2008/10/16

今の日本の不幸なところは

 日本が1945年に降伏した際に、つい先日までは、大東亜共栄圏やら鬼畜米英、一億玉砕を叫んでいた「同じ」人たちが、くるりと手の平を返したように、親米・民主主義の宣伝者に豹変するという現実を、政治家ではなく、町の教師水準の豹変ですら身近に体験し、鼻白む思いをした、一般庶民の思い出について、もはや生き証人が日々いなくなりつつあることだと思う。

 そこまで立ち返ってみれば、学生運動の闘士が,今や保守系の大物政治家になっていることなんて、些細な「転向」に過ぎなく見えてくる筈である。

 兄たちを兵隊にとられ(ひとりは行方不明.やっと最近、上海の阿片窟での死が資料から判明)、終戦時、思春期真っただ中に、旧満州からソ連の戦車と中国人からの強盗や虐殺の危険に追われて母(私の亡き祖母)と二人でに命からがら日本に帰った、まさに日本=関東軍の国策の犠牲者だった私の父は、まさにその「白々しさ」を相対化できた世代だし(日本の戦中を知らなかったぶん、余計に馬鹿馬鹿しかったのではないかと)、ほぼ同世代の、同じように幸い徴兵年齢にギリギリ引っかからなかった年齢だった中井久夫先生の原点に、そうした昭和一ケタ生まれ独特の思いがあることは、著作に繰り返し語られている。

 そういうことを振り返らないで語られる歴史教育うんぬんのお話なんて、それこそ時代の転向者の、鼻で笑うべき水準の戯言に過ぎないと日々思っている。


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 中井先生の、終戦時における心境については、例えば、

●中井久夫/西欧精神医学背景史

の長いあとがき。

 (最近自叙伝的な本が出たそうですけど、未読です^^)


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 ある観点からすれば、戦前も戦後も、それぞれ思いの他「いい時代」だったし、どちらもそれぞれの「悲惨と悲劇と理不尽さ」を抱え続けている

 そこまで俯瞰する視点が持てて、はじめて真の歴史認識と言えよう。

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2008/09/17

NHKスペシャル「戦場 心の傷」を観て(第3版)

 2008年9月14日(日)、15日(祝)に二夜連続で放映された、

NHKスペシャル「戦場 心の傷

(1)兵士はどう戦わされてきたか
(2)ママはイラクへ行った

は、戦争がもたらす広範な社会的影響について、従来とは異なる、リアリスティックで、私たちの日常に隣接した問題提起をしたドキュメンタリーであったと思う。


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 このドキュメンタリーは、まずは、アメリカ海兵隊の新兵訓練(Boot Camp)において、イラクの派兵された対テロ市街戦を想定した、ハリウッドの協力を得た、映画撮影さながらの大規模セットを駆使しての、戦闘訓練の様子から始まり、続いて、イラク帰還兵のPTSDの深刻な現状をダイジェストで紹介する。

 そして、古い記録映像を駆使して、戦場での兵士が、当時「砲弾ショック(shell shock)」といわれた、精神的な傷を背負い、戦闘不能に陥り、心身に深刻な後遺症を残すという問題が、第1次世界大戦の頃から注目されるようになったことから解説をはじめ、それが、第2次世界大戦の頃には「戦争神経症」と呼ばれ、更に、ベトナム戦争後、ロバート・リフトンによる帰還兵士への大量の面接記録から、「心的外傷後ストレス症候群(PTSD)」としてDSM-3(アメリカ精神医学会診断基準第3版)に記載されるまでの歴史を、コンパクトに紹介していく。

 そうした際に、日本の陸軍病院に残された膨大な精神科診察記録を元に、第2次世界大戦当時の日本兵においても、今日で言うPTSDと全く共通の症状と患者の生々しい証言が記載されていたことを紹介してもいる。日本軍兵士ですら、「支那人」ひとりを殺すことに、これだけナイーブな反応をしていたのだ。


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 このドキュメンタリーを観ていると、PTSDというのが、摩訶不思議な症状ではなく、そのときの環境に適応するために、高等哺乳類なら成熟に達しでも発揮する「学習」の過程の「後遺症」であり、パブロフ的な、実にシンプルな「条件付け」の結果として成立することが理解できる。

 帰還しても、大きな音が突然すると、戦場での爆裂音と時と同じように恐怖体験になってしまう。もはやそれは「ここは戦場ではない」などと頭で納得しようとしても、身体が条件反射を起こしてしまうことなのである。

 一見平和に見える通りや公園で遭遇する通行人が、実はテロリストであるという不安と緊張が、何かの弾みで止めようもなく生じて来る。

 これが繰り返しのパニック障害的な反応になるだけでも本人には苦しいのであるが、最悪の場合、「テロリストに包囲されている」という幻覚妄想状態になり、手にしていた銃で、銃弾を発射してしまうといった事件もまた、こうした「戦場での恐怖体験の刻印づけ」によるものとみなすとわかりやすい。

 DSMの診断基準の「統合失調症」の項の鑑別基準において「PTSDの条件には当てはならないこと」ということが特記されているのはこうしたためである。


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 特に、戦場で民間人を誤射して殺してしまったときの体験は、兵士の中で深刻に後を引く。

 多くの映画やドラマでは描かれていないが、人をひとり殺すということは、それだけで深刻なトラウマとなるのだ。

 第1時世界大戦初期の頃、兵士が戦闘場面でどのくらい実弾を発砲したかについての膨大な聞き取り調査がなされた。その結果、発砲経験がある兵士は、実際には2割いないという予想外の結果に軍は驚くこととなる。

 一般の兵士ですら、そのようにナイーブな存在なのだ

 そこで、その調査をした研究者は、軍に次のように提案する。

 兵士に実際に実弾を人に向けて発射することに慣れさせるためには、従来の、静止した的(まと)の真ん中を狙わせるような射撃訓練ではもはや意味がない。人型のシルエットを持った標的を、戦場を模した演習場に配置し、突如物陰から立ち上がり、命中したら倒れるという仕掛けにする。そうした標的を相手に反復練習させるなが望ましい....と。

 そうすれば、戦場で人影を観たら無意識のうちにも射撃するという「条件反射」が兵士の中に形成される.....とも。
 
 今日、映画やドラマで誰もがおなじみの射撃訓練のやり方である。


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 こうした訓練の改良の結果、朝鮮戦争時のアメリカ軍の前線の兵士の実弾射撃率は5割に達し、その研究者はアメリカ陸軍から勲章をもらうことになる。

 その後、ベトナム戦争において、一般民衆に紛れてゲリラ戦術を取るベトナム解放戦線相手の戦いの中で、いかに「戦争の大儀」を確信していた兵士でも、一般住民を誤認し、それこそ「条件反射的に」実弾発射、結果的に殺害したことで深刻な罪悪感に悩む兵士が続出する。相手の死ぬときの記憶映像や、近づいて一般住民と確認できたときの衝撃、その死体のむごたらしさの記憶などが、その兵士の脳裏に繰り返し繰り返し「頭に圧入されるように」よみがえることが止めようもなくなるのである。いわゆる「フラッシュバック」である。

 これもまた、高等ほ乳類なら、成熟した後でも、危機的な事態に体験したことだと、たとえ一回であっても身体に刻み込んでしまうという、生存本能に導かれた「刻印付け」なのだ。

 (飼い犬が、一度虐待して来た人間には、二度と決して愛想を向けなくなるのを思い出して欲しい)

 帰国後も、こうした罪悪感とフラッシュバック、突然の感情発作、抑うつなどに苦しむ中で、アルコールや薬物に手を出し、暴力や犯罪行為に走る帰還兵士が深刻な社会問題となる。良心的徴兵拒否者も増加する。

 こうしたベトナム帰還兵問題の深刻化の中で社会に高まる厭戦ムードと反戦運動の激化の中で 兵士の接近銃撃戦を回避し、上空からの爆弾投下などの戦術に切り替えないと、もはや兵士のなり手がなくなるという事態に直面しする。

 徴兵制も志願兵制に切り替えざるを得なくなり、当時独立した働き口に乏しかった女性の兵役志願、更には前線への派遣にも依存するようになる。

 更にアメリカは、トマホークなどのハイテクミサイル誘導兵器による攻撃に戦闘の主軸を移すことになる。

 ある意味で、帰還兵のPTSDが引き起こす社会問題が、アメリカの戦術そのものの変化を後押ししたのである。単なる科学技術の進歩の帰結などではないのだ。


*****


 ところが、9.11テロをきっかけに、戦争の様式が、再びベトナム戦争当時と同じようなゲリラ戦抜きには考えられなくなる。 

 そこで、アメリカ軍は、冒頭に紹介したような、一般人とゲリラ兵士を的確に識別するための、実戦さなからの訓練というところまで戦闘訓練を高度化するしかなくなったのである。

 こうして、母国での軍隊の訓練と現実の戦場との間で「条件付け」のいたちごっこが果てしなく続く。

 しかし、決して兵士による民間人の誤射がなくなるわけではない。むしろ、民間人とテロリストを識別せよということが絶対の軍規として兵士に教育される中で、誤射した兵士の罪悪感とPTSDの症状一層増幅するという悪循環が生じるのである。

 アメリカ軍はPTSDに陥った兵士の治療に力を入れるようになる。

 しかし、あくまでもそれは、そうした実戦経験のある兵士を再び戦場に送り出し、勇敢に戦ってもらうためなのである。

 兵士は、修理しては現場に戻される「ロボット」ななる。

 そうした動きに、精神療法や精神医療の一部も協力する。


 元々非人間的な状況に、あたかも健康人であるかのように適応できることそのものが、まさに歪みの蓄積に他ならないこと。


 ......これは、私が、自身の鬱体験と、鬱状態のクライエントさんとのカウンセリングの中で、深刻に直面した問題である。

 心理療法や精神療法の目的とは何なのか、深刻に考えさせられる。

 誤解なきように言えば、誠意ある治療者の行なう「行動療法」は、このようなものではない。単に自分を思ったとおりに「改造する」ものでもない、ましてや、他者を強制的に、自分たちの思う理想像に向けて改善するものでもない。私はそのことを山上敏子先生の行動療法から学んだ。


*****


 しかし、このドキュメンタリーを見る限り、兵士ではなくて、ひとりの一般市民としての日常の中での兵士のメンタルヘルス、夫婦や家族関係への影響という視点は、セラピー先進国であるアメリカですら、まだ現在手が行き届いていないように思えた。

 こうした帰還兵士の家族問題全体に積極的に介入する「家族療法的なアプローチ」が、ただの一例も、このドキュメンタリーでは描かれていなかったのである。

 現実には、帰還兵士自身やパートナー、子供、老いた親などの個人的な努力でこうした問題を切り抜けている例しか紹介されなかったのである。

(10歳の眼鏡っ娘の少女が、故郷へのお里帰りの際に、飛行機に乗ってパニックを起こしそうな予期不安を抱える母親を細かく気使うシーンを見ていると、私は、こうした「世代逆転」的な形で「娘が母親の母親役」を演じ続けなければならない家族関係は、この娘さんが将来アダルトチルドレンに育ってしまいかねないなと感じて、痛々しかった)

 しかし、そうした個人的な努力には限界がある。

 戦場から帰還して、一歳になる息子に愛情ある態度を取れなくなってしまったことに苦しんでいる母親の例が紹介されていた。公園での散歩の様子も描かれていたが、歩き始めたばかりの子供がちょっと石いじりをはじめるだけで、まるで新兵の行儀悪さをこまめに注意するような言葉をどうしても連発してしまう母親。

 彼女は、そのように振舞ってしまう自分に、本当は、涙ながらに深刻に自己嫌悪している。実際に子供を前にすると、理性ではとても統御できない振る舞いをしてしまうのである。

 しかし、彼女たちは、それを、あまりに不器用な次元での、「話し合いによる解決」で何とかしようとする泥沼に陥っている。彼女らの背後に、家族関係についてまで援助しようとする、専門的な援助的専門家がいる形跡が、全く感じられないのである。

 「愛している」と言葉では伝え、抱き上げる母親に対して、幼い息子の方は、決してアイコンタクトをしないようすが悲惨であった。


 この夫婦は、協議離婚の相談を始めている。

 恐らく、養育権は父親という形での。


*******

 
 日本において、PTSDが引き合いに出される場合、地震などの不慮の大規模災害の被害者や、 残虐な犯罪に巻き込まれた人の心の傷について論じるケースにのみ、ある意味で偏っているように思う。

