ナイチンゲール

2009/09/03

「カウンセラーこういちろうの雑記帳」の主要過去記事を一番簡単に一覧するには

 このブログって、すでに創設4年9ヶ月、過去のエントリー記事総数が、「この」記事で1,914本め、なのに一日あたりの新エントリー、平均1.10本以上を現在も維持、しかも長文が多いという、へヴィー級ブログです。

 おかげで、もはや@ニフティココログが割り振ってくれているサーバー負荷が相当なものになっているせいか、

  • 私の方からトラックバックを送ることがもはや機能しない
  • pingも自動では飛ばせない(その割には随分多くの読者の皆様が、新記事アップ直後においでいただけることを幸いだと感じています)
  • カテゴリーにすべての記事が反映しない(カテゴリーによっては300から400エントリー分表示されようとするわけで)

・・・・・という、新しくおいでいただいた読者泣かせのブログになっていると思います m(_ _;)m

****

 もちろん、バックナンバー全体を表示してくれる、『アーカイヴ』ページ(自身がココログユーザー以外の読者の皆様、お気づきでしたか??? 右フレームの「バックナンバー」という文字そのものをクリックするとたどり着けます)というものも、あるにはあるわけです。

 しかし、このページにお行きになっていただいたとしても、過去の個々のエントリー記事のタイトル一覧があるわけですらない

 このページからの「〇年〇月」を全部めくっていただくだけでも(全く休眠した数ヶ月を除いても、現在50か月分ほどあるわけですね(^^;)。その50ヶ月分、それぞれ月ごとに、毎月30から40エントリーずつはあるわけですから・・・・・

 つまり、私がこのサイトでこれまで書いてきた主要記事がどんなものか、新しい読者の皆さんにおおよその見当をつけていただくには、もうデタラメにご不便をおかけしていることと思います   il||li _| ̄|○ il||li

*****

 この問題を一気に解決し、

  • 新記事の方が上に来る形で、
  • 過去の記事に関しては私がある程度絞り込んでセレクトしたものを、
  • 数百記事ばかり、1ページをスクロールできる形で
  • ブログのような表示の重さがない形で一覧したいただける

そういうページが、実はずっと以前から存在します!!

●阿世賀浩一郎のホームページ/index

 開設1995年12月(つまりWindows95発売直後)開設、日本において、インターネットで個人サイトを作ることが本格的に普及し始めた黎明期から、何と基本的なデザインを変えないまま運営し続けているサイトです。

 かつては、ネットを代表するエヴァ・サイトのひとつ、「エヴァンゲリオン論考」で著名だった時代もありますけど、幸いにして著作化させてもいただきましたので、そのコーナーは全面削除いたしておりますが(「ちーちゃんの部屋」というアニメコーナーがかつて存在したことを覚えておられる方もあると嬉しかったりして ^^;)・・・・

そのトップページから、このブログでの新エントリー記事を書く度ごとに、固定リンクへのリンクを、たいてい速攻の連続作業でお貼りしてもいるのです。

 恐らく、皆様のRSSリーダーに反映するスピードの比ではない「即時性」で「新着情報」が掲載され続けています。

 同一エントリー記事の更新(改版)情報すら、可能な限り早くお伝えしています。

 

そこに並んでいる、当ブログ個別記事へのリンク数は、常時数百あるはずです(古いものから時々、精選のための「ダイエット」をかけますので、一定数以上には増えません)。

 しかし、敢えて今でも、基本的には「素朴なhtml言語の手打ち」に依存し、javaスクリプトすらないに等しいということで、このトップページそのもののバイト数の多さの割には、表示が圧倒的に軽い筈です(このブログのトップページを表示するよりは軽いと思いますよ)

 
当方のアクセス解析によって、「こっちのページで新着情報見つけるほうが手っ取り早い」ことにお気づきの、毎日数名以上の固定ユーザーの方がおられることは掌握しています(感謝!!)。

 しかし、そうした方の占める比率が以前よりもかなり減っているようにも思いましたので、改めてご紹介させていただきました。

 

今後とも、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」をよろしくお願い申し上げます。

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2008/09/24

昨日からにほんブログ村に参加しています。どうかよろしく!!(第2版)

 すでにお気づきの方もあるかもしれませんが、やっと昨日午後から参加しています。

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 私のプロフィールはこちらです。


 《2008/9/25 19:08更新》

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です(^^)

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2007/10/01

ナイチンゲールは「看護すること」の覚え書を出版したのだ!!

