親鸞

2009/09/25

「おくりびと」・・・・臨床ということ

 日本映画の最高の金字塔のひとつというべき「生きる」に引き続いて、同様に「死」をテーマにしつつも、黒澤監督もなし得なかった、アカデミー外国語映画賞を受賞したばかりのこの映画を鑑賞するというのも、何とも味があるものである。

 

おくりびと [DVD]

 先日「完全版」がテレビ放映されたものをHDレコーダーに録画しておいたものをやっと観たのだが、どうもDVD版での一部シーンのカットを惜しむ声も少なくないようなので、むしろこうした形で観ることができたのは幸いなことかもしれない。

*****

 今回は、またもやや私的な次元からの感想として書かせていただく。

 ただし私自身の近親者や関係者の死の問題と絡めるようなことはしませんのでご安心を。

 私は臨床心理士であるが、「臨床(clinic)」とは、本来「ベッドのそばにたたずむ」という意味のみならず、「死に至る患者さんのそばに臨(のぞ)み続ける」という含蓄が込められていた言葉であるという。これは確か中井久夫先生の著作のどこかで読んだことである。

*****

 私の業界では、「臨床」という言葉を意識的に使う時には、カウンセリングや心理療法などを通して、ひとりひとりのクライエントさんと向き合う現場を持っている・・・という含蓄で使われることが多い。

 つまり、机上の学者などではないということである。

 もっとも、今日指定校大学院で勤務されている先生方は、むしろそうした意味での臨床現場のプロだった先生方が「請われて」教職に身を転じられたケースが増えてきているので、以上のことは別に揶揄のつもりで申し上げているつもりはありません。

 むしろ、大学という組織の煩雑な雑務に忙殺されるくらいならは、臨床の現場にあと少しでも立ち戻れれば・・・という引き裂かれる思いも感じておられる中堅の先生方も少なくないのである。

 実際、「あの先生はついに大学教育の場に向かわれた」という情報を耳にしたと思っていたら、いつの間にかほんの数年のうちに教職をお辞めになり、またもや現場に戻られてしまった、功成り名を遂げた筈の臨床家の先生の再度の転身に驚いたこともある。

 もとより、ご本人の意思ばかりではなくて、「先生がいないと現場が成り立たない」という切望もあったのではないかと推察もするのだが。

*****

 医師という身分は、実は日本でも欧米でも、実は必ずしも敬意を払われる仕事として歴史上一貫して見なされてきたわけではない。「鍼灸師」「マッサージ師」などと同じように「士」ではなくて「師」の字が長い間通称としてあてがわれてきたことの中には、実は必ずしも階級が高くない、表舞台に登場する性格のものではない「日陰の職人」であるに留まるという含蓄がある。

 この、「師」と「士」の字の含蓄の違いについて私に教えてくれたのは、何と私の父である。父はそこから「だからお前は医者より偉いんだ!」という凄まじい論理展開で私に発破をかけてきたのだが、お医者様の皆様、これはあくまでも個人開業(私設心理臨床)している私への、父の溺愛のなせる技とお許し願いたい。

****

 この映画の中では、従来注目を浴びていなかった「納棺師」という職業にスポットライトが当てられているわけだが、「死人と接せざるを得ない」という点では大抵の医師と納棺師には共通項がある。

 何しろ、日本の法律上は歯科医師にすら、役所に提出する死亡届に必要な死亡診断書を書く公的な権限が、今でもあるのだ(このことの是非はとりあえず置くとして)。

 私のような臨床心理士も、少なくとも「死にたい」というクライエントさんからの訴えや、かつて自殺を考えた、試みた、あるいは重い身体病を乗り越えた、今も身体の中に「爆弾」をかかえているというお話、あるいは肉親や知り合いとの死に目のお話をうかがわない日はないと言っていい。

 そして・・・・実は今や脚光を浴びる仕事となった臨床心理士(もっとも、職場を得て、安定した生計を成り立たせることの大変さも知れ渡りつつあるが・・・・)においても、実は、ひと皮向けば、普段「おかしい」人たちばかりを相手にしている、だとか、人の泣きごとを聴くだけでお金を取る人種だとか、ほんとうは社会や家族、地域共同体が背負うべき、悩める人や行き詰まっている人たちを有料で救う専門家が存在すること自体が、人間疎外を更に押し進めるシステムだとか言われる立場にあり、実は「世間の普通の人がやる職種ではない」という偏見にさらされているのである。

 「私、臨床心理士になりたい!」と肉親に口にした途端に、この映画の中の主人公の妻が夫の職業について知った時に示した拒絶反応と実は似た体験をされた、心理臨床志望の若き人は決して稀ではないはずだ。

 その理由は、単に大学院まで出る学費や収入的な安定という面での懸念などではとても説明し尽くせない、「生理的な嫌悪」を感じさせられる世界に、自分の子息が身を投じたがっていることへの困惑という側面が内包されていることが多いのではないかと、なぜかこの映画を見ている中で気づかされた。

****

 この映画は観た人が少なくないでしょうから、ここからはネタバレになることをお許しください。

 広末涼子が演じる妻は、本木雅弘演じる夫がやっているのが納棺師だと気づく前は、直前に絞(し)めて捌(さば)いたばかりの鶏を目の前にすることに何の抵抗もなかった。それどころか、買ってきた蛸が「まだ生きている」ことに気がついた時に悲鳴を上げた。

 つまり、私たちの多くが、普段肉食(にくじき)をする際に、それが「死体」に他ならないことを忘却しているのと同じ次元に生きていたのである。

 この映画で殊に印象的なシーンのひとつが、社長と主人公たちが、

「うまいか?」

「困ったことに」

などと対話しながら、進んで肉食を繰り返すシーンであることは衆目の一致するところであろう。

 私はベジタリアンを貫こうとする人を揶揄する気はもともとない。中には健康上の理由からベジタリアンを貫くひともあろうが、欧米ではベジタリアンでありながらもキリスト教徒である人は少なくないかと思う。

 ところが、キリスト教という宗教そのものが、「我々の罪を背負って十字架にかかって下さった主イエス」への信仰であるばりか、多くの宗派において、「聖餐」という儀式を大変重視するものである。

 これは聖書に伝えられる「最後の晩餐」におけるイエスの発言に基づき、ワインをイエスの血、パンをイエスの肉として口にする儀式である。多くの宗派の公式の教義では、聖別されたワインとパンは、まさにイエスの肉体そのものなのであり、決して「象徴的な表現」などと見なしてはいないそうである。

 実はイスラム教徒は、このあたりを指して、「キリスト教は教祖の人肉を食らう野蛮な宗教」と喧伝した時代もあるとのことである。

****

 こうして私は、敢えて仏教的・東洋的な発想から一定の距離を取ったままこの映画についての小考察を進めてきたが、そろそろ、私なりの言葉で、今回書きたかったことの核心に触れていこう。

 人は、他者の生命の犠牲の上に立ってしか生きていない存在である。

 いかに自立・独立を尊ぶ人でも、一切の衣食住をすべて自分で賄(まかな)って生きる、ロビンソン・クルーソーのような生き方をしているわけではあるまい。

 人は幼年期を脱した後も、何らかの意味で他者に「寄生して」生きているのである。収入を得られるいうことは、回りまわって、誰かがお金を出してくれたということである。

 誰もが「人の生き血を吸って」生きている。このことに貴賎はないと思う。

 臨終から葬儀、火葬、埋葬、そして追供養と続く一連の儀式は、悲しむための儀式ではない。むしろ悲しみが感謝に昇華される過程となるのがふさわしいのだろう。

 「愛(いと)し」「恋し」「哀(かな)し」といった古語の意味を探っていくと、これらが自然と融合する接点が出てくるようである。

 死や病が日常世界から隠蔽され、不死と無限の健康へのファンタジーが満ち溢れかねない時代(今度の不況で、そこに少しブレーキがかかったかとは思うが)であればこそ、病や死と日常の間にある、目に見えない「門」をつなぎ、その間にさ迷うしかなくなっている、個々人の「成仏できない思い」の仲介者となる「渡し守」が職業としても必要な時代なのだとも思う。