 アメリカでのPTSD概念の確立の歴史は、第1次大戦、第2次大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、9.11後のイラクヘの介入という、ほとんど途切れることなく続いた兵士の実戦への参加の中で、大量に生み出された帰還兵の精神状態の悪化が、犯罪や薬物汚染、DVを含む家族関係や子供の成長に大きな影を落とすという、「近所にいる誰か、友人の誰かそういう状態にある」という、一見平和な社会の日常に深く根を張った問題に結びついているからこそ、先進的な研究と対策の対象となりえたものである。

 どうもそうした背景については、日本の一般市民の常識のレヴェルには浸透していない。

 日本も、集団安全保障の観点から、自衛隊の海外派兵が更に広がったり、ましてや憲法第9条の改正がされたら、こうしたアメリカ社会の状況は、帰還した自衛官の社会復帰過程でそのまま日本社会でも現実化し、子供の成長から犯罪まで、深刻な社会不安を引き起こす可能性があるという視点など、今日、ほとんど論じられていないといっていいのではなかろうか。

 あえて言えば、海外派兵にほとんどの自衛官が関与しない現状においてですら、戦闘訓練の過程で、自衛隊員の心身にこうした問題が生じ、深刻な家族関係の危機をすでに引き起されている可能性など、あえて言えば、「闇に葬られている」問題のように思われてならない。

 その一端が、自衛隊員の自殺や、隊内でのいじめの問題としてのみ、今日語られているのではないか。

 例えば、駐留アメリカ軍兵士の婦女暴行等の問題を考える際に、もちろん、被害者の悲惨は言うまでもないが、単に「軍の規律を引き締める」ように要請するなどという次元を超えた、こうした深刻な問題が潜んでいる可能性について、論じられた記事を私は読んだことがない。

 ひとりひとりの生身の人間であり、親であり、パートナーの伴侶であり、家族の一員であるという視点から、兵士のメンタルヘルスをとらえ、社会問題として波及していく可能性というシミュレーションに目が届かないまま、戦争と平和について語られることの空しさを、このドキュメンタリーを通して感じた。


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 昔、日本でも欧米でも、そうやって戦場でのトラウマで戦闘能力を失う兵士は、「根性なし」で「精神が弱い」人間であるとして蔑まれていた。

 実は今日においてもかなりの程度そのように思われおり、それは、子供や、企業で働く「戦士」としての、サラリーマンたちの不適応問題においても、無意識のうちに陥りがちな偏見であるように思われる。

 しかし、実は、そういう社会の中で一見適応的にやれて「生き残って」、見かけ上平穏な暮らしを送っている子供や親たちによって構成されている家族においても、隠れた形でそのひずみは蓄積して、さまざまな問題を引き起こしている可能性が高いだろう。


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 以下は、この番組を見た、アメリカへの留学経験がある知り合いから昨晩聞いたことである。

 その人は、ホームステイ先の近所に、同じように外国からの留学生(日本人ではない)のホームステイを受け入れている家庭があり、その留学生や、オーナーの家族ともつきあいがあったそうである。

 その友人の留学生のオーナーご夫婦は、二人とも退役した軍人であった。もっとも、戦場に出た経験はなかったという。

 夫妻は、たいへん親切でないい人たちではあったが、家に、十数丁ものライフルや銃が、人目に触れるところに陳列されていた、そして、当時まだ小学生低学年ぐらいだった男の子へのしつけの際の言動や教育方針が、何か「大人じゃあるまいし、そこまでこの年齢の子には理解し、やらせるのは無理では?」と、一抹の違和感を感じていたという。

 私の知り合いがアメリカから帰国して数年後、その留学生からのメールで、思春期になったその男の子が、自宅に並んでいたその拳銃で自殺したことを知らされたという。


*****
  

 これはひとつの例であるに過ぎない。引き付け過ぎかもしれないが、戦場とは無縁で、一見問題がない両親であったとしても、兵士の家庭に、こうした「PTSDにならないままサバイバルできた」がゆえの、さりげない歪みが蓄積され、子供の成長に大きく影響していることも少なくないのではないかとも想像させるのである。 


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 なお、このNHKスペシャルの前に、2008年8月にBS-hiで放送していた「兵士たちの悪夢」というドキュメンタリー番組に関して、モラルハラスト問題のカウンセラーである惠美さんが、ご自身のブログで、モラハラの家族力動と兵士のおかれた状況を比較する形で、たいへんまとまりのいい考察をなされているので、ご紹介します。

●録画してあった「兵士たちの悪夢」というドキュメンタリー番組をやっと見た (カウンセラーママの日々つれづれ)

 私は、この惠美さんの記事に触発されて、今回のNHKスペシャルを観ました。

 ここに感謝申し上げます。


 更なる追記が、自己レスコメントとしてこちらにあります。


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※ なお、私の専門とするフォーカシング技法とトラウマ治療に関しての序論的な紹介が、

●フォーカシングとトラウマについて
(The Focusing institute日本語版公式サイト)
http://www.focusing.org/jp/jp_trauma.htm

で読めます。

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2008/06/20

「見せしめ」死刑執行は20-40前後の人間の自殺者を増やしかねない(第4版)

宮崎の死刑の是非は置く。

死刑論議にも関与すまい。

ただ、このタイミングでの「死刑執行」が(すでに言われていることらしいけど)秋葉原の事件を受けての、早速の「見せしめ」効果を狙ったと受け取られてもおかしくない(少なくともそう受け取られる可能性が高いことを承知で出さないとすればおかしい)あたりを「うさん臭い」と思うのは全く自然なことと思います。

はっきりいって、それを狙ったとすれば、現代日本とは、何とも「野蛮な」仕方で治安を守る、中世前期ヨーロッパの異民族との戦争クラスの前近代的な社会でしかない。

今は「モーロ人」と戦ったシャルルマーニュやエル・シドの時代ではないのである。

「異民族」に新たに虐殺された見せしめに、ずーーーっとロンドン塔かバスティーユに監禁していた「その異民族」の「有名人」を公開処刑したようなもので。

何か、最近の「正論」って、ものごと割り切り過ぎて自分もその正論の犠牲者になる可能性を考えてもいない気がする。

そこで政府の政策(あるいはポピュリズム的世論)の支持をしても誰もそのぶん自分たちを助けても援護してもくれないよ.....といいますか。


ユングの「影」や「相補性」の概念を持ち出すまでもなく、


「私は『あいつ』のような人間ではない」


という論理よりも、


「自分の中にも『あいつ』と同じようなところがある」


という感覚がある人間の方が,結局は強い
気がしてね。

*****


かつて、東京埼玉幼女連続誘拐殺人事件で宮崎が逮捕された日の報道が「おたく差別」になる危険を、逮捕の当日の夕刊を各紙買い占めて読んで、その晩のうちに朝日新聞「声」欄に投書し、数日後掲載された人間として。

私は、あの投稿をしたその日から、自分はカウンセラーだから彼とは異次元だ、なんてただの一度も感じたことはない。

もっとも、宮崎のことを「多重人格」という方向で鑑定しようとした人たちは、精神医学の中で蓄積された「多重人格」という診断の価値を「安く」してしまった張本人だと思う。

ちょっとした臨床家なら、あそこで「多重人格」の診断を持ち出すことが「あまりに素人臭いアマチュアリスム」の次元だと気がついた筈だ。

精神医学の世界ですら、明らかに診断に「流行」がある。

鬱病は古代ギリシャから普遍的に観察された病だが。


いや、およそ社会に置ける新しい概念は「過剰使用」されたあげくバブル崩壊して見事な値崩れを起こす。

何でもかんでもその概念を当てはめるうちに、別のものに化けるのだ。

「地球温暖化」や「グローバリスム」ですら、20年後には陳腐な概念として振り返られるかもしれない。

いつの間に「アダルトチルドレン」は差別語になったの?

*****

すでに公開されている情報から見る限り、彼には責任能力はあったと思う。ただ、拘置の過程で抗禁性精神病状態に入っていた、あるいは、いろいろな人が勝手にいろんな診断をする中で、彼自身がそれに振り回されていよいよ混乱していった(あるいは彼の中のよこしまな心を更にかき立て、更に邪悪にした)可能性は否定できないだろう。

敢えていうが、彼がこのタイミングで見せしめ的に死刑執行されたことで、実は、45歳前後以下の世代のマジョリティすら持っている危機的な「何か」が一緒くたに「葬り去られた」気がする。

法務大臣は、今後仮に無差別殺人は減ったとしても、20代から40代の自殺者はぐっと増えかねないことをやらかしている気がしてならないのね。

オイルショックの頃、石油に限らず、世界中の資源がまるで21世紀初頭にすべて枯渇してしまうみたいな「政府公報」が繰り返し流されていたことを忘れない世代として。

「それが世界の潮流である」

ということは、その潮流に乗っていたら社会がうまく行くこと、自分も生き残れることはみじんも意味しない。

30年スパンで見たら、笑いたくなるくらいに「世間の常識」は変動しているということ。


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宮台さんが自分のブログで、


●公共機関のために準備中の文章です。誤りのご指摘やご意見をお待ちします。(MIYADAI.com Blog)
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=652

として載せている原案、「社会包摂性」ということがキーワードとされています。

宮台さんなりに、最近の状況について、単に「評論」するのではなく、社会的に「コミットメント」しようというスタンスを感じます。

「フリーター」という言葉に変わって「ワーキングプア」という言葉が一般化するまでに、実は2年もかかっていないということ。

少なくとも20代後半から40代前半ぐらいの世代って、誰からも具体的な処方箋を政治水準では提案してもらえないまま、責められるばかりになっている気がします。

それを超えていくパラダイムを日本社会に提示しようとしているだけで、その心意気は買いたいですね。


******


恐らく、私の世代は、実の親が、単に「銃後」ではない、大陸での戦争の現実を体験し、背負いながら戦後を行きてきたことを肌で感じている最後の世代かもしれない。

団塊世代よりも前の世代の「戦争体験者」感覚が、自分の中に濃厚に生きているのを感じる。


私の祖父は、関東軍の軍属で、ソ連の戦車におわれて引き上げる中で、何か非常に不透明な状況下で「殺されて」いる。父も銃で死んだ死体しか観ていない。

父親の兄のひとりは、現地で徴兵され、阿片窟で死んだことは歴史資料からほぼ確実らしい。(父親が長年かけて史料を読みあさり、執念で突き止めたようだ)

「阿片窟」で連想する映画といえば「ラ・マン(愛人)」ですが。

生き残った父と祖母は、昭和21年まで1年間大陸で生き延びた。

その優しくも気骨があった祖母こそが、私の中にある親より上の世代の「原像」であり、私の高校時代までの人格形成に大きく影響していると思う。

引き上げた先の福岡の実家は、東京生まれですぐ大陸に渡った父にとっては「故郷」ではなく、「異郷」だった。

私は,私なりに父親の身体に染み付いた「闇の部分」を引き継ぐだろう。


******


昨日、「愛と哀しみのボレロ」(Les Uns et les Autres)を実に久しぶり(恐らく20何年ぶり)に、しかも完全版で観た。

私の大学学部生時代の映画。

原題と邦題が全然ニュアンスが違う映画としてマニアには知られているかと思う。

"Les Uns et les Autres"って、英語でいえば「"THE WE"and"THE OTHERS"」というあたりか。 直訳だと「私たちと他人」あるいは「俺たちとあいつら」ってとこ? 

