病跡学

2009/11/16

NHKスペシャル「魔性の難問 -リーマン予想 天才たちの戦い-」

 実は最近の私は、「天地人」をたいてい予約録画で観る以外、テレビ番組を殆ど全く観ない生活を送っている。ところが昨晩、事前の予告とかをまるで知らないままに、このNHKスペシャルに遭遇できた。

●この番組のNHK公式サイト

 番組がはじまった段階で、映画「ビューティフル・マインド」を観ていた私は「ひょっとして在世中のナッシュへのインタビュー出てくるのでは?」と期待したが、その期待はかなえられた。

(楽天ブックス)

 「リーマン予想」とは、数学上の最大の未解決の難問のひとつとされる。wikipediaの記述だけでは、私を含めた数学の素人には何がなんだか?になっちゃうけど、ひとことでいえば、素数(割り切れない数)の配列というのには、一見全然規則性がないんだけど(1,2,3,5,7,11,13,17,19,23,29,31,37,41,43,47,53,59,61,67,71,73.....でよかったかな?)、そこに一定の法則がある可能性について、19世紀半ばに、ドイツの数学者、ベルンハルト・リーマンが立てた予測とのこと。

 このリーマン予想については、イギリスのハーディとリトルウッドのコンビをはじめとする当代髄一クラスの数学者が長年たいへんな情熱を注いで証明に取り組んだけど、この2人に関しても、結局部分的な傍証に当たる証明しかできないまま、最後にはリーマン予想そのものが間違っている可能性まで示唆するところまで諦めてしまった。

 その次にリーマン予想の証明に多大な情熱を注ぎ込んだのが、プリンストン大学で、すでに「非協力ゲーム理論」をはじめとする分野で多大な功績があった、ナッシュである。

 しかし、彼がこの難問と格闘し、リーマン予想についての講演会を開いた時のナッシュの姿は、ラッセル・クロウがナッシュ役を演じた上述の映画でも描かれたとおり、以前とは異なる惨憺たる様子だった。

 この段階で、すでに統合失調症の本格的発症の兆しがあったのである。ただし、映画でも描かれたとおり、実はそれ以前からも、多くの人には気づかれないし、本人にも自覚できない形で火種はあったので、リーマン予想についての研究への没頭し過ぎが「原因」であるとまでは誤解しないで欲しい。単なるストレスだけでは統合失調症に至ることはありません。

 仮にストレス要因が「トリガー(引き金)」になる可能性を認めるとしても、番組では紹介されていませんでしたが、アマゾンの書評欄によれば、ナッシュはこの時妻との間に子供ができるというタイミングでもあったようです。

 ここからは私の推測なんですが、実はこうした一見さりげない、ごく普通の事柄の方が、統合失調症の人の発病トリガーとして意外と大きな意味があることが少なくないことを、私は中井久夫先生の著作で学んできました。

 それでも、すでに統合失調症から回復して幸せな余生を送っている(明らかに頭脳にある種の明晰さが十分に回復しているのは表情からも見て取れる)81歳のナッシュが、

「数学的探求というのは、合理的思考を突き詰める側面と、そこから跳躍して、非合理の領域に身と投じることを繰り返す必要があるのです。そのことが自分を追い詰めた側面はあったのかもしれませんね」

といった感慨を漏らしているのは興味深かった。

*****

 なお、映画では幻覚として描かれているナッシュの症状は、ほんとうは幻聴だったと、何かの機会に伝え聞いた気がする。恐らくそれは、映画の原作である、以下の本に書いてあることなのだろう:

ビューティフル・マインド 天才数学者の絶望と奇跡(邦訳すでに絶版)

 この本、訳に相当問題があるとのことなので、原書も紹介します。

A Beautiful Mind: The Life of Mathematical Genius and Nobel Laureate John Nash

(Googleブックスで一部が読めます)

 なお、映画「ビューティフル・マインド」については、自殺学の権威である、精神科医の高橋祥友先生がお書きの、「シネマ処方箋」という本でも1つの章を割いて言及されています。

*****

  なお、「幻覚とはあそこまで鮮明に見えるものなのか?」という疑問をお感じの方は、一般の方ばかりではなくて実際の患者さんにもあるようですが、ああやって幻覚と日常的に対話するという次元まで行くと確かにフィクションめいてくるかと思いますが、患者さんによっては、幻覚とは、多くの方がイメージするような、「ぼんやり浮かんで見える」なとという次元ではなく、まさに「3D実体」としてくっきりと生々しく「そこにある」ように感じられる例も少なくないことを、私は過去の臨床体験の中で、何人かの方からうかがって来ました。

*****

 ナッシュの件ばかりではなく、多くの数学者が証明に失敗し続ける中、リーマン予想に関わることは、数学界で次第に回避される時期に入ったという。

 しかし、それでもリーマン予想の証明に情熱を注ぎ続け、2回の失敗にもめげずに、70代になった今も挑戦し続けているのが、フランスのルイ・ド・ブランジュである。

 彼は、リーマン予想が、単に数学上の問題だけではなく、様々な科学法則の解明に役立つと確信していたが、時代はいつの間にか彼に追いつき、ある数学者と物理学者の茶話会でのさりげない対話をきっかけとして、学際的な形で、「リーマン予想」を、現在最大の学問的テーマとして掲げる国際的な取り組みが大がかりに始まっているという。

 ところが、そうした国際学会とは距離を置き、孤高を保ったまま、ド・ブランジュは、ついに3度目のチャレンジとなる論文を完成させるまでを、このドキュメンタリーでは追っている。

 論文を封筒に入れて、家を出て鼻歌を歌いながら歩き出した彼は、それでもなお言葉にする。

 「仮に今回の証明がまた失敗に終わっても、私は諦めない。再挑戦し続けるよ」

 そして、番組の最後のテロップでは流されるのだ。

 「数学的証明が認められるまでには、論文発表から2年間、世界中の数学者からの厳しい検証に耐えられるものとならねばならない」

*****

 この番組では、インターネット界の暗号化証明書の分野で名高い、VeriSign社の一番厳重な管理をくぐった金庫の下にある「宝物」が、スーパーコンピューターを駆使して見出された、物凄い桁数の素数のデータベースであることも紹介され、クレジットカードの電子決済など、私たちの身近なところで素数が大きな意味を持つことも紹介している。

 その一方では、学者たちの中に、リーマンの予測の証明が、宇宙法則全体を説明する「万物の理論」の成立につながることへの壮大な期待もあることが語られている。

 古くはギリシャの哲学者に始まり、ニュートン(彼も統合失調症だった可能性が高いことを中井久夫氏と飯田真氏は「天才の精神病理」の中で述べている)、多くの数学者や物理学者が、この「万物の理論」を求めての魔性の探求にエネルギーを注ぎ込む生涯を送った。

 しかし、この番組を観ていて、数学の門外漢である私(難しい理屈は可能な限り噛み砕いて、3D画像を駆使して直感的に何となくわかるような番組になっています)にとっても、学問を極めようとする挑戦者たちの、何度失敗しようと、夢と情熱を失わず、しつこいまでに粘り強く、同時に自由奔放ですらある人間くさい生き様に触れる機会となり、また、専門が違う意外な人との偶然の出会いが学問の大展開のきかっけになることへの感慨等、不思議と「元気がもらえる」後味を残したのである。

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2009/09/14

胸がすく思いの名著!! ・・・・内海健 著「うつ病新時代 -双極性II型障害という病-」 書評 (第1回) [第2版]

 すでにこちらの記事で購入予告していましたが、昨晩届きました。

 まだ3分の2読んだ段階ですが(・・・・すでにそこまで読んだというべきか?・・・・真ん中のあたりの章がまだ残っています)、書評第1弾をともかく書き出してしまう気になりました!!

内海健/うつ病新時代 -双極2型障害という病-

 この本は、単に、DSMという診断基準が指し示す、狭い意味での「双極性2型」障害についての著作などでは決してない。

 恐らく、通常のうつ状態と診断されている患者さんたちの多くが読んでも、深く共感する内容に満ち溢れているはずだ。

 実はその点にこそ、この著作の只ならぬ奥の深さがあるのである。 

この本ほど、「胸がすく」思いで読んでいる、現代日本の気分障害全般について書かれた著作はありません(きっぱり) 

 古典的な「メランコリー型」うつ病は、実は第2次大戦敗戦国である日本「西ドイツ(!)」において、戦後の復興を経て高度経済成長期に入るという、固有の経済発展様式を取らざるをえなかったために、結果的に、1970年代まで、他の欧米諸国よりも「遅延されて」残存した、実は「オールド・タイプ」のうつ病のあり方であるに過ぎず、現在ではこれらの国でも、主として中年以降の世代にのみ残存している病態であるに過ぎないのではないか?

 ・・・著者ははっきりそこまで言い切ってしまっているではないか!!

*****

 今日、鬱は昔よりも「軽症化」しつつあると言われているのに、実際には、昔の鬱病の患者さんの方が、きちんとした服薬や休養生活(場合によっては入院)を経れば、長くても数ヶ月以内に社会復帰できる人がずっと多かったということを、さまざまな精神科医の先生が指摘している。

 鬱になる人の病態のマジョリティー(多数派)自体が、時代と共に変質してきている可能性を多くの専門家が認め、「新型うつ病」「非定型うつ病」などという言葉が繰り返しマスコミに載るにも関わらず、古典的な「メランコリー型」うつ病ではない人たち(本書で取り上げられている「双極性2型」以外にも、「気分変調性障害」「双極スペクトラム障害」などと診断される方たちを含む)に対する少なからぬ医者の取り上げ方は、どこかしら「近頃の若い者は・・・・」的なノリで、そうした人たちの「性格の問題」という言い方が安易に振り回される傾向があるように思えてならない。

 しかし、それは実は根本的な認識不足なのではないか?

