私自身が共著者の一人として名前を連ねて1章だけ書いているので、ご紹介するのは少し恥ずかしいのですけれども、それでもやはり、日本(特に関東地区)におけるフォーカシングの普及において、ひとつのターニング・ポイントになった本だと思いますので。
それはどういうことかといいますと、本書が刊行(1995年)された少し前、フォーカシングの有力なトレーナーであるアン・ワイザー・コーネル女史が初来日され、ワークショップを開催しました。その時の実習と、当時ワークショップ参加者だけが購入できたアンさん独自の技法マニュアル(それが後に刊行されたものが、あの「入門マニュアル」と「ガイド・マニュアル」
です)を元に、東京の日精研などを舞台として、恩師、故・村瀬孝雄先生や日笠摩子さん、近田輝行さんたちと共に、そのアンさんの技法を自己掌中のものにするべく勉強会を重ねました。
そうした中で、村瀬先生の立案で、アン・ワイザー法を詳しく具体的に紹介することに大部を割いた本を4人で1冊書くことになったのです。
つまり、本書は、日本における、公刊された、アン・ワイザー法フォーカシング「事始め」でもあるのですね。
日本フォーカシング協会設立の、少し前の時期のことです。
●神田橋條治先生による本書の書評(「精神療法」誌 第22巻 3号掲載)
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次に、本書の目次をご紹介します。
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その後、私たちは、後続するジェンドリンや奥様のメアリー・ヘンドリックス(The Focusing Institute 現CEO)、アン・ワイザー、エルフィー・ヒンターコフ、ジャネット・クライン、ケビン・マケベニュ、バラ・ジェイソンらの著書や論文、ワークショップ(邦訳はありませんが、メアリー・マクガイア、ドラリー・グリンドラーをはじめとする人たちによる、重篤事例についての重要な論文があります)からさらに多くのことを学び、日本国内でワークショップ・セミナー・研究会を仲間たちと実施したり、それぞれの臨床・教育現場の中での適用を模索する中で、更に研鑽を積んで行きました。
しかし、今回、本書を久しぶりに読み返してみたのですが、(自画自賛じみて申し訳ありませんが)、よくもまあ、この段階で、ここまでフォーカシングの当時最先端の潮流を咀嚼し、広範囲の視点から総合的にご紹介できていたなと、ほっと胸をなでおろした次第です。
私たちの「フォーカシングの青春時代」は無駄ではなかった(^^)・・・・まだ、古くなってないです。
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本書の中の白眉のひとつは、日笠さんが苦心の末に編み出した、当時のアン・ワイザー法に基づく「フォーカシング・フローチャート」(p.pp.124-6)でしょう。このフローチャートを観てみるだけのためですら、本書を借り出したり、購入する価値があるかもしれません。
ジェンドリン自身のオリジナルのフォーカシング技法が、単純に要約された、せいぜい1,2ページのマニュアルとして配布され、「それがフォーカシングというもの」と学習者に思い込まれてしまって伝播したことの最大の弊害は、フォーカシングの手順というものを、「空間づくり」にはじまり、「フェルトセンスをつかむ」→「手がかりとなる言葉やイメージを見つける」→「見出した言葉やイメージが実感にぴったりかどうか共鳴させる」→「フェルトセンスに問いかける」→「受け止める」という段取りを、順序だてて進めたときにはじめてフォーカシングしていたことになる・・・かのような誤解を広め、それでは思うように成果が上がらないと諦められてしまう事態を招いたことでした。
(このことが、ジェンドリンも望まない事態で、もっと柔軟な適用が肝心であることについては、ジェンドリン自身の著作、「フォーカシング」を丁寧に読み解けば、繰り返し説かれていることなのですが)
アンさんは、ジェンドリンの技法をベースにしながらも、それをわかりやすくて「勘所」を明確にした「5つのステップと5つのスキル」に再構成しました。
その結果、気がかりな「事柄」からであろうと、その時の漠然とした「身体の感じ」からであろうと、柔軟にフォーカシングを始められるばかりか、内側から生じてきたものは取りあえずなんでも「認めてあげる(acknowledging)」ことと、フェルトセンスから性急な言語化を引き出さないまま「共にいる」ことを重視する丁寧でかゆいところに手が届くものとなりました。
この「認めてあげる」や「共にいる」は、実はセッションの最中のいたるところで提案される教示なので、実は番号を振って直線的に順序だてて説明することになじみにくいところがあります。
更に、フェルトセンスから「遠すぎる(too distance)」状態になった人と、「近すぎる(too closed)」状態になった人(アンさんのいうフェルトセンスを「脱同一化(disidentification)」して感じられる状態が程よく維持できないという点では、どちらの事態も共通です)への臨機応変な介入も必要です。
これらをすべて表現しようとすれば、もはやフローチャート形式をとって空間的な表現にして、必要あればあっちに行ったりこっちに戻ったりということを一望できる図版にするしかない。
日笠さんを中心とした人たちが取り組んだこの「図版化」は、アンさんの技法書のどこにも出てこないオリジナリティあふれるもので、これがアンさん来日2年目で達成されたことは、再評価されてしかるべきと思っています。
(アンさんの技法体系そのものも、その後進化を続けていますが、この段階でのアン・ワイザー法の、几帳面な丁寧さのプラス面は、フォーカシングを「意図的なスキル」として緻密にトレーニングする場においては、決して過去のものにされてはならないというのが私の信念です。このフローチャートは、私の主催するささやかなグループでの恒例の配布資料で、現在もあり続けています(^^))
