すでに書いてきたように、「最終楽章 前編」も凄いと思いました。でも後編を見てしまうと、前編はもはや「前座」に過ぎなかった・・・・
●予告編公式映像(Yahoo ID入力が必要です)
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音楽的成長という意味でも、のだめと千秋の男女関係の成熟という点から見ても、まさか、ここまで果てしない凄みと高みに向けて、これでもか、これでもかとばかりに、多段式ロケットのようにして物語を盛り上げ、そして、気がついてみると、TVシリーズと同じ光景、同じセリフが、全く違う次元で舞い戻る。
人との出会いを真に育みあえる、永遠の別れと背中合わせの緊張のなかでの長いうねうねした道のり("The Long Winding Road"・・・なんつーて^^;) の厳しさと切なさと重さ。でも、だから人生は面白いんだ!
・・・千秋とのだめの深い内面的葛藤すらじっくり、鳥肌立つ域まで描きながら、飾らないユーモアと暖かさを織り交ぜつつ、すべて「包摂」できている、演出の圧倒的素晴らしさ。映像の美しさ。
音楽の演奏それ自体の素晴らしさは、もはや言うまでもありません。後編はもはや、「世界のトップレヴェル」の演奏です。
「のだめ」のTVシリーズから「in ヨーロッパ」を経て、この最終楽章前・後編に至る全体が、もはや日本が世界に誇るべき、奇跡のような「音楽映画」の超傑作シリーズのように思えてなりません。
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なお、この「最終楽章 後編」で、たいへん重要な役割を果たしてる、ベートーヴェンの晩年の、ピアノソナタ第31番イ長調も、私が若い頃から溺愛してきた曲で、ケンプ盤、ゼルキン盤などへの愛着が高いのですが、「一枚もの」となると、アシュケナージの繊細で録音もいい演奏をセレクトしておきましょうか。
ポリーニ盤よりはいいと思いますよ。さもなければ、ゼルキンの厳格さのある演奏を、お探しください。
・・・・うーん、今、聴き直したら、ゼルキン盤の優しさと孤独、厳しさのすべてを包括するスケール感の方が、映画でののだめの演奏に近いかも。
・・・え? 前回の記事の最後で書いたことと、スケジュールがまるで違うって?(^^;)
仕方がありません。
「最終楽章」後編のDVDレンタル開始は10/7でしたから、お店には「貸出中」の空しいケースが、ずらり並び続けていました(T T;)
ところが、アニメ版日本編は、全8巻=全23話、置いてあるじゃないですか!!
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こうなったら、私の、遅れてきた「のだめ」ワールド完全制覇に向けての大航海の寄港地の順序を一気に変更しよう!、という即決でした。
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アニメのTVシリーズを全部の回を観るのは「天空のエスカフローネ」本放送(1996)以来何と14年ぶり(!)、ましてやDVDという形で一気に観るなんて、生まれてはじめて、しかも丸一日でぶっ通しで鑑賞完了!!・・・という、のだめの発揮する、あのピアノ練習の集中力並みの力技でした(^^)
でも、すでに実写版は「最終楽章」後編を残して全部観て、全部ぶっ飛ぶべき傑作と感じたあとで、もうどっぷり首まで「のだめ中毒」にはまってますから、何とも気軽に、私にとっての休日の昨日(10/19)、飯と風呂だけは、のだめや千秋と異なり、きちんと中休みして遂行しながらですが(爆)、何ともさらーーーーっと、23話見通してしまいました。
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裏を返すと、実写版とは少しテイストが異なる魅力があると十分に感じ、ひたすら引きこまれて行った。
国産初のTVシリーズアニメ、「鉄腕アトム」本放送をライブで観て、高校で「ヤマト」ブーム世代=恐怖の「1960年生まれ組」アニメファンという、一番年季が入った層(しかも、かつて「アニメージュ」「OUT]の投稿常連だった超ディープ層)で、大人になって、エヴァ本、「エヴァンゲリオンの深層心理―自己という迷宮」まで出した私が、あっさり満足したということです(^^)
もちろん、TVシリーズの予算の範囲内で作られた制約というのは勘定に入れてます。でも、それは、演奏シーンの動画がもっと流麗に「全部」動いて欲しい、という、超贅沢な不満点だけなんですね。
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演奏音源に関して、基本的には実写版の使い回し+αで確保できたという、リサイクルのメリットもあったでしょう。しかし、実写版TVシリーズの放映終了から僅か三週間も立たないうちにアニメ版第1話が本放送され始めていたと知って呆然。
このスケジュールだと、アニメスタッフは、実際には実写ドラマを実際に見て参考にしていないことになる(茂木さんの「内幕本」で、ドラマ編の編集作業は、実際には、放送前日も、徹夜で進行していたと明言されていますので)。
・・・・ということは、私がこの段階で立てた仮説通り、原作そのものが実に完成度が高かった、そして、可能な限り原作のテイストをそのまま映像化するという高度な要求水準を満たしたという「だけ」のこと(でも、それは誰も予想し得ない水準の「そそり立つ壁」へのチャレンジだった)・・・というに尽きるでしょう。
もとより、実写版の、あそこまで切れのある、当時画期的に斬新だった筈の演出のもとで、「生身の人間」(一瞬だけ人形^^;)である上野樹里さんや玉木宏の演技の才能溢れる役者魂、更に言えば、他の多くの俳優さんたちを含めて、本物の演奏家に混じって全く違和感のない「演奏シーン」を完璧に演じ、「ドラマのフジテレビ」だからこそ可能な、トレンディでインパクトあるテイストで味付けられていた「凄み」のようなものは、アニメ案は比較しようもない。
しかし、ドラマ版より結果的に長尺にでき、さらりと映像で描ける分、実写版では省略されたエピソードや登場人物まで描いてくれている(結果的に原作の演奏曲目のより忠実な再現に近づいている、実写版にはない長所もあることになります。
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具体的に」原作へ忠実度がドラマ編を上回った例を幾つか上げれば:
「マンフレッド」序曲って、かなり通のクラシックファンでも聴いたことないままの人、少なくないかと思いますが、往年の、フルトヴェングラー/ベルリン・フィルによる、おどろおどろしいインパクトに満ちた、伝説の巨匠的「超演」ライヴ録音(1949年、ただしモノラル録音)があります。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー/ベルリン・フィル/シューマン:交響曲第4番,マンフレッド序曲
ちなみに、神格化されている名指揮者、ヴィルトヴェングラーの私生活の実態こそ、まさにミルヒー(シュトレーゼマン)そのもの。つまり、無類の女好きだったそうで、意外にも、フルトヴェングラーこそが、シュトレーゼマンのモデルとみて、ほぼ間違いがない筈です(^^;)
アニメ版で「演奏」されていたのは、この序曲の冒頭から2分ぐらいだけでしたけど、冒頭の、シューマンが敢えて「切分音(小節をまたいで、シンコペーションで半拍れで延々音をつなぐ、一種の「後打ち」メロディ。シューマンの作曲において独壇場の、特異な緊張感を生み出す「得意技」である)」で開始した序奏部の意図をきちんと掴んだ、よい解釈の「演奏」ですね(^^)
(・・・なお。この「切分音」の扱いの不徹底さという点では、上述のフルトヴェングラー盤の作品解釈は、「楽譜との対話不足の(・・・・おいおい、どこかで聴いたような物言い平気で私はしてるな・・・)」、古えの巨匠だから許される、気ままなまでに特異な「のだめ」的奔放性を持つ(?)即興型のスリリングな演奏スタイルです。少なくとも千秋の作品解釈のあり方からは遠いので念のため・・・・)
つまり、千秋の母方の叔父さんと全く同じで、「威風堂々」と交響曲、チェロ協奏曲と「朝の挨拶」、「エニグマ(謎)変奏曲」「序奏とアレグロ」までしかリスナーとしてのレパートリーはなかった。
・・・待てよ、千秋の伯父さんは、序曲「コケイン」および序曲「南国にて」とバイオリン協奏曲の聴取歴がない(私はCD持ってる)分だけ、私の方が伯父さんより勝ち!!・・・・クラシックCD1000枚だけは、いくら引越ししても「財産」として所持し続けて来た私ですから。
でも、確かに、作曲年代からすれば古風といえば古風ですが、実にエルガーらしい、美しい曲だと思います(^^) いい曲知ること、できました!
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そうそう、OPの絵コンテ、幾原邦彦さんがお描きになったものなのですね。
懐かしいです。
皆様、驚かれるかも知れませんが、私は、幾原さんが監督した、「劇場版セーラームーンR」(1993年。「エヴァンゲリオン」の先駆と断言していいい「超傑作」ですね!)について論文を書き、学会発表までしてます(つまり、学会発表で公然と映像を映写しました。「学術的な発表」なので、これは「著作権に抵触」しません)。
それどころか、その時書いた論文を「東映動画気付」で幾原さんにお送りし、幾原さん直々のお返事を手紙で頂くという光栄を得ました(^^)。
何か、「のだめ」関連記事では、私は完全に「千秋様」化し、「俺様」キャラになってますね・・・・お許しを。
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但し、このアニメ版、オーディオ的観点から言わせていただくと、DVDで視聴した限り・・・ですが、アニメ版、明らかにドラマ版と同じ音源です。
(ご存じないのだめファンのみなさまもあるかも知れませんが、演奏シーンに関しては、既発売CDなどの「既成音源の流用」はされていません。すべてこのドラマ化とアニメ化のために新たに収録されたものです)
それにもかかわらず、このアニメ版、実写ドラマ版の地上波デジタルの音声より、音の生々しさがかなり落ちます。
これは、DVDの方が地上波デジタルより実は音質が劣る特性を規格上もともと持つが故なのか?
