池見陽

2011/12/31

フォーカシング関連書籍、全員集合!!

大晦日でもありますので(?)、Amazonで購入できる、日本のフォーカシング関係の「全」書籍をご紹介いいしたします。

これらのうち、私(阿世賀浩一郎)が編者になっているのが1冊、共著になっているのが三冊です。

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2010/11/16

池見 陽 著「僕のフォーカシング=カウンセリング」評

 以前にも、知人に「見せていただいた」段階での「ご紹介」記事を書きましたが、自分で実際「手に入れて」感想をお書きするまで、随分時間が空きました(^^;)

 池見先生が徹底的に「自分の言葉で」お書きなのに非常に好意を持ちました。そうでないと「人に伝わらない」のです。

池見 陽/僕のフォーカシング=カウンセリング

 鹿児島でのワークショップへの旅立ちから大阪への飛行機での帰着までの、池見先生の内面を含む「実況中継」をメイン・ストーリーにした、池見先生の、早過ぎる「自叙伝」みないな雰囲気で一貫してますね。

 驚いたのは、参加者8名全員に公開フル・セッションを行なうために鹿児島に行かれたという、そのやり方です。「ライブ・セッション」をして見せてはじめて関心を持ってもらえるわけというのは私も同意見、早々に「ペアになってやってもらう」ばかりでは上達しません。

 更に言えば、カウンセリングにおける受容とか共感についての「大学での講義」や模擬面接、事例検討会、あるいは単なるグループ・集団型のワークショップだけでは伝わらない次元のものが「迫って」くる印象です。

 本書でお書きになっておられますが、楽器の演奏でもスポーツでも基本の「型」があるし、それに馴染んで「身につけて」いること基本前提です。しかしそれを現実のパフォーマンスとして「プレイ」する時には無意識のうちに縦横無尽に使いこなせないと本物にならない。

 そういう「アドリブの仕掛け」まで解き明かしてくれているあたりが、これまでのフォーカシング関連の著作を超えた、たいへんな功績だと思います。

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2010/02/14

池見陽著 : 「僕のフォーカシング=カウンセリング」のご紹介を兼ねて

 「書店で目にすることができる多くのフォーカシングの著作は、『誰々が演奏するフォーカシング』になってはいない」(p.2)

 ジャズを勧めるとしたら、最初にジャズの技法や奏法の本を勧める人がどこにいるだろう? ライブかCDを勧めるはずだ。「○○の演奏による」が存在しないジャズの名曲など存在しないというわけですね。

 趣味でジャズ・トランペットを奏することでも知られた池見先生による、「革新的な」著作です。

 全編が、鹿児島で催したワークショップへの出発から大阪への帰着までの「ドキュメンタリー」というより、「私小説」に近いタッチで書かれています。

 こういうかっこよくてクールな文の書き方は、池見先生でないとお似合いになりません(^^)

 先日私もご紹介した、ジェンドリンの「セラピープロセスの小さな一歩」のはじめの方の、

フォーカシングであれ、リフレクションであれ、他のものであれ、
二人の間に挟み込んではならないのです。

(中略)
武装しているという感じになってくる。


を引用して、「武装解除」宣言からはじまるわけですね(^^)


池見陽/僕のフォーカシング=カウンセリング

(楽天ブックス)

*****

 「久留米でフォーカシングを学ぶ会」、本日、滞りなく開催されました。

 その参加者の方から上記の本をご紹介いただきました。

 この本、その方はたまたま偶然Amazonでの発売予告を目にして予約購入なさったそうですが、2月10日に発売されたばかり。私も、何の情報も持ち合わせていませんでした。

【追記 10/11/16】:実際に自分で入手して、お読みしてからの感想はこちら

 そのご紹介からの影響からか、今回は、スコット・ラファロ在籍時のビル・エヴァンズ・トリオのような、「各奏者が対等な」、しかし完全に「脱技法化された」対話だけで数時間がじっくりと柔軟に進行しました(^^)

 次回は3/14(日)に開催です。

 フォーカシングについての学習経験が全くない方の新規参加も歓迎しております。

 参加エントリー、お持ち申し上げております。 

 詳しくは、こちらをご覧下さい。

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2010/02/06

「臨在」="presence"(第4版)

 私の永年のフォーカシング観の基本にあるのは、

 「ひとりでフォーカシングできるようにならないと、フォーカサーとしても、リスナー・ガイドとしても十分に機能でき、現実の日常生活の中で持続的な変化と影響をもたらす領域に到達できないのではないか」

という発想であることは繰り返して述べてきました。

 なるほど、リスナーがいる方がフォーカシングのプロセスは「よく廻る」ことが多い。しかし、そこで体験した気付きは、そのセッションの場を離れ、日常に戻ると、実感の裏付けを喪失し、まるで全くの虚妄であったかのような「反動」に襲わせる危険がある。

 このことは、実は、少なくとも病理水準的に重篤なクライエントさんにフォーカシングを試みると、単にセッションのその場でうまく進まないばかりではなく、(恐らくセッションの最中には順調に進んだかにみえても)予後が悪化する場合が少なくないという形で、フォーカシングを学んだ多くの臨床家が手痛い思いをして気がついているはずのことです。

 この問題に公然と警鐘を鳴らし続けてきたのは、日本では、増井武士先生、田嶌誠一先生のお二人だけでしょう。

 さもなければ、フォーカシングはとっくの昔に、現場臨床に幅広く普及しているはずです(きっぱり)

*****

 なぜこうしたことが生じるのか?

 それは、フォーカサーの体験しているフェルトセンスは、単にフォーカサーが「内側で」体験している感覚についてのフェルトセンスではなく、セッションの「その時に」「その場で」フォーカサーが置かれた「外的状況」について身体で感受したフェルトセンスとしての側面を大幅に持つからです。

 当然そこには、リスナー/ガイドの側が、セッションのその場をどのように体験しているかというフェルトセンスも、フォーカサーに間接的に大きく影響してくる。

 ある観点からすれば、フォーカサーのフェルトセンスは、リスナー/ガイドが、フォーカサーへの「感情移入」のつもりでいて、実はフォーカサーへの「投影同一視」に他ならないかたちで「共有しているつもり」=実は「押し付けている」フェルトセンスによって暗々裏に「汚染され」続けているのであり、仮にそれが「心地よい」「普段ほど緊張しない」体験であったとしても、「フォーカサー自身の」体験ではなくて、セッションという「場」に「巻き込まれた」結果として生じている、一種の嗜癖的・麻酔的な解放状態に過ぎない場合が大いに考えられるわけですね。

*****

 少なくとも、私個人は、過去二十数年のフォーカシング経験の中で、自分自身の中に、他者をリスナーとした場面では決して生じてすら来ないフェルトセンスの領域というものがあり、その領域は、時と場合によっては、孤独の中で自分自身で向きあってあげないまま、もし仮に2日3日放置しようものなら、もう、自分が何をしでかすかわからないくらいくらいであることをよく知っています。いわば、他者の「絶対不可侵」領域です。

 そして、私以外のすべての人にも、安易な共感や受容にむしろ容易に傷つき、むしろ他者をはねつけかねないくらいの「トップ・プライベート」な心象域があり得るという仮定を持っている。

 サリヴァンならば、「プロトタクシス的(prototaxic)」と呼ぶかもしれない。しかし、この領域を、単に「自閉的」だとか発達論的に一番未熟とのみ位置づけるのは基本的な誤りであるというのが私の考えである。

 「パラタクシス的(parataxic 私なりの意訳をすれば「相互転移的=投影的二者関係の次元」)」と「プロトタクシス的」の間にある「自我境界」の重要性があって、人は個人としての人として自分を体験可能なのではないか?

 (サリヴァンの原義に従えば、プロトタクシス的というのが、むしろ自他未分化な状態を指すことを承知の上で、「自他未分化」と「自他分化」自体が曖昧な領域という、いわば国境沿いの「緩衝地帯」を保全すべきという意味で理解していただくと助かる)

サリヴァン/現代精神医学の概念(中井久夫訳)

 その「超個人的」領域には最大限の敬意を払い、その存在を「仮定しつつも、敢えてこちらからは触れないでおき」、本人が「そこ」から生起したものを「関係の中に持ち込もう」という内発性を示し、「差し出してきた」場合にのみ、非常に控えめに、全く自然に(バリントのいう「友好的な空間」と化して)応答する(非言語的な反応のみを含めてでいい。しかし相手にはっきりと「伝わる」必要はあろう)のがふさわしいと考えている。

*****

 こうした現象が認識されないままだとどういう事態が生じるか? 

