性懲りもなく、すぐに立ち直ることを繰り返す、「アメリカ人」というものの、光と影を象徴 -『風と共に去りぬ』についての「自我同一性地位」の観点からの考察-
たとえ何が生じようとスカーレットは立ち直る。
たとえ何が生じようと、スカーレットはアシュレーと自分との恋という幻想を振り払うことができないままでいた。少なくともアシュレーの夫となった従姉妹メラニーが死んでしまうその時までは。
スカーレットには、非常に根本的な次元で、アシュレーの抱く心の闇、現世へのペシミズムへの基本的共感性が欠落しているから。(もとより、アシュレーはまだ死んでいない以上、スカーレットがこの煩悩からほんとう目覚めたのかどうかすら定かではない)
この点からすれば、レッド・バトラーは、そういうスカーレットに巻き込まれたひとりの等身大の男性であるに過ぎない。
彼ですら、暖かい家庭を夢見た。子煩悩そのもので、結婚後、地域の人と折り合うためなら、柄にもなく会釈を繰り返した。
かなり久しぶりにBSで全編を通して観た時、レッドの最後の捨て台詞、
「そんなの知ったことか!!」は、
決して冷たいものではないばかりか、むしろスカーレットに残せる、精一杯の屈折した愛の言葉にすら響いた。
それに比べるとスカーレットは何を考えているのだ?
「そうだ! タラに帰ろう!」
1860年代当時、タラはオハラ家にとって、いったい何年前からのふるさとだ???
どんなに長く見積もっても、1世紀前に移民していた(ましてや、タラにたどり着いていた)わけではあるまいに。
.......言いたかないけど、究極的にはネイティヴの住民から搾取した土地でしょうが。
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そういう、半ば幻想とごまかしに満ちた、フィクションとしての自らの「ルーツ」へと、スカーレットは、「ご破産で願いましては」とばかりに立ち返っては、周囲を巻き込んで、一から出直し、工場主の妻になっていたかと思えば農園主になりなど、やれることは何でもやって、そのたびごとに立ち直ってしまう。
それはどこか、青年期のモラトリアムにおける「役割実験」の繰り返しのようだ。ある観点からすると、スカーレットには決してアイデンティティの確立に行き着くことはない。
なぜなら、自分が周囲を巻き込んでしでかしたことへの根本的な反省と、そうした「業(ごう)」を背負っての再出発の中で、以前と似た螺旋をめぐるようでいて、ある種の深みが増していくというプロセスまでは、彼女に見受けられないからである。
そしてこれこそ、多くのアメリカ人が背負い込んでいる、「歴史を反省する能力」が基本的な欠落したまま、「性懲りもなく同じ過ちを繰り返す」傾向のまさに典型的・象徴的な表現なのだ。
その意味で、この映画ほどにアメリカ人を感動させる映画はあり得ず、同時にアメリカ映画というもののいやらしさをこれほど完璧に描き切ったと感じさせられる形で立ちはだかる、我々にとっての「大きな壁」というべき"The Movie"である。
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しかし、アイデンティティ論のエリクソン自らが明言している。 アイデンティティを、青年が社会に出立してさほど立たないうちに一度確立されれば生涯を保障してくれる「達成」のように誤解してもらっては困る....と。
ある観点からすれば、人は、いったん確立されたかにみえるアイデンティティに安住できないまま、再び「役割実験」に踏み出す一生を、生涯の間に何回か繰り返す。
戦争や経済、産業、科学の進歩の伴う社会変動、天災・事故、別れ、年齢や体力の衰え、子供の巣立ちなどの中で、人はそれまでの自分のやり方が通用しなくなるのを感じ、新たな「危機」に直面し、リスクを背負ったチャレンジをはじめる。
その意味からすれば、スカーレットの生き方は、我々の、等身大の写し身であり続けるだろう。
心理=社会的アイデンティティの確立そのものが、そうやって、生涯にわたって少しずつ更新されていくしかない、状況との相互作用としての「体験過程」のステップなのである。それこそがエリクソンのいう意味での、心理=社会的「ライフサイクル」ということになる。
恐らく、我が師、村瀬孝雄の生涯の最後の数年が、エリクソンとフォーカシングの両方にささげられたことの核心は、師が、両者のこの「接点」に深く気付いていたからこそだろう。
エリクソン(著)、村瀬孝雄・近藤邦夫(訳)/ライフサイクル、その完結
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現代日本の行き詰まりは、そうした個人や社会の更新過程の必要な危機に際して、むしろ、「モラトリアム」→「アイデンティティの確立」→「モラトリアム」→・・・・・というらせん状のバリエーションとして前に進めるプロセスが停滞し、横道に入り込んで袋小路に行き着き、固着(fixed)しやすいという点で、他の多くの国や地域以上に危機的な状況にあることかもしれない。
では、その横道の袋小路の具体とは?
実は、それを更に明快に2タイプに分類した、研究者には知れ渡っている業績がすでにある。
Marcia,1966は、自我同一性の問題への対処の仕方を4つに類型化し、「自我同一性地位(Ego Identity Status)」と名づけた。
(詳しくは、波戸香織「青年期の自我同一性の達成に関する研究動向 -現代日本における同一性形成要因を探る-」学校教育 A00-1835 参照)
現代日本とは、この4つの同一性地位の中の残り2つ、すなわち、
「同一性拡散」(Identity Diffusion)と、「早期完了」(Foreclosure)の間を、青年期以降はひたすら悪循環的に性懲りもなく往復するだけの、成熟を知らぬ時代である。
何しろその「同一性拡散」と「早期完了」の往復しかできない、今の日本の典型的人物が、(直系ではないが)二世議員でもある、我が郷土、福岡と縁が深い、現「総理大臣」なんだから、あまりも象徴的ではないか!!
「同一性拡散」から、あるいは「早期完了」から、再び「モラトリアム」的役割実験のステージに立ちなおすという、細くて曲がりくねった獣道のような隘(あい)路(ボトルネック、難関)を潜り抜ける勇者が(世代や年齢に関係なく)少なからんことを!!
そして、「早期完了」に過ぎない人たちが、まるでアイデンティティを確立した大人であるかのように振舞い続けることを打ち砕くだけの、社会の柔軟性という土壌と、神のご加護がありますことを!!
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なお、「同一性拡散」と「早期完了」という、この2つの概念のうち、今日、この中の"Foreclosure"の定訳扱いをされている「早期完了」とは、先述の、恩師村瀬孝雄の案出した訳語である。
そこにジェンドリンの体験過程理論において”incomplete"を「未完了」と訳さずにいられなかった村瀬の中で、こだまのように響きあっていた言語連想があると想像することは、決してこじつけとはいえまい。
{見かけ上「完成されて(complete)」いるが、実は、内的葛藤のworking throughを経ずして先行世代の規範を取り入れただけで、実は真の心理=社会的相互作用の過程を経ての自己確立ではない}≒{体験過程の状況との相互作用が真に推進しないままでincompleteにとどまっている}のが、まさに"Foreclosure"だからである。
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