「オモテ」技法と「ウラ」技法 または収穫逓減の法則(再掲)
ある特定の流派の技法だけでどんなクライエントさん相手にも対応できるものではないと思う。
また、あるタイプのクライエントさんにはこの技法がふさわしいということすら、一般に思われているほどには決定的でもないとも思う。
同様に、同じクライエントさん相手に、毎回同じやり方で面接を繰り返すことも実はできないのだと思う。
もし、これらにはまると,必ずといっていいほど、「収穫逓減の法則」に直面する気がする。一回あたりの面接の密度が下がり始めるのですね。
もちろん、当初は、余計な力みが治療者側にあって、見かけの成果は一見大きいけど、それは結果的にクライエントさんにもいつの間にか、治療してもらうという「大仕事」において無理をさせている場合もあると思います。
ですから、ある意味では、治療者から見ても「腹八分目」の対応が出来るくらいで、実は一番成果が安定してくる(治療の副作用が生じにくくなる)。
しかし、ここで私がいいたい「収穫逓減の法則」とは、それとは似ていて異なる。
むしろ、「成功例」に気をとられるばかりになって、いつの間にかセラピーのやり方が型にはまり、細やかな配慮を喪失して、機械的にルーティン・ワーク化した場合の弊害のことです。
面接場面において、治療者側も、同じクライエントさんに毎回ごとに「ある新鮮さ」をもって接することが出来なくなるのはやはりひとつの危険信号ではないかと思うのですね。
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もちろん、最低何かひとつの心理療法の技法について、厳密に理解し、しかも、その本質的エッセンスを、単に教科書的ではないパーソナルな次元で「掌握」できていることは大事だと思う。これは偉い先生の講義とかを漫然と聴いているだけでは決して生じないと思う。
亡き恩師、村瀬孝雄が研究室でしばしば口にされていた言葉を借りれば、「著作と格闘する」努力を惜しまないということ「にも」あたる。
しかし、それだけに留まらないsomethingでもあると思う。
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「パーソナルな次元で掌握できる」とは何か。それは、私なりに定義をすれば、「その技法を自分自身に自分で適用して、明らかにそれまでの自分の長年の問題が変化して行くのをしみじみと実感できる」ということである。
(もちろん、クライエントさんに適用する臨床経験の蓄積でも十分であろうが、例えば、身体障害者や発達障害者向けの技法や行動療法ですら、その技法を自分が受ける立場になってみて、その味わいにある手応えを感じたという経験がない人のことを、私は信頼できそうにない)
そうなって来ると、次第に、別な流派の考え方やそのエッセンスについて、以前よりも開かれた耳を持ち、自分なりに納得できるように、少しずつなりはじめる気がする。以前は「字面」だけで「わかったつもりでいた」ことが、いかに浅薄であったかに気がつき始め、突如、「脈絡が読めて」来た感じがするのである。
そういう経験を重ねるうちに、実は、各流派の現場の「達人」、いや、現場精神科医療の「達人」と言われる人たちがやっていることが、本質的な部分ではみな共通のエッセンスを持っているかのように感じられ始める。
わかりやすい例でいうと、行動療法の山上敏子先生(2007年まで久留米大学文学部心理学科教授。2008年から福岡市・早良病院)の「暴露反応妨害法」が効果を上げるのは、先生の、クライエントさんへの、いわゆる「共感的理解」のセンスが半端ではないことと、クライエントさんとの「いい関係性」を維持する上での抜群のセンスによって支えられているから、というのは、先生の事例の紹介のライブに接した臨床家の間では,結構知られていることだろう。
むしろ、行動療法内部での、「山上先生命!!」で技法を学んで来た人の事例発表の方が、何か面接過程がぎこちなくて、「共感的理解」と「関係作り」の点で物足りないと感じたことがある。
逆に、まだ経験が浅くて、「とりあえず行動療法してみました」という人あたりの方が、行動療法としては荒削りでも、相手への共感と関係作りのセンスによってむしろクライエントさんとの関わりに好ましい展開が生じたのではないかと評価したくなることなど、学会やセミナーで経験したことがある。
更にいうと、私が参加した場では、それらの発表者にコメントする山上先生のスタンスそのものが、まさしく「受容的・共感的」で、決して批判的な発言にはならないのにも、ちょっと驚かされた。
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私は、いうまでもなく、フォーカシングを自分のベースラインにしているし、そのことを公言する。