実は作品の中で繰り返して出てくる歌のタイトルでもある。


 自分たちと他人
 自分たちと他人

 お互いが他人なのに
 尽くす人は少ない

 理屈ではわかっていても
 救いを求める声を聞き流す
 他人のことを聞き流す

 人は皆平等だけど
 特別大事な人もいる

 ジョージ・オーウェル言うとおり
 他人は他人
 他人は他人
 


 私が学部学生時代に読んだ、反精神医学の旗手、イギリスのR.D.レイン「自己と他者」っていう本(私がレインの本の中で一番親しめた本)のタイトルも連想するけど、これはあながち思い込みではない気がする。


DVDは完全版ではない3時間10分ほどのもの。現段階でVHSビデオ2巻組の中古でしか観れない完全版は4時間です。ビデオの画質は「凄く良好な」部類と思いますよ。DVDにダビングしても良好な画質保てます。ブルーレイ時代の本格突入待つしかないか? 入手難の作品です。

参考までに。確かPart1のビデオが冒頭の予告編付きで2時間25分くらいでヌレエフ(がモデル)のソ連ダンサーのパリ空港での亡命シーンまで。Part2のビデオが2時間6分です。

これ、カラヤンとヌレエフとピアフとグレン・ミラーをモデル(といっても史実とはいろいろ違うが)にした4家族の歴史が交錯する大河ドラマ、というくくりかたが紹介でよく使われるけど、実は完全版まで観ると、ベタン政権とナチ占領軍にゴマをすって戦後一転して転向して大物になった人物とその娘やら、アルジェリア戦争帰還兵という無名の男性4人とそれに絡む男女関係やら、実は「有名人」ではない人々を含む、合計8家族が緻密に織りなす(ひょっとしたらフランス人だとモデルとなる人物がもっといろいろ思い当たるのかも)からこそ面白い、よくこれだけの人数の登場人物の関係を緻密に統合できたと感じる、実に厚みのある大河ドラマなのだ。それが本来のこの映画の持ち味。

少なくともカラヤンのナチとの関係やヌレエフの亡命事件ぐらいは自明の教養水準として要求されるけど、あとはフランスのベタン政権(ヴィシー政権)アルジェリア独立戦争ノルマンディ上陸作戦についての世界史の教科書クラスの知識があれば、この作品を味わうのに何も困らないと思う。

これは完全版で2回ぐらい通して観ると、どんどん味わい深くなる映画だと思います。一回観ただけでは登場人物の互いの絡み、とらえきらないし。

クライマックスの、ベジャール振り付けの、今は亡きジョルジュ・ドンのカリスマ的な「ボレロ」シーンだけがひとり歩きしているけど、このシーンにすべてが結実するこうした数多くの登場人物の歴史こそが本題。いわばその収束的救済のための「虚構の祝祭」がクライマックスということにあるわけで。


*****


この映画に「我がことのように」共感する感性を、現代はもはや失いつつあるのだろうと感じる。


すっと以前の映画だが、私は、「日本の一番長い日」も「白い巨塔」も子供時代に鮮烈な印象で同時代的に観た世代である。


******


何か脈絡が散文的になってしまったが、

ここで書いたことの中に、恐らく今後の私の人生を決める、何かが含まれている気がする。


続きはこちら

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2008/02/15

私がカウンセリングを受けたい人は誰か?

 私も、ある意味で、精神分析を「仮想敵」にして書いてしまっていることは自覚しています。

 他ならぬフォーカシングそのものが、ある種の「島宇宙化」の弊害を抱えている。ただ、「フォーカシング指向心理療法」が、意識的に、すべての流派のアプローチに開かれた心理療法であることを標榜しているということです。

 このあたりは、まだ一般にはよく知られていないかもしれない。ジェンドリンの「フォーカシング指向心理療法」の下巻を読むと、そのスタンスがよくわかります。行動的アプローチ、認知的アプローチ、解釈的アプローチ、ゲシュタルト的アプローチ、夢へのアプローチ、身体に直接働きかけるアプローチ、もう「エンジン」はなんでもありであり、その「エンジンオイル」がフォーカシングなのだという徹底。

 ただ、治療者の逆転移の処理というところまでは、この本でも踏み込み不足。

 ここから先は、ジェンドリンも未踏の領域。

 私はこの本を読んでから10年近く、その領域を前に進めることにエネルギーを注ぎ(その結果、バリントやウィニコット、オグデンの「第3主体論」について、更に深く読み込む必要が生じました)、そこに実践水準ではすでにおおよそのめどがついたので、今は認知行動的アプローチによる適用へ、主なる関心を移しています。

>もし自分自身が神経症やうつ病になったときには、○○さんやこういちろうさん自身はどういうカウンセリングなら受けてみたいと思われるのかな。

 これ、私にとっては「仮定の問い」ではありませんので(^^)

 前の職場をやめたのが、欝のためであることは公言しています。おかげで「薬物療法」を生かすにはどうすればいいのかについての経験値が一気に上がりました。

 その過程で「某派の」国際資格を持つ人(個人的関係は皆無だった先生)に、一年カウンセリングも、一クライエントとして受けていますよ。

 そういう中ではっきり感じたのは、「心理療法は流派と無関係」という強烈な思いです。

 そこそこいい先生なら、セラピストは誰でも「利用できる」(^^)

 そして、私が最後に頼ったのは、他ならぬ私自身の一人フォーカシング能力を極限まで磨き上げることでした。

 私は日本のフォーカシングの領域の頂点のひとりですから(このことをさらりと口にした方がいいなと最近感じてます)、フォーカシング関係者にセラピーを受けることは、あまりにも「政治的問題」であり、関係性の次元での厄介な問題がありすぎるのです(^^)

 それでも敢えて心理療法を受けてみたい人の名前を挙げれば、村瀬嘉代子先生山上敏子先生でしょうか(^^)


*****


・・・・・・恒例、セーイチさんの「発展途上臨床さいころじすとの航跡blog版」のエントリー、「外れた解釈」(すでに119コメント)への私のコメントからの転載。

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2008/01/18

こういちろう学習障害あるいはADHD、あるいは「星の王子様」説(第2版)

 「この人ADHD(注意欠陥障害)? それとも学習障害(LD)かしら?」


 恐らく、このサイトをご覧いただいているカウンセリングの専門家の中で、ほんとうに勉強されている方は、そういうことをお感じの方っていると思います。

 さすがにもはや「躁うつ病」しかでみないようなら、現代臨床心理学におけるアセスメント能力としては欠陥が多すぎる(爆)

 そして、ここまで書いてきたら、そして、写真まで公然と掲載しているから、体型も資料になるわけで、私のベースが、どう見ても、クレッチマーのいう「躁鬱気質」からほど遠い(全然社交的ではないものね、本来は)こともおわかりのはず。

Ann_weiser__and_koichiro

 でも、人間は大好きだし、冷たい人間ではない(むしろ無茶苦茶ホットでハートフルな)ことも伝わってると思うし、体型も根っからの細身ではない、むしろ肩幅が広い、ずんぐりむっくりであることもわかるでしょう?(私の師、村瀬孝雄先生は、立教の研究室に私を迎える直前、他の院生に「今度来る奴は柔道の選手みたいな体型をしている」と事前に伝えていた) 。そうなると、分裂気質説も不十分(30%は分裂気質でしょうけど)


++++++


 そうなると、残るのは、てんかん型、あるいは闘士型といわれる執着気質、ないし中心気質と呼ばれるものですね。これについては私の古くからの知り合いで、私の「エヴァ」本プロデュースをはじめとしていろいろ引き立ててくれ、著作も凄く多いどころか、近年はTV出演もなさる、同じ開業カンセラーの矢幡洋さんが、「『星の王子様』の心理学」で書いたことがあまりに私にもあてはまります。

 (ちなみに、私のもうひとつの古くからの大事な人脈が、「あの」NHKアナウンサーを奥様にした、テレビでもおなじみ、文化人類学者の上田紀行さんです)

 人と、むしろ開けっぴろげまでに胸襟をひらいてつきあいたい。そして、「星の王子様」に出てくる薔薇のような女性の側面は嫌悪してますしね。女性のそういう側面に媚を売ることは死んでもするかと思っている(このことを肝に銘じていたら、私とつきあいやすくなるよ、女性のみなさん)。

 そして、圧倒的なまでのひとつの対象への持続的集中力としぶとい職人性。気難しさ、「瞬間湯沸かし器」、一種恍惚とした超越的世界に一瞬にして突き抜ける側面(空海さん)、そして、好戦的なところ、とくれば、むしろいよいよ『闘士型』こそベースとわかる。

 時代が違えば、私は宮本武蔵か、それこそ、中世スペインの英雄「エル・シド」なんです。

 あるいは、現代なら、言うもはばかれるけど、イチロー中田!! 


 だから、「お通さん」や「ヒメナ(エル・シドの妻。映画のソフィア・ローレンですね。この人、ホントにエル・シドの死後、2年ぐらいはバレンシアの領主を務め上げたくらいに「できた」人だったみたい)のような女性を心の中でずっと求めている(「イカ天」の頃の、イチローの奥様、もう、最高に好みの女性でした!!)し、そういう女性たちをほんとうに苦しめかねない。

 すぐに旅立っちゃたり、人質に取らせたり、やりかねないので。自覚してます。この点で女性に負担が大きいのは。

 でも、今は政略結婚やお世継ぎのためにで妾を増やす「現実的必要」ないでしょ?
 ほんとうは、すごーーーーーく、一途ですよ!!!


******


 ......となると、まずADHD(注意欠損障害)仮説はちょっと似合わない。確かに話題は次々飛ぶけど、私って、実は何を「話題」にしいていても、実は、手を換え品を換え、同じテーマを追求しているということは、すでに常連の読者の方はお気づきかと思います。

 学習障害仮説は肯定します。テスト用紙に向かいさえすえば、業者テストの国語は学年一、社会科も、普通に勉強して業者テスト全国上位、共通一次試験第一期生で国語自己採点198点。

 一方、数学は、幾何など、空間認識が関われば、あるいは「集合論」(記号論理学って、実は「集合論」との親和性が高いのは、学んだ人は知ってますよね!)には、ついていけたばかりか、ある種のセンスがあったけど、要するに微分・積分・方程式の世界を全く理解できない永遠の学年最下位


******

 もっとも、ほんとうの学習障害の人って、この程度のものではないことは、先日の研修会で笹森理絵さんのお話に接して、よくわかりました、彼女の100倍希釈に過ぎませんね。私の学習障害度は。


*****


 いずれにしても、これで私の今年の恋愛の抱負、「とことん高望みしてみる」の真意が少しつたわりましたよね。

「その人を自分が苦しめ、傷を負わせないかとうか、十分に吟味し、少しずつ交際を深める中でお互いを理解していく。できるだけいきなりセックス(セルクス)しない(爆)」

ということ!!

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2007/08/24

「怪談」の感想

 私は同じ中田監督の「リング」は観ていないのだけれども。

 まず一声。

 意外と怖くなかった(^^;) 

 豊志賀事件に絞り込んだことは、現実的に見て、やむを得ないだろう。

 映像は非常に美しい。ただ、私からみると、何か「クリーンアップされた」美しさ。

 俳優の演技も、適者適役。
 ayuのエンディングも映画に綺麗にはまっている。

 しかし、何か"something"を感じない。


*****

 ひとつ目としては、何かわからんけど、豊志賀(黒木瞳)と新吉(尾上菊之助)の出会いに、「突然の出会い」というより、「出会わせた」といいたくなるぎこちなさを感じるのである。

 原作では、豊志賀は男を遠のけるタイプとして明晰に描かれている。しかし、映画では、なぜこんないい女が旗本や大商人のお妾なんかにさせられずに済んでいるのかようわからんような(^^;)。映画ではどっちかっていると、豊志賀の方が積極的に新吉を誘っているようにも私は感じた。

 あと、お賤(瀬戸朝香)がただの悪女になっていて(瀬戸朝香は非常にはまった演技をしていて、彼女のせいでは全くない)、新吉と腹違いの妹であることを知っていて、しかも最後は生き残ってしまっていると受け取れる描写。ラストを盛り上げるためには、ああいう大立ち回りが必要だったのはわかるのだが。

 まあ、こうしたことは、原作を知っているから気になるのかもしれないが、私個人は、どこかで、恋愛というものの背負った「影」を、もっと人間の「業」を背負ったもの(男も女も)と感じていて、怪談というものを、もっと背筋が寒くなる泥臭いものと感じているからかもしれない。やはり、ホラーと怪談は何か別物ということか。

 あるいは、私の方が、子供の頃テレビでその種の作品を見た後何日も続く、電気を消して眠れなくなったり、暗がりが怖くなったような、そういう「怖さ」のようなものを再体験できることを、期待しすぎてしまうのかもしれない。

 意外にも、そういう次元での怖さは、「となりのトトロ」の、サツキがメイを背負って、停留所でまっているシーンとか(稲荷のおキツネ様の石像とか)は、実感として思い出させてくれるのである。 

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2007/08/13

朝青龍の「精神面」ケア

●朝青龍、精神面ケアの医師を一本化=大相撲(msn=時事通信)

