アイルランド

2010/02/08

浜崎あゆみの詞における「僕」と「君」、「わたし」と「あなた」 -サリヴァン的次元で解説してみよう- (第2版)

 浜崎あゆみさんの詞って、驚くぐらいに具体的なシチュエーションが出てこない。

  •  地名・・・ゼロ。それどころか「海」という言葉は出てきても、「山」「川」はひとつもない。
  •  人名・・・中島みゆきなら「♪真理子の部屋に、電話をかけて(「悪女」中島みゆき - 寒水魚 - 悪女 (アルバム・ヴァージョン))」と出てくるくらいの、一般化した次元でもゼロ。
  •  学校時代をイメージさせる表現・・・・ゼロ。唯一の例外が、浜崎あゆみ - A BALLADS - 卒業写真荒井由実の「卒業写真」をカバーしたケースだけであるという、驚くほどの徹底性。
  •  「僕」「君」「あなた」という人称を異様に多用する。「彼」「彼女」も例外的では?

 そして、そもそも「君」「あなた」が誰なのかが非常に曖昧で多義的で、どのようにでも受け取れ、再解釈できる

  • 生身の「濱崎歩」
  • アーティストとしての「浜崎あゆみ」

    (ベスト盤浜崎あゆみ - A BALLADS"A Ballads"の最後に収録された「卒業写真」のカバーそのものが、「街で見かけた」かつての自分のポスター等との対話というシチュエーションで理解してもらうことをayuははっきり狙っていたと思う。アルバムジャケットも、←こんなふうですからね)
  • 聴衆
  • 過去の、そして現在の同性の親友たち。
  • 父親
  • 過去の、そして現在の異性の知り合い(max松浦もそのひとりだけど、それだけ強調するのは明らかに偏った理解。最近はさすがにこのこじつけはいい意味で廃れましたけど)
  • 過去の恋人
  • 現在の恋人
  • 聴衆にとっての大事な人

 ・・・ちょっと年季が入ったayuファンなら、実は今私が箇条書きにした順序くらいでとりあえずいくつも当てはめていくのが無難であることに気がついているかと思う。

 "teddy bear"浜崎あゆみ - Duty - Teddy Bearや"memorial address"浜崎あゆみ - Memorial address - Memorial Addressの「あなた」がもっぱら父親のことを指す、"ever free"浜崎あゆみ - Vogue - Ever Freeは亡くなった祖母のこと・・・などと、特定的に捉えていい・・・といったケースというのはむしろ例外的なのである。

 要するに、ayuの詞というのは、非常に純粋な形で、「外的」および「内的」な「二者関係」に無限に「投影」させ、「転移」させることに開かれ切っている。

 
似たようなことは、他の歌手でもある程度は曲によって見られるが、ayuのように「首尾一貫した厳密な方法論」と言える域の人を、私は知らない。

 ayuは、本当にこの経験則だけで詞を書き続けていられる。裏を返すとayuのような詞を他人が「模作」しても容易にメッキが剥げる筈と断言できるくらいである。

*****

 この現象をうまく説明するのに役立つ、私の守備範囲に入っている精神療法家は、誰をおいてもサリヴァンである。

 私はこのことを公然とネットで書いたことが実はないままなことに、直前の記事でサリヴァンに言及した際に気がついた。

サ リヴァン/現代精神医学の概念(中井久夫訳)

 サリヴァンが、 本書で、「パラタクシス的(parataxic 私なりの意訳をすれば「相互転移的=投影的二者関係の次元」)なもの」と呼ぶ対人的相互作用の次元での象徴化・言語化様式と、まさにぴったり符合するのだ。

=======以下引用(中井久夫訳。太字、および[ ]内はこういちろうによる)=======

 (前略)この合理化とは、実は「個性とは一人一人独自なものである」という妄想の特殊な一側面である。それは、「概念としての『私』と「概念としての『あなた』(conceptual "me" and "you")がそれぞれ特異的な境界線をもっているためにどうしてもそのように考えられてしまうのであるが、実際には、「概念としての『私』や『あなた』とは、個人の知覚の舵取り役をつとめるもののその人の経験の意識可能な範囲を限定する参照枠[frame of reference]となるものに過ぎない(邦訳p.111)。

=======引用終わり=======  

 サリヴァンは凄まじい逆説を述べているので、一見難解だが、ちょっと解説してみよう。

 サリヴァンは、本書の別の箇所で、「我々は、基本的には同じような人間である」という前提が大事ということを述べている。

 これは、一見「個性」というものを否定しているかに見えかねないが、一見精神病状態になるかに見える人間でも、基本的には自分と同じような人間として捉える基盤が大事だということを強調していると受け取れるだろう。

 そして、「個人」という自己完結的システムとして人間を捉えるのではなく、「対人関係的相互作用の場」過程という次元でとらえることを基本スタンスとしていることこそがサリヴァンの本質なのだ。

 この点はジェンドリンも「人格変化の一理論」の削除された草稿部分(TFI日本語サイトで村瀬孝雄訳を閲覧できます)で、サリヴァンとの比較論に紙数を割いて評価している。

 「性格は、対人関係の関数である」

・・・・サリヴァンの、もっとも有名な言葉のひとつである。

 ひとは、自我を持つ存在として他者と関わる限り、「共人間的有効妥当性確認(consensual validation)」ができる形での言語での意思疎通の能力を身につけねばならない。

 この"consensual validation"という概念は、中井先生の「超訳」の典型として著名だけれども、わかりやすく言えば「お互いに話が『通じあう』水準での言語使用になじむ」必要がある、ということ以外の何者でもない。対義語は、端的に、「自閉的(autistic)な言語使用ということになる。

 もとより、人はこの能力の獲得の過程で、「自己態勢(self dynamism)」から「私-では-ない-もの(not-me)」として解離しなければならない有機体的経験の膨大な領域を持つことになる。そのある部分は容易に他者に投影され、ある部分は端的に「否認」されることになるだろう。

 しかしそれはサリヴァン的な見地からすれば、人がその所属する文化に適応(accultualization)していくための必要悪でこそあれ、さまざまな精神的失調・・・・正確に言えば、そのは単に「個人内」の現象ではなくて、「対人的相互作用」における齟齬ということになる・・・・の温床でもある。

 そうした意味で、アイリッシュ系であるサリヴァンは、WASPを中心とする当時のアメリカの価値観がアメリカの青年、特に前思春期の男子の成長に与える悪影響についてむしろ非常に尖鋭な批判者であったことは是非とも述べておかねばならない。

*****

 さて、こうした前提で、「パラタクシス的なもの」自体についてのサリヴァンの言葉を引用しよう:

=======以下引用(中井久夫訳。太字、および[ ]内はこういちろうによる)=======

 パラタクシス的[paretaxic]な対人的関わり方とは、話し手の意識の枠内におさまるような内容規定を持った対人関係と並んで[="para-"=並行して] 、影が形に添うように、もう一個の対人関係が存在し、対人的なかかわり合い方の傾向が前者とは全く異なり、しかも話し手はその存在をまず完全に意識していない場合である。

 パラタクシス的な場においては、精神科医と患者とから成る二人組と並んで、ある特別な『あなた』パターンに迎合するように自己を歪めた精神科医」と「未解決の過去の対人的なかかわり合い追体験しながらそれに対応する特別な『私』パターンを現している患者」とから成る幻の二人組がある。コミュニケーションの過程がこの二つの形影相添うような対人的なかかわり合いの一方から他方へとめまぐるしく飛び移ることもあり、この移動が稀にしか起らないこともあるが、いすれにせよ、普通、話し手の気の配り方は、結構ちゃんとしていて、活用や語法、語順などまちがわないで文法に適った言明を作ることができる。そのため一見首尾一貫した議論の立て方となる。またかなりはっきりと聞き手を意識した語りかけ方となる。(邦訳pp.112-3)

