「おくりびと」・・・・臨床ということ
日本映画の最高の金字塔のひとつというべき「生きる」に引き続いて、同様に「死」をテーマにしつつも、黒澤監督もなし得なかった、アカデミー外国語映画賞を受賞したばかりのこの映画を鑑賞するというのも、何とも味があるものである。
先日「完全版」がテレビ放映されたものをHDレコーダーに録画しておいたものをやっと観たのだが、どうもDVD版での一部シーンのカットを惜しむ声も少なくないようなので、むしろこうした形で観ることができたのは幸いなことかもしれない。
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今回は、またもやや私的な次元からの感想として書かせていただく。
ただし私自身の近親者や関係者の死の問題と絡めるようなことはしませんのでご安心を。
私は臨床心理士であるが、「臨床(clinic)」とは、本来「ベッドのそばにたたずむ」という意味のみならず、「死に至る患者さんのそばに臨(のぞ)み続ける」という含蓄が込められていた言葉であるという。これは確か中井久夫先生の著作のどこかで読んだことである。
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私の業界では、「臨床」という言葉を意識的に使う時には、カウンセリングや心理療法などを通して、ひとりひとりのクライエントさんと向き合う現場を持っている・・・という含蓄で使われることが多い。
つまり、机上の学者などではないということである。
もっとも、今日指定校大学院で勤務されている先生方は、むしろそうした意味での臨床現場のプロだった先生方が「請われて」教職に身を転じられたケースが増えてきているので、以上のことは別に揶揄のつもりで申し上げているつもりはありません。
むしろ、大学という組織の煩雑な雑務に忙殺されるくらいならは、臨床の現場にあと少しでも立ち戻れれば・・・という引き裂かれる思いも感じておられる中堅の先生方も少なくないのである。
実際、「あの先生はついに大学教育の場に向かわれた」という情報を耳にしたと思っていたら、いつの間にかほんの数年のうちに教職をお辞めになり、またもや現場に戻られてしまった、功成り名を遂げた筈の臨床家の先生の再度の転身に驚いたこともある。
もとより、ご本人の意思ばかりではなくて、「先生がいないと現場が成り立たない」という切望もあったのではないかと推察もするのだが。
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医師という身分は、実は日本でも欧米でも、実は必ずしも敬意を払われる仕事として歴史上一貫して見なされてきたわけではない。「鍼灸師」「マッサージ師」などと同じように「士」ではなくて「師」の字が長い間通称としてあてがわれてきたことの中には、実は必ずしも階級が高くない、表舞台に登場する性格のものではない「日陰の職人」であるに留まるという含蓄がある。
この、「師」と「士」の字の含蓄の違いについて私に教えてくれたのは、何と私の父である。父はそこから「だからお前は医者より偉いんだ!」という凄まじい論理展開で私に発破をかけてきたのだが、お医者様の皆様、これはあくまでも個人開業(私設心理臨床)している私への、父の溺愛のなせる技とお許し願いたい。
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この映画の中では、従来注目を浴びていなかった「納棺師」という職業にスポットライトが当てられているわけだが、「死人と接せざるを得ない」という点では大抵の医師と納棺師には共通項がある。
何しろ、日本の法律上は歯科医師にすら、役所に提出する死亡届に必要な死亡診断書を書く公的な権限が、今でもあるのだ(このことの是非はとりあえず置くとして)。
私のような臨床心理士も、少なくとも「死にたい」というクライエントさんからの訴えや、かつて自殺を考えた、試みた、あるいは重い身体病を乗り越えた、今も身体の中に「爆弾」をかかえているというお話、あるいは肉親や知り合いとの死に目のお話をうかがわない日はないと言っていい。
そして・・・・実は今や脚光を浴びる仕事となった臨床心理士(もっとも、職場を得て、安定した生計を成り立たせることの大変さも知れ渡りつつあるが・・・・)においても、実は、ひと皮向けば、普段「おかしい」人たちばかりを相手にしている、だとか、人の泣きごとを聴くだけでお金を取る人種だとか、ほんとうは社会や家族、地域共同体が背負うべき、悩める人や行き詰まっている人たちを有料で救う専門家が存在すること自体が、人間疎外を更に押し進めるシステムだとか言われる立場にあり、実は「世間の普通の人がやる職種ではない」という偏見にさらされているのである。
