ホールボディ・フォーカシングこそフォーカシングの現段階での極北を含んでいる!!
とりあえずは、左サイドの書評欄の「檄文」を参照ください!!
(一度これくらい書かないと先に進めない!!)
ホールボディ・フォーカシング -アレクサンダー・テクニークとフォーカシングの出会い- 著者:ケビン・マケベニュ /土井晶子 出版社:コスモス・ライブラリー /星雲社
とりあえず、これも参照。
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とりあえずは、左サイドの書評欄の「檄文」を参照ください!!
(一度これくらい書かないと先に進めない!!)
ホールボディ・フォーカシング -アレクサンダー・テクニークとフォーカシングの出会い- 著者:ケビン・マケベニュ /土井晶子 出版社:コスモス・ライブラリー /星雲社
とりあえず、これも参照。
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直前の記事、ほんの数十分の間に、どんどん「改訂版」を私が繰り出したのを「リアルタイムで」「ライブで」お楽しみいただいた方が、今回は、日本フォーカシング協会メーリングリスト"focusing-net"への私の書き込みによる勧誘/動員なしで(! .....もう、「動員」かけなくても1日300アクセス手堅くなりましたから)100名弱おられたかと思います。
どんどんユーモラスになり、しかも最後には世界全体の抱えた普遍的問題にまで拡張しましたでしょ?
これが、
自分の中の「言葉にならない曖昧な感じ」=「フェルトセンス」と「照合」しながら
(=フォーカシングしながら)
文章を書く、
ということでして、
"Thinking at the Edge"(「=曖昧な感じの輪郭の部分で考える」、略称"TAE")
という、創造性開発技法として、
今現在の、ジェンドリンが"Work in Progress"で体系化しようと取り組んでいる事柄なんです。
興味のある方は、英語ですが、ジェンドリン自身の草稿です。こちらをどうぞ!!
****
もっとも、私はこの技法、2,3回日本でのワークショップに出たんですが、全然なじめません(爆)。
まどろっこしくて、もう(^^;)
私は、「ナチュラル”TAE”イスト」過ぎるんでしょうね!!
この技法をわざわざ「技法として」学ばなくてもいい!!
(この点だけはすでにジェンドリン自身をも「超越している」のかもしれない)
日本では、少なくとも関東圏では、村里忠之先生や、近田輝行先生が、この技法の権威です。私の100倍詳しいです!!
*****
でも、私は、子供の頃から、ともかく長い文章を書くのは得意でしたが、
エンドレスの行き先不明のラビリンス(迷宮)に迷い込み、
「ここはどこ? 私はだれ?」
にいつもなって、「完結した」文を書けませんでした。
でも、「普通の」フォーカシングを学ぶ中で、急速に、まとまりのいい、起承転結のくっきりした文章を、「これだけの」クオリティを「毎回」そろえて「連発」できるようになったのは確かです。
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私にどのように返事を(ここにおいでにならなくても、個人メールとかでも)しようかとか、あまり考え過ぎないでくださいね。
皆さん一人一人が、
「自分にとって、フォーカシングって何なんだろう」
とフォーカシングしてみる機会になれば、ジャンヌ=ダルク阿世賀は「今回の」使命を果たしたことになります(^^)
****
他流派のカウンセラーの皆様、これくらいに真っ正面から、自分の所属する流派のことを真剣に思いやっている、「国際資格『認定』資格者」少なくともひとりはがいる、というだけでも、フォーカシングというものに、一度真剣に関心を向けてもらえると、ありがたいです。
恐らく皆さんの大半は、フォーカシングの「上澄み」しかご存じないから。
(それにしても、私の『絶望し続ける』『空虚さと向き合う』能力って半端じゃないでしょ? いわゆる『ボーダー』の人が私とトラブルを起こすことが今やないのはこの力のためと思います)
すべては『空(くう)』であるというのは、仏教の教えにありふれているし、旧約聖書の「詩編」にも「空の空」ではじまる有名なのがありましたよね。
そういうのを「ペシミズム(悲観主義、厭世観」という言葉でひとくくりにする学者は「馬鹿たれ」です。
これこそ、もっとも「肯定的」で「前向き」な生き方です。
浜崎あゆみはそのこと理屈を超えて「体得」し、まさにそのままの生き方をしているので凄いですね。
もう「N君」おいてけぼりをくらってあたりまえです!!
同じ境地に中島みゆきもいますね(最近、だいぶみゆきのここ20年の歌を聴き込んで来たから、確信になりました)
******
どこかの誰かさんみたいに、このことを「トランスパーソナル」という言葉を一回も使わずに語って来たのが私です(^^)
「あの」サイトにはあの日以来私が「ほんとうに一度も」踏み込んでいないことぐらいアクセス解析できている技量の方ですよね(^^)
フロイトの本「2冊」読んだくらいで精神分析を否定するのは、ayuの曲2曲だけ1回聴いてayuを批判するのと同じと気付かなかった。
そして、精神障害の人を平気で「壊れている」とネット上でも、私の目の前でも言い続けた。きっと、親御さんが「そうだった」んだと、掲示板読んでたかなりの数の人が「憶測」してますよ。
そして、
PTSD概念を吹聴したハーマンを批判した本(あれしか読んでないくせに)の著者、矢幡洋さんが、私が一番古くから個人的な付き合いがある臨床心理士だって、いいましたっけ?
あの人が私のエヴァ本の「プロデューサー」なんですってばさ!!
もう、自分がただの、身の回りに「崇拝者」を集めてる
「ナルシスト」、「『小山』の大将」だったことに目覚めてるかな?
それから、あなたは「向精神薬」への偏見のかたまりでした。
それなら、大酒飲みはやめたらいかが?
「酒は百ヤクの長」(誤字にあらず)
といいますでしょ?
あなたの脳細胞は、お酒になしには成り立たなくなっていたはずです。どこがちがうのですか???
だから、私は、あなたから「いいとこ取り」だけさせてもらって、縁を切ったんです。
これからは、「第2のあなた」にだけはならないように心してネット活動します。
1日のアクセス数が1000に達したら、その時点でこのブログは閉じて、過去ログのみの表示にする、とは他の記事のコメントで書きました。これは皆さんにも約束します。
「解釈なんてどのようにでもできる」なら、過去ログ「当然」今もそのままですよね?
もし、今更書き込みに来たり、個人メールよこしても、すべて無視、アクセス不能の設定にさせて頂きます!!
以上、「こーちゃん」より!!