=======引用終わり======= 

・・・・この最後のパラグラフなんて、全くもってayuの歌詞のありかたそのものについて言及していると言えるだろう。

 ayuって、びっくりするくらいに、はるか以前の対人関係のことを意識し続け、ひきずり、繰り返し歌い続けずにいられない人のようだ。

 このあたりの具体的な解析と人物の同定については、王子のきつねさんのブログの随所で繰り広がられてきた情報収集力と慧眼と説得力に私はとてもかなわない。

 念のために申し上げると、いわゆる「成熟した」対人関係を持つ人間同士でも、この「パラタクシス的」次元は容易に顔を出す。ベイトソンのいう「ダブル・バインド」も「パラタクシス的なもの」の特殊な形態のひとつといえる。

 興味深いのは、高機能自閉症の人にとっては、まさにこうやって「影のように寄り添う別次元の対人関係様式」という、いわゆる「健常者」が全く無自覚に撒き散らす「含み」の成分というものを厳密に「理解」「識別」できないとパニックに陥る場合があるということだ(私は発達障害の専門家ではないが、当事者やご家族の話をうかがう限り、いわゆる「アスペルガー」タイプの皆さんの少なからず場合にあてはまりそうだ)。

******

 ちなみに、先程の引用部分で、

>コミュニケーションの過程がこの二つの形影相添うような対人的なかかわり合いの一方から他方へとめまぐるしく飛び移ることもあり、

と述べたが、あゆの場合、同じ歌の内容が同じシチュエーション、同じ相手を指すと強迫的に捉えようとすると意味が全体として通じにくくなるケースが稀ではない。

 これについては、先述のきつねさんが、"(miss)understood"(アルバム名ではなくて曲の方浜崎あゆみ - (miss)understood - (miss)understood)について、見事な分析をしている。

●甘いスイカに砂糖をかける(王子のきつねOnLine)

●Miss Understood Lyrics - 浜崎あゆみ (English and Hiragana)(YouTube)

 私が大好きな歌です。

 ここでいう「君」って、全部ayu自身のことを指すものとして理解しなおしてみるだけで、ぐっと深みが出ますよね(^^)

*****

 もうひとつ、アルバム"(miss)understood"の「心臓」であり、もっとも深みある曲のひとつと私が感じている、"In the Corner"浜崎あゆみ - (miss)understood - In the Corner

●Ayumi Hamasaki - In the corner(YouTube)

 ちなみに、この歌詞を聴いて、ayuのことを「ボーダーチック」だとか"as if personality"だとか言い出すのは、私は心理の学部生までしか許さないから(^^)。

 自分のことを振り返ってみるとどうだろう?

 「まずは罪なき者が石を投げよ」。

 相手への愛情を一瞬たりとも疑ったことがない人がいるとすれば、そういう人のほうが無理のしすぎで心配である(^^)

 ayuは、素直なだけなんだよ。

 あるいは時々、聴衆を意識して、こういうことを敢えて歌にして「予防ワクチン」をファンに打っておかないと、自分も持たないし、ファンも危ういと感じているだけ。

 そういう意味ではほんとに「ファンに気を使っている」からこそ、こんな、ファンを「脱錯覚(disillusion 幻滅)」させる危険がある「暗い曲」をアルバムに入れておく。

 私が聴いた、アルバム発売時のツアーの、少なくとも長野2日めと代々木の楽日という、私が臨席した2つのライブでは歌わなかったけど、最近はライブでも歌っているらしい。

 私なら、ayuをむしろ、若干分裂気質も合質しながらも、高エネルギー型執着気質をベースにした、適応水準の高い双極2型に分類する(・・・・って、それこそ私自身のパラタクシス的「投影」でもあるかもしれないけどね)

浜崎あゆみ/(miss)understood (DVD付)浜崎あゆみ - (miss)understood

(楽天市場の同商品)

*****

 最後に,YouTubeの「公式」動画より。

 敢えて次の初期の曲で、私が最初に提示した「君」の読み替えを徹底的にやってみてください。

●浜崎あゆみ / TO BE(YouTube)浜崎あゆみ - A COMPLETE ~ALL SINGLES~ - TO BE PVはTO BE

浜崎あゆみ/A COMPLETE ~ALL SINGLES~ (DVD付き)浜崎あゆみ - A COMPLETE ~ALL SINGLES~

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2009/09/03

「カウンセラーこういちろうの雑記帳」の主要過去記事を一番簡単に一覧するには

 このブログって、すでに創設4年9ヶ月、過去のエントリー記事総数が、「この」記事で1,914本め、なのに一日あたりの新エントリー、平均1.10本以上を現在も維持、しかも長文が多いという、へヴィー級ブログです。

 おかげで、もはや@ニフティココログが割り振ってくれているサーバー負荷が相当なものになっているせいか、

  • 私の方からトラックバックを送ることがもはや機能しない
  • pingも自動では飛ばせない(その割には随分多くの読者の皆様が、新記事アップ直後においでいただけることを幸いだと感じています)
  • カテゴリーにすべての記事が反映しない(カテゴリーによっては300から400エントリー分表示されようとするわけで)

・・・・・という、新しくおいでいただいた読者泣かせのブログになっていると思います m(_ _;)m

****

 もちろん、バックナンバー全体を表示してくれる、『アーカイヴ』ページ(自身がココログユーザー以外の読者の皆様、お気づきでしたか??? 右フレームの「バックナンバー」という文字そのものをクリックするとたどり着けます)というものも、あるにはあるわけです。

 しかし、このページにお行きになっていただいたとしても、過去の個々のエントリー記事のタイトル一覧があるわけですらない

 このページからの「〇年〇月」を全部めくっていただくだけでも(全く休眠した数ヶ月を除いても、現在50か月分ほどあるわけですね(^^;)。その50ヶ月分、それぞれ月ごとに、毎月30から40エントリーずつはあるわけですから・・・・・

 つまり、私がこのサイトでこれまで書いてきた主要記事がどんなものか、新しい読者の皆さんにおおよその見当をつけていただくには、もうデタラメにご不便をおかけしていることと思います   il||li _| ̄|○ il||li

*****

 この問題を一気に解決し、

  • 新記事の方が上に来る形で、
  • 過去の記事に関しては私がある程度絞り込んでセレクトしたものを、
  • 数百記事ばかり、1ページをスクロールできる形で
  • ブログのような表示の重さがない形で一覧したいただける

そういうページが、実はずっと以前から存在します!!

●阿世賀浩一郎のホームページ/index

 開設1995年12月(つまりWindows95発売直後)開設、日本において、インターネットで個人サイトを作ることが本格的に普及し始めた黎明期から、何と基本的なデザインを変えないまま運営し続けているサイトです。

 かつては、ネットを代表するエヴァ・サイトのひとつ、「エヴァンゲリオン論考」で著名だった時代もありますけど、幸いにして著作化させてもいただきましたので、そのコーナーは全面削除いたしておりますが(「ちーちゃんの部屋」というアニメコーナーがかつて存在したことを覚えておられる方もあると嬉しかったりして ^^;)・・・・

そのトップページから、このブログでの新エントリー記事を書く度ごとに、固定リンクへのリンクを、たいてい速攻の連続作業でお貼りしてもいるのです。

 恐らく、皆様のRSSリーダーに反映するスピードの比ではない「即時性」で「新着情報」が掲載され続けています。

 同一エントリー記事の更新(改版)情報すら、可能な限り早くお伝えしています。

 

そこに並んでいる、当ブログ個別記事へのリンク数は、常時数百あるはずです(古いものから時々、精選のための「ダイエット」をかけますので、一定数以上には増えません)。

 しかし、敢えて今でも、基本的には「素朴なhtml言語の手打ち」に依存し、javaスクリプトすらないに等しいということで、このトップページそのもののバイト数の多さの割には、表示が圧倒的に軽い筈です(このブログのトップページを表示するよりは軽いと思いますよ)

