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2022年1月

2022年1月27日 (木)

AVIOT TE-BD21j-ltdpnk

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非常にタイトな音だと思います。

痩せているというのではなく、まるで何本もの鋼線を織りなした音という感じで、特にアコースティックソースを聴いた場合、声部の細かいところまで顕微鏡的に細密に聴き分けられ、音の起伏も生き生きと描き出すという形で、逆に、ヤワではない繊細さが出て来るという感じです。

非常に存在感のある音になり、大理石を削り出したかのような感じで、現実の音はこんなに「個体」感はないだろともいいたくなりますが、音の浮かぶ空間は非常にすっきりしたクリーンな感じになる気がします。

低域の、全くばやけたドローンとした感じはなく、ぐいぐい押してくるのは特筆してよく、ティンパニやドラムスはぐりぐりきます。

また、音の立ち上がりが非常にハイスピード。解像度は高いが「剛」の音という点では、これまで体験したことが全くないタイプです。

ハイレゾだと音が繊細で緻密になる気もします。Snapdragon SoundTMという次世代規格で、少なくともXperia5では次の世代の製品からはじめて対応してくれるものなので、本来の可能性は聴けていないことになります。

真鍮と思われるケースは価格から考えると高級感があると思います。

サイバーリンクパソコン工房

2022年1月26日 (水)

何のかのといって、なぜ私は結構健全に育ってきたのだろう?

私自身が若い頃、女性への劣等感のかたまりの「弱者男性」そのものだったから思うのだが、男って、結構、一回風俗ではない女性と関係を持てたら、相手がそこそこいい人である限り、非常にあっさりと性的劣等感の壁は超え、それ相応のスキルも急速に身につくことも多いのでは?

私の経験では、いっぱい実際告白していっぱい振られてみると、女性がどういう心境で生きているのかについての経験値が増えて、どういうふうに交際していかないとその先に行けないのかにも気づいていった。どれだけふられようが自己肯定感が揺るがなかったのは、自分の仕事への自負があったからだと思う。

おたく趣味持ってる人が性的に奥手であると決めつけるのも全くの偏見で、深い交際できて幸せな人はいくらでもいると思っている。

今でもいろいろと未熟で、不勉強で、決して幅広い人たちに満足していただけてきたカウンセラーとは思わないし、実際反省するようなことばかり重ねてきたし、過去の事例記録を読み返したりしたら目も当てられないとは思っているが、それでも自己肯定感は揺るがないできたのはなぜだろう?

私にとっては「うらやましい」は若い頃から「魔法の言葉」だった。

これは誰に教わったわけではない。

「自己嫌悪」とは「ねたましい」の「抑圧」された形であり、「ねたましい」は「うらやましい」のこれまた「抑圧」された形であると、ある時突如洞察したのである。

自分より現場臨床の力があるなと言う人に接したら、自己嫌悪するというより、「うらやましい」と思い、どう技量を「盗んで」やろうかと思うタイプだった。

20代までは、対人恐怖症そのもので劣等感の塊だったと思うが、自分の(専門を含む)おたく性には妙に自負があった。そこに、非常に寛容で受容的なカウンセラー仲間や先輩方に受け入れてくださってきたのも支えとなった。今振り返れば私の生意気なところによくあれだけつきあってくださったと感謝している。

変に権威主義的で、自分のプライドを守るために人をおとしめるようなことがなく、攻撃的でもない、腰の低い、謙虚な先輩方に恵まれてきたのも幸いだったと思う。

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2022年1月24日 (月)

キリストの受難(passion)を我が身で感じることとカウンセリングの「共感」的理解 -インタラクティヴ・フォーカシング-

たまたまTwitterで、

 

ロジャーズの論においてなぜ受容が難しいか?というのは痛みを拒否しているからだと思う。痛みを感じずに受容しようとするからこねくり回す。受容とは痛みを感じ、その痛みを通して相手を理解すること、そのものだと思う

 

受容が難しい理由をアレコレ考えていたけど、キリスト教的視点に戻ったとき、そう思った。

 

というご意見を目にしたので、

 

"suffering"を"com-passion"する、という言葉が思い浮かびました。私なりの聖書的理解ですが。

 

とお返しした。

 

私はクリスチャンではないか、すでに別の記事でも書いたように、中学時代から、スイスの宗教的著述家、カール・ヒルティの「幸福論」「眠られぬ夜のために」をはじめとする著作に傾倒してた時期があるし、高校もプロテスタントのミッション系である。聖書には英訳を含めて親しんできた。

"suffer"とは「被る」という意味であるが、キリスト教的には、イエス・キリストの十字架に至る苦しみの「受難」を指すことになる。

キリストの「受難」とは英語で"passion"である。バッハの「マタイ受難曲」が"Matthäus-Passion"であることをご存知の方もあるだろう。

更に哲学の分野では、デカルトが「情念論(仏: Les Passions de l'âme、英: The Passions of the Soul)」という本を書いているが、精神の働きに能動(意志)と受動というものがあり、「情念(Passions)」というものが、(わかりやすく言えば)環境から末梢神経を通しての脳への刺激として「受身的(passive)」に生じるという考えを述べている。

話をキリスト教に戻すと、14世紀のイタリアではペストの流行によって社会不安が蔓延し、ドミニコ会修道士の指導のもと鞭で体を打つことで功徳を得ようとする「鞭打ち苦行団」が組織された。

これは、キリストが身体に受けた傷を、自分も受けることで追体験し、贖罪を得ようとするものである。

この苦行は、映画「ダ・ヴィンチ・コード」でも描かれたので、ご存知の方もあるだろう。

このような苦行は極端なものであるとしても、キリスト教において、イエスが心身に受けた苦悩を偲ぶことが、自らの苦悩の癒やしとする考えがひろくみられることは確かだろう。

さて、来談者中心療法の祖であるカール・ロジャーズのいう「共感的(正確には、感情移入的="empathic")理解というのは、あくまでも、「あたかも(as if)その人の感じている「かのように」感じてみるということです。

この"empathy"に対して、私も指導を受けたフォーカシング教師、ジャネット・クラインは、"compassion"という態度があると主張し、区別しました。

フォーカシングにおいては、自分の感情や悩みを「身体の内側の非言語的な感じ」それ自体(フェルトセンス)として直接注意を向け、感じてみるという態度を取るわけです。

これをフォーカシングを学んだカウンセラーの場合で言えば、クライエントさんの言語的・非言語的メッセージを、カウンセラー自身が、自分の身体の内側の感じとして、言わば「疑似体験」しようとすることになります。

まさに、身体の感じを通しての「痛み-の-共有(com-passion)」をしようとする姿勢ということになります。

もとより、あくまでも「疑似体験」ですが、自分がかつて感じたこころの「痛み」を、身体を通して追体験しようとする姿勢です。

もちろん、身体症状化した人の痛み「それ自体」とか、肉体的虐待を受けた人の痛み「それ自体」は感受できないでしょうが、そこで感じた苦しみの感情に対する、身体次元で波長を合わせての想像力というものは、限界があっても持つことはできるかと思います。

クラインは"empathy"で接する時と"compassion"で接する時を、はっきり別の段取りとして区別します。

前者では、あくまでもクライエントさんの感じている「であろう」認知枠に忠実であろうとし、後者ではカウンセラー自身の体験と身体感覚次元で共鳴させてしまうことを求めるわけです。

このふたつは混同されてはならず、今からするのはempathicな応答である、それに対して今度はcompassionとしての応答であるとはっきり示してしまいます。

compassionとしての応答は、カウンセラー自身が自分の体験と重ね合わせていますので、当然「思い込み」の要素があります。
ですから、あくまでも「私は」こう感じた、と、そっと差し出す姿勢が重要で、クライントさんにそれを「修正」してもらい、それを再び受容的に傾聴することになります。

ところが、このような相互作用を丁寧に進めると、クライエントさんは、自分が感じていた以上の新鮮なことを感じられるようになるという、促進的な作用をすることが少なくないです。

それどころか、クラインは、この後の手続きとして、ここまで進めた結果、「カウンセラーが」とのような「感じ」でいるのかについて、クライエントさんに「感情移入」して感じてもらい、言葉にしてもらう、という、相互的(インタラクティヴ)なやりとりの往復として行うことを定式化しました。

このことを繰り返すと、カウンセラーとクライエントさんの間に、非常に深い信頼関係と「絆」が形成されます。

これを、カウンセリング場面に限定せず、パートナーや親子などに、役割を交代しながら日常の中でもやってもらえるように「コーチ」する、というのが、クラインのめざしたスタイルです。

興味をお持ちの方は、ジャネット・クラインの「インタラクティブ・フォーカシング・セラピー」をお読みください。

なお、以下にリンクしたAmazonのレビューに、私自身の更に詳しい解説っがあります(3つしかないのでどれが私のレビューか、すぐわかるでしょう。やたらと長大なの)。

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2022年1月23日 (日)

昔、小林よしのりと論争した時に思ったこと

このご時世では、いかなる「ムーブメント」も、それが価値観の押し付けになり、個人自身の感じ方を抑圧する装置となれば、結局は全体主義を促進する作用しかもたらさないと思う。敢えていうが、狂信的なフェミニズムすら、「全体主義の一翼を担う」装置の一部となり得ると思う

私はいかなる価値観の「押し付け」にも反対する。一人ひとりが自分だけのユニークな価値規範を生み出し、それに基づいて行きていくことを理想して掲げる。

ひとり一思想であり、共感できるひとりひとりの人間と、「個々の条項で」同意できる場合においてにのみ共闘を結ぶ。

そもそもすべての点において同意できる相手なんて、この世には存在しないのではないか。すべては「条件付きの」信頼であり、共闘だと思う。

昔、小林よしのりが「自分の頭で考えろ」と「ゴーマニズム宣言」で書いたので「すべての人がひとりひとりゴーマ二ストになるべき」と手紙を書いたが、次の誌面で「それでは価値紊乱の社会になる」と逆襲された。私は価値紊乱でいいと思うけど。手を組むところだけ手を組む。それが個人主義だと思うが。

