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#河合隼雄 先生は、そこそこ身近に「観察」する機会に恵まれましたが、驚くほどの「俗人」に見え、嫌悪すら感じました。 でも、ある意味でリアリストであるからこそ、実際に臨床心理士制度を政治との交渉で設立できたのだし、その「犠牲」となって文化庁長官になられ、亡くなったのだと感じています。
はっきり書きますが、#村瀬嘉代子 先生が #公認心理師 制度を樹立する際に発揮した「政治的」振る舞いに対して議論があることはある程度承知しています。 しかし、嘉代子先生ご自身の臨床センスというものが、滅多に真似できない境地であることは疑い得ない気がします。
いずれにしても、#河合隼雄 先生が日本の心理臨床の業界で不世出の「男の神様」の役割を「引き受け」、#村瀬嘉代子 先生が、河合先生の後を継いで、いろいろ毀誉褒貶を受けつつも「女の神様」の役割を「引き受けて」おられることで、お二人のリアリストさに、心理専門家が恩恵を受けてきたことは確かだと思います。
(不吉なことをいいますが、)正直に言って、嘉代子先生が亡くなった後、日本の心理カウンセラー業界が、足を地につけた発展ができるかどうかは、大きな課題だと感じています。
現場センスのある臨床の超大家は、他業界人との交渉力にも恵まれていて、「緊急事態」への対処能力も高いことが少なくないと思います。
これは名前お出しして全然問題ないでしょうが、#神戸大震災 の直後メンタル緊急危機管理の点で、精神科医の #中井久夫 先生と #安克昌 先生が発揮した、ほとんど瞬発的な行動力と、その経験に基づくマニュアル化が #東日本大震災 の際にどれだけ機能したかを覚えていない臨床家はいないと思いますが。
・・・・大震災時の記録ですが、非常に踏み込んだことを言えば、この本が、長年の虐待を受けた #複雑性PTSD の人の心にまでは響かない可能性が高いことは理解したいと思います。
私の知る範囲で言えば、例えば精神分析と認知行動療法のどちらが「優れて」いるかとか、全く「対立」する技法であるとは感じられない。「適用対象」が歴然と違うとすら感じない。要するに、そのセラピストが使う熟練の「道具」が違うだけであり、その結果生じてくることは予想外に類似している気がする。
それより、どの流派をorientationにするか以前の問題として必要な、クライエントさんとの関係性の樹立のためのペースラインというものがあり、それさえ実現されていれば、流派も病理水準も意外とあまり関係ない気がする(乱暴な言い方と取られるのは承知しているが)。
そういう意味では、カウンセリングの専門性を高めようとする人は、あまりいろんな「技法」を学ぼうと「彷徨」する前に、自分がとりあえず主軸に据えた技法の「現場」臨床で成果を上げる大家が、その技法の見かけ上のテクニックの背景で大事にしているものを掴もうとすることが大事だと思う。
例えば、セミナーに参加してみると、行動療法の大家の山上敏子先生も、認知行動療法の大家の伊藤絵美先生も、クライエントさんとの関係性の樹立を大事にされていること、実はロジャーズ派の臨床実践の大家の先生の共感センスのようなものをお持ちには変わりないと感じた。
伊藤絵美先生は、「共感」という言葉がお嫌いのようで、ちょっとステレオタイプ化されたロジャーズ派観をお持ちかと感じたが、実際には関係性樹立への繊細な感度を感じた。
ところが、例えば山上敏子先生の技法の信奉者のはずの人が、全然先生と同様の成果はあげられず、「荒っぽいな」と感じたり、行動療法をはじめたばかりの入門者で、やたらと現場臨床の感度が高い人などを、事例発表で感じたことがある。
フォーカシングでも同じことで、同じフォーカシング指向心理療法を掲げていても、「現場」臨床のセンスと蓄積がある方とそうでない人とではまるで実力差がある気がするのだ。私もそうした「現場」臨床センスが高度な方にはとてもかなわないと感じることがある。
結局、臨床家が自分で熟練した「道具」をどれだけ掌中におさめ、しかし虚心に個々のクライエントさんに向き合う実践を蓄積してきたがどうかが成果をわけてしまう気がする。
そういう意味では、各技法を「比較する」形での「エビデンス」など容易に検証できないのは当然だと思う。
はっきり書くが、#村瀬嘉代子 先生が #公認心理師 制度を樹立する際に発揮した「政治的」振る舞いに対して議論があることはある程度承知している。 しかし、嘉代子先生ご自身の臨床センスというものが、滅多に真似できない境地であることは疑い得ない気がする。
ほんとうの「私」を認めて欲しい、理解して欲しいと感じて、周りの人にそれを求めるようになった時、今度は、周りの人に自分がどう思われるか、ということに自分の判断の基準をおいてしまうという逆説的罠が待ち受けている気もする。
「自分は自分」、人にどう思えるか気にしないほうが良いのかと。
「ほんとうの自分」というのを自分でもわからなくなってしまっていると感じている人も少なくないかと思う。でも、その結果、「今とは別の自分」を探す旅に出てしまうと、いよいよ「ほんとうの自分」を見失うという逆説もある気もする。
美人だとか、東大出だとかいうフィルターでしか自分を見てもらえないと感じて苦しんでいる人もいる。ネット上では、そういうことを隠してしまえばいいことだが、リアルワールドで人と親密になると、そうも行かなくなるだろう。それを「贅沢な悩み」と切って捨てられるといよいよ本人は辛いものだろう。
ありのままの自分に肯定的な人は、相手の「外面的」特徴を気にしないでいてくれる。そういう知り合いを、ひとりでも持てることは貴重だと思う。劣等感の裏返しで、人を外面的特徴でしか判断しない人も多いのではなかろうか。
自己愛的な人は、自分を「実際以上に」よく見せかけようとするものだ。その結果、自分より秀でていると感じた人と出会うと、相手をおとしめようとか、潰そうとか躍起になる。健全な自己愛というものがあり、そういう人は、他人の長所や実力に気づくと、率直に相手に敬意を払う。
自分がナルシスティックになっていないかに日頃からアンテナを張っておくことは大事なことだ。でも、ナルシスティックな自分に「自己嫌悪」したり、敢えて「謙虚」さをアピールしなくていい。自分のナルシスティックな面を、自覚的に「演じれ」ばいいのではなかろうか。
自分を殺して、「いい人」であろうと努めていると、今度は、天真爛漫にふるまえる人に何かと批判的になり、相手が「自己嫌悪」するように仕向けようとすらするようになる。そういう人を「ねたむ」のではなく、「うらやましい」と感じている自分をあっさり認める方が、結局は楽な生き方ではないか。
私が思うに、「ルサンチマン」の弊害とは、以上のようなことだ。相手を引きずりおろして、害したくすらなっているわけで、実はそういう人のほうが、傷つきやすい自己愛の持ち主ということになる。
「美人」と思われている人が謙虚であるということは、むしろ美人であることを「自覚」し、そうした自分に酔うことはなく、むしろ美人であることを「演じる」境地に達しているということではなかろうか。そういう人は、見てくれだけでなく、こころも「美人」なのだと思う。
「きれいだね」と言ってくれるからといって、相手が自分の外面だけしか見てくれていないと苦しむ必要はないと思う。結構、こころの「きれいさ」もみてくれている人もいることを信頼してもいいのではないだろうか。
アイドルやタレントやモデルをしていて、こころを病んだり、不祥事を起こしたりしない人は、恐らくこういう境地に達していると思う。
私は、こういうとらえかたこそ、真のフェミニズムだと思うのだけれども。
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最後の1行を除き、今度刊行予定の著書の、書いたばかりの原稿の抜粋です。これだけでは何をいいたのかわかりにくいという人もあるでしょうが、それは、ある物語の登場人物の心の軌跡を追ったものだからでして、実際にその物語のあらすじと一緒に公開できる時がくれば、得心していただけるはずです。
薬については医者の領域だから、特にTwitter上ではできるだけつつしんでいます。
せいぜい「自分が」飲んだ眠剤がどういう効果の違いとして体験されたかぐらいに。
自分がサイコセラピストだからかもしれないけど、治療者という存在自体の「薬」としての役割と「害毒」になる危険についてはかなり辛口のことを書いてしまいますが。
ただ、これからの趨勢としては、精神に関する薬の処方は本当に必要な場合にどどめ、旧弊から「洗い出した」精神(心理)療法(新しいセラピーと銘打つもののの多くは、実はかなり前に先達がいます)の時代に戻るような気はします。しかもそれが精神科医やカウンセラーの占有物ではなく、他の援助的専門家の必須の技能になって行く気が。
ただ、一定の方法に定式化して、どの援助的専門家がその技法を「適用」しても同じ効果を上げるという「エビデンス」の証明はなかなか難しく、かといってそれをセラピーの「才能」がある人の「名人芸」や「アート」の領域だとしてしまうのも問題があるわけですね。
実際に技法を教育する立場にある人間としては、結局ひとりひとりの研修者の状況に応じて教えていくしかなく、せいぜい一度に数人、できれば個別というのが少なくとも私の力量です。