 結局、医者の側が時代の変遷についていけていないことの「逃げ口上」ではないのか?

そうした問題提起をする上で、この著作以上に強力な著作は、刊行3年めにして、まだ現れていないように思われてきたのである。 

*****

 (古典的)鬱病者における病前性格としての「メランコリー親和性」ということをはっきりと打ち出したのは、ドイツテレンバッハという精神病理学者である。ところが、今日では臨床家の間で基本教養の一部というべきこのことをテレンバッハが著作ではっきりと書いたのは、何と1961年という、思いもよらないくらいに最近の(・・・・などと、1960年生まれの私だと書いてしまう)ことなのである!!

テレンバッハ/メランコリー(私は未読で、教科書的知識しかありません)

 もっとも、1961年といえば、西ドイツも日本も、西側陣営の中で、まさに目を見張る勢いで高度経済成長していた渦中に他ならないではないか!!

 「この時代の」「西ドイツにおける」精神科現場臨床におけるうつ病患者の診療の治療の膨大な蓄積の中で、テレンバッハが提唱し、ドイツで、何より日本で、そして最終的にはアメリカですらもDSM-IVの診断基準名に取り込まれる形で、幅広く受容されるに至ったのが、「メランコリー親和」仮説なのである。

 私が、

「双極性II型」気分障害と高度成長期との関連 -星飛雄馬や矢吹丈や岡ひろみのように生きてしまうこと-

 ・・・・・この記事書いた段階で、アマゾンの書評で仕入れた情報ではここまでははっきり誰も解説してくれてはいなかった。「読まないまま見切り発車した」方向性に誤りはなかったことにほっとしている。

 一応、私の記事の方での表現をコピペしておきます(^^)

> 日本における狭い意味での「古典的な鬱病者」とは、
> 実はこうした、すでに過去のものとなった「会社への『忠義』が報われる」という社会システムへの過剰適応者に生じる失調形態であり、
> 今や、古き良き日本の職業観に基づき生きてきた、すでに60歳より年長の世代に固有の「社会的性格」を担う人たち
> (および、その世代の「超自我」を、不幸にしてもろに転写する形で受け継いでしまった、
> 「すでに時代とズレた」メンタリティを
持つ、後継世代の中の一部分 を占めるに過ぎない人たち)に、
> かろうじて残存しているに過ぎないと考えるべきなのである。

> 「会社のために尽くせば尽くすほど、その忠誠心に応えて
> 会社は必ず自分に報いて生活水準の向上をさせてくれる」

> ということを素朴かつお人よしなまでに信じていられたという点では、
> 高度成長期のサラリーマンは、バブル崩壊以降、リストラ等の現実に直面し辛酸を舐めて来た世代に比べると、
> 信じがたいくらいに純情ですらあり、
> (敢えてこの言葉を使わせていただく)日本的な『甘え』の構造に、骨の髄まで浸かっていたと思う。

 一方、これときれいに対応する、内海先生の著作での指摘(太字はこういちろうによる):

 「メランコリー型の生き方を特徴付けるのは、整序され、そして手垢の染み付いた、なじみある空間を形成し、しかる上で、そこに住み込むことである。これが「几帳面」と、さらに「秩序志向」の反面である。

 もうひとつの特徴は、他者への尽力、献身である。この場合、他者とは具体的な人物というよりは、家や会社、上司という役割や伝統という価値などである。

(中略)

 これを対象関係という観点から見れば、メランコリー型は、対象に対する尽力的、献身的な関わりの中で、庇護され、評価を受け、その領分の中で落ち着く、そういった個体である。

(図表への指示省略)

 この単純な図式の中に、、いくつか重要なポイントがある。彼らの尽力には、反対給付が与えられる」(p.125)

 「飯田真によるメランコリー親和型性格の発達史論は、特筆すべきものであったように思う。

 以下にその要諦を示す:

  1. 依存欲求の強い個体があり、依存対象への希求が何らかの形で挫折する。
  2. 対象は断念される一方で、幻想的な一体化願望が形成される。
  3. 代償として、強迫的な性格防衛が形成される。
  4. 権威的な人物や価値観が対象として選択され、権威が超自我として内面化される。
  5. 権威からの期待に応えるべく、勤勉の論理が発動される。結果的に、個体は社会的な自立を達成する。
  6. 権威へのひそかな依存が獲得される」(p.199)

 「こうした性格が形成される条件がある。すでに指摘したことだが、戦後の一時期、日本と西ドイツという、歴史的、地誌的に限定された中で、こうした類型が析出したのである」(p.202)

 ・・・・・内海氏がここで飯田真先生の論文から引用している「依存欲求」というのが、実は先日お亡くなりの土居健郎先生が言われた、本来の意味での『甘え』の問題に他ならないことをお察しの、読者の方もおられることかと思う。

****

 私が前述の記事で書いたことと、実際の内海氏の著作の間に生じたギャップは、確かに微妙な形で存在する。

 それは、私自身は、実は「意外と」古典的なメランコリー性格も超自我的には失わないまま成長しつつも、成人なったら、「ポストモダン的=双極2型親和的」な、絶対的な権威や価値規範など存在せず、更に不況の元で、勤め先からの「見返り」など期待できない社会を生きねばならなくなった「狭間の世代」の感性で、あの文章を書いているということに気づかされたことであろうか。

 この著作で描かれている「双極2型」こそが気分障害の中核群になる世代とは、恐らく私よりも数歳は年下のあたり(現在満40歳ちょうどぐらい)から顕著に増え始めるのではないかと思う。

 なぜなら、その世代まで行くと、すでに幼児期に、「石油ショック」という形で、高度経済成長と「人類の進歩と調和」の幻想の最初のほころびを体験できている以降の世代になるからである。

*****

 以上、この著作についての、読みかかりの段階での取りあえずの「速報」であるに過ぎない。

 何しろ、この本の主題である「双極性障害II型」について、内海氏が論をどう展開しているのかについては、まだ何も私は書いていない(^^;)

 

もっと本格的に踏み込んだことまで書くことを、ここにお約束したい。

(この項、第2回に続く)

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2009/09/03

「カウンセラーこういちろうの雑記帳」の主要過去記事を一番簡単に一覧するには

 このブログって、すでに創設4年9ヶ月、過去のエントリー記事総数が、「この」記事で1,914本め、なのに一日あたりの新エントリー、平均1.10本以上を現在も維持、しかも長文が多いという、へヴィー級ブログです。

 おかげで、もはや@ニフティココログが割り振ってくれているサーバー負荷が相当なものになっているせいか、

  • 私の方からトラックバックを送ることがもはや機能しない
  • pingも自動では飛ばせない(その割には随分多くの読者の皆様が、新記事アップ直後においでいただけることを幸いだと感じています)
  • カテゴリーにすべての記事が反映しない(カテゴリーによっては300から400エントリー分表示されようとするわけで)

・・・・・という、新しくおいでいただいた読者泣かせのブログになっていると思います m(_ _;)m

****

 もちろん、バックナンバー全体を表示してくれる、『アーカイヴ』ページ(自身がココログユーザー以外の読者の皆様、お気づきでしたか??? 右フレームの「バックナンバー」という文字そのものをクリックするとたどり着けます)というものも、あるにはあるわけです。

 しかし、このページにお行きになっていただいたとしても、過去の個々のエントリー記事のタイトル一覧があるわけですらない

 このページからの「〇年〇月」を全部めくっていただくだけでも(全く休眠した数ヶ月を除いても、現在50か月分ほどあるわけですね(^^;)。その50ヶ月分、それぞれ月ごとに、毎月30から40エントリーずつはあるわけですから・・・・・

 つまり、私がこのサイトでこれまで書いてきた主要記事がどんなものか、新しい読者の皆さんにおおよその見当をつけていただくには、もうデタラメにご不便をおかけしていることと思います   il||li _| ̄|○ il||li

*****

 この問題を一気に解決し、

  • 新記事の方が上に来る形で、
  • 過去の記事に関しては私がある程度絞り込んでセレクトしたものを、
  • 数百記事ばかり、1ページをスクロールできる形で
  • ブログのような表示の重さがない形で一覧したいただける

そういうページが、実はずっと以前から存在します!!

