絶望

2009/03/23

フォーカシング・ピープルに望むこと。 

 まさに「あなたの」、言葉にならない違和感を「あなた自身のために」尊重して欲しい。
 仮にそこに友好的な聴き手がいなくても、あなた自身だけは、自分の友好的な聴き手であり続けることを。

 そして、どんな境涯にあっても自分の聴き手であることを大事にし続けた人間は、
 フォーカシングを、

  「あいつ、何かうまく言葉にできないけど、違和感を感じさせる奴だね」
  「そうだね、場の安全を脅かす奴だね」

 という域で活用しかねない、実はフォーカシングを学んだ人間ならすべてが体験する「悪魔の誘惑」に乗ってしまうこを、自戒を込めて恐れ続けるだろう。

  (少なくとも、フォーカシングの外部の人間やフォーカシングにうまくなじめなかった人に、そのような誤解を与える危険があるということについて配慮すること。フォーカシング内部の人向けに安全を守っているつもりが、実はフォーカシングのグループの「適応者」を守り、クループでうまくやれない人疎外するシステムに容易になり得ることを忘れずに)

******


 普段は、次のような耳に心地いい(?)発言は軽率と感じ、控えているのですが:


 J-POPの歌の歌詞にしましばみられるような、


 「どんな境遇においても決して諦めない」

だとか、

 「自分のものさしを大事にする」

とか(久々のayuネタです)、

 「自分を見捨てない」

とか、

 「まずは自分を愛していないと」

ということを、

単なるお題目ではない形で、苦難のただ中で、具体的に自分の中にどうすれば実現できるか。

 さらに、実際にそうした苦難の場面のただ中で心の余裕を取り戻し、具体的にどうすればいいかを一歩一歩見出していくのに役立てられるところまで、その人の中で磨きあげる域に達しうるスキルだと思う。


 「人に癒してもらう」

のではなく、

「自分で自分の聴き手になれる」

ということの真の深みに触れ、

更に、

自分がほんとうはどのような他者との交流を日々の日常の中で実現したいのかにも目覚めていける。


........それが、フォーカシングを身につけることです!!


フォーカシングとは、厳しい現実社会を生きるための、実戦兵器です。

 それこそ、厳しい経済情勢の中で、行き場のない思いを感じて生きる、フリーター派遣の人にこそふさわしい!!

 だから、私が開業カウンセラーとして食べていける以上の料金は設定しないでいるのです。

人気ブログランキングへ
ビジネスブログランキング

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 心理カウンセリングへ
にほんブログ村
にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 音楽ブログ 女性ミュージシャン応援へ
にほんブログ村
にほんブログ村 ニュースブログ ニュース批評へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/10/14

ウィニコットの"good enough mother(ing)"をどう訳すか(第3版)

 これまた、直前の記事の後半で、ウィニコットについて書いたことから、心理療法家、特に精神分析系の、臨床心理先攻の心理学科学部学生以上にとっては十分に有益な情報をひとつ。

 ウィニコットには、もはやカウンセラー(特に分析系)だときちんと理解していないとモグリだといわれかねない水準の、指定校大学院博士前期コースを出た出た人だと、臨床心理士資格認定試験の受験勉強には欠かせない水準の概念として、

●移行対象(過渡対象)
●錯覚(illesion)/ 脱錯覚 or 幻滅(disillusion)

(わざと、資格試験のために最低限これくらいかなという素朴な水準の定義にリンクしました)

そして、

●good enough mother(ing)

の3つがあると思います。

 実は、直前の記事で紹介した「偽の自己(false self)」などを資格試験や大学院の入試に出題するのは、学生や臨床心理士資格受験者には酷と思います。

なぜなら、

1.J-Popなどでも歌われ、世間の人一般が思っている「偽せものの自分」「ほんとうの自分」という次元での用法(私はこれを軽視しているのではなく、むしろ専門家の側がこれを尊重せよと強く言いたい)

2.ウィニコット自身が言っている本来の意味あい(専門家ならこれを十分理解しておけ、といいたい)

3.それを「誤読」したマスターソンが使った意味あい(臨床家の卵だと、本来は乳幼児発達心理学者マーラーが言い出した「見捨てられ(分離)不安」と関連づけて結構ありがち)

4.ウィニコットをある意味では継承したけど、これまたオーバーランしたきらいがあるR.D.レインにおける意味あい(3.よりマニアックなぶん、アマチュアの心理好きも知っていることあり

 最低この4つぐらいを、臨床系の大学の有名な精神分析の先生ですら、一緒くたにしていたり、この中のどれかに強い感化を受けている可能性があるので、「正解」をどの範囲とするか、受験生と採点の先生の「趣味」があわないと、あまりに不確定になるからです。

(もっとも、北山修先生や松木邦裕先生、福本修先生、狩野力八郎先生、妙木浩之先生、私も多少親交がある藤山直樹先生クラスの先生(精神分析系の院生なら、どの程度の水準か見極めていただけますよね)が採点して下さればそうした心配はないと思います、むしろ「自分はウィニコット/マスターソン/レインの次元で書いている」と自己申告して勝負を挑むのもいいかもしれません)


****

 次に「錯覚(illusion)」と「幻滅(脱錯覚 disillusion))」の関係についてはすでに何回か書きましたし、同じくウィニコットのいう有名概念のひとつ、

●ひとりでいられる能力(ability to be alone)

についてもこのブログで何回も言及しましたが、これも指定校大学院入試や臨床心理士資格試験に出題でもされたら、問題を考えた先生に「酷です」といいたい。

 ウィニコット自身が書いた意味とは全く別のニュアンスで日本の臨床家全体に流布していますから。

 この点だけ、端的に正解を書きます。

△=孤独で、一人きりでいられる能力、引き蘢れる能力、「自閉する能力(=すごく有意義な臨床概念だが、神田橋條治先生の独創に近い)」

○=親しい人(親や恋人)と一緒の空間にいながら、しかも自分の世界に没頭できること

 このふたつは奥でつながっている場合も多いのですが、あまりにアングルが異なるでしょ? 恐らく筋のいい教育を受けた人なら後者に近い形で理解しておられるはす(20代のかけだし臨床家の皆さん、ほっと胸を撫で下ろした人が50%はいるでしょう)

(........自分の畑ではないフロイト以降、いや、クライン以降の精神分析の理論においてですらこの水準の的確な理解と使い分けが大事といいだす私という人間が、ことフォーカシングの世界で、すでに25年間ライフワークにして来たジェンドリンや体験過程理論の理解にどこまで厳密さを求めているかは推(お)して知るべしと想像して下さい。......でも私を恐れないで(爆)!! フォーカシングを学ぶ皆さんがどういう本を読んでどこで誰に学んで(外国を含む)どういう脈絡で使っているかまで、私は瞬時に汲み取って、無理なく、それこそ、「お互いに、いい意味でgood enoughに」対話しますから)


****


 さて、問題の、"good enough mother(ing)"です(^^)


 30年前の訳書では、「適切な母親」(「適切な養育」)と訳されました

 しかしこの訳語は誤解を招くという意見が高まり、ある一時期は、全くの直訳ふうに、


  「ほぼ十分な母親(養育)」


と訳されることが全盛を極めた次期があるかと思います。


*****

 でも、実用的な英語を学んでいる人なら、good enoughを「ほぼ十分な」と訳するのは大学受験生までにしてくれとおっしゃりたい方がすくなくないかと(^^)

 ちなみに、英会話スクールBerlizのサイトでは、このページで次のように解説されています:

 今日はこの中にある“good enough”という言い回しに注目してみます!

 “good enough”は、「良い」という意味の“good”と、「十分な」という意味の“enough”からなる言い回しで、直訳すると、「十分に良い」となりますが、会話では、「十分」「満足」という意味で使われます。“enough”だけでも「十分」という意味があるのですが、捉え方によっては、「それ以上はいい」という意味になってしまうこともあり、“good”を付けることで、「満足」というニュアンスを加えることができます。


つまり、

「コーヒーもう一杯どう?」

ときかれて、


「もう十分いただいたわ( ^ ^ )」

から

「結構( ^^;)」


と答える時まで広げられるかな?

 字幕や吹き替えでは、場面と脈絡に応じて、「ありがとう、もうOKよ」とか「もういいわ」とか訳しているのでは?

 「かすかな拒絶」が優勢なニュアンスの時と、「心からの感謝を込めて」のニュアンスで受けとめてかまわない時があるでしょうね。


 仕事の出来についての感想だったら、

「十分よ!( ^ ^ )v 」
「まずまずだな」
「一応いいか!」( ^ ^ ; )
「ま、いいでしょ(- _-)」
「問題ないね」

ぐらいに訳し分けられるかも。

 ある意味では、日本語でいう、「適当」という言葉が「いい加減!」「手抜き!」から、「まずまず!」「そこそこいけてる!!」「いいんじゃないの?」といった複雑なニュアンスを内包できるのに似ている。


****


 いずれにしても、ウィニコットの"good enough"の訳語として、わたしがこれまで著名な先生方の日本語訳として気にいったのは、


「まずまずの」

とか、

「そこそこの」

と訳した例でした。

(後者は、私が共立女子大学非常勤講師の時代に使った、酒木保先生(コラージュ療法で著名)の教養過程の心理学向け教科書だったと思います)


*****


 これ、実は「ありふれた」とか「普通の」に、限りなく近いのです。

 日本人って「適切」という言葉に凄く構えてしまい、「適切な水準」を目標に掲げ、強迫的に探し求める罠にはまりやすいので。


******


 .......このように書くと、「自分は"good enough mother"か??」と真剣に悩み抜いておられた女性のある部分はあっけにとられるでしょうね(^ー^) 

 決してそういう方々への揶揄でいうのではありませんが、「自分は『普通の』人間のなのだろうか?」と真剣に悩み抜いて来た方々のある部分を別にすれば、少しは安心して下さるのではないかと

 つまり、これだけでは「気休めにもならない」皆様が少なからずおられるのも私は心から受け止めます。少なくとも「数年前の」浜崎あゆみにとってはそうかもしれない。今もクラくなると彼女はそう感じているかも(少なくとも、ayuの歌詞に共感できる皆さんには、こういう言い方で通じますよね)。

 特に日本人には「普通に」という言葉を「無神経」、「デリカシー」がないと受け止められてもしかたないくらいに「普通さ」に過敏な面があると思います。

 それはこの言葉の濫用のせいも大きいと思います。鬱病、統合失調症、ボーダーライン、発達障害とされる人に安易に使わないデリカシーを、good enoughなカウンセラーの皆様なら持っている筈と思います。


*****
 

 ほんとうは、こういうニュアンスまで汲み取れないと成り立たないのが、それこそ"good enoughな"カウンセラー・マインドだと私は感じています(^^)

 これは読者の皆様への「謎かけ」ではなくて(^^;)、

 こう書くと「いい塩梅(あんばい)で="good enoughに"」伝わるかと( ^ ^ )


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ人気ブログランキングへ
ビジネスブログランキング
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 心理カウンセリングへ 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/09/24

昨日からにほんブログ村に参加しています。どうかよろしく!!(第2版)

 すでにお気づきの方もあるかもしれませんが、やっと昨日午後から参加しています。

ブログランキング・にほんブログ村へ

 私のプロフィールはこちらです。


 《2008/9/25 19:08更新》

・メンタルヘルスランキング 573位 -5167サイト中
 └心理カウンセリングランキング 14位 -130サイト中
・音楽ランキング 1022位 -9033サイト中
 └女性ミュージシャン応援ランキング 8位 -60サイト中
・ニュースランキング 392位 -2540サイト中
 └ニュース批評ランキング 60位 -226サイト中
・総合ランキング 29793位 -218968サイト

です(^^)

今後は、以下のクリック、どうかよろしく!

人気ブログランキングへ
ビジネスブログランキング
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 心理カウンセリングへにほんブログ村 音楽ブログ 女性ミュージシャン応援へにほんブログ村 ニュースブログ ニュース批評へ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/09/23

トロントの思い出

 NHKドキュメンタリー、「戦場 心の傷」の記事を書いて、思い出したこと。

 フォーカシング国際会議が、来年(2009年)の5月に、日本の淡路島で開かれます。

 このことに関しては、すでにこの記事等でご紹介してまいりましたが、私は2005年5月、カナダ、トロントでのフォーカシング国際会議に参加しました。

 その時の現地からの記事はこちらからご覧いただけます。また、その時の写真集「トロントだより」もこのブログに併設しています。

 この、トロントで、世界各地で活躍する、フォーカシングのトレーナーの皆さんから、そのこれまでの生き様を含めて直接お話をうかがえたことは、その後の私にたいへん大きな影響を残しました。


******


 その中のお一人からうかがったお話。

 深刻なトラウマへのフォーカシングの適用の代表的人物の一人というべき女性。
 私より20歳近く年長ですが、私と同じ、世界に百数十名いる、フォーカシングの国際資格に認定資格者(TFIコーディネータ)のお一人でした。

 その方がお若い頃。196-70年代、アメリカには公民権運動の渦中にありました。彼女も、アメリカ国内で差別されている人種・民族のために積極的に活動する活動家のひとりでした。

 ところが、ある日、思いもよらない事件が起ります。

 彼女が車で自宅に帰宅し、玄関のドアの鍵を開けようとそうると、突如拳銃を突きつけられ、顔のそばで発射されてしまいます。

 彼女は、顔面の3分の1を吹き飛ばされる重症を負いました。

 逃走したのはひとりの少年でした。

 しかも、その少年は、彼女が人権運動の中で貧困と差別を受けているとして擁護していた、まさにその人種の少年だったのですね。

 彼女は、単に長期間を要した顔の整形修復手術の苦しみに耐えるみならず、突如発砲された衝撃から、PTSDに陥ります

 それに輪をかけたのが、その発砲の犯人が、まさに彼女が人権運動活動家として擁護していた人種の少年だったということから、深刻なアイデンティティの危機に陥ります。

 いろいろ回復の手だてを求めていくうちに、彼女はフォーカシングに出会いました。

 そこで癒されたことが、彼女をフォーカシングのトレーナーとしての道に進ませたのでした。


*****


 この方に限らず、フォーカシングにおける今日の代表的な指導者たちの中には、ベトナム戦争当時の騒然としたアメリカ社会の中で、未来を模索した、最も先鋭なグループに属し、そうした活動そのものの中で、心身共にぼろぼろになった経歴をお持ちの方がたくさんいることに気がつきました。

 私は、正直にいいて、

 「こうした人たちにはかなわない」

と感じました。


 スケールが違いすぎる。

 運動の中にコミットし、理想と現実とのギャップに傷ついていくプロセスの凄惨さと切実度が、日本の学生運動と比べても次元が違うと感じさせられたのです。

 
 今でも、世界の紛争地域に、国際協力隊員として赴いたり、あるいは第3世界(特に中南米)の厳しい現実の中で、フォーカシングを生かすことに命をかけておられる人たちが、たくさんいる。

 その時から、私は日本のフォーカシング運動そのものが、なんともちまちました箱庭スケールのものに見えて仕方がなくなったのでした。

(個々のフォーカシング関係者の中には、難しい現場のシビアな最前線で奮闘しておられる方も少なくないと信じています。そうした方々を誹謗する意図はもちろんございません)


*****


 トロントに行ったのは、私自身、人生の中で、これまでにない苦しい状況に直面していた、まさにその時でした。

 私は,その状況の解決のための援助として、ひとりのクライエントとしてカウンセリングに通い、「適応障害」の診断を受け、鬱状態で心療内科医療の治療も受けていました。

 しかし、そうした日本の現状での援助的専門職からのサポートではどうしても埋め難しい、自らの深い心の傷と空洞に、まずは、「私自身のための」フォーカシング教師として成長し続けるしかないことを、胸に沁みる思いで重ねました。

 大学所属の常勤カウンセラーから、湘南地域の、一開業開業カウンセラーとしてし働くようになる中で、個々のクライエントさんにとって、代金に値するだけの援助をしていくということはどういうことかということにも直面しました。


 フォーカシングは、何よりも私自身のために。

 しかしそれは、即、

 個々の来談される方のために、現場臨床家としてどこまで心を尽くせるか

 ということと表裏一体になるものとして。


 ......そのような信念が私の中に形成されて来たのです。


******


 もとより、私はまだまだ発展途上、さまざまな未熟さを抱えているとも感じていますが(^^)

 いつも申し上げますように、思いつくままにご意見や注文をいただけますことこそ、私が望んでいることです。

人気ブログランキングへ
ビジネスブログランキング
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 心理カウンセリングへ
 

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008/09/17

NHKスペシャル「戦場 心の傷」を観て(第3版)

 2008年9月14日(日)、15日(祝)に二夜連続で放映された、

NHKスペシャル「戦場 心の傷

(1)兵士はどう戦わされてきたか
(2)ママはイラクへ行った

は、戦争がもたらす広範な社会的影響について、従来とは異なる、リアリスティックで、私たちの日常に隣接した問題提起をしたドキュメンタリーであったと思う。


******


 このドキュメンタリーは、まずは、アメリカ海兵隊の新兵訓練(Boot Camp)において、イラクの派兵された対テロ市街戦を想定した、ハリウッドの協力を得た、映画撮影さながらの大規模セットを駆使しての、戦闘訓練の様子から始まり、続いて、イラク帰還兵のPTSDの深刻な現状をダイジェストで紹介する。

 そして、古い記録映像を駆使して、戦場での兵士が、当時「砲弾ショック(shell shock)」といわれた、精神的な傷を背負い、戦闘不能に陥り、心身に深刻な後遺症を残すという問題が、第1次世界大戦の頃から注目されるようになったことから解説をはじめ、それが、第2次世界大戦の頃には「戦争神経症」と呼ばれ、更に、ベトナム戦争後、ロバート・リフトンによる帰還兵士への大量の面接記録から、「心的外傷後ストレス症候群(PTSD)」としてDSM-3(アメリカ精神医学会診断基準第3版)に記載されるまでの歴史を、コンパクトに紹介していく。

 そうした際に、日本の陸軍病院に残された膨大な精神科診察記録を元に、第2次世界大戦当時の日本兵においても、今日で言うPTSDと全く共通の症状と患者の生々しい証言が記載されていたことを紹介してもいる。日本軍兵士ですら、「支那人」ひとりを殺すことに、これだけナイーブな反応をしていたのだ。


******

 このドキュメンタリーを観ていると、PTSDというのが、摩訶不思議な症状ではなく、そのときの環境に適応するために、高等哺乳類なら成熟に達しでも発揮する「学習」の過程の「後遺症」であり、パブロフ的な、実にシンプルな「条件付け」の結果として成立することが理解できる。

 帰還しても、大きな音が突然すると、戦場での爆裂音と時と同じように恐怖体験になってしまう。もはやそれは「ここは戦場ではない」などと頭で納得しようとしても、身体が条件反射を起こしてしまうことなのである。

 一見平和に見える通りや公園で遭遇する通行人が、実はテロリストであるという不安と緊張が、何かの弾みで止めようもなく生じて来る。

 これが繰り返しのパニック障害的な反応になるだけでも本人には苦しいのであるが、最悪の場合、「テロリストに包囲されている」という幻覚妄想状態になり、手にしていた銃で、銃弾を発射してしまうといった事件もまた、こうした「戦場での恐怖体験の刻印づけ」によるものとみなすとわかりやすい。

 DSMの診断基準の「統合失調症」の項の鑑別基準において「PTSDの条件には当てはならないこと」ということが特記されているのはこうしたためである。


******


 特に、戦場で民間人を誤射して殺してしまったときの体験は、兵士の中で深刻に後を引く。

 多くの映画やドラマでは描かれていないが、人をひとり殺すということは、それだけで深刻なトラウマとなるのだ。

 第1時世界大戦初期の頃、兵士が戦闘場面でどのくらい実弾を発砲したかについての膨大な聞き取り調査がなされた。その結果、発砲経験がある兵士は、実際には2割いないという予想外の結果に軍は驚くこととなる。

 一般の兵士ですら、そのようにナイーブな存在なのだ

 そこで、その調査をした研究者は、軍に次のように提案する。

 兵士に実際に実弾を人に向けて発射することに慣れさせるためには、従来の、静止した的(まと)の真ん中を狙わせるような射撃訓練ではもはや意味がない。人型のシルエットを持った標的を、戦場を模した演習場に配置し、突如物陰から立ち上がり、命中したら倒れるという仕掛けにする。そうした標的を相手に反復練習させるなが望ましい....と。

 そうすれば、戦場で人影を観たら無意識のうちにも射撃するという「条件反射」が兵士の中に形成される.....とも。
 
 今日、映画やドラマで誰もがおなじみの射撃訓練のやり方である。


*****


 こうした訓練の改良の結果、朝鮮戦争時のアメリカ軍の前線の兵士の実弾射撃率は5割に達し、その研究者はアメリカ陸軍から勲章をもらうことになる。

 その後、ベトナム戦争において、一般民衆に紛れてゲリラ戦術を取るベトナム解放戦線相手の戦いの中で、いかに「戦争の大儀」を確信していた兵士でも、一般住民を誤認し、それこそ「条件反射的に」実弾発射、結果的に殺害したことで深刻な罪悪感に悩む兵士が続出する。相手の死ぬときの記憶映像や、近づいて一般住民と確認できたときの衝撃、その死体のむごたらしさの記憶などが、その兵士の脳裏に繰り返し繰り返し「頭に圧入されるように」よみがえることが止めようもなくなるのである。いわゆる「フラッシュバック」である。

 これもまた、高等ほ乳類なら、成熟した後でも、危機的な事態に体験したことだと、たとえ一回であっても身体に刻み込んでしまうという、生存本能に導かれた「刻印付け」なのだ。

 (飼い犬が、一度虐待して来た人間には、二度と決して愛想を向けなくなるのを思い出して欲しい)

 帰国後も、こうした罪悪感とフラッシュバック、突然の感情発作、抑うつなどに苦しむ中で、アルコールや薬物に手を出し、暴力や犯罪行為に走る帰還兵士が深刻な社会問題となる。良心的徴兵拒否者も増加する。

 こうしたベトナム帰還兵問題の深刻化の中で社会に高まる厭戦ムードと反戦運動の激化の中で 兵士の接近銃撃戦を回避し、上空からの爆弾投下などの戦術に切り替えないと、もはや兵士のなり手がなくなるという事態に直面しする。

 徴兵制も志願兵制に切り替えざるを得なくなり、当時独立した働き口に乏しかった女性の兵役志願、更には前線への派遣にも依存するようになる。

 更にアメリカは、トマホークなどのハイテクミサイル誘導兵器による攻撃に戦闘の主軸を移すことになる。

 ある意味で、帰還兵のPTSDが引き起こす社会問題が、アメリカの戦術そのものの変化を後押ししたのである。単なる科学技術の進歩の帰結などではないのだ。


*****


 ところが、9.11テロをきっかけに、戦争の様式が、再びベトナム戦争当時と同じようなゲリラ戦抜きには考えられなくなる。 

 そこで、アメリカ軍は、冒頭に紹介したような、一般人とゲリラ兵士を的確に識別するための、実戦さなからの訓練というところまで戦闘訓練を高度化するしかなくなったのである。

 こうして、母国での軍隊の訓練と現実の戦場との間で「条件付け」のいたちごっこが果てしなく続く。

 しかし、決して兵士による民間人の誤射がなくなるわけではない。むしろ、民間人とテロリストを識別せよということが絶対の軍規として兵士に教育される中で、誤射した兵士の罪悪感とPTSDの症状一層増幅するという悪循環が生じるのである。

 アメリカ軍はPTSDに陥った兵士の治療に力を入れるようになる。

 しかし、あくまでもそれは、そうした実戦経験のある兵士を再び戦場に送り出し、勇敢に戦ってもらうためなのである。

 兵士は、修理しては現場に戻される「ロボット」ななる。

 そうした動きに、精神療法や精神医療の一部も協力する。


 元々非人間的な状況に、あたかも健康人であるかのように適応できることそのものが、まさに歪みの蓄積に他ならないこと。


 ......これは、私が、自身の鬱体験と、鬱状態のクライエントさんとのカウンセリングの中で、深刻に直面した問題である。

 心理療法や精神療法の目的とは何なのか、深刻に考えさせられる。

 誤解なきように言えば、誠意ある治療者の行なう「行動療法」は、このようなものではない。単に自分を思ったとおりに「改造する」ものでもない、ましてや、他者を強制的に、自分たちの思う理想像に向けて改善するものでもない。私はそのことを山上敏子先生の行動療法から学んだ。


*****


 しかし、このドキュメンタリーを見る限り、兵士ではなくて、ひとりの一般市民としての日常の中での兵士のメンタルヘルス、夫婦や家族関係への影響という視点は、セラピー先進国であるアメリカですら、まだ現在手が行き届いていないように思えた。

 こうした帰還兵士の家族問題全体に積極的に介入する「家族療法的なアプローチ」が、ただの一例も、このドキュメンタリーでは描かれていなかったのである。

 現実には、帰還兵士自身やパートナー、子供、老いた親などの個人的な努力でこうした問題を切り抜けている例しか紹介されなかったのである。

(10歳の眼鏡っ娘の少女が、故郷へのお里帰りの際に、飛行機に乗ってパニックを起こしそうな予期不安を抱える母親を細かく気使うシーンを見ていると、私は、こうした「世代逆転」的な形で「娘が母親の母親役」を演じ続けなければならない家族関係は、この娘さんが将来アダルトチルドレンに育ってしまいかねないなと感じて、痛々しかった)

 しかし、そうした個人的な努力には限界がある。

 戦場から帰還して、一歳になる息子に愛情ある態度を取れなくなってしまったことに苦しんでいる母親の例が紹介されていた。公園での散歩の様子も描かれていたが、歩き始めたばかりの子供がちょっと石いじりをはじめるだけで、まるで新兵の行儀悪さをこまめに注意するような言葉をどうしても連発してしまう母親。

 彼女は、そのように振舞ってしまう自分に、本当は、涙ながらに深刻に自己嫌悪している。実際に子供を前にすると、理性ではとても統御できない振る舞いをしてしまうのである。

 しかし、彼女たちは、それを、あまりに不器用な次元での、「話し合いによる解決」で何とかしようとする泥沼に陥っている。彼女らの背後に、家族関係についてまで援助しようとする、専門的な援助的専門家がいる形跡が、全く感じられないのである。

 「愛している」と言葉では伝え、抱き上げる母親に対して、幼い息子の方は、決してアイコンタクトをしないようすが悲惨であった。


 この夫婦は、協議離婚の相談を始めている。

 恐らく、養育権は父親という形での。


*******

 
 日本において、PTSDが引き合いに出される場合、地震などの不慮の大規模災害の被害者や、 残虐な犯罪に巻き込まれた人の心の傷について論じるケースにのみ、ある意味で偏っているように思う。

 アメリカでのPTSD概念の確立の歴史は、第1次大戦、第2次大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、9.11後のイラクヘの介入という、ほとんど途切れることなく続いた兵士の実戦への参加の中で、大量に生み出された帰還兵の精神状態の悪化が、犯罪や薬物汚染、DVを含む家族関係や子供の成長に大きな影を落とすという、「近所にいる誰か、友人の誰かそういう状態にある」という、一見平和な社会の日常に深く根を張った問題に結びついているからこそ、先進的な研究と対策の対象となりえたものである。

 どうもそうした背景については、日本の一般市民の常識のレヴェルには浸透していない。

 日本も、集団安全保障の観点から、自衛隊の海外派兵が更に広がったり、ましてや憲法第9条の改正がされたら、こうしたアメリカ社会の状況は、帰還した自衛官の社会復帰過程でそのまま日本社会でも現実化し、子供の成長から犯罪まで、深刻な社会不安を引き起こす可能性があるという視点など、今日、ほとんど論じられていないといっていいのではなかろうか。

 あえて言えば、海外派兵にほとんどの自衛官が関与しない現状においてですら、戦闘訓練の過程で、自衛隊員の心身にこうした問題が生じ、深刻な家族関係の危機をすでに引き起されている可能性など、あえて言えば、「闇に葬られている」問題のように思われてならない。

 その一端が、自衛隊員の自殺や、隊内でのいじめの問題としてのみ、今日語られているのではないか。

 例えば、駐留アメリカ軍兵士の婦女暴行等の問題を考える際に、もちろん、被害者の悲惨は言うまでもないが、単に「軍の規律を引き締める」ように要請するなどという次元を超えた、こうした深刻な問題が潜んでいる可能性について、論じられた記事を私は読んだことがない。