 たいていの人たちは、フォーカシングのワークショップから去っていくであろう(きっぱり)。

 一部の、セッションでの「いい体験」が忘れられない人たちは、足繁くワークショップに通うかもしれない。しかし、その人の現実の日常生活は一向に変化しないだろう。

 ・・・・もっとも、「フォーカシングのワークショップに通う」という「憩いの場」は生活の中にひとつ増えたかもしれないが(^^;)

 それは「嗜癖的な」依存状態であるか、それとも、「フォーカシングのプロセスそのもの」ではなくて、「フォーカシングの集いの」に癒されている状態であるに過ぎない。

 それどころか、フォーカシングは、「言葉にならない、漠然としたかすかな違和感」に敏感になる技法である。

 これは、ひとつ間違うと、特に日本のようなムラ社会では、「自分に取って漠然とした違和感を感じさせる参加者を無意識のうちに、『場の安全』の名のもとに排除しようとする」集団力学を生み出す。

 (何のことはない、実は、そのグループのトレーナー格の人たち自身がキャパが一番低い『小(こ)山の大将』で、実に容易に参加者に気持ちを揺らされる程度の存在に過ぎず、そうした状況から「身を守ろう」としているだけの場合すら少なくないと思う。それどころか、はじめての一般参加者の方が実はタフで柔軟な受容性があるという、笑うに笑えない事態すら稀ではあるまい)

 こうして、フォーカシングを「最も必要としている」人たちはグループの場から疎外され(あるいは立ち去り)、もはやフォーカシングを自己成長のために役立てる感性が麻痺し、狭いムラ社会の中での矮小な自己愛的プライドを暖めあう人たちばかりによってフォーカシングのグループが成立しがちである・・・・・可能性を真剣に振り返る意味があるのではなかろうか?

 もとよりこれは、フォーカシングに限定されない、古今東西、およそすべての流派の教団や教育システムや心理療法流派が陥りがちだった通弊なのであり、そうした集団と関わりつつも、したたかに「どっこい生きてく」一部の人たちが、そうした集団の健全性を支え、再生させ続けてきたのも確かであろうが。

*****

 以前の私は、自分がリスナー/ガイドをしたセッションが、実は「私が」満足し、「私に」シフトを引き起こすことに貢献しつつも、フォーカサーには、ひとときの気付きの体験の援助はできても、その直後に先述の脱実感的な「反動」までは生じさせなくても、その後のその人の人生を、漠然とした違和感に敏感なのにそれを周囲とうまくコミュニケートに生かせないだけの「生き辛い」ものにしてしまったいるだけではないのかという疑念を容易に振り払えなかった。

 今にして思えば、それは、他ならぬ私が、そうやって自分のフェルトセンスに敏感であることと、現実の他者とのコミュニケーションとの間に、ある齟齬を来たすことの限界を今より遥かに強く感じていたからに他ならないと思う。

 もとより、フォーカシングを学びだしてほんの1年めに私に生じた外の世界とのとの関わりの変化はある意味で十分劇的だった。自分の感性を信頼し、自分を肯定し、そして、自分の気持ちを載せた形で言語表現する能力飛躍的に上昇した。

 それがなければ、例えばあの、ある意味で「オーバークオリティ」過ぎて編集者を困惑させた可能性が高い、伝説的な(?)アニメ論投稿者としての阿世賀浩一郎はこの世に存在しなかったろう(その一端はasegaの日記の方でも、実はこっちのブログではほとんど披露していないといっていい域にまで実は「無尽蔵」であることを最近示してきたが)。その時代にすぐには評価されなかったが、後には的確な位置づけがなされ、若い世代や外国のアニメファンには高く評価されるようになった作品を、私はどれだけ「孤高のスタンス」で援護できていたことになるのか?

 しかし、私は、そうした、フォーカシングを通して抜きん出て開発されてしまったいくつかの自分の能力と、それ以外の点での未熟さや社会経験の乏しさの著しいギャップと戦い続け、それを一歩一歩、小さな勇気忍耐を持って埋めていくために、現実生活の中で少しずつ打撲を負い、血を流し続け、時には人を傷つけてしまう人生を、その後送らざるを得なかったのである。

 その意味では、フロイトが精神分析について語ったのと似たことを、私もやはり皆様にお伝えするしかないかもしれない。

 フォーカシングを学ぶことは、あなたに「牧歌的な幸せ」を約束することだけは、決してないであろう・・・・と。

 「牧歌的な幸せ」を味わえていると感じたら、その分だけあなたは誰かを押しのけ、傷つけていることに無感覚なだけではないかと我が身を振り返り続けることをこそ、私はお勧めしたい。

*****

 最後に、ジェンドリン自身の言葉を紹介したい。

 「セラピープロセスの小さな一歩」と題するエッセーからの抜粋だが、1988年にベルギーで開催された第1回クライエント・センタード・セラピーおよび体験過程療法国際会議での講演に基づき作成されたものである(池見陽訳)。

ジェンドリン/セラピープロセスの小さな一歩―フォーカシングからの人間理解(池見陽 編/解説)

 日本ではこの論文と同じタイトルの著作↑に収録されているが、この論文集には、ジェンドリンの体験過程理論の第一基本文献である「人格変化の一理論」も、旧村瀬訳を基本としたある程度の改訳(私見では更に徹底的な再吟味が十二分に可能である)の上で収録されている。

==========引用はじめ 太字化および[  ]内はこういちろうによる==========

私が言わなければならない、最も大切なことから始めよう。
すなわち、人とワークすることの本質は、
生きている存在として そこにいること(to be present)です。

そしてそれは幸運なことです。なぜなら、
もしも私たちが頭がいいとか、善良であるとか、
成熟しているとか、賢明でなければならないのなら
私たちは恐らく困ってしまうでしょう。
しかし重要なのはそれらではありません。
重要なことは
別の人間と共にいる人間であるということ。
相手をそこにいる別の存在として認識すること。
たとえそれが猫や鳥であっても
もしも、あなたが傷ついた鳥を助けようとしているのなら
知っておかなくてはらない最初のことは、
そこの誰かがいるということ。
そしてその「人[=person?]」、そこにいるその存在が
あなたに接触しようとするのを待たねばなりません。
それは私にとって、最も重要なことのように思えます。

(中略)

私が情緒的に安定していて、
しっかりそこにいる必要はないのです。
私がただそこにいることだけが必要なのです。

私がどういう人でなければならないという資格はありません。
大きなセラピープロセスや、大きな成長のブロセスにとって望まれることは、
そこにいようとする人なのです。
そこで私は「それならなれる」と確信して来ました。
たとえ私は、一人でいるときに疑いをもつにしても、
ある種の客観的な態度で、私は、
私が人であることを知っています。


(中略)

フォーカシングであれ、リフレクションであれ、他のものであれ、
二人の間に挟み込んではならないのです。

それをはさみこみとして使ってはならないのです。
「僕はリフレクション法があるからここにいてもいいんだ、
僕は卓球バトルがあるから君には負けない、
何か言ってみろ、返してあげるから」と言ってはならないのです。
武装しているという感じになってくる。
そうでしょう。
私たちには方法があるし、
フォーカシングも知っているし、
資格も持っているし、博士号ももっている。
私たちはこんなものをいっぱいもっています。
だから、二人の間に、こういうものをはさみこんで
座っておくのは簡単なことです。
はさみこんではならないのです。
それをどけなさい。
クライエントが持っているくらいの勇気はもてるでしょう。

(中略)

それは、ますます専門化する、つまり役立たずで高価になる[心理臨床という]分野で
とても必要なのです。

(後略)

========引用終わり========

 もちろん、ジェンドリンは技法というものを否定しているわけではない。そのあたりのことは実際に本論文の私が敢えて引用から省略した箇所をお読みいただきたい。

 重要なのは、ここでいう、相手と共に「そこに-いようとすること、すなわち"presence"である。

 ジェンドリンは「しっかりとそこにいる」とか「情緒的に安定している」必要はないと述べている。

 しかし、それは「ただそこにいさえすればいい」ということとは遠く隔たった状態であろう。

 この点で、「プレゼンス」というカタカナ語をふり回す、日本でのこの概念をめぐる議論は何か基本的に空疎であると私は感じている。

 なぜなら、「プレゼンス」という言葉に、肌になじんだが実感ない人間同士の論議だからである。それは現場実践臨床とは無縁の、ただの訓詁学(くんこのがく)であるに過ぎない。

 少なくとも、学校の授業で出席を取られた際に、

"Hi,Sir! I'm present."

と何も考えずに口をついて出る人間であることが大前提ではなかろうか?

 それくらいなら、例えば・・・・だが、「その人が具体的な人格を持った他者としてそこに存在しているという確かな実感」などと、各人各様に実感を込められる言葉に置き換えて語り合う方がよほど有益だろう。

*****

 私は、かつて、ジェンドリンの"presence"という言葉に「臨在」という言葉を当てることを提案したが、フォーカシング関係者には「やや宗教的に響きすぎる」と評判が悪くて、今日に至るまで省みられてはいない。

 しかし「臨床」という概念と非常に接近した用語法であるし、何より、「臨在」という言葉には自然と具体的な「関係性」が含意される気がする。

 そして、ひとりでのフォーカシングに立ち戻れた時の私は痛感するのだ。

 「やっと、『君』のそばに戻った」

・・・・と。

 それは、旧約聖書において、「アブラハムよ、どこにいるのか?」という神の声に、アブラハムが「ここにおります」と答えるまでに何らかの「インターバル」がありそうなことを連想してしまう。

 つくづく私が思っているのは、スピリチュアリティとは、スピリチュアルなものを別段高尚で深淵で特別なものとみなさないこと、あるいは、およそどのように世俗的で猥雑な現実の中にも聖なる真実があることを受け入れる、ある種ポストモダン的な「平準化」の中にこそあると思えてならないのだが。

 ・・・・ということで、何を今さらですが、

And the people bowed and prayed
To the neon god they made.
And the sign flashed out its warning.
In the words that it was forming.
And the signs said."The words of the prophets are written on the subway walls
And tenement halls."