厳密に定式通りに行えば重篤な人を含む幅広い対象者に安全で有効という技法は確かに存在する(念の為にいいますが、フォーカシングのことではない)のですが、普及する際にいつのまにか簡易マニュアル化され過ぎることも多い。
それをわかりやすくかつ的確に、勘所を押さえて、長すぎない文献としてまとめているようなものは意外と限られている気がします。
恐らく(精神に限らず)実際の物質的薬剤の処方というのにもそういう職人的教育研修に拠ってしか伝達できないところがあると想像しています。
新薬がどんどん開発されて行きますから、師匠の世代の臨床蓄積が弟子の世代にはまるで古くなってしまうという事態も多いわけですね。
ところが現実には、患者の目の前で「薬品会社の」医者向け宣伝パンフレットを読みながら処方を決めるなどどいった、人体実験やないかというケースすらあるわけですが。
改めてもう一度ご紹介します。
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1960年 福岡県久留米市生まれ。
The International Focusing Institute(国際フォーカシング機構)認定トレーナー
Focusing Professional
元臨床心理士
著書:
「入門フォーカシング」(鳥影社)
現代のエスプリ410「治療者にとってのフォーカシング」(伊藤研一との編著 至文堂)
「エヴァンゲリオンの深層心理」(幻冬舎)
法政大学文学部哲学科卒業
都立八王子福祉園(重度知的障害児施設)で研修
立教大学大学院文学研究科心理専攻博士前期課程修了(指導教授:村瀬孝雄)
日本大学板橋病院精神科で研修
東京大学大学院教育学研究科教育心理専攻研究生
東京大学大学院教育学研究科教育心理専攻研究員
日本・精神技術研究所心理臨床センター フォーカシング個別指導担当
法政大学多摩学生部学生相談室非常勤カウンセラー
専修大学・神奈川大学・東京女子大学・学習院大学非常勤講師
日本人間性心理学会理事(2期)
明治学院大学学生相談センター常勤カウンセラー(横浜キャンパス チーフカウンセラー)
湘南フォーカシング・カウンセリングルーム(個人開業)
久留米フォーカシング・カウンセリングルーム(個人開業)
「患者さんは治療という名の『仕事』をしているのである」
「楽しいことでも疲れる」
・・・私が尊敬する、精神科医の中井久夫先生の言葉です。
私のツイートは、援助的専門家に対しては点が辛いところも少なくないかと思います。でも、「治療者への信頼」を守るより、ちょっと毒のあることも書いて、患者(クライエントさん)たちがホンネを専門家側に言いやすくして、それに対応できる力量に専門家側がなって欲しいと思ってます。偉そうですが。
ある意味では、患者(クライエント)さんは、治療者とのつきあいで、「社会性」を身につけるところもあるかもしれません。でも、患者(クライエント)さんがいろいろ「我慢」して、言いたいことを言わないでいてくれてるから、一見順調な関係が成立しているのではないかという視点はあっていいと思います。
そもそも、例えば、対人恐怖やパニック障害や閉所恐怖やうつをかかえた人が、交通機関に乗り、群衆の中を通り抜けて、治療機関に足を運んでくれるということ自体、実にストレスに耐えながらの、「大仕事」ということになります。それを「労る」ことは大前でしょう。
多くの援助的専門家の皆様が、労働条件に見合わない待遇と賃金しか受け取っていないことは改善されて行く必要が大いにあると思います。ただ、雇われていると、少なからぬ場合、専門施設を利用する患者さん(利用者さん、クライエントさん)が「お金を出して」通っていることが見えなくなる気もします。
#風の向こうへ駆け抜けろ
— 北風寒太郎 (@rkUmWpq3h39pi73) December 25, 2021
うおお久しぶりの武豊ドラマ出演
そして後ろにはオグリキャップ! pic.twitter.com/isN3E1NVrA
前編が原作を丁寧に活かしたいたのに対して、後編にはひらすら熱血ドラマになりましたが、これはこれでいいのではないかと。
原作以上に児童虐待やジェンダーの問題に踏み込んでいたと思います。
私は原作読んでたから、ドラマだけ観た人の感動は想像するしかないですが、てちたちがおウマさんと関係を築くまでの労力や、貧乏牧場でのロケ含め、非常に力入れたドラマだったっと思います。
NURO光の契約すると月1000円ちょっとでレンタルできるのだが、製品到着までずいぶん時間がかかった。
当面、「ウイニングポスト」しかプレイするつもりはない。
これでおウマさんゲームが二通り。
原稿執筆が終わったら、「三國志14」もやりたい。
うどんさんの実況で、のっけからツインターボのことが出てくるので、「ウマ娘」のツインターボ貼っときます。
以前はうどんさんの実況の内容の意味がわからなかったが、これだけ「ウマ娘」でおなじみの馬名がボロボロ出てくるのだな。
いわゆる「境界型パーソナリティ障害 」と見える人に、治療者との関係性の「二次被害」によってこじれさせたれたケースが少なくないという私の見解は、専門家には議論を呼ぶかと思いますが、実は中井久夫先生の論考にあります。
「治療にロマンを求めるなかれ」。
患者さんを自由連想や催眠によって「退行」させ、「抑圧」された幼児期の体験を想起させないと治療にならないという考え方は危険ですらあると私は思っています。むしろ「今、現在の」治療者との関係性の中で生起しているものを取り扱っていく。これは精神分析でも「対人関係学派」はそういう見地です。
「対人関係学派」とは「対象関係学派」と混同されかねないのですが、アメリカのサリヴァン、クララ・トンプソン、フロム=ライヒマンらの実践を元に発展してきた展開です。
対人関係学派の見地に立てば、セラピーでわざわざ人を「退行」させ、幼児期に引き戻してそこから成熟した人格を「再構築」するなんていうのは、非常に操作的な、危険を犯すやり方ということになります。目の前のクライエントさんとの関係性の中で生じてくるモヤモヤしたものに、すでに糸口があると。
これは、もとをたどれば、サリヴァンの「関与しながらの観察」という見地にさかのぼることができます。このサリヴァンの有名な概念、独り歩きして理解されがちで、本来の含蓄は結構知られていないような・・・
手前味噌になりますが、私の、現場カウンセリングにおける方法論のベースラインは、カウンセラー自身が、面接場面のただ中で、クライエントさんを前にして、自分の中に生じてくる漠然とした曖昧なモヤモヤとした感じ(フェルトセンス)に注意を向け、まずはそれと無理なく自分の中で一緒にいられる内的関係を作り、「そこ」からクライエントさんに何を語るかを慎重に吟味していくというものです。
これについては学会発表もしていますが、私が編著した、「現代のエスプリ」でも詳しく述べさせていただいています。
これは、「治療者の逆転移の活用」ということになり、対人関係学派に限らず、現代精神分析で、かなり多くの専門家が重視している見地です。
ORION(オリオン) Bluetooth対応 サウンドバー SBS-900BT のハイ・クオリティに感心したので、実質同じメーカー(SANSUIのブランド名を現在取り下げただけ)のシスコンも買うことにしました。
全く期待を裏切らなかった。完全に想像通りの音でした。
真空管アンプというのは、デジタル再生において、「奇数次高調波歪み」を打ち消し「偶数次高調波歪み」を強調するように働きます。 「偶数次高調波歪み」はもともと楽器の音にも豊富に含まれる「倍音」の成分なので豊かな音に感じられるのです。 反面「奇数次高調波歪み」が少ないことにより、不快で聴き疲れする音が少ないことになります。
この製品も、スピーカーのコーン(振動板)にミツマタの植物繊維を用いています。
相当に立ち上がりがいい音がして、相川七瀬のようなガンガンくるサウンドも十分対応します。非常に艶っぽい響きですね。
これで実売24,000円というのは、驚くべきクオリティでしょう。
ぜひ皆様にもおすすめしたい製品ですが、SANSUIブランドはやめてしまいましたので、現在市場に出ている製品のみしか残っていないと思います。
現状はまだAmazonでも在庫は十分あるみたいです。
これは #note の #この仕事を選んだわけ というお題に答えてみようと思ったから書くのですが。
私は一人っ子として育ったのですが、それはそれは面倒見のいい父でした。久留米で一番仕事量こなす税理士として激務だったのですが、旅行にもしばしば連れて行ってくれましたし、こちらから求めてもいないうちにいろいろおもちゃや本を買ってきてくれる父でした。
中学校に入って、私が自発的にしてクラシック音楽に興味を持った時も、結構立派なオーディオセットをある日突如電気屋に連れて行って買ってくれましたし、レコード代もしばしば現金で渡してくれました。自転車に興味を持てばサイクリング車を買ってくれるという具合。
ただ、私はそこまで「先回り」していろいろしてくれるものだから、自分からだだをこねてものをねだったということは皆無でした。おもちゃ屋に行っても、欲しいものをはっきり欲しいと言えない。結局父が「これはどうだ?」と言ってくれるものを買ってもらってばかりでした。
私のその後の理解では、「甘えた」ことはないということになります。「甘んじて」いた、と言ったほうがいいですね。