 ひとりひとりの生身の人間であり、親であり、パートナーの伴侶であり、家族の一員であるという視点から、兵士のメンタルヘルスをとらえ、社会問題として波及していく可能性というシミュレーションに目が届かないまま、戦争と平和について語られることの空しさを、このドキュメンタリーを通して感じた。


****


 昔、日本でも欧米でも、そうやって戦場でのトラウマで戦闘能力を失う兵士は、「根性なし」で「精神が弱い」人間であるとして蔑まれていた。

 実は今日においてもかなりの程度そのように思われおり、それは、子供や、企業で働く「戦士」としての、サラリーマンたちの不適応問題においても、無意識のうちに陥りがちな偏見であるように思われる。

 しかし、実は、そういう社会の中で一見適応的にやれて「生き残って」、見かけ上平穏な暮らしを送っている子供や親たちによって構成されている家族においても、隠れた形でそのひずみは蓄積して、さまざまな問題を引き起こしている可能性が高いだろう。


*****


 以下は、この番組を見た、アメリカへの留学経験がある知り合いから昨晩聞いたことである。

 その人は、ホームステイ先の近所に、同じように外国からの留学生(日本人ではない)のホームステイを受け入れている家庭があり、その留学生や、オーナーの家族ともつきあいがあったそうである。

 その友人の留学生のオーナーご夫婦は、二人とも退役した軍人であった。もっとも、戦場に出た経験はなかったという。

 夫妻は、たいへん親切でないい人たちではあったが、家に、十数丁ものライフルや銃が、人目に触れるところに陳列されていた、そして、当時まだ小学生低学年ぐらいだった男の子へのしつけの際の言動や教育方針が、何か「大人じゃあるまいし、そこまでこの年齢の子には理解し、やらせるのは無理では?」と、一抹の違和感を感じていたという。

 私の知り合いがアメリカから帰国して数年後、その留学生からのメールで、思春期になったその男の子が、自宅に並んでいたその拳銃で自殺したことを知らされたという。


*****
  

 これはひとつの例であるに過ぎない。引き付け過ぎかもしれないが、戦場とは無縁で、一見問題がない両親であったとしても、兵士の家庭に、こうした「PTSDにならないままサバイバルできた」がゆえの、さりげない歪みが蓄積され、子供の成長に大きく影響していることも少なくないのではないかとも想像させるのである。 


******


 なお、このNHKスペシャルの前に、2008年8月にBS-hiで放送していた「兵士たちの悪夢」というドキュメンタリー番組に関して、モラルハラスト問題のカウンセラーである惠美さんが、ご自身のブログで、モラハラの家族力動と兵士のおかれた状況を比較する形で、たいへんまとまりのいい考察をなされているので、ご紹介します。

●録画してあった「兵士たちの悪夢」というドキュメンタリー番組をやっと見た (カウンセラーママの日々つれづれ)

 私は、この惠美さんの記事に触発されて、今回のNHKスペシャルを観ました。

 ここに感謝申し上げます。


 更なる追記が、自己レスコメントとしてこちらにあります。


*******


※ なお、私の専門とするフォーカシング技法とトラウマ治療に関しての序論的な紹介が、

●フォーカシングとトラウマについて
(The Focusing institute日本語版公式サイト)
http://www.focusing.org/jp/jp_trauma.htm

で読めます。

人気ブログランキングへ
ビジネスブログランキング
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 心理カウンセリングへ
にほんブログ村 ニュースブログ ニュース批評へ

| | コメント (3) | トラックバック (1)

2008/06/20

秋葉原通り魔殺人の彼が贖罪できるだけの「環境」があることを!!(第6版)

秋葉原通り魔殺人事件と、宮崎勤の死刑「執行」のタイミング関連の、前の記事の続きです。

現段階での私が知る情報の範囲内で観ると、恐らく「精神病的な」面はほとんどなくて、「精神病質」でもない。「分裂型人格障害(schizotypal)」あるいは「分裂病質(統合失調症質)」(schizoid)というDSM的診断は最大公約数としてできるだろうけど、その診断に当てはまる層の多くは社会的にごく真っ当に生きている人たちの10数パーセントは当てはまると思う。

 要するに,クレッチマーの性格分類でいう「分裂気質」のやや濃い人たちのある部分、あるいは中井久夫が「分裂病と人類」でいう「S親和者」=それを典拠を示しつつ拝借した浅田彰が、「逃走論」で「スキゾ」とポップに名前を付け替えた、「病理」というには過ぎ、社会の最前線で適応的に行けている人は、有名・無名を含めて五万(じゃなくて日本に500万?)といて、「人も歩けば棒に当たる」水準の範疇化(カテゴリー分け)しかできそうにない。

 こう分類できる人を排除したら、文化や政治に貢献したかなりの人は抹殺されることになるし、ただの「パラノ」だけでは社会そのものが機能停止し、全人類が窒息する(浜崎あゆみだって、後述の夜回り先生、水谷氏だって楽々このカテゴリーに入る。

 未熟な私だって堂々とその末席を穢(けが)せる(^^)

 宮台さんだって、ある意味では浅田彰よりはかしこく大人になって、しかもしたたかに社会にコミットする戦略を続けている「熱い」人物だろう。

 もっとも、あそこまで博学な、衒学的(ペダンチック)な饒舌さと感じさせてしまう多弁を押し付けると、「鼻持ちならなさ」とだけ感じられてしまいかねない限界はあるとして。

 安易に「大衆を啓蒙する」ノリにはまらないのはひとつの挟持だと思うが、まだまだ「身を守っている」気もする。

 宮台さんもあと一歩「突き抜ける」必要はある。

 いうまでもなく、私も。


****


 今回の事件の犯人については、学習障害などの広汎性発達障害の可能性もそんなに高くないだろう。

いずれにしても、犯行時の「責任能力」は十分にあったと思う。

もし今後、彼についてまたぞろ「多重人格障害」とか出てきたら、それは弁護士と精神鑑定医の「ひいきの引き倒し」となるだろう。少なくとも故宮崎や故宅間よりは健康性が高かったまま凶行に及んでいると思う。

ちゃんと贖罪できるパーソナリティの筈。

そうならないなら法曹界や司法精神医学やマスコミがよってたかってこじらせたといわれてもしかたない。


人がきちんと贖罪できるためには、それを可能にする「環境」におかれていること!!


これは今後の展開のためにほぼ断言しておいていいと思う。


******


もとより、現行法制のもとでは死刑以外になる可能性は全くに近くないと思いますが。

私はこの問題が「死刑の是非」論になった瞬間に本質を置き去りにした議論に過ぎなくなると確信しています。


******


●【秋葉原通り魔事件】加藤容疑者のメル友女性告白「悩んでいるようには見えなかった」(msn=産経)

(前略)

 彼女がトモと初めて会ったのは昨年7月末だった。

 携帯電話の出会い系サイトで知り合い、メールを何通かやりとりした。送られてくるメールは笑顔や悲しい顔などのカラフルな絵文字入りで、2、3行の短いものがほとんどだったが、一度始まると何往復もした。

 お互いに青森市に住んでいることが分かり、トモは「会いたい」と言ってきた。

 市内の駐車場で待ち合わせをした。ありふれたチノパンとシャツを着て、髪形には気を使っていないような印象を受けた。

 「きっと彼女はいないんだろうな」

 そう思った。

 名前を「ともひろ」と読み当てると、トモは「珍しいな。1回で読めた人」と笑顔をみせた。彼女はトモと呼ぶことに決めた。

 トモの軽乗用車に何度か乗せてもらった。車内は整頓され、後部座席にはUFOキャッチャーで得たらしいディズニーなどのキャラクターもののぬいぐるみが4、5個並んでいた。会話はあまり弾まなかった。ラジオやCDはかけず、車内はシーンとしていた。

 「この車、ずっと乗っているの?」

 「前はスポーツカーに乗ってたんだけど、事故起こした。今度、GT−R買いたいんだ」

 2人ともゲームが好きで、よくゲームセンターでUFOキャッチャーをやった。一度だけカラオケにも行った。歌を歌うのは好きらしく、一般の人は知らないようなアニメ系の歌を次々と入れていた。

 8月1日には2人で「浅虫温泉花火大会」に遊びに行った。屋台で食べ物を買ったり、花火を携帯電話の動画に撮ったりして半日過ごした。2人でいる間、トモは携帯電話の着信などを気にする様子はなく、親しい友人はいないようだった。
     
 花火大会の翌日。「親に家を追い出された。アパートに引っ越したから来ないか」と自宅に誘われた。

 部屋はアパート1階の1LDK。電気はまだ通っておらず、中は真っ暗だった。壁紙は張り替えたばかりらしく、清潔な感じがした。玄関にはスリッパが2足並んでいた。向かって右側にトイレと風呂、その奥にキッチン。左側奥には居間、その手前に小さな寝室があった。

 居間は10畳以上あり、フローリング床でテレビと大きなクリーム色のL字型ソファが占拠していた。「お金には困っていないのかな」と思う一方でこうも思った。

 「こんな大きなソファに1人でいたら寂しいだろうな」

 寝室には青っぽい絨毯が敷かれ、しわひとつない黄緑色のカバーがかかったベッドがあった。自炊をしている様子はなく、冷蔵庫にはその日の分のコンビニで買ってきた食べ物やプリンなどしか入っていなかった。

 一度、コンビニで買ってきた缶入りのカクテルを部屋で飲んだことがあった。トモは何本か飲んでも変わらず、酒は強そうだった。

 部屋では2人でもっぱらテレビを見て過ごした。夕方にはニュース番組をみることが多かった。バラエティー番組を見ているときなどは、トモは口元に手を当ててクスッと笑うこともあった。

 「オレと一緒になればいいのに」

 本気かウソか分からないが、トモがそんなふうに言ってきたことがあった。彼女は「それはないから」と、それとなく交際を断った。

 帰り際には必ず、「また来ていいから」と言われた。何度目かに自宅を訪れたとき、突然、合鍵を手渡された。

 戸惑いながら「いや」と言うと、トモは「いつでも来ていいから」と鍵を手のひらに押し込んできた。

 「誰かに頼られたいのと、自分も誰かに頼りたいのかな」

 そう思って鍵を受け取ったが、彼女がその鍵を使うことはなかった。

 8月も終わりに近づき、気がつくとメールのやりとりは途絶えていた。

 彼女が連絡先を変えたこともあり、それ以降連絡は一切取っていない。

「生きていれば何とかなる」と言っていたのに…
     

 加藤容疑者は彼女にとって「お兄さん」のような存在だったという。口数は少なく、自分の家族や悩みについて話すことはなかった。

 その代わり、彼女の話はよく聞いてくれた。

 当時、人間関係に悩んでいた彼女に対し、加藤容疑者は「生きていれば何とかなる。何かあってもオレがいるから」と優しく励ましてくれたという。

 当時を振り返り、彼女は「あんなふうに言っていたのに、自分がそうなったら(事件を起こしたりしたら)ダメだよ」と語る。

 彼女は加藤容疑者について「病んでいたり、悩みがあるようには思えなかった。もし悩みがあったのなら、私が聞いてあげていれば、あんなにたくさんの人を殺さずにすんだかもしれない」と唇をかむ。

 わずか1カ月間のつきあいだったが、今回の事件で、彼女自身もショックから立ち直れないでいる


*******

 
.......この記事は、あまりにもリアリティがある気がする。


 もちろん、彼女の力ではどうしようもなかったと思う。

 彼女の深い後悔と傷つきは、まさに知り合いに「自殺された人」が誰でも陥る「あの日にこうしてあげたら」心理状態とかなりの程度同質のものとすら思うが。

 私が大学学生相談カウンセラー時代に何度も研修を受けた、自殺学の権威、高橋祥友氏が"postvention"(「自殺された」人のケア)の問題として、語っているものを熟読のこと。


一冊なら「青少年のための自殺予防マニュアル」がおすすめ。

これは「犯罪防止マニュアル」でもあるのかもしれないという思いから。
 

以上、トラックバックうまく張れないでいるけど、

●公共機関のために準備中の文章です。誤りのご指摘などお待ちします。第2部【上の第1部に続きます】(MIYADAI.com Blog)

に寄せて。

臨床心理士にできるのは「診断」ではなく「見立て(assesment)」であり、直接あっても居ないクライエントについてのこうした推論は慎むべきとされているのを承知の上で、精神科医や臨床心理士など現場臨床家の多くが首肯し得る非常に無難かつ最大公約数的なラインとして申し上げました。


マスコミや弁護士や留置のありかたが,彼の症状を今後こじらせ得る「原因」として機能し得るため、犯行時の真相究明をむしろ混乱させ、類似の状態にある人たちにも悪影響としてしか機能しなくなるということを示唆することこそ私の狙いです。「自己成就的予言」への危惧ですね。


●【人、瞬間(ひととき)】あの先生 夜回り先生、水谷修さん(52)(中)(msn=産経)

この記事、何か、自分を見るようです。

私自身は学生運動まっただ中の団塊世代ではないし、いわゆる「ノンポリ」だった。しかし、ロックアウトや学内で発煙筒が炊かれるを学内で体験できた「団塊余韻世代」、水谷氏の数年後輩を、東京千代田区のお隣の私立大学で「哲学科生」として体験した。

体験した哲学科生としての違和感は、水谷氏と接点が相当あると思う。

水谷氏自身は「遅れてきた」「時代遅れの」学生運動家みたいな世代的マージナル(辺縁)性を持っていたと思うので。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「見せしめ」死刑執行は20-40前後の人間の自殺者を増やしかねない(第4版)

宮崎の死刑の是非は置く。

死刑論議にも関与すまい。

ただ、このタイミングでの「死刑執行」が(すでに言われていることらしいけど)秋葉原の事件を受けての、早速の「見せしめ」効果を狙ったと受け取られてもおかしくない(少なくともそう受け取られる可能性が高いことを承知で出さないとすればおかしい)あたりを「うさん臭い」と思うのは全く自然なことと思います。

はっきりいって、それを狙ったとすれば、現代日本とは、何とも「野蛮な」仕方で治安を守る、中世前期ヨーロッパの異民族との戦争クラスの前近代的な社会でしかない。

今は「モーロ人」と戦ったシャルルマーニュやエル・シドの時代ではないのである。

「異民族」に新たに虐殺された見せしめに、ずーーーっとロンドン塔かバスティーユに監禁していた「その異民族」の「有名人」を公開処刑したようなもので。

何か、最近の「正論」って、ものごと割り切り過ぎて自分もその正論の犠牲者になる可能性を考えてもいない気がする。

そこで政府の政策(あるいはポピュリズム的世論)の支持をしても誰もそのぶん自分たちを助けても援護してもくれないよ.....といいますか。


ユングの「影」や「相補性」の概念を持ち出すまでもなく、


「私は『あいつ』のような人間ではない」


という論理よりも、


「自分の中にも『あいつ』と同じようなところがある」


という感覚がある人間の方が,結局は強い
気がしてね。

*****


かつて、東京埼玉幼女連続誘拐殺人事件で宮崎が逮捕された日の報道が「おたく差別」になる危険を、逮捕の当日の夕刊を各紙買い占めて読んで、その晩のうちに朝日新聞「声」欄に投書し、数日後掲載された人間として。

私は、あの投稿をしたその日から、自分はカウンセラーだから彼とは異次元だ、なんてただの一度も感じたことはない。

もっとも、宮崎のことを「多重人格」という方向で鑑定しようとした人たちは、精神医学の中で蓄積された「多重人格」という診断の価値を「安く」してしまった張本人だと思う。

ちょっとした臨床家なら、あそこで「多重人格」の診断を持ち出すことが「あまりに素人臭いアマチュアリスム」の次元だと気がついた筈だ。

精神医学の世界ですら、明らかに診断に「流行」がある。

鬱病は古代ギリシャから普遍的に観察された病だが。


いや、およそ社会に置ける新しい概念は「過剰使用」されたあげくバブル崩壊して見事な値崩れを起こす。

何でもかんでもその概念を当てはめるうちに、別のものに化けるのだ。

「地球温暖化」や「グローバリスム」ですら、20年後には陳腐な概念として振り返られるかもしれない。

いつの間に「アダルトチルドレン」は差別語になったの?

*****

すでに公開されている情報から見る限り、彼には責任能力はあったと思う。ただ、拘置の過程で抗禁性精神病状態に入っていた、あるいは、いろいろな人が勝手にいろんな診断をする中で、彼自身がそれに振り回されていよいよ混乱していった(あるいは彼の中のよこしまな心を更にかき立て、更に邪悪にした)可能性は否定できないだろう。

敢えていうが、彼がこのタイミングで見せしめ的に死刑執行されたことで、実は、45歳前後以下の世代のマジョリティすら持っている危機的な「何か」が一緒くたに「葬り去られた」気がする。

法務大臣は、今後仮に無差別殺人は減ったとしても、20代から40代の自殺者はぐっと増えかねないことをやらかしている気がしてならないのね。

オイルショックの頃、石油に限らず、世界中の資源がまるで21世紀初頭にすべて枯渇してしまうみたいな「政府公報」が繰り返し流されていたことを忘れない世代として。

「それが世界の潮流である」

ということは、その潮流に乗っていたら社会がうまく行くこと、自分も生き残れることはみじんも意味しない。

30年スパンで見たら、笑いたくなるくらいに「世間の常識」は変動しているということ。


******


宮台さんが自分のブログで、


●公共機関のために準備中の文章です。誤りのご指摘やご意見をお待ちします。(MIYADAI.com Blog)
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=652

として載せている原案、「社会包摂性」ということがキーワードとされています。

宮台さんなりに、最近の状況について、単に「評論」するのではなく、社会的に「コミットメント」しようというスタンスを感じます。

「フリーター」という言葉に変わって「ワーキングプア」という言葉が一般化するまでに、実は2年もかかっていないということ。

少なくとも20代後半から40代前半ぐらいの世代って、誰からも具体的な処方箋を政治水準では提案してもらえないまま、責められるばかりになっている気がします。

それを超えていくパラダイムを日本社会に提示しようとしているだけで、その心意気は買いたいですね。


******


恐らく、私の世代は、実の親が、単に「銃後」ではない、大陸での戦争の現実を体験し、背負いながら戦後を行きてきたことを肌で感じている最後の世代かもしれない。

団塊世代よりも前の世代の「戦争体験者」感覚が、自分の中に濃厚に生きているのを感じる。


私の祖父は、関東軍の軍属で、ソ連の戦車におわれて引き上げる中で、何か非常に不透明な状況下で「殺されて」いる。父も銃で死んだ死体しか観ていない。

父親の兄のひとりは、現地で徴兵され、阿片窟で死んだことは歴史資料からほぼ確実らしい。(父親が長年かけて史料を読みあさり、執念で突き止めたようだ)

「阿片窟」で連想する映画といえば「ラ・マン(愛人)」ですが。

生き残った父と祖母は、昭和21年まで1年間大陸で生き延びた。

その優しくも気骨があった祖母こそが、私の中にある親より上の世代の「原像」であり、私の高校時代までの人格形成に大きく影響していると思う。

引き上げた先の福岡の実家は、東京生まれですぐ大陸に渡った父にとっては「故郷」ではなく、「異郷」だった。

私は,私なりに父親の身体に染み付いた「闇の部分」を引き継ぐだろう。


******


昨日、「愛と哀しみのボレロ」(Les Uns et les Autres)を実に久しぶり(恐らく20何年ぶり)に、しかも完全版で観た。

私の大学学部生時代の映画。

原題と邦題が全然ニュアンスが違う映画としてマニアには知られているかと思う。

"Les Uns et les Autres"って、英語でいえば「"THE WE"and"THE OTHERS"」というあたりか。 直訳だと「私たちと他人」あるいは「俺たちとあいつら」ってとこ? 

実は作品の中で繰り返して出てくる歌のタイトルでもある。


 自分たちと他人
 自分たちと他人

 お互いが他人なのに
 尽くす人は少ない

 理屈ではわかっていても
 救いを求める声を聞き流す
 他人のことを聞き流す

 人は皆平等だけど
 特別大事な人もいる

 ジョージ・オーウェル言うとおり
 他人は他人
 他人は他人
 


 私が学部学生時代に読んだ、反精神医学の旗手、イギリスのR.D.レイン「自己と他者」っていう本(私がレインの本の中で一番親しめた本)のタイトルも連想するけど、これはあながち思い込みではない気がする。


DVDは完全版ではない3時間10分ほどのもの。現段階でVHSビデオ2巻組の中古でしか観れない完全版は4時間です。ビデオの画質は「凄く良好な」部類と思いますよ。DVDにダビングしても良好な画質保てます。ブルーレイ時代の本格突入待つしかないか? 入手難の作品です。

参考までに。確かPart1のビデオが冒頭の予告編付きで2時間25分くらいでヌレエフ(がモデル)のソ連ダンサーのパリ空港での亡命シーンまで。Part2のビデオが2時間6分です。

これ、カラヤンとヌレエフとピアフとグレン・ミラーをモデル(といっても史実とはいろいろ違うが)にした4家族の歴史が交錯する大河ドラマ、というくくりかたが紹介でよく使われるけど、実は完全版まで観ると、ベタン政権とナチ占領軍にゴマをすって戦後一転して転向して大物になった人物とその娘やら、アルジェリア戦争帰還兵という無名の男性4人とそれに絡む男女関係やら、実は「有名人」ではない人々を含む、合計8家族が緻密に織りなす(ひょっとしたらフランス人だとモデルとなる人物がもっといろいろ思い当たるのかも)からこそ面白い、よくこれだけの人数の登場人物の関係を緻密に統合できたと感じる、実に厚みのある大河ドラマなのだ。それが本来のこの映画の持ち味。

少なくともカラヤンのナチとの関係やヌレエフの亡命事件ぐらいは自明の教養水準として要求されるけど、あとはフランスのベタン政権(ヴィシー政権)アルジェリア独立戦争ノルマンディ上陸作戦についての世界史の教科書クラスの知識があれば、この作品を味わうのに何も困らないと思う。

これは完全版で2回ぐらい通して観ると、どんどん味わい深くなる映画だと思います。一回観ただけでは登場人物の互いの絡み、とらえきらないし。

クライマックスの、ベジャール振り付けの、今は亡きジョルジュ・ドンのカリスマ的な「ボレロ」シーンだけがひとり歩きしているけど、このシーンにすべてが結実するこうした数多くの登場人物の歴史こそが本題。いわばその収束的救済のための「虚構の祝祭」がクライマックスということにあるわけで。


*****


この映画に「我がことのように」共感する感性を、現代はもはや失いつつあるのだろうと感じる。


すっと以前の映画だが、私は、「日本の一番長い日」も「白い巨塔」も子供時代に鮮烈な印象で同時代的に観た世代である。


******


何か脈絡が散文的になってしまったが、

ここで書いたことの中に、恐らく今後の私の人生を決める、何かが含まれている気がする。


続きはこちら

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/03/10

バウムテストにおける「診断」とフォーカシング(2)

 前回の続きです。

 岸本先生は、もともとは内科医で、しかも血液内科だったそうです。
 これは、白血病の患者さんが多いということであり、抗がん剤や骨髄移植などの治療を受けて、入退院を繰り返したり、死に到る患者さんの死を共にするお立場だったということになります。

 そうした中で、バウムテストは、診断のための心理テストというより、コミュニケーションの「窓」といいたくなる機能を果たしたとのこと。

 中には、告知を受けて、あるいは完治した思っておられたのに再発して病棟に送られた時点で、放心状態の患者さんも少なくない。そういう患者さんも、木の絵だけは描いて差し出して下さることも多かったとのこと。

 (一回の面談は描画と対話を含めて30分だそうです)

 そして、その描画について、患者さんは話をしてくださるばかりではなく、その描画と一見無関係な話もお話になるわけです。

 こうして、言葉というコミュニケーションの経路だけでは浮かび上がってこないいろいろなものが、バウムを媒介としての関係という中でなされていくことになります。

 こうして、問診だけでは読み取れないコミュニケーションの次元が開かれる。

 1. 例えば、一見明るくて多弁な人もいる。病棟にもなじんでいるかに見える。ところが、非常に貧相なバウムしか描かない人もいるのですね。その人は、表には出さないけれども、すでに精神的にはかなり落ち込んでいたり、荒涼とした思いに満たされていることに気がつけることになります。

 2.逆に、ベッドの上では放心状態なのに、無言で差し出されたバウムには、非常にしっかりした樹が描かれている場合がある。そういう人は、何回もの危機をくぐっても、生き延びていく場合もある。


 更に、

 3. 一見ひどく不器用で貧相な絵しか描けない患者さんが、病気になる前の頃に描いた絵を見せてくれた。すると、病室での絵からは信じられないくらいに表現力あふれた絵を描いていたことがわかったりする。

 つまり、バウムテストの絵だけで、その人の人格のすべてが読み取れると思うのも間違いだということです。
 病気になって、それ相応のショックや不安の中で長期にわたって入院していくという具体的な状況、そして医師との関係性の関数として、はじめてそういう絵が描かれているという側面を、決して見失ってはならないことを、岸本先生は強調しておられました。

 これは、バウムテストに限らず、描画に限らないさまざまな心理テスト、そして面接場面での患者さんの様子にもあてはまる重要な事柄でしょう。

 面接場面でクライエントさんが示しているプレゼンスは、そのクライエントさんの全体像を示しているわけではないという、当たり前のことです。当然、そこでとられる心理検査の結果それ自体についてすら、そのことはあてはまる。

 私が最近自戒しながら心がけているのは、

「面接室に赴く行きがけの道すがら、面接から帰宅する道すがら、家に帰ってから、夜眠りにつく時、仕事の場面などで、クライエントさんが、どんな面持ちで、どんな気持ちで過ごしているか」

....という想像力だけは失うまいということです。

 そういうことを、治療者が自分の中で気にかけているだけで、何も質問しなくても、

「実はあれから家に帰ったら、結構落ち込んで、先生のことを恨みもしました」

「ずっと不安で眠れない夜を過ごしていたんですけど、今朝目覚めたら不思議と身が軽くて。これならカウンセリングに行けるなと。そして、行きの電車の中で、いろいろ連想しているうちに、家にいる時にも、この面接室の中でも思いついたことがなかったような、ずっと忘れていた大事なことを、ひとつ思い出したんです。それは.....」

などというお話を、クライエントさんの方から自然とお話しになることが増え、そのお話までうかがえてほんとうによかったと感じることが少なくないからです。

(第3回に続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/02/15

フォーカシングの、世界の最前線の記事たち

 「こころの天気」でおなじみの土江正司さんから以下のニュースをご紹介いただきました:

The Focusing Instituteの定期刊行物、"Folio"の、土江さん、日笠さん、上村さん、土井さん、小坂さん、増田さん、天羽さん、久波さんなど、日本フォーカシング協会の精鋭たちの、多忙な中、時間を割いての尽力による日本語翻訳版です。日本フォーカシング協会サイトにあります。

http://www.focusing.jp/International/folio20-1index.htm

 アフガニスタン中南米にもひろがる、世界のフォーカシング最前線の人たちの肉声が伝わってきます。

 個人的には、ジェンドリン自身「タウン(街)と人間的な注意」という、講演の一部を抄録した記事が興味深いです。

 ジェンドリンは、今も、現在と未来を見つめ、精力的に活動しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/01/30

「ゆずれない願い」


●田村直美/ゆずれない願い(YouTube)


全国の、DVを振るってしまった人、
親権を失って、今は子供と共に生活できない人、
相手への純粋な好意のつもりのものが、ストーカー、セクハラとして訴えられた人、
がんばれ!!


これが、皮肉でもあてつけでもないことは、十分伝わるかと思います。


そして、こうした人は、男性ばかりではなく、女性にもたくさんいるであろうかと。


*****


 ひとつが新たな正義とされた時、他方に、思いもよらず、それ以降悪とされ、法律に従うしかないばかりか、内面の改心すら、社会から強要される人々が新たに生まれること。

でも、それにもかかわらず、そうした「被害者」と「加害者」が連帯できる日が来ることを!!

それが、とてつもない夢であると知りつつも、私が死ぬ頃までには、多少なりとも社会に実現されますことを!!