それとも、アニメ版のイコライジングが実際に「かまぼこ状」になっているのか?
・・・・まで疑えます。
少なくとも私は先日「パリ・スペシャル」のDVDの音を「聴いて」いる。それは非常に上質な部類と思いました。
つまり、Dolby5ch収録でない「テレビドラマ」としては、クラシックの実際のコンサートライブのBSハイビジョンでの放送と、音質面で全く引けを取らないと感じました。
たとえ再放送でも、最初からハイビジョン規格でデジタル収録されたソースの画質や音質劣化は、原理的にあり得ないと想定できますので、いよいよ「アニメ版の方がイコライジングが平板になっている」と推定でき、確実な失点かと思います。
つまり、実写ドラマのほうが、アニメ版より、のだめやオケの演奏の仕上がり具合の違いが、アニメより生々しく「聴き分け」られるわけで、アニメ版はその点で、「理屈抜きの、実感を通した説得力」という点で損をしている可能性を指摘したいのです。
【追記10/10/20】:
敢えてドラマ編のDVDを試しに一巻だけ借りてきて視聴しました。同じ録音ソースの筈なのに、音の豊穣さと間接音成分の広がりが、アニメ版とは全く異次元です。
これで、DVDソースで同じDVDプレーヤで聴き比べた以上、アニメ版のイコライジングの「かまぼこ型」的平板さは残念ながら明らかですね。
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・・・などと、「そこまで言うか?」の薀蓄(うんちく)を書かせていただいたあたりで、私の「のだめワールド」航海日誌、第7回の筆を置きたい思います。
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・・・と、今度は、のだめ風に、ますは感嘆の声を上げさせていただきます!
(当然、上野樹里さんの声の演技を想定して下さい ^^)
劇場版「最終楽章 前編」の次に、今度は、TVシリーズの後に制作された、いわゆる「パリ・スペシャル」前編(Lesson 1)を観る(DVDレンタルです)というのは、順序的にみると行ったり来たりですけど、私のように、遅れて来た「のだめ」ファンにとっては、これでもまだ「作法にかなった」鑑賞順序(?)でしょう。
(追記10/10/22 : 最終楽章 後編の感想はこちら)
※ ↑ どうもセル版は前後編2枚組のようですが、少なくとも私の借りたレンタル屋さんでは、「前編」と「後編」は別パッケージでした。当然、後編も同時に借りていますが、前編観た段階で、「千秋様」の投げる「人形のだめ」並みに「ぶっ飛ばされる」衝撃度だったので、後編を観るのは後回しで、以下の記事を書きます。
【注】このTV版スペシャルも、2年半以上前(2008年1月)の放送ですので、ネタバレ全開モードで書きます。
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まずは絡め手から。
千秋くんが、プラティニ指揮者コンクール第2次予選でりヒャルト・シュトラウスの交響詩、「ティル(・オイゲンシュピーゲルの愉快ないたずら)」を振った時に緊張し過ぎてオケぎくしゃくし、恐るべき「負」のオーラに取りつかれている時に、のだめが投げかけるセリフ。
のだめ:「ただ、オケの人に嫌われちゃっただけですよ。Sオケの時と同じで。音楽性より人間性」
千秋:「人間性・・・」
のだめ:「先輩って、誤解されやすいですよ。、粘着の、完全主義だから。でも、コンクールの先輩から言わせていただくと、ある意味で良かったんじゃないでしょうか。ポッキリ折れて、鼻が。人間は負けて大きくなっていくんですよオ!のだめのように」
千秋」:「(突如立ち上がり、のだめの首を締め上げながら)・・・お前ここにホントに何しに来たんだ?! 」
のだめ:「エール送ってるんですよオ!」
千秋:「どこがエール送ってるんだ? 人の傷口に塩を塗りやがって。お前だって、『負けた』と思ってるんだろ?」
のだめ:「のだめ、ジャン(注:コンクールでライバルの指揮者)に負けたと思ってないでしゅ!」
千秋:「俺だってジャンに負けたとは思ってねえよ。・・・(落ち着きを取り戻し)・・・負けたのは・・・・自分に・・・・」
のだめ:「・・・・・」
・・・・ここまでのセリフに、さりげなく「粘着」という言葉が入っているのが凄いです。
のだめは、どういうわけか、クレッチマーの「粘着質」概念を知っている=原作者は、千秋の性格をそのように造形している?!
>このタイプは几帳面で礼儀正しく義理がたい。着実で手堅く非常識な面が無い。 忍耐強い性格であるがストレスを内側に溜め込み、我慢が一定のレベルを超してしまった時の怒り方は凄いものがある。 また、非常に頑固な面を持ち、自分の意志を曲げようとしないことも多々ある。まかり間違えば独裁者になりうる素質の持ち主。
>地道な努力で、一度手がけた仕事は最後まで粘り強くやり通すが、その反面手際が悪く感じられることもある。 対人関係では、信頼はおけるが面白みに欠けるタイプである。
(以上、「アニメキャラクター分析(キャラ考)」サイト by 雪音 様 より引用。これは原典がしっかりしたものからの引用としか思えないレヴェルです)
・・・完全に、千秋くんそのものでしょ?
(千秋君はマッチョ体型ではないけど)
二ノ宮さんの考証って、半端じゃないことが、こういうさりげない所に出てます。
やはり、以前から書いてるように、実は非常に「構築的な」クールな作家というイメージが更に強まりました。
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次に、劇場版では始まって10分であっさりに「お断り」で妥協したのに、この「パリ・スベシャル前編」の中で、特に前半、のだめ(上野樹里さん)も千秋(玉木宏さん)もフランク(ウェンツ瑛士さん)もタチアーナ(ベッキーさん)も、フランス語をここまでしゃべくりまくるとは!!
ひょっとして、ハーフのウェンツさんとベッキーさんにはフランスの血が流れていないかと調査したところ、特にそうではないらしい・・・(呆然)
私は、大学(学部は法政)の第2外国語で、当時の日本で代表的なドイツ語の先生の講義を受けて全部「A」もらってます。哲学科でカントの原典購読していたし、クラシックファンでドイツリートも大好きですから、今でもドイツ語の文章なら、旅行会話水準の言葉("Wie geht es Ihrnen?"とか)ある程度口をついて出ますし、少なくともドイツ語の文章をいきなり読み上げて、単語の意味不明でも、やや古風かもしれない標準ドイツ語としておかしな発音は、ほぼしない自信あります("Ich-Laut"と"Ach-Laut"の使い分けまで)。
辞書さえ引けば、今でもだどたどしくなら翻訳できる・・・今の私のドイツ語力は、単語の語彙数を別にすれば、英語力よりそんなに低くないとすら。
(英語力が立教クラスの大学院出(更にその後、「院研究生」として、不肖ながら、何を間違ったか東大です・・・)としては低すぎるだけだって?)
恐らく、「米語」を聴く耳より「ドイツ語」を聴く耳のほうが今もいいはずです。
ところが、全然学んでいないフランス語となると、読むこともできない(クラシックファンなのに、CD洋盤ショップで”Dutoit”って誰よ?・・・が大きな壁として立ちはだかった)。
フランス映画を観ても、何かドイツ語に比べると「ふにゃふにゃ」した軟体動物のような声がするのを呆然と聴き、完全に字幕依存。「メルシー、ボク-」とか「コマンタレ・ブー」とかなんとかと聞こえる「音声」(「言語」以前の認識水準^^;)が頻発させるのは何だろう?ということになります。
(閑話休題。実際に生身で遭遇すると、生粋のフランス女性(=アングロサクソン系の血が皆無と思える)の放つ「オーラ」って、ファッション以前にダイレクトに凄いですね・・・。これは、ちょっと慣れれば、アメリカ人と、「言葉を聞かずに、見た目だけで」容易に区別できるようになります)
実は私、ドイツ語の場合なら、歌える「訳詞」でトイツリートの曲(「第9」はいうまでもなく、シューベルトの「魔王」や「流浪の民」、歌曲集「白鳥の歌」「冬の旅」「美しき水車屋の娘」の主要曲を覚えて歌い、更に原詩でもある程度歌おうとしていたくらいですが、フランス語は「超」別世界。
ポップスやロックを聴く中で英語を覚えたという人は少なくないでしょうが、私がほんとうに熱中して聴いたのはビートルズぐらいですから、「イギリス英語」への耳はそこそこあっても、「米語」耳はほぼなしです。
(でも、ビートルズで全曲歌い通せるのは”Yesterday”のみという情けない始末。逆に「魔王」や「白鳥の歌」からの何曲かならドイツ語で一応歌えます)。
もとより、のだめたちが話しているフランス語は、ネイティヴよりは「日本語的発音」のものなので、聴いていてもカタカナで置き換えられそうですが、それにしても、セリフとして予想を遥かに超えるだけの量のフランス語。
「のだめ」という作品の役者さんたちへの要求水準はかなり壮絶だったんだな・・・・と、つくづく。
(突然ですが、来年の大河、「江」で時代劇初挑戦、しかもいきなり主役の上野樹里さん、役者として幅を広げる大チャレンジですが、「篤姫」の宮崎あおいさんに劣らぬ成果をおさめられますことを・・・)
のだめならずとも、マジ、例えば「エヴァゲリオン」の英語版やフランス語版、ドイツ語版があれば、「スピードラーニング」私もできるかなと思った次第。
エヴァ本、阿世賀浩一郎/「エヴァンゲリオンの深層心理―自己という迷宮」まで出させて頂いた私、今でもTVシリーズのセリフみんな覚えてますもんね(・・・そういう水準で書いた、「ガイナックス非公式黙認」を「公式に」ダイレクトに取った上での本でした^^;)。
でも、実際、海外の"OTAKU"の皆さんは、そうやって日本アニメに熱中する中で、ホントに日本語を、全く書けなくとも「耳から」覚えるらしいですから、この物語での「あの」描き方も、実は「リアル」の裏付けなしとは言えないでしょうね(^^)
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さて、やっと、このブログ恒例、大真面目な「音楽(演奏)評」を書きます!