 それはむしろ、個々人日常生活の中に、そうした「愛(いと)し」「恋し」「哀(かな)し」の思いが行き交う世界が復興するための、ささやかなお手伝いなのだと思う。

*****

 BGMは、中島みゆきの中島みゆき - 歌でしか言えない - 永久欠番「永久欠番」ということで。

 ・・・敢えて、「生きる」の記事ではなくて、こちらの記事の方に。

blogram投票ボタン
ブログランキング・にほんブログ村へ
人気ブログランキングへ
ビジネスブログランキング
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 心理カウンセリングへ
にほんブログ村 ニュースブログ ニュース批評へ
にほんブログ村

2009/09/03

「カウンセラーこういちろうの雑記帳」の主要過去記事を一番簡単に一覧するには

 このブログって、すでに創設4年9ヶ月、過去のエントリー記事総数が、「この」記事で1,914本め、なのに一日あたりの新エントリー、平均1.10本以上を現在も維持、しかも長文が多いという、へヴィー級ブログです。

 おかげで、もはや@ニフティココログが割り振ってくれているサーバー負荷が相当なものになっているせいか、

  • 私の方からトラックバックを送ることがもはや機能しない
  • pingも自動では飛ばせない(その割には随分多くの読者の皆様が、新記事アップ直後においでいただけることを幸いだと感じています)
  • カテゴリーにすべての記事が反映しない(カテゴリーによっては300から400エントリー分表示されようとするわけで)

・・・・・という、新しくおいでいただいた読者泣かせのブログになっていると思います m(_ _;)m

****

 もちろん、バックナンバー全体を表示してくれる、『アーカイヴ』ページ(自身がココログユーザー以外の読者の皆様、お気づきでしたか??? 右フレームの「バックナンバー」という文字そのものをクリックするとたどり着けます)というものも、あるにはあるわけです。

 しかし、このページにお行きになっていただいたとしても、過去の個々のエントリー記事のタイトル一覧があるわけですらない

 このページからの「〇年〇月」を全部めくっていただくだけでも(全く休眠した数ヶ月を除いても、現在50か月分ほどあるわけですね(^^;)。その50ヶ月分、それぞれ月ごとに、毎月30から40エントリーずつはあるわけですから・・・・・

 つまり、私がこのサイトでこれまで書いてきた主要記事がどんなものか、新しい読者の皆さんにおおよその見当をつけていただくには、もうデタラメにご不便をおかけしていることと思います   il||li _| ̄|○ il||li

*****

 この問題を一気に解決し、

  • 新記事の方が上に来る形で、
  • 過去の記事に関しては私がある程度絞り込んでセレクトしたものを、
  • 数百記事ばかり、1ページをスクロールできる形で
  • ブログのような表示の重さがない形で一覧したいただける

そういうページが、実はずっと以前から存在します!!

●阿世賀浩一郎のホームページ/index

 開設1995年12月(つまりWindows95発売直後)開設、日本において、インターネットで個人サイトを作ることが本格的に普及し始めた黎明期から、何と基本的なデザインを変えないまま運営し続けているサイトです。

 かつては、ネットを代表するエヴァ・サイトのひとつ、「エヴァンゲリオン論考」で著名だった時代もありますけど、幸いにして著作化させてもいただきましたので、そのコーナーは全面削除いたしておりますが(「ちーちゃんの部屋」というアニメコーナーがかつて存在したことを覚えておられる方もあると嬉しかったりして ^^;)・・・・

そのトップページから、このブログでの新エントリー記事を書く度ごとに、固定リンクへのリンクを、たいてい速攻の連続作業でお貼りしてもいるのです。

 恐らく、皆様のRSSリーダーに反映するスピードの比ではない「即時性」で「新着情報」が掲載され続けています。

 同一エントリー記事の更新(改版)情報すら、可能な限り早くお伝えしています。

 

そこに並んでいる、当ブログ個別記事へのリンク数は、常時数百あるはずです(古いものから時々、精選のための「ダイエット」をかけますので、一定数以上には増えません)。

 しかし、敢えて今でも、基本的には「素朴なhtml言語の手打ち」に依存し、javaスクリプトすらないに等しいということで、このトップページそのもののバイト数の多さの割には、表示が圧倒的に軽い筈です(このブログのトップページを表示するよりは軽いと思いますよ)

 
当方のアクセス解析によって、「こっちのページで新着情報見つけるほうが手っ取り早い」ことにお気づきの、毎日数名以上の固定ユーザーの方がおられることは掌握しています(感謝!!)。

 しかし、そうした方の占める比率が以前よりもかなり減っているようにも思いましたので、改めてご紹介させていただきました。

 

今後とも、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」をよろしくお願い申し上げます。

blogram投票ボタン
ブログランキング・にほんブログ村へ
人気ブログランキングへ
携帯アクセス<br /><a href=ビジネスブログランキング
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 心理カウンセリングへ
にほんブログ村 音楽ブログ 女性ミュージシャン応援へ
にほんブログ村 ニュースブログ ニュース批評へ

 

2008/01/18

こういちろう学習障害あるいはADHD、あるいは「星の王子様」説(第2版)

 「この人ADHD(注意欠陥障害)? それとも学習障害(LD)かしら?」


 恐らく、このサイトをご覧いただいているカウンセリングの専門家の中で、ほんとうに勉強されている方は、そういうことをお感じの方っていると思います。

 さすがにもはや「躁うつ病」しかでみないようなら、現代臨床心理学におけるアセスメント能力としては欠陥が多すぎる(爆)

 そして、ここまで書いてきたら、そして、写真まで公然と掲載しているから、体型も資料になるわけで、私のベースが、どう見ても、クレッチマーのいう「躁鬱気質」からほど遠い(全然社交的ではないものね、本来は)こともおわかりのはず。

Ann_weiser__and_koichiro

 でも、人間は大好きだし、冷たい人間ではない(むしろ無茶苦茶ホットでハートフルな)ことも伝わってると思うし、体型も根っからの細身ではない、むしろ肩幅が広い、ずんぐりむっくりであることもわかるでしょう?(私の師、村瀬孝雄先生は、立教の研究室に私を迎える直前、他の院生に「今度来る奴は柔道の選手みたいな体型をしている」と事前に伝えていた) 。そうなると、分裂気質説も不十分(30%は分裂気質でしょうけど)


++++++


 そうなると、残るのは、てんかん型、あるいは闘士型といわれる執着気質、ないし中心気質と呼ばれるものですね。これについては私の古くからの知り合いで、私の「エヴァ」本プロデュースをはじめとしていろいろ引き立ててくれ、著作も凄く多いどころか、近年はTV出演もなさる、同じ開業カンセラーの矢幡洋さんが、「『星の王子様』の心理学」で書いたことがあまりに私にもあてはまります。

 (ちなみに、私のもうひとつの古くからの大事な人脈が、「あの」NHKアナウンサーを奥様にした、テレビでもおなじみ、文化人類学者の上田紀行さんです)

 人と、むしろ開けっぴろげまでに胸襟をひらいてつきあいたい。そして、「星の王子様」に出てくる薔薇のような女性の側面は嫌悪してますしね。女性のそういう側面に媚を売ることは死んでもするかと思っている(このことを肝に銘じていたら、私とつきあいやすくなるよ、女性のみなさん)。

 そして、圧倒的なまでのひとつの対象への持続的集中力としぶとい職人性。気難しさ、「瞬間湯沸かし器」、一種恍惚とした超越的世界に一瞬にして突き抜ける側面(空海さん)、そして、好戦的なところ、とくれば、むしろいよいよ『闘士型』こそベースとわかる。

 時代が違えば、私は宮本武蔵か、それこそ、中世スペインの英雄「エル・シド」なんです。

 あるいは、現代なら、言うもはばかれるけど、イチロー中田!! 


