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2013年1月13日 (日)

フォーカシングのグループ活動において、身体の感じを通して傾聴し、言葉にしていく関係性の場を、さりげなく生み出すということ(1)(再掲)

 久留米でのグループでフォーカシングを学ぶ催しで、6名の参加者においでいただいた際に、私は、会の最初から、これまでになくひとつのことに心配りをするように決めていました。

 それは、主催者である私自身、そして参加者の皆さんのひとりひとりが、集いの場の中で、自分のボディ・センス(フェルトセンス。内側に感じられる曖昧な実感)を大事にし、ボディ・センスと絶えず照合しながら、お互いに言葉を交し合うような関係性を最初から自然に持てるような空気を醸成するということでした。

 それまでは、普通に、ひとりひとり自己紹介するように私が促すことからはじめてしまっていることが多かったのですね。しかし、これだと、誰かが話した話題をきっかけにちょっと雑談めいた方向に話が流れてしまうことも少なくなかったわけです。

*****

 もちろん、フォーカシングの集いの場であるからといって、フォーカシングについての話題以外を語りにくい空気にしてしまうことは、何かがおかしいと私は考えています。

 フォーカシングとは、意識的に技法として用いなくても、私たちが日常の中で接する様々な思いに対する付き合い方に、少しずつでも以前とは異なったスタンスを生じさせていくためにこそあります。単にワークショップの場でトレーナーやガイドとして有能になるために学んでいるのではありません(^^;)

 例えば、家族や同僚や友人と接した際に、心がかき乱された時や、朝の交通渋滞に巻き込まれた時にイライラしながらいろんなことの連想の渦に書き込まれた時、気持ちにちょっとスペースを作り、自分がどんな実感でいるのかに「気づいてあげて」、そうしたさまざま思いや気分をそっと「認めておいてあげる」、そうしたことが、半ば条件反射のように自然にできるようになることが増えてくれば、フォーカシングが「そこそこ身についている」ということです。

 あるいは、読んだ本でも、雑誌記事でも、テレビドラマでも、ドキュメンタリーでも、映画でも。音楽でも、心の中に、ある小さな感銘や痛みや新鮮な魅力を感じた時、たまたま入ったレストランの雰囲気やもてなしや料理の味わいが気にいった時・・・・・いや、もっとささやかなものでもよくて、たとえば、春になって、毎朝歩く通勤の道すがら、少し前の寒い日々には感じられなかった、緑が燃え立ち始める匂いを感じとって、季節のめぐりを実感した時のささやかな感慨でもいいでしょう、そうしたもろもろの実感とそこで生じる思いを、ちょっとだけ自分の中で自覚しなおし、味わったテイストを受け止めていく・・・・・そうしたことがに、もはやフォーカシングという技法を自覚しない次元で、さりげなく増えていくこと自体が、ありがたみなのですから。

 フォーカシング「について」話をしていなくても、およそ人が体験し、実感し、受け止めていく、すべての事象との関わり方の中で自然発生的に生起しているものが、「フォーカシング」というこころの営みなのですから、「話題が」フォーカシングについてのものかどうかに拘泥している「フォーカシングの集いの場」がなるとすれば、それは何か大事なことを勘違いしているのではないかと思います(^^;)

****

 でも、フォーカシングの集いの場でのやりとりが、ボディ・センスを実感しながらその場の空気を味わい、ボディ・センスと照合しながら言葉を紡ぎだし、ボディ・センスを通して他の参加者の話や話しぶりやたたずまい(プレゼンス)を受け止めていく形でやりとりがなされていく、自然な空気を生み出すことは、集いの場の責任者に必要な心がけなのだと思います。

 言うまでもありませんが、これは「ボディ・センスを通して傾聴し、ボディ・センスと照合しながら言葉にしていきましょう」などということを、主催者が参加者に単にレクチャーしたり、参加者同士が「ボディ・センスを通して傾聴するとはどのようなことですか?」「あなたはほんとうにボディ・センスと照合しながら言葉を発しているのかしら?」などという話題で話をしていることとは無関係なのですね(^^;)