仮に私が今より名前が知られるようになったとしても、私は決して「信者」を求めないだろう。批判者だらけがふさわしい。それで個々の人がいうことがもっともだと思ったら個別に同意するだけだ。

親鸞も「歎異抄」で「俺を師としてたてまつる奴らはアホだ。偉いのは阿弥陀如来様だけ」と言っている。

何かあまりに「正義」の名のもとに人を屈服させ、洗脳しようとしている人が多い気がしたから、相当なストレスになってるので、思わず書いてみた。

「正義」をふりかざすことは、すべて「全体主義」への誘惑だと思う。

敢えて宣伝すれば、実は、フォーカシングというのは、他人の言うことへの、すぐには言葉にならない「違和感」にとことん敏感になり、それを相手に「通じる」形で言語化するスキルを磨きあげ、徹底した「個人主義者」を生み出す装置だったりする。

それと矛盾するようだが、他人のいうことは、何らかの意味で「正しい」。その「正しい」部分だけを選り分け、自分の糧にすることが、人間の貪欲な成長なのだと思う。

もっとも、自分が「違和感」を感じた意見に、いちいち自分から反論したり挑戦したりは、よほどのことがない限りしません。 スルーして、その人がその後どういう見解を述べていくかを「観察」する方が、「省エネ」だし、余計な誤解や先入観で泥沼化しないで済みますから。 挑まれれば受けて立ちますが。

Twitterでは、基本的には、その人の言うことに新鮮な発見と学びがあり、一理あると思った時にだけ「いいね」やリツイートをして、それでも「更に」同意したい時だけ引用リツイートやレスを返します。

自分が狭い世界に生きていて、大抵の人の言うことに、その人なりの生活の「現場」があり、そこから抽出された意見や思いだったりすると思うし、その人なりに探求してきた「博識」があると感じるから、滅多に自分のオリジナルのツイートはしなくて、むしろ「圧倒されて」、学びばかりと思っていますが。

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北山修「幻滅論」からの連想

「無意識」というものを他の人が「言い当てる」ことは不可能だと思う。そうした「言い当て」はすべてそれを言う人の「投影」だろう 。本人が漠然と感じている「感じそれ自体」をその人自身が感受して行き、言葉になったことだけが、その人の無意識「だった」ということになるだけだ。

他人に気持ちを「察して」もらわないと相互作用が成り立たないなのは、ある意味では赤ん坊だけだと思う。幼児になれば、大人との言葉「も」介したコミュニケーションの中にあり、子供からの自発的・言語的訴えを大人が「引き出す」コミュニケーションを主導する形になっていくのだと思う。

成人になってくれば、相手に自分の気持ちを「理解させようとする」言語スキルを磨くことになってくる。そのためには自分で自分の気持ちを「理解」し言語化できる前提がある。 もとより、そのスキルを磨いてもらうための援助をする他の人間は必要であり、自己責任に帰することはできない。

非常に個人主義的で、日本的「察し」の文化ではない理想論かもしれないが、原則的にはそう思う。

ネットのような、表情や身体の態勢、息遣い、声の調子、臭いなどの非言語的なもの(仮に画像があっても3Dではなく、presence=臨在性が低い)が伝達されない媒体を通してのコミュニケーションというのは、よほど用心しないと、行き違いだらけになるのも宿命かと思う。

「臭い」なんて、極端なこといいますけど、コロンを変えたなとかもあるし、フェロモン(性的な意味だけではなく)同士の原始的相互作用というのだって、動物ではない人間にも多大に実はあると思います(臭いについては、中井久夫先生も触れている文献があります)。

私は、カウンセラーとは、クライエントさんが「自分なりの新鮮な」言葉(それはカウンセラーにとっても全く新鮮なものでものであることも多い)で自己理解をしていくのを「援助」する存在でしかなくて、クライエントさんの気持ちを「言い当てる」ことへの欲望を持つべきではないと考える。「偶然」当たることはあっても。

人が「悲しい」と言っている「悲しい」も100人いれば100通りの「悲しい」であり、それを「その人が」心身でどのような「質感」で感じてる事象であるかは本人にしかわからないと思う。そのことの「尊厳」は守った上で「共感しようとしてみる」のだ。

 

ひょっとしたら「理解しあえた」というのは「理解したつもり」と「わかってもらえたつもり」という双方の「幻想(錯覚)」がたまたま一致しているだけかもしれない。「あの時同じ花を見て美しいと言った二人」の心が通い合っているのかどうか?

・・これ、作詞者の北山修先生が問題提起したことですよ。

興味がある人は、北山先生自身の「幻滅論」読んでみてください。

ここでいう「幻滅」とは精神分析家、メラニー・クラインのいう"disillusion"(脱錯覚)のことであり、否定的な意味ではありません。

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2022年1月22日 (土)

Social Phobia(社交不安障害、社会不安障害、対人恐怖)について

私が若い頃、学生相談をしている時にはあたりまえの概念で、実際そういう主訴の人も多かった「対人恐怖症」という言葉そのものを目にすることがなくなったのはどういうことだろう?・・と、ふと思った。

対人恐怖症は、英語では"Social Phobia"というのだが、調べてみたら、現在のDSM-5では「社交不安障害(Social Anxiety Disorder)」あるいは「社交不安症」と訳されているようである。

しかしこの訳語は流通しておらず、「社会不安障害」と訳されていたのではないかと思う。

なるほど、「社会不安」という言葉だけ取り出してみたら、全然別のイメージのものとなってしまうので、「社交」不安と訳した意図は理解できる。

でも、古式ゆかしき「対人」恐怖という言葉に込められた含蓄というのも捨てがたい気もする。

DSM-5には、

 

「他者の注目を浴びる可能性のあるひとつ以上の社交的場面に対する著しい恐怖または不安、例えば見られること(例:食べたり飲んだりすること)、他者の前で何らかの動作をすること(例:談話すること)などが含まれる。」

 

とあるから、「対人恐怖」という場合にあてはまるのは確かだが。

ただ、「社交」という言い方だと、たとえ街頭や電車の中でひとりぼっちで「いる」時でも、周囲の視線を気にしたり、凄い孤独感・疎外感を伴う不安を感じる場合があるというニュアンスが出にくい気もするのだ。対人関係を「回避」しているみたいな印象を与える。

学生相談の世界では、「排尿困難」という言葉もあった。これは、若い男性が、公衆トイレで、他に人がいると、どれだけ尿意があっても実際に排尿できないという症状のことを指し、得てしてそういう人は個室に入って用を足す。しかも室外に人の気配がしたら駄目だったりする。

今日では、この言葉は完全に泌尿器科の用語になってしまっているので、はっきり区別が必要だが、対人恐怖の症状のひとつの身体化した現れ方であるととらえられると思う。

そこには、自分自身の感情や衝動を、ありのままに認め、自然と「放つ」ことができないというメカニズムがあると私は考えるが、ある意味で「強迫神経症」にも通じる性質のものでもあると思う。

いずれにしても、「社交不安障害」という訳語はほとんど流通していないし、「パニック障害」と比べれば、日陰の障害という扱いという気がする。

私見では、「社会不安障害」というだけの場合には、薬物療法に頼らなくても、格好の心理療法の対象であり、カウンセラーとしてキャリアを積む上でも、早い段階で研鑽を詰めるケースかと思う。少なくともいきなりうつ症状の人を相手にするよりはいいのではないか。

私自身、カウンセラーとしての出発の時点では、学生相談を職場としたため、「対人恐怖症」の人との関わりが多かった。

この症状を持つクライエントさんがカウンセラーと良好な関係性を築けることそのものが実はセラピーそれ自体としての効果を持つ側面も大きい。ある意味で、クライエントさんがカウンセラーへの対人恐怖を最低限乗り越えることを繰り返さないと継続的カウンセリングそのものが成立しないからである。

それに加えて、技法的にどのようなものが考えられるかは、流派によって異なるかもしれないが、私なりのスタイルは持っていた。

しかし、それについては具体的には触れないでおきたい。

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2022年1月20日 (木)

占いや開運グッズにこだわることの長所と短所

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占いや開運グッズに凝り出したり、オカルトに関心を持つようになった人は、得てしてそれを家族や他人にも勧誘し、押し付けようとします。中にはマルチ商法に巻き込まれているケースもあるわけです。

こうしたマルチ商法に引っかかった場合には、科学的根拠のない商品を、時として深刻な身体の病気に関わることまで盲信して使ってしまい、人にも勧めてしまう場合もあることは大きな問題です。

縁起をかつぐこと、開運グッズに凝ることを、自分の運ばかりを信じ、努力をしないと批判する向きもあるでしょう。しかし、そもそも努力しさえすれば自分の人生が開けるという信念にとりつかれているのもどうかと思います。それもまた、ひとつの「宗教」に過ぎないという見方もできるかと思います。

自分の人生の現状は、さまざまの運やめぐり合わせなど、自分ではコントロールできないものによって成り立っているという側面も、確かにあると思います。

もとより、様々な社会的・家族的な問題を、運のせいにしてしまうというのは問題もあるかと思いますが、そうしたことを考慮に入れても、人生には、努力や才能や財力だけでは決定づけられない要素があることを否定できないという人は少なくないと思います。

現代では、占いの結果や縁起物の購入などによって、実際の自分の運命が予め決められているとか、変えることができるとは思えない人も多いでしょうが、いい運勢と出たことによって元気を出す人もあるでしょうし、悪い運勢が出れば、そのぶん気をつけてものごとを行なう人もいるでしょう。