And whisper'd in The Sounds of Silence.

●Simon & Garfunkel - Sound Of SilencePaul Simon - 1964/1993 - The Sound of Silence

 

Original Album Classics: Sounds of Silence/Parsley Sage Rosemary and Thyme/Bookends

セントラルパーク・コンサート [DVD]

*****

 そして、"presence"ということの本質をあまりにも見事に描き出した名歌を、日本人は持っているではないか。

 これ以上でもなく、これ以下でもないのが、"presence"だと私は確信する。

 そして、こうした人間が要所要所にいれば、セラピーなどというご大層な人工物を、さも意味ありげに、かつ有り難げにふりかざさなくても、現代日本の諸問題の大半は解決しているはずである。

●乙三. / 空と君のあいだに 【乙三.arrange】(YouTube)乙三. - お別れ - 空と君のあいだに【乙三.arrange】

 asegaの日記の方ではすでに一度紹介していますが、安達祐実が今度は教師役になってます。埋め込み無効ですので、まだご覧でない方は是非リンク先をどうぞ!!

 中島みゆき自身のオリジナル中島みゆき - Singles 2000 - 空と君のあいだにを聴くなら、選曲的に、次のベスト盤がベストでしょう(^^)

中島みゆき / Singles 2000中島みゆき - Singles 2000

 槇原敬之さんのカバーは、この曲のカバーの中では一番知られているかもしれませんね。

●槇原敬之 - 空と君のあいだに(YouTube)

 このカバーは、みゆき自身の歌唱によるオリジナルのリマスタリングと、豪華メンバー(岩崎宏美、小泉今日子、坂本冬美、徳永英明、福山雅治、小柳ゆきetc.)による新録のカバーを「同一曲で」収めた2枚のコンピレーションアルバム、「元気ですか」に収録されています(紛らわしいのですが、ジャケット緑がみゆき自身のリマスタリング、ジャケット青が他の歌手によるカバー集です。

元気ですか(中島みゆきカバー集) ← つまり、槇原さんの「空と君のあいだに」はこちらのジャケットです。

元気ですか(中島みゆきオリジナル リマスタリングバージョン) ←ハイビットサンプリングによると思われるリマスタリング効果による音の洗い直しがいかに成功しているかは誰の耳にもわかると思います。まさか・・・・と思うくらいに音質が上がってます。一見そうした音質向上が一番期待しにくそうな「狼になりたい」「世情」とかを聴くとよくわかるのでは? 細やかな音質になり、以前のCDの、音のレヴェルの低さの問題も解決。このベスト盤を先行試験とする形で、この後「紙ジャケ仕様」のリマスター盤が、アナログ期+デジタル初期のアルバムを網羅する形で発売される流れになるわけですが。

*****

 それはそうと、蛇足を承知で、やはり少し解説しておきます(^^)

 「ポプラの枝」として「ここにいる」という以上でもなく、以下でもない。

 「空と君との間に降る、冷たい雨」の空間を、カウンセリングルームを出た後、日常に戻っても、以前よりは「友好的な広がり(空間)」として体験してもらえることを持続的に可能にするのがカウンセラーの基本的な役割である。

 「孤独な人の心につけ込む」つもりはない。ただ、相談に来るからには、俺も「食ってかなきゃ」ならないから「同情するなら、金をくれ!」。

 中井久夫先生も、「あなたはなぜ療法家をしているのか」と患者に問われれば、「ただ日々の糧を得るため」と答えられるのが正しいと述べている。

病者と社会 (中井久夫著作集―精神医学の経験)所収の「軽症境界例について」という論文を参照。

 クライエントさんたちは、社会の中で生活者として生きて行くのであり、仮に障害者年金を受給している人たちですら、単に障害者であること、あるいは病者であることそれ自体を主なるアイデンティティとすべきではないと思う。

 それが一時的に不可避な場合もあるが、大抵のクライエントさんは、少なくともそれ以上のsomethingになれることを、実に切実に望んでいる。

 もしそうなっていないとすれば、はっきりいって、その人に関わる「関係者」の中に、その人が障害者や病者であることにとどまってくれないと、共依存的な対象を失い、「孤独になってしまう」ことの不安があり、それに当事者側が巻き込まれているのだ。

 「自立支援」の名のもとに、実は当事者にいろんな「無理をさせる」ことで結果的に挫折させ、元の鞘に納めさせて「自己満足的かつ防衛的な」安心を得ている「関係者」は少なくないと私はみなしている(特定の当事者を指しているつもりはない)。

 つまり、「単なる病者や障害者に留まりたくない」当事者の皆さんの心情にほんとうに無理なく寄り添えている="presence"ある関係者に包まれていたら、思いの外早くその活路は開けるように思えてならない。

 ある別の精神科医の先生の信念は「働けるかどうかで、あなたの価値に変わりがない」だそうである。それでもこのことはいえると思う。

 逆説的なことを言わせていただければ、およそボランティアとしてのみカウンセリングに携わっている限りは、結局は自分の精神的満足(欲求不満解消)のためにカウンセラーをしている域を抜け出せないと思う。

 いや、カウンセラー諸君、カウンセリングの収入が思うに任せず食うに困る経験を是非お積みください。これは時給いくらで、クライエントさんが「幾人」おいでになるかならないかと「無関係に」「一定の」収入が得られるうちはまだ見えてこない世界がありますよ。

 (つまり、カウンセリング機関にお勤めなら、面接料金の一定の割合が収入という完全歩合制のところをお勧めする。そういう相談機関はちゃんと日本にいくつかは存在します。ほら、「あそこ」がそのシステムですから。どうすれば、「見ず知らずの者」がそこのカウンセラーになれるかはよくわかりません。私もかつて在籍しましたけど・・・・)

 そして、それにも関わらず、安易に「副業」に依存せず、カウンセリング一本で食べて行く「王道」を目指してください(現在の私の収入源は9割が通常のカウンセリング(その中の9割が通院歴3-4年以上、社会人としてのブランクを2年は経験した、欝や双極性2型を中心とした気分障害の皆さん)、0.9割がフォーカシングのトレーナー、0.1割が、現金にはならない形でのアフィリエイト収入ってところでしょうか)。

 腕にそこそこの技量があるのに食うに困った経験がない人間は、同様な境遇の人間の目線に本当に立つことはできないと思います。

 もう、公然と書いても、決して覆らない自負をこの数カ月いよいよ高めていますので書きますけど、大抵のカウンセリングルームよりお安いばかりか、面接一回あたりの密度の濃さと充実度・・・・数年間通院しながら堂々めぐりしていた皆様が、遅くとも面接3回めから5回めまでに、それにその人の現実社会での生き方に確かに変化を実感し、何かがブレイクし始めた手応えを感じていただけることでは定評があります(もちろん、すべての課題解決とは行かなくても、「動かないと諦めていた山がひとつ大きく動いてしまった」とは)。

 はっきりいって、面接開始から3-5回以内にそれを感じさせられないカウンセラーは修行が足りなさ過ぎだと、今の私ならあっさり断言しちゃいます。そういう領域のカウンセリングを当たり前のように可能になれる! と(・・・私も49歳までかかりましたが)。

 ・・・・なのに、黒字に転じたとはいえ、はっきり言ってまだ独居の障害者年金+生活保護の人以下の月もあります。さすがに月収10万は確実ですが、20万切る月が多いってとこです、現在の私の収入は!

 だから時には理事会会場までの交通費が学会経費で全額支給で、本州への「公費旅行」もしたい(そういう機会に抱き合せで出会いたい人、行きたい場所もある)ので理事に立候補させていただいたというのは、3分の1ぐらいはマジな話です。

 3月27日に、往路スカイマークで神戸空港なるものに降り立てて(福岡からの関西出張のもっともお得で所要時間に無駄がないやり方ですね。空港からニュートラムで三宮駅までダイレクトに15分ですから、乗り継ぎし放題。便利さは関空や伊丹の比ではない。夕方の便の時間帯が早いのが残念ですが)、帰りは700系ひかりレールスターに乗れるのが非常に楽しみである。

*****

 そして、もう、このブログでこのことを書くのは何回めだろう。

 「君の心がわかると、たやすく言えるカウンセラーに
 なぜ客はついて行くのだろう、そして泣くのだろう」

  ここで、敢えて、村瀬嘉代子先生語録の冒頭を、リンク先でお読みいただければ幸いである。

 受容・共感という言葉などという、偽善的な"paternalism"(温情主義)のニオイがする、同性愛チックな、気持ちの悪い言葉は滅び去ってしまえ!!

