フォーカシング技法において、ジェンドリン自身のオリジナルな技法(『フォーカシング』
)において「第5の動き(movement)」として位置づけられているのが、フェルトセンスに「問いかける(asking)」の教示です。
フォーカシング技法とは、別に、
第1の動き:空間づくり(clearing a space)
第2の動き:フェルトセンスをつかむ
第3の動き:フェルトセンスにとりあえずフィットする言葉やイメージを見つける(get a handle)
第4の動き:フェルトセンスと、見つけ出した言葉やイメージを響き合わせる(Resonating)
という段取りを順々に進めていき、その後で、この、フェルトセンスに「問いかける(asking)という部分に進んではじめてシフト(気づきと身体的ナな緩み)が生じ、その成果を、
第6の動き:受け止める(receiving)
で受け止めて完成! といったものではないことは、これまでこのブログでも繰り返し申し上げてきました。
自分の中にその時の自分のフェルトセンスに直接注意を向けられることに気がついたら、わざわざクリアリング・ア・スペースをやらないままに、早速フォーカシングを進めてもいいのです。
そういう形でフェルトセンスに関わろうとしても、何かうまくいかないで、心を乱すいろいろな何かがありそうだと気がついた時点で、クリアリング・ア・スペース・・・・今の自分を不調にしている気がかりについて、ひとつひとつ確認して脇に積み上げていく、「たな卸し」作業に立ち戻ってもいいのです。
クリアリング・ア・スペースを進める中で、「そうか、自分にとっての今の本当の気がかりはこのことだったんだ!」と、思いもよらない新鮮な形で「気がつける」だけで心が大きく解放されるということも珍しくないわけで、その場合には、いかなり、ジェンドリン法で言う、6.「受け止める」に進んでも何も差し支えもない。
フェルトセンスにぴったりの言葉やイメージが見つからなくても、「この」感じ、などという直接指示語で、本人にとってその感じをつなぎとめ続けるのに何も苦労しないのなら、それ以上、ぴったりの言葉やイメージ探しに過剰に強迫的にこだわることは、百害あって一利なしです。
そして、アン・ワイザーさんが、自分の技法
を形成する際に、「フェルトセンスと共にいる」ことを重視し、独立した教示とし、フェルトセンスに何かを引き起こそうとする、ありがちな性急な誘惑に乗らないままでいたほうが、変化が自然と生じるべき時に生じる(そのセッションの中ではっきりとした気づきが生じることはなくてもいい)事を重視したことは、画期的な業績でした。
(もっとも、ジェンドリン自身フェルトセンスのそばにしばらくの間じっくりと留まってみることの重要性は、繰り返し、繰り返し強調しているのです。簡便化されたショート・マニュアルなどでは抜け落ちてしまいがちなだけのことなのです)
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アンさんは、フェルトセンスとの「内的な関係作り(inner relationship)」を重視しましたので、ジェンドリンのオリジナル技法で言う、「フェルトセンスに問いかける」を、オプショナルなものとみなし、あまり重視しません。
日本では、アンさんのトレーニングの影響が濃いために、そもそもジェンドリンの「フェルトセンスに問いかける」という教示を実際にセッションで普段使いしているフォーカシング・トレーナーや学習者がかなり少ないという印象があります。
(公開ライブ・セッションを拝見した限り、唯一の例外が、ジェンドリンの直弟子である池見陽先生で、私が拝見した時には、当意即妙のセンスで柔軟にaskingを使って、フォーカサーのプロセスに無理のない小さな刺激材を供給しておられました)
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今も述べましたが、このaskingの教示そのものが、実は、フォーカシングのプロセスが、第4の動き(ここまでが繰り返しなされるうちに展開が生じることも多いです)まででは、何かあと一歩プロセスが進まないときの、小さな刺激剤的な提案としてなされるものに他なりません。
フォーカシングの技法の発展史に詳しい若手研究者にきいたところ、このaskingの技法そのものが、ジェンドリンの教示体系の中では、一番最後の段階で付加されたものであるようです。
つまり、そもそも、必要不可欠ではない。敢えて言えば、料理の最後にお好みでふりかけてみる香辛料程度のもの、つまり、食卓テーブルの上の「スパイス」です。
しかし、「スパイスこそが料理の成否を決める」という人もいるでしょう(^^)
そして、こうしたスパイスには何通りもお好みの品が取り揃えられているわけです。他の人がスパイスとしてあまり使わないものすら、フォーカシングの学習者やトレーナーごとに、色々工夫して、調合して、臨機応変に使い分けるストックがあっていいわけですね。
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ジェンドリン自身が『フォーカシング』の中で、この「問いかける」の教示について詳しく説明しているのは、第9章「何もシフトしない時は」です(邦訳pp138-146)。この部分で例としてあげているものは、意外とそっけないまでのリストだったりします(^^;)
「これは何だろう、いったい全体?」(阿世賀訳:「ほんとのところ、それって何?」
「この核心は何か?」
「それが最悪だとどうなる?」(誤訳。「その(感じの)中の何が最悪なの?」)
「一番悩まされているのは、それらのうちのどの2,3点なのか?」
(↑【注】何ともこなれない訳である。
"What are the two or three things about it that trouble me the most?"
