ウィーン

2010/10/16

"Durch Leiden Freude!! -のだめカンタービレ in ヨーロッパ 後編-

 いきなりドイツ語でスミマセン(^^)

 クラシックファンの方でしたらおなじみでしょう。

 

 「苦悩を経て歓喜へ」・・・ベートーヴェンのモットー。

 「ドゥルヒ・ライデン・フロイデ」と読めば、日本語発音のカタカナ標準ドイツ語としてはほぼ十分でしょう。

のだめカンタービレ in ヨーロッパ [DVD]

※ ↑ 【要注意】 すでに述べましたが、セル版は「前後編」二枚組のようです。お間違いなく!! 二重に買わないで下さいね!!

 「パリ編スペシャル」後編は、前編とは打って変わった、ウェットなストーリー。

 ここまで千秋とのだめのロマンスが「全面に」押し出されることは、ここまでのドラマ化部分では皆無
でしたね。

 しかもそれが、パリ留学後、のだめの前に立ちはだかることになる、演奏家として成長する上での最大のスランプの問題と完全にシンクロさせて描かれている。

 原作の圧縮もかなりあろうかとは思いますが、これは、驚くほど高度なドラマ作りです。

 うーん、パリ編でつまづいたと感じる人たちもいるらしいですけど、ここで描かれている男女の機微は相当踏み込んだものがありますよ。これは視聴者が十代のうちは、ちょっとまどろっこしくって、イライラするかもしれませんね。

 ・・・・まあ、そのあたりは、これ以上具体的には触れずにサラリとかわすのが、今年50歳にもなった、人生いろいろのおじさんの節度ということにしておきましょう(^^)

*****

 さて、恒例、音楽(演奏)を大真面目に評論する、当ブログのポリシー、続けさせていただきます(^^)

 やっとのだめ作曲、「もじゃもじゃ組曲」の実物が「聴け」ました(^^)

 敢えて言うと、エリック・サティ(ドビュッシーと同じ頃にパリで活躍)の「官僚的なソナチネ」あたりを思わせる気まぐれさがある、実はマジに遊び心満載の、単純なようで実は凝ってる曲です。

 パリ・コンセルヴァトワールのオクレール先生が関心を示すのも、全く自然ですし、ここで先生のダメ出しが忽然として止まる・・・という物語設計は卓抜です。

 サティの、「官僚的なソナチネ」という珍曲(?)を聴いてみたい方は、以下のアルバムに含まれています:

高橋悠治/サティ:ピアノ作品集(2)

↑ 高橋盤、昔は、誰もこの世に知らない人はいないであろうくらいにメロディは有名な、サティのスマッシュ・ヒット、「ジムノペディ」第1番、および、これまた絶対誰でも耳にしている、ワルツ「ジュ・トゥ・ヴゥ」と抱き合わせだったのに、今は分割されてる・・・少しその意味では、お勧めを遠慮気味にするしかなくなったか(^^;)。

******

 それにしても、いくら孫・Ruiの演奏への「屈折しまくった嫉妬」があったとしても、この「後編」前半でののだめの演奏は、本当に生彩がない演奏で、聴いているだけでかわいそうにマジになります。・・・でも、そう演出すること自体が、絶対にこのドラマには必要だったのです。

 ・・・・う、このように書いてしまうと気づきました。のだめの演奏の個々の曲の演奏評を、今回は全面的に控えてしまう方が、まだご覧になったことがない皆様への心配りでしょうね(^^)

*****

 ただ一点。この点だけは重要な物語理解上の解説。

 特にヨーロッパ人の場合、クラシック音楽の背景として、「教会音楽」に日常的に馴染んでいることは圧倒的な裾野を生み出しているのであり、これは日本人がクラシック音楽を学ぶ際のひとつの大きなギャップになること。その点で、モーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」の使いどころが見事!!

(これは、茂木さんのアドバイスで、原作を「敢えて」意識的に変えている部分だそうですね)

 指揮者ならずとも、ピアニストにですら、アナリーゼ(曲の分析)や音楽史の勉強がどれだけ大事かという点について、日本とヨーロッパの音楽教育に、確かに圧倒的な落差があるらしいこと。

 マジに、コンセルヴァトワールの教育スタイルの再現に近いのだと思います。

*****

 さて、物語の最後に、またもや千秋君による、ブラームスの「交響曲第1番」が、「パリでの」演奏として登場します。

 このオーケストラの実態は、実は「プラハ放送交響楽団」という、チェコの首都プラハで、チェコ・フィルの次の格式があるオケです。

 一般に、ヨーロッパの「放送交響楽団」というのは、オペラ座のオーケストラとか、コンサート専門のオケに比べると、独自の「色」を強く出さないようにする伝統があるかと思います。

 (それでも、ドイツの放送交響楽団の頂点というべき、バイエルン放送交響楽団まで上り詰めると、特にクーベリック時代は独自の音色が濃厚にあり、いかにも南ドイツの音色+チェコ出身のクーベリックの音でしたが)

 でも、劇場版「最終楽章」前編の記事でも書きましたが、チェコのオーケストラの音色は独特の柔らかく融け合う伝統があります。

 ただ、それを、ドヴォルザークのスラブ舞曲とか、本当に民族色が強い曲をやる時だけ、独特のすすり泣くような弦の音色を意識的に出して、「扇情的」にもできるんですが。

 あくまでもそれはスメタナやドヴォルザークの一部の曲で意識的に打ち出すだけのこと。その「お国もの」での「泣き節」を控えると、まろやかさが全面に出る

 (この点では、プラハと目の鼻の先のあるはずのヴィーン・フィルの音色の方が、実はドイツ・オーストリアの楽団全体の中でも「異端児」・・・ある意味で「19世紀最後の頃のウィーンのままの重要無形文化財」的音色といえます)

 さて、チェコのオケの音色は、今述べたように、本来くすんだ音色でもありますが、バリバリの北部ドイツのオケ(例えばベルリンやハンブルク)、いや、中ライン地域(ボンとかハノーファー)の硬質さだったら、とても「のだめ」のための「パリでの演奏」の吹き替えには使えません。かつてインバルが常任をしていたフランクフルト放送交響楽団でも何かやりにくそうですね。バンガリーのオケとなると、また別の独特の歌いまわしと鋭さが混じる。

 その意味で、この、ラストのブラームス一番の演奏、またもや「やらかし」ましたね。

チェコのオケフランス風の音色で、ドイツのブラームスを弾かせる」という芸当。

 TVシリーズの時の演奏が、どっしりとしたドイツ風の演奏だったのに、この演奏での「千秋君」は、流麗で、フランス風の演奏へと、すでに随分変化(?)しています。

 千秋くんも、プラティニ・コンクールのあとで、シュトレーゼマンに世界中を引っ張り回されるだけではなくて(爆)、どんどんフランスになじんでいるのでしょうか?

 このパリ・スぺシャルでの指揮者までは私の調査ではまだ不明です。

 TVシリーズ版は、東京都交響楽団の当時の常任指揮者、デプリースト自身と判明。あの世代の「重鎮」指揮者なら、アメリカ人でも、ハンガリー亡命者のショルティに近い音色の、重厚なドイツ的音の指揮者、少なくなかったかと。

*****

 今回のおしまいに。

 繰り返して書いて来きましたが、ともかく演奏の隅々まで、確信犯で曲の解釈まで「原作通り」をナマの音にするという奇跡を、果てしなく追求している点では相変わらず、化け物じみた奇跡の実写フィクション映像作品としか申し上げられません。

 それどころか、「のだめ」実写シリーズを、小さな外部スピーカーでいいでうから、全部通して鑑賞すると、非常に「正統的」なクラシックの演奏とはどういうものかの「座標軸」になる「耳」自体が育ちます。間違いなく!!

****

 さーて、残るは「最終楽章」後編!!(・・・・と原作アニメ版は更に余力があれば・・・という遠い射程で)

 実は、これはまだ新作DVD扱いで、私がレンタルョップに出向いた時は、「全部貸し出し中」でした!!

 ・・・・・だから、何日後になるかの保証はできません(^^;)

****

 ・・・以上、「のだめ」ワールド大航海シリーズ、6回めでした!!

 (エンディングBGMとして、お好きな「ラプソディ・イン・ブルー」をお流し下さい)

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2010/10/11

"Bravo!" -のだめカンタービレ 最終楽章 前編-

 ・・・・というわけで、さっきまで、日本映画専門チャンネルで、のだめ役の上野樹里さんへのロングインタビュ-付き(内容は、すごくよかったけど、内緒^^)という形で、劇場版の前編を観ていました(^^)

 ・・・・時計の針の進みに驚きました。

 結果的にエンディングの数分前ぐらいの時に映画の中のシーン、ではなくて(爆)、私の目の前のHDDプレーヤが指し示していた時間に。

 つまり、およそ2時間の映画を見て、ここまであっという間、え! ウソ??? まだ1時間ぐらいじゃないの? ・・・・という経験はこれまで皆無でした(^^)

 実はそれだけ「密度が濃い」けど、同時に「軽やかに」映画を見た体験はなかった!! ということなんですね(^^)

 前編は、ある意味で暗い結末であるにもかかわらず・・・です。

 私は、数日前書いたように、つい先日までサガテレビでなされたTVドラマ再放送しか観ておらず、途中に当たる、「ドラマ編パリスペシャル」前後編、まだ観ていないわけですが、特にそれで不自由した感じはありません。

 色々と、原作圧縮や曲の置き換えすらあるみたいですが、やはり、まだ読んでいない「原作の凄さが透けて見える」という感慨。

 「のだめ」を追いかけてきた世代の読者と一緒に、作品の物語が描き出す次元そのものが前進したというべきなのか? それとも、原作者にそうやって物語展開をディープにするという「見通しを立てて」構築する力まであったのか? ・・・きっと両方でしょう。

 ちょっと驚きました。怖いくらいの作品です。

 のだめと千秋くんの恋模様のことじゃなくて(「敢えて」そう書きます!!)、「音楽」と「音楽家」というものへの、「等身大」の敬意みたいなものが遥かに「成熟して」描かれている気がしてならない。

 それは、色々なセリフにも現れていますが、今回はネタバレ回避します(^^)

*****

 舞台はパリの筈なのに、実際にはチェコのブルノ国立フィルハーモニー管弦楽団(そこそこ著名ですよ!)中心らしいですが、ちゃんとバスーンはフランス系のもの(バッソン)を使ってるみたいですし、実は旧ボヘミア系のオケって、もともと、「純正ドイツのオケ」より重厚ではなく、音がまろやかに溶けて丸いんです。ウィーンの響きとも違う。そこに更に、「フランス風にやってくれ」という意図的な要請まであったのではないかと想像しますが、(ちょっと色彩的に、とか要請すればいい)、見事に「化けさせる」ことができてると思いますよ。

 「完成された時の演奏」は、千秋の弾き振りでの、オーセンティック(古楽器)演奏全盛の今時珍しい「ピアノでの」バッハの協奏曲を含めて、重厚過ぎない、むしろすっきり目の、実にいい演奏ですね。

 そして、確かに、玉木宏さん演じる千秋の指揮「演技」は、恐らく「役者が演じた」過去の全世界の映画の中で、一番「本物」です。

 ・・・・などと、敢えて「音楽面」中心という、少しいじわるな(?)、手短な感想にさせていただきます。

 個人的には、あの、興行収入日本記録を持つという「踊る大捜査線 2 レインボー・フリッジを封鎖せよ」の遥かに上を行く、「TVシリーズ」の余勢を勝って作られた「映画」かと。

 この映画をいきなり予備知識なしに観た人も、十分満ち足りた時を過ごせたであろうと思います(^^)

のだめカンタービレ 最終楽章 前編 スタンダード・エディション [DVD]

【追記 10/10/22】: ついに「最終楽章 後編」の感想もUPしました!!

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2010/10/05

何を今さら!? 遅れに遅れてハマった、「のだめカンタービレ(ドラマ版)」について。

 このブログに書き込みをするのはかなり久しぶりである。

 実はここしばらくネットというもの自体から相当に距離を取っていて、そもそもパソコンそのものを開かないでいる日の方が多かった。

*****

 それにも関わらず、久々に記事でも書いてみようかという気にさせたのは、私の住んでいる地域で、「のだめカンタービレ」の最初のTVシリーズ実写「ドラマ版」が再放送されたからである。

のだめカンタービレ DVD-BOX (6枚組)

 このように言うと、福岡県在住の読者の方でも「そんなのいつやっていた?」と思われるかもしれない。・・・そう、フジ系列のTNC(テレビ西日本)でやったのではないから。

 実際には同じフジテレビ系列でも、「サガテレビ(STS)で」9/17から10/1にかけて再放送したのだ。

 UHF地上波の発信場所が、福岡県と佐賀県の県境の背振山系の九千部山に共にあるため、福岡県と佐賀県にまたがる筑紫平野ほぼ全体のTV視聴者は、同じアンテナの向きで福岡と佐賀の地方局も見れてしまう。こういうスピルオーバー(おこぼれ)現象を公然と容認するしかないのが福岡県と佐賀県の放送事情である。

 チャンネルを自動設定すればNHK佐賀(総合と教育)とSTSが、私の住む久留米でも自然と共有される。逆に言うと、佐賀県のかなりの部分の地域で、福岡県の民放を見れてしまうことになるわけで、これは日本唯一、民放局がひとつしかない県に佐賀県を留め続ける大きな要因の一つと思う。

 これを聞くと、千秋君の「どーして佐賀県に入るんだ? 大川は福岡県だろ!!」を思い出されるのだめファンの方があるかもしれない(^^)

(以下、すでに数年以上前の原作およびドラマですから、相当ネタバレして書きます)

 ドラマの最後まで見る前の時点でwikipediaだけで情報的にわかってしまったのだが、のだめの出身地は、佐賀県と、筑後川を挟んで共に境を接する久留米市の南西隣、大川市であることを鑑みると、単に人気ドラマというだけではなくて、「ご当地ドラマ」でもある。

 のだめの家族役の役者さんの何人かを福岡県出身の人にするところまでこだわってくれているそうですね。

 それだけでも、この意外な時期に平然と再放送を打つひとつの理由なのかもしれない。「あの」ドラマ版最終回の「あの展開」を再放送で観たい!! という情熱が私の住む地域一体には「特異なまでに」渦巻いていて、エリアの視聴者からの要望も多かったのではなかろうか(勝手な妄想^^;)。

 もっとも、TVシリーズの最終回が「ああいう」展開とは全然知りませんでした。ドラマ最終回は先入観や予備知識無しで見ましたけど、「あの」感動シーンは、すでに「伝説的」名場面であり原作そのままらしいというのは、幸い観た後ででしたが、情報的につかんでしまった・・・

 (余談ですが、ちょっと前の時期には、そっちは新劇場版タイアップの「おかげ」といえますが、TNCとサガテレビで違う時期の「踊る大捜査線」を再放送で並行的に観れてしまい、このドラマがなぜ人気ドラマだったのかを短期間で学習させていただきました(^^)。実はその後で、以前の劇場版のTV放映も観れたけど、・・・あ、あそこまでいくと、TVシリーズの方が感情移入しやすくて、劇場版は少しいろいろと詰め込み過ぎかなあと思いましたが、私の調べた限り、「のだめ」の劇場版って、クチコミはスゴクいいみたいですね)

*****

 このような、2006年10月に本放送が放映されてからちょうど4年も立つというのに、数年間遅れて勝手に一人で盛り上がっているからわかるでしょうが、本放送から4年立つというのに、私はこのドラマを実際には観たことがなかった。原作も全く現物をまだ目にしていません。

 ただ、このドラマと「遭遇した」瞬間はとうの昔にあった(^^;)

 wikipediaに基づく再放送データから想定すると、正確には、3年前のTVでの「パリ・スペシャル」前後編放送直前の正月頃の集中再放送の時だと思うが、チャンネルを切り替えていて、何かの弾みに、上野樹里演じる、のだめの頭の上にピンク色のハートマークheart01がアニメチックに浮かび上がり、のだめの部屋の中が物凄いゴミ溜め状態なのに千秋が呆然とするというあたりまでは何かの弾みに観た。

 ほう・・・最近の実写ドラマはこういうマンガチックな表現も画面でさりげなく実現できているんだ、デジタル合成もこんな使い道があるんだ・・・ということは印象に残った。

 どうもそれが、かの噂に高い「のだめ」のドラマらしいとはすぐに気がついた。

 ただ、恐らくこの時は、数時間かけて全話一気に集中連続再放送というイベントらしいことに気がつき(画面のどこかにそういう表示が出ていたのだと思う)、億劫になってほんの数分で観るのを中断してしまった。あるいは、そういう気力に欠けていた時なのかもしれない。

 今回見てわかったけど、それは第1話の冒頭に近い、マンションでの、のだめと千秋の出会いのシーンだったわけで、もし「この時」集中放送をHDDプレーヤーに録画してあとで観る形としてでも、ともかく観ていたら、その後の私の4年間の人生は随分と別のものになったかもしれないと思う次第である(大袈裟 ^^;)。

 何しろこの私のブログで「のだめ」という単語を使ったのはこの記事が最初なわけで(追記:検索するとこんな記事さりげなく書いてました・・・^^;)。運命の針がひとつ違っていたら、とっくにこのブログのかなりのウエイトを「のだめ」関連が支配していたかもしれない???