 ・・・・ただ、ロジャーズのいう、「無条件のpositiveな関心」ということは、少し別な次元で、より重要な鍵を握っていると思う。

 "presence"ということを別の側面から言い表していると感じる。

 このことについてはいずれまた書いてみたい。

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2009/09/20

日本心理臨床学会第28回大会には、残念ながら参加しておりません。

 このシルバー・ウィーク期間中には、私が数年前まで学生相談センターに勤務していた明治学院大学が当番校となり、東京国際フォーラムを会場とする形で開催されている筈ですが、つい数週間前に人間性心理学会の方に参加したばかりですし、今年は参加を見送ることにしました。

 これが大船に住んでいた時代だったら、両方とも参加する気になれたんでしょうが・・・・

 人間性心理学会は、来年(2010年)熊本大学で開催されますので、熊本まで特急でわずか1時間のところに住んでいる私は、通いですら参加できます(私の現在の研究実践テーマが思っていた以上に時間をかけて熟成しないとまとめられないことに気づいたので、今年は先送りにしましたが、来年こそは、個人発表などを含めた形で「大暴れ」するつもり・・・・え?今年の「8つの発表連続でのフロアからのコメント」だって大暴れだって?)。

 だから、来年の心理臨床学会が日本のどこで開催されようと、参加スケジュールを組むと思います。

 それにしても、(大会プログラムをとりあえず目を通しただけで見落としがあればたいへん失礼なことになりますが)、フォーカシングおよびフォーカシング指向心理療法関連の個人口頭事例発表では、日笠摩子先生ご発表、池見陽先生座長という、世紀の最強タッグ(?)での大会場での催しを除くと、どうも見受けられない気がしたのは、私としてはちょっと寂しい気がします。

 5月の淡路でのフォーカシング国際会議、先日の人間性心理学会の大会と立て続けで、フォーカシング関連の諸先生方にとってはほんとうにお疲れの状態でこの大会をお迎えというスケジュールになっていることが大きく影響しているかとは思いますけど、私としては、他流派の人たちとの交流の機会が多い、この心理臨床学会でこそ、フォーカシングの存在感をアピールし続けることが肝要だと信じています。

 この前書いたことにも繋がりますが、どうか若い世代の研究・実践化の皆様の側からこそ、率先して蛮勇を振るう勇気をふるって欲しいと思います。

 いずれにいたしましても、今回の大会のご盛会を、心からお祈り申し上げております。

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2009/09/09

メタ次元で「クライエント中心的」でありつつ、各流派の心理療法を、セラピーのひとつひとつの局面ごとに、柔軟に有効活用すること -Mick Cooper博士による、心理療法における多面的(pluralistic)アプローチ-  (2) [第3版]

 日本人間性心理学会第28会大会の特別招聘講師、ミック・クーパー(Mick Cooper)博士による特別講演、「多面的心理療法における理論・研究・実践」を拝聴した報告記の、前回に続く第2回である。

*****

 今回は、博士が実際に「多面的心理療法」を臨床現場で具体的にどのような形で実施するのかの方法論について述べたい。

 すなわち、治療者とクライエントの関係性というメタ次元で、クライエントさんの主体性と自己決定権を尊重する「クライエント中心(PCA)的」でありつつ、心理療法の諸技法を柔軟に使い分け、有効活用するための方法論である。

 クーパー氏は、基本的な仮説として、次のようなものを提起する:

「心理的な困難には、多数の原因があるだろう。

 ・・・・すべての用件にあてはまるような『正しい』セラピー方法は、ひとつではなさそうである。

 ・・・・異なる時、異なるプロセスが、異なる人の役に立つ」

(Cooper & McLeod,2007)

 そのためには、ある特定のクライエントさんとの間で進行しつつあるセラピーのプロセスを、個々の局面としてとらえて概念化する枠組みが必要だという。

 クーパー氏のいう「多面的アプローチ」は、あるクライエントさんにはクライエント中心療法が向いている、別のあるクライエントさんには認知行動療法が向いている、などと、単に、クライエントさんによって、セラピー手法を「使い分ける」というような「大まかな割り振り方」の域を完全に超えている、遥かに緻密なものなのである。

 詳しくは、大会準備委員会サイトにまもなくアップされるであろうパワーポイントファイル日本語版(講演時に配布されたものに更に大幅な修正がなされるとのことである)の図表31ページ以下の流れを追っていただくのが望ましいが、簡単にいうと、次のような項目を列挙して、矢印で相互関係を図示してある。

  • 目標(Goal)・・・・クライエントさんは、具体的に何がどうなることを求めているのか(セラピスト側が勝手に設定するのではない点が大事である)。
     例えば、「自尊感情を高めたい(自分にもっと自信をつけたい)」「お母さんとの関係をもっとうまくやって行きたい」「嗜癖的な習慣を止めたい」などといったことが、面接の中で、クライエントさんが求めていることとして、具体的に浮かび上がってくる可能性があるかもしれない。
     これらの「目標」は、互いに関連しあっているかもしれないし、別々の次元でとらえる方がいい場合もあることになる。
  • 課題(Task)・・・・クライエントさんのために、何ができるかについての、「一般的な方向性」のことを指す。
     例えば、「自己理解を深める」「具体的な場面での問題解決スキルを高める」など。
  • 【方法(Method)・・・・これは更に、「クライエントさんの(面接場面での具体的な)活動」と、「セラピストの(面接場面での具体的な)活動」に別れる。
     ここで大事なのは、面接場面でセラピスト側が何をするかが最終的に重要なのではなく、クライエントさんが何を選択をするかを尊重する「共同作業」としてなされていくことである。

 クーパー博士が具体例として掲げたのは、同一のクライエントさんの中に次のような系列が同時に構成要素としてあるケースである(p.33以下)

  • 【目標1】自尊感情を高める
    • ←【課題1】もっと自己受容できるようになる
    ←【クライエント側の行なう方法1】否定的な思い込みを覆すこと
     ←【セラピスト側が行なう方法1】
      否定的な思い込みに立ち向かう[ように促す]
      (恐らく、論理療法や認知行動療法、行動療法に近いアプローチであろう)

    ←【クライエント側の行なう方法2】自分についてオープンに語る
     ←【セラピスト側が行なう方法2-1】受容する
     ←【セラピスト側が行なう方法2-2】傾聴する(上記2つはクライエント中心療法的であろう)
     ←【セラピスト側が行なう方法2-3】質問する(「具体的な話題を引き出す」という意味ではなかろうか?)

    • ←【課題2】自分の中の肯定的な特質をリストアップする

  • 【目標2】お母さんともっとうまくやっていく

(以下略)


 ブログの表示能力の限界があるのでわかりにくいかもしれませんが、これは【目標】を頂点とするツリー構造のようにして、末広がりに枝分かれさせる形で、←【課題】←【クライエントの方法】←【セラピストの方法】を構造的に概念化する試みである。

 これらの構造は、セラピスト側が一方的に整理し、デザインし、具体的な方法を押し付ける形になってはならず、セラピー過程の実際の個々の具体的局面の中で、クライエントさんとセラピストの間の「共同作業」として形成され、試みられ、修正されていくことが重視されている。

 セラピー空間における変化の過程で、クライエントさんが「アクティブな行為者」として機能できるように援助するのがセラピストの務めということになる。

 そのためには、セラピスト側が、「どうすれば自分がクライエントさんのお役に立てそうか?」ということについて、クライエントさんにオープンに問いかけ続ける姿勢が必要となる。

 例えば、鬱状態のクライエントさんに対して、「多面的アプローチ」のセラピストだと次のように問いかけるかもしれない。

T:「鬱を改善する上で、あなたにとって、これまでどんなことをするのが役に立ちましたか?

C:「運動することです」

T:「ではどうやったら、運動する機会を増やせるのでしょうね?

 このようなやり取りを進める中で、クライエント自身も、それどころかセラピストの側ですら(!)思いつきもしなかった、予想外の、「コロンブスの卵」的な改善のための方法が見つけられるかもしれない。

 たとえば、そうしたやり取りを進める中で、その鬱のクライエントさんが、いつの間にか、「自分の現状について、誰かに、もっとオープンに話してみてもいいのではないか?」ということに気がついていく・・・・などという展開も、大いにありである。

****

 もっとも、こうした際に、クライエントさんの希望を訊く中で、そのセラピストにとって、できることとできないことがあることをも率直に伝えることが必要であることも、クーパー氏は強調している。

 例えば「自分が何をどうすればいいか」を逐一導いて欲しい、などとクライエントさんに言われたら、(中井久夫先生流に言えば)「治療者は、クライエントさんに自分を高く買わせてはならず」、それは自分には無理だということもフランクに伝えることが大事だということのようである。

 この点に関連して、フロアから池見陽先生が質問に立ち、

「そのクライエントさんに適切なアプローチが治療者としての自分の技法の引き出しをはみ出してあり、より適格者がいると感じた場合、他のその技法専門のセラピストに紹介する場合もあることも、クーパーさんの射程に入っていると理解していいのか?」

とお尋ねになった。

 クーパーさんの応えは”Yes, of course!"(「もちろんそうです」)であり、クライエントさんがある特定の課題実現について援助してもらうために、他の流派の専門家に手助けしてもらうことも十分に選択枝の中に組み入れるべきであると明言された。