●阿世賀浩一郎のホームページ/index

 開設1995年12月(つまりWindows95発売直後)開設、日本において、インターネットで個人サイトを作ることが本格的に普及し始めた黎明期から、何と基本的なデザインを変えないまま運営し続けているサイトです。

 かつては、ネットを代表するエヴァ・サイトのひとつ、「エヴァンゲリオン論考」で著名だった時代もありますけど、幸いにして著作化させてもいただきましたので、そのコーナーは全面削除いたしておりますが(「ちーちゃんの部屋」というアニメコーナーがかつて存在したことを覚えておられる方もあると嬉しかったりして ^^;)・・・・

そのトップページから、このブログでの新エントリー記事を書く度ごとに、固定リンクへのリンクを、たいてい速攻の連続作業でお貼りしてもいるのです。

 恐らく、皆様のRSSリーダーに反映するスピードの比ではない「即時性」で「新着情報」が掲載され続けています。

 同一エントリー記事の更新(改版)情報すら、可能な限り早くお伝えしています。

 

そこに並んでいる、当ブログ個別記事へのリンク数は、常時数百あるはずです(古いものから時々、精選のための「ダイエット」をかけますので、一定数以上には増えません)。

 しかし、敢えて今でも、基本的には「素朴なhtml言語の手打ち」に依存し、javaスクリプトすらないに等しいということで、このトップページそのもののバイト数の多さの割には、表示が圧倒的に軽い筈です(このブログのトップページを表示するよりは軽いと思いますよ)

 
当方のアクセス解析によって、「こっちのページで新着情報見つけるほうが手っ取り早い」ことにお気づきの、毎日数名以上の固定ユーザーの方がおられることは掌握しています(感謝!!)。

 しかし、そうした方の占める比率が以前よりもかなり減っているようにも思いましたので、改めてご紹介させていただきました。

 

今後とも、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」をよろしくお願い申し上げます。

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2009/08/24

「双極性II型」気分障害と高度成長期との関連 -星飛雄馬や矢吹丈や岡ひろみのように生きてしまうこと- (本文第4版のまま 最終更新)

 安易な「世代論」は慎みたいのだが、現在40代までの世代のうつ病のあり方が、以前とは異なってきていること(いわゆる「非定型」うつ病や「双極性障害II型」と診断を受ける人が増加していること)を検討する上で、やはり必要な観点として、ちょっと大胆すぎるかもしれないことを、敢えて書いてみたくなった。

 日本の「高度成長期」とは、狭い意味では、オイルショック(1973)に至るまでの1955年から1973年までの18年間であるという前提で以下の話を進めたい。

 そして、「高度成長期に育っている」世代というのを、私なりの、やや強引かもしれない境界線として、少なくとも小学校時代全体を1973年度までに終えていると設定することに同意していただければ幸いである。

 そうなると、単純計算で、そうした世代の一番若い人間は、1961年(昭和36年)生まれであり、今年度(2009年)のうちに満48歳を迎える人間であるということになる。

 更に、上限も規定しよう。高度成長期に突入した時点(1955年)で、いろいろな幼年期の記憶が残りはじめていることが確実な年齢層。それを3歳から5歳ごろと仮定すると、2009年現在は58歳から60歳の人たちということになる。

 この範囲におさまる人たちは、まさに12年=1世代である。いわゆる「新人類」世代といわれるものと、実にぴったり重なることになる。

 現在では、この世代の人たちが、社会を実質上動かす「壮年期後期世代」として活躍していることになる。一世代ばかり上には「団塊の世代」が今も「ボス」として君臨していることになるわけだが。

 この世代の人間は、子供時代の重要な時期を、未来に向けての「人類の進歩と調和」を疑わず、日本もどんどん経済成長する中で、「親がすでに獲得した立ち位置で、更に努力を重ね、精進していけば、会社での昇進や事業拡張に伴う収入増加と、家庭の生活水準が向上していく」ことを非常に楽観的に信じていられる中で育っている。

「会社のために尽くせば尽くすほど、その忠誠心に応えて、会社は必ず自分に報いて生活水準の向上をさせてくれる」

ということを素朴かつお人よしなまでに信じていられたという点では、高度成長期のサラリーマンは、バブル崩壊以降、リストラ等の現実に直面し辛酸を舐めて来た世代に比べると、信じがたいくらいに純情ですらあり、(敢えてこの言葉を使わせていただく)日本的な『甘え』の構造に、骨の髄まで浸かっていたと思う。

 このわずか十数年の間に、年功序列も有名無実化し、終身雇用制度も風前の灯の「実力主義」の生き馬目を抜く競争社会に日本も急速に変貌してきた。

 天下泰平の江戸時代の武家社会以来命脈を保って来た、「忠義には恩賞で応える」という職業倫理観そのものがもはや崩壊してしまった。

 日本における古典的な「うつ病」のあり方が、実は欧米社会のそれとは、メンタリティが一見似ていて内実は異なる点が得てして見落とされている。中井久夫先生が「分裂病と人類」の中で指摘しているがごとく、うつ病の病前性格とされた「メランコリー親和型性格」とは、欧米(この概念をテレンバッハが生み出したドイツにおいてですら!!)では、当初から、むしろあまり高い価値づけを与えられるパーソナリティ・タイプではなかったのである。

 (私が目にできた範囲では、このことに真正面から言及しようとしている文献に最近の著作でなかなかお目にかかれない気がするのだが)日本における狭い意味での「古典的な鬱病者」とは、実はこうした、すでに過去のものとなった「会社への『忠義』が報われる」という社会システムへの過剰適応者に生じる失調形態であり、今や、古き良き日本の職業観に基づき生きてきた、すでに60歳より年長の世代に固有の「社会的性格」を担う人たち(および、その世代の「超自我」を、不幸にしてもろに転写する形で受け継いでしまった、「すでに時代とズレた」メンタリティを持つ、後継世代の中の一部分 を占めるに過ぎない人たち)に、かろうじて残存しているに過ぎないと考えるべきなのである。

 はっきり言う。このことに、うつ病についての著作を書く現在の日本の精神科医の先生方の多くがなかなか(少なくとも一般の人向けの)著作の中で言及しないのは、ひとつにはDSMというアメリカの診断基準を「治療的輸入文化」として「丸呑みに」受け止めるという、未だにアメリカという「親」への媚びへつらいから脱却できない、主体性に欠ける精神医学観しか持ち得ていないまま、「未だに『戦後』をやっている」状況から抜け出せていないためであり、フロムやリースマンの水準での超古典的「社会的性格」論ですら実は掌中にしないまま、せいぜいありふれた社会評論家の水準でしか現代社会を論じる力がないままに、目の前の患者さんと漫然と会い続けているに過ぎないということであり、医者自身が無意識的に身を浸している、「ある世代(特に「新人類世代」)より上の指導的職業人一般に共通する」職業倫理観を「相対化」して「突き放して」見つめなおすというパースペクティブを確保しえていないということかとも思う。

(もちろん、すでに日本における「超古典」の域の中井先生ないし神田橋先生によるものでなくても、こうした点での大局的洞察力に富んだ、「ポスト中井世代」の精神科医の先生方の近年の著作も確かに幾つも存在するようだ。それらについては今後の記事で紹介しながら、私の問題意識と重ねた詳しい考察を試みるつもりである、・・・・・そもそも、私が今書いているこの記事を「インスパイア」したのがどの先生のどの著作かまで具体的に「言い当てる」ことができる慧眼な読者の皆さんがおいでになっておかしくないはずだ。ただ、何と私はその著作を現在私自身が「まだ所有していない」ままなので[追記、購入して、書評の連載をこちらから始めています]、その先生がすでにその著作で具体的にお書きの細部と私の今回の論考が重なるのかすらわからないまま「見切り発車で」とりあえず書いてしまっているのである!! ・・・・ヒントを出すと、今回の記事は、中井先生や神田橋先生の「後継者」の呼び声が高い、熊木俊夫先生の著作をヒントにしているわけではないので、念のため!! 熊木先生の代表的著作については、遂に入手しましたので、遠からず何かこの場で書ける具体的スケジュールに入りました![追記:書きました]。あと、ほんとは、中井先生に代わって今や少なからぬ現場精神科医の尊敬を一身に担っているという濱田秀伯先生の大著「精神症候学」を精読するのがひとつの小さな夢なんだけど、までスケジュールに入れられる段階ではないのです・・・・つまり濱田先生の「洗礼」を著作水準ではまだ受けていないのであるし、この記事の内容とも直接の関連性はないはずである )

*****

 もっとも、「新人類世代」は、高度成長期においては、まだ十代ないしそれ以下の「扶養家族」であり、本人自身はまだ実社会に出た「就労者」ではなく、家族の生計の当事者ではなかった。実はこの点こそが肝心である。

 現実社会の中で「努力と根性」で生きて、一家を支えているのは、戦前(昭和10年代=1935年前後以降)・戦中に生を享けて、戦後初期の貧しさの中で子供時代から十代を過ごす中から、死に物狂いで家の生活水準を上げてきた「親世代」なのだ。

 新人類世代の人の子供時代においては、「努力と根性」の果てに立身出世するという倫理は、自分がそれをやるかどうかは別として、ひとつの「理想像」としては、結構素直に受け入れられていたと思う。まさに「巨人の星」「エースをねらえ!」を子供時代から十代前半に堪能していた世代そのものなのであるから。

 ところが、それはあくまでもひとつの「ファンタジー」ないし「自我理想」として存在しても、自分の身にひしひしと差し迫るリアリティとしては体験していない。

 そうした中、当時の子供にとって、唯一の例外の「努力と根性」へのプレッシャーを社会から否応なしに受けるリアルな場が、現在よりも「遥かに」過激な受験戦争だったろうとは思う。

  しかし、(敢えて言わせて頂ければ)受験勉強というのは、一度乗っかってしまえば、ゲームの上達と同じような、シンプルな仕掛けの「バーチャルな」次元での競争であるに過ぎない(ネットゲームやセカンドライフ的仮想世界では、ある種の「対人関係スキル」がある程度問われることは否定しない。ここでいう「ゲーム」とは、あくまでも、「スタンドアロンな」ゲームの場合である)。

 受験とは、複雑な人間関係や駆け引きなどへの対処を含めた、実社会でのサバイバルや栄達までの修羅場で必要な、複雑で多次元の「全人的能力」の総合性が試されるフィールドではないのだ。

 いくら「学歴信仰」が今よりも強い時代だったとはいえ、大人になった自分が「実際に」世間の荒波に飲まれてどこまで「通用するか」とは別次元の問題であることなど、子供心にもうすうす懸念していたことが多かったはずである。

 つまり「勉強ばかりさせられる」ことだけで、大人として通用する未来が開けるわけではない筈だと、心のどこかで気づいていたのではないかということだ。

 大人になって、世の中を生きるとは、そんな単純には行かないものでないか?

