科学哲学

2011/06/07

なぜ日本は自殺大国なのか(togetter)

 やや大げさなタイトルで、内容がそれと一致しているかどうか???ですが、とぅげり主の@mskzmmrさんのご意向を尊重しておきましょう(^^)

●第1部:
うつ病克服治療が進まず自殺者が多いが...その謎は...?!

●第2部:★なぜ日本は自殺大国なのか...その謎★第2部;オート『ボ』イエーシス理論を学ぼう!!


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2009/11/16

NHKスペシャル「魔性の難問 -リーマン予想 天才たちの戦い-」

 実は最近の私は、「天地人」をたいてい予約録画で観る以外、テレビ番組を殆ど全く観ない生活を送っている。ところが昨晩、事前の予告とかをまるで知らないままに、このNHKスペシャルに遭遇できた。

●この番組のNHK公式サイト

 番組がはじまった段階で、映画「ビューティフル・マインド」を観ていた私は「ひょっとして在世中のナッシュへのインタビュー出てくるのでは?」と期待したが、その期待はかなえられた。

(楽天ブックス)

 「リーマン予想」とは、数学上の最大の未解決の難問のひとつとされる。wikipediaの記述だけでは、私を含めた数学の素人には何がなんだか?になっちゃうけど、ひとことでいえば、素数(割り切れない数)の配列というのには、一見全然規則性がないんだけど(1,2,3,5,7,11,13,17,19,23,29,31,37,41,43,47,53,59,61,67,71,73.....でよかったかな?)、そこに一定の法則がある可能性について、19世紀半ばに、ドイツの数学者、ベルンハルト・リーマンが立てた予測とのこと。

 このリーマン予想については、イギリスのハーディとリトルウッドのコンビをはじめとする当代髄一クラスの数学者が長年たいへんな情熱を注いで証明に取り組んだけど、この2人に関しても、結局部分的な傍証に当たる証明しかできないまま、最後にはリーマン予想そのものが間違っている可能性まで示唆するところまで諦めてしまった。

 その次にリーマン予想の証明に多大な情熱を注ぎ込んだのが、プリンストン大学で、すでに「非協力ゲーム理論」をはじめとする分野で多大な功績があった、ナッシュである。

 しかし、彼がこの難問と格闘し、リーマン予想についての講演会を開いた時のナッシュの姿は、ラッセル・クロウがナッシュ役を演じた上述の映画でも描かれたとおり、以前とは異なる惨憺たる様子だった。

 この段階で、すでに統合失調症の本格的発症の兆しがあったのである。ただし、映画でも描かれたとおり、実はそれ以前からも、多くの人には気づかれないし、本人にも自覚できない形で火種はあったので、リーマン予想についての研究への没頭し過ぎが「原因」であるとまでは誤解しないで欲しい。単なるストレスだけでは統合失調症に至ることはありません。

 仮にストレス要因が「トリガー(引き金)」になる可能性を認めるとしても、番組では紹介されていませんでしたが、アマゾンの書評欄によれば、ナッシュはこの時妻との間に子供ができるというタイミングでもあったようです。

 ここからは私の推測なんですが、実はこうした一見さりげない、ごく普通の事柄の方が、統合失調症の人の発病トリガーとして意外と大きな意味があることが少なくないことを、私は中井久夫先生の著作で学んできました。

 それでも、すでに統合失調症から回復して幸せな余生を送っている(明らかに頭脳にある種の明晰さが十分に回復しているのは表情からも見て取れる)81歳のナッシュが、

「数学的探求というのは、合理的思考を突き詰める側面と、そこから跳躍して、非合理の領域に身と投じることを繰り返す必要があるのです。そのことが自分を追い詰めた側面はあったのかもしれませんね」

といった感慨を漏らしているのは興味深かった。

*****

 なお、映画では幻覚として描かれているナッシュの症状は、ほんとうは幻聴だったと、何かの機会に伝え聞いた気がする。恐らくそれは、映画の原作である、以下の本に書いてあることなのだろう:

ビューティフル・マインド 天才数学者の絶望と奇跡(邦訳すでに絶版)

 この本、訳に相当問題があるとのことなので、原書も紹介します。

A Beautiful Mind: The Life of Mathematical Genius and Nobel Laureate John Nash

(Googleブックスで一部が読めます)

 なお、映画「ビューティフル・マインド」については、自殺学の権威である、精神科医の高橋祥友先生がお書きの、「シネマ処方箋」という本でも1つの章を割いて言及されています。

*****

  なお、「幻覚とはあそこまで鮮明に見えるものなのか?」という疑問をお感じの方は、一般の方ばかりではなくて実際の患者さんにもあるようですが、ああやって幻覚と日常的に対話するという次元まで行くと確かにフィクションめいてくるかと思いますが、患者さんによっては、幻覚とは、多くの方がイメージするような、「ぼんやり浮かんで見える」なとという次元ではなく、まさに「3D実体」としてくっきりと生々しく「そこにある」ように感じられる例も少なくないことを、私は過去の臨床体験の中で、何人かの方からうかがって来ました。

*****

 ナッシュの件ばかりではなく、多くの数学者が証明に失敗し続ける中、リーマン予想に関わることは、数学界で次第に回避される時期に入ったという。

 しかし、それでもリーマン予想の証明に情熱を注ぎ続け、2回の失敗にもめげずに、70代になった今も挑戦し続けているのが、フランスのルイ・ド・ブランジュである。

 彼は、リーマン予想が、単に数学上の問題だけではなく、様々な科学法則の解明に役立つと確信していたが、時代はいつの間にか彼に追いつき、ある数学者と物理学者の茶話会でのさりげない対話をきっかけとして、学際的な形で、「リーマン予想」を、現在最大の学問的テーマとして掲げる国際的な取り組みが大がかりに始まっているという。

 ところが、そうした国際学会とは距離を置き、孤高を保ったまま、ド・ブランジュは、ついに3度目のチャレンジとなる論文を完成させるまでを、このドキュメンタリーでは追っている。

