父の生涯
ここしばらくの間で最大の事件は父の急死でした。
齢79歳ですから寄る年波には勝てないとも言えますが、母と同居するマンションの風呂場で浴槽につかったまま意識不明、救急車で久留米大学救急救命センターに運ばれ、数日間ICUでの集中治療を受けた後、3月8日に死去しました。
年金生活を送っていましたが、税理士関係の仕事をまだ何件かは続けていて、あと少しで年度末の確定申告関係の仕事が終わる直前でしたので、実際にはかなり疲労していたのではないかと思います。
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父は昭和7年に東京市淀橋区で生まれたが、4歳の時に中国東北部、いわゆる満州に関東軍の軍属となった祖父と家族と共に渡った。
哈爾濱(ハルピン)のそばの「阿城」というところに住んでいたらしく、今度の引っ越しの時に、十五年ぐらい前に再訪した「阿城」駅の写真、そして阿城から通学していた哈爾濱中学までの定期券の実物が発見できた。
もっとも、その定期券の有効期限は昭和20年の10月13日までであり、すでに終戦を迎えていたことになる。何かやはり当時の遺品として大事に持っていたのであろう。
「軍属」というのが何を指すのかよくわからないでいたのだが、今回の引っ越しで、満州時代の父の父の書いた本が表紙がない形で本文だけ「発掘」された。
学校の生徒や教育関係者への訓示を思わせる格調の高い文章。
だから、「視学官」だったのではないかと思える。
いわゆる「大東亜共栄圏」「五族協和」について高らかに歌い上げるというより、実際に満州にいる中で人は何ができるかについての思索の跡が伺える、かなり理想主義的な文章である。
父たちはソ連軍の戦車が来襲する前に大連の港を目指して集団で逃避行となったわけだが、ある宿営の晩、父の父は、「お母さんのところへ行っていなさい」と言い残してその場を離れたという(生前には父から直接聞けなかったが、母から父の死後伝え聞いたこと)。
その後に一発の銃声が聞こえた。
その後、祖母と父は大連で足止めを食らい、約1年間日本への引き揚げ船に乗れなかった。饅頭売りなどをして「人生の底辺を嘗め尽くした」という。
いつでも自殺できるように青酸カリが配られていたが、ほんとうに日本に帰れそうだとなった時点で回収されたという(これは父から聞いていた話)。
日本に帰り一族の本来の故郷である現在の久留米市北野町の本宅に帰り着いた時には、母子二人ともやせ細っていたそうだ。私の曽祖父は「トモエと彦四郎が帰って来たぞ」とふれて回ったとのこと。
父の兄(私の叔父たち)は一人は早稲田大学、一人は玉川大学を出て、二番目の兄のエッセーが収録された文集なども残っているので、中産階級の頭がいい家系ではあったと思う。徴兵後に数年遅れて帰国した長兄の方は、市役所の議会事務局まで務めあげ、30年におよぶ年金生活を悠々自適に送って、昨年98歳で亡くなったが、次男の方は最後は上海の阿片窟で死んだらしいことを父はいろいろ文献を集めて探り当てていた。
父親に進学を進める声もあったが、父の母は「この子にばかり贅沢はさせられない」と言い切り、父は旧制中学一年で中退のままで簿記学校へ通う。その後で当時の北野村の経理指南役にすぐに上り詰めて以降、経理の「超」職人としての人生が始まる。ともかく5人分の仕事をこなせたらしい。雇っている事務員たちのペースがまどろっこしいのだ。
しかも、父は誰よりも早く事務所に「出社」して、部屋の掃除をして冬は暖房をいれておく甲斐甲斐しさも併せ持っていた。「頭は低く、でも技は人一倍に」というのが父の処世術だったようだ。
そういう勤務先で知り合ったのが、10歳も年上の母だったという。母はまさかこの人と結婚する展開なるとは全く思っていなかったようである。
そうした中、上皇、つまり当時の皇太子殿下と美智子様のご成婚の日に「あやかり結婚」する。その名前が新聞に出たものも残っている。
そして、今の皇太子殿下が実際には昭和35年の2月23日生まれなので学齢的には一つ私の方が下になるが、「浩宮」の一字をもらって「浩一郎」という名前になったわけである。
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父の特徴は、万事自分でお膳立てしてしまう「先回りの良すぎる」ところである。「甘やかされた」のではない。私は父の先回りに「甘んじて」いたのである。私自身そういう父から離れないと成長できないと感じたので東京の大学に進んだのだが、私も学生時代に金銭的に不自由したことはない。でも「そこまでしてくれなくてもいい」「自分なりにやらせてほしい」と言い出せないままだったのは私の責任でもある。
その結果、実社会に出て人との関係にもまれるということが遅すぎる形になっていたと思う。若いころバイトは正直に言って一回箇所しかしたことがない。それも友人のコネでである。
晩年の父は、「そうやっていつも先回りしようとするから」みたいなことを私が言ったとたんに「おまえは俺のポチか?」と感情を高ぶらせた。
ポチでいたくはなかったなかったけれども、ポチに成り下がってもいたと思う。
母も、「いつでも『うちんと(父)』がお膳だてするけん、私も世間知らずのままでよくなってしまっていた」と最近語ることが多い。
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父は、自分が時代に流されて必死に生きるしかなかった分、果たせなかったことを他人にはしてあげることによって自分の生きがいを見出すタイプだったと思う。
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