「あなたは悪くない」

を超えて、

中島みゆき - I Love You, 答えてくれ - Nobody Is Right"Nobody is Right"


でも、あなたはありのままでいい」

へと。


懐かしい、ジャケットだけ掲載。

Layearth1
「魔法騎士レイアース」音楽集1<ゆずれない願い>CD(ポリドール PCOH-1490)ジャケット 人物左より、龍咲 海、鳳凰寺 風、獅堂 光

結果的に「レイアース」の、あの、懐かしい曲のタイトルになったことも、きっと大事な意味があるのです。


 気がついてしまいました。

私の、恐らくこれからの半生に、身を捧げるであろう、まだ未開のテーマと領域に。


 そして、それは何と、当面「男のジェンダー」権利保護を女性に理解していただくための活動と結びつくだろうこと。


 あえて言いますね。

 このままでは、

男性からの求愛がすべて犯罪行為とされ、
男性のオナニーすら女性への権利侵害とされる時代が来る。

 女性だって、オナニーするだけで「男に飢えてる恥ずかしいことしてる」と見られる「差別」から自由であるべきでしょ?


それは懐古的な男権回復の、実は正反対

真の意味での男女の連帯と共生の道への、絶望的な模索となるであろうこと。


それは、生涯の道半ばで、現実に暗殺される覚悟がないとできない道ということ。


やっと、すべてが、見えました!!!


****


関連記事:

●我が内なるファシズムを見据えよ

●異世界へと召命された戦士たち(こういちろうアニメ論アンソロジー)


かつて、アニメ演出家、望月智充さんと「ほんとうに」お会いできたきっかけとなった、私の「記念碑」

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008/01/18

こういちろう学習障害あるいはADHD、あるいは「星の王子様」説(第2版)

 「この人ADHD(注意欠陥障害)? それとも学習障害(LD)かしら?」


 恐らく、このサイトをご覧いただいているカウンセリングの専門家の中で、ほんとうに勉強されている方は、そういうことをお感じの方っていると思います。

 さすがにもはや「躁うつ病」しかでみないようなら、現代臨床心理学におけるアセスメント能力としては欠陥が多すぎる(爆)

 そして、ここまで書いてきたら、そして、写真まで公然と掲載しているから、体型も資料になるわけで、私のベースが、どう見ても、クレッチマーのいう「躁鬱気質」からほど遠い(全然社交的ではないものね、本来は)こともおわかりのはず。

Ann_weiser__and_koichiro

 でも、人間は大好きだし、冷たい人間ではない(むしろ無茶苦茶ホットでハートフルな)ことも伝わってると思うし、体型も根っからの細身ではない、むしろ肩幅が広い、ずんぐりむっくりであることもわかるでしょう?(私の師、村瀬孝雄先生は、立教の研究室に私を迎える直前、他の院生に「今度来る奴は柔道の選手みたいな体型をしている」と事前に伝えていた) 。そうなると、分裂気質説も不十分(30%は分裂気質でしょうけど)


++++++


 そうなると、残るのは、てんかん型、あるいは闘士型といわれる執着気質、ないし中心気質と呼ばれるものですね。これについては私の古くからの知り合いで、私の「エヴァ」本プロデュースをはじめとしていろいろ引き立ててくれ、著作も凄く多いどころか、近年はTV出演もなさる、同じ開業カンセラーの矢幡洋さんが、「『星の王子様』の心理学」で書いたことがあまりに私にもあてはまります。

 (ちなみに、私のもうひとつの古くからの大事な人脈が、「あの」NHKアナウンサーを奥様にした、テレビでもおなじみ、文化人類学者の上田紀行さんです)

 人と、むしろ開けっぴろげまでに胸襟をひらいてつきあいたい。そして、「星の王子様」に出てくる薔薇のような女性の側面は嫌悪してますしね。女性のそういう側面に媚を売ることは死んでもするかと思っている(このことを肝に銘じていたら、私とつきあいやすくなるよ、女性のみなさん)。

 そして、圧倒的なまでのひとつの対象への持続的集中力としぶとい職人性。気難しさ、「瞬間湯沸かし器」、一種恍惚とした超越的世界に一瞬にして突き抜ける側面(空海さん)、そして、好戦的なところ、とくれば、むしろいよいよ『闘士型』こそベースとわかる。

 時代が違えば、私は宮本武蔵か、それこそ、中世スペインの英雄「エル・シド」なんです。

 あるいは、現代なら、言うもはばかれるけど、イチロー中田!! 


 だから、「お通さん」や「ヒメナ(エル・シドの妻。映画のソフィア・ローレンですね。この人、ホントにエル・シドの死後、2年ぐらいはバレンシアの領主を務め上げたくらいに「できた」人だったみたい)のような女性を心の中でずっと求めている(「イカ天」の頃の、イチローの奥様、もう、最高に好みの女性でした!!)し、そういう女性たちをほんとうに苦しめかねない。

 すぐに旅立っちゃたり、人質に取らせたり、やりかねないので。自覚してます。この点で女性に負担が大きいのは。

 でも、今は政略結婚やお世継ぎのためにで妾を増やす「現実的必要」ないでしょ?
 ほんとうは、すごーーーーーく、一途ですよ!!!


******


 ......となると、まずADHD(注意欠損障害)仮説はちょっと似合わない。確かに話題は次々飛ぶけど、私って、実は何を「話題」にしいていても、実は、手を換え品を換え、同じテーマを追求しているということは、すでに常連の読者の方はお気づきかと思います。

 学習障害仮説は肯定します。テスト用紙に向かいさえすえば、業者テストの国語は学年一、社会科も、普通に勉強して業者テスト全国上位、共通一次試験第一期生で国語自己採点198点。

 一方、数学は、幾何など、空間認識が関われば、あるいは「集合論」(記号論理学って、実は「集合論」との親和性が高いのは、学んだ人は知ってますよね!)には、ついていけたばかりか、ある種のセンスがあったけど、要するに微分・積分・方程式の世界を全く理解できない永遠の学年最下位


******

 もっとも、ほんとうの学習障害の人って、この程度のものではないことは、先日の研修会で笹森理絵さんのお話に接して、よくわかりました、彼女の100倍希釈に過ぎませんね。私の学習障害度は。


*****


 いずれにしても、これで私の今年の恋愛の抱負、「とことん高望みしてみる」の真意が少しつたわりましたよね。

「その人を自分が苦しめ、傷を負わせないかとうか、十分に吟味し、少しずつ交際を深める中でお互いを理解していく。できるだけいきなりセックス(セルクス)しない(爆)」

ということ!!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/01/17

ayuの心配するなら、自分や家族の心配をしましょう!!

●あゆ、伊から帰国…「左耳は大丈夫?」質問に「大丈夫です」(msn=産経)

 取材攻勢、覚悟してても、おびえるよねえ(^^)

 私、時々思うんだけど、

 時に芸能記事の執拗さって、要するに、

自分のことや家族など、身近なことについて心配した方がいい状況なのに、そこから逃げる方便(=「能力」)

として喜ばれている面ある。


 よく、こういう時に、


「世の中にはもっと不幸な人たちがいるのよ」


という言い方をはじめる人がいるけど、

私は、それを言うなら、

今すぐに、

自衛隊か、
医者か、
私のような援助職か、
弁護士か、
政治家か、
国際救助隊
(誤字にあらず)

に志願して欲しいと思う。


 「今の自分はだからまだしも幸せだ」.....という自己肯定で、自分や身近な人たちの悩みから目を背けるくらいならね!!


*****


 私は、だから、ここでayuのことを、「まただ、かわいそうに」なんて書かない。

 自分自身や、自分のクライエントさん、自分の家族や知り合いをいつの間にか傷つけていないかふりかえる縁(よすが)としたい。

 ayuもそうして欲しいと思っているんじゃないかな。

 このサイト、ayuファンの十代の若い読者がたくさん来てくださってるのは、アクセス解析から推定できるので、やはり書きたくなっちゃった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

人を信じないことが、人を信じることである。

●【断 神田茜】人を信じられない寒さ(msn=産経)


 私のつけたタイトルは、恐らく個々の読者にとって、実にさまざまな意味に読解されるだろう。私は、それでいいと思っています。


 ただ、個人的信念として思っているのは、

 

 他人が自分に対して肯定的評価をしてきたり、
 受け入れてくれたり、
 声をかけてくれる時は、
 すべて、
 自分をだまそうとしているか、
 利用したいかのいずれかである可能性がある。


 他者が私を名指しで公然と批判してくれる時は、
 すべて、
 私のことを「見ていられない」と心配しているか、
 私とあえて関係を作る(継続する、失わない)ことを切望しているか、
 私のことがうらやましいか、
 単にその人が私と無関係なことでムカついていた八つ当たりか
 のいずれかである


.....と、とりあえず発想してみるということです(^^)


 人を安易に信じていていい社会とは、裏を返すと、ものすごく統制されたファシズム的社会に完全に順応した状態でしか体験できないのかもしれませんよ(^^)


 このことは、すでに山のような数のSF作品が描きつくして来ましたが、超古典を一発。

 この、解釈が無限に可能な不朽の作品を、そういう「信頼」のドラマとして読み込むのはいかがでしょうか。

惑星ソラリス(タルコフスキー)


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/01/06

みのもんた司会の、歴史番組「ローマ帝国」

  1/3に放送されたものですが、かなりよくできていた。基本的には塩野七生さんの「ローマ人の物語」を公式に参照し、BBCの歴史番組ともタイアップしてのもので、特にハンニバル戦記や、一般には「暴君」とされるネロの実像についてなど、なかなか魅せるものがあった。

 ただ、ひとつ思ったのは、どんなに良識的であっても、歴史とは、常に過去の人間からみての「物語化」というものを超えられない。カエサルがどれだけ緻密にビジョンをたてていたとしても、それらは、ほんとうに最初から見通していたのか、自分の直感を信じるままに、必死に生きていたら、結果的にそうなったのか、ほんとうのところはわからないのである。

 歴史の弁証法は、常に遡及的(retrospective)なものである。これは個人についてのカウンセリングもみなそうである。それを決して忘れたくないと肝に銘じた次第。


 実はこの記事、こちらで紹介する別の夢の伏線でもあるのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/12/28

クライエントさんからの注文や不信の念の表明といかに対峙できるか(第2版)

 すでに何回もこのブログで書いてきたことなんだけど、ある意味で増井先生シリーズ佳境に入ってきましたし、ちょうどいいタイミングかもしれないので。

 神田橋先生がおっしゃった、「自閉する能力」という概念があります。

 これは更に普遍化されて、

 「症状」という言い方をする時に、「.....する能力」と読み替えてみたら?

と提言されています。

「引き籠もり」症状ではなくて、「引き籠もる」能力
「人目が気になる」症状ではなくて、「人目を気にする」能力、
「すぐに風俗に通う」問題行動ではなくて、「風俗に通える」能力、
「人にお節介を焼くことで、その相手を自分の人形のように依存させる」能力
「ずる休みをする」問題行動ではなくて、「する休みできる」能力
「解離」症状ではなくて「解離できる」能力
「鬱」症状ではなくて、鬱に陥れる「能力」
「本当の自分を出せない」悩みではなくて、「本当の自分を出さずに済ませる」能力

......と言った具合ですね。

(これだけ並べると、むしろ少なからず多くの人に確かにある程度ある、「適応」能力にすら見えてくるから不思議です)


******


 これは決して単なるポジティヴ・シンキングなどではない

 そのようにすることで、
 クライエントさんは、かろうじてここまでやって来れたのであり、

 もしそういう能力がなければ、
 もっと悪い状態に陥って「いた」かもしれない、

......と、考える余裕を治療者は持て、ということだと私は理解しています。


*******


 この「.....する能力」の応用問題として、神田橋先生の直弟子である増井先生と、その増井先生の兄弟分である田嶌先生が共に強調する事柄に、

「拒否能力」

更に、

「注文をつける能力」

という、現場臨床的に見て画期的な概念があります。

鬱病圏にせよ、統合失調症圏にせよ、神経症圏にせよ、日常の中で、あるいは職場や親などの「重要な他者」との関わりにおいて、こうした能力に乏しい方が多いことを実感し得る現場セラピストは多いからです。

 受容、共感とよく言われますけど、殊に日本人の場合、受容されればされるほど、カウンセラーにほんとうの思いを言えなくなるクライエントさんは、ありがちです。

 わかりやすく言えば、ずっと「人に嫌われないいい子」であろうとしてきた人は、カウンセラーの前でもそれを当然繰り返します

 カウンセラーを信頼すればするほど、


「嫌われたらどうしよう」症状、

もとい、

「嫌われたらどうしよう」と思える能力


が発動するのですね。

 ......そのことに気づかないままでいるカウンセラーなど滅多にいないと信じますが(^^)


 あるいは、人に対する(あるいは、それまでのカウンセラーに対する)不信感が強いあまり、最初からカウンセラーをいろいろ試みるクライエントさんがいるのも、「援助を求めたい相手に、安易に気を許さない防衛能力」といえるかと思います。


*****


 いずれにしても、

それまであまり苦情やカウンセリングの進め方について
違和感や苦情を言わなかったクライエントさんが、
敢えてそれを口にした時

あるいは、

これまで面接の中で取り扱わなかったテーマを
敢えて取り上げたいと自分から申し出る時
には、
それ相応の覚悟を決めていたり、
勇気をふるっていることが多い。

 少なくとも、そのカウンセラーを信じたいという気持ちと不信感がギリギリのところでせめぎ合っていることが多い。

 この時のカウンセラー側の態度如何で、より面接が深まるか、それとも堂々巡りしたり、突如中断したりするかの分岐点になることが多いのは確かです。

 見え透いた「注文歓迎」の姿勢や、「お茶を濁す」態度、あるいは議論のすり替えなどは、容易にクライエントさんに見破られます。


*****


 以前にも書きましたが、こうしたことへの感受性は、少なからぬ場合、カウンセラー自身のカウンセリングの師匠(たとえばスーパーバイザーに)対して感じた違和感を自分でどのように見つめ、対処してきたのかが如実に反映します。

 得てして、カウンセラーは、自分のカウンセリングの師匠の嫌な部分だけを無自覚に取り入れるという「反復強迫(やりたくもないし、用心しているのに、実はそのことをいつのまにか繰り返してしまうこと)」を持っています。

 これは、多くの一般の人が、親を反面教師にしようと懸命に努めてきたのに、いつの間にか、自分の子供が自分のことを、かつての自分と同じように嫌っている事実に直面してショックを受けるのと全く同じ次元でのことなのです。

 そういう意味では、そういうカウンセラーになってしまった責任は、実は師匠との関係性の質に大きく影響される(どちらが悪いとは言えませんが)。

 ただ、師匠に全責任はないにしても、そういう「スーパービジョン」や「教育カウンセリング」経験、あるいは師匠が弟子に研究室の日常の中でどう接したかという「トラウマ」を背負うあまりに、クライエントさんとの関係で苦しみ続け、堂々巡りを続けるカウンセラーがこの世にたくさんいることも確かなようです。

 だから、カウンセラーにどうしても違和感があり、どう伝えても通じない壁があると感じたら、そのカウンセラーは、よほどたちの悪い「師匠」や「先輩」に負わされたトラウマに無自覚なままだ、と発想しているのも、いいかもしれません(^^;)

 この記事もご参照ください。

 更に、こちらの記事で取り上げた映画も、ぜひご覧になることをお勧めいたします。


*****


 何より、自戒を込めて。


 実は、本日、クライエントさんに痛いところを突かれた経験があったからこそ、その方への感謝を込めつつ、ここに書くことにしました(^^)

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007/11/30

「登校拒否は、登校意欲過剰症である」

 前後の脈絡からは外れるかもしれませんが、私が、現在紹介しつつある増井先生の著作に書かれている内容で、一般の人、何より不登校の少なからぬ皆さんにピンときてもらえる可能性のある、最高の名言のひとつを、「ツカミ」として紹介しておきましょう(^^)

「例えば、登校拒否児は、他からの登校刺激に対して明らかに拒否的であるが、内的体験から示すと、逆に、『登校意欲が極度に肥大している』病気でもある」(p.103)

 恐らく、人間性心理学会を中心として、「増井理論」におなじみのカウンセラーの皆様、そしてこれが実は、師の神田橋先生の「自閉の勧め」論から直接発展したものだ、という示唆を申し上げれば、なるほどとお感じの専門家の方は少なくないかと。


*****


 ただ、これを読んでいる学校に通えないでいる皆様に。

(最近、十代の読者の皆様のシェアが一番多い現実があるので)。


 これを「偉い先生がこんなことを言ってる」などと、親や学校の先生に直接言ったりはしないほうがいいと思いますよ。

 まずは、あなた自身が、ほんとうに、自分の中の「学校に行かねばならない」「社会でやっていけねばならない」という気持ちに呪縛されないと生きていけない側面が本当に自分の中にあるのかどうか、自分の心にじっくり問いかけてみてください。


*****

 なお、増井先生には、私は未読ですが、不登校についての著作もあるようですので、ご紹介だけはさせていただきます。再販されていないようですが、Amazonの中古を、しぶとくあたり、ウィッシュリストに加えておくといいかもしれません。

「不登校児から見た世界 -共に歩む人々のために-」 (有斐閣選書)ISBN-10: 4641280746

私は不登校を経験したことがあります。
 この本ほど不登校児の心を理解してくれているものはないと思います。
今はさまざまな不登校に対する本が出ていますが、
不登校の子の心について書かれたものはあまりありません。


不登校については、とかく甘えているとかわがままであるとか、あるいは親(特に非難の矛先が母親に向けられることが多いが)の躾が悪いなどとの批判がなされることがある。しかし、どうして他の子と同じように出来ないのか、一番悩んでいるのは本人であり、上記のような躾論は本人や家族の苦しみに拍車をかけるだけで、理解や助けにはならない、ことを本書は教えてくれる。誰が悪いといった犯人探しの観点からではなく、不登校児の心をより理解するために、おすすめの一書である。

では、不登校児はどうして閉じこもるか。著者によれば、それは「安心して私であること」ができない状態だからだ。不登校にもいろんなパターンがあるだろうが、概して不登校児は周囲に気使い、調和を保つために「自分」を殺して「良い子」であることが多い。要するにわがままになりきれない、彼らの窮屈さがあり、そのためどこに行っても「全く休めない、心の逃げ場がない」状態が続く。そのことが彼らの心の疲労を生み、不登校という形で自分の心の落ち着きを保っているのだ。であるから、不登校は怠けものなど否定すべきことではなく、彼らにとって、より本質的な私らしい私探しの心の過程でもある、としている。

(Amazon レビューより)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/08/13

朝青龍の「精神面」ケア

●朝青龍、精神面ケアの医師を一本化=大相撲(msn=時事通信)

 他の記事によれば、彼を「自宅謹慎」処分にしているわけではないことを、今日文部省に広告したそうで、私もその点では誤解していた面がないとはいえないかもしれない。

 もっとも、彼の家の前には報道陣びっしりだろうから、心身が相当不安定であれば、とても外出する気にはならないだろうし、記者会見よりも治療を優先する方向は的確だろう。

 この前ASD(急性ストレス障害)と診断した協会指定医に、今後診断と治療を一本化するにしたことは、納得できる。どうみても一人めの人の専門能力は疑わしいので。

*****

 ただ、些細なことに見えるかもしれないけど、「精神面」のケアという言葉に使い方には用心したほうがいいと思う。

 恐らく、「身体の故障そのもの」と区別する観点から、こうした言い方がなされているのかもしれない。それは想像できるし、やむをえない言い方かもしれない。

 しかし、うつ病にしろ、ASDにしろ、(今回の例では当てはまらないにせよ)統合失調症にせよ、およそ「精神だけの」病というものは多くの場合存在しない

 一見古臭く見える「神経の」病という言い方には言い得て妙な一面もある。つまり、神経系というのは、身体のすべての働きを統括しているわけで、多くの場合何らかの身体症状も随伴する。むしろ全身の症状の一部が精神症状といってもいいくらいである。

 たとえば欝状態の場合、その障害は身体機能に及ぶのが普通である。睡眠のみならず、食欲の低下(これは、この前の記事でも書いたように、むしろ、おいしいという感覚の衰弱から、むしろ過食を導き出すこともある)、疲労しやすさ、更には免疫力の低下すら引きおこす(これは、いわゆる「似非科学」の免疫力の話題とは次元が異なる)。

 そのため、皮膚に吹き出物が出たり、一度何か他の身体病を起こすと、通常よりも不可解なまでに治りにくかったり。それどころか、虫歯末期の治療において、神経を抜いた後の膿が、歯科医から見ても、本人から見ても、不可解なまでに止まらない(たとえば一ヶ月以上)ことなどありふれている。

 以前にも神田橋先生の名言として引用した、「こころは病まない」というのは、いわゆる「精神疾患」が、さまざまな「身体症状」の一面であるに過ぎないことを指していわれた逆説である。

 身体のケアがこころのケアという側面があるのである。それを神田橋先生は「養生」とよび、重篤者への心理療法への誘惑への戒めとしたわけです。こうした考え方は、中井久夫先生にもあるし、多くの精神科医がこころえているところです。

 身体までどうにも思うに任せなくなるから欝なわけです。信頼できる人との対話などは、重たい欝でもできることも多い。むしろ、そういう時「だけ」、その人なりに、一番元気になれるものだったりします。このあたり、まだ世間では「引きこもり」と「欝」の違いが浸透していない

*****

 私は、相当量の抗うつ薬の処方が必要な頃すら、ネットでは今よりも多くの文を書けていた時期があるし(ここではなくて、別のクローズドなメーリングリストですが)、カウンセリングもまったく滞りなくできていたのです。限られた時間なら.....ですが。

 おかげで、そういうさなかに、カウンセラーからも(!)「お元気そうで何より」といわれることも多くて、「なるほど、そんなふうに見えるんだ」と、カウンセラーとしても勉強になりました(^^;)。何しろ、「どうして午前中の催しには出てこないのだろう?」.......あの、「日内変動」って知りません? カウンセラーも、ある水準以上の欝の世界は、リアルには知らないんですよね。自分の体験だけに引き付けるのは間違いの元と知りつつも、やはり私の「肥やし」になっています。

 ここぞと決めた限られた時間に人と対話できる以外は、日常のことがほとんどできずに、ひたすら横たわっていないと全くもたなかったのに。

 カウンセラーとして、専門家として、自分を見つめるもうひとつの視点が冷然としてあるから、何とか自分を支えられてきたのが、私の「業」のようなものですね(^^;)。「うわあ、これが『希死念慮』か、なるほど!」....とか、冷静な「もう一人の自分」がいましたから。わずかな使えるエネルギーの配分にも、専門家的な用心をするわけで。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

今、朝青龍に北風を吹かせてもマントは脱がない

 再び朝青龍についてなんですけど。

 彼の過去のいろんな問題行動はともかく、記者会見をさせることを、今、強制することに、私はたいへんな違和があるし、危険ですらあると思っています。

 彼の八百長問題や、実際の怪我がどの程度かについての検証がまずは十分になされているのか?

 その客観的検証の結果についての処分という点は、彼の現在の心身の状態とは無関係に、厳しく臨むべきと思います。

 しかし、ある程度精神状態の治療が進んだ上で、記者会見という手順を経ることは、どうも必要そうというのが私の観測です。

 精神状態まで「仮病」と疑われてわれているのかしら?

 もちろん、この点でも、3人目の中立的な精神科医による面会の上での診断は経るべきと思います。

 しかし、診断がASDであろうと、状況因性の鬱状態(例えば、「適応障害」であろうと、彼がある種の鬱状態にあり、精神的・身体的に消耗した状態にあることと、治療の基本路線が変わらないことは確かでしょう。

 鬱病者の治療の原則:

「大事なことは決めない」

 世間で、今鬱状態にある人たちに対して、「朝青龍のように、甘えているだけ」という叱咤がなされていないかどうか、すごく気になります。

 だから、

 ●和田アキ子:ラジオで朝青龍を猛批判(msn=mainichi)

.....なんてとんでもハップン、それこそ、あなたが会いに行った後に、彼が「死んでしまった」みたいな報道が突然あったらどうします? ....といいたい。 


 この人、ayuの別離の時も、「ayuのわがまま」といっちゃうし、やれやれ(f^^;;;)

 長瀬君がどんなに「いい人」でも、義理で恋愛続けたり」、結婚しなければならない理由はどこにもないではないか。

 合理性だけでは恋愛や結婚は成立しないはずで。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/08/11

幽霊より人間の方がコワいかも -真景累ヶ淵-

 「真景累ヶ淵」、園朝の原作、やっと読了しました。

 映画、私は、これから一週間の間に観るだろうと思います。

 原作と、映画「怪談」の異同については、王子のきつねさんサイトで、実際にご覧になった上で、詳しく解説されています(もろ、ネタバレです)。

 これを読んでも、観る価値ありかなと思いました。ayuが主題歌を歌う映画を実際に観るのは、アニメも含めてはじめてですが(実はテレビの「犬夜叉」のエンディング=ayumi hamasaki - I Am... - Dearest"Dearest"すら観た記憶なし)。

 つまり、ayuのエンディングとは自立して、ある水準の映画だと、公式サイトの予告映像ともつきあわせて想定できるから。描く部分は描いているのはほぼ間違いなかろうと。私、同じ中田監督の「リング」も観てませんが。

 なお、映画の脚本は、劇場アニメ「時をかける少女」と同じ、奥寺佐渡子さん。「時かけ」では、心情表現の自然な流れに卓越していたけど、今回はいかに?