 前の記事で、「ロシア」から、「クリミア戦争」という歴史的事実を連想してしまったので、久々に「ナイチンゲール」シリーズを書きます(^^;)

 ナイチンゲールの「看護覚え書」のもともとのタイトルは、

"Notes on Nursing"

です。

 つまり、彼女は、「看護すること」についての様々な示唆を、「病人の看護をする可能性のあるすべての一般の民衆のために」書いたのです。

 産業革命真っ盛りのイギリスでは、公衆衛生についての認識は、医者を含めて驚くほどなかった

 今日では、当たり前すぎることを書いてある本なのです。

 看護士の卵の皆様、そのことを念頭において、想像力を巡らして読んで下さい(^^)

2007/07/10

「第三の男」と衛生学

 何となく、「第3の男」を久々に見たくなって、500円で買えますから買って、観た。

 すると、最近、ナイチンゲールからの関連で、細菌学や衛生学の歴史をあさっていたので、この映画の歴史的背景について思いもらず含蓄ある形で鑑賞することができた。


●以下の内容には映画のストーリーの核心が含まれています●

 この映画は、1949年に公開されているけれども、描かれているのは、第2次世界大戦直後、米英仏ソ4カ国共同統治下のウィーンである(共同統治は1955年まで継続されている)。

 まだ町中に瓦礫があふれている一方、戦災を免れた古い町並みの地下には、驚くほど立派な、地下の迷宮ともいいたくなる下水道網が張り巡らされてもいるのですね。クライマックスがこの下水道網を舞台としていることは、大観覧車ほどには、一般には紹介されていませんけど(^^;)、映画をご覧になった方はおぼろげにはご記憶があるのではないかと思います。

 上下水道の整備をはじめとする公衆衛生という点では、中央集権的なドイツやフランスの都市計画の方が、一度動き出すと「上からの強制」で、地方分権的で、上流階級の既得権の壁が厚かったイギリスより普及は早かったと、最近読んだばかりです。

 ビスマルクの、今日でも間違いなく評価される業績のひとつが、この公衆衛生と社会福祉の領域なのだと。社会主義運動鎮圧と同時進行の「飴と鞭」政策ではあったのですが。


*****


 そして、ハリー・ライム(オーソン・ウェルズ)のやっていたのは、実は闇商売で、しかも、ペニシリンを病院から横流ししてもらって水で薄めて売るというものでした。恐らくペニシリンそのものは占領軍から医療に優先的に供給されていたのだと思いますが。

 占領時代の日本と同じで、当時は闇市の経済がなければ庶民の生活は実質的には何も機能しなかった。映画の中でも、初対面の人間から事情を聞き出す際の小道具として、煙草を差し出す描写が頻繁に出てきます。すると、一本ではなくて、遠慮なく数本引き抜いていったりするわけですね。あまり吸っていそうもない庶民のオバサンでもそれをどんどんやっていたので、自分で吸うのではなくて、それを集めて闇で転売して利益を得る目的も大きかったのではないかと思います。つまり、チップ代わりの効果が大きかったのでしょう。

 しかし、ペニシリンを水で薄めて詰め替えるというのは、その際に完全に衛生的な環境でなされていたわけでもなく、薬の変質ももたらしたでしょうから、細菌を殺すはずのこの薬が、逆に病気を蔓延させることになり、抵抗力がただでさえ弱っている多くの人の命すら奪っているのですね。

 ちなみに、細菌を「殺す」、史上初の抗生物質であるペニシリンの発明は、イギリスのフレミングにより、1928年になされていますが、実用化可能な精製方法は1940年に別の人によって可能になったのです、つまり、第2次世界大戦にギリギリで間に合ったわけですね、そのせいか、フレミングと大量生産可能な製品化に貢献した二人の学者のノーベル賞医学・生理学賞受賞は戦争が終わった1945年です。

 ですから、この映画でペニシリンが取り上げられているのは、実はかなりのup to dateな話題ということになります。

 ペニシリンはけがや手術後の細菌感染から食中毒、肺炎、梅毒に至る、幅広い範囲の細菌感染症に使用されてきましたが、耐性菌の出現、ペニシリン・ショックなどの副作用への懸念から、一時期のようにむやみやたらに使われることはなくなったのではないかと思います。

 .....このことを確信をもって言えるのは、私が子供の頃(1960年代)、風邪にかかる度に、かかりつけのお医者さんは「ペニシリン打っとくね」と、毎回のように注射していたからです。長じて(高校生ぐらいからかな?)、重たい風邪を引いても、お医者さんが「注射を打ってくれない」で飲み薬だけになったことに、私は何とも不満でした。注射をしてもらえないと本格的に治療してもらった気がしなかったのですね。

 今や、予防接種の副作用について、厳しく論じられる時代になりました。


*****

 .....などと、思いもよらない形で、今の私の関心と、この映画が結びついたのでした。 


2007/07/09

「皆さん、手術の前には手を洗いましょう」の創始者、ゼンメルワイスの苦悩 -ナイチンゲール時代の「公衆衛生運動」と「細菌医学」の奇妙な格執-:本論2

 さて、ナイチンゲールがクリミアで活躍した19世紀中葉当時の外科医は不衛生不潔そのものだった......と申し上げると驚かれるかもしれない。

 当時の外科医はたいてい黒い服を着ていた。なぜなら、浴びた返り血の色が目立たないようにするためである。手術用のエプロンも着けることがあったが、それもまた黒い色をしていた。しかも、そのエプロンはずっと洗濯されておらず、血糊が無数にこびりついたままだった。