 だからこそ、多くの子供は、受験勉強にばかり縛り付けられることに、自分の未来への、漠然としてはいるが深刻な危機意識の中で「抵抗し」、ほんとうは、何か別のものをこそ、大人から吸収したかったのではないかと思う。

*****

 そういう中で、自分が成長していく上で見習っていく先達=「大人」としての手本を、その世代はリアルワールドの中では見失っていたのではないかとも思う。

 いわゆる「ポスト全共闘」しらけ世代にあたる、自分より少し年長の、大学生から社会人になりたての世代は、自分の目から見ても、「身体を張って生きてきた」親世代そのものに比べると、心優しいけど、どうにもこうにも軟弱で、「お兄さん」「お姉さん」ではあっても、「大人としてのあり方」として憧れるというのにはイマイチだ。

 そういう、自分よりも少し年長の世代にあたる「物語上の」主人公たちが「努力と根性」で社会に巣立っていくまで支え、見守り、鍛え上げる、更に上の大人世代・・・・まさに星一徹や宗方コーチの「大人としての厳然たる存在感」がなかったならば、その種の成長ドラマは、子供にとっても、全然魅力的なものとはならなかったはずである。

 しかし、自分の親そのものは?・・・・厳しい小言はいうけれども、少なくとも家庭で見るその姿は、経済的豊かさを「消費」しながら、休日はぐったりと横になっているばかりで、全然かっこよくない(ほんとうは、多くの場合、職場では地道にその人なりに奮闘していたであろう、親の大変さまでは子供にはリアルに実感できないのだから)。

***** 

 私は、この「新人類」世代の人が鬱になる場合は、それ以前の世代の人が鬱になる場合と比べても、すでにかなりの傾向差があるし、更に「新人類」世代以降になると、更に別の傾向を示すのではないかとも感じている。

 大雑把過ぎるのを承知で、敢えて大胆に言うならば、「新人類世代」=特に「双極性2型親和的」な世代ではないか?・・・という思いが私の中に生じてきているのである。

 古典的なメランコリー鬱病親和的な人たちは、「新人類世代」になると、ぐっと割合が減り始め、それと交代するかのように、「双極性II型」と診断される人の率が増える・・・・という仮説である。

 現状では双極II型の診断を日本の精神科医の多くが十分に的確にできるまでの「途上段階」に過ぎないので、日本における「双極II型」と診断される患者さんの年齢別・世代ごとの分布の統計が、もし仮にあったとしても、十分に信頼できる水準のものが日本にあると言える段階ではないかもしれない。

****

 しかし・・・・・ふと思ってしまうのである。

 星飛雄馬は、大リーグボール3号を編み出しこそしたものの、それはまさに「身を削る」投法に他ならず、最後には腕の筋肉が断裂するという形になったではないか。

 矢吹丈にしても、そうだ。ホセ・メンドーサとの死闘の後で、皆さんご存知の通り「真っ白な灰」になった。

 岡ひろみも、宗方コーチの死のショックから立ち直って、再びウインブルドンに旅立つまでに、どれだけぼろぼろな日々を送ることになったか。.

 この3人の生き方って、もう、びっくりするくらいに、双極性II型気分障害に陥った人の「現実の人生」と類似しているのではないか?

 双極性障害II型の人に内在する超自我は、まさに「星一徹」や「宗方コーチ」のような超然たる厳しさを持ったものではないか?

 そうした「内的コーチ」の期待と信任に応えるべく、極限までの努力を孤独の中で重ねて、遂には燃え尽きる・・・・

 (宗方の死で幕を閉じた、アニメのTV版「新・エースをねらえ!」あるいは劇場版「エースをねらえ!」しかご覧になったことがない皆さんは、原作の物語がその後延々と岡ひろみの「リハビリ」の過程(!)を描き続けたことまでご存じないかもしれません。実は、原作における宗方の死以降のストーリーも、原作とはかなり異なる展開ですが、かなりたってから、実に丁寧にアニメ化され、2クールかけたオリジナルビデオアニメシリーズという形で発売されています(「エースをねらえ! 2」 「エースをねらえ! ファイナルステージ」)。もっとも、その後衛星放送やCSや深夜時間帯で何回も放送された筈なので、そういうきっかけでご覧になった皆さんもあるかとも思いますが)

*****

 こうした、「新人類」世代の子供時代のヒーロー、ヒロインが「努力と根性」の果てに燃え尽きていくドラマを、あたかも自分自身が現実の中で再演する「かのようにして」、結果的に生きてしまったのが、双極性障害II型の人の生き様である・・・・という、大胆な仮説はどうだろう?

「現状がいかにしょぼくて、疎外されたものであろうとも「努力と根性」さえあれば、いつか報われるに違いない」

「 ・・・・・その前に、自分程度の者は、燃え尽きてしまい、安住の地にたどりつけないのではないか?」

「でも、このやり方しか自分にはできないんだ! きっとそのうちに誰かが認めてくれる・・・」

「それにしても、この、一見のどかで平和な時代って、何か、ふわふわしていてさ、生きている実感に乏しくて、どこか「嘘くさく」ないか?」

「きっと、「ほんとうの現実」っていう奴が、どこか別のところにあるんだよ」

「もし、そこに待ち受けているのが悲劇の幕切れであろうとも、自分が「ほんとうの現実」に触れた充実感に出会えるのならば、それが一瞬の花火でもいいではないか!」

・・・・まるで、徐々にパンチ・ドランカー症状に苦しみ始めた矢吹丈が、試合の前に、川辺で(ジョーを慕っていた)紀子に語った、かの有名な「真っ白な灰になる」という結語に至る一連のセリフみたいであるが、双極性II型の皆さんの中に、ある共感を抱いてくださる方が少なからずあるのではないかと思う。

 そして、そういう生き方が、自分を苦しめ、燃え尽きることを繰り返す双極性の病に陥らせたことへの、砂を噛むような不毛感も。

●あしたのジョー2 傷だらけの栄光(YouTube)

****

 もちろん、こうしたことを「テレビやマンガの悪影響」などという次元で私は語っているつもりは全くない。

 (恐らく、ここで書いてきたことは、「メディアの子供への悪影響」という論を張るのがお好きな人たちにはむしろ絶対に思いつけないし、お知りになったら「呆然とする」見解(?)であろう。星飛雄馬や岡ひろみの生き方を「不良」で「不健全」呼ばわりする人など、そういう人たちの中にこそ、一番いそうではない気がするので)。

 私が伝えたいのは、そうした人たちが子供時代を過ごした社会全体の「時代の空気」豊かさと、「成長」幻想の影に隠された不安と焦燥)との「隠された」親和性の問題である。

 この世代の、少なくともある一定範囲以上の人たちが、社会に出るまでの間の成長過程で育んだ、「成長」や「自己実現」の理想化されたイメージと、大きな共振作用を起こす形で、こうしたヒーロー・ヒロインの物語上での生き方として社会的=象徴的に「表象された」のではないか?

(このようなメジャーな雑誌に連載される、すでに人気が出た物語の原作者というものは、その時代の読者層をいかに感動させる物語展開にするかにこそ、神経をすり減らしているものであることはいうまでもないでしょうから)

*****

【追記】この記事を書くヒントは、

内海健/うつ病新時代 -双極2型障害という病-

実際には1ページも読んだことがないままに、amazonにおける本書についてのいくつかの書評からのみインスパイアされたものです。

 書評をお書きの皆様(特にSeaMount様)に厚くお礼申し上げます。

 すでに内海先生の本を「実際に読み」ましたが、この記事を「後出しじゃんけん」で増補改訂することは一切しないことにしました。

*****

※関連記事

●胸がすく思いの名著!! ・・・・内海健 著「うつ病新時代 -双極性II型という病-」 書評 (第1回) 

2009/9/14 NEW!!

