流派を超えた、現場臨床家の学ぶべきエッセンスの宝庫(再掲)
「テキストを読んでモデルや技法を頭で理解することと、臨床現場において目の前の患者、クライアントに対して、この療法を効果的に実践することの間には、大きなギャップがあります。そのギャップは特別なものではなく、料理のレシピを熟読することと、おいしい料理を作ることの間にあるギャップと同じものだと思います」(p.iii)
「私が一番お伝えしたいことは、この療法は、『共同的な問題解決のプロセスである』ということです。そのためにはカウンセラーとクライアントが問題解決のためのチームを組む必要があります」(p.iv)
「重要なのは、まず『個人と環境がどのように相互作用しているか』『その人の社会的な相互作用はどうなっているか』ということを押さえた上で、その人自身の認知、行動、気分や感情、身体的な反応を見ていくのです。
つまり、インタラクション(相互作用)を二重に見ていただきたいのです。
ひとつは、今申し上げた個人と環境との相互作用、すなわち個人間の、あるいは社会的な相互作用を見るのです。
そしてもうひとつが、個人内に起きていることを個人内相互作用としてみるのです」(pp.7-8)
「はじめはクライアントや患者や誰か他の人の体験ではなく、自分の体験を考えてみてください」(p.8)
「最初からクライアントが、相互作用そのものを主訴として出してくるということは、まずないわけです。ですからクライアントが主訴として出してくる話をだんだん広げていって、一緒にその相互作用を把握していけばよいのです」(p.16)
「クライアント自身が自己治療やセルフカウンセリングができるようになることを目指す」(p.35)
「カウンセリングの初心者は、クライアントの人生すべてを背負ってしまうような錯覚にとらわれがちですが、クライアントの人生と、カウンセリングでの共同作業は同一ではないことを意識化しておく必要があります」(p.38)
「その人に合った、その人なりの療法をオーダーメイドする感じです」(p.39)
「『何かをしたい』『何とかして欲しい』と思って来談している人に、『何もしてもらえなかった』と思われてしまうのは、やはり対応が足りないということです」(p.43)
「この療法で目指すべきは、高度に専門的で特殊な対話ではなく、むしろ私たちが何気なくやっている、気持ちのよい対話を実現することではないかと、私は考えています」(p.45)
「双方が同程度に話す」(p.44)
「『物分りがよすぎないこと』というのは、私を含めて特に日本で臨床心理学の訓練を受けてきた人には、気をつける必要があることだと思います。
共感は必要ですが、カウンセラーの側の推測で理解したつもりになって共感する、というのは、実は順序が逆だと思うのです」(pp.46-7)
「ポイントはイメージです。カウンセラーが[クライアントの置かれた状況や気持ちや行動を]具体的にイメージできたか、というのが重要です」
「『実感としてよく理解できる』というの、アセスメントのポイントです。換言すれば、『実感としてよく理解できる』ようなやり方で、アセスメントをしていかなければなりません(p.60)」
「[クライアントには]、カウンセラーのチームメンバーとして、疑問に思ったことは何でもフィードバックしてもらう必要があります。(中略)言いづらくても言ってもらうと非常に助けになるのでぜひ遠慮なく言って欲しい、といったことを伝えるのです」(p.65)
「アセスメントや心理教育というのは、カウンセラーが一方的にクライアントに提供するものではなく、カウンセラーとクライアントで共同して創り上げていくものだということです。(中略)カウンセラー側の想像で、『ああではないか』『こうではないか』と仮定するものではなく、カウンセラーとクライアントのコミュニケーションの中で理解し、創造して行くものなのです」(pp.65-6)
「話を聴きながら、少しずつ該当する箇所に記入していき、ある程度話が聴けた時点で、何となく全体像が見えてくる、自然とクライアントの体験が循環的に理解される、ということです」(p.68)
「この技法をカウンセリングで使うのであれば、カウンセラー自身が自分のために習得し実際に使っていることが絶対に必要です。これはこの技法に限らずどんな技法でもそうですが、カウンセラー自身が自ら習得し、使ってみてその効果を実感しているからこそ、クライエントに勧めることができるのではないでしょうか」(p.114)。
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ここで述べられているのは、熟練した現場臨床家であれば、流派を超えて誰もが言い出しそうな言葉ばかりである(と、私は思う)。
上記の引用で、私は敢えて、原文とひとつの言葉だけを言い換えている。
それは、「療法」あるいは「この療法」という言葉に、ここではしてみた部分。
すべて、原文では"CBT"、すなわち認知行動療法である。
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伊藤絵美先生のセミナーには、半日の短いものではあったが、数年前に出席したことがある。そこにはひとりの非常に柔軟なセンスに富んだ、自分の技法を完全に自分の肌になじませ切っておられる、敬意に値する現場セラピストがおられるというプレゼンスを覚えた。
ご著書、しかも、この、今や日本で一番定番化しているとされる認知行動療法のテキストをお読みするのは実は今回がはじめてである。
認知行動療法について、最近私はたくさん言及しているが、もし何か基本的なところで勘違いしていないか? まだ誤解しているところがあるのではないか?と、初心にかえるつもりで紐解いたのだが、半日で、先ほど引用した箇所のある程度先、半分まで一気に読んでしまえるくらいに引き込まれた。
実践的な、ひたすら実践的な、でも、臨床家としてのマインドを通奏低音として響かせ続ける名著だと思う。
あちこちに、形だけ几帳面に技法を学ぼう、施行しようとし過ぎたり、認知行動療法固有の用語に足をとられないで済むような、緩急自在の配慮があると思う。
認知行動療法に未だ抵抗がある心理専門家の皆様にこそ、ともかくもお勧めしたい。
認知行動療法そのものは現場で意識的に使うつもりがないカウンセラーの皆様にも、きっと得るものがあると思う。
伊藤絵美/認知療法・認知行動療法カウンセリング初級ワークショップ―CBTカウンセリング
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ただ、敢えて申し上げれば、この本の中で批判的に書かれているような、教条的なロジャーズ派カウンセリングの教育は、少なくとも現在の心理臨床家養成大学院の教育においては、すでに珍しくなり始めてはいまいか?
先日ご紹介した、「多元的アプローチ」のクーパー博士のような、"dogmastic"(教条的)なパーソン・センタード・アプローチ(PCA)には敢然と立ち向かうと宣言する「パーソン・センタード・アプローチ」の指導者がいる時代である。
実際、クーパー博士の発言とオーバーラップする箇所がこの伊藤先生の著作の中に数多く見られる。
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利用できる大学図書館が見つかったので、認知行動療法系についても、いわゆる「第3世代」(マインドフルネス・セラピー」)まで、徐々に読み進めたいと思う。
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