 だから、「お通さん」や「ヒメナ(エル・シドの妻。映画のソフィア・ローレンですね。この人、ホントにエル・シドの死後、2年ぐらいはバレンシアの領主を務め上げたくらいに「できた」人だったみたい)のような女性を心の中でずっと求めている(「イカ天」の頃の、イチローの奥様、もう、最高に好みの女性でした!!)し、そういう女性たちをほんとうに苦しめかねない。

 すぐに旅立っちゃたり、人質に取らせたり、やりかねないので。自覚してます。この点で女性に負担が大きいのは。

 でも、今は政略結婚やお世継ぎのためにで妾を増やす「現実的必要」ないでしょ?
 ほんとうは、すごーーーーーく、一途ですよ!!!


******


 ......となると、まずADHD(注意欠損障害)仮説はちょっと似合わない。確かに話題は次々飛ぶけど、私って、実は何を「話題」にしいていても、実は、手を換え品を換え、同じテーマを追求しているということは、すでに常連の読者の方はお気づきかと思います。

 学習障害仮説は肯定します。テスト用紙に向かいさえすえば、業者テストの国語は学年一、社会科も、普通に勉強して業者テスト全国上位、共通一次試験第一期生で国語自己採点198点。

 一方、数学は、幾何など、空間認識が関われば、あるいは「集合論」(記号論理学って、実は「集合論」との親和性が高いのは、学んだ人は知ってますよね!)には、ついていけたばかりか、ある種のセンスがあったけど、要するに微分・積分・方程式の世界を全く理解できない永遠の学年最下位


******

 もっとも、ほんとうの学習障害の人って、この程度のものではないことは、先日の研修会で笹森理絵さんのお話に接して、よくわかりました、彼女の100倍希釈に過ぎませんね。私の学習障害度は。


*****


 いずれにしても、これで私の今年の恋愛の抱負、「とことん高望みしてみる」の真意が少しつたわりましたよね。

「その人を自分が苦しめ、傷を負わせないかとうか、十分に吟味し、少しずつ交際を深める中でお互いを理解していく。できるだけいきなりセックス(セルクス)しない(爆)」

ということ!!

2007/03/28

シリアスはギャグ、ギャグはシリアス

 シェイクスピアの「マクベス」に出て来る3人の魔女が、

 「きれいはきたない、きたないはきれい」

と呪文のように唱えるのをご存知の方は少なくないかと思います。


 ユングの「無意識の補償作用」を引き合いに出すまでもないかもしれませんが、人間、意識的に「まじめに」生きようとばかりすると、邪悪なものや退廃をいつのまにか引き寄せ、いつの間にかその当事者になることが多い。

 テレビでの映画放映やクレージー・キャッツの歌を中心に拝見することが中心でしたが、私が植木等さんのキャラクターのプレゼンスに感じるのは、ここにひとりの「誠実な」人がいるなあ、という思いでした(もちろん、「シャボン玉ホリデー」の本放送を子供心に見ていた世代でもありますが。確か、一年間、「8時だよ全員集合」のピンチヒッターもありましたよね)。

 最近、私が子供の頃からテレビで親しんだ俳優の方が何人かお亡くなりですが、植木等さんの死は、そうした中でも、ふと、さびしさを強く感じさせられました。

 僧侶の跡取りでもあったことは存じ上げていましたが、msn=毎日によれば、浄土真宗だったとは。お父様は、戦前の、真宗改革運動の闘士だったとお見受けしました。

 謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

2006/11/30

親鸞の「歎異抄」の精神とパーソン・センタード・アプローチ(第6版)

 私は実際に浄土真宗の家に生まれていますけど、親鸞については、ほんとうに日本史の教科書的な記述以上のことはほとんど何も知らなかったんです。「他力本願」「悪人正機説」、僧の妻帯を認めた、一向一揆と、その後の本願寺の権力者による抑圧、ぐらいのことで。

 この前も書きましたが、11月はじめのの人間性心理学会大会で、池見先生とアンの「対談」を聞く中で、突如私の中で、シフトが生じ、

> 「ジェンドリンは、『フォーカシング』の中で、
>
> ぴったりなコトバがなかなか浮かび上がってこないようなフェルトセンスが生じてきたら、それはむしろ歓迎されるべきである
>
> というようなことを述べていた。
>
> そういう時に、焦ることなく、
> 心の中のスペースを大事にして、
>  新鮮な『言葉』が
>  おのずから立ち現れてくるのを
>  じっくりと待てるということは、
>
>  新たな『状況』が、
>  おのずから生じてくるのを
>  じっくりと待てることと同じことだと思う」

......と、自分でも、口にしてからびっくりするような、思いよらないことを口にしていたその数時間後、今度は、シンポジウムで、シンポジストとのひとりの山折哲雄先生がいわれたことで、不思議と気に入った(実は、この言葉を聴いた瞬間に居眠りから醒めたのであった....)のが、その時点では出典すら記憶になくてメモにも取らなかった、

「彌陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」

という言葉のうろ覚えが私の中でなぜか響きあい、実際にネットで「歎異抄」を調べ始めて、実際に原文を読み通してみて、いよいよ興味深くなったという順序なんですね。

*****

 「歎異抄」という著作そのものは、実は親鸞自身ののものではありません。唯円という僧が、若い時代に関東からはるばる京都の親鸞のもとを学友と訪ねた時に歓迎され、滞在時に伝え聞いた話ををまとめたものである。

 書かれたのは、親鸞唯一の直弟子となった、親鸞の入滅後30年、唯円自身が亡くなる前、1年以内とされる。

 後述する梅原氏の説によれば、恐らく、第3門主に覚如(親鸞の曾孫にあたる)が就く際に、再び京都に赴き、彼に親鸞の真意を伝えることによって教えが風化しないことを祈って事前に書き留めた上で講釈したのではないかと推理している。本来「ただひとりの人間」にのみ伝えるつもりの「秘伝」だったらしい。

 親鸞自身は、実は師の法然の忠実な継承者に過ぎないと思っていた。法然も親鸞も天台宗の総本山、比叡山で修行を積んだ。学問や厳しい修行がなくても、「南無阿弥陀仏」と唱えれば、「誰でも」浄土に行けるという思想そのものは法然が既に確立したものである。法然自身が叡山で危険視されたが、あまりの博識と、僧としての持戒の深さ(伝統的に僧が犯してはならないとされる戒めをきちんと守ることの潔癖さ)のために一目置かざるを得なかったようである。

 もとより、法然の時点では、「悪人も」「肉食妻帯者も」、念仏さえ唱えれば浄土に行けるという教えだったのだが、親鸞に至り、僧の肉食妻帯を「公然と」認めた(「非公然に」ならば、実際にはなされることが多かったのは、そもそも天台の始祖、最澄自らが歎いていた現実だった。天台宗そのそのものが、最初は既成仏教への改革運動そのものだったのである)。親鸞は、それどころか、「悪人の方が浄土に近い」という大逆説まで公然と唱えるようになっていくこととなる。