 原作を読んで感じたのは、特に後半の方、豊志賀と新吉がいったん物語の表舞台から引いて以降の人間関係が(内容はおもしろいけど)複雑になっている。映画ではそのへんを思い切って切っているようで、映画は原作以上にホラー色が強まっているようだが。実は原作は意外なくらいに「幽霊話」の側面は強くない。

 むしろ、コワいのは、生きている生身の人間の方である(^^;) 愛欲と金銭が絡んだ時、どれだけ人間が醜くもあり、残酷な存在に豹変し、次々ととんでもないことを実行できてしまうか。改心というものがいかに長続きしないか。それらが、江戸時代という時代背景の中で、泥臭いまでに描かれていく。

 そして、ひとり芝居としての長編落語が、そもそも脚本のような側面があり、ビジュアルなイメージを喚起して読むと、まさにミステリーやアクションすら含む素材として、いかに映画化への誘惑を喚起するものであったか。

 余談に近いが、映画では全然登場しない、花車重吉という相撲取りだって、今の映画技術を使えばリアルなアクションを描けるだろうか、そこまで描いたら映画としての見通しのよい構成を失ったろう。時節柄、朝青龍がこの役をやったら、人気回復になったかもしれない(爆)。 でも、当時の物語の世界では、剣術使いと並んで、今日で言う超人的アクションヒーローの役割を負っていて、それこそ「ひでぶ」「あべし」の描写の連続になってしまう。この相撲取り、善玉なのだが、この「残酷なまでの破壊力」のあたり、朝青龍に向いていたかも。

 ともかく、日本の古典にナマに接する上での入門としても、おもしろい切り口になるかもしれない。注釈全然読まなくても何も困らないし。現代語のルーツが、その頃は今と少し違う意外な形で使われていることに読みながらすぐに察しがつく場合も多いし。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/08/04

「真景累ヶ淵」、読み始める。

 以前も紹介しましたが、公開された映画「怪談」(監督:中田秀夫 主演:尾上菊之助・黒木瞳)のテーマソングがayu様の浜崎あゆみ - glitter / fated - EP"fated"なわけです。

 この映画の原作は、初代三遊亭圓朝の怪談噺(ばなし)、「真景累ヶ淵」(しんけい・かさねがふち)です。

 王子のきつねさんが、この怪談噺の背景にある「羽生村事件」について、実に詳しくレポートしてくださっています。(ここからどうぞ)。私も原作読み始めて、映画に予定されている範囲まで「踏み込んだ」ところ。

 基本的に、円朝の高座の筆記録ですから、言葉遣いは平易です(明治20年頃の文字起こしなんですよ)。岩波版は現代仮名遣いです。現在とはいろんな意味で言葉の使い方が違いますが、それは注釈なしでも「勘」で意味が汲める範囲ですから、古文・文語が苦手という人も特に困ることはないでしょう。

 映画的表現としてはさぞ「こってり」やりたいシーン(幽霊だけでなくて、男女の機微や濃厚ラブ・シーン)とかは、原作では実にあっさり描写されてますので、映画でそれをどう描くかという「予習」的に読むのもお勧めです。

●「怪談」公式サイト

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/07/09

「皆さん、手術の前には手を洗いましょう」の創始者、ゼンメルワイスの苦悩 -ナイチンゲール時代の「公衆衛生運動」と「細菌医学」の奇妙な格執-:本論2

 さて、ナイチンゲールがクリミアで活躍した19世紀中葉当時の外科医は不衛生不潔そのものだった......と申し上げると驚かれるかもしれない。

 当時の外科医はたいてい黒い服を着ていた。なぜなら、浴びた返り血の色が目立たないようにするためである。手術用のエプロンも着けることがあったが、それもまた黒い色をしていた。しかも、そのエプロンはずっと洗濯されておらず、血糊が無数にこびりついたままだった。

 手術前に外科医は手すら洗わなかった。手術用具、例えばメスは、ポケットに入れて持ち歩かれていた。新たな患者に手術する前に洗われることもなかった。手術中、外科医は自分の服の袖口やすそで、メスをぬぐいながら手術を続けた。たいてい木製の手術台には、血糊がこびりついたままだった。

 連続して手術がなされる場合でも、外科医は手をぬぐうことはあっても手を洗うことはないまま、そのままの手術台と、同じ手術用具で手術をした。

 当時は、傷口は化膿するのは、傷口が治癒するために必要な、当然の過程であるとみなされていた。化膿しなければ治癒しないと考えられていたのである。


*****

 
 1846年、ハンガリー出身のイグナーツ・フィリップ・ゼンメルワイスという医師が、ウィーン総合病院の第一産科の助手になった。当時、出産は基本的に自宅で行うものであり、病院で出産するのは「不義の子」など特殊な場合だった。

 当時、出産は死を賭したものだった、今でも産褥熱という病気は存在する。しかし産褥熱そのもののために死に至ることはもはやほとんどないと言っていい。しかしかつては数パーセントの死亡率すら持っていたのである。

 産褥熱に限らず、当時手術後に発熱して死に至る患者の遺体を解剖すると、共通の所見が見られた。手術した患部や傷口のみならず、肝臓も、腹膜も、リンパ腺も、腎臓も、肺も、脳膜も、みんな化膿や炎症を起こしているということである。敗血症による多臓器不全であるが、原因がわからず、出産や手術につきものの、不可避なものとしか思われていなかったのである。

 しかし、ゼンメルワイスは、勤務開始後この産褥熱による死亡率の統計に頭を抱えることになる。ウィーン総合病院の産科は、2つの病棟を持っていた。そのうちの、センメルワイスが勤める第1病棟の方は、10%の死亡率を持つのに、第2病棟は、1%しか死亡率がない。実は以前からずっとそうなのに、上司の指導教授はそのことに慢性の不感症になっていて、全く気を止めていないのである。

 ゼンメルワイスは、上司の目を振り切り、同僚のマルクソフスキー、そして法医学教授のコレトスカと共にその原因についての探求を始める。

 死体安置所にある死体の病理解剖をして、産褥熱の死の場合とそれ以外の死の場合に病理所見に違いがないかどうかも検討を重ねた。ひとつはっきりしていたのは、出産に時間がかかる女性の方が産褥熱になりやすく、死亡率が高いということだった。

 ところがこうした熱心な調査研究をはじめるにつれて、むしろ第1病棟と第2病棟の死亡率は、12.1%対0.9%と、むしろ格差が開いていったのである。

 ゼンメルワイスが、ほとんど神経衰弱になりかかっているのでないかと心配した、先述の協力者、コレトスカは彼に静養を薦め、やっとのことで説得してベニスに送り出した。

 しかし、気が休まらないゼンメルワイスは、静養を3週間で切り上げて戻ってきてしまう。

 そこで知らされたのは、最大の協力者、コレトスカが、急死したという事実だった。解剖実習の際に、未熟な研修生が、そばにいたコレトスカの腕にメスで擦過傷をつけてしまった。たいした傷でもないのでコレトスカが気にも留めなかったのだが、その晩から彼は高熱を発し、数日間苦しんだ挙げ句、死んでしまったと。

 ゼンメルワイスはコレトスカの解剖報告書を見せてもらった。

「肝臓・腹膜・リンパ腺・腎臓・肺・脳膜.....化膿と炎症」

 この瞬間、ゼンメルワイスに打ちのめされたような衝撃が走る。

 それは、自分が山のように解剖してきた、産褥熱で死亡した女性たちの解剖所見と全くよく似ていたからである。

 コレトスカと、産褥熱の女性たちの死亡の原因そのものが同じである...という直感。

 ウィーン総合病院の産科は、2つの病棟を持っていた。基本的には同じような構造を持った同規模の病棟が2つ回廊で結ばれて建っていたのであるが、ひとつだけシステム的な違いがあった。センメルワイスが勤務する第一病棟は、研究・研修目的も兼ね、病理解剖を行う死体安置所も持っていて、男性の医師・研修医の立ち会いによってしか分娩はなされなかった。これに対して、第2病棟は、女性の助産婦によってしか分娩はなされておらず、この点、相互に例外は全くなかったのである。  

 第一病棟の医師は、さっきまで病理解剖をしていた、その同じ服装と手のままで、妊婦の分娩に立ち会っていたのである!!

 ゼンメルワイスが原因究明のために産褥熱の女性の病理解剖に力を入れば入れるほど、むしろ第1病棟の産褥熱の死亡率が増えていきすらしたのは.......

 少なくとも、産褥熱の女性の遺体の身体の内部が出していた何らかの毒を出す物質に接触した手で、出産する女性の身体に触れるということをしていたためではないか?


****


 翌日、彼は指導教授には無断で、張り紙を出す。


「今日以降、死体安置所から出た者はすべて、医師、学生問わず、産科の病室に入る前に、入り口に置かれている塩素水で十分に手を洗うこと。この指令は何人にも適用される。例外は許されない」


 だが、指導教授も医学生たちも、「めんどうくさい」と冷笑していた。しかし彼はもはや冷酷な暴君となって監視した。石鹸、爪ブラシ、さらし粉などが次々登場する。罪意識の虜となった彼は、「人のいい、同僚にも患者にやさしい男」から一転して、ヒステリックな孤高の独裁者となるのである。

 数ヶ月後、第1病棟の死亡率は、12.34%から3.04%へと激減する。

 しかし、「院内感染」問題と、病院の衛生管理の先駆者、ゼンメルワイスは、それからも茨の道を歩むのである。

(続く)


 ●参考文献

Wikipediaおよび、

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/06/25

鬱的になった人はまず精神科以外の医療機関を受診する傾向がある

msn=毎日の記事より。

●自殺防止:NPO、精神科医など連携 静岡・富士で


静岡県は不眠などの身体的症状を見逃さずに自殺防止につなげようと、NPO法人を含む全医療窓口が精神科医と連携する独自の取り組みを同県富士市で7月から始める。県は厚生労働省に地域自殺対策推進事業として採択を申請中。人口約24万人の産業都市ぐるみでの自殺防止の仕組みは、全国の先駆的取り組みとして注目されそうだ。

 静岡県精神保健福祉センターによると、自殺者の大半が自殺1カ月前以内に不眠や疲労感などを訴え、精神科以外の医師を受診していた。このため同市では、一般的に自殺率が高い年代の35~69歳の市民に、「眠れない」「食欲がない」「だるくて意欲がわかない」の3項目を自己点検できるリーフレットを配布。問題を訴えた市民にまず、かかりつけの医師などに相談を促す。

 市では今年1月から、県と市医師会の協力で一般の医師と精神科医が連携し不眠や食欲低下の症状のテストや専用紹介状も用意しており、取り組みの下地ができていた。

 県では05年の自殺者814人のうち40~50歳代の男性が3割強。精神科の受診に抵抗感が強いことや、この年代の男性の中には医師の指摘に「おれはそんなに弱くない」と反発する人もいるという。同センターの松本晃明所長は「抗うつ剤を飲むだけで自殺を免れることができる。将来は睡眠薬を扱う薬局にも協力してほしい」と話す。

 自殺予防について多数の著書がある高橋祥友・防衛医大防衛医学研究センター教授(精神医学)は「自殺防止のために自治体ぐるみで一般医と精神科医が連携することは珍しく、特に企業城下町の富士市のようなところでは、全国のモデルになるかもしれない」と話している。【稲生陽】


> 自殺者の大半が自殺1カ月前以内に不眠や疲労感などを訴え、
> 精神科以外の医師を受診していた。

 これは恐らくそうだろうと思います。

 自殺者=重度の鬱の人というわけではなく、例えば統合失調症になりはじめた人も、自殺の危険が生じる場合があるわけですが、私のカウンセリングングルームにおいでの方でも、自分の直接の相談ごとのメインには必ずしも語られなくても、「眠れない」「食欲がない」「だるくて意欲がわかない」などといった状態に実はすでにある方が少なくないわけです。

 そういう来談者の方に、「お医者さんに行かれましたか?」というと、恐らく5割以上の頻度で、内科をはじめとする、精神神経科・心療内科以外のお医者さんに行かれたということは言われます。

 以前もお書きしましたけど、「鬱」というのは、知識としてそこそこ知っているつもりの人でも、自分の、この、「眠れなさ」「食欲のなさ」「だるさや意欲のわかなさ」が、「鬱」というものなのだということを、全く自発的に自覚できたり、認めることができるわけではないことが少なくありません。

「こ、これで、十分『鬱』というものにあたるわけ?」

.....それこそ、カウンセラーのような専門家でも、「自分が」鬱になったと、冷静に自分だけで判断できることは必ずしも多くはないでしょう。

 特に、自分が、例えば一ヶ月前に比べると、目に見えてだるい日が続くようになったとか、意欲が衰えた、それが1日や2日の休息ではほとんど回復しないとなれば、十分に鬱の可能性を考慮に入れてもいいのですが。

 私は、そうしたケースについては、クライエントさんの受け止められる形で、「鬱状態」の可能性もあることを理解していただきます。そうしたお話し合いの上で、やっと、自然な流れで、

「.....やっぱり、『鬱』ですかね?」
「......そうですね。確言できませんが、お医者さんの判断を仰いでもいいような気がします」

という自然なやりとりになることは少なくありません。

 そして、念のために心療内科か精神神経科の医療も受診して診断を受けてみることをお薦めし、その地域の信頼できそうな病院も紹介し、その診断の結果を受けて、カウンセリングのあり方を考えることをお薦めします。

****

 私は、カウンセリングや心理療法が、薬物療法の「代わりになる」ということはないと思っています。

1.適切な薬物療法と、お医者さんとのいい関係(医者という名の薬)がベースにあり
2.以前よりも無理をしすぎずに済む、「徐行運転」や「臨時の休息」が可能な生活状況を確保していただき、
3.カウンセリングに通うことが、ご本人の心身の休息を妨げる形にならない場合に

はじめてカウンセリングや心理療法は効果を発揮するものと思っています。

 中には「薬が効かない」という方もありますけど、そういうケースのかなりの部分は、お医者さんとのコミュニケーションがうまく取れていない場合が多いという気がします。以前も書きましたが、私のような開業カウンセラーの仕事のひとつは、クライエントさんが、診察の限られた時間内で、お医者さんとうまくコミュニケーションを取る「コツ」をその都度伝授していくことでもあると思っています。

 「精神神経科」に抵抗があるならば、「心療内科」の看板も掲げた「内科」の開業医で、最初は十分だと思います。もちろん、何らかの身体疾患や、更年期障害などが、「元気がなくなる」原因と言うこともありますけど、心療内科では(精神神経科もですが)、当然、そういう身体因の可能性について、検査なども含めて鑑別診断もした上で治療方針を決めていくものですので、精神科や心療内科に行ってしまったら、安易に「鬱」と決めつけられるなどというご心配には及びませんが。

*****

 上記の記事では、精神神経科医以外の医用窓口ばかりではなく、今後は睡眠薬を扱う薬局などとも連携する方向を考える方向のようですが、こうしたネットワークは、例えば育児相談、法律相談、消費者問題相談、ハローワークなどの組織や機関とも連携されていくのが望ましいでしょう。最近はハローワークに臨床心理士が置かれている地域も増えてきたようですけども。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/02/01

眼鏡なしの歴史三昧(あるいは,今後の予定)

 珍しく、ブログを3日ほど書かなかったのですが、その間も、ブログを更新していたときと全く同じペースで当ブログにおいでいただき続けていたことに感謝申し上げます。

 私の活動全体のペースそのものは全く変わっていません。

 結局、眼鏡は発見できませんでした(^^;)。40代半ばで、老眼が刻々と進んでいる筈なので、結局、福井への出発日である本日から逆算してぎりぎりの日に、「再検査してフレームごと眼鏡を新調する」決断をしました。「今」やっと、できあがった眼鏡を引き取って来たのですね(^^)

 さすがに、遠視乱視近視すべてが重なっていますと、パソコンは画面20センチに接近しないと見えません。その姿勢でブログを無理して打つと、かなり猫背せざるを得ず、「腰にくる」ので、完全に開き直り、面接をしている時間以外は、ブログの記事は無理して書かず、その分を職場の新しいパンフレットの作成と発送と、普段から眼鏡なしが普通の、読書にのみ集中することにしました。

******

 ....で、何を読んでいたかと言うと、予定通り、歴史書三昧でした(^^)。いったんその世界に入ってしまうと、いろいろな思いが湧いて来てしまって、それを整理してうまくことばに言葉にできないモードにもなってしまい、(思わず浜崎あゆみ - No Way to Say - EP - No Way to Say"No Way to Say")、一層書くことから遠のいてしまった気がします。

最新映画、話題作を観るならワーナー・マイカルで!

 結局、映画「マリー・アントワネット」は眼鏡なしでだと最前列で観てももったいないので観ないままです。私はもともと、有楽町マリオンの日劇の大スクリーンは別とすると、前から3列目から5列目ぐらいで視野いっぱいに映画を観るのが好きなくらいですから。
 ......で、ジャコバン・クラブの前身、ブルトン・クラブがブルターニュ出身者が多いことに何か意味があるのかという関心から、

ブルターニュの民族主義成立の背景→ケルト民族

原聖/「<民族起源>の精神史 -ブルターニュとフランス近代-」)

→スコットランド

高橋哲雄/スコットランド 歴史を歩く」

.....とまわって、結局、マリー・アントワネットに戻り、マリー・アントワネットの伝記の古典である、ツヴァイクの本(1932)を読破。

 更に、マリー・アントワネットの作曲したとされる歌曲を、「ベルばら」の作者、池田理代子さん(音大を出て,現在はソプラノ歌手としても第1線で活躍しているのはご存知の方が多いかも)自らが歌ったCD、

 そして、このあとは演劇としての「フィガロの結婚」の作者、ボーマルシェの映画

(「演劇」フィガロが検閲をくぐり抜けて上演にこぎつけるまでにはにはアントワネットが大きく関わっている。アントワネット自身がベルサイユの宮殿内の舞台で「役者として」演じている!!)を経て、「ルイ17世問題」とアントワネットの肖像に詳しい本を経て、更に、恐らくロベスピエールの恐怖政治の背景についての本を探すところまでは、一気に「フランス革命」モードで走ると思います。

 映画「マリー・アントワネット」は、そういう渉猟の途中,来週の木曜日の
「定休日」に藤沢で観てしまうでしょう。

******

 さて、今から上野駅に出発するまでに書ける範囲は限られているので、「今後の予定」内容をかいつまんでダイジェストするにとどめます(^^)。
 
 つくづく感じ始めているのは、フランス革命のプロセスそのものの中に、現代にも通じる、政治と社会と個人のありようが、縮図のように読み取れるという思いです。

 そして.....

 このブログの記事の流れの中で、実はすでにさりげなく,何度となく示唆していることになるかもしれませんが、少し前から、私の中に、ひとつの「直感」としてあるのは、

浜崎あゆみのあり方を
マリー・アントワネットのあり方と
シンクロさせたらどうなるか

という思いなんですね。

 ツヴァイクによる伝記を読んだ時点では、この直観は生かせそうだと感じています。

 結論は書いておいてもいいでしょう。

 「浜崎あゆみはバカじゃない」

 これは、ayuのデビュー1周年の頃の、「オールナイト・日本」でのayuの特番がでDJした時に使われたサブタイトルですが、

 「マリー・アントワネットも、おバカさんではなかった」

.....ということ。

 気づくのが遅過ぎたし、ある意味で、最後まで「王」に必要な決断力を発揮できなかったルイ16世の「王妃」というアイデンティティを超えられなかったがゆえに堂々巡りしたところがあるにしても、彼女は、ハプスブルグ王朝黄金期を築いたオーストリア=ハンガリー帝国の最も英明な政治力を持った女王、マリア・テレジアの娘そのもの、つまり、「『王の器』の精神的後継者」として、母親のアイデンティティを見事に引きついだ、自立した「政治家」として生涯の最後の数年を終えたとはいえそうだということです。

 それが「ツヴァイクの」史観といえばそうなのかもしれないけど、少なくとも、フェルセンの果たした役割について、もっとスウェーデンの政治情勢と直結させてシビアな理解はできるかもしれない可能性をツヴァイクの伝記に感じる点は留保するにしても、王妃
としての「アイデンティティの確立」までの問題として、アントワネットの生涯を読み解く価値が十分ありそう
とは、強く感じました。

 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/01/13

「疲れた」「つらい」筈なのにそう感じていな「かった」時の「独特の感覚」は本人にも「実感」できる(第5版)

 「欝とは、自分が無理をしていることを認識できなくなる時期にすでに始まっている」

 ......この記事は、このブログの個別記事別で、通算最多アクセス記録を現在も更新し続けている記事であり、週ごとの「ベスト20」でも20週連続ランクインを続け、たいへん多くの皆様にお読みいただいて来ています。

 それが、

> 少しでもこれが世間の「欝」についての著作より「新鮮に」響けば幸いです。

と、私がその記事の最後に記した思いが伝わった結果であるとすれば、たいへん光栄なことと感じています。


*****


 ただ、最近。

 この記事について、次のようには誤解されたくないなあ、という思いも生じてきました。

「鬱の人は自分が無理していることを自覚できない人なのだから、まわりが無理してでも本人にそのことを自覚させるしかない」

 私は、カウンセラーとして、このように受け取っていただきたくはないのです。


****


 その理由は、大きく分けて2つあります:


1. 私は、およそどのような場合でも、

  「自分自身の感覚や判断を信用するな、
  なぜなら、あなたは『こころの病気』だからである」

というふうに、クライエントさんに受け取られる危険のあるメッセージを発することは治療的ではないと考えます。

 もとより、クライエントさん本人が、自分が病気なのではないか、病気故にこうなっているのではないか、と感じて悩んでいる場合には、それを受容的・共感的に受け止めて、その「悩み」とどう向き合うかについて一緒に考えて行くことをしてまいります。

 しかし、それはあくまでも「病気」という現象を「括弧に入れて」、「病気」であるかないか、「病気」故に現状から抜け出せないのか、というクライエントさんの苦悩とおつきあいするということに他なりません。このスタンスを失うと、実はほんとうのカウンセリングにはならないと考えています。

 例えば医者からはっきり『鬱病』と診断された人がいたとします。これは告知された診断名が『鬱状態』であろうと、『感情障害』であろうと『適応障害』であろうと、本人にとっては大差なく、これらの告知は、ご本人に最初「ある衝撃」を伴います。たとえ「やっぱりそうか」とご本人が受け止めたつもりの場合ですら!!

 「これが、世間で言う『鬱』ということなのか?」

 たいていの人は、自分が思い描いていた『鬱』というものとの違いに驚きます。

 たとえ、カウンセラーであっても、自分が実際に鬱になってみたら、習い覚えていた知識だけではとらえきれない「何か」を実感として感じます。そして、学んだ事柄が「こういうこと」だったんだ、と、今更のように新鮮に少しずつ気がつきます。

 その一方で、一般に流通している、「鬱の人にはこのようにかかわるべき」という、専門家向けのマニュアルめいたものが、いかに表面的で、ひとつ使い方を誤ると、本人をいかに傷つけ、それこそ「鬱を悪化させる」危険すらある「際どさ」を秘めているかに気がつきます。


*****


 例えば、

「がんばれ」というな

という、皆様も恐らくご存じの、鬱状態の人への接し方の「基本的なドグマ」みたいなものがあります。

 このことを、鬱状態とされるその人の、以前のように思うように活力を持ってものごとをできないことへの、ほとんど衝撃的な絶望感と無力感、ふがいなさを汲んだ上でない形で、表面的にだけ伝えると、クライエントさんにとってはほんとうに行き場のない思いを呼び起こす場合があります。

 「がんばらなくてもいいよ(You may...)」
→「がんばってはならない(You must.....)」
→「自分は社会的に有意義な活動ができない無能者とみられている」

あるいは、

 がんばろうとすると、カウンセラーの人は、苦虫をかみつぶしたような表情で、私(クライエントさん)に、「拒否的」になる。カウンセラーの先生に「嫌われない」ためには、「がんばらない」ようにしないとならないのがつらい

 実は、単に「がんばらなくていいよ」といわれたら、このように感じてしまうのが、まさに、いわゆる「鬱的な」人の「発想法」らしいのではないかと私は思いますが.......。

 自責感が強く、「周囲に」存在意義を受け止められ、友好的に溶け込んでいられることこそ、鬱的な人が自明としていることなのですから。

 その意味では、鬱状態の苦しさの本体は、心身のエネルギー低下そのものではない(これ自体は生物として、全く自然な生体恒常性の営みである)とも言えます。

 神田橋先生ふうにいえば、「元気がない」状態で、かなりペースを落として生活することに、もしご本人が全く違和感や抵抗感がなければ、それは「こころの病」とは言えないことになります。

 「心身のエネルギーが低下すると、それまで周囲に認められていたような活動ができなくなる」=「自分は存在意義の根幹を喪失する」

という根源的恐怖こそ、鬱状態の「苦しさ」の本体だといってもいいのではないかと思います。

 あるいは、「がんばらなくていい」といわれて持て余す、時間をどう過ごしたらいいかという空虚感と焦燥感にこそ苦悩するのが鬱状態の人である。

 逆説的にいえば、人は「鬱」になったこと自体で二次的に鬱になることにこそ苦しむ。

 このようにクライエントさんが受け止める可能性への「想像力」を持ち、以前のように全力を出したいのに出せないことへのふがいなさ気持ちを十分過ぎるほどに汲んで、その上で、クライエントさんがいつの間にか無理をしていないかに目配りする姿勢こそが必要です。

 極論すれば、自分が多少は無理をしようとしてみないと、自分が現在それが「無理」だということには、その人なりに実感としては気がつけないという逆説がある気がします。クライエントさんに、ほんの少しだけacting outする自由を与え、ちょっとだけ無理をしてみる自由を保障することが必要だとすら言えるかと思います。

 これは「試行錯誤(try and error)の自由の保障」とも言えるでしょう。もとより、それを安全な形で許容できるには、すでに治療者とクライエントさんの信頼関係の《絆》が、『抱え』の構造を生み出している場合に限定されますが。

 その結果、

 「やっばり以前ほど踏ん張りが効きませんね。くやしいことですが」

といったことを正直に打ち明けても、

だから私の言ったとおりでしょ? 今のあなたには無理なのよ!!」

と、あきれるように、あるいは勝ち誇るように(と、敢えていいますね!)言葉を返してくるのではない対応をしてくれる、医者やカウンセラーでないと、信頼の絆は生まれないし、治療もはかどれない(たとえ薬物治療中心でも)筈です。

 単に「治療者に嫌われたくないからそうする」というのを超えた治療者との関係性が築かれていないことには、鬱的な状態にある人は、自分なりの節度をまきまえたライフスタイルにたどりつくことはないと私は考えます。


*****


2.別な観点からすると、実は、

鬱的な人に「自分が『無理をしている』『疲れている』と自覚する能力がない

というのは誤りなのです。

「無理をしていた筈なのに無理をしていたという実感がなかった
「疲れていた筈なのに疲れていたという実感がなかった

などという場合、実は、何の実感もなかったし、その時の「実感」を、、呼び起こせないということではないのですね。

 つまり、「無理をしていたはずなのに無理していると感じなかった」時の「独特の感じ」というのは、本人も実感可能なことが多いのです。

 「疲れていたはずなのに疲れを感じなかった」時の「独特の感じ」というのは、本人も実感可能なことが少なくないのです。

 それらは、ほんとうに「無理をしていない」時、「疲れていない時」の「実感」とは、別の「感触」や「感覚」であることを、本人が実はかなりの程度弁別できることを期待していい場合が、実はほとんどだと思います。

 「あの時は、普段よりも宿題が多くて、思わずピッチをあげてしまった。でも、数日後、疲れていた、無理をしていたのだと突然気がついたことがあった。でもそれをお医者さんには言わないままだった。そしたらその直後に学校を1週間休むしかなくなった」

などと通院中のクライエントさんが語る時、

「その、無理をしていると気がつかなかった時の、独特の自分のノリというか、気分、調子」というのがあったんじゃないですか。その時の感覚を今も少しだけ呼び覚ますことはできるかしら? 簡単に言葉にならないかもしれないけど、実感それ自体としては?