 繰り返しますが、話の内容は、何でもいいはずなのです。昨日見た映画のことを参加者の一人が語っていても、それは全く自然なこと。

 大事なのは、ボディ・センスを通して出て来た言葉を発し、ボディ・センスを通して傾聴していくということが、自然発生的に場の中で生起するような場作りがなされることです。そうした場の中で、参加者ひとりひとりが、体験的にそうしたあり方に習熟して行き、その勘所に気づいていってもらえることだと思います。

 「ああ、これが、ボディ・センスを大事にして傾聴し、言葉を返していくということなんだ」ということは、参加者がそうした体験をしていく中で、後付けで徐々に理解してもらえていくのが自然なのでして、体験実習を始める時点で、「ボディ・センスを大事にするとはどういうことか? 私にはそれができているのかしら?」ということについて思い煩わせ、それができていないと、まるでクループの中での落伍者であるかのように感じさせかねないような事前のレクチャーをして、参加者にプレッシャーを感じさせてしまうようでは、本末転倒だと思えます。

 そして、そのことは、恐らく、集いの主催者である私自身が、ボディ・センスを通して傾聴し、ボディ・センスから出て来た言葉で応答する姿勢を、集いの場に参加者を迎え入れるその時から、場の中で隅々にまで行き渡らせることがひとつの出発点であるように思えてきたのです。

 そのことを改めて再確認させれたという意味で、先日の集いは、私にとっても学びのある集いでした。これも参加者の皆様の生み出した場の力があってのことであることに、感謝を感じています。

*****

さて、先日、「学ぶ会」で、集まって来た参加者の皆さんを出迎え、「道に迷いませんでしたか?」などのやりとしをして、参加名簿に記帳していただき、料金徴収と領収書の発行を終えた段階で、私がまず参加者の皆さんに提案したのは、

「どの部屋で全体会を開きましょうか?」

という提案でした。

 参加者の皆さんに最初に入っていただいたのは、私が普段使っている面接室です。作り付けの本棚があり、事務机とパソコンと私用の椅子、3人がゆったり座れる横長のソファ、小さな丸テーブル、そして、背もたれはあるけれどもパイプでできた椅子3脚を臨時に持ち込んだスペースでした。すし詰めとまでは行きませんが、やや閉塞感があります。

 隣に、ダイニングキッチンの広めの部屋があります。ただし、壁には食器棚が並んでいますし、テレビも置いてあります。玄関から通じる部屋の入り口との間には、簡単な暖簾以外の仕切りはありません。全く、木造の普通の民家のダイニングキッチンそのものなのですね。

 

そして、そちらの部屋でやりとすれば、椅子が不足し、全員が、フローリングの固い床に車座になって座るしかありません。

 私は、参加者の皆さんにを隣の部屋に通して、「居心地の実感でどちらかを選んで欲しい。後で2つの小グループに分かれた時に、もうひとつの部屋を使いことができる」と求めました。

 参加者の皆さんは、全員、ダイニングキッチンのフローリングの床で車座になることを選びました。

 私なりの実感としては、ダイニングキッチンの方がややふさわしそうだという思いは当初からあったのですが、このように、参加者に部屋を「選んでもらう」プロセスを経たこと自体意味があったと思います。・・・・そう、参加者ひとりひとりのボディ・センスの実感として体感された「居心地」を大事にしながらふるまってもらうことへのさりげない促しは、すでに始まっていたことになるからです。

*****

 次に、参加者の皆さんが実際に車座になって座ったところで、私はいきなりひとりひとりの自己紹介に入るのを避けました。

 

「まずは、この場にこうして座ってみて、皆さんひとりひとりが、今、どんな感じで座っているのかな・・・というのを、ちょっとだけ味わってみる時間を取りたいと思いますが、いかがでしょうか?」