 若い頃は、法然の兄弟子たちの間すら「無学な過激派」とみられていたが、法然自身は弟子たちの集まった前で、「親鸞の念仏は自分の念仏と同じ信心である」と、親鸞が若い頃にすでに公式に発言したという。
 
 宮中の侍女たちとの弟子たちのゴシップを体のいい理由づけにされて、弟子4人は死罪、法然と親鸞は遠隔地に流罪となっている。法然はすぐに京都に戻ったが、親鸞は福井に俗人として長期間滞在し、妻子を設ける。
 
 そして次に歴史の舞台に現れた時は、常陸の国を中心とする関東で長期間布教活動をして、中年期を過ぎてやっと京都に戻る。もっとも、知り合いのところをあちこち点々とするという、地味な暮らしぶりだったらしいが,何と90近くまで生きることになる。

 その頃には、親鸞の弟子や「また弟子」たちが、各地で勝手に親鸞の教えを広め、お互いに誰が真の弟子かを競い合う混乱状態が生じていた。しかも、妻帯を公然と認めたものだから、必然的に宗主は、子孫や親族たちの後継者争いになり、それはそれぞれが当時の有力諸候と癒着した生臭いものになる。(親鸞自身は、まさに「異説を広めた帳本人」として長男を廃嫡するしかなかった)。

 それは、時代を下るにつれて、時の権力者をも脅かす政治勢力としての性格を強めるしかなくなった。「浄土真宗」と「浄土宗」の分化は完全に歴史の産物なのである。親鸞自身が独立した宗主を自認する発言は全くしていない。親鸞の墓所が正式に本願寺として成立するまで数代、本願寺が独立宗派の総本山と自他共に幅広く認められる存在になるのは、革命的布教者で、かの「石山本願寺」を建てた8代めの蓮如の代である。この連如ですら一度は焼き討ちにあい,各地を転々としている。「本願寺」そのものが、数回場所を変えて建立されるしかなかった。秀吉に京都に本願寺を移すように命じられ、跡地に大阪城作られてしまい、更には家康にそそのかされて東本願寺が分離独立した時点で、浄土真宗は、大勢力ではありつつも、政治家に屈服してしまうのである。

 話を遡ると、3代めの覚如は、教団の維持に都合の悪いところは無視して、でも「歎異抄」をもろに剽窃して、自分の書いた「口伝抄(親鸞から、2代めの如信に口伝されたものを『如信から』3代めの自分に口伝されたものの抄録)」として公式に示すことにより、女系の曾孫という、血縁的には遠い自分こそが親鸞の後継者という位置づけを強化したのだろうと梅原氏は推測している。

 結果的に、単なる無名の地方の僧侶だった唯円が著者だということそのものが歴史に直接は残らなかった。幸い、本山に「お蔵入り」はされていて、唯円という僧についての他の行跡の断片的記録を照合すると、「点と線」は見事につながり、著者唯円が、親鸞自身から聴いたことを書き留めたのは間違いないことは,学界でも宗学の上でも『今は』ほぼ定説化している。

 少なくとも、新約聖書の4大福音書の成立(2世紀ぐらい)までに比べたら、直弟子だった人物のまとまった唯一の記録として、親鸞の生の発言が忠実に反映されている度合いが格段に高いとされている。

 しかし、この書の存在は長い間知られず、学問的・教学的吟味がはじまったのは、江戸時代中期、本居宣長らによって古事記をはじめとする古い文献への文献学的再吟味が始まった潮流に乗って以降である。この時点で著者唯円説を説得力ある形で唱えた学僧ははいたが、あまり問題にされなかったようである。

 この書を有名にしたのは、明治時代になってから、清沢満之とその門弟たち(金子大栄はそのひとり)が真宗改革運動の乗り出す際にこの著作を重視してからであり、それまでは、そもそも「布教に使われることのないまま」埋もれていた。その内容が、基本的に教祖の親鸞自身が「教団」というシステムそのものを否定する、激越な内容を含んでいたためである。

 要するに、親鸞が若い熱心な弟子に向かって、問わず語りに、おそらくかなりくつろいだ気分で、ざっくばらんに繰り返し語った「ホンネ」集みたいなもの。

 鎌倉時代の、しかもかなり口語的にくだけた文語なので、少なくとも源氏物語を読もうとするのに比べれば(徒然草よりもだと思う)、古文に普段なじんでいなかった人でも、そんなに多くはない独特の仏教用語そのものすら前後の脈絡から何となく推理でき、現代語訳で解説的に「翻訳」されてしまうと失われる「泥臭いまでに生身の人間の匂いがする」味わいがダイレクトに堪能できるのではないかと思います。

 何しろ、私がはじめて「読破」した仏教についての単著がいきなりこの原典、というくらいです。

 岩波の金子大栄氏校注(現代語への非常に解説的な意訳付き)で、昔でいう★の厚さにしかならないもので、原文だけならほんの20ページで終わってしまうでしょう。

****

 私が妄想した、ある光景。

「だってさあ、そうだろ、お前。わかるかあ? 阿弥陀様は、こんな俺のことだけを思って救って下さろうとしたのではないか、とすら感じた気持ち。これって、一見傲慢だろうけどさ、自分が本当に救われた、それは私の意志やがんばりなんかではなくて、師匠の法然様が救ってくださったのですらなくて、本当に、人間の思慮分別を超えた阿弥陀様というものがおられて、何でかわからんけど私なんぞを「救って下さった」というしかない、って。自分を超えた「何か」の「はからい」がないとこうなるわけない!! と心底感じたから、阿弥陀様に念仏を唱えずにいられないわけだよ。」

「俺は「弟子」なんてひとりも持った覚えはないから。俺の教科書をありがたがって知識として「勉強する」だけの奴らなんて何もわかってないの!! ホントぞっとするね(きはめて荒涼のことなり)。そうやってただの生身の人間であるに過ぎない私を崇拝する奴らなんて!! 俺をありがたがるなよ!! 凄いのは阿弥陀様であって俺ではない。俺であってはならないわけ!!」

「 そして、信者たちにありがたがられて、まるで自分が救い主みたいな自己陶酔するなっつーの!! そういうのが俺の高弟でごさい、みたいな態度取ってると虫酸が走るよ。救ってくださるのは阿弥陀様であって、連中が、努力や修行を積んでいけば人々を「救える」ようになりたいと「願う」ことのがそもそも傲慢だよ。どこまでいっても人間はこの世では煩悩から抜け出せないよ。阿弥陀様だけが、俺たちを含む人間の救済を本当に「願う」(本願)力を持っている。「祈って」待つしかないんだ。阿弥陀様の慈悲がその人をお救いになることを。人が人を救える、自分もそういう人間に修行を積めばなれる、なんて発想そのものが、そもそも不届きで傲慢で「煩悩そのもの」なんだよ」

「そういう人間は、自分は徳を積んだ善人だと確信犯してるからいよいよどうにもならん。俺はいろんな欲や感情にとらわれ、悪いことをして生きていくしかない、そのことへの自嘲と絶望を密かに感じている人間の方が、本当に人を超えた何かに救われたいという思いに近いとすら思うね。阿弥陀様もえらいモンだよ。そういう「独善的」エゴイズムにとらわれた人間すら念仏「させてくださって」救ってくださろうっていうんだから(「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」・・・・いわゆる「悪人正機」説