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さて、私が執筆した第10章ですが、のっけから「臨床家自身がフォーカシングを身につけ、日常の中で役立てられていないうちは、臨床現場での適用なんていうことは考えない方がいいのでは?」という、不遜なまでに挑発的なメッセージからはじまっています。
さすがに若気の至りではなかったかなと、その後多少自己嫌悪に襲われ、長らく読み返さないでいたのですが(^^;)、本書刊行から14年を経て、一読者の心境で客観的に読み返してみたところ・・・・ほっとしました。私なりに十分にジェントルで丁寧な語り口で書けている。
(つい最近、認知行動療法の大家、伊藤絵美先生が、これからCBTを学ぶ専門家への心構えとして、実にそっくりの表現を、著作でなさっているのに気がつき、安堵したというのあります)
そして、当時はジェンドリンが書きつつある「フォーカシング指向心理療法」のdraftを村瀬先生によって手渡されて、その一部を読み解くぐらいの段階でしたが、私がその時点で言葉にできた「臨床現場でフォーカシングをどのように生かすか」という方向性に、その後ブレはなかった、完全に今日の私のスタイルへと繋がっていると確信できました。
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更に、この私の書いた章、さすがアニメおたくカウンセラーこういちろうですね(^^;)、私自身すっかり忘れていたのですが、次のような部分がありました(pp.241-2):
========引用はじめ=========
このようなクライエントさんたちにとっては、自分が「どんな」感じでいるのかについて語ることは、まだサナギの状態でしかいられない昆虫が、性急に脱皮を急がされたような外傷体験に容易に結びついてしまう危険があるのです。・・・最近(95年7月)、「風の谷のナウシカ」等で有名な宮崎駿氏らスタジオジブリ制作による長編アニメ、「耳をすませば」が封切られ、映画館でご覧になった方も少なくないかと思いますが、この映画の中で、主人公の月島雫(しずく)という中学生の少女が、留学した恋人が日本に戻るまでに、自分もなにかをやり遂げようと一大決心をして、受験勉強を投げ出して、寝食を忘れてファンタジー小説の執筆に打ち込む展開があります。
憔悴して眠り込んだ雫は、ある悪夢にうなされます。鉱脈の中の壁一面が原石でできた洞窟の中で、ほんとうに輝くただひとつの純粋なエメラルドを見つけ出そうと焦って探し回るけれども、なかなか見つからない。これぞと思って壁から抜き取った石は最初は光り輝くかに見えました。しかし次の瞬間にその石は、雫の手のひらの中で、まだ卵からかえっていないヒナの死体へと変容するのです。
悲鳴と共に飛び起きる雫。目の前には一向に進まない、破り捨てた書きかけの原稿用紙の山があります。
映画の中の雫の場合には、物語をともかくも書き上げるだけの自我の強さと、そうした彼女を理解して見守る幾人かの周囲の人たちのまなざしがあったから救われたのですが、私たちが現実の臨床現場の中で出会うクライエントの中には、まさに賽の河原で石を積んでは壊されるかのようにして、自分の中の「卵」や「サナギ」を性急に孵化させようとしては流産させることを繰り返す中で傷つき、内面をすり減らし、蟻地獄のような絶望と無力感に次第次第に沈んで行く人たちも少なくない思えます。
むしろそうしたクライエントさんたちにまず必要なのは、自分なりにさなぎ(繭)をつくって、その内部で成長と分化が暗黙のうちに進展するのを見守ることが許されるような治療的な場の保障と関係性ではないでしょうか。
すなわち、彼ら/彼女らは、まずは、自分たちの中にうごめく形(言葉)にならない混沌が、自分を破壊する可能性がある脅威ではないという安心感を抱けるように徐々になれる治療的な場を保障してもらえる必要があるように思います。
そして、その言葉にならない混沌を、いとおしみながら育み育てるための子宮的な空間を、自分の身体の内部や外部に安定した形で確保できる自分なりの工夫を見出せるようにサポートされるべきです。
(これが、本書でもすでに第5章で示した、アン・ワイザー女史の言う、フェルトセンスと「一緒にいる」ということにあたります)
========引用おわり=========
このブログって、すでに創設4年9ヶ月、過去のエントリー記事総数が、「この」記事で1,914本め、なのに一日あたりの新エントリー、平均1.10本以上を現在も維持、しかも長文が多いという、へヴィー級ブログです。
おかげで、もはや@ニフティココログが割り振ってくれているサーバー負荷が相当なものになっているせいか、
・・・・・という、新しくおいでいただいた読者泣かせのブログになっていると思います m(_ _;)m
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もちろん、バックナンバー全体を表示してくれる、『アーカイヴ』ページ(自身がココログユーザー以外の読者の皆様、お気づきでしたか??? 右フレームの「バックナンバー」という文字そのものをクリックするとたどり着けます)というものも、あるにはあるわけです。
しかし、このページにお行きになっていただいたとしても、過去の個々のエントリー記事のタイトル一覧があるわけですらない。
このページからの「〇年〇月」を全部めくっていただくだけでも(全く休眠した数ヶ月を除いても、現在50か月分ほどあるわけですね(^^;)。その50ヶ月分、それぞれ月ごとに、毎月30から40エントリーずつはあるわけですから・・・・・
つまり、私がこのサイトでこれまで書いてきた主要記事がどんなものか、新しい読者の皆さんにおおよその見当をつけていただくには、もうデタラメにご不便をおかけしていることと思います il||li _| ̄|○ il||li
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この問題を一気に解決し、
そういうページが、実はずっと以前から存在します!!