と尋ねると、少なからぬクライエントさんは、そのクライエントさんなりに「その『独特の』感覚」を、感覚そのものとして「思い出せる」のです。

「それなら、今後、『その』感覚が出た時点で、少し注意信号かな、と自覚できる(acknowledging)だけでも、すでに少しセーブが効き出していると思うから、大事にしたら?」

などと伝えると、

「そうですね。もう、あんなふうに、直後に寝込んでひどい思いはしたくありませんから。今度『ああいう』感じになったら、すぐにお医者さんに打ち明けます」

などと、あっさりと受け止めてもらえる場合があります。

 これは、サリヴァンが言い出し、中井久夫先生も強調する、「辺縁的身体感覚」の賦活というのと、基本的に共通のことだと思います。

 私が、フォーカシングで言う、言葉にならない曖昧な心身未分化の感覚それ自体としての「フェルトセンス」と重ねていることにお気づきのかたは少なくないかと思います。フォーカシング指向心理療法的な「認知行動療法」的アプローチとも言えます。

 結果的に、その人が悪循環に陥る際の認知と行動のパターン細かく振り返っていただき、そこに「ピンポイント的」な認知と行動の修正の「提案」をしていますから。 

 しかし、言葉で表現しにくい微弱な心身未分化な感覚それ自体その人固有の味わい="taste"を直接指標にできるという点では、より繊細なアプローチの可能性を開くともいえるかと思います。

 そして、認知行動療法において決定的なのは、クライエントさん自身が自分の内部感覚と認知と行動の連鎖の細やかな「観察者」になることへの内発的な興味と関心(=好奇心!!)を喚起できるかどうかにこそ成功のポイントがあると思います(行動療法の山上敏子先生の「暴露反応妨害法」ですら、ある意味でそうだと思いますが)。

 つまり。自分の日常の堂々巡りを生じさていた「感覚」→「認知」→行動」→「感覚」→.....という連鎖に、クライエントさん自身が更に探索し、気がつき、できるところからピンポイントで修正していく「ゲーム」の主体となることに興味と好奇心を持ち、その結果生活が円滑になり、ストレスも減り、以前よりも快適で、実は真の意味で「効率がよく」て(悪循環の無駄な繰り返しがなくなるから、実は時間もエネルギーも「浪費」されなくなるのである。休息の意味も生産的に自然ととらえられるようになる)、余裕感を感じられるようになる。

 そうした、生活そのものの中での「成功報酬」を得られ更なる動機付けとして、自発的に(オペラント!!)そうした自分の中の悪循環をち切る小さなステップを探していくことそのものが、ある意味で楽しくすらなった時こそ、認知行動的アプローチの真の成功のはずと思います。

(「治療者に褒められるから」、だけではまだ悪循環の火種がある。治療者が、それらがクライエントさんに「摂り入れ」られ、「内在化」されることだけを予定調和的に期待するだけでは、また落とし穴にはまると思います)

*****

 こうして、自分の「つらいはずなのにつらくない」「無理しているはずなのに無理をしていない」時の、その人なりの独特の曖昧な感覚自覚してもらい、クライエントさん自身がセルフコントロール上での指標とする状態が学習されていった時にこそ、いわゆる「鬱状態」の人は、自律性の回復という最大の課題を少しずつ消化できていく。

 カウンセラーは、それをサポートする存在でこそあるべきと思います。

*****

 なお、ここでいう「自律性の回復」とは、私と同じTFIの国際資格認定資格者(コーディネータ)である、九州大学の吉良安之先生の提唱された、最大の業績のひとつ、「『主体感覚』の賦括」というテーマにもつながるものだと思います

(ネット上では、吉良先生ご自身の「臨床経験にもとづく体験過程療法の再吟味」という論考が、日本フォーカシング協会のサイトで一般の皆様にも公開されています)。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006/11/13

人を助ける仕事に「一人前」はありえない

 インターネットで見つけた、この記事、襟を正させられる思いがしました。

 オリバー・ストーン監督の、「ワールド・トレード・センター」(msnの記事はこちら)、まだ未見ですけど、やはり見たくなりました。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/10/19

父の面影 ~究極の、個人的「松本零士」論~(第2版)

 web版毎日新聞報じたこの事件ここで報じられた顛末を精密に読む限り、少なくとも、槙原敬之さんの「所属事務所の」反応は、いくらなんでも極端かと感じました。

 松本零士さんも、「裁判を起こす」とははっきり言っていない。

 松本零士さんも、もし、槙原敬之さんから、直接、

 「意識的にまねたつもりはありませんでした。
 心からそう言えます。

 でも、そのことで松本先生をたいへん傷つけたとすれば、
 申し訳ないです。

 もっと自分の言葉を見つけようとがんばります」


というような言葉「さえ」、後になって出直してでもいいから、聞けていれば、すべては全く丸く収まったことのような気がします(^^;;;)。


****


 松本零士さんも、特に「宇宙戦艦戦艦ヤマト」というアニメ絡みでは、制作当時の「プロデューサー」との関係の中で、非常に複雑な傷つく思いをしたはず。

....恐らく、ある段階で、「踊らされた」というのに近い形での思いを抱かれたことだろう。


「銀河鉄道999」の原作(少年キング連載)は、

単に「ヤマト人気」=松本零士「ブーム」の勢いだけではなく、


「松本零士」が、「松本零士」自身をしっかり取り戻すための戦い


の中で生み出された作品
かと、

私は思います。


*****


 その後、10年近くたってでしょうか、「ヤマト」の制作「プロデューサー」の経営する事務所とプロデューサー本人に関して、いろんな問題が、浮上しはじめました。

 あれはほとんど今のホリエモンもびっくりのスキャンダルでしたが。


***** 


 もとより、「ライオン・キング」の「ジャングル大帝」をもろに剽窃した問題のように、この種の問題は繰り返し浮上します。

 でも、松本零士さんを、『頑固』というのはたやすい。


******


 松本零士は、「男おいどん」の時点で、とっくに天才過ぎるくらいの天才として、マンガ通に留まらず、私より上の世代の若者たちにも、実に幅広く知られたと思います(^^)

 私も小学生高学年時代、
それこそ「床屋さんで」だけの「秘密の楽しみ」のようなものでしたが、
とんでもなく凄い「マンガ」だと思いつつ、
待合い椅子にある、
積み上げられた少年週刊誌の、
「おいどん」だけ
を読んでいました。

*****
*****

 例によって、ここから話は脇道にそれ、
 更に過去へと「遡及」します(^^;)

 「巨人の星」には、アニメ化される以前の連載を「床屋さんでめくった」記憶すらあります。

 でも、原作だけの段階では、「巨人」の「星」なら、「猿の惑星」のような作品のはずなのに、なぜ野球マンガなんだ???? としか私は思ってなかった(^^;)。

 当時の私は野球に全く無関心だったのです。
 なぜなら.....夜、ゆっくりとプロ野球中継を観ている父親の姿なんて、ほとんど見たことありませんでしたから。

 何故? .......私の観たそうな「テレビ漫画」(=アニメ。「鉄腕アトム」の本放送の「途中」から、私の「記憶」が始まります)や特撮もの(「ウルトラQ」から、記憶にあります)を、いつの間にか選んで、毎週同じ時間に「見せてくれて」いました。

 恐らく、私が「夜8時くらいに」寝たあとで、「後半の野球中継だけ」観ていたのでしょう...

 .....アニメの「巨人の星」については親子一緒で初放送から楽しみました。
 父はすぐに「EPレコード」を勝ってきましたね。

 B面が「友情の星」という、本編では確か使われたことがない歌だとしっかり記憶してます。今もサビだけなら歌えます!!(超マニアックですが、こういう記憶は作品と同時代体験世代の強みです)

 私にとっては、川上監督も、王も長島も、アニメを通しての方が当初は親しい存在でした(^^;)。星飛躍馬や早見や花形や伴や左門や歌手3人組や大西ミカがフィクションだとはもちろん知っていましたが(^^)

 ちなみに、川崎のぼるさんが、この「巨人の星」の「作画担当」のストレスを爆発させたように思えるのが、私が「買い与えられていた」小学館の学習雑誌に連載された「いなかっぺ大将」だった。

 この「いなかっぺ大将」も、「結果的には」原作の方がはるかに過激でした。
 アニメを先に見た世代には、見えないことがらがあるのだ!!

 ちなみに、東京には「ポテトチップ」という食べものがある「らしい」ことを、私は当時、このマンガの原作ではじめて知りました(今から35年は前の話 ^^;)

昭和キッズTVシングルス Vol.1(1965-1967・オバケのQ太郎/ウルトラマン)昭和キッズTVシングルス Vol.2(1967-1968・巨人の星/ウルトラセブン)昭和キッズTVシングルス Vol.3(1969-1971・ハクション大魔王/ジャンケン ケンちゃん)

*****

 大映系・東宝・松竹系はあっても東映系がなかった久留米の映画館で、「大魔神」「ガメラ」シリーズ、「サンダ対ガイラ」「海底軍艦」などをみんな「封切り時」に観た記憶があるのは、なぜでしょう?

 .....「父が」いつもいつのまにか連れて行ってくれたからです。

 その父のとなりで、いつもキャアキャア騒ぎながら、父の「買い与えて」くれた、中学生が読むような、半分は文字ばかりの、科学図鑑で仕入れた知識をもとに、即興の勝手な「科学的」解説を延々と観覧席で父に語っていた、幼い日の私。

****
****


 .......話はここから本題に戻ります!!

 松本零士は、
 「男おいどん」の連載で,、
 小学生高学年ぐらいだったはずの私が、
 「はじめて自分で『選んだ』漫画家」だった
のです。

 不思議と、小6から中2ぐらいまで、私はアニメや特撮から離れていました。男としては早すぎる思春期の芽生えに完全にとらわれていたから(^^) みんなが貸し切りバスの中で「ガッチャマン」や「仮面ライダー」を大声で繰り返し歌ってくれたものだから、それらの番組の主題歌は覚えたようなものでした。

*****

 父は、私が『ヤマト』再放送をきっかけに「高校二年で」突如「アニメ」なるもののファンとして復帰した時、最初は困惑していました。

そして当時の松本零士さんのインタビューををテレビで観て、

「あんなきれいな女性を描く人が、どうしてこういう「おじさん」なのだ?」

という意味のことをつぶやいたのを、よく覚えています。

*****

 テレビアニメ「銀河鉄道999」の第1回「だけ」は、私が高三だったかな? ....しばらくアニメを一緒に観なかった父が、感慨深げにまじめに見ていたのを覚えています。


あの、スロープのような装置で、
空に飛び立つ蒸気機関車の姿が、

私が幼い頃に繰り返し絵で描いていた、

「駅を出るとすぐに空を飛行する、ひかり号より速い超特急」

の絵にそっくりだったから?

(私の絵の中での超特急の姿が、今の「のぞみ号500系」みたいだったのは、私の幼年期のテレビアニメの描く「21世紀」の電車はみんなそういう格好だったから!!)

 そして、父自身が、中一夏、12歳での敗戦、(父(祖父)の死をくぐっての、1年大連で足止めを食らっての「旧満州国」からの引き上げの際に、「汽車」というものに人生の縮図を感じる過去を持つからもしれない。


******


 父の父、つまり、私の祖父は、関東軍の軍属(軍おかかえの商人)となり、末っ子だった4歳の父と、妻(=私の祖母)の「二人を」連れて、大陸に渡らざるを得なかったのです。

 父の「上の兄」たちは、兵隊に取られます。うち、ひとりしか、戦後、生還せず。

 哈爾浜(ハルピン)の近くの「阿城」という土地に家族と住むことになった父は、4歳で大陸に渡った時から9年あまりの間に、大連-哈爾浜(ハルピン)の間を行き来する、関東軍の国策会社だった、

南満州鉄道(満鉄)の、

流線型SLの牽引する、超豪華列車、「超特急亜細亜号」(写真はこちら)を、

実際に乗ってはいなくとも、繰り返し駅で見ているはず。

 (父は、私が本当に小さい頃、よく旧「国鉄」の久留米駅に私を「入場券」だけで連れて行って一緒に「汽車」(電車を含んで、国鉄車両のことを久留米では「汽車」、西鉄のことを「電車」と呼んだ。いうまでもなく、幼児期にはSLにも当たり前のように乗れた「最後の世代」です。確か長崎本線と久大線にはまだ現役でした)を長時間眺めて過ごしてくれました。これが、哈爾浜市内にでかけ、氷結した松花江でよくスケートをしたという父の話......おかげで、九州出身故にスキーとは無縁な私が、子供の頃から自前の「スピードスケート」靴(点接触のフィギア用とはエッジが全く異なります)をあてがわれ、屋内スケート場通いに連れて行かれ、運痴の私がスケートは「一応」できたりする.....からみて、哈爾浜駅で「祖父が」「父に」取ったのと同じ態度の反復だったと仮定すれば???)

 昔、父はその「亜細亜号」の写真の載った鉄道雑誌を「買ってきました」し!!

 (この「亜細亜号」の開発者島安次郎の息子、島秀雄が、東海道新幹線の開発者となるのは、「プロジェクトX」でもおなじみかも!!)

 哈爾浜がロシア人の手によって築かれたロシア風の都市というのは有名でしょう。小澤征爾さんの出身地としても有名ですよね。.....そのせいか、父はロシア民謡のファンでもあり、おかげで「カチューシャ」(1939年作曲ですが、父は間違いなく私の「記憶」発生以前から「新世界レコード」持ってたものナー)だけは、私、原語「らしきもの」で全曲歌えます。歌詞カードにカタカナついてたので覚えました(^^)。キリル文字全然読めないのに)


****


 さて

 私の父と松本零士さんは、父の方が5歳1ヶ月年上です(第2版で修正。西暦で覚えてなくて)。

 そして、

同じ福岡県、

しかも!!

.....松本零士さんは小倉市(現北九州市)で「育った」ことは大抵のプロフィールに紹介されていますが、

実は「生まれ」は1938年、久留米市でです!!(出生届の場所ですね)

 私は、「999」の頃には、どういうわけか、この松本零士さんが、「同郷者」(私は大学入学で上京するまで生粋の久留米市民!!)である事実を知っていました。

  久留米市役所「公式サイト」の該当ページにリンクを貼りました。

 このページをご覧いただくと、我が故郷、久留米の生んだ人材が「ちょっとしたもの」だということがおわかりの筈。

 2005年4月の"AERA"誌で、

「"異能者"を生む街、久留米」

というような特集(少しタイトルの記憶が曖昧...)で紹介されたかと記憶します。

何しろホリエモンさんまで久留米、ソフトバンクの孫さんが隣の佐賀県鳥栖市ですから.....

****

 私の父は旧「東京市淀橋区」の生まれです。この70年間で、恐ろしく住居表示が変動した地域なのですが、今でいう、東京都新宿区下落合の、だいたいこのへんみたい。

 「家の近くに坂があってね。上り坂だった。」

 4歳の時の父の東京時代の唯一の記憶。

*****

 そして、ソ連軍の戦車に追われるようにして、まだ破壊されていない線路を汽車で乗り継いでいく中途に、私の祖父は、不慮の死。

 その後、母子ふたりで、大連で足止めされたまま、1年間底辺の生活を生き延び、1946年に日本に戻ることができた13歳から、父は、祖父母の故郷である、久留米のとなりの、「三井郡北野町」で私の父は数年育ちました。久留米市役所小遣いからはじめて、税理士事務所事務員として久留米市内でで自活した時、妻となる、私の母と出会います。

 なお、京都と同じ名の「北野天満宮」が古くから置かれたことにちなむ由緒ある名の、この「三井郡北野町」は......昨年(2005年)2月から、久留米市と合併してます......(一一;A)

(以上の部分、加筆訂正)


******

 そして、 

 今回の記事を見て、何より驚いたのは、

 ネット版の毎日新聞の松本零士さんの現在のお写真が、

 (あの「海賊ルック」の帽子さえ外せば)、

 私の「現在の」父と、

 顔立ちや服装、ひげの生え具合まで、

 「あまりにも」似て来ていることでした。


........ホント、この記事の写真って、

「これが父です」

と紹介していいくらいです!!


*****


松本零士さんが、

もし私の父と顔や風体だけではなく、

「性格まで」同じとすれば.....


...最初に述べたような、

槙原さん「本人の」率直な応答で

「すべてをほんとうに許した」と思います(^^)


******


『信念を持ち続けた人間が、最後には生き延びる!』


私の独立開業時の、父の餞(はなむけ)の言葉。


.......まるで、松本さんの「戦場マンガシリーズ」のセリフです(^^)


*****

.......だから、この文を、このブログに書く気持ちに、私はなったのです。

 いずれにしても、私には、この事件、槙原さん本人ではなく、所属事務所の「社員」が、中途半端な形で「『裏で』わびを入れた」から、事態が最終的におかしくなった」ようにしか思えません。

*****

この文章からリンクした、wikipediaの該当記事執筆者への感謝と共に。 

推薦BGMは、もちろん、
中島みゆき - 転生 - 命のリレー
中島みゆきの「命のリレー」
【Aポイント付】中島みゆき / 転生(CD)アルバム「転生」収録)

最新映画、話題作を観るならワーナー・マイカルで!

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2006/08/14

「スーパーマン(前作)」とスピリチュアリティ

 この前の記事で、

> スーパーマンI&II お買い得ツインパック「前回の」クリストファー・リーブ主演の第1作は、
> なぜが
>☆おすすめ品☆ スター・ウォーズキャンペーン スター・ウォーズ トリロジー DVD-BOX(初回限定... 「スター・ウォーズ」第1作(Episode 4)
> 以上のファンなのであります。

と書きましたが、実に久しぶりに観なおしました(ディレクターズ・カット版で)。

 結果的に、大学学部生の頃に観た時より「大感動」してしまった!!

 親が実際に歳取ってしまって観ると、もう、うるうるになってしまうのだ。

 実際、この映画で私の印章に大学時代も一番残っていたのは、彼がメトロポリスに出立する「前まで」のシーンでなのです。

 わかりますよね。

 あの、「麦畑のロングに引いたシーン」のいくつかです。

 たまたまなんですが、昨年カナダのど田舎までハイウェイを数時間突っ走る体験もてましたから(この写真は帰りですけど)、あの緩やかに起伏のある、地平線まで続く麦畑って、私にとってはもはやものすごいリアリティがあります。......と、思っていたら、ホントにロケ地がカナダと知って、正直に言って驚きました。

 ちなみに、私の故郷、久留米も、現在も日本有数の広大な穀倉地帯である筑後平野のど真ん中にあります。東京や大阪ほど都市化は進んでないし、正確に言うと父の実家は三井郡北野町。私の子供時代にはまだ茅ぶきで、台所ではなくて「土間」、五右衛門風呂もありました。まさにとなりのトトロ「となりのトトロ」の世界でした。

 一面の麦畑と一面の田んぼでは、いささか興趣は異なりますが、.....「あの」展開をやられると、私はホント、弱いんです......

 そして、なるほど、脚本家は、意識的に「新約聖書」の物語をなぞっていたわけですね。

 ふるさとの惑星、クリプトンの真の父(マーロン・ブランド=ゴッドファーザー"Got Father(!!!)""は「神」、そして、大工の男ヨセフとマリアが.......。そして、スーパーマンが......。

 アメリカでは、これだけ保守的なクリスチャンからこの映画は相当批判を受けたとは!!

 このことまで、当時の日本で報道されたかどうか?

(以上の内容、DVDの付録トラックの、監督さんと「ほんとうに」脚本を書いた人の対談という、客観的な裏付けの上で書いています)


******

 「虚栄心をコントロールしなさい」

........ははぁ~ 、マーロン・ブランド様~ m( _ _ )m

(ディレクターズ・カット版のみのシーンかな)


ジョン・ウイリアムス - Great Composers: John Williams - Superman: The Movie (Main Title)Main Theme(from "Superman :The Movie")

最新映画、話題作を観るならワーナー・マイカルで!

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006/08/12

「すべては偶然なんかじゃなく、すべては必然なコトばかりなのかも知れない」(第3版)

 先週もご紹介した、msnの「のだみ流・働(はた)楽(らく)論!」 の連載、、第12回 「計画された偶発性」の実践(前編)は、に続く、第13回の「後編」も、いよいよ素晴らしい内容です。

> クランボルツ教授は、
> 数百人のビジネスパーソンのキャリアを分析した結果、
> 「キャリアの80%は予期しない偶然の出来事によって
> 形成されている」という興味深い結論を導き出しました。

> 絶世の美女と付き合いたいなら、青山を歩け。

******

 すでにここでも詳しく書いたように、私の生涯そのものが、まるで「神様が仕組んでくれた偶然の積み重ね」めいたところがあります。

 そこでも書いたように、フォーカシングと、当時立教の村瀬孝雄先生との出会いそのものが、ほとんど「神がかり的」な偶然でした。

 更に、その孝雄先生(奥様の嘉代子先生と区別するためにこの言い方で通させていただきます)が、「不本意ながら」東大に引き抜かれてしまうという、更なる運命の転機。

 孝雄先生ご自身は、東大に移られることを「栄転」などとは全く考えておられず、立教の教授として勤め上げることしか考えていなかったのですね。

 そのくらい、学会政治的には無関心、ただ研究者としての己れの良心に誠実でありたいと願うという点では、ほんとうに「永遠の青年」のようなピュアさをお持ちでした。 「だからこそ」、一介の「フォーカシングおたく」に過ぎなかったはずの私を院生として迎えて下さったのだと思っています。

 私が決して忘れない光景。

 「これで私の人生設計はすべて無茶苦茶になった!!」

と、孝雄先生は、立教の研究室で、院生たちを目の前にして、公式発表の場で口にした途端、「号泣された」のです!!

 それは、当時M2だった私にとっても、将来への決定的危機でした。

 「村瀬あっての阿世賀の立教大学院入学」だったのだから!!

 「もし、私が立教に残っていれば、君を博士後期まで面倒見て、研究者としての道を開いてあげられたのになあ.......」

 私が博士後期課程の試験に不合格になった(これは、当時の教授会の「全く適切な」判断だったと思います。残された教授陣にフォーカシングを指導できる先生がおられなかった以上)その日、二人だけの時に、孝雄先生自身が漏らされた言葉です。

*****

 私はここで、孝雄先生自身すら考えも及ばなかった「生き残り策」探しを始めます。
 
 どうして「その時」そこまで勇気が出たのか今も思い出せません。

 「東大の大学院研究生になれないか??」

 この調査は、何と孝雄先生にも内緒、当然「置いて行かれる」他の院生にも内緒の「隠密行動」でした。

 自分で赤門をくぐり、東大大学院の入試課を訪れ、大学院研究生の募集要項を手にする。
 
 基本的には、東大の教育学研究科の教育心理専攻の博士前期課程修了者でないと資格がないことを示唆する内容が、必要条件の「第2項」までには書かれていた。

 ところが、それに続いて、次の「第3項」があるのを私は見落とさなかったのです。

> 3.これらと同じ水準にあると認められる者

 私はこのことを確認した時点で、はじめて電話で、孝雄先生に「東大の大学院研究生になれないか?」と打診しました。

「無理ではないか」

と最初言っていた孝雄先生の電話口の声が、私が、先ほどの「第3項」を伝えた瞬間に突如明るくなります。

「うん、それなら君を連れて行けるな!!」

 私が東大大学院研究生3年間という、実質博士後期満期退学に近い最後の学歴「のようなもの」を獲得し、東大や九大をはじめとする旧帝大系の心理教育相談室出身者と同等のキャリアと人脈という「財産」を手に入れるきっかけは、たったこれだけの、向こう見ずな勇気のなせる技でした。

  「フォーカシング研究者」としての阿世賀は、ここでこの決断をしなくてもこの世に存在したかもしれない。

しかし。

「開業カウンセリングにおいても十分にその能力を発揮できる、現場臨床家」

としての私は、現在、この世に存在しなかったと思います。

その後、村瀬孝雄先生が早世された「逆境」すら、私は「運」に転じてしまいました。

 亡くなった以上、自分の師に甘えられない。でもそれは、師に拘束されないということでもあります。

 それだけ自立心の強い存在になるしかない。

*****

 私の両親の健勝と経済的安定が私を支えた「だけ」ではないか、と感じる方には申し上げたい。

 仮に両親が同じ状態にあっても、私が大学院浪人のまま、ただの駄目社会人でアニメおたくであるに過ぎない人間に留まる確率は、いくらでもあったでしょう? と。

 両親が健勝で経済的に安定していさえすれば夢がかなうほど、世の中は甘いものではないでしょう? と。

 敢えて言います。両親の健勝を支えているのは、実は私がある意味で「逆境に対して不屈」で、すべてを「運」に変える力を発揮してきた「から」、でもあるのではないか?と!!

第3坂で増補:
 
私はアニメファンを決して軽蔑はしていないつもりですし、アニメおたく、即社会人として駄目とか全然思っていませんので、誤解のないように。若いフリーターの皆さんにも、「私にできない生き方をしている」と心から敬意を払っています。

 ayuファンがアニメファンより上級という意識もないです。私がayuの熱烈ファンで、コンサートにも行き、学会発表までしたと知ると、大半が受験秀才であるに過ぎない若い院生たちの大半が「引く」のを学会の場でいくらでも体験してきましたしね

448042216101_scmzzzzzzz_v51592022_
 きっと、私がayuファンというだけでスーパーバイズを受けようかどうか迷っている人たちがきっとたくさんいるでしょうけど(^^;;;;;;;)、アニメへの詳しさという点だけなら、私が斎藤環先生に全然かなわないのは間違いないです。何しろ直接の面識があり、今ご紹介した本にあたる内容の講演も、ものすごいアニメの図版集付きのパワーポイントのプレゼン付きでお聴きし、エヴァンゲリオンの深層心理私のエヴァ本ですら「とっくに」読んでおられましたから。

「だからさ、今日の講演の企画者の中にあなたがいるとわかっていたから、今日は『エヴァ』ネタ多めにしておいたでしょ?」

私はむしろ、私の存在のあり方そのものを、

「アニメおたくでayuおたくだって、
何にだってなれるかもよ。
私の後に続け!!」

励みにしてもらえれば、とすら、思ってます。

 .....これこそ「傲慢な」言い方に写るかもしれませんけど、私が「おたく」ではあっても「エリート」でないことは、このブログの読者の皆様は、もうおわかりでしょ? 私は一介の「フォーカシングおたく」としての「出自」を決して忘れないつもりです。)

******

 実は、こうした成り行きをまるで「神秘」のように感じていることそのものが、私を最終的には傲慢に陥らせない「謙虚さ」を保たせています。つまり、

「神様は、私がそれにふさわしくないと思われたら、いつでも『容赦なく』私からその役割を取り上げてしまわれるに違いない」

と感じています。

では、「私に」できるのは何か?

自分にその時与えられた状況をすべて「神の意志」とみなして

「必死に『神の声』=『フェルトセンスの声』を聞き漏らさない生き方をすること」

だけなんです。

神(=フェルトセンス)が私に「開業せよ」と命じたから開業しただけです。

私は特定の宗教の信者ではありませんが、神の「臨在」は確信しています。

*****

 なお、「神との対話」とフォーカシングの関係については、スイスの偉大な法律家にして、「幸福論」「眠られぬ世のために」で著名な宗教的著述家、カール・ヒルティについて私が書いたことをご参照下さい。

 この記事のタイトルは、浜崎あゆみの
浜崎あゆみ - I Am... - Daybreak
"Daybreak"
の歌詞より取らせていただきました。

浜崎あゆみ/I am...4rdアルバム "I am..." 収録

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006/08/04

MSNの「太陽」の記事、ご紹介(第2版)

 またもやMSNで見つけたのですが、「太陽」

昭和天皇の敗戦前後の数日間を描くという、途方もない企てに挑戦したのは、ロシア人の監督さんだったわけですね。

 もちろん俳優の多くは日本人。昭和天皇役はイッセー尾形、皇后役が桃井かおり。

 ちなみに、桃井かおりさんは、私が一番好きな「日本人の」女優さんです(^^)

 NHKのドラマ「天下堂々」(1974)以来のファンですから、完璧な同時代ファンですね(^^)

(しかし、ナスターシャ・キンスキー、中島みゆき、浜崎あゆみ、桃井かおり、と並べると、私の永遠の憧れの女性像って何となく伝わりますよね(^^;;;;;;;))

 侍従の人の、生前の陛下の御発言についてのメモが公開されるという、絶妙のタイミングに日本公開されることになりましたが、私、断然観たいです、この映画。

 恐らく、「月一度の東京23区内での仕事の日」に銀座に観に行きます。

 パンフは、またもや親へのプレゼントとして、一部余計に買うでしょう。

 以上、「なるちゃん」、「おわちゃん」、お父様に負けずに、おじいさんのいい跡継ぎになってよね!!....の、「一郎」という「運命の名前」(「宮様」と同じ年生まれ)をもらったこういちろうより。

 ちなみに、私の両親の結婚の日は、現天皇ご夫妻の結婚の日です。親はこのことを私にひた隠しに隠していたのですが、中学の頃かな、私が「古い地方新聞の切り抜き」を父の書斎から発掘してしまって.....小さな記事でしたけど、しっかり「あやかり結婚」の記事に父母の名前がありました。

 なお、公式ホームページはこちら

******

 ソクーロフ監督の作品には、他に、ヒトラーを描いた「モレク神」、レーニンを描いた「牡牛座」があり、この「太陽」と併せて「四部作」をめざしているそうです。しかしこの2作はまだDVD化されていないそうなので、90分ワン・カットという手法での美しい映像が話題となったという、エルミタージュ幻想「エルミタージュ幻想」をご紹介しておきます。私も未見の映画ですが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/08/03

カウンセリングの開始とは、実は、クライエントさんの最初の「行動化」である

 私が、この記事の後半や、この記事で、「事例検討会」や「事例研究発表」、「スーパービジョン」というものについて、たいへん手厳しい発言を繰り返していることに、この記事をお読みの、特に経験の浅い、若い臨床家の読者の皆様に大きな困惑と混乱をもたらしている可能性があるかと思います。

 (例によって、これは私の「シミュレーション」ですよ。私は正直にいって、他の方のブログ等を読む時間を今やほとんど全く持ち合わせていません。申し訳ありませんが)。

 事例発表という行為そのものが、治療者自身の「行動化(acting out)」のリスクを負っている、とまでいわれると、これから「業績作り」をしながら、職歴をステップアップする必要に迫られている若い臨床家の方は、そりゃ、むっちゃくっちゃ困惑されることでしょう(^^;)。

 「行動化(acting out)」とは、クライエントさんが、本来治療者との面接の関係「の中で」「内面を見つめながら」解決すべき事柄を、その「枠」を壊して行動して解決しようとすること全般を指します....という言い方をすると、たいていのカウンセラーの方と共通理解が得られるでしょう。

 でも、実は結構曖昧な使い方がされている概念です。例えば、カウンセラーに何も告げないまま他のカウンセラーに相談に行くこと、面接の予約時間を破ること、カウンセラーを異性として好きになり、無理矢理抱きついたり、カウンセラーの帰宅時に「あとをつけていく」などのストーカー行為に走ったり(この問題の深刻さは、あまり表立って議論されていない領域です)、オーバードーズやリストカットなどの自殺企図、「転移」の問題に直面した時、衝動的な性的逸脱行為や飲酒に走ることなど、みんな「行動化」=「よくないこと」とされているのですが、どうも、それらを「クライエントさん側の自我が弱いために引き起こされた、本来好ましくない、カウンセラーにとって迷惑な行動」と位置づけ、「行動化」を起こすクライエントさんはそれだけ病理が深く、手におえない「厄介な」クライエントさんだと位置づけるに留まることが多いのです。

 しかし、それを言い出すのなら、カウンセラー自身がアルコール中毒といわれかねない深酒をしていたり、衝動的で不安定な異性関係を繰り返す癖があったりしたって、カウンセラーの「行動化」でしょ? と私ならいいたくなります。

 クライエントさんが次々とカウンセラーや治療者を渡り歩くこと(セラピスト・ショッピング)が「行動化」というのなら、カウンセラーが次々といろんなカウンセラーにアドバイスを求め、面接の内容までぶちおまけて相談するのも、「ワークショップ・ショッピング」を重ねるのも、見事な「カウンセラーの」行動化ではありませんか!!