***** 

 ともかく、つい先日(2010/09/17)、の劇場版「最終楽章 後編」の上映が終了して数ヶ月などという思いもよらない時に、しかもこれまた全くテレビの前に座ってチャンネルいじっていて偶然に、いきなり第1話千秋の幼年時代の回想の独白からはじまるシーン(「たまごっち」のあたり)が突然始まって、直感的に「これって、まさか、『のだめ』?」と気がついて、千秋君の、大学キャンパスの建物外でいろんな学生が楽器を練習している間を歩きながら「下手くそめ!」「こいつもだ!!」と独白しているあたりにやっと間に合う形で、大慌てでHDレコーダーを起動、チャンネル合わせて録画をはじめた。

 全11話であるから、一度録画予約設定を済ませてしませば、月曜から金曜までの同一時間枠の再放送は2週間と1日で疾風のように終了した。

 正直に言って、テレビの実写ドラマでここまで「はまった」ことがあるだろうかというくらいにはまった。

 どれだけ気に入ったドラマでも、留守録だとか途中でトイレや所要で席を外す場合を除いて、「録画」したものをて保存し思わず何回も「繰り返し」通して見てしまうことなど、私の人生にこれまで果たしてあったろうか?

 昔、アニメファンしていた時、気にいった作品をビデオ録画で繰り返し観るということをしていた時以来ということになる。

 私は「エヴァンゲリオン」でTVアニメからは足を洗った。

 TV作品でこういう事態になったのは、その時以来ということになる。

******

 私は、別に「のだめ」を大したことない作品と見くびっていたわけではないつもりだ。2006年にドラマ化された当時から、多角的に一大ムーブメントを呼び起こした作品であり、嫌が上でも、別に調べたりしなくても情報は目に飛び込んできていたし。

 コミック原作の、天真爛漫変態天才ピアノ少女と、指揮者をめざす、艶(つや)つけた兄ちゃん(千秋)を主人公とした、かなりぶっ飛んでコミカルだけど、同時に、下手なツッコミを跳ね除けかねないくらいに本格的にクラシック音楽の世界を描いたラブコメで、原作段階で、この作品によってクラシックに関心をもつコミックファン層の開拓し、一方「のだめオーケストラ」なるものまで編成されてライブも重ねられるという、凄いブームになったことまでは知っていて、「ベト7」など、当時のiTunes Storeには「のだめ関連」であることを明記した音楽が上位ランキングに随分入っていることにも気がついていた。

 「のだめワールド」というべき、一度はまると読者や視聴者を虜にしてしまう性質が極めて強いらしいことも。

 むしろ、心のどこかで、実際にドラマを通して見てしまったら「はまる」ことを「恐怖して」、遠ざけていたというのに近い心境と言えるかもしれない。

 自分自身が、業の深い(?)クラシック音楽ファンであり(このブログでは、クラシック関係の記事の比率は少ないですが、かつて「ロベルトの部屋」という、シューマン専門ウェブサイトをやっていたりもしました)、「音楽マンガ」というジャンルで、コミックの世界を飛び出して映像化された場合に本当に成功した作品が限られているばかりか、例えば洋画とかの世界まで広げても、クラシック音楽をテーマとしたフィクション作品での本当の手応えのある成功作は必ずしも多くない(そんなに何でもかんでも見たきたわけではないですが)中で、それをひっくり返した作品というものこの世に存在するとすれば???

 私には、およそ、ものごとについて、そこそこということを知らず、一度はまると没入しやすい嗜癖体質・・・というより、むしろ職人肌の父の血をもろに受け継いだ「執着気質」みたいなものが強いと思う。一見ナルちゃん、場の空気を読んでない言動の時もあるかと思われるかも知れませんが、実は場の空気を読みすぎて潰れる事の方が多い。そうでない時の「軽躁的」とも見える私の姿はちょっと特別な時です。それが現実的バランスを危うくしかねない(?)自分の問題点であるとも自覚している。

 (およそ、そこそこということを知らずものごとを勝手に抱え込み過ぎて、現実の自分に不全感や自責感を抱き過ぎて潰れてしまうこともあるし。実際のリアルワールドでの身の振り方に関しては、このあたりで体質改善しないとどうにもならないと思っているが・・・)

*****

 前述のように、これを書いている現段階では原作をめくってもいないのだが、実写ドラマ版がしか見なくても、このドラマ化が、(ある程度内容を原作から「圧縮」はしているだろうけれども)、どこまで原作の味わいを実写ドラマに出来るか、原作ファンを失望させないかという点で稀有な水準のものであることは、ビンビンと「透けて見える」ように伝わってくる気がした。

 フジテレビ系列の多くのドラマに共通するある種の「ケレン味」はあるといえばあるのかもしれず、原作の描線のタッチ(これはネットをあされば、画像が見つかりますから、サンプル確認済み・・・・)の持つある種の「淡白な描線」(私のそんなには幅広くはない、ここ数年は全く無知になっていたコミック歴からすると、一昔前の柴門ふみさんの「描線」をもっと淡白にしてみたあたりというと、,当たらずとも遠からず?・・・・原作ファンの人、こういう表現が軽率でしたらお許し下さい)をやはりどうしても好むという人もあるかとは想像しますけど。

 コンパでコンミスの三木清良が「(マーラーの)一千人の交響曲(やらない?)!!」と、酔った勢いとは言え叫びだすに至っては、クラシック・ファンにとってはドン引きのギャグになる(^^) これがきっと、原作で「書き文字」か何かなのをそのまんまセリフとしてドラマになっても省かないで活かしているとしか思えない。そういう「こだわり」がありそうだと容易に推測できたのだ。

 シュトレーゼマン(ミルヒー)を竹中直人が怪演しているらしいことは知っていまして、(原作では髪は長くないんですね)、このあたりが一番好みを分けるかなと想像していましたけど、私は一度見始めたらあっさり気にならなくなりました。

 つまり、言葉本来の意味での「コミック」=「喜劇」の「お約束」なんだと納得してしまえるということかと。カット割りとかが存在しないにしても演劇舞台における「誇張」と似たものなのだと思えてしまえばそれで受け止められちゃうのですね(^^)

 外国人俳優にしたら、どれだけ日本語が堪能な人でも、実は配役の基本の「重心」が保てなくなると判断されたのではないかと。なぜなら、さもないと、物語が本当に若い人ばかりがおもてに出てくる話しになってしまう。

 「裏軒」の峰龍太郎の親父役に伊武雅刀さんを持ってきたのも同じことで、竹中さんと伊武さんという個性派の年長俳優が「重し」になっていてちょうどいいバランスだというキャスティング上の判断とかもあったのかと思います・・・・そうそう、出番は少ないとはいえ、秋吉久美子さんの大学理事長役というのも、私の世代にとっては何か嬉しいです(^^)

 玉木くんによる千秋の独白を含むハイテンションな長ゼリフの連発も、上野さんによるのだめの、あの異様にはまったぽわーんと演技や揺れる声回しも、むしろそういう「演劇舞台的」感覚で味わっていくとむしろはまってしまうもののように思います。「アニメ感覚」というだけではない。「役作り」の凄みとしかほんとにいいようがない。

 カット割りやテンポ感も冴えに冴えている。演出の人も只者ではないのではいかと思います。

(追記:・・・・アニメ版第1話はフジテレビオンデマンドで無料配信を公式にやっているのを見つけて後で見ましたが、ここまで「ほとんど同じ」とは思わなくて・・・ホント、単なる「制約」ではなく、いい意味でも多少「刈り込んで」はいるのでしょうが、驚くべき原作尊重主義で実写ドラマを作っていた結果、ある側面ではコミックを超える、奥行と深み(???)を獲得できていると評する人もいそうな、類稀れな成功例なんでしょうねえ・・・)。

*****

 俳優さんたちへの「演奏演技」指導もテレビドラマの制作水準としては非常に画期的な水準だろう。

 玉木宏さん演じる千秋君の指揮姿の徹底性は、何しろ指揮シーンを集めた独立したDVDまで出てしまったそうであるが(^^;)、少なくとも私は「演技として」指揮者を俳優にやらせた映画やドラマの類で、国の内外問わず、ここまで「演じ切れた」ものは観たことがないという水準(追記:もっとも、劇場版の方がずっと指揮姿が凄いそうですね)。

のだめカンタービレ 千秋真一 コンプリート・エディション[DVD]

 ピアノ演奏シーンは、まだしも、鍵盤の反対側からのショットでの俳優の「演奏演技」と代役の鍵盤上の手元を写すシーンをカット割りで切り替えることがやりやすい部類と一般的には言える。

 それでものだめ=上野樹里さんに課せられた演技指導の水準はかなり凄い。ほぼ完全に嘘くさくないのではないか。

 楽器は、幼稚園時代のヤマハ音楽教室止まりの私ですが、特にこのドラマでのシューベルトのイ短調ソナタの練習段階の時かな? 「上野さん、顔も手も同時に映るシーンで、実際にきちんと指使いと鍵盤一致しているのでは?」って。・・・

 ・・・・と思ってwikipedia等で調べたら、上野樹里さんって、ピアノの弾き語りができて作曲もできて、「みんなのうた」で自作の曲、「えがおのはな」が放映された水準の人なんですね。お姉さんがシンガーソングライターというあたりからしても、ある種の音楽的素養がもともと相当高くもあると知って得心(^^)

 映画初主演だった、女子高校生ジャズもの映画「スウィングガールズ」(私は何かで予告編だけは観た記憶が・・・)での製作過程や反響も共通の性質のもののようで、「のだめ役=上野樹里」は、かなり早期に決定されていたのではないかと想像します。

(追記:それどころか、ドラマ化の企画が実際に出る前から、業界内部でも「のだめ役なら上野樹里」という風評すら存在したとか)

 「おなら体操」(いわゆる「リアルのだめ」さん作曲とは存じています)は、ホントに上野さん、「楽々弾き語りで」実際に音源化しているのかもしれない?

 これじゃ、ショパンやシューマンやラフマニノフやストラヴィンスキーの難曲でない限り、演技+演奏指導を受ければ、「吹き替えなしで、とりあえず音符通りに鳴らしてみる」ことができとしまえるところまで、マジで特訓受けてたどり着いていたのかも・・・・・。

 多くの演奏シーンで、姿勢とか、手の交差とか、この曲のそのあたりではそのへんの「腕使い」してるはずでは?・・・という水準まで。音と体全体の動きのシンクロ度が高い。限られているはずの収録時間や準備期間の中で、どうしてここまで・・・と、私なりに思っていたのです。

 【追記】:この「上野さん自身はどれくらい弾ける人なのか」という点は、このページのQ&Aでほぼ妥当なんでしょう、ほんとうに。「悲愴」の少なくとも第2楽章が弾けるなら、後述のシューベルトのイ短調ソナタ第1楽章冒頭も冒頭のあたりなら問題なく一応弾けるかと思います。特にこの曲の時、顔も鍵盤上の手も同時に映っているシーンが特に多い気がして。

****

 実は、「演奏演技」的に何より驚いたのは弦楽器合奏シーンなんですよね。これは、ピアノの吹き替えよりも更にハードルが凄く高い筈。「ギターなら少し弾いてました」が通用する次元ではないので。

 このドラマで実際セリフにも出て来ますが、オーケストラでは、弦楽器の「合奏」というものは、各人勝手にボウイングすることも許されない。コンマスなどの指示で、同じパートは全員旋律を同じ弦=指使いで引き、同じボウイングで統一されていないとならない。

  全くの初心者がバイオリンをきちっとした姿勢で抱えて、弓を弦に吸い付くように(弾まないで)絶えず動かすことができ、「取り敢えずボウイングして」ギコギコしない豊かな音が出せるまでですら通常大変なはずである。ましてや!!左手のヴィブラート(・・・私は結局できないままだ・・・)や「返し弓」がサマになって「見える」までですら。

 それを短期間に俳優さんたちに仕込んで、プロや公募した若い演奏者に混じって、オーケストラの旋律の中で、俳優さんが、そこではその音はG線で鳴らすよねという瞬間には確かにG線のあたりを右腕が一糸乱れず揃って、左手も同じ指使いでボウイングしているように見えてならないだけでも感動モノである。

 ほんと、弦楽器系の俳優さんのかなりの人、少なくともその部分の旋律「ともかく鳴らせる」域まで演奏指導特訓受けて来ているのでは? 指使い覚えちゃってるのでは?

 (画面に合計10人くらいしか映らないサイズのショットでの、同じパートの「演奏演技」吹き替えなしはザラに見られるので、それでボウイングや指使いが完璧に一致しているように見えるというのは・・・・)。

 バイオリン・ソロの場合も、瑛太さん演じる峰龍太郎や、水川あさみさん演じる三木清良の演奏演技、「左手の押さえまで」いい加減ではなさそうに私には見える。これはどういうこと?