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今日はさすがに、母が当面安心なことを確認できた反動で、人並みに遅れた心労がきたみたいなので、クライエントさんの予約が空白なのをのを幸い、「湘南フォーカシング・カウンセリングルーム」は「臨時休業」して休ませてもらってます。
今日(13日)ご予約やお問い合わせの電話、ファクスを頂いた方、申し訳ございませんが、お返事は明日までお待ちください。
ちなみに「職場のホームページは、職場でしか更新しない」という原則を貫いておりますので、事前に何の告知もしないままであることをお許しください。
*****
こっちのブログだけ読んでると、まるで日本フォーカシング協会内部での「派閥闘争」が存在し、それを私が"acting out"してここで書いてるみたいに見えるでしょうから。
私は、いかなる意味でも、社会的・制度的な意味で、自分がトップになることはむしろ避けたいと心から思っています。
そんなことをしたら、我が恩師、村瀬孝雄先生のように「早死」しますから。
「政治家」としてはその程度の器であると自分を見限っています。
****
私の父も、「決して組織の中でトップにならず」、いわば「剣術指南役」としての分をわきまえることによって、そこそこの財を成したあとでの「引退生活」に入るという、絶妙な世渡りをして来たおかげで、今も「超頭脳明晰」なパワフル親父でいます。
福岡県久留米一の大マンションの管理組合、経理担当監事(これまた「ナンバー1」を巧妙に回避している)なんか引き受けたものだから、今でも「勤勉に働き続けて」ますが、国内/海外旅行や、何とバレエのファンになって、
世紀のプリマ、シルヴィ・ギエムの「ボレロ」を2回も見ているってんだから驚きましたが。
学歴は旧満州国のハルピンでの旧制中学1年の夏休みに、終戦と共に終わりましたが、その満州からの引き上げの際に馬賊に教われて「殺された」祖父は地元の小学校長、今も90代でかくしゃくとしている兄(私から見たら叔父)も、戦前の「早稲田大学」を出ています、
大正生まれの母も、生まれてからの入院歴ゼロ、旧制「高等女学校」出ですから。だから、「脳力」(誤字にあらず)は高い血を引いてるんですよね。
ただ、その父がそういう生き方ができたのも、仕事の陰で母に甘えることができていたから。
そのことへ父の自覚不足が、母が倒れるという「ここぞというところ」で道を間違えそうだったので、臨床家の息子は、そういう「家族力動」を見抜いた上で、明学学生相談センター時代に鍛え上げれた「現場臨床家」としての「危機介入」に踏み切りました。
そういう判断を「30秒後」に電話をかけ直すまでに間に「一瞬で」できるようにならないとならないのが、人の「こころ」だけではなくて「いのち」を預かる「現場臨床」というものなのです。
「事例検討会に出して」「スーパーバイザの意見を聞いて」なんていう、悠長なものではないのです。
先輩「開業カウンセラー」の皆さん、あなたはそこまで「腹をくくって」仕事できてますか?
***
私は、ひとりの在野の現場臨床家として、「米を買う」ことができる以上のことは望みません。
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昨日(11日)夕方、父から、母がめまいを起こして倒れたという知らせを受けました。
「内科医に来てもらったら、特に異常なしと言われた。仕事が一区切りして数日中には脳神経外科医にも連れて行く」と。
私は
「うちの家系は心筋梗塞か脳卒中でしか死なないんだから、できるだけ早く病院に行ってくれ。佐治守夫先生がそういう展開を経てくも膜下で亡くなったのを忘れられない。決して安心するな」
と答えて一度は電話を切りました。
しかし、私はそれから「自分のフェルトセンス」からの、「猛然たる抗議」を受けました。
そして電話をかけ直して言いました。
「今日(11日)だけは親父に説教させてもらう。
『優先順位が違う!!!』
仕事投げ出してでも、お母さんを明日「脳神経外科の」病院に連れて行け!!
親父も、お母さんのこととなるとシミュレーション能力の客観性を見失うみたいだね。
私を安心させるためにも、それがベストでしょ?
人の生死に関わる『専門家』としての警告だ!!」
*****
今日(12日)午後、父親から、
「脳の検査3通りしてもらったが、異常なしだった。ただのめまいだったようだ」
との返事をもらいました。
*****
こうした展開の中で、昨日(11日)からの書き込みを書いたのです。
でも、書き出す前から私のフェルトセンス「が」私に語り続けていたのです。
「お母さんのことはもう心配しなくていい」
と。
「だから」書いたのです。私はそれを「後悔」してはいません。
私は激情にかられて昨日(11日)から今日(12日)の記事を書いたのではありません。
不思議なくらいに冷静な気持ちで、過去最高の内容の記事(コメント)の幾つかを書いたと思います。
睡眠も、今日(12日)は職場の定休日でしたから、その父からの返事の電話で起こされるまで、「見事に爆睡」していました(^^)。悪夢一つなく。
とは、父親からその連絡を受ける直前(11日)に、あるクライエントさんとの別れ際に、ふと口をついて出た言葉でしたから。
現状では、書くのはどっちみち、時間の問題でしたでしょうから。
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人は、自分自身の十字架さえ背負えればいいのだと思います。
親の分や、
子供の分は、
背負い込まないように。
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ジェンドリンを「父」としたり、メアリー・ヘンドリックスやアン・ワイザーを「母」として、その「寵愛を得よう」とするのではなく、あなた自身がジェンドリンに、アンに、メアリーになり、それをどこかで超えた「何か」になってください。
別に「ナンバー・ワン」でなくてもいいのです。
「オンリー・ワン」でいいから。
フォーカシングのコミュニティなんて、世界全体からすれば「米粒」でしかないことを忘れないように。
******
自分がもしサハラ砂漠の砂の一粒に過ぎないと想像してみてください。
「ちょっとこわい.....でも、それはそれで心地いいかも」
と思える人は、そこそこ幸せなのかもしれない。
> 僕たちはただの点でしかなく
> すべてでもあって
(浜崎あゆみ
"forgiveness")

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私が大学院に入った頃、フォーカシングは(今でもそうですが、今よりずっと)カウンセラーの間でも知られていませんでした。
(今は、「フォーカシング」と「体験過程」について最低限数行ぐらいは書けないと、臨床心理士資格試験の1次試験向け受験勉強としては、明らかに不十分です。つまり、若い「臨床心理士」がフォーカシングについて「何も知らない」というのはモグリです.....と断言します)」
![]()
左サイドの"My Fovorite Books"でも紹介している、ジェンドリンの著作、「フォーカシング」の項でも書きましたが、私にとっては、フォーカシングとの出会いは、それこそ、電撃が走る「運命の出会い」でした。
法政大学市ヶ谷校舎の大学の生協(今はきっとすでに2回ぐらいは店舗改築してて、当時の見る影もないのでは?)で立ち読みしていただけなんですから。
それまでも、おととしだったか、亡くなられた、小此木啓吾先生の著作を入門書とする形で、精神分析の本はかなり読んでいたし、
「自由からの逃走」で著名だった、エーリヒ・フロムの本は当時出ていた訳書を全部読んでいました。
(フロムの本で私の一番のお勧めは、"Man for Himself"(当時の翻訳タイトル「人間的自由の本質」です。すでに絶版、図書館で探してください)。
今とは違い、ユングには何かピンとこなかった。
なのに、このジェンドリンという人は、私が読んできた「すべての」心理学者が見落としていた事柄について見事に捕らえている!!!