「......もっとも、逆に、どんな悪いことをしても、色と欲に開き直っても、阿弥陀様は念仏しさえすれば救ってくださると開き直る連中も、逆方向にどんでもない勘違いしている。念仏ってのはさ、実は自分の意志で「する」か「しない」か自由に決められるものだと思ってるだろ、そいつら。念仏「できる」ことのものが、阿弥陀様の慈悲あってのものだっていう、肝心なことに気がついてない」

「.......え? 『念仏していても全然幸せな気持ちになれないし、そもそも極楽浄土って、そんなにいい場所なんでしょうか?』って? .........正直な奴よのう、お前。......実は、わしもそう思う時がある(爆)。でも、そうやって煩悩や迷妄にとらわれる存在でしかないからこそ、救っていただけるありがたみがあるんじゃないかの? 念仏するかしないかは、勝手にすればあ? としか思ってないんだけどね。」

「....実は、俺すら、この程度の人間だから、阿弥陀様がまっすぐ極楽に連れて行ってくれる保証はないと思うね。すべては阿弥陀様の手の内にありだし、どうみても、一度は地獄行きでもしかたない程度のものだと思うし。でも、そうなっても先生の法然様が俺をたぶらかしたなんて、師のせいにして一切恨まないからね。すべては阿弥陀様の手の内にある、その慈悲にすがるしかないってのは、俺の人生かけて悔いはない帰結なんだからから」

*****

 「歎異抄」とは、自分本来の教えの意図がが右にも左にも誤解されて『異』なった姿で論じられるようになったことへの師の『嘆(なげ)き』に共鳴した弟子が、師に繰り返し言われたことの核心を要約してまとめ(『抄』録し)、後続の章で、唯円自身による解説を付記した書物なのである。

 ここからは、現段階での私の想像です。

 どうも身近な弟子たちは私に媚びてるので信頼ならない。でもはるばる関東の地からやってきたこいつ(唯円)なら、情熱はあるけど頭でっかちではなくて全然スレてない。「浄土ってそんなにすばらしいところか信じられない時もあるんですけど」、とか、無礼な質問すら平気でしてくる誠実さを持っている、こいつなら気を許せる、と見込まれてしまって、飲み屋での老人の繰り言のように、熱弁をふるい出す師の話に「繰り返しつきあわされる」みたいな状態だった唯円。

 京都滞在時代の若い頃を思い返すうちに、いよいよ混迷し、政治にも巻き込まれて変節していく教団のありようと引き比べるうちに、師の語った「逆説の山」の真意をいよいよ悟っていった。

 親鸞の直接の教えを受けた人たちがみるみる世を去り、直弟子唯一の生き残りとなったところに、関東の外れに「無名だが、直弟子がまだひとりだけ存命」と知った京都の本山からお呼びがかかったが、あまりに過激なその内容に、唯円が精魂込めて書いた持ってきたテキストは、あっさり「お蔵入り」となってしまった。

*****

 「他力本願」というのは、実はカウンセラーに必要な究極の姿勢ではないかと思う。

 カウンセラーは、自分が修行を積めば人を「救える」ようになるなどとうぬぼれてはならない。「願って」もならない。

 ましてや、自分の流派が優れているとか、自分こそが真の弟子だとか論争するのは、恐らくカウンセリングを受けるクライエントさんにすら有害な、もっての他である。
 
 実は相手が以前よりいい状態になることを『願う』ことののものが、カウンセラーの煩悩であって、身勝手なのではないか。

 我が身を振り返ってみろ。そんなに幸せか? そんなにものごとをうまくやれているか? 時には色んな欲や感情に振り回され、ごまかしをし、先生や先輩として慕われることにいい気になり、逆に先達の機嫌を損ねないために媚びへつらい、自分の業績へのこだわりから他人を批判する。身近な人たちを傷つけ、失望させ、他人の命をむしり取るようにして生きている、いつまでたってもそんな人間ではないか。

 ******

 私は、自分が現場カウンセラーが「天職」な人間などとはほとんど思っていません。でも、それは周囲と比較してのの劣等感とか、そんなものでもないのです。むしろ、少し前まで思っていたより、カウンセラーの実力差など、実は「ない」のではないかとすら感じ始めています。

 私は、なぜか、フォーカシングとの出会いから一貫して、ジェンドリン自身すら含めて、フォーカシングの世界の中で、特定の誰かを「師」と感じたことがない、というあたりはこのブログでも平然とボロボロ書いてきました。ジェンドリンの理論が、心理療法の世界のアインシュタインと言いたいくらいの「コペルニクス的展開」を秘めたものであるということは確信してますが。

 そして、「私はそれを確信している」と言っておきながら、それを積極的に宣伝することにはあんまり興味がないようである。親鸞が法隆寺六角堂で阿弥陀様から受けた啓示と同じようにして、フォーカシングと出会ったという意識しかないから、「特に臨床家のみなさんがピンとこないことが『わからない』ともいえるし、『仕方がない』とも思っている」と開き直るところがある。

 (もっとも、これは、フォーカシングについて「実体験がないままの人に、実体験がないまま『理解」』してもらおうという意識がとことん欠けている」ということです。もとより、実際に実習してみようとおいでになった個々の皆様に対してとなると、個々のフォーカサーの方のペースに寄り添おうと努めるトレーナーであろうと務めています。フォーカサーの「お口に合う」、「一品料理」としてのフォーカシング体験になるように最大限の配慮をします。消化不良にもならないように。この点は、こちらで書いた通りです)

 フォーカシングとは、フェルトセンスを感じてみるという、ただそれだけのことで、しかもフェルトセンスはすでにそこにあって、こっちに気づいてもらいたがっているものであることは、ジェンドリンの本を最初にめくった瞬間から自明のものだった。ジェンドリンはそれに言葉を与え、「自覚させて」くれただけの存在なのだ。フェルトセンスに「どのくらい」従って「いない」かだけは、どんな瞬間にも実は感じて「いた」としかいいようがない。

 アンはすばらしい「先達」だし,わかりやすくツボを押さえて技法化する上でのセンスは圧倒的だし、個人的にも全然構えずに気持ちが通じやすい人だと感じてますが、いわば「タメ口安心してたたける先輩」みたいな意識です。

 そして、村瀬孝雄先生は、そういうどこの馬の骨ともわからない私を引き立ててくださった。村瀬先生との出会いなしでは、今日の私はありません。でもそれは、何と村瀬先生が、ひたすら私の聴き役をして下さるという、驚くべき謙虚さをお持ちだったからに他なりません。

 もちろん、今でも、個々の点で、その人を「見くびっていた」な、この人はこの人なりに、私にはない持ち味があると感じて自分の傲慢さを恥じることはしょっちゅうですが。

 そして、フォーカシングとの出会いを、ほとんど運命的な「神からの恩寵」と感じていることは繰り返し書いてきました。それこそ、「私を」癒すために、フォーカシングという技法が生まれ、遣わされたのだとすら思っているところが確かにある(^^;)。

 もとよりこれは、各人が、各人なりに、フォーカシングとの出会いをそれくらいに「私的な」邂逅(かいこう)として体験できることを信じたいからこそ、おおっぴらにいうことなのです。

 いずれにしても、私は、この世の誰の影響の元にフォーカシングに導かれたのでもない、という事実は変えようもない。

 でも、フォーカシングというものそのものが、自分のコントロールを超えた何かだと感じているのですね。

 どうして、「あの時」ではなく「この時」フェルトセンスに改めてじっくり注意を向けようという気に「なれた」のか???