*****

 そして、こうしたミュージシャンもののコミックや小説の最大の関門というべき「演奏それ自体」。これはプロの人達が大幅に関わってであり、オーディションして音大生学生奏者集め、短期間の練習でオケがここまで音を出せたら凄すぎる域すら、かなり含むかと思います・・・・

 かの有名なショパン・ピアノコンクールのドキュメンタリーを2回観たことがあります。でも、決勝に残る水準のピアニストですら、その中で2人か3人しか、魅力的な音を出していると感じる人はいません。緊張しているので当然といえばでしょうが。私はブーニンも好きではありませんし。ただし、2000年優勝のリ・ユンディさんは、確かにコンクール予選時から際立って才能あるピアニストぶりを発揮していましたが。

 ・・・・そういう物差しを当てて、「ドラマの演奏シーン」の「音楽それ」自体を、いつの間にか引き込まれるように大真面目に聴いてしまったのです・・・・

 この作品の場合、単に「名演・熱演であればいい」というわけでは「ない」というのが、収録上大変な筈なのである。

 オーケストラの練習段階シーンで「未熟なフリ」の演奏をして収録するのは、実はそんなに困難ではないだろう。それどころか、モーツァルトの「音楽の冗談」や、サン・サーンスの「動物の謝肉祭」の「ピアニスト」という曲、あるいは「ホフナング音楽祭」ライブのように、「敢えて下手に引く」、冗談音楽の伝統は列記として存在する。

 演奏演技ではなくて、演奏自体自体となると、ハードル高いのははむしろソロの方。すでに原作から曲を実際には聴かないままイメージを膨らませてきた読者ばかりか、もともとクラシックも実際よく聴いてきて、コミックを読みながら曲がたいてい即座に脳裏に浮かび、「(特に)のだめ流の演奏はこんなふうでは」?と妄想してきた読者たちの期待を裏切らないかという点が肝心だった筈。

 この「演奏自体の表現の調整」が、大健闘、どころか、尋常ではないのではないか。この点では、原作を現段階では知らないまま、先入観なく地上波デジタルの音で、一応デジタル出力してオンキョーのバスウーファー付き小型スピーカー通してのことなんですけど、クラシックの演奏会のライブ番組を試聴する場合と同じラインで(!)私の期待をほとんどの場合にまずは大きく超えてしまった。このあたりだけは私もこのドラマをなめていた。

 千秋君が「この演奏はああだこうだ」と解説している、まさにそのイメージと、そこれ流れている「のだめの」ピアノの音が、殆どの場合、すんなりとしっくりくるのである。

 私の聴いた印象では、のだめはのだめ専門の代役、千秋には千秋専門の代役、コンクールの他の演奏者ですら、更に別の代役が、ちゃんとおられるのでないかと思う(追記:のだめの代役は、三輪郁さんというピアニストが大半をお務め。ただし、更に別の演奏者という「例外」は「3曲」あります)。音の響きやタッチが役ごとに違うように思えてならない(!)のである。楽器や演奏場所を変えるだけでも音色は随分変わるものだが、その域ではない。

 そして、何より、

 「のだめ風、楽譜の指示に忠実ではないが、天真爛漫で、何か人を魅惑する演奏」

・・・・というのを、ちゃんと「現実の音」にできているように思う。もっと大げさにもオチャラケさせられるはずだけど、ある「品位」をギリギリのところで維持した、どこかチャーミングな「聴かせちゃう」演奏なのね、実際(^^)

そして、少なくとも、

 「のだめがまだ練習不足で、苦労しながら弾いている時の演奏」 

 「のだめが本調子ではなく、崩れた時の演奏」

 「のだめが、練習を重ねて完成度が上がった時の演奏」

というのがそれぞれちゃんと別テイクで録って、使い分けているのではないか?!

 第1話で最初の方の、のだめの演奏に千秋がそもそも耳を留めるきっかけとなったベートーヴェンの「悲愴」ソナタの第2楽章の段階で、私は千秋くんにに言われるまでもなく、確かに最初は「このテンポ、音の切り方、音の揺らしは何だ!!」だったけど、数秒後には「妙に魅力的なものを秘めた演奏ではないか!」。千秋君が「カプリチオーソ・カンタービレ!」とつぶやくのもわかる気がする・・・とマジに思ってしまった。

 私は私はピアノ曲といえばまずはベートーヴェン、シューマン(作曲されたぼぼ全曲制覇、聴き込んでる。ショパンの方が実は苦手)です。

 悲愴ソナタ自体が、比較的初期作品だけど、まずは一曲だけ気軽にベートーヴェンのピアノソナタ聴き直したいと望めば選ぶ、偏愛気味の曲です。

 もとより、第2楽章は、ビリー・ジョエルの"This Night"をはじめとして、CMまで含めて、皆様、結構知らず知らずに耳になじんだ曲かと思いますが、のドラマ編第1話はじめの方の、ドラマで「のだめの音」が初登場する時の演奏は、「若干ポピュラーチックに引き崩し」たら、こういう演奏もありだよな、という、まさにそういうラインなんですね。下手に面白おかしくしようとしようとし過ぎてもいない、さりげなーく演出した、絶妙な演奏ライン!!実は「悲惨」過ぎはしていない(^^;)

 峰龍太郎くんと、のだめのベートーヴェンのバイオリン・ソナタ「春」も、自己陶酔的でロックなつもりの演奏を「思い切って」やったら確かにこんな音になるでしょう(^^;)。ここまで来ると、クラシックファンの方が千秋くんに解説いただかなくても音を聞いた瞬間に音だけで爆笑ものなんだけど。

 そういう演奏を音にして演奏して頂いた演奏家と、「もうちょっとこんな感じでやって下さい」と、場合によっては原作持参で、その場所を演奏者に実際に読んでもらった上で、収録時にくり返し弾いて試してもらったであろう演出・監修のスタッフのこだわりには敬意を表するしかありません(^^)

 そして、千秋がピアノを弾いてのだめや龍太郎との伴奏や二重奏で、「今日は自由にやれ(俺は合わせて見せる!)」で弾き始めていくと、最初は自分勝手だったのだめや龍太郎の音が、徐々に、本当に徐々に美しく自然な方向に変化して、合奏としても音が溶け合っていく!!・・・・・代演の演奏者に、その水準まで実現してもらっているんですね(^^)

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 のだめがさわりだけでもベートーヴェンの第7交響曲のピアノ版を(これは美しいぞ!!)弾いてくれているのも嬉しかった。

 そして、特に、ラフマニノフの2番協奏曲の「のだめバージョン」(特に千秋くんがオケパートを弾いた2重奏版)というのは、よくもまあここまで常識破りの、でも何やら凄い演奏を「現実化」したものだと感心するしかなかった。

 そもそも、ピアノ協奏曲の練習のためにオケの伴奏部をピアノでやるという二重奏自体は、音大でコンサートピアニストを目指す域の学生さんの講習レヴェルでは日常の光景でしょうけど、それを、たとえ数分間の「さわり」だけにしても、この水準でこうして現実の音として「公表」してもらえただけでも、のだめファンのみならずクラシック・ファンには目の幅涙(TT)の人が少なからずいると思う。そういう「オケ伴奏をピアノで伴奏した二重奏での」CDなど、少なくとも私はクラシックのCDで観たことはありませんので。

 ・・・・そうそう、モーツァルトのオーボエ協奏曲・・・・オーボエ奏者、黒木の代演の人、でたらめにうまい!! ほんとに世界に通じる一流の人使ってるとしか・・・しかも、練習の時の「いぶし銀の武士」の響きと本番の「ピンク色」の響き、別バージョン録音ということを確かにやってると聞こえる。ただイコライジング操作したのではないと思う。

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 実は、この「のだめ」という作品、原作の曲のセレクトを可能な限りいじらないという、得てして一番妥協や変更がされやすい部分が非常に少ないのには感心した。演奏曲を「省略」しても、可能な限り「変更」してないんですね。

 wikipediaによれば、曲を「差し替えた」のは、Sオケの最初の曲がベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」から第7番に置き換えられていること(これはドラマ版のOPをはじめとして、このドラマの「テーマソング」がベト7ということで一貫させる上でむしろ潔い変更)、ティンパニの奥山真澄くんがいいとこみせようとしてしくじったのが、第9の第九の「第1楽章」ではなくて原作では「第2楽章」だったらしいことぐらいのようである(厳密にはもっと別のもあるのかも知れませんが)。

 この第9の第2楽章は、通常の調律とは別の、オクタープ調律の2つのティンパニが用意され、19世紀初めの初演の時、聴衆にその部分で思わず驚きの声を上げさせるくらいの、当時としてはラディカルな演奏効果を上げる部分が延々とあるので、そのリズミックさで「千秋様」の気を引こうとしたあまり「踊り出してしまう」というのは、ドラマ版より原作のほうが理にかなっている(^^;)。

 でも、ここまでぎりぎりまで切り詰めたテンポ感でテレビドラマを展開しようとすると、「曲全体の」演奏はじめの方ですぐにコケるという形でないと、自然で無駄の無い流れにならないので、いきなり第2楽章というわけにはいかず、やむを得ぬ、このTVシリーズドラマ版では例外的な差し替えかと思います。

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 これ以外、練習や演奏会やコンクールのシーンでも、第何次予選かとかは変わっても、曲の数だけ減らしただけ、曲そのものはドラマと原作共通という徹底性が貫かれているらしいことというのはwikipediaで確認済みです。

 そもそも、この作品、ピアノ曲の選曲というのは、必ずしも「いわゆるクラシック入門者向け」でもない。相当に「通好み」とも言えるし、むしろクラシック通だと、コンサート・プログラムの構成としては異例、あり得ない!とすら感じる超絶的な場合を含む興味深いラインの曲が含まれて並んでいる。

 結局はフランスに留学することになるお二人だが、日本編は、BGM込みで、広い意味でのドイツ・オーストリア・旧ボヘミア音楽が非常に贔屓されていると思う(チェコにしても、プラハとヴィーンの距離はかなり近い ^^;)。

 オケ演奏シーンの曲は「あの」ガーシュインとカルメン幻想曲、ラフマニノフの協奏曲2番を除いてはすべてドイツもの。特にピアノの演奏シーンの方は、ドビュッシー・ショパン・ストラヴィンスキー、各1を除いてはドラマの中で演奏されているのは全部ドイツものである(もちろん、「おなら体操」は別格)。これをドラマ編で一貫させたのはほんとうに「潔い」と思う。

 そもそも、ピアノ曲においてショパンの有名曲に「依存」しないのが潔い。練習曲10の4という、同じ作品10の中でも「革命」とか「黒鍵」といったあたりを使わないのが。 

 他方、シューマンで「ピアノソナタ第2番」という超渋い選曲がなされている。私なりに、一番ありがちなラインを想定すれば、「幻想曲」とかになりそうなのに、そうは来ないのが興味深い。

 ソナタ2番って、シューマンの3つのソナタの中では一番簡潔で演奏頻度は高いとは思いますが、技巧的にも、「演奏栄え」させるのは大変な難曲で、「幻想曲」や「謝肉祭」、「クライスレリアーナ」は弾いてもこの曲まではレパートリーにしていないピアニスト、多いと思います。この2番、天才肌の巨匠の演奏までいくと、ちょっと「ロックな」過激なフィーリングな曲になるんだけれども(リヒテルやアルヘリチ盤)。

リヒテル・イン・イタリー~シューマン:蝶々、ピアノ・ソナタ第2番、他

アルゲリッチ/リスト:ピアノソナタ/シューマン:ピアノソナタ第2番

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 他方、9話と最終話で出てくる、シューベルトの「イ短調」ソナタ(16番)なんていうのも、別の意味でかなり「通好み」かな?(特にピアノ学習者でないなら、クラシックファンのつもりの人でも「通」の方かと思います) 

 「即興曲集」や「さすらい人幻想曲」、そして一番入門曲としてはシューベルトのソナタでは向いていそうな「イ長調」'ソナタ(13番)だったら初心者には聴いても演奏しても馴染み易いし、最晩年の三大ソナタ(19-21番)の方が曲として安定した恰幅の良い完成度があるはずだけど、そこまでシューベルトが上り詰める直前の時期の「イ短調」ソナタ(すごく"fragile"=「脆い危うさ」と隣合わせの曲)だからこそ、のだめはものすごい格闘を要することになりはしないか?

 「シューベルトって、気難しい人なんですか?」とのだめが思わず千秋先輩に相談するのは、本当に自然だと思う。

 この曲で演奏映えさせるのは本当は非常に高度なことなのだと思う。いわゆる「ピアニスティック」な曲ではない。ショパンやリストのような見かけの押しの強さがない。ドビュッシーの緩やかな有名曲ほど容易には「ポエジー」にもならない。指が回れば取り敢えず自己満足的に盛り上がれるというのからこれほど遠い曲はない。

 繊細そのものの配慮と、シューベルトの器楽曲だけが持つ"wandern"(ドイツ語でいう、「さすらいの歩み」)の感覚を身になじませられないと! でも、私の勘ですが、地に足をつけた勉強をして行く限り、音大のピアノ科の学生さんは丁寧にレッスン受ける価値が確かに高い曲かと存じます。

でも、いくら断片とは言え、ひとつ間違うと「もっさりと」「野暮ったく」なりかねないこの曲の、すっきりとしたウェルバランスのいい演奏だと思いました。中期の「幻想」ソナタとかこの曲は、晩年の3大ソナタ以上に「聴かせる」のがたいへんともいえるかも知れず、私もほとんど納得した演奏にめぐり合っていません(私、シューベルトは基本的にはブレンデル党)。

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 現実のコンクールでそんな選曲をそういう順序ですることはあり得ないと思えるケースすらある。ドラマ版第10話で出てくる、マラドーナ・ピアノコンクール本選での、先述のシューマンの2番ソナタの後にストラヴィンスキーの「ペトルーシュカからの3章」なんていう超難曲連続プログラムは、若い頃のポリーニやアルヘリチですらひるんだであろう(^^;;;;)。

 後者については、古今のピアノ曲で最も高度な超絶的な技巧を要すると評する人もいる(^^;) 曲を献呈されたルービンシュタイン自身は弾くことがなく(!)、ポリーニ盤が出るまで、録音皆無ではないにせよ、時代に埋れていたともいえる曲だと思いますし。

ストラヴィンスキー:《ペトルーシュカ》からの三章、他

(上記リンクは最新の廉価版に張りましたが、レビューこちらの2001年発売盤をどうぞ。レビューの中に、「のだめ」ファン向けの他の推薦盤を掲げて下さっている方がおられますよ ^^)

 このストラヴィンスキーの曲を、バスの中だけで譜読みして、シューマンの2番に続けてコンクールに臨んで弾くというのは、2曲を知ってるクラシックファンなら、いよいよ、「絶対あり得ないです!」と、呆然とする展開なのだ。

 もっとも、(これは原作を読んでいない段階なので、「深読みし過ぎ」なのか原作ですでに仕組まれた「伏線」なのかどうか確信が持てないが)、「ペトルーシュカ」(ああ、原曲のバレエ曲自体が私が愛してやまないバレエなのだ!! 正直、同じストラヴィンスキーでも、「春の祭典」より断然引き離して「好物」である)というのは、本来のバレエとしてのストーリー自体「操り人形が楽屋裏では自らの命と心を持っている」という内容であり、まさにこの時のストーリー上の、のだめの置かれた葛藤や境遇とまで一致している。そして最後の「その曲で」のだめはとんでもない暴走をする・・・まさに操り人形の糸が切れたかのように・・・

 でも、ホントにドラマで劇中劇としてアニメ化されている「プリごろ太」が、単にドラえもんのパロディだと一見してわかり、のだめ変態ワールドの能天気さを表しているのではなく、ストーリー上直後の、千秋君の対人関係上の洞察(?)への伏線として見事に繋がる形で描いているくらいの、実はストーリーを「構築的に」進める実力が高い原作者のようですから、「ベトルーシュカ」を単に「テクニックで乗り切る難曲」故に選んだ訳ではないかとも思います。

 原作者が音楽面での協力スタッフや読者からのアイデア提供があっても、最後にストーリー固めるのは二ノ宮さんご自身だったはずですから。

 原作では、この2曲の前にコンクール本選、モーツアルトのソナタ8番イ短調まで演奏していることになっているらしいけど・・・この曲もテンションが凄く高い、ストイックな曲なので、この3曲連続となれば、重量級過ぎて、現実のプロの演奏会ではいよいよありそうにない。ましてコンクールで!!