「言葉にならない曖昧な『感じ』そのもの(=フェルトセンス)が一番大事なんだ!!」
これは、私にとっては、それこそ「ニュートン力学」から「アインシュタインの相対性理論」への跳躍に匹敵する「パラダイム」の変換、心理療法の世界における「大革命」としか思えなかったのです。そのことに気づくのに、ページをめくりだして5分もかからなかったんですね。
しかし、その時の私は、臨床心理の他大学の大学院を受験して落第したばかりの、一大学院浪人生(法政や早稲田や都立大学の正規の聴講生はしていました)に過ぎなかったのです。
そして、何とすでに「先ごろ」受験したばかりの立教におられる村瀬孝雄先生が、前述の訳書にも共訳者として名を連ねる、日本のフォーカシングの第一人者と知らないまま、「一回目」の大学院受験を立教ですでにしていたことに気づいて呆然としたのです!!
****
それからの3年間は、先日書いたような、実験心理や行動主義心理学などを含む、心理学全般についての私の学力が独学で上昇して、村瀬先生「以外の」立教研究室の先生方が、
「阿世賀の合格、やむなし」
と「根負け」するまでの我慢比べ(爆)になったわけです。
*****
そこまでが凄かったですよ。2年目の村瀬先生を含む教授会面々を前にした面接で、私は、
「どうして私を合格させないんだ!!」
と叫んだくらいです。
*****
これ、「思い込み」がそれだけ強かったとか、「自信過剰のナルシスト」だからではないのです。
私なりにその段階で日本人の研究者が書いたフォーカシングの論文に目を通してみたら、
「そもそもジェンドリンの著作を『きちんと』読んでいたらこのような『誤解』をするわけがない」
という水準のものばかりであることに気がつき始めていたからでした。
それは私にとっては悪い「冗談」としか思えない状況でした。
たかが一大学院浪人の私が、当時の日本のフォーカシング研究者「全体」よりもジェンドリンを正確に理解している「らしい」
こんなことが許されていいのか!!!
(これは、ある種の「恨み」と「悲しみ」「呪詛」すら秘めた感情です。だって、ことフォーカシングに関しては、ほんとうに「甘える」ことができる「先達」が誰もいないということですから)
私は、その時点で、自分が思いもよらない「十字架」を背負わされたことに気づき始めていたのです。
まさに、
"duty"ですね(^^)
****
この段階で、私は目標を「ステップアップ」し始めていました。
「ここまでは、日本中の研究者に『馬鹿馬鹿馬鹿!!」
と叫びたくなるくらいに「予想外にあっさり」クリアーできた。
もう、日本のフォーカシングの『研究者』として大成するだけでは『つまらない』。
ただのフォーカシングの「トレーナー」にとどまるのも「嫌だ」。
『現場臨床のカウンセラー』としても、第一線で活躍できることを目指そう!!
そこまでたどり着けなかったら、フォーカシングそのものが「無意味」である。
しかし、フォーカシングの可能性は必ず「現場カウンセラー」として役立つものを秘めている。
たとえジェンドリン自身がそこまでたどり着けなくても、私は「そこ」まで目指す!!
精神分析が、フロイト以降、メラニー・クラインやバリントやウィニコット、ビオンなどによって更に発展して行ったように。
フォーカシングを「輸入学問」にさせてたまるか!!
もちろん、日本や世界のフォーカシング研究者や実践家のさまざまな挑戦の中で、「私にとって」ほんとうに刺激的で、可能性を秘めたアプローチはどしどし「参考にする」し、そういう人たちとはお互い刺激し、切磋琢磨しあう「ライバル」関係にすすんでなろう。
でも、何より最後には、「自分の」試行錯誤、そう、私自身が「フォーカシング」を重ねる中で、フォーカシングそのものが刻々と「更新」されていくはずだ!!
「南海の」野村捕手ではないけど、
「生涯1フォーカサー」
であり続けよう.....と。
****
夢を見続けるには、
安易に妥協せず、
(少なくとも心の中では「不満な自分」を認めてあげて(aknowledging))
「絶望」し続けられる「能力」が必要なのです。
(この部分、絶望「しない」能力、と書いていないことがミソです)
時には、妥協した「フリ」だけして、ゲリラ戦的に「チャンスをうかがう」方が効果が゙ありますが(^^;)、
「ミイラ取りがミイラにならない」ようにするのもたいへんです。
そのためのコツは、「自分の盲目的な信奉者になる」弟子を決して作ろうとしないことだと思います。
(私は「さる筋」からの情報で、ジェンドリン自身がそういう考えであることを知っています。単に自分の「寵愛を受ける愛弟子」になろうという人を遠ざけ、他の人には「あの人にはオリジナリティがないから」と本音を漏らす人だということを。私はそれでけで、「自分の限界を踏み台にして、自分の死屍(しかばね)を『食って』、踏み越えてでも、更に先に進め」と本音のところでは思っている人というだけで、ジェンドリンを尊敬します)
私は、見込みがある人ほど、ある意味で「突き放し」ます。
その人自身が、「その人自身」の十字架を背負うことを願って。
****
BGMは、![]()
浜崎あゆみの”Pride"でした。
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裏を返せば、年末になるまでは、私がそれなりに、本業のカウンセリングの仕事も「していた」ということの証左でもあるかと思います(^^)。
私って、食って寝て、ブログの記事さえ書いていればよい状況に置かれたら、これくらい文章書いたり、ブログの再構築作業が出来る人だったりする(^^;)
カテゴリーの再構築って、ブログのおもて側の表示に全く立ち寄らすに、コントロ−ルパネル側からだけでできる作業なので、今日なんて、普通の日よりも、「自分自身によるアクセス回数」ほとんどないはずなのに、午後8時台ですでにアクセス数200楽々突破しました!!