「指揮者コンクール」とはこのようなものだということを、ここまで具体的にリアルに描いた「フィション」作品は「世界初」でしょう(=原作段階でもそうということ!)。
私も、ピアノ・コンクールはいざ知らず、指揮者コンクールの「実像」について、ここまで勉強になるとは思えず。
実は、このあたりは、このブログでは直前に記事として書いた、茂木大輔さんの、のだめ公式内幕本、「読んで楽しむ のだめカンタービレの音楽会」でネタ明かしされてます(ここだけ当書のネタバレお許しを)。
つまり、原作段階で、本格的な指揮者修行も経験した、茂木さん自身の監修が入っているのです。
茂木さんご自身は、すでにオーボエ奏者として日本の第一人者を長年務められた上で、故・岩城宏之氏の門をたたき、更に外山雄三氏の指導をお受けになるなどの経験を重ねられた方で、何を今更指揮者コンクールそのものを経る必要はお持ちではなかったのですが。
それでも、非常に謙虚な文章で、「一介のオーボエ吹き」が指揮をするに到るまでの壮絶な壁との格闘を本書でリアルにお書きになっています。
そして、きっと、指揮者コンクールに、「オケの演奏者」の側で参加された経験はご豊富なのではないかと推察いたします)。
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さて、この「スペシャル」でも、相変わらず、演奏が練り上げられるまでの音の変化や、指揮者ごとの「解釈の違い」まで、マジに実際の演奏として収録されて、使われているのですね。
千秋の音は、ドイツのシュトレーゼマンに認められるだけのことはあって(?)、少なくともこの「パリ・スベシャル」では、正統派ドイツ風の、構築的で硬派な演奏=「黒」(^^)
対抗馬であるフランスのジャンの音は、まさにエレガントで透明=「白」(^^)
もうひとりの片平元の演奏も、確かに独創的! でも音楽が完全にその指揮ぶりと一致している。
踏み込んだことを言えば(・・・以下のあたりのことは、何も参照しなくても、「湯水のように」書けるクラシックおたくです)、彼が演奏した、グリンカの「ルスランとリュドミーラ」序曲は、グリンカそのものがロシア最初の著名な作曲家ですが、「ルスランとリュドミーラ」は、実はロッシーニ系のイタリア(喜)歌劇の影響を大きく受けながら試行錯誤の中で作曲されている、ロシア初の「国民オペラ」なんですね。
だから、実は「ロシア臭く」やると野卑に響きすぎるという自己矛盾を内包した曲であり、ここで「片平さん」が演奏しているような、軽快なスタイルだと、曲の持ち味が「本当に」出てます。名演です(^^)
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次に、千秋君の本選曲のひとつである、チャイコフスキーのバイオリン協奏曲。
私はこの曲には好みがはっきりしています。オケは軽快かつシンフォニック(・・・自己矛盾!!)に、ソリストも、力演だと感じさせずに、何の苦労もなく演奏しているような、クセのない演奏でないと嫌なんですね。
そのせいで、本当は、往年の名盤であるハイフェッツ/ライナー/シカゴ交響楽団の演奏以外、本当にいいと思ったことがありません(実はハイフェッツ盤には、録音当時(1950年代末かと思う)慣例だった「曲の省略部分」があるのですが)。
ところが!
断片とは言え、コンマスをソリストとする[千秋君の」演奏は、私を十分に肯かせたのです!!
これには正直、驚きました。私の永遠の座標軸がハイフェッツですから!!
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更に音楽面、別の観点から見てみます。
コンクールの公演を聴いた直後の具体的感想のセリフを聞くと、のだめちゃんにしても、フランクくんやタチアーナにしても、若くして、オケ演奏の良し悪しへの「感度」が凄すぎる!!
このへん、物語として「出来すぎ」なんですが、3人の感想そものは、実際に音になっている演奏に対して(!)、全くリアルなんですよ!
本当に「恐ろしい水準」の「TVスペシャル」です。
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おしまいに。
敢えて細かく言及しませんが(それがこのブログの、「のだめ」関連記事の、正統派ではない、婉曲で意地悪なところ)、総合的に見ても、この「パリ・スペシャル」、ドラマとしても、コミカルなテンポ感、切れ味、TVシリーズを凌駕すらしていて、「映画」と言っても何の遜色もない。
日本にいる登場人物たちとのコミュニケーションも、これ以上あり得ないくらいに絶妙にいい味出してますしね(^^)
更にこの上を行く、「最終楽章」の劇場公開となっていることは「前編」だけで十分すぎるほど分かりましたので、本当に、この作品の実写映像化って、どんどん進化しかしなかった、「化け物」的奇跡だと思います!!
まだ、「パリ・スペシャル」後編と、「最終楽章」後編観てないのに、キッバリ断言できます!!
(全部観るのは、もはや時間の問題。無理のないペスで記事化するのみです。・・・・ただし、原作の感想のみ、少し遅れる可能性があります。当サイトのAmazonアフィリエイトレポートの、最近のポイント累積傾向予測からすれば、予想では「11月下旬」です。もっとも、未着の10月分レポートで、クーポン引き換えまで「一気に」貯まってくれれば、「実質無料、全巻大人買い?」可能まで一気に累積完了!! 予想外に早まるかも)。
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・・・・・以上、「粘着質」かつ「執着気質」のあいの子で(爆)、時々「対他配慮」が行き過ぎて逆にコケるのが玉に傷の、こういちろうよりの、「のだめ」ワールド航海日誌、第5弾でした!!
(「パリ・スぺシャル 後編」への感想はこちらをどうぞ!!
日本における自殺者は、1998年以降、11年連続3万人以上が続いている。
しかし、日本の精神医療は、医者は昼間は数十人の患者さんの診察を抱え、夜間に大病院で待機する看護士も、入院患者の急変等の事態が想定できるため、電話で話をきく以上の対応は難しいところが多いという。
鳩山政権は、先月、自殺対策緊急戦略チームを結成、年の瀬から3月までの短期的な対策として、失業者や多重債務者に向けての相談窓口については対策をとることにしたが、実際に自殺に至る人の3分の1以上は精神疾患をを背景としているのに、それに対する対策はそこには含まれてはいない。
ある統計によると、実際に自殺した人が、それまでに何らかの相談機関を訪れている率は(精神科以外の医療を含めて)72%にも及ぶという。
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イギリスでは、ブレア政権当時、精神疾患や自殺による国益の損失が実に280億ポンド(約4兆5千億円)にのぼるという試算が出され、心臓病・がんとならぶ3大疾患として位置づけ、精神医療に関わる予算を一気に1.5倍にまで引き上げた。
一方、統合失調症等で入院させたものの、症状がむしろ悪化する現実に憤った家族たちが、「精神疾患者も、地域で治療や教育・支援を受ける権利がある」という運動を起こしていく。
そうした中で国家的な取り組みとして確立して行ったのが、全国300もの拠点に、医師、看護士、ケースワーカー、キャリアカウンセラーなどが24時間体制で配置され、ひとりひとりの患者さんに、それら複数の職域のスタッフが関わる「早期介入チーム」を置くセンターを作っていくことであった。そこにはかかりつけの家庭医や、警察すら含む緊密な連携が形成されている。
そこでは、「アウトリーチ(積極的介入)」と呼ばれる手法が重視される。すなわち、チームを組んだ医師や看護士の方から家庭を訪問して対応するのである。住んでいる家や建物(例えば何階に住んでいるか)がわかれば、どういう形で自殺する危険があるかも掌握できる。
自殺企図が強まった患者さんからの電話で、訓練を受けた看護士が、他の住民に本人の疾患を悟られないように、「私服で」訪問し、しばらく話を聴くうちに本人は落ち着いた例などが紹介されていた。
統合失調症者の社会復帰においても、散歩するとか買い物に行くなど、小さな行動ステップを積み上げ、徐々に外出できるように援助するなどをするのであるが、何とその際にソーシャルワーカーが「付き添う」ところからはじめる場合もあるらしいのである。
こうして、イギリスでは自殺率の増加に歯止めがかかったという。
ここからは私の感想だが、こうしたアプローチは、個人のプライバシーの世界に公的機関が非常に細やかに積極介入するスタイルである。担当者と当事者の間の信頼関係の樹立に細やかな配慮が行き届いた場合に、はじめて社会的に受け入れられるものになるのではなかろうか。
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いずれにしても、それぞれの資格を持った専門家が妙なメンツにこだわっている段階は、日本もそろそろ卒業して、連携チームを組んで協働できるステップへと早く進めねばならないだろう。
そのためには、制度が上から変わってくれるのを待っていても仕方がない。
臨床心理士もまた、進んで越境的な「行動する臨床心理士」へと、ゲリラ的に、草の根レヴェルから変容していける底力を見せないと、それこそ何らかの法制化の際にお高くとまった使い物にならない人種と見られるのがオチであろう。
ハンガリーに生まれ、フィレンツィに師事し、その後ドイツに渡り、更にイギリスに移住した、精神分析的対象関係論の大家、マイクル・バリント(ハンガリー読みにすると、姓と名が日本と同じで逆転するので「バーリント・ミハイー」)は、日本ではもっぱら故・土井健郎先生の「甘え」理論を国際的に紹介し、「甘え」理論との類似性で「一次的対象愛」という概念が精神分析系の専門家の間で人口に膾炙しているに留まる。
しかし、バリントの真の集大成、主著というべき著作は、中井久夫先生の、もはや「原著を越えた超訳」とまで呼ばれる邦訳で、知る人ぞ知る、「治療論からみた退行」(原題:"Basic Fault")である。
今、「超訳」と申し上げて置きながら、いきなりこのことに言及するのは気が引けるが、中井先生と縁が深い山中康裕先生が、たしか雑誌「こころの科学」で本書を紹介するにあたって、中井先生が、"Basic Fault"を「基底欠損」と訳し、その訳語が日本で普及してしまったことに対してだけは、敢えて唯一注文をつけておられる。
山中先生曰く、「"fault"というのは地学でいう『断層』のことであり、何かが『欠けて』いるというのとは随分ニュアンスが異なるのではないか」。
・・・・ ごもっともな指摘である。
「基底欠損(Basic Fault)」という概念を一言で説明するのはたいへん難しい。日本ではそれをまるでボーダーライン的心性と同一視するかのような理解がされがちだったように思う。
確かに、バリントは本書の中で、「基底欠損」を、プレ・エディプス期の問題として位置づけてはいる。しかし、その切り込み方が、メラニー・クラインとも、マーラーの分離個体化理論を援用したマスターソン(「青年期境界例の治療」)とも異なる、独自の視点を持っている。
私のみたところ、「基底欠損」の理論は、単なるボーダーライン性よりも幅広い現象を内包しているように思える。控えめにみても共通部分を持った、すっかりとは重なり合わないベン図のような構造になるのではなかろうか?