多くの人は、そのような心持ちでおみくじなどを理解しているでしょうし、良心的な、害のない占い師は、そうした勘所をわきまえているものだと思います。

年中行事で厄を払うために特別な品を買ったり、捧げたり、行事に参加することは、たまったストレスを浄化し、心機一転する効果もあるでしょう。

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ただ、敢えて言いたいのは、運勢や縁起ものにこだわる人の中には、人とのつながりを感じられない、孤独な人も結構含まれているのではないかということです。

こういう人は「運命の人」と出会ったと感じると、その人のことを盲信しようとし、仮に様々な疑念を感じたり、ひどいことを言われたり、強制されたりしても、押し殺して屈従してしまう場合もあるのではないかと思います。

DVや、金の無心を繰り返しされる場合が典型でしょう。完全に洗脳状態にはまりこんでしまうのですね。何をされても、自分が悪いのだと思いこんでしまうようになります。相手が謝ってきたら、それですぐ許してしまう。でもしばらく経てば、同じことの繰り返しになるわけです。

相手に対して感じた違和感は、それが言葉でうまく説明できないものであったとしても大事にし、その相手に直接問いただすことはできなくても、だれか信頼できそうな人にまずはうち明けてみるだけでも大事かもしれません。

時には、そうした問題に詳しい弁護士などを含む専門家に相談するほうがいいケースもあるでしょう。

もちろん、いい出会いに恵まれるケースもあるでしょう。

ところが、不幸な生い立ちをしていると、相手を信頼できなくて邪推して、すぐに疑ってしまい、それが妄想の域に到達してしまう場合もあります。

全然浮気なとしていないし、しそうもない配偶者が浮気しているものだと思いこむ場合もあります。これを「嫉妬妄想」といいます。

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2022年1月17日 (月)

名曲・名作「緑山高校」

たまたま、王子のきつねさんのブログで、もりぽこと森保まどかが声優として出演予定の『アニメ きらめけ!VIVACIOUS DASH❤️劇場版』という作品の告知を見たのだが、この作品について現状では情報があまりにもないというので、私なりに調べてみた。

この作品の共同監督をする前園文雄という人は、かなりのベテランで、むやみと演出に参加した作品は多いのですが、「監督」として、これといった代表作はないように思います。

私が検索した作品リストで私が観たものとしては、「緑山高校 甲子園編」という映画(正確にはOVAの総集編)が、「侍ジャイアンツ」に輪をかけたような、ぶっ飛んだ野球作品(原作あり)でした。

構成・演出とありますから、この人が深くコミットしていたのは確かです。

個人的には非常にオススメ作品でした(確かアニメージュへの投稿も載ったと思う)が、世に知られることなく埋もれてしまいましたwww

でも、今調べたら、Amazon Prime Videoで観れるらしいです。

YouTube動画も見つかりました。

この、野澤恵という人が歌う「遅れてきた勇者たち」という曲、しっかり思い出しました。観た当時、ほんとうに気に入って、繰り返し聴いた曲です。

******

作品紹介(Wikipediaより):

『緑山高校』(みどりやまこうこう)は、週刊ヤングジャンプにおいて1984年21号から1987年50号まで連載されていた桑沢篤夫による日本の野球漫画。

第66回全国高校野球選手権福島県大会。創立されたばかりの緑山高校が優勝候補の神堂高校を破り、甲子園出場を決めた。エースピッチャー・二階堂の傍若無人さで波乱を巻き起こしつつ、緑山ナインは甲子園大会でも強豪校を次々と破り勝ち進んでいく。

主人公:二階堂定春(にかいどう さだはる)
声:千葉繁

背番号1。9番(時に1番)、投手。左投げ左打ち。1969年4月1日生まれ。身長198cm、体重110kg。
投げては200km/h近い速さの超剛速球を武器に相手のバットや腕をへし折りつつ三振の山を築き、打ってはバックスクリーンをぶち抜き遥か場外まで飛ばすほどの凄まじい打球を放つ史上最強の高校球児。その規格外な投打力のため、彼が出場する試合では選手・観客を含め瀕死の重傷者が数多く出ている。また、馬鹿力と屈強な体格により喧嘩も凄まじく強い。
性格は極めて自分勝手で傲慢、かつかなりの気分屋。「野球は完璧なピッチャーが一人いれば勝てる」というモットーを持ち、常に周囲を見下すため他の部員の反感を買いやすく、犬島と並んでチームの不協和音の原因となっている。気が乗らないと露骨に棒球を投げることもあり、これが失点の原因となる。一度だけフォークボールを投げたこともある。実家はヤクザ。

アニメ版
『緑山高校 甲子園編』のタイトルで1990年7月25日にOVA化された。全10巻。OVAの1 - 4話を再編集した劇場版も同年に公開された。2006年12月6日にはOVAと劇場版を完全収録し、サウンドトラックCDを同梱したDVD-BOXが限定販売された。2015年11月11日にはBCリーグの福島ホープスとのコラボレーションコミックを収録したBlu-ray版が販売された。

スタッフ
企画・製作:廣瀬和好
原作・構成・監修:桑沢篤夫
監督:池田成
構成・演出:池田成、前園文夫、湖山禎崇
作画監督・キャラクターデザイン:鈴木信一
美術:荒井和浩
撮影:岡崎英夫
編集:掛須秀一
音楽:岩田雅之、西脇辰弥、 小野裕之、片倉三起也
効果:糸川幸良、横山正和
録音:上村利秋
劇場版51サウンドデザイン:北沢由香
音響演出:高橋朗
企画協力:桑沢プロダクション
協力:週刊ヤングジャンプ、ソニーPCL
アニメーション制作:有限会社バルク、あにまる屋
制作:本多敏行
制作担当:名嘉邦夫、西谷弘子
製作・著作:有限会社バルク
主題歌
OP「ストロベリーパイをお食べ」 作詞:宝野アリカ 作・編曲:片倉三起也 歌:ALI PROJECT
ED「遅れて来た勇者たち」 作詞:野澤恵・枯堂夏子 作曲:前田克樹 編曲:根岸貴幸 歌:野澤恵

 

 

カウンセラーは、自分の欠点について絶えず気づき続ける訓練は受けてはいるが、決して完成された「人格者」ではない。

何回か書いてきたが、心理カウンセラーというだけで何か「人格者」であるかのように思い込む誘惑にはカウンセラー自身も敏感であるべきだが、同時にカウンセラーであるというだけで「人格者」であるかのように想定され、言葉尻を取って攻撃されることは、仕方ないとは言え、結構迷惑でもある。

カウンセラー自身は、いくら専門的修練を受け、自分の心理的欠点に一般の人より敏感であるようになっている(そうでなければさすがにヤブだ)とはいえ、面接場面という「枠」を離れてまで、自分の欠点や弱みを露出しないでいられるほどの存在ではない。

現実的にみると、カウンセラーという人種は、生育歴的にみても問題を抱え、現在の対人関係や家族関係でも悩み深き存在であることが少なくないと思う。現実適応能力も、「カウンセラー」という枠を外すと、弱いくらいで、カウンセラーしかできないカウンセラーしているというのに近いケースも多かろう。

これは精神科医の場合も言えることで、他科ではとてもやっていけないから精神科に流れついたような。

もっとも、最近のように、社会人入学の人が増えている現状では、他の職業でも立派にやっていけるケースも増えていると思う。

更に、心理カウンセラーも、産業界とか、他業種との連携が必要なことも増えているから、必然的に社会性が磨かれる機会も増えていると思う。

ただし。実は、そのような、不適応者と紙一重の面を持ち、そうした自分への「自己治癒」を不断に続けなばならない存在であるということが、クライエントさんのセラピーの効果にもつながるという側面もある。 クッゲンビュール=クレイヴ著「心理療法の光と影 -援助的専門家の「力」-(創元社)を詳しくは参照。

特にユング派の専門知識がなくても読める、非常に読みやすい本です。カウンセラーに限らず、看護士、ソーシャルワーカー、教師など、およそ人を援助する仕事に関わる人間全体における「なぜ援助的専門家を志し、業(なりわい)としているのか、そのことの持つ影(ダークサイド)としての側面と、それと表裏一体となった治癒力について述べた本である。

こうしたネット上で、必要最低限の情報提供以上の発言はせず、セラピーへの勧誘、SNS上のカウンセリングはしないのは言うまでもないが、プライベートな発言を一切伏せ、心理専門家の仮面(ペルソナ)を一貫して守るというのもひとつの一貫したスタイルだと思う。

それに対して、私がネット上で採用したのは、プライバシーも出し、鎧の下のほころびをある程度自覚的にコントロールしながらもさらしていくというスタイルだ。政治的・社会的もしていく。

このことによって「透明な鏡」ではなくなるが、勝手な「投影」「理想化転移」を受けるリスクも減らせる。

あくまでもこのアカウントを「プライベート・アカウント」と位置づけ、自分のクライエントさんたちには教えない(ネット検索上は不可能)。こちらのアカウントを集客の手段として期待しない。実際こちら経由はいないに等しい)。仕事用アカウントは別に持つ (フォローは自由)@kurumefocusing

こちらのアカウント、専門的情報や、私のカウンセリング観は、遠慮なく発信する(逆に開業アカウントではそれを抑制する)。「他の」専門家向け、一般の方向けアカウントにしているつもりです。

ただし最近は、趣味関係の発信には相当禁欲的となり、当ブログのみを媒体とするようにしました。

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2022年1月16日 (日)

心理カウンセラーが、有資格であることの意義を喧伝することによる「反作用」をどこまで認識しているかどうか?

