psychotherapy.に収録されています。アメリカ心理学会、ワシントン、D.C.、1959年。
[22 ] ロジャーズ,C. R. クライエント中心志向の重要な傾向. D. Brower and L. E. Abt (Eds.), Progress in Clinical Psychology, Vol.IV, New York.に収録。Grune and Stratton, 1960, pp.85-99.
[23]シャッター,S.,シンガー,J.感情状態の認知的,社会的,心理的決定要因. 心理学評論,第69巻,第5号,1962年.
[24] シェイファー,R. 治療状況における生成的共感. The Psychoanalytic Quarterly, Vol.XXVII, pp.342-373, 1959.
[25] Scher, J. M., Geisser, S., and Campaigne, H. M. The psychotherapeutic transaction(心理療法的トランザクション): 運用モデルと分析システム. J. 実存精神医学,Vol.1,No.4,1961.
[26] Shoben, E. J., in a symposium entitled "The Empirical Status and Future of Psychotherapy", American Psychological Association Convention, St.Louis, 1962.
[27] Tomlinson, T. M., and Hart, J. T. A validation study of the process scale. J. consult. 心理学, Vol.26, No.1, 1962, pp.74-78.
[28] トゥルーアックス,C. B. 集団精神療法のプロセス。集団心理療法のプロセス:仮説的治療条件と個人内探索の関係. Psychol. Monogr., 1961, 75, No.7 (Whole No.511).
[29] ヴィドール,R. 変化する時代における実存的分析の問題点. J. 実存精神医学, Vol.II, No.5, 1961.
[30] Walker, A. M., Rablen, R. A., and Rogers, C. R. Development of a scale to measure process changes in psychotherapy(心理療法におけるプロセス変化を測定する尺度の開発). J. clinc. Psychol., 16, 1, 1960, pp.79-85.
[31]Current Psychiatric Therapies, Vol.II, New York, Grune and Stratton, 1962 に収録されています。
[32]Whitehorn, J. C. 精神分裂病患者の予後にとって重要な要素としての医師の研究. ジョンズ・ホプキンス病院のヘンリー・フィップス精神科クリニックからの論文。
インテックス大阪 の 即売会 は、コミックマーケットの一函ぶんの空間で、一般入場者もコミケと同じくらいの勢いでした。
東京は夏冬の コミックマーケット で十分ですが、大阪は時折サークル参加していいかなと思いました。
↓ サークル入場券。
自分に思い込みがあったと反省する人の弁は尊重したいが、人に対して思い込みが過ぎると批判することは慎みたい。
誰でも自分自身や他者や社会について、テキトーに思い込んでいるからこそ、自我の安定は保たれているのではないか。
それなら、「私はあなたとは違う見解なのですが」と伝えるべきだろう。
「認知の再構成化」というのは、正答があるわけではなく、実は果てしなく続くステップの積み重ねなのだろうと思う。
これは単なる 「価値相対主義」とは違う。価値相対主義というのは、相手のことが「わかって」もいないのに「わかった」フリをすることだ。
およそ、「他者」との交流はすべて「異文化交流」とみなすべきであり、相手のことを「全然わかっていない」という手探りのつもりでなされるべきである。
そういう意味では、カウンセラーを見抜くのは簡単である。
人間の心のことならなんでも「わかっている」かのような発言をするカウンセラーはすべて偽物であり、「わからない」「理解できない」という前提で、ひとりひとりと一歩一歩関係づくりをしていくのはホンモノだ。
こういう問題になると、#中島みゆき は本当に辛らつだ。
「包帯のような嘘を見破ることで 学者は世間を見たような気になる」
世情/中島みゆき (歌詞付き)https://youtu.be/tk4VnGWU-cY
@YouTube
より
誰が悪いのかを言い当てて
どうすればいいかを書き立てて
評論家やカウンセラーが米を買う
時刻表 #中島みゆき ギター弾き語りcover https://youtu.be/4VEwH3TQPqo
@YouTube
より
君の心がわかるとたやすく言える男に
なぜ女はついていくのだろう
そして泣くのだろう
空と君のあいだに - #中島みゆき (フル) https://youtu.be/U2jEWTrExsg
@YouTube
より
「ここにいるよ」
でいいのだ。
「ポプラの枝になる」
でいいのだ。
ある意味で「呆然としながら」クライエントさんのそばに「たたずむ」ことしかできないことこそ、カウンセラーが「失ってはならない『初心』」である。
