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« 私たちは身体を通して環境と相互作用している。「こころ」とは身体の働きの上に乗っかった仮像であるに過ぎない。 | トップページ | 「実戦的」フォーカシングとは? »

2022年1月13日 (木)

流派を問わず、心理治療者は、自分の用いる技法を、自分自身に対して刻々と「適用」できることができる必要があるのではないか? それが「関係性」中での治療を生じさせる前提ではないか?

#フォーカシング って、それを学ぶ臨床家自身が意識的「技法」として学ぶ域を超えて、日常生活の中で「条件反射」になるくらいに「身につけて」しまって、その効能に恩恵を感じるくらいのところまで行って、はじめて持ち味とその人なりの活用法が見えてくるものだと思う。

このネットでの私の言動すべてが、実は「条件反射」の域まで血肉化されたフォーカシングの「実践」そのものなのだ。もとより個々の発言に何も誤りや行き過ぎがないわけではないのは自覚しているが、それを「軌道修正」する能力自体がフォーカシングの統御下にある。

精神分析の人ですら、日常の中でそこまでほとんど自動的に自己分析できるべきだし、認知行動療法の人も、日常の中で自分のスキーマを刻々と自覚し、修正できるところまで行きつけるべきと思うが。それができれば、実はCLさんに何も特別な「技法」を用いようとしなくても、なぜか面接はうまくいくと思う。

要は、臨床家の側が、絶えず日常や面接場面で自分の無意識にアンテナを張れたり、自分自身の認知の歪みに刻々と気づけないまま、クライエントさんの側にそれを引き起こそうとしてもうまくいかないのは当然だと思うのだ。

もちろん、全ての技法を自分で自分に用いるだけでは自分で超えられない限界はあると思うし、自己満足になる危険もある。自分がその技法を専門家との間で施してもらう(互いに役割を交換して関係性のなかで意識的にやる)機会を定期的に持つことは大事だと思う。

言い方を代えれば、クライエントさんの側に生じる心的メカニズムは、カウンセラーの側にそれに相応する心的メカニズズムを誘発するし、カウンセラーが自分の心的メカニズムの限界を克服できれば、クライエントさんの側にもそれに相応する心的メカニズムの克服を誘発するのではないか。

私の考えでは、「関係性における治癒」とはそのようなものだし、実は流派に関係ないのではないかとすら思っている。「意識的な」技法はその上に乗っかている程度のものではないか? これは精神分析でいう「治療者の逆転移の活用」とかいう理屈を持ち出さなくとも普遍的なのでは?

例えば、治療者の側がリラックスできていない状態で、クライエントさんの側にだけリラクゼーションが効果的に生じるのだろうか?

私はこうした「関係性」の問題を無視して、「客観的『エビデンス』」を証明しようとしても、無理が出て来ると思う。・・・というか、エビデンスを証明しようとすれば、こうした治療者側の因子も測定して、はじめて正確な証明ができるのではないかと思う。

こうしたことは、単に物質的薬物の治験の場合には考慮しなくてもいいことであろうが、治療者との関係性自体が治療的因子になる心理療法の場合には考慮されるべきと思う(もっとも、物資的薬の効能すら、治療者との関係性から完全に自由ではない気もする)。

実はこのように考えてくると、カウンセラーが面接室の外側の世界でどのような言動をどのような範囲でしていくかの指針と可能性も自ずから見えてくる可能があると思う。

精神分析系の人なら絶えず自己分析をしながら、認知行動療法系の人は絶えず自分の認知の歪みに敏感であり続ければ、どのような発言や行動を「社会」に向けてしていけるかが自ずから定まるのではないか? もちろんこれだけでは「十分」ではないかもしれないか、「必要」ではあるのではないか?

今述べてきたような次元で、心理専門家自身が自分の用いる技法の自分自身への「日常的」「条件反射的」適用を「身につけて」いれば、心理療法がClさんの、「特別な密室」の中での「癒やし」体験などではなく、現実生活の中での言動の変化(他者への影響力の変化)を誘発する域に達すると思う。

「治療者は、自分が行き着けたところまでしか、患者を導けない」・・・ユング「心理療法論」(林道義訳 みすず書房)。 ユングは「実用的」ではないと思われがちだが、実は相当現場臨床家に役立つ発言をしていると思う。

ある意味では、人格の成熟した完成、到達点などありえないと思う。人間は常に堕落の危機に直面しており、新たな事態に対応して行かねばならないのだと思う。もちろんこのことを現在の自分の失敗や限界の「言い訳」にしてはならないと思うが。

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トロントだより

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     The Focusing Instituteの第17回国際大会(2005/5/25-31)の開かれた、カナダ、トロントの北の郊外(といっても100キロはなれてます)、Simcoe湖畔のBarrieという街に隣接するKempenfelt Conference Centreと、帰りに立ち寄ったトロント市内の様子を撮影したものです。

神有月の出雲路2006

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     11月の勤労感謝の日の連休に、日本フォーカシング協会の「フォーカサーの集い」のために島根県の松江に旅した時の旅行記です。https://focusing.jp/  
    ご存じの方は多いでしょうが、出雲の国には日本全国の神様が11月に全員集合することになってまして、「神無月」と呼ばれるわけですが、島根でだけは、「神有月」ということになります。(後日記:「神無月」は10月でしたよね(^^;A ........旧暦なら11/23前後は10月でせう....ということでお許しを.....)  
    ちょうど紅葉の時期と見事に重なり、車窓も徒歩もひたすら紅葉の山づくしでした。このページの写真は、島根の足立美術館の紅葉の最盛期です。

淡路島縦断の旅

  • 050708_2036
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     このフォトアルバムは、その開催候補地の淡路島を、公式に「お忍び視察」した時の旅行記(だったの)です(^^)。
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     大地震でできた野島断層(天然記念物になっています)の震災記念公園(係りの人に敢えてお尋ねしたら、ここは写真撮影自由です)にも謹んで訪問させていただきました。
     震災記念公園からタクシーでわずか10分のところにある「淡路夢舞台」に、県立国際会議場と一体になった施設として、とても日本とは思えない、超ゴージャスな淡路島Westinはあります。

水戸漫遊記

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     友人と会うために水戸市を訪問しましたが、例によって鉄ちゃんの私は「スーパーひたち」と「フレッシュひたち」に乗れることそのものを楽しみにしてしまいました(^^;)。
     仕事中の友人と落ち合うまでに時間があったので、水戸市民の憩いの場所、周囲3キロの千破湖(せんばこ)を半周し、黄門様の銅像を仰ぎ見て見て偕楽園、常盤神社に向かい、最後の徳川将軍となる慶喜に至る水戸徳川家の歴史、そして水戸天狗党の反乱に至る歴史を展示した博物館も拝見しました。
     最後は、水戸駅前の「助さん、格さん付」の黄門様です。
     実は御印籠も買ってしまいました。

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  • 051012_1214
     日本フォーカシング協会の年に一度の「集い」のために小樽に向かい、戻ってくる過程で、他の参加者が想像だに及ばないルートで旅した時の写真のみです。かなり私の鉄ちゃん根性むき出しです。  表紙写真は、私が気に入った、弘前での夕暮れの岩木山にしました。