クライエントさんからの「陽性転移」が何らかの形で破綻する時に、うまく対応できずに(治療者側に生じる「逆転移」をうまく処理できずに、治療者側が「行動化」し)、クライエントさんを傷つけることしかできなくて、失望させることを繰り返しているケースがかなり多いのではないかという気がしている。

ある意味では、治療者の言うことに「盲従」せず、自分を殺すことなく、治療者の「言うとおりに従わない」で、率直に「文句を言う」「注文をつけてくる」能力を育成するのでないと、セラピーとは言えない気がしている。

ある意味で「拒否能力」がないからこそ、現実生活の中で苦しむクライエントさんは多いと思う。これは #神田橋條治 先生が述べていること。

だから、治療者は、敢えてサンドバックになって、それでも「生き残れる」ことをクライエントさんに示せる必要があるとすら思う。

クライエントさんは、カウンセラーをサンドバックにして「壊して」しまうことを無意識的には「恐れて」すらいると思う。治療者を「壊す」とことは、治療者に「投影同一視」している自分自身を破壊することになるわけで、それでも治療者が生き残れることを示した時、クライエントさんの中に、自己と他者への信頼が育まれる。

これについては、すでに以下の記事でも述べた。

●心理カウンセラーには、「打たれ強い」人が向いているのでは?

心理カウンセラーが、「自分は十分な教育と研修を受けた #有資格者 だから、自分のような専門家を選んでくれ」と「売り込む」ことは、それだけクライエントさんに、自分を高く「売りつけて」いるということだ。 そのことによってクライエントさんに生じる「期待」に答えられない場合のリスクを覚悟しているのかどうか?

この、#資格 という看板に「依存」して「身を守ろう」とすると、逆にクライエントさんを失望させるハードルも低くなるよ、そのことに「防衛的」な反応しかできないようでは、いよいよ資格の権威性を疑わせることになるという悪循環を、特に若い臨床家は自覚すべきと思う。

何回もいろいろな治療者に救いを求めてさまよっては失望を繰り返してきたクライエントさんが、治療者の「あら捜し」に卓越してくるのはある意味で当然のことである。それを、クライエントさんの生育歴に基づく病理の深さ、ましてや「パーソナリティ障害」とすら安易に言い出したくなる誘惑には用心すべきだろう。

いずれにしても、#資格 を持つことを喧伝しようとするカウンセラーは、その資格を盾にした #ナルシシズム への誘惑にも敏感になるべきだ。そうした防衛をうち崩すことなど、幾つもの治療機関を渡り歩いてきたクライエントさんは、容易にやってのけるという覚悟は必要だと思う。

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2022年1月15日 (土)

山崎孝明 「精神分析の歩き方」総評

心理カウンセラーは、その専門的学習・研修の過程で、まずはある特定の「心理療法」流派のオリエンテーションに基づき研鑽を積む場合が多いと思う。

著者である山崎氏にとっての精神分析技法がそうであったように、大学・大学院に入学する時点で、特定のオリエンテーションへの自発的モチベーションがあった場合もあるであろう。

しかし、多くの場合、入学時には、漠然と「心理カウンセラー」になりたいとしか思っていないケースが、今日大半だとは思う。基礎教育で様々な心理療法流派について入門的な知識等を得たり、セミナーに幾つが出てみる過程でとりあえず選択してみるという人が一番多いであろう。

もっとも、単純に、入学した大学の教育者が拠って立つ心理療法オリエンテーションに取りあえず従うしかなかったというケースもあるだろう(様々な教育スタッフを備えた指定校大学院制度の充実の中で、こうした「受け身の」選択のケースは減っていると思うが)。

いずれにしても、こうした特定の「心理療法」をある程度学んで、カウンセリングの現場に投げ出されたカウンセラーは、大抵の場合、大きな壁に直面する。

特定の「心理療法」を密室でしていればいいという現場であることが、そもそも少ない。更に、クライエントさんを、特定の「心理療法」を受けるようにカウンセラー側から誘導すると、実際にはカウンセリング過程がうまく進まないことが実に多いのである。

カウンセラー自身がこのことに無自覚なまま、特定の心理療法に「巻き込み」、押し付けていて、多くのクライエントさんをはじき出していたり、クライエントさんのモチベーションと異なる方向へとカウンセリングの進行と成果を期待されることによる齟齬が生じていることは、ままあると思う。

著者は、現場カウンセラーとしての経験を重ねる中で、こうした「痛い思い」を繰り返し、そこから「実践知」を自覚的に抽出したきた人だと思う。

第9章「モチベーション論」は、心理専門家が、どのような領域で、どのような雇用形態で働いているかに全く無関係に、面接の、クライエントさんとの合意形成に至るまでの「実践知」として、極めて優れており、自己点検のために、この章だけ独立させてでも必読かと思う。

これは確かに、どの「心理療法」をしていくか「以前の」問題なのである。「心理療法」すら求めていないクライエントさんが多いことは事実であり、何を「当面の」面接過程で目標とするかの合意は、丁寧なやり取りのなかでまずは形成されなばならない。

もっとも、クライエントさんの側に、カウンセリングに現れた自分の「無意識的」モチベーションが自覚されていないことも多く、それに無理のない形で気づいてもらえることも重要であることは少なくないが、これすら、クライエントさんの内面への「侵襲」となる危険を犯すものであることを、カウンセラー側は自覚しているべきであろう。

しかし、著者は、こうしたことを、面接過程での単なる「実戦的テクニック」として示しているだけではない。

クライエントさんがどの流派の心理療法の適用がマッチングするかといった「選択」の問題にとどまるものですらない。

著者は、主として精神分析的オリエンテーションの見地からではあるが、そもそも「心理療法」という枠組みそのものが持つ、潜在的権力構造と、期待される、社会での人格のありかた、生き方のおしつけになりかねない問題にまで視野を広げ、問題提起する。

そのことの重要性については、私も全く賛成であるが、その具体的な内容に関しては違和感がある。

果たして、認知行動療法をはじめとするエビデンス重視のアプローチは、即、「新自由主義」に適合する人間を生み出そうとするものであろうか?

私には、ここに「仮想敵」を投影的に作っている側面も感じなくはない。

これは、人格の「成熟」というものを、社会に単に「適応」的な人間になることととらえるかどうかという根源的な問題につながるものとしてとらえられるべきである。

少なくとも私の考えでは、個人心理療法が暗黙のうちに想定している、成熟した人格像というのは、左派リベラリストというのに近い。

理想とされるクライエントは、個人主義者であるが、すべてを自分の「人格の問題」としては考えない。家族や社会に対する自分の不満を自覚し、周囲に迎合せず、むしろ変化すら迫り、場合によっては社会運動に関与するだけのアサーションスキルをも磨かせる性質のものである(少なくともそれをめざさない心理療法を私はよくないものであるとすらみなす)。

認知行動療法ですら、すべてを自分自身の問題として処理するスキルを磨くにとどまらず、周囲に働きかけたり、自分と連帯できる新たな人間関係や社会的資源の活用スキルを向上させる側面を持っていなければ「おかしい」とすら思う。

カウンセラーは、そうした新自由主義ではないリベラリストとしてクライエントが育っていくさまを支援し、見守る役割を果たすのであり、必要とあればそれに「連帯」し、時としてはそれを主導する存在ですらあるべきと私は考える。

もとよりこれはあくまでも「私の」立場であるに過ぎないという自覚はある(ただし、このように自覚し、普遍的価値観と「みない」こと自体が、新自由主義的ではない、リベラリストの価値観だと思うが)。

これが、著者に対する私の違和感であるが、著者の問題提起の視角に価値があるとみなすことには変わりがない。

山崎孝明 「精神分析の歩き方」短評

第9章「モチベーション論」は、心理専門家が、どのような領域で、どのような雇用形態で働いているかに全く無関係に、面接の、クライエントさんとの合意形成に至るまでの「実践知」として、極めて優れており、自己点検のために、この章だけ独立させてでも必読かと思います。

私は、ここで書かれていることのある程度はできているとおもいます(来談した人に、決してフォーカシングは勧めずに、まずはニーズをうかがうことを、私なりに大事にしてきたつもりです)が、とてもここまでできていないことの方が多いと、いろいろ反省させられました。

 

2022年1月14日 (金)

フォーカシングと創造性

私の目からみたら、精神分析系の人は、文学的というのに近い「華麗な」概念を「ユニークに」使えることにほとんど自己愛的に酔っていて、そういう次元での論争に明け暮れているように思えることがあるというのは偏見だろうか。

そもそも、いわゆる力動心理学と、認知行動療法や行動療法と対立的にとらえるより、むしろ実践的にみてそこに生起する現象が「共通の」ものであり、そこに別の「説明」を与えているのではないかという視点も重要だと思う。

心理療法の学派の違いなんて実は現実のカウンセリングにはほとんど影響せず、「概念」をどれだけ「血肉化」しているかという違いだけで、頭でっかちの、あるいは逆に、技法を小手先で学ぼうとする人と、臨床の「普遍」なものに気づいているかいないかのほうが大きい気もする(すごく偉そうですが)。

極論すれば、心理療法各学派間の、優劣をめぐっての「論争」は、ほとんどの場合「内ゲバ」なのではないか? 単に「折衷」するのではない意味での、効果的に活用できる臨床家に共通のエッセンスの掌握こそ、生産的な探求のように思える(私なりの理解では、#村瀬嘉代子 先生はこうした立場に近い)。

念の為にいうが、私はすでに後者の境地に十分に達していると言いたいのではない。私より優れて現場臨床的なフォーカシングに拠って立つ臨床家の数は決して少なくない。そういう人は容易に識別でき、そういう人と出会うたびに自己愛の鼻をへし折られ「負けた!!」と思う程度というのが私の現実である。

ある意味では心理療法理論をニュートンからアインシュタインに昇華してしまった #体験過程理論 を背景とする #フォーカシング を学んだ臨床家も、この例外ではないのであって、いつまでも「技法」のまわりをぐるぐるまわっていて現場臨床と隔絶している人と、それを克服した人の落差は大きい。