 
当方のアクセス解析によって、「こっちのページで新着情報見つけるほうが手っ取り早い」ことにお気づきの、毎日数名以上の固定ユーザーの方がおられることは掌握しています(感謝!!)。

 しかし、そうした方の占める比率が以前よりもかなり減っているようにも思いましたので、改めてご紹介させていただきました。

 

今後とも、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」をよろしくお願い申し上げます。

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2009/04/22

性懲りもなく、すぐに立ち直ることを繰り返す、「アメリカ人」というものの、光と影を象徴  -『風と共に去りぬ』についての「自我同一性地位」の観点からの考察-

 たとえ何が生じようとスカーレットは立ち直る。

 たとえ何が生じようと、スカーレットはアシュレーと自分との恋という幻想を振り払うことができないままでいた。少なくともアシュレーの夫となった従姉妹メラニーが死んでしまうその時までは。

 スカーレットには、非常に根本的な次元で、アシュレーの抱く心の闇、現世へのペシミズムへの基本的共感性が欠落しているから。(もとより、アシュレーはまだ死んでいない以上、スカーレットがこの煩悩からほんとう目覚めたのかどうかすら定かではない)

 この点からすれば、レッド・バトラーは、そういうスカーレットに巻き込まれたひとりの等身大の男性であるに過ぎない。

 彼ですら、暖かい家庭を夢見た。子煩悩そのもので、結婚後、地域の人と折り合うためなら、柄にもなく会釈を繰り返した。

 かなり久しぶりにBSで全編を通して観た時、レッドの最後の捨て台詞、

「そんなの知ったことか!!」は、

決して冷たいものではないばかりか、むしろスカーレットに残せる、精一杯の屈折した愛の言葉にすら響いた。


 それに比べるとスカーレットは何を考えているのだ?


 「そうだ! タラに帰ろう!」sign02 

1860年代当時、タラはオハラ家にとって、いったい何年前からのふるさとだ???

どんなに長く見積もっても、1世紀前に移民していた(ましてや、タラにたどり着いていた)わけではあるまいに。

.......言いたかないけど、究極的にはネイティヴの住民から搾取した土地でしょうが。


****


 そういう、半ば幻想とごまかしに満ちた、フィクションとしての自らの「ルーツ」へと、スカーレットは、「ご破産で願いましては」とばかりに立ち返っては、周囲を巻き込んで、一から出直し、工場主の妻になっていたかと思えば農園主になりなど、やれることは何でもやって、そのたびごとに立ち直ってしまう。

 それはどこか、青年期のモラトリアムにおける「役割実験」の繰り返しのようだ。ある観点からすると、スカーレットには決してアイデンティティの確立に行き着くことはない。

 なぜなら、自分が周囲を巻き込んでしでかしたことへの根本的な反省と、そうした「業(ごう)」を背負っての再出発の中で、以前と似た螺旋をめぐるようでいて、ある種の深みが増していくというプロセスまでは、彼女に見受けられないからである。

 そしてこれこそ、多くのアメリカ人が背負い込んでいる、「歴史を反省する能力」が基本的な欠落したまま、「性懲りもなく同じ過ちを繰り返す」傾向のまさに典型的・象徴的な表現なのだ。

 その意味で、この映画ほどにアメリカ人を感動させる映画はあり得ず、同時にアメリカ映画というもののいやらしさをこれほど完璧に描き切ったと感じさせられる形で立ちはだかる、我々にとっての「大きな壁」というべき"The Movie"である。


*****


 しかし、アイデンティティ論のエリクソン自らが明言している。

 アイデンティティを、青年が社会に出立してさほど立たないうちに一度確立されれば生涯を保障してくれる「達成」のように誤解してもらっては困る....と。

エリクソン/幼児期と社会 1 (1)

エリクソン/幼児期と社会 2 (2)

 ある観点からすれば、人は、いったん確立されたかにみえるアイデンティティに安住できないまま、再び「役割実験」に踏み出す一生を、生涯の間に何回か繰り返す。

 戦争や経済、産業、科学の進歩の伴う社会変動、天災・事故、別れ、年齢や体力の衰え、子供の巣立ちなどの中で、人はそれまでの自分のやり方が通用しなくなるのを感じ、新たな「危機」に直面し、リスクを背負ったチャレンジをはじめる。

 その意味からすれば、スカーレットの生き方は、我々の、等身大の写し身であり続けるだろう。

 心理=社会的アイデンティティの確立そのものが、そうやって、生涯にわたって少しずつ更新されていくしかない、状況との相互作用としての「体験過程」のステップなのである。それこそがエリクソンのいう意味での、心理=社会的「ライフサイクル」ということになる。

 恐らく、我が師、村瀬孝雄の生涯の最後の数年が、エリクソンとフォーカシングの両方にささげられたことの核心は、師が、両者のこの「接点」に深く気付いていたからこそだろう。

エリクソン(著)、村瀬孝雄・近藤邦夫(訳)/ライフサイクル、その完結

●風と共に去りぬ(1939) - goo 映画


*****


 現代日本の行き詰まりは、そうした個人や社会の更新過程の必要な危機に際して、むしろ、「モラトリアム」→「アイデンティティの確立」→「モラトリアム」→・・・・・というらせん状のバリエーションとして前に進めるプロセスが停滞し、横道に入り込んで袋小路に行き着き、固着(fixed)しやすいという点で、他の多くの国や地域以上に危機的な状況にあることかもしれない。


 では、その横道の袋小路の具体とは?

 実は、それを更に明快に2タイプに分類した、研究者には知れ渡っている業績がすでにある。

 Marcia,1966は、自我同一性の問題への対処の仕方を4つに類型化し、「自我同一性地位(Ego Identity Status)」と名づけた(図表参照)。

 (詳しくは、波戸香織「青年期の自我同一性の達成に関する研究動向 -現代日本における同一性形成要因を探る-」学校教育 A00-1835 参照)

 現代日本とは、この4つの同一性地位の中の残り2つ、すなわち、

「同一性拡散」(Identity Diffusion)と、「早期完了」(Foreclosure)の間を、青年期以降はひたすら悪循環的に性懲りもなく往復するだけの、成熟を知らぬ時代である。

 何しろその「同一性拡散」と「早期完了」の往復しかできない、今の日本の典型的人物が、(直系ではないが)二世議員でもある、我が郷土、福岡と縁が深い、現「総理大臣」なんだから、あまりも象徴的ではないか!!

「同一性拡散」から、あるいは「早期完了」から、再び「モラトリアム」的役割実験のステージに立ちなおすという、細くて曲がりくねった獣道のような隘(あい)路(ボトルネック、難関)を潜り抜ける勇者が(世代や年齢に関係なく)少なからんことを!!

そして、「早期完了」に過ぎない人たちが、まるでアイデンティティを確立した大人であるかのように振舞い続けることを打ち砕くだけの、社会の柔軟性という土壌と、神のご加護がありますことを!!


****

 なお、「同一性拡散」と「早期完了」という、この2つの概念のうち、今日、この中の"Foreclosure"の定訳扱いをされている「早期完了」とは、先述の、恩師村瀬孝雄の案出した訳語である。

 そこにジェンドリンの体験過程理論において”incomplete"を「未完了」と訳さずにいられなかった村瀬の中で、こだまのように響きあっていた言語連想があると想像することは、決してこじつけとはいえまい。

 {見かけ上「完成されて(complete)」いるが、実は、内的葛藤のworking throughを経ずして先行世代の規範を取り入れただけで、実は真の心理=社会的相互作用の過程を経ての自己確立ではない}体験過程の状況との相互作用が真に推進しないままでincompleteにとどまっているのが、まさに"Foreclosure"だからである。


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2008/01/17

自分探しと恋人探し

 もう一本追加です(^^)

 どうして、対人恐怖のかたまりで、自分は一生女性とセックス(セルクス)なんてできないと感じていた私が、そこそこ女性との無理のない距離感作りに、ある水準の自信を持つまでに到ったのかなあ?