バリントは、ウィニコットと共に、アンナ・フロイトの創始した「自我心理学」とも、「クライン正統派」とも一定の距離を維持する「独立学派」のひとりと呼ばれる。
確かにウィニコットとの接点はたいへん大きい(それどころかビオンとの接点ですらバリントは本書で明言している!)。そして本書の「仮想敵」は、後述するように明確にメラニー・クラインであり、クラインへの批判に紙数を割きすぎたのが、少なくとも日本人の読者にはまどろっこしいのではないかと、訳者の中井先生ご自身が解説で感想を漏らしておられる。
だが、ウィニコットの諸著作が日本でも熱心に読まれるのに比べると、バリントが本書で展開した独自の理論と治療的示唆に関心を持つ人は少数派であろう。
そうなった最大の原因は、バリントがすでに先行する著作、「スリルと退行」の中で確立していた独自の新造語、オクノフィリアとフィロバティズムという概念が、本書においても、更に発展された形で鍵概念とされていることが一見難解だと感じさせられることが大きいかと思う。
*****
この2つの鍵概念についての概説に入る前に、バリントがなぜクライン理論にあそこまで反発したかという、本書の前半で展開される内容について私なりに概説したい。
クラインやウィニコット、バリントは、神経症より重篤な事例に関連して、フロイト以降に展開され、プレ・エディプス期の早期対象関係を重視した、広い意味での「精神分析的対象関係論」に属することには変わりがない。
広義の「対象関係論」とは、噛み砕いていえば、現実の「外的」他者の態度の摂り入れ(introjection)としてのみ人の自我形成過程をとらえるのではなく、個人内部での、一種の内的ファンタジーとしての「内的な」他者=「内的対象」との関係形成過程を重視する立場である。
こうした観点は、実はフロイト自身もある程度予見し、示唆していたことでもある。そして何よりユングが「内なる他者」としてのアニマ・アニムス・影などとの交流過程を重視した先達なのだが、どうも対象関係論の人たちは、ユングを先達とみなすことは回避する傾向があるようだ。
しかし、クライン正統派の場合、現実世界に存在する「外的対象」としての養育者の持つ意味が明確化されない「独我論」ではないかという批判は早くから生じた。
そこで、ウィニコットは「内なる養育者」との関係と、「外的な他者」との関係を統合的に説明しようといいう方向性を強く打ち出し「錯覚(illusion)」「脱錯覚(disillusion)」という概念を巧妙に媒介とし、幼児の外界との一体化という「錯覚」に巧妙に応える時期から、次第にそれを遅延化させ、「脱錯覚」へと導き、信頼できる他者との成熟した関係性を確立する上での"good enough mothering"=「そこそこいい養育者」、あるいは「環境としての養育者」についての理論、あるいは養育者自身の代理、他者との継続的な関係性の媒介物ともいえる「移行対象」の理論、あるいは、親密な他者と共にいながら、それぞれが自分の世界に没頭できる能力形成が果たす役割を表現するための逆説的概念、「ひとりでいられる能力(ability to be alone)」、そして、ここでは概説しないが、「遊ぶこと(playing)」が治療関係で持つ意味などを次々に考察した。
ウィニコットのこれらの最重要理論のほとんどは、
情緒発達の精神分析理論―自我の芽ばえと母なるもの (現代精神分析双書 第 2期第2巻)
・・・・この2冊だけで掌握可能である。
バリントは、ウィニコットとは別の切り口から、プレ・エディプス段階における「内的対象関係」と「外的な他者との関係性」が果たす役割について統合的に考察しようとしたのである。
このようにして、正統クライン派とも一線を画することをはっきり表明した分析家の一群を、フロイト以降の精神分析の領域で、狭義の「対象関係学派」あるいは「独立学派」と呼ぶ。
*****
さて、前置きが非常に長くなったが、いよいよバリントの中核概念である「フィロバティズム」と「オクノフィリア」について概説しよう。
バリントがクラインを批判する最大の立脚点は、「対象(object)」という概念それ自体にある。クライン理論は、対象関係=他者との関係を、まるで真空の中に浮かんでいる完全に自主独立した二つの固形的「物体」との間の相互作用のようにとらえているのではないか? 「対象(object)という概念それ自体の中に"objection"=「反発性がある」、輪郭が鮮明な「固体」的なものという含意があることにバリントは注目する。
我々は、成熟してから後ですらも、ある意味で「前-対象(pre-object)」的な係わり合いの中にしか生きていないのではないか。ここでいう「前-対象」とは、バリントにおいては、もはや人間以外のすべての諸事象との関わり全般にまで拡張される。
つまり、世界の諸事象と「調和的=相互浸透的渾然体」として融合されたあり方でしか存在していないという側面を背景として、現実の他者との関わりも考えるべきであるというのがバリントの視点である。
そもそも「空気」がなければ人間は窒息することなど、普段は忘れているではないか?