 手術前に外科医は手すら洗わなかった。手術用具、例えばメスは、ポケットに入れて持ち歩かれていた。新たな患者に手術する前に洗われることもなかった。手術中、外科医は自分の服の袖口やすそで、メスをぬぐいながら手術を続けた。たいてい木製の手術台には、血糊がこびりついたままだった。

 連続して手術がなされる場合でも、外科医は手をぬぐうことはあっても手を洗うことはないまま、そのままの手術台と、同じ手術用具で手術をした。

 当時は、傷口は化膿するのは、傷口が治癒するために必要な、当然の過程であるとみなされていた。化膿しなければ治癒しないと考えられていたのである。


*****

 
 1846年、ハンガリー出身のイグナーツ・フィリップ・ゼンメルワイスという医師が、ウィーン総合病院の第一産科の助手になった。当時、出産は基本的に自宅で行うものであり、病院で出産するのは「不義の子」など特殊な場合だった。

 当時、出産は死を賭したものだった、今でも産褥熱という病気は存在する。しかし産褥熱そのもののために死に至ることはもはやほとんどないと言っていい。しかしかつては数パーセントの死亡率すら持っていたのである。

 産褥熱に限らず、当時手術後に発熱して死に至る患者の遺体を解剖すると、共通の所見が見られた。手術した患部や傷口のみならず、肝臓も、腹膜も、リンパ腺も、腎臓も、肺も、脳膜も、みんな化膿や炎症を起こしているということである。敗血症による多臓器不全であるが、原因がわからず、出産や手術につきものの、不可避なものとしか思われていなかったのである。

 しかし、ゼンメルワイスは、勤務開始後この産褥熱による死亡率の統計に頭を抱えることになる。ウィーン総合病院の産科は、2つの病棟を持っていた。そのうちの、センメルワイスが勤める第1病棟の方は、10%の死亡率を持つのに、第2病棟は、1%しか死亡率がない。実は以前からずっとそうなのに、上司の指導教授はそのことに慢性の不感症になっていて、全く気を止めていないのである。

 ゼンメルワイスは、上司の目を振り切り、同僚のマルクソフスキー、そして法医学教授のコレトスカと共にその原因についての探求を始める。

 死体安置所にある死体の病理解剖をして、産褥熱の死の場合とそれ以外の死の場合に病理所見に違いがないかどうかも検討を重ねた。ひとつはっきりしていたのは、出産に時間がかかる女性の方が産褥熱になりやすく、死亡率が高いということだった。

 ところがこうした熱心な調査研究をはじめるにつれて、むしろ第1病棟と第2病棟の死亡率は、12.1%対0.9%と、むしろ格差が開いていったのである。

 ゼンメルワイスが、ほとんど神経衰弱になりかかっているのでないかと心配した、先述の協力者、コレトスカは彼に静養を薦め、やっとのことで説得してベニスに送り出した。

 しかし、気が休まらないゼンメルワイスは、静養を3週間で切り上げて戻ってきてしまう。

 そこで知らされたのは、最大の協力者、コレトスカが、急死したという事実だった。解剖実習の際に、未熟な研修生が、そばにいたコレトスカの腕にメスで擦過傷をつけてしまった。たいした傷でもないのでコレトスカが気にも留めなかったのだが、その晩から彼は高熱を発し、数日間苦しんだ挙げ句、死んでしまったと。

 ゼンメルワイスはコレトスカの解剖報告書を見せてもらった。

「肝臓・腹膜・リンパ腺・腎臓・肺・脳膜.....化膿と炎症」

 この瞬間、ゼンメルワイスに打ちのめされたような衝撃が走る。

 それは、自分が山のように解剖してきた、産褥熱で死亡した女性たちの解剖所見と全くよく似ていたからである。

 コレトスカと、産褥熱の女性たちの死亡の原因そのものが同じである...という直感。

 ウィーン総合病院の産科は、2つの病棟を持っていた。基本的には同じような構造を持った同規模の病棟が2つ回廊で結ばれて建っていたのであるが、ひとつだけシステム的な違いがあった。センメルワイスが勤務する第一病棟は、研究・研修目的も兼ね、病理解剖を行う死体安置所も持っていて、男性の医師・研修医の立ち会いによってしか分娩はなされなかった。これに対して、第2病棟は、女性の助産婦によってしか分娩はなされておらず、この点、相互に例外は全くなかったのである。  

 第一病棟の医師は、さっきまで病理解剖をしていた、その同じ服装と手のままで、妊婦の分娩に立ち会っていたのである!!

 ゼンメルワイスが原因究明のために産褥熱の女性の病理解剖に力を入れば入れるほど、むしろ第1病棟の産褥熱の死亡率が増えていきすらしたのは.......

 少なくとも、産褥熱の女性の遺体の身体の内部が出していた何らかの毒を出す物質に接触した手で、出産する女性の身体に触れるということをしていたためではないか?