 論文を封筒に入れて、家を出て鼻歌を歌いながら歩き出した彼は、それでもなお言葉にする。

 「仮に今回の証明がまた失敗に終わっても、私は諦めない。再挑戦し続けるよ」

 そして、番組の最後のテロップでは流されるのだ。

 「数学的証明が認められるまでには、論文発表から2年間、世界中の数学者からの厳しい検証に耐えられるものとならねばならない」

*****

 この番組では、インターネット界の暗号化証明書の分野で名高い、VeriSign社の一番厳重な管理をくぐった金庫の下にある「宝物」が、スーパーコンピューターを駆使して見出された、物凄い桁数の素数のデータベースであることも紹介され、クレジットカードの電子決済など、私たちの身近なところで素数が大きな意味を持つことも紹介している。

 その一方では、学者たちの中に、リーマンの予測の証明が、宇宙法則全体を説明する「万物の理論」の成立につながることへの壮大な期待もあることが語られている。

 古くはギリシャの哲学者に始まり、ニュートン(彼も統合失調症だった可能性が高いことを中井久夫氏と飯田真氏は「天才の精神病理」の中で述べている)、多くの数学者や物理学者が、この「万物の理論」を求めての魔性の探求にエネルギーを注ぎ込む生涯を送った。

 しかし、この番組を観ていて、数学の門外漢である私(難しい理屈は可能な限り噛み砕いて、3D画像を駆使して直感的に何となくわかるような番組になっています)にとっても、学問を極めようとする挑戦者たちの、何度失敗しようと、夢と情熱を失わず、しつこいまでに粘り強く、同時に自由奔放ですらある人間くさい生き様に触れる機会となり、また、専門が違う意外な人との偶然の出会いが学問の大展開のきかっけになることへの感慨等、不思議と「元気がもらえる」後味を残したのである。

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2009/10/21

やさしさに包まれたなら -「魔女の宅急便」とバリントのフィロバティズム-

 キキは突然飛べなくなった。

 最大の引き金は、依頼人のおばあさんがせっかく孫娘のために心を込めて焼いた包み焼き・・・しかもその完成のためにキキも古い薪オーブンを稼動させるお手伝いをしている・・・を、突然の雨にずぶ濡れになりながら届けた先の孫娘の反応、

「だから、いらないって言ったよ。あたし、このパイ嫌いなの」

との言葉と共に扉が冷たく閉ざされたことだった。

 キキは下宿先のオソノさんの心配りもあって一度は立ち直る。しかし、せっかく初デートに出かけたトンボの友達に「あの孫娘」が含まれていると気がついた時、突如豹変して家にひとりで帰ってしまう。

「ジジ、私、どうかしてる? 素直で明るいキキはどこかに行っちゃったみたい」

 ところが、ジジはただの普通のネコのようニャーと応えるのみ。ジジはすでに恋人のメス猫ができてから、関心がそちらに向かい始めて以来、「普通のネコ化」が徐々に進行していたようだが。

 しかし、ジジの言葉が解せさなくなったことに気がついた瞬間、キキは嫌な予感に襲われ、箒(ほうき)にまたがってみる。

 魔法の力が、ほんとうに弱くなっている。

 それでも飛ぼうと繰り返し試みるうちに、旅立ちの際に母から譲り受けた箒そのものが折れてしまう。

 こうして、キキは完全に、故郷との「つながり」の証し、(人語を解するジジと母の箒)、すなわち、精神分析的対象関係論のウィニコットが言う「移行対象」を喪失する。

ウィニコット/遊ぶことと現実 (現代精神分析双書 第 2期第4巻)

(楽天ブックスはこちら

 生まれ故郷から大都会に舞い降りた段階から、何か人との間に、独特のよそよそしい「隙間」を感じることが時たまあることに当惑し続けていたキキの慢性的なストレスは、ついに限界に達したのだ。

 キキの生まれ育った故郷とは、我々の少なからぬ部分が、遥か彼方の幼児期に体験していた、世界との幸福な一体感、まさに「やさしさに包まれた」頃の体験世界の理想化された象徴である。

 (・・・・それにしても、宮崎駿さんの、キキのくるくる変わる感情の移り変わりを画面上だけで表現し切れてしまう力は、今観直しても、とてつもない域ですね)

****

 キキに救いの手を差し伸べてくれたのは、すでに偶然の縁があった、夏の間は森に住む、絵描きのウルスラだった。

 ウルスラは、前にキキに会った時の印象に触発されて、一枚の絵を描きつつあった。しかしキキに当たる少女の顔の部分の表情がどうしても決まらないで、その絵をやめてしまおうかとすら思い悩んでいた。キキ自身をモデルに写生することから立て直しを図りたくてしかたなくて、なかなか再来しないキキに会いに行ったというのがほんとうのところだろう。

 ウルスラはキキを写生しながら思わず口にする:

「あんたの顔いいよ。この前よりずっといい顔してる」

 落ち込んでいたキキは、恐らくこの言葉に内心きょとんとしたことだろう。

「魔法も絵も似てるんだね。私もよく描けなくなる」

 寝る前の語らいの中で、ウルスラは口にする。

「そういう時、どうするの? ・・・・私、前は何も考えなくても飛べたの。でも、今はどうやって飛べたのかわからなくなっちゃった」

と、思わず尋ねるキキ。

「そういう時にはじたばたするしかないよ。画いて画いて画きまくる」

「それでもうまく行かなかったら?」

「画くのを止(や)める。散歩をしたり、景色を観たり、昼寝をしたり、何もしない。・・・・そのうちに、急に画きたくなるんだよ」

「なるかしら?」

「なるさ。・・・・私も絵を画くのが面白くって仕方がなくて始めたんだけど、ある時、画いた絵が気に入らなくなった。誰かの真似に過ぎないって気がついたんだよ。どこかで見たことあるってね。自分の絵を描かなくっちゃ!ってね。・・・・でも、その後、少し前より、絵を描くってこと、わかったみたい」

 ・・・・このウルスラのセリフ全体が、宮崎さんの経験談それ自体であり、肉声そのものであることはつとに知られているだろう。

 「魔法って、呪文を唱えるんじゃないんだね」

 「うん、血で飛ぶんだって」

 「魔女の血、絵描きの血、パン職人の血、神様かだれかが与えてくれたんだよね・・・・おかげで苦労もするけどさ」

 ウルスラが、夏場は森の中でひとりで生活し、冬場は都会ではなくても、すでに開拓された田園地帯か何かで生活するという、森と平地との間「辺境人」的性質を持つ存在であることは興味深い。