「私、臨床心理士になりたい!」と肉親に口にした途端に、この映画の中の主人公の妻が夫の職業について知った時に示した拒絶反応と実は似た体験をされた、心理臨床志望の若き人は決して稀ではないはずだ。
その理由は、単に大学院まで出る学費や収入的な安定という面での懸念などではとても説明し尽くせない、「生理的な嫌悪」を感じさせられる世界に、自分の子息が身を投じたがっていることへの困惑という側面が内包されていることが多いのではないかと、なぜかこの映画を見ている中で気づかされた。
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この映画は観た人が少なくないでしょうから、ここからはネタバレになることをお許しください。
広末涼子が演じる妻は、本木雅弘演じる夫がやっているのが納棺師だと気づく前は、直前に絞(し)めて捌(さば)いたばかりの鶏を目の前にすることに何の抵抗もなかった。それどころか、買ってきた蛸が「まだ生きている」ことに気がついた時に悲鳴を上げた。
つまり、私たちの多くが、普段肉食(にくじき)をする際に、それが「死体」に他ならないことを忘却しているのと同じ次元に生きていたのである。
この映画で殊に印象的なシーンのひとつが、社長と主人公たちが、
「うまいか?」
「困ったことに」
などと対話しながら、進んで肉食を繰り返すシーンであることは衆目の一致するところであろう。
私はベジタリアンを貫こうとする人を揶揄する気はもともとない。中には健康上の理由からベジタリアンを貫くひともあろうが、欧米ではベジタリアンでありながらもキリスト教徒である人は少なくないかと思う。
ところが、キリスト教という宗教そのものが、「我々の罪を背負って十字架にかかって下さった主イエス」への信仰であるばりか、多くの宗派において、「聖餐」という儀式を大変重視するものである。
これは聖書に伝えられる「最後の晩餐」におけるイエスの発言に基づき、ワインをイエスの血、パンをイエスの肉として口にする儀式である。多くの宗派の公式の教義では、聖別されたワインとパンは、まさにイエスの肉体そのものなのであり、決して「象徴的な表現」などと見なしてはいないそうである。
実はイスラム教徒は、このあたりを指して、「キリスト教は教祖の人肉を食らう野蛮な宗教」と喧伝した時代もあるとのことである。
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こうして私は、敢えて仏教的・東洋的な発想から一定の距離を取ったままこの映画についての小考察を進めてきたが、そろそろ、私なりの言葉で、今回書きたかったことの核心に触れていこう。
人は、他者の生命の犠牲の上に立ってしか生きていない存在である。
いかに自立・独立を尊ぶ人でも、一切の衣食住をすべて自分で賄(まかな)って生きる、ロビンソン・クルーソーのような生き方をしているわけではあるまい。
人は幼年期を脱した後も、何らかの意味で他者に「寄生して」生きているのである。収入を得られるいうことは、回りまわって、誰かがお金を出してくれたということである。
誰もが「人の生き血を吸って」生きている。このことに貴賎はないと思う。
臨終から葬儀、火葬、埋葬、そして追供養と続く一連の儀式は、悲しむための儀式ではない。むしろ悲しみが感謝に昇華される過程となるのがふさわしいのだろう。
「愛(いと)し」「恋し」「哀(かな)し」といった古語の意味を探っていくと、これらが自然と融合する接点が出てくるようである。
死や病が日常世界から隠蔽され、不死と無限の健康へのファンタジーが満ち溢れかねない時代(今度の不況で、そこに少しブレーキがかかったかとは思うが)であればこそ、病や死と日常の間にある、目に見えない「門」をつなぎ、その間にさ迷うしかなくなっている、個々人の「成仏できない思い」の仲介者となる「渡し守」が職業としても必要な時代なのだとも思う。
それはむしろ、個々人の日常生活の中に、そうした「愛(いと)し」「恋し」「哀(かな)し」の思いが行き交う世界が復興するための、ささやかなお手伝いなのだと思う。
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BGMは、中島みゆきの
「永久欠番」ということで。
・・・敢えて、「生きる」の記事ではなくて、こちらの記事の方に。











「青葉茂れる桜井の」(「大楠公」)







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