Social Phobia(社交不安障害、社会不安障害、対人恐怖)について
私が若い頃、学生相談をしている時にはあたりまえの概念で、実際そういう主訴の人も多かった「対人恐怖症」という言葉そのものを目にすることがなくなったのはどういうことだろう?・・と、ふと思った。
対人恐怖症は、英語では"Social Phobia"というのだが、調べてみたら、現在のDSM-5では「社交不安障害(Social Anxiety Disorder)」あるいは「社交不安症」と訳されているようである。
しかしこの訳語は流通しておらず、「社会不安障害」と訳されていたのではないかと思う。
なるほど、「社会不安」という言葉だけ取り出してみたら、全然別のイメージのものとなってしまうので、「社交」不安と訳した意図は理解できる。
でも、古式ゆかしき「対人」恐怖という言葉に込められた含蓄というのも捨てがたい気もする。
DSM-5には、
「他者の注目を浴びる可能性のあるひとつ以上の社交的場面に対する著しい恐怖または不安、例えば見られること(例:食べたり飲んだりすること)、他者の前で何らかの動作をすること(例:談話すること)などが含まれる。」
とあるから、「対人恐怖」という場合にあてはまるのは確かだが。
ただ、「社交」という言い方だと、たとえ街頭や電車の中でひとりぼっちで「いる」時でも、周囲の視線を気にしたり、凄い孤独感・疎外感を伴う不安を感じる場合があるというニュアンスが出にくい気もするのだ。対人関係を「回避」しているみたいな印象を与える。
学生相談の世界では、「排尿困難」という言葉もあった。これは、若い男性が、公衆トイレで、他に人がいると、どれだけ尿意があっても実際に排尿できないという症状のことを指し、得てしてそういう人は個室に入って用を足す。しかも室外に人の気配がしたら駄目だったりする。
今日では、この言葉は完全に泌尿器科の用語になってしまっているので、はっきり区別が必要だが、対人恐怖の症状のひとつの身体化した現れ方であるととらえられると思う。
そこには、自分自身の感情や衝動を、ありのままに認め、自然と「放つ」ことができないというメカニズムがあると私は考えるが、ある意味で「強迫神経症」にも通じる性質のものでもあると思う。
いずれにしても、「社交不安障害」という訳語はほとんど流通していないし、「パニック障害」と比べれば、日陰の障害という扱いという気がする。
私見では、「社会不安障害」というだけの場合には、薬物療法に頼らなくても、格好の心理療法の対象であり、カウンセラーとしてキャリアを積む上でも、早い段階で研鑽を詰めるケースかと思う。少なくともいきなりうつ症状の人を相手にするよりはいいのではないか。
私自身、カウンセラーとしての出発の時点では、学生相談を職場としたため、「対人恐怖症」の人との関わりが多かった。
この症状を持つクライエントさんがカウンセラーと良好な関係性を築けることそのものが実はセラピーそれ自体としての効果を持つ側面も大きい。ある意味で、クライエントさんがカウンセラーへの対人恐怖を最低限乗り越えることを繰り返さないと継続的カウンセリングそのものが成立しないからである。
それに加えて、技法的にどのようなものが考えられるかは、流派によって異なるかもしれないが、私なりのスタイルは持っていた。
しかし、それについては具体的には触れないでおきたい。
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