私は実際に浄土真宗の家に生まれていますけど、親鸞については、ほんとうに日本史の教科書的な記述以上のことはほとんど何も知らなかったんです。「他力本願」「悪人正機説」、僧の妻帯を認めた、一向一揆と、その後の本願寺の権力者による抑圧、ぐらいのことで。
この前も書きましたが、11月はじめのの人間性心理学会大会で、池見先生とアンの「対談」を聞く中で、突如私の中で、シフトが生じ、
> 「ジェンドリンは、『フォーカシング』の中で、
>
> ぴったりなコトバがなかなか浮かび上がってこないようなフェルトセンスが生じてきたら、それはむしろ歓迎されるべきである
>
> というようなことを述べていた。
>
> そういう時に、焦ることなく、
> 心の中のスペースを大事にして、
> 新鮮な『言葉』が
> おのずから立ち現れてくるのを
> じっくりと待てるということは、
>
> 新たな『状況』が、
> おのずから生じてくるのを
> じっくりと待てることと同じことだと思う」
......と、自分でも、口にしてからびっくりするような、思いよらないことを口にしていたその数時間後、今度は、シンポジウムで、シンポジストとのひとりの山折哲雄先生がいわれたことで、不思議と気に入った(実は、この言葉を聴いた瞬間に居眠りから醒めたのであった....)のが、その時点では出典すら記憶になくてメモにも取らなかった、
「彌陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」
という言葉のうろ覚えが私の中でなぜか響きあい、実際にネットで「歎異抄」を調べ始めて、実際に原文を読み通してみて、いよいよ興味深くなったという順序なんですね。
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「歎異抄」という著作そのものは、実は親鸞自身ののものではありません。唯円という僧が、若い時代に関東からはるばる京都の親鸞のもとを学友と訪ねた時に歓迎され、滞在時に伝え聞いた話ををまとめたものである。
書かれたのは、親鸞唯一の直弟子となった、親鸞の入滅後30年、唯円自身が亡くなる前、1年以内とされる。
後述する梅原氏の説によれば、恐らく、第3門主に覚如(親鸞の曾孫にあたる)が就く際に、再び京都に赴き、彼に親鸞の真意を伝えることによって教えが風化しないことを祈って事前に書き留めた上で講釈したのではないかと推理している。本来「ただひとりの人間」にのみ伝えるつもりの「秘伝」だったらしい。
親鸞自身は、実は師の法然の忠実な継承者に過ぎないと思っていた。法然も親鸞も天台宗の総本山、比叡山で修行を積んだ。学問や厳しい修行がなくても、「南無阿弥陀仏」と唱えれば、「誰でも」浄土に行けるという思想そのものは法然が既に確立したものである。法然自身が叡山で危険視されたが、あまりの博識と、僧としての持戒の深さ(伝統的に僧が犯してはならないとされる戒めをきちんと守ることの潔癖さ)のために一目置かざるを得なかったようである。
もとより、法然の時点では、「悪人も」「肉食妻帯者も」、念仏さえ唱えれば浄土に行けるという教えだったのだが、親鸞に至り、僧の肉食妻帯を「公然と」認めた(「非公然に」ならば、実際にはなされることが多かったのは、そもそも天台の始祖、最澄自らが歎いていた現実だった。天台宗そのそのものが、最初は既成仏教への改革運動そのものだったのである)。親鸞は、それどころか、「悪人の方が浄土に近い」という大逆説まで公然と唱えるようになっていくこととなる。
若い頃は、法然の兄弟子たちの間すら「無学な過激派」とみられていたが、法然自身は弟子たちの集まった前で、「親鸞の念仏は自分の念仏と同じ信心である」と、親鸞が若い頃にすでに公式に発言したという。
宮中の侍女たちとの弟子たちのゴシップを体のいい理由づけにされて、弟子4人は死罪、法然と親鸞は遠隔地に流罪となっている。法然はすぐに京都に戻ったが、親鸞は福井に俗人として長期間滞在し、妻子を設ける。
そして次に歴史の舞台に現れた時は、常陸の国を中心とする関東で長期間布教活動をして、中年期を過ぎてやっと京都に戻る。もっとも、知り合いのところをあちこち点々とするという、地味な暮らしぶりだったらしいが,何と90近くまで生きることになる。