 精神科医の中井久夫先生が、壮年期の二大名著、姉妹作というべき「分裂病と人類」「治療文化論―精神医学的再構築の試み」で強調するところによれば、洋の東西を問わず、古来、森の中とは人間界から切り離された「異界」であり、森の中に独居する、「薬草を栽培する老婆の文化」は、地域共同体の辺縁に置かれつつも、地域治療文化の大事な一部として暗々裏に統合されていた。

 それがいわゆる「魔女狩り」の対象とされるのは、実は中世のことではなく、宗教改革以降の近世初頭以降の出来事であることは、実は誤解されがちなことである。

 ところが、ヨーロッパにおいて、多くの宗教者や社会改革家(急進的な「世直し」をしようとする人たち)、そして近代の「力動的」精神医学の基礎を築いた大家たちの故郷は、非常に多くの場合、こうした「すでに切り開かれた平地」と「森」の辺縁地域の出身者が多いことを中井先生は指摘する。

 フロイトの出身地然(しか)り。ユングの出身地然り。精神分析が発展を遂げたヴィーンそのものが森の都に他ならない。

 ウルスラが、この物語の中で、図らずも魔女であるキキの癒し手として機能できたのは、ウルスラ自身が、そのような俗世間と森の世界の「境界人」的側面を強く持っていたからではないかと思われる。

 これはこじつけでもなんでもないと思う。

 宮崎さんだって、思っているはずだ。アニメーターなんて、世間の桧舞台に立つのは実はおかしくて、もっと「ひっそりとした」「地味な」商売だったはずなのに・・・・と。

*****

 さて、この作品に限らず、宮崎作品の飛行シーンは、他の誰も真似ができない域のものであることはよく言われるとおりである。

 そのことの最大の秘密は、実は宮崎さんが、飛行を支えているのは空気に他ならないということに徹底的にこだわっているためだと思う。

 日本のアニメは、「宇宙戦艦ヤマト」の時代から、宇宙空間を中心に飛行シーンを描くことに特異的に発展したために、この「空気があっての飛行」ということに対する感性がアニメーターの間でほんとうには熟成されないままになりがちだった。

 振り返ってみれば、これまで宮崎さんが関与した作品の中で、宇宙空間を舞台にしたものが、果たして一本でもあったろうか???

 飛行機乗りは、そうやって「大気を味方につけ」ないと飛行機を操れないことを嫌というほど知っている。

 そして、更にはその大気との関係と共に重要なのは、飛行するための道具としての「機体」と操縦者が、自分の体の延長であると感じられるところまで「一体化」できるかどうかである。

 この「魔女宅」のクライマックスシーンにおいて、故障し、大破した飛行船にぶら下がったトンボを助けんがためにキキが活用したのは、たまたま通りがかりの清掃夫のおじさんが持っていた、ありきたりのデッキブラシだった。

 キキがこのデッキブラシの操縦に手こずったのは、スランプ脱出直後の初飛行のためばかりではなかろう。更に、単に箒の場合とは勝手が違うというだけですらなく、心を込めて魔女が手作りしたハンドメイドではなくて、量産型の既製品だったからに他ならないだろう。

 おかげでその「機器」との「対話」が成立しにくいのだ。「人馬一体」にはほど遠い。

「こら! いい子だから言うこと聞いて!」

「まっすぐ飛びなさい! 燃やしちゃうわよ!」

 このような、「モノ」に過ぎない筈の対象に身体ごと「潜入(dwell in)」して、試行錯誤の身体的「対話」を重ねて、はじめて高度な習熟スキルとして自在に操れるという点が、単なるマニュアル的な「技術(technique)」と習熟的な「技能(skill)」の違いであることは、ハンガリー出身の科学哲学者、マイケル・ポランニ(ポランニュイ・ミハイー)の「暗黙知の次元」 で詳しく述べられている。

 そして、このような、多くの人にとっては身の危険を犯すスリリング過ぎる活動(曲芸や楽器の演奏やスポーツなども含まれよう)に没頭する人たちのことを、ハンガリー出身のイギリスのもうひとりの精神分析の大家、マイケル・バリント(バーリント・ミハイー)は、「フィロバット」と呼んでいる。

バリント/スリルと退行

バリント/治療論からみた退行―基底欠損の精神分析

 (このバリントの2大名著はまたもや再販されない状態に入ったみたいなので、この件については、私の学会発表時の添付資料としての2冊の抜粋がPDFとしてサイトに載せ続けているので、興味のある方はこちらからご覧いただきたい)

 「フィロバット」的人物=「フィロバティズム」が優勢な人物においては、はっきりとした輪郭と「固形の」性質を持った、「反発(objection)性」がある、自分からは独立した「対象(object)」との関わりに生きているのではない。

 古代ギリシャから言われてきた四大元素、すなわち、「土」「水」「火」「風=空気」という、自由に形状を変え、流動的で、対象を「包み込む」こともできる「前-対象」との友好的(frendly)な関係の中に生きている。

 バリント自身の言葉を借りれば、「魚にとっての水のごとき」環界との友好関係信頼していられないと、自由闊達にそのスリリングな能力を発揮できないのがフィロバットなのだ。

 突如別のアニメ・コミックを引き合いに出せば、「キャプテン翼」の名言、「ボールは友だち」の世界である。

 観ている人は、サッカー選手がいとも鮮やかにボールを「操って」いるかに見えるかもしれない。しかし、選手の主観は正反対のはずだ。まるでボールの方が自分のために最大限の協力を惜しまないかのようにして自発的に協調してくれているという感覚のはずである。

*****

 ところが、このフィロバディズムを生きる人たちは、自分をつつむ外界との圧倒的な信頼感・一体感に亀裂隙間が生じると、たいへんな危機を迎える場合がある。

 キキが陥った「飛べなくなる」状況は、まさにその典型だろう。あの孫娘が冷たく扉を閉じた瞬間、キキとキキを包む「世界」全体の間に深刻な「壁」と「亀裂」「隙(す)き間」が立ちはだかったのである。

 キキはもはや心から自由に「呼吸」することができない状態に陥った(風邪を引いた)。そして、せっかく心が通い合ったかに見えたトンボが、「あの孫娘」とも友達であると知った瞬間、トンボも「向こう側の世界」=「同じ空気を吸ってはいない存在」ではないかという疎外感に一気に引き込まれ、キキは自ら心を閉ざしたのであろう。

 (確かにそれはキキのひとつの思い込み・・・いかにも思春期的な・・・に過ぎず、エンディングではこの孫娘と二人が親しく会話しているシーンが挿入されてすらいる! これは単にキキが有名人になったからだけではなくて、その後交流するうちに孫娘の人間の全体像が見えていなかったことにキキも気づいたのではなかろうか)