 (忘れないでね。私は、モチ、プレーボーイとは程遠い。恐らく、男女関係に積極的で、同時に冷静に経験値を積んでもいる、普通の高校生や大学生の水準に追いついたに過ぎないことを書いてるだけと思う。.....と、少し謙遜

 これ、あるクライエントさんと話していて、自然に思い浮かんだことなんだけど。


 私は、少なくとも当面、自分が社会人として進む道を、深い次元で納得しながら受け入れられる。

 大学教授になるのは、私の予定では、55歳ごろ。
 しかも、どこかからお呼びがあった時です(爆)

 それはあくまでも、

研究費と老後の生計の基盤が欲しいのと、
サバティカル世界鉄道旅行したいのと(カナダ横断鉄道が、アメリカ大陸横断鉄道が、オーストラリア横断鉄道が、シベリア鉄道が、TGVが、オリエント急行が、私を呼んでいる......爆)、

その頃になったら、
日本の心理臨床学の大学における学問的発展と、大学における研究者・臨床実践家の養成に関与することから逃げない責務があると思うから。  


*****


 でも、若い人の恋愛って、そういう心理=社会的なアイデンティティの形成課題と、伴侶の獲得っていう、二兎を追う時期って、遅かれ早かれ、どうしてもあるではないですか!!

 たいへんだよね!!


*****


 私は、その苦悩は感じないまま、結婚暦、育児暦まで経験させていただきました。

(今にして思えば、「キヨブタ」=「清水の舞台から飛び降りる」そのものだったな。恋愛結婚だったし)

 そういう意味では、いわゆる「自我同一性尺度」でいう、「早期完了型」のバリエーションそのもの。

 .....ま、多くの大学のセンセ、多かれ少なかれそうだけどね(^^)


*****


 更に、もうひとつ『贈る言葉』。


   経験を重ねることより、ひとつひとつの経験を消化していくこと。

2007/11/20

アメリカの作曲家、サミュエル・バーバーのこと(第2版)

 バーバー(Barber)と言っても理髪店ではない。1910年から1981年まで生きた、アメリカの作曲家である。

 日本では、本来、3楽章からなるエマーソン弦楽四重奏団 - Ives & Barber: String Quartets - Adagio for Strings, Op. 11: II. Molto adagio「弦楽四重奏曲」の第2楽章として書かれたものを、オーケストラの弦楽用に自身が編曲した「弦楽のためのアダージョ」のみが突出して知られている。

 この、「バーバーのアダージョ」は、映画「プラトーン」(オリバー・ストーン監督)で使われたことによって、クラシックファンのみならず、多くの人にポピュラーなものになった。そしてクラシックの名曲集的なCDの定番収録曲になった。

 しかし、アメリカ以外では、この作曲家に注目する人が少なく、日本でも入手が容易なナクソスレーベルにまとまった「管弦楽曲集(交響曲・協奏曲なども含む)があるのを除くと、Amazonですら、入手可能なCDはかなり限定される。まして、バーバーのみで一枚まとめたCDとなるとほんの限られた範囲でしか入手できない。

 そうした中で、Amazonですら手に入らないバーバーのCDを、私は数年前、フォーカシング国際会議でカナダに行った時に、帰り道のトロント・ピアソン空港の売店で衝動買いしていた。

Bestofbarber"The Best of Barber"(米Terac CD80632 HMW Japan一般価格¥1,565)

 このアルバムは、たいへん選曲が優れている。

 弦楽合奏版の「弦楽のためのアダージョ」を冒頭に置く。

 そして、クラシック通には知られている、特に第2主題から経過句にかけてのからみつくようなチャーミングさが親しみやすい、Detroit Symphony Orchestra & Neeme J?rvi - Barber: Symphonies Nos. 1 and 2, The School for Scandal Overture & Adagio for Strings - The School for Scandal, Op. 5: Overture演奏会用序曲「悪口学校」。アイルランド出身のリチャード・ブリンズリー・シェリダンの喜劇に基づく。

 原題は("The School for Schandal"なので、「スキャンダルの学校」の方がいいかも? 

 イギリスでは、シェイクスピアに次いで上演回数の多い著名な喜劇とのことで、内容のクオリティは大変に高い、上流社会の風刺劇のようだ。これ以上戯曲についての解説は読めないままでの推測だけど、曲想は決して皮肉や辛らつなウィットやあてこすりを連想させるものではない。むしろ「反骨の恋のスキャンダル」みたいな空気を何となく感じる。

 松田 弘子さんによる上演日記をつづったサイトで、ティーズル令夫人という16歳の少女の役について「松浦亜弥みたいな声で」と、演出家から指示が出たとある。

 「そうあの方(老婦人)、お酢と水割の牛乳だけで生きてるんですのよ、馬に引っ張らせてコルセットの紐をおしめになって。こないだ、その馬が暴れて止まらなくなっちゃって、ハイド・パークまで引きずられてあやうく胴がちぎれて死にかけるところだったんですって」(わたなべなおこ版戯曲による)。

 この曲の固有の美しいメロディーにはこの少女のイメージが重ねられているのか??? もっとも原作の岩波文庫版(再販未定)があるので、シェイクスピアは好きな私も、今度そっちも読んでみようかと思う。いずれこの件は補足したい。

 さて、さっきのCDの紹介の続き。

 このCDでは、更に、かなり著名なバイオリン協奏曲ピアノ協奏曲の特定の章、オーケストラつき歌曲を経て、「アダージョ」にラテン語のミサ曲の詞をつけたHarry Christophers & The Sixteen - Barber: Agnus Dei - An American Collection - Agnus Dei合唱曲「アニュス・デイ(神の子羊)」という、珍しい曲で終わる。

 CDの構成は実に優れており、バーバーの全体像のコンパクトな入門の一枚として、これ以上のCDはないだろう。演奏者も、スラットキン/セントルイス響をはじめとして一流で、録音もテラークらしい、潤いに満ちた生々しさがある。

******

 一方、Samuel BarberiTunesで手に入るのは、このCDとはほとんど重複しない、限られた曲だが、Barberpianosonataetcピアノ・ソナタ(これは珍しく2種類登録されているが、John Browningの方をお薦め)やチェロ・ソナタ(この曲はブラームスっぽい)など、室内楽・器楽系が多いので、先ほどのCDを補完する「衝動聴き」にはもってこいである。

 自身、コンサートにはほとんど立たなかったが、ピアニスト・バリトン歌手でもあったことから、管弦楽曲のみならず、ピアノ曲・歌曲の分野にも佳作が多い(歌曲はiTunesにはないが)。

******

 彼の曲は、ある意味ではかなり保守的ともいえるが、非常に透明でウェットな、しみじみとした曲が多く、私にとっては、同世代のアメリカの作曲家、コープランドやアイヴズよりははるかに身近である。意外と、ラヴェルの響きに近いと感じるが、大曲はもっと構成的で、ドイツ的伝統に根ざしているが、決して晦渋にならない。

 特に、アメリカの作曲家は苦手、という方にこそ、おすすめ。

 なお、ピアノソナタに関しては、先述のBrowningの演奏の方が個人的には好みだが、「ピアノ独奏曲集(Piano Solo Music)」と題した、ナクソス・レーベルのDaniel Pollack - Barber: Complete Published Solo Piano MusicDaniel Pollack盤も、なかなか聴いていて癒される小品がたくさん入っていて、お薦めである。

 これから、海外廉価盤で出ている交響曲、協奏曲も全曲聴いてみるつもりである。購入はHWM Japanサイトが一番幅広く対応しているようである。

HMVジャパン

2007/01/23

マリー・アントワネットからスコットランドへの道(?)(第2版)

 少し前の記事でご紹介した、
原聖/「<民族起源>の精神史 -ブルターニュとフランス近代-」)

を本格的に読み返すきっかけを生み出したのは、意外にも「マリー・アントワネット」なんです。順調にいけば、今週末、四日市で見るようにスケジュールを組んでいます。

(後日記:本格的なこの映画評はこちらで掲載しました)

最新映画、話題作を観るならワーナー・マイカルで!