その頃には、親鸞の弟子や「また弟子」たちが、各地で勝手に親鸞の教えを広め、お互いに誰が真の弟子かを競い合う混乱状態が生じていた。しかも、妻帯を公然と認めたものだから、必然的に宗主は、子孫や親族たちの後継者争いになり、それはそれぞれが当時の有力諸候と癒着した生臭いものになる。(親鸞自身は、まさに「異説を広めた帳本人」として長男を廃嫡するしかなかった)。
それは、時代を下るにつれて、時の権力者をも脅かす政治勢力としての性格を強めるしかなくなった。「浄土真宗」と「浄土宗」の分化は完全に歴史の産物なのである。親鸞自身が独立した宗主を自認する発言は全くしていない。親鸞の墓所が正式に本願寺として成立するまで数代、本願寺が独立宗派の総本山と自他共に幅広く認められる存在になるのは、革命的布教者で、かの「石山本願寺」を建てた8代めの蓮如の代である。この連如ですら一度は焼き討ちにあい,各地を転々としている。「本願寺」そのものが、数回場所を変えて建立されるしかなかった。秀吉に京都に本願寺を移すように命じられ、跡地に大阪城作られてしまい、更には家康にそそのかされて東本願寺が分離独立した時点で、浄土真宗は、大勢力ではありつつも、政治家に屈服してしまうのである。
話を遡ると、3代めの覚如は、教団の維持に都合の悪いところは無視して、でも「歎異抄」をもろに剽窃して、自分の書いた「口伝抄(親鸞から、2代めの如信に口伝されたものを『如信から』3代めの自分に口伝されたものの抄録)」として公式に示すことにより、女系の曾孫という、血縁的には遠い自分こそが親鸞の後継者という位置づけを強化したのだろうと梅原氏は推測している。
結果的に、単なる無名の地方の僧侶だった唯円が著者だということそのものが歴史に直接は残らなかった。幸い、本山に「お蔵入り」はされていて、唯円という僧についての他の行跡の断片的記録を照合すると、「点と線」は見事につながり、著者唯円が、親鸞自身から聴いたことを書き留めたのは間違いないことは,学界でも宗学の上でも『今は』ほぼ定説化している。
少なくとも、新約聖書の4大福音書の成立(2世紀ぐらい)までに比べたら、直弟子だった人物のまとまった唯一の記録として、親鸞の生の発言が忠実に反映されている度合いが格段に高いとされている。
しかし、この書の存在は長い間知られず、学問的・教学的吟味がはじまったのは、江戸時代中期、本居宣長らによって古事記をはじめとする古い文献への文献学的再吟味が始まった潮流に乗って以降である。この時点で著者唯円説を説得力ある形で唱えた学僧ははいたが、あまり問題にされなかったようである。
この書を有名にしたのは、明治時代になってから、清沢満之とその門弟たち(金子大栄はそのひとり)が真宗改革運動の乗り出す際にこの著作を重視してからであり、それまでは、そもそも「布教に使われることのないまま」埋もれていた。その内容が、基本的に教祖の親鸞自身が「教団」というシステムそのものを否定する、激越な内容を含んでいたためである。
要するに、親鸞が若い熱心な弟子に向かって、問わず語りに、おそらくかなりくつろいだ気分で、ざっくばらんに繰り返し語った「ホンネ」集みたいなもの。
鎌倉時代の、しかもかなり口語的にくだけた文語なので、少なくとも源氏物語を読もうとするのに比べれば(徒然草よりもだと思う)、古文に普段なじんでいなかった人でも、そんなに多くはない独特の仏教用語そのものすら前後の脈絡から何となく推理でき、現代語訳で解説的に「翻訳」されてしまうと失われる「泥臭いまでに生身の人間の匂いがする」味わいがダイレクトに堪能できるのではないかと思います。
何しろ、私がはじめて「読破」した仏教についての単著がいきなりこの原典、というくらいです。
岩波の金子大栄氏校注(現代語への非常に解説的な意訳付き)で、昔でいう★の厚さにしかならないもので、原文だけならほんの20ページで終わってしまうでしょう。
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私が妄想した、ある光景。