*****

 不幸にしてそうでない人もいるが、多くの人は、全く天真爛漫に、世界との一体感に浸り、心安らかに浸っていられたかすかな記憶のようなものを抱えて生きている。

 そのさりげない記憶の世界でその人を「包んで」いる「やさしさ」とは、必ずしも人からのやさしさではないはすだ。

 陽の光、何げない風景の一つ一つ、それどころか室内の家具調度のひとつひとつ、つまり、自分を包む「世界」全体が、自分をやさしく見守ってくれているかのような体験だったのではないかと思う。

 (私がそのことをはっきり思い出した時の記録は、先述の学会発表時の論文集の本文の方にエピソードとして記載している。そちらもPDF化してあるので、興味のある方はこちらをご覧いただきたい)。

****

 さて、「魔女宅」のエンディング・テーマは、ユーミンこと荒井由実(松任谷由実)の初期の名曲、荒井由実 - ミスリム - やさしさに包まれたなら「やさしさに包まれたなら」である。

 こちらからリンクをたどっていただいて、歌詞をもう一度丁寧に読みなおしていただくと、ある事実にお気づきになるかも。

 ここに登場する「やさしさ」で包んでくれる存在の「正体」(?)とは、実は恋人ですらなく、生身の人間ですらなく、世界そのものだということ。

*****

 そして、きっと、

> 大人になっても、奇跡は起こる

のである。

*****

 ところで、エンディングをよく観ると、キキの乗っている箒は、掃除夫のおじさんに「必ず返します」と言った筈のデッキブラシのままなのである。

 トンボが作りつけてくれた鋳物の看板ですら、デッキブラシ姿ですよね。

 これは単に「事件」を解決した象徴だからとか、縁起かつぎ(?)などではなくて、ひょっとしたら、キキ自らが「選択した」行動だとも思えるのですが。

 このあたりの意味、考えてみるに値すると私は思えてきました。

*****

 この記事への「あと書き」がこちらにあります。

 【追記】:この記事の姉妹作(?)となった、「崖の上のポニョ」論はこちらです。

 バリントの「治療論からみた退行」についての総論を、こちらで書きました。

魔女の宅急便 [DVD]

MISSLIM(「魔女宅」で使用されたのと同じ、テンポの速いバージョンが収録)

●王子のきつねさんサイトでユーミンの代表曲のYouTubeをまとめたエントリーへのリンク

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2009/09/03

「カウンセラーこういちろうの雑記帳」の主要過去記事を一番簡単に一覧するには

 このブログって、すでに創設4年9ヶ月、過去のエントリー記事総数が、「この」記事で1,914本め、なのに一日あたりの新エントリー、平均1.10本以上を現在も維持、しかも長文が多いという、へヴィー級ブログです。

 おかげで、もはや@ニフティココログが割り振ってくれているサーバー負荷が相当なものになっているせいか、

  • 私の方からトラックバックを送ることがもはや機能しない
  • pingも自動では飛ばせない(その割には随分多くの読者の皆様が、新記事アップ直後においでいただけることを幸いだと感じています)
  • カテゴリーにすべての記事が反映しない(カテゴリーによっては300から400エントリー分表示されようとするわけで)

・・・・・という、新しくおいでいただいた読者泣かせのブログになっていると思います m(_ _;)m

****

 もちろん、バックナンバー全体を表示してくれる、『アーカイヴ』ページ(自身がココログユーザー以外の読者の皆様、お気づきでしたか??? 右フレームの「バックナンバー」という文字そのものをクリックするとたどり着けます)というものも、あるにはあるわけです。

 しかし、このページにお行きになっていただいたとしても、過去の個々のエントリー記事のタイトル一覧があるわけですらない

 このページからの「〇年〇月」を全部めくっていただくだけでも(全く休眠した数ヶ月を除いても、現在50か月分ほどあるわけですね(^^;)。その50ヶ月分、それぞれ月ごとに、毎月30から40エントリーずつはあるわけですから・・・・・

 つまり、私がこのサイトでこれまで書いてきた主要記事がどんなものか、新しい読者の皆さんにおおよその見当をつけていただくには、もうデタラメにご不便をおかけしていることと思います   il||li _| ̄|○ il||li

*****

 この問題を一気に解決し、

  • 新記事の方が上に来る形で、
  • 過去の記事に関しては私がある程度絞り込んでセレクトしたものを、
  • 数百記事ばかり、1ページをスクロールできる形で
  • ブログのような表示の重さがない形で一覧したいただける

そういうページが、実はずっと以前から存在します!!

●阿世賀浩一郎のホームページ/index

 開設1995年12月(つまりWindows95発売直後)開設、日本において、インターネットで個人サイトを作ることが本格的に普及し始めた黎明期から、何と基本的なデザインを変えないまま運営し続けているサイトです。

 かつては、ネットを代表するエヴァ・サイトのひとつ、「エヴァンゲリオン論考」で著名だった時代もありますけど、幸いにして著作化させてもいただきましたので、そのコーナーは全面削除いたしておりますが(「ちーちゃんの部屋」というアニメコーナーがかつて存在したことを覚えておられる方もあると嬉しかったりして ^^;)・・・・

そのトップページから、このブログでの新エントリー記事を書く度ごとに、固定リンクへのリンクを、たいてい速攻の連続作業でお貼りしてもいるのです。

 恐らく、皆様のRSSリーダーに反映するスピードの比ではない「即時性」で「新着情報」が掲載され続けています。

 同一エントリー記事の更新(改版)情報すら、可能な限り早くお伝えしています。

 

そこに並んでいる、当ブログ個別記事へのリンク数は、常時数百あるはずです(古いものから時々、精選のための「ダイエット」をかけますので、一定数以上には増えません)。

 しかし、敢えて今でも、基本的には「素朴なhtml言語の手打ち」に依存し、javaスクリプトすらないに等しいということで、このトップページそのもののバイト数の多さの割には、表示が圧倒的に軽い筈です(このブログのトップページを表示するよりは軽いと思いますよ)

 
当方のアクセス解析によって、「こっちのページで新着情報見つけるほうが手っ取り早い」ことにお気づきの、毎日数名以上の固定ユーザーの方がおられることは掌握しています(感謝!!)。