 まさに、フィクション故に可能な「夢の」演奏プログラム!(これまた、物語上の意味付けがあるのだろうか?)

 敢えて言えば、ドラマ版での、このシューマンとストラヴィンスキーだけが、私が物足りなかった「のだめちゃんの」演奏である。これはさすがに代役の人(私の勘では女性)にとっても難題だったと思う。レッスンでも、ましてやステージではとてもとても「弾いたことない」というプロの方も少なくなかろうと思うので。

 前者はアルヘリチかリヒテル、後者は先述のかの有名なポリーニ盤というのがどうしても私の念頭に比較軸としてある(現在での名盤評価はどうなんだろう?)ので、やむを得ない。

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 もとより、ペトルーシュカの「あの」メロディーが、「某有名な古典的テーマソング」と似たところがあることを生かした物語展開というのは、私の想像を絶した、でもコロンブスの卵で、そのように感じているクラシックファンがちらほらいてもおかしくない、素晴らしいアイデアであった(^^)。

 スッペの序曲「詩人と農夫」の序奏のチェロ・ソロが、「♪線路は続くよ、どこまでも」にすり替わったり、ヴォーン・ウイリアムズの「イギリス民謡組曲」の冒頭が「♪カッパッパー、黄桜~」のCM連想させるのにかなり肉薄しているかと(^^)

 こういう時には連載が進むに連れて読者との間でいい相互作用が生じるから、ひょっとしたら、「のだめちゃんがもしコンクールに出たら弾いて欲しい曲」「この曲をこう料理すればギャグになるのでは?」みたいなアイデアとかが読者からどんどん来て、生かされていたりもし始めていたかもしれない。

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 先述の、ショパンの練習曲10の4番に至っては「え? その曲なら覚えてますよお」で、子供時代以来久しぶりに、数秒後にここまで弾ける無名の音大生がいたら確かに仰天するくらいの充実した完成度(この曲のだめの代演は、例外的に河野紘子さんという方の演奏)。「これ以上、何をお望みですか?」私の愛聴盤、ポリーニ盤のLP初発売時の有名なチャッチコピー)

 ドラマを先入観なく、この曲すら知らないで観ている人に「のだめは、好調なら、実はとんでもないテクニシャンとしての実力がある」ことを理屈抜きに驚愕させる力が、演奏に本当にある。

 そして、少なくともドラマでは、ここまで展開してきた後で、はじめてのだめの幼年期のフラッシュバックがドラマ上はじまるというのが「原作段階でも」仕込まれているとすれば・・・いくらいろいろアドバイザーがいたとしても、二ノ宮さんという作家は、やはり、「物語構成力」という点で非凡の域かと思う(「面白い」とか「考証が行き届いている」というだけではこの作品の凄みは語りつくせないのではないか)。

 いすれにしても、シューベルトのイ短調ソナタとショパンの練習曲という2曲は、先述のシューマンのソナタやペトルーシュカに比べると、遥かに「ピアノ演奏者にとっては」上級まで行くまでの学習過程でかなり定番でしょうから、しっかりとした代演の人が確保できて何もおかしくなく、この2曲は「ドラマの中でほんとうによくここまでの演奏収録して使ってくれましたね!!です。

******

 千秋君ピアノのラフマニノフの協奏曲を含めて、オーケストラの演奏が、正攻法で硬派で本格派な、レヴェルかなり高いのにも感心。いい意味で恰幅が良いけど明晰な演奏で、正直にいって、ここまで練り上げられていなかったり、変なクセっぽさのある、現実の演奏会での演奏は現実にはいくらでもあるんじゃないかと思います。

 このドラマのためには半端な演奏はできない!! という、指揮者と演奏者(オケの「コンサートシーン」での音源は、クレジットに明記された東京都交響楽団の人たち中心で実際弾いてるんでしょうね)のプライドみたいなものを感じるのです。

 (ドラマではやってませんでしたが、ブラームスの交響曲第1番の第2楽章には、コンサートマスターによる美しくて長大なバイオリン・ソロの部分がある。ここなんて、コンミスの三木清良の見せ場として原作では描いてないか? その演奏で、コンクール2位の屈辱を晴らし、ベルリン・フィルの師匠を納得させてないかい?・・・などと、逆に未だ目にしていない原作について妄想状態にどんどん陥る私であった・・・)

 全体を通すと、ほんとうに、通常の演奏会の実演で、この水準ホント滅多にないくらいの掘り出し物は、モーツアルトの「魔笛」の「夜の女王のアリア」とオーボエ協奏曲・・・・そうそう、もうひとつ、コンクールでライバルの弾いていた、ブラームスの「パガニーニの主題による変奏曲」は五つ星!! 「のだめの」演奏ではショパンの練習曲5ツ星、シューベルトのイ短調ソナタに4つ星半差し上げましょうか。千秋のピアノはどの曲でも最低4ツ星以上は差し上げたいアベレージの高さでしょう。特にラフマニノフの2番協奏曲は、こういうタイプのどっしり型の演奏がマジに私の好みです。

 【追記】:結局、劇場版後編公開にあわせて、今年の4月にこれらの音源が、かなり断片的なものまで、曲によってはのだめの「状態別テイク」まで含めて、数枚組でCDとして販売されてしまったらしいですね。単に既成の名演のオムニバスを組んで発売する(そういうのも当然先に出ている)という商売っ気よりも微笑ましい。

のだめカンタービレ コンプリート BEST 100

 DVDで音も十分だろ?で止まらないで、最後になって「ドラマでの演奏音源」それ自体までCD化するあたりが・・・むしろ「ファンの期待にどこまでも応えます!!」みたいで。

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 BGMも恐らく95%ぐらいは既成のクラシックの曲ですが、「この曲」が「このシーン」で「こうくるか!」と、時には吹き出したくなるくらいに選曲が効果的。このへんももともとクラシック愛好者だった方がいろいろと笑えますね(^^) 

 ミルフィの「強制送還」の前触れがマーラーの交響曲第1版「巨人」の第4楽章の冒頭の轟き、「逮捕」の直後に突如ブラームスの交響曲第3番の第3楽章、そして飛行機が飛び始めると、「巨人」の第4楽章の、今度はラストのファンファーレに一気にもう一度転じるとか(^^)。

 第10話の終わりの寂しいシーンで、ゆっくりと静かに流れるピアノのメロディが、実はベートーヴェンの交響曲第7番の第1楽章第1主題をものすごくスローに弾いたものであることにふと気づいた瞬間(録画したのを再生した2回めでやっと気がついた)は、そのさりげなさが心憎い(^^)vと思いました(^^) 

 この曲が「寂しく」響くBGMにできるというアイデア自体への感服。しかもドラマのテーマソングみたいなメロディだから、絶妙な隠し味なわけで。これは服部隆之さんのアイデアかな?

 そして、あの「口笛」は・・・ここはネタバレしません!

*****

 ちなみに、この作品、千秋の子供時代がプラハという設定になっているので(原作もそうなのかな? 指揮者さんの名前、セヴァスチャーノ・ヴィエラというのは何となくイタリア系っぽい名前という気もするけど私の認識不足?・・・・(追記:wikipediaで再調査したところ、原作はViella=フランスと国境を接するスペインに地名としてあり。Vieira=フランス語、ポルトガル語での人名、Vieraだと、パンソニックのTVブランドの綴りでもあり、スペイン語圏の名前になるですね。・・・・ということは・・・・スペイン隣のフランス生まれ???・・・・どちらにしてもラテン系ですね・・・・あ、正解がちゃんと某所に書いてあるではないか。)BGMで、ドヴォルザークの音楽がえらい贔屓を受けている気がする。ドヴォルザークは交響曲全集で3番以降なら繰り返し聴くくらいで、シューマンと並んで妙に思い入れのある私です(^^)。私の好きなスラブ舞曲作品72の第2番を繰り返して使ってくれているのは目の幅涙(TT)

 ただ、その私ですら、「このメロディづくりは絶対にドヴォルザークなのに曲の見当がつかない、悔しいーーー!」 と思ったのは、私が名前すら知らなかった「チェコ組曲」からの2曲とのことだ(ドラマ1話冒頭での、千秋のプラハでの子供時代の回想シーンでのっけから出てきて、その後も結構繰り返し出てくる、あの曲です)。

 あと一曲だけ、TVシリーズドラマ編で、どの作曲家のどの曲かわからないままの、マンドリン(キターではなくて)みたいな響きが入った曲がありますけど、意外と、5%ほどしかない筈の、服部さんのオリジナルBGMのひとつだったりして・・・

 【追記】 10/10/22 : 服部さんの「のだめカンタービレ」オリジナル・サウンドトラックのCDまでレンタルして確認しました。予想通り、このマンドリン曲は、服部さんのオリジナルBGMでした。「我が母校」というタイトルです・・・・ということは、TVシリーズで出てきたクラシックの曲でBGMでも演奏でも私にとって未知な曲=「CD所有していない」曲は、上述のドヴォルザークの「チェコ組曲」のみと確定!!)

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 そして、そのビエラ役のスデニエク・マーツァルという人は、名前にはっきり記憶があります。うちのCDひっくり返したら、ドヴォルザークで、どの曲かで出てくるのではなかろうか? 少なくともドヴォルザークの交響曲第7番かピアノ協奏曲のどっちかを若い頃初めて聴いた時の指揮者だと思います。

 ここ10年、クラシック系の雑誌も読まなくなり、CDをほとんど全く買い足して来なかったので、マーツァルがチェコ・フィルの常任も務めた(まさにこのドラマ制作の頃を含む時期!)ことを知りませんでしたが、ドラマ版で千秋君が「ドヴォルザーク・ホールでビエラ先生の演奏を・・・」と語るのにはウソはないことになります。「プラハ芸術家の家・ドヴォルザーク・ホール」こそかチェコ・フィルの「ホーム・グラウンド」ですから!!(このあたりのことは、wikipedia頼らなくてもスラスラ出てきます)

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 敢えて、現実の演奏会ではあり得ない突っこみどころを上げれば、ひとつは、たとえコンクールであっても、独立した曲、一曲終われば一度立ち上がってちょっと会釈はして次の曲に入ることが通例だろうということ。もっとも、のだめのコンクールでの心理状態は異常なテンションになってますから、これは「確信犯」的演出表現かもしれない。

 あと、最初にSオケが第7をした時でしたが、あそこまで多くの聴衆が身体を揺らすこともあり得ない・・・・とか、終演後にあんなふうに雪崩を打ってドミノ倒し(正確には「倒し」じゃなくて「立ち上がり」ですが)式のスタンディングオベーション(拍手)はしないだろうあたりですけど、ドラマとして嫌味がない品位は維持している気がします。

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 いすれにしても、コミックに親しめる素養がすでにあって、クラシック音楽を日常的に聴いて来たという視聴者も下手なツッコミ入れる隙が全くに近くないどころか、クラシック・ファンの方が余計にピンと来るくすぐりギャグすらテレビドラマで全開モード、そして演奏シーンや演奏そのものが期待を裏切らない。

 もちろん、ほんとうの業界内部の人や音大生の中でどう見られるのかは、私はわかりかねますが、第1線の国内のプロにも、この作品の少なくとも「ファン」を多数生み出したらしいことや、Amazonでの原作についての音大生のレビューとかも「音大なんてこんなものです」と好意的というあたりからすると、「あくまでも漫画」、フィクションだけど、それをはみ出す、人の心の琴線にふれる「何か」を持った域に「突き抜けてる」んでしょうね。

 かなり突飛な比較かも知れないですけど、少し前、CSで「チーム・バチスタの栄光」の続編らしい「ジェネラル・ルージュの凱旋」を観たんですが、その時に感じたゾクソク感にすら通じると言うと言い過ぎでしょうか?(堺雅人という俳優さんは、何考えてるかわからない、本心がなかなか読めない人間を演じさせたら、何とも妖しい魅力がある、今後の日本の男性俳優の中で稀有な存在になるのではないかと。そうか、「篤姫」の徳川家定役だったし、先日まで放送されていた「ジョーカー 許されざる捜査官」でも感じたのですが、それについては何か別の機会に書きましょうか)。

 Amazonで、あるレビュアーの方が「子どもから大人まで、家族全員揃って安心して楽しめる」という書き方をされていましたけど、確かに話が「ドロドロしない」ので、子供に見せたくないと感じる堅苦しい親は少ないでしょうし、音楽を媒体とした「ラブコメ」ドラマとして観る人は観るし、いつの間にか真剣に「熱血青春ドラマ(!)」として見る人は見るだろうし、視聴者層への間口が広い。

 それを、「クラシック音楽もの」という、なかなか期待通りの内容にならない、克服すべき課題が多いジャンルで、むしろ「原作のコミックのイメージをどこまで損なわないか」に演技面と音楽面の両方でとことん妥協しないでチャレンジして成功した、稀有な「実写」ドラマだということは、何か凄い「のだめ」ムーブメントがあったのだなと、痛烈に実感しました。

 あの人と「のだめ」の話しをもっと早くできる私だったら良かったのに・・・という相手が、幾人か思い浮かんで、後悔してしまうくらいなんです!!!

 ある意味で、ハリウッド系の下手な3D合成SF映画より「進んだ」、コミック文化国、日本の誇るべき「実写」テレビドラマとして歴史に残る・・・かも(国によっては、千秋ののだめへのあまりにマンガチックな仕打ちは、女性への「過激な暴力シーン」みたいに見られるでしょうが^^;)

 公式サイトで、原作者の二ノ宮さん自身、「なるべく音楽に失礼のないようにすること(を大切にした)」とコメントされていますが、そこに「クラシックももともと好きな原作ファンを決して失望させない」「クラシックともコミックとも縁がなかった通常の21時台ドラマの視聴者も何の先入観なく楽しませる」という、更にワン・ステップ先の奇跡が生じたドラマ作品なんでしょうね。

******

 ・・・・などと、今頃になって興奮して書いている私の様子に、「何を今さら」と思われるのは承知です(^^;)

 個々の俳優さんは現在4歳分年齢を重ねていると思いますが、これが今年制作されたドラマだと言われても何も違和感がないくらいに思います。原作ものの場合、再放送のたびごとにそれ相応の著作権料を余計に放映局が払うのかどうかまでは存じ上げませんが、劇場版が終わってしまったたこれからも、非常に息が長く再放送されたりするのではないでしょうか。

 内容的に、古さを感じさせる可能性が当面なさそうに思えてならないし、後述するように、現在、いよいよこれからこそ「旬」に差し掛かったのでないかと思える第一線の(少なくとも「のだめ」ドラマ化段階では)20代の実力派人気俳優さんがたくさん出演しているみたいですからね。

 原作者の公式サイトで、原作は、実は不定期にせよ「アンコール編(オペラ編)」までつい最近〔8月!!)まで「連載されていた」・・・・と知って、驚いた私でもあります(^^)。

 現在、Googleで検索かけようとすると「のだめ」と入れるだけで「25巻」という言葉が選択肢にすぐに並ぶ。実は現在24巻までしか出ていないので、今か今かと、最終巻を待っている読者さんがたくさんいるということでしょうね。

*****

 原作は、アマゾンのアフィリエイト・ポイントがもう数百円貯まると出費なしの大人買いで一気に手に入れられそう。

 劇場版との間をつなく「パリ・スペシャル」前後編あたりはレンタル屋に置いてくれてると助かる。

 なお、劇場版「最終楽章」前編は、もうすぐ、10/10(日)、21:00にCSの日本映画専門チャンネル(恐らく大抵の地域のケーブルテレビでは特別料金なしでアナログ受信できるチャンネルでしょう)に登場します。

【追記10/11】実際に劇場版前編を観てからの感想はこちらです。

*****

 以下は余談:

 「コントラバスが歩いている」小柄でキュートな女の子、佐久桜役の子、サエコ・・・どこかで何か名前聞いたな・・・・と思ったら、このドラマの出演後、ダルビッシュと結婚した人なんですね(^^)

 そして、この「のだめ」の主要出演者のうち少なくとも3人が、来年のNHK大河ドラマ、「江〜姫たちの戦国〜」の主要登場人物と重なるというのは・・・今の若手俳優さんについて無知に近い私も、ほんと、実力者揃えていたんだな・・・と感心致します(^^) 

(のだめ=上野樹里=江、コンミスの三木清良=水川あさみ=初、プレイボーイのチェリスト、菊地(=先日まで水木しげる)=向井理=徳川秀忠。更にいえば、峰龍太郎=瑛太=「篤姫」の小松帯刀・・・NHK大河ドラマの重要な役をこの後つかんだ人、他にもいるのかな?)