「だってさあ、そうだろ、お前。わかるかあ? 阿弥陀様は、こんな俺のことだけを思って救って下さろうとしたのではないか、とすら感じた気持ち。これって、一見傲慢だろうけどさ、自分が本当に救われた、それは私の意志やがんばりなんかではなくて、師匠の法然様が救ってくださったのですらなくて、本当に、人間の思慮分別を超えた阿弥陀様というものがおられて、何でかわからんけど私なんぞを「救って下さった」というしかない、って。自分を超えた「何か」の「はからい」がないとこうなるわけない!! と心底感じたから、阿弥陀様に念仏を唱えずにいられないわけだよ。」
「俺は「弟子」なんてひとりも持った覚えはないから。俺の教科書をありがたがって知識として「勉強する」だけの奴らなんて何もわかってないの!! ホントぞっとするね(きはめて荒涼のことなり)。そうやってただの生身の人間であるに過ぎない私を崇拝する奴らなんて!! 俺をありがたがるなよ!! 凄いのは阿弥陀様であって俺ではない。俺であってはならないわけ!!」
「 そして、信者たちにありがたがられて、まるで自分が救い主みたいな自己陶酔するなっつーの!! そういうのが俺の高弟でごさい、みたいな態度取ってると虫酸が走るよ。救ってくださるのは阿弥陀様であって、連中が、努力や修行を積んでいけば人々を「救える」ようになりたいと「願う」ことのがそもそも傲慢だよ。どこまでいっても人間はこの世では煩悩から抜け出せないよ。阿弥陀様だけが、俺たちを含む人間の救済を本当に「願う」(本願)力を持っている。「祈って」待つしかないんだ。阿弥陀様の慈悲がその人をお救いになることを。人が人を救える、自分もそういう人間に修行を積めばなれる、なんて発想そのものが、そもそも不届きで傲慢で「煩悩そのもの」なんだよ」
「そういう人間は、自分は徳を積んだ善人だと確信犯してるからいよいよどうにもならん。俺はいろんな欲や感情にとらわれ、悪いことをして生きていくしかない、そのことへの自嘲と絶望を密かに感じている人間の方が、本当に人を超えた何かに救われたいという思いに近いとすら思うね。阿弥陀様もえらいモンだよ。そういう「独善的」エゴイズムにとらわれた人間すら念仏「させてくださって」救ってくださろうっていうんだから(「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」・・・・いわゆる「悪人正機」説)」
「......もっとも、逆に、どんな悪いことをしても、色と欲に開き直っても、阿弥陀様は念仏しさえすれば救ってくださると開き直る連中も、逆方向にどんでもない勘違いしている。念仏ってのはさ、実は自分の意志で「する」か「しない」か自由に決められるものだと思ってるだろ、そいつら。念仏「できる」ことのものが、阿弥陀様の慈悲あってのものだっていう、肝心なことに気がついてない」
「.......え? 『念仏していても全然幸せな気持ちになれないし、そもそも極楽浄土って、そんなにいい場所なんでしょうか?』って? .........正直な奴よのう、お前。......実は、わしもそう思う時がある(爆)。でも、そうやって煩悩や迷妄にとらわれる存在でしかないからこそ、救っていただけるありがたみがあるんじゃないかの? 念仏するかしないかは、勝手にすればあ? としか思ってないんだけどね。」
「....実は、俺すら、この程度の人間だから、阿弥陀様がまっすぐ極楽に連れて行ってくれる保証はないと思うね。すべては阿弥陀様の手の内にありだし、どうみても、一度は地獄行きでもしかたない程度のものだと思うし。でも、そうなっても先生の法然様が俺をたぶらかしたなんて、師のせいにして一切恨まないからね。すべては阿弥陀様の手の内にある、その慈悲にすがるしかないってのは、俺の人生かけて悔いはない帰結なんだからから」
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「歎異抄」とは、自分本来の教えの意図がが右にも左にも誤解されて『異』なった姿で論じられるようになったことへの師の『嘆(なげ)き』に共鳴した弟子が、師に繰り返し言われたことの核心を要約してまとめ(『抄』録し)、後続の章で、唯円自身による解説を付記した書物なのである。