 しかし、そうした方の占める比率が以前よりもかなり減っているようにも思いましたので、改めてご紹介させていただきました。

 

今後とも、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」をよろしくお願い申し上げます。

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2008/09/24

昨日からにほんブログ村に参加しています。どうかよろしく!!(第2版)

 すでにお気づきの方もあるかもしれませんが、やっと昨日午後から参加しています。

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 《2008/9/25 19:08更新》

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2008/04/11

ほんとうの「現実」に迫るためには?  -宮台真司さんの記事より- (復旧版^^)

  「ほんとうの現実(真実)」などわからない、という言い方がよくなされる。


 だが、王子のきつねさんサイトの、

●「アンギーラ」で550アクセス

でリンクされていた、宮台真司氏による、

●一国を自壊に導くテレポリティクスの悪夢
  -特定財源問題・チベット問題・大連立問題での出鱈目な情報発信-

                          (MIYADAI.com Blog)

.....における、以下の解説は、この問題についての重要な示唆を与えてくれる。


「本当の事」とはむろん言葉の綾に過ぎない。マスコミ論の今日的水準では、かつてのD・ブーアスティンのように現実を疑似現実が覆い隠すという単純な図式はとれない。むしろ視座--文字通りカメラの立ち位置--次第で複数のリアリティが並立するのである。
■社会学者P・バーガーはこれを多元的現実と呼び、J・ボードリヤールはオリジナル/コピーの二元図式と対比してシミュラクルと呼ぶ。事件報道をする寡占的放送局の全てが報告報道--警察リークの反復など--に覆われれば、複数視座の提示可能性は塞がれる。
■従って、ここでいう「本当の事」とは、あり得る視座の大半をシミュレイトした結果得られる「多元的現実の束」を意味しよう。「こちらからはこう見え、そちらからはそう見え、あちらからはああ見える」ということ自体が、謂わばメタ真実を構成するのだ。
■こうしたメタ真実を受容するには前提が必要だ。社会を多様な者たちが構成するのが通常態だという認識である。 近代が成熟すれば社会は多様になる。だが多様性フォビア(恐怖症)が覆う日本ではメタ真実が嫌われ、不安を覆い隠す単純な真実が需要される。

太字表示はこういちろうにうよる)


****

 前の記事で書いたことともつながるが、多様な視点からの、多様なシミュレーションを許容するのが、「リアリティ」を感じ取ってもらうきっかけを作るということだと私も考える。

 あちこちの視座(standpoint)から照射される光の投影の中で、錯綜した光の干渉の中に浮かび上がる「ホログラフィ」のようにして、言葉では簡単に割り切った説明ができないが、多様な含蓄をもった「(メタ)リアリティ」が浮かび上がる。

 そのようなあり方を可能にするための、「マスコミ」と(宮台さんは言及していないが)「ネット社会の」成熟の必要性を痛感させられるし、そういう中での、「一介の情報発信者」としての、自分の「立ち位置」も確認させてもらえたのであった.....


******


 更に言えば、「既成の概念を当てはめて単純化して割り切る」のではなく、「言葉にならない混沌とした感覚」全体のを味わい、吟味することこそ、私の専門とするフォーカシングの基本スタンスである。

 宮台氏の引用したボードリヤールの言葉を借りれば、シミュラクル多元性、矛盾錯綜した曖昧複雑性を、いかに個人個人なりに新鮮な形で「統合」して「覚知」していくかの体験的プロセス、それがフォーカシングの根底に流れるもの。


●当ブログの関連記事

* 宮台真司を少し見直したこういちろう
* 「思い込みが過ぎる」ことを、実社会を生きるしたたかなシミュレーション能力に「変換」させよう!!
* ネットとマスコミの違いとは?

2007/03/20

日本人にとって、漢字文化の受容のほうが、西洋文化の受容以上に大きなハードルだったのでは?(第2版) -茂木健一郎さんの記事によせて(2)-

「ココログセレブ」の茂木健一郎さん特集、今回は後編についてです。

 現地の学者が欲しいのは、引用でつながる仲間意識ではなくて、日本発の発想や思想なんです。日本からしか出ないような、他とは異なる強烈な贈り物を欲しがっているというわけ。ならば僕は、贈り物を海外に届ける"輸出業者"に徹しようではないか、と思うようになりました。


 ここで茂木さんは「もののあはれ」のことを語り始められるんだけど、私はもはや「日本発の」という時に、「日本土着の」というニュアンスを帯びさせることそのものが不必要だと感じています。

 私たち戦後世代は、もはや欧米文化をある意味で空気のように受容して生きてきた。もちろん、それは、「本場ものの」欧米文化とは異質な、日本化されたものなのだと思うけれども、そういう「日本的欧米文化」というバックグラウンド自体ををしなやかに受容していい時代が来ているのではないかとも思えます。もう今更「切り分けられない」と思うんですよ。

 思わず、ベストセラー史に残るこの本(中学時代に読みました)のいう「日本教」のことを思い出したけど、ここで書かれていることを「前提としつつ」、同時にそれを「踏み超えて」もいい時代という気もするのです。

 どっちみち、日本人だけではなくて、アメリカ人だって、「アメリカ教」的日本理解しかしないという前提に立ったらどうだろう?

*****

 海外に行った人ならご存知のように、ファーストフードやファミレスにしたところで、外国では、日本と同じチェーン店の同じメニューでも、サイズも違えば味もまるで違う。

 外国でも、日本人からすればびっくり仰天するような、「似非『日本食』」ブームが広がっているらしい。

 そういう「欧米的『日本文化』」と、「日本的『欧米文化』」が、まさに茂木さんの言われる、『対称にした』関係で向き合うというのでいいではないか。

 早い話、中日にテスト生として入り、年収400万で契約した中村選手がスタメンに入れるかどうかということを応援するより、桑田投手がマイナーではなくてメジャーでベンチ入りできるかどうかを応援することで、前者より後者のほうが「格が上」なんだろうか?