 私は、

「今の段階では、今の自分の居心地や、どんな思いでここにいるのか、これからどんなことをこの集いの場で期待しているのか、何をやりたいのか・・・などを、ちょっとだけ点検してみる・・・・ぐらいのつもりでいいです。フォーカシングになっているかどうかも気にしなくていいので」

などとも付言しました。

 このあと、皆さんに、「はじめていいでしょうか?」と確認した上で、

「脚やお尻が床に接している感じを内側からちょっとだけ味わってみるのはいかがでしょう? それが「どんな」感じかを自分の中で言葉として見つけようとなさらなくてもよくて、『このあたり』と『このあたり』が床に接する形で座っているんだなあ・・・・ぐらいが確認できれば十分かと思います」

 この部分は、皆さんの様子を見ながら、30秒ぐらいの時点で、皆さんに、とりあえずOKかどうかの確認をしました。

「それでは、身体の内側への周囲を、もう少し胴体の内側に上げていって・・・・『今、自分はどんな心地でこの場に座っているのかな』、というあたりをちょっとだけ味わってみるのはいかがでしょう」

「具体的に『どんな』感じなのか、言葉を見つけようと、今の段階ではお焦りにならなくてもいいかと思います。『こーーーんな』あたりの心地で、この場所に座っているというのが、何となく味わえるくらいでいいのではないいかと」

(ちょっと間をおく)

「そして、例えば、次のようなことをなさってみるのもいいかもしれませんね。・・・・これはあくまでも私からのアイデアの提案ですから、すでに皆さんひとりひとりがなさっていることそのまま続けていただいて結構ですが、参考になる人は試してみてください。

  • 今の自分の身体の内側は、どんな感じでいるのかな?

    とか、
  • 今、ここに来て、こうして座っていて、どんな居心地、どんな気分で座っているのだろう? この場の空気をそのように味わっているのかな?
  • この集いの場に、自分は何を求めて来たんだろう? そして、今実際にこの場に来て、この後、どんな場になればいい、どんなことをしたいと感じているのだろう?
  • こうしている中で、いつの間にか、ここに来るまでの日常生活の中で生じたことだとかについての記憶や連想がすでに沸き起こって来ている方もあるんじゃないかと思います。そういう場合には、「どういうわけか、そのことが思い浮かんでしまっているなあ・・・」というのを、静かに受け止めておくのでいいのではないかと思います。今は「必要があれば、この後のセッションでそれに関することの相手を(自分が)してあげられるかもしれないね・・・」くらいでいいかもしれません。
  • 気になるからだの感じに注意がすでに向いている方もあるかもしれませんね。そういう感じに対しては、「ああ、『この辺』に何か気になる感じが出てきているねえ。そうやって出てきているのはわかったよお、必要あれば後で相手して上げるからね」と、ちょっと目配せして、挨拶しておいて上げるくらいでいいかもしれません。その感じの中に入って味わうというより、そこらへんに(注意が)行くとそういう感じがあるんだなあ・・・くらいで。
  • その感じがどうして生じているのかなあ・・・ということについてのいろんな連想がすでに生じている方のあるかも知れません。今は「そういうことも関係あるのかもしれないしなあ・・・それだけではないかもしれないなあ」くらいで受け止めておいて上げるのでいいのではないかとも思います。

 ここまで進めて来て、私は、全くのアドリブで、次のことを付け加えてみました。

  • 自分が今どんな心地で座っているのかを、すでに感じておられる方も少なくないかと思いますが、次のようなことを試してみることもできるかもしれません。

    「今の自分は、ここで取りあえずこんな感じではいられているけれども、もし、理想的に可能だったら、ホントは、どんな感じでここに座っていたいのかなあ」・・・という実感を想像して、感じてみてるのも面白いかもしれませんね。