 (池見先生が危惧されたのは、恐らく、聴衆であるカウンセラーたちが、いろいろの技法を学ぶのはいいけれども、「自分だけで何でも抱え込んで」セラピーを進める必要があるかのように理解しまいか? という思いではなかったろうかと、私は想像する)

*****

  次に、クーパー博士は、「多面主義アプローチ」をとるセラピストが、他のセラピストに対して取るべき立場について、次の3点を述べた。

  •  PCAの流れそのものが現在多様性を帯び、さまざまに分化した技法やアプローチが試みられているが、その時の個々のクライエントさんにふさわしい形でカスタマイズ(特化)された、[私なりに言い換えると、「テイラー・メイド」で「一品料理」化した]ひとつひとつのセラピー実践は、あくまでも尊重して、異論を挟むことはしない。
  •  しかし、「教条的で独善的(dogmastic)なパーソンセンタード性」には立ち向かっていく。
  •  PCAのセラピストが、他の流派のセラピーの諸原則や諸技法に対して、一定の的確な評価を持てるように促す役割とる。
     流派を問わず、セラピー領域が、ひとつの包括性を持つ文化であり、諸流派のセラピスト同士がお互いに適切に認めあって行けるような動きを擁護する。
     むしろ、積極的に、各流派の無用な対立(認知行動療法[CBT]のみが「国定」心理療法になってしまったイギリスでは特に顕著らしい・・・・英文だが、この記事などをお読みになると想像がつくだろう)に対する積極的な調停者の役割を果たす。

*****

 残りは、第3回にまわします。

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2009/09/03

若手カウンセラーの方が、私たちよりも「したたかに」実力をつけていくのではないかという、大いなる期待

おゆとり様”世代を考える.(ココログニュース)

=========引用開始(若干改行を増やしました)========

 2002年度に“ゆとり教育”を導入した新学習指導要領。その頃に中学生だった人たちが今、成人を迎える時期にきている。物心ついた頃からずっと不況で、「貯蓄を重視」し「巣ごもり傾向がある」。

 その一方で『hanako世代』にあたる母親の影響を受け「ファッションには敏感」であり、それでも他人と比べるようなブランド物よりは、ユニクロなどのファストファッションを好む、といった特徴が見られるという。この世代を“おゆとり様”と呼ぶのだそう だ。

 高度経済成長期に熱い若者だった団塊の世代からは、「(おゆとり様には)社会人となり業務上で難題に対し、死ぬ気で何とかやり遂げようとする言動があるのかしら」と戸惑いの声があがる。

 身近な20代女性が「いかにお金をかけないで」楽しむことを重視しているのを見て「これが消費しない若者世代の モットーなのか(中略)そんな彼女たちのマインドにヒットする商品は なかなか難しい」(神戸ものがたり)と、彼らの消費行動が景気に影響を与えるとの見方も。

 一方で、ゆとり教育世代の息子を持つ『主婦だってがんばっちょる!』のブロガーは「どんな時代になろうとも地道が一番だし、何かあった時にやっぱり 必要になるのは貯金ですから」と、その堅実さを肯定する。

 また、“おゆとり様”の傾向分析やカテゴライズそのものに違和感を覚える人も多い。大学生と身近に接する人の中には、全体としてそのような傾向があることは認めつつ、「ファッション好き」と「貯蓄好き」の差は大きく、「別の物と思ったほうがいい」との意見がある。

 さらに「この多様化極まる時代にある 特定の層に“だけ”スポット当て、十把一からげ宜しくレッテル貼りの作業。もうこんな手法は飽きた」など、辛らつなコメントは少なくない。ラベリングで特 定の層を表現するのは、物事をわかりやすくしているように見える反面、肝心な部分を見落としてしまう可能性もあるのかもしれない。

(ははぎく)

=========引用終わり========

 先日、日本人間性心理学会第28回大会に出席したことはすでに述べた。

 この大会期間の中の2日間に、8つの時間帯の個人発表「枠」があった。この時間枠は、日本心理臨床学会大会のように互いに折り重なることはない。つまり、8つの個人発表を連続して聴くことが、参加者に可能な最大数であった。

 この折に、大学院博士後期過程在学中、ないし、少なくとも博士前期課程は修了して、臨床現場に出て数年以内の、非常に若い世代の臨床家たちの個人発表を7連続で「はしごして」回る形になった。

 正確に言うと、私が発表を聴いた中のお一人のみが中堅(というよりベテランの域に踏み込みつつある、私とほぼ同年齢の、学会でも著名な実力派カウンセラー)であり、残りの7人は、48歳の私よりも20歳は若い世代の方々だったのである。

 それらの人たちは、ここでいう「おゆとり様」世代よりはほんの少し上ということにはなるかもしれないのだが。

 事前に送られてきた論文集で目を通して、「ほう・・・・」と感心させられる"something"を感じた方の中からセレクトした。何とその結果、上の世代や同世代ではなくて、一番若い世代こそが、私の鑑識眼を刺激したことに、我ながら驚いたのである。

 これらの7名全員が、日本の「フォーカシング技法」および「フォーカシング指向心理療法」の「第3世代」というべき若手研究者・実践家である。

 もっとも、この学会は、フォーカシング関連の発表が非常に多い学会なので、同じ時間帯に別の教室でフォーカシング関連で発表される若い方すらいる(要するに、「裏番組」も観たい状態)・・・という苦渋すべき事態が頻発した。

 特に心理臨床系の個人発表のように、最低でも1時間の時間枠が与えられる発表についての、大会論文集上の抄録の情報量というものは、発表内容の全容を掌握するリソースとしては、実は不十分なものである。

 ですから、たまたま私が「究極の選択」に窮して会場に出向かなかった若手の発表者の皆様、どうか、別に阿世賀が「裏番組」の発表の方が優れているなどと判断したとは、夢にも思わないでいただきたい。

 私の身体はひとつしかないので、「行きたかったけど、行けなかった」だけです!!

*****

 全くおだてだとか餞(はなむけ)の儀礼などではなく、率直に申し上げたい。

 その7名の発表者の方全員が、私の期待以上の研究実践水準であった!!

 すでに我々フォーカシング「第2世代」(池見先生や、吉良先生、日笠さんや近田さんや村里さんや田村さんや天羽さんも含みます!)が、試行錯誤の中で日本に本格的に根付かせようとしてきた中で積み上げてきたものを、それぞれなりに「当然の前提」として咀嚼し、消化した上で、それぞれの現場に密着した問題意識を抱き、身につけた専門的なリサーチ能力を高度に駆使し、パワーポトントをはじめとする視聴覚素材での洗練されたプレゼンテーション能力も発揮 しながら、厳密な臨床研究手法で、一歩一歩前に進もうとされてる方々ばかりでした。

 池見先生や田村さんや私のような「古株」があら捜しすれば、確かにいろいろと理論的理解や技法実施上のテクニック、統計手法、研究デザインなどに関して、個々の問題点は指摘できますし、それらについては、その会場にいたこれらの先生方と共に、私も遠慮なく(でも簡潔に!)コメントさせていただきま した。

 しかし・・・・池見先生すらも休憩時間に私に漏らされたんですよ。

「『第3世代』は僕たちの若い頃の域をすでに超えかかっているのかもしれないね」

・・・と。

(注:日本のフォーカシング「第1世代」とは? 戦後しばらくして大学教育を受け、主としてカール・ロジャーズの「クライエント中心療法」や「非構成的エンカウンターグループ」の研究実践者として、1970年代までにすでに一定の業績を上げた先生方の中のある部分の先生方が、1978年に、ロジャーズの共同研究者でフォーカシング技法の創始者であるジェンドリンの来日を期に、フォーカシング技法の日本への紹介と摂取に尽力されることになる。故・都留春夫先生、我が恩師、故・村瀬孝雄、そして現在も活躍されている村山正治先生、大澤美枝子先生、白岩紘子先生、井上澄子先生をはじめとする、すでに60代以上の先生方を指します)

*****

 なるほど、今の若い世代の人は、私たちの若い時代に比べれば過酷な受験戦争を体験していないかもしれません。

 しかし、 こちらの記事で書いたこととも関連しますが、高度成長期からバブル崩壊前の楽観主義の中でしか、自分の進路や将来像を描けないまま社会に出てしまった世代に比べれば、自分たちが参入していく社会の現実をシビアにとらえ、自分の立ち位置と社会に出てからの歩み方について、非常に足が地に着いた考え方と判断力でやっていかざるを得ないように、子供時代から肌身で感じて育っていると思うのです。

 そのしたたかさが、実はこれからの日本を支える若い力になるのかもしれない。

 どうか、バブル崩壊以前に社会に出た、現在アラフォー「以上の」世代全体を、どんどん「実力で粉砕」して、「社会を動かす」側に回ってください。

 もし、言ってることややってることがヤバイと思ったら、本気で忠告します。必要を感じれば論戦も厭わない。

 いざとなったら、あなたたちを敵として、武器を手にとってでも、将来「内戦」するかもね!!