 他の記事によれば、彼を「自宅謹慎」処分にしているわけではないことを、今日文部省に広告したそうで、私もその点では誤解していた面がないとはいえないかもしれない。

 もっとも、彼の家の前には報道陣びっしりだろうから、心身が相当不安定であれば、とても外出する気にはならないだろうし、記者会見よりも治療を優先する方向は的確だろう。

 この前ASD(急性ストレス障害)と診断した協会指定医に、今後診断と治療を一本化するにしたことは、納得できる。どうみても一人めの人の専門能力は疑わしいので。

*****

 ただ、些細なことに見えるかもしれないけど、「精神面」のケアという言葉に使い方には用心したほうがいいと思う。

 恐らく、「身体の故障そのもの」と区別する観点から、こうした言い方がなされているのかもしれない。それは想像できるし、やむをえない言い方かもしれない。

 しかし、うつ病にしろ、ASDにしろ、(今回の例では当てはまらないにせよ)統合失調症にせよ、およそ「精神だけの」病というものは多くの場合存在しない

 一見古臭く見える「神経の」病という言い方には言い得て妙な一面もある。つまり、神経系というのは、身体のすべての働きを統括しているわけで、多くの場合何らかの身体症状も随伴する。むしろ全身の症状の一部が精神症状といってもいいくらいである。

 たとえば欝状態の場合、その障害は身体機能に及ぶのが普通である。睡眠のみならず、食欲の低下(これは、この前の記事でも書いたように、むしろ、おいしいという感覚の衰弱から、むしろ過食を導き出すこともある)、疲労しやすさ、更には免疫力の低下すら引きおこす(これは、いわゆる「似非科学」の免疫力の話題とは次元が異なる)。

 そのため、皮膚に吹き出物が出たり、一度何か他の身体病を起こすと、通常よりも不可解なまでに治りにくかったり。それどころか、虫歯末期の治療において、神経を抜いた後の膿が、歯科医から見ても、本人から見ても、不可解なまでに止まらない(たとえば一ヶ月以上)ことなどありふれている。

 以前にも神田橋先生の名言として引用した、「こころは病まない」というのは、いわゆる「精神疾患」が、さまざまな「身体症状」の一面であるに過ぎないことを指していわれた逆説である。

 身体のケアがこころのケアという側面があるのである。それを神田橋先生は「養生」とよび、重篤者への心理療法への誘惑への戒めとしたわけです。こうした考え方は、中井久夫先生にもあるし、多くの精神科医がこころえているところです。

 身体までどうにも思うに任せなくなるから欝なわけです。信頼できる人との対話などは、重たい欝でもできることも多い。むしろ、そういう時「だけ」、その人なりに、一番元気になれるものだったりします。このあたり、まだ世間では「引きこもり」と「欝」の違いが浸透していない

*****

 私は、相当量の抗うつ薬の処方が必要な頃すら、ネットでは今よりも多くの文を書けていた時期があるし(ここではなくて、別のクローズドなメーリングリストですが)、カウンセリングもまったく滞りなくできていたのです。限られた時間なら.....ですが。

 おかげで、そういうさなかに、カウンセラーからも(!)「お元気そうで何より」といわれることも多くて、「なるほど、そんなふうに見えるんだ」と、カウンセラーとしても勉強になりました(^^;)。何しろ、「どうして午前中の催しには出てこないのだろう?」.......あの、「日内変動」って知りません? カウンセラーも、ある水準以上の欝の世界は、リアルには知らないんですよね。自分の体験だけに引き付けるのは間違いの元と知りつつも、やはり私の「肥やし」になっています。

 ここぞと決めた限られた時間に人と対話できる以外は、日常のことがほとんどできずに、ひたすら横たわっていないと全くもたなかったのに。

 カウンセラーとして、専門家として、自分を見つめるもうひとつの視点が冷然としてあるから、何とか自分を支えられてきたのが、私の「業」のようなものですね(^^;)。「うわあ、これが『希死念慮』か、なるほど!」....とか、冷静な「もう一人の自分」がいましたから。わずかな使えるエネルギーの配分にも、専門家的な用心をするわけで。

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2007/08/11

幽霊より人間の方がコワいかも -真景累ヶ淵-

 「真景累ヶ淵」、園朝の原作、やっと読了しました。

 映画、私は、これから一週間の間に観るだろうと思います。

 原作と、映画「怪談」の異同については、王子のきつねさんサイトで、実際にご覧になった上で、詳しく解説されています(もろ、ネタバレです)。

 これを読んでも、観る価値ありかなと思いました。ayuが主題歌を歌う映画を実際に観るのは、アニメも含めてはじめてですが(実はテレビの「犬夜叉」のエンディング=ayumi hamasaki - I Am... - Dearest"Dearest"すら観た記憶なし)。

 つまり、ayuのエンディングとは自立して、ある水準の映画だと、公式サイトの予告映像ともつきあわせて想定できるから。描く部分は描いているのはほぼ間違いなかろうと。私、同じ中田監督の「リング」も観てませんが。

 なお、映画の脚本は、劇場アニメ「時をかける少女」と同じ、奥寺佐渡子さん。「時かけ」では、心情表現の自然な流れに卓越していたけど、今回はいかに?

 原作を読んで感じたのは、特に後半の方、豊志賀と新吉がいったん物語の表舞台から引いて以降の人間関係が(内容はおもしろいけど)複雑になっている。映画ではそのへんを思い切って切っているようで、映画は原作以上にホラー色が強まっているようだが。実は原作は意外なくらいに「幽霊話」の側面は強くない。

 むしろ、コワいのは、生きている生身の人間の方である(^^;) 愛欲と金銭が絡んだ時、どれだけ人間が醜くもあり、残酷な存在に豹変し、次々ととんでもないことを実行できてしまうか。改心というものがいかに長続きしないか。それらが、江戸時代という時代背景の中で、泥臭いまでに描かれていく。

 そして、ひとり芝居としての長編落語が、そもそも脚本のような側面があり、ビジュアルなイメージを喚起して読むと、まさにミステリーやアクションすら含む素材として、いかに映画化への誘惑を喚起するものであったか。

 余談に近いが、映画では全然登場しない、花車重吉という相撲取りだって、今の映画技術を使えばリアルなアクションを描けるだろうか、そこまで描いたら映画としての見通しのよい構成を失ったろう。時節柄、朝青龍がこの役をやったら、人気回復になったかもしれない(爆)。 でも、当時の物語の世界では、剣術使いと並んで、今日で言う超人的アクションヒーローの役割を負っていて、それこそ「ひでぶ」「あべし」の描写の連続になってしまう。この相撲取り、善玉なのだが、この「残酷なまでの破壊力」のあたり、朝青龍に向いていたかも。

 ともかく、日本の古典にナマに接する上での入門としても、おもしろい切り口になるかもしれない。注釈全然読まなくても何も困らないし。現代語のルーツが、その頃は今と少し違う意外な形で使われていることに読みながらすぐに察しがつく場合も多いし。

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2007/08/04

「真景累ヶ淵」、読み始める。

 以前も紹介しましたが、公開された映画「怪談」(監督:中田秀夫 主演:尾上菊之助・黒木瞳)のテーマソングがayu様の浜崎あゆみ - glitter / fated - EP"fated"なわけです。

 この映画の原作は、初代三遊亭圓朝の怪談噺(ばなし)、「真景累ヶ淵」(しんけい・かさねがふち)です。

 王子のきつねさんが、この怪談噺の背景にある「羽生村事件」について、実に詳しくレポートしてくださっています。(ここからどうぞ)。私も原作読み始めて、映画に予定されている範囲まで「踏み込んだ」ところ。

 基本的に、円朝の高座の筆記録ですから、言葉遣いは平易です(明治20年頃の文字起こしなんですよ)。岩波版は現代仮名遣いです。現在とはいろんな意味で言葉の使い方が違いますが、それは注釈なしでも「勘」で意味が汲める範囲ですから、古文・文語が苦手という人も特に困ることはないでしょう。

 映画的表現としてはさぞ「こってり」やりたいシーン(幽霊だけでなくて、男女の機微や濃厚ラブ・シーン)とかは、原作では実にあっさり描写されてますので、映画でそれをどう描くかという「予習」的に読むのもお勧めです。

●「怪談」公式サイト

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2007/04/24

犠牲

 今の私の心境は、

戦場で多くの部下を死なせてしまい、遺された遺族ひとりひとりを弔問して、

「あなたのお子さんを戦地から連れ帰ることができなかった私を許して下さい」

と、深々と頭を下げて回っている上官のような心境である。


 文句なく私のフェルトセンスにぴったりのイメージとして突如浮かんだのだが、

 浮かんだ直後、

 「これって、現実の軍隊であり得ることなのかな?」

と、気がついた。

 そんなシーン、ニュースでも、映画でも観た記憶が,具体的には思い浮かばないので。


 そして、

 「あなたの息子さんはお国のために立派に戦って死にました」

などど「本気で」言える上官がいたとしたら、「おかしい」ことに気がついた。


 だから、退役したら、死んだ部下たちの犠牲を背負いながら、世間の第一線から退き、ひっそりと「隠れて生きる」心境に達するのが自然とも思えた。


 もとより、ここでは戦った相手の国の人間を殺傷したことのもつ意味のことは度外視した、ある意味でとんでもない比喩だというのはわかっている。


 でも、戦争とは、自分の国の若者を「殺す」行為である、という「定義」をしてみるのも意味がある気がする。


 そして、これを通常の組織に置き換えるならば、

 部下の労苦と犠牲のもとに事業や活動が成功していることへの感謝の気持ちを持ち得ないリーダーというのは、あってはならないものだろう。


 .......こうなってくると、一見あたりまえのことを言っているようだが、

 冒頭に述べた、遺族に一軒一軒頭を下げて回る指揮官のイメージの鮮烈さは、忘れないでおきたいと思う。

 なぜ、それが自分の実感にぴったりなのか、理屈ではまだ、まるで説明がつかないのだが。

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2007/04/03

今敢えて、ayuの"I am..."について(第2版)

浜崎あゆみ/ "I am..."(AVCD-17037)浜崎あゆみ - A BEST 2 -BLACK- - part of Me

1. I am...
2. opening Run
3. Connected
4. UNITE! "Original Mix"
5. evolution "Original Mix"
6. Naturally
7. NEVER EVER "Original Mix"
8. still alone
9. Daybreak
10. taskinlude
11. M "Original Mix"
12. A Song is born
13. Dearest "Original Mix"
14. no more words
15. Endless sorrow "gone with the wind ver."
(シークレットトラック)."flower garden"


 ayuの4枚目のフルアルバムCD。

 ベートーヴェンの音楽的変遷について、「エロイカ的跳躍」という言葉がよく使われる。第3交響曲、「英雄」が書かれて以降のベートーヴェンの作風の大きな変化のことを指すわけである。

 それとの比較でいえば、浜崎あゆみのアルバムの歴史には、「”I am..."的跳躍」という現象が歴然と存在した、というのが私の理解であり、実にいろいろな意味で、ayuが思い切って新たな方向性を打ち出した、記念碑的アルバムであると私は考えている。


****


《寄り道》:「英雄」交響曲の、私の好きな代表的名盤として、全く異なるタイプの3つの演奏を掲げておく。

 一つ目が、「ウラニアのエロイカ」として知られるフルトヴェングラーの1944年の歴史的演奏。刻々と変化するテンポ、曲の高揚と沈静が完全にめくるめくドラマとして完結する、奇跡の完成度の白熱のライヴ。なのに、フルトヴェングラー自身が、戦後、レコード化したアメリカのウラニアという会社を相手に訴訟を起こして販売中止に追い込み、ソ連で勝手に発売されたLPが高値で取引された時代を持つ、曰く付きの録音。しかし、そういう「幻の名盤」のオーラをはぎ取って、容易にCDを入手できるようになってかなりたっても、この演奏の「伝説」は今も一向に衰えない。私は、そんな有名な演奏とは全く知らないまま、最初に聴いた演奏がいきなり「これ」でした。これはたいへん「やばい」事態というか、この曲は「こういう曲」だというイメージが私にできあがり過ぎているのである。実はベートーヴェン演奏で、フルトヴェングラーのものを本当に私が別格視するのは、これと、コンラート・ハンゼンをビアニストにした、「ピアノ協奏曲第4番」のみです。「バイロイトの第9」にすらごだわりはありませんので。

 ワルター/コロムビア管弦楽団

 怒濤のごとき灼熱のフルトヴェングラーとは正反対。ピュアーでヒューマンなロマンあふれる演奏。それが、アメリカのオケの響きのヨーロッパ的ではない側面を補ってあまりある演奏。すでにステレオ録音の時代に入っています。

カラヤン/ベルリン・フィル

 カラヤン3回目の全集のもの。ひたすら流線型で快適な響きですが、意外かもしれませんが、フルトヴェングラーでないとすれば、ここまで「逆に徹底的な」演奏を私は好んで聴いてきました)。


*****


 では、"I am...."的跳躍とは何か?