その意味では、経験不足の若いカウンセラーの方が「神のかたわらにいる」。神に愛されている。
「理論」や「技法」はすべて、「カウンセラーが」身を守るための「必要悪」としての「武装」である。
理論や技法も身につけた上で、それを杓子定規に行う段階を「卒業」する必要がある。
そうなって、はじめて、クライエントさんに寄り添えるようになり、カウンセリングの成果が幅広く出せるようになる。
およそ臨床的「概念」というのは、「その」概念を発案したレジェンドの臨床経験においてぴったりだった「象徴化」であるに過ぎない。
「その」レジェンドにとって、どういう患者と、どういう流れの面接過程でそれが発案されたのかを「追体験」する必要がある。
ただし、フロイトの「狼男」の症例について、本人へのインタビューで明らかになったように、レジェンド自身が、自分の事例を好都合に書き換えていることも少なくないことには留意すべきである。
これはすべての「事例研究」にいえることである。
そして「当事者研究」が意味をもつ理由でもある。
「臨床」とは、本来、患者のベッドのそばに「たたずみ」、せいぜい包帯を変えたり、水枕を変えたり、消化のいい食事を供することしかできなかった援助者の、圧倒的な「無力感」との戦いの中にこそ原点がある・・・ということぐらいは「まずは」教わるよね。
実は、ナイチンゲール の人口に膾炙した伝記は、彼女がクリミア戦争ではじめて傷口を清潔にする実践を行ったかのようになっているが、これはウソ。
ナイチンゲールは、野戦病院に送られてくるのが「遅すぎた」せいだとしか当初思っていなかった。後にそれが誤りだったと気づいた。
帰国して様々栄誉を受けた中でも彼女の罪悪感はおさまらず(統計的に証明される事実があった)、それをわずか100名程度に真相を書き送った。これについては、「ナイチンゲール 神話と真実」という本に詳しく書かれている。
私がブログでこの本を詳しく紹介しています。
・・・というようなことを書いた本を出版しようという企画があったのだが、さまざまな事情で、とりやめとなったんだよね。
このあたりが、資格試験に合格した皆様への、私なりのエールかな。
私のブログに独立カテゴリー、「若きカウンセラーに向けて」があります。
当然、この時の原稿は私の手元にある。
これにその後のブログエントリーを追加して、商業出版の声がかかるきっかけとしての、「ウマ娘の精神分析」でもあるわけです。
恐らくこれまでの人生で超最悪の悪夢を見た。
それがユングのアニマの理論にパーフェクトなまでに一致した。
それに比べれば、現実世界のでの悪の住人なんて、姑息なところで小金を稼いでいるだけの、至極「善良な」人たちだ。
やくざですらそうかも。
私は、こういう夢を見せて下さった神に感謝します。
断固として女性への暴力とそれによる性被害には反対します。
しかしAV女優とその雇用者(アングラではない)には、その正当な存在意義を認めることにしました。
援助交際やパパ活をする女の子たちと同じ目線に立ってみせます。
セフレを持つ人たちの生き方も肯定します。
まあ、純粋だと思っていたのに「実は娼婦だった」女性に金をたくさんとられて、更にその女性から紹介された2人の金髪の女性と寝て、またもや多額の料金を請求され、それでも「結合」した状態のままでいたら高利貸しが現れて、困ったな・・・そんな夢。
私の中に、そういう連中のような所が少しはあっていいという解釈。
私は恩師の奥様の 村瀬嘉代子先生に認めてもらえることが夢ですが、夢を見て、先生が背負われた、負の側面と善の側面のすべてを背負った生き方の重さがやっと直観できる気がしました。
嘉代子先生は、決して私に直接お褒めの言葉を下さることはないでしょう。
でも、東京で、少しはひとり微笑まれるくらいの存在にはなってみせます。
#統合失調症 のクライエントさんが幻覚や幻聴を訴えて来た時は、それが「どんな内容」か(what)を聞き出そうとするのではなくて、「どのように」(how)立ち現れてくるのかを問いかけるのが、害のないやり方である。たとえば「身体のどっちの方向からそれはやって来ますか」。
これは、妄想「と思える」内容を話し始めた場合にも共通するのだが、実はその「内容」を聞き出そうとしたり、本人が「話すがままに任せる」ことは、むしろその症状の固定化と陳腐化に貢献するのよね。
だから、いわゆる #記述精神医学 においては、実は、あまりにパターン化された「医者の側の」応対に対応してパターン化され、陳腐化された、患者の「典型症状」についての記載になっている場合が多いわけよ。敢えて言えば、精神科医の側が、患者を「悪化」させているわけだ。
これは #統合失調症 に限らず、うつ病や躁うつ病や人格障害についても言えることでさ、精神科医側の「杓子定規な」応対が、いよいよ「典型例」の症状を持つ患者さんを「生産」するわけよ。原因と結果が逆。
物理学、というか、#相対性理論 を私なりに聞きかじった範囲での比喩として言えば、いわゆる「#観察者の視点」という作用が働いているわけ。
******
これ、別に私のオリジナルでもなんでもなくて、#中井久夫 先生が書いていることと一致すると思うけど。
クライエント中心主義の展開と精神分裂病患者との共同作業
ユージン・T・ジェンドリン [1] (Eugene T. Gendlin
ウィスコンシン大学 1962
Client-Centered Developments and Work with Schizophrenics