小学校では、運動音痴で、きょうだいの間でもまれて育っていなかったので、結構いじめの対象とされました。教員養成大学の附属校でしたから、粗暴ないじめではなかたっとは思いますが、医者の師弟とかがむやみと多かったから、恐らくそういう連中は家では厳しいしつけを受けていて、そのストレス発散の種にされたのだと思います。
私以外の全員が、いわゆる「お受験」のための英才教育型幼稚園出身で、その頃からの友だち同士が多かったですから、孤立していたとも言えます(私自身は、附属小に入るための「お受験」勉強などは特に親から求められていません)。
基本的には、私は才気煥発というタイプで、天真爛漫だったと思います。そういうのが逆に気に障ったのでしょうね。
親も、「勉強しろ」と言ったことはなかったです。そこそこ成績は取れて、中の中という感じでしたでしょうか。
ところが、附属校ではありますから、実質的には中学ヘはエスカレーターだったのですが、中学から入ってくる人たちも多い。そういう人たちのほうが秀才が多いわけです。そこで、6年生になると、学校をあげて「受験勉強」させられるわけです。
業者テストも何回も受けさせられたわけですが、私はその2回めの時に、唐突に学年2番になれてしまった。みんなはまぐれだと思った。次の回はまた馬群に沈むわけですが、ここで私は、2番の時がまぐれではないことを証明したいという気持ちに自分でなったのです。それから猛然と勉強をはじめた。
・・・で、実際に再び学年2番になれたわけです。しかし、そのことを親は特にほめてもくれませんでした。
中学に進んでも当初成績は良かったのですが、そのうちに何のために勉強しているのかわけがわからなくなりました。親は全然将来のためとかいいませんでしたからね。
自分で延々と長大な日記を書いて、「学習哲学」みたいなものを自分で考えることをしていました。
知識の実用性を重視すれば「実用主義」、将来の安定した地位を欲しい場合には「地位獲得主義」、努力すること自体に価値があるとするのを「努力主義」、純粋に知的好奇心にもとづくものを「本源主義」とか名付けました。
私はその答えを求めて、トルストイとか、ともかく小難い岩波文庫的な本を耽読するようになりました。そうして出会ったのが、すでに別の記事でも書いた、「幸福論」スイスの宗教的著述家、カール・ヒルティでした。
ヒルティは本職は弁護士だった人ですが、古今東西の書物に通じたたいへんな碩学でしたから、聖書は当然として、世界史上の哲学者や文学者などの知識人のことが情け容赦なく出てくるわけです。私の教養はヒルティによって養われたといっていいでしょう。
ところが、そうやって勉強する目的を見失なってしまったので、全然勉強しなくなったのですね。成績は低迷するようになりました。ただし、国語と社会科だけは何もしなくても学年でトップクラスでした。先生には「なぜお前は国語と社会だけできるんだ!」と怒られました。
ところが、どれだけ成績が下がろうと、親は何も叱っては来なかったんですよ。いよいよ私は人生に迷いました。
結局、多くの人が進学する、地域一の公立進学校には不合格。滑り止めの私立男子高校に入ります。ぬるま湯でして、そこそこ勉強すれば学年トップクラスにはなれました。
それでもあいかわらず勉強することには葛藤が強く、世界史と英語と古典だけは頑張りましたが、あとはかなりいい加減でした(現代国語と世界史は放っていても全国模試トップクラス)。
まあ、これで大学受験は、私立文系3科目はそろったわけで、どこかにはなんとか受かるだろうという水準にはなりました。
国語の教科書に出てきた、矢内原伊作という大学教授(サルトルの権威)のエッセイに感動して、哲学科のみをめざすことにしました。
ただ、「このまま親元にいれば自分は駄目になる」という思いから、東京の大学ばかりを受けました。
そうやって、めでたく故郷脱出に成功するわけです。六大学ではありましたが、レヴェルの高い方ではなかったので、これまた勉強はユルユルでした。すべての講義皆勤で、私が教室に現れるのが遅いと、「この時間は休講ではないか」といううわさになってマジで掲示板まで確認に行く学生もいたくらいです。
ただ、哲学科というのは、カントとかの原典購読はやっても、「人生とは何か」について学ぶ場所ではないという感じでした。「生身の人間のニオイがしない」(結局私がゼミに選んだのは記号論理学)。
そうした中、一般教養の心理学を教える先生の講義がむやみとおもしろかったのです。本来は障害児臨床が専門の先生でしたが、行動主義的実験心理学からゲシュタルト心理学、そして精神分析からカウンセリングまで、当時ですからスライドから、映写機を使った教育映画まで動員、それはそれはおもしろい講義でした。
私はここで心理学に関心を持つわけです。その先生が学生有志に協力して「臨床心理自主ゼミ」というのをやっていて、私も途中から参加するようになりました。
フロイトやユングとかも自己流でかなり読みましたね。一番惹かれたのは、「自由からの逃走」で著名なエーリヒ・フロムで、邦訳書はほとんど読みました。
実は全然就職活動というものはせず、心理系の大学院に入ることだけをめざしました。
でも、当時の名の通った心理学科って、実験心理から社会心理、統計まで、最新論文の英語を読める水準のことはできないと入れない高き門でした。臨床心理なんて、設問のごく一部なんですよ。
(指定校制度のできた現在は少し違うかもしれませんが、心理学科に入ったら、フロイトやユングについてたくさん学べると思ったら、大間違いですよ。実験や統計だらけで、まるで理系です)
2年間、聴講生などをしながら浪人しました。
この期間に、前述の、児童養護施設が専門の先生の紹介で、重度心身障害者施設(殺傷事件のあった「相模原やまゆり園」よりもっとハードなくらいのところ)の研修生などもしています。
その浪人1年目に、偶然本屋で、ジェンドリンの「フォーカシング」が目に止まります。
私は、「これこそ私が求めていたものだ」と思いました。こころをいろいろ専門的な「概念」としてこれくりまわして分析するのではなく、言葉にならない「感じ」(フェルトセンス)そのものが一番大事なんだ、という発想が非常に斬新に思えた。
自己流にフォーカシングをひとりでやってみたのですが、その当時感じていた、周囲が社会人であることへの劣等感や疎外感を随分癒やしてくれた、頭でっかちだった私が、映画とかへの感性もずいぶん開かれるようになってきた。
そこでジェンドリンのフォーカシング技法の背景にある、体験過程理論の論文、「人格変化の一理論」所収の本(現在は絶版、以下の本に収録されています)を読んだら、これまた難なく理解できました(この論文、フォーカシングを学んだ多くのカウンセラーにとってもかなり難解な本だということがあとでわかりますが。
なお、この「人格変化の一理論」全文は、こちらのサイトでも読めます。
この「人格変化の一理論」、そして、前述の「フォーカシング」の論文の訳者である、当時立教大学の村瀬孝雄先生のもとで学ぶことに照準を縛りました。
ただ、当時の立教大学心理学科は、学部の受験でもすごい競争率のところでして、ましてや大学院です。
村瀬先生はすぐに私のフォーカシングについての特異な才能は認めてくれましたが、すでに書いたように、実験系の先生方を納得させる必要っがあったわけで、受験勉強は臨床心理学やカウンセリング以外のことばかりやりましたね。
こうして、挑戦3回目で立教大学院に入れました。村瀬先生はわたしを随分引き立ててくれました。
この時代に精神科病院臨床の研修も受けています。
ところが、村瀬先生は、私が博士前期課程を終える直前、唐突に「某大学」への転任が決まってしまいます。先生は私を博士後期課程まで行かせてくれる腹づもりでいたのですが、私は行き場を失った。
そこで、私は、その大学の「大学院研究生」の採用資格を自分で調べます。すると、原則はその大学の博士前期課程終了を前提としていたのですが、附則のようにして「これらと同等の経歴を持つもの」とあるのを発見します。それを村瀬先生に伝えると、「うん、それなら君を連れて行けるな」。
こうして、私は高校時代からすれば予想もできないとんでもない大学・・・カウンセリングの世界では無茶苦茶著名・・・の大学院の博士後期課程相当にもぐり込めます。
ところが、村瀬先生は私をフォーカシングの専門家としては認めてくれていましたが、「現場カウウンセラー」向きとは全然考えてくれていませんでした。
私は現場カウンセラになりたい一心で、日本ではほとんど紹介されていなかった、ピオトロフスキという人のロールシャッハテストの本の全訳までやってしまって、大人数のメンバーがいた心理教育相談室のメンバーに配布するとかもしたのですが。
村瀬先生とは相当喧嘩しましたが、結局先生は折れて、私に大学学生相談の非常勤カウンセラーの職を斡旋してくれました。
その一方、フォーカシング個別指導のカウンセラーとしては、日本で指折りの大規模カウンセリングルームでも担当させていただくことになりました。
非常勤カウンセラーだけでは収入が低かったので、幾つかの大学の一般教養の心理学の非常勤講師もしましたが、その時、すでに述べた、哲学科学部生時代の一般教養の心理学の先生の講義スタイルが随分参考になりましたね。
この頃から、学会発表もかなりするようになり、日本中のフォーカシング研究・実践家とも交流を持つようになりました。
フォーカシング技法自体も、私なりのオリジナルなアレンジを試みるようになりました。
まだ臨床心理士は「経過処置」の時代でしたから、書類審査だけで資格を得ました。