 それを的確に短い言葉で表わすことは難しい。

 確かに言えるのは、この跳躍を果たす直前の曲が、3rdアルバム"Duty"浜崎あゆみ - A BEST 2 -BLACK- - part of Me制作時に最後に作られた、独創的な名曲、浜崎あゆみ - A BEST 2 -BLACK- - part of Me"SURREAL"であり、"SURREAL"が、ayuにとって、「敢えて崖っぷちから飛び込む踏み切り台」というべき曲だったということである。

 "SURREAL"の次のリリースが、当アルバムに収録された"M"である。この曲からしばらくの間、ayuは唐突に、CREAという名前で作曲も手がけた曲を立て続けに連発する。

 アルバム"I am..."にも、「すべての作詞・作曲 浜崎あゆみ」と明記されているが、厳密には、専門の作曲家との共作の曲もあり、そして、唯一の例外として、小室哲哉の単独作曲による”A Song is born”も含まれている。

 この、CREA作曲の曲をどうとらえるかは人それぞれであろうが、私は実際には普段はほとんどそのことを意識しない。誰に作曲してもらおうと、ayuの歌には如実にayuの刻印が刻まれているとしか思えないからである。

 しかし、この時期、自らが曲作りを主導するリスクを背負う中で、ayuが自己の作風の変化と「進化(それこそ"revolution")」を一気に突き進めたということは間違いないだろう。

 こうして、"M"→"evolution"→"NEVER EVER"→Endless sorrow→”unite!"→"Dearest"までリリースされ、その時点ではじめてアルバム"I am..."の制作に取り組んだようである。

 実は、ayuのアルバムで頻繁に見られる現象は、そうやってシングル(マキシ)リリースされた曲と、アルバムで新たに発表された曲に、すでににある「ステージの違い」があり、その「ステージの違い」の中に包含された形で「アルバムの構成曲」先行発表の諸曲を改めて聴きなおすと、曲のイメージそのものが様変わりして受け止められてしまうことが多いということである。

 このことは"Duty"の場合にも言えることで、わかりやすくいえば、"vogue""far away""SEASONS"という「絶望三部作」と、それ以外の曲ではすでに「ステージ」が違い、"End of the World"""audience""duty"などといった曲は、確かに"SURREAL"と"M"との間に重大な跳躍があるものの、むしろ"M"→"evolution"→"NEVER EVER"→Endless sorrow→”unite!"→"Dearest"までの漸進的な変化過程の脈絡でとらえる形で、敢えてアルバムを超えて「ひとまとまり」のものとしてみてみると興味深いところがある。

 すでに多くの人に語られてきていることではあるが、"I am...."期のayuに特徴的なのは、「ロック指向の顕在化」である。これを、私は、ライブコンサートをきっかけとして、恒常的バンドメンバーとして、小林信吾氏のみならず、よっちゃんとエンリケという日本を代表する二人のギタリストを活用できるようになったことがひとつには影響していると私は考えているが、もちろんそれだけではないとは思っている。

 いずれにしても、この「テクノからロック指向への大胆な切り替え」は、実際にはアルバム"Duty"の"End of the World"にはじまっている。この曲はその年のカウントダウンでしかステージに載っていないが、身をよじるような赤裸々なインパクトがある、シンコペーションリズムが研ぎ澄まされた、独特の「怖さ」を秘めた曲である。

 こうした、テクノ性よりロック性が「顕著に優位」な曲は、"NEVER EVER"→"unite!"とリリースされていき、アルバム登場曲の中では"Naturally"が更に加わることになる。

  これらのうち、コンサートに欠かせない"unite!"は別格とすると、「まさか」と思っていたステージでの再演が、今年初めのカウントダウンで実現して、客席の私が狂喜したのが、"NEVER EVER"だった。三拍子系のリズムでとことんロックするという点でも異色のこの曲、曲もステージでの演出も好きな曲のひとつだったので(^^)

****

 一方、"M"は、バラード系の要素を持ちながら、ロック性も強烈、メロディラインやリズムも一筋縄ではいかない、非常に個性的な曲である。これに続く"evolution"の持つ斬新なリズムでのテクノとロックの融合、そして舞台映えする、コンサートに欠かせない祝祭性を持つ曲と並び、曲の緻密さと集約性の高さと独奏性の高度な調和という点では、浜崎あゆみの曲の歴史で格別な次元の2曲であることは間違いない。

 私としては、これに更に直前の"SURREAL"を加えた「三部作」とみなしたい誘惑が強くある。これは音楽的密度と独創性のみならず、実はこの3つの曲のプロモーションビデオが明瞭に「三部作」だと断言できる、象徴表現上の連鎖を多角的にはらんでいるためである。

 これについての解説は、画面がないと「無意味」な(できれば歌と動画であることが更に望ましい)ので、実はサイト上では一度も言及しないままだが、私の日本人間性心理学会での自主企画(および「フォーカシングでの集い」における再演)のプレゼンテーションにおいては、プロモーションビデオのスクリーンでの映写と共に、パワーポイントを駆使してこの点を細かく検証し、実際に観た「歴史の証人」」20数名ほどには、とても思いこみとは言えない説得力あるものとして大好評だった。

 これは学術研究であるがゆえの著作権の制約からフリーだからこそ可能だったもので、ここでも公表するつもりはないが、いずれavexの公式許諾を得て、「図版付きの学術論文」化をまずはすることが私の夢のひとつである。

*****

 これらに加えて、このアルバムの独創性を際立たせているのは、冒頭曲、
浜崎あゆみ - A BEST 2 -BLACK- - part of Me"I am..."
である。伴奏なしに歌いだされるこの曲を、ジャンル的にどう分類したらいいだろう? 王子のきつねさんのご指摘を待つまでもなく、あえて言うと、この歌詞とメロディは「演歌」に分類するしかない。しかし、それを支えている編曲は、エスニックな香りもあるテクノ・ロックともいえる。いや、最終的にはそうした分類そのものを完全に虚しくさせてしまう、唯一無二の独創性のある、かけがえのない特別な音楽世界というべきだろう。

 この曲を最初に聴き、歌詞に込めたayuのあまりにも苦しいメッセージを受け止めた時、少し前から関心を掻き立てていた浜崎あゆみは、私にとって、鳥肌立つ特別な「邂逅」と感じさせる存在にはじめてなったのである。

 .....私の「某サイト」との出会いはそのあとのことだった(^^;)


*****


 そして、ある意味で、この曲への、とりあえずのayuの吹っ切れた"reply"として、"part of Me"を私が位置づけていることは、ここに明言しておきたい。

 "I am..."から引きずってきたayuの中の怨霊は、やっと成仏したのである。

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2007/03/08

JASRAC:改変版「おふくろさん」の使用不可を通達(第2版)

msn=毎日版より。

やっと、この件もまさに「日本の最高決定機関」が「公式に注意」したことで、収まる形に収まりそうだけど(このようにしか収めようもない)。

ただ、それでも、私は敢えてこれを機会に、繰り返して言いたい。


ある時期まで、

「親心」とか何とか称して

「許容」していたことを、

ある時点から突如撤回して「正論」に立ち返るということだけは、

人を育てる者は、絶対にやってはならない!!


先達とは、最初から厳しくて、晩年には優しくなることは自然だ。
また、最初から晩年から一貫して厳しいのもありだ。

 でも、最初は猫かわいがりに育てておいて、最後になって「その分借金返せ」だけはなしです。

晩年になって、突如「恩を売る」ことをはじめるくらいなら、最初から「恩を売って」欲しいものである。

 少なくとも、古今の政治の世界では、この種の「途中から恩着せがましくなる」君主は、確実に臣下に滅ぼされる運命にあった。

 一度、後続世代に自分の身を捧げる覚悟をしたら、生涯、そのことの「見返り」が自分に返ると思ってはならない。

それは、あくまでも、「順送り」に、未来の世代に支払われるのみである。

 さもなければ、生命は連鎖を紡げない。

 私は、今後、膨大化した老人世代が、数少ない若い世代に対する「たかりの構造」の中で生き延びる方向に豹変したら、もう日本の未来はないと信じる。

 生涯、後続世代のために、身を捧げてください。

 その時、こころある後続世代は、はじめて、先達の「恩」を忘れず、自ら進んで中島みゆき - 転生 - 命のリレー「命のリレー」をつなぐ、「先達」としての人生を、自ら歩むでしょう。

 人は、先行世代を自分が「犠牲にした」ことを自覚し、その「加害者性」を生涯十字架として背負った場合に、はじめて、「人の道」を生きるのです。

(精神分析的対象関係論に置き換えると、親を自分の攻撃性で「破壊して」しまった、という、「抑うつポジション」のファンタジーの超克として、「償い」という、創造的な活動が人間の中に生じる。でも、これが機能するには、親世代は子供の中のファンタジーのようには「破壊されてしまわず,生き残っている」ことを示し続ける必要がある。その意味では、川内氏の更なる長寿を心からお祈りします。今回の件で体調とかを崩されたら、逆に森さんに与えるダメージ大きくなるので、むしろしぶとく「憎まれ親父」で生き続けてもらう方が、ここまできたらむしろ,日本の歌謡界のために「必要」でしょう)


 でもねえ......まるで、「おふくろさん」が、生涯の終わりになって突然「これまでの恩に報いろ」とわめき出したみたいで、その点では、かっこ悪すぎるんです。川内氏は。

 「おふくろさん」への感謝は、おふくろさんから「強制された」ものでないから「こそ」、深いものになるのでしょう。

 これからの老齢化社会の「悪い見本」の先駆けに終わらないで。

 これからの若い世代には、あなたたちを食わせる余力なんてないのです。

*****

 BGMは、もちろん
浜崎あゆみ - A BEST 2 -BLACK- - part of Me"part of Me"

iconicon

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2007/03/03

「誠意がない」=究極の「いじめ」と「支配」の言葉?(第2版)

 あまり時事ネタやらないタチだけど。

 1.もし、「おふくろさん」に前奏をつける際に、川内氏の了承を得るプロセスを踏まないままだったというのなら、それはレコード会社とプロダクションの手落ちである。

2.川内氏が、森さんがコンサートでこのバージョンを既に前から使っていたことを紅白歌合戦の時以前に掌握していた、と、私は報道で理解してますが。なぜその段階で川内氏は抗議しなかったのか。

3.あのバージョンを「紅白で歌ったから」問題にしたのだとすれば、紅白歌合戦という番組を「神聖視」しずぎていることにならないか。紅白で歌った歌手とそうでない歌手は別の「階級」であるという法律的根拠でもありますか?

4.森さんは紅白以外のテレビ出演であのバージョンを歌ったことがあるのかないのかの情報を私は知りませんが、もし、著作権上、「コンサートで歌う権利」と「テレビ放送で歌う権利」は、別ものという法律的根拠があるのかしら? あるとすればそれが論じられるべき。

5.「おふくろさん」をはじめとする川内氏作詞の森さんの曲を聴けなくなることを歓迎する日本の歌好きなどどこにもいないでしょうに。

6.早い話、契約上の段取りに過去問題があったとして、今後前奏付きの「おふくろさん」は歌わない、という約束と若干の慰謝料で問題解決する以上のことは法律的にも考えられないのでは?


7.著作権問題という「正義」のため?

「権利ノ濫用ハ是ヲ許サス」

と民法第1条第3項にもあります。

(私の「紙の」六法全書は大学学部生時代のだから古い表記のままとします)。

実は、民法典が健全に機能するためには、それがどれだけいい方向に改正されようと、条文解釈と実際の適用に絶えざる議論と吟味が必要であろうと、この条文がいちばん重要なのだと思う。ないとえらいことになる条文なのだ。


8.敢えて問う。川内氏は、過去、お忍びで「自腹で」森さんのコンサートを聴きに行ったことがあるかどうか?

「誠意がない」

って言葉、凄く「危険な」言葉だと私は感じている。

人を果てしなくいじめるために使える言葉。

 逆を考えるといい。

自分が常に「誠意ある」生き方してきたって言い切れる人間ほど、信頼できない人間はいないでしょ?