訳:阿世賀浩一郎
この論文は、カール・R・ロジャースが主催した研究プロジェクトにおける精神分裂病患者の心理療法に関する初期の記述的報告である。このプロジェクトでは、多くの心理測定と面接による測定、適切な統制群、そしてセラピー面接の完全なテープ録音を採用している。
このプロジェクトはまだ終了しておらず、したがって効果的な心理療法が行われているかどうかはまだ確立されていない。
一方で、多くのことが臨床的に観察され、学ばれている。セラピストは、クライアント中心のセラピーのやり方を修正している。
この論文では、クライエント中心志向の傾向や理論の観点からこれらの発展をたどるが、
りますが、ここで生起していることは明らかに、心理療法全般の分野における現在の傾向という広い文脈に関連しています。
(1)パーソナルな関係、
(2)セラピストの自発的な真の表現力、
(3)基本的な治療的コミュニケーションの、[一つ間違えば]破壊的[になりかねない]、感情的、前認識的な性質
がますます強調されていることである。
フロム=ライヒマン(1959)はこう書いている。
医師は、孤独な患者に自分の存在を提供しなければならない。
最初は大目に見てもらうことだけを期待し、次にただそこにいる人間として受け入れてもらうことを期待する。
もちろん、心理療法が患者の孤独に対して何かできるかもしれないという可能性は、この時点では口に出すべきではない。
本質的に孤独な患者との接触の最初の段階で、そのような提案をすることは、患者の心の中で2つの解釈のうちの1つだけに貸すことになる。
心理療法士は、彼の孤独の表裏一体の不気味な質について何も知らないか、彼自身がそれを恐れているかのどちらかである。
ホワイトホーンはこう書いている。
統合失調症患者の治療に失敗した医師Bは、受け身に寛容ではあったが、患者の間違いや誤解を指摘する傾向があった
・・・一方、統合失調症患者の治療に成功した医師Aは、解釈や指導はほとんどしなかったが、患者が話している問題についてかなり自由に個人の態度を表明し、許される不快な行動の種類と程度に制限を設けていた。
Whitaker、Warkentin、Malone (1959)はこう書いている。
非言語的コミュニケーションは最も重要である。セラピストと患者の間の無意識から無意識への感情的な関係の障害とならないように、知的な言葉を避けなければならないのである。
沈黙はセラピストと患者のコミュニケーションを行う上で、貴重な媒体となる。
セラピストは単なる映写幕ではなく、個人と個人の関係に積極的に参加し、技術的な操作をできるだけ少なくして参加する必要がある。
セラピストの努力は、患者の存在に対する彼の感情の反応や、この関係における彼の経験をできるだけ完全に伝えることである。
現在のクライエント中心療法の傾向は、上記の著者やその他の人々の観察にある程度似ている。
したがって、この論文で報告す内容の多くは、決して新しいものではない。
それどころか、異なる心理療法各派で同じような経験や方法が繰り返されることは、注目に値する現象を指し示しているように思わる。
これから報告するように、私たち自身の観察によれば、統合失調症患者に対する効果的な心理療法は、大部分がパーソナルで、表現的で、身体で具体的に感じられた、あるいは[一つ間違えば]破壊的[になりかねない]プロセスであるようである。
■精神分裂病患者への適用以前のクライアント中心アプローチの変遷
クライエント中心療法の最新の動向を報告する前に、精神分裂病患者の研究が始まる前の数年前にすでに起こっていた傾向や手法の変化を報告しなければならない。
当時、他のほとんどの心理療法流派と同様に、クライエント中心療法は、形式ばらず、よりパーソナル的で、言葉の内容や言葉による内省よりも、「感じ」に基づく、当意即妙な反応を返すことに関心を持つようになっていた。
特に3つの修正技法が、当時すでに行われていた。
シーマン(1956)と他の多くの人たちは、クライアント中心療法における[セラピストの]反応を "感情の反射"と表現することに問題があると考えた。
様々な方法で、セラピストの応答行動の幅が広がっていた。
特にロジャース(1957, 1959)は,3つの基本的な治療的態度を明示できるすべての応答様式を治療的とみなすように範囲を広げた。
"共感的理解","無条件の肯定的評価","純粋さ "である。
セラピストの行動範囲は無限にあり,これらの態度を実践し,伝えることができるかもしれないのである。
ロジャースは、これらの態度が存在し、クライアントに伝達されれば、セラピーが行われると仮定した。
このように,狭い意味での "クライエント中心 "療法的な行動ではなく、セラピストの基本的な「態度」が治療の本質的な要因であると、すでに考えられていた。
ここ数年の2つ目の修正点として、バトラー(1958)らは、セラピストの自発性が治療の成功に関係するとした。
ロジャーズは、3つの基本的な治療態度の1つとして、"セラピストが関係において一致(本物)している "ことを定式化した。
もちろん、純粋な表現力とは、セラピストが1時間のほとんどを自分の感情の一つ一つを言語化することではない。
多くの場合、クライエントの表現していくものを行動をありのままに受け止めようとしているはずである。
しかし、職業上あるいは個人的な作為から解放された、セラピストのありのままの透明性と純粋さが追求されているのである。