「魚とって、エラの中に存在する水が果たして『環界』なのか、魚の『内部環境』なのかを問うことに何の意味があるのだ?」と。
これは「独立した自我を持つ主体」同士の交流を成熟した対人関係様式としてとらえる、欧米的な個人主義的な自我観を自明の前提としている人たちにとっては、何とも難解でぶっ飛んだ論の進め方に感じられたであろう。欧米で、正確に理解できた精神分析流域の専門家は稀れではなかったと推測できる。
しかし、バリントには、東洋的な色合いも強く残した故国ハンガリーの血への基本的な共感が失われてはいなかったのだろう。
人も万物もすべて同じ地平で眺めるという、非キリスト教的(いや、ユダヤ教やイスラム教にもそうした視点はない)=異教的な感性が脈々と受け継がれていたのであろう。
ところが、数学・物理学・経済学の分野で名高いフォン・ノイマンをはじめとする数々のノーベル賞級科学者、科学哲学者ポランニから、指揮者(ライナー、セル、ショルティ、ドラティ)・作曲家(バルトーク)・音楽家(ブダペスト弦楽四重奏団)まで、非常に優秀な人材を一気に輩出した、第1次世界大戦後の長期にわたる度重なるハンガリー動乱の連続(1918-1956)の下での亡命ハンガリー人の知的階級の多くは、異国のでサバイバルのために、非常にタイトで厳格な方向のにのみ自分の技能を研ぎ澄ますところがあった気がする。クラインもその一人であろう。
バリントがその道を歩まなかったのは、師、フィレンツィが、フロイトの時間厳守、中立性の原則を打ち破り、ついには心労で命を縮めた治療法の潜在的可能性を引き継いで完成させることを生涯の使命としたことが大きいようである。
*****
さて、プレ・エディプス期において問題があった人="Basic Fault"を潜在的に抱えた人は、治療的面接場面が進むと、独特の退行様式を取り始める。
それが「オクノフィリア」と呼ばれる現象である。
オクノフォリアは、対象との全き融合の幻想が維持されることを求める。しかもその際に、対象と自分の間に「空隙」があることを「恐怖」する(「オクノフィリア」というギリシャ語をバリントが創出した背景)。
その結果、対象が、自分の欲求を絶えず気遣い、先回り的に配慮してくれて「あたかも鍵穴に鍵をぴったり合わせてくれるように」対応してくれないと我慢がならないという状態になり、治療者を徹底的に翻弄する。そこにはすでに「通常の成人言語水準でのやりとり」は無力化する。
治療場面のみならず、家族など親密な関係を持つ人物相手に、こうしたオクノフィリア的心性を顕わにする人たちは決して稀れではない。子供が少しでも「気が利かない」と逆上し、子供をいつまでたっても自分を補完する存在としてしか取り扱わない親など典型であろう。こうした親は、実は子供の方に際限なく「甘えて」いる現実に無自覚なままなのである。
*****
ところが、この世には、「世界との完全な調和的一体感」を指向する点ではオクノフィリアと同じだが、全く正反対のアプローチを身につけた一群の人たちがいる。
その人たちは、自らの持てる身体的技能(skill)を極限まで磨き上げ、古代ギリシャ以来「四大元素」と呼ばれたもの、すなわち「地(土)・水・火・風(空気)」をすべて自分の味方につけたかのような錯覚と万能感の中に生きている。
これら4つの対象は、輪郭がはっきりせず、自由に形状を変容させ、対象を「包み込む」ことができるという点に特徴がある。
典型的なのは、飛行機乗りやレーサーを一方の極とするスポーツ選手、演奏家、曲芸師などであろう。
私流に言えば、「キャプテン翼」の「ボールは友だち」の世界である。「自分が」ボールを巧みに操っているのではない。「ボールの方が(そしてそれを包む空気やクラウンドの土の状態が)、まるで自分に『協力してくれている』かのような錯覚の世界にある。
彼らにとっては、世界とは自分にとって「友好的な拡がり(frendly expanses)」として通常は機能してくれる。
一般の人からすると危険でスリリングすぎる活動に身を投じることこそ、彼らの生の充実感、世界との一体感を支えている。中途半端なややこしい「社交的な」関係なんてほんとうはできるだけ回避したいくらいなのだ。
(もっとも、フィロバティックな心性を持つ人の中にもオクノフィリア的心性は存在することをバリントは言い忘れてはいない。安心して深い絆を形成できる人物に「見守って」いてもらえていることが支えとなっていることが多いというのだ)
一芸に秀でたスキルで世を渡っていくという点からすれば、非常に幅広い職種の人が含まれることだろう。アニメーターだって、ある意味ではカウンセラーだってその種の人間であろう。
このような存在のあり方を「フィロバティズム」と呼ぶ。
フィロバティズムを生きる人にも弱みはある。自分のスキルに故障が出た時。心身が燃え尽きた時。あるいは突然の気象の変化や機器の故障が生じた時、彼らは失調するばかりか「事故死」の危険と隣りあわせということにもなるのだ。
自らが死や破滅と隣り合わせの生き方をしていることに、誰よりもフィロバティズムを生きる人たち自身が気がついている。それゆえに、安心してくつろげる、気の置けない対人関係も、限られた人たちとでいいいから大事にしようとするはずだと、私は思う。
*****
さて、バリントが、治療関係において必要なのはどういう関係であるかについて述べた部分を引用して終わりとしたい:
========引用はじめ========
分析の場における沈黙の意味には二つあるだろうということには皆同意していただけると思う。ひとつは恐ろしい空虚という戦慄的な体験をしている場合である。空虚は疑惑に満ち、敵意に満ち、拒絶に満ち、攻撃性に満ちている。前進を阻む沈黙であり、結局不毛に終わる沈黙である。しかしまた、沈黙がおだやかな静かな調和体験の場合もある。平和と信頼と受容という雰囲気である。つまりおだやかな成長の時期、統合の時期でもありうるのだ。分析家にもっとも必要なのは、今向かいあっている沈黙がどちらの型なのかを識別することである。
フィロバティズム的偏向をもつ技法においては、おそらく、解釈をわずかしか用いないだろう。特に退行した患者に対する時はそうなるだろう。分析者はたえず患者を見て、[次の]どちらの態度をとるべきか考えるだろう。すなわち、個別的な対象の役割をとり、退行した患者を安全な距離が見守り、この冷静で客観的な視座からことばで綴った解釈を与えて理解を求めるのがよいのか、あるいは自分も「友好的広がり」の一部と化して、何一つ要求せず、ただ息をしているだけの存在としてあり、患者に欲求が起こればさっそく役に立とうとする構えだけは持ちつづけるのがよいのかを考えるのである。(中略) 最大の危険は、この技法が患者にあまりに多くをゆだね、早すぎる時期に大きすぎる独立性を押しつけることであろう。 (中略)
[もう]ひとつはオクノフォリックな方法であって「患者の手をとって」ゆく方法である。どうしてこの動きをしてあの動きをしなかったのかを一貫性を以て解釈してゆくことである。ここに内在する危機としては、患者が分析家を理想化してこれを寛大で慈愛こもった人物として取り入れるように誘導する恐れがある。こうなると患者の自由が制限されて、理想化された対象が処方し許容してくれる範囲から出られなくなってしまう。
自由とは、私の考えでは「友好的広がり」の再発見のことである。それはフィロバティックな世界の中にあって、成人的なスキルを身に付けることを要求するものであるが、その背後には、何も要求せずに抱きかかえてくれる一次愛の世界が控えている。誤解されると困るので、「友好的広がり」の再発見があらゆる対象を完全にあきらめることを意味するものではないことを言っておかねばならない。
そうではなくて、それはただ、[オクノフォリックな]絶望的なしがみつきをやめて対象から一定の距離を置いて独りで立つ能力すなわちスキルを身につけるだけのことであり、そしてそうすることは対象を「正しい釣り合いにおいて」眺め、「真のパースペクティヴ」の中で対象を獲得するために必要なのである。
新規蒔き直し(new beginning)時期における分析者の役割は、多くの点で一次物質あるいは一次対象の役割に似ている。分析者は存在していなければならない。分析者は高度に可塑的でなければならない。あまり抵抗してはならない。破壊不能性を示さねばならない。これは確かなことだ。また一種の相互滲透的調和渾然体の中で分析者と共に生きることを患者に許容しなければならない。(中略) おおよそ、友好的物質という、一点の曇りない調和体だけがあり、その中から対象が成立する以前の体験である。
[退行の]良性形では、患者はさほど外的行動[を治療者に「してもらう」こと]による満足を求めず、それよりも外的世界を活用して自己の内面の問題に前途の途がひらけること、私の患者のことばを借りれば”自分自身に到達できるようになること”をそっと認めていてほしいと希う。(中略)
認識されるための退行(中略)では、あたかも大地や水が己れの体重を安んじてあずける者を支え返してくれるように、患者を受容し支え荷うことを引き受ける周囲の人々のいることが前提である。物質としての治療者は抵抗してはならない。引き受けねばならない。あまり摩擦を起こしてはならない。患者をある期間受容し荷い、自分は潰れないことを示さねばならぬ。境界線を越えないぞとつれなく言い通してはならない。患者と自分との一種の渾然体の発生展開をゆるさねばならない。
以上はすべて、患者に同意し、関与し、巻き込まれることを意味するが、必ずしも具体的働きかけをする意味ではない。ただ理解と寛容だけでよい。ほんとうに大事なのは患者の内面つまりその心の中でさまざまの出来事が生じうる条件を維持し創造することだ。[分析者は患者を積極的に荷おうとはせずに、水が泳ぐ人を支え、大地が歩む人を支える具合に荷い支えるべきであるということ。すなわち患者のために存在し、またそうされることにあまり抵抗を感じないで患者に使用されることである。
我々は立居振舞(behavior)、空気(climate)、雰囲気(atmosphere)などのことばを使うが、これらは皆、漠然としたカスミのかかったような、画然たる境界を欠くものを指すことばで、(中略)にもかかわらず”雰囲気””空気”というものは存在し、感じ取られ、しばしばことばでの表現を要しない。(中略)
”洞察”とは的を得た解釈の結果生まれるものだが、洞察が生まれるにふさわしい対象関係が創出されたならば、その結果は一種の”感じ(feeling)”である。
”洞察(insight)”が視覚と対応するとすれば”感じ(feeling)”は触覚と対応する。すなわち一次関係かさもなくばオクノフィリアである。
ある一種類の対象関係に硬直的に固執すべきではなく、いつでも患者とともにオクノフィリア的とフィロバティズム的の両原始世界を往復する心構えが必要であり、時には両世界の彼方の一次関係まで行く心構えがなければならない。(中略)
解釈は、分析者が「患者は確かに解釈を求めている」と確信できる時に限り与えるべきものである。こういう時に解釈を与えないことを不当な要求あるいは刺激と感じるだろうからである。(中略)
仮に分析者が以上の条件の大部分を留保ぬきで誠実に満たすことができれば、ここに新しい関係が生まれ、それによって、患者は、自己の精神構造の欠損あるいは瘢痕形成の原因となったそもそもの欠陥と喪失の悔みと悼みをある形で体験できるようになる。その悼みは、現実に愛する人の喪失や、内的対象への打撃あるいはその破壊という、メランコリー[抑うつポジション]特有の事態が原因で生じる悼みとは全然別物である。
私がいま頭に抱いている悔み悼みとは、自分自身の中に欠陥・欠損があるという動かしえない事実に対する悔みであり悼みである。(原注:この悼みは、元来基底欠損に対する過剰代償として生じたらしいナルシシズム的自己像を断念すること[こういちろう注:世界との、他者との全き調和の断念。自己のスキルに対する万能感の断念…とも読解できよう]と関連した悼みである。(中略)
分析者がこの悼みのための時間を焦らずに十分長くとり、またその間、必須の原初的雰囲気を寛容と干渉的でない解釈によって維持できるならば、患者と分析者の共同作業の仕方は以前とは少しずつ変わってくる。それは、まるで、患者が対象との関係における自己の位置付けを進んでやり直し、自己の周囲の、魅力を欠き冷淡なことの少なくない世界を受容できないかと考え直そうとし、またその力が出てきた気がしはじめたことを思わせるような変化である。
========引用おわり========
私が延々と連載記事を組み、私のサイトが一気にうつサイト化するきっかけとなった、画期的な番組、「NHKスペシャル うつ病治療 常識が変わる」の書籍化についてはすでに速報しましたが、読了しました!!(よって、タイトルから「中間報告」の文字を削除しました。実は・・・以下の本文は全く変更していません)
↑帯にリキ入ってるのでご紹介。看板に偽りなし!!
