双極性2型障害は、旧来の「躁うつ病」とは全く異なる疾患である・・・・内海健 著「うつ病新時代 -双極性II型障害という病-」 書評 (第3回) (再掲)
内海健先生の「うつ病新時代」への書評、前回に続く第3回です。
この著作についての連載は、ほんとうに思い出したように続けられると思います。
ともかく、私がこれまで読んだ本で、折りしろをつけたページ数が過去最高・・・・といいますか、つけなかったページの方が2,30ページしかないという、とんでもない読み甲斐を感じている著作なので・・・・・
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この連載(それどころか、更にその「見切り発車予告編」というべき私の私論そのもの)において、「双極性障害II型」とはどんなものか、特に、昔から存在した「躁うつ病」、すなわち双極性障害「1型」とどう異なるのかについての具体的解説抜きではじめてしまった点、一般読者の方には不親切であったかと思います。
以下、内海氏の著作の内容から適宜要約しながら解説してみましょう:
「典型的な単極性うつ病と、いわゆる躁うつ病、つまりは明確な躁病相とうつ病相が交代する循環性精神病の狭間に、その両者に還元できない、独自の病態(p.24)」があることが認識されはじめたのは、1970年代になって、主として北米大陸においてである。
一言で言えば、「うつ病相に、軽躁病相を併せもつ気分障害」の一群が認識されたのである。
しかし、これだけでは、双極性2型を、単に「躁状態がさほど酷くない躁うつ病」とだけでとらえられてしまう可能性がある。
実際、II型についての解説書の多くは、「本格的な躁状態のように、社会生活や対人関係に著しい障害をもたらすところまではいかない水準に留まる」などという表現を使いがちである。
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この点で、ひとつの集大成を成し遂げたのが、1983年に、「双極スペクトラム障害」概念を提出したアスキカルである。
「スペクトラム(spectrum)」という用語が入るのは、従来「気分変調症(dysthymia)」「気分循環症」、そして「双極2型」障害と呼ばれてきた病態が、ひとつの連続体を成していることを指す。
「スペクトラム」ないし「スペクトル」という言葉に私たちは学校教育の現場で一度は接している可能性がある。少なくとも私の世代に中学の理科の時間では、プリズムによる太陽光の分光投影の実験を通して「虹は決して7色に分かれてはおらず、連続的な色の変化であり、色とはそもそも光の周波数の違いであり、太陽光にはそれだけ多種多様な周波数が同時に含まれているということなのだ」ということを教わった。それを思い出していただければと思う。
「彼はまず、従来『抑うつ神経症』ないし『神経症うつ病』と呼ばれてきた慢性の抑うつを示す疾患に、双極性の気分変動を示す群を見出した。
この病態は、その名が示すように、従来、内因性ではなく、神経症性、あるいは性格的な要因の強いものとされてきた。
アスキカルはそこに内因性の変動を認め、REM睡眠などの生理的な指標も内因性気分障害の病態と同じ傾向を示すと報告した」(p.26)
以前もお書きしましたが、私がお会いしてきた「双極性2型」ないし「気分変調性障害」と診断された皆様の中には、どうも、全身の筋肉を弛緩させてりラックスさせる、抗不安薬の機能を合わせもつタイプの睡眠誘導剤だけでは熟睡できない方も少なくないようである。
(まして、双極性2型障害の診断がふさわしい人に、気分スタビライザーなしで、古典的な抗不安薬だけしか処方していない例は、最近さすがに減ってきたはずだ。ところが、私が久留米に移ってお会いしたクライエントさんの中には、通院暦数年、3件連続で気分スタビライザーも抗うつ剤の処方も全くないまま、抗不安薬中心の処方が続き、1年ほど前、4件めにしてやっと気分スタビライザーを核、本格的睡眠導入剤も加えた形への処方大変更がなされ、はじめてかなりの程度安定されて、お抱えになっていた現実の諸問題・・・誰から見ても深刻なストレスの供給源、現実環境の中での悪循環的相互作用といえる水準のもの・・・の解決のために、カウンセリングというものも受けてみようという決心をされて、お探しになったそうである)
つまり、お医者様が、その人に適合した具体的な薬の組み合わせで、脳そのものの活動を睡眠に誘い込むタイプの「本格的」睡眠導入剤と、気分スタビライザーを併用する処方をされていた場合にはじめて、ある程度気分の波を穏やかにできているケースが少なくないようである(三環系抗うつ剤やある種のSSRIは、使いどころを間違えれば、双極性2型の人の軽躁のそもそもの始まりを誘発するリスクが高い)