3つ目の修正は、クライアントにおけるセラピーを、概念的な「洞察」ではなく、感じる出来事から構成されるとみなす傾向(Gendlin & Zimring, 1955; Hart 1961; Rogers 1959)が強まってきたことですある。
「体験過程」の理論(Gendlin, 1961a; 1962)は、ある瞬間の具体的な感情のプロセスが、暗黙のうちに多くの心理的内容を含んでいる可能性を強調したのですある。
これらすべてを概念化することは不可能かもしれない。しかし,クライエントはそれらすべてを自分の中で直接的に感知された参照物[フェルトセンス]として感じることができるのである。
治療者の応答は、クライエントが自分の現在の感じているプロセスに直接注意を向け、このプロセスを最大化し強化することを支援するのである(Rogers, 1959)。
治療状況の相互作用的な条件は,より完全で,より即時的な方法の新しい経験を構成するものと見なされた(Gendlin, et al., 1960)。
これから示すように、クライエント中心アプローチにおけるこれら3つの初期の修正ラインは、統合失調症患者に対するセラピーの主要な特徴に成長して行った。
■統合失調症患者へのクライエント中心療法の適用について
●クライアントの特徴的な反応
統合失調症患者の心理療法に対する[セラピストからの]反応において、すでに始まっていたこれらの発展段階を加速させたものは何であろうか。
多くの統合失調症患者の心理療法における対する[セラピストからの]反応として、よく知られている4つの特徴を挙げてみよう。
まずは"モチベーションがあるクライエントだけを選抜してしまう (nonmotivation)"こと。
クライエントは、年齢、性別、社会階級、入院期間、障害の程度など、実験デザインの基準に従って選択された(横断的変数として)。
これらの変数がすべて一致する2人の患者が見つかったら、コインをはじいて、どちらかが治療を受けない対照群として、もう一方が、治療を受ける実験群として決定した。
この方法によって、通常行われらがちなバイアスを選択する危険がなくなった。
通常、[たまたま]その時スタッフになった人から、心理療法を受けることになる。
[そうした際には]心理療法を受けるモチベーションのある人をセラピスト側が選択することがありがちである。
私たちは、このような手前勝手な選別よって予後が不利にならないようなクライエントのグループを期待し、望んだ。私たちはこの目的を十二分に達成した。
治療のために選ばれたクライアントの大半は、治療を望まず、抵抗し、しばしばセラピストに会うことを拒否し、治療の開始や継続を困難にしていた(Gendlin, 1961b)。
●沈黙。
第二の特徴的な反応は、これらのクライアントの相手をする大多数[の治療者]が遭遇した、沈黙であった。
これは、私たちが深いセラピーから連想するような時折の沈黙ではなく、話を引き出そう引き出そうとしても、しばしば、いくつかポツリポツリのコトバを除いて、面接の間中、沈黙が続くのである。
●"自分自身の内面を探求しようとしない(nonexploration)
" 第三の特徴は、統合失調症の患者は、自分の内面を探求しようとはせず、内面に注意を向けない傾向があることである。
言葉による治療過程がないように見えることが多い。
多くの場合、自分の感情を明確に表現することを拒否し、たとえそれが暗示的なものであったとしても、それを否定します。
[幻覚、幻聴、させられ体験など、]高度に「外側の問題」とされている。問題や関心は、他者や外部の状況の中に位置づけられる。[2]
自己探求のように見える短い期間や、深い言葉のコミュニケーションがあったとしても、それが継続的なプロセスを構成するまでには至らない。
次の面拙になったも、[前回]深い言葉のコミュニケーションがあったことなどすっかり忘れてしまったかのごとく、まるで何もなかったかのようになってしまう。
その人は、自分の主観的な問題にアプローチするために、自分自身の探求に従事しているようには見えない。
言葉では、不規則で、内面の探求を伴わない感情表現があるくらいである。
●コトバにならない次元での応酬(subverbal interracion)の激しさ
第四の特徴は、コトバにならない次元での応酬(subverbal interracion)の激しさである。
文明社会の礼儀作法や、言葉による確認、合意による確認を放棄しているように見えることが多い。
彼は、言葉による印象に支配されている。
もしセラピストの顔が嫌悪、妨害、拒絶を反映している[統合失調症患者側に]受け取とられてしまうが否や、彼の反応は瞬く間になされてしまう可能性が高い。
たとえば、私が何かを言おうとして一瞬ためらうと、クライアントは私を振り払ってしまう。
それはまるで、私のアンビバレントな、半ば無意識的なメッセージの組み立ての難しさが、一瞬にして彼をそのメッセージから引き離すのに十分であるかのようである。
私たちのどちらかのわずかな動作が、強烈な暗黙の会話を構成しているのである。
セラピーの初期には、彼に対する私の関心と好奇心が、しばしば彼にとって目に見えてつらいものとなる。
後になると、もっと言葉巧みに、彼は言うことができる。
「あなたの耳は大きすぎる」
あるいは、それほど劇的ではないが、
「私は何も言うべきかどうかわからない。[あんたの側の]好奇心が強すぎるんだ」。