****


 翌日、彼は指導教授には無断で、張り紙を出す。


「今日以降、死体安置所から出た者はすべて、医師、学生問わず、産科の病室に入る前に、入り口に置かれている塩素水で十分に手を洗うこと。この指令は何人にも適用される。例外は許されない」


 だが、指導教授も医学生たちも、「めんどうくさい」と冷笑していた。しかし彼はもはや冷酷な暴君となって監視した。石鹸、爪ブラシ、さらし粉などが次々登場する。罪意識の虜となった彼は、「人のいい、同僚にも患者にやさしい男」から一転して、ヒステリックな孤高の独裁者となるのである。

 数ヶ月後、第1病棟の死亡率は、12.34%から3.04%へと激減する。

 しかし、「院内感染」問題と、病院の衛生管理の先駆者、ゼンメルワイスは、それからも茨の道を歩むのである。

(続く)


 ●参考文献

Wikipediaおよび、

2007/07/08

ゴーマンかましてよかですか?

「今必要なのは、知ることではなくて、行うことです」

(フローレンス・ナイチンゲール)


「臨床は、語るよりなすことですから」

(村瀬嘉代子)


「フォーカシングは、語るよりすることですから」

(阿世賀浩一郎)

2007/07/06

当時の外科医はマッチョで非情な「大工職人」だった -ナイチンゲール時代の「公衆衛生運動」と「細菌医学」の奇妙な格執-:本論1(第2版)

 ナイチンゲールの派遣されたスクタリの病院で、最初の数ヶ月、なぜ42%という驚くような死亡率が生じたのか。

 下手に医学用語を使うと間違う心配があるので、敢えてまどろっこしく、できるだけ私なりに普通の言葉で書いてみよう。

 当時、ある程度以上重度の傷や骨折が生じた場合の治療法は何だったか? .....手足であれば、「切断」がいともあっさり行われていました。しかも、傷口よりもかなり手前の部分で切り落としていたのですね。

 なぜか? 敗血症が怖かったからです。傷口が膿で覆われ、壊死が生じると、その傷口だけではなくて、傷のある部分からはもの凄く離れた身体のいろいろな臓器に傷害や炎症が次々生じて、いわゆる「多臓器不全」の状態になって死んでしまう。

 当然、輸血もありません。麻酔すらまだ、クリミア戦争当時は実用化されたばかりでした。

 麻酔なしでの四肢切断。メスでサクサクっと肉の部分を切って、今度はノコギリでギコギコやるわけですね。恐怖に震え、激痛に耐える患者は数人がかりで押さえつけられる。
 
 この激痛のショックで心臓麻痺で死んでしまう患者も多かったし、消毒や殺菌の概念はありませんから、四肢切断の後、結局敗血症になって死ぬ人も非常に多かった。壊死した部分を放置するよりは死なないというだけのことだったわけです。

 外科医は、まるで屠殺業者か大工職人、あるいは刺身職人のようなものです。ばっさり、一気に手早く進める方が苦痛も少ないし、「なぜか」その後の生存率もいいことだけはわかっていたので、体力勝負、冷酷無慈悲に手早く一丁上がりと仕上げられる外科医が優秀とされ、人より何秒早く切り落とせるかが名医のプライドだったそうです。外科医の腕はみんな筋骨隆々としていた!!

 アヘンなどの麻薬に鎮痛作用があるのは洋の東西を問わず古代から知られており、ヨーロッパでは15世紀頃から麻酔薬としての使用が始まりましたが。

 ちなみに、記録に確証できる形で麻酔(全身麻酔)をはじめて「臨床現場で」使ったのは、日本の華岡青洲が1808年にチョウセンアサガオをはじめとする薬草を調合して行った乳ガンの手術とされています。

 欧米では、これより遙かに遅れて、1842年、アメリカのジョージア(独立13州ではありますが、南北戦争(1861-5)前だし、まだ南部のかなり田舎の筈)のクロフォード・ロングという医師が首の嚢胞を切除する際に、硫酸エーテルを吸入麻酔として使ったのが最初だが、この人、これを公表しなかった。

 1844年に、今度はヴェルズという開業歯科医が、当時ドサまわりの興業で使われていた笑気ガス(亜酸化窒素)を、舞台に上がって吸引したある観客が、笑いが止まらないだけではなくて、笑気ガスでラリって、暴れ出した挙げ句、身体をひどくぶつけて、絶対骨折している筈なのに平然としていることを客席で見ていて怪訝に思い、本人の身体を確認したら実際に骨折していた。彼はこれを抜歯の際に痛みを感じさせないことに使えるのではないかと直感して、興行師を家に招き、翌日から、自分と家族を対象に人体実験を始める。自分が失神した後に、家族に頼んで針でつついたりつねったり、ぶつけても痛くないことを我が身で確認するわけである。

 彼の医院は無痛で歯を抜いてくれるということで大繁盛。意を決した彼は、当時の外科の大家ジョンコリンズ・ワレンがいたボストンのマサチューセッツ医学病院で、公開実演することに挑むのですが(当時は、大きな手術ですら、患者をモルモットにして、大きな医学教室で「公開実験」して成果を示すやり方がよく取られた。少し時代を下っての、ヒステリー患者に対するシャルコーの催眠療法の公開実験もその流れ)。