 あと、似たような言葉で言うと、私がでえええっきらいなのは

「全力を尽くしたか?」

というものの言い方でして。

「私は全力を尽くしました」と言える人間は、まだ全力を尽くしていない余力がある、という論理はいくらでも立てられる。

気絶するまでがんばったら人は全力尽くしたのか?

その人が死んでしまっても「なぜ死なずにがんばらなかったのか」

という論理を使えたりするかも。


*****


この川内さんという人は、

「自分が死んだ後も他の人間は生き続ける」

ということそのものを憎んでいるのかもしれない。

自分が死ぬのが怖いだけなのかもしれない。

「生きること」に「土壇場まで追い詰められている」のは川内氏の方である。

あるいは、大往生の直前に「寛大に許す」日の自分のことを想像して自己陶酔するぐらいしか残された生き甲斐がないのかな?

あるいは、(2chふうシミュレーション)「実は森進一の人気回復のためにぐるになって『芝居』してあげている」のですか? だとすればすばらしい師匠ですね。


****


空を見上げたら、いつまでも空で暖かく見守ってくれるからこそ、先達なんですが。

「世の中の傘になる」とは、いつまでも「支配者でいる」ことだったのかしらね。


あなたがいじめているのは、森進一ではない。

森進一の「おふくろさん」を聴きたい、日本中の人たちなのだ。


あなたのような人がいるなら、みんなまねして子供のいじめが増えるよ。

これは、ゆゆしき「教育問題」である(^^;)

「師には絶対服従せよ」

というのが理想の教育であるというのならともかく。


......以上、寝ようと思ったら、この記事見つけてしまったので。


   この世界はすべてこれ一つの舞台、
  人間は男女を問わずすべてこれ役者にすぎぬ、
  それぞれ舞台に登場してはまた退場していく、
  そしてそのあいだに一人一人がさまざまな役を演じる。
..


シェイクスピアの「お気に召すまま」の、確か幕切れのセリフですね (小田島雄志訳による)。


*****


べートーヴェンが死ぬ前に最後につぶやいたとされる言葉が、

終油の秘蹟を受けたあとで、以前注文していたワインがやっと届いて、

「残念、残念、遅すぎた」

だったと思う。

(最後の秘蹟の後は、ワインもパンも口にできませんから)

 これも、シンドラーとかが脚色した伝説かもしれないけど、

これこそあっぱれな最期の言葉という気もする。


******

●追記:

BGMは、「同じ」紅白でブレイクした、新垣勉さんの、「千の風になって」
新垣  勉 - 千の風になって - Single - 千の風になって

 これって、受け取りようによれば、第2の「おふくろさん」みたいな歌のような。性別を超えてますけどね。もとより、この曲ができた時点では森さんのお母様は存命だったのは知っていますが。

「おふくろさん」へのreplyの曲として聴いてみるのもいいかも。

.....などというあたりで、お二人が「仲良く喧嘩したで終わることを祈ることには代わりがない、平均的日本国民のメンタリティの私なのであった。

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2006/10/19

父の面影 ~究極の、個人的「松本零士」論~(第2版)

 web版毎日新聞報じたこの事件ここで報じられた顛末を精密に読む限り、少なくとも、槙原敬之さんの「所属事務所の」反応は、いくらなんでも極端かと感じました。

 松本零士さんも、「裁判を起こす」とははっきり言っていない。

 松本零士さんも、もし、槙原敬之さんから、直接、

 「意識的にまねたつもりはありませんでした。
 心からそう言えます。

 でも、そのことで松本先生をたいへん傷つけたとすれば、
 申し訳ないです。

 もっと自分の言葉を見つけようとがんばります」


というような言葉「さえ」、後になって出直してでもいいから、聞けていれば、すべては全く丸く収まったことのような気がします(^^;;;)。


****


 松本零士さんも、特に「宇宙戦艦戦艦ヤマト」というアニメ絡みでは、制作当時の「プロデューサー」との関係の中で、非常に複雑な傷つく思いをしたはず。

....恐らく、ある段階で、「踊らされた」というのに近い形での思いを抱かれたことだろう。


「銀河鉄道999」の原作(少年キング連載)は、

単に「ヤマト人気」=松本零士「ブーム」の勢いだけではなく、


「松本零士」が、「松本零士」自身をしっかり取り戻すための戦い


の中で生み出された作品
かと、

私は思います。


*****


 その後、10年近くたってでしょうか、「ヤマト」の制作「プロデューサー」の経営する事務所とプロデューサー本人に関して、いろんな問題が、浮上しはじめました。

 あれはほとんど今のホリエモンもびっくりのスキャンダルでしたが。


***** 


 もとより、「ライオン・キング」の「ジャングル大帝」をもろに剽窃した問題のように、この種の問題は繰り返し浮上します。

 でも、松本零士さんを、『頑固』というのはたやすい。


******


 松本零士は、「男おいどん」の時点で、とっくに天才過ぎるくらいの天才として、マンガ通に留まらず、私より上の世代の若者たちにも、実に幅広く知られたと思います(^^)

 私も小学生高学年時代、
それこそ「床屋さんで」だけの「秘密の楽しみ」のようなものでしたが、
とんでもなく凄い「マンガ」だと思いつつ、
待合い椅子にある、
積み上げられた少年週刊誌の、
「おいどん」だけ
を読んでいました。

*****
*****

 例によって、ここから話は脇道にそれ、
 更に過去へと「遡及」します(^^;)

 「巨人の星」には、アニメ化される以前の連載を「床屋さんでめくった」記憶すらあります。

 でも、原作だけの段階では、「巨人」の「星」なら、「猿の惑星」のような作品のはずなのに、なぜ野球マンガなんだ???? としか私は思ってなかった(^^;)。

 当時の私は野球に全く無関心だったのです。
 なぜなら.....夜、ゆっくりとプロ野球中継を観ている父親の姿なんて、ほとんど見たことありませんでしたから。

 何故? .......私の観たそうな「テレビ漫画」(=アニメ。「鉄腕アトム」の本放送の「途中」から、私の「記憶」が始まります)や特撮もの(「ウルトラQ」から、記憶にあります)を、いつの間にか選んで、毎週同じ時間に「見せてくれて」いました。

 恐らく、私が「夜8時くらいに」寝たあとで、「後半の野球中継だけ」観ていたのでしょう...

 .....アニメの「巨人の星」については親子一緒で初放送から楽しみました。
 父はすぐに「EPレコード」を勝ってきましたね。

 B面が「友情の星」という、本編では確か使われたことがない歌だとしっかり記憶してます。今もサビだけなら歌えます!!(超マニアックですが、こういう記憶は作品と同時代体験世代の強みです)

 私にとっては、川上監督も、王も長島も、アニメを通しての方が当初は親しい存在でした(^^;)。星飛躍馬や早見や花形や伴や左門や歌手3人組や大西ミカがフィクションだとはもちろん知っていましたが(^^)

 ちなみに、川崎のぼるさんが、この「巨人の星」の「作画担当」のストレスを爆発させたように思えるのが、私が「買い与えられていた」小学館の学習雑誌に連載された「いなかっぺ大将」だった。

 この「いなかっぺ大将」も、「結果的には」原作の方がはるかに過激でした。
 アニメを先に見た世代には、見えないことがらがあるのだ!!

 ちなみに、東京には「ポテトチップ」という食べものがある「らしい」ことを、私は当時、このマンガの原作ではじめて知りました(今から35年は前の話 ^^;)

昭和キッズTVシングルス Vol.1(1965-1967・オバケのQ太郎/ウルトラマン)昭和キッズTVシングルス Vol.2(1967-1968・巨人の星/ウルトラセブン)昭和キッズTVシングルス Vol.3(1969-1971・ハクション大魔王/ジャンケン ケンちゃん)

*****

 大映系・東宝・松竹系はあっても東映系がなかった久留米の映画館で、「大魔神」「ガメラ」シリーズ、「サンダ対ガイラ」「海底軍艦」などをみんな「封切り時」に観た記憶があるのは、なぜでしょう?

 .....「父が」いつもいつのまにか連れて行ってくれたからです。

 その父のとなりで、いつもキャアキャア騒ぎながら、父の「買い与えて」くれた、中学生が読むような、半分は文字ばかりの、科学図鑑で仕入れた知識をもとに、即興の勝手な「科学的」解説を延々と観覧席で父に語っていた、幼い日の私。

****
****


 .......話はここから本題に戻ります!!

 松本零士は、
 「男おいどん」の連載で,、
 小学生高学年ぐらいだったはずの私が、
 「はじめて自分で『選んだ』漫画家」だった
のです。

 不思議と、小6から中2ぐらいまで、私はアニメや特撮から離れていました。男としては早すぎる思春期の芽生えに完全にとらわれていたから(^^) みんなが貸し切りバスの中で「ガッチャマン」や「仮面ライダー」を大声で繰り返し歌ってくれたものだから、それらの番組の主題歌は覚えたようなものでした。

*****

 父は、私が『ヤマト』再放送をきっかけに「高校二年で」突如「アニメ」なるもののファンとして復帰した時、最初は困惑していました。

そして当時の松本零士さんのインタビューををテレビで観て、

「あんなきれいな女性を描く人が、どうしてこういう「おじさん」なのだ?」

という意味のことをつぶやいたのを、よく覚えています。

*****

 テレビアニメ「銀河鉄道999」の第1回「だけ」は、私が高三だったかな? ....しばらくアニメを一緒に観なかった父が、感慨深げにまじめに見ていたのを覚えています。


あの、スロープのような装置で、
空に飛び立つ蒸気機関車の姿が、

私が幼い頃に繰り返し絵で描いていた、

「駅を出るとすぐに空を飛行する、ひかり号より速い超特急」

の絵にそっくりだったから?

(私の絵の中での超特急の姿が、今の「のぞみ号500系」みたいだったのは、私の幼年期のテレビアニメの描く「21世紀」の電車はみんなそういう格好だったから!!)

 そして、父自身が、中一夏、12歳での敗戦、(父(祖父)の死をくぐっての、1年大連で足止めを食らっての「旧満州国」からの引き上げの際に、「汽車」というものに人生の縮図を感じる過去を持つからもしれない。


******


 父の父、つまり、私の祖父は、関東軍の軍属(軍おかかえの商人)となり、末っ子だった4歳の父と、妻(=私の祖母)の「二人を」連れて、大陸に渡らざるを得なかったのです。

 父の「上の兄」たちは、兵隊に取られます。うち、ひとりしか、戦後、生還せず。

 哈爾浜(ハルピン)の近くの「阿城」という土地に家族と住むことになった父は、4歳で大陸に渡った時から9年あまりの間に、大連-哈爾浜(ハルピン)の間を行き来する、関東軍の国策会社だった、

南満州鉄道(満鉄)の、

流線型SLの牽引する、超豪華列車、「超特急亜細亜号」(写真はこちら)を、

実際に乗ってはいなくとも、繰り返し駅で見ているはず。

 (父は、私が本当に小さい頃、よく旧「国鉄」の久留米駅に私を「入場券」だけで連れて行って一緒に「汽車」(電車を含んで、国鉄車両のことを久留米では「汽車」、西鉄のことを「電車」と呼んだ。いうまでもなく、幼児期にはSLにも当たり前のように乗れた「最後の世代」です。確か長崎本線と久大線にはまだ現役でした)を長時間眺めて過ごしてくれました。これが、哈爾浜市内にでかけ、氷結した松花江でよくスケートをしたという父の話......おかげで、九州出身故にスキーとは無縁な私が、子供の頃から自前の「スピードスケート」靴(点接触のフィギア用とはエッジが全く異なります)をあてがわれ、屋内スケート場通いに連れて行かれ、運痴の私がスケートは「一応」できたりする.....からみて、哈爾浜駅で「祖父が」「父に」取ったのと同じ態度の反復だったと仮定すれば???)

 昔、父はその「亜細亜号」の写真の載った鉄道雑誌を「買ってきました」し!!

 (この「亜細亜号」の開発者島安次郎の息子、島秀雄が、東海道新幹線の開発者となるのは、「プロジェクトX」でもおなじみかも!!)