●阿世賀浩一郎のホームページ/index
開設1995年12月(つまりWindows95発売直後)開設、日本において、インターネットで個人サイトを作ることが本格的に普及し始めた黎明期から、何と基本的なデザインを変えないまま運営し続けているサイトです。
かつては、ネットを代表するエヴァ・サイトのひとつ、「エヴァンゲリオン論考」で著名だった時代もありますけど、幸いにして著作化させてもいただきましたので、そのコーナーは全面削除いたしておりますが(「ちーちゃんの部屋」というアニメコーナーがかつて存在したことを覚えておられる方もあると嬉しかったりして ^^;)・・・・
そのトップページから、このブログでの新エントリー記事を書く度ごとに、固定リンクへのリンクを、たいてい速攻の連続作業でお貼りしてもいるのです。
恐らく、皆様のRSSリーダーに反映するスピードの比ではない「即時性」で「新着情報」が掲載され続けています。
同一エントリー記事の更新(改版)情報すら、可能な限り早くお伝えしています。
そこに並んでいる、当ブログ個別記事へのリンク数は、常時数百あるはずです(古いものから時々、精選のための「ダイエット」をかけますので、一定数以上には増えません)。
しかし、敢えて今でも、基本的には「素朴なhtml言語の手打ち」に依存し、javaスクリプトすらないに等しいということで、このトップページそのもののバイト数の多さの割には、表示が圧倒的に軽い筈です(このブログのトップページを表示するよりは軽いと思いますよ)
当方のアクセス解析によって、「こっちのページで新着情報見つけるほうが手っ取り早い」ことにお気づきの、毎日数名以上の固定ユーザーの方がおられることは掌握しています(感謝!!)。
しかし、そうした方の占める比率が以前よりもかなり減っているようにも思いましたので、改めてご紹介させていただきました。
今後とも、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」をよろしくお願い申し上げます。
引き続きになってしまいましたが、恒例、「大船でフォーカシングを学ぶ会」開催報告です。
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土曜日の初開催でした。今回は、急に土曜日日程を開始したばかりのためでしょうか、私を含めて3名様の参加でしたが、今後、増えると思います(^^)
おいでになったお二人は、ご自身なりの、セラピーについての観点をしっかりお持ちの方でしたので、お二人のお話をほんとうにじっくりと伺い、それにお答えしていくだけで、時間の半分を経過しました。
そして、お二人とも、身体に直接働きかけるアプローチに関心をお持ちという共通項が見いだせました。
その結果選択したのは、次のプログラム:
●ホールボディ・フォーカシング 腕を上げていくエクスサイズ フルコース グループ版
ホールボディ・フォーカシングのオーソドックスなスタイルに則り、立ちあがったお二人の前に私も立ち、注意を身体の真ん中から徐々に下におろしていただき、「大地に身体が支えられている感じ」をじっくり体験していただいた上で、両腕を本当に少しずつ上げていってもらう。
しかし、その際に、自分のフェルトセンスに聴きながら、腕を上げようとすると生じてくる、腕以外の身体各所からの訴えにも注意を受け、それを認めてあげて、受け止めてあげて、その結果として身体感じ全体が求めている方向性のベクトルを大事にして、少しずつ動きを身体に「許して」あげていくスタイルをとるので、実際には、腕を単に上げていくだけではなく、いろんな方向に、複雑微妙に身体を動かしていくことになります。20分ぐらいかかったでしょうか。
時には、ある姿勢をとったところでしばらくそこに留まり、腕だけではなく、胴体の内側から「反応(応答)してくる身体の箇所」の求めをじっくりと味わい、更に身体「全体で」それらを味わってみるということが適切な場合もある。
そういったあたり、ガイドとしての私は、フォーカサーの前に立った状態で感受しながら、適切と思われる言葉かけを返していくことになります。
ガイドを兼ねながら自分でも進めていく私なんて、腕を上げるはずなのに、むしろ胴体全体を、一度かがみ込んませてじっくり感じることを経ないと先の動きが生じませんでした。
......何をするかはその場の流れで決めるのが、当「学ぶ会」のポリシー。まさか、ホールボディ・フォーカシングを定式通りやってみる気になるとは事前に思いも及ばす(^^;)
果たして全部の教示を正確に覚えているのかも怪しいまま、「なんとかなるさ」の見切り発車で(^^;)やってみたのですが、お二人の参加者には好評。
通常のフォーカシングとつながっているけど、何かが違う次元で身体の感じに関わる、ホールボディの醍醐味の一端を堪能していただけたようでした。
その結果と、そこから生じた連想をシェアしていくだけで、私を含めた参加者にとって実り多い時間となりました。
(次回までにもう一度土井さんの訳書を読み返しておかないと!!)