******

 「クライエントさんは、自分の力で治っていく」という言い方も、結局行きすぎだと思います。

 なぜかしらんけど、そのひとの「状況」が味方をし始めた、としかいえないことって、多い気がして。

 そこまで、クライエントさんを何とかしようという「悪魔の誘惑」にも負けてしまわず、クライエントさんに何も変わらないという絶望を感じさせ、クライエントさんに見捨てられたと感じる無力感からも目をそらさず、「なぜか」関係が維持されていることそのものに感謝を覚えなから、何か活路が生じることを「祈る」ことしかできない。

 ちょっと、カウンセラーを「変えよう」と力んでいた私が恥ずかしくもなっています。

 出口は、常に「向こうから」やってくる。

 そう感じている人だけが、技法に「使われる」ことなく、技法を「なぜか無理なく有効に使えてしまう」ようにも思います。

*****

 ともかく、たまたま浄土真宗の家に生まれたことも、何かの巡り合わせかなと思いました。

 梅原猛先生の訳注の、はるかに分厚い「歎異抄」を読みました。すでに更なる読み返しの最中です。梅原先生の本を読むことすら初めてのこの私(^^;)

 金子大栄氏の岩波版は、現代語訳が親切に「意訳」しすぎて、逆に原文の生々しさが薄れて、洗練され過ぎている気がしましたが、梅原先生の現代語訳は、より逐語的でありつつも、平易で、原文の情熱が伝わる訳と感じました。もうちょっと下品でもいいかなとは個人的には思いますけど。解説は、ちょっと親切すぎるくらいだけど、歴史考証も含めて、たいへん読み応えがあります。

追記:私って、やはり、法然(村瀬先生)にとっての親鸞であり、まさにフォーカシング界の「歎異抄」(のもとに未来になる予定の「雑記帳」)を、ここで必死に書いて来たんだと思います。

2006/11/17

結局何もできなかった彼らが「英雄」なのはなぜか

 昨日、やっと「ワールド・トレード・センター」を藤沢で観て来ました。(msnの特集はこちら

ワールド・トレード・センター スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]

 すでに、今週金曜までの早朝上映だけ、という、藤沢で観るにはぎりぎりセーフでしたが。都心の有楽町の日劇で観ればもう少しロングランしそうでしたし、大スクリーンかつ音響効果の素晴らしさも体験できたろうし、実際、土曜日に都心での仕事もあったのでそれは可能でした。
 
 しかし、自宅のある大船からとなりの藤沢まで130円、(大船、いや、鎌倉には映画館はなぜかありません)映画館までの徒歩を含めても行程皇実質30分だったし、まだ藤沢の映画館は行ったことがなかったので、新鮮な散策を兼ねて丁いいかと。いい加減で早起きに慣れたいというのもありました。

*****

 私は、何とオリバー・ストーン監督の作品を見るのはこれがはじめてです。

(結局、私って、ちょっとした映画好きの方に比べればかなり貧しい量しか実写映画は見てません。ただ、実写映画体験が分厚い監督さんのアニメで鍛えた「映画の文法」というものには凄く敏感です。あと,世界屈指といわれる声優さんたちの声の演技力で鍛えられた、「役者」の人物表現のセンスを観る目はそこそこあるつもりです。それに、アニメは、「意識的に」描こうとしないとそこには何も映らないわけで、伏線的・象徴的映像表現には敏感になります)。

 でも、私が他の作品について伝え聞くことを総合しても、「オリバー・ストーンとしては、職人的で、抑えたタッチの淡々とした映画だね」という感想を覚えた人も多いかもしれない。

 「タイタニック」の方がよほどスペクタクルで悲壮な悲劇性があったし、とか。

(『タイタニック』は、「銀河鉄道の夜」の原作の物語を重ねてみると深みが増すわけですが。特に賛美歌になじんでいれば....というのは蛇足)

*****

 そして極めつけ、

 結局、あの警察官二人は、「誰も人助けをできないうちに」生き埋めになり、身動きできなかったまま助けを求めるしかなかっただけではないか。

 実際に非常階段を駆け上り、降りてくる人たちを誘導した挙げ句に死んだ人たちの方がよほど英雄ではないか、と。

*****

 でも、私は、だ・か・ら、あの二人は「英雄」なのだ、とも感じます。本来人を助ける側の人間が、情けないまでに「受苦(passion)」に耐え忍ぶしかなかった存在だからこそ。

 徹底的に、「他力本願」になることの苦悩と葛藤を味わい尽くしたからこそ。

 「他力本願」については、あれから「歎異抄」原文を実際に文庫版で読みましたので、また別の記事で、もう少し突っ込んだ私なりの理解を述べていますので、興味のある方はお読みください。

*****

 そして、この物語の中で、実は一番その英雄性に驚かされるのは、遥か離れた土地から、救済に向かうことを神の意志と感じ、家族や仕事を放り出して、全くの単独行動で現地に「潜り込んだ」海兵隊の予備役の男性ということは、多くの人の意見が一致するとことでしょう。

 二次災害の危険があると捜索活動が中止された中に、わざわざ久しぶりに海兵隊員らしく床屋で髪を借り上げ、自前の海兵隊員の服装でまんまともぐり込んで、勝手にひとりで捜索活動をし続けた彼。実は瓦礫の山でめぐりあった、もうひとりの「違法単独捜索」者もまた、海兵隊員でした。

 「誰かに声をかけられても無視し(して捜索活動を続け)よう」

 彼は、瓦礫の下数メートルに生き埋めになった警察官二人を発見し,連絡し、レスキュー隊員たちを呼び寄せると、あっさりその場を離れます。

 「これからは,私のような経験豊富な兵士が必要になるから」

と。

 彼はその後実際にイラクに派兵されました。実際の人物を俳優が演じているわけですから、ひょっとしたらこの海兵隊予備役の会計士の(!)男性は、多くの「敵」を殺戮する側に廻ったかもしれない。今もイラクにいるのかもしれない。

 そういう連想が生じるにもかかわらず、彼の存在感の凄さは、この映画の中で異彩を放っています。私の観た映画の中でいえば、「タクシー・ドライバー」
の主人公にも「どこか」通じる「何か」です。

 私は「プラトーン」すら観ていません。でも、

 「本当の英雄は、広い意味での『現場』の最前縁にある、名もなき人たちなのだ」

 という思いがストーン監督の中に重くあることは確かなのだと思います。

 実は免許剥奪中の看護士が,敢えて危険な瓦礫の中に実際に潜って応急手当をした人物だという「現実」。

 彼らは、この物語の中で、さりげなく登場し、さりげなく立ち去ります。

 パンフによれば、警察署員、消防士など、実際に現場でこの2人の救出に立ち会った50名がエキストラとして、実際に果たしたそのままの役割として参加しているとのこと。細かい台詞にまで「そんなことは消防署員はいわない」などと、即興でどんどん台本は手直しされたとのこと。

 実物そっくりに再現された瓦礫の山のセットを前にして、俳優が本人の代わりに出たシーンの「本人」も含めて、これだけ多くの関係者の再会ははじめてで、当初は何とも複雑な重い空気をもたらすものだったらしい。

 でもすでにその晩は、まるで「同窓会」のようでもあり、いわゆる、"postvension"におけるブリーフィング(悲劇を共にした関係者の「事後ケア」の癒しのための集い。詳しくは高橋祥友先生の著作参照)としての意味を持ったとのことでした。

最新映画、話題作を観るならワーナー・マイカルで!
最新映画、話題作を観るならワーナー・マイカルで!