ありがとうございます。
*****
アクセス解析をすると(以前も書いたけど、このアクセス解析って、「どなたが」アクセスして来たかまで特定できないので、ご安心を)、
この中の数分の1は、明らかに、@niftyココログトップページから、新たにおいでいただいた方々です。
私のブログの記事に、少しでも興味を持って、来て頂いただけでも感謝いたしします。
****
私のブログの大まかな内容とポリシーについては、半年近く以前、やっとpingサーバへのトラックバック機能を活用し始めた時に書いた、当時の皆様への改めてのご挨拶の文章がすでにありますので、それを持って代えさせて頂きますので、よろしく。
****
まだ、カテゴリーの再構築は、数パーセントの進捗度でして、全体への反映にはほど遠い段階です。少しずつ無理のないペースで進めていきますので、ブログ内でのカテゴリー検索のあまりにも不完全な現状を、どうかお許しください。
どれだけ膨大なカテゴライズ増設に吹き切ったかは、
↓こちらをご覧になればわかりますよね(^^)
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この@niftyのココログの、3フレーム縦割り設定にした時の、左サイドへの「バックナンバー」の表示のされ方の性質上、かなり古い記事(1年前に過ぎませんが)の検索が「一見」しにくくみえます。
実は左の「バックナンバー」という文字の部分さえクリックすれば、果てしなく過去に遡って「月別/カテゴリー別のリンク集」に出ます。
(...ということに、私も今気づいたばかりだったりして(^^;)。1年やって今日はじめて「スキナー箱のネスミ」の「試行錯誤」を経てに気がついた。はっとその可能性を「洞察」しただけ、ネズミよりは利口かもしれない)
*****
まあ、それでも、私のブログ「カウンセラーこういちろうの雑記帳」を、敢えて「最初の記事」から順に読んで、私の成長の跡をたどりたい、という「奇特な」読者の皆様のために、感謝を込めてサービスします。
この記事(2004/12/19)が創刊号です。
当時はブログで何をできるのかほとんど無知なまま、まだカテゴリー分けもしていませんが、興味のある方はどうぞご活用下さい。
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@niftyのココログって、一度凝り出したらカスタマイズがし放題に近く、しかも文の長さにも制約がないので、ある程度HTMLタグを自分で打ち込めるくらいのホームページ制作能力があれば、凝り出したら切りがないのが特徴です。
同時に複数のカテゴリーをいくつ指定してもいいし、オリジナルカテゴリーも無尽蔵に作っていいみたいなんですよね(^^)
私のブログって、私の文章の「ワープ」的越境能力をとことん駆使してやろうという方針ですから、一つの記事について10幾つものカテゴリーを設定するという「荒技」を駆使してきました。
しかし、現在の@niftyココログのシステムからすれば。例えば「心理学」「心理療法」「精神療法」「カウンセリング」「開業カウンセリング」「サイコセラピー」「セラピー」などというふうに微妙な表現の間の違いでも、例えばこれらの言葉と「ヘッドフォン」との間にある差異と同じくらいに、「意味論的差分」の上で等価的/並列的に別のカテゴリーになってしまうことにもなります。
私はこれを、インターネットが「フラットランド」と呼ばれるものであることの「諸刃の剣」の側面についてのひとつの理解であると思っています。
ちょっと難しい言葉でいうと、「階層的分類」というものには、実は凄く個人的な側面があり、どうしても、誰もが納得する分類分け(パソコン風に言えば、「ツリー構造」)などあり得ないということになります。
その意味では、実はカテゴリーのパーソナライズを、完全に増えるに任せて野放しにしている@niftyのココログの方針は、「現実主義的に見て」、無難でしょう。さもないとクレームの山に忙殺されてしますでしょうから。
****
もっとも、記事をアップする前に、内容から自動的にカテゴリー「候補」を選び出し、作者に表示するまでなら、単語のデータベースとかと連動させれば、今のサーバー管理コンピュータでも容易にできるでしょう。
もっとも、アップロードまでのトラフィックがいよいよ渋滞する危険は高いですが(^^;)
しかし、今のコンピュータは、まだ、文章の本格的な「意味論的解析」という点では、まだ開発の歴史の初期段階なのは確かでしょう。最優秀といわれる自動翻訳ソフトの現状をみればどなたもお分かりですよね(^^)
「心理療法用語をまるでひとつも使わずに」カウンセリング関連の奥深いエッセイを仕上げるなんて、少しキャリアをつめば、ある程度できるようになりますから。
******
いずれにしても、私のブログ、カテゴリーの設定の個別化・具体化・パーソナライズという点では、これまでほとんど手を付けていない分、新たな読者の皆様を増やし、読みたいタイプの記事を過去に遡って検索して頂くには実に不便な状態だったと思います。
なんらかの意味でカウンセリング・マインドに関わる記事については、敢えて「手作業で」、「ウェブ上のカウンセリング論集 index」を制作してあり、右側(この点改訂)のテーブルの、ずずずず〜っと下の方に常設の入り口があります(以外と気づかれてなかったりして)。
でも、これじゃ、純粋の音楽系、例えば「J-POP」や「歌手別」の検索や、「オーディオ系」の記事は、はみ出してしまうわけですよね。
*****
そこで、本日、オリジナルカテゴリーの大量設定に踏み切りました。
先ほど述べたような理由で、極論すると、「心理療法」「精神療法」「サイコセラピー」「セラピー」という用語の間の違いですら、これらの言葉と「ヘッドフォン」「HDCD」という言葉の間にある差異と意味論的「差分」の上で「等価」というのでやむなしというのが@niftyココログの「方針」(個人の「パーソナルな世界観」を尊重する開かれたネットワークを目指す限りこの方針はぜひ守り続けて来ださい!!)のようである限り。
私は敢えてこれらの「同義」の言葉を並列的に別のカテゴリーとして登録することに決断しました。
カテゴリーのリストがかなり長大化することは、どうか皆様お許しください。
なお、この記事で「だけ」、今後私が普段使用するカテゴリー「ほとんどすべて」にリンクを張っています。@niftyココログの「標準カテゴリー」の中で、ここにに含まれていないのは「ギャンブル」「スポーツ」「ファッション・アクセサリ」「グルメ・クッキング」など、ほんの幾つかということになりますが、こらら幾つかのカテゴリーですら、過去すでに適切と判断して使ったことがあります。
「ギャンブル」で意識的に私がどの記事でリンクを張ったか、すぐに思い当たる方は、相当ディープなこのブログの読者の方ですね(^^)
しかし、こういう「告知記事」でそこまで含めるのはそのカテゴリーの読者に迷惑なだけと考えて、敢えて今回は外しているだけです。
普段はもっとすっと短いので、どうかご安心を、
******
もっとも、私のブログの場合、個々の記事について、カテゴリーの再分類をするのは、なにしろこれが1年ちょっとなのに、すでに272件、しかも長い文が多い私のブログの性格上、とても一気にはできません。
最近の、しかも皆さんの関心を引く度合いが高そうな記事からカテゴライズの再構築をボチボチしていきますので、どうかじっくりお待ちください。
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この前の書き込みでは、「宗教的著述家」と紹介したので、まるで隠者みたいな人をイメージされかねないですけど、正反対です。
19世紀の後半3分の2ぐらいを生きて、第一次世界大戦直前に亡くなった、スイスのベルン大学の国際法の教授にして国会議員、ついにはハーグに設立された国際仲裁裁判所の初代判事(というと、私の「浩一郎」という名前の由来である「なるちゃん」の奥さんの「おわちゃん」のお父さんの大先輩?!)、スイスを代表する法律の大家でした。
アプサントというお酒がある。このお酒、当時大流行して、印象派の絵の題材とかにもなっているけれども、中毒になると精神症状が生じて犯罪にも走るものが大量に出て社会問題になった。
このアプサントを生み出した国がスイス。そのスイスで1907年「アプサント禁酒法」が成立してから、国際的な規制が始まったそうだけど、この法律の制定に尽力した立役者が、当時国会議員をしていたヒルティらしい。
ヒルティは永世中立国スイスの国際法の大家として、どうすれば国際平和が保てるかにも尽力していた。要するにバートランド・ラッセルとかの先駆者でもある。だからこそハーグの裁判所の初代判事にもなることになる。
******
つまり、すごい「実務家」でむちゃくちゃに勤勉な人。一日10時間完全に規則的に働いた。75歳の祝賀会を大学が開こうとしたら「もっとも都合のよいのは朝の7時」と応えた逸話は当時有名だったらしい。
でも、古今東西の書物に通じた恐るべき読書家でもあった。もちろん最終的には聖書を何より大事にするんだけど、コーランでも中世の神秘思想家でもギリシァ・ローマの古典でも、当時「現代人」だったニーチェやドストエフスキーからマルクスの「資本論」まで何でもかんでも読んでいた、スイスの法曹界の「中井久夫」のような人である。
(私が中井先生の本をあっさり愛読した背景には、ヒルティという下地があったのだと思う)。
フロイトに間に合わなかったのが残念ではあるが、結構心理学的なエッセイも書いている。
そして、
「これから一度は労働者が支配階級となる時代が来ると期待して誤りない。しかし、彼らが他人の労働で利札を切る怠け者になってしまえば、結局滅びるより他ないであろう」
「たとえば福音書、コーラン(!!!)、『アンクル・トムの小屋』などは、『資本論』が読まれなくなっても読まれるであろう」
などという、完璧に時代を先取りした言葉も残している。
(いずれも「幸福論」第一巻より)。
******
では、ヒルティとジェンドリンをつなぐ接点は?