 もう、「アメリカで」活躍していることがそれだけでステータスとして高いというより、たまたま活躍の場が「アメリカで」開けた、ぐらいの感覚でもいいような気すらする。

 「国際人」であることを気負う時代でなくなることこそが「国際性」という逆説もある気がして。

 「たまたま自分が相手をしたい人たちが、英語しか話せないので、英語も学ぶ」ぐらいの感覚のほうがいいのかもしれない。


*****

 いつも書きますけど、「英語力」と「読解力」って、全然別なものだと思ってます。翻訳書を通してだって、原書を読みこなす人よりも、英語圏の著作を深く理解していることなど、ありふれていると思う。そうでないと私はこの世に存在しない(爆)。

 フォーカシングの国際メーリングリストを読んでたりすると、

 「あ、あの、そんなことなんて、ジェンドリン、すでに1960年代に『主著(人格変化の一理論)で』書いてますけど?」

という域のことについて、少し前のジェンドリンのレクチャーで聴いて、まるでジェンドリンの新機軸のように感心していたりする書き込みがあったりもする。

 そうすると私は結構拍子抜けしたりもするんですね(^^;)

 思わず、

 「ああ、今の私が英作文自在に操れたら、ネット経由で海を越えて、いらぬ興ざめの横槍を入れていそうだな」

.....と。

*****

 まあ、それでも、フォーカシングの領域でも、アルタイ語族である日本語の文法(異説もあるが)だからこそ容易に表現できるフォーカシングの世界がある気がする。

 実は、「和漢混淆文」を平安時代に確立した時点で、日本人は、「訓読み」の「やまとことば」の世界と、「音読み」の「漢語」の世界を統合し、行き来するということによって、二つの「脳みその使い方」になじんでいた気がする。

 近代における西洋文化と西洋的な概念の受容と言うのは、実はその、平安時代にすでに体験した日本語の「革命」の「応用問題」に過ぎなかったという見方もできる気がする。

 むしろ、「漢語」的思考法と、「やまとことば」的思考法の間にこそ、脳の使い方にある基本的な飛躍があるのだというのが私の考えである。

 このあたりのことを、フォーカシングにおける、日常的な言語使用を題材として、ほとんどhow toの次元でまとめてみようというのが、私の今週構想している新記事の内容である。

 それは、記事として別立てにして、もう少し練りこんでからにします(^^)


*****


 このへんについての、茂木さんの見解をまるで知らない次元でのものなので、「トホホ、私の独り相撲か」に終わるかもしれない(^^;)


2007/03/19

みんなみんな生きているんだ友だちなんだ!! -茂木健一郎さんの記事によせて(1)-

 しばらく前に、たまたまWikipediaで見つけた「クオリア(Qualia 感覚質)」概念とフェルトセンスとの関連についての、とりあえずの私見を書いたが、この「クオリア」の研究者である茂木健一郎さんが、この@niftyココログの著名ブロガーのお一人とは、「ココログセレブ」で特集が組まれるまで存じ上げていなかった。

 ここでは、「クオリア」概念いついては、興味深いのだが、まだ不勉強なのでさておき、茂木さんのこの特集での発言の興味深かったところについて述べてみたい。

*****

 のっけから、

> 「固定リンク」。それがブログの大発明!?

という小見出しが立てられている。もうこれだけでうれしくなってしまうこういちろうであった。


 つまり、各記事ごとに個別のURLがつくかつかないか、ということです。掲示板で日記を公開しても固定リンクがないのでどんどん記事が流れていってしまう。アーカイブ性がないっていうのかな。つまり、それまでは僕自身も読者もどこに何が書かれているのかわかりにくかったんですよね。

 ブログにはコメントやトラックバックといった機能もありますが、一番の大発明は『固定リンク』という機能にあると思います。要するに、記事単位で互いにリンクを貼ることができるようになったということですね。その機能があったからブログに移行したんです。 


 そう、この「アーカイブ(書庫)」性というのが、ブログのひとつの持ち味なのだ。

 私は、ご覧のとおり、ayuからトムとジェリーからiPodオーディオからフォーカシングから現場臨床カウンセラーのあり方への愚痴まで、まったくノンジャンルに気ままに記事を書いている。ひとつの記事の中でayuとフォーカシングとアニメとオーディオ関連と歴史の内容が混在してしまうことなどザラである。

 もう少し細かく整理して述べた方が読者にわかりやすいとは時々思うし、

「いっそのこと再構築して、カウンセリングとフォーカシング関係のサイトとしてわかりやすく整理したほうがアクセスも伸びますよ」

.......と、あるマスコミ関係のプロの方から再三アドバイスいただいていたりもする(^^;)

 しかし、私は、確かにあるわかりやすさは必要だと思うし、余裕があれば、ジャンルごとに記事を分割して書こうと「これでも」努めているつもりなのだけれども(^^;)、それでも、

ayuとフォーカシングが同居しているからこそこのサイトなのだ!! 

という基本スタンスを変えるつもりはまったくない。

 私は、カウンセリングが、世間の日常と切り離されて論じられるのが嫌いだ。

 ましてや、フォーカシングが他流派や現場カウンセリングや独立開業カウンセリングの経営的現実と切り離されて論じられることなど、「論外」と思っている。

 なぜなら、カウンセリングは、ごく普通の社会の中で具体的に生を享けたひとりひとりの人が、その人なりに社会に「棲息する」(中井久夫先生ふうにいえば、「世に棲む」)あり方への援助以外の何者でもないからである。

 (中井先生の名作論文のひとつ、「世に棲む患者」は、中井久夫著作集(岩崎学術出版)第5巻収録だが、現在古書市場でも稀観本のようである。たいていの大学の心理臨床系大学院のある図書館に在庫とは思いますが)

 今、「棲息する」という言い方をしたが、これは決してカウンセリングの対象になる人たちを差別しているつもりはない、私なりの用語法である。

 それこそ、私自身もまた、地球に「棲息」し、「寄生」している一個の生命体に過ぎないという認識の上で用いているつもりだ。

 そういう「棲息物」全体への大いなる連帯と共感と同族意識の上に成り立つものなのである。

 つまり、私は、野良猫や溝鼠やボウフラにも、浜崎あゆみやマドンナに対するのと同じ連帯意識を持つ(^^)

 それは「どっこい生きてる」ということなのである。

 これを読んでいて、

こっちではなく、

こっちを連想してほしいのだけれども(.......ああ、いつもながらのひねくれた衒学的なマニアック変化球( ^ ^;A

 ちなみに、私はかつて「ぽんぽこ」の舞台になっていた町田市町田回廊の山の中の某大学に勤務し、裏道で実際に行き返りに狸ばかりか狐や(恐らく捨てられた)フェレットとも遭遇していたのだが(最近は猪がでるそうで)、それは置いといて。