 中井久夫先生が看護のための精神医学第2版「看護のための精神医学」等で、クライエントさんのその種の「セラピスト・ショッピング」を「よくない事態」と考えることそのものに敢えて異議を唱え

 「そうやって、幾人もの治療者を渡り歩く中で、患者さんの病理は次第に『弱毒化』されていることが多い」

 という画期的な発言をして、治療者としての自分は、そのクライエントさんの巡回する、たくさんある『寄港地』に一つに過ぎない、くらいのスタンスでいればいいかのごとく示唆しているわけです。つまり、「クライエントさんが行動化を引き起こす責任をカウンセラー側の責任として『抱え込み』過ぎることにも警告を発しているわけですね。

 ただ、今度は、この「行動化の傾向が強いクライエントさんとの面接過程」について、担当カウンセラーが他のスタッフやスーパーバイザーや上司に相談せず、「ケースを『抱え込む』のみになるのはよくない」ということ自体が「カウンセラー教」のドグマになっている。

   中井先生が示唆しているのは、

   「抱え込まずに事例検討会に出せ
   ということではなく

  「クライエントさんがあちこちの治療者を
   渡り歩くのを適当に放置しておき、
   舞い戻ってきたら、相手をするくらいの
   スタンスでいいんだよ」

ということなのである!!

.....ってことは、セラピスト側が、いろんな流派のいろんなセミナーやワークショップ、スーパーバイザーを「渡り歩く」という「行動化」に走ることも、中井先生は許しておられるとみていいでしょう(^^;;;;;;)

 ある観点から見れば、カウンセリングを受けようか迷っている一般の皆様が、

 「問題を自分とその対人関係の当事者の間で解決できる『べき』なのに、カウンセラーのもとに通って、親兄弟や妻や恋人や上司や同僚のプライバシーまで暴露するのはよくないことではないか」

.....と悩み抜き、カウンセリングの門をたたくかたたかないかを、時には何年も躊躇し続ける一般の皆様の心情きわめて健康的なものであり(!)、カウンセラーなんぞに相談することを、ここでいう「行動化」にあたると感じていても、全く当然なんですね!!

 カウンセリングの開始とは、実は、クライエントさんの最初の「行動化」であるという視点に立てば、「行動化」というものへのカウンセラーの視点が柔軟になると思うのですが。

*****

 ちなみに、中井久夫先生、河合隼雄先生、神田橋條治先生、ユングなどといった先達の諸先生方が、自分自身の事例の公表を、少なくとも中年期以降、全く控えておられることは、業界では有名ですよね。ほんとうは、これらの「大先生」でなくても、その治療者がある程度業界に名前が有名になり出したら、事例公表には慎重になるのが的確なのではないかと思います。

そして、実は「無名な」治療者でも、実は共通する問題を抱えているのではないかと。

 クライエントさんご本人の許可を得たとか、終結後数年を経た事例であるかどうかなんて、実は全く表面的な「手続き」問題として処理されがちで、「カウンセラーの責任回避」にクライエントさんを「巻き込む」リスクを犯している面もあることへの配慮が欠けていることが少なくないのではないかとすら思いますよ。

以下、第2回に続きます。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006/07/31

「パリ、テキサス」予告編、今MSNで観れます

ここです。

 私がこれまでに観た実写映画の中で、最も深い感慨のある映画のひとつです。

 ナスターシャ・キンスキーは、私が一番好きな女優さんなんですが、それより何より、「映画」として....。

「感動」という言葉を使うのが不謹慎と感じさせられる、あまりにも深い「傷(いた)み」を伴う映画ですけど。

●ネットバンキング決済・コンビニ後払いも可能!パリ、テキサス

音楽はこちら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/07/30

演歌世代の親父に捧げる中島みゆき(第2版)

公表します!!

演歌世代の親父に捧げる中島みゆき
icon

 敗戦時に、大陸から引き上げる際に父(私の祖父)を亡くし、学歴もないまま自営業者として大成し、私を育ててくれた老父への感謝と、これからもよろしくという思いを込めて、業種こそ違うものの、独立自営の道を歩み始めた45歳の中年息子が捧げます。

 みゆきって、ある意味で、究極の「演歌」そのものだと思うんです。でも、父の世代はまだそのことに気づかないままなんですよね。それって、あまりにもったいないなあ、という思いを込めました。

 父の世代の皆様への、中島みゆき入門選集のつもりでもありますが、いかがでしょう?


      (以上、iMix上のメッセージより転載)

 ちなみに、この内容を読むには、iTunesの自動インストールを求められるはずです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ちなみに、今の私が一番思い入れのある中島みゆきの曲は.....

【CD】中島みゆき / Singles II <2004/7/21>中島みゆき/歌でしか言えない"Maybe"です。
中島みゆき - 歌でしか言えない - Maybe

 恐らく、カラオケで今歌えといわれたら、最後まで「冷静に」歌い通せる自信はないですね(^^)

 でも、この歌ぐらい、深い癒しがある曲はないと思いますよ。

Interactivebooks_1
インタラクティヴ・フォーカシング
でいう、

"compassion"(=痛みを-共にする-こと)

極致の曲の一つ
だと思います。

 この歌と、この歌を好きだという人を、どのように受容できるか?

 そこに、そのカウンセラーの力量もろにあらわれると思います。

少なくとも、その場に居続けるのもつらくなる人や、表面的な「同情」の言葉しかかけられないようなら、そのカウンセラーは現場に出る資格はないと、私は確信していますが。

 逆に、この歌を、かっこいい、希望に満ちた歌だ....としか感じない人も、どんなもんでしょうかねぇ.......

| | コメント (0) | トラックバック (0)

すでにiMix送信はしました

 あとは、iTunes Music Store側の処理を待つだけです。

 どれが私のiMixかは、私が掲載を確認した時点でお知らせします。

 でも、わかる人にはiMixのタイトルだけでもろわかりと思います。

 相当に、選曲と「曲順」にこだわりましたので、興味のある方はよろしく!!

 ちょっと「前期」に選曲が偏っているのは、同時代ファンから一度離れた「中期」以降がまだ聴き込み不足のせいです。このあたり、今後アップデートしていくと思います。

 iTunes Music Store(Japan)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/07/24

ネット上の、鬱病克服、社会復帰の秀逸な記事のご紹介(第3版)

msnのこのページにあります。

ここまでリアルで詳細なのは珍しい!!

 この人の場合、

   自分の気持ちを大事にし、
   決してあきらめず、
   安易に妥協することなく、
   自分の仕事のあり方の、
   「理想」と「現実」のギャップと「戦い抜き」、

   そしてキャリア形成の上で、
   大変いいコンサルタントと巡り会えた
   「出会い」の意味も大きかった

ようですね。

******

そうそう、

「お風呂に入るの面倒になる」んですよね全く!!

 私は自分で入浴法に工夫を凝らし、正味10分、しかも入浴が楽しみになる「動機付け(motivation)を高めるように、男の癖して、わざとマルセイユリキッドソープ リフィル オリーブ(ラベンダーの香り) 1000mlちょっと凝った入浴剤☆天然のスポンジ(海綿)☆5個買うと1個プレゼント!!送料も無料!!「海綿様」を購入したのを思い出しました。

今はもう、その入浴剤使いません(でも、皆様結構薬局とかでご覧になったことあるはずの泥炭石3ヶセット泥炭石鹸使ってるのです。確かに毛穴まできれいになる感覚ありますよ)が、あの当時は何とも有効な「投資」だったと思っています)。

そうそう、私の本部ページの記事に、

「フロイトと海綿の対話」

という、「不朽の名作」があります(これこれこれも参照)。

これ、何と「学会発表」を「実演付き」で昨年やって、大受けしたのですが。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006/07/21

「人生が二度あれば」vs.「命のリレー」 (第3版)

 この直前の「引きこもり」現象についての記事、「後編」までの間の「間奏曲」

井上陽水の代表作の一つに井上陽水 ベスト・コレクション「人生が二度あれば」という歌
井上陽水 - 井上陽水: シングル・コレクション - 人生が二度あれば
がありますよね。老いて行く、自分の父母への思いを歌った歌です。
 
 平凡な、多忙な人生を送って老いつつある両親のことを思う時、アングラ時代から音楽の道一筋に突っ走り、放ったらかして、迷惑ばかりで、親孝行できなかった自分への後悔の念がこもった歌、というのが、一番自然な受け止め方でしょうかね。

 でも、この歌、「人生が二度あれば」
 と高らかに繰り返し歌い上げこそすれ、
 「もし2度あれば、どうしたいのか」ということまでは、
 言葉で具体的に語っていない。

 ......などという言い方は野暮の骨頂で
 
    「もう、取り返しがつかないんだ!!!」

ということこそ、この歌の言葉にならない深い思いなんだとおもいます。

 そして、実はその絶望的な思いと「直面した」瞬間、実は「癒し」が微かに始まるのかもしれない。

******

 これに対して、中島みゆきの比較的最近の作品、中島みゆき/転生「命のリレー」(スタジオ録音版はアルバム「転生」収録、
中島みゆき - 転生 - 命のリレー
2004年「夜会」ライブバージョンは、帰れない者たちへシングル「帰れない者たちへ」
中島みゆき - 帰れない者たちへ - Single - 命のリレー <'04夜会ヴァージョン>
に収録)

 自分という「個体」の果たし得なかった夢や願いは、後続世代にバトンタッチするしかない。

 そして、自分の見ている夢や願いそのものが、実は「過去の世代の」無念の思いを引き継いだに過ぎないものなのかもしれない。

******

 私は、散々親に甘え、迷惑をかけてきた。
 気がついたら両親が年老いている。
 そのことへの深い、いいようのない罪悪感は一方にある。

 しかし。「独立開業」という道を歩み出した時、「経理」「心理」という、まるで違う畑ではあるが、父の「後継者」になったといえる。

 父(祖父)を戦争で失い、大陸から無一文で引き上げ、学歴も何もないまま市役所の小僧から叩き上げた、顧客数、久留米近辺随一といわれた「経理の職人」の父の「血」と、「生き様」が、今の私を支えている。

 税理士事務所の仕事とは、中小企業の「経営」の実態を、裏の裏まで知り尽くすということだ。

 その父が、今、私の「経営・経理部門」最強の「参謀」なのである。

 教員やカウンセラーの世界しか知らない人の常識を越えているかもしれない「個人開業」の手法そのものは、私が自分で、ほんの2,3時間で考えたものである(独立開業を思いたった正真正銘「直後の」書き込みこれである。現実の現在のWebsiteと比較していただくと、ほとんどそのまんま!!

 しかし、何らかの契約締結などの際には、常に父の助言を参考にし続けている。

 父から学び続けられる日々、そしてその父を支え続けた母との日々が、末永く続くことを、祈り続ける息子なのである。


 iTunes Music Store(Japan)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006/07/16

先週の人気記事ベスト20!!(最終確定版)

 @NIFTYココログの、月曜日-日曜日の「先週」記事別アクセス解析機能を使って、客観的データとしてはじき出してみました。

 ただし、トップぺージへのアクセスではなくて、固定リンクでのアクセス率のみから集計しています。

第2版の数値は16日(日)24:00での確定値です。

 今後、毎週月曜にはこの週ごとのランキングを定期連載にしたいと思います。

 このランキングの掲載の結果、まあ、ワールドカップの終了後の連休2日めで皆さんにネットをじっくりと読んでもらう余裕があったのでしょうが(新規記事がないにも関わらず、17日の延べアクセス287)、明らかに、過去の古い記事を含めて、どの記事が読まれるかに、すでに明白に「異変」が生じました。

 もっとも今回は、この記事「初版」を日曜19時頃載せてから5時間の間に生じた影響バンドワゴン効果?)も含まれていることになりますが。

 次回からは、「完全に」日曜24時締めの「先週」ランキングが、1週間、アクセス解析記録として表示されたままですので、忙しければ、月曜でなくとも、翌週の暇な時にいつでも作れます。

 もちろんそれでも「バンドワゴン効果」は残るのですが、いい意味で古い記事を掘り起こして読者の皆様に読んでいただけるのは、私にとっては「過去の遺産」を埋もれさせずに読んでいただき、「新たな読者の皆様の当ブログへの勧誘」を検索エンジンやSEO対策にのみ頼らなくていいので、生産的意味があると思います。( )内は7/16の19:00からの5時間の間に生じた変動です。

********

1.あなたの身近な「町のカウンセラー」を目指しています。(→)

2.フォーカシングは、分野に関係なく、その人が「現場経験」から学び取る力を圧倒的に高める(→)

3.子供との関わりのためのフォーカシングの本、新刊(↑)

4.音抜けが圧倒的に良く、決して低域がダブつかない、究極のオールラウンド密閉型ヘッドフォン!(↓)

5.「死にたい」と言ってもらえること(↓)

6.クライエントさんに「共感できない」気持ちを糸口に、クライエントさんへの深い「共感」への道を開くこと (↑↑)

7 . 夢フォーカシングについてNEW!

8.「共感的に」人の話を聴くとは?(入門編)(↑↑)

9.「『信』なき理解」(↑)

10.欝とは、自分が無理をしていることを認識できなくなる時期にすでに始まっている(↑↑)

11.続・『信』なき理解 -援助職の人自身の人間関係の光と影-(↓)

12.目覚めれば午後3時半(↓)

13.プロ・カウンセラーの6つの条件("7.11 Asega Doctrine")(↓)

14.ヘッドフォンと共に過ごした「安息日」(↓)

15.インシュレーターは使わないに越したことはない(↓)

16.単なる「ロールプレイ」より効果的なカウンセラー訓練(↓)

17.真っ白な灰には決してならないうちに、(予告付)(↓)

18 .今週の人気記事ベスト20!!(初版)NEW!

19.あなたの身近な「町のカウンセラー」を目指しています。(への「コメント」(↓)

20.iPod向けヘッドフォン・イヤフォン・小型スピーカーの記事index(↓)

********

こうしてみると、私のページが、現状では、

カウンセラー(およびカウンセラーを目指して勉強中)の方々と、

iPod用のヘッドフォンを探している人、

ピュア・オーディオ・ファン、

向けのサイトであり、

浜崎あゆみ中島みゆきサイトではない!!

というリアルな現実やはり私は直面せざるを得ないのであった(^^;A

 .....まあ、ある意味では、特にこの3週間ぐらい、若いカウンセラーの方に読んでもらうことに、実際私も「一番」力を注いで来ましたので、本望といえば本望そのものの結果です。

 これからも、どうかよろしく!!

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006/07/13

あなたの身近な「町のカウンセラー」を目指しています。(第3版)


ispot ココロとカラダの癒しすぽっと検索ispot
会員の皆様、はじめまして。

 神奈川県の大船で「湘南フォーカシング・カウンセリングルーム」を開業しております、臨床心理士(資格証明書↑)の資格を持つカウンセラーの、阿世賀(あせが)と申します。

(「臨床心理士」ですが、「医者」ではありません)

 20年近くにわたる、大学学生相談と、社会人の方を中心とするカウンセラーのキャリアを経て、2005年7月11日に独立開業いたしました(ちょうど1周年!)

 臨床心理士と共に、アメリカに本拠を置く、フォーカシングのNPO国際組織、"The Focusing Institute"から、

  ○フォーカシング・トレーナー
  ○フォーカシング指向心理療法(FOT)セラピスト

更に、

  ○コーディネーター
  (トレーナー、FOTセラピストの養成、資格認定資格者)   

としての国際資格を頂いております。

 フォーカシングを学べる場所は日本各地に数十箇所ありますが、土日、平日問わず、定休日以外、一日8時間開業しており、しかもその相談機関の公式名称そのものに「フォーカシング」を冠した常設相談機関は、不肖私が、「日本初」のようです(2006年7月13日現在)。

*****

 では、私に相談して下さる場合に、その「フォーカシング」という技法だけが使われるのか.....ですって?

 いえ、そんなことはありません!!

 私が開業をする際に心に決めたこと、それは、地域に溶け込む、

   「町医者」ならぬ、

   「町のカウンセラー」

になるぞ!! ということでした。

 「町医者」は、もちろん重たい疾患の場合でしたら、検査や入院・手術のの施設の整った「専門の病院」や「地域の中核となる総合医療施設」、「大学病院」などを紹介するでしょう。

 でも、「町医者」は、とりあえず「内科」の看板を抱えていても、傷の応急手当のような「外科」的な緊急処置もとらねばならないでしょう。「目や耳にゴミが入って取れない」という訴えにも応じなければならない。時には、時間の余裕があれば、孤独な老人の話し相手にもなるのが自然かもしれませんよね。

 実は、「現場カウンセリング」というのも、そのような「町医者」と、似たところがあると思っています。

 現実の医療現場では、特に緊急の場合、

「私は『内科医』だから、『外科』『脳神経外科』『婦人科』がふさわしい方は最初からお断りします」

.....なんてことないでしょ? 

 必要な基本的診察はした上で、患者や家族が必要以上の動揺しないようにいさめた上で、自分で対応できないと感じたら他院への紹介状を書いたり、連絡先は教えるでしょう? 一刻を争うようなら救急医療の手配までしてくれるでしょう。

 これと同じようなことがカウンセラーにも必要だと思います。 

 「ストーカーの被害に遭っているんです」
 「.....それじゃ警察に行きなさい」

 「キャッチセールスにひっかかったようです」
 「....それなら、消費者センターに電話しなさい」

 「リストラの後、仕事が見つからなくて、困っています」
 「....それなら、ハローワーク(職安)に行ったらどうですか?」

だけで終わらせているカウンセラーがいるとすれば、

  「そんなことは、とっくにわかっている」
   はずのその人が、
   なぜ「カウンセリングの」門をたたいたのか

という、「一番大事な」その人の「思い」を見落としていると思うんですよね。

 もちろん、私も、それが適切と考えれば、警察や医療、地域精神保健、消費者センターなどを速(すみ)やかにご紹介しますし、そういう外部機関との関わり方についての「コツ」も伝授いたします。

 でも、恐らくその人は、

  「誰にも相談できない」という、
  「孤立無援」の思い

を抱えて、行き詰まった果てに、まずはカウンセラーの門をたたいた、ということは、決して忘れてはならないと思っています。

******

 あと、もうひとつ、

    なかなかよそでは読めない、
    「ホンネの話」

を書きますね(^^)

 カウンセリングや心理療法、いろんな「流派」「手法」があります。

「精神分析」「分析心理学(ユング派)」「来談者中心療法(ロジャーズ派)」「認知行動療法」「行動療法」「論理療法」「森田療法」「内観療法」「催眠療法」「箱庭療法」「絵画療法」「プロセス指向心理療法」「解決指向(ソリューション・フォーカスド)心理療法」「EMDR」などなど。

 どの療法が「すぐれている」かですって?

 実は、特殊なケースを除くと、

  ある「療法」より、
  別な「流派」の別の「療法」の方が
  効き目がある

なんていうことは「ほとんど全くない」ですよ!!

 どの「流派」を看板に掲げていても、大抵のクライエントさん(相談においでになる方)にとって、

  いいカウンセラーはいいカウンセラー

なんです!!

 おもしろいもので、そういう、各流派の「達人」の域に達したカウンセラーの人同士は、

  「カウンセリングのエッセンス」

のところではお互いに予想外に理解し合えるし、他流派のカウンセラーの方々からも尊敬され、その他流派の「達人」の発言や著作に、感銘を受け、耳を傾け、謙虚に学ぼうとするものなのです。

 私も、まだとても「達人」の域には届きませんが、20年のキャリアの中で培われた「経験値」のすべてを動員して、皆様のお役に立てるように努めるつもりです。

*****

 実は、そういう「現場から学ぶ」経験値を高める上では、「私が」何より「自分個人のための」スキルとして、フォーカシングを学んできたことは、「私にとって」役に立ってきたという確信はあります。

 そして、皆様にとっても、フォーカシングを学び、身につけることは、例えば、

「経営者として」
「営業担当として」
「インディーズの街頭ミュージシャンとして」
「ファッションデザイナーとして」
「理系の研究者として」
「求職中のリクルーターとして」
「コンビュータのSEとして」
「役者として」
「地域の自治会役員として」
「専業主婦として」
「サーファーとして」
「イラストレーターとして」
「運動選手として」
「浜崎あゆみのコンサートツアーの『追っかけ』として」
「牧畜業者として」
「趣味のオーディオファンとして」
「新聞記者として」
「フリーターとして」
「テレビ局のディレクターとして」
「政治家として」

そして、

「カウンセラーとして」

のあなたの「経験値」を、分野に関係なく、

   「最大限に効率よく」

高めるものではないか.....とは、思っています。

(2006/7/12 23:38 記)

================

以上、
ispot ココロとカラダの癒しすぽっと検索
「支店」Websiteの、「メッセージ」という、私が自由に書き換え可能な部分に掲載した文章のタイトルまで、そのまんまの転載です。

*******

 7月11日に開業一周年を迎えました。
 
 その節目に当たり、

この文章ほど、私の経営理念を、現段階で「総括」した文章はない、

という確信が持てました。

 そして、

  なぜこのブログが、
「こういう」何でもありのブログなのか

についても、これ以上の解答はないとも自負いたします。

*******

 なお、私がこの「メッセージ」を書く時に、絶えず脳裏に浮かべていたのが、中島みゆきの中島みゆき/銀の龍の背に乗って銀の龍の背に乗ってであり
中島みゆき - 恋文 - 銀の龍の背に乗って

(アルバム【CD】中島みゆき / 恋文 <2003/11/19>「恋文」
および、スタジオライブDVD、ライヴ!〜Live at Sony Pictures Studios in L.A."Live at Sony Pictures Studios in L A."収録)

であり、しかも正確には、中島みゆき/歌姫 LIVE in L.A.収録のブロモーションビデオの方の映像が脳裏に浮かび続けていたことは、白状しておきます(^^;A

つまり、◆ただいまポイント2倍! Dr.コトー診療所 スペシャル・エディション 1 ◆20%OFF!「Dr.コトー診療所」っぽかったりして?(ちなみに、私はこのTVドラマ,全然観てませんので)

いかにも、過ぎる?
 iTunes Music Store(Japan)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006/07/04

今後の予告!!「続・『信』なき理解」と、浜崎あゆみの新譜"blue bird"論!! (第4版)

 何だか「今後の予定」が果てしなく溜まって行く現実に自分でもあきれてますけと、こうやって「運河への水門を次々増設」して今後に備えるのが、わたしなりの「仕事の上手な仕方」(カール・ヒルティ)です(^ ^)

ということで、「今のところの」優先順位としては、

1.大好評の「『信』なき理解」続編!! 7/6 NEW!

2.浜崎あゆみの新譜マキシ、■送料120円 Bタイプ■浜崎あゆみ■CD+DVD【BLUE BIRD】■'06/6/21発売"blue bird"への感想(ついに掲載!!)。 8/16 NEW!

3.「万国iPod用ヘッドフォン博覧会」への新たな製品のご紹介 7/14 NEW!

の予定です。

もっとも、今週は(嬉しいことに)本業が少し立て込んできましたので、掲載ペースの鈍化が予想されますことをお許し下さい!!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/07/02

「『信』なき理解」

 さて、ついに、,
看護のための精神医学第2版「看護のための精神医学 第2版」(中井久夫 /山口直彦 共著)についての、私なりの感想と、そこからの連想をつづるシリーズの開幕です。

   「『信』なき理解」
    ある種のクライエントさんはさらされている」

という言い方が著作の中に出てきます。

 まずは「この言葉が私の目にとまっただけ」の時点での私なりの感想をお書きします。

*****

「『信』なき理解」とは何か?

いろいろな言い方ができそうな気がします。

   1.クライエントさんの発言や行動について、
    カウンセラーの側が、
    「理解しよう」
    「受容的に受け止めよう」
    とがんばってはいるけれども、
    カウンセラー自身は、
    本当のところは、
    クライエントさんの言動に違和感や嫌悪、恐怖
    あるいは、予後に対して不安を感じているのに、
    理解した「ふり」だけをしてしまうこと。

   2.更に、クライエントさんも、
    カウンセラーのそうした「理解ある」態度を
    「ほんとうに『真に受ける』」か、
    あるいは、
    薄々違和感や抵抗を漠然と感じていたり、
    それどころか
    「全然私の気持ちの
     大事な勘どころををつかんでもらってない」
    とはっきり感じて「いた」のに、
    面接の場のなごやかな空気を壊したくなかったり、
    不満や異論を唱えたらカウンセラーに嫌われたり
    怒られたりしそうなことへの恐怖のために、
    本音を抑えて、表面だけ「理解してもらえたフリ」
    をいつの間にかしてしまっている。
     ところが、クライエントさん自身も、
    この「ほんとうは理解されてない」違和感を
    「抑圧」してしまい、
    「自分は『十分に』理解されている」
    と思い込む方向に、
    「反動形成」、あるいは
    「理想化転移」を治療者に向けてしまう。


  3.その結果、最悪の場合、
    カウンセラーは「理解したつもり」
    クライエントさんは「わかってもらえたつもり」
    という、
    「偽物の相互理解」の「つながり」幻想
    両者に共有される
    
(この「3.」項は、「藤嶽法」の創始者である、三重のカウンセラー、藤嶽大安氏が、すでに2005年の日本人間性心理学会第24回大会発表論文集(こちらを参照)でお書きの表現を拝借しました。)

  4.しかし、この「偽りの蜜月」は、
    何かのきっかけで破綻する。
    「このくらいのこと、
     もういわなくてもわかっているはず」
    と、クライエントさんも、
    カウンセラー自身も思い込んだ結果、
    ある日それが「錯覚("illusion")」であったことに
    双方が直面する、悲劇の瞬間が訪れる。

  5.これをきっかけに、
    クライエントさんはカウンセラーへ
    「猛烈な怒りと恨み」を抱き、ぶつけ始める。

  6.カウンセラーの側は、
    そうした、クライエントさんからの
    「突如の、理屈を超えた怒り」を
    ぶつけられて、
    傷つき、
    途方に暮れ、
    無力感を感じるか、
    逆に、そういうクライエントさんに
    怒りや嫌悪を感じる。

  7.クライエントさんは、この傷つきのために、
    その後別なカウンセラーに相談する際も
    最初から不信感を抱えてしまい、
    すっきりあっさりとは本音を言わなくなる
    傾向が更に強まる。

  8.医者やカウンセラーの方は、その後、
     「このタイプの」クライエントさんだと察すると、
    最初からクライエントさんに「防衛的」
    になり、「苦手意識」が強まり
    「真剣に」クライエントさんの話を聴く
    誠実さを失っていく。

  9.1.に戻る(^^;)

******

 こうなることを防止するのには、ひとつには、クライエントさんの話を「ウン、ウン」とあっさり受け止め、話させ続けるのではなく、小刻みに伝え返しをし、

カウンセラーの側の理解が何かズレていないかを、カウンセラーの側から率先してやさしく小刻みに丁寧に確認していく姿勢が大事と思います。

  「私の言うことが
   何かピント外れだと感じたら、
   あなたは決して遠慮することなく、
   クレームをその場で私につけてね。
   あなたをいつの間にか誤解したくないから、
   早めにクレームもらえた方が、
   私は心からあなたに感謝します

 これは、新しいクライエントさんとカウンセリングをはじめた早い段階で、最近の私はクライエントさんに必ず伝えます。

 そして、私の理解の誤りをクライエントさんに実際に指摘してもらえるたびに、

   「私の理解がずれていたことを
    あなたが、
    率先して言葉にしてくれたことに
    感謝します

とすら時々言い添えます。  

 これ、実は”Focuser as Teacher"で述べたことを、一般面接の中で、カウンセラーの側からクライエントさんにそれとなく促進するための、さりげない工夫であると、気づいていただける皆様、結構あることかと思います。

********

 さて、カウンセラーをはじめとする「援助職」の人が陥りやすい「形だけの受容」が引き起こす、ある意味ではより不幸で深刻な問題について、続編で論じたいと思います。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2006/06/25

「ユーミンのデニース伝説 III」、『第2版』公開を敢えてここでご報告します!!