ここからは、現段階での私の想像です。
どうも身近な弟子たちは私に媚びてるので信頼ならない。でもはるばる関東の地からやってきたこいつ(唯円)なら、情熱はあるけど頭でっかちではなくて全然スレてない。「浄土ってそんなにすばらしいところか信じられない時もあるんですけど」、とか、無礼な質問すら平気でしてくる誠実さを持っている、こいつなら気を許せる、と見込まれてしまって、飲み屋での老人の繰り言のように、熱弁をふるい出す師の話に「繰り返しつきあわされる」みたいな状態だった唯円。
京都滞在時代の若い頃を思い返すうちに、いよいよ混迷し、政治にも巻き込まれて変節していく教団のありようと引き比べるうちに、師の語った「逆説の山」の真意をいよいよ悟っていった。
親鸞の直接の教えを受けた人たちがみるみる世を去り、直弟子唯一の生き残りとなったところに、関東の外れに「無名だが、直弟子がまだひとりだけ存命」と知った京都の本山からお呼びがかかったが、あまりに過激なその内容に、唯円が精魂込めて書いた持ってきたテキストは、あっさり「お蔵入り」となってしまった。
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「他力本願」というのは、実はカウンセラーに必要な究極の姿勢ではないかと思う。
カウンセラーは、自分が修行を積めば人を「救える」ようになるなどとうぬぼれてはならない。「願って」もならない。
ましてや、自分の流派が優れているとか、自分こそが真の弟子だとか論争するのは、恐らくカウンセリングを受けるクライエントさんにすら有害な、もっての他である。
実は相手が以前よりいい状態になることを『願う』ことののものが、カウンセラーの煩悩であって、身勝手なのではないか。
我が身を振り返ってみろ。そんなに幸せか? そんなにものごとをうまくやれているか? 時には色んな欲や感情に振り回され、ごまかしをし、先生や先輩として慕われることにいい気になり、逆に先達の機嫌を損ねないために媚びへつらい、自分の業績へのこだわりから他人を批判する。身近な人たちを傷つけ、失望させ、他人の命をむしり取るようにして生きている、いつまでたってもそんな人間ではないか。
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私は、自分が現場カウンセラーが「天職」な人間などとはほとんど思っていません。でも、それは周囲と比較してのの劣等感とか、そんなものでもないのです。むしろ、少し前まで思っていたより、カウンセラーの実力差など、実は「ない」のではないかとすら感じ始めています。
私は、なぜか、フォーカシングとの出会いから一貫して、ジェンドリン自身すら含めて、フォーカシングの世界の中で、特定の誰かを「師」と感じたことがない、というあたりはこのブログでも平然とボロボロ書いてきました。ジェンドリンの理論が、心理療法の世界のアインシュタインと言いたいくらいの「コペルニクス的展開」を秘めたものであるということは確信してますが。
そして、「私はそれを確信している」と言っておきながら、それを積極的に宣伝することにはあんまり興味がないようである。親鸞が法隆寺六角堂で阿弥陀様から受けた啓示と同じようにして、フォーカシングと出会ったという意識しかないから、「特に臨床家のみなさんがピンとこないことが『わからない』ともいえるし、『仕方がない』とも思っている」と開き直るところがある。
(もっとも、これは、フォーカシングについて「実体験がないままの人に、実体験がないまま『理解」』してもらおうという意識がとことん欠けている」ということです。もとより、実際に実習してみようとおいでになった個々の皆様に対してとなると、個々のフォーカサーの方のペースに寄り添おうと努めるトレーナーであろうと務めています。フォーカサーの「お口に合う」、「一品料理」としてのフォーカシング体験になるように最大限の配慮をします。消化不良にもならないように。この点は、こちらで書いた通りです)