*****

 今の段階でしたら、もう、少なくともドラマ版のTVシリーズについては、「ネタバレしてます」とかいうお断りも全く不要だろうというつもりで、勝手な憶測全開で、恥も外聞もなく書きました(^^)

 たいへん僭越かも知れませんが、劇場版までずっと観たという皆さんへも、改めてTVシリーズをDVDレンタルしてでも再度ご覧になるささやかなきっかけにもなれば幸いです。

*****

 「のだめ」ネタは、原作だとか劇場版だとか、私がこれから焦ることなく実際に触れていく中で、またブログでも言及することがあるかと思います(^^) 

 でも、これ以上の「ネタバレ」や細かすぎることまでは書かずに、さらっと書くでしょう。

 今回は、ともかく、多くの皆様より遅れてきた「のだめ」ショック状態に陥った私に免じてお許しを m(_ _)m

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2009/12/27

フォーカシングとスピリチュアリティ -12年前のワークショップでの体験-

 前々から考えていたのですが、かつて日本フォーカシング協会ウェブサイトに掲載させていただいていた拙文を、これを機会に、再度そのまま全文ご紹介しようかと思います。

 実質、もうすぐ12周年にもなるのですね。

 しかし、この時得られた気づきが、その後の私を、ひとつの宿命のように支配し続けてきたのではないか・・・という深い感慨を抱きつつ、私はこの数年を生きてきました。

===========以下再掲===========

エルフィ・ヒンターコプフ 東京ワークショップ体験記

フォーカシング・ネットワーク in 東京 第4回ミーティング
1998年1月25日 於:立教大学

阿世賀 浩一郎  

 アメリカからフォーカシングの有力なトレーナー、エルフィ・ヒンターコフ(ヒンターコプフ)が来日して東京でもワークショップを開いた。そのワークシップが非常に面白かったので、そのことを書こうと思う。

 このヒンターコフという人は、アメリカ生まれだが、ヴイーン大学で、先年(1997)亡くなった、ナチの収容所体験とその極限状況下において生の意味を見いだせる人たちについて考察した『夜と霧』(みすず書房)で有名な、実存分析の大家、フランクルのもとで学んだ後、文化人類学に専攻を変え、ネイティヴ・アメ リカンについてのフィールドワークに打ち込み、更にシカゴ大学のフォーカシングの祖、ジェンドリンのもとでフォーカシングを学び、今や心理療法家、フォーカシングの代表的トレーナーとして活躍中の方である。

 ヒンターコフ自身の著書、"Integrating Spirituality in Counseling: A Manual for Using the Experiential Focusing Method"(邦訳「いのちとこころのカウンセリング―体験的フォーカシング法」 日笠摩子・伊藤義美訳 金剛出版)によれば、厳格なファンダメンタリズム(聖書を字義通りに理解し、進化論も否定する)の家庭で育ったが、13歳の時、やりたかったダンスを取るか宗教を取るかを決断せざるを得なくなり、彼女はダンスを選んだ。何事も「すべき」か「すべきでない」かでとらえようとするキリスト教の風土は彼女にとって無意味に思われた。それ以来彼女は宗教を拒絶したが、日常の中で、ある「無意味感」を抱え続け、彼女が「意味の探求」と呼ぶものをはじめたという。

 前述のフランクルは、生の意味は自分の内側からくみ取るしかないと諭したが、それがどういう意味なのか、この時点での彼女には実感としてはわからなかったという。「わたしは、内側から意味を見出すには何をすればいいのかわかっていなかった」。平和部隊に参加して訪れたインドではヨガの導師に教えを請い、瞑想を学んだが、瞑想をしている最中は安らぎが得られるものの、日常に帰ると、また再び、以前からの葛藤に翻弄されてしまったという。
 
 ジェンドリンとフォーカシングに出会って後、フォーカシング体験を積む中で、はじめて彼女は、以前フランクルが諭した「自分の内側から生の意味をくみ取る」ということ、すなわち、「内側からの、静かな、かそけき声」を聴くということ体験的に理解できるようになった。そして、更に、フォーカシングを深く進める中で、「神、人間、森羅万象と自分が共にある」という体験に至り、仕事や他者との関わりや余暇の過ごし方において、自分の実感を大切にしながら生活することができるようになったとのことである。

***

 さて、今回のヒンターコフの来日セミナーのテーマは「スピリチュアリテイとフォーカシング」というものだった。このテーマは、ひとつには、今述べてきたような、彼女の精神的遍歴と強く結びついたものなのであるが、それにとどまらず、およそ欧米で心理療法やカウンセリングに関わる限り、避けて通れない重大な問題と結びついている。

 ご存じの方も少なくないかも知れないが、欧米では、クライエントに、セックスに関する質問を面接の中でしても、日本でに較べれば遙かにフランクに話してくれることが少なくない。だが、相手の信じる宗教は何かについて訊ねることは、日本人からは想像がつかないくらいにタブー視されがちとのことである。

 ところが、それにも関わらず、広い意味での宗教的なことに関わるテーマが、多くの面接の中で不可避に登場する。違う宗派の人間同士の結婚にとどまらず、同じ家族の中で、それぞれ信じる宗教が異なり、3つも4つもの宗派に分かれてしまうことも稀ではない。

 しかも、そのような家族や周囲との宗教の違いが互いの葛藤に影を落とすことがあるばかりではない。クライエント個人が語る悩みのあり方そのものに、日本人ではあまりみられないものが頻繁に登場する。例えば、

「重要なのは、イエス・キリストと私がどんな関係にあるかということなんです」
「私は神に対して否定的な感情しか持てないでいます」
「私はこれまでの生涯でずっと信心深い人間だったつもりですが、実は一度も神を体験したことがないんです」
「私が前世で体験したことが今の私を支配しているんです」

などということが、カウンセラー相手の悩み相談のテーマとしても、かなり頻繁に登場するらしいのである。

 それに輪をかけて事態を厄介にするのは、カウンセラー個人が抱いている宗教的な信念と全く受け入れがたいクライエントの発言をいかに受け止めるかという葛藤も生じることだ。だが、このようなクライエントの発言を避けて通ることは、クライエントとの関係を基本的なところで傷つけるものになりかねない。

 人間の移動が激しくなり、家族関係の枠がゆるみ、神秘思想や従来の欧米以外に由来する宗教に関心を持つ人も増え、違う価値観の人が密接に交渉を持たざるを得ない状況が進む中で、もはや欧米でも、宗教的な問題を心理療法の現場で扱いづらいものとしてタブー視するだけでは済まされない状況がいよいよ進展し、臨床心理関係の学会でも重要なテーマとして取りあげられることが少なくないとのことである。

 最近はやりの言葉で言えば、心理療法の現場も、マルチカ ルチュラリズム(多文化主義)的な発想を必要とするようになって来ているのが時代の要請なのである。

***

 こうした中で、ヒンターコフは、まず、"religiousness(宗教性)""spirituality"(霊性。以下の文中では特に断りがない限りカタカナで「スピリチュアリティ」と表記する)を区別することを提案する。

 "religiousness"とは、「ある特定の、組織的な宗教団体や教会などの信念と実践を守ること」である。それに対して、"spirituality"とは、「超越的(transcendent 常識的・合理的な判断を越えた)」次元での、独特の、個人的に意味深い体験」全般のことを指す。

 このようにとらえると、個々の具体的な神秘思想や宗派を信じると言うより、遙かに広範な経験が「スピリチュアリテイ」の名のもとに包括されることになる。例えば、自然や芸術作品を味わう中で生じた深い感動なども含まれてくる。

 だが、これは後者が前者よりも幅広い、包括的な概念であり、"religiousness"が"spirituality"の部分集合として含まれてしまうことを意味するわけではない。つまり、"religiousness"であっても"spirituality"ではないという次元も存在する。 これは、すでに掲げた、

「私はこれまでの生涯でずっと信心深い人間だったつもりですが、実は一度も神を体験したことがないんです」

という例にも示されているように、形の上では熱心に宗教儀礼をしているつもりでも、「常識的・合理的な判断を越えた次元での、独特の、個人的に意味深い体験」の方はその人に得られていない場合などに典型的にあらわれている。

 では、ヒンターコフは、「スピリチュアルな」体験をどのように定義するのか。

  1. 漠然とした意味を含んだ、(何か意味ありげだが、何なのか当人はすぐにはうまく言葉が思い浮かばない)微妙な、身体で感じられる感じがあり、
  2. その感じの中から、新たな、はっきりとした意味が啓示される体験があり、
  3. 超越的(transcendent)な次元での成長過程を伴う

この3つの条件を満たす必要があるとのことである。

 実は、この中の1.と2.は、フォーカシングで言う、

  1. 身体で漠然と感じられたフェルトセンス(felt sense)に注意が向き、
  2. その感じの中から、身体の感じの変化と共に新たな気づきをもたらすfelt shiftが生じる

ということに他ならず、通常のフォーカシング体験や、生産的なカウンセリング場面、あるいは創造的な表現や発見の現場ではごく普通に生じている現象である。

 だが、このような「身体で感じられた曖昧なモヤモヤした何かの中から、身体の感じの解放と共にその個人固有の意味が啓示される」という実感ある体 験が、いくら信心しても得られていない人は少なくないらしい。仏教的に言えば「悟り」の経験が得られたという実感がないということにあたるかも知れない。

 しかも、それが通常のフォーカシング的体験ではなくて「スピリチュアルな」体験と言えるためには、

  3..超越的(transcendent)な次元での成長過程を伴う

が加わることとなる。

 ヒンターコフはこの「超越的」体験のことを、

「今までの自分の準拠枠(frame of reference)を越えて新しい次元に進んでいくこと」

「深いところから命を前に進めるエネルギー(life forward energy)があふれ出し、自分の中の何かが動き出すこと」

などとも説明している。いわば「世界」の体験の仕方そのものが全体としていきいきと変容していくような経験であるとも言えるかも知れない。

***

 ヒンターコフは、このようにスピリチュアルな体験をフォーカシング的に定義する上で、体験の「内容(content)」ではなくて体験の「過程(process)」という観点を重視した。

 つまり、「スピリチュアルな」体験の中で、具体的に「何を」体験し、それをどのように意味づけるかは人それぞれである。ある人はそれを「悟り」と 呼び、ある人は「神の臨在を体験した」と呼ぶだろう。ある人は「前世の自分の記憶を思い出した」といい、ある人は「宇宙と自分との合一を体験した」といい、あるひとは「イエスが神でありなおかつ人であり、いつも自分と共にあることが実感できた」というかもしれないし、ある人は「全てが<無>であることがはじめてほんとうにわかった」というかも知れない。

 それらを聞いていて、「内容」や「具体的な意味づけ」に感情移入できないどころか、抵抗や嫌悪すら感じる場合もあるだろう。

 しかし、「それは『あなたにとって』どういう意味があるのですか」などと、更に具体的に、そこに到る個人的な心情のひだの動きを更に傾聴していけ ば、かなりの程度まで、その人個人の中でどういう「感じ」が生じ、それがどのように変容していったのかが実感を持って共有できる可能性が開けてくるのである。つまり、はっきりしない漠然とした感じの中から生起した何かが、身体感覚のシフトを伴う気づきを生み出したプロセスそのものにシンクロし、共有することはかなりの程度可能になる場合がある。

 ヒンターコフは、このようなスピリチュアルな体験の「プロセス」の次元でならば、特定の宗教や神秘思想の用語への違和感などに振り回されずに共有可能と考えたのである。この人は「こんな」感じの中から「こんな」感じが生起してきた体験を、例えば「神の実在を体験した」と名付けているのだ、その名付け方には自分はなじめないが、その人にとっては、「その」体験をつなぎ止めるためのhandleとして、それを「神の実在体験」と呼ぶのがどうもぴったりらしいことは受容しよう……という形で接点を作るわけである。

 その体験をどのような「名前」で呼ぶかは、その個人固有の領域なのである。

 大事なのは、そこに身体感覚の変化と、その人にとって漠然と意味ありげに感じられていたものの中から何かがはっきりとした意味として実感できるようになる過程そのものを、相互作用の中で共有できることそのものなのだ。

***

 

「果たして、スピリチュアリティというテーマで人が集まるかのか?」

 このような疑問を抱いていた人は少なからずいたようである。私もその一人である。多くの日本人の宗教との関わりが形骸化している中で、果たしてピンと来てもらえる人がどのくらいいるのか?

 今回の東京セミナーは、幸いにして定員いっぱいの50名近い参加者に恵まれた。インターネットでのこのホームページ経由の宣伝によって関心を持って参加して下さった方も数名おられた。

 当初、やはり「スピリチュアリテイ」の定義について若干の質疑応答があった。 ヒンターコフ自身、欧米では「スピリチュアリティ」とさえ言えば多 くの場合自然と共通理解が得られる問題に、日本人が必ずしも易々とは反応してくれない可能性を感じた瞬間があったようである。

 ・・・が、前述したような、「例えば自然や、詩や、音楽への感動体験の場合にもスピリチュアルな体験と言える場合がある」というような説明の中で、「ス ビリチュアルな体験」とは、予想していたより幅広い範囲の体験を包含していいのだという共通理解が生まれてはじめて、ワークショップは順調に進みはじめたように私には思われた。

***

 さて、以上のような、ひとわたりのレクチャーが終わったところで、休憩をはさんで、全員一緒のワークがはじまる。

 最初はヒンターコフの教示に従い、全員一緒に行い、その後で数名の小集団に別れて互いの感想を共有、最後に、再び全体会で、自分の体験を全体で共有していいという人の自発的発言を求める。

 最初のワークは、英語版のパンフには

「聖なる言葉についてのフォーカシング」

と書かれ、

「まずは、あなたにとって聖なる意味を持つ言葉(sacred text)をまずはひとつ選んで下さい」

と書いてある!