多くの相互作用において、私が主観的にクライアントと共に生きていることが、彼が感じていることと同じかどうかは分からないが、私たちは、[そこで生起する]出来事や深く感じられるコトバにならない次元での応酬(subverbal interracion)に費やされることは知られている。
●セラピストの「態度」
先に述べたように、クライエント中心療法は、もはや特定の技法や反応様式で定義されるのではなく、ある基本的な態度(ロジャース、1957年、1959年)で定義されるのである。
多くの異なる[心理療法各派の]方向性、技法、セラピストの反応様式がこれらの態度を現す可能性がある。
したがって、これから述べる「態度」は、クライエント中心療法に限定されるものではないが、[実質的に]それだけで "クライエント中心療法 "を定義するものとなる。
精神病患者の認識や感覚を共有しようとするセラピストは、説明的な「概念」にはほとんど治療的価値がないと考えている。
これらは、その人自身の体験に到達する助けにはならないからである。
入院患者は、本人自身の体験にあまり言及することなく、何らかの方法で「管理」され、ケースを「処理」されることが多いので、診断的な説明概念の観点から彼を論じる傾向がある。
このような「概念」のもとで、私たちは一般化された知識を得ることはできる。
これに対して、「共感的」であろうとするセラピストは、セラピストが感じることのできる限り、その人自身の体験に注意を向けるのである。
病院では、しばしば行動、攻撃性、顕在的な症状、そして演技が、重要な注意の焦点になっている。
入院しているクライアントは、しばしば罰せられたり、矯正されたりする。
それに対してセラピストは、クライアントの側に立って一緒に認識しようとし(ベッツとホワイトホーン[1956]が示唆するように、クライアントの「弁護士」になる)、クライアントに対して人として温かい「敬意」を表する。
外的要因への懸念に邪魔されなければ、その人をより深く知るにつれて、その人を非常に個人的に好きになるというのは、他の人と同様、精神病患者にも言えることである。
3.病院という環境では、患者は著しく孤立する。対人関係の幅が物理的に狭まるだけでなく、質的にも制限される。
彼の言葉は、しばしば、人からの真剣なメッセージとして受け取られない。同様に、プロフェッショナルな人たちは、自分自身の実際の反応を差し控え、何かプロとして適切なお決まりの反応を代用するようになりがちである。
これに対して、セラピストが「純粋に」自分自身であり、自己表現的であろうとするならば、セラピストは分裂病患者の孤独を打ち砕くことができる人間であり、直接的な人間的接触をもたらすことになるのである。
そして、統合失調症患者は、この人間的なアプローチに[はっきりと具体的には]応えられないかもしれないが、それでも治療の場面では、同様に人間的な役割を担っている。
彼はこの役割を満たすこともあれば、空っぽにすることもありますが、完全に人間的な役割として常に存在している。
このような「セラピストの態度」が、当初はクライアントの特徴的な反応をより特に顕著にさせるのである。
一般に統合失調症患者は傷つき、孤立しているため、また、これらのクライアントが非自発的に心理療法に割り当てられたため、彼らの特徴的な拒否、沈黙、言葉による探求の欠如と説明されることが多い。
しかし、私は、このように[判定してしまう]の治療者の態度そものが、このような反応をより強く引き出す傾向があり、その結果、精神療法の様式を修正することにつながったと考えられる。
クライアントのやる気や気持ちに応えてセラピーを始めることに慣れているセラピストは、クライアントが自分に会いたがらないことに強く振り回されるに違いないのである。そのようなセラピストは、自分が働くための基盤を一時的に奪われたと感じるはずです。
同様に、クライアントの実際の主観的な経験を共有することに主眼を置いているセラピスト、つまり外的な説明や行動の修正をほとんど気にしないセラピストは、クライアントの自分の気持ちへの内的探求の欠如を顕著な特徴としてとらえてしまう注可能性が高い。
また、共感的な応答によって[クライエントの]自己探求を助けることに慣れているセラピストは、特に、大量の破壊的なコミュニケーションに衝撃を受け、途方に暮れるであろう。
これはまさに共感するために訓練されたコミュニケーションであるが、精神病患者はしばしばこれらのコミュニケーションを探求したり、言葉で表現したりしようとはしない。セラピストが言葉で理解しようとすると、クライアントはさらに引き下がってしまう。
[これに対して、]クライアントが自分の中で頻繁にプライベートな探索をすることに価値を見出すことに慣れているセラピストは、沈黙を中断することはないであろう。当然、彼は沈黙が1時間全体や数時間に及ぶことを発見する[場合もある]
他の心理療法流派のセラピストも、私が述べたようなクライアントの反応に遭遇すると思うが、おそらくクライアント中心アプローチという観点から見ると、これほど印象的なものには見えないであろう。
●セラピストの行動を修正する必要性
私たちの経験を説明するのに最も簡単なのは、セラピーがうまくいっていないように見えるとき、セラピストは、アプローチの方法を変更する必要性を感じていたということである。
まず、患者の特徴的な反応によってセラピストに生じる葛藤があり、その葛藤によってセラピストはこれまでの態度を維持することができなくなる。