 私は、クリント・イーストウッドの「硫黄島2部作」の時と同様に、事前に世界史の復習を始めたわけです(^^)。つまり革命前夜からフランス第一共和制のあたり。実は、プチ・トリアノンに引きこもって以降のアントワネットが必ずしも瀟洒な生活ばかりを愛したわけではない、とか、かの有名な「パンの代わりにお菓子を食べればいい」という言葉は、アントワネットに対する悪意から歪曲されて伝わった可能性があるということは知ってました。

 今回調べてわかったのは、私はずっとフェルゼンというのは、「ベルサイユの薔薇」の虚構の人物と思いこんでいたんですね(「ベルばら」のディープなファンの人、笑ってください^^;)。そしたら実在も実在で、マジにアントワネット命だった人らしいということ。アントワネットが処刑された後は、スウェーデンの外相、元帥(そこまで偉くなったとは知らなかった)として、かなり強烈な反動的な政策を行い、母国スウェーデンの政治家として民衆の恨みを買い、最後は、政治的謀略の中で見殺し同様の形で民衆に惨殺されて生涯を終えたとのこと。

 スウェーデンという国は、スカンジナビア諸国の中でも、特異な「政治的」影響力を持ち、デンマークにおけるドイツ(神聖ローマ帝国→プロイセン)、フィンランドにおけるロシアのように、大国と直接隣接していなかったために、デンマークとしょっちゅう戦争したり合体したりしながらも、バルト海の南の国々からの影響を「独自路線」で摂取し、中世から近代まで、日本で一般に知られるよりは、大きな役回りを演じた国のようです。

 ヨーロッパ主要国に張り巡らされた姻戚関係のみならず、近代的な「国軍」の創設という点でも、グスタフ・アドルフのドイツ30年戦争へのプロテスタント勢力への積極的荷担がドイツ国土を荒らし回る脅威を通して、むしろ他のヨーロッパ諸国のその後の手本となった。「傭兵」に依存する軍隊が時代遅れのものになり始める大きな転機となるのである(このへんは菊池良生/「傭兵の二千年史」 による)

 その結果、プロテスタント諸国では珍しいくらいの絶対王権を持ち、プロテスタントらしからぬ(?)壮麗な教会を含む、ヨーロッパを代表する宮殿や城を生み出してもいます(この、私のお城や宮殿についてのこだわりはまたいずれかの機会に)。

 Wikipediaによれば、そういう近代の「大国」スウェーデンの、革命前夜のフランスへの介入のためのスパイがフェルゼン(「フェルセン」と読むのが本来の発音らしい。これは納得)だったとのことです。実はアントワネットの実家、オーストリアのハプスブルグ家は、30年戦争でドイツへの覇権を争って以来の、スウェーデン王室にとって最大の目の敵だったわけです。しかし、どうも本国の「アントワネットを籠絡して操縦しろ」という意図を超えた「個人的感情」で結局動いたところもあるようです。

 日本の無条件降伏が実は「中立国」スウェーデンに打電されたことをご存じの方もあるかもしれません。「日本のいちばん長い日」でも、スウェーデンへの打電の時刻をせっつく外務省の役人が繰り返し出てきますね。

*****

 思わず最近関心が強くなったスウェーデンという国の話題に、フェルゼンのことから、寄り道してしまいましたが(私は、こうやって一国ずつヨーロッパ史を渡り歩くようである)、本題に戻りますと、あの恐怖政治を引いた、ロベスピエールらのジャコバン派
実は、ブルターニュ出身議員で作る「ブルトン・クラブ」が原型だったということを知り、フランスの中でも特異な地域性を持つブルターニュ独特のナショナリズム(民族主義)と、ジャコバン派の急進性の間にひょっとしたら連関があるとすれは、たいへん逆説的ではないかという発想が生じ、もう一度ブルターニュについて丁寧に調べ直そうという気持ちが生じたわけです。ちなみに、さっき「ブルトン・クラブ」といいましたが、ブルターニュ固有の言語のことを「ブルトン語(ブレイス語)」と呼ぶわけで、中央集権的「言語純粋主義」の権化のフランスという国の中で、ブルトン語(ブレイス語)の復権運動は、特異な政治的・文化的位置づけができるようです。

 実は、この問題に踏み込み始めると、ブルターニュから海を越えてイギリス(特にスコットランドとウェールズ)・アイルランドといった国々のアイデンティティ形成に特異な役割を果たした、「ケルト民族」「ケルト文化」の歴史的位置づけの変容の問題がどうしても絡んでくるようです。

 そのおかげで、職場のパンフレット作りが終わった途端に私が手に取った本は、ブルターニュの続きを追う前に、高橋哲雄/スコットランド 歴史を歩く」にまで飛んでしまってます(^^;;A

 我ながら、ほとんど自由連想的に横に広がる歴史的関心なんですが、「こういう」世界史の学び方っていうのが、現代日本の学校教育に一番欠けていることだと、私は感じています。

 通史的に歴史を追う知識の構造化という点では、最悪の効率なんですけど、国際関係について、現在の国際情勢にもそのまま通じる教訓と得たり、感性を養う上では、どっちが得るものと刺激が大きいだろう?....と。

 私、世界史は得意科目でしたけど、年号を覚えるとかいう点では、さほど根を詰めてやらなかった人です。スウェーデンの歴史について、私も「グスタフ・アドルフ.....30年戦争」以上の連想が半年前までまるでなかった人間ですけど、「もったいなかったな」と今にして思います。

*****

(第2版で追記:)

 なお、この記事にトラックバックを貼ってくださいましたブログ「映画で楽しむ世界史」のマスターは、すでに単行本を出しておられるようです。

 謹んで、ご著書を紹介させていただきます。

オンライン書店 boople.com(ブープル)

2006/08/31

心理療法的な諸概念は、現場臨床家のフェルトセンスにぴったりの「象徴化」であり、しかも、現場臨床家の多くにとって「間主観的同意」が形成されるものであるに過ぎない。(第2版)

あるいは、そうなるのが「望ましい」。

 ......これって、私にとっては当たり前の「定理」なんですけど、ここでは書いたことがありませんでしたよね。

 要するに、治療者の体験過程の推進と、シフトを引き起こし、それを他の治療者とも共有できる度合いが高い(サリヴァンのいう、「共人間的有効妥当性確認(consensual vaildiation)」が高い)ものが、有意義な「心理臨床的」概念である。

サリヴァンの言う今述べた概念、consensual vaildiationを、「共人間的有効妥当性確認」と訳した、中井久夫先生の、ほとんど「超訳」には感服するしかありません。

 ただ"consensual"という言葉には、sense(意味/感覚)を"con-"=共有するという意味が含まれるわけです、これ、よりわかりやすい言葉で言えば、

「意味が-お互いに-『通じる』」

ということになります。

*****

 ただ、この、要するに「言葉が-通じる」とは、どういうことか

 これは、方程式を解く過程のようにして、例えば、

X="dog"
Y="犬"

とたてて、XとYが等号(=)で結ばれることを「論理的に」証明できるものではない。
そこにいる「犬」を指差して(direct reference!!)、

「That is イヌ」
"Oh,That is a"dog!!"

