心理療法各学派の共通の接点
流派を問わず、カウンセラーには、クライエントさんに対してまずはじっくりと話を聴き、受容的であることが求められる。認知行動療法ですら、伊藤絵美先生の実践を見る限り、そうである。行動療法の山上敏子先生ですら、クライエントさんへの共感力は基本のベースになっている。
精神分析ですら、しょっぱなから「解釈」を振り回すことはしない。「自由連想」というのはある意味でクライエントさんへの受容の態度と相通じるものがある。
もっとも、古典的精神分析の場合には、思い浮かんだことを何でも話すように強制される枠組みであったともいえる。語るのを拒むことは「抵抗」とみなされた。・・・もっとも、面接の初期には自由に思ったことを語るのが普通であろうが。
精神分析では、こうした「中立的な」対応(古典的にはクライエントさんはカウチに横たわり、分析家はその背後に立つ)は、徐々に幼少期からのクライエントの対人関係様式へと「退行」させ、「転移」という状態が生まれるとされる。最初は分析家への称賛と理想化、愛着が生じ、次にふとしたきっかけからそれは憎悪と反発、好ましくない行動化へと逆転する。これを「陰性転移」と呼ぶ。
こうした理想化から憎悪への急展開は、精神分析以外の面接でも、特に境界型人格障害の場合に顕著に現れるとされる。
こうした際に、治療者の側にも焦りやいらだちや無力感が生じるもので、それを「治療者の逆転移」と呼び、もっぱら治療者自身の過去の内的葛藤の未処理に基づく場合と、クライエント側に要因がある場合があるとされるが、人格的に成熟しきった完璧な治療者などいないわけなので、こうした区分は形式的なモデルであろう。
現在の精神分析の流れは、この「治療者の逆転移」を積極活用する立場にたつ分析家が少なくない。
これをフォーカシング的にアレンジするとどうなるかは、伊藤研一・阿世賀浩一郎編著の、現代のエスプリ 410 「治療者にとってのフォーカシング」で詳しく述べた。
このブログでも、「受容と自己一致の相克」シリーズと銘打って連載しているので参考にしていただきたい。
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さて、私が今回問題にしたいのは、カウンセラー集団の中での「受容性」が弊害をもたらす場合である。
クライエントさんに対してはやさしいカウンセラーでも、大学院内でカウンセラーの卵たちにとっては、腫れ物に触るような存在で、罵詈雑言を浴びせ、感情的にしかふるまえないセンセー方も少なくない(^^;)。それがほんとうの厳しさなのか、ほとんど訓練生への「心理操作」に過ぎないのかは、密室での出来事であることが少なくないのではっきりしないことがある。
この問題については、リチャード・ローボルト編著、太田裕一訳「スーパーヴィジョンのパワーゲーム」が格好の著作だろう。
なお、この著作には、好ましいスーパーヴァイザーに救われた事例も載っている。
こうした師弟関係のみならず、カウンセラー同士の人間関係というのも、「えせ受容」と自己愛を傷つけられまいとする心理操作の場になりはてていることが少なくない。
表面的に「受容」していて、いざとなると「村八分」にするという、日本社会の縮図が、カウンセラー業界でも量産されている。
最初から「率直に」意見してくれていれば受け入れられたのに、いきなりの「村八分」というのはとんでもない傷つきになる。それでカウンセラーになるのを諦めてしまった層というのは確かに存在すると思う。
実のところ、カウンセラー業界でしか通用しない、自分の矮小な自己愛が傷つけられることへの恐怖から防衛しているのが問題だと思われるが、いかがだろうか?
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