その後、The International Focuing Instituteのフォーカシング教師の国際資格も、まだ全然日本から離れたことがないのに、村瀬先生の推薦で得ることができました(その後カナダの国際会議にも出ますが)。
当時はフォーカシングの名教師が続々来日しましたが、特にアン・ワイザー・コーネル女史とは意気投合してしまいました。私の現在のフォーカシング技法はアンさん影響が色濃いものです。
私は、大人しくフォーカシングの世界に安住するタイプではなく、いろいろな心理療法分野の本を多く読み、応用してきた人間です。
このへんは、現代のエスプリの編著をさせていただく際に色濃く出ています。
認知行動療法を学ぶとなれば伊藤絵美先生、行動療法となれば山上敏子先生、精神分析となれば藤山直樹先生や松木邦裕先生、ブリーフサイコセラピーとなれば児島達美先生のセミナーじゃなくちゃ嫌だという路線できました。
その後、明治学院大学学生相談センターでは、横浜校舎のチーフ常勤カウンセラーをやらせていただいたのが、勤め人としての最後のキャリアで、その後は開業ですが、正直に言って、大学学生相談時代、そして大船での開業時代は、今から見るとかなり未熟なカウンセラーだったと思います(今でも発展途上だと思いますが)。
今でも、多くのクライエントさんと、数をこなす形でコンスタントに成果をあげるタイプとは思えず、今のあまり流行らないくらいがちょうどいいかとは思っていますが、本来は、そんなカウンセラー向きの性格だったかというと、たしかにそうではないと思います。
でも「向いている」と当初周囲に見られるかどうかは、結局どうでもよくて、結果が全てとは思っています。
このブロクで相当に偉そうなことばかり書いていますが、できるだけ自分の経験に基づき、自分の言葉で書こうと思っています(典拠は示さないことが多いですが、私が意識的、無意識的に影響を受けている先達の先生方は少なくないです。例えば相当な中井久夫先生びいきであることは、先生の著作を読んだ人にはまるわかりでしょう)。
これからもどうかよろしくお願いいいたします。
1月から #ZOOM によるオンラインワークショップを行います。
第1回は1月9日(日)13:00~16:00に開催予定ですが、第1回は先「#壺イメージ療法 」にしようかと思います。創始者の #田嶌誠一 先生直伝です。
重篤なクライエントさんにも安全な技法です。
参加費2,000円。
詳しくはkurumefocusing@mbr.nifty.com までご連絡ください。
すでに前のエントリー(こちらも)でも書きましたが、クライエントさんにとって、恐らく少なからぬ治療者は、えらく「人工的な」仮面をつけていて、その鎧の下から色々なものがちらつく存在に映るのではなかろうか。それはクライエントさんの生育歴による「認知の歪み」などではなく、まさに「その面接場面での」関係性の中で生じていることではないか。
少なくとも、私は、カウンセラーほど、ほんとうのところは何を考えているのかわからない、安心してこころを打ち明けられない、「お友達」としては信頼できない人種はいないと思ってます。表面的な「受容」の態度の裏で、ホンネでは何考えられてるんだかよくわからない。
そうやって表面上受容されていて、ウラで陰口言われて、いきなり村八分という経験を何度も重ねたもので(^^;)
精神療法にあまり関心の「ない」お医者さんのほうが、結構冷たい印象を与えますが、ある意味で信頼できる。クライエントさんからみればその冷たいところがショックでしょうが、業界人同士として付き合う上では、気が楽です。
何か思わず毒を吐いてしまいましたが、私は結構率直にものをいうタイプで、対人関係で相手に「引かれる」ことが多い方ではあるかもしれない(^^;)
場の空気をみて、相手とのコュニケーションのチャンネルをあわせて、言葉を選んで物を言うようになるのに、それこそ60年かかったかも。そういう意味では、カウンセラーとして成熟したのは、ホントにここ数年か? ただ、学会発表のフロアからは、決して批判的とは受け取られないように、ますは発表者をたてて、その上で質問し、やんわりと意見を述べて、伝えようとするタイプでした。
いずれにしても、日本的な「場の空気を読む」体質を持ったままカウンセラーやってたらヤバいとは思っています。それと、自分の気持ちにgenuinかつ受容共感的であることは鋭く対立します。後者のような態度は、実はカウンセラーであるか否かに関係なく、成熟した大人なら誰にでも必要だと思いますけど。
ホント、偉そうなこといい重ねますけど、日本的な「場の空気を読む」「相手に気持ちを察してもらおうとする」体質を卒業して、いい意味での「個人主義者」にならないと、カウンセラーって、クライエントさんに対してばかりではなく、自分でもやっていて苦しむ職業になるばかりだと思います。
クライエントさんにとって、恐らく少なからぬ治療者は、えらく「人工的な」仮面をつけていて、その鎧の下から色々なものがちらつく存在に映るのではなかろうか。それはクライエントさんの生育歴による「認知の歪み」などではなく、まさに「その面接場面での」関係性の中で生じていることではないか。
すでに前のエントリー(こちらも参照)でも書きましたが、心理療法場面において、クライエントさんを「退行」させないと、幼児期の体験を掘り起こせず、セラピーにならないというのは嘘だと思っています。その人はすでに、苦しいながらも世間の(少なくとも片隅で)サバイバルできるだけの、オトナの能力を開花できているのですから。
そこに至るまでのクライエントさんの苦しい道のりには、いたわる必要があるとおもいますが。
これは何も特別な考え方ではなくて、例えば、精神分析における「対人関係学派」、そして「解決指向心理療法」、「ブリーフサイコセラピー」はそうした考え方が強いでしょうね。こういう技法も杓子定規になったら別の弊害も出ると思いますが。
もちろんご本人が子供時代からの虐待経験を話して聴いて欲しいというのであればまずはじっくりうかがうことが大事かと思います(この点前述の幾つかの療法は型にはまると杓子定規にそこを避ける傾向があります)。しかし自由連想や催眠とかで覚えてもいない幼児期の虐待経験まで想起させるのはどうか?
これから「解離」ということについて書いていきますが、これは、本人の意志に関係なく、人格が交代してしまい、別人のようにふるまい、もとの人格(主人格)に戻ったら、それが記憶に全くない状態を指すと思っていただけるといいかと思います。
その解離した状態で、リストカットなどに走り、主人格に戻ると、自分の傷に驚くなどという場合もあるようです。
その人の持って生まれた「解離」しやすさというのは想定されているようですが、少なからぬ場合、子供時代の深刻な虐待や性被害があるとされます。
これは子供時代に限定はされす、PTSDにおけるフラッシュバックも、普段は解離している記憶が、突如主人格の中に、ねじ込んでくるように現れるともとらえられるかと思います。
ある意味では「解離」することすら、自分を守るための「健全な」能力の発露だと思います。それをひとつの人格に「統合」しようとする必要が常にあるのか? もし本人が日常生活で困ってなくて、解決しないままでいいというのなら、「解離」したままでもいいとすら思います。
私は生粋の解離性同一性障害(DID)の方とお会いした経験まではありませんが、下手な精神療法する治療者の手にかかると、「解離」する人格はむしろどんどん増えていったりもするらしいですね。「解離」を治療するのは、あくまでも「本人が困るから」であるべきと私は考えます。
ある意味では、一見普通に生活できているかに見える人でも、実は「解離」の心理機制を弱いながらも用いているからバランスを保っていられる(それが人に迷惑になる場合もありますが)。「解離」とはスペクトラムだという理解も大事かと思います。
・・・などど、自分が特に専門分野でもない「解離」のことを書いてしまいました。実際にこの症状で苦しまれている方がどういう感想をお持ちだろうかと言う懸念はいだきますが、ただ、そもそも心理療法というのは、フロイトに先んじて、ピエール・ジャネがこの問題を取り上げたから始まったのです。
現場で重症の方と接するかどうかは別として、解離の問題について、最新の動向(人格の「統合」を理想化しない)をある程度掴んでおくことはベースラインかと思います。ボーダーラインと診断を受ける人のsplit(人格の「隔離」)の心理機制すら、解離の一種とも言えそうですし。だから境界性人格障害と解離性同一性障害(多重人格障害)はしばしば誤診されます。
ある意味では、自分も苦しまずに、人にも迷惑をかけず(ましてや自分の子供にも悪影響を与えず)という、弱い次元で済むなら、人は、「解離」する「能力」があるから、何とか現実をサバイバルできているのだ、という視点もあっていいとすら思います。
「統合」された、ひとつの「人格」というのはある意味で「幻想」に過ぎないと思います。実はこのように言うことに違和感を覚える人のほうが、平然と、無責任に、日常の中で「解離」の心理機制を使って、人に迷惑をかけて平気にしている、という逆説すらある気がして。
人間の「性格」というものは、その個人に「内在」する属性ではない。どこまでも「その時」関係を結んでいる相手との関係性の関数なのであり、相手の「性格のせい」としてしまうことは問題。治療者にとって「困ったちゃん」なクライエントは、治療者側がそのように「振る舞わせている」側面大なのである。