治療的でないと感じるようになり,より慣れ親しんだ治療的態度を自分の中で回復するために,状況を変える方法を探してしまう。
セラピストとして慣れ親しんだ態度を取り戻すために,別の行動を見つけならなくなる。
しかし,明らかな代替的な「行動」のしかたをしてみて,彼自身の古い「態度」を捨て去る必要が出て来る。
その結果、以前は良い選択肢がないと思われていた治療的反応の全く新しい選択肢を敏感に進化させるプロセス(当意即妙になされる)が発生する。
このプロセスには3つの段階がある。
●葛藤の認識
クライアントは黙っているか、雑談をしている。
彼の暗黙のコミュニケーションを言語化しようとすると、彼は怒ったり、恐れたり、引きこもったりする。
あるいは、より深いレベルの感情に応えようとすると、クライアントが単に自分自身をもっと深く見ようとしていなかったこと、そして私たちを誤解していることに気づく。
クライアントが感じていることについて、私たちはあらゆる種類の印象やイメージを持っている。
私たちは、静かに座っていたり、表面的に会話しているときに、私たち自身の瞬間瞬間の体験の中で起こるこの豊かな出来事をどうしたらいいのか悩んでいる。
私たちは多くの共感を覚えるが、それを示すことはほとんどできない。何気ないレベルで、あるいは沈黙の中で、私たちは自分自身がこの恐怖に満ちた人と同じように無力であるがままに任せているのではないのだろうかと考えてしまう。
私たちは、もっと頑張るべきか、もっと安全であろうとするべきか、葛藤している。
私たちは、あまりに無力な待ち時間のために自分を責め、その数分後には、あまりに多くの中断、圧力、要求のために自分を責めるのである。
[セラピストは]クライアントは私たちと一緒に何か重要なことをしているのだろうか、私たちは彼の期待を裏切っているのだろうかと考えてしまう。
私たちは、内側に多くの受容性を与えながら、それがほとんど伝わっていないことに焦り、怒るようになる。
私たちは、クライアントが与えてくれる、わずかな、あるいは些細なコミュニケーションをとても大切に思っており、それを遠ざけたくはない筈だ。
しかし、沈黙やこの些細なコミュニケーションに同意しているように見えるとき、私たちは不誠実だと感じてしまう。
明らかに、このような状態では、セラピストとしての自分自身にかなり不慣れな感じがしたしまう。私たちがセラピーとして慣れ親しんでいる内なる状態を回復させようとするために、私たちは慣れない方法で行動するようになるのである。
●用意周到な選択肢の試行錯誤
クライアントがセラピストと会うことを拒否している場合のことを考えてみよう。
クライアントはセラピストとの面会を拒否しているが、強制的に面会すべきであろうか?、それともまだ関係が始まっていない段階で終わらせるべきであろうか?
どちらの選択肢もよくないものである。
セラピストは病棟で本人に会いに行くが(ある種の強制)、本人が自由に立ち去ることができるようにする。
今、クライアントに参加するように束縛するわけはではなく、彼が立ち去ることは、ああ、やっぱりもうなっちゃうのよね、的な拒否を意味するものでもない。
セラピストは週の後半に再び訪問するが、それは彼がそうしたいからであることは明らかである。
このため、クライアントが関係を終わらせるかどうかは、クライアントが決めるまで不確定なままである。
セラピストは、否定的な反応や反応の欠如にもかかわらず、クライアントと会いたいという自分の願望、この点に関する自分の興味や感情を述べていく。
確かに、これらの方法でセラピストは、通常行うよりも主導権を握っている。しかし、彼は自分の感情に基づいてイニシアチブをとる方法を見つけようとし、それは後にクライアントに生じるかもしれないイニシアチブの代わりまでしてしまうわけではない。
これはジレンマの独特で微妙な解決方法である。
ある点ではセラピストは(自分のために)よりイニシアチブをとるが、他の点では(クライアントのために)今までよりイニシアチブをとらないのである。
関係を築こうとするクライアントのコミットメントさえも想定されていないし、要求もされていない。
●新しい行動様式
押しつけがましくなく、より表現的になるという同じ傾向が、心理療法を開始するモードだけでなく、心理療法中のワークのやり方全体にも当てはまる。
私たちは、クライアントが何を考え、感じているかを知ることができないときでも、彼に応答することができることに気づいたのである。
もし彼が黙っていたら、セラピストである私は、彼が何を考え、何を感じているのか、まったくわからないかもしれない。私が知っているのは、「私が」何を考えているか、感じているかだけであり、彼をどのように「想像」しているかを知っているだけである。
私が今感じていること、そして今私たちの間に起こっているであろう漠然としたイメージを表現するとき、私の表現には非常にパーソナルな性質が入り込むことになる。
私は彼との間でまさに今生じている経験に言葉を与えているのである。
私がこのようなことを言うのには、個人的なリスクを伴いはするが、開けっ広げな性質がある。私の想像や感情を直接伝えることには、穏やかな親密さの質がある。
[患者への]表現の中で、私はしばしば、自分の発言の意図と、彼の中で起こっていることが、自分でもわけがわからないということを述べる。
私ははっきりとこう言うのである。
「これは、今私の中で[どういうわけか]起こっていることなんですが」