 それが、私の世代に、これからできることなのだと。

「おゆとり様世代の諸君、エースをねらえ!!」

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「カウンセラーこういちろうの雑記帳」の主要過去記事を一番簡単に一覧するには

 このブログって、すでに創設4年9ヶ月、過去のエントリー記事総数が、「この」記事で1,914本め、なのに一日あたりの新エントリー、平均1.10本以上を現在も維持、しかも長文が多いという、へヴィー級ブログです。

 おかげで、もはや@ニフティココログが割り振ってくれているサーバー負荷が相当なものになっているせいか、

  • 私の方からトラックバックを送ることがもはや機能しない
  • pingも自動では飛ばせない(その割には随分多くの読者の皆様が、新記事アップ直後においでいただけることを幸いだと感じています)
  • カテゴリーにすべての記事が反映しない(カテゴリーによっては300から400エントリー分表示されようとするわけで)

・・・・・という、新しくおいでいただいた読者泣かせのブログになっていると思います m(_ _;)m

****

 もちろん、バックナンバー全体を表示してくれる、『アーカイヴ』ページ(自身がココログユーザー以外の読者の皆様、お気づきでしたか??? 右フレームの「バックナンバー」という文字そのものをクリックするとたどり着けます)というものも、あるにはあるわけです。

 しかし、このページにお行きになっていただいたとしても、過去の個々のエントリー記事のタイトル一覧があるわけですらない

 このページからの「〇年〇月」を全部めくっていただくだけでも(全く休眠した数ヶ月を除いても、現在50か月分ほどあるわけですね(^^;)。その50ヶ月分、それぞれ月ごとに、毎月30から40エントリーずつはあるわけですから・・・・・

 つまり、私がこのサイトでこれまで書いてきた主要記事がどんなものか、新しい読者の皆さんにおおよその見当をつけていただくには、もうデタラメにご不便をおかけしていることと思います   il||li _| ̄|○ il||li

*****

 この問題を一気に解決し、

  • 新記事の方が上に来る形で、
  • 過去の記事に関しては私がある程度絞り込んでセレクトしたものを、
  • 数百記事ばかり、1ページをスクロールできる形で
  • ブログのような表示の重さがない形で一覧したいただける

そういうページが、実はずっと以前から存在します!!

●阿世賀浩一郎のホームページ/index

 開設1995年12月(つまりWindows95発売直後)開設、日本において、インターネットで個人サイトを作ることが本格的に普及し始めた黎明期から、何と基本的なデザインを変えないまま運営し続けているサイトです。

 かつては、ネットを代表するエヴァ・サイトのひとつ、「エヴァンゲリオン論考」で著名だった時代もありますけど、幸いにして著作化させてもいただきましたので、そのコーナーは全面削除いたしておりますが(「ちーちゃんの部屋」というアニメコーナーがかつて存在したことを覚えておられる方もあると嬉しかったりして ^^;)・・・・

そのトップページから、このブログでの新エントリー記事を書く度ごとに、固定リンクへのリンクを、たいてい速攻の連続作業でお貼りしてもいるのです。

 恐らく、皆様のRSSリーダーに反映するスピードの比ではない「即時性」で「新着情報」が掲載され続けています。

 同一エントリー記事の更新(改版)情報すら、可能な限り早くお伝えしています。

 

そこに並んでいる、当ブログ個別記事へのリンク数は、常時数百あるはずです(古いものから時々、精選のための「ダイエット」をかけますので、一定数以上には増えません)。

 しかし、敢えて今でも、基本的には「素朴なhtml言語の手打ち」に依存し、javaスクリプトすらないに等しいということで、このトップページそのもののバイト数の多さの割には、表示が圧倒的に軽い筈です(このブログのトップページを表示するよりは軽いと思いますよ)

 
当方のアクセス解析によって、「こっちのページで新着情報見つけるほうが手っ取り早い」ことにお気づきの、毎日数名以上の固定ユーザーの方がおられることは掌握しています(感謝!!)。

 しかし、そうした方の占める比率が以前よりもかなり減っているようにも思いましたので、改めてご紹介させていただきました。

 

今後とも、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」をよろしくお願い申し上げます。

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2009/06/08

「フェルトセンスに問いかける」教示についてのヒント(第2版)

 フォーカシング技法において、ジェンドリン自身のオリジナルな技法(『フォーカシング』)において「第5の動き(movement)」として位置づけられているのが、フェルトセンスに「問いかける(asking)」の教示です。

 フォーカシング技法とは、別に、

第1の動き:空間づくり(clearing a space)
第2の動き:フェルトセンスをつかむ
第3の動き:フェルトセンスにとりあえずフィットする言葉やイメージを見つける(get a handle)
第4の動き:フェルトセンスと、見つけ出した言葉やイメージを響き合わせる(Resonating)

という段取りを順々に進めていき、その後で、この、フェルトセンスに「問いかける(asking)という部分に進んではじめてシフト(気づきと身体的ナな緩み)が生じ、その成果を、

第6の動き:受け止める(receiving)

で受け止めて完成! といったものではないことは、これまでこのブログでも繰り返し申し上げてきました。

 自分の中にその時の自分のフェルトセンスに直接注意を向けられることに気がついたら、わざわざクリアリング・ア・スペースをやらないままに、早速フォーカシングを進めてもいいのです。

 そういう形でフェルトセンスに関わろうとしても、何かうまくいかないで、心を乱すいろいろな何かがありそうだと気がついた時点で、クリアリング・ア・スペース・・・・今の自分を不調にしている気がかりについて、ひとつひとつ確認して脇に積み上げていく、「たな卸し」作業に立ち戻ってもいいのです。

 クリアリング・ア・スペースを進める中で、「そうか、自分にとっての今の本当の気がかりはこのことだったんだ!」と、思いもよらない新鮮な形で「気がつける」だけで心が大きく解放されるということも珍しくないわけで、その場合には、いかなり、ジェンドリン法で言う、6.「受け止める」に進んでも何も差し支えもない。

 フェルトセンスにぴったりの言葉やイメージが見つからなくても、「この」感じ、などという直接指示語で、本人にとってその感じをつなぎとめ続けるのに何も苦労しないのなら、それ以上、ぴったりの言葉やイメージ探しに過剰に強迫的にこだわることは、百害あって一利なしです。

 そして、アン・ワイザーさんが、自分の技法を形成する際に、「フェルトセンスと共にいる」ことを重視し、独立した教示とし、フェルトセンスに何かを引き起こそうとする、ありがちな性急な誘惑に乗らないままでいたほうが、変化が自然と生じるべき時に生じる(そのセッションの中ではっきりとした気づきが生じることはなくてもいい)事を重視したことは、画期的な業績でした。

(もっとも、ジェンドリン自身フェルトセンスのそばにしばらくの間じっくりと留まってみることの重要性は、繰り返し、繰り返し強調しているのです。簡便化されたショート・マニュアルなどでは抜け落ちてしまいがちなだけのことなのです)

****

 アンさんは、フェルトセンスとの「内的な関係作り(inner relationship)」を重視しましたので、ジェンドリンのオリジナル技法で言う、「フェルトセンスに問いかける」を、オプショナルなものとみなし、あまり重視しません。

 日本では、アンさんのトレーニングの影響が濃いために、そもそもジェンドリンの「フェルトセンスに問いかける」という教示を実際にセッションで普段使いしているフォーカシング・トレーナーや学習者がかなり少ないという印象があります。

(公開ライブ・セッションを拝見した限り、唯一の例外が、ジェンドリンの直弟子である池見陽先生で、私が拝見した時には、当意即妙のセンスで柔軟にaskingを使って、フォーカサーのプロセスに無理のない小さな刺激材を供給しておられました)

****

 今も述べましたが、このaskingの教示そのものが、実は、フォーカシングのプロセスが、第4の動き(ここまでが繰り返しなされるうちに展開が生じることも多いです)まででは、何かあと一歩プロセスが進まないときの、小さな刺激剤的な提案としてなされるものに他なりません。

 フォーカシングの技法の発展史に詳しい若手研究者にきいたところ、このaskingの技法そのものが、ジェンドリンの教示体系の中では、一番最後の段階で付加されたものであるようです。

 つまり、そもそも、必要不可欠ではない。敢えて言えば、料理の最後にお好みでふりかけてみる香辛料程度のもの、つまり、食卓テーブルの上の「スパイス」です。

 しかし、「スパイスこそが料理の成否を決める」という人もいるでしょう(^^)

 そして、こうしたスパイスには何通りもお好みの品が取り揃えられているわけです。他の人がスパイスとしてあまり使わないものすら、フォーカシングの学習者やトレーナーごとに、色々工夫して、調合して、臨機応変に使い分けるストックがあっていいわけですね。

CM : 楽天市場「スパイス」関連商品

*****

 ジェンドリン自身が『フォーカシング』の中で、この「問いかける」の教示について詳しく説明しているのは、第9章「何もシフトしない時は」です(邦訳pp138-146)。この部分で例としてあげているものは、意外とそっけないまでのリストだったりします(^^;)

「これは何だろう、いったい全体?」(阿世賀訳:「ほんとのところ、それって何?」

「この核心は何か?」

「それが最悪だとどうなる?」(誤訳。「その(感じの)中の何が最悪なの?」)