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●今後の予定:
【A日程】4/6(日) 13:00-18:00
【B日程】4./20(日 )14:45-19:00
【B日程】4/26(土)《毎月第4土曜新設》14:45-19:00
の予定です。
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継続的な参加を必要とする内容にはいたしません。
第1・第3日曜、第4土曜のいずれかのみ参加、
敢えて月2回、3回の参加、
更に、ランダムに参加されること等、ご自由に選んでいただければと思います。
ただし、開催日前日夕刻までに、どの日にご参加希望かのエントリーを、継続者の方も、メール・ファクス・電話等で必ずお願いいたします。
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なお、今後は6名定員にさせていただきますことをお許しください。
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付言しますと、第1日曜の「学ぶ会」開催日については、夜19:00以降の個人カウンセリングの新規申し込み、第3日曜、第4土曜については、14:30までに終了するカウンセリング・フォーカシング個別指導・ケーススーパービジョンの新規申し込みも受け付けています。
先日、「座長」ではなくて「講師」としての村瀬嘉代子先生のお話を神奈川臨床心理士会ではじめてうかがえたばかりだが、今、
村瀬嘉代子・青木省三/心理療法の基本―日常臨床のための提言
この本(対談です)読んでいて、これまでよりも、嘉代子先生の「語り口」をリアルに想像しやすくなって、読みやすくなったと感じる私がいる。
もっとも、本で嘉代子先生の文章をお読みしたことは以前もあり、それはそれで独特の魅力がある文章だと思うのだが。
例えば、この、中井久夫先生が挿絵を描かれた本の、少女時代のトロッコの話なんて、不思議な生々しい印象を持っている。
今回に限らず、本で存じ上げていた臨床家の先生の本を読む際に、実際にその先生がお話しする姿に接した後、本を読むと、文章が頭の中で、その先生のお話しになる姿や語り口がどんどんイメージされて仮想再現されるようになり、おかげで文意までが以前よりも何となく生々しく伝わってくる気になることがよくある。
もっとも、私にとって臨床の世界で最も名文家と感じ、その文章のリズムそのものに酔わされる魅力がある中井久夫先生だけは、そもそも私は「動く姿」を拝見したことがないままなのだが....
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これは、治療技法そのものでもそうかなと思う。私がアン・ワイザーさんの初来日の時に、ワークショップで一番何を学んだかというと、セッションのデモンストレーションでの、アンさんの受け答えの「間合い」のような気がする。そこには、生きた沈黙の時間の共有があった。私は、アンさんの技法の段取り以上に、その間合いとその場での雰囲気と居心地そのものを、それこそ身体で吸収して取り込もうとしたように思う。
これは、ホールボディ・フォーカシングでも同様で、以前も書いたように、来日時に、ケビンのデモンストレーションに自発的に志願したときに体験した、目の前に建っていて時々声をかけてくるケビンの「たたずまい方」や「声の響き」を受け止めた私の体感そのものをメモリーしている気がする。
ホール・ボディについては、私がたまたまの思いつきで自分のためのフォーカシングをする時に、自分のフェルトセンスが求める方向に果てしなくゆっくりと身体を動かし続ける試みをしたら、「それがホールボディーなんだけど」....といわれて驚き、その後でケビンのワークショップに参加する気になったという展開ではあったのだが、結局、私はその半日ワークショップの時以外、私は誰にもホールボディ・フォーカシングを実地に教わってはいない。
極論すれば、私はその時の体験とケビンの本を通読した経験だけを頼りに、通常のフォーカシングのセッションでも、ホール・ボディ的な教示の提案を、臨機応変に使ってきている。フォーカシングでいう、「フェルトセンスのハンドルを見つける」とか「内側の感じと無理なく一緒にいられる関係を作る」とか「フェルトセンスにどのようにありたがっているか問いかける」という際に、身体の実際の動きを許容する形の提案をすると、実にあっさりとすんなり展開することがあるのであるが。
私は、実は、心理療法というのは、通常に思われているより、頭で理解するというより、身体で会得するもののような気がしている。スポーツにおける対戦相手との「間合い」「見合い」、あるいは、同じチームの他のメンバーや、ペアダンサーのパートナーとの呼吸に近いような何かのような気もする。どのようにシミュレーションしていても、現実には、自分の予想通りではない事態が刻々と生起するのであり、それに対して、もちろん観察力や状況判断のために頭脳を使いつつではあるけれども、ある「不確定性」の中で、刻々と反応し続けることになる。
イチローだって、ランニングホームランを「打とうとした」わけではないのは、いうまでもないだろう。
これほど驚くべき結論に到達したひとりフォーカシング(正確に言うと途中からホールボディフォーカシング)は、こういちろうといえども、年に一度も体験しない。
いや、ここまで「驚いた」のは、ちょっとこの10年は体験したことがない。
私は、逆上がりができないままでいたことをこれだけ「心残り」にしながら長い人生を送ってきたとは思わなかった。
私は、逆上がりができるように、「自分で」なりたかったのである。それを避けて通ったのが人生の最大の誤りだったのかもしれない(^^;)
だいたい、私に、他人から強制されて「身についた」ものなんて何一つとないのである。人がどのように思おうと、「自己流でしか」ものごとを達成しない。
自転車は、小学校4年の時に「自分で練習」して、それから数年間はサイクリングの鬼になって、日帰りで80-120キロ、筑紫平野の地図を塗りつぶさんばかりだったではないか!!!
