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2021年7月27日 (火)

障害者差別を克服することは、単に「差別はいけない」という倫理規範を広めることではない。

やまゆり園事件に関する。こちらのエントリーの続き。

障害者差別を解消するためには、「世話をすることの大変さ」を抱えた人たちが、その大変さを、互いに共有し、連帯し、横のネットワークを持つことにことに、まずは基礎づけられなばならないと思う。

そして、それ以外の人たちが、そういう世話をする人たちに、いたわりのこころを持ち、具体的に支えて行くことである。

差別を「いけないこと」とする「道徳」を広めることではないのだ。

一般の人たちは、そうやって障害者の世話をする人(家族、施設の職員)たちに、「任せて」いることを「恥じ入る」ことから始める必要があるだと思う。

それこそが、障害者問題を、社会が包摂し、各々が責任を持つことの基本なのだ。

誤解を恐れずにいえば、「障害者もひとつの人格を持つものとして公平に扱い、接する」などという道徳的で高尚な問題ではないんだよね。

だって、直接ケアする人たちは、たいへんなんだもの。

*****

【追記】:私は、すでに

●最重度障害者の現実

でも書いたように、半年とは言え、施設でのケアの経験を持っています。

ただ、テレビとかでも知的障害者が単なる天使とかではなくて、大幅な生活の介助が大変なことは伝えていると思います。

それはまさに、認知症老人の介護の大変さに「非常に」よく似ていると思います。

このへんに想像力を働かせれば、一般の人もそのたいへんさが共有可能と思います。

施設収容される必要がある知的障害者はかなりレヴェルが揃っているので、家族どうしの連帯は可能だと思います。

そして、知的障害も持つ人のcareの大変さがあるからこそ、施設職員の暴力的で手荒な扱いが誘発されるのだし、植松自身もその大変さを委ねらていた存在ということになります。

そういう、いつの間にか「暴力を振るう」人たちにすら、連帯し、共感することになります。

これでこそ生産的な、社会的包摂となると思います。

だから、私は「差別はいけない」と言うこと自体を敢えて「排除」したい。

だって、「たいへん」なんだもの。

敢えて、障害者の「人権」などという「高尚な」論理を排除したいんですよね。

敢えて言えば、そういう「大変な」人を捨ててしまう(この世から抹殺してしまう)のが許されるのか、という点のみが倫理的な問題だと思います。

いわゆる、障害者「差別」は、人種差別とか男女差別とは何か質が異なる事柄のように思います。

先程、障害者のcareは認知症老人のcareの大変さと実質同じと書きましたが、「老人差別」という概念はあるでしょうか?

「careするのがたいへんだ」・・・そこに回帰する問題と思います。

そういう、エゴイスティックな「本音」こそが、問題の核心を共有する基盤となると。

施設や専門家の手に委ねる時点で、その「たいへんさ」といエゴイズムゆえに、私達は障害者や認知症老人に対する「責任」を放棄しているともいえる。

そして、市民全体が、そうしたcareに対する「責任」を分有していることの自覚にもつながると思う。

行政の問題や法律の問題以前なのだ。

敢えて言えば、植松を生み出したのは、私たちひとりひとりの「責任」(というか、責任「回避」)なのだ。

その私達の責任「回避」の帰結として、私達の「代理」となって、植松は重度障害者を「殺した」のであり、殺された被害者に対して、私達ひとりひとりが責任を追っているということになるのだと思う。

あまりに素朴な古めかし過ぎる論理展開になるかもしれませんが、福祉とは、私達ひとりひとりでは「たいへん」過ぎてかかえきれない問題を、国民主権である政府に、税金を払って委託する、というシステムであるという視点も必要かと思います。

だからこそ、消費税がほんとうに福祉のために使われているかどうか監視する責任が、私達にはあるのだと思う。

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トロントだより

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