 この時名のりをあげた医学生は、いったんは麻酔にかかって失神したものの、十数秒後のいざ抜歯した瞬間に暴れ出して大失敗。実は、笑気ガスは、肥満していて酒飲みの人間には一般の人より効きにくかった。不幸にしてその医学生はその典型だったのである。こうして、外科の大家,ワレンと医学生の前で物笑いになり、彼はすごすごと引き上げることになる。

 2年後、別のウィリアム・モートンという歯医者(2年前のウェルズの公開実験を盗み見していた可能性が大きいらしい)が今度は硫酸エーテルを使って同じ大学の同じワレンと医学生の前でデモンストレーションをして無痛抜糸は大成功。すぐさま目の前に舌ガンの患者や大腿部切断の必要な患者呼び寄せられてガスを吸入してワレンが切除手術。患者は痛みを感じず大成功し、新聞でも報道、このモートンという歯医者はその後この治療法で特許を取り大儲けすることになる。

 もっとも、このあと、クロロフォルムの方が効果的であることを1847年にジェームス・シンプソンというスコットランドの医師が史上初の無痛分娩で証明。

 しかし、大家と呼ばれていた外科医はその導入に否定的だった。「手術の苦痛が無くなると,患者の悲鳴にもひるまずにメスを振るう『青銅のように強靭な精神』が外科医から失われてしまう」という....(^^;)
......手早く一気に施術する方向へと外科医の技量が向上しなくなるとも懸念されたらしい。

 苦痛によるショック死の問題は別にしても、「手術は手早いほど術後の経過がいい」と経験的にいわれていた。これは輸血などなしの手術だったということもあるし、傷口を空気にさらす時間が長いとその後の経過が良くないというのも理にかなっていた。また、(当時はその原理はわからなかったが)傷口を医者の汚れた手が不用意にいじくり回すほど、細菌感染がひどくなる危険があったのも事実だったのである。

 ところが1853年、イギリスのヴィクトリア女王の出産の際に用いられて成功して、一気に「大ブーム」になるのである。クロロフォルム全身麻酔は、揮発性の液体を入れた小瓶とハンカチ一枚で可能でしたから、一気に普及しはじめることになります。


*****

 さて、問題のクリミア戦争1954年から1956年です。クリミア戦争は、野戦病院でクロロフォルム麻酔が使われた最初の戦争です。もっとも、軍医長は切断手術における全身麻酔の使用禁止の通達を出しており、このことは現地からのタイムス特派員の報道でイギリス本国でも避難を浴びていた。でも、実際にはスクタリの病院でも外科手術にはクロロフォルムが麻酔として使われていたようです。

 しかし......手術器具や医師の手、包帯、患部の「洗浄」や「消毒」が死亡率の激減に貢献することについて解明され、医学会に認知され普及するのには、まだこれから2,30年要するのである!!

(つづく)


 ●参考文献

Wikipediaおよび、

2007/07/02

病気の「原因」と「治療」とは何か -ナイチンゲール時代の「公衆衛生運動」と「細菌医学」の奇妙な格執-:序論(第3版)

 この前、ナイチンゲールについて書いたところで、

 さて、この問題について更に論じていくためには、当時、パスツールなどの先駆的業績の中で認識されはじめていた、伝染病や傷の化膿・炎症における「病原菌」の果たす役割についての学術的な研究への関心の高まりが、実際には、公衆衛生活動を重視する政策の実現と「対立」関係にあったという、現在の目から見ると摩訶不思議な事態を問題にせねばならなくなる。

と私は取りあえず締めくくって、「次回に続く」としたわけであるが.....

 私はこれを機会に、結果的に、主として19世紀という100年間において、細菌学・微生物学・公衆衛生学の分野で、ある意味で革命的と言っていい進展が生じたかについてひと渡り勉強し直す必要が生じてしまった。

 そして、19世紀の100年間が、今日では伝染病や衛生問題について、あまりにも常識的になっている事柄が「全く存在しなかった」時代から、それらの一般通念が一気に常識化するまでという、驚くべき科学的発展の時代であることに気がつく。

 そしてそれらの歴史的事実を「点」としてとらえるのではなくて、お互いに関連づける中で、それがある意味であまりに革命的な急激な展開であったがゆえに、その「過渡期で」生じた、不毛な迄の論争と、個々の研究者や実践家の栄枯盛衰や悲劇のドラマにも気がつかされた。

 そこには、「基礎研究」と「現場の実践」の間の軋轢という、今日的なテーマの縮図を見る思いもする。

 それは、産業革命期という、都市への急激な人口集中の中で、劣悪な労働条件と衣食住の環境の中で生きざるをえなかった一般庶民の生活という背景と一体になっていることにも気がつくのである。それは現在人口急増と伝染病の蔓延の問題を抱えた発展途上国の公衆衛生の「現在」の「先取り」に他ならない。