それは、ヒルティが、ヒンターコフが「スピリチュアリティとフォーカシング」(左のブックレビューも参照)でいうところの、
既成宗教の儀礼に従う"religiousness"よりも、
自分個人の体験としての"spirituality"
を徹底的に大事にする宗教観の持ち主だったからだろう、と今では思う。
この点では、同じスイスの、ほんの少しあとの世代、ユングにも似ているが、ヒルティは、まあ、ユングよりは、正統派信仰の枠を大事にします(私のユングへのシンパシーの背景も、やはりヒルティとの共通風土なのだろう)
例えば、次のような言葉:
「ひとは祈りに対する神の答えが聞こえなければならない。そのためには普通の『祈る人』たちよりもかなり鋭い耳を持ち、我欲の少ないことが重要である。答えを期待しもせず、また得られもしない祈りは、単なる無益な形式であって、やめても一向にさしつかえない」
「真の祈りは『ききいれられること』それ自身をのうちに含んでいるが、人間の心があらためて神にすっかり自己を委ねようとする意志行為である(中略)。そういう祈りは、地上の最も偉大な二つの力を、はじめから味方につけており、だからこそ実現の保障をそれ自身のうちに持つのである」
「神の実在のまことの証拠は(中略)、神の力がしばしばただ一瞬の間に、しかも永久にわたって、人間を解放しうることである。この場合、その人はそのことをひとつの出来事として、また、これまでしばしば試みながら無駄であった自己改善の決意とは全く異なるものとして、感ずる。このことに決して思い違いはおこらない」
これ、フォーカシングで言う「フェルトシフト」(身体感覚の変化を伴う真の「洞察」体験)と、あまりにも似ています。
(
「幸福論」第3巻 最終章「より高きをめざして」 岩波文庫 草間平作訳より)
どうみても、ヒルティは実質的にフォーカシングを「していた」!!
ひょっとしたら、ジェンドリンのほうこそ、ヒルティで私が潜在的に学んでいたものに、具体的な方法という道を指し示してくれた「だけ」なのかもしれない。
*****
おまけで、おもいつくままに、ヒルティの箴言。
前も書いたように、昔、日本でもドイツ語のテキストとしてよく使われたという、「幸福論」第一巻の最初の章、「仕事の上手な仕方」より:
「働きの喜びは、自分でよく考え、実際に経験することからしか生まれない」
「わがスイスの美しい谷々は病院ばかりになったが、この病院もやがては、この安らぎを知らぬ多数の人々のために一年中開業することになるであろう。彼らはここかしこに休息を求めて動き回るが、どこにもそれを見出さない……なぜなら、仕事の中に休息を求めないからだ」
「よく働くには、元気と感興がなくなったら、それ以上強いて働き続けないことが大切である」
「あすはひとりでにやってくる。そして、それと共に明日の力もまた来るのである」
そして、極めつけ!!
「本当の勤勉は、ただ休む暇もなく働き続けることではなくて、頭の中の原型を目に見える形に完全に表現しようという熱望をもって仕事に没頭することである」
「言葉にならない『何か』、その曖昧なモヤモヤを、少しずつ「自分の」言葉にしていく、という、
「フォーカシングの真髄」そのものである!!
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昨日は怒涛の書き込み更新で、ほとんど強引に、一日230アクセスを達成させていただきました。まもなく週間アクセス1000件は確実に達成されます。ありがとうございます。
いずれにしても、昨日はちょっと専門的なネタも多くて、一般の方にはついて行きにくかったかもしれません。
そこで一休み。
「私のフォーカシング」シリーズ最新作、「『黄桜~』と神を超えた存在と金鉱掘り」のwebsiteで、なぜ
清酒「黄桜」と
吹奏楽のCDを、
「吹奏楽経験者じゃないとここでこの2つを並べている意図はわかんないかも」
というコメントつきで、アフィリエイトリンクしているかのネタばらしをしますね。
もっとも「黄桜」の河童のアニメのCMは、最近は放映されていないみたいなので、十代の人だともうわかんないかも。
でも、私や、私の少し下の世代の人は、吹奏楽の名曲として名高い、イギリスの作曲家、ヴォーン・ウィリアムズの「イギリス民謡組曲」の第1曲をの冒頭を聴いたら、一瞬プッ(^^)と「ふき出した」経験をたいてい持っているはず。
だって、
「♪ 河童っぱ、ルンぱっぱ~」
っという黄桜のCMソングと全く同じ始まり方を、(確か調性も同じでは?)ほんの数秒ですが、するからです。
吹奏楽やっててこの「イギリス民謡組曲」を演奏することにあこがれなかった人はいない、実際演奏した人も山のように居るはすというくらいの曲。CMの曲を作った人が無意識のうちに影響受けてる可能性高いです。
黄桜の歴代CM集は公式にwebsiteで映像公開されてますので、懐かしい世代の方はどうかご覧になってみれば?