●若手カウンセラーの方が、私たちよりも「したたかに」実力をつけていくのではないかという、大いなる期待(・・・実は「おゆとり様」世代の大肯定論です)

■Amazonの関連商品:巨人の星エースをねらえ!あしたのジョー

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2009/06/18

「治療」と「養生」の違い。人類は鬱になった人に「恩」を感じ、「感謝」を忘れてはならないということ(第4版)

 精神科医、神田橋條治先生の用いるキーワードのひとつとして、「養生」という言葉があることは、臨床家に知れ渡っているかもしれない。

 この言葉は、広く使われる、「治療」という言葉に対するアンチテーゼとしての側面を強く持っている。

 「治療」とは、

  1. 専門の治療者(医師、セラピスト)が、患者(クライエント)に対して施す行為。
  2. 「治療」行為の具体は、特別な専門家のみが継承する「秘儀」としての性格を持つ。
  3. 「健康な」状態を「正常」とみなし、それが傷害されたり、失調した「異常な」状態を「病気」とみなす。「健康」状態は、まるで生命が永遠に続くかのようにして維持されることを理想とする。
  4. 治療とは、その「異常な」状態から、以前の「正常な」状態に「回復」させる行為。
  5. 「異常な」状態は、いわば機械の故障や部品の脱落のようなものであり、それを専門家が「修理」しない限りは「回復」しない。
  6. 治療行為は、非日常的な、専門家がいる「特殊空間」で、「回復」するまでなされる、終わりある、一時的行為である。

・・・・・おおよそ、こうした含意があるように思える。

 これに対して、「養生」とは、

  1. 養生する主体は一般の生活者自身である(「養生の助言者」は存在し得るにしても)。
  2. 養生の心得は生活者の間で伝承される「オープンな生活の知恵」の一部である。
  3. およそ、生命体は、ある一定の状態を維持するものではなく、内的・外的な要因で絶えず「調子の波」があるものとみなす。そして、その「調子の波」が、何かの弾みで「調子がよすぎる」方向や「調子が悪すぎる」方向にはまり込み、容易に抜け出せなくなることは、誰にでも生じる可能性があり、生涯のうちに何らかの形でこうした状況に陥り、乗り切る必要がことが出てくることは、必然であるとみなす(その最大のものは、誰にでも寿命があるということである)。
  4. 養生においては、状態が悪くなる以前の状態にまで復することを必ずしも求めない。以前とは別なライフスタイルとなり、以前よりも制限された生き方しかできなくても受けとめる。これは単に「耐え忍ぶ」「諦める」ということではなく、以前無理が効いて何でも思い通りにできた頃の自分のライフスタイルこそ、バランスを欠き、「不養生」だったからこそ可能だったものに過ぎないとすら達観する。敢えて言えば、「養生しつつ生きる」人間の方が、「健康な」ライフスタイルに到達したとみなす逆説がある。
  5. 生体は、調子を崩すと、自然と、普段の活動状態から退却し、休息をとったり、身体に必要な滋養を補給しながら、自然な回復力が徐々に発現するまで「無理をしない」ことをおのずから行なうものであるという前提がある。人間は本来持っている筈の自然な自己治癒力が「退化」した存在なので、文化として「養生」術が伝承されるしかなくなった存在であるに過ぎない。
  6. 「養生」は、生活場面の中、あるいはせいぜいその延長といえる領域まで出向くのに留まる形で、形を変えながらも生涯続く「生活術の一部」として、なされ続ける。

 これは、私なりの理解をまとめなおしたもので、神田橋先生の著作のどこにも、そっくりそのままの部分は出てこないかと思います(^^)

神田橋條治/精神科養生のコツ 改訂版

 

*****

 私は、実は「単に『健康で』あり続ける人間」よりも、「『養生』しながら、新たなライフスタイルを模索してきた人間」の方が、無用な紛争や経済的な軋轢を生み出さず、多様な他者のあり方を受容し、痛みを分かち合い、地球環境も大事にする、これからの人類に必要な資質に富んだ人たちだとすら思いますが。

 

・・・・実は淘汰される弱者ではなくて、「どっこい生きてる」生存率の高い遺伝子保持者であるとすら。

 中井久夫先生が『分裂病と人類』でお書きですが、確か、ダーウィン派の進化学者、ジュリアン・ハックスレーが、「なぜ統合失調症の人は遺伝的に淘汰されず、一定の比率で生まれ続けるか?」という命題を掲げ、それに「貧窮困苦への耐性」という仮説を立てたそうです。

 これに対して、中井先生自身は、自ら「性的伴侶の獲得において有利な形質を持つから」ではないかと述べ、社会が大きな危機に瀕し時、社会の前景に躍り出て、先例にとらわれず、かすかな兆候から、変化を刻々と先読みしながら(=微分回路認知能力)、先見の明で時代を切り開けるは「S(分裂病)親和者」であるから・・・という仮説を提示したわけですが。

中井久夫/分裂病と人類

 

 

 うつ病になってしまうほどの几帳面に努力できるまじめな人たちに実は有形無形で支えられていたから、多くの家族や集団や企業は成り立っていた。

 上司や同僚は、まずは何より、「それまでの」その人の働きと功績に心からの「感謝」を伝え、労(ねぎら)いの言葉を形にすべきです(この実はシンプルなはずのことが、現実にはいかに抜け落ちたままのことが多いか)。「早く良くなって帰ってきてね」も余計です。

  極論を申し上げると、もし、鬱の素質がある人を全部最初から遺伝子レヴェルで受精直後に排除したりしたら、人類の滅亡は更に急速に早くなるでしょうね(・・・・勘違いしないで下さいね、鬱の皆さん。これは、あくまでも、鬱の人への恩を忘れ、困ったものだとみなす人たちへの皮肉です^^)

 これは、おそらく、いわゆる「こころの病気」を持つ人全体に言えることでしょう。

 ヒトゲノム計画における遺伝子の「意味づけ」って、実は常に一面的な意味づけであり、一見「病気を引き起こす因子」と見えるものが、同時に、「ある特定の状況下では、その個体をサバイバルさせる因子」、あるいは少なくとも、「自分は犠牲になっても他の個体を生かすための活動ができる因子(人類という種全体を維持しようとする因子)」としても働くという、「両価的な」ものである可能性が見過ごされないか、心配です。

 優生学とヒトゲノム計画を安易に同一視するつもりはありませんが、遺伝子の選別、いや場合によっては「遺伝子『治療』」という発想を常に注視しなければならないのは、それが単に人間の平等や人権に反する危険があるからばかりではないと思います。

 実は、上記の理由で、人類が存続するのに実は必要な大事な「表裏一体の」形質の遺伝子を「修正してしまう」結果、気がついたら、システムとしての人類全体を「弱体化」させるというパラドクスを秘めている可能性があることまで考えねばなならない。

 神ならぬ人間自身の浅知恵なんて、そんな水準のものを容易に越えられないのではないかと。

 仮に、人類が、いずれ衰亡するする運命にあるにしても(^^;)、そうした、人類全体への「治療」めいた形で、いよいよ衰亡を早めることなく、スロー・ライフで「養生しながら」地球と共存して生き長らえるのでいいのではないかと。

*****

 誤解なきように最後に言い添えますが、私が基本的に薬物療法の積極的支持者であることはこのブログで明言し続けている通りです。神田橋先生自身が、薬物療法の「超職人的な」使い手であることを忘れてはならないかと。

 しかし、ある物質を体内に投入しさえすれば精神疾患が治療できるというのは、恐らくどんな時代が来ても夢のまた夢でしょう。

 なぜなら、精神疾患に親和的な人たちとは、常に、文明と文化が生み出す歪みの結果であり、なおかつ、新たな文明と文化を生み出し、維持するエネルギーとなる人たちの供給源であり続けると考えられるからです(この発想の点では、私は中井先生の影響を強く受け続けていますね)。

 そして、薬という「異物」によって心身に生じる反応は本人に「違和」を引き起こしがちなものです。そういう薬剤によって変化させられる心身の反応を患者さん本人が「受容し」「消化して」、自我に統合し続ける過程というものが、結局は薬の効能の成否を決めるものであり、それを支えるのは、やはり、薬の効能にも通じた治療者との関係性であり、更に言えば、薬物療法を理解しながら見守る、家族やパートナーとの日常的な信頼関係なのだと思います。

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2009/06/01

NHKのクローズアップ現代・「抗うつ薬の死角 ~転換迫られるうつ病治療~」について(第3版)

 本日(6/1)19:30に放送された内容に基づいて、速報します。

 SSRIの副作用として稀に見られる、衝動性・暴力性誘発という問題について踏み込むと言うことは事前に知っていましたが、それでも全体としては、当ブログでも大々的に連載を組み、ご愛読いただき続けている、3/7放送のNHKスペシャル「うつ病治療 常識が変わる」の補足的・復習的続編という色彩が強いだろうとは思っていました。

 その意味では、番組の構成的にも全く予想通りに進行してしまって、押さえて欲しかったポイントはほぼすべて押さえてくれ、前回の番組で誤解を招きかなかった側面(認知行動療法だけを積極的に描きすぎていた面)はうまく調整されていたと思います。

 医者や臨床心理士や看護士にとどまらず、栄養士すら含むさまざまな役割のスタッフが、皆、患者さんをケアし、見守る援助資源であり、誤診や状態の変化に対応できるチーム医療の上でいかに重要かを改めて強調していた点についても好意が持てました(薬を必要以上に出さないことは大事ですが、この番組後半で紹介されていた事例が、画面を見る限り、入院治療である点に注意すべきかと思いますし、薬物療法をやはり大事にしている点も見逃すべきではありません)。

 また、番組内でも繰り返しテロップすら出して強調されたのは、この番組を観て不安にかられるあまり、自分だけの判断で薬にやめてしまうと非常に危険なので、疑問があればお医者さんに相談してください、ということでした。これも適切な配慮でしょう。


*****


 さて、今回の番組の前半で中心として取り上げられたのは、先述の、抗うつ、SSRI)が、人によっては、攻撃性や衝動性を誘発する副作用が出る可能性があることを、この4月に、厚生労働省が、製薬会社に注意書きとして掲載することを義務付ける通達を出したという点でした。

 日本では、SSRIの投与が現実の衝動的な暴力事件と因果関係を厚生省が正式に認定されたケース事件はまだ4件しかありません。

 この番組でも紹介された、1999年の、機長を殺害し、精神鑑定の結果無期懲役に減刑された、全日空61便ハイジャック事件で、抗うつ剤大量服用による心神耗弱が無期懲役への減刑理由となったことはかなり知られているかと思います。