 ナイチンゲールは、まさにこの細菌学と公衆衛生運動の急激な進展の時代とほぼ重なる時期に生涯を送っている(1820-1910)。クリミア戦争への従軍は1854年から1856年である。そのため、彼女の考え方や行動には、古い考え方の限界と、その時代の「現場臨床」の観点からすれば実践的には賢明であるばかりか結果的には適切な判断だった側面、そして、新たな科学的知見の導入に先進的だった側面と、保守的なまでに懐疑的だった側面が矛盾をはらみつつも同居しているのであり、それが彼女の業績への歴史的評価を的確にしていく上での複雑さにも結びついている。

 スモールの書いた「ナイチンゲール 神話と真実」は、そういう意味では基本常識として知っておかねばならない、細菌学や公衆衛生についての知識の水準がかなり高いと言っていいだろう。恐らく、看護や医学の専門課程を経た人には「教養課程」水準で求められるものではあるだろうが、少なくとも心理臨床系の大学院でもここまでは必須教養とはされていない水準ではあると感じた。

 そしてそれは、単に伝染病や感染症、衛生学の領域を超えて、広い意味で「病気とその治療とは何か」という問題について深く考え、認識を深めていく上で、普遍的な問題意識に触れるものであり、我々心理援助職の専門家においても、「病気とその治療とは何か」ということについての基本的認識に関わる素材だとまで感じるに至ったのである。


*****


 今回は、今後の連載のためのチャートとして、取りあえず、心理臨床との接点について最低限のことを示唆しましょう。

 今日、統合失調症や鬱病において、脳内の神経伝達物質の働き方が大きく関連していることはかなり解明されている。今日の向精神薬は、まさにこれらの神経伝達物質のあり方に直接介入することをピンポイントで狙う製品が相次いでいる。鬱病におけるSSRIがその典型である。

 しかし、では、何がそうした神経伝達物質の代謝異常が生じる「原因」なのか?というのは、まだ模索の段階である。

 抗うつ薬というのは、鬱の症状を「抑える」薬ではあっても、鬱の原因を「治療する」薬ではないともいえる。そうした脈絡から、「結局は対症療法に過ぎない」という言い方がよくなされる。

 しかし、これが「対症療法に過ぎない」がゆえに意味がないだとか、焼け石に水を注ぐようなものだと軽視されたらとんでもないだろう。

 「対症療法」ですら、休息などと共に、人間の身体の自然治癒能力を賦活する上では貢献するのであり、「治癒そのもの」における重大な因子なのである(思わず,神田橋先生の「現場からの治療論という名の物語」も連想するが)。

 実のところ、医療という行為のかなりの部分は「原因」そのものを治癒する形ではなく、心身に現れた個々の症状を「対症療法的に」治療することで成り立っている。現在の医学水準では実は原因治療が存在しない場合もある。

 眠れないということは、それが続くと、人の心身を急激に消耗させる。だから、鎮静剤や睡眠薬は意味を持つ。高熱になることもまた、心身を激しく消耗させる。だから、「解熱剤」が意味を持つ。

 「脱水症状」を引き起こす病気であれば、点滴や、最悪の場合にはポカリスエットですら応急には役に立つ場合もあるらしい。

 仮に、その病気が「細菌感染」が原因であるにしても、いったんそれにかかってしまったら、抗生物質のように、体内のその病原菌そのものを死滅させる薬剤「だけで」治療が成立するなどという考えは採られないはずである。身体がそれより先に衰弱したらどうにもならないのである。

 そして、抗生物質の第一号というべき「ペニシリン」が実用化されたのは、何と1940年であり、それ以前に「ワクチン」・・・・病原菌に対する免疫抗体を体内に形成する薬として、実用段階にあったのは、まだ1796年のジェンナーの種痘の発明以降、パスツール家禽コレラのワクチンが開発された1879年まで間があいていたくらいである(当然,この段階では,今日のような「免疫理論」は存在しない)。

 つまり、特定の細菌感染が「原因」と解明されても、その特定の細菌を標的にした「原因治療薬」の開発までには数十年以上の間隙がある。その間、どうやって「治療」していたのか?.....感染予防や消毒・殺菌を除けば、結局「対症療法」だった。しかし、この間にも、伝染病の大流行は以前よりは大幅に阻止され、治療法も進んでいったのである。

 一方、(いずれ述べるが)、19世紀後半におけるコッホや北里柴三郎たちの華々しい活躍で、重篤な伝染病の病原菌が次々発見された時代には、およそすべての深刻な病気が「病原菌」の発見によって原因がわかるのではないかという期待すら抱かれ、様々な病気についての「病原菌探し」が果てしなくなされていった。軍医森鴎外は、軍隊で深刻な問題だった脚気が細菌によるものではないかという仮説に執着したが、結果を出せなかった(皆様ご存知の通り、ビタミンB1不足こそが真の原因である。もっとも、そこから数十年の昔は伝染病の多くが遺伝と栄養不良であるという説も存在した!!)。