********
いずれにしても、「イギリス民謡組曲」はクラシックを普段聴かない人でも、一度聴いたら、その郷愁を誘うメロディのとりこになる、実に親しみやすい曲です。
吹奏楽というと、「星条旗よ永遠なれ」をはじめとする勇壮な曲のイメージが強いでしょうが、それはアメリカの吹奏楽の場合でして、イギリスやフランスの吹奏楽は、吹奏楽団の音自体が、恐ろしく繊細で透明で、人の心に優しく響くんです。
まして、イギリスの民謡調のメロディは、実は日本と同じ、いわゆる「四七抜き」の五音音階なので、日本の民謡を聴いているかのような理屈抜きの郷愁を誘います。
「グリーンスリーヴス」もそうだし。
それは、かつてTVの「○曜映画劇場」のエンディングで流された、同じイギリスの作曲家、
ホルストの組曲「惑星」の第4曲「木星」中間部のメロディを、ある世代以上の人は、曲名すら知らないまま耳に刻み込んでいるのと同じなんですよね。
ホルストの惑星の「木星」のメロディにいたっては、突如1昨年再ブレイクしました。
そう、
平原綾香の"Jupiter"ですね。
このネタの更に続きがこちらにあるので、どうぞ!!
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さて、やっとこれで、本日の「大更新」の締めくくりというべき、「私のフォーカシング」シリーズ最新作、「『黄桜~』と神を超えた存在と金鉱掘り」の補足解説というか、後日談になります。
このフォーカシング、「神様」に「誰に見守ってほしいですか」という、私のフォーカシングの新教示をぶつける、という、とてつもない暴挙に及んでいるわけです。
すると、神様は、何と、
「私の創造したこの宇宙の外側にも、『誰か』がおられる気がしての」
とおこたえになります。
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ところが。つい先日、故・秋山さと子先生がお書きの
「ユングとオカルト」という本をたまたまめくっていたんですよね。この本は、ユングの思想の背景にあるグノーシス主義についての解説書です。
そしたら、概略すると、次のようなことが書いてありました:(p.40以下)
「グノーシスという言葉は、ギリシャ語の知識を意味する。しかし、この知識はこのコスモス(こういちろう注:ひとつの、統合され、調和を持った、全体性を持つ宇宙。対義語は「カオス(混沌)」)における人間についての知識ではなく、我々の存在を超えたコスモス外の神々の行為に対する知識である」
(中略)
「人間の生活の場は、幾層もの天に囲まれた土牢のようなものであり、それぞれの天球を支配していて、人間との間を隔てている星の神々が邪魔をする。(中略)365の天球によって、この地球は囲まれているとする者もあった。(中略)この監視人たちは、しばしば旧約聖書による神の名前で呼ばれていたが、ここでも、ユダヤ教の唯一の至高神である神の概念は覆されていて、その神は真の神ではなく、神性は持つが下級の霊的存在とと考えられている」
(以上、太字はこういちろうによる)
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私のフォーカシングの中で出会った神様みたいな神様像は、ギリシャ時代からあった、普遍的なものなんですね。
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幸い京都は雨が一日小ぶり程度でした。風もなし。
心理臨床学会初日は、夕方からの自主企画の一つ、シンポジウム形式の「心理臨床における『間身体性』」という分科会に参加しました。
企画者はミンデルのプロセス志向心理療法の日本における大家、藤見幸雄氏、ユング派のポスナックのDreaming Bodyの技法に造詣の深い岸本寛史氏、司会者は、来談者中心療法の祖、ロジャースの再評価やトランスパーソナル心理学、そして学校教師カウンセリングの世界で精力的な活躍を続ける諸富祥彦氏、話題提供者としては、これらの方々に加えて、フォーカシングの世界でも代表者の一人、学生相談の世界でも実力者である吉良安之氏も加わり、更に、身体性や「気」の問題をはじめとする独創的な研究領域をもつ濱野清志氏、という、「その筋」の人からすればオールスターキャストに近い面々。120名の参加者。
心理療法的相互作用において、流派を超えた共通の問題意識としてしだいに浮かび上がりつつある、治療者とクライエントとの「体験共有」という現象を、単なる「間主観性」という枠組みを越え、「身体性」次元での共有というスケールでとらえようという意欲的な企画。
実はこれはまさに私が今度の人間性心理学会で私なりの見地からとらえて発表しようと思っていたテーマそのものであり、それらについて共通認識を持てる「仲間」についにめぐり合えたという思いで、フロアから、「湘南フォーカシング・カウンセリングルームの阿世賀です」と真っ先にコメントし(しっかり大舞台での宣伝活動している)、
「単なる治療者の逆転移」とかcontainerいう観点からとらえると『二者関係』の泥沼にはまる危険がある」
とか、ついには天を指差し(!)
「『守護霊フェルトセンス』との三者関係として捕らえ、治療者とクライエント、両者を俯瞰する『内なるスーパーバイザー』を双方が共有した場合にこの相互作用は安全に進む」
と、「黄金のトライアングル」という言葉こそ出し惜しんだものの、もろ、人間性心理学会の発表のさわりそのものを数分間披露することになりました。
その後これらの先生方やその教え子の皆さん、関係者と京都の町に飲み会に繰り出し、いろいろ本音の話をできたのを嬉しく思っています。
特に開業の先輩でもある藤見先生からいただけたアドバイスや、外側から見た日本のフォーカシングの世界への印象についてのお話を伺えたことに感謝します。
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う”ー、2次会まで付き合って風呂入ったらこんな時間だ。
明日の午前にも、私が参加してみたい催しがひとつあるんだけど、果たして起きられるか?
ちなみに、名刺は30人ぐらいにはお渡しできました(^^;)。
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http://www.asahi-net.or.jp/~tn7k-asg/focusing/myfocusing_c3.html
またもや、「私のフォーカシング」シリーズ新作公開です。
タイトルだけでは全く内容想像つきませんが、
これまた、私の今度の人間性心理学会大会発表、
と、抜き差しならない関係にある内容です!!
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えーっと、永らくの読者の方には何をいまさらということになるんですけど、実は「プラス」コースにアップグレードした時点でいろいろ高度な設定ができ,RSSリーダやらpingサーバーの設定、更新通知などの機能をぜんぜん生かしていなかった、ということに気がつき、これを機会にご新規様もおいでになるかと思いますので、改めてこのブログについて紹介させていただきます。
私、阿世賀浩一郎(あせが・こういちろう)は、神奈川県の大船で「湘南フォーカシング・カウンセリングルーム」という名前で独立開業している臨床心理士(心理カウンセラー)です。
しかし、根っから性格がクロスオーバーしてまして、心理やカウンセリングの話がいつの間にかayuこと浜崎あゆみ、中島みゆき、ユーミン、ELTなどのJ-POP、それどころかクラシック音楽の話題にすり替わったり、iPODの音質向上対策の話になったり、社会保険の任意継続制度の話になったり(未だに毎日1件はこの用語で検索してこのページに確実にお見えになる方、いるもんなあ)、アニメの話になったり、鉄ちゃん系の話題になったり、英語ができないままの無謀な海外旅行の話になったりします。
本部の個人WebSite、「阿世賀浩一郎のホームページ」に行けば、野猫ウォッチャーに凝った時期もあることがお分かりになります。
そういう自分の節操のなさを、実はいろんな検索用語にひっかかり、予想外の分野からの「お客様」の増加にもむすびつけようというせこい魂胆もないとはいいません!!