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もし、横浜近辺のどこかの公園で、ひとり、逆上がりをしようと必死にもがいている中年男をこの冬見かけたら、こういちろうかもしれない(^^)
そのためには、まず胴体を何とかしないと無理だろうって?.....ああ、私はどうしてこんな身体になってしまったのだろう。
しかしこれでダイエットの「具体的目標」ができて励みになるではないか!!
主として中井久夫先生の著作中心に、これまでブログ本文の記事としては紹介してきた著作を中心に、「左サイドの常時表示されるコーナーに、大幅に相補しました。
私が、フォーカシングと共に、25年前から中井先生の著作を支えとして生きて来たといっても過言ではないことが、「単なるフォーカシング教師」「単なるカウンセラー」を超えたスタンスを早くから育(はぐく)み、今日の私のアイデンティティを築き上げてきたことをしみじみと感じる、今日このごろです(^^)
クライエントさんは、カウンセラーであるあなたに「突き放された」「かわされた」「見捨てられた」としか体験しないでしょう。
クライエントさんとの関係の中で、カウンセラーは,自分が、そこそこ(good enough)に、「揺らされるがままに任せる」ことが自然とできるようになる必要があります。
ただ、その揺らされ方が、いわばカウンセラーも,クライエントさんととなり合って、ブランコに乗っているようなイメージの「揺らされ方」になれるといいのかなと思います。ある意味では、クライエントさんの揺らし方に「おのずから、控えめに」共振し、協調する、くらいに。
ただ,全く同じ揺れ方にまで,カウンセラーが必死について行き「あわせられたら」,クライエントさんは相当気疲れするし、逆に追い込まれてしまうと思います。子供の頃の友達との「こぎぐっちょ(と私の出身地、福岡の久留米ではそう呼んでいた)」のことを思い出して下さい。
いわばブランコの「支点」になるマスト(台脚)を通して,同じ「大地に支えられている」けど、それゆえに「大地からは自由」でもある感覚といいますか。
結局,「逆転移してる」という知的な自己理解だけでは不十分どころか,マイナスなんですね。そこそこ(good enough)に揺らされることを"playing" できるくらいじゃないと。
.......などというと、ウィニコットの"playing""環境としての母親"、バリントのいってる"あたかも地水火風のごとく”、更にビオンのいう"container"ということについての「現場臨床的」エッセンスの「ある側面」を手っ取り早くお伝えしたことになるのかもしれない。
これ、あくまで私なりの理解です。
ちなみに、こうした感受性の訓練としては、
ケビンの「ホールボディ・フォーカシング」が最高かもしれない(ホールボディ・フォーカシングのリスナー体験も含めて)。
私が「自己開示」という概念を「見捨ててしまった」きっかけについては、本部ページの「私のフォーカシング」シリーズの第2部第8話の後編ですでに詳しく書いています。
あれは、私の「ひとりフォーカシング」の中での、すごく「パーソナルな」スピリチュアル体験として得られた「悟り」みたいなものですから、あそこの後半で書いたことだけでは「腑に落ちない」皆様がいるでしょう。
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「石が『自己開示』しますか?」
.....とこういちろう氏が言うのはわかる。でも、言葉にするかしないかで相手の印象がまるで変わることがあるではないか。例えばこういちろう氏がayuファンであるかないかを知らなければ、クライエントさんにも与える印象は異なる。
石は「自己開示」しないからこそ、深層心理の純粋な「投影」の対象となり、人が石を「観照」して「内的対話」を交わす中で、真の「洞察」を得られることがある、というのも得心できる。
しかしこういちろう氏はなぜ「中立性」を犯して、石のように「純粋な投影の対象」になることで、クライエントさんの深い心の問題が治療者=クライエント関係に反映するのを妨げるのか?
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......なんてことをなぜコメントで書いてくる人がいないのか、私はずっと不思議だったから、自分でシミュレーションしてしまいます(^^;;;)
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この前、私をここ数年唯一「へこませる」ことに成功したのが、かの精神分析の大家、松木邦裕先生だとはっきり書きましたけど、私が松木先生のどの言葉に躓(つまず)いたか、公開してしまいます。
「クライエントさんを汚してはならないよ」
これは、クライエントさんとの対話の面接の『場』の中で、私が自分が感じたことを(ひとりフォーカシングを通してしっかり吟味してから、ですが)、言葉にして、それをきっかけにクライエントさんに「気づき」のようなものが生じていることについいて、
「それは、単にクライエントさんが期待している親イメージにすっぽりはまる言葉をあなたが返したのにその人が『迎合した』からであり、そこで陽性『転移/逆転移』状態が『やっと生じた』に過ぎない」
確かこんなコメントだったと思います(精神分析の専門家の皆様、いかにも「松木節」でしょ?)