・・・・こうしたことも、「REM睡眠などの生理的指標の点でも内因性」というアスキカルの指摘と重なるのかもしれない。
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いずれにしても、特に北米大陸では、双極性スペクトラム障害は、単極性うつ病と、すでに対等な有病率を持つと推測されているそうである(p.27)。
(このことと、アメリカを中心に吹き荒れた、子供から思春期の事例に対する過剰な「双極性障害」診断の不要なまでの連発というスキャンダラスですらある問題・・・これについては、加藤忠志著「双極性障害―躁うつ病への対処と治療 (ちくま新書)」のpp.47-51に詳しい・・・は切り離してとらえるべきであろう。)
本格的な躁うつ病(1型)は、人類太古の昔から存在するにもかかわらず、両者の数分の1しか実数はいない。
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いずれにしても、内海氏は、双極2型を、単極性うつ病と双極1型(躁うつ病)との間の単なる中間形ととらえるような折衷的な考え方に異議を唱えている(p.29)。
それどころか、
「双極性II型障害は、『うつ病』や『躁うつ病』という明確な臨床概念が、かえってその明確さによって隠蔽してしまったかもしれない、そうした気分障害の多様性を担っているのである。
この第一の発想の中には、実は『純粋な単極性というものはない』、という考えが含まれている。
気分障害である以上、多寡はあるにせよ、何がしかの双極性の成分が含まれている。
すなわち、『汎双極論』である。
それゆえ、双極スペクトラムとは、[単極性]うつ病とは異なった類型を指すと同時に、理屈の上では、[単極性]うつ病をもその中に包含するものである」(p.30)
・・・・こうして、内海氏は、現代のうつ病論の機軸そのものを、古典的なメランコリー型うつ病から双極性2型を範例とする方向に「コペルニクス的転換」をするという試みとして、本書の基本方針を位置づけて、第1章を終えている。
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さて、「躁」と「軽躁」とは単に量の違いではなくて、質の違いでもあるという点について、もう少し具体的に述べて行きたい。
DSM-IVにおける「躁病エピソード」と「軽躁病エピソード」の診断基準の違いはほんの数項目である。具体的に言うと、長大なB項に続く残りの3分の1、C.D.E.(F)項にのみ記載されている。
これらの中ではっきりとしたコントラストがあるのは「躁病エピソード」のD項=「軽躁病エピソードのE.項」のみである:
- 気分の障害は、職業的機能や日常の社会活動または他者との人間関係に著しい障害を起こすほど、または自己または他者を傷つけるのを防ぐために入院が必要であるほど重篤であるか、または精神病性の特徴がある(躁病エピソードのD.項)
- エピソードには、社会的または職業的機能に著しい障害を起こすほど、または入院を必要とするほど重篤ではなく、精神病性の障害はない(軽躁エピソードのE.項)
・・・・ここでいう入院が必要というのは、もし入院治療をしなかったら、1週間以上、本人を家庭や社会に放置できない水準の、本格的な「躁状態」が持続する懸念があるということである。
もとより、内海氏は、このDSMの診断基準が、結局「程度の差」で本格的な躁と軽躁を区別しているだけであることに大いに限界を感じている(p.37)。
ちなみに「精神病的」なものの有無というのは、軽躁の場合には、幻覚や幻聴、明確な妄想状態などは生じず、現実吟味能力もある一線を保っているということである。
内海氏もこの点は原則的に支持しているようだ。
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そうした中で、「躁」と「軽躁」の質的な鑑別指標のひとつとして内海氏が掲げるのは、観念や思考の「転導性」=「移ろいやすさ」である(p.40以下)。
心理学を学んだ人が「転導性」と聴くと、ピアジェの児童期発達論における「転導的推理(trunsductive reasoning)」という概念を思い出される人もあるかもしれない(「私が幼稚園から帰ったから日が暮れる」・・・の類の、物事を具体的だが表層的な連続性などから理由付けること)。
しかし、ここで内海氏が言わんとするいう「転導性」というのはピアジェのそれと少し似てもいるが、かなり異なる。
躁状態の場合、「観念放逸」と呼ばれる、話や行動が前後の脈絡が全然ない飛び方をする。そこには生産的なものは何もない。
ところが、軽躁状態では、転導性は必ずしも明確ではない。軽躁状態でも微細な観念放逸や転導性がある場合もあるとクレペリンが観察してることを内海氏は否定はしないものの、軽躁を躁から区別する、より実践的なポイントとして、