しかし、お読みいただければわかりますが、実際には、カウンセリングや心理療法の本質について、私がup to dete に感じていること、換言すれば、フランスの現代音楽作曲家・指揮者のピエール・ブーレーズの言葉を借りれば"Work in Progress"、つまり、まだ目に見えぬ、曖昧な「何か(something)」としてしか感じられないもののcompleteに向けて、ひたすらギリギリ限界の思索の試行錯誤を、遊びながら、かつ心身をすり減らしながら構築していく、"Thinking at the Edge(TAE)"の「実験現場」を公開しているのであり、しかもそれが生半可な「有名」心理学者や精神分析医の大半よりもスリリングで新鮮で生き生きとした文章で綴られていると自負してもいます。
というわけで、興味をもたれた方は、半年分たまっているバックナンバーを読んでみてください。
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恒例、今回の「強引アフィリエイト」ネタ。
ピエール・ブーレーズの指揮で私が一番好きな、
ストラヴィンスキーの「春の祭典」「べトルーシュカ」がひとつ。ほんとは私、旧盤の方が好きです。
もうひとつは、私が専門としていてトレーナー養成・認定国際資格を持っている「フォーカシング」という技法こそ、マジに、まだ自分の中ではっきりしない、言葉にならない心身のモヤモヤ、まさに"something"との対話を深め、その人独自の完成に導く技法である、ということと関連付けて、もろ、
The Beatles の"something"です。
これはこじつけでも何でもなく、今年5月に出席したトロントでのフォーカシング国際会議で、会議最後の「フォリー」と呼ばれる、いわば「打ち上げお楽しみ会」で、フォーカシングの名教師として著名なAnn Weiser女史が、ホントに歌ったのです!!
もっとも、途中から、だんだん曲がおかしくなり、恐らくAnnさんのお好きなオペラのコロラトゥーラのアドリブに化けていってしまったのですが(^^)。
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小さいことですが、フォトアルバムのWestin淡路島の解説で、ハワイの一定水準以上のホテルにあって当然の独特のベランダのことを、間違って「ラゴナ」などという変な言い方で書いてしまったあたりで「お里が知れて」しまいました。
正確には「ラナイ」ですね。失礼しました(^^;)。
何しろ日本語通じて当然のハワイしか行ったことがない人間がいきなりトロント郊外の、Barrieという、おそらくほとんどの人が聞いたことない小さな町のさらに外れのKempenfelt国際会議場まで一人旅したのです。
国内は鉄道で(!!)稚内や根室すら走破、樺太千島をこの目で見るばかりか、かつての「白鳥」(青森-大阪 日本海側経由)や「まつかぜ」(京都-博多 山陰線経由)すら走破、久留米に帰るときに「はやぶさ」は当然常連、「さくら」「みずほ」「あさかぜ」「富士」全部乗ってる、特急列車、特に寝台列車マニアなんですが(残る憧れの「カシオペア」もあと2ヶ月しないうちに乗る予定!!)。
寝台列車で部屋を暗くして、かすかにともる家の明かりや、
> 見渡す山の端(は) 翳(かげ)り深し
(おばろ月夜)
を楽しむ時に人生最大の至福を感じる人間なのであります(^^;)
だから、東京の人で「飛行機初めて乗ったのが海外だった」という人が多いのを聞くとびっくりします。もとより、最近は海外旅行のほうが下手な国内旅行より割安感がすごいのはわかりますが。
Discover JAPAN!
なんてーと、世代は知れますよね。
ユーミンが
「天気雨」で、
> 相模線に揺られながら、茅ヶ崎まで
彼に会いに行ったのは、
相模線が、あの、首都圏近郊としては異例だった、電化される前の、ローカル線風情たっぷりの、駅での反対方向列車の待ち合わせがむやみと多い、やたらとのんびり走る単線ディーゼルカーだった当時だからこそ意味があるんだい!!
(今でも止まる駅の度ごとに反対方向待ち合わせをして、走ってる時間より止まってる時間が長いのでは? といいたくなる路線ですが、やたらとスマートなデザインの通勤電車になってしまったことは確かです)
「クールな彼」
に会えるまで延々、その今より遥かにノロい相模線ディーゼルカーに耐え続け、表情は明るく微笑みながらも心の中では彼との心の隔たりに時々時泣いている(=天気雨)心境に、そういう状況を設定してこそ意味があるのだ!! と叫ぶ世代なのでした。
ちなみにユーミンは確か八王子に住んでたので、実話かもしれない???
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「湘南フォーカシング・カウンセリングルーム」を、全国のカウンセリングルーム検索サイト「こころ相談.com」に掲載させていただきました。
「湘南フォーカシング・カウンセリングルームの記事はここにあります。
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ジャネット・クライン著
Interactive Focusing Therapy
「インタラクティヴ・フォーカシング・セラピー
カウンセラーの力量アップのために」
諸富祥彦監訳、前田満寿美訳 (誠信書房)
が、やっと出版されたとのことです。
このホームページではこれまで言及しませんでしたが、従来のフォーカシングの応用形として開発された、Interactive Focusingには、大変興味深い点があります。
普通のフォーカシングだと、自分の中の曖昧な感じ(フェルトセンス)にぴったりの言葉やイメージを見つけるのはフォーカサー(自分の内面に触れ、フォーカシングをするその人)自身なんですが、
Interactive focusingでは、フォーカサーの話を聴くリスナーの側が、いわば「感情移入的に」、フォーカサーの身になって、相手がどんな「実感」でいるのかどうかに「チューニング」を試み、そうやって見つかった言葉やイメージを、手短にフォーカサーに投げ返すわけですね。
もちろん、それはフォカサー自身が感じていた「実感」と完全には一致しないことも多いのですが、むしろその「ズレ」を互いに共有し、補正・拡充しあうことで、お互いの、まさに「間主観的に」共有できる理解と共感の世界が広がることになります。
時には、フォーカサーの方が、リスナーからの意外な応答に「そうか、そんな捉え方もあったか」と、むしろ触発されて自己理解が進むこともある。
共感とか理解とは、相手のことを勝手に「わかったつもり」になって、その「思い込み」を相手に押し付けることであってはならないわけです。
ところが、臨床心理学における相手への「理解」や「共感」は、まさに、カウンセラー側の勝手な「思い込み」を権威でもって押し付けられることにクライエントさんが「甘んじている」だけのことが、現実にはいかに多いことか!!