 全日空事件に関しては、そもそも、通院していた医者の当初の診断も理解しかねる(統合失調症ではなくて、この段階では詐病していた疑いがあることは当時も報道されたかと)し、結果として出されていた薬のリストを見ると、医者ではない、限られた知識の私の目から見ても、もう、どういう判断でこうした薬がここまで大量に出ていたのか、目を疑う内容が列挙されていますので、判決のように「『抗うつ剤』の大量服用の副作用」だけ認定したというのは何か腑に落ちないといいますか、医者の診断と投薬のあり方そのものが大きく問われる事例と思えてならないあたりが、今回の番組では不十分な描き方と思えますが、その部分を詳しく描きすぎても番組のバランスを崩したでしょうから、敢えてクレームをつけるに及ばないかと思います。

 そして、アメリカの、あの「コロンバイン高校銃乱射事件」(1999年)の犯人のひとりもまた、犯行直前に、大量のルボックスを服用していたことが、この番組で紹介されます(wikipediaによれば、犯人の遺族からの製薬会社の告訴による訴訟においては、薬との因果関係は立証されなかったものの、2002年にこの薬はアメリカ国内では販売中止になっているそうです)

 アメリカでは、すでに2004年の段階で、SSRIがその副作用として攻撃性を誘発するか可能性があることを注意書きに明記する命令が製薬会社に出されていました。


*****


 もとより、こうしたSSRIが攻撃性を誘発する副作用を人によっては発揮する可能性については、こうした大犯罪事件のみならず、数多くの、もっと地味な犯罪・警察沙汰の事件、そして現場医療の中で気がつかれた患者さんの衝動性の高まりなどの行動変化についての、少なからぬ症例に基づいて浮かび上がってきた事柄です。

 番組では、日本での2つのケース、すなわちパキシル投与後、言動が攻撃的になり、ついにはコンビニに包丁を持って強盗に押し入り、現金20万円を奪取した事件、そして、配偶者を殴って10針の傷を負わせた事件という、2つの事件における、診断と投薬の過程の問題点が、ご本人と家族への取材映像を含めて紹介されていました。

 前者のケースは、投薬開始後早い段階から、家族に対して衝動性・攻撃性が増していたにもかかわらず、医者は、まずはパキシルを3倍にまで2段階かけて増量し、その段階で「効かないから」という訴えを受けて、一転して投与全体を中止。それから数週間後には再び、かなりの量の投与を再開、更に増量(当初の4倍)という、実に頻繁な投与量の増減がなされていた点が、番組で、重要な問題点として指摘されました。

 SSRIを飲むことを「急にやめてしまう」ことは、実は非常に危険であり、身体面でのリバウンドの危険も大きいばかりか本人を更に不安定にする引き金ともなるのです。ですから、患者さんが勝手な判断で飲むのをやめてしまうことは是非避けるべきです。お医者さんの指導の下で徐々に減薬していった上で、別の薬等の治療に置き換えて行くのが適切です。

(私自身、お医者さんが何を思ったかパキシルを突如全部やめてしまってデパスのみに置きかえるという、常識はずれの処方をしてきて、その際に身体がどのくらいリバウンド食らうかの恐ろしさを体験しています)
 
 もうひとつの後者のケースは、すでに以前もご紹介したように、実は双極性障害の「うつ状態」のはずなのに、単極性障害とのみ誤診され、気分調整剤ではなくてSSRIのみが中心的に処方されたケースでした。この患者さんは、おかげで躁鬱の波が余計に悪化するというパターンにはまって、奥さんに暴力を振るってしまったのですね。

↓「NHKスペシャル」で用いられた図の再掲です。今回の番組で掲載されたのは「双極型障害Ⅰ型」についてのもので、躁状態方向への波の振幅も高まっていたので、少し違う図になるのですが、参考までに転載します。
Bp2b_2
Bp2c_2

 この番組の中で、単にSSRIそのものに不安や緊張の低下と同時に、衝動性抑制の神経伝達物質代謝まで緩んでしまう作用を起こす可能性の示唆にとどまらず、お医者さんの側に、適切な診断の下で、薬を的確に使いこなせていない未熟さがまだ見られることが大きな原因であることを強調していた点は、重視すべきでしょう。


 この取材に応じ下さった患者さんお二人が異口同音に語った事柄が印象的です。


「そういう時には、まるで自分が自分ではないみたいな、独特の感じなんです」

「何かにムカついてきて、イライラが高まる時のイライラとは全然違うものなんですよ」


****


 今回の番組の中で、ゲストの医療ジャーナリストの小出五郎氏は、日本の薬事法における、薬の副作用についての国への報告システムの問題点を指摘していました。製薬会社や大病院からそうした副作用報告を吸い上げるパイプは制度として整備されているのですが、個々の医師(開業医を含む)や患者・家族から、そうした、薬の副作用についての情報を、たとえ曖昧で確証がなくてもいいから吸い上げるまでの公式のシステムが制度的に存在しないそうです。 

「副作用情報はいったい誰のためのものかということです。何よりまずは患者さん、そしてご家族にとってなくてはならないはずのはず。そうした情報を専門家と共有するためのネットワークの整備が制度的にも急務」

というのが、小出さんが最後に強調した点でした。


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2009/05/03

「天才バカボン」で天才なのは?

タイトルにもかかわらず、バカボンではないということだけは確かである。

次に、間違いなく誰の目にも天才だと描かれているのは、バカボンの弟のハジメちゃんであろう。そして、そのハジメちゃんの母親である、バカボンのおかあさんも、潜在的には天才であることも納得できる。

しかし、この作品の中における真の意味での天才が、バカボンのパパであること、つまり、この作品のタイトルを、あと知恵で合理的に改題すれば、「バカボンのパパは天才!!」であろうことは、言うまでもなかろう。

 「これでいいのだ!!」

 というのは、バカボンのパパの、いわばそのような「天才的」問題解決手法の強弁的な自己肯定のための発言であるともいえる。

 しかし、それは単なる開き直りではなく、むしろ、自分なりに恥も外聞もなくじたばたした挙句、とにももかくにもたどり着けた、「かりそめの平安」の境地への、感謝を込めたつぶやきのようにも思える。


*****


 更に言えば、それは、旧約聖書の天地創造において、神が6日目に、人間以外の生命まで地上に創造したあとで(人間はまだです)、「見よ、それは極めてよかった」(創世記1.-31 新共同訳)とつぶやいた時の思いを連想させる。

 そして更に言えば、新約聖書のヨハネによる福音書に描かれている、香油を注ぐ(マグダラの)マリアの振る舞いについての、イエスとイスカリオテのユダとの問答のエピソードすら思い出させる(ヨハネ 12:3-6)。

そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。(新共同訳 p.191)

 ・・・・・・だから、これで、いいのだ・・・・・と、イエスは言われた。


 「罪ある女」が自らの身体という犠牲の元で稼ぎ出したお金を惜しみなく投じることの、基本的な無償性を、少なくともこのヨハネによる福音書の物語では、表裏ある偽善的な世俗の弟子であるに過ぎない(よーするに、自分が使い込んだ分だけマグダラのマリアから搾取して埋め合わせようという魂胆だったことになる)イスカリオテのユダは理解できないようである。

 そこには、自らの肉体をまもなく人類の犠牲に捧げ、「あなた方と一緒にいる」わけではなくなるイエスへの根源的なcom-passion(苦難の、共有)があるということに。


******


 ・・・・・・こうして、話がどんどん大きくなったしまったけど、 
「これで、いいのだ」
とつぶやいておく、こういちろうなのだ。



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アルク


2009/04/25

久留米市寺町界隈のつつじ、そして高山彦九郎の生涯

 久留米の旬のつつじシリーズ第3弾です(実は前の回の写真もすでに増えてますよ)。

 今回は、今朝散歩してきた、久留米市寺町界隈です。私の家から徒歩5分ぐらい。

 この土地には、江戸時代から、城下町のお寺さんが集められていました。そういう古くからの風情が比較的残っていて、この季節から秋にかけての週末には、結構ハイカーの人たちで賑わいます。

 西鉄久留米駅西口から北上、蛍川通りとクロスする交差点から、今回の写真集を始めましょう(次第に私の家に近づく方向になります):


大きな地図で見る

 まずは、蛍川通りとの交差点から寺町通りにほんの少し入ったところにある、何ともさりげない、中華チマキと肉まんのお店、知味斉をご紹介。

K3100097
 ご覧のように、何ともささやかな間口と面積の店舗なんですが、土曜日の朝9時半の段階で、お客さんこそ私一人でしたが、お店の中では次々とせいろでチマキや豚まんを蒸していく活気が感じられ、昼ごろにはかなりのお客さんが立ち寄られるのだろうなというのが伝わりました。

 「知味斉(ちみさい)」という名のお店は、実は中華家のお店としては全国に散在しています。ある意味では中華系ではありがちな名前に属するみたい。「知味」という字を書く大きなチェーンもありますが、ここでご紹介するのは、久留米ラーメンの老舗、西鉄花畑駅近くにあった同名の店に由来する、全国にも名前が知れ渡り、遠方からおいでの方も多い(ウェブサイトの掲示板をご覧になるとわかります)、知る人ぞ知る老舗です。

Chimisaimap2お店のチラシ

 私は10年近く横浜近郊に住んでいましたので、中華街の肉まんの名店はいくつか知っていますが、そういう場所のに比べると、肉まんはややあっさりめ、そう、ベトナム料理の生春巻きをどこか連想させるあっさり感がある気がします。西鉄久留米駅から徒歩5分でたどり着けますが、時間がない方は十分に場所の下調べをしておいてください。東西を走る蛍川通りから来る人にも目に入りやすいのぼりを立てていますので、そののばり目印にするといいかもしれませんね。