「一番悩まされているのは、それらのうちのどの2,3点なのか?」

(↑【注】何ともこなれない訳である。
"What are the two or three things about it that trouble me the most?"
・・・・・私なりの意訳案:
「あなたにとって一番厄介だと感じている事柄をそこまで行き詰まらせているのは、実は、そのことと関係した、いくつかの一見些細な事柄かもしれません。そういうものがあるとすれば何でしょうか?」)

「それの下に何があるか? それは何をしているのか?(阿世賀訳:そこでは何が進行しているのか?)」

「 それについて何が起こったら私にとっていいのか?」

「いい気持ちになるにはどうなったらいいいのだろう?」

*****

 この教示を使う際に重要なのは、この問いを、リスナー/ガイドは、フォーカサーに、この質問に頭で考えて答えを返してもらうために発しているのではないということです。

 むしろ、フォーカサーが、自分のフェルトセンスに対して、こうした問いを投げかけてみて、しばらくそのまま佇(たたず)んでみることを提案しているに過ぎません。

 すると、最初は非常にかそけき形で、そしてしばらくするうちに思いもよらない方向へと、自分のフェルトセンスが変化しする場合もなります。

 それが2,3分以内に生じない場合には、あっさりとその問いかけは諦めてしまい、他の教示を試してみるか、あるいは、フェルトセンスと再び共にいる態勢に戻るくらいの、「ちょっとした試み」というセンスが肝心でしょう。

 フォーカサーの側から、

「何か、この後の私のプロセスを進めるために役に立ちそうな教示を、2,3提案していただけませんか」

などとヘルプを出されたタイミングで、いくつかメニューとして、控えめに提示する・・・みたいな関係性がすでに形成されている中で活用されるのが、一番成功率が高いようです。

 つまり、フォーカシングをどうすすめるかに関して、ガイド側にまだ依存している度合いが高いフォーカサーに安易にaskingの教示を提案すると、成功率が低く、仮に見かけ上そこでプロセスが動いたとしても、本当の意味でフォーカサーのプロセスに寄り添わないままとなり「セッションの場の中でだけのシフト体験」となり、フォーカサーの日常の体験過程のプロセスとしっくり溶け合わないというリバウンドを背負った、「早すぎた、突出しすぎのシフト体験」になることが多いというのが、トレーナーとしての私の反省でもあります。

 ですから、実は、askingの教示が重宝するのは、意外にも、セルフ・フォーカシングの場面であるということも、私の経験からいえます。

*****

 そして、この教示は、フォーカサー自身が、まだ自分でフェルトセンスとの相互作用(対話)を先に進めていこうとしている最中に、リスナー/ガイド側からの性急な介入としてなされるべきものではありません

 セッションの経過に、焦っている、せっかちになっている、不安になっているのは、フォーカサーなのか、むしろリスナー自身のほうなのか、ということをきちんと「感じ分けて」ください。

 リスナーの側が自分の中に「焦っている自分」を見出せれば、それを自分の中で「認めてあげて(acknowledging)」みるだけでも少し余裕が取り戻せるばかりか、驚くべきことに、リスナーの側がそうした内的作業を終えた直後に、まるでそうしたリスナー側の余裕感の回復が「空気伝染」するかのようにして、フォーカサーのプロセスが自然に無理なく動き出すこともごくありふれたことです。

 それでもなお、フォーカサーが自分と格闘して堂々巡りになっていと感じられ、ただそれをリスニングし続けるのは「何かが違う!!」というメッセージがリスナーの内側から響いて柄来るようなら、もはや教示の提案をあれこれ工夫するとかリスニングするといった態勢にのみこだわるのがもはやふさわしくはないのかもしれない。

「・・・・・ちょっといいですか?(などと断りを入れた上で)・・・・さっきから、自分の内側の感じと必死に格闘しておられるあなたの様子が伝わってきます。ただ、そのご様子を拝見していていて、そのことがおつらくなって来ているのではないかとも感じられてきました。もっとも、今のままであとしばらく自分なりに思う存分内側と関わっていろいろ試してみたいと言うお気持ちがあるのでしたら、喜んでおつきあいします」

などと、リスナー側が自分の気持ちを、アサーティブに率直に伝える方がいい場合もあるかと思います。

*****

 さて、さきほど例を並べましたが、askingの教示というのは、実はフォーカシング技法の中では、本には書かれていない無数のバリエーションがあり、フォーカシングを学ぶ一人ひとりが、自分にとってのお気に入りのasking教示のレパートリーを「道具箱」に蓄えておいていいものです。

 「ジェンドリンのこのasking教示の具体例を私は意味がそもそもわかんないし、うまく使えたことがない」

 としても、そのことは別に気にしなくてもいいことです。

 もとより私のように25年もやっていれば、普段は全く使わないaskingの教示が結構効いた!! という経験が出てきていて、そもそも本に書いてあるフォーカシングの教示で使ったことがないものはほとんどまるでないという事態に結果的になっています。

 しかし、私はそもそも、フォーカシングを学ぶ最初から、自分にとってその存在意味がピンと来ないフォーカシングの教示は全然使わず、使える教示だけ日常の中で使い込み、それだけではうまくいかなくなった時に、はじめて「頭では覚えていた」フォーカシングの教示を、苦し紛れに使ってみて、予想外に活路が開けるという経験の繰り返しのなかで、フォーカシングの技法の幅を広げてきた人間です。

 そして、そうした際に、教示や技法というものが、その場でふさわしい形に、柔軟にカスタマイズされていく必要性があることを身に染みています。

 そもそも、ガイドをはじめる際に、「いつも使っている、なじんでいるはずのやり方」ではじめようとして、身体が違和感を訴える場合には、もう、それだけで、恐らく、そのままでは、フォーカサーの援助になるガイディングをできる態勢にないと判断しています。

(そうした時にどうやって私が解決するのか・・・・というのは、企業秘密です^^; 最近やっと発見した「コロンブスの卵」ですが、これは私のもとにフォーカシングを学びにおいでの方だけにお明かししています)

*****

 私個人としてお勧めのaskingの教示は、

「その感じの下の方(beneath)に、もうひとつ別の感じの層が隠れていると仮定してみてください。そこらへんは、どんな感じでしょう?」

というものです。

 英語に詳しいフォーカシング学習者にこのことを伝えると、

「単に、『下にあるのは何?』といわれても、何ことなのかピンと来なかったと思う。でも"beneath"ならピンとくる!! "beneath"って前置詞そのものに、「・・・・に隠れて」「・・・・の裏に」みたいな含蓄があって、表面の皮みたいなものの下にあるものっていうニュアンスだから」

と言ってもらえました。

 その人にとって、それまで必死に関わろうとしていたフェルトセンスは、容易に名前もつかないし、その感じのそばに佇んでいることもなかなか難しい、でも、その人の人生の長い期間にわたってずっと暗々裏に感じ続けてい「いた」けれども、自分の存在のありようを根本的に不自由にしていた、文字通りの"background feeling"でした。

 そのフェルトセンスの"beneath"にその人が見出し、感じられた感じというのは、それまで直接その感じに触れて味わったことがない、たいへん新鮮なフェルトセンス体験で、実にあっさりと、大きな気づきの引き金になったようです。

アルク

*****

 ジェンドリンのaskingの教示集にある

「このことの核心(crux)は何?」

というのも、ピンと来にくく、フェルトセンスからではなくて、頭で考えたことを答えそうなものなのですが、これについては、私は、フォーカシングのガイドを学ぶ人に、時には、次のように説明してみています。

「私は、これを、曖昧で漠然とした広がりを持つフェルトセンスが、いわばゆで卵の白身黄身のような二層構造を持つと仮定してもらい、その中の黄身の部分の感じを感じ分けてもらう・・・・ぐらいのつもりのものだと理解しています。フェルトセンスを更に細やかに感じてみてもらうための刺激剤のバリエーションなんですね。だから、私は、

『その感じの奥の方に、その感じの源泉(あるいは泉の吹き出し口)のようなものがあると想像してみてはいかがでしょう? その源泉のあたりの感じはどんなものでしょうか?』

などという言い方で使ってみることがあります」

 ・・・・・この話を聴いていた学習者は、この話を聴いているさなかに、すでに、その時の自分の中のフェルトセンスの「源泉」をいきいきと新鮮に見出し、身体で感じていました(^^)

*****

 もうひとつ、これはジェンドリンの『フォーカシング』には書いてないけれども、実は私なりに、同じジェンドリンの『夢とフォーカシング』の「質問」項目からアレンジしたaskingの例。

「その感じそのものになってみるということもできるかもしれません。誤解なきように言いますけど、これはその感じに浸りきるということとは違います。あなたは、子供のための舞台演劇で、その感じのを、子供のために、大げさに誇張しながら、喜劇的に演じるつもりになるのです。これなら、どんな怪物でも、不快なものでも、その役になりきって感じてみるのは、あまり抵抗ないかもしれません」

 あるフォーカシング学習者が、

「もうすでに何日も『この』感じの相手をしてみたんですけど。その感じは絶対に私に口を聞いてくれないんです!! 一緒にいるだけで、私ももういやなんです!!」

と訴えた際、その人に上記の「感じになってみる」提案したら、その場でその人はやってみて、すんなりと次の展開が生じました(^^)

*****

 ・・・・・このように、カスタマイズが大事です!!