この点で、カウンセラーにとって、相手への「理解」とか「共感」とは何かを根源から問い直し、そのセンスを磨く訓練として、このInteractive Focusingは実に強力なトレーニングとなります。
また、人間関係の悪化した、親子、夫婦、カップルなどの調停にも使える可能性があるということにもなります。非常に創造的な「家族療法」的アプローチにもなるわけですね。
私は、左の”My Favorite Books"に出てくる、「現代のエスプリ 410 治療者にとってのフォーカシング」のひとつの章の中で、日本におけるこのアプローチの導入者、宮川照子氏の協力の下に、日本で始めて公刊されたマニュアルを出版させていただいたのですが、今回は開発者自身の原著の翻訳です、そして、宮川さんがその後深められたご自身なりの工夫も紹介されているとのこと。
私も、期待をもって、これから読ませていただきます。
もちろん、私も開業したら、このInteractive Focusingのトレーニングもメニューに加えます!!
だだ、私の場合、通常のフォーカシングやカウンセリングの自然な延長として、臨機応変に使うことが多いために、敢えて特別な言及までしていないだけのことです。
きのうは正午から午後4時まで、白金の方での、今度こそ本当の「復帰後初出勤」でした。
思いのほかあっさりと、肩に何の力も入らずに、勤務1日目を終わりました。
まあ、それでも、家に帰ったらいつの間にかソファで爆睡してましたけど(^^;)
そしてあした「4時間」勤務したら、4日続けて休めるという、何とも優雅な(^^;)仕事始めです(もっとも、都心への通勤には片道2時間弱かかりますが)。
この態勢で2週間勤務した結果で、産業医との再面接を経て、問題なしとなれば「徐々に」勤務日を増やすという、なんともゆたっとした復帰スケジュールです。
***
さて、ナカニシヤ出版から名古屋大学の伊藤義美先生編で最近出版された「フォーカシングの展開」という本の中で、伊藤先生がお書きになった短い「あとがき」のことが気になっています。
私はそのあとがきを、ある共感を持って読ませていただきました。
私、実は、この本の分担執筆を依頼されつつ、きりぎりまで草稿と格闘しつつ、体調悪化の中でドタキャンという最悪のことをやらかし、伊藤先生と編集者の方に大変失礼で、ご迷惑をおかけしたにもかかわらず、きちんとナカニシヤ出版様からはから献本していただいて、大変恐縮しています。この場を借りて御礼申し上げます。
その「あと書き」、伊藤先生がご覧になったという夢の話が出てくるのですが、先生がアメリカに長期間滞在して身近にジーンの姿に接していた中で、伊藤先生が「肌で」感じた「何か」が「実に素直に」出ているのではないかと感じました。
敢えて大胆なことを言わせていただければ、ジェンドリン、今のフォーカシングの現状を、自身がかつて夢見ていたのとは何か別のものに向かってしまった現実に、やはりある諦念すら感じて、臨床の「表舞台」を離れ、「哲学」とTAEの世界に「戻って」しまったんじゃないか?
「フォーカシング指向心理療法」は、決して臨床現場での適用についてのジェンドリンの「集大成」ではないという思いを私は早くから抱いていました。むしろ、そのほんの入り口への「示唆」に過ぎないままに終わった書物だと思うし、ジェンドリン自身にも、その時点での自分の限界(edge)まで描ききったという思いはないままと思っています。
ジェンドリンが夢見ていたのは、むしろ、従来のような意味での心理療法家との長期にわたる面接関係の代わりに、一般市民がお互いにフォーカシングしあうネットワークが社会の中で「かなりの程度」機能するようになるという、かなり「革命的な」社会変革だったのではないかと思います。
それが、いつの間にか、他の流派に対するアイデンティティを確保するため、トレーナー認定制度、更に「フォーカシング指向心理療法のセラピスト」すら認定するという方向に向かった時、ジェンドリン個人は「何かが違う!」と感じ始めたのではないか?
****
私は、日本にフォーカシングが以前より浸透したとは、実は「全然」感じていません。
いくら学会誌で「箱庭療法」の次に用語検索するとヒットするようになったといっても、それはフォーカシングに関心がある研究者が論文をまめにお書きになる人が多かったからであり、以前よりは「知識」としては浸透したものの、セッションの実体験を持つ人の層の厚さは、確かに「以前よりは」広がりましたが、実は「意外と」少ないまま。
そして、フォーカシングで名の通った研究者がいないところでは、「フォーカシングなんて臨床現場では役に立たないよ」と、実はご当人は大人数でのセミナーで、初体験の人同士が組まされたセッションぐらいしか体験したことないくせに陰口をいう人たちが山のようにいる。
「私、『フォーカシングなんて臨床では役に立たない』と指導教授に言われて、卒論・修論のテーマにしたいのに、困っていたんです」と本音を話し始める若い臨床家の卵に私は毎年何人で会うことか!!
ここで、フォーカシングがもっと小さなサークルだった頃を懐かしむようではいけない。
敢えて逆説的な表現を使わせていただければ、
まさにこれからこそが、フォーカシングが、
「実はさりげない日常の営みの延長であり、
何の特殊な技法でもない」
ことが「真に」社会に認知されるかいなかの瀬戸際
なのだと思います。
ある意味では、神田橋條治先生をはじめとする熟練した臨床家たちがフォーカシングを評価するのは「当然」です。
ところが、神田橋先生ご自身は、「フォーカシングを学んで」臨床家として成長したわけではない人「だからこそ」そのことがいえるという、大変な逆説がそこにはある気がする。
フォーカシングに好意的な他流派の臨床家は、フォーカシングを「学ばなくても」臨床家として一流になれた「天賦のナチュラル・フォーカサー」が多い、と私は感じています。
フォーカシングを、自分が臨床に入る「最初から基礎にすえて」現場臨床に出た世代は、私より少し上の世代に最初に現れたに過ぎない。
それより上の世代の先生方は、一見フォーカシングの中核にいるかに見える先生方すら、実はますはロジャーズ派カウンセリングの日本の草創期における歴史を築いた大家の先生方に、カウンセリングの基礎をみっちり学んだ方々が多いわけです。
フォーカシングから臨床に入った世代の「真価」が問われるのは、まさにこれからなのだと思います。
凄く生意気なことを書いたかもしれません。しかし、「まだ昔を懐かしむのは早すぎる」、ジーンが果たすのをひょっとしたら諦めたたかもしれない「更に先のステップ」を、まさにより若い世代が刻む方向に踏み出せるかどうかの、重要な分かれ目に、今、来ているのだと思います。
これは決して私だけの思いではなく、「フォーカシングのあるべき姿はもっと先に、違った形である」と信じる層が国際的にも実はたくさんいると信じるがゆえに、私は、今年トロントで開かれるフォーカシングの国際会議にも行って見ようという気になったのです。
一見唐突ですが、
> まだまだこれからなんじゃない
> 道が続く限り
> 扉なら開いていけばいい
ayuの、
"INSPIRE"
で、締めくくらせていただきます。
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