・・・・・私なりの意訳案:
「あなたにとって一番厄介だと感じている事柄をそこまで行き詰まらせているのは、実は、そのことと関係した、いくつかの一見些細な事柄かもしれません。そういうものがあるとすれば何でしょうか?」)
「それの下に何があるか? それは何をしているのか?(阿世賀訳:そこでは何が進行しているのか?)」
「 それについて何が起こったら私にとっていいのか?」
「いい気持ちになるにはどうなったらいいいのだろう?」
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この教示を使う際に重要なのは、この問いを、リスナー/ガイドは、フォーカサーに、この質問に頭で考えて答えを返してもらうために発しているのではないということです。
むしろ、フォーカサーが、自分のフェルトセンスに対して、こうした問いを投げかけてみて、しばらくそのまま佇(たたず)んでみることを提案しているに過ぎません。
すると、最初は非常にかそけき形で、そしてしばらくするうちに思いもよらない方向へと、自分のフェルトセンスが変化しする場合もなります。
それが2,3分以内に生じない場合には、あっさりとその問いかけは諦めてしまい、他の教示を試してみるか、あるいは、フェルトセンスと再び共にいる態勢に戻るくらいの、「ちょっとした試み」というセンスが肝心でしょう。
フォーカサーの側から、
「何か、この後の私のプロセスを進めるために役に立ちそうな教示を、2,3提案していただけませんか」
などとヘルプを出されたタイミングで、いくつかメニューとして、控えめに提示する・・・みたいな関係性がすでに形成されている中で活用されるのが、一番成功率が高いようです。
つまり、フォーカシングをどうすすめるかに関して、ガイド側にまだ依存している度合いが高いフォーカサーに安易にaskingの教示を提案すると、成功率が低く、仮に見かけ上そこでプロセスが動いたとしても、本当の意味でフォーカサーのプロセスに寄り添わないままとなり「セッションの場の中でだけのシフト体験」となり、フォーカサーの日常の体験過程のプロセスとしっくり溶け合わないというリバウンドを背負った、「早すぎた、突出しすぎのシフト体験」になることが多いというのが、トレーナーとしての私の反省でもあります。
ですから、実は、askingの教示が重宝するのは、意外にも、セルフ・フォーカシングの場面であるということも、私の経験からいえます。
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そして、この教示は、フォーカサー自身が、まだ自分でフェルトセンスとの相互作用(対話)を先に進めていこうとしている最中に、リスナー/ガイド側からの性急な介入としてなされるべきものではありません。
セッションの経過に、焦っている、せっかちになっている、不安になっているのは、フォーカサーなのか、むしろリスナー自身のほうなのか、ということをきちんと「感じ分けて」ください。
リスナーの側が自分の中に「焦っている自分」を見出せれば、それを自分の中で「認めてあげて(acknowledging)」みるだけでも少し余裕が取り戻せるばかりか、驚くべきことに、リスナーの側がそうした内的作業を終えた直後に、まるでそうしたリスナー側の余裕感の回復が「空気伝染」するかのようにして、フォーカサーのプロセスが自然に無理なく動き出すこともごくありふれたことです。
それでもなお、フォーカサーが自分と格闘して堂々巡りになっていと感じられ、ただそれをリスニングし続けるのは「何かが違う!!」というメッセージがリスナーの内側から響いて柄来るようなら、もはや教示の提案をあれこれ工夫するとかリスニングするといった態勢にのみこだわるのがもはやふさわしくはないのかもしれない。
「・・・・・ちょっといいですか?(などと断りを入れた上で)・・・・さっきから、自分の内側の感じと必死に格闘しておられるあなたの様子が伝わってきます。ただ、そのご様子を拝見していていて、そのことがおつらくなって来ているのではないかとも感じられてきました。もっとも、今のままであとしばらく自分なりに思う存分内側と関わっていろいろ試してみたいと言うお気持ちがあるのでしたら、喜んでおつきあいします」
などと、リスナー側が自分の気持ちを、アサーティブに率直に伝える方がいい場合もあるかと思います。
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さて、さきほど例を並べましたが、askingの教示というのは、実はフォーカシング技法の中では、本には書かれていない無数のバリエーションがあり、フォーカシングを学ぶ一人ひとりが、自分にとってのお気に入りのasking教示のレパートリーを「道具箱」に蓄えておいていいものです。
「ジェンドリンのこのasking教示の具体例を私は意味がそもそもわかんないし、うまく使えたことがない」
としても、そのことは別に気にしなくてもいいことです。
もとより私のように25年もやっていれば、普段は全く使わないaskingの教示が結構効いた!! という経験が出てきていて、そもそも本に書いてあるフォーカシングの教示で使ったことがないものはほとんどまるでないという事態に結果的になっています。
しかし、私はそもそも、フォーカシングを学ぶ最初から、自分にとってその存在意味がピンと来ないフォーカシングの教示は全然使わず、使える教示だけ日常の中で使い込み、それだけではうまくいかなくなった時に、はじめて「頭では覚えていた」フォーカシングの教示を、苦し紛れに使ってみて、予想外に活路が開けるという経験の繰り返しのなかで、フォーカシングの技法の幅を広げてきた人間です。
そして、そうした際に、教示や技法というものが、その場でふさわしい形に、柔軟にカスタマイズされていく必要性があることを身に染みています。