 中井久夫先生の著作(「分裂病と人類」)に拠れば、統合失調症も、病原菌があるのではないかと必死で研究した医学者たちがいたのである。


*****


 こうした中、「究極の原因が何であろうと、それを予防したり治療したりするのに役立つ実践を普及させるべきだ」という立場と、「原因をはっきりさせないうちに対策だけを講じても効果が保証できない」という立場の対立。これは今の医療(もちろん精神医学を含む)にも続く軋轢が存在した。

 これが軋轢になるのはなぜか? 研究にせよ、治療実践や、環境の公衆衛生的な改革事業(上下水道の整備や,建物の構造の改革)にせよ、当然資金が必要である、そして、その資金を引き出すために、時の政治権力や投資者へのアピールが必要である。いったんそれが公的な政策や事業となったら、その対策のためにお金が費やされるひとつの経済・社会構造ができあがる以上、もう後には引けなくなる。それまでの仮説が間違っているとわかっても、もはや純粋に学問上の論争を超えて、政治論争・権力闘争化してしまう危険があるのである。

 こうした軋轢は、精神医療の領域では、生物学主義と、診断学、精神科領域における公衆衛生問題、さまざまな治療法(その中の一部としての「精神療法」)との間で存在した。

 こうした、過去の、医療現場と研究と政治と社会構造の間で生じてきた軋轢と不幸な歴史について、過去の教訓として知っておくことはまさに「現在のために」大事であろう。


*****


 だから、医学生や看護学生の読者の皆様には、まるで教養課程のおさらいになってしまう素朴な議論になるかもしれないのは承知の上で、私なりの独学の成果のおおよそを、これからここで公開してしまおうかと思う。

 まるで中井久夫先生がすでに十分著作の中でおやりのことを、「自分なりに」ままごとのように「歩みなおす」ような作業にも思えるが。


*****


 以上、序文だけで取りあえず切り離してしまおう。恐らく数回のシリーズになる。

 続きはこちら


 ちなみに、わたしがどこまで手を出す羽目になったかというと.....


2007/06/30

「ナイチンゲール 神話と真実」について

 ナイチンゲールについて、書く、書くといいながら、ずっと先送りになってきた。

 その理由のひとつは、これを機会にいろいろ調べる必要があることが連鎖反応的に出てきたからである。

 結局、公衆衛生学の歴史から細菌学黎明期の歴史までいろいろ調べる必要が出てきた。

 しかしの記事は、その「前編」として、スモール著「ナイチンゲールの神話と真実」(田中京子訳 みすず書房)のおおよその紹介としたい。

 なお、この著作に関しては、次のサイトの記事が、取りあえずの参考資料になる筈である。

●フローレンス・ナイチンゲール 復讐の天使 (上掲書の原著の紹介の日本語版) 

 「後編」は、ナイチンゲール自身の「看護覚え書き」の時代的限界と、それにもかかわらず今日にも通じる、公衆衛生学、細菌学、薬との兼ね合いの問題について述べる予定である。

 ナイチンゲールがクリミア戦争(1854-6)に従軍して、コンスタンチノープル近郊のスカタリ(スクタリ)の病院で、史上初の「修道女ではない看護婦の一団」を統率し、クリミア半島の最前線から次々送られてくる数多くの傷病兵を看護したことは、戦争中からイギリス本国に大々的に報道され、「ランプを持った貴婦人」の活躍はロングフェローの詩にも歌われ、一躍時の人になる。この時集まった基金が、戦争後、世界初の、ナイチンゲールの名を冠する看護学校のロンドンにおける創立に貢献したことはよく知られている。

 ところが、各地から送られてくる傷病兵を収容した一大医療センターだったスカタリの大病院は、実際には、ナイチンゲールの看護婦団が着任した、急激に病院内での死亡率は4ヶ月の間に、8%から42%へと、急増していたのである。病院に搬入さえるや否や、急激に衰え、死んでいくすし詰めの傷病兵たちを、看護婦たちは看取っていくたけの無力に苛まれていたのである。

 ナイチンゲールは、それがもっぱら食料をはじめとする援助物資が前線の兵士に迅速かつ確実に到着しないことによる栄養不良や、前線からスカタリの病院に傷病兵が移送されるまでの段取りが遅過ぎ、手遅れになってから移送されていることにあると考え、軍の補給や移送の体制を痛烈に批判し続けた。「もっと早くスクタリに傷病兵を回せ」と。

 更に数ヶ月後、民間人を委員とする調査団がスクタリの病院を訪問する。時の大臣から強力な権限を与えられたこの調査団は、スカタリ病院の衛生状況の劣悪さに気がつき、通気の悪さ、排水や屎尿処理の問題、患者のすし詰め状態についての改善を突貫工事で一気に進める。その後にはじめて、スカタリでの死亡率は42%から2%へと劇的に低下したのである。