治療者は、患者から、理想的存在として期待されている。治療者は患者からのそういう眼差しに「酔ってしまい」、ナルシスティックになってしまう誘惑にさらされている。それを自覚して「良い人」と思われすぎないように、絶えず小出しに欠点も限界もある「だだの人間」であることを示す必要がある。
何か小難しいことを書いていると思われそうですが、元ネタは、サリヴァンという、向精神薬が現れる前に統合失調症の治療で著名だった精神科医、サリヴァンの言っていることを私なりに咀嚼したものです。
自己愛の強い人は、実は劣等感の強い人でもあり、必死にがんばって、人より優位に立とうとしている人でもある。必死になって、自分に楯突く人を貶めようとしてくる。それに感情的な反発したら悪循環になるだけです。こちらは決して「破壊」されることなく、冷静に対等な姿勢を崩さないことですね。
私は、いわゆる「境界例」の人のかなりの部分が、歴代の医者やカウンセラーによって「こじれさせれている」とみている。専門家はいつの間にか「人工的な」態度が身についていて、その「鎧」の隙間からちらつくものを敏感に察知できる人たちなのだと思っている。
そういう「鎧」の隙間に、とことん「負荷試験」をかけてくるわけである。それはある意味で「当然の」ことなのではないか? それをもともとの「病理の深さ」とか「巻き込み」とか言っている側が実は火種を巻いているわけだ。治療者が病を「作った」とは言わないが「負荷試験」をかけてくる心情は当然。
これ、もともと、自分の自己愛には自覚的なまま自分の地金を出すタイプだった私の経験則。一回「目の前で」盛大にリスカされ、とっさに腕を縛り上げ、保健室に非常ブザーを押したことはありましたが、終始冷静にやったら、そのあとは非常に安定した絆が築けました。立派に就職して安定して過ごしてます。
この1例以外、自分を振り回してくる「困ったちゃん」になってしまうクライエントさんと会ったことがないですね。まあ、私の前では「病理」示せなくて、「偽りの自分」で通したので気づけなかっただけかもしれないけど。でも病理を露出させて「解剖」しないとセラピーではないという見方には私は懐疑的。
変な言い方かもしれないけど、「セラピー」して「治して」あげないととか思っていると、クライエントさんの病理を「深刻化」させることがある気がする。そしてそれを「幼児期からの深刻な生育歴」があるはずとか言い出すわけで。「現在」その人がどうあるのか自体が、セラピストとの関係性の関数なんだと思う。
広い意味で、対人援助職の人は、「使命感」に燃えて「身を犠牲にして」仕事しないほうがいいと思う。それをやるから、相手は「退行」して「困ったちゃん」になるのである。卵とニワトリが反対なのである。
もちろん、これって、治療機関や施設で勤務して仕事してたら、自分はどうであろうと他の職員や治療者によって引き出され、増幅された人を相手にしなければならないわけで、一筋縄ではいかないことは理解します。私が今は個人開業だから楽してるのかも。
そういう「自己犠牲」を強いる職場環境、そしてそれを生み出す制度、ひいては政治・社会のあり方まで問題にすべきではありますが、ともかく「使命感に燃えて」、対人援助的専門家になるな、という「逆説」は強調したいです。
ともかく、ホントに「人助け」したいなら、「使命感に燃えて」「自分の身を犠牲にして」仕事しようとするのはやめておけよとはいいたい。自分が、「ふさわしい」生活の糧を得るためだと思う方がいい。間違っても「人間中毒」になってはならない。孤独に趣味に没頭できる時間とか無理してでも持つべき。
パーソナリティ障害と言われる人たちは、生まれついての敏感さと、子供時代の(ネグレクトを含む、少なくとも精神的な)被虐待歴があることが少なくないかと思いますが、それに加えて、治療機関での「専門家」の、無理した「人工的な」仮面をかぶった態度と、それが破綻することによる「二次被害」の犠牲者であることが多いと思います。
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以上、「てめえはホントに深刻なパーソナリティ障害の人と会ったことがないだろ」と言われるのを覚悟で書いておきます。
いよいよ今日21時〜!
— 石井正則 写真集「13(サーティーン)〜ハンセン病療養所からの言葉〜」発売中‼️ (@masanoriishii) December 18, 2021
ぜひご覧ください!
風の向こうへ駆け抜けろ - NHK https://t.co/e3QwTgFSI2
NHK土曜ドラマ「風の向こうへ駆け抜けろ」前編は原作読んでいたイメージ通り。
配役も適材適所。てち の主人公が原作のイメージより生意気なくらいかな。
てちの目がやたらとギョロギョロしていたがそれも役作りだろう。
前編の終わり方もほぼ予想通りの箇所。
後編の感想はこちら。
出火現場のクリニック院長は「愛情ある人」患者ら安否気遣う https://t.co/GsK63qOsH1 @Sankei_newsより
— chitose (@kasega1960) December 18, 2021
多くの患者にとって「愛情ある人」→放火犯の「症状」のせい、という「短絡思考」が生じないように祈ります。専門家は自分の従順な患者(クライエント)以外は平然と傷つける場合があります。
もとよりこうした放火殺傷事件の犯人は法のもとに裁かれるべきですし、被害者の方にはお悔やみ申し上げますとともに、幸い怪我ですんだ皆様に、身体の障害のみならずPTSDが残らねばいいがと案じております。
現時点ではまだ情報不足です。しかし敢えて10歩ぐらいまで先回りして、以下のことを述べておきたいと思います。
多くの病院は忙しいでしょうから、特別なことを訴えたり、面接予約時間以外に助けてくれと言われたり、書類申請とかでせっかちになる患者さんにぞんざいになりがちということには同情してもいいかと思います。しかし、そういう「特殊」ケースへの「危機管理」対応スキルこそプロの領域かとも思います。
援助的専門家には、自分に従順な患者以外には、ひどく冷淡な態度を取ることがあることが少なくないのが現実です。自分があがめたてられる教祖様になってしまうことの弊害に無自覚なのです。
むしろ「おとなしくしない」患者等との出会いこそ、治療者が成長する機会なのに。今回はこういうケースというのが私の勘です。
精神科医をはじめとする援助的専門家は、仮に善意の人であった場合すら(!!!)、自分が多くの人から慕われるようになればなるほど、自分の「影」が深くなることに非常に警戒すべきと思います。無意識に生じる「傲慢」の業(ごう)がいかに深いか。
今回の心療内科医が全くの善人であったと信じることとしましょう。しかし、唐突な連想ですが、親鸞 の「善人なおもて往生す。ましてや悪人においてをや(歎異抄 )」。悪人のほうが自分が悪いと自覚しているから極楽浄土に近いと親鸞は訴えたわけです。善人が浄土に行くのはもっとたいへんなんですよ。
もう、無茶苦茶なことを言えば、援助的専門家というのは、自分が人に「救って」欲しいから、患者さんとかに「癒やされ」「救われる」ために、そういう商売を選んだ可能性に自覚的であるべきです。自分が「救われて」おいて、金「もらう」立場にすらなってることがどれだけ「罪深い」か。
敢えていいますが、大学のセンセーとか病院勤務の援助的専門家は、自分が患者さんやクライエントさんや利用者さんに「食わせてもらっている」という立場だという「基本的構造に」一層無自覚かも。「お客様」に「救われ」、あがめてすらもらえるというのがどれだけのことか。けなされてナンボの立場。
そもそも多くの患者さんは、精神科医と接する際に、「精神科医の」機嫌を損なわないために、自分のできる範囲で、それはそれはものすごく「気をつかって」いるわけです。言いたいことの半分も言えていない。そのことに精神科医がどれだけ「助かって」いることか。
その道の専門家というのは、自分の能力にプライドと責任感を持つ一方で、自分が新たに遭遇する情報や事象や相手には、自分が実は全く無知で、これまで積み上げた能力や知識や能力が、通用しないか、弊害をもたらす可能性に開かれた姿勢を持つべきだろう。
およそ何かを「やりがい」「生きがい」にした場合、その分だけ誰かを(何かを)「搾取」し「隷属させて」いる可能性に自覚的であるべきだ。ボランティアでも趣味でも同じことかと。
大阪ビル火災 クリニックを知る元NHKアナ「院長は非常に謙虚で腰が低かった」 https://t.co/n2718EzHeg @kobeshinbunから
— chitose (@kasega1960) December 18, 2021
まだこのお医者さんについての情報少ないから行き過ぎた発言は慎みたいですが、謙虚で腰が低いだけでは援助職やれず、不幸の種引き寄せると思います。偉そうな言い方ですが。
少なくとも、日本的な意味での「謙虚な腰の低さ」って、実は厄介な人を引き寄せ、トラブルの種にはなると思います。
このお医者さん、自分で引き受けきれない要求まで引き受けようとしてしまったのではないか?・・・というのが私の勘です。
そして、日本的な意味での「謙虚な腰の低さ」を持つ人って、実は接する相手にすごくプレッシャーを与え、言いたいことを言えなくしてしまう気がします。自分を殺した分だけ、相手も自分を殺すわけです。