(R.D.レイン風に言えば「共謀」でしょうか? マスターソン風に言えば、「患者の『偽自己』に見事に対応した、.....ええっと、さすがの私も記憶だけでは少し忘れましたが(まだ引っ越し荷物の中!!)、「報酬型部分対象-自己単位」としての「個体化の欲求を抑えた『いい子』の場合だけ見捨てないで、リビドーの備給を与える親」の役割を果たしてしまった、とも説明できるかとも思う)
これにその時。私は返す言葉がなかったんですね(数年以上前のことです)。
私も、実はその事例でのクライエントさんとのやりとりがほんとうにプラスのものだったか、確信が心の底でない事例だったから、見事にグサリときてしまったのです。
(ちなみに、この時の事例の具体的な中身は、当日配布して回収した資料でのみ書かれているものです)
もとより、その傷つきが、実は書物を通して知っていた松木先生なら、私のやり方を理解してくださるだろうという私の松木先生への「陽性転移」が、もろに「錯覚(disillusion")」に終わったからであり、実はその時点で私の中に「妄想的=分裂的態勢(PS)」が生じかかり、「『悪い親』からの攻撃」と体験かねないところだったけど、私ってとっくに「親を自分が破壊して、親が死んでしまうのでないか」という「抑鬱態勢(D)」も経過していることは皆さん、この記事やこの記事でおわかりでしょうし、それどころか、とんでもない確信犯の「エディプス中年」だということは、今こうして松木先生を「仮想父」にして、書きながらやってる最中ですが(爆)、
実は、「私が」松木先生のコメントを
「図星」
とは体験せず、
何か言葉にならない「違和感を感じ続けていた」自分をも
「認めてあげる(acknowledging)」ことができたために、
実は、ほんとうは
「へこんで」
はいても、
「打ち抜かれて」はいなかった
のですね。
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「だってさあ、」
.......と、"another part of me"が内側で言い続けていることを私は聴き逃さなかった!!
「松木先生、『クライエントさんを汚してはならないよ』といわれたけど、ホントに『汚してない』状態なんてあるのかしら????」
少なくとも、その日の夜の部の宴会の翌日には、そういう疑問が私の中で生じ始めていたのです。
そして、数日のうちには、
「他者が、たとえ無言で『そこに-いる』というだけでも、その人に自分が『汚されている』ことに耐えられないなんてこと、例えば「急性期」の統合失調症圏のクライエントさんなら、あたりまえのように、深刻な脅威として体験しているはず」
という答えまでは私の中で確信できました。それは今も変わりません。
これは、私が、実際の師、村瀬孝雄先生以外で、日本人で唯一「心の師」とし続けてきた中井久夫先生からの圧倒的影響で現場臨床に臨んでいた人間だったからこそ可能だったことでしょう。
(私がどのくらい、書物を通してのみで、講演すら拝聴したことがない、中井先生の圧倒的感化のもとにあるかピンとこない人は、中井久夫先生の著作を「頭だけで」読んでいる人だ、と断言します!!)。
生前の村瀬孝雄先生が、まさに中井久夫先生と深い絆で結ばれていた先生だということは、実は立教で院生をしている時代には気がつかなかったのです。

しかし、もうひとり、中井先生と縁の深い精神科の先生のもとで私は病院研修を受けたのですが、その先生を囲んでの「謝恩会」の席上で、その精神科医の先生は、私が中井先生の「分裂病と人類」を引き合いに出した「レポート」を学年末に提出したことについて、孝雄先生のいる前で、
「彼ねえ、中井先生の『分裂病と人類』を読み込んでるレポート出してきたの」
孝雄先生はそれに応えて、
「ほう!! それは珍しいね、それって、一つの『素質』だと思う」
更に、先の先生曰く、
「ほんと、そうですよねえ」
と言っていただけたことを私は忘れません。
これは、私が立派な「S(分裂病)親和者」であることの「お墨付き」を頂いたことになりますから。
なのに、後に「鬱」にも一度なれたんですから、これはたいへんな経験値ですね(^^;;;;;;;)。
もっとも、実は私の人格は、
安永浩先生の言う、開けっぴろげで、「今、ここで」の充実感の中に生きる「中心気質」こそベースだな、と最近は感じてます(^^)。
いよいよ「贅沢な」生き方ですね(^^;;;;;;;;)
(ちなみに、私は「中心気質」については、もっぱら中井先生の本での紹介と、私の古い知り合いでもある、矢幡洋氏の
「『星の王子さま』の心理学」でしか知らないままで、上記の安永先生ご自身の本自体はまだ読んでません。ところが、あるサイトで安永先生の本の「目次」をさっき読んでびっくり仰天!! .....すぐ注文して、読みます!!!!.......私がなぜ目次だけで「あわてた」か、わかっちゃう人、いるかなあ......???)