直前の記事、「ユーミンのデニース伝説 III」、第2版を公開しました。

前半は初版のままです。一文字も変えていません。
第2版では、後半に大幅な加筆があります。

初版をお読みの方、どうか「必ず」ご再読下さい。

********

 敢えて付言します。

 初版をアップした後、私の中に残った、微妙な、言葉にならない違和感

    「何なんだ、このモヤモヤは?」

これが、フォーカシングで言う「フェルトセンス」です!!

 フォーカシングが完全に身に付いている私は、こういう時、教示の段取りとか、関係なく、もはや無意識的にフォーカシング状態に入ります。

 すると、生じて来た、忘れていた細部の記憶の蘇り。

なぜ私はあの『母」と『子』、両方を救いたくなったのか」

について、私自身がショックを受けるくらいの「気づき」「洞察」が突然訪れ、

更に、みゆきの

> 私の敵は 私です

という歌詞が唐突に思い浮かんだ瞬間、

私は涙が止まらなくなりました。

これが、フォーカシングを「身につけている」ということです!!

|

2006/06/10

私は「こころの病気」という言葉は大嫌いです(第2版)

 この前、世界中の精神科医(もちろん日本も)が共通語として診断の際に用いているDSM(アメリカ精神医学会診断基準)に頻出する"disorder"という言葉を「失調」と訳すことを提案しました。
 もっとも、中には今日、生まれつきの要因が大きいことがほぼ確定した精神疾患もあります。しかしその人が「現在のこの社会に」適応し、いわゆる「普通の人」との関係の中で更に傷つき、二次的な症状として現れてくるものすら「症状」としてcriteriaに一緒くたに包括されている可能性は否定できませんので、

   いわゆる「発達障害」すら、
  「発達失調」と訳したってかまわない

と思います。

 そして、

     病気とは、本来、

     身体疾患ですら(!)

     「『気』に病んでいる」

という、東洋的な発想の言葉です。
 
 『気』は「気体」ですから、ある個人の内側にのみ、実体として「ある」という言い方が実はできないものです。
 
 その人は,周囲の、みかけは「普通の」人が発散する、悪い「気」を受け止めるレセプター(receptor 受容器)が特に敏感にできているため、

   まるで備長炭キムコみたいに
   周囲の悪い「気」を「吸着しやすい」
   だけなのかもしれない。

 これが、家族療法でおなじみの、Identified Patient(IP 見なし患者)という概念を、家族という枠にすらとらわれずに拡張した、わたしなりの理解です。

 "disorder"を背負っているかに見える人は、その人が接する、社会全体の"order"な人たちとの「関係性」の中においてのみ、"disorder"になっているのです。

 これは、言葉ばかりが有名な、アイリッシュの精神科医、サリヴァンの

   「性格は対人関係の関数である」

という言葉ともつながります。

    相手があってはじめて、
    一見その人個人の「性格」に見える
    
    顕(あらわ)れ
    
    が生じるということ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/06/09

アドバイスより深いもの ~中島みゆき「寒水魚」によせて~(第2版)

 4つ前の記事への私自身ののコメントの繰り上げ掲載です。

*****

  この世の中には、本気で包み隠さず相談したら、

「どうしてもっと早く相談してくれなかったの?」

と言ってくれる知り合いが意外と多いはず。

 そのように言ってくれないとしたら、その人は、ただの大人の皮をかぶった子供でしょう。

 そして、ほんとうに誠実な聴き手、相談した人間の深刻さが心にに響いた相談相手は、、

「うーん....どう言葉を返したらいいか、ことばにならないよ。ごめん」

と言うかもしれません。

 だから、前もって「アドバイスは期待していない」と宣言しておけ、と少し前に述べたのです。

  相手の話を聴いていて、
  アドバイスを返したくなる時というのは,
  得てして、
  相手の話を聴き続けるのに耐えられなくなった時です。

 ただ相手の話を(上の空の生返事ではなく)真剣に聴くというのは、一番、相手への誠実な好意がないとできないことです。

 すらすらと、

   > 誰が悪いのかを言い当てて、
   > どうすればいいかを

教えようと自信満々で応対してくる人種こそ、人の弱みを食い物にしているか、自分の「人生経験の深さ」に酔って、崇拝者を集めてナルシシズムを満たしているだけの輩です。

   普通の誠実な相談相手が、
   「言葉につまる」ところから先を、
   更に、クライエントさんと「共に」、

    「どうすればいいか」

   を模索するのが、
   プロのカウンセラーだと、私は思っています。

*****

 というわけで,中島みゆきの往年の超傑作アルバム「寒水魚」収録の「時刻表」をお聴きになりたくなった方は、

中島みゆきこちら
からどうぞ。

 幻想的な、ほとんど「象徴詩」といいたくなる歌詞と、すばらしい音程跳躍を繰りかえす、一度聴いたら決して忘れない6/8のメロディの中に,深い喪失感が込めれた、この世のものが歌っていると信じられない域の超傑作「砂の船」
 みゆきの「テーマソング」というべき、8分以上の大作(なのにその長さを全く感じさせない)、永遠の大傑作バラード、「歌姫」
 わさびの聴いた「傾斜」
はすべてこのアルバム初出です。

「悪女」ロックバージョンも、シングルバージョンよりよほど生々しい悲しみに満ちてますネ。

 編曲を含めて、トータルアルバムとしての完成度は、やはりこのアルバム「寒水魚」がベストという気が,今でもします。

【J-POP/歌謡曲:な】中島みゆき / 寒水魚 (CD) (Aポイント付)

 曲のメッセージは、最近のの方,例えば、
中島みゆき/Singles 2000"singles 2000"の諸曲の方が,更に高い境地と思いますが。

 iTunes Music Store(Japan)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

常識論を超えたところからがほんとうのカウンセリングである(第3版)

 架空の例、しかしありがちな例です。

    「あの人だけは、
    私の仕事上の悩みを聞いてくれるので、
    信じていたのに。

    でも、あるきっかけでわかってしまったんですよ。
    それを逐一上司に告げ口していたのが、
    その人だったってことが。

    その人は昇進、私は左遷です。
    同僚とは「友達」ではなくて「競争相手」だってこと
    わかっていなかった自分が、
    社会人としては甘かったと、自己嫌悪しました。

    「これを教訓に、しぶとくがんばれ」

    と、うちの親も慰めてくれました。

    でも、私はどうしても許せないのです。あいつが。
    あそこまで一緒に飲む時は、
    肩を叩きあって、励ましあったのに」


 こういう相談を受けた時、私は、

  「常識論としては、
   同僚も競争相手だというのはわかるわけですよね。
   自分は競争相手に利用され、敗北した、甘ちゃんだと。

   でも、理屈を超えて、相手を許せない。
   裏切り者め!!
   あの飲み屋での、
   和気藹々とした連帯感はなんだったんだー!!!

   と、叫ばずにはおれず、
   そこから自分の人生が狂った!! 
   という憎しみ、悔しさが、
   どうしても繰り返しあふれ出すんですよね」

などと応じていることが多いと思います。

******

皆さんは、このように言葉を返すことが「優しい受容と共感」と感じますか?

自分のつらさに真正面から直面してもらうという意味では

「非情なまでに厳しい」

とすらお感じかもしれません。

*****

私は、ほんとうのロジャーズ派(来談者中心療法)カウンセリングの「受容」と「共感」は、そのような世界だと思っています。

いわゆる「母性的受容」を遥かに超えた、ある意味で「ごまかし」や「甘え」のない世界です。

でも、そこには、心の底からお互いに向き合い、気持ちを伝えあおうという、オープンで真剣勝負の、相互信頼の関係が生まれて行く。

    カウンセラーは、
    クライエントさんの思いを,
    カウンセラー自身の
    「身体を通して」受け止め、
    「身体から出てくる」言葉で
    応答せねばならない。

    口先だけの「鸚鵡返し」などではだめです。


 このような『真剣勝負』で、

<絆>

がカウンセラーとクライエントさんの間に生まれたところからが、
二人の「共同作業」としての、
ほんとうのカウンセリングです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/06/06

"disorder"および、"helplessness"の訳語について

 DSM(アメリカ精神医学会診断基準)における、

   "disorder"

という言葉は通常"障害"と訳されますが、私は、

   「失調」

と訳すべきと考えます。

 "order""dis-"という、「否定」の接頭詞がついた言葉ですからね。

*****

 同様に、

   "helplessness"

という言葉に、心理学の世界全般では、「無気力」という訳語が与えられますが、こっちの方がひどいですね。

 直訳すれば、

「助けが-得られない-こと」

でしょ?

誰からも、どこからも、援助の手が差し伸べられないからこそ、その、

    「孤立無援」

の状況の中で、結果的に、その人は「無気力」になるだけなのに。

「統合失調症」や「認知症」とかは改名しても、これら2つの言葉は放置しているあたりにこそ、患者さん(クライエントさん)のほんとうに「身になった」精神医療やカウンセリングの姿勢があるのかどうかが疑われると思うのですが?

| | コメント (3) | トラックバック (1)

2006/02/24

「エル・シド」こそ、今の時代に世界中の人にもう一度見てもらいたい名画である!!

前回の書き込みの第4版の時点で追加した、エル・シド「エル・シド」、結局、どうしてもまた見たくなってDVD発注していたんです。

なぜ、この映画の細部を忘れているのに、子供心に、「訳の分からないくらいのインパクト」があったのか?

30数年ぶりに見て、その謎は簡単に解けました。

敢えて、内容については触れません。

ただ、いわゆる「スペイン」という国か「成立」するまでの、中世末期の歴史を頭に入れてから見直すと、実はこの映画の、時代を超えた「名画」(ひょっとしたら、「深み」という点ではベン・ハー コレクターズ・エディション <初回限定生産>「ベン・ハー」すら超える「超傑作」)であることが一層よくわかります。

たとえこの映画に「多少の」史実との違いがあったとしても、

「政治」を担うとは何なのか、

「外交」とは何なのか

について、ここまで深く考えさせる映画は稀でしょう。

******

ただの

「贅沢に費用をつぎ込んだ歴史ものスペクタクル」

と思っていた方、

実はこの映画の「ほんとうの凄さ」の鍵を握っているのが、

「脚本」を書いた人物の卓抜な「歴史観」「政治観」なのではないか

ということは、強調しておきたいと思います。

****


エル・シドについては、こちらに続きがあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/02/17

「歴史」が、たいていの若い世代にとって「暗記科目」に過ぎない現状では.....(第6版 「エル・シド」の項大増補!!)

「侵略」であろうと「進出」であろうと、どっちでもいいでしょ?

といいたくなります。

そういう「言葉尻」が問題になるという背景には、

「歴史教育についての『統一見解』を『国家の責任』で作り、『国民に教育』する義務がある」

ということが「自明の前提」として含まれているわけですね。

......ということは、「歴史教科書批判」をしてくる国も、「それへの対応を迫られる国」も、

およそ、

「『正しい』「公教育」というものを『政府が検閲』し、正しい認識を『与える』べきである」

という大前提を、

政府も国民の多くも、暗黙のうちに受容してしまっている、

「不精な」国民・国家

なのだと、私は判断します。

*****

歴史上のどんな事件でも結構です。

例えば「トゥール=ポアチエの戦い」としますね。

西暦732年に、イスラム教徒国家が「フランク王国」にそれ以上進入しようとするのを食い止めた、という意味で、イスラム教国家の、ヨーロッパ大陸「西側からの」それ以上の「進入=進出=侵略」を不可能にした、世界史上の重大な転機がかこの戦いであることには変わりがありません。

しかし、恐らく日本の「大学受験生」なら、

1.この時のフランク王国がまだ「メロヴィング朝」であり、「カロリング朝」ではないこと

2.この時のフランク王国の実質的な支配者が「宮宰」(摂政のようなもの)の「カール・マルテル」であり、いわゆる「シャルルマーニュ大帝{カール1世)(追記参照)」ではないこと

(追記:私は正確には、これでは「シャルル『大』大帝」になることを知っている。「シャルル大帝」か「カール大帝」か「シャルルマーニュ帝」か、単に「シャルルマーニュ」にしないとおかしいのは知っている。しかし、それこそ、この「カール(シャルル)」帝へは、法王からの「ローマ帝国皇帝」の王冠を捧げられ(ゲルマン人初?)、孫3人に、今日の「ドイツ」「フランス」「イタリア」の原型となる形で国を分割相続する伏線となり、「カロリング朝ルネサンス」といわれる、旧ローマ帝国の学問・文化を積極的に復興することへの積極的貢献など、ラテン(旧ローマ帝国)系とゲルマン系を統合した意味での「中世ヨーロッパ」世界の「とりあえずの」確立において政治的・文化的に果たした役割のあまりの「巨大さ」から、「唯一無比の」の「カール」という意識が無茶強いので、「確信犯的に」、この、屋根屋を重ねる言い方を「好んで」いる(^^;)。

ちなみに、彼の祖父、いわゆる、「カール・マルテル」は、イスラム教徒軍勢のイベリア半島を越えた本格的侵入に)『鉄槌』かました『カール』」と言う意味で、後の時代の人が読んだことに由来。世界史的に大事なのは、何より「祖父(マルテル)」と「この人(大帝)」を混同しないことであろう)

3.この戦いを、「ローランの歌」で有名な、778年の「ロンズウォーの戦い」における「カール大帝」の「バスク人への」勝利と混同しないこと

4.しかしこれらの戦いの後にイスラム教国家が、即、イベリア半島から消滅したのではなく、「レコンキスタ」の完全な成功は、何とスペイン(カスティーリア王国)による1492年のグラダナ陥落までかかっていること。

..........ここまで掌握していれば、私の大学受験時代、私立文系の最難関といわれた、早稲田政経学部の世界史の要求水準を満たしていたでしょう。

(「以下の記述の中から、間違っているものを選べ」的設問の「引っ掛け」選択肢になりそうなのは、これらのポイントです)


(この20年の間に、偏差値の数字と受験学力との関係は「ものすごい大暴落」を起こしていて、当時の早稲田の政経合格に必要な水準の「受験勉強」など、今の日本の「どの」大学でも求めていない、「とてつもない」域であったことを忘れてはなりません)

ちなみに、「ローランの歌」は、これら「すべての」混同に加えて、イギリスの「アーサー王伝説」(6世紀から8世紀にかけて成立)における「円卓の12人の騎士」の伝説すら「一緒くたに」なって、しかも11世紀の「十字軍派遣」を背景に成立した叙事詩であります。

(以下アーサー王関係商品のリンク)
王様の剣劇場未公開部分約16分を追加した“ディレクターズ・カット版”ブエナビスタ・ホームエンターテ...魔法の剣 キャメロット 特別版(期間限定) ◆20%OFF!エクスカリバー戦記 【OPSD-S107】=>18%OFF!エクスカリバー戦記【送料一律380円】【新品】 ブロークン・ソード 〜眠れる竜の伝説〜(PS2)バンダ・シンフォニア/リック・ウェイクマン〜アーサー王と円卓の騎士達〜イギリス生まれの物語たち図説アーサー王百科〈民族起源〉の精神史感動の世界名作アニメ アーサー王物語

ですから、この「ローランの歌」成立当時(のヨーロッパ人は、もはや自分たちの過去の歴史を「その程度」にしか掌握していない、まさに『歴史認識』における「中世の暗黒時代」にあったという点では、もはや同時代のイスラム教国家の歴史家の高度な客観性に全く歯が立たない状態だったみたいです。

(ただ、イスラム教国家側の王の武勇を賞賛する内容も含まれているので、ダンテの「神曲」が、ムハンマド(モハメット)が地獄に落ちた醜い悪者として描写されたためにイスラム教国家でも「禁書」扱いになっているのと同様な扱いは至っていないようです。

*****

ちょっと年号だけはwikipediaで再確認させていただきましたが、ロランの歌岩波版の「ロランの歌」の訳者の解説の部分まで読めば、こうしたことはほとんど全部掌握できます!!

副読本として、シャルルマーニュ伝説ブルフィンチの「シャルルマーニュ伝説」があれば一層パーペキです!!

なお、はっきりバラしますけど、「中世初期のフランク王国とイスラム勢力との関係」というのは、私が(後で詳しく述べるようなきっかけを経て、中学時代から関心を深めてきた特別「興味の深い」領域だから、wikipediaの助けだけで、即席でこの程度に仕上げられるという「だけ」のことですから(^^;)

*******

歴史的「叙述」というものには、およそどんな場合でも、その時代の「政治状況」や「国民的偏見」から自由になれません。

まして、歴史上の登場人物や階層、民族が「どういうと意図で」のそのように行動したか、という時限になると、結局、その歴史叙述をする人の「世界観」ばかりか、個人としての「価値観」や「もののとらえ方」によって再構成された「物語」であることとを私は決して越えられないと思います。

歴史や政治とは、どの時代のどんな特定の「事件」だけをサカナにしても、このような、羅生門芥川の「藪の中」(=黒澤明のジェネオン エンタテインメント 羅生門 デラックス版映画「羅生門」に陥ることに目覚め、人からの受け売りや新聞やテレビの報道を妄信しないことが大事だ、ということに気づき、自分なりにいろんな情報をいろんな次元で探したり、場合によっては「事件の現地や史跡や博物館の展示」に足を運んででも、「自分なりに」視野を広げることそのものに「醍醐味がある」のです。

そのことに目覚めさせないような、そんな「歴史教育」なら、無意味です。

例えば、「世界史」の時間の1ヶ月間が、例えば「トゥール-ポアティエ間の戦い」という一つのテーマに絞って、生徒ひとりひとりにネットや図書館とかを駆使して勝手に調べさせ、

先ほど述べたような、「果てしないくらいに無尽蔵な」当時のさまざまな社会的現実や事件との連鎖反応的関連について何でも自分なりにレポートにまとめ、「どんな方法で」それをプレセンテーションしてもいいとします

例えば、●3000円以上購入で全国送料無料!(一部地域除)ジョン・ウィリアムズ/アルハンブラ宮殿の思...ギター曲の「アルハンブラ宮殿の思い出」を弾いてみせる生徒がいてもいいし、

ひとりの生徒の提案で、何なら3コマ分ぐらいブッ通しで、映画、「エル・シド」の鑑賞会をしてもいいではないですか。

*******

エル・シド「エル・シド」は、私が子供の頃、偶然、テレビで見て、ともかく、スペインでの、イスラム教徒との戦いということだけは当時の私にもわかりまました。

迫り来る圧倒的な数の「海を渡って来た」イスラムの大群の脅威を前にして、自分の城で瀕死の身体でありつつ、「スペインの『英雄』であることを「一身に引き受けた」、エル・シドの、何とかスペインを守りたいという強烈な使命感と「今、生きて戦いに赴ける身体ではない」ことへの「断腸の思い」がひたひたと伝わって来たのだけは覚えていました。

そして、ラストシーンの記憶は失われていたのに、見終わった直後、とてつもない「衝撃」をうけたことだけは「身体が」覚えていました。

(そういう彼を支える妻の役って、ソフィア・ローレンだったんですね。主人公役がパラマウント ホーム エンタテインメント 十戒 スペシャル・コレクターズ・エディション「十戒」ベン・ハー コレクターズ・エディション <初回限定生産>「ベン・ハー」と同じ人(=チャールトン・へストン)なのは子供の私にもわかりましたが)。

私の、広い意味での、中世のヨーロッパ西方でのイスラム国家との戦いに関心を持つ「原点」が実はこの映画です

ただ、当時の受験参考書や百科事典水準の史料では「エル・シド」の名前を見つけられなかったもので、

この戦いは「トゥール・ポアチエ」か? あ、違った

あれ、「ロランの歌」の「ロンズウォー」でもないな?

いつ、どこでの戦いなんだ〜!!

などと模索するうちに、

フランス建国の父「とされる」、メロヴィング朝の「初代の王」クロヴィスからはじまる中世初期から中世末期に至る、ヨーロッパ人と、イスラム教勢力との「ヨーロッパ西方での」ぶつかり合い全体が「特別な」興味の対象としてどんどん育っていったのです。

******

一方的に出来合いのマニュアルに基づく歴史の流れを「通史的に」教える(これだけなら、受験勉強のためなら、講義より、参考書一冊読む方がよほど情報量多くて手っ取り早い)のではなく、

生徒各人が各人なりに歴史を「おもしろい」と感じる切り口を見つける「きっかけ」を作り、

通説や世間のその事件と関連する事項への「常識的理解」への疑問符、

立場が違えば状況が違って見える可能性

その歴史上の登場人物や民衆の心情への「感情移入的理解」のさまざまな可能性.......

,,,...などなどに気づかせるきっかけになれば、

それ以上立派な「歴史教育」(それどころか、「社会」や「政治」への、各自なりのもののみ方を養う訓練)はないと思います。

私は、その領域に詳しい人が、「私を」さらに納得させてくれることを言ってくれたら、たとえそれが小学生の言うことであったとしても、「敬意をもって」拝聴するつもりです。

そういう「出会い」がなければ、人生って楽しくないじゃないですか!!

******

日本史だと、これが「南北朝」時代への別格的な関心ということになりますが。

何しろ私は『小沢昭一が選んだ 恋し懐かしはやり唄』「青葉茂れる桜井の」(「大楠公」)を小学生にしてフルコーラス歌えましたし、今でも歌えます!!

日本の「軍歌」のほとんども、もし歌詞カードがあれば歌えます。

当時の政治は政治として、これら戦前の文部省唱歌や軍歌を避けて、日本の音楽史を語らないと、「卑怯」だとすら思います。

日本神話を「教え『ねばならない』」という考えには反対ですが、

自国の神話や伝説について個人個人が学ばないでいるとすれば、『もったいないなあ』と思うし、少なくとも、口語訳古事記『古事記』なんて、素晴らしい『文学作品』だと思いますが。

(図説地図とあらすじで読む古事記と日本書紀この本なんて日本神話と大和朝廷がほんとうに安定するまでの歴史/文化/社会/文学についての入門書として、偏らないさまざまな見地からの理解への道を開く、図版盛りだくさんの、簡潔ですごく読みやすいたいへん上質の『記紀』入門書です)

これらを教えるだけで『右』とみられる場に教師がいるのなら、その先生、わかいそ過ぎますね。

*****

もとより私個人は、政治的には「ある意味では急進的、でも現実主義的慎重さを失わない『リベラリスト』」そのもののつもりです!!

*****

でも、靖国神社隣の「昭和館」は時間をかけてじっくり見ました(政治的な中立性を十分に保った展示がなされています)。

弘前城の場内展示された「仇討ち」の資料の話はこの前の記事のコメントの最後の方で書きましたし、

私の友人が住む、水戸を訪問した際、常盤神社でも、歴史上の事実としての「黄門様」の解説や自筆の手紙の文面を読めたのは楽しかったですね(^^)

そろそろ偕楽園は梅の季節でしょうか?

nmacmini_125-125.gifANAエコ割_あなたらしい旅しませんか?_125*125初めてのお泊りは10倍お得!?プロの愛用品

| | コメント (7) | トラックバック (2)

2006/02/11

とことん興味本位であることが本当に「身につき」「使いこなせる」」(+ iTunes Music Store の隠れ技、公開!!)(第9版)

最近一時期の書き込みのペースが落ちたとお感じの方もいるかもしれませんが、別に本業が忙しくなって来たからではありません(^^;)。

「顧客さん」を「増やすために増やす」つもりでのネットへの投資はあまりし過ぎたくないし、マジ、体調の関係で、もし今の2倍のクライエントさんが来たらまだ身体が持たないでしょう。

むしろ、当面書きたかったことを「やっと」かなり書き尽くしてそれなりに満足したというのが大きい気がします。

*****

本業そのものは「ぼちぼちでんな」というところで、時間が空いた時は、読書などの、ある意味では「先行投資」的活動の方が多いでしょうか。

ちなみに、その多くは歴史書や日本/世界問わず、歴史関係の20世紀半ば頃の代表的かつ独創的な研究者の著作か、日本語訳だけど「超古典」に属する「原典」ですね。

例えば、今の今、並行してかわるがわる(! )読んでるのは、まずは、

gariasebki
カエサルの「ガリア戦記」

キリスト生誕を遡ること50年前、「紀元前」に、実際戦争の将軍をやったカエサル(シーザー)「本人が」刻々と「戦況報告」としてローマの元老院に送ったものをその直後に本人が推敲したと考えられている!!

古典ラテン語の代表的教科書であり、その簡潔な、主観を排した文体は「歴史記録の鏡」とまで言われる。

キリスト教以前の政治家がどういう倫理観で、すでにローマの脅威になりつつあった「ゲルマン民族」および、ゲルマン民族とローマとの板挟みにあった、今で言うフランスにあたる地域の「ケルト民族」をはじめとする「先住民」という、異世界の族長や将軍たちと、実際戦闘に入る前に、どのような賭け引きや裏交渉をしたのかまで生々しく伝わる、統計的数字にも誇張がない、カエサルその人が、恐ろしく「醒めた知性」の持ち主だったことが伝わる、ある意味で凄い本である。

欧米人の根底にある異文化相手の国際政治観/戦争観を、古代最高の軍事制度システムを持った「超大国」の、これまた最高の現実主義的「政治的/軍事的知性」を持った人間が、自ら書き残しているという意味で、この本など、今の時代にこそ、日本人に読まれるべきだろう。

なお、「ケルト民族」は、こうしてローマに支配が及ぶ中で、今で言うフランス中部あたりからブリテン島や今で言うフランスの辺境地区などに本格的に移住。

【Rock/Pops:エ】エンヤEnya / Watermark (CD) (Aポイント付)エンヤの音楽で一気に日本でも脚光を浴びたケルト人(=実はローマ人にとっての「ガリア人!!」)は「イギリス由来の」ものでは「ない」のだ。wikipediaによれば、インドに近い中央アジアから移動して来たケルト人そのものが先住民を制服し、現在フランスの中央部にあたる地域を占領し、一度定住したたのである。

その「一部」が「将軍」カエサルをはじめとするローマ帝国の拡張もあり、以前から進出していたブリテン島とアイルランドに「本格的に」移動し、先住民をまたもや征服して定住、そして更に後から流入して来たアングル民族、サクソン民族に支配の優位を明け渡す、しかし、イギリス/アイルランドをはじめとして、今もケルト語系の言語を日常語とする層が、何十万人もいるのである!!