 ちなみに「売り切れ御免」のお店ですので、その点もご注意ください。


*****


K3100114
↑この店の辺りから北に向けての、両側にお寺が軒を並べる、あまり広くはない通りが寺町です。

K3100098
 週末、土曜日の朝ということもあってか、通りにこうしたのぼりを次々に立てていく、町内会有志の皆様(?)がおられました。


*****


 さて、そうやっていくつかのお寺を左右に見ながら北上していくと、徒歩2,3分で、久留米を代表する寺院のひとつ、庭園で有名な遍照院にたどり着きます。

●遍照院(㈱サンセレモ 寺社探索)

K3100099

 1622年の開山だから、筑後国久留米藩21万石の城下町でも、江戸時代初期、大坂の陣で戦功があった藩祖有馬豊氏が丹波国福知山から転封されて来て2年後に遡り得る古いお寺に属するが、このお寺を有名にしているのは、「寛政の三奇人」のひとりといわれた高山彦九郎の墓(国指定史跡)があるからである。

 高山彦九郎といっても、かなりの日本史ファンでも今では思い浮かばないかもしれない。しかし、京都の京阪三条駅前=三条大橋のたもとで土下座のようなことをしている銅像」がその人、とまで説明すると、思い出してくださる人も結構あるかな?

Takayama_hikokuro_statue
↑この銅像を、京都観光の際に観た人は結構多いと思います(^^)

 戦前の国定教科書では、吉田松陰の先駆者、つまり、ペリー来航よりかなり以前、外国船が日本沿海にそこそこ出没しはじめたばかりの頃の、尊王・謹王運動の初期、日本中を説いて回った「伝道者」のような存在として、この三条大橋からの皇居望拝のエピソードが描かれ、戦争終結までの数十年に関しては、日本でこの名前を知らない人は珍しかったくらいの「偉人」あつかいだったとのこと。

●頼山陽 高山彥九郎傳現代語訳(日本漢文の世界)

 しかし、次第にそうした活動に、この段階では朝廷をあくまでも幕府の管理下に置こうとしていた、未だ強大な幕府からの締め付けが加わるようになり、久留米の地に生涯3回目に立ち寄った際に、自刃して果てた。

K3100113
↑私が幼稚園の頃から、通園途中にその前を通り過ぎる際に、言い様のない怖さがふと兆す瞬間があった、市指定史跡「高山彦九郎終焉の地」(遍照院から北東400m)の写真。

 彦九郎がその終焉の地を久留米に選んだのは、その頃の久留米には、少し時代を下ると、水天宮総本宮の神官にして、京都蛤御門の変の長州藩の実質的総大将になった真木和泉守など、その後の尊王の志士の重要な活動舞台となるだけの土壌があったことと関連することだけは間違いない。時の有馬家藩主が将軍から嫁を迎えるという事態がなかったならば、久留米は薩長土肥と並ぶ倒幕と明治維新の「5番目の」立役者になったことはほぼ間違いないと歴史家は語る。

 彼は一種の扇動的デマゴーグだったともいえる。幼少時から周囲からのひどい扱いに耐え忍び、「太平記」を読んで感銘を受け、勤皇の遊説士となったいきさつには、周囲に流されずに孤高と保ち、彼なりの理想に生きる、強烈な分裂気質パーソナリティを感じさせる。

 頼山陽が書き残したように、大名をはじめとする自分よりも身分が上の者にも、礼節を貫きつつも媚びへつらわず、一度心を許した知り合いには心を開き、深く交わる対人関係様式、更には、どうして突如自分の腹に刀を突き立てたのか、イマイチ理解不能な振る舞いなども、分裂気質パーソナリティの特性を見事に描き出している生々しさがある。

 頼山陽の父は江戸や京都・大阪のあちこちで繰り返して彦九郎の遊説活動に接し、頼山陽は幼少時に繰り返し父からその時の体験談を聞かされていたということなので、彼の証言は、伝記としては、伝承に塗(まみ)れる以前の「リアル彦九郎」のプレゼンス(存在感)を、実に生き生きと伝えた、準一級史料といえると思われます。

K3100102
↑これが明治になって立てられた、境内の銅像です。

K3100103
↑建物の奥の真ん中に小さく見えるのがお墓です。

 さて、ここに付属している庭園は、実際には戦後に整備されたもの。

K3100100
↑案内板

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K3100109

 百年公園の品種よりも、少し渋めの花の色なのも、歴史のなせる技でしょう(^^)


*****


K3100110_3
 ↑自宅近くまで帰り着いた時に見つけた、石垣の間に慎ましやかに咲いていた、いかにも野生のすみれの花。

 何か、私のカウンセリングルームのポリシーを象徴してくれるようなので、公式サイトのトップページの下段にも掲示することにしました(^^)


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2009/04/06

すてんか・らーじん!!


コネタマ参加中: ここぞというときの「おまじない」ある?

 これは以前も一度自分でこのブログのネタにしたことがあるんですけど、私は、小学生時代に、帝政ロシア時代の盗賊のリーダーで、ツァーリにはむかう抵抗のシンボルとして民衆の間で伝説的英雄となった、ステンカ・ラージン(スチェパン・ラージン)についての有名なロシア民謡、

♪ヴォルガの流れ流れは、果てなく続き....

の歌詞の直訳を最後まで通して読んだ時、船上のラージンは、ペルシャ遠征で虜にした姫を自分が寵愛する姿に、部下たちが嫉妬交じりの陰口を言っていることにいくら気がついたからといって、なぜ突然ヴォルガの流れに姫を放り込んでしまうのかということがどうにもわけがわかんない!!! と、一種独特の戦慄と恐怖と共に感じ取った時以来、自分が窮地に陥ったり、理解不能な現実に直面するたびに、心の中で「すてんか・らーじん」といつの間にか唱えるようになったのですね。

Surikov1906wikipediaより。「姫投げ」はこの後の出来事とされる。

ヴォルガの舟歌~ロシア愛唱歌集

 私にとっての、「あんびりーばぼー」や"Oh,my God!!の代わりといえば言えます(^^;)

 「超時空要塞マクロス」のぜんとら語で言えば、「でかるちゃー!!」というところでしょうか。


 大人になった今の私から振り返ると恐らく、ロシア時代からソビエト時代においては、部下たちの恨みを買うぐらいならば、自分の宝物を犠牲にしてしまうことも厭わないラージンの姿に、民衆のためのヒーローというファンタジーを読み込んだのだと思います。確かラージンは石川五右衛門みたいな義賊であったという伝説もあったと思いますが。

思わずこの映画"GOEMON"のブログパーツ(^^;)


 しかし、私は今では全然別の解釈をしています。彼にはてんかんの素質があり、そのために普段は静けき人、むしろぼーっとして何を考えているのかよくわからないような人でも、突如火山のように乱心する性質があったのだと。

 つまり、突如の脳内異常放電の結果として我を失い、前後不覚にああいうことをやらかしたのだと。

 更に言えば、「欠神(けっしん)発作」。 実は姫を「投げた」のではなくて、抱いていた両腕から、ヴォルガ川に「落とした」のかもしれないと。

 実は、このようにとらえるあたりが、私が子供時代に歌詞を読んで感じた、あの「狂気に等しい仕業」という戦慄感と一番リアルに一致する気がするのである。

 クレッチマーの体型三分類による性格論的に言えば、てんかん質の人は筋肉や骨格系が発達した「闘士型」の体格を持つとされます。大盗賊の首領だったラージンがこのような骨格であった可能性は決して低くないでしょう、残されている肖像画(wikipedia参照)をみても、ずんぐりむっくりの「闘士型」体型に見える気がしなくでもない(想像画の可能性もあるのだろうが)。

  ......で、私が、なぜ「すてんか・らーじん!」がパニック時の呪文になったのか?

 そう!! 私に隠されたてんかんの素質があったからに違いない!!

 この言葉をつぶやくことによって、私の脳内異常放電は抑止されるのである!!