自分が謙虚であろうとする人って、その態度を示すことで、相手を「統制」しようとしている面があることが多い気がします。そういう「謙虚な」人に、あけすけに言いたいこと言える人は少ないと思います。「処世術」にはなりますが、援助的専門家としてはそれだけではマズイ気がする。患者を萎縮させる。
そして、日本的な意味での「謙虚な腰の低さ」を持つ人って、実は接する相手にすごくプレッシャーを与え、言いたいことを言えなくしてしまう気がします。自分を殺した分だけ、相手も自分を殺すわけです。
患者(クライエント)さんの前で、多少はボヤきもユーモラスにつぶやける治療者に対しての方が、実は気易くホンネを口にできるわけですね。私が敬意を払う先輩方は、そういう人が多かったです。 「謙虚である」ことを含めて、無意識のうちに「統制」され、「マウントを取られる」ことに非常に敏感な人は結構いる気がする。非常に自覚的な形でですが、「つけいる(ツッコミをいれる)スキを見せる」ことは結構大事ではないかと。情報不足の現段階で、このお医者さん個人を責めるつもりはないのですが、「謙虚な腰の低さ」と、無理なことは無理と相手に伝える力、そして、ある種のネゴシエーターとしてのしたたかさは、みな併せ持つ必要があると思います。
ご案内 https://t.co/T47DXJLuXE これまではネット有料面接は #Skype のみでしたが、今後は #ZOOM でも対応します。グループで #フォーカシング の指導を受けたい皆様も歓迎いたします。料金については、皆様の生活状況に応じて、配慮いたします。
— chitose (@kasega1960) December 17, 2021
ユングの言う「ペルソナ」という概念について書いてみましょう。日本語では「仮面」と一応訳されます。
これは、人が外の世界と関わる時に、おのずから形成される心の姿です。
ギリシャ悲劇や日本の能では、演じ手はそれぞれいろいろな「仮面」を使い分けて演じてきました。演じるのはすべて男性ですが、男の面、女の面、老人の面、鬼の面などいろいろあります。能面だけでも200種類の面があるそうです。
これにより、役者はいろいろな社会的な役割を演じ分けることができるわけです。
人が外の世界と関わる時も、さまざまなペルソナ=仮面を使い分けているとみなすことができます。子供に接する時は親の顔になっているでしょうし、会社では部長の顔になっているかもしれません。それは別人のように見えるかもしれません。
このように言うと、仮面の背後に「本心」を隠して、押し殺して、社会に順応している、みないなイメージで受けとられかねませんが、私がユングを読む限り、「ペルソナ」という概念には、もっと細やかな意味があります。
人は、自分がやさしい人間の「演技」をしているつもりはなくて、ほんとうにやさしい人間だと思いこんでいる場合でも、実は、無意識のうちに、ペルソナ=仮面をさらしているだけと考えることもできます。自分が、自分の一面だけをおもてにさらしていることに気づいていない。
だから、時と場合によって、それがいつの間にか入れ替わってしまう。それは他人の目から見れば、同じ人間の態度(それどころか実際の顔の形相)だとすら思えない場合があります。
普段は穏やかなこの人が、こんなに血相を変えて怒ることもあるのか、などとびっくりすることは、結構よくあるのではないでしょうか。
それどころか、本人自身が、自分が時と場合によって別人のような態度をいつの間にか取っていることによって生じるトラブルに、混乱してしまうこともあります。
そうした自分のいろいろな側面を、冷静な目でみつめる、もうひとりの自分のまなざしが必要です。
皆さんも、自分が怒ったり悲しくなったりする時に、「あ、今、自分は悲しくなってる。泣いてる・・・」などと、冷静にみつめているもう一人の自分がいつの間にかいることに気づくことがあるでしょう。
これを、何か自分のありのままの感情に素直ではない状態と受け取る人もあるでしょうが、実は、感情に流されるままになっても、自分や自分と関わる人にとっていいことはあまりないかと思います。
例えば、親が、普段の、親らしい態度を脇において、子供に、対等な人間として、ほんとうに思っていることを伝えたいとします。
恋人同士や、夫婦同士、友人同士や、仕事仲間が、普段の馴れ合い(傷つけあい)を脇において本心を伝えたくなった場合も同じです。
これ、感情的なったら、実は相手に理解してもらえるどころではないわけです。激しい感情の背後にある、心の針のような傷つきとか、相手に対する愛おしい思いとかの肝心なところは伝わらない。
むしろ、自分の中に冷静な自分をきちんと確保した上で、うまく「演じる」つもりになった時に、相手に伝わるというところがある気がします。
言い換えれば、自分で意識的に「仮面」を選ぶということです。
これは、必ずしも、理性的に論理的に「説明」するということではありません。「自分自身」を演じる「役者」のような心境になれるかどうかです。こうしたコントロールのもとに相手に伝えると、逆に相手の心に響くことも多いです。
自分の気持ちを相手に「察して」もらうことを期待する日本の人間関係においては、こうしたことが下手な人が非常に多いと思います。
これは欧米の、少なくとも良識的な人々の間ではかなり当たり前のことです。こうした人たちの話しぶりや表情や身振りは、日本人には大げさに、わざとらしくすら思われます。
まさに俳優やミュージシャンの少なからぬ部分は、こうしたことに秀でています。本人は、決して感情任せではないんですよね。人にどう「表現」すれば(演じれば)伝わるのか、もう一人の自分がいつも冷静に見ています。熱演、熱唱に見える場合ですらそうです。
ユング自身の本に、「日本人には『ペルソナ(仮面)』がない」と、ボソッと説明なしに書いている場所があります。ユングは、はるばるスイスまでやってきた留学生とかしか、日本人には接していなかったと思うのですが、私はこれを、「日本人には、自分で自分を『役者』にして、他人に表現(演技)する力がなさ過ぎる」と感じた、という意味に理解したいと思っています。
恐らく、いろいろ不祥事を起こしたりせず、心を病んだりはしないでやっていられる、現実の俳優やアイドルも、こうした、自分が「ペルソナ」を演じているという自覚が十分にあるのだと思います。
れいわの山本太郎氏は、「ペルソナ」をかぶる達人だと思います。
どれだけ感情的に熱弁をふるっているように見えた時でも、実はもう一人の自分がいて、冷静に「演技」をコントロールしている。
むしろそれだからこそ、山本氏のメッセージは人の心に届くし、彼への信頼も生まれるわけですね。
つい数日前発売された新製品である。
AVシアター用である。バスウーハーはない。
この製品の特徴は、真空管を使ったハイブリッド・アンプを内蔵していることである。
そして、スピーカーのコーン(振動板)にミツマタの植物繊維を用いている。1万円札に用いられれているものと同じである。
ある意味でサウンドバーらしからぬ音である。
中低域から高域にかけては、このようなクオリティのサウンドバーは存在しないのではないか。
艶やかだが実にクリアーで、音の立体感がすばらしい。ヴォーカルは艶めかしく、サウンドバーの数十センチ上に定位する。
ここまでくると下手なミニコンポも真っ青なクオリティであり、AVシアター用というより、パソコンオーディオ用としてマジで使える。
実際私は、最初から大画面パソコンのブルーレイ視聴を狙っていたのだ。この点では全く私の期待通りといっていい。セリフもたいへん聴きとりやすい。
だだし、しかし、イコライザーをいじっても超低音の迫力というものは出てこない。ボリウムをMAXにしても凄い大音量にはならない。
ゲームなどには向かないかと思う。ミュージカルにはぴったりである。
そういう意味では、中高域が大味なものが多い通常のサウンドバーに飽き足らない人が、ひたすら純音楽的クオリティを追求したいというニーズには見事にこたえる製品ではあるが、視聴者を選ぶ気がする。
観ていた夢 。
私も所属していた非常に多くの相談員をかかえていたはずの大学院の心理教育相談室の相談員が、ある年の4月、ある年突然新人ゼロとなり、私と一人の男の先輩2人だけになる。先輩は相談室閉鎖だとあっさり諦めている。私はクライエントさんたちが困るだろうとOB/OGに連絡を取りはじめる。
「これも少子高齢化が原因ではないか」ということで私と先輩の意見は一致していた。その先輩はリアルではかなりくだけた人柄で、私に大学非常勤講師の職を譲ってくれるなどしてくれた人なのだが、
母の認知症が思ったより進んでいることを施設で見せつけられ動揺した昨日の自分と、その施設で会ってくれると言っていた家族との再会の段取りが順調に進んでいないことに気落ちした自分の心境がオーバーラップした。しかし夢の中の私はそれに負けてはいない。私も希望は捨てる気はない。
母に早めに死なれてしまって遺族年金分がなくなると、かなり家計が厳しくする程度の稼ぎしか今の自分にはない。今度の本は、時流に乗った目をひく題材なのは確実で、超控えめにみて数千部は売れるはず。その印税とカウンセリングルームの宣伝になることに期待を賭けている。
私は、Twitterで、安易にブロックを使う人を信頼していないところがある。なぜスルー、それも目にしたくなければ、フォロー外し→ミュートというあたりで留まれないのか? 多くのフォロアーがいる方はレスが多過ぎると大事な人からのレスを見失うというのであれば、ダイレクト・メーセージでのやりとりにすれば?