自慢になるのは承知だが、#体験過程理論 の基本文献である、ジェンドリンの「人格変化の一理論」を、心理学科に転籍する以前にあっさり理解でき、訳者の村瀬孝雄先生に認められたことが、私がこの業界に入れたきっかけである。

それでも、#体験過程理論 が、心理療法理論の「ポストモダン」で(すでに50年前から!!)あることまで知らない(というか、わかりやすく教えられない)フォーカシング・プロパーの人が多いと感じる。この点で自分がそういう存在になるべく一層研鑽を積む「責任」はあると感じている。

非常に単純化していえば、私たちは、言葉になる以前の「こういう」感じとしかいいようのない、一定の質感とトーンを持った「感じ」それ自体に支配されてしか生きていないという、ある意味で非常にあたりまえの前提に引き戻した点こそ、#ジェンドリン の #体験過程理論 の最大の貢献。

フーカシング「技法」を学ぶ人は、得てして、実はこれさえできればいいというベースライン以上のことをしようとしていて、かえってフォーカシングを「できない」だとか、日常や現場臨床で使いこなせないという自家撞着にはまっている。・・・ホント、これだけなんだってばさ。

この、いろいろ「説明」できる前の、曖昧な「感じ」それ自体を大事にし、それをいじくりまわさず、静かに注意をむけ、「そばにたたずんで」いられるようにさえなれば、人の中に、それまでになかった変化が始まるということを「実感」したことこと自体が私の運命的転機である。

私は、最高学府大学院という学歴の割には、高度な抽象概念を自分では使いこなせない人間で、それを完全に「血肉化」して(これは頭でっかちに信条化することとはまるで逆のこと)、使いこなせる人には敬意しか感じないが、少なくともそれを使いこなせる人の「言語の使用」についての、柔軟な「理解力」はあるつもりである。

(これはどの専門・学問領域であるかに関係なく)どんなに高度に専門化された学問的専門概念にみえるものであっても、少なくともそれを案出した創始者の中では、非常に新鮮で生き生きとした、自分の体験に密着したものなのだと思う。そういう次元に還元して理解しようと努めるべきだと思う。

それが経済の理論であろうと新しい政策であろうと商品開発であろうと芸術作品であろうと、関係なく言えることだと思う。

もっとも、その新しい概念やパラダイムの創始者自身が、それを「頭でっかちに」「ドクマとして」教条化しようとし始めたり、少なくとも弟子が「頭でっかち」をはじめることの弊害が大きい場合も多いと思う。

ただし、クリエイティビティの高い新パラダイムの創始者は、決して己れの一旦打ち立てた概念や理論や方法論に飽き足らず、絶えず変化と進化を止めないのである。その変遷を「頭で」追いかけ、理解しようとする「信者」は混迷することが少なくないのだが。

いずれにしても、分野に関係なく、「クリエーター」であり続けることができている人って、別に技法として学ばなくとも、すでに #フォーカシング にあたるスキルは、天性のものとして身につけているので、今更学ぶ必要はない。

しかし、それ程の天賦の才能に恵まれていなかった人も、フォーカシングを学べば、「それぞれの分野における(それが経済や株投資(!)であろうと・・・れはジェンドリン自身が"economical instinct"として言及している)」業績を一層上げられるようになる可能性は高いと言える(大風呂敷ではない)。

そんなの下々の平凡な自分の日常には関係ないやいという人においても、いろいろな逆境におかれ対人関係や症状に苦しんでいる人についても、QOLを上げることには #フォーカシング は必ず役に立ちます(きっぱり)。それは自分と関わる「他人」すらいつの間にか変化させるくらいのパワーがあると思う。

以上書いてきたことは相当な大風呂敷に響くかと思いますが、少なくとも小手先の技法ではない次元でフォーカシングの技法を「身につけて」自分の生活に反映できているフォーカシングの指導者に学ぶ限りでは、学んで損ということは決してないでしょうね。

筋のいい人ならフォーカシングの本を読んで独習するだけで身につくのですが。 ただし、周囲の人に迎合する付和雷同なライフスタイルは超えてくことになるでしょうから、そのぶんの波風は覚悟しないとならないかとは思います。

フォーカシングを十分身につけた人間の人生は、ある意味では新たな出会いを引きよせることが多いかとは思いますが、同時にこれまでとのなれ合い的人間関係とは一歩距離を取り、孤独になることも覚悟せねばならないかとは思います(フォーカシング業界の内部でも孤独になる危険を犯すことに)。

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他人の言うことは、何らかの意味で「正しい」。

一見前の記事で書いたことと逆のことを書くかのように見えるかもしれないが、実は表裏一体のことについて書こう。

自分に「違和感」を起こさせる人物こそ、ほんとうの自分の気持ちに気づかせてくれるということは、次のようなことのも結びつく。

ユングも述べていることだが、ある意味では、他人の言うことは何らかの意味で「正しい」という前提に立ってみるほうがいいかもしれない。

自分と対立する「他者の」意見というのは、実は無意識下に抑圧された「自分自身」のもうひとつの声である。その言い分をじっくりと聴き統合できた時、人は成長する。

ユング的な見方をとれば、人が「他者」の中に見出すものはすべて「自分自身」の分身である。それどころか自分が自分から無意識的に排除した人格をまさに「体現」する人物が実際に自分に難癖をつけてくることが多いという「共時性」がありがちなのである。

他人と喧嘩するということは、自分自身と喧嘩することに他ならないということになる。

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「実戦的」フォーカシングとは?

「実践的」のIME変換ミスではありません。「実戦的」

前にも書いたが、「感情のままにふるまう」ことは、むしろ自分の「ほんとうの気持ち」を伝えることつながらないことがあまりにも多い。自分が自分の本心を冷静に観察できる視座を確保し、それを相手にうまく伝える表現力(ある意味で、「演技」するスキル=ユングの言う「#ペルソナ 」の統御)を磨くしかない。

ちょっと厳しいことを言えば、他人に感情をありのままにぶつければ「とりあえず」受け止めてもらえるのは子供だけであり、成熟した感情的交流は「表現力」=「演技力」を磨き上げることによってしか得られない。これが日本人は苦手だと、実はユング自身が延べている。

真の意味で「理性的」であるということは、「合理的に」「頭で」考えようとすることからは生じない。むしろ、自分の中に生じてくる、説明のつかない「モヤモヤ」「違和感」に、しっくりくる言葉をじっくりと探せるかどうかだ。このことをやれている人は結構多いと思う。

相手に「言い負かされて」しまわないで、自分の中にある、説明のつかない「違和感」を大事にして、そこからじっくり言葉を探す人は、建設的な議論に相手をも引きずり込めることが少なくないかと思う。

実は、実践的(というか、「実戦的(!)」)な #フォーカシング とは、そのようなことに他ならないのであって、何も特別なことではない。やれる人はやれている。

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2022年1月13日 (木)

流派を問わず、心理治療者は、自分の用いる技法を、自分自身に対して刻々と「適用」できることができる必要があるのではないか? それが「関係性」中での治療を生じさせる前提ではないか?

#フォーカシング って、それを学ぶ臨床家自身が意識的「技法」として学ぶ域を超えて、日常生活の中で「条件反射」になるくらいに「身につけて」しまって、その効能に恩恵を感じるくらいのところまで行って、はじめて持ち味とその人なりの活用法が見えてくるものだと思う。

このネットでの私の言動すべてが、実は「条件反射」の域まで血肉化されたフォーカシングの「実践」そのものなのだ。もとより個々の発言に何も誤りや行き過ぎがないわけではないのは自覚しているが、それを「軌道修正」する能力自体がフォーカシングの統御下にある。

精神分析の人ですら、日常の中でそこまでほとんど自動的に自己分析できるべきだし、認知行動療法の人も、日常の中で自分のスキーマを刻々と自覚し、修正できるところまで行きつけるべきと思うが。それができれば、実はCLさんに何も特別な「技法」を用いようとしなくても、なぜか面接はうまくいくと思う。

要は、臨床家の側が、絶えず日常や面接場面で自分の無意識にアンテナを張れたり、自分自身の認知の歪みに刻々と気づけないまま、クライエントさんの側にそれを引き起こそうとしてもうまくいかないのは当然だと思うのだ。

もちろん、全ての技法を自分で自分に用いるだけでは自分で超えられない限界はあると思うし、自己満足になる危険もある。自分がその技法を専門家との間で施してもらう(互いに役割を交換して関係性のなかで意識的にやる)機会を定期的に持つことは大事だと思う。

言い方を代えれば、クライエントさんの側に生じる心的メカニズムは、カウンセラーの側にそれに相応する心的メカニズズムを誘発するし、カウンセラーが自分の心的メカニズムの限界を克服できれば、クライエントさんの側にもそれに相応する心的メカニズムの克服を誘発するのではないか。

私の考えでは、「関係性における治癒」とはそのようなものだし、実は流派に関係ないのではないかとすら思っている。「意識的な」技法はその上に乗っかている程度のものではないか? これは精神分析でいう「治療者の逆転移の活用」とかいう理屈を持ち出さなくとも普遍的なのでは?

例えば、治療者の側がリラックスできていない状態で、クライエントさんの側にだけリラクゼーションが効果的に生じるのだろうか?