ゆえに

「イヌ」="dog"

........なんてものではない。

 それこそ、その「犬」を「タロウ」と名付けている人が、

「That is タロウ」

と言った瞬間、その外国人が、

「イヌとは、日本語で『タロウ』というのだ」

と「思い込む」可能性はある。

 バイリンガルの人は、こんなふうにして頭の中で方程式を「高速CPUで」演算して、いちいち解いているわけではないですよね。

 上記のような「直示的定義」にすら依存せず、しかも、もっと、「感覚的な(sensual)」相互了解の成立に依存している。

*****

 ましてや、心理臨床家が使う言葉には、「実体(entity)」としての「イヌ」すら直接指し示せないのに、人(ましてや第3者)の-心の-中に、まるで「もの」であるかのように、

「劣等感」
「罪悪感」
「自己愛的」

 なものが「ある」みたいに、言葉でお互い、「伝えたつもり」「わかったつもり」になれるんだから、凄いものです(^ ^)。

 例えば、「劣等感」なるものが、「健全な自尊感情」なるものに「変化」したとは、いったい何を「指して」述べているのか?

Genbakaranochiryouron_1_1 神田橋條治先生は、以前もご紹介した、"「現場からの治療論」という物語"の中で、こうした「心的なコトバ」そのものを(神田橋先生が言う意味での)「ファントム」(幻影)に過ぎない、とまで言い放ちました。

 覚醒された意識状態とその内容はまだ、からだの領域ですが、そこへ命名機能すなわち概念言語プラス文字としてのこころが参入してくると」、症状という世界が生じます。ファントムであるこころが参入することで、感覚域は命名され、意味づけられて物語の世界となります。

「こころは病まない」

「こころには[身体とは異なり]自然治癒力はない」。生体恒常性がないので制御不能です。

(上掲書 p.33,34より 下線、[ ]内はこういちろうによる)

 これは、ジェンドリンが、体験過程理論において、「内容モデル("content paradigm"」として、旧来の心理臨床概念をまるごと批判するあたりを、神田橋先生なりに少しかみくだいて,少なくとも「ある観点からは」説明して下さったことになります。

 これこそまさに、ウィトゲンシュタインが「前期」論理実証主義で夢見ながら挫折した問題に通じるポイントなわけですが。

****

 そして、

「語り得ぬものには、沈黙するしかない」

ではなくて、

「語り得ぬものは 沈黙してその『感覚』それ自体と『共にいる』ことがまずはできればいい」

としたのが、ジェンドリンともいえます。

****

いずれにしても、"consensual vaildiation"って

「お互いに気持ちや意図が通じているという感覚的共有」

というあたりに、もっと「ひらがなで」中井先生、お訳しになって欲しかった!!

***

デートでずっとみつめあう二人。

「......そうなんだね」

「......そうなの」

といって,お互い微笑む。

 そこまで端から十数分観察していても、「何」が「そう」なのか、全然会話に出て来てないではないか!!

 でも、「この」一体感こそ、人が永遠に続くことを信じたい関係でしょうね、恐らく。

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2006/08/14

人は「自己開示」しなくても「自己開示」している!! ~浜崎あゆみの"Daybreak"に寄せて~(第6版)

 私が「自己開示」という概念を「見捨ててしまった」きっかけについては、本部ページの「私のフォーカシング」シリーズ第2部第8話の後編ですでに詳しく書いています。

 あれは、私の「ひとりフォーカシング」の中での、すごく「パーソナルな」スピリチュアル体験として得られた「悟り」みたいなものですから、あそこの後半で書いたことだけでは「腑に落ちない」皆様がいるでしょう。

*****

「石が『自己開示』しますか?」

.....とこういちろう氏が言うのはわかる。でも、言葉にするかしないかで相手の印象がまるで変わることがあるではないか。例えばこういちろう氏がayuファンであるかないかを知らなければ、クライエントさんにも与える印象は異なる。

 石は「自己開示」しないからこそ、深層心理の純粋な「投影」の対象となり、人が石を「観照」して「内的対話」を交わす中で、真の「洞察」を得られることがある、というのも得心できる。

 しかしこういちろう氏はなぜ「中立性」を犯して、石のように「純粋な投影の対象」になることで、クライエントさんの深い心の問題が治療者=クライエント関係に反映するのを妨げるのか?

******

 ......なんてことをなぜコメントで書いてくる人がいないのか、私はずっと不思議だったから、自分でシミュレーションしてしまいます(^^;;;)

******

 この前、私をここ数年唯一「へこませる」ことに成功したのが、かの精神分析の大家、松木邦裕先生だとはっきり書きましたけど、私が松木先生のどの言葉に躓(つまず)いたか、公開してしまいます。

「クライエントさんを汚してはならないよ」

 これは、クライエントさんとの対話の面接の『場』の中で、私が自分が感じたことを(ひとりフォーカシングを通してしっかり吟味してから、ですが)、言葉にして、それをきっかけにクライエントさんに「気づき」のようなものが生じていることについいて、

 「それは、単にクライエントさんが期待している親イメージにすっぽりはまる言葉をあなたが返したのにその人が『迎合した』からであり、そこで陽性『転移/逆転移』状態が『やっと生じた』に過ぎない」

 確かこんなコメントだったと思います(精神分析の専門家の皆様、いかにも「松木節」でしょ?)

 (R.D.レイン風に言えば「共謀」でしょうか? マスターソン風に言えば、「患者の『偽自己』に見事に対応した、.....ええっと、さすがの私も記憶だけでは少し忘れましたが(まだ引っ越し荷物の中!!)、「報酬型部分対象-自己単位」としての「個体化の欲求を抑えた『いい子』の場合だけ見捨てないで、リビドーの備給を与える親」の役割を果たしてしまった、とも説明できるかとも思う)

 これにその時。私は返す言葉がなかったんですね(数年以上前のことです)。

 私も、実はその事例でのクライエントさんとのやりとりがほんとうにプラスのものだったか、確信が心の底でない事例だったから、見事にグサリときてしまったのです。

(ちなみに、この時の事例の具体的な中身は、当日配布して回収した資料でのみ書かれているものです)

 もとより、その傷つきが、実は書物を通して知っていた松木先生なら、私のやり方を理解してくださるだろうという私の松木先生への「陽性転移」が、もろに「錯覚(disillusion")」に終わったからであり、実はその時点で私の中に「妄想的=分裂的態勢(PS)」が生じかかり、「『悪い親』からの攻撃」と体験かねないところだったけど、私ってとっくに「親を自分が破壊して、親が死んでしまうのでないか」という「抑鬱態勢(D)」も経過していることは皆さん、この記事この記事でおわかりでしょうし、それどころか、とんでもない確信犯の「エディプス中年」だということは、今こうして松木先生を「仮想父」にして、書きながらやってる最中ですが(爆)、


 実は、「私が」松木先生のコメントを

 「図星」

とは体験せず、

何か言葉にならない「違和感を感じ続けていた」自分をも

「認めてあげる(acknowledging)」ことができたために、

実は、ほんとうは

「へこんで」

はいても、

「打ち抜かれて」はいなかった

のですね。

*******

「だってさあ、」

.......と、"another part of me"が内側で言い続けていることを私は聴き逃さなかった!!