特に、有名でフォロアーの多い方がブロックする場合というのは、その人の自己愛がいかにもろいものかを示しているだけかと思う。批判も揶揄も挑戦もされるのは有名税。スルーするだけで耐えられないならTwitterではなくて、他の媒体でネット活動された方がいいと思う。
Twitterに限らず、一般の人はともかく(これ大事)、有名人や社会的な立場のある人がネットで傷ついたとか言われると、ホント、有名税でしょとしか思わない(#眞子さん とかも)。明らかに名誉毀損になる時は、ネットではなくて告訴やマスコミでの声明や主張の形を取ればいいだけのはずと思うのだが。
自分と価値観が違う人や、自分では持てなかった見識や情報を持つ人の見解に容易にアクセスできて、いろいろ勉強になるからというのが、私の現状でのTwitterへのモチベーションのベースラインだろうか。オピニオンを伝えたいという意識は普段ほとんどない。そういうのはブログやnoteが向いてると思う。
Facebookというのは、ある程度以上節度をわきまえていると判断できる人との関係に認証を限定し、しかも自分がコミットしたい特定のジャンル(複数あっても当然いいわけだが)の話題を対等に礼儀正しく取り交わす媒体というイメージ。
そういうこともあるから、恐らくフォローしてくださる方よりフォローする方のほうがずっと多いという状態は、仮にフォローできる数が現在の5000の上限突破する時が来ても、変わらないんじゃいかと思っている。とにかく、他のいろいろな立場にある方たちのツイートを読めているだけでも価値がある。
今度の本を出したら(いや、具体名と概要を公表した時点で)、私をフォローしてくれている方のある程度を失い、新たなフォロアーの方は増え、私が何かツイートしたりレスすればそれへのレスはぐっと増えてしまい、私も今より心の余裕を失うかもしれない。
でも、この数ヶ月で、どうすれば挑戦的だったり不快だったりするレス自体を減らせるか、仮にそういうレスが来ても、スルーではなく、礼儀正しく対応してやりとりを生産的に終えるコツは掴んできたかとは思う。時々私がまだ未熟だった頃のレスへのレスがついたりするが、そういうのはスルー。
自分が #note をはじめて、noteの世界をある程度覗く様になって気づいたのは、有名無名を問わず、noteは滅多にコメントがつく媒体ではないし、フォローした人が興味が持たないことを書いていても、お知らせがが届き、タイトルがわかるだけで、無理やり内容を目にさせられることもないということ。
そういうお知らせメール自体がうざくなったらフォローを外せばいいだけのことだし、個人ではなく、マガジン単位でのフォロー(フォローしてもらうこと)もできる。投げ銭システムもあるから、ささやかな著作に近い媒体という気がする。
前にも少し書いたが、#メルカリ で、新品に近い箱の残っている品で不要と思うものは、今、どんどん売りに出し、既に万単位で収益があるが、購入していただくまでのやりとりにSNS的センスがいる気もする。ヤフオク出品のように、時間に神経使って値引きする必要もなく、さりげなく値下げすればいいし。
#メルカリ は、まずは良心的な売り手になり、そこから得た収益で、今度は買い手になるという循環がいいのではないかと思う。私の印象では、ヤフオクのような殺伐とした感じがないのがいい。
Twitter上ではほとんど触れず、ブログとnoteのみにし、リンクも張りませんが、私はかなりのBluetoothイヤホン(TWS)の収集家です。でも現在メルカリでどんどん気にいらないものは売ってしまいつつあります。私の唯一の贅沢みたいのものでしたが、もう手元に残したい製品は厳選できた気がするので。
11月21日に発売されたばかりの、Xperia最高峰、つまり日本のAndroidスマホの最新最高峰です。
Docomo等の大手スマホキャリアをすでに持っている人なら、金利手数料なしの長期分割でたやすく購入できます。
Qualcomm®Snapdragon™888 5G Mobile PlatformというCPUを用いている製品はまだ少ないですね。
まず気づいたのは、初期設定の際にアプリのダウンロードがむやみに高速ということ。まずはCPUの差が現れる事実です。
一見したデザインセンスはoppo Reno 5Aよりダサいと思います。しかし、ホーム画面の上下のスライドをうまく活用した切り替えは実に機能的。そしてキータッチが極めて優秀。
画面もたいへん詳細で、Youtubeも実に美しく観れます。
私にとって最大の関心だったBluetooth接続の音質ですが、私にはoppoとは相当違った音に聴こえます。クリアーで空間表現が豊かで解像度が高い気がします。「CTスキャン」ではなくて音の立体感も明らかにあるような。
そして、私が大衆の耳をハイファイから遠ざける悪魔の製品と言ってきたイヤフォンSONY WF-1000XM4が、純正の組み合わせの魅力を最大限に発揮して、シャキッっとしながらも中身の詰まったいい音に感じられるのは気のせいでしょうか。
音量調節には普通のボリウム調節のスケールのとなりに、本体を振動させる調節スケールが表示。
Victor HA-FW1000Tも解像度が上がった気がします。
ただ、かなり分厚い公式のケースを通しても、かなり発熱がある気はします。
ソニーがハイレゾウォークマンを捨てて歩んでいる道は十分感じられる気はしました。
冒頭の写真は右がoppoで左がXperiaです。
さて、上記の音質評価は、実は、SONY独自のDSEE Ultimateという、ハイレゾではない音源をハイレゾと同等にしてしまうシステムがオフの状態のレポートです。
音の違いがどこまでが気のせいかどうか自信がなかったのですが、オンの状態にしたら、「この音ははっきり言ってズルい」と思いました。
最強のストリーミング兵器。Youtubeまで凄い高音質になります。
これを使わないと音的にはXperiaにした意味もないわけですが。
ただ、これを使うとバッテリー消費が1.5倍には増えるらしいです。
また、本体にヘッドフォン・イヤホンを直接指すアンバランス出力は非常に良質かと思います。非常に透明度が高く、iFi GO bluに一度Bluetoothで飛ばしたものよりかなりいいのではないかと思います。
公式ケースが分厚いので、差せなくなる機種も出てくるのが難点ですが。
全く聴き疲れせず、アンバランス出力の音を一番評価する人もかなりいるのではないかと思います。ネット記事によると、出力がXperia5iiの40%増しとのことです。
私はもっぱらハイレゾ専用機(DAP)の代わりとしてこの機種の購入に踏みきったので、カメラも実に高性能らしいことや、ゲームの実力(更にはゲーム動画のキャプチャソフトは標準装備です)については、また改めて報告したいと思います。
イマジナリー・フレンド、日本語でいえば、「空想上の友だち」となりますが、心理学の世界では、かなり知られた概念です。
小さい頃、この、空想上の友だちを持っている人は、結構たくさんいます。
たいてい同性で、遊ぶ時に、実際に声を出しながら対話します。
名前をつけている場合もあります。
このように言うと、実は自分もそうだったと思い出す人はいるのではないかと思いますが。
著者である私にも、いましたね。
このようなイマジナリー・フレンドを持つようになる理由は、心理学者によっていくつかの仮説が立てられています。
まず、前提として、一人で安心していられる空間を家の中に与えられていることが多いとされます。
そして、その「友だち」を持つ子供は、きょうだいがいないか、いても自分と年が離れていることが少なくないそうです。
でも、親はその子供を放ったらかしにしてきたわけではなくて、普段から子供に関心を持ち、声をかけつつも、子供の行動には干渉はせずに、自由に遊ばせるような態度をとっている。
つまり、まずは、親が子供に語りかけるその様子を、子ども自身がまねすることからはじまることが多いわけです。
親は「そんな人いないよ」と否定することはありません。子供のままごと遊びとかではあたり前のことですから。
でも、その子供は、友だちも少なく、ひとりぼっちと感じていることが少なくない。そういう寂しさを埋める役割を果たしているわけですね。
その「友だち」を、親が子供を叱るように、いじめてばかりのこともありますが、自分にとっての理想像であることも多いそうです。
(中略)
・・・ここで少し、「空想上の友だち」と「幻覚」の違いについて、かなりマジなことを書いておきます。
「幻覚」というのは、統合失調症の人に「見える」「聴こえる」場合があります。
「見える」ことはあまりなく、「幻聴」だけの場合のほうが多いのですが、いずれにしても、本人には、全く空想の余地がないものとして、実際に「見え」、「聴こえる」のです。
コミックやアニメで時として描かれているような、幻想的なヴェールやオーラのようなものにつつまれていたり、声にエコーがかかったりしないのです。ほんとうに実在の姿や声と同じ、生々しい存在として体験されています。
それが自分の空想や思い込みの産物であるとは、本人にも全く感じられません。
ただ、何かとても恐ろしい体験だとは本人も感じていることが多いようです。
また、統合失調症では説明できない、非常に宗教的な、あるいはスピチュアルな体験として生じる人もいます。ほんとうに神や天使やキリストや仏様、あるいは精霊の声が聴こえ、姿が見えるわけですね。
いろいろな宗教の開祖や、後に聖者として讃えられる人が、こうした体験をしたと、書物に書かれています。こうした人は現代にもいます。
本人には嘘をついているつもりは全くありません。本気です。
自分たちのような人間とは異次元の、畏(おそ)れ多い、神聖で高貴な存在との出会いの体験、しかも特別な時の体験として感じられているようです。
そうした体験をきっかけとして、その人の人生は変わってしまい、聖者としての活動をはじめ、それを信じる人たちがまわりに集まってくることも少なくありません。こうして、新しい宗教が始まることもあるわけです。
少なくとも、それをきっかけに、それまで神様とかの存在を全然信じていなかった人が、教会の熱心な信者になったり、お坊さんになるためにお寺で修行をはじめたり、自然の中で瞑想をはじめたりすることは結構あるようです。
もちろん、こうした宗教的・スピリチュアルな体験をしたと主張する人の中には、実はただの空想であることを自覚しているのに、人々を騙(だま)して金儲しようとしている人もいて、他人がそれを区別するのは難しいのです。
ではそういう人と関わるしかなくなった時にどうすればいいのでしょうか。
その人を聖者としてたてまつる必要はありませんが、少なくとも、ご本人が神さまや天使や精霊や、仏様と出会ったというのを否定しないでおいてあげる方がいいことは多いです。
多くのカウンセラーがそういう態度をとることを勧めています。
これに対して、イマジナリー・フレンドと共に過ごす体験は、楽しいもののようです。そして、本人もそれが自分の空想だとどこかで気づいていることが多いです。