(『分裂病と人類』という本が、いかに「S(分裂病)親和者」に、「したたかにこの世に『棲(す)み』続けて下さいね。皆さんがいるから、現代社会は「最悪の事態」を迎えていないのです」というメッセージのこもった、生きる勇気と希望を与える本かピンと来てない、あの本の読者の臨床家は、統合失調症圏の患者(クライエント)さんと接する上で肝心な「何か」にまだ気づいていない、と私は「断言}します!!!)
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ああ、話がまた「虚栄心のコントロール」がない方向に.....
元の脈絡にもどします。
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「松木先生、『クライエントさんを汚してはならないよ』といわれたけど、ホントに『汚してない』状態なんてあるのかしら????」
「他者が、たとえ無言で『そこにーいる』というだけでも、その人に自分が『汚されている』ことに耐えられないなんてこと、例えば「急性期」の統合失調症圏のクライエントさんなら、あたりまえのように、深刻な脅威として体験しているはず」
........というところまでは、私の問題意識として、残り続けたわけです。
結局、例えば猫なんて、「喧嘩する時」と「さかりがついた時」以外は、普段は「猫同士は」全く「無言で」互いのコミュニケーションを取っているわけです。
(「人間向け」の「ニャーン」は、本来だと大人の猫なら「不安に陥った」時だけの鳴き方が、「人間界」で人間と共存する中で、人間への「どうかお手柔らかに」というメッセージに置き換わったものでしょう。直前でリンクを張った動物行動学者、伊澤雅子先生の研究による限り、群れを作るライオンとチーターいう例外を除くと、ネコ科の生き物は、本来は、人間で言えば、もろ、分裂気質的な「嫌人権」ならぬ「嫌猫権」を行使しながら,一匹ごとに,お互いにできるだけ出会わない形に別の縄張りを持ち、生殖-出産期以外は「ひとりで」行動するものみたいです。それが崩壊したのは、人間社会が「食べ物の食べ残し」「商品にならない魚介類」を大量に投棄しはじめることで、「人口密度」ならぬ「猫口密度」が増加し、「えさ場を共有」するために生じた「文化適応」とのこと!! 「猫集会」も、本来のネコ科にはみられなかった習性とのこと)
今度は神田橋條治先生にご登場願うと(ああ、なんという「ひけらかし」野郎だ、全く)、
「人はvocal(鳴き声)コミュニケーション以外にverbal(言語の意味内容による)コミュニケーションなんぞを文化として持ったものだから、厄介な存在になった」
わけですね(ちなみに私は「フォーカシング事始め」の「共著者」です。.....ああこれでは、ひとり「虚栄の市(いち)」.....でも、さすがにサッカレーは読んでません、私)。
(アフォーダンスについての記事もご参照のこと)

このことを神田橋先生は"「現場からの治療論」という物語"という近刊でもお書きですけど、元はといえば
サリヴァンが言ってることですよね。
↓こっちだったかな?
↓こっちにも出てきたと思う。
いずれにしても、
サリヴァンの
「パラタクシス的(parataxic)」「プロトタクシス的(prototaxic)」
(=バリントのいう「基底欠損(basic fault)」状態における言語交流)
と、
「シンタクシス的(syintaxic)」(=バリントの言う、「通常の成人言語水準」における交流)、つまり、サリヴァンの言う、「共人間的有効妥当性確認(consensual validation)」ができる言語交流
との間には、実は完全な断絶があるのではないと私は思う。
文字による伝達を別にすると、人間のすべてのverbalコミュニケーションはvocalコミュニケーションと「併用される」ます。
中島みゆきをはじめとするシンガーソングライターの歌う歌は、メロディーと歌詞とリズムと声の質、すべてが「総合的に」発揮されるからこそ、メッセージとしてのインパクトが強烈になる。
(もとより、詩が「韻を踏む」とかいう事柄は、一種の間接的vocalコミュニケーションが暗在していると言えます。広い意味での「名文家」の文章には,必ず「リズム」があります。小才ながら、私の文も、私が「話している」つもりで読める人でないと、すーっと入ってきにくい筈です)
また、いわゆる「非言語的コミュニケーション」を、「言語的コミュニケーション」に、一意的に「翻訳」することは、どれだけ動物行動学者が観察と実証の研究を積み重ねようと不可能なはずである。結局は、動物を「人間化」して意味づけ、理解する「比喩」であることを超えられないと思う。
まして、生身の人間同士が相対している空間には,必ず固有の「空気の感触」や「匂い」や「息」の「相互伝達」すら存在する!! しばらく同じ空間にいるだけで,湿度や室温すら変化する筈です。
要するに、「環界(environment)」との絶えざる相互作用の中にしか「個体」は存在しない。バリントが述べたように、
「魚のエラの中にある海水を海の中と問うか魚の中と問うかは愚問である」
(↓こっち「治療論からみた退行」ですけど、中古市場でも稀観本という理不尽が続いていますので、もしこのブログで表示されていたら、臨床家の方、即、買いと思ってください
松木先生、バリントの正統派クライン派への批判をどうお読みですか? あるいは、サリヴァンをどう理解なさるのか?????