 これだけでは大半の日本人は乗れそうにないところだが、ヒンターコフはすぐに付け加えた。

「これは、あなたに感銘を与えた詩の一節や、ことわざ、あるいは自然の風景などでもいいのです。『まだはっきりとした意味はわからないけれども、そこには<何か>がある』という印象を残したようなものがいいと思います」

 私にはこの、ヒンターコフが最後に付け加えた、

「『まだはっきりとした意味はわからないけれども、そこには<何か>がある』という印象を残したようなものがいいと思います」

という示唆にピンと来るものがあった。

 そんなに内面をまさぐらなくても、そのヒンターコフの言葉にインスパイアーされるようにして、ここ2,3年、しばしば私の脳裏に甦り、時々反芻してきた、ある光景と、その時の「説明しがたい身体の実感」がいきいきと浮かび上がってきてくれたのである。

***

 私の体験について語る前に、ヒンターコフがワークショップで、せいぜい15分前後のワークとして用いる際のワークの手順のひとつをここで示してみよう。

 以下の教示をひとつずつ、じっくりと間合いを置いて、相手の応答に即して提示していく。ひとりがこれを読み上げる形で集団で行うこともできる。

  1. 自分が選んだ言葉やイメージを思い出して下さい。
  2. 自分自身にその言葉やイメージをゆっくりと繰り返しましょう。自分の中に生じてくる「感じ」や「気持ち」に気づいて下さい。
  3. その言葉やイメージを繰り返し想起し、味わいながら、そこで生じてくる「気持ち」をしっくりと表現するちょうどいい言葉を探してみましょう。
  4. あなたの中に生じてきた、その「気持ち」や「感じ」とじっくりと一緒にいてあげてみて下さい。そこに、もっと「何か」がそこにあるという感じが感じられないかどうかに注意を向けてみて下さい。
  5. その「感じ」と一緒にいながら、その「感じ」に向かって次のように問い掛けてあげることもできるかもしれません:

     「この言葉やイメージの何が、私に<こんなふう>に感じさせるのだろう?」
     「この言葉やイメージの何が、私にとって最高なんだろう。あるいは、凄く意味深く感じさせるんだろう」

    こんな質問をして、「感じ」の方から「あなた」の方に、何か応答のようなものがやってくるのを待っていましょう。
     そのような応答が返ってきたら、それを繰り返し自分の中で味わい、その応答が自分の実感にしっくりくるものかどうか確認して下さい。
  6. そして、最初の言葉やイメージに戻ってみて、今の自分がそれをどう感じているか感じなおしてみて下さい。新しい自分の「感じ」や「気持ち」があれば、それを表現してみて下さい。

 ここでは詳しくは説明しないが、これらは、通常のフォーカシングのプロセスとそれぞれ対応している。つまり、

2.フェルトセンスを掴む
3.フェルトセンスにとりあえず実感の上でぴったりな付箋となるような言葉を見
  つける(get a handle)
4.フェルトセンスと一緒にいる(being with)
5.フェルトセンスに問い掛けて応答を待つ(asking)
  →生じてきたものを受け止める(receiving)

となる(詳しくはジェンドリン「フォーカシング」 福村出版 参照)。

***

 さて、私がこのワークで選んだのは、3年前の夏の終わり、蔵王に行った時の体験である。

 当時の私には、終末の仕事の帰りに、思いついたように一人旅に出たことが時々あった。帰り道の駅からビジネスホテルに電話して予約して、新幹線でその日のうちに移動できるところまで移動してしまう。あとは出たとこ勝負である。

 その時はその日のうちに新潟に出て、翌日米坂線まわりで山形に移動、山形の宿を確保した上で、蔵王に日帰りで向かうことにした。季節運行の山頂まで登れるバスがまだ出ていると知ったからである。

 8月29日、バスとリフトを乗り継いでたどりついた蔵王の山頂は、かなり風が強く、やや肌寒くすらあった。夏の山によくあるように、日は射しているけれども、雲が速いスピードで流れていき、いつ天候が崩れて雨になってもおかしくない感じだった。観光客はまばら。

 行かれた方はご存じのように、山頂の近くの展望台から、火口湖、お釜が見渡せる。見渡せると言っても眼下に間近にあるわけではない。1キロ近くは 彼方のやや斜め下に見下ろせる。その間には荒涼とした稜線が次第に落ちていき、お釜の右手の方は硫黄が吹き出す緩やかな谷となっていたと思う。

 日は射しているにもかかわらず、上空の雲を映して、「お釜」の水面はむしろ鉛色というのに近く、そのまま灰色の稜線と溶け込んでいた。

 なぜか私は、その時、遠くに見えるそのお釜の鉛色の水面と、右手に見える白っぽい谷が次第に地平線に向けて高度を下げている光景に「不気味な怖さ」のようなものを感じたのである。

 私は、海か山かと言われれば、山派だろう。九州に住んでいたから、霧島や阿蘇・九重・雲仙などには何回も行っているし、火口湖や噴火口の光景にも小さい頃から馴染んでいる。その私が感じたことがない、奇妙な「怖さ」だったのである。

 おかげで、それ以来、その時の光景が、この3年間の間、何回も自分の脳裏に自然と蘇り、反芻されていたのである。

 すでに述べたように、言葉やイメージを選ぶ際、ヒンターコフは、「『まだはっきりとした意味はわからないけれども、そこには<何か> がある』という印象を残したようなものがいいと思います」という示唆を付け加えた。この示唆の言葉に触発されて、全く自然に脳裏に喚起されたのは、この三年前の、蔵王のお釜を見下ろした時のイメージと「体感」だったのである。

***

 その、目に焼き付いた光景とその時の「体感」を自分の中に繰り返し反芻しながら味わった。(2.)

 すると、最初それは「不気味」あるいは「こわい」という言葉が、とりあえずふさわしいように思われた。(3.)

 だが、それだけでは言い尽くせないsomething moreが、その言葉にならない実感の中にはあると思えた。

 しばらく「その」実感と一緒にいてあげる(4.)うちに、身体に感じられている感じの質が少し別のものに変容してきた。

「不気味」あるいは「恐い」……というより、

……「厳しい」

そう、何か一種の「厳しさ」「畏怖」のようなもの。

その方が実感には近い。

 私は「厳しさ……のようなもの」という言葉を自分の中の記憶の光景と実感に重ねあわせながら、この言葉だけで実感にしっくりかどうか再度確認していく。

 ……これでもまだ不十分だ。まだ「先」がある。説明され尽くしていないエッセンスの核心、「何か」がそこにはある。

 そのうち、その心の中の蔵王の風景を眺めている私の身体の前面の方が、何かある独特の緊張感で満たされてくるのがわかる。身体前半分の皮膚がピリピリしてくる。まるで蔵王の風景に圧迫されるかのように。

そして、なぜか、目頭だけが熱くなる。

「絶対的に、そこにある」

「どうしようもなく、そこにある」

という言葉が浮かぶ。

 なぜか、この蔵王でお釜を見下ろした時だけ、「もし、仮にこの風景をハイビジョンの映像として眺めても、ここまでありありと<そこに-ある>という感じはしないだろうな」などということを連想していた自分がいたことを、この時やっと思い出しした。

 これは「映像」ではない

 湖は、<そこに-ある>

 谷は、<そこに-ある>

 どうしようもなく、<そこに-ある>

 私の中に、その、確かに<そこに-ある>光景に圧倒されつつ、ほとんどそれに涙を流しながら「ひれ伏したい」というのに近い思いがあることに気が付く。

 (後で、全体でshareする際に、拙い英語力でヒンターコフにこの時の感じを伝えるのに私が選んだ言葉は、

”surrender(降伏する)”

だった)。

 しばらくその感じと共にいた。

「こうふうふうな感じにさせるのは何なんだろう?」と内側に問い掛け、返事を待つ(5.)。

 しばらくして浮かび上がった言葉は、自分でも意外なものだった。

 「……絶対的父性……

  ……絶対的父性 ???」

この私の中に、絶対的な父性にひれ伏したいという感情のようなものがあるのだろうか?

 これは意外だった。というのは、私は、むしろ「絶対的父権」のようなものを心の中で軽蔑してきたとずっと思っていたからである。

 私は更に、6.の教示、つまり、

> 6.そして、最初の言葉やイメージに戻ってみて、今の自分がそれをどう感じているか感じなおしてみて下さい。新しい自分の「感じ」や「気持ち」があれば、それを表現してみて下さい。

に進むことになる。再びお釜を前にしたときの私のイメージと体感に戻ってみる。

 すると、これまた予想外なことに、私の身体にしみ通るように感じられてくるのは、先ほどまでの、あの、「恐い」「不気味」「厳しい」などという感覚とは打って変わって、ある柔らかくて、潤いと親しみに満ちた感覚だった。

  「その」感覚にぴったりの言葉を敢えて探し求めるならば、……そう、

「愛おしい」

というのがかなり近いという感じだろうか。愛する人やペットへの何とも切ない感覚に近い何か。

***

 恐らく、この私のフォーカシング体験の中で問題になるのは、ありふれた「父性復権」についての議論などではない。

 私が「絶対的父性」という言葉でとりあえずつなぎ止めている私の中の「体感」が含蓄するもののみが、私にとって重要なのである。 

 おそらく、

「どうしようもなく、そこにある」

という言い方の方こそが、肝心な本質に肉薄するものだろう。

 そこには、確かにあるひとつの布置(constellation)がある。つまり、私のおかれた状況が、非常に多重的な意味で、ある共通の構造を持って、その言葉と響きあっている。

 現在の私には、いくつもの意味で、以前よりも責任を負わされつつある。 様々な役職。結婚に際しての、実家との関係の変化。いずれ自分が父になるかもしれないこと。

 だが、何より、私自身が、私自身の「存在感(presence)」に、何か基本的なところで不満なのだ。

 あるいは、もっと、既成の経験ある先達に素直に心を開き、学びたい気持ちを押し殺して強がっていたのかもしれない。

 もちろん、こうした言い方は「ひとつの解釈」にすぎない。蔵王の光景とその時の理屈抜きの体感についてフォーカシングする中から私の中に生じてき た身体感覚そのものの変容は、このような特定の「意味づけ」だけに押し込めるわけには行かない、something more としてまるごと味わい続けるべきものなのだと思う。

 「そこ」から、無限に、果てしなく、意味が交差(crossing)し、あふれ出してくるのだ。その全てが、何らかの意味で、その時の私にとっては「的確な」象徴化のステップである。

 だが、その時その時の言葉の意味内容にしがみつくことはむしろ避けた方がいい。このことはジェンドリンも「夢とフォーカシング―からだによる夢解釈」などで繰り返し述べるとおりである。

Okama

 ご存じのように、蔵王は山岳信仰の地でもある。もとより、私の場合、ほとんど思いつきで、バスとリフトで背広姿のままでお気楽に昇ってきた人間の印象にすぎないわけだが、やはり、昔の人も、あの目の前の光景から何らかのその人なりの啓示を受けたのかも知れないとは思う。写真もない時代に、遠方からやって来て、苦労して自分の足で登った昔の人に与えたインパクトは遙かに大きなものだったのではなかろうか。

 ただ、私の場合、その時の光景から体感された「言葉にならないもの」を自分なりに消化することをはじめられるまでには、こうして3年間も反芻するしかなかったのである。

 ヒンターコフのワークを体験させていただいたことは、その停滞していたプロセスが再び化学反応をはじめる触媒として、私にとって、 確かに役に立っている。

***

 ヒンターコフは、ワークショップの後半で、もうひとつのワークを示した。彼女が持参した、世界各地の美術館の名画の絵はがきの中から、自分の中の何かを触発するものを選び、それを手元でじっくり観た上で、その中から生じてくる曖昧な実感そのものにフォーカシングするというものである(「ポストカード・セッション」と呼ばれる)。

 これは、心理療法の現場にも応用し易いだろう。既成の絵でもいいが、絵画療法や箱庭療法の中でクライエントが作った作品についてこの様なことをクライエント自身にやってもらうのも面白いかも知れない。

 あるいは、俳句や短歌の鑑賞にも応用できないだろうか。自分がなぜその句が気に入ったのかを、虚心に振り返り、ことばにしていくための。

 ちなみに、こちらのワークで私が選んだのは、北斎の富嶽三十六景の一枚と思われる武蔵野の光景だった。一面のススキの原の彼方に小さく富士が見える、青が基調のもの。

 絵そのものをみるとそんなでもなく見えるのだが、私の瞼の内側でのその光景は、強風で煽られてススキが激しくざわざわと音を立てている様になっていた。その激しさには、暗さというより、あるエネルギー感のようなものが伴っていたように思う。

 「何か」が、激しく、騒いでいる。

 残念ながら、このワークショップの中では、その意味まで開示できなかったが、その絵を見たときの感じは今も残っている。蔵王に代わる、私の新たな「宿題」かもしれない。

***

 最後に、この意義深いワークショップを開催して下さった、講師のヒンターコフ博士、そして主宰した「フォーカシング・ ネットワーク in 東京」の、近田輝行さん、日笠摩子さん、片山睦枝さんをはじめとするスタッフの方々に御礼申し上げたいと思います。ありがとうございました。

 そして、参加された皆様、楽しい一時を共にして下さってありがとうございました。この日は多忙のため、残念ながら懇親会までは参加できませんでしたが、皆様のご感想もうかがう機会を持てたらと思っております。

 

参考文献:

Hinterkopf,Ph.D.,
Integrating Spirituality in Counseling: A Manual for Using the Experiential Focusing Method,Amarican Counseling Association,1998.

邦訳
エルフィー・ヒンターコフ著
「いのちとこころのフォーカシング ~体験的フォーカシング~」
(日笠摩子・伊藤義美訳 金剛出版)

 なお、本文中で紹介したエルフィのワークのマニュアルの日本語訳については、当日配布された日英対訳のブックレットの、日笠摩子さんによる訳を参考にさせていただきました。

エルフィー・ヒンターコフ/いのちとこころのカウンセリング―体験的フォーカシング法

Integrating Spirituality in Counseling: A Manual for Using the Experiential Focusing Method

===========再掲終わり===========

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2009/10/28

BOY MEETS GIRL -「崖の上のポニョ」とバリントのオクノフィリア- (第2.10版)

 これは高校時代に留学した経験がある若い友人にうかがったのだが、

「アメリカではティーンである自分たちのことをいつも大人扱いしてくれたから、すごく気持ちがよかった」

とのことである。

 なるほど、欧米では、思春期に入ると、「大人予備軍」としてティーンエージャーを扱う文化があるのだと思う。

 ところが日本はどうか? 子供が徐々に大きくなり、「純粋無垢さ」を失い始めると、むしろそのことに苛立ち、どのように取り扱うかに困惑する親世代が今でも多いのではないか?