実は、文字文化を当初持たなかったケルト人が、ローマの進出の中で世俗化し、方言化したラテン語を早くから話しはじめた場所にこそ、例の「中世ロマンス語」圏の成立が始まるのである!!

keltojinnnogariasenkiちなみに、ケルト人の立場で史料を読み込み、ローマから「侵入される」過程をとらえてみた、
「ケルト人のガリア戦記」(原修二 著) という本、届きました。図版も豊富で、ケルト人側だけではなくて、ローマ側の文化や政治機構についても客観的、かつ、劇画タッチの図版盛りだくさんの視覚的に訴えるやり方で解説してある、「ガリア戦記」の副読本としてこれ以上考えられないくらいの絶対のお勧め本

***

次に、

sezokushijindante
アウエルエルバッハの「世俗詩人ダンテ」と、

ブルフィンチのシャルルマーニュ伝説「シャルルマーニュ伝説」です。

コーラン(上)改版コーラン(中)改版コーラン(下)改版井筒俊彦訳「コーラン」はいつ届いてもいいはず。

私にとって「世界史」って、受験勉強ではなくて、そういう興味本位の読書で形成された「好きなもの」です。ただ、なぜか、「歴史小説(ふうのもの)」はほとんど読んだことないです。


でも、気がついてみると、後にイスラム教の影響も強く受ける「南ヨーロッパのロマンス語地域」という一点で、私の最近の読書傾向は「交差」してます
ね(^^;)。

ほとんど「ロマニスト」です。

「ロマンティスト」ではなくて、

「『ロマンス語系』文学研究者」のことらしい。

上述のアウエルバッハの本は、『神曲』はヒルティの影響でとうの昔に手元にある(「天国編」は読まないまま)ので、「ダンテ関係」ということで「勘」だけで楽天ブックスで選んだんだけど。

実は今世紀最大の「ロマ二スト」の処女出版らしい。しかし、これを「楽しく」読める人は相当歴史や哲学思想に「ロマン」を感じて自分から接して来た人だろうと思う。

でも、精神分析の精神分析の方法(1)ビオンの翻訳に比べたら、私には遥かに、遥かに「楽しい」本です。訳者の、かつて心理臨床学会の個人発表で座長をお願いした藤山直樹先生、ごめんなさい(^^;))

*****

大長編ローマ人の物語(1)「ローマ人の物語」で著名な、「学者」の書いた「学術書」ではなく、「歴史教養書」の部類と思われる著作活動を続ける塩野七生も、すでに2年ぐらい前に読んだコンスタンティノープルの陥落「コンスタンティノープルの陥落」だけ。


「ガリア戦記」とか、なぜこれまで私が読んでなかったのがむしろ不思議なくらい。

歴史(上)歴史(中)歴史(下)ヘロドトスの「歴史」

(ギリシャ時代、ペルシャ帝国滅亡後に、当時の中近東地域を「実際に」訪ね、当時のクフ王のピラミッドやスフィンクスの印象、ミイラの製法までこと細やかに書いている。まだクレオパトラよりずっと前の時代、今日の「風化が進む前の」スフィンクスやピラミッドを実際に見ているのである!!)
ゲルマーニア改訳タキトゥスの「ゲルマニア」

(これもローマ時代当時、実際にケルマン民族地域をを旅してはいないが、当時「蛮族」と見られていたゲルマン人を含む北部ヨーロッパ人への敬意を持って書かれた)、
インディアスの破壊についての簡潔な報告ラス・カサスの「インディアスの破壊についての簡潔な報告」

(これまた、何とコロンブスの航海に「同乗」した宣教師という同時代人による、宣教師であるにもかかわらず、披征服民へのスペインの政策を批判し、変えさせようとする政治運動を実際に続けた当事者による「現地報告」)

とかは、高校時代にとっくに読んでるのに。

.....あ、そうか!! 見地を多角的にするには、

中世イスラムの歴史家、イブン=ハルドゥーンの古典的歴史書、

歴史序説(1)「歴史序説」も注文しておこうかな)

****

何か、「ひけらかし」みたいで気が引けますけど、

こういう本をいつも「楽しんで」読む人間が、学校教育の枠にはまらない面があったことは、想像して頂きたくて。

私はこうした「歴史好き」と同じようにして、浜崎あゆみや中森明菜や松田聖子やクラシック音楽や鉄っちゃんやアニメをや実写映画を、

そして「フォーカシングを」

「楽しんで」いるだけなのです。

そして、そういうふうにして(強制ではなく)自分の好奇心のままに「身につけ」た時、人はそれを、「仮面」としてではなく、自分が主人公となる形で「身につけ」られるのだと思います。

「優等生」の中に囲まれているのが、苦手で、もの足りないし。エリート主義者でもない、

自分がなりたいものになってきた(注:ただし現在進行形)その成り行きで、現在ただの「在野の一臨床家」をしていることに心から納得している私の心境をお伝えしたいだけです。

これが、「健全な」自己愛を育んだまま、強迫性ともまた別な探究心を失わず、「時には」したたかかつ自由に、「社会的ペルソナ」を使い分けることそのものを「遊んでしまう」生き方、ということになるかもしれません。

そこには、劣等感コンプレックスの裏返しとしての、みせかけだけ自分を「人より上位の」人物に見せたい欲求など(時には生じても)、

結局、

「ズル」や「カン二ング」で動くのは『つまんない』や」

という気持ちの方が勝ってしまい、

「ね、ね、僕、すごいでしょ?」

と、まわりに無邪気に「ほんとは」思わず口走りたい、3,4才の頃の私が、ただその上に「経験値」を積みあげると同時に「年食った」だけの存在として、そこにいるのだと思います。

(直前の部分、第3版と第4版で表現を大きく変え、タイトルも変えさせて頂きました。今の今、「はじめて」言葉にできたことです)

そして、

浜崎あゆみが、今、

「みんなに見せたい『景色』」

とは、

そのことではないかと。

「オリジナリティ(originality)」って、

「本来的、始源的」

ということであり、

「人と違う」

ということとは本来関係ないんではないか?


(以上、第5版で追加)


******

さて、話題を変えます。

「検索ページ上位掲載率増加」のための対策にも、信頼できる「大手の2社」に投資していますが、それも「むやみな掛け金」ではないんですよね。金を積めばもっとアクセス数増えるのはわかってます。

楽天から得られる「楽天通貨=ポイント」の収益は、私は次第に何をどのように、どのようなやり方をして、楽天を通して(通さずに)買うと、「必要な、今後絶対投資した見返りがあるもの」を買えるか、のコツが見えてきました、

もっとも、もう、本以外はこれからの自分の生活に必ず役立ち、「減価償却」できるか(税理士事務書取り仕切ってた父が、私が母親の胎内にいる頃から、何千回、何万回も、繰り返し口にする中から「理屈抜きにしみ込んでいた、「経営用語」である)という観点から揃えたかったものは揃えたので、むしろ楽天での買い物額自体は一時期より落ちているでしょう。

アフィリエイトは、自分が紹介したい商品を紹介しているだけですから「料率狙い」はほとんど全くしません。(「一カ所だけ」意識的に本部トップページでやってます)


ところが、楽天の方、気がつくと、やり方次第で結構ぎょっとするポイント還元が得られる「からくり」も自分なりに見えて来た気がするのです。

(例えば、毎月、小額でいいから各コーナー「満遍なく」利用するとか。私は「ゴルフ」と無縁なので「倍率5倍」までしか持っていけないのが残念ですが)

いきなり「ひと月○万ポイント」に跳ね上がって来て、驚いているのです。

こうした「どっと還元された」分については、どうしても読んでみたいけど価格の関係で先送りしていた本(中古市場/フリマも点検する)や、「効果」確実で継続購入することにした消耗品(消臭剤とか)のまとめ買いなど、「確実な先行投資」にむしろ「手堅く」使っています。

*****

CDは、ayu以外で、よほどの高音質で聴きたい場合を除いては、すでに繰り返し触れるようになったiTunes Music storeでまずは探すように急速に変化しました。

ただ、もともとクラシックはかなり偏ってるし、J-POP系はアーティストによってある人とない人の格差が、今の段階では日本人向けには極端で、まだ日々刻々とレパートリーを増やしている段階ですね。

でもこのレパートリーの幅の問題が「ある程度」解決した瞬間、

若い世代は

「音楽を聴くためにiPodを多少無理してでも買う」

時代に雪崩式に一気に流れ込む

かもしれません。

中島みゆきはCD高めのままなのに、何と"Singles""singles II"以外「全部」あります。30年かけた30数枚のフルアルバム、そして新譜のシングルまで「すべて」があります。

みゆきは本質はアルバム・アーティストですが、有名曲でもなぜかアルバムにないシングルのみの曲(例えば「「誘惑」)があるので、「全曲購入」に恐らく10曲ぐらい足りないのかな?

あと、ライブの「夜会」シリースは別です。あれは、今や、映像が残っている限り、DVDの映像で売りに出されるべき思います)

浜崎あゆみは、1stと2ndのフルアルバムの内それぞれ何曲かはまだですし、リミックスとベストアルバム、シングルCD時代のB面曲、一部のマキシシングルにしか納められていない曲を除くと「すべて」あります、何より、新発売の"(miss)understood"すら買えてしまう

(ちなみに、「CDの場合」、このアルバムに収録された曲でマキシシングルで先行した曲、すべてリマスタリングされ、音質は向上し、楽器間のバランスとかも再吟味されて統一感が出るようになってますから!! そして、曲順とかにも明らかにそこのひとつの「コンセプト」が与えられている。そして、アルバムでしか聴けない曲にこそayuの本音がストレートに出ているのは今回も同じ。

つまり、ayuも本質は「アルバム・アーティスト」です。だから、今後フルアルバムに「必ず」マキシのプロモーションビデオが収録されるとならば、焦らないならマキシではCDのみで、DVDとセットのを買わないままフルアルバムを待つのも手です。

しかし、ayuの場合は、PVが曲のメッセージを「補完」していることが多いので、ayuの「神髄」に「リアルタイムで」迫りたい人、ayuのためなら出費を無理してもしていいというに人は、今後も、シングル段階での「(CD+DVDのセット買い」がおすすめです)

*****

ITunes storeの話題に戻ります。

このように、最新フルアルバムまでラインアップに既にある浜崎あゆみとは対照的に、同じavex所属でもはや売れるCD枚数も浜崎あゆみより上かもしれず、曲のアレンジ、ライブでのパフォーマンスに至るまで、すでにayuと異質な存在感を歴然と示している、「ほんもの」のアーティスト(本人はこの言い方、好まないでしょうが)である、大塚愛の場合だと、■送料無料■大塚 愛 CD+DVD【LOVE COOK】12/14同時期発売の最新3rdフルアルバム、まだiTunes Storeで出し惜しんでますものね。「ブラネタリウム」もシングルですらまだ。

(この違いは何かというと、浜崎あゆみは満単位の会場での、かなりハードな日程のコンサートツアーでほぼ満員になる「集客力」が今もある(「追加公演」すでに公示されましたものね)ので、「CD では稼がなくていい」、でも大塚愛は、ライブでもお客さんを楽しませる才能はあるが、もっと小さめな会場向きだし、結果的にもチケットでは浜崎あゆみより「稼げない」ので、新作をCDでしか買えない期間を長期化して、CDの売り上げから収入を得たいという、avexのまことに健全な企業戦略の結果生じた違いに過ぎないでしょう)

ちなみに、レコード会社は別だけど、iTunes Storeでダウンロードでき出したら、確実にNo.1ダウンロート数を築くはずの「世界にひとつだけの花」という切り札を持つSMAPは、まだ登録ゼロです!! 会社とAppleの交渉がまだまとまらないのでしょう。

iTunes Store圧倒的に強いのが、「英米音楽、しかもクラシック『以外』系」であることは言うまでもないことのようです。何しろ、「日本の」ストアにはまだPVは一曲も置いてないので、第4世代iPodのビデオ機能は「合法的には」(!)活かせないままなわけです(パソコン用AVソフトで署名な某社は、すでに公然と「コピーソフト」を出してますが)。

しかし、トップページではなくて、「パワーサーチ」の方に回ると、何と倍以上の「隠れジャンル」検索があるんですよ!! これはどの国のiTune storeであるかを「越境した」データベースのようで、日本円で、JCBで、最初のダウンロード契約を国別とかでやり直さなくとも、そんまま購入できてしまいます(たたし、値段設定が日本円ですっきりしてますから、恐らく日本版ではアクセス不能な曲はたくさんあるのだと思います。iTuneを「英語版として」セットアップして、AMEXやMasterのカードで英語で登録するとどうなるかは、まだ実験してませんが(パソコンを2台持っていて、OSも同じにして、ダウンロードした曲のファイルの「置き場所」さえ共有してしまえば、論理的には日本版とアメリカ版、いや、ドイツ版すら動かせるはずで、そうなればクラシックのレパートリーもよほど広いかもしれませんが(^^)、まだやってません。

でも、現状でも、"Germann folk"とか、「日本人の多くに未開の広野」が、首都圏の巨大な輸入盤屋さんをたよらなくても、ともかくそのジャンルの代表的なものはあるみたいです。

****

そういう中で、今私が突如関心を持った「ある」音楽ジャンルが、前回述べた「○○○(中略)○○」です。

などと、「この」ネタ、まだ先送りにして練り込んでからにするつもり!!

ANAエコ割_あなたらしい旅しませんか?_125*125abhotel7ipod_125-125.gif


| | コメント (3) | トラックバック (0)

2006/02/05

「資格」とは、「コネなし」で社会的に「就労活動」する上の最低限の保障となる「パスポート」であるに過ぎない、とも考えられる(第4版)

再び「資格制度」についてなんですが、

たとえそれが「国家資格」であったとしても、それが「就職活動」をする上での「決定的切り札」にはなり得ない

ということは、専門学校や大学の卒業前に就職活動した人なら、みんな身にしみて感じておられることだと思います。

今や留学した経験とか、TOFELでの得点すら、国際的な仕事をする上で「ないよりまし」程度のものだ、ということも、それらの経験や高得点をお持ちの方はご存知でしょう

(どうしても語学力が必要なら、会社に入れてから会社の経費で「研修」で仕込む方が効率がいいと「企業」もわかっているのです)

「資格さえあれば食っていける」というのは、例えば弁護士や、医師のような超高度な資格の場合ですら、「幻想」といっていいわけですね。

******

ある臨床心理士の人と、資格がどうであるかとカウンセリングの実力は無関係、という話で盛り上がったことがあります、

しかし、その人が次の話を始めた時、私は心の中でその人を「軽蔑」しはじめ、凄い「興醒め」を味わいました。

「私の元でみっちり学んでいたその人、臨床心理士ですらなかったんだけど、『よいスクールカウンセラーを捜している』という学校の校長先生に、私が「この人なら大丈夫です」と紹介したんですよ、そしたらやっぱりその人、その後その学校ですごく評判のいい『スクールカウンセラー』として活躍しているくらいだからね」

(あのさー、それって、まるであなたの手柄話にしか聴こえないんですけど。それに、要するにその人、自分でその学校に志願したわけでもないんでしょう? もし、それなら、あなたがそういう立派な弟子を育てたことを自慢する資格も一応あるかもしれないけど。それに、それって結局、あなたの「コネ」が効いた、という話でしょう? 「コネなし」でも最低限の就労資格の「パスポート」として「売り込みに使える」ことが、『資格』の存在意味じゃないかしら?)

私は、もう、疲れていたので、このことをその方に言葉で言い返す気力も無かったし、

「『やっぱり』この先生は、『ここ』が限界で、クライエントさんの『この種の』問題すら超克できるカウンセラーを、育てることできないでいるんだよな〜 自分が「セクト主義」の反体制気取りに過ぎない「小山の大将」だって、はやく気付いてほしいのになあ」

なんて、よほどの覚悟と適切な「場」でないと、面と向かって、こちらから言葉にできませんものね!!

(注:以前も一度使った、「山の大将」、とは私の「新造語」です。「実は『世間が狭い』のに、自分を崇拝する人を身の回りに集めて自己満足している、その崇拝者たちの真の自己実現を疎外すらする人のこと」を指します。もちろん「固有名詞」ではありません!!)

その「結構『業界』で著名な」先生と、その弟子の方に、この記事が目に入ることを念じつつ

*****

BGMは、自戒の念を込めつつ(^^;)

そして我が福岡が生み出し、教育実習生としてわが母校に赴任、全生徒の前での体育館での「教生先生(=教育実習生)」とのお別れ会で、「目の前でギターを弾き語りした」はず、と、元クラスメートから伝え聞いて、私ははっきり記憶になかった(^^;)、
海援隊『あんたが大将』かの武田鉄也さんの名曲、『あんたが大将』でした(^^;)

この歌は、私の高校時代からの「代表的」カラオケレパートリーです(^^)

(別に体育館で目の前で武田さんが歌ったらしいのがこの曲、ということではありませんよ。でも、この曲、最初はアルバムにの中の一曲だったのに、ラジオでのリクエストを通してどんどん人気が出て、シングルカットに至ったという、ほんとうにリスナーが名曲として「発掘」したエピソードは結構知られているかも

カーペンターズのThe Carpenters『Top Of The World』”Top of the World"もまずは日本のファンの間で人気が出て国内限定でシングルカット、そして本国でもシングルカットという、ファンが見出した「名曲」であることは、
karen
私の読んだ伝記に、

「本人たちも日本で火がついたことに驚いた」

と明言されています)


******


さて、「あんたが大将」に立ち返りまして、


"ストレートに言わせてもらっちゃあ、何ばってん、

(中略)

parhaps ,may be,あんたにゃ、わからんめーもん!!”

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/02/04

「医療心理士」と「臨床心理士」と「医師」についての資格問題の記事、重要な増補改訂

前回の、上述の問題についての記事本日改訂の「第3版」で、重要な増補改訂をしましたので、是非お読みください。

これは狭い意味での「資格相互間の問題」ではなく、

「資格を所持すること」、

そして、

およそ「法的にみて」人を指導する立つ権限を持つこと

全体についての、

私なりの「倫理観」と「実践」具体的に述べた、重要な書き込みのつもりです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/01/02

ブログのカテゴリー分けをより具体化させる形に徐々に更新していきます(第10版)

@niftyのココログって、一度凝り出したらカスタマイズがし放題に近く、しかも文の長さにも制約がないので、ある程度HTMLタグを自分で打ち込めるくらいのホームページ制作能力があれば、凝り出したら切りがないのが特徴です。

同時に複数のカテゴリーをいくつ指定してもいいし、オリジナルカテゴリーも無尽蔵に作っていいみたいなんですよね(^^)


私のブログって、私の文章の「ワープ」的越境能力をとことん駆使してやろうという方針ですから、一つの記事について10幾つものカテゴリーを設定するという「荒技」を駆使してきました。

しかし、現在の@niftyココログのシステムからすれば。例えば「心理学」「心理療法」「精神療法」「カウンセリング」「開業カウンセリング」「サイコセラピー」「セラピー」などというふうに微妙な表現の間の違いでも、例えばこれらの言葉と「ヘッドフォン」との間にある差異と同じくらいに、「意味論的差分」の上で等価的/並列的に別のカテゴリーになってしまうことにもなります。

私はこれを、インターネットが「フラットランド」と呼ばれるものであることの「諸刃の剣」の側面についてのひとつの理解であると思っています。

ちょっと難しい言葉でいうと、「階層的分類」というものには、実は凄く個人的な側面があり、どうしても、誰もが納得する分類分け(パソコン風に言えば、「ツリー構造」)などあり得ないということになります。

その意味では、実はカテゴリーのパーソナライズを、完全に増えるに任せて野放しにしている@niftyのココログの方針は、「現実主義的に見て」、無難でしょう。さもないとクレームの山に忙殺されてしますでしょうから。

****

もっとも、記事をアップする前に、内容から自動的にカテゴリー「候補」を選び出し、作者に表示するまでなら、単語のデータベースとかと連動させれば、今のサーバー管理コンピュータでも容易にできるでしょう。

もっとも、アップロードまでのトラフィックがいよいよ渋滞する危険は高いですが(^^;)

しかし、今のコンピュータは、まだ、文章の本格的な「意味論的解析」という点では、まだ開発の歴史の初期段階なのは確かでしょう。最優秀といわれる自動翻訳ソフトの現状をみればどなたもお分かりですよね(^^)

「心理療法用語をまるでひとつも使わずに」カウンセリング関連の奥深いエッセイを仕上げるなんて、少しキャリアをつめば、ある程度できるようになりますから。


******

いずれにしても、私のブログ、カテゴリーの設定の個別化・具体化・パーソナライズという点では、これまでほとんど手を付けていない分、新たな読者の皆様を増やし、読みたいタイプの記事を過去に遡って検索して頂くには実に不便な状態だったと思います。

なんらかの意味でカウンセリング・マインドに関わる記事については、敢えて「手作業で」、「ウェブ上のカウンセリング論集 index」を制作してあり、右側(この点改訂)のテーブルの、ずずずず〜っと下の方に常設の入り口があります(以外と気づかれてなかったりして)。

でも、これじゃ、純粋の音楽系、例えば「J-POP」や「歌手別」の検索や、「オーディオ系」の記事は、はみ出してしまうわけですよね。


*****


そこで、本日、オリジナルカテゴリーの大量設定に踏み切りました。

先ほど述べたような理由で、極論すると、「心理療法」「精神療法」「サイコセラピー」「セラピー」という用語の間の違いですら、これらの言葉と「ヘッドフォン」「HDCD」という言葉の間にある差異意味論的「差分」の上で「等価」というのでやむなしというのが@niftyココログの「方針」(個人の「パーソナルな世界観」を尊重する開かれたネットワークを目指す限りこの方針はぜひ守り続けて来ださい!!)のようである限り。

私は敢えてこれらの「同義」の言葉を並列的に別のカテゴリーとして登録することに決断しました。

カテゴリーのリストがかなり長大化することは、どうか皆様お許しください。

なお、この記事で「だけ」、今後私が普段使用するカテゴリー「ほとんどすべて」にリンクを張っています。@niftyココログの「標準カテゴリー」の中で、ここにに含まれていないのは「ギャンブル」「スポーツ」「ファッション・アクセサリ」「グルメ・クッキング」など、ほんの幾つかということになりますが、こらら幾つかのカテゴリーですら、過去すでに適切と判断して使ったことがあります。

「ギャンブル」で意識的に私がどの記事でリンクを張ったか、すぐに思い当たる方は、相当ディープなこのブログの読者の方ですね(^^)

しかし、こういう「告知記事」でそこまで含めるのはそのカテゴリーの読者に迷惑なだけと考えて、敢えて今回は外しているだけです。

普段はもっとすっと短いので、どうかご安心を、

******

もっとも、私のブログの場合、個々の記事について、カテゴリーの再分類をするのは、なにしろこれが1年ちょっとなのに、すでに272件、しかも長い文が多い私のブログの性格上、とても一気にはできません。

最近の、しかも皆さんの関心を引く度合いが高そうな記事からカテゴライズの再構築をボチボチしていきますので、どうかじっくりお待ちください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

その他のカテゴリー

about me | Amazon | avex | ayu | BlogPet | BoA | Bose | CDプレーヤー | CM | DVD | Every Little Thing | Firefox | HDCD | iPod | iTunes | J-POP | Last.fm | Linux | Little Non | Mac | madonna | mixi | msn | Queen | The Focusing Institute | VS.シリーズ | Willcom | WinCE | YouTube | Zaurus | 「訊く」 | おすすめサイト | おすすめ商品 | おすすめ映画 | おとぎ話 | こころの天気 | こころ相談.com | アイルランド | アップル | アニソン | アニメ・コミック | アフィリエイト | アメリカ合衆国 | アン・ワイザー・コーネル | イギリス | イギリス音楽 | イスラム教 | インターラクティブ・フォーカシング | ウィトゲンシュタイン | ウィニコット | ウィーン | ウェブログ・ココログ関連 | エルフィー・ヒンターコフ | エル・シド | エヴァンゲリオン | オイルヒーター | オランダ | オリビア・ニュートン・ジョン | オーストラリア | オーストリア | オーディオ | カウンセラーへのメッセージ | カウンセラー・キャリアアップ講座 | カウンセリング | カテゴリー | カナダ | カラオケ | カラヤン | カーペンターズ | キャリア形成 | キリスト教 | ギャンブル | クライエント・センタード | クライエント中心療法 | クラシック音楽 | グルメ・クッキング | ケビン・マケベニュ | ケルト | ゲシュタルト療法 | ゲルマン民族 | ゲーム | サリヴァン | サンダーバード | ザルツブルク | シャーマニズム | シューベルト | シューマン | ジェンダー | ジェンドリン | スイス | ストーカー | スピリチュアリティ | スピーカー | スペイン | スポーツ | スーパービジョン | ダンテ | デジカメ | デジタル放送 | トランスパーソナル | トランス・ミュージック | トロント | ドイツ | ドイツリート | ナイチンゲール | ナポレオン | ニュース | ハンガリー | バリント | バレエ | パソコン・インターネット | パソコン用スピーカー | パフォーマンス | ヒルティ | ビオン | ビジネス | ビートルズ | ファッション・アクセサリ | フォーカシング | フォーカシング国際会議 | フォーカシング指向心理療法 | フォーク | フランス | フルトヴェングラー | フロイト | フロム | ブラウザ | ブラームス | プロセス指向心理学 | プロヴァンス | ヘッドフォン | ベルリン | ベートーヴェン | ペット | ホテル | ホールボディ・フォーカシング | ボン | ポピュラー音楽 | ポランニー | マイクロソフト | マリー・アントワネット | ミュージカル | メラニー・クライン | モバイルオーディオ | ユング | ユーミン | ユーロビート | ヨドバシカメラ | ライヴ | リサイクル | レコンキスタ | ロシア | ロジャーズ | ロマンス語地域 | ロマン主義 | ローマ帝国 | ワークショップ | ワープ | ワールド・ミュージック | 三重 | 世界史 | 両親 | 中世 | 中世・ルネサンス音楽 | 中井久夫 | 中島みゆき | 中年 | 中森明菜 | 久留米 | 久留米でフォーカシングを学ぶ会 | 久留米フォーカシング・カウンセリングルーム | 九州 | 九州大学 | 井上陽水 | 京都 | 人生 | 人生観 | 今週の人気記事ベスト20 | 仏教 | 伝統音楽 | 伝説 | 住まい・インテリア | 体験過程 | 信仰 | 俳優 | 個人情報保護 | 倖田來未 | 倫理 | 健康 | 児童教育心理 | 八王子 | 共感 | 動物 | 動物行動学 | 北山修 | 北海道 | 医学 | 医療 | 十字架 | 博多 | 危機介入 | 受容 | 名古屋 | 吹奏楽 | 周辺機器 | 哲学 | 四日市 | 土江正司 | 地震 | 場の空気 | 増井武士 | | 大塚愛 | 大学 | 大学院 | 大正大学 | 大船 | 大船でフォーカシングを学ぶ会 | 大阪 | 奥華子 | 嫉妬 | 季節 | 学会参加報告 | 学会発表 | 学問・資格 | 学生相談 | 宇多田ヒカル | 安永浩 | 宗教 | 宴会 | 家電 | 密教 | 寝台列車 | 対象関係論 | 小樽 | 山上敏子 | 島根 | 引っ越し | 弘前 | 心と体 | 心理学 | 心理療法 | 心理臨床 | 思い込み | 恋愛 | 意味論的差分 | 携帯サイト | 携帯・デジカメ | 政治 | 文化・芸術 | 文化人類学 | 文学 | 文教大学 | 新幹線 | 旅行・地域 | 日本フォーカシング協会 | 日本人間性心理学会 | 日本史 | 日本心理臨床学会 | 日本神話 | 日本精神技術研究所 | 日本語 | 日笠摩子 | 日記・コラム・つぶやき | 明治学院 | 映画・テレビ | 暖房 | 書籍・雑誌 | 村山正治 | 村瀬嘉代子 | 村瀬孝雄 | 東京 | 東急ハンズ | 松任谷由実 | 松田聖子 | 椎名林檎 | | 楽器 | 楽天 | 横浜 | 歌謡曲 | 武士 | 歴史 | 民俗学 | 民族主義 | 水戸 | 池見陽 | 法律 | 法政大学 | 浜崎あゆみ | 淡路島 | 湘南フォーカシング・カウンセリングルーム | 演劇 | 演歌 | 煙草 | 熊本 | 特撮 | 独立開業 | | 生と死 | 田嶌誠一 | 病跡学 | 発達障害 | 睡眠時無呼吸症候群(SAS) | 確率論 | 社会保険 | 社会学 | 社会現象 | 神戸 | 神田橋條治 | 神話 | 福岡 | 私学共済 | 秋葉原 | 科学哲学 | 立教大学 | 精神分析 | 精神療法 | 紅白歌合戦 | 経済・政治・国際 | 絶望 | 美容・コスメ | 育児 | 臨床動作法(あるいはSART) | 臨床心理 | 臨床心理士 | 自分史 | 自己一致 | 自然 | 自然言語学派 | 自転車 | | 芸能・アイドル | 若者心理 | 英語 | 茨城 | 萩尾望都 | 藤嶽法 | 行動療法 | 表現療法 | 補助電源 | 親鸞 | 記号論理学 | 認知行動療法 | 誤解 | 論理実証主義 | | 趣味 | 身体性 | 軽井沢 | 辺境地域 | 近田輝行 | | 鉄道 | 鎌倉 | 開業カウンセリング(私設心理相談) | 間主観性 | 関係性 | 電化製品 | 電源 | 音楽 | 顧客誘致 | 騎士 | 高杉さと美 | 高橋留美子 | 高橋祥友 |