私はこうした「関係性」の問題を無視して、「客観的『エビデンス』」を証明しようとしても、無理が出て来ると思う。・・・というか、エビデンスを証明しようとすれば、こうした治療者側の因子も測定して、はじめて正確な証明ができるのではないかと思う。

こうしたことは、単に物質的薬物の治験の場合には考慮しなくてもいいことであろうが、治療者との関係性自体が治療的因子になる心理療法の場合には考慮されるべきと思う(もっとも、物資的薬の効能すら、治療者との関係性から完全に自由ではない気もする)。

実はこのように考えてくると、カウンセラーが面接室の外側の世界でどのような言動をどのような範囲でしていくかの指針と可能性も自ずから見えてくる可能があると思う。

精神分析系の人なら絶えず自己分析をしながら、認知行動療法系の人は絶えず自分の認知の歪みに敏感であり続ければ、どのような発言や行動を「社会」に向けてしていけるかが自ずから定まるのではないか? もちろんこれだけでは「十分」ではないかもしれないか、「必要」ではあるのではないか?

今述べてきたような次元で、心理専門家自身が自分の用いる技法の自分自身への「日常的」「条件反射的」適用を「身につけて」いれば、心理療法がClさんの、「特別な密室」の中での「癒やし」体験などではなく、現実生活の中での言動の変化(他者への影響力の変化)を誘発する域に達すると思う。

「治療者は、自分が行き着けたところまでしか、患者を導けない」・・・ユング「心理療法論」(林道義訳 みすず書房)。 ユングは「実用的」ではないと思われがちだが、実は相当現場臨床家に役立つ発言をしていると思う。

ある意味では、人格の成熟した完成、到達点などありえないと思う。人間は常に堕落の危機に直面しており、新たな事態に対応して行かねばならないのだと思う。もちろんこのことを現在の自分の失敗や限界の「言い訳」にしてはならないと思うが。

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2022年1月11日 (火)

私たちは身体を通して環境と相互作用している。「こころ」とは身体の働きの上に乗っかった仮像であるに過ぎない。

人間は脳神経系の中枢の統御にあるのみならず、内蔵や筋肉、皮膚感覚を含む「身体性」を持った存在として外部環境と相互作用している(ここでいう「外部」環境とは、胃の内部や肺の内部の空気も含む)。

いわゆる「こころ」の問題というのは、そうした相互作用の中で浮かび上がる幻(ファントム)としての「心像」の領域に過ぎないという視点も必要かと思う。#神田橋條治

例えば、 #パニック障害 の場合、単に脳中枢系の自律のバランスが崩れた「から」外界からの刺激に過敏になるというわけではなく、実際に群衆の中で「身体に」生じる過剰な外部刺激を受け止められなくなった「から」脳中枢系がバランスを崩すという、逆方向の相互作用的視点が重要なのは確かだと思う。

私は地方出身者で、関東に長期間在住だが、現在は故郷に帰り、たまに東京に行く人間だから痛感するが、あの駅や車内の人混みで「普通の神経」保っていられることに慣れていられる「普通の」人たちのほうが、ある意味で「異常な」環境に順応できる訓練を受けた人たちだと思う。

つまり、パニック障害を、外界に対する「正常な」反応をしている人たち、という視点もあっていいと思う。パニック障害の治癒とは、敢えて、都市生活上やむを得ない過激な環境にも「順応」できるように「人工的な」訓練を施そうとしている、というような視点。

ある意味では、脳内中枢こそ、人間の心身をコントロールする要であるという「思い込み」をいったん外してみるのも面白いのではないかと思う。

胃の内側にどういう食物が入ってくるかという外部からの刺激に対して胃の粘膜がどのように反応するかという末梢のメカニズムが、脳中枢を統御している、とか。

ある意味で、天動説と地動説の逆転、末梢の内蔵等の器官の(外部・内部)環境との相互作用が伝播するものとして、脳の働きを見てみるのである。

そしてこうして臓器と環境との間で生じる相互作用の失調が、結果的に人の「こころ」の領域に影響を行使することも多い・・・恐らくこうした発想法は、各内蔵器官の治療の専門医とかにとってはかなり普通のものではないかとすら思うのだが。

筋肉や内臓といった「末梢器官」の方が外界との相互作用を直接している要であり、脳はそうした諸器官からの情報をとりまとめる中継地点に過ぎないという発想。

高等生物でないほど脳が非常に小さな単純な器官になる。

例えばウニのどこの脳があるのか?それでもウニは環境の変化に臨機応変に順応する。

そういう原点に立って「こころ」の作用をみなおしてみればどうなるか?

「身体」と環境との関わりを安静な状態に持っていければ、「こころ」の問題のかなりが解決してしまう(少なくとも、「こころ」の問題を円滑に解決していく前提である)ということはあたりまえであろう。身体を安全な状況におけない(虐待等を含む)から精神も安定しようがないという視点。

実際に環境と身体の状態を安定した安全な状態に持っていけても、「こころの症状」(例えば些細なトリガーによるフラッシュバック)が現れるというのは、迫害的環境への身体の「正常な」恐慌反応が条件反射として成立してしまっているからであり、その条件反射を脱感作する必要があるということになる。

私自身は全然 #行動療法 の専門家ではないのだけれども、「置かれた異常な環境への『身体の』正常な反応」の残余が、かえって、すでに安定しているはずの環境への適応を阻害するというパラダイムでとらえた方がシンプルであると感じる面は大きい。

行動療法というのは、刺激と反応に人為的な影響を与えて、全体主義的社会へ適応できてしまうロボットを生み出すものといった危険な面もあるものとしてイメージされることもあると思うが、適切に活用される限り、「動物」としての人間が本来持つ環境へのしなやかな適応能力の回復を図るものなのだと思う。

実はこうしたことが人間の心身の当然の機序であるからこそ、精神科医は精神科医としての修行以前に、様々な診療科の身体疾患に関する専門的な研修の中で、ベーシックな医療モデルと治療スキルをひととおり知っていなければならない。

そうでないとただの精神療法マニアか脳科学主義的薬物療法の信者になる。向精神薬の身体への反応は「副作用」ではなくて、むしろ当然の反応なのであり、精神症状への作用のほうが「随伴的」という見方もあっていいと思う。

例えば、ドグマチールは本来胃薬として開発されたものであり、統合失調症やうつ病にも一定の働きを持つものであることは後になって「発見」されたという経緯がある(今日ではこうした精神症状の治療薬としての選択肢としては順位が低いが)。

およそどのような身体の、そしてこころの病でも、少なくともその急性期(命を取りとめるだけの緊急処置等を含む)の治療を経た後は、その人に悪影響のある環境からいったん引き離し、落ちついた安眠が保証できる環境で休んでもらえる状況を作り出すことで、生体のホメオスタシスと自然治癒力を徐々に引き出すことがベースラインとなっているわけである。薬物等は、こうした安静な環境のもとで、はじめて本来の効能を発揮するものであろう。

そうした「環境」の構成要素として、careする人と病者との安定した関係性が重要であることは言うまでもないが、これは身体病であるか、こころの病であるかに関係なく言えることだろう。

・・・まとめれば、身体病にも、いわゆる「こころの病」にも共通する、「異常な環境への『正常な』身体的反応」が、かえってその後の「通常の」環境への適応を阻害するというモデル、そして自然治癒力をベーシックラインとするモデルを延々書いてみたが、これは医者だけではなく心理カウンセラーも馴染んでいい思考実験だと思う。

更に言えば、恐らく #心理カウンセラー においても、「純然たる身体病を含む」医学的治療に関する一定水準の知識は、必須の「教養課程」として履修する必要があるのではないか、ということになる。

フロイトの、口唇期、肛門期、男根期、潜伏期、性器期という発達段階モデルには、独断的なところもあったとは思うが、ひとつだけ彼の後継者(分派して行った人たち)が見失って行った重大な貢献があるとすれば、それは、具体的な「身体器官」を通しての「体感感覚」モデルだったという点かと思う。

#フォーカシング というのは、実は「身体」との関係性を自然な状態に回復させることを習慣化するための技法体系であるとも言える。

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2022年1月 9日 (日)

全家財道具を訪問した大学に置き忘れる夢

夢をたて続けに見た。

1つ目。

私はある大学の学園祭を訪問している。

気がつくと、ある出店が開かれたいたその建物の一室(当初は普段はゼミとかに使う部屋のように思えた)に、スマホとクレジットカード等の入った財布と背負ったリュックを置いたまま、私はタバコと携帯灰皿とライターだけを持って、大学の構外の随分離れた場所まで外に出てしまっている。

私は荷物を置いてきたことを思い出し、あわてて大学の構内に戻ろうとするがどの建物かすら当初忘れていて、焦り、途方に暮れる。

恐らくこの棟だったろう、そのこの階の一室だったろうというところまで戻るが、すでに学園祭は終わっていて、通常の講義が再開されていて、その真っ最中のようで、今更中に入りづらいことに困惑する。

*****

ここで一度私は夢から覚め、悪夢だと思った。

そして、そうしてこういう夢をいたのかはすぐに思いあたった。

その大学は、私の夢の中にしばしば登場する(学会で3回ほど行ったことがある)、大規模な指定校大学院がある総合大学である。

なぜその大学が出てくるのかと少し考えてみたが、それは全く別の、2人の臨床心理士の方と関連しそうだと気づく。

そこに「私の大事な荷物を一式置き忘れ、どこに置き忘れたのかも覚えていない」というのが何を意味するのかもあたりがつく。

眠り込む直前、私は現在本の原稿を書いていて、ある章が来るまで自信満々だったのだが、突如ある章にあてる「事例」のデータを詳細に数時間かけて点検すると、実はそのデータが全く空疎であり、そこから何か考察めいたことを書ける自信を失っていた。

それを引き金に、自分の書こうとしていた本の内容が、当初の構想のあてが外れて、今後まともな内容の章を書けないのではないかという不安に一気に襲われた。

それは更に、その本の構想と、そこで一発大逆転して、今後の私のカウンセラーとしての経営の軌道を順調にしようという構想自体の底の浅さと、そこに「みせかけの自分」を構築しているのではないかという絶望感を引き起こした。リアルな私の実情は、その程度のものではないのか?