 「松木先生、『クライエントさんを汚してはならないよ』といわれたけど、ホントに『汚してない』状態なんてあるのかしら????」

 少なくとも、その日の夜の部の宴会の翌日には、そういう疑問が私の中で生じ始めていたのです。

 そして、数日のうちには、

 「他者が、たとえ無言で『そこに-いる』というだけでも、その人に自分が『汚されている』ことに耐えられないなんてこと、例えば「急性期」の統合失調症圏のクライエントさんなら、あたりまえのように、深刻な脅威として体験しているはず」

という答えまでは私の中で確信できました。それは今も変わりません。

 これは、私が、実際の師、村瀬孝雄先生以外で、日本人で唯一「心の師」とし続けてきた中井久夫先生からの圧倒的影響で現場臨床に臨んでいた人間だったからこそ可能だったことでしょう。

(私がどのくらい、書物を通してのみで、講演すら拝聴したことがない、中井先生の圧倒的感化のもとにあるかピンとこない人は、中井久夫先生の著作を「頭だけで」読んでいる人だ、と断言します!!)。

 生前の村瀬孝雄先生が、まさに中井久夫先生と深い絆で結ばれていた先生だということは、実は立教で院生をしている時代には気がつかなかったのです。

Nakai1
 しかし、もうひとり、中井先生と縁の深い精神科の先生のもとで私は病院研修を受けたのですが、その先生を囲んでの「謝恩会」の席上で、その精神科医の先生は、私が中井先生の「分裂病と人類」を引き合いに出した「レポート」を学年末に提出したことについて、孝雄先生のいる前で、

「彼ねえ、中井先生の『分裂病と人類』を読み込んでるレポート出してきたの」

 孝雄先生はそれに応えて、

「ほう!! それは珍しいね、それって、一つの『素質』だと思う

更に、先の先生曰く、

「ほんと、そうですよねえ」

と言っていただけたことを私は忘れません。

 これは、私が立派な「S(分裂病)親和者」であることの「お墨付き」を頂いたことになりますから。

 なのに、後に「鬱」にも一度なれたんですから、これはたいへんな経験値ですね(^^;;;;;;;)。

 もっとも、実は私の人格は、精神科医のものの考え方安永浩先生の言う、開けっぴろげで、「今、ここで」の充実感の中に生きる「中心気質」こそベースだな、と最近は感じてます(^^)。

 いよいよ「贅沢な」生き方ですね(^^;;;;;;;;)

(ちなみに、私は「中心気質」については、もっぱら中井先生の本での紹介と、私の古い知り合いでもある、矢幡洋氏の「星の王子さま」の心理学新装版「『星の王子さま』の心理学」でしか知らないままで、上記の安永先生ご自身の本自体はまだ読んでません。ところが、あるサイトで安永先生の本の「目次」をさっき読んでびっくり仰天!! .....すぐ注文して、読みます!!!!.......私がなぜ目次だけで「あわてた」か、わかっちゃう人、いるかなあ......???)

(『分裂病と人類』という本が、いかに「S(分裂病)親和者」に、「したたかにこの世に『棲(す)み』続けて下さいね。皆さんがいるから、現代社会は「最悪の事態」を迎えていないのです」というメッセージのこもった、生きる勇気と希望を与える本かピンと来てない、あの本の読者の臨床家は、統合失調症圏の患者(クライエント)さんと接する上で肝心な「何か」にまだ気づいていない、と私は「断言}します!!!)

******


 ああ、話がまた「虚栄心のコントロール」がない方向に.....

元の脈絡にもどします。

******

 「松木先生、『クライエントさんを汚してはならないよ』といわれたけど、ホントに『汚してない』状態なんてあるのかしら????」

 「他者が、たとえ無言で『そこにーいる』というだけでも、その人に自分が『汚されている』ことに耐えられないなんてこと、例えば「急性期」の統合失調症圏のクライエントさんなら、あたりまえのように、深刻な脅威として体験しているはず」

........というところまでは、私の問題意識として、残り続けたわけです。

 結局、例えば猫なんて、「喧嘩する時」と「さかりがついた時」以外は、普段は「猫同士は」全く「無言で」互いのコミュニケーションを取っているわけです。

(「人間向け」の「ニャーン」は、本来だと大人の猫なら「不安に陥った」時だけの鳴き方が、「人間界」で人間と共存する中で、人間への「どうかお手柔らかに」というメッセージに置き換わったものでしょう。直前でリンクを張った動物行動学者、伊澤雅子先生の研究による限り、群れを作るライオンとチーターいう例外を除くと、ネコ科の生き物は、本来は、人間で言えば、もろ、分裂気質的な「嫌人権」ならぬ「嫌猫権」を行使しながら,一匹ごとに,お互いにできるだけ出会わない形に別の縄張りを持ち、生殖-出産期以外は「ひとりで」行動するものみたいです。それが崩壊したのは、人間社会が「食べ物の食べ残し」「商品にならない魚介類」を大量に投棄しはじめることで、「人口密度」ならぬ「猫口密度」が増加し、「えさ場を共有」するために生じた「文化適応」とのこと!! 「猫集会」も、本来のネコ科にはみられなかった習性とのこと)

 今度は神田橋條治先生にご登場願うと(ああ、なんという「ひけらかし」野郎だ、全く)、

「人はvocal(鳴き声)コミュニケーション以外にverbal(言語の意味内容による)コミュニケーションなんぞを文化として持ったものだから、厄介な存在になった」

わけですね(ちなみに私は「フォーカシング事始め」の「共著者」です。.....ああこれでは、ひとり「虚栄の市(いち)」.....でも、さすがにサッカレーは読んでません、私)。

アフォーダンスについての記事もご参照のこと)

Genbakaranochiryouron_1
 このことを神田橋先生は"「現場からの治療論」という物語"という近刊でもお書きですけど、元はといえば精神医学は対人関係論であるサリヴァンが言ってることですよね。

↓こっちだったかな?

↓こっちにも出てきたと思う。

 いずれにしても、

 サリヴァンの
「パラタクシス的(parataxic)」「プロトタクシス的(prototaxic)」
(=バリントのいう「基底欠損(basic fault)」状態における言語交流)

と、

「シンタクシス的(syintaxic)」(=バリントの言う、「通常の成人言語水準」における交流)、つまり、サリヴァンの言う、「共人間的有効妥当性確認(consensual validation)」ができる言語交流

との間には、実は完全な断絶があるのではないと私は思う。

 文字による伝達を別にすると、人間のすべてのverbalコミュニケーションはvocalコミュニケーションと「併用される」ます。

 中島みゆきをはじめとするシンガーソングライターの歌う歌は、メロディーと歌詞とリズムと声の質、すべてが「総合的に」発揮されるからこそ、メッセージとしてのインパクトが強烈になる。

 (もとより、詩が「韻を踏む」とかいう事柄は、一種の間接的vocalコミュニケーションが暗在していると言えます。広い意味での「名文家」の文章には,必ず「リズム」があります。小才ながら、私の文も、私が「話している」つもりで読める人でないと、すーっと入ってきにくい筈です)

 また、いわゆる「非言語的コミュニケーション」を、「言語的コミュニケーション」に、一意的に「翻訳」することは、どれだけ動物行動学者が観察と実証の研究を積み重ねようと不可能なはずである。結局は、動物を「人間化」して意味づけ、理解する「比喩」であることを超えられないと思う。

 まして、生身の人間同士が相対している空間には,必ず固有の「空気の感触」や「匂い」や「息」の「相互伝達」すら存在する!! しばらく同じ空間にいるだけで,湿度や室温すら変化する筈です。

 要するに、「環界(environment)」との絶えざる相互作用の中にしか「個体」は存在しない。バリントが述べたように、

「魚のエラの中にある海水を海の中と問うか魚の中と問うかは愚問である」

(↓こっち「治療論からみた退行」ですけど、中古市場でも稀観本という理不尽が続いていますので、もしこのブログで表示されていたら、臨床家の方、即、買いと思ってください

 松木先生、バリントの正統派クライン派への批判をどうお読みですか? あるいは、サリヴァンをどう理解なさるのか?????