2006/11/14

フォーカシングへの誤解を解く(?) その2

これはクラシック音楽の何かの雑誌で読んだことだと思うのですが、

 特にある程度年長になってバイオリンの持ち方を教えてもらい、弓を弦の上に運ぼうとした時、そもそも「弓を弦に吸い付けたまま」ボウイング(弓の上げ下げ)をするということそのものが、こんなにも難しいものかと感じた方は少なくないかと思います。

 ギターはこの点有利です。ポロンと音を鳴らしてみるだけなら、抱え方すら知らなくたって誰でもできる。いじくってるうちに、同じ音が違う弦だとどのポジションを押さえればいいかも、そこそこきちんと調律されていれば、いじっているうちにわかる。オクターブだとか、ドミソの協和音とかも、自己流で鳴らせる。「調律されていない」と、違う弦で同じ音を鳴らしたつもりでも、「音がうなる」という、貴重な体験もできる。

 そして、違う弦で同じ音を鳴らすと、響きが実は異なる(倍音成分が異なるから)ことにも気がつくし、

つま弾く部分をネック寄りにするだけで音色が変わるのもわかる。

 不協和音でいいからジャラジャラ鳴らしてみると、何となくギターを弾いて音楽をやっている気分になれる(^^;)

 中には、純粋に自分で試行錯誤する中で、5本の弦の全く自己流の調弦の仕方すら身につけ、全く何も教本を見ない独学で、伴奏でコードをジャラジャラ鳴らして歌の伴奏にする境地までたどり着いた、という方も決して稀ではないと思います。

 ピアノには、この、「音色の多様性を楽しむ」という側面があまりない。

 だから、何が弾けるかというと、フォークギターでコード伴奏するくらいなら何とか.....という人が、ピアノやバイオリンより、「人口比的にずっと多い」のだと思います(^^)

 バイオリンに至っては、ギターには当然ある「フレット」がないから、取りあえず正確な音程を出すだけで、実は、高度な能力が必要とされる。

 もとよりバイオリンの、この音程のアナログ的なコントロールの自在さは、人間の声と同じように微妙な音程の変化や、ヴィブラート、そして、ほんとはピアノのような「平均律」の楽器だと微妙に濁ってしまう和音の「純正な」響きを生み出すのにも役立つ。


*****


...で、そのバイオリンを学ぶ時、ヨーロッパでは、ボウイング(弓の上げ下げ)ができるようになった段階で、石造りの残響(エコー)の多いドームとかに連れ出して、まずは自分の弾くバイオリンの「響きの快感」に十分浸らせる教育がよく取られるとのこと。

 同じことは、もちろん声楽でもギターでもピアノでも応用できるわけですが。

 要するに、「お風呂場の名歌手」ないし「カラオケのエコーの快感」状態に置くわけですね。

 学校なら階段の踊り場とか、体育館とかが、うってつけの空間でしょう。

でも、日本にはそういうエコー成分の豊富な空間がなかなかない。

 石造りの建物の中で育まれた西洋楽器の勉強の初歩はまずそこでつまづくわけです。

 もちろん、本格的に練習を始めたら、かなり響きの薄い「デッド」な部屋の方が、厳密な練習には向いているでしょうが。

 ヨーロッパなら、素人であっても、幼児期に「教会堂の響き」の中で聖歌隊の歌声を聴いた瞬間の恍惚感ことが、その音楽家の音楽を志すきっかけだったというような話はいくらでもあるでしょう。

 少なくともフランスの、最後までピアノが弾けなかった、管弦楽法の大家、「幻想交響曲」が一番著名なベルリオーズの「回想録」には出てくる話です。これが音楽家の家系で全然はないベルリオーズがフランスの片田舎から音楽家になる夢を執念深く(この人の場合、どうしてもそういいたくなります)持ち続ける決定的な出会いだったんですね。

*****


 で、私がなぜこんな前口上を述べたのかといいますと、


 フォーカシングにまず最初に関心をもってもらうためには、

 フォーカシングの「出会い」そのものが「心地よい」体験となり、

 「あの」体験を自分でも繰り返し味わえるようになりたい!!


 という「誘惑」のための「動機付け」が必要だ
と思うのですよ。


******


 この点で、フォーカシングとの出会いがワークショップ形式というのは、必ずしもふさわしくはないのではないかと私は感じています。

 自分がやってることがこれでいいのかどうかよくわからん。

 他の参加者の人の中には、何か知らんけど「感動的な」体験をしている人もあるようだ。自分にはなぜそれができない?

 そもそもワークショップにはじめて参加する人って、フォーカシングであろうとなかろうと、何らかの意味で「劣等感」に敏感な人が多いわけではないですか!!

 ということは、一回目のフォーカシングセッションは、フォーカサーにとって「素晴らしい体験」になるように、「個別に」徹底的にサポートするガイディングで一向かまわないのではないかと思います!!

 これは、決して「無理矢理にシフトに持ち込む」ために策を弄する」というのとは実は正反対のことだということに、最近の私はやっと気がついてきました。

 私にとっては、フォーカシングの初心者の方との出会いのセッションぐらい「胸ときめかせる」ものはありません(断言!!)

 むしろ、フォーカシングに関心を抱いて「くださった」方に、極論すれば、最初に申し込みの電話でやりとりする時点から、いかに私への信頼感をいだいていただけるような、自由に振る舞ってもらえるような「関係づくり」がはじまるのです。

 「もし道にお迷いでしたら、いつでも携帯で電話してくださいね。誘導しますから」

 この段階で、私は

「湘南フォーカシング・カウンセリングルーム・ワールド」

というべき、私がその場に関して誰にも第3者に気兼ねしなくていい空間を、「その」おいで下さる方のためにしつらえさせていただくことをはじめているわけですね。

 最近、結構大事なのは、実際に「セッション」を始める前にブレイクタイムをはさむことだと気がつきました。

 今ぐらいの季節の昼間なら、関東は、冷暖房なしぐらいでちょうどいいのですが、私は、何となく窓を開けて空気を入れ換えたくなったりします。

 すると、その時にトイレに立ったり、ベランダの外の景色をちょっと眺めたくなる方って、いたりするわけです(^^;)

 そして、そういう方の多くに、最初のセッション1回目から

「フォーカシングってbeautiful !!」

と感じていただける体験をしていただけることを目指して、日々研鑽を積んでおります。

そうでないと、そのあと興味が続きますか?

(英語には「スゴイ」という意味で"beautiful"を使うことが多いというのは、今、たいへんお忙しい境遇にあられるはず高橋祥友先生の、本業ではない名著、「英語力を身につける」で知ったことです)



 そうなればフォーカシングの本を「関心を持って」読んでもらえる(再読してもらえる)ことにもなる。特にアンの本には、私の実際のセッションと符合する内容は「体験してはじめて『読めて』くる」形でたくさん出てきます。



ところが、2回目からはしばらく普通のカウンセリングを望まれる方もある。それもよし!!

2,3回の体験の時点で、早くも

「フォーカシングのトレーナーになりたい」
「カウンセリングにに生かしたい」

と言い出す人には、あっさりと

「じゃ、フォーカサーとしての私のリスナーなってみること、試してみる? .....大丈夫。どうリスニングや教示をすればいいかは私が同時進行で教えていくから」

と、"Focuser as Teacher"体験をしてもらったりします。


そして、私は、言葉の端々に、

「実は、フォーカシングはひとりでもできるようになれる」

ということを、さりげなく含めていくわけですね!!