私たちが有機体(organism(である限り、
すべての存在と存在は、
互いに
「汚しあい」
「清めあう」かたちでしか、
存在しませんよ。
それが
「汚しあい」になるか、
「清めあい」になるかすら、
「紙一重」
いや、「光」と「影」
のような関係でしかないのではないでしょうか?????
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またもや、浜崎あゆみの
"Daybreak"
で締めくくらせていただきました。
日本フォーカシング協会に「メンバー」(年会費3000円)として入会していただければ(加入資格は特にありません)、年4回発行されるニュースレターを購読できます。
その中の、「ワークショップ情報」のページをご覧になると、北海道から九州、四国まで、日本全国で、フォーカシング関係のワークショップやセミナー、小さな民間の研究会・勉強会や、個別指導に応じてくれる団体や個人が、特定の日時を月一回など決めたものを含めて、一年で延べ100件近く掲載されている情報に接することができます。
皆様が想像されているたより、よほどフォーカシングを学べる場所は多いでしょ? これに、フォーカシングを研究・実践する先生のいる大学の研究室やゼミや特殊講義での学生たち相手の実践、それらの先生が講師をする「市民大学講座」みたいな催しまで含めると、実数はこの倍に近いと思います。
スクールカウンセラーや幼児教育・保育関係の方々で、子供との関わりのためにフォーカシングをさりげなく生かしておられる方も、すでに、一般に想像されるよりは遙かに普及していて(「フォーカシング」という名前を使ってないだけなんですね)、かなりの数にのぼります。
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そういう中で、我が「湘南フォーカシング・カウンセリングルーム」は、恐らく東京の日本・精神技術研究所心理臨床センターのオープン・プロガラムを例外として、特定の常設の相談機関が、休業日を除いて、常時「フォーカシングの個別指導」を受け付ける、全国で「唯一の」相談機関ということに現状ではなります。
しかも、私のフォーカシングの指導法は非常に柔軟です。
「フォーカシング個別指導」コースをご希望になる大抵の方は、私をトレーナーとして、まずは通常のフォーカサーとしての体験を積むことをお求めになることがもちろん多いのですが、
先日ご紹介した、この著作収録の"Focuser as Teacher"も、
ホールボディ・フォーカシングも、
インタラクティブ・フォーカシングも、
「藤嶽法」(第一法、第二法)も、
夢フォーカシングも、
それどころか、
あくまでも増井先生流」の「こころの整理法」も、
「あくまでも田嶌先生流」の「壷イメージ法」も、
更には、
土江正司さんの「こころの天気」も、
横山体真先生が最初の開発者で、今では岐阜の蒲生紀子さんが特に実践しておられる「こころの壷」も、
相互スクイグル(ウィニコットが開発した「なぐり書き描画法」)をフォーカシングチックに遊ぶことも、
いつでも「個人セッションで」臨機応変に体験できる
「週5日以上開業、開業時間8時間の、常設の」フォーカシング学習の場なんて、
「日本では他にまだない」
ことをお忘れなく!!
(椅子の都合で、私を含めて6名さままでならグループ指導もできる態勢があり、その場合のグループ割引もいたしますが、さすがに6名となると「寿司詰め」になりますので。)
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何しろ、「今日何をやりたいか」そのものを、
「学ぶ人に」、
最初に
「ショートフォーカシング」
してもらって決める、「圧倒的柔軟さ」を誇ります。
「ショートフォーカシング」とは、「今日私は何をやりたいのかな」と自分の内側に沈黙して2,3分問いかけて、身体からの反応を味わってみてもらうことです。
「フォーカシングがまだ自分でできている自信がない」方も、2,3分時間をもらって、「あれがいいかな、これがいいかな」と思いを巡らす時間を差し上げるだけでも、貴重な時間と感じていただけるようです。
まさに、レストランの入り口のショーウインドで、「どれがおいしそうかな? 食べたいのかな?」と迷う時間にあたるものです。
(この「レストランで何が食べたいか」という喩え話は、日本最初のジェンドリンの直弟子であられ、現日本フォーカシング協会会長をお務めの、関西大学の
池見陽先生が、初心者向けによくお使いの言い方を拝借させていただきました)
最後は「勘」で、えいやっ!!と決めてもらうのでいいのですね。
「初級」も「中級」もあったもんじゃない勝手気ままさ!!
(インターラクティブ・フォーカシングのような、一般には「上級コース」とされるフォーマットですら、フォーカシング未体験の初心者ですら、わくわく「楽しんで」もらえるものにできるんですよね、実は)
まさに、「フォーカシング・ワンダーランド」!!
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これで、一般の皆様からの「通常のカウンセリング」を申し込んでいただくと、「正統派クライエント・センタード」のベースを崩さない(認知行動療法や山上行動療法もたまに混ぜますが)で、私の方からフォーカシングをクライエントさんにお勧めすることには「禁欲」を貫き、そして、医療や法律など、実際的なガイダンスやコンサルテーションもする、
「町の現場カウンセラー」そのものに「豹変する」
のが私のとりえです。
ちなみに「他流派の」カウンセラーの方からのケーススーパービジョンのお申し込みも、決してお断りしないことをポリシーとしております。
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