 ところが、この死亡率の劇的な変化を、衛生状態の改善の成果であると、当のナイチンゲールはこの段階では思っていなかったのである。

「この冬にスクタリに送られてきた兵士たちが亡くなったのは,瀕死の状態になってからようやく送られてきたためです------今では手遅れにならないうちに送られてくるので,彼らは死ぬことなく快復しています」(現地から大臣への手紙)

 ナイチンゲールが「運ばれてくるのが手遅れだったから」ではなくて「スカタリの病院の衛生状態が劣悪だったから」死者が多かったのだという現実にほんとうに直面したのは、イギリスに帰って、調査団の統計担当者と共に、時期別・部隊別・送られた病院別の死傷者の推移についての膨大な統計を詳細に分析する中でだった。

 最前線の野戦病院にいたままだったり、スクタリ以外の病院に収容された傷病兵に比して、スクタリに搬送された「衛生改革以前の時期の」兵士たちの死者数だけが際だって高率であるという、覆うべくもない事実。

 クリミア戦争で戦死したイギリス軍兵士(この段階のイギリスの兵制では全員志願兵で、しかもエリートの子弟が多い)のうち、16500人は、前線での傷そのものの深さではなく、送られた先の病院の衛生状態の悪さ故に死んだだけであるという、スキャンダラスな現実である。

 「早くスクタリに搬送しろ」というナイチンゲールの要求は、「早く死にに来い」と要求していたも同然という、予想外の現実に、ナイチンゲールは直面し、耐えねばならなくなる。

 極端なケースでは、傷病兵でもなく、たまたまスクタリに短期間「宿泊地」として立ち寄っただけの兵士が突如死に至るケースすら、まま見られたのである。

 ナイチンゲールは、世間から引きこもり、体調を崩しつつも、その後の人生の中で、この「医療過誤」への自分の責任への罪悪感と戦い続ける。

 州の長官の娘という名家に生まれ、父親からの個人教授の中で学問に目覚め、専門知識を習得し「女性もこれからは職業をもって社会に出て行くべきだ」という思いに取り憑かれていた若い日々。家族が大臣や政府高官とも交際がある中で、自分を社会に生かす仕事がないかを繰り返しアピールしていった中で誘いの声がかかったのが、クリミア戦争への看護婦長としての従軍だった。

 ナイチンゲールの活躍がマスコミを賑わせたのは、実はイギリスが軍隊を大量にヨーロッパ大陸に派遣したという点ではその後第1次世界大戦までなかった動員数となったクリミア戦争が泥沼化する現実と戦争の犠牲者への政府の責任の問題から目をそらさせるという面もあったし、2万単位の「戦死者」が、前線での死ではなく、それの各地の兵士が収容された後方の「センター」的野戦病院の衛生環境の悪さ故の死であったなどということは、政府や軍にとっても一大スキャンダルであり、この戦争で、「軍隊の統帥権」を再び王のものとしようとしたヴィクトリア女王の名声にも関わりかねない問題だった。だから、このスクタリ病院の衛生環境が死者を激増されたという冷厳な「統計的事実」を政府は闇の中に葬り、ナイチンゲールには光栄ある処遇をしてことをおさめたがったのである。

 ところがナイチンゲール自身は、自分のそれまでの名声をもろに傷つけるのを覚悟で、軍の衛生問題、ひいては公衆衛生問題についてのイギリスの政策を転換させるための貴重な教訓として、議会や政府、そして王室が耳を貸すように、詳細でわかりやすい統計つきの「秘密報告書」を起草、病身をおして、果てしないロビー活動をしていくことに、残りの生涯を費やしていくのである。

 しかし、政府は、ナイチンゲール自身がナイチンゲールの名声を傷つけることを許さなかった!! どうも、首相との密約で、ナイチンゲールがどこかで今日でいう「暴露本」を出版しないことを条件に、その後のイギリスの公衆衛生政策にナイチンゲールが期待する人材を登用していくことに便宜をはかるという形になったようである(政見が交代する中で、それも順調に運んだわけではないようであるが)。それでも、政府がその報告書を闇に葬ることにしたした時、彼女はそのコピー100部を、イギリスの有力者100人に「秘密厳守」としながらも送りつけることまでしている。

 後世のナイチンゲールの伝記作者の中には、スクタリ野戦病院での衛生改革を主導したのがナイチンゲール自身の業績である、という記述をしているものもあるようだが、実態は、戦地から帰還して、最初は軍の傷病兵移送の遅さの証拠を得るつもりで、膨大な統計資料を冷静に検討する中で、「図らずも」認めざるを得なかった「予想外の現実」であり、いわばその「罪滅ぼし」として、その後のイギリスの公衆衛生改革運動への協力に尽力したという方が正しいらしい。
 

******

 さて、この問題について更に論じていくためには、当時、パスツールなどの先駆的業績の中で認識されはじめていた、伝染病や傷の化膿・炎症における「病原菌」の果たす役割についての学術的な研究への関心の高まりが、実際には、公衆衛生活動を重視する政策の実現と「対立」関係にあったという、現在の目から見ると摩訶不思議な事態を問題にせねばならなくなる。

これについては次回

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