 哈爾浜がロシア人の手によって築かれたロシア風の都市というのは有名でしょう。小澤征爾さんの出身地としても有名ですよね。.....そのせいか、父はロシア民謡のファンでもあり、おかげで「カチューシャ」(1939年作曲ですが、父は間違いなく私の「記憶」発生以前から「新世界レコード」持ってたものナー)だけは、私、原語「らしきもの」で全曲歌えます。歌詞カードにカタカナついてたので覚えました(^^)。キリル文字全然読めないのに)


****


 さて

 私の父と松本零士さんは、父の方が5歳1ヶ月年上です(第2版で修正。西暦で覚えてなくて)。

 そして、

同じ福岡県、

しかも!!

.....松本零士さんは小倉市(現北九州市)で「育った」ことは大抵のプロフィールに紹介されていますが、

実は「生まれ」は1938年、久留米市でです!!(出生届の場所ですね)

 私は、「999」の頃には、どういうわけか、この松本零士さんが、「同郷者」(私は大学入学で上京するまで生粋の久留米市民!!)である事実を知っていました。

  久留米市役所「公式サイト」の該当ページにリンクを貼りました。

 このページをご覧いただくと、我が故郷、久留米の生んだ人材が「ちょっとしたもの」だということがおわかりの筈。

 2005年4月の"AERA"誌で、

「"異能者"を生む街、久留米」

というような特集(少しタイトルの記憶が曖昧...)で紹介されたかと記憶します。

何しろホリエモンさんまで久留米、ソフトバンクの孫さんが隣の佐賀県鳥栖市ですから.....

****

 私の父は旧「東京市淀橋区」の生まれです。この70年間で、恐ろしく住居表示が変動した地域なのですが、今でいう、東京都新宿区下落合の、だいたいこのへんみたい。

 「家の近くに坂があってね。上り坂だった。」

 4歳の時の父の東京時代の唯一の記憶。

*****

 そして、ソ連軍の戦車に追われるようにして、まだ破壊されていない線路を汽車で乗り継いでいく中途に、私の祖父は、不慮の死。

 その後、母子ふたりで、大連で足止めされたまま、1年間底辺の生活を生き延び、1946年に日本に戻ることができた13歳から、父は、祖父母の故郷である、久留米のとなりの、「三井郡北野町」で私の父は数年育ちました。久留米市役所小遣いからはじめて、税理士事務所事務員として久留米市内でで自活した時、妻となる、私の母と出会います。

 なお、京都と同じ名の「北野天満宮」が古くから置かれたことにちなむ由緒ある名の、この「三井郡北野町」は......昨年(2005年)2月から、久留米市と合併してます......(一一;A)

(以上の部分、加筆訂正)


******

 そして、 

 今回の記事を見て、何より驚いたのは、

 ネット版の毎日新聞の松本零士さんの現在のお写真が、

 (あの「海賊ルック」の帽子さえ外せば)、

 私の「現在の」父と、

 顔立ちや服装、ひげの生え具合まで、

 「あまりにも」似て来ていることでした。


........ホント、この記事の写真って、

「これが父です」

と紹介していいくらいです!!


*****


松本零士さんが、

もし私の父と顔や風体だけではなく、

「性格まで」同じとすれば.....


...最初に述べたような、

槙原さん「本人の」率直な応答で

「すべてをほんとうに許した」と思います(^^)


******


『信念を持ち続けた人間が、最後には生き延びる!』


私の独立開業時の、父の餞(はなむけ)の言葉。


.......まるで、松本さんの「戦場マンガシリーズ」のセリフです(^^)


*****

.......だから、この文を、このブログに書く気持ちに、私はなったのです。

 いずれにしても、私には、この事件、槙原さん本人ではなく、所属事務所の「社員」が、中途半端な形で「『裏で』わびを入れた」から、事態が最終的におかしくなった」ようにしか思えません。

*****

この文章からリンクした、wikipediaの該当記事執筆者への感謝と共に。 

推薦BGMは、もちろん、
中島みゆき - 転生 - 命のリレー
中島みゆきの「命のリレー」
【Aポイント付】中島みゆき / 転生(CD)アルバム「転生」収録)

最新映画、話題作を観るならワーナー・マイカルで!

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2006/08/30

「経験した者にしかわからない」?(第4版)

 私、この言葉、嫌いなんです(^^)

 どうしても,この言葉を発する人を、押しつけがましくて、傲慢だと感じてしまう。

 (様々な苦しい体験をなさったであろう皆様を読者とする可能性がある、こうした場で、このような「爆弾発言」をカウンセラーがしていいのかと言われるのを覚悟で、最後まで読んでいただければと思います)

 まして、「あなた、まだ人生経験に乏しいから」と若いカウンセラーに口にする「ベテランカウンセラー」なんてサイアクだと思ってます。

 だって、これを言われたら最後、「経験不足」の人間は、「経験していない」んだから、何の反論もできなくなってしまう。

******

 大事なのは、「どんな(what)」経験を積んだかではない。

 「その人が」、「その人なりに」その経験を「どのように(how)」克服していくか。

 その人のその過程に、ひとりの「他者」として「どう」向き合い続けて行くのか、だと思います。

 そもそも、「その人の」積んだ経験と、「私が」仮に類似の経験をしていたとしても、それを、それまでの人生経験の軌跡の中で、「どんなふうに」体験し、「消化」して来たかとなれば、皆異なる筈ですし。

 そして,得てして、そういう経験を、「どのように解決したか」まで、杓子定規に、相手に押し付けようとすることになる。

 その瞬間、もはやその人は、その相手を,自分の「子分」にしようとし始めている、あるいは、自分は「このようにして」救われたんだということを、その「子分」に自分を投影して、再確認、「正統化」(←誤字にあらず。わざとこうしてます)したくなる誘惑に屈しているのではないか?
 
******

 このような「カルト化」の弊害からほんとうに自由なカウンセラー集団って、なかなかいないように感じています。

 人は,確かに、自分と「同類」の人間を見つけたがる。それもおよそ人というものの背負った「弱さ」として「自然と」受容できる方がいいとは感じていますが。

******

 ある意味では、誰でも、その人が悩みから少しだけでも救われたり、解決への突破口を開く過程で、必ずといっていいほど、以前にはなかったような「無理」を自分の中に抱え込んでいるものではないかと思います。

 以前抱えていた「無理」を、単に別の種類の「無理」に置き換えて,「見かけ上」事態に適応し、とりあえずの危機を突破しただけなんです。そしてその「別の『無理』」が、その人自身に,必ず何らかの『副作用』を引き起こしています。

 だから、自分の「解決のやり方」や「癒され方」を他人にそのまま押し付けたら、当然、その人にはその『副作用』の方が強く出る危険があります。

 ましてや、自分は「主体的」にやった解決策を、「受け身に」やらされるとなったら、もう、『副作用』ビンビンかも知れません。
 
*******

 私が、

「『自分の想像通りに』クライエントさんが回復の途上にあると感じるうちは、プロのカウンセラーではない」

「クライエントさん自身も、カウンセラーも、驚くような意外な方向に事態が終息していく場合だけが、いい形でカウンセリングが進んで行くということだ」

「カウンセラーが、クライエントさんのことを『みくびっていたな』と思わず恥じ入る瞬間のないカウンセリングは嘘くさい」

という意味のことを、"7.11 Asega Doctrine"以来繰り返しているのは、今述べて来たような思いがあるからです。

****

Jungpsychotherapy
 ちなみに、こうした思いを私に抱かせるきっかけは、ユングの「心理療法論」に収められた「心理療法と世界観」という論文にある、

 「患者と治療者の真に治療的な関係は『弁証法的』過程である。さもなければ単なる『暗示療法』であるに留まる」

という言葉が、ずっと私の脳裏にあったからです。

 言い換えるならば、クライエントさんとカウンセラーそれぞれの「個性化」の過程が、相互作用的でありつつも、それぞれの中で、別個に( ! )推進した場合のみ、ホンモノである。

 ほんとうの、ユング派のエッセンスとはここにある、と、今でも思っています。

以下、私の大好きな部分を引用(林道義 訳 p.68 改行、下線はこういちろうによる。):


 世界観は療法家の人生を導き、彼の治療の精神をかたちづくる。それは最も厳密な客観性を持っているとはいえ、何よりも主観的なものであるため、恐らく何度となく、患者の真実に触れて砕かれ、そしてその真実によって新たに再建される。

 すなわち、信念は容易に自信に変わり、そこから悪くすると硬直に変わる。硬直化したのでは生きているとは言えない。信念が強いということは、それが柔軟で修正がきくということであり、あらゆる高度な真理と同様に、信念が皆に認められるのは自らの誤りを認めることによってである。

*****

 私の処女論文、

「フォーカシングにおけるセラピストとクライエントの弁証法的相互作用について:技法論を越えた視点から」 人間性心理学研究  第9号  1991


 15年も前の、ものすごい「若書き」で、今読むと、とても論文の体をなしていると言えないにもかかわらず、

結局、

「処女作にその人の創作活動のすべてが内包されている」

は真実かな? と感じています。


 これは「自慢」だけではありませんよ(^^)

 「未だに」、
 そのことを最大のテーマとして、
 日々の臨床と,
 自分自身の個人としての人生に
 「臨(のぞ)み続けている」存在でしかない
 私自身に、

 「しょーがねー奴ゥ!!」

 と、
 
 「苦笑して」いる
のです(^^;A


 

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2006/08/24

浜崎あゆみとこういちろうと中井久夫先生の共通項(第5版)

 浜崎あゆみが、浜崎あゆみ/ayumi hamasaki concert tour 2000 A浜崎あゆみ/ayumi hamasaki concert tour 2000 A2000年のはじめてのコンサートツアーの最終日の舞台挨拶で、

「浜崎あゆみはほんとうに存在するのか?」

(....を、このコンサートツアーで確認したかった)

と口走ったのは、古くからのファンの間ではおなじみの事実です。

上記のDVDにもしっかり記録されてますね。

つまり、目の前に,万単位の、自分を応援してくれるファンが「実際にいる」のを目の前にしないと、

雑誌やテレビに出ている「浜崎あゆみ」って「私」?

という気持ちにならなかったそうなのです。

*****

これ、ayuの全く素朴な実感だったろうと、私は素直に共感します。

今でも私は、「現代のエスプリ」の2つの号で、顔写真までついて掲載されている、

「日本の代表的なフォーカシング実践家」

(確か池見陽先生がそのようにご自身の論文で紹介して下さったのだけれども)

とされる「阿世賀浩一郎」って、ほんとに私? って、信じられないと思うことがありますから(^^;;;;;;)

ちなみに、もうすぐ、元巨人・ヤクルトの、かのセーブ王、角盈男さんと、阿世賀浩一郎なる人物が握手しているツーショット「国際グラフ」という雑誌に掲載されるらしいけど、

ホンマかいな? これは合成写真ではないか? 

確かに角さんの「ものすごいそっくりさん」で、どうみてもご本人としか思えない人とお会いして話をさせていただいた記憶はある。しかしそれはひょっとしたら、誰かにいつの間にか催眠術をかけられて「捏造された」記憶ではないのか?

と、目の前にある生写真をみながら懐疑にふけるこういちろうなのである。

(ここではお載せできませんが,学会で実際にお会いした方には誌面と生写真をお見せいたします

何か、自分の人生がどんどんトム・ハンクス/フォレスト・ガンプ 一期一会「フォレスト・ガンプ」じみてきて、怖いっていう心境、皆さんおわかりでしょうか?

(え? 自分でそれを「更に加速」しているだろが、って? 
 ......だって、そうしないと、怖いんだもの

*****

 .........ちなみに、もう一人、「お仲間」がいます(^^;)

 1977年、秋,私は、名古屋市の助成を得て、三週間、学会出張を兼ねて、山中康弘氏らとともに、ドイツ、スイス、オランダ、ベルギー、フランス、イギリス、スコットランドをめぐり、多少の調べ物をし、何人かの学者と討論した。私にとって、現実の西洋ははじめてであった。私は、「西欧は実在していたのだ」と口走って、それは一部のサークルで伝えられている

Seiouseishinigakuhaikeishi中井久夫 「西欧精神医学背景史」 1999年の追記 pp.232)

 実は,中井先生が、「西欧精神医学背景史」の初稿を、現実にヨーロッパ、いや、アメリカにすら、「一度も」渡ったことがないうちに、今の私より若い43歳までに書いていた.....といったら、皆さん、どう思われますか?
 中井先生は、書物を通してしか欧米を知らないうちにあの論文を基本的に書き上げていたのです。かの有名な、ギリシャ語すら含む数カ国語の、しかも卓越した語学の才能は、何と、中学生の頃からの独学の所産です。このことは上記の本の「1999年の追記」にはっきり書かれています。

 でも、さすがに実際にヨーロッパに行かないままなのはどんなものかなあ、という思いで、「実在する」ヨーロッパに行って、ファン・デン・ベルフをはじめとする各国の著名な精神科医の「ほんもの」とはじめてディスカッションした。ところがそれらの多くは期待に反して意見のすれ違いで終わり、アイデンティティの危機に陥ったそうです。

 中井先生はそれでも自説を曲げなかった!! 中井先生のフェルトセンスがNOという限りはNOだったんですね。
 
 精神分析とかの新たな潮流が「輸入・紹介」される際に、こんなまでも「自分の本心に忠実」にしか納得せず、ただ権威としてあおいだまま「わかったふり」して「紹介」しているのではない。しかもその際に「日本的に『鈍らせ、薄味にする』ことすら拒絶する,圧倒的な学問的良心性を貫くことが,果たしてなされているでしょうか?