そもそも、ガイドをはじめる際に、「いつも使っている、なじんでいるはずのやり方」ではじめようとして、身体が違和感を訴える場合には、もう、それだけで、恐らく、そのままでは、フォーカサーの援助になるガイディングをできる態勢にないと判断しています。
(そうした時にどうやって私が解決するのか・・・・というのは、企業秘密です^^; 最近やっと発見した「コロンブスの卵」ですが、これは私のもとにフォーカシングを学びにおいでの方だけにお明かししています)
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私個人としてお勧めのaskingの教示は、
「その感じの下の方(beneath)に、もうひとつ別の感じの層が隠れていると仮定してみてください。そこらへんは、どんな感じでしょう?」
というものです。
英語に詳しいフォーカシング学習者にこのことを伝えると、
「単に、『下にあるのは何?』といわれても、何ことなのかピンと来なかったと思う。でも"beneath"ならピンとくる!! "beneath"って前置詞そのものに、「・・・・に隠れて」「・・・・の裏に」みたいな含蓄があって、表面の皮みたいなものの下にあるものっていうニュアンスだから」
と言ってもらえました。
その人にとって、それまで必死に関わろうとしていたフェルトセンスは、容易に名前もつかないし、その感じのそばに佇んでいることもなかなか難しい、でも、その人の人生の長い期間にわたってずっと暗々裏に感じ続けてい「いた」けれども、自分の存在のありようを根本的に不自由にしていた、文字通りの"background feeling"でした。
そのフェルトセンスの"beneath"にその人が見出し、感じられた感じというのは、それまで直接その感じに触れて味わったことがない、たいへん新鮮なフェルトセンス体験で、実にあっさりと、大きな気づきの引き金になったようです。


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ジェンドリンのaskingの教示集にある
「このことの核心(crux)は何?」
というのも、ピンと来にくく、フェルトセンスからではなくて、頭で考えたことを答えそうなものなのですが、これについては、私は、フォーカシングのガイドを学ぶ人に、時には、次のように説明してみています。
「私は、これを、曖昧で漠然とした広がりを持つフェルトセンスが、いわばゆで卵の白身と黄身のような二層構造を持つと仮定してもらい、その中の黄身の部分の感じを感じ分けてもらう・・・・ぐらいのつもりのものだと理解しています。フェルトセンスを更に細やかに感じてみてもらうための刺激剤のバリエーションなんですね。だから、私は、
『その感じの奥の方に、その感じの源泉(あるいは泉の吹き出し口)のようなものがあると想像してみてはいかがでしょう? その源泉のあたりの感じはどんなものでしょうか?』
などという言い方で使ってみることがあります」
・・・・・この話を聴いていた学習者は、この話を聴いているさなかに、すでに、その時の自分の中のフェルトセンスの「源泉」をいきいきと新鮮に見出し、身体で感じていました(^^)
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もうひとつ、これはジェンドリンの『フォーカシング』には書いてないけれども、実は私なりに、同じジェンドリンの『夢とフォーカシング』
の「質問」項目からアレンジしたaskingの例。
「その感じそのものになってみるということもできるかもしれません。誤解なきように言いますけど、これはその感じに浸りきるということとは違います。あなたは、子供のための舞台演劇で、その感じの役を、子供のために、大げさに誇張しながら、喜劇的に演じるつもりになるのです。これなら、どんな怪物でも、不快なものでも、その役になりきって感じてみるのは、あまり抵抗ないかもしれません」
あるフォーカシング学習者が、
「もうすでに何日も『この』感じの相手をしてみたんですけど。その感じは絶対に私に口を聞いてくれないんです!! 一緒にいるだけで、私ももういやなんです!!」
と訴えた際、その人に上記の「感じになってみる」提案したら、その場でその人はやってみて、すんなりと次の展開が生じました(^^)
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・・・・・このように、カスタマイズが大事です!!
あと、一般論として申し添えれば、フォーカサーとしての自分に試してみて、効き目がまだ実感できない教示を、ガイディングの際に使うと、そのわずかな「おぼつかなさ」はフォーカサーに伝染し、プロセスを停滞させると思ってください。
「おぼつかない教示」でも、フォーカサーがそこから成果を上げられるとすれば、それはフォーカサー自身の力に助けてもらっているというだけのことです。
もとより、いつも書きますように、およそこの世の中のカウンセラーに、クライエントさんからの感情移入と思いやりと忍耐によってはじめてカウンセリング関係が可能になっているわけではないほどにすばらしいカウンセラーは、実は存在しませんが(^^;)
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なお、フォーカシング技法についてのウェブ上の入門としては、すでに定評をいただいている、私の
●フォーカシング入門
をご参照ください。
これまで、まさにasking以降の部分が欠けていたのですが、この記事をもって、取りあえず補完したものとさせていただきます(^^)





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