 あと、一般論として申し添えれば、フォーカサーとしての自分に試してみて、効き目がまだ実感できない教示を、ガイディングの際に使うと、そのわずかな「おぼつかなさ」はフォーカサーに伝染し、プロセスを停滞させると思ってください。

 「おぼつかない教示」でも、フォーカサーがそこから成果を上げられるとすれば、それはフォーカサー自身の力に助けてもらっているというだけのことです。

 もとより、いつも書きますように、およそこの世の中のカウンセラーに、クライエントさんからの感情移入と思いやりと忍耐によってはじめてカウンセリング関係が可能になっているわけではないほどにすばらしいカウンセラーは、実は存在しませんが(^^;)

*****

 なお、フォーカシング技法についてのウェブ上の入門としては、すでに定評をいただいている、私の

●フォーカシング入門

をご参照ください。

 これまで、まさにasking以降の部分が欠けていたのですが、この記事をもって、取りあえず補完したものとさせていただきます(^^)

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2009/05/18

「私はフォーカシングができているのでしょうか?」

 先週開催されておりました、「第21回国際フォーカシング会議in淡路島」は、参加者数300名近くを集め、無事、成功裏に終了したことを、大会準備委員会メーリングリストでの池見陽準備委員長のご報告を通して知りました。

 久留米への移住問題を抱えていたことと、申し込み当時の体調・経済(^^;)不安定要因も考慮し、ご迷惑をおかけしないために、私は残念ながら参加を見送る選択をしましたが、多くの若い院生の方が参加されたとうかがっています。

 会場となったウェスティン淡路は、ある意味で「日本にいるのを忘れてしまう」くらいの、すべてにおいて国際規格のリゾートホテルです。明石海峡を越えた、比較的「孤立性の高い」場所にあるこの地は、日本人参加者にとっても、外国からおいでになる方と同じくらいに「異国に来ているかのような」錯覚に陥れる場所だったはず。関西空港からのアクセスも良く、神戸の市街地や京都や姫路に足を伸ばすアクセスにも恵まれていましたしね。

 実は、池見先生の提案を受け、候補地を最初に下見をして、選定の段階で積極的に関与した私が注目したのは、この地のそうした無国籍性でした。

 「日本にいるのにもかかわらず、あたかも外国の国際会議に出席したかのような擬似体験になること」

 敢えて、外国からの参加者を「ジャポ二ズム」に引きずり込みたくなる誘惑から意識的に遠のけ、日本からの参加者と外国からの参加者が対等にコミュニケーションできる場を設定することが、私の深謀遠慮だったのです。

 だって、例えば、「ドイツ的フォーカシングのあり方」なんていう話、聴いたことありませんでしたからネ!!

 お医者さんに比べると、臨床心理系の国際会議に参加する機会は、日本ではあまり多くないかと思います。そうした中、体験された貴重な経験を、殊に若手の臨床研究者の皆様、現場カウンセラーの(・・・をめざす)皆様、どうか、今後への刺激として是非生かしていただければと思います(^^)


*****


 昨日も、「久留米でフォーカシングを学ぶ会」をささやかに開催しました。そうやって国際会議で刺激を受けた若手の皆様が、九州の福岡県の久留米という、日本の中でひどく偏った土地にいる私ですが、今後うまく利用してくださることを歓迎いたしております(^^)

 昨日も感じたのですが、大船での「学ぶ会」時代から常々感じていたことをひとつ書いてみましょう。

 表題の、

「私はフォーカシングができているのでしょうか?」

 という質問を、こうした催しの中で頻繁にいただきます。フォーカシングを学び始めて数年以上を経た方からも結構うかがうことです。

 私はそうした問いに接するたびに、「なぜこうした問いが繰り返されるのか?」ということに思いをめぐらせて来ました。

 いくつかのことを述べてみたい心境です。

1.フォーカシングがあなたにとって成果を上げているのかを判断できるのは、あなたの実感だけです。フォーカシングを先に勉強してきた人やフォーカシングのトレーナーがそれについてどのように答えてくるかをすべて脇において、あなたの実感だけで判断していいのです。

2.仮に、体験過程のステップが前に進むということについて、的確に観察し、判断する方法論があったとします。そして、その基準に基づくと、あなたの中にステップが生じていたことになるらしいことが「理解できた」としますね。でも、それがあなたにとって何か言葉にならない違和感や欲求不満をもたらしたり、確かに自分のもの見方、感じ方が「落ち着いた」とか「変化した」とか、「その場に居やすくなった」という実感を感じさせてくれないままだとしたら、それはあなたにとってどんな意味があるというのでしょうか??

3.ジェンドリン自身、どの著作かで、「フォーカシングだけが人生に役立つわけではない」という、ある意味でひどく当たり前のことを書いていたと記憶します。フォーカシングでうまく成果が上がらなければ、たとえばちょっと休憩したり、ストレッチしたり、音楽を聴いたり、ひとりになってみたり、そうしたことを自由にやっていくのは全く自然なことです。

 毒舌に響くかもしれませんが、今回の国際会議や、あちこちで開かれているフォーカシングの集い(私の主催するものをも含む)やワークショップに参加してみて、それまで抱いていたフォーカシングへの関心がむしろ醒めてしまったり、幻滅してしまった人すらあるかもしれない(この世にある「イベントへの参加」とは、ayuのライブ体験から新装開店のスーパー、異性とのデートまで含めて、およそそのような参加者を「ある一定の比率で」含むはずのことでしょうし)。

 そうした時に、フォーカシングと関わることを一度止めてしまったりしてみるのも健全な選択でしょう。ただ、あるひとつの場での、一回の印象で、その対象や相手についての判断を生涯にわたって恒久的に決め付けてしまうことだけはしないで欲しいなあ、というのが、私の自然な思いでもあります。


*****


 こうした一般論を書いた上で、それでも敢えて、当初の問いかけに答えてみましょう:

1.フォーカシング技法において、教示というのは、あくまでの刺激剤であるに過ぎません。一つ一つの教示がピンとこなかったとしても、それはフォーカサーとしてのあなたの責任では全くありません。

 教示の進行と関わりなく、体験過程のステップは、セッションの中の、いつ、どこでも刻まれ始め可能性があるのです、それは「向こうからやってくる」ものであり、「引き起こす」ものではありません。

 いや、敢えて言いましょう。

セッションが終わった後の雑談の中で、
ふと、ひとりでお手洗いに立った時に、
帰り道の電車の中で、
夜寝る前に、
数日後、職場の中で、

突如ステップの進行が実感できることなど、ありふれているということを。

「お告げ」は、その人がその人が何をしているかなんかにお構いなく天から降ってくるから「お告げ」らしいのかも。教会でのミサの祈りのさなかにではなく(^^)

 フォーカシングのセッションのただ中で、自分がシフト体験できないとならないなどという思い込みは、むしろ捨ててしまう方がいいと思います。そうした思いは、フォーカシングの集いの「優等生」として認められたいという「煩悩」に過ぎないとすら思い定めてもいいかもしれない。


2. フォーカシングに伴う身体の感じや居心地や気分の変化というのは、それが一見かすかなものだったとしても、一度体験してしまえば、生じたかどうかについて迷うことは生じません。

 それが持続性に乏しい、短時間の変化や安らぎに過ぎず、しばらくたつと移ろい去ったり、見失うことはよくあることです。

 そういう時には、そうした変化や安らぎや変化が生じた少し前のところまであなたの記憶と実感のビデオを巻き戻してみるのはいかがでしょうか。

「ここまで」は以前と同じ、「こんなふうな」感じだった、「ここ」で、思いもよらないきっかけで「こういう」感じやイメージや連想が自分の中に生じて、その後で、自分の身体の感じや居心地が「こんなふうに」変わった。 

 そのときの実感が、仮に今はかすかな痕跡、ないし余韻のようにしか「再現」できなかったとしても、こうした「反芻(すう)的な味わいなおし」を何回か繰り返してみるだけで、それをしないよりは、その後に何かいい影響が残るものです。

 「反芻する」うちに自然と実感がよみがえり、更なる続きのプロセスが勝手にはじまることもありふれていますし、少なくとも次にセッションを持つ機会があった時、前回の続きをやろうと全く意識しなくても、セッションの展開がいつの間にか前回の続きになってしまい、少しだけ前回より先まで展開するなどという可能性を増してくれるかと思います(^^)


******


 日本のフォーカシング関係者の大半の皆様、私と最後にお会いしてから2年近く立っておられる方がほとんどかと思います。皆様もきっとお変わりかと思いますが、私もまた、皆様の記憶の中にあるこういちろうとはどんどん別人になってきているかと思います。

 そうしたあたりの片鱗は、ネットでの私の文体のトーンまで含めて、実は現れているとお気づきの方もあるかもしれませんが(^^)

 再びお会いできる日を楽しみにしております。

*******


「久留米でフォーカシングを学ぶ会」次回は、普段どおり、第2日曜日、6/14に開催の予定です。

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