*****

 この映画の中にも、そういう「父親」が登場する。

 (・・・・・以下、完全にネタバレに突入します・・・・・)

 名前をフジモトという。彼は、汚濁に満ちた人間界が嫌になり、今や、海中に珊瑚の邸宅を持つ、魔法使いのような存在として生きている。

 彼は壮大な「人類補完計画」、もとい、「地球再生計画」を持っている。

 「命の水」と呼ばれる精製された海のエッセンスのようなものを抽出し、それを井戸の中である臨界量に達させた時に、一気に「生命の大爆発」が生じ、古生代カンブリア紀の海洋生物の楽園が復活することを夢見ているのだ。

 すでにそれを実現するためのプランテーションとしての、結界で守られた「牧場」をもっており、そうした古生代の生物たちに囲まれて、大事に育てられているのが、彼と、海の女神、グラン・マンマーエの間に生まれた娘たちなのだ。

*****

 ふとしたきっかけから、その中の一番お姉さん格の一匹(ひとり?)が、普通の海辺に迷い出ることになり、海辺の崖の上に住む少年、宗介に助けられる。

 彼女が閉じ込められたガラス瓶を宗介が割る際にできた小さな傷を彼女がなめて癒した時、彼女の中で「人間の血で劣等遺伝子が覚醒(以上、父フジモト談)」してしまい、急激な人間化の兆候が見られはじめる。

 宗介は彼女にポニョという名前をつけ、彼女もそれを気に入る。

*****

 しかし、ポニョは結局フジモトの差し向けた波の使い魔によって再び父の「竜宮城」に連れ戻される。

 彼は人間になりたがって言うことを聞かなくなった「ブリュンヒルデ(=ポニョ)」が気に入れない。

 「命の水」の力で、彼女を再びもとの「無垢な」姿に引き戻してしまう。

 彼は、一見エコロジー主義者に見えるが、実のところ、自分と関わる対象すべてが自分を快適にしてくれるように操縦しようとする、裏返しの支配欲の塊なのである。

 まるで、自分が鍵穴で、の方が自分にしっくりとあわせてくれる形にならないと気がすまない。

 彼は自分以外の対象が自分に「膚接」してくれることを求めている。相手との関係の間に「隙間」を感じると、まずは相手の方を自分に合わせてくれるように振り回す。

 相手が、自分の気持ちを完全に「察して」先回りして行動してくれないと、もうそれだけで耐え難いわけであり、相手が自分からは独立した自我を行使し始めたら、片っ端からその目を摘み、自分のためだけの存在にしようと操作するである。

 もとより、これは実はそれだけ相手の存在に自分が依存して、はじめて自分を支えているということであり、故・土井健郎先生が使った本来の意味での「甘え」の状態のバリエーションであるとも言える。

 実は親の方が子供に「甘える」という世代間逆転状態が背後では進行しているのだ。

 このような形で退行する人たちのことを、この前の「魔女の宅急便」の記事でもご登場いただいたハンガリー出身のイギリスの精神分析家、バリントは「オクノフォリア」と呼ぶ。

バリント/スリルと退行

バリント/治療論からみた退行―基底欠損の精神分析

 (この前の「魔女宅」記事でもご紹介しましたが、この「ポニョ」記事を、当ブログにおいでになり、最初にお読みの方があるかもしれませんので、改めて、私の学会発表時の添付資料としての2冊の抜粋がPDFへのリンクを呈示させていただいておきます。興味のある方はこちらからご覧下さい。更に、バリントの「治療論からみた退行」についての総論を、こちらで書きました。)

 前回ご紹介したフィロバティズムにしても、オクノフォリアにしても、成熟した個と個の対象関係という観点からすると「退行的な」状態である点では共通している。

 ただ、フィロバットは、人間以前に、自分を包む空間全体を「お友だち」にしてしまえるまで自分のスキルを磨き上げる孤高な存在なのに対して、オクノフィリアは、空隙そのものを恐怖する。そして、自分が技を磨くのではなくて、周囲の人間の方をコントロールして従わせようとするのだ。

 フジモトは、決して、自然の海水に身を委ねてのびのびと安心していられる存在ではない(だからフィロバットではない)。むしろ自然のままの海を穢れたものだとしか感じていない。

 しかし、ポニョの成長は、自然の海水に触れたからこそはじまったのが現実なのである。

 そして、フジモト自身は、魔力で結界を生み出した中での純化された人工的な「命の水」領域を、海の中でもヘルメットのようにかぶりながらしか存在し得ない。

 それはまるで・・・・・人工的な「羊水」で満たされた「子宮空間」を持ち歩いているかにも見える(もとより、それはいい意味で人に若さを取り戻させる魔法でもあるようだが)。

*****

 ポニョは再び脱出を敢行する。魔法が使える彼女の血は、海に大嵐を巻き起こす。そして今度は、彼女は、ほんとうの人間の少女の姿になっていた。

 宗助の家庭が、お互いを対等に名前で呼び合う、近代的核家族の理想の姿であるかのように描かれているのも興味深い。母親リサは、勤勉で機転が利く職業人であり、同時に十代の娘のような感情の奔放さももっているが、宗介をいい意味で早くから大人扱いし、厳しい時は厳しいが、権力的でない諭し方を心得ており・・・・・同時に、まだ5才の息子の寂しさへの思いやりも失わない。

 勤務先の老人介護施設に、天候がおさまった一瞬の隙を突いて、海沿いの道を車で救援に向かう際に、母親のリサは、宗介とポニョを同乗させることを選ばなかった。町中が水没し、停電する中で、どれだけ潮が満ちても水没しない丘の上の家に、今も明かりがともる家(自家発電できるのだ)があることがどれだけ大事かを言って聞かせる。

 「遠くに行ってしまう母親」との間に大きな「距離(間隙)」が横たわる・・・・宗介にとってのオクノフィリア誘発的試練である。しかし、リサはそうした宗介の不安を十分に汲んだ上で、「きっと帰ってくる」と、離れても失われない信頼の絆を結ぶのである。(リサ自身は、あのドリフト運転、ものの見事にフィロバット的ですが)

*****

 ・・・・・・・これ以降のストーリーについては言及しないでおこう。

 (それでも、この映画を見て「わかりにくかった」皆様にとっては、随分とすっきりとさせる整理を試みたつもりですが、いかがでしょう?)

 だだ、これだけは言い添えたい。

 この作品、一見、5歳の幼児を主人公にしているかに見えるけれども、実際には、もう少し年上の"boy meets girl"の物語に他ならないように、私にはどうしても映る。

 だから、BGMは、敢えてひねって、TRF - WORKS -THE BEST OF TRF- - BOY MEETS GIRLTRFとしましょう。

 歌詞はこちら

 (ほんとうにアニメ作品でこの曲をエンディングとして使ったのは、「赤すきんチャチャ」ですが^^)

*****

 そして、「魔法を失う」という問題については、私自身のアニメ評論のデビュー作(心理臨床系大学院への合格を面接時に確信した日に書き、2ヵ月後月刊"OUT"誌上に掲載された、

●魔法という名のモラトリアム(1986年2月29日執筆)

をご参照ください。

崖の上のポニョ [DVD]「崖の上のポニョ」 特別保存版 [Blu-ray]

******

【第2版での追加】

 ポニョに本来父親フジモトが与えていた名前、「ブリュンヒルデ」といえば、ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指輪」で、主神ヴォータンの娘、ワルキューレ(女戦士)の一人(物語全体の実質的ヒロインです)であることを、クラシックファンなら否応なしに連想する。

 フジモトが「ブリュンヒルデ!」とポニョに呼びかけた瞬間に、「ああ、もうこのオジサン、勝手に自分の夢想の世界に酔ってるな・・・・」と苦笑できる仕掛けになっているわけです。

 ブリュンヒルデは永い眠りから王子ジークフリートによって目覚めることになっているわけで、宮崎さんはやはりストーリー的にも影響受けていますよね。

 この映画の一番有名な「あるシーン」が、もろに「ワルキューレの騎行」張りのBGMですよね(wikipediaが「ワルキューレの騎行」そのものであるかのように記述しているのは誤り・・・・BGMの久石譲さんが「ワークナー風に」作曲したのではないか? ・・・・・でも、ううう、私、歌劇には比較的弱くて、とても上演に4晩かかる「指輪」の音楽の全体なんて思い出せないから、ワーグナーの「指輪」の中にある、他の部分の音楽をそのまま引用した可能性も否定できない・・・・)

 まずは、オーソドックスに、映画「地獄の黙示録」でも使われた、ハンガリー出身の名指揮者、Berit Lindholm, Birgit Nilsson, Brigitte Fassbaender, Claudia Hellmann, Helen Watts, Helga Dernesch, Marilyn Tyler, Sir Georg Solti, Vera Schlosser & Wiener Philharmoniker - Wagner: The Ring (Great Scenes)故・ゲオルク・ショルティ指揮、ヴィーン・フィルの抜粋盤をご紹介しておきます。

ワーグナー:楽劇「ニーベルングの指環」~オーケストラル・ハイライツ

 あと、個人的には、「指輪」の管弦楽のみによる抜粋としては、全然「歌劇的」ではなくて、とことん「純音楽」としてのタイトな仕上がりを重視した、無茶苦茶にオーケストラの性能が高いのがわかる、これまたハンガリー出身の往年の名指揮者、ジョージ・セル指揮/クリーヴランド管弦楽団のが、隠れた名盤としてお勧め。

 もちろん「ワルキューレの騎行」入ってますけど、何よりKlaus Tennstedt & ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団 - Wagner: Orchestral Excerpts from Operas - Gotterdammerung (Twilight of the Gods) : Dawn and Siegfried's Journey to the Rhine「 夜明けとジークフリートのラインへの旅」(リンク先はテンシュテット盤)が、こんなに「スポーティー」で「爽快な」演奏はセル盤の他にはありません!!

【追記】:このセル盤、何とBlu-spec CDでリマスターされて再発されているではないですか!!(限定盤です。普通のCDプレーヤーでも聴ける筈です)

Blu-spec CD ワーグナー:ニーベルングの指環(ハイライト)

(楽天はこちら)

 ワーグナー、特に「指輪」が苦手だった私の印象を根底から覆した、「ワーグナー嫌い」にお勧めの名演奏です。ほんとうにお勧め!!

 YouTubeは、本家、バイロイト祝祭歌劇場での、ピエール・ブーレーズ指揮、パトリック・シェローによる歴史的名演奏を貼り付けておきます(^^)

●Wagner - Die Walküre: "The Ride of the Valkyries" (Boulez)(YouTube)

Shop.TOL

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2009/10/21

やさしさに包まれたなら -「魔女の宅急便」とバリントのフィロバティズム-

 キキは突然飛べなくなった。

 最大の引き金は、依頼人のおばあさんがせっかく孫娘のために心を込めて焼いた包み焼き・・・しかもその完成のためにキキも古い薪オーブンを稼動させるお手伝いをしている・・・を、突然の雨にずぶ濡れになりながら届けた先の孫娘の反応、

「だから、いらないって言ったよ。あたし、このパイ嫌いなの」

との言葉と共に扉が冷たく閉ざされたことだった。

 キキは下宿先のオソノさんの心配りもあって一度は立ち直る。しかし、せっかく初デートに出かけたトンボの友達に「あの孫娘」が含まれていると気がついた時、突如豹変して家にひとりで帰ってしまう。

「ジジ、私、どうかしてる? 素直で明るいキキはどこかに行っちゃったみたい」

 ところが、ジジはただの普通のネコのようニャーと応えるのみ。ジジはすでに恋人のメス猫ができてから、関心がそちらに向かい始めて以来、「普通のネコ化」が徐々に進行していたようだが。

 しかし、ジジの言葉が解せさなくなったことに気がついた瞬間、キキは嫌な予感に襲われ、箒(ほうき)にまたがってみる。

 魔法の力が、ほんとうに弱くなっている。

 それでも飛ぼうと繰り返し試みるうちに、旅立ちの際に母から譲り受けた箒そのものが折れてしまう。

 こうして、キキは完全に、故郷との「つながり」の証し、(人語を解するジジと母の箒)、すなわち、精神分析的対象関係論のウィニコットが言う「移行対象」を喪失する。

ウィニコット/遊ぶことと現実 (現代精神分析双書 第 2期第4巻)

(楽天ブックスはこちら

 生まれ故郷から大都会に舞い降りた段階から、何か人との間に、独特のよそよそしい「隙間」を感じることが時たまあることに当惑し続けていたキキの慢性的なストレスは、ついに限界に達したのだ。

 キキの生まれ育った故郷とは、我々の少なからぬ部分が、遥か彼方の幼児期に体験していた、世界との幸福な一体感、まさに「やさしさに包まれた」頃の体験世界の理想化された象徴である。

 (・・・・それにしても、宮崎駿さんの、キキのくるくる変わる感情の移り変わりを画面上だけで表現し切れてしまう力は、今観直しても、とてつもない域ですね)

****

 キキに救いの手を差し伸べてくれたのは、すでに偶然の縁があった、夏の間は森に住む、絵描きのウルスラだった。

 ウルスラは、前にキキに会った時の印象に触発されて、一枚の絵を描きつつあった。しかしキキに当たる少女の顔の部分の表情がどうしても決まらないで、その絵をやめてしまおうかとすら思い悩んでいた。キキ自身をモデルに写生することから立て直しを図りたくてしかたなくて、なかなか再来しないキキに会いに行ったというのがほんとうのところだろう。

 ウルスラはキキを写生しながら思わず口にする:

「あんたの顔いいよ。この前よりずっといい顔してる」

 落ち込んでいたキキは、恐らくこの言葉に内心きょとんとしたことだろう。

「魔法も絵も似てるんだね。私もよく描けなくなる」

 寝る前の語らいの中で、ウルスラは口にする。

「そういう時、どうするの? ・・・・私、前は何も考えなくても飛べたの。でも、今はどうやって飛べたのかわからなくなっちゃった」

と、思わず尋ねるキキ。

「そういう時にはじたばたするしかないよ。画いて画いて画きまくる」

「それでもうまく行かなかったら?」

「画くのを止(や)める。散歩をしたり、景色を観たり、昼寝をしたり、何もしない。・・・・そのうちに、急に画きたくなるんだよ」

「なるかしら?」

「なるさ。・・・・私も絵を画くのが面白くって仕方がなくて始めたんだけど、ある時、画いた絵が気に入らなくなった。誰かの真似に過ぎないって気がついたんだよ。どこかで見たことあるってね。自分の絵を描かなくっちゃ!ってね。・・・・でも、その後、少し前より、絵を描くってこと、わかったみたい」

 ・・・・このウルスラのセリフ全体が、宮崎さんの経験談それ自体であり、肉声そのものであることはつとに知られているだろう。

 「魔法って、呪文を唱えるんじゃないんだね」

 「うん、血で飛ぶんだって」

 「魔女の血、絵描きの血、パン職人の血、神様かだれかが与えてくれたんだよね・・・・おかげで苦労もするけどさ」

 ウルスラが、夏場は森の中でひとりで生活し、冬場は都会ではなくても、すでに開拓された田園地帯か何かで生活するという、森と平地との間「辺境人」的性質を持つ存在であることは興味深い。

 精神科医の中井久夫先生が、壮年期の二大名著、姉妹作というべき「分裂病と人類」「治療文化論―精神医学的再構築の試み」で強調するところによれば、洋の東西を問わず、古来、森の中とは人間界から切り離された「異界」であり、森の中に独居する、「薬草を栽培する老婆の文化」は、地域共同体の辺縁に置かれつつも、地域治療文化の大事な一部として暗々裏に統合されていた。

 それがいわゆる「魔女狩り」の対象とされるのは、実は中世のことではなく、宗教改革以降の近世初頭以降の出来事であることは、実は誤解されがちなことである。

 ところが、ヨーロッパにおいて、多くの宗教者や社会改革家(急進的な「世直し」をしようとする人たち)、そして近代の「力動的」精神医学の基礎を築いた大家たちの故郷は、非常に多くの場合、こうした「すでに切り開かれた平地」と「森」の辺縁地域の出身者が多いことを中井先生は指摘する。

 フロイトの出身地然(しか)り。ユングの出身地然り。精神分析が発展を遂げたヴィーンそのものが森の都に他ならない。

 ウルスラが、この物語の中で、図らずも魔女であるキキの癒し手として機能できたのは、ウルスラ自身が、そのような俗世間と森の世界の「境界人」的側面を強く持っていたからではないかと思われる。

 これはこじつけでもなんでもないと思う。

 宮崎さんだって、思っているはずだ。アニメーターなんて、世間の桧舞台に立つのは実はおかしくて、もっと「ひっそりとした」「地味な」商売だったはずなのに・・・・と。

*****

 さて、この作品に限らず、宮崎作品の飛行シーンは、他の誰も真似ができない域のものであることはよく言われるとおりである。

 そのことの最大の秘密は、実は宮崎さんが、飛行を支えているのは空気に他ならないということに徹底的にこだわっているためだと思う。

 日本のアニメは、「宇宙戦艦ヤマト」の時代から、宇宙空間を中心に飛行シーンを描くことに特異的に発展したために、この「空気があっての飛行」ということに対する感性がアニメーターの間でほんとうには熟成されないままになりがちだった。

 振り返ってみれば、これまで宮崎さんが関与した作品の中で、宇宙空間を舞台にしたものが、果たして一本でもあったろうか???