******


 実はこの「どっこい生きてる」ネタは、まさにこの記事を書き出してから思いついた「即興」である。

 こうした「即興」で、当初書こうとしていた内容とはまったく別の方向に思考が膨らみ、タイトルまで変えてしまったりすることは、私の記事ではごくありふれている。しかもそれが、当初書きたかったことを見失ってしまう(missing)のではなく、たいてい当初の構想を統合しつつ、より進んだ内容に再統合することへと現在進行形で結びついていく。

 この種の、ハプニングをすべて生かしてしまう「ライブ性」こそが、どうも私の発想には欠かせないことのようである。

 そもそも、そういう「ライブ感覚」がなければ,現場カウンセリングは成り立たない。


 その意味で、ブログという媒体の即時性は、私にとっても重要だ。

 そして、頭の中のアーカイブの検索が自動的に始まり、

「そうか、このことについては関連事項もすでに書いたな」

.......と思い出し、茂木さんの言われるがごとく、とっさに「相互リンク」を張ってしまうわけである

(.......こうして、ちゃんと話の脈絡は見失わないのであった.....(^^:A


 それをフォーカシングでは「体験過程の推進(carry forward)」というのだが、これまた脇に置いといて。


*****


 コメントを読んだり、トラックバックをたどっていくと自分の勉強になることが多いんです。10人が僕のブログを読んだとすれば、その10人それぞれの異なった読み方になるんですよね。たとえば作家の村上春樹さんは、『読者が自分の作品を読んで誤読されたものの総体が自分の作品なんだ』と言っています。ブログの場合は誤読とまでは言いませんが、自分の日記がさまざまな形で読まれることを知ることにより、刺激を受ける。

 
 私のayu関連記事について、

「ここまでくるとayuへの片想いのラブレターだ。関係者や本人に取材してみようとしたことがあるのか」

.......というご意見もいただいた(^^;)

 しかし、私はそういう「片想いの思い込み満載」の文でどこまでいけるかにチャレンジしている(爆)

 ....というか、もし仮にayu自身(ないしayuスタッフ)がこのブログの記事を読んで下さっても(最もラディカルなayuサイトの一つを自負してますから、少なくともavexの「ネット監視担当者」の探索網には引っ掛かってると思う)、まさにそのような「勝手な思い込み」が書かれていることこそ、ayu(スタッフ)は面白がってくれるだろう確信しているからである(きっぱり)

 だって、

(.....この、「だって、」の時点でこの先を予想できた読者は、かなりのayuファンですが、きっと何人かいるよね)

ayuは、

「自分が絶望を歌ったつもりのところに、
君(聴衆)はきれいな花を見つけたりする」

高らかに歌い上げているからである!!

浜崎あゆみ - I Am... - Flower Garden"flower garden"

 思い込みの危険を冒さないところに理解の糸口などない。こちらも参照)

 思い込みを避ける人は、実は「知ったかぶり」に「安住」しているだけだ。

 「脱錯覚(disillusion)」のスリルこそ、生きることの醍醐味である!!


 もとより、それが自分が傷を受けるだけならともかく、相手に傷を追わせないように努めるだけの思いやりは必要と思ってますが(^^;A

↑この脈絡でこの作品を紹介すな!! という声が聴こえて来るかもしれませんが、原作、傑作だと私は思ってます。まだアニメ版は観てないのですが。この作品を「マジに」けなす人より、「アブナいなあ...」と言いつつも、「心から」爆笑できる人の方が、私はオタクとして好きだなあ.....)


****


「もし夏目漱石が生きていたら、彼はブログを使って小説を書いていたのでは?」

「ブログというのは『不特定多数の読者への贈り物』であり、誰もがそういう意識で書くべきだと僕は考えています。有名人のブログなどでよく見られるのは、片手間に書いているような文章だけど、『もっと本気で書いてほしいな』と僕は思いますね。多くの人はブログというものを甘く見ている気がします。そんなに甘いもんじゃないですよ、ブログというものは」

 全面同意!!


****


 .......と、ここまででかなりの長さにもなったし、茂木さんについての記事の前編と後編でトラックバックを分割するとちょうどいいので(^^)、こちらも前編と後編にしてしまいましょう。

 まだ、未読なんですが、茂木さんの著作や関連グッズ(監修されたもの)もここで紹介させていただきます:

脳とクオリア -なぜ脳に心が生まれるのか-

脳を鍛える!パソコンでできるみんなの脳力トレーニング

「やわらか脳」

脳に快感 アハ体験! (PSPゲームの監修)

「ひらめき脳」

茂木健一郎のモーツァルト・モード (CD監修)

プロフェッショナル仕事の流儀(6)


 私の専門とももろにかぶりますので、寄り道せずに、これから、まずは「脳とクオリア」を読んでみようかと思っています。

2007/02/08

映画『マリー・アントワネット』追加報告。あるいは「学術研究」のあり方への感慨 (第2版)

 ブレイザーの原作、読了です。

 ブレイザーは、一カ所もツヴァイクに直接言及していませんが、明らかにツヴァイクを下敷きにして書いているとしか思えない部分は多いです。一方、ツヴァイクの名前こそ出さないものの、ツヴァイクに書かれてることを個々の点で否定することになる見解は、ところどころに観られます。

 例えば、アントワネットの兄のフランツ1世がフランスを訪問してルイ16世に会った目的が、ルイの「不能」問題の解決のためのルイへの忠告とアドバイスであったことはそのまま認めていますが、「手術」を勧めた、その結果「手術」をルイは受けた、ということには否定的です。

(映画ではだからそこまで言及しないのですね。....ああ、キルティン・ダンストが演じるアントワネットが「オクテ」ゆえにあの程度しかルイにベッドの上で「迫れ」ないことを繰り返したということが「画面で」伝わらないことを監督が問題にしなかったことが命取りに思えてきた.....。あるいは,台詞の字幕の訳にも限界があったり,観客が映像作品での露骨な性描写に慣れ過ぎているせいなのか?)