>恐らく番組では描き切れていなかったことまで書かれているしょうから、もう、期待大というしかなく、
と、この前の記事で書きましたが、実際、番組で描き切れなかった部分の大幅増補となり、密度が3倍に上がったといいたくなるくらいで、私の想像をかなり超えた仕上がりだと、もう断言していいです(番組の感想を「ここまで」書いちゃった人間が言うことです)。
この本と同クラスに私が評価するのは、私が読んだ範囲(このブログで一言も言及していない類書にもかなり目を通していますよ)では、以前も連載で(未完のままですみません!!)ご紹介した、内海健氏の「うつ病新時代―双極2型障害という病 (精神科医からのメッセージ)」ただひとつかもしれません。
しかも、このNHK番組の著作化(というより、ここまでくると、番組をきっかけにした拡大取材満載のはず)は、マスコミによる取材・ルポとして、たいへんな密度と多角性を持ち、つっこみが凄いところと、一般の方向けの読みやすさが両立しているので、現代日本のうつ治療の現実(「光」と「影」の両方)については、もう、この一冊さえお勧めすればいい域でしょう。
番組をご覧になった方でも、改めてお読みになる価値が余りあると思いますよ。
更には、もはや単にうつの問題を越え、精神医療とカウンセリング界の間の国家資格化をめぐってのぎくしゃくした現実にも、率直に切り込んでいる。
日本心理臨床学会の現理事長、鶴久代先生へのインタビューも掲載されていますよ(pp.169-70)。
ともかく、膨大で多方面な取材と、現状までの道のりをここまで生々しく掲載することに同意された(元)患者の皆様に感謝するしかございません。
*****
本書の内容については、すでに番組で描かれていた中身に関しては、先述の、
●特別連載:NHKスペシャル 「うつ病治療 常識が変わる」への感想
(当サイト版より練り上げられ、巻物のように読むことも可能にした、開業サイト版にリンクします)と重複する部分は敢えて繰り返さないことといたします。
この連載で、私がこの番組に敢えてつけた注文や疑問は、少なくとも95%はかなえられてしまっているようです。
*****
それでも、いくつか、番組でははっきり描かれなかった内容を、私がすでに読んだ部分からご紹介しますね:
欝に対するカウンセリングのありがちな現状への医療サイドからの懸念は、重篤な症状に対する、医療との連携の必要性について的確な判断(アセスメント)ができないカウンセラーが、病院に繋がるのを遅らせ、症状を悪化させる場合がまだまだ多いといとみなされていることにあるようである(pp.167-71)。
その一方、取材されたお医者様自身が、ほんとうは患者さんの話をじっくり聴かないとならないことを身に染みて感じておられることも述べられている。
そして、それを不可能にしている原因にほとつは、5分面談しても、30分以上面談しても、保険適用の上ではわずか100円分しか差がでない制度上の問題とのこと。
これで、多くの患者さんが押し寄せ、医師不足の現実もあるとなれば、お医者さんの面接時間は必然的に短くなるしかないわけですね。
******
イギリスにおける認知行動療法の「国家資格化」に至るまでの政治的な道筋や(いい意味での)経済効果もかなり詳しく紹介されています(p.149以降)。
ただ、しつこいけど(^^;)繰り返します。
私はこの記事やこの記事でお書きしてきたように、認知行動療法的アプローチを自分の道具箱に積極的に取り入れようという立場です。
それは単なる「折衷」ではなくて、「多面的な統合」指向であり、それは本来のフォーカシング「指向心理療法」の目指すところのもであるばかりか、広い意味でのパーソン・センタード・アプローチそのものの中に、そうした多面的なアプローチを統合的に用いる流れが形成させつつあることは、今年の人間性心理学会第28回大会における、イギリスのミック・クーパー博士の講演に関連してご紹介しました。
流派や技法の優劣を一般論として論じるのは、結局のところ無意味であり、個々のカウンセラーの技量、そしてそれを支える教育・継続研修システムのあり方の実質的クオリティがすべてだと思いますし。
そして、医療とカウンセリング業界は「相互連携」すべきなのであり、それについての制度改革も重要な課題ですが・・・・はっきりいいます。草の根レヴェルからなら、いくらでも糸口があるのです。
そして、お医者様と、お互いの敬意を払いあえる関係を築けるところまで、臨床心理士自身も「実力をつけて」行くべく、研鑽を積み続けるしかありません。
私は、臨床心理士も、薬物療法についてかなり高度な最新の知識が必要だと確信します。もちろん診断と「処方権」はお医者様のものですが、お医者様方にも、臨床心理士に対して、薬物療法についての的確な認識を持てる教育研修に、狭い意味での「病院心理臨床」以外の領域で勤務する臨床心理士に対しても、更に積極的に関与していただければと思っています。
中途半端でないところまで、仕込んでくださればいいのですよ。
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しかし、どうも何かというと「日本心理臨床学会」を「仮想敵」にして息を巻いておられる、認知行動療法系のサイト(この件での、ご自身の「自動思考」に気づいてくださいませ・・・・)が複数あるようですので、敢えてお書きします。
私はむしろそうリサーチがすでになされていなければおかしいと思っているし、実際にあれば、英文であろうと何であろうと、目を通して検証したいと思っています(^^) ・・・・ホント、誰か情報源、ありませんか?
*****
また、お医者様やカウンセラー等、専門職の皆様が、単なる受容と傾聴だけでは行き詰る・・・・とお感じでしたら、この前ご紹介した、インタラクティブ・フォーカシングを、密度が濃い形で、ご自身で体験され、スキルとして身につけられることをお勧めする次第です(滅多に自分の流派の「積極的宣伝」は書かない私ですが)。
実は最近の私は、「天地人」をたいてい予約録画で観る以外、テレビ番組を殆ど全く観ない生活を送っている。ところが昨晩、事前の予告とかをまるで知らないままに、このNHKスペシャルに遭遇できた。
番組がはじまった段階で、映画「ビューティフル・マインド」を観ていた私は「ひょっとして在世中のナッシュへのインタビュー出てくるのでは?」と期待したが、その期待はかなえられた。
「リーマン予想」とは、数学上の最大の未解決の難問のひとつとされる。wikipediaの記述だけでは、私を含めた数学の素人には何がなんだか?になっちゃうけど、ひとことでいえば、素数(割り切れない数)の配列というのには、一見全然規則性がないんだけど(1,2,3,5,7,11,13,17,19,23,29,31,37,41,43,47,53,59,61,67,71,73.....でよかったかな?)、そこに一定の法則がある可能性について、19世紀半ばに、ドイツの数学者、ベルンハルト・リーマンが立てた予測とのこと。
このリーマン予想については、イギリスのハーディとリトルウッドのコンビをはじめとする当代髄一クラスの数学者が長年たいへんな情熱を注いで証明に取り組んだけど、この2人に関しても、結局部分的な傍証に当たる証明しかできないまま、最後にはリーマン予想そのものが間違っている可能性まで示唆するところまで諦めてしまった。
その次にリーマン予想の証明に多大な情熱を注ぎ込んだのが、プリンストン大学で、すでに「非協力ゲーム理論」をはじめとする分野で多大な功績があった、ナッシュである。
しかし、彼がこの難問と格闘し、リーマン予想についての講演会を開いた時のナッシュの姿は、ラッセル・クロウがナッシュ役を演じた上述の映画でも描かれたとおり、以前とは異なる惨憺たる様子だった。
この段階で、すでに統合失調症の本格的発症の兆しがあったのである。ただし、映画でも描かれたとおり、実はそれ以前からも、多くの人には気づかれないし、本人にも自覚できない形で火種はあったので、リーマン予想についての研究への没頭し過ぎが「原因」であるとまでは誤解しないで欲しい。単なるストレスだけでは統合失調症に至ることはありません。
仮にストレス要因が「トリガー(引き金)」になる可能性を認めるとしても、番組では紹介されていませんでしたが、アマゾンの書評欄によれば、ナッシュはこの時妻との間に子供ができるというタイミングでもあったようです。
ここからは私の推測なんですが、実はこうした一見さりげない、ごく普通の事柄の方が、統合失調症の人の発病トリガーとして意外と大きな意味があることが少なくないことを、私は中井久夫先生の著作で学んできました。
それでも、すでに統合失調症から回復して幸せな余生を送っている(明らかに頭脳にある種の明晰さが十分に回復しているのは表情からも見て取れる)81歳のナッシュが、
「数学的探求というのは、合理的思考を突き詰める側面と、そこから跳躍して、非合理の領域に身と投じることを繰り返す必要があるのです。そのことが自分を追い詰めた側面はあったのかもしれませんね」
といった感慨を漏らしているのは興味深かった。
*****
なお、映画では幻覚として描かれているナッシュの症状は、ほんとうは幻聴だったと、何かの機会に伝え聞いた気がする。恐らくそれは、映画の原作である、以下の本に書いてあることなのだろう:
ビューティフル・マインド 天才数学者の絶望と奇跡(邦訳すでに絶版)
この本、訳に相当問題があるとのことなので、原書も紹介します。
A Beautiful Mind: The Life of Mathematical Genius and Nobel Laureate John Nash