 飛行機乗りは、そうやって「大気を味方につけ」ないと飛行機を操れないことを嫌というほど知っている。

 そして、更にはその大気との関係と共に重要なのは、飛行するための道具としての「機体」と操縦者が、自分の体の延長であると感じられるところまで「一体化」できるかどうかである。

 この「魔女宅」のクライマックスシーンにおいて、故障し、大破した飛行船にぶら下がったトンボを助けんがためにキキが活用したのは、たまたま通りがかりの清掃夫のおじさんが持っていた、ありきたりのデッキブラシだった。

 キキがこのデッキブラシの操縦に手こずったのは、スランプ脱出直後の初飛行のためばかりではなかろう。更に、単に箒の場合とは勝手が違うというだけですらなく、心を込めて魔女が手作りしたハンドメイドではなくて、量産型の既製品だったからに他ならないだろう。

 おかげでその「機器」との「対話」が成立しにくいのだ。「人馬一体」にはほど遠い。

「こら! いい子だから言うこと聞いて!」

「まっすぐ飛びなさい! 燃やしちゃうわよ!」

 このような、「モノ」に過ぎない筈の対象に身体ごと「潜入(dwell in)」して、試行錯誤の身体的「対話」を重ねて、はじめて高度な習熟スキルとして自在に操れるという点が、単なるマニュアル的な「技術(technique)」と習熟的な「技能(skill)」の違いであることは、ハンガリー出身の科学哲学者、マイケル・ポランニ(ポランニュイ・ミハイー)の「暗黙知の次元」 で詳しく述べられている。

 そして、このような、多くの人にとっては身の危険を犯すスリリング過ぎる活動(曲芸や楽器の演奏やスポーツなども含まれよう)に没頭する人たちのことを、ハンガリー出身のイギリスのもうひとりの精神分析の大家、マイケル・バリント(バーリント・ミハイー)は、「フィロバット」と呼んでいる。

バリント/スリルと退行

バリント/治療論からみた退行―基底欠損の精神分析

 (このバリントの2大名著はまたもや再販されない状態に入ったみたいなので、この件については、私の学会発表時の添付資料としての2冊の抜粋がPDFとしてサイトに載せ続けているので、興味のある方はこちらからご覧いただきたい)

 「フィロバット」的人物=「フィロバティズム」が優勢な人物においては、はっきりとした輪郭と「固形の」性質を持った、「反発(objection)性」がある、自分からは独立した「対象(object)」との関わりに生きているのではない。

 古代ギリシャから言われてきた四大元素、すなわち、「土」「水」「火」「風=空気」という、自由に形状を変え、流動的で、対象を「包み込む」こともできる「前-対象」との友好的(frendly)な関係の中に生きている。

 バリント自身の言葉を借りれば、「魚にとっての水のごとき」環界との友好関係信頼していられないと、自由闊達にそのスリリングな能力を発揮できないのがフィロバットなのだ。

 突如別のアニメ・コミックを引き合いに出せば、「キャプテン翼」の名言、「ボールは友だち」の世界である。

 観ている人は、サッカー選手がいとも鮮やかにボールを「操って」いるかに見えるかもしれない。しかし、選手の主観は正反対のはずだ。まるでボールの方が自分のために最大限の協力を惜しまないかのようにして自発的に協調してくれているという感覚のはずである。

*****

 ところが、このフィロバディズムを生きる人たちは、自分をつつむ外界との圧倒的な信頼感・一体感に亀裂隙間が生じると、たいへんな危機を迎える場合がある。

 キキが陥った「飛べなくなる」状況は、まさにその典型だろう。あの孫娘が冷たく扉を閉じた瞬間、キキとキキを包む「世界」全体の間に深刻な「壁」と「亀裂」「隙(す)き間」が立ちはだかったのである。

 キキはもはや心から自由に「呼吸」することができない状態に陥った(風邪を引いた)。そして、せっかく心が通い合ったかに見えたトンボが、「あの孫娘」とも友達であると知った瞬間、トンボも「向こう側の世界」=「同じ空気を吸ってはいない存在」ではないかという疎外感に一気に引き込まれ、キキは自ら心を閉ざしたのであろう。

 (確かにそれはキキのひとつの思い込み・・・いかにも思春期的な・・・に過ぎず、エンディングではこの孫娘と二人が親しく会話しているシーンが挿入されてすらいる! これは単にキキが有名人になったからだけではなくて、その後交流するうちに孫娘の人間の全体像が見えていなかったことにキキも気づいたのではなかろうか)

*****

 不幸にしてそうでない人もいるが、多くの人は、全く天真爛漫に、世界との一体感に浸り、心安らかに浸っていられたかすかな記憶のようなものを抱えて生きている。

 そのさりげない記憶の世界でその人を「包んで」いる「やさしさ」とは、必ずしも人からのやさしさではないはすだ。

 陽の光、何げない風景の一つ一つ、それどころか室内の家具調度のひとつひとつ、つまり、自分を包む「世界」全体が、自分をやさしく見守ってくれているかのような体験だったのではないかと思う。

 (私がそのことをはっきり思い出した時の記録は、先述の学会発表時の論文集の本文の方にエピソードとして記載している。そちらもPDF化してあるので、興味のある方はこちらをご覧いただきたい)。

****

 さて、「魔女宅」のエンディング・テーマは、ユーミンこと荒井由実(松任谷由実)の初期の名曲、荒井由実 - ミスリム - やさしさに包まれたなら「やさしさに包まれたなら」である。

 こちらからリンクをたどっていただいて、歌詞をもう一度丁寧に読みなおしていただくと、ある事実にお気づきになるかも。

 ここに登場する「やさしさ」で包んでくれる存在の「正体」(?)とは、実は恋人ですらなく、生身の人間ですらなく、世界そのものだということ。

*****

 そして、きっと、

> 大人になっても、奇跡は起こる

のである。

*****

 ところで、エンディングをよく観ると、キキの乗っている箒は、掃除夫のおじさんに「必ず返します」と言った筈のデッキブラシのままなのである。

 トンボが作りつけてくれた鋳物の看板ですら、デッキブラシ姿ですよね。

 これは単に「事件」を解決した象徴だからとか、縁起かつぎ(?)などではなくて、ひょっとしたら、キキ自らが「選択した」行動だとも思えるのですが。

 このあたりの意味、考えてみるに値すると私は思えてきました。

*****

 この記事への「あと書き」がこちらにあります。

 【追記】:この記事の姉妹作(?)となった、「崖の上のポニョ」論はこちらです。

 バリントの「治療論からみた退行」についての総論を、こちらで書きました。

魔女の宅急便 [DVD]

MISSLIM(「魔女宅」で使用されたのと同じ、テンポの速いバージョンが収録)

●王子のきつねさんサイトでユーミンの代表曲のYouTubeをまとめたエントリーへのリンク

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2009/09/03

「カウンセラーこういちろうの雑記帳」の主要過去記事を一番簡単に一覧するには

 このブログって、すでに創設4年9ヶ月、過去のエントリー記事総数が、「この」記事で1,914本め、なのに一日あたりの新エントリー、平均1.10本以上を現在も維持、しかも長文が多いという、へヴィー級ブログです。

 おかげで、もはや@ニフティココログが割り振ってくれているサーバー負荷が相当なものになっているせいか、

  • 私の方からトラックバックを送ることがもはや機能しない
  • pingも自動では飛ばせない(その割には随分多くの読者の皆様が、新記事アップ直後においでいただけることを幸いだと感じています)
  • カテゴリーにすべての記事が反映しない(カテゴリーによっては300から400エントリー分表示されようとするわけで)

・・・・・という、新しくおいでいただいた読者泣かせのブログになっていると思います m(_ _;)m

****

 もちろん、バックナンバー全体を表示してくれる、『アーカイヴ』ページ(自身がココログユーザー以外の読者の皆様、お気づきでしたか??? 右フレームの「バックナンバー」という文字そのものをクリックするとたどり着けます)というものも、あるにはあるわけです。

 しかし、このページにお行きになっていただいたとしても、過去の個々のエントリー記事のタイトル一覧があるわけですらない

 このページからの「〇年〇月」を全部めくっていただくだけでも(全く休眠した数ヶ月を除いても、現在50か月分ほどあるわけですね(^^;)。その50ヶ月分、それぞれ月ごとに、毎月30から40エントリーずつはあるわけですから・・・・・

 つまり、私がこのサイトでこれまで書いてきた主要記事がどんなものか、新しい読者の皆さんにおおよその見当をつけていただくには、もうデタラメにご不便をおかけしていることと思います   il||li _| ̄|○ il||li

*****

 この問題を一気に解決し、

  • 新記事の方が上に来る形で、
  • 過去の記事に関しては私がある程度絞り込んでセレクトしたものを、
  • 数百記事ばかり、1ページをスクロールできる形で
  • ブログのような表示の重さがない形で一覧したいただける

そういうページが、実はずっと以前から存在します!!

●阿世賀浩一郎のホームページ/index

 開設1995年12月(つまりWindows95発売直後)開設、日本において、インターネットで個人サイトを作ることが本格的に普及し始めた黎明期から、何と基本的なデザインを変えないまま運営し続けているサイトです。

 かつては、ネットを代表するエヴァ・サイトのひとつ、「エヴァンゲリオン論考」で著名だった時代もありますけど、幸いにして著作化させてもいただきましたので、そのコーナーは全面削除いたしておりますが(「ちーちゃんの部屋」というアニメコーナーがかつて存在したことを覚えておられる方もあると嬉しかったりして ^^;)・・・・

そのトップページから、このブログでの新エントリー記事を書く度ごとに、固定リンクへのリンクを、たいてい速攻の連続作業でお貼りしてもいるのです。

 恐らく、皆様のRSSリーダーに反映するスピードの比ではない「即時性」で「新着情報」が掲載され続けています。

 同一エントリー記事の更新(改版)情報すら、可能な限り早くお伝えしています。

 

そこに並んでいる、当ブログ個別記事へのリンク数は、常時数百あるはずです(古いものから時々、精選のための「ダイエット」をかけますので、一定数以上には増えません)。

 しかし、敢えて今でも、基本的には「素朴なhtml言語の手打ち」に依存し、javaスクリプトすらないに等しいということで、このトップページそのもののバイト数の多さの割には、表示が圧倒的に軽い筈です(このブログのトップページを表示するよりは軽いと思いますよ)

 
当方のアクセス解析によって、「こっちのページで新着情報見つけるほうが手っ取り早い」ことにお気づきの、毎日数名以上の固定ユーザーの方がおられることは掌握しています(感謝!!)。

 しかし、そうした方の占める比率が以前よりもかなり減っているようにも思いましたので、改めてご紹介させていただきました。

 

今後とも、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」をよろしくお願い申し上げます。

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2008/01/31

ジェンドリンのフランクル賞大賞受賞詳細

 すでにご紹介しましたが、

●ジェンドリンがヴィクトール・フランクル財団の2007年GRAND AWARDを受賞しました(† tangine †)

今回は、nanaさんに全面お任せ!!

2008/01/02

プレートル/ウィーン・フィルのニュー・イヤー・コンサートは新鮮だった。

 クラシック部門も年始め。

 2日の夜にウィーンから生中継された、ニュー・イヤー・コンサートは、フランスの大家、ジョルジュ・プレートルによる指揮。

 スタジオゲストは、横浜にあるウィーン菓子の専門店として著名な、Konditorei Neues(コンディトライ・ノイエス。一部商品についてはネット注文もできます。あまりお高くない商品です)のオーナーシェフ、野澤孝彦さん。

 ニュー・イヤー・コンサートの歴史でも、フランス人指揮者による指揮はもちろんはじめて。どうも近年、アバドとマゼールとメータではもう新味はないと感じていたところに、思いもよらぬ老大家の登場。マリア・カラスの数多くのオペラ名盤での指揮でも知られる。

 たいへん新鮮で、透明感あふれ、ウィーン・フィルも乗りに乗った、優れた名演奏。その意味では2002年に我らが小沢征爾が振った時の名演以来ではないかと思う。

 この催しが、商業主義やエージェントにのみ翻弄されない、新鮮で意外な人選を今後もしていってくれることを今後も期待したい。

 

2007/12/13

ジェンドリン、2007年"Victor Frankl Award"受賞!!

 以下は、日本フォーカシング協会前会長、2009年フォーカシング国際会議実行委員長の、池見陽先生(関西大学)が、協会メーリングリストに報告して下さった内容の転載です:


******


  皆様


 ご存知と思いますが、ジェンドリン が Victor Frankl 賞を受賞しました。

 この賞は"outstanding achievements in meaning-oriented humanistic psychotherapy" に対して授与されるもので、ウィーン市とフランクル財団[VIKTOR FRANKL INSTITUT}が運営するものです。

 昨日付けでこれを報じるメアリー[・ヘンドリックス]のメールにある、ジーンの談話を貼り付けておきます。


池見 陽


"Yes, I knew Victor Frankl. I published one of his articles in the journal Psychotherapy;Theory Research and Practice (The journal of the clinical division of the American Psychological Association of which Gendlin was the founding editor).

I remember the editorial consultants wanted changes. I sent their comments to Flankl but told him in his case we would publish the article in any form he wanted. He wrote me a very appreciative letter about it. Also we met at some psychotherapy congresses in Vienna. I remember one especially good conversation we had.

Frankl’s writings showed that natural science was no reason to lose the role of the human dimensions. Our work makes room in the world for human meaning and human intricacy, but not in conflict with science. We both show human experience is wider than science.”


Akira Ikemi, Ph.D.
http://www.akiraikemi.com/ai


******


 上記のジェンドリンの談話を、拙く、不肖ながらも、私が訳してみます。

「ええ、私はヴィクトール・フランクルを存じ上げていましたよ。私は、"Psychotherapy Journal"で彼の記事のうちの1つを"Theory Research and Practice"(ジェンドリンが創刊した、アメリカ心理学会の分野別の会誌)で公表しました。

 私は、選考委員たちが変更を望んだのを覚えています。私はフランクルlに彼らのコメントを送りました。私たちは、彼の場合には、論文を、何としてでも公表して差し上げたいことを伝えました。彼は、それについて私に非常に思慮深い返事を書いてきて下さいました。また、私たちは、ウィーンでのいくつかの心理療法学会で会いました。私は、彼と話がはずんだ時のことをよく覚えていますよ。

 フランクルの著作は、自然科学が人間にとってある一定の役割を担い続けることにはかわりないことを示してくれました。私たちの仕事は、科学との争いなのでなく、人間にとっての「意味」と複雑性の領域を開拓しました。私と彼は、どちらも、人間の体験が科学より幅広いことを示してきたのです」


*****


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