 その理由は、麻酔や痛み止めがない当時、一度手術を受けたら、2,3ヶ月は、とても乗馬できる態勢にないにもかかわらず、ルイ16世のその頃の狩りの記録にそれにあたる空白がないことを指摘しています。

 私には実際の馬の鞍にまたがってみた経験は、ごく短時間しかありませんが、なるほど、鞍というものは予想外に硬いものだし、早馬の時に腰を浮かせるにしても、股間に筋肉の力がかかるでしょう(^^;)。

 更に、二人が床を共にした日に、シーツに、「的を外した発射後の痕跡があった日」の公式記録なるものは存在するらしい。王妃の「将軍夫人」の日(脈絡でわかりますよね)も逐一公式記録があるとのことなので(^^;)

 こんな記録が召使いによって逐一確認され、記録され、実家の母親(テレジアのこと)にまで「手紙での報告義務」があったりすれば、「最初の一回に成功するか否か」に不安がある若者同士の心理的プレッシャーを考えれば、悪循環そのものであり、我々でも失敗と自己嫌悪、相互の気まずい思いを連発して、その気が失せそうである(^^;)

 だから、手術は受けないまま。フランツ1世は、女性経験のある男なら誰でも想像できる次元の「ちょっとした工夫」のアドバイスをしただけ、ということになります(^^)。
 おそらく、事前に「人工的あるいは意図的に」潤滑性を十分に高めるための手法、そして、そうした上で「ちゃんと動かせ」!!「抜かずにいろよな!」ということです(爆)

 これらのことから想像して、マリーちゃんもルイ君も、基本的にセックスに淡白で、悦楽の花園に誘惑する異性そのものに「実習を伴うレッスン」を受けて欲望開発してもらう機会もないまま長期間放置される環境にいたと想定するしかなくなるのであります。

 「一回目は立たなかった」「一回めの更に一回目は誤爆した(服脱ぐ間もなく「暴発」し、その後立たなかった)」「一回目は(男の方も)痛いばかりで傷だらけで、一番デリケートな部分の傷や炎症や痒さにその後苦しんだ(液体や雑菌への免疫がないので)」などというのが真相という皆様が、実は非常に高いパーセンテージでいないとは言わせませんが(^^;)。どっちかが経験者でない限り(そうであったとしても)、そんなものでしょう。

 「心とからだの感じ」にデリケートに依存する「習熟スキル」である限り、双方未経験から、いきなり両方が絶頂に達し、本音のところで満足できる、百点満点のことができるなんて、幻想でしょう(きっぱり)。

(おいおい、「専門家」としておまえはここで、そこまで「アブナい橋を渡る」暗示的比喩を使うか? って? 

 ....いや,別に、私は、スポーツや車の運転ですら、全く未経験の人が、知識だけ詰め込んで、いきなり試合や路上の運転をすらすらと楽しめるなんてあるかね? と、「いろんなジャンルのことがらに共通のあたりまえのこと」をいいたいだけです。

 .......皆さん、妄想的にならないように(^^;))

 何事においても、「失敗」や「気まずい思い」、「試行錯誤」は避けて通れず、少しずつ「うまく」なり、少しずつ「おもしろくなって」くること。そしてそのことをお互いに理解しあうための相互の思いやりや気配りなしにはなりたたない。適切なタイミングでの適切なアドバイザーの配慮あるピンポイントの助言がないばかりに,深刻な悩みへの悪循環になってしまっているだけだったりするわけですね。一回のアドバイスだけですべてがバラ色、というのもウソですが。

 これは、個々人が、そのことをどこまでできるか、どこまでめざすか、どこまで興味を持つか、どこまで「際し障りがないくらいに最低限身につけ、演技もするか」否かの判断の自由を認めた上でのことです(^^;)

*****

 ツヴァイクの伝記そのものは、同時代人でない以上、「一次資料」にふんだんにあたっていても一次資料そのものではない
 そして,他の人の、推測による、あるいは政治的/意図的に歪曲された歴史解釈を厳しく退けつつも、ご自身はといえば「文学的創作」の誘惑に明らかに負けている部分もある。

 それに対して、フレーザーという人は、奥ゆかしい人で、「私の商品は『ここが』従来の他社製品とは違う!!」なーんていう自己喧伝で評価されることに無関心、ないし、そういうの、見苦しいという価値観の持ち主なんでしょう。イギリスの名門の人みたいですしね。

 古今のオックスブリッジ出身の学者で、こういう点で「商品差」の喧伝に存在意義を露骨にかけるひとはいくらでもいるにしても。
 ウィトゲンシュタインの前期論理実証主義哲学なんて、師、ラッセルの数理哲学と記号論理学への重大な「誤解」(「階層」の問題についての)を前提としているわけです。

 ........でも、すでにツヴァイクを十分読み込んだ人には、どこでツヴァイクの見解を否定したかはわかる筈の書き方はしている、というあたりでしょう。

*****

 思わず、学術論文というものだと、「既成研究をどこまで押さえていて、どこからが独自性か」を明示できないとならないことそのものが、実はそれだけでは必ずしも既成研究への謙虚な理解を前に進ませるとは限らないものである現実を、自戒を込めて振り返ってもしまいました。(^^;)

 だって、既成研究そのもの読解を筆者が間違っていたり、論文審査委員の方が間違っていることはいくらでもあるのだ。私は、両方の立場での実経験があります。

 誤解.誤読、流行、権威主義、知ったかぶり、売名への野心、党派性、媚びへつらい、プライド、受け売り、嫉妬....こうしたものからほんとうに自由な研究というのは、結局最後にはひとりひとりの良心性、そして「自分の間違いを認める勇気」なしには成り立たないのかもしれません。

2006/12/27

この「図」こそ、待ち望んだ「図」なのだ!!

ITPro selectのサイトに掲載されている、

PROJECT KySSさんによる連載、「Webプランニングから始めよう!」

第9回 良いアイデアがわく人とわかない人はココが違う

という記事、何もIT業界に限らないことを見事にやさしく解説してくださっていると思います(^^)

 特に、球を「篩(ふる)い」にかける図が直感的にヒットました!!

私のフェルトセンスに共振しました)

これですよ、これ!!

 私が最近、必死になって言葉で書こうとしていたことと、何か深くシンクロするのです!!

 なぜ、「相対性理論」と似ている、とか、突飛なことを言い出していたのかというと、まさに、

ふるいにかければかけるほど、球が大きくなる。

アクセススピードも高速化するけど、

本人の体感的にはフットワークが「軽く」なる。

でも、

周囲に与えるインパクトは「重み」を増す

.......という、ニュートン物理学からすれば矛盾そのもののことが生じる気がしていた気がしていた(←ここ、語句重複は意図的です。校正ミスにあらず!!)ので。

PCDEPOT WEB本店/OZZIO

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