なお、映画「ビューティフル・マインド」については、自殺学の権威である、精神科医の高橋祥友先生がお書きの、「シネマ処方箋」という本でも1つの章を割いて言及されています。
*****
なお、「幻覚とはあそこまで鮮明に見えるものなのか?」という疑問をお感じの方は、一般の方ばかりではなくて実際の患者さんにもあるようですが、ああやって幻覚と日常的に対話するという次元まで行くと確かにフィクションめいてくるかと思いますが、患者さんによっては、幻覚とは、多くの方がイメージするような、「ぼんやり浮かんで見える」なとという次元ではなく、まさに「3D実体」としてくっきりと生々しく「そこにある」ように感じられる例も少なくないことを、私は過去の臨床体験の中で、何人かの方からうかがって来ました。
*****
ナッシュの件ばかりではなく、多くの数学者が証明に失敗し続ける中、リーマン予想に関わることは、数学界で次第に回避される時期に入ったという。
しかし、それでもリーマン予想の証明に情熱を注ぎ続け、2回の失敗にもめげずに、70代になった今も挑戦し続けているのが、フランスのルイ・ド・ブランジュである。
彼は、リーマン予想が、単に数学上の問題だけではなく、様々な科学法則の解明に役立つと確信していたが、時代はいつの間にか彼に追いつき、ある数学者と物理学者の茶話会でのさりげない対話をきっかけとして、学際的な形で、「リーマン予想」を、現在最大の学問的テーマとして掲げる国際的な取り組みが大がかりに始まっているという。
ところが、そうした国際学会とは距離を置き、孤高を保ったまま、ド・ブランジュは、ついに3度目のチャレンジとなる論文を完成させるまでを、このドキュメンタリーでは追っている。
論文を封筒に入れて、家を出て鼻歌を歌いながら歩き出した彼は、それでもなお言葉にする。
「仮に今回の証明がまた失敗に終わっても、私は諦めない。再挑戦し続けるよ」
そして、番組の最後のテロップでは流されるのだ。
「数学的証明が認められるまでには、論文発表から2年間、世界中の数学者からの厳しい検証に耐えられるものとならねばならない」
*****
この番組では、インターネット界の暗号化証明書の分野で名高い、VeriSign社の一番厳重な管理をくぐった金庫の下にある「宝物」が、スーパーコンピューターを駆使して見出された、物凄い桁数の素数のデータベースであることも紹介され、クレジットカードの電子決済など、私たちの身近なところで素数が大きな意味を持つことも紹介している。
その一方では、学者たちの中に、リーマンの予測の証明が、宇宙法則全体を説明する「万物の理論」の成立につながることへの壮大な期待もあることが語られている。
古くはギリシャの哲学者に始まり、ニュートン(彼も統合失調症だった可能性が高いことを中井久夫氏と飯田真氏は「天才の精神病理」の中で述べている)、多くの数学者や物理学者が、この「万物の理論」を求めての魔性の探求にエネルギーを注ぎ込む生涯を送った。
しかし、この番組を観ていて、数学の門外漢である私(難しい理屈は可能な限り噛み砕いて、3D画像を駆使して直感的に何となくわかるような番組になっています)にとっても、学問を極めようとする挑戦者たちの、何度失敗しようと、夢と情熱を失わず、しつこいまでに粘り強く、同時に自由奔放ですらある人間くさい生き様に触れる機会となり、また、専門が違う意外な人との偶然の出会いが学問の大展開のきかっけになることへの感慨等、不思議と「元気がもらえる」後味を残したのである。
本来なら、自分に課した書評の宿題が現在4冊もたまっているんだけど、先週週末から次から次へと、普段のカウンセリング業務以外のイベントが立て続き、更に今もうひとつ、今後の仕事上で急展開を起こしかねない事柄への対応に追われ出したので、今回は完全に息抜き記事と思ってお読みください(^^;)
*****
これは東京の友だちから入手した情報。
最近のayu出演のCMっていうとパナソニックのデジカメ、"lumix"と、ウイダーinゼリーが一般には印象深いと思うけど(他にもいくつかあるみたいですね)、友人が電車のドアのシール広告で発見したのが、イギリスの化粧品メーカー"RIMMEL LONDON"のアイシャドウのイメージキャラになっていたということ。
↑壁紙もRIMMELサイトでダウンロードできます。
ayuといえば、アイライナーとアイシャドウ、そしてつけまつげとマスカラを巧妙に使って、はじめてあの印象深い目の表情を作り上げているわけで(参考サイト:「アイメイクのやり方と方法」)、すっぴんのayuさんは、結構童顔の、意外とほっそりした目の持ち主であることは、本人が様々なDVDのメイキング等で敢えてすっぴんをさらしているので、ファンには知られているかと思います。
プロモーションビデオでは、
"SURRAL"ではそうしたすっぴんに近い目の表情がよくわかります(↓)
↑これ、ayuが若かったからだけではなくて、今でもすっぴんだと、こんな感じのままみたいですね。
*****
"RIMMEL LONDON"というブランドは、あくまでもお手ごろ価格路線なので、若い人たち向けにayuを起用したのも、なるほどと頷けます。パレットタイプで実売1,600円代、単色で630円ぐらい。
・・・・・というわけで、以下は、恒例の、アフィリエイト特集だったりする(^^)
キキは突然飛べなくなった。
最大の引き金は、依頼人のおばあさんがせっかく孫娘のために心を込めて焼いた包み焼き・・・しかもその完成のためにキキも古い薪オーブンを稼動させるお手伝いをしている・・・を、突然の雨にずぶ濡れになりながら届けた先の孫娘の反応、
「だから、いらないって言ったよ。あたし、このパイ嫌いなの」
との言葉と共に扉が冷たく閉ざされたことだった。
キキは下宿先のオソノさんの心配りもあって一度は立ち直る。しかし、せっかく初デートに出かけたトンボの友達に「あの孫娘」が含まれていると気がついた時、突如豹変して家にひとりで帰ってしまう。
「ジジ、私、どうかしてる? 素直で明るいキキはどこかに行っちゃったみたい」
ところが、ジジはただの普通のネコのようニャーと応えるのみ。ジジはすでに恋人のメス猫ができてから、関心がそちらに向かい始めて以来、「普通のネコ化」が徐々に進行していたようだが。
しかし、ジジの言葉が解せさなくなったことに気がついた瞬間、キキは嫌な予感に襲われ、箒(ほうき)にまたがってみる。
魔法の力が、ほんとうに弱くなっている。
それでも飛ぼうと繰り返し試みるうちに、旅立ちの際に母から譲り受けた箒そのものが折れてしまう。
こうして、キキは完全に、故郷との「つながり」の証し、(人語を解するジジと母の箒)、すなわち、精神分析的対象関係論のウィニコットが言う「移行対象」を喪失する。
ウィニコット/遊ぶことと現実 (現代精神分析双書 第 2期第4巻)
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生まれ故郷から大都会に舞い降りた段階から、何か人との間に、独特のよそよそしい「隙間」を感じることが時たまあることに当惑し続けていたキキの慢性的なストレスは、ついに限界に達したのだ。
キキの生まれ育った故郷とは、我々の少なからぬ部分が、遥か彼方の幼児期に体験していた、世界との幸福な一体感、まさに「やさしさに包まれた」頃の体験世界の理想化された象徴である。
(・・・・それにしても、宮崎駿さんの、キキのくるくる変わる感情の移り変わりを画面上だけで表現し切れてしまう力は、今観直しても、とてつもない域ですね)
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キキに救いの手を差し伸べてくれたのは、すでに偶然の縁があった、夏の間は森に住む、絵描きのウルスラだった。
ウルスラは、前にキキに会った時の印象に触発されて、一枚の絵を描きつつあった。しかしキキに当たる少女の顔の部分の表情がどうしても決まらないで、その絵をやめてしまおうかとすら思い悩んでいた。キキ自身をモデルに写生することから立て直しを図りたくてしかたなくて、なかなか再来しないキキに会いに行ったというのがほんとうのところだろう。
ウルスラはキキを写生しながら思わず口にする:
「あんたの顔いいよ。この前よりずっといい顔してる」
落ち込んでいたキキは、恐らくこの言葉に内心きょとんとしたことだろう。
「魔法も絵も似てるんだね。私もよく描けなくなる」
寝る前の語らいの中で、ウルスラは口にする。
「そういう時、どうするの? ・・・・私、前は何も考えなくても飛べたの。でも、今はどうやって飛べたのかわからなくなっちゃった」
と、思わず尋ねるキキ。
「そういう時にはじたばたするしかないよ。画いて画いて画きまくる」
「それでもうまく行かなかったら?」
「画くのを止(や)める。散歩をしたり、景色を観たり、昼寝をしたり、何もしない。・・・・そのうちに、急に画きたくなるんだよ」
「なるかしら?」
「なるさ。・・・・私も絵を画くのが面白くって仕方がなくて始めたんだけど、ある時、画いた絵が気に入らなくなった。誰かの真似に過ぎないって気がついたんだよ。どこかで見たことあるってね。自分の絵を描かなくっちゃ!ってね。・・・・でも、その後、少し前より、絵を描くってこと、わかったみたい」
・・・・このウルスラのセリフ全体が、宮崎さんの経験談それ自体であり、肉声そのものであることはつとに知られているだろう。
「魔法って、呪文を唱えるんじゃないんだね」
「うん、血で飛ぶんだって」
「魔女の血、絵描きの血、パン職人の血、神様かだれかが与えてくれたんだよね・・・・おかげで苦労もするけどさ」