 この、全然科学的根拠のない、論理の飛躍を重ねた大仮説を検証すべく、私は久留米での国際的なてんかん医学会に参加することにしたのです (3分の1ぐらいはマジにそれが理由です)。

 (だって私自身、現に、ハルプロ酸ナトリウムだけにしたら、ここまですっきり、あっさりと元気になったんだもの!! こんなに効き目の安定した薬は未体験ゾーンだったわけです)


※なお、私のてんかんについてのまだまだ知識や臨床体験の乏しさを暴露してしまうようなことを書いているのかもしれませんが、少なくともこれは、実際にてんかんで苦しんでいる皆様やご家族を誹謗中傷する意図は全くございません。この点でお気に障る皆様がいないことを祈っています。



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2008/06/20

秋葉原通り魔殺人の彼が贖罪できるだけの「環境」があることを!!(第6版)

秋葉原通り魔殺人事件と、宮崎勤の死刑「執行」のタイミング関連の、前の記事の続きです。

現段階での私が知る情報の範囲内で観ると、恐らく「精神病的な」面はほとんどなくて、「精神病質」でもない。「分裂型人格障害(schizotypal)」あるいは「分裂病質(統合失調症質)」(schizoid)というDSM的診断は最大公約数としてできるだろうけど、その診断に当てはまる層の多くは社会的にごく真っ当に生きている人たちの10数パーセントは当てはまると思う。

 要するに,クレッチマーの性格分類でいう「分裂気質」のやや濃い人たちのある部分、あるいは中井久夫が「分裂病と人類」でいう「S親和者」=それを典拠を示しつつ拝借した浅田彰が、「逃走論」で「スキゾ」とポップに名前を付け替えた、「病理」というには過ぎ、社会の最前線で適応的に行けている人は、有名・無名を含めて五万(じゃなくて日本に500万?)といて、「人も歩けば棒に当たる」水準の範疇化(カテゴリー分け)しかできそうにない。

 こう分類できる人を排除したら、文化や政治に貢献したかなりの人は抹殺されることになるし、ただの「パラノ」だけでは社会そのものが機能停止し、全人類が窒息する(浜崎あゆみだって、後述の夜回り先生、水谷氏だって楽々このカテゴリーに入る。

 未熟な私だって堂々とその末席を穢(けが)せる(^^)

 宮台さんだって、ある意味では浅田彰よりはかしこく大人になって、しかもしたたかに社会にコミットする戦略を続けている「熱い」人物だろう。

 もっとも、あそこまで博学な、衒学的(ペダンチック)な饒舌さと感じさせてしまう多弁を押し付けると、「鼻持ちならなさ」とだけ感じられてしまいかねない限界はあるとして。

 安易に「大衆を啓蒙する」ノリにはまらないのはひとつの挟持だと思うが、まだまだ「身を守っている」気もする。

 宮台さんもあと一歩「突き抜ける」必要はある。

 いうまでもなく、私も。

****

 今回の事件の犯人については、学習障害などの広汎性発達障害の可能性もそんなに高くないだろう。

いずれにしても、犯行時の「責任能力」は十分にあったと思う。

もし今後、彼についてまたぞろ「多重人格障害」とか出てきたら、それは弁護士と精神鑑定医の「ひいきの引き倒し」となるだろう。少なくとも故宮崎や故宅間よりは健康性が高かったまま凶行に及んでいると思う。

ちゃんと贖罪できるパーソナリティの筈。

そうならないなら法曹界や司法精神医学やマスコミがよってたかってこじらせたといわれてもしかたない。


人がきちんと贖罪できるためには、それを可能にする「環境」におかれていること!!

これは今後の展開のためにほぼ断言しておいていいと思う。

******

もとより、現行法制のもとでは死刑以外になる可能性は全くに近くないと思いますが。

私はこの問題が「死刑の是非」論になった瞬間に本質を置き去りにした議論に過ぎなくなると確信しています。

******

●【秋葉原通り魔事件】加藤容疑者のメル友女性告白「悩んでいるようには見えなかった」(msn=産経)

(前略)

 彼女がトモと初めて会ったのは昨年7月末だった。

 携帯電話の出会い系サイトで知り合い、メールを何通かやりとりした。送られてくるメールは笑顔や悲しい顔などのカラフルな絵文字入りで、2、3行の短いものがほとんどだったが、一度始まると何往復もした。

 お互いに青森市に住んでいることが分かり、トモは「会いたい」と言ってきた。

 市内の駐車場で待ち合わせをした。ありふれたチノパンとシャツを着て、髪形には気を使っていないような印象を受けた。

 「きっと彼女はいないんだろうな」

 そう思った。

 名前を「ともひろ」と読み当てると、トモは「珍しいな。1回で読めた人」と笑顔をみせた。彼女はトモと呼ぶことに決めた。

 トモの軽乗用車に何度か乗せてもらった。車内は整頓され、後部座席にはUFOキャッチャーで得たらしいディズニーなどのキャラクターもののぬいぐるみが4、5個並んでいた。会話はあまり弾まなかった。ラジオやCDはかけず、車内はシーンとしていた。

 「この車、ずっと乗っているの?」

 「前はスポーツカーに乗ってたんだけど、事故起こした。今度、GT−R買いたいんだ」

 2人ともゲームが好きで、よくゲームセンターでUFOキャッチャーをやった。一度だけカラオケにも行った。歌を歌うのは好きらしく、一般の人は知らないようなアニメ系の歌を次々と入れていた。

 8月1日には2人で「浅虫温泉花火大会」に遊びに行った。屋台で食べ物を買ったり、花火を携帯電話の動画に撮ったりして半日過ごした。2人でいる間、トモは携帯電話の着信などを気にする様子はなく、親しい友人はいないようだった。
     
 花火大会の翌日。「親に家を追い出された。アパートに引っ越したから来ないか」と自宅に誘われた。

 部屋はアパート1階の1LDK。電気はまだ通っておらず、中は真っ暗だった。壁紙は張り替えたばかりらしく、清潔な感じがした。玄関にはスリッパが2足並んでいた。向かって右側にトイレと風呂、その奥にキッチン。左側奥には居間、その手前に小さな寝室があった。

 居間は10畳以上あり、フローリング床でテレビと大きなクリーム色のL字型ソファが占拠していた。「お金には困っていないのかな」と思う一方でこうも思った。

 「こんな大きなソファに1人でいたら寂しいだろうな」

 寝室には青っぽい絨毯が敷かれ、しわひとつない黄緑色のカバーがかかったベッドがあった。自炊をしている様子はなく、冷蔵庫にはその日の分のコンビニで買ってきた食べ物やプリンなどしか入っていなかった。

 一度、コンビニで買ってきた缶入りのカクテルを部屋で飲んだことがあった。トモは何本か飲んでも変わらず、酒は強そうだった。
   
 部屋では2人でもっぱらテレビを見て過ごした。夕方にはニュース番組をみることが多かった。バラエティー番組を見ているときなどは、トモは口元に手を当ててクスッと笑うこともあった。

 「オレと一緒になればいいのに」

 本気かウソか分からないが、トモがそんなふうに言ってきたことがあった。彼女は「それはないから」と、それとなく交際を断った。

 帰り際には必ず、「また来ていいから」と言われた。何度目かに自宅を訪れたとき、突然、合鍵を手渡された。

 戸惑いながら「いや」と言うと、トモは「いつでも来ていいから」と鍵を手のひらに押し込んできた。

 「誰かに頼られたいのと、自分も誰かに頼りたいのかな」

 そう思って鍵を受け取ったが、彼女がその鍵を使うことはなかった。

 8月も終わりに近づき、気がつくとメールのやりとりは途絶えていた。

 彼女が連絡先を変えたこともあり、それ以降連絡は一切取っていない。

「生きていれば何とかなる」と言っていたのに…
     

 加藤容疑者は彼女にとって「お兄さん」のような存在だったという。口数は少なく、自分の家族や悩みについて話すことはなかった。

 その代わり、彼女の話はよく聞いてくれた。

 当時、人間関係に悩んでいた彼女に対し、加藤容疑者は「生きていれば何とかなる。何かあってもオレがいるから」と優しく励ましてくれたという。

 当時を振り返り、彼女は「あんなふうに言っていたのに、自分がそうなったら(事件を起こしたりしたら)ダメだよ」と語る。

 彼女は加藤容疑者について「病んでいたり、悩みがあるようには思えなかった。もし悩みがあったのなら、私が聞いてあげていれば、あんなにたくさんの人を殺さずにすんだかもしれない」と唇をかむ。

 わずか1カ月間のつきあいだったが、今回の事件で、彼女自身もショックから立ち直れないでいる

*******

 
.......この記事は、あまりにもリアリティがある気がする。

 もちろん、彼女の力ではどうしようもなかったと思う。

 彼女の深い後悔と傷つきは、まさに知り合いに「自殺された人」が誰でも陥る「あの日にこうしてあげたら」心理状態とかなりの程度同質のものとすら思うが。

 私が大学学生相談カウンセラー時代に何度も研修を受けた、自殺学の権威、高橋祥友氏が"postvention"(「自殺された」人のケア)の問題として、語っているものを熟読のこと。

一冊なら「青少年のための自殺予防マニュアル」がおすすめ。

これは「犯罪防止マニュアル」でもあるのかもしれないという思いから。
 

以上、トラックバックうまく張れないでいるけど、

●公共機関のために準備中の文章です。誤りのご指摘などお待ちします。第2部【上の第1部に続きます】(MIYADAI.com Blog)

に寄せて。

臨床心理士にできるのは「診断」ではなく「見立て(assesment)」であり、直接あっても居ないクライエントについてのこうした推論は慎むべきとされているのを承知の上で、精神科医や臨床心理士など現場臨床家の多くが首肯し得る非常に無難かつ最大公約数的なラインとして申し上げました。

マスコミや弁護士や留置のありかたが,彼の症状を今後こじらせ得る「原因」として機能し得るため、犯行時の真相究明をむしろ混乱させ、類似の状態にある人たちにも悪影響としてしか機能しなくなるということを示唆することこそ私の狙いです。「自己成就的予言」への危惧ですね。

●【人、瞬間(ひととき)】あの先生 夜回り先生、水谷修さん(52)(中)(msn=産経)

この記事、何か、自分を見るようです。

私自身は学生運動まっただ中の団塊世代ではないし、いわゆる「ノンポリ」だった。しかし、ロックアウトや学内で発煙筒が炊かれるを学内で体験できた「団塊余韻世代」、水谷氏の数年後輩を、東京千代田区のお隣の私立大学で「哲学科生」として体験した。

体験した哲学科生としての違和感は、水谷氏と接点が相当あると思う。

水谷氏自身は「遅れてきた」「時代遅れの」学生運動家みたいな世代的マージナル(辺縁)性を持っていたと思うので。

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