「まとまった作業を遂行できること」
を掲げている。
「場合によっては、注意が散乱するどころか、むしろしつこいと思われるくらいに、ひとつのことに執着する場合もある。
他方、躁状態で成功することはほとんどあり得ない。(中略)軽躁では、場合によってはある一定の成果をもたらすことがある」(pp.41-2)
このあたりは、この内海氏の著述の後ろに続く、症例A(pp.42-5)の部分をお読みいただくと明確になるはずだが、もちろんここではそこまで紹介しない。
ただ、内海氏がこの症例の後に次のように述べている点には触れておこう:
「この事例で見られるように、軽躁では観念放逸に代表されるような、転導性はみられない。もしあったら、相手をひきつけるような「魅力的で委曲に富んだ企画書」など書けるべくもないし、計画を遂行していく粘り強さなどは求めるべくもない」(pp.45-6)
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軽躁状態の指標のびとつは、その軽躁のさなかにあっては、本人にとってはそれが「普通で順調な状態」と認識されつつも、周囲の人から見ると、やや「多弁で元気がよ過ぎ」かな?・・・というふうに感じられる形で、自他の実感の間にギャップが生じる状態だということである(こちらの記事参照)。
センスのあるお医者さんは、この実感上のズレを、本人を傷つけることなく納得させ、患者自身が、いわば時計の目盛りを少しずらすかのようにして、自分の調子の実感に補正をかけてモニタリングする習慣をつけるように促すことを、もはや〇〇療法などという大袈裟なものではない、「小精神療法」として、さりげなく診察の際に紛れこませておく実力すらあるようだ。
このあたりの、本人にとっては軽躁こそいい状態、理想状態ですらあるという感じ方のことを、内海先生は、「軽躁とは、自我違和的ではない」と表現している(p.49)。
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さて、今回のおしまいに、内海先生が双極2型の精神療法のポイント(p.154以下)として述べている部分の中から、この「軽躁状態」の「躁」とは異なる固有の「質」という観点と関連しそうな部分をまとめておこう:
「双極II型障害では、ある程度踏み込んだ精神療法が必要である。(中略)
彼ら彼女らは、「支持的[supportive]」といわれる対応では物足りないと感じる。(中略)通常この類型の人たちは強い刺激を必要としている、通り一遍の対応では彼ら彼女らにとって隔靴掻痒[=かゆい所に手が届かない]のごとくとなる。(中略)
より積極的な見方をするなら、BPII[双極性II型]に対しては、精神療法は実質的な効果を持ちうる。
俗に「うつ病者は病気から学ばない」という。ひとたび回復すれば、何ごともなかったかのように、現実に戻って行く。それゆえ、同じところで躓き、再発を繰り返す事例もある」(pp.154-6)
よく、鬱に関して、「それまでとは生き方を変えましょう」的な啓発運動が成される傾向があるが、これは古典的なメランコリー型単極性うつ病の人たちに対しては大事なメッセージかもしれない。
つまり、ひとつには、今述べられていたように、古典的な鬱の人は、ひとたび回復すると、以前と同じライフスタイルに立ち戻り、再発する場合も少なくないことに歯止めをかけるという意味で必要かもしれないということである。
もうひとつには、古典的な鬱の人は、組織や権威や集団のもたらす価値観への安定的な帰順意識も強いので、こうした呼びかけを「押し付けられた」ものとは感じにくい可能性もあろう。
(ところが、双極性2型の人だと、もともと変化に富んだスリリングな人生を歩んできた人が多いので「何を今更!」と思うか、あるいはもう一度軽躁的チャレンジをはじめるという形で「誤解する」きっかけになるか、それとも、他人や権威から「変われ!」といわれることに反発するかのいずれかになる可能性が高いと思う。このあたりの話題は第4回で書くつもりである)
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そして内海氏は、古典的なうつ病域の人が経験から学ばないのと比べる形で、次のように締めくくっている:
「BPII[双極2型]では、罹病中に経験したことは、よきにつけ、あしきにつけ、その後にも刻印される。
実際、精神療法の効果は、回復後にも持続しているし、回復後も精神療法は有効である。」(p.156
【追記】この本、改訂版が出ました。その要約はこちらのページで読めます。
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