ウルスラが、夏場は森の中でひとりで生活し、冬場は都会ではなくても、すでに開拓された田園地帯か何かで生活するという、森と平地との間の「辺境人」的性質を持つ存在であることは興味深い。
精神科医の中井久夫先生が、壮年期の二大名著、姉妹作というべき「分裂病と人類」と「治療文化論―精神医学的再構築の試み」
で強調するところによれば、洋の東西を問わず、古来、森の中とは人間界から切り離された「異界」であり、森の中に独居する、「薬草を栽培する老婆の文化」は、地域共同体の辺縁に置かれつつも、地域治療文化の大事な一部として暗々裏に統合されていた。
それがいわゆる「魔女狩り」の対象とされるのは、実は中世のことではなく、宗教改革以降の近世初頭以降の出来事であることは、実は誤解されがちなことである。
ところが、ヨーロッパにおいて、多くの宗教者や社会改革家(急進的な「世直し」をしようとする人たち)、そして近代の「力動的」精神医学の基礎を築いた大家たちの故郷は、非常に多くの場合、こうした「すでに切り開かれた平地」と「森」の辺縁地域の出身者が多いことを中井先生は指摘する。
フロイトの出身地然(しか)り。ユングの出身地然り。精神分析が発展を遂げたヴィーンそのものが森の都に他ならない。
ウルスラが、この物語の中で、図らずも魔女であるキキの癒し手として機能できたのは、ウルスラ自身が、そのような俗世間と森の世界の「境界人」的側面を強く持っていたからではないかと思われる。
これはこじつけでもなんでもないと思う。
宮崎さんだって、思っているはずだ。アニメーターなんて、世間の桧舞台に立つのは実はおかしくて、もっと「ひっそりとした」「地味な」商売だったはずなのに・・・・と。
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さて、この作品に限らず、宮崎作品の飛行シーンは、他の誰も真似ができない域のものであることはよく言われるとおりである。
そのことの最大の秘密は、実は宮崎さんが、飛行を支えているのは空気に他ならないということに徹底的にこだわっているためだと思う。
日本のアニメは、「宇宙戦艦ヤマト」の時代から、宇宙空間を中心に飛行シーンを描くことに特異的に発展したために、この「空気があっての飛行」ということに対する感性がアニメーターの間でほんとうには熟成されないままになりがちだった。
振り返ってみれば、これまで宮崎さんが関与した作品の中で、宇宙空間を舞台にしたものが、果たして一本でもあったろうか???
飛行機乗りは、そうやって「大気を味方につけ」ないと飛行機を操れないことを嫌というほど知っている。
そして、更にはその大気との関係と共に重要なのは、飛行するための道具としての「機体」と操縦者が、自分の体の延長であると感じられるところまで「一体化」できるかどうかである。
この「魔女宅」のクライマックスシーンにおいて、故障し、大破した飛行船にぶら下がったトンボを助けんがためにキキが活用したのは、たまたま通りがかりの清掃夫のおじさんが持っていた、ありきたりのデッキブラシだった。
キキがこのデッキブラシの操縦に手こずったのは、スランプ脱出直後の初飛行のためばかりではなかろう。更に、単に箒の場合とは勝手が違うというだけですらなく、心を込めて魔女が手作りしたハンドメイドではなくて、量産型の既製品だったからに他ならないだろう。
おかげでその「機器」との「対話」が成立しにくいのだ。「人馬一体」にはほど遠い。
「こら! いい子だから言うこと聞いて!」
「まっすぐ飛びなさい! 燃やしちゃうわよ!」
このような、「モノ」に過ぎない筈の対象に身体ごと「潜入(dwell in)」して、試行錯誤の身体的「対話」を重ねて、はじめて高度な習熟スキルとして自在に操れるという点が、単なるマニュアル的な「技術(technique)」と習熟的な「技能(skill)」の違いであることは、ハンガリー出身の科学哲学者、マイケル・ポランニ(ポランニュイ・ミハイー)の「暗黙知の次元」 で詳しく述べられている。
そして、このような、多くの人にとっては身の危険を犯すスリリング過ぎる活動(曲芸や楽器の演奏やスポーツなども含まれよう)に没頭する人たちのことを、ハンガリー出身のイギリスのもうひとりの精神分析の大家、マイケル・バリント(バーリント・ミハイー)は、「フィロバット」と呼んでいる。
(このバリントの2大名著はまたもや再販されない状態に入ったみたいなので、この件については、私の学会発表時の添付資料としての2冊の抜粋がPDFとしてサイトに載せ続けているので、興味のある方はこちらからご覧いただきたい)
「フィロバット」的人物=「フィロバティズム」が優勢な人物においては、はっきりとした輪郭と「固形の」性質を持った、「反発(objection)性」がある、自分からは独立した「対象(object)」との関わりに生きているのではない。
古代ギリシャから言われてきた四大元素、すなわち、「土」「水」「火」「風=空気」という、自由に形状を変え、流動的で、対象を「包み込む」こともできる「前-対象」との友好的(frendly)な関係の中に生きている。
バリント自身の言葉を借りれば、「魚にとっての水のごとき」環界との友好関係を信頼していられないと、自由闊達にそのスリリングな能力を発揮できないのがフィロバットなのだ。
突如別のアニメ・コミックを引き合いに出せば、「キャプテン翼」の名言、「ボールは友だち」の世界である。
観ている人は、サッカー選手がいとも鮮やかにボールを「操って」いるかに見えるかもしれない。しかし、選手の主観は正反対のはずだ。まるでボールの方が自分のために最大限の協力を惜しまないかのようにして自発的に協調してくれているという感覚のはずである。
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ところが、このフィロバディズムを生きる人たちは、自分をつつむ外界との圧倒的な信頼感・一体感に亀裂や隙間が生じると、たいへんな危機を迎える場合がある。
キキが陥った「飛べなくなる」状況は、まさにその典型だろう。あの孫娘が冷たく扉を閉じた瞬間、キキとキキを包む「世界」全体の間に深刻な「壁」と「亀裂」「隙(す)き間」が立ちはだかったのである。
キキはもはや心から自由に「呼吸」することができない状態に陥った(風邪を引いた)。そして、せっかく心が通い合ったかに見えたトンボが、「あの孫娘」とも友達であると知った瞬間、トンボも「向こう側の世界」=「同じ空気を吸ってはいない存在」ではないかという疎外感に一気に引き込まれ、キキは自ら心を閉ざしたのであろう。
(確かにそれはキキのひとつの思い込み・・・いかにも思春期的な・・・に過ぎず、エンディングではこの孫娘と二人が親しく会話しているシーンが挿入されてすらいる! これは単にキキが有名人になったからだけではなくて、その後交流するうちに孫娘の人間の全体像が見えていなかったことにキキも気づいたのではなかろうか)
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不幸にしてそうでない人もいるが、多くの人は、全く天真爛漫に、世界との一体感に浸り、心安らかに浸っていられたかすかな記憶のようなものを抱えて生きている。
そのさりげない記憶の世界でその人を「包んで」いる「やさしさ」とは、必ずしも人からのやさしさではないはすだ。
陽の光、何げない風景の一つ一つ、それどころか室内の家具調度のひとつひとつ、つまり、自分を包む「世界」全体が、自分をやさしく見守ってくれているかのような体験だったのではないかと思う。
(私がそのことをはっきり思い出した時の記録は、先述の学会発表時の論文集の本文の方にエピソードとして記載している。そちらもPDF化してあるので、興味のある方はこちらをご覧いただきたい)。
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さて、「魔女宅」のエンディング・テーマは、ユーミンこと荒井由実(松任谷由実)の初期の名曲、
「やさしさに包まれたなら」である。
こちらからリンクをたどっていただいて、歌詞をもう一度丁寧に読みなおしていただくと、ある事実にお気づきになるかも。
ここに登場する「やさしさ」で包んでくれる存在の「正体」(?)とは、実は恋人ですらなく、生身の人間ですらなく、世界そのものだということ。
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そして、きっと、
> 大人になっても、奇跡は起こる
のである。
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ところで、エンディングをよく観ると、キキの乗っている箒は、掃除夫のおじさんに「必ず返します」と言った筈のデッキブラシのままなのである。
トンボが作りつけてくれた鋳物の看板ですら、デッキブラシ姿ですよね。
これは単に「事件」を解決した象徴だからとか、縁起かつぎ(?)などではなくて、ひょっとしたら、キキ自らが「選択した」行動だとも思えるのですが。
このあたりの意味、考えてみるに値すると私は思えてきました。
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この記事への「あと書き」がこちらにあります。
【追記】:この記事の姉妹作(?)となった、「崖の上のポニョ」論はこちらです。
バリントの「治療論からみた退行」についての総論を、こちらで書きました。
MISSLIM(「魔女宅」で使用されたのと同じ、テンポの速いバージョンが収録)
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