******

ここで私はまたいつの間にか眠り込み、夢の続きを見ている。

私は自分が荷物を置いてきたのは、現在講義が再開されている教室のある階の下の、半地下の、部屋が並んでいる階であることを思い出す。

そこは、学生とか教師とかが一時的に宿泊するための、6畳くらいの部屋が廊下に並んでいる。

その中のある部屋に荷物を置いてきたはずと、あたりをつけて入室すると、そこは家具のある畳部屋になっている。

ここで、私が置き忘れてきたのはリュック等だけではなく、そもそも私が独身時代に繰り返し引っ越す際に移動させていた家具一式(1000枚のCD等も含まれる)であった、ということに夢は拡張されている。

その部屋の中に、ひとりの男子学生がすでに「住んで」いるわけだが(ここで夢はそこが「学生寮」の一室であることに拡張)、私は私の荷物を知らないかと尋ねる。

すると、突如その学生の母親が現れる(ここでその部屋は学生と親の住む、少なくとも2部屋あるアパートの一室ということに拡張)。

そして、その母親から、「安心して下さい。荷物は皆、今あなたの住んでいる住所へ送りました」と言われる。

私はほんとうに全部の荷物を「選り分けて」送ってくれたのかどうか一抹の不安を覚えるが、ひとまずほっとする。

******

ここで再び目覚める。

どうも私は私なりに学生時代から積み上げてきた「蓄積」を確かに今も「所有」しているのであり、それを「見失って」いただけで、ちゃんと再確認できている気がした。

そこで、その章にあたる内容に関連する情報をネットで調べ始めるが、どうもその「事例」そのものが、他の事例に比べると、ネット界全体での情報量がそもそも薄いことに気づく。そもそも固有な特徴に乏しい事例であるということ。

そして、なるほど、その章の内容は他の章より薄めになり、「何とかでっちあげる」水準にとどまるかもしれないのもやむを得ない、30章も書くのだから、埋め草にそういう章が出てきてもしかたないではないかという思えるようになる。

すでに書いた章は、確かに興味深い「事例」が多く、内容も充実しているという自信を回復した。興味をひく「事例」から順不同に執筆しているので、今後薄味の章は増えてくるかもしれないが、全体のクオリティとしては何とかなるだろう。

その章の事例を書かないでおくことによって「網羅性」を失うことの損失のほうが大きいと判断できるようになった。

******

ここで私はまた寝てしまう。

外国の鉄道に乗っていて、駅から降りた所。私は警察に監視されている。私は(正確には忘れたが)ルパン3世か「シティハンター」の冴羽獠みたいな存在自身になっている。

霧の中、ロシア風の洋館の並ぶ行き止まりの壁に追い詰められそうになった時、私は「絶対に追い詰められない」と警察官たちに言い残し、壁に向かっでダッシュをはじめる。

******

目覚めて振り返ったが、これもわかりがいい。

警察とは、私の超自我だろう。しかし私はその「監視」をまんまとくぐり抜けてしまえるという自信にあふれた、ダーク・ヒーローのような存在になっている。トリックスター的とも言えるかも知れない。

*******

ここでまた寝てしまう。

私の本(今回とは全く別のテーマということになっている)の内容には、一切の取りこぼしもなく、つけ入る隙がない、完璧な仕上がりと誰もが認めるしかなくなっている。

******

夢を見ることと、目覚めてワークすることの往復が、一連の過程として成立しているが、それは私が普段から自分の夢に向き合うことを完全に習慣化しているからである。

この背景には、私が臨床現場でも使いこなしている、ジェンドリンの「夢フォーカシング」のスキルを、何よりまずは自分のために身につけているということにある。

夢と向きあうことは、起きている時に不可能な次元で、「現実」と向き合うためのきっかけとなるのであり、そこでのワークは、「現実の」具体的な自分の生き方を変えていけるほど強力なものである。

******

夢の「解釈」にはいろいろ専門的知識が必要と思われているかもしれないが、「いかに(how)」解析していくかの方法論は意外とシンプルであり、これは完全に定式化可能である。

これについては、私の書いた「入門フォーカシング」でも、一章を割いて、ジェンドリン自身の上記の著作を整理する形で、その方法をかなりくわしく書いている。

2022年1月 8日 (土)

AVIOT WE-BD21d-pnk レビュー

20220108_203411

TWSのTE-BD21j-ltdpnkも注文済みなのですが、メルカリで1万円切った出物があったので購入。aptX止まりというのは承知でしたが、首掛け型もひとつ持っておいてもいいかなと思ったので。

当初は、低域の深々とした美しさと透明で「濡れたような」空間表現は素晴らしいと思いましたが、高域が全然伸びていなかったです。

それが4時間ぐらいエージングするうちにみるみる改善。空気感のあるしっとりとした表現を基調とはしますが、クリアーな音像になりました。ティンパニとかもしっかり出ます。

出品者は、20回ぐらい使用したと書いていましたが、ホントかいなと思いました。数時間でまるで別次元の音になったのは間違いないからです。Xperia5iiiのクオリティの高さでたたき起こされたのかもしれません。

私の嫌いな「ビニールっぽい輪郭」皆無。総合的なバランスと美しさという点では、ひょっとしたら私が現在所有している有線・無連問わずイヤホンのトップになるかもしれないです。

私の経験的な印象でいえば、高純度OFCの音で、非常によく吟味されているのではないかと思います。

これでハイレゾTWSのBD21j-ltdが届く日のことがいよいよ楽しみになりました。

サイバーリンクパソコン工房

2022年1月 7日 (金)

心の問題をあれこれ「考える」必要はない。

さて、以下の、私のやっている #フォーカシング 「導入部」についての紹介に基づき、 #マインドフルネス との類似性と私が考えることを少し解説してみましょう。

●マインドフルネス認知行動療法とフォーカシングの導入部の類似性

#ジェンドリン はフォーカシングと #瞑想 は、心の中に降りていく「深度」が異なり、瞑想ほど「降りていく」ものではない、と、来日時のワークショップで述べていました。

ところが、フォーカシングにおける導入部としての"clearing a space(空間づくり)"に限定して言えば、ある意味で瞑想と似たところがある気がします。

生じてくる心の中の気がかりを、ひとつひとつ、脇に積み上げてしまうのですね。

そしてそうした気がかりをすべて積み出した後の、「広大な空間」を感じられれば、ひとまずよしとし、それで満足するならば、フォーカシングの段取りをそれ以上先に進める必要はない、必要なことはそれだけでも自然と生じてくることが多いとすら、著書「フォーカシング」の中で書いています。

 

ただ、ジェンドリンは、それを、気がかりな「事柄」という水準で書いています。

私はそれを数多くのフォーカシング・トレーニング経験から、「身体の感じ」レヴェルでまずはやってみるほうがいいと判断するようになりました。これが「第1章」の前に「第0章」の訓練を設定した理由です。

ただし、ここで言う「身体の感じ」とは、腰や肩の痛み、頭痛のような、否応なしに訴えてくるような「身体症状」にとどまるものではありません。

人は、実は、身体症状のようなはっきりした感じ以前に、実は、非常に漠然とした曖昧な身体感覚というものを感受していて、それに基づいて行動しているとみなせます。ジェンドリンの #体験過程理論 でいえば「暗黙の機能」といいます。

例えば、たとえ腹痛を感じていなくても、実は、お腹の中の漠然とした感じというものは、注意を向けてみれば、感じられるのです。

いきなりお腹の中の感じだけに触れようとしても、それを識別できないかもしれませんが、例えば、背中の方の感じと「識別」しようとすれば
、気付けるようになります。

こうしたことを身体のあちこちについてやってみると、身体のあちこちに、質感の異なった感じを「実は感じながら」日常を生きて「いた」ことに気づけるようになります。

とりあえずは、そういった、身体各所の感じを、落ち着いて息をしながら、「観察」できるようになればいい。

これじゃほとんど「瞑想」ではないかと言われる人は、確かに出て来る気がします。私は瞑想については何も学んだことはないのですが。

ところが、この事ができるようになり、習慣化するだけで、日々の悩みから、かなり自由になれることも多いのですね。

******

まるで、およそ人の悩みというものは、すべて「雑念」であり、「煩悩」であるかのように見なしているのか?と言われる人すら出てくるでしょう。

私は別に、思想として、そのようにみなしているわけではありません。

しかし、私たちは、環境との相互作用の中で、「頭で」判断する以前の問題として、まずは「身体で」受け止め、そこから生じてきた漠然とした感じに基づき、さながら「条件反射」のようにして行動している側面が実は大きいなのではないかと思います。

その「条件反射」の悪循環(認知行動療法でいう #スキーマ )を断ち切って、それと距離を起き、一度自由になってみる。

それだけで、新鮮な気持ちで、リラックスして、状況に対応できていくことも多いと思います。

これは、狭い意味での「こころ」の内容(content)主義自体からの脱却とも言えます。

#神田橋條治 先生は、「人間は、"コトバ"文化に『汚染』されている」といいます。

多くの心理療法の世界は、いよいよ難しい専門用語を駆使して、ひとの心の問題をいじくりまわすだけになる危険もある、という視点もあっていいと思います。

こうした「漠然とした身体の感じ」の状態に敏感になり、注意を向けるのに慣れて来ると、激しい感情が生じてくるまでに、自分が何を考え、どう判断する「クセ」があるのかを、冷静に観察する「もう一人の自分」が育成できます。

その結果、感情に任せた軽率な行動を取り、「また、いつものようなひどいことになってしまう」という悪循環を意識でき、ちょっと「自分」をとりもどして、柔軟な、もっといい反応をしていく心の余裕を取り戻せるのが習慣化するわけです。