ところが、そういう私は、現実には、面接現場でフォーカシングをクライエントさんに技法として学んでもらうことで成果をあげることの難しさに、誰よりも数多く直面して来たひとりではないかという思いもある。
学生相談の常勤カウンセラーを務めた数年間で、守秘義務を守る範囲で、ご家族や教職員との連携や、コンサルテーション、大学の他部署や内部機関や外部機関との適切な「分業」と連携、カウンセラー間のチームプレー、相談業務を円滑化する事務的なシステムの重要性、組織全体、学生の皆さんへの広報活動、あるいは相談室運営についていかに意見を聞くかの意味など、いろいろ学ぶ中で、とても、面接室の中で「心理療法としてのカウンセリング」をするカウンセラーでござい、だけではやれない現実を身にしみて体験した。
キャリアコンサルタントであり、ケースワーカーでもあり、プロデューサーであり、広報担当者でもあり、他の部署の大学職員の「同僚」であり、上司に「従う」存在であり、学内政治家でもあり、事務処理のコツもわきまえるということを、「現場カウンセラー」の分をまきまえつつも,少しずつは身につけないとやっていけないことに気がついた。
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学会発表や講演等で接してみると、現場の実力が高いと感じられる臨床家の方は、結果的に、「フォーカシング的」と私には感じられる姿勢で面接の場全体を感じ、適切な応答や反応や提案をリアルタイムで吟味しているという点では、見かけのアプローチの違いや用語の違いを超えて、共通のエッセンスを感じる経験が、すでに私の中で蓄積されていた。
私はそういう時に「それが自分の中でフォーカシングするということです」などとフロアから発言することは、たとえ知り合いだった座長の先生に「フォーカシングの立場から見たらどうですか」などと振ってもらえても決してしない。
私は、学会で、自分の流派に引きつけるようなコメントの仕方をフロアから「自分で」するのも、なぜかすごく気が乗らないし、ほとんど嫌悪すらしているのである。
まずは、その人の発表の趣旨に沿ったフレームワークの中で理解しようとした上で、何か釈然としない点について具体的に「追加説明」を求めていくというスタイルがフロアからの質問の作法として正しいと思っている。そのようにしていくと、その発表者の発表内容の問題点があるとすれば、おのずから浮かび上がり、会場全体でシェアできる議論になる筈である。
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よくいわれる喩えだが、
「登山口は別々でも、結局同じ山の頂きに達する」
とは感じている。
これは、最初から、何でも同じくらいにバランスよく学び、それらの中から自分に向いた技法を「選ぶ」とか、「場面場面で使い分ける」とか、「折衷」する、ということと似ていて、まるで違う、それはひとつの、その治療者における、「パーソナルな」統合に至る過程なのだと思う。ユングのいう意味での「個性化」とはまさにこのことであり、むしろその人の壮年期までの「灰汁(あく)の強さ」は次第になりを潜め、いわゆる「個性」がむしろ消えて行くかのようにすら見える現象である。
厄介なのは、多くの心理療法流派の創始者は、今日に伝わる業績の、技法化として「一目を置かれる」部分を、たいてい人生の前半期に確立してしまっていて、それだけが教科書的に流布していることが多いということである。
例えば、「フロイト個人に取って、フロイト個人のために」、精神分析はあのような「終わりなき分析」そのものの発展過程をとるしかなかった筈なのにである。
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ここでやっとこの記事のタイトルに引きつけられるまとめの言葉が書ける。
私もそういう「個人的統合」の中途の段階にあるひとりに過ぎない。こうした段階では、自分が主たるオリエンテーション(拠って立つ基盤)にしている「オモテ技法」を「現場で支えて」いるのは、実はすでに、他の流派でもすでに言われ尽くしている個々の事柄の臨機応変な活用だったことに気がつくプロセスが、少しずつ具体的に実感できる形で進んで行くように思う。
こうして、自分なりの「ウラ技法」体系が徐々に自覚されて行くのではないか。
「オモテ技法」は、無数の,得てして治療者自身ですら部分的にしか自覚していない、無数の「ウラ技法」と表裏一体のものなのではないか。
とりあえずの、仮説です。
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