    ・・・・・そうした上で、今の実際の居心地と、理想状態の居心地の実感を行ったり来たりして、比較しながら味わってみることもできるかもしれません。

 この試みには、フォーカシングのセッションや集いの場に対して私が常々感じている問題意識が反映していたように思います。

 私たちは、セッションや集いの中で、場のフェルトセンスを感じているという中でしか、自分のフェルトセンスを感じていられないのです。フォーカサーが自分の内面に注意を向けている時、実はこの当たり前の事柄には意識が向きにくいのですが。

 それは、純粋に、セッションを行なう場の物理的な環境要因にも影響を受けているものですし、そのセッションの場にたどり着くまでの空間で体験した、一見些細な出来事の影響も受けています。当然ながら、会場にたどり着いてから、主催者である私や、他の参加者とのさりげないやり取りの中で積み重なったものも、フォーカサーがその場で感じていることに大きく影響を与え、その影響を大きく受けながらしか、その人のボディ・センスが生起していないのです。

 セッションや集いの場を離れたら、その会場を後にしたその瞬間から、その人は、ひとりぼっちで自分のボディ・センスと向き合うことになります。もし、その人が、場の中で、場のフェルトセンスが自分にどれだけ影響を与えているのかを消化しきれないままだと、場の中で「自分の実感と向き合って」体験したつもりのはずのものが、日常との連続性を失い、自分自身に統合できなくなる場合があります。これは人によってはかなり危機的な状態になると私は判断しています。

 これを回避するにはどうしたらいいのだろう? ということに私は心配りをしてきたのですが、先日の集いを実際に始めた最中に思いついたこのアイデアは、「ほんとうは、この場の中で、自分はどんな心地でいたいか」と、「実際に味わえている居心地」と照合しながらも、敢えて意識に上らせることにより、実際に体験している場の空気を受け身に感受することを超越した形で、自分のボディ・センスが求めている「どのようにそこにいたいのか」を自覚するプロセスを、集いの開始段階という、非常に早い段階で体験してもらい、その後の相互作用の中で一貫して、場の空気からの相対的な独立性があるものとしてボディ・センスを体験する状態を継続するさりげないきっかけを参加者に提供することになるのではないかと思えました。

 これは、一見些細なことに思えますが、集いの場でのその後のその人の相互作用のあり方に微妙に影響すると思います。しかも、そういう態勢をすべての参加者がそれぞれ少しずつでも持ちながら、その後の集いの場に参与し続けたら? 参加者一人ひとりにとっても、集い全体にとっても、好ましい場の空気が、参加者全員の協力の中で、積極的に醸成されることになると思えたのです。

****

 さて、このようにして、集いの場で最初に車座を組んだ時点で、自分の居心地をしばらく味わってもらった後で、私は、

 「今、体験していたことの中で、この場で他の参加者に伝えたいことだけで結構ですから、それぞれの皆さんの自己紹介も兼ねて、シェアしていく時間を取りたいと思います」

と提案しました。

 ここで、私は参加者の皆さんがひとりずつ語ることに対して、インタラクティブ・フォーカシングのリスニングで特に強調されてきた、「相手の身になって、ボディ・センスを通して傾聴し、ボディ・センスを通して出て来た言葉で応答する」というスタイルを一貫してみました。

ジャネット・クライン/インタラクティヴ・フォーカシング・セラピー―カウンセラーの力量アップのために

 これは、ロジャーズの来談者中心療法における単なる傾聴と伝え返しよりも一歩踏み込んだスタンスになりますが、私がカウンセリングでクライエントさんとやり取りするする際にも、特にこの1,2年、全く普段使いの傾聴と応答のスタイルになっています。

 誤解されかねないのですが、これは別に、「あなたは、身体の中の胸の辺りで〇〇な感じがしているんじゃないかと」などどいうふうに応答することではありません。

 続編では、このあたりのことを、少し詳しく解説したいと思います。

(集い参加者の皆さん、集いでお話になったことを具体例としては使いませんので、ご安心を!!)

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