恐らくこうした状態を確保した上で、言葉を選んで相手に伝えれば、それは相手も冷静な方向に自然と導くことがすくなくないかと思います。

「身体が」落ち着いている人間は、それがオーラのように働いて、相手の「身体」にもクールダウンが伝播することが少なくないということです。

・・・以上が、私の実践していることと、#マインドフルネス #認知行動療法 の接点と私が考えることがらですが、いかがでしょうか。

これは、完全に私の「こころの問題とその解決」観のエッセンスそのもので、#カウンセリング の現場のみならず、私自身の「生き方」そのものです。

念の為にいいますが、自分の悩みや行き詰まりを話したい人には、ますはそれをじっくりうかがうのでして、それをしないまま上記の技法を勧めることはありません。

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SkypeだけではなくてZOOMの使用も増えてきたので購入。

さすが老舗だけのことはある音質。

2022年1月 5日 (水)

自分のナルシシズムに「冷静に、しぶとく」ポジティブであること。または「承認欲求」へのアイロニーが嫌いであること。

何かというと、自分の中で、「俺って凄い、褒めて褒めて!」と自己暗示し、さらに自分で自分を褒め続けてモチベーションを保っている自分がいる。この際大事なのは人からのリアクションが全然返って来ないことに耐え、一層高い水準に磨きあげようとプレッシャーかけ続けることを止めないことかと。

自分を実際よりよく見せかけないことも大事で、自分のナルシシズムには最高の感度が必要だが、ある意味でははったりかまして、そのはったりにかなう自分を実現しようとプレッシャーをかけ続けるのが私のライフスタイルかも(そのスタイルを人に押し付けるつもりはない)。

人のナルシシズムの鼻をへしおろうとするのは自分のひとりよがりな劣等感の裏返しで、むしろそういう人の「リアルな実力」(みせかけではない)を褒めるのが好きなタイプかもしれない。自分にないものを持っていると感じた人は素直にほめ、見習いたいと思っている。

まあ、自分が人からはそうしてもらいたいと思っているからですが。批判や至らぬところの指摘は、影で冷笑されるくらいなら、たとえそれが見当外れでも大歓迎。「適切な」評価が返ってくれば感謝感激雨あられだが、それがすぐに返ってくることを決して期待しないで孤独には耐える。

そしてそうやって孤独に耐えている自分を、また「かっこいい」と自分で自分を褒めるわけだが、そこまでやっていないとやってられない。

でも、そもそも人様の「承認欲求」をアイロニカルに見る形でマウントを取るのは嫌い。だって承認してほしいのは誰でも同じでしょうよ。

私は #コフート 自身の本は読んでことはないが(マスターソンのコフート批判本は読んでいる)、恐らくコフートの自己愛人格障害治療論って、こうした方向なのではないかと想像している。

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2022年1月 4日 (火)

初詣

遅れましたが、近所の櫛原天満宮(福岡県久留米市東櫛原町)に初詣に行ってきました。

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2022年1月 3日 (月)

マインドフルネス認知行動療法とフォーカシングの導入部の類似性

2022年1月 2日 (日)

ゼンハイザーCX Plus True Wireless レビュー

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ヘッドフォンはかつてゼンハイザー党であったことと、aptX adaptiveに対応していることで買いとしました。

非常にゼンハイザー的な音という気がします。高域に独特のアクセントがあり、ヴォーカルの発音を際出せてくれるところがあると思います。

音の分離もよく、いろいろな声部が聴こえてくる。

低域方向への豊かさというものはなく、少しもやっと聴こえるとは思います。

しかし、実売2万円を切るということを考えれば、秀逸な部類の製品と感じます。

サイバーリンクパソコン工房

2022年1月 1日 (土)

心理カウンセラーには、「打たれ強い」人が向いているのでは?

このツィートに対して、違う!!と思ってしまった。

ある意味では、人にボコンボコンにされて何も言えなくなってもそれに堪え忍べるタイプの人のほうが、#心理カウンセラー 向きだと信じています。誰でも論破できちゃうという人は、(控えめに言って)クライエントさんを萎縮させている可能性が高いかと。

そうやってボコンボコンになっても「破壊」されてはしまわず、「生き残って」、クライエントさんに接することができるからこそセラピーになるのだと思うのですが(これば #メラニー・クライン 理論的にみても言えることと思います)。

メラニー・クラインは、赤ん坊は、最初、自分の中に快感が生じると、それは「よい母親」が自分によい乳房を与えてくれているものと捉え、逆に、自分の中に不快感が生じると、「悪い母親」が、自分を迫害して、悪い乳房を差し出しているものとして空想していると考えました。

そして、この「よい母親」と「悪い母親」が同一人物であると赤ん坊は最初気づいておらず、さながら世界を天国と地獄のように体験することを行ったり来たりしていると考えたのです。

この段階のことを、クラインは、難しい言葉ですが、「分裂的-妄想的態勢」と名付けました。

さて、赤ん坊が少し成長すると、別人だと思っていた「よい母親」と「悪い母親」が同一人物であることに気づきはじめます。

ところが、赤ん坊はまだ空想の世界を通してしか外の世界と接していませんから、「悪い、迫害してくる母親」に対して自分が反撃する攻撃性が、実際に「よい母親」を「破壊」してしまったのではないかという妄想にとらわれます。

こうして、赤ん坊はひどく落ち込んでしまうと、クラインは考えました。この発達段階のことを、クラインは「抑うつ態勢」と呼びます。

もっとも、現実には、再び自分を愛してくれる良い母親が繰り返して立ち現れるものですから、赤ん坊のこうした思い込みは次第に解消され、自分の親を、嫌なところもあればいいところもある「一人の人間」として認識できるようになっていくわけです。

そして、そうやって「破壊」した母親を再生させようという「償い」こそが、その後の人生の営みの原動力となるわけですね。

これは別に、現実に「迫害」してきた養育者を許すとか、そういうことではなく、自らのうちに、人を愛する気持ちをもった自分を育成していくということだと思います。

だから、カウンセラーは、決して自ら攻勢に出てはならない。

「あしたのジョー」でいうノーガード戦法がいい。

打たれても打たれても立ち上げる。

ただし、パンチドランカーになってはならない。

これは、実際には「良い養育者」経験のほとんどない、虐待を受けて育ったクライエントさんと接する上でも有効なのではないかと思います。

行動療法で言う、「エクスポージャー」してもらう、なんていうのも、何かまだ、「上から目線」な気がします。

自分の中の不安や恐怖(外部環境からの被虐感)に直面するということは、実はたいてい場合、自分の 抑圧されていた攻撃性(反撃したい衝動)に直面させるということと表裏一体で、治療者側も「被爆」 を承知でしてもらうことと思いますから。

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トロントだより

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     The Focusing Instituteの第17回国際大会(2005/5/25-31)の開かれた、カナダ、トロントの北の郊外(といっても100キロはなれてます)、Simcoe湖畔のBarrieという街に隣接するKempenfelt Conference Centreと、帰りに立ち寄ったトロント市内の様子を撮影したものです。

神有月の出雲路2006

  • 20061122150014_1
     11月の勤労感謝の日の連休に、日本フォーカシング協会の「フォーカサーの集い」のために島根県の松江に旅した時の旅行記です。https://focusing.jp/  
    ご存じの方は多いでしょうが、出雲の国には日本全国の神様が11月に全員集合することになってまして、「神無月」と呼ばれるわけですが、島根でだけは、「神有月」ということになります。(後日記:「神無月」は10月でしたよね(^^;A ........旧暦なら11/23前後は10月でせう....ということでお許しを.....)  
    ちょうど紅葉の時期と見事に重なり、車窓も徒歩もひたすら紅葉の山づくしでした。このページの写真は、島根の足立美術館の紅葉の最盛期です。

淡路島縦断の旅

  • 050708_2036
     「フォーカシング国際会議」が、2009年5月12日(火)から5月16日(土)にかけて、5日間、日本で開催されます。
     このフォトアルバムは、その開催候補地の淡路島を、公式に「お忍び視察」した時の旅行記(だったの)です(^^)。
     フォーカシングの関係者の紹介で、会場予定地の淡路島Westinという外資系の超豪華ホテルに格安で泊まる機会が与えられました。しかし根が鉄ちゃんの私は、徳島側から北淡に向かうという、事情をご存知の方なら自家用車なしには絶対やらない過酷なルートをわざわざ選択したのであります。
     大地震でできた野島断層(天然記念物になっています)の震災記念公園(係りの人に敢えてお尋ねしたら、ここは写真撮影自由です)にも謹んで訪問させていただきました。
     震災記念公園からタクシーでわずか10分のところにある「淡路夢舞台」に、県立国際会議場と一体になった施設として、とても日本とは思えない、超ゴージャスな淡路島Westinはあります。

水戸漫遊記

  • 050723_1544
     友人と会うために水戸市を訪問しましたが、例によって鉄ちゃんの私は「スーパーひたち」と「フレッシュひたち」に乗れることそのものを楽しみにしてしまいました(^^;)。
     仕事中の友人と落ち合うまでに時間があったので、水戸市民の憩いの場所、周囲3キロの千破湖(せんばこ)を半周し、黄門様の銅像を仰ぎ見て見て偕楽園、常盤神社に向かい、最後の徳川将軍となる慶喜に至る水戸徳川家の歴史、そして水戸天狗党の反乱に至る歴史を展示した博物館も拝見しました。
     最後は、水戸駅前の「助さん、格さん付」の黄門様です。
     実は御印籠も買ってしまいました。

北海道への旅2005

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     日本フォーカシング協会の年に一度の「集い」のために小樽に向かい、戻ってくる過程で、他の参加者が想像だに及ばないルートで旅した時の写真のみです。かなり私の鉄ちゃん根性むき出しです。  表紙写真は、私が気に入った、弘前での夕暮れの岩木山にしました。