こうした「空想上の友だち」は、子供時代を過ぎると、多くの場合、いつの間にかいなくなってしまうものです。でも、青年期になっても、こうした「友だち」がかけがえのない存在である人も、時にはいます。
(中略)
ここで、「空想上の友だち」との関係から話題を広げて、私たちも、「もうひとりの自分」を話し相手として意識した方がいいということについて触れます。
自分をダメだと責めて、自己嫌悪するばかりになるようでしたら、「あなた」のことを思いやるあまりに、「あなた」の都合などおかまいなしに、いろいろ警告をしたり、おせっかいの押し売りをしてくる、「もうひとりの自分」がいるのだと思ってみるのもいいかもしれません。
そして、そういう存在に向かって、「『あなた』の言い分も一理あるけど、ちょっと聞き飽きた気もする。ちょっと黙って、『私』がやりたいようにやってみる様子を、見ていてくれないかな?」とお願いするのです。
じようにして、「あなた」のグチや泣き言やホンネを、なんでも聴いてくれる、「カウンセラー」のような存在を、心の中にはっきり作ってしまうのもいいかもしれません。
そうすると、「あなた」自身にも、自分自身のほんとうの気持ちや、ほんとうは何をどうしたいのかが、冷静に見えて来くる場合があります。
カウンセリングを受けるというのは、実は、こういう、「自分の中の『カウンセラー』を育てることである、とも言えます、結局は、相談しているカウンセラーとのカウンセリングは、いつか終わりにしないとならないのですからね。
実は、こうして、自分の中のいろいろな「自分」と、焦らずじっくり「対話」できるようになる、ということが、その人のほんとうの心の成長ではないかと、私は考えています。
これは、私が学んだ「フォーカシング」という心理技法で、すごく大事にしていることなのですが、これ以上書くと、わたしのやっているカウンセリングの宣伝になってしまいますので、このへんで遠慮しておきます。
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私が今度出す本の原稿から、そのまま抜粋したものです。
学校に限らないことですが、特に日本の集団や組織には、難しい言葉で言えば「同調圧力」、わかりやすく言えば、「空気を読んで」ふるまうように求められるところがあります。
ひとと違ったところがあれば、たとえそれが優れたものと評価できる特徴でも、それだけで、いじめや、仲間はずれの対象となる。
そうした人と、わけへだてなく、あたりまえのように関わろうとする人もいるにはいることは少なくありません。
その人には、別に「寂しい人をなぐさめてあげよう」などという、余計な邪心すらないのです。
ところが、現実社会では、そうやって、集団から仲間はずれにされている人と、無邪気に友だちになろうとする人までが、今度はいじめや仲間はずれにあってしまうこともよくあるわけです。
不登校や引きこもりをする人には、いろいろな要因があり、一概に同じような人たちに分類するのは慎むべきでしょうが、この「空気を読みあう」、いじめやパワハラや仲間外れを生み出す学校や会社から敢えて飛び出す決断をした人も数多く含まれているかと思います。
すでに述べたように、そうした人たちを「かわいそう」と思うから手を差し伸べるというのは、実は無意識の中に「救済者願望」という余計な邪心が隠れていることが少なくないと思います。専門的には「パターナリズム」といいます。
これは実は、いかに本人は善意のつもりでも、強い立場にあるものが、弱い立場にある者の人生に介入し、干渉し、支配しようという「影」の側面に警戒せねばならないということでもあります。
差別やいじめにさらされている人の側にも、こうした「親切の押し売り」への鋭いアンテナを持っている人が少なからずいます。
余計な力みはやめましょう。もし、無邪気なまでにあたりまえに、そうした人たちと接していける自信のない人は、そういう人たちが、ひっそりと自分の世界を守れるように、普段は心を配るぐらいでいいのかもしれません。
もちろん、明らかにひどい扱いを受けている人たちのために、立ち上がらねばならない時もあると思います。しかし、その人たち自身に、最終的には、自分の人生を歩む権利があることを忘れてはならないと思います。
これは、カウンセラーなどという、人を救うことが仕事とされている(と世間に思い込まれている)ことをやっている私の、自分への戒(いまし)めの言葉でもあります。
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以上、私が今度刊行する本のある部分の原稿から、そのままコピペしました。
・・・という、精神科医のかたのツイートがあったので考えてみました。
いろいろ考え方があるでしょうが、私は予約後初の面接やその後の面接で来なかった(連絡を取ってこなかった)人には「どうしたの?」と連絡を入れる派です。連絡を入れる決心がつかないこと自体がその人の対人関係の行き詰まりや悩みに直結していることが少なくないと思いますから。
大学学生相談時代は、無料ということもあり、すっぽかされることはよくありました。「それでも連絡を入れた方がいい」というのは先輩からの教えです。そうやって面と向かった「拒否能力」がないのがまさに親子関係の反復だったりする可能性があります。
治療者への「逆転移」とか「受動的攻撃性」とか理屈をいわなくても、カウンセラー ー クライエントさん関係は、クライエントさんの重要な他者 ー クライエントさん関係の反復になっていることが少なくないのは自明の理かと思います。
有料カウンセリング機関の少なからぬところでは、面接予約無断キャンセルの場合、面接料と同額をいただくことを事前の「契約」としているところも少なくないです。私のカウンセリングルームの場合には、こちらから連絡をいれて話し合った上で、来ないということになれば、料金はいただきませんが。
こちらから連絡を入れないのは、治療者側が「拒否」されて傷つきたくないから、という可能性も視野にいれるべきかと思います。
何も言わなくても、自分の気持ちを「察して」欲しいというのは、たしかに土井健郎先生の言う意味での「甘え」かもしれないのですが、そうやって自分の気持ちを「察して」もらえない家庭環境で育った可能性もあり、それがまさにその人の対人関係の問題の核心の場合もあると思います。
面接を始めるか前から面接が始まっているようなものですが。
こういう関係のとり方を、バリントは「オクノフィリア」的関係といいます。相手が鍵穴に鍵を入れるように接してくれるのを期待している。こうした態度にまずはこちらがチューニングする必要がある場合がある。
これと正反対に、相手が自分からこちらに関係を求めて来なければ、ただそばにたたずんで見守り、こちらから「理解しよう」と努力をしない関係が必要な場合があります。それをしたら相手への精神的レイプになる関係性です。これをバリントは「フィロバティズム」的関係といいます。
これについては以下の記事で述べました。
増井武士という臨床家は、「自閉症の人は、外界からの刺激を選択的に受け止めることができない『自開症』である、ということを唱えています。
つまり、外界からの刺激に対して心の壁を作ることがむしろ下手くそな人たちである、と。
これだとASDもADHDも説明できると思います。
人から何かを言われた時、「グサっ」とくることがあると思います。
相手に図星をつかれたと感じている面もありますが、同時に、相手への怒りと、「それだけではないんだけどな」という思いが含まれていると思います。相手の言ってきてことへの「漠然とした違和感」はすでにそこにあるわけです。
そもそも、相手の言ってることに対して「本心を見抜いて言い当ててやろう」などと、自分のほうが相手よりも相手の「無意識」を知っているかのような態度を取るカウンセラーは、クライエントさんを萎縮させ、マウントを取って嬉々としている、「支配欲」を思っていると警戒すべきでしょうね(^^;)
いずれにしても、クライエントさん自身以上にクライエントさんの「心」がわかっている、見抜く力があると思っているカウンセラーは傲慢です。むしろ、簡単には「わからない」ことを、しっかり「抱えて(holding)」いられるカウンセラーのほうが生産的。答えは、思いもよらない所から「やってくる」
それどころか、次のことを敢えて言わせてもらいます:
相手を「『理解』しようとする」ことは、得てして相手の心の「生体解剖(vivisection)」であり、相手の「自我境界」を「壊す」作用があります。この、「毒」「害悪」の側面に無自覚なカウンセラーは危うい。自分のこころを「理解」していくのは、あくまでもクライエントさん自身の中で、望む範囲において、少しずつ進めばいいことです。
「私の中に入ってこないで!」って、#エヴァンゲリオン の #アスカ のせりふでしたっけ。#ATフィールド (#自我境界)を破って相手の心のなかを覗こうとすること自体、実は精神的な #レイプ そのものなのだと思います。このことを特に虐待被害者とカウンセリングする際は最大限に用心すべきです。
君の心がわかると たやすく言える男に
なぜ女はついて行くのだろう そして泣くのだろう
(中島みゆき 「空と君のあいだに)
「ポプラの枝」のように「ここにいるよ」と態度で示し続けるって、どういうことなのか?
なかなか深いテーマだと思うのですが。
「君のことはよくわかっているよ」というのは甘い「誘惑」の言葉と態度であり、実は #男根的 支配欲のあらわれなのだ。それに屈服させて #信者 にさせ、#支配者 になろうとしていることなのであり、これはたとえ #フェミニズム の教祖様でも陥りがちな #ダークサイド なのだと思う。本質は #SM 関係。
来談者中心療法のカール・ロジャーズは実証的エビデンスを大事にした最初の心理療法家ではなかったか?
面接記録を当時のせいぜい数分ぐらいの樹脂円盤録音機を何台も引き継ぎながら全部録音して評定尺度で統計処理した。たとえそれが仮説に不利な結果が出ても尊重した。
実は治療者の態度はカウンセリングの成功に何ら影響しないというとんでもない結果が出た。クライエントがすでに持っていた内面への関わりの能力(焦点づけ能力)のみが相関した。実はそこから #フォーカシング 技法が開発されて行った。
カウンセリングで成果を上げるクライエントは、自分の内側に生じてくる曖昧な感じ(後にジェンドリンが言う「フェルトセンス」に注意を向け、参照しながらそこから自分で仮説を立てながら検討していることがわかったのだ。それを学習可能なスキルにしたのがフォーカシング技法。
私の場合、日常の中で意識的に #フォーカシング してみることはとうの昔からない等しい。
ネット上でも、他の方のツイートへの「漠然とした言葉にならない違和感」をじっくり探求することが発想の源泉であり、既成の思想やイデオロギーの引き写しはしないところがあると思う。
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