「これは、あなたの中で(あるいは私たちの間で)起こっていると私が想像していることですが、確信が持てません」。
クライアントは、私という人間と、彼に対する私の率直な表現的相互作用からなる応答的文脈の中に生きている。
しかし、その相互作用の中で、患者の側[から帰ってくる反応]は、彼が自分のものとして明示したいと思うまで、かなり暫定的で暗黙的なものであるかもしれない。
同様に、[幻覚、幻聴、させられ体験など、]自分の外側の問題としてとらえたり、単に起こった事実だけを報告するクライアントは、「私の中で」彼に対する多くの感情や彼のイメージをかき立てることとなる。
私は彼からもっと深く話を聞きたいと思い、もっと個人的に彼を迎え入れたいと思うことになる 。
私はこのことを、特にそれを感じるあらゆる場面で[言葉に出して]言うことができる。
彼に生じた事件の語りの中に、私は彼が様々な形で[こちらに]関わろうとしてはいるのだとは感じる。
私はそれらを(自分の想像として)表現することができる。
私は、彼が起こったできごとの報告から省いている「彼」という人間を、より多く、より頻繁に感じられるようになる。
私は感情を表現する人になり、文句を言い、泣き、正当化し、誤解されている物事の私的側面を理解する。
彼が抱えるジレンマに困惑したり、驚いたりすることも、そっと表現する。しかし、これらはオープンな表現者である私の表現である。
その都度、何段階かのセルフ・フォーカシングを要するが、自分の気持ちを明確に述べ、彼への思いと彼に近づきたいという願望に基づいて表現しているのである。
黙っている人と同じように、生じた出来事の報告者と同じように、私は彼や彼が報告する出来事の中で経験したり想像したりすることを声に出してみる。
私はそれを、私たちが対話するときの、私の一瞬の内なるプロセスとして声にするのである。
このようなセラピストは、自分自身を率直に、純粋に表現することによって、頻繁に関係を築き、継続させていると言えるかもしれない。
この方法は、言葉を発せず、恐れを抱いている人を自由にし、しかし、まだ関係を形成したり維持したりすることがあまりできない時期に、関係を与えるようである。
■理論編
精神病患者に適用する前に、クライエント中心アプローチの修正点であった比較的微妙な強調点の変化は、観察可能な大きな進展となった。
この報告の締めくくりとして、私はそれらをまとめてみたいと思います。私が述べた修正の方向性は3つある。
すなわち、
(1)治療要因として、クライアント中心の行動ではなく、態度、
(2)セラピストの真の表現力、
(3)言葉による自己探求ではなく、経験(前認識的感情過程)が治療を構成する
・・・ということとです。このような観察の初期段階に合わせて簡潔に理論化すると、この3つの方向性を1つの公式で表現することができるかもしれない。
治療的態度(上記1)は、セラピストの真の自己表現(上記2)を通して、対話的な行動に現れる。そして、この開かれた対話自体が、クライアントの現在の経験プロセスの性質(上記3)に影響し、脅威や撤退にもかかわらず、彼は自分の経験がより最適に、相互作用的に起こっていることに気づくかもしれないのである。
■いくつかの未解決の質問
統合失調症精患者に対する効果的な心理療法が行われているかどうかを知るためには、実験グループとマッチさせた対照グループの完全な研究結果を待つ必要がある。
したがって、本論文は現在の実践を報告したものである。その有効性の評価については、まだ未解決の問題である。
心理療法は一般に、どのような集団に対しても、言語化するだけでなく、より基本的には、クライエントが自分の直接感じている経験を内側に参照し、それと闘うことが必要であると思われる。
具体的に感じられる個人の内なるデータが、言葉ではなく、心理療法の実際の素材であるように思われます。
それは特に統合失調症病患者には特にそうかもしれないが、誰にとってもそうであるように、感じた経験は概念的な方法だけでなく、むしろ前概念的な方法で意味を持つ。
感じた経験は限りなく分化し、概念化されうるが、それは「そこにあるものとしてある(concrete)」のであり、決して言葉や概念で構成されることはない。
統合失調症の患者は特にそうである。
なぜなら、彼はしばしば迷い、無我夢中で、自分の経験の前概念的な意味は、最初、彼には他の人からとても隔絶していて、伝えられないように見え、沈黙かいくつかの論理的ではない言葉が唯一の可能な表現であるように見えるからである。
彼の数少ない発言は、非常に波乱に富んだ、具体的に感じられるプロセスから生じており、セラピストとの相互作用がこのプロセスに影響を与えたり、可能にしたりしていることが、非常によくわかるのである。
原理的には、統合失調症患者だけでなく、一般的な心理療法は、基本的に対人反応の文脈における「感じられた」体験のプロセスとして考えることができるだろう。
もしそうであれば、この報告で述べたクライアントとセラピストのプロセスは、最も基本的な意味では、あらゆる心理療法で起こるものと同じであろう。
1961年10月15日受理。
■参考文献
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また、そのような場合にも、「クライエント・センタード・セラピーの成功・失敗を、セラピー中の初期行動の関数としてとらえる。J. consult. 心理学, 1958, 22, 329-333.