フォーカシングとは、フェルトセンスを感じてみるという、ただそれだけのことで、しかもフェルトセンスはすでにそこにあって、こっちに気づいてもらいたがっているものであることは、ジェンドリンの本を最初にめくった瞬間から自明のものだった。ジェンドリンはそれに言葉を与え、「自覚させて」くれただけの存在なのだ。フェルトセンスに「どのくらい」従って「いない」かだけは、どんな瞬間にも実は感じて「いた」としかいいようがない。
アンはすばらしい「先達」だし,わかりやすくツボを押さえて技法化する上でのセンスは圧倒的だし、個人的にも全然構えずに気持ちが通じやすい人だと感じてますが、いわば「タメ口安心してたたける先輩」みたいな意識です。
そして、村瀬孝雄先生は、そういうどこの馬の骨ともわからない私を引き立ててくださった。村瀬先生との出会いなしでは、今日の私はありません。でもそれは、何と村瀬先生が、ひたすら私の聴き役をして下さるという、驚くべき謙虚さをお持ちだったからに他なりません。
もちろん、今でも、個々の点で、その人を「見くびっていた」な、この人はこの人なりに、私にはない持ち味があると感じて自分の傲慢さを恥じることはしょっちゅうですが。
そして、フォーカシングとの出会いを、ほとんど運命的な「神からの恩寵」と感じていることは繰り返し書いてきました。それこそ、「私を」癒すために、フォーカシングという技法が生まれ、遣わされたのだとすら思っているところが確かにある(^^;)。
もとよりこれは、各人が、各人なりに、フォーカシングとの出会いをそれくらいに「私的な」邂逅(かいこう)として体験できることを信じたいからこそ、おおっぴらにいうことなのです。
いずれにしても、私は、この世の誰の影響の元にフォーカシングに導かれたのでもない、という事実は変えようもない。
でも、フォーカシングというものそのものが、自分のコントロールを超えた何かだと感じているのですね。
どうして、「あの時」ではなく「この時」フェルトセンスに改めてじっくり注意を向けようという気に「なれた」のか???
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「クライエントさんは、自分の力で治っていく」という言い方も、結局行きすぎだと思います。
なぜかしらんけど、そのひとの「状況」が味方をし始めた、としかいえないことって、多い気がして。
そこまで、クライエントさんを何とかしようという「悪魔の誘惑」にも負けてしまわず、クライエントさんに何も変わらないという絶望を感じさせ、クライエントさんに見捨てられたと感じる無力感からも目をそらさず、「なぜか」関係が維持されていることそのものに感謝を覚えなから、何か活路が生じることを「祈る」ことしかできない。
ちょっと、カウンセラーを「変えよう」と力んでいた私が恥ずかしくもなっています。
出口は、常に「向こうから」やってくる。
そう感じている人だけが、技法に「使われる」ことなく、技法を「なぜか無理なく有効に使えてしまう」ようにも思います。
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ともかく、たまたま浄土真宗の家に生まれたことも、何かの巡り合わせかなと思いました。
梅原猛先生の訳注の、はるかに分厚い「歎異抄」を読みました。すでに更なる読み返しの最中です。梅原先生の本を読むことすら初めてのこの私(^^;)
金子大栄氏の岩波版は、現代語訳が親切に「意訳」しすぎて、逆に原文の生々しさが薄れて、洗練され過ぎている気がしましたが、梅原先生の現代語訳は、より逐語的でありつつも、平易で、原文の情熱が伝わる訳と感じました。もうちょっと下品でもいいかなとは個人的には思いますけど。解説は、ちょっと親切すぎるくらいだけど、歴史考証も含めて、たいへん読み応えがあります。
追記:私って、やはり、法然(村瀬先生)にとっての親鸞であり、まさにフォーカシング界の「歎異抄」(のもとに未来になる予定の「雑記帳」)を、ここで必死に書いて来たんだと思います。
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