最近思いついた言葉で気に入ってるのが、


「フォーカシングはあなたの『私有財産』のはずです」


 先日の人間性心理学会第25回大会ののシンポジウムで、シンポジストとのひとりの山折哲雄先生がいわれたことで、不思議と気に入ったのは、

親鸞......だったと記憶してましたけど、今ネットでうろ覚えを検索したら、あっさり見つかりました。


「彌陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」


ここでこの言葉を引き合いに出すのが適切かどうかわかりませんけど。


カウンセラーなど、援助職の方には、

「そして、ひとりでもできるようになると、例えば現場臨床でどの程度、どのように活用できるかのヒントは、あなたのこれまでのカウンセラーとしての経験や知識がみんな生きる形で、自然とあなたなりに見つけられるはずです」

という、何とも「無責任な」メッセージをさりげなく含めたりします。

すると、「こんなフォーカシングをやってみた」という、

「ひとりフォーカシング日記」を、全く「自発的に」持ってくる人まで現れる。

私は別にそういうやり方をはっきり勧めてすらいないのに。

こっちから勧めたら、きっと、私への「優等生」なことしか書いてきませんものね。

それじゃ、「その人の」フォーカシングにはなりませんから。

 
******


 ジェンドリンが、「フォーカシング指向心理療法」で、「フォーカサーの運転席を乗っ取ってはならない」というのはもっともなことです。

 いつまでも、ガイドの手取り足取りの教示によってフォーカサーの体験をすることを求めるようなあり方に留まるのは確かに善くないかもしれない。



 (でも、そういう受け身のフォーカシング体験が本人にとって、厳しい日常のストレスから解放されるかけがえのない場だとすれば、それを繰り返し求める人の「権利」を否定することはないとすら思います。たとえその人の日常が何も変化しなくても。日常とフォーカシングを学ぶ場のギャップに「本人が」苦痛を感じないのなら!!)

******


「ひとりでフォーカシングする」ということのために、特別な時間とコンディションを整えねばならない人もいます。

例えば、家族が家にいると、できないという人は結構多いでしょう。

家族が全員、家から外出していても、家の「雰囲気」そのものに縛られるという人もあるかも。

私はそういうベストコンディションが来るまで、フェルトセンスを2日も3日も心の片隅に「キープ」することすら習熟しました。そしたら必ず、

「いい加減で『私』の相手をしろ!!」

と「フェルトセンス」ゴネまくって、となりで他の人が寝ていようが、電車の中だろうが、フェルトセンスからの「脅し」に屈して、ありあわせの状況下でフォーカシングする「芸当」も身につけました。

 フェルトセンスがホントに私に相手をしてもらいたがっているその「瞬間」こそ、フォーカシングの絶好のチャンスということですね。


******


 更にいうと、わざわざフォーカシングのための時間をとらないまま、生活それ自体の最中で、自分のフェルトセンスを「絶えざるセンサーにして」生活する、という次元が可能ということです。

例えば買い物の際にどこの売り場をどのようにまわるか。
その品物を買うか、買うのを延期するか?
それどころか、すでに相当なじんだ大船の町の「どの街路を通るか」

みーんな、フェルトセンスの御宣託任せなわけですね。


A:「今日は疲れているからタクシーを使いたいよう」

わかったわかった。

B:「でも倹約すべきである!!」

わかったわかった。

C:「明日も同じ場所に行く。2回ともタクシーは避けて、その時ホントに疲れていたらタクシーに乗る、というのでどうか?」

わかったわかった。

D:「おい、そんなもの買ったらまた太るぞ」

わかったわかった。


 フェルトセンスからではなくて、「内なる批評家」やら「内なる無精君」やら「内なるええかっこしい」やら、

自分へとふリ注ぐいろんな「内なるささやき」をかたっぱしからacknowledgeして(認めてあげて)いく。


E:「あなたは今ここでアイスクリームひとつを食べてしまうことに本当は罪悪感を感じているだろ」

......おっしゃるっとおり。ほんとはそんなに食べたいとすら感じてないのに食べてます。

私は、今、単なる「批評家の声」ではなく、フェルトセンスに「逆らった」ことをやっているとしか思えない「違和感」を感じています。


E:「わかったわかった」



 この前も書きましたが、人は、フェルトセンスに従わ「ない」自由も持っている!!

これこそ「フォーカシング三昧(ざんまい)」を生きる極意である!!


「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」



wikipediaの「親鸞」の項にある解説を読む限り、


フェルトセンスに従って「いない」自分を「自覚」できている人間は、フェルトセンスに触れないまま自分は善をなしていると信じている人間よりはましなのではないか?.... と理解したら、親鸞がこの言葉に込めようとした「逆説」にも一致するのではなかろうか??


********


「親鸞は弟子一人ももたずさふらう。そのゆへは、わがはからひにて、ひとに念佛をまふさせさふらはゞこそ、弟子にてもさふらはめ。彌陀の御もよほしにあづかつて念佛まふしさふらうふひとを、わが弟子とまふすこと、きはめたる荒涼のことなり。」

こちらの文は、私の古文の力量でも、何の解説なしにもわかります(^^)

ほんとうは、フォーカシングとその人の出会いが、こうであって欲しいと念じている、私がいることを。


「彌陀の御もよほしにあづかつて」フォーカシングと出会わせていただいた、という思いが、私の中に基本的にあるみたいです。

 だから、私のフェルトセンスそのものは、フォーカシングを他人を説得してでも普及させることには基本的に嫌悪感があります(^^;)

*****

 先日、これまた人間性心理学会で、池見陽先生とアン先生の「フォーカシングと言語」と題する素敵な対談がありました。

 discussionに入って、いったい池見先生とアン先生の、どのやりとりから"inspire"されて(霊感を吹き込まれて)フロアから発言する気になったのかすら忘れてしまいましたが、


> 「ジェンドリンは、『フォーカシング』の中で、
>
> ぴったりなコトバがなかなか浮かび上がってこないようなフェルトセンスが生じてきたら、それはむしろ歓迎されるべきである
>
> というようなことを述べていた。
>
> そういう時に、焦ることなく、
> 心の中のスペースを大事にして、
> 新鮮な『言葉』が
> おのずから立ち現れてくるのを
> じっくりと待てるということは、
>
> 新たな『状況』が
>  おのずから生じてくるのを
>  じっくりと待てることと同じことだと思う」

と、自分でも、口にしてからびっくりするような、思いよらないことを口にしていたのです。

 思い浮かんでから発言し終わるまで3,40秒だった気がします。


 「言葉」が思い浮かぶことと、「状況」が生じることは、全く別次元のことの筈ではないか!!

 .....でも、なぜか自分でも気に入って、メモしておいたのです。

 ........この発想なんて、ある意味では「他力本願」そのものではないか?....とさっき気づいたのですが、いかがでしょう?

*****

 何か、前半と後半で、全く矛盾すること書いてるとお思いかもしれませんが、私の思いはひとつです。

 フォーカシングを「お勉強」から解放したいということ!!


「三昧」ないし、"playing"の領域ということです。

それと「真剣さ」「厳粛さ」は両立します。

コメント・トラックバックについて

  • このブログのコメントやトラックは、スパム防止および個人情報保護の観点から認証制をとらせていただいております。これらの認証基準はかなり緩やかなものにしています。自分のブログの記事とどこかで関係あるとお感じでしたら、どうかお気軽にトラックバックください。ただし、単にアフリエイトリンク(成人向けサイトへのリンクがあると無条件で非承認)ばかりが目立つRSSリンク集のようなサイトの場合、そのポリシーにかなりの独自性が認められない場合にはお断りすることが多いことを、どうかご容赦ください。

最近のコメント

はてなブックマーク


最近のトラックバック

last.fm


フォーカシングの本1

フォーカシングの本2

フォト
2012年1月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ

banner

  • 携帯アクセス解析
  • Google Sitemaps用XML自動生成ツール
  • Firefox3 Meter
  • ブログランキング・にほんブログ村へ

ブログパーツたち

  • track feed カウンセラーこういちろうの雑記帳
  • アクセス状況
    アクセス解析

カテゴリー