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Whitehorn, J. C.精神分裂病患者の予後にとって重要な要素としての医師の研究。ジョンズ・ホプキンス病院ヘンリー・フィップス精神科診療所からの論文。
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■コメント
多くの人がこの種の論文を興味深く待っていた。ロジャースたちが統合失調症患者の治療に取り組んでいたことは知っていた。このような経験の坩堝から生まれつつある治療法の発展について推測することは、興味深いことであった。
ジェンドリンはこの問いに対する最初の答えを私たちに与えてくれた。
その答えの中には、不可解に思えるものもあるかもしれない。
ジェンドリンが述べていることは、ある点では、通常知られているクライエント中心療法の正反対のイメージである。
クライエント中心療法の特徴(実際、そのタイトルの文字通りの意味)の一つは、クライエントの内的参照枠を強調することにあった。
ジェンドリンは、カウンセラーは時に、クライアントの内面ではなく、自分自身の内面に寄り添うように描いている。
これは、奇妙な強調の逆転であるように思われるであろう。
しかし、この転換は治療の方向性の変化を意味するものではなく、治療理論の中心的な連続性を強調するものでしかないのである。
治療関係とは,もしそれが何かを意味するならば,二人の人間の間の真のコミュニケーションを意味するからである。
セラピストの主要な仕事のひとつは、クライエントが他者からの危険な体験によって破壊されたコミュニケーションの完全性を回復することである。
セラピストは、自分自身が当意即妙性と完全性をもってコミュニケーションすることによって、これを最もうまく行うことができる。
これが、ジェンドリンがここで私たちに語っていることだと思う。
コミュニケーションの内容や焦点は状況によって変わるかもしれないが、即時性と誠実さは不変である。
このようなことすべてに、注意を向けるとよい含意がある。
その一つは、カウンセラーがセラピストの「基本的な意図」と、その意図を実現するための「技術的な」セラピストの行動とを区別して認識するようになることである。
この区別は有用である。その実用性は、セラピストによって、同じ基本的な意図を実現するための異なる手段である個人的な反応スタイルが開発されることを暗黙のうちに認識していることにある。
このことは、カウンセラーになることを学ぶ人にとって特に重要な考慮点であり、「治療法」を学ぶことによる硬直した行き詰まりから解放され、治療に関する基本的な仮説を実行する個人的な方法の実験を促進することになるからである。
ジェンドリンの論文はいくつかの疑問に答えてくれたが、同時に、一般的な合意がまだ得られていない問題を浮き彫りにすることにもなった。
ジェンドリンは、精神病患者への治療アプローチにおいて、いくつかの共通性が生まれていることを指摘した。
このような共通性は、理解するのに有用である。
それは、「流派主義」が美徳だからではなく、これらの相違が治療に関する未解決の有効性の問題を含んでいるかもしれないからである。
ジェンドリンの論文に示唆されている非常に活発な問題の一つは、クライエント中心療法が非侵入的であろうとする努力を続けていることである。
この特徴は、クライエント中心療法の特徴の一つとなっています。セラピストの関与が少なかった初期の時代には、何の問題もなかった。
しかし、クライエント中心療法の顕著な発展のひとつは、「離人症」から「関与」への移行 (its shift from detachment to involvement)である。
セラピストが高度に関与しながらも、押しつけがましくならないようにすることは難しいことであるかのように思われるているのではないか?
私は、クライアント中心型のセラピストは、この問題に関して実存的な葛藤に直面しているのではないかと思っている。
最後に、心理療法における認知過程の位置づけについてである。
クライエント中心療法では、「今。ここで」の体験を重視するあまり、セラピーの支点が前認識のレベルに置かれている。
そのため、認知的再編成の役割は、より周辺的なものとなっている。
このような展開は、自己概念の重要性という、認知的な意味合いの強い構成要素を中心に構築された理論の文脈で生じているため、特に興味をそそられるものである。
私自身の考えでは、前概念的経験という考え方は、新しい概念として現在は重視されているが、長い目で見れば、理論は認知的領域を再検討し、治療とは感情と認知的再組織の両方のブレンドであると考え続けていくだろうと思える。
ジュリアス シーマン
ジョージ・ピーボディ・カレッジ
コミックマーケットをラッシュ時の山手線並みに混雑する場所とすれば、いくら九州の中核都市とはいえ、福岡市の催しは、西鉄甘木線であった(念のためにいいますが、平日でも、二両編成だが、座席がかなり埋まるくらいにはなるよ)。
しかもサークル出品者の方が一般参加より多いのではないかというほどであり、どのブースも軒並みほとんど売れていない。
それでも他所の地域から売りに来る猛者が結構いるということは、ホント、売ること自体を楽しみにしている人たちの催しという感じ。
買って下さった方の半分以上は、私のTwiterアカウント(@kasega1960)と #ウマ娘 垢(@umamusumeshinri)で私の本の存在をご存じだった方であった。
Twitterに力を入れた方がいいことは実よくわかりました。
↑ 私が「トレーナー」をしているエイシンフラシュちゃん。
遅れましたが、パンフの表紙です。
皆様のご参考までに。新規のワンルームでの開業カウンセリングに際して、私がAmazonで一気にまとめて購入しようとしている商品へのリンクをまとめて貼っておきます
パソコンは家にあったのを持っていきます。
親子面接や小さな勉強会もするという前提です。
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