 私たちが有機体(organism(である限り、
 すべての存在と存在は、
 互いに
 「汚しあい」
 「清めあう」かたちでしか、
 存在しませんよ。

 それが
 「汚しあい」になるか、
 「清めあい」になるかすら、

 「紙一重」

 いや、「光」と「影」

 のような関係でしかないのではないでしょうか?????

******

 またもや、浜崎あゆみの
浜崎あゆみ - I Am... - Daybreak"Daybreak"

浜崎あゆみ/I am...4rdアルバム "I am..." 収録 

で締めくくらせていただきました。

2006/06/10

私は「こころの病気」という言葉は大嫌いです(第2版)

 この前、世界中の精神科医(もちろん日本も)が共通語として診断の際に用いているDSM(アメリカ精神医学会診断基準)に頻出する"disorder"という言葉を「失調」と訳すことを提案しました。
 もっとも、中には今日、生まれつきの要因が大きいことがほぼ確定した精神疾患もあります。しかしその人が「現在のこの社会に」適応し、いわゆる「普通の人」との関係の中で更に傷つき、二次的な症状として現れてくるものすら「症状」としてcriteriaに一緒くたに包括されている可能性は否定できませんので、

   いわゆる「発達障害」すら、
  「発達失調」と訳したってかまわない

と思います。

 そして、

     病気とは、本来、

     身体疾患ですら(!)

     「『気』に病んでいる」

という、東洋的な発想の言葉です。
 
 『気』は「気体」ですから、ある個人の内側にのみ、実体として「ある」という言い方が実はできないものです。
 
 その人は,周囲の、みかけは「普通の」人が発散する、悪い「気」を受け止めるレセプター(receptor 受容器)が特に敏感にできているため、

   まるで備長炭キムコみたいに
   周囲の悪い「気」を「吸着しやすい」
   だけなのかもしれない。

 これが、家族療法でおなじみの、Identified Patient(IP 見なし患者)という概念を、家族という枠にすらとらわれずに拡張した、わたしなりの理解です。

 "disorder"を背負っているかに見える人は、その人が接する、社会全体の"order"な人たちとの「関係性」の中においてのみ、"disorder"になっているのです。

 これは、言葉ばかりが有名な、アイリッシュの精神科医、サリヴァンの

   「性格は対人関係の関数である」

という言葉ともつながります。

    相手があってはじめて、
    一見その人個人の「性格」に見える
    
    顕(あらわ)れ
    
    が生じるということ。

2006/05/20

私がポラニーの哲学とフォーカシングを関連づけたきっかけ

やっと,ハンガリーのポランニ(ポラニー、ポランニーと表記することもあり)の著書、暗黙知の次元「暗黙知の次元」への私の関心について、1からもう一度書く気持になりました。

実はこの関心は私の中でたいへん古くからあるもので、今を去ること15年前、1992年に刊行された「人間性心理学研究」第9号に掲載された、

「フォーカシングにおけるセラピストとクライエントの弁証法的相互作用について:技法論を越えた視点から」 

という、私のたった2つしかない「学会誌原著論文」のうち、最初のもので、ポランニを引用して論じたものが、唯一公式に発表したものです。

業績目録を参照下さい)

私がフォーカシングと運命的な出会いをしたのは1982年5月ですから、もう25年、ちょうど四半世紀のつきあいになります(法政大学の学部を卒業した年の卒業直後の5月、市ヶ谷の法政の生協で、ということは、生涯忘れまいとずっと思っていたので、簡単に正確な年月が出てくるのです)。

ポランニとの出会いは、すでにフォーカシングと出会ったしばらく後、恐らく1985-86年頃、本屋でたまたま偶然に、上述の「暗黙知の次元」というタイトルが目に止まり、これはジェンドリンの体験過程理論と関係あるのではないかという直感で手に取った結果でした。

今はついていませんが、当時刊行の紀伊國屋書店の発行の訳本(訳者も違います)

(これ↓)

には「~言語から非言語へ~」というサブタイトルもついていましたし、

ジェンドリンの体験過程理論において、「暗黙の意味(implicit meaning)」「明示的な意味(explicit meaning)」相互作用というのが重要な鍵概念であることはすでに熟知していましたから、

「暗黙知」という言葉だけで思わず私のアンテナが反応して、それこそたまたま当時の紀伊國屋書店の新宿本店で、中身もめくらずにタイトル買いしたのをよく覚えています。

ちなみに、ジェンドリンの体験過程理論についての必読文献が、「人格変化の一理論(A Teory of Personality Change,原書1964)」であることはすでに何回かこのブログでも書いてきました。

この英語原典(後日その表紙をこで、例によってスキャナでご紹介します)の書籍としての入手はもはや困難になっていますが、幸いThe Focusing Instituteのwebsiteで、今もhtmlとpdfファイルの形で全文入手できます。

恩師村瀬孝雄による日本語旧訳も、websiteで入手できます。この旧訳の今も捨てがたいところは、ジェンドリンが「最終的には削除」した、フロイト、サリヴァン、ロジャーズの理論との比較論の長大な部分を、村瀬先生が敢えてお訳しになっていることです。website版にもそのまま収録されています。

話がわき道にそれますが、実はこの「最終的には削除された草稿部分」があるないのとでは、ジェンドリンの体験過程理論そのものの「臨床的理解」に「雲泥の差」がでるはずの部分です。

ところが先に述べたinstitute公開のジェンドリンの原文でもこの部分はカットしたままなので、何と、この「草稿」部分に接することができるのは,現在でも、村瀬旧訳=日本語がわかる人だけなのです!!

(その草稿の部分を村瀬先生がジェンドリンにお返ししたのか、それとも日本のどこかにまだあるのかは、さすがに私も生前の先生にお伺いしないままでした。私もその現物は見せていただいたことはないままです)

ジェンドリンの英語は「ドイツ語で考えた英語」ですから、関係代名詞や、動名詞を正確にどう読み解くかにはかなり困難な個所も多いのですが、私は、研究対象としてフォーカシングにに関心を持つ臨床家は、「人格変化の一理論」の原文を、日本語訳と比較しながらでいいので、目を通すべきと考えています。

ちなみに、この村瀬旧訳が今日本で新たに中古書籍として入手可能かを改めて調べてみましたが、検索不能でした。

この村瀬訳は、若干の改訂の上で、
Ippo
池見陽先生編・解説のジェンドリン論文集、「セラピープロセスの小さな一歩」に収録されていますが、前述のフロイト、サリヴァン、ロジャースとの比較論の部分は掲載されていないことが、私には残念です。

******

話がポランニから離れてしまいましたが、

ポランニにおける、


「暗黙知」

と日本語で訳されている言葉は、英語版では、実は

"tacit knowing"

なんですね。

ジェンドリンの体験過程理論における、

"implicit meaning"

とは全く異なります。

しかし、やはり、理論的にcrossingさせると、興味深い共通項がやはり浮かび上がります。

このあたりについては次回、解説することにします。

*****

なお、なぜ私とポランニ哲学の出会いが1985-6年と「推定」したかと言いますと、

ジェンドリンの2回目の来日の際の東京・中野サンプラザにおけるワークショップが、1987年9月であり、その時、私はジェンリンに直接ポランニの哲学についての見解をお尋ねしたかったのですが、

当時の私は小心者過ぎて

結局、この数日間のワークショップで彼と出来た会話は


「エレベーターはどっちだ?」

「この階の向こう側のロビーです」


だったことを何年も後悔していたからです。


(え? 今の私からは想像できない?

ただの大学院マスター1年目でしたから)

****

ちなみにこの時のワークショップ全体の記録

Fseminor
村山正治編「フォーカシング・セミナー」

として出版されています。

巻末に掲載された、ジェンドリンの奥様、メアリー・ヘンドリックス先生による、

「治療変数としての体験過程レベル」(大田民雄訳)

は、カウンセラーの皆様におすすめの論文です。

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