 土井健郎先生の「甘え」理論には、それがあると思いますが。だから、日本からバリント経由で「輸出」された,数少ない精神分析理論になり得たのです。

 この辺、実際に浜崎あゆみのコンサートに通うようになり、他者からの影響や、ayu自身の、「ひょっとしたらその場の思いつきかもしれない」記録に残る発言(この問題については、
浜崎あゆみ - MY STORY - Humming 7/4"Humming 7/4"

浜崎あゆみ - (miss)understood - In the Corner"In The Corner"
を是非お聴き下さい)すら時には無視して、ひたすらayuの曲やプロモビデオと「対話」する中で自分なりのayu観を確立してくる中で、やっと「浜崎あゆみはこの世に実在する」という、ある生々しい実感を獲得できた(これすら「私にとっての」ayuに過ぎないのは承知の上です)過程と何か似ている気がします。

 そして、中井先生の、ヨーロッパの巨匠精神療法家に実際に会って揺るがされても保ち続けた、自己の信念と良心を貫く姿勢に、私は、一介の院生になる段階ですでに確信してしまった、「日本のフォーカシングはまだ『驚くほど』的確に理解されていない」という信念、そして、その後、「他流派の人と全く対等に渡りあえる現場臨床との統合は、ジェンドリン自身が「フォーカシング指向心理療法」で書いたより「更に高度な次元で」実現可能である、という信念のままに、その結果、フォーカシングがシームレスに幅広い日常カウンセリングの「隠し味」になり、

「一見、カウンセラーとしての「専門性」すら希薄に見え、普通の相談相手をしているだけかにすらみえる、『ただの』街のカウンセラー」

になれつつある、という私の信念に通じるものがあると思うのです。

*****

 浜崎あゆみも、恐らく本音のところでは、自分がレコード大賞を3回連続受賞したなんて、「冗談みたいな事態」と感じているのではないかしら? だから、「これだけでは、何かが違う!!」という自分の中の漠然とした予感に導かれるまま、決してうぬぼれることなく、「更に先をめざす」姿勢を保つという、ほとんど人間業ではないことを続けているのだと思います。

******

 私が言いたいのは、浜崎あゆみさんも角盈男さんも中井久夫さんも阿世賀浩一郎さんも、ただの生身の人間なんです。だから「ただの生身の人間」扱いされなくなることの苦悩、でも実際に、「普通の人」の世界には戻れない苦悩と、ある意味で孤独に戦って生きているだろうということです。

 何回でも言いますが、私は、「フォーカシング」という本のただの一読者だったはずなのです。立派なフォーカシングの指導者に出会い、私自身を癒していただけたならば、私は別の人生を歩めたかもしれない。

 その意味で、日本のフォーカシングの諸先達の先生方の、私への「無力さ」を「お恨み申し上げております」。

*****

推薦BGMは、浜崎あゆみの
浜崎あゆみ - (miss)understood - (miss)understood"(miss)understood"
です、やっぱり。

これこそ、「『信』なき理解」への、強烈そのもののプロテスト・ソングです。

 この曲を、カウンセラーの皆様、「カウンセラーにあてたメッセージ」として聴いてみることに挑戦してみるのもいいかも。

******

........もうこれで、「タイトルだけで全文」という,この不思議な記事の「封印を解いた」ことになります。

それこそ、

「難しい話は、いらない」

浜崎あゆみ - BLUE BIRD - EP ("BLUE BIRD")

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2006/08/14

人は「自己開示」しなくても「自己開示」している!! ~浜崎あゆみの"Daybreak"に寄せて~(第6版)

 私が「自己開示」という概念を「見捨ててしまった」きっかけについては、本部ページの「私のフォーカシング」シリーズ第2部第8話の後編ですでに詳しく書いています。

 あれは、私の「ひとりフォーカシング」の中での、すごく「パーソナルな」スピリチュアル体験として得られた「悟り」みたいなものですから、あそこの後半で書いたことだけでは「腑に落ちない」皆様がいるでしょう。

*****

「石が『自己開示』しますか?」

.....とこういちろう氏が言うのはわかる。でも、言葉にするかしないかで相手の印象がまるで変わることがあるではないか。例えばこういちろう氏がayuファンであるかないかを知らなければ、クライエントさんにも与える印象は異なる。

 石は「自己開示」しないからこそ、深層心理の純粋な「投影」の対象となり、人が石を「観照」して「内的対話」を交わす中で、真の「洞察」を得られることがある、というのも得心できる。

 しかしこういちろう氏はなぜ「中立性」を犯して、石のように「純粋な投影の対象」になることで、クライエントさんの深い心の問題が治療者=クライエント関係に反映するのを妨げるのか?

******

 ......なんてことをなぜコメントで書いてくる人がいないのか、私はずっと不思議だったから、自分でシミュレーションしてしまいます(^^;;;)

******

 この前、私をここ数年唯一「へこませる」ことに成功したのが、かの精神分析の大家、松木邦裕先生だとはっきり書きましたけど、私が松木先生のどの言葉に躓(つまず)いたか、公開してしまいます。

「クライエントさんを汚してはならないよ」

 これは、クライエントさんとの対話の面接の『場』の中で、私が自分が感じたことを(ひとりフォーカシングを通してしっかり吟味してから、ですが)、言葉にして、それをきっかけにクライエントさんに「気づき」のようなものが生じていることについいて、

 「それは、単にクライエントさんが期待している親イメージにすっぽりはまる言葉をあなたが返したのにその人が『迎合した』からであり、そこで陽性『転移/逆転移』状態が『やっと生じた』に過ぎない」

 確かこんなコメントだったと思います(精神分析の専門家の皆様、いかにも「松木節」でしょ?)

 (R.D.レイン風に言えば「共謀」でしょうか? マスターソン風に言えば、「患者の『偽自己』に見事に対応した、.....ええっと、さすがの私も記憶だけでは少し忘れましたが(まだ引っ越し荷物の中!!)、「報酬型部分対象-自己単位」としての「個体化の欲求を抑えた『いい子』の場合だけ見捨てないで、リビドーの備給を与える親」の役割を果たしてしまった、とも説明できるかとも思う)

 これにその時。私は返す言葉がなかったんですね(数年以上前のことです)。

 私も、実はその事例でのクライエントさんとのやりとりがほんとうにプラスのものだったか、確信が心の底でない事例だったから、見事にグサリときてしまったのです。

(ちなみに、この時の事例の具体的な中身は、当日配布して回収した資料でのみ書かれているものです)

 もとより、その傷つきが、実は書物を通して知っていた松木先生なら、私のやり方を理解してくださるだろうという私の松木先生への「陽性転移」が、もろに「錯覚(disillusion")」に終わったからであり、実はその時点で私の中に「妄想的=分裂的態勢(PS)」が生じかかり、「『悪い親』からの攻撃」と体験かねないところだったけど、私ってとっくに「親を自分が破壊して、親が死んでしまうのでないか」という「抑鬱態勢(D)」も経過していることは皆さん、この記事この記事でおわかりでしょうし、それどころか、とんでもない確信犯の「エディプス中年」だということは、今こうして松木先生を「仮想父」にして、書きながらやってる最中ですが(爆)、


 実は、「私が」松木先生のコメントを

 「図星」

とは体験せず、

何か言葉にならない「違和感を感じ続けていた」自分をも

「認めてあげる(acknowledging)」ことができたために、

実は、ほんとうは

「へこんで」

はいても、

「打ち抜かれて」はいなかった

のですね。

*******

「だってさあ、」

.......と、"another part of me"が内側で言い続けていることを私は聴き逃さなかった!!

 「松木先生、『クライエントさんを汚してはならないよ』といわれたけど、ホントに『汚してない』状態なんてあるのかしら????」

 少なくとも、その日の夜の部の宴会の翌日には、そういう疑問が私の中で生じ始めていたのです。

 そして、数日のうちには、

 「他者が、たとえ無言で『そこに-いる』というだけでも、その人に自分が『汚されている』ことに耐えられないなんてこと、例えば「急性期」の統合失調症圏のクライエントさんなら、あたりまえのように、深刻な脅威として体験しているはず」

という答えまでは私の中で確信できました。それは今も変わりません。

 これは、私が、実際の師、村瀬孝雄先生以外で、日本人で唯一「心の師」とし続けてきた中井久夫先生からの圧倒的影響で現場臨床に臨んでいた人間だったからこそ可能だったことでしょう。

(私がどのくらい、書物を通してのみで、講演すら拝聴したことがない、中井先生の圧倒的感化のもとにあるかピンとこない人は、中井久夫先生の著作を「頭だけで」読んでいる人だ、と断言します!!)。

 生前の村瀬孝雄先生が、まさに中井久夫先生と深い絆で結ばれていた先生だということは、実は立教で院生をしている時代には気がつかなかったのです。

Nakai1
 しかし、もうひとり、中井先生と縁の深い精神科の先生のもとで私は病院研修を受けたのですが、その先生を囲んでの「謝恩会」の席上で、その精神科医の先生は、私が中井先生の「分裂病と人類」を引き合いに出した「レポート」を学年末に提出したことについて、孝雄先生のいる前で、

「彼ねえ、中井先生の『分裂病と人類』を読み込んでるレポート出してきたの」

 孝雄先生はそれに応えて、

「ほう!! それは珍しいね、それって、一つの『素質』だと思う

更に、先の先生曰く、

「ほんと、そうですよねえ」

と言っていただけたことを私は忘れません。

 これは、私が立派な「S(分裂病)親和者」であることの「お墨付き」を頂いたことになりますから。

 なのに、後に「鬱」にも一度なれたんですから、これはたいへんな経験値ですね(^^;;;;;;;)。

 もっとも、実は私の人格は、精神科医のものの考え方安永浩先生の言う、開けっぴろげで、「今、ここで」の充実感の中に生きる「中心気質」こそベースだな、と最近は感じてます(^^)。

 いよいよ「贅沢な」生き方ですね(^^;;;;;;;;)

(ちなみに、私は「中心気質」については、もっぱら中井先生の本での紹介と、私の古い知り合いでもある、矢幡洋氏の「星の王子さま」の心理学新装版「『星の王子さま』の心理学」でしか知らないままで、上記の安永先生ご自身の本自体はまだ読んでません。ところが、あるサイトで安永先生の本の「目次」をさっき読んでびっくり仰天!! .....すぐ注文して、読みます!!!!.......私がなぜ目次だけで「あわてた」か、わかっちゃう人、いるかなあ......???)

(『分裂病と人類』という本が、いかに「S(分裂病)親和者」に、「したたかにこの世に『棲(す)み』続けて下さいね。皆さんがいるから、現代社会は「最悪の事態」を迎えていないのです」というメッセージのこもった、生きる勇気と希望を与える本かピンと来てない、あの本の読者の臨床家は、統合失調症圏の患者(クライエント)さんと接する上で肝心な「何か」にまだ気づいていない、と私は「断言}します!!!)

******


 ああ、話がまた「虚栄心のコントロール」がない方向に.....

元の脈絡にもどします。

******

 「松木先生、『クライエントさんを汚してはならないよ』といわれたけど、ホントに『汚してない』状態なんてあるのかしら????」

 「他者が、たとえ無言で『そこにーいる』というだけでも、その人に自分が『汚されている』ことに耐えられないなんてこと、例えば「急性期」の統合失調症圏のクライエントさんなら、あたりまえのように、深刻な脅威として体験しているはず」

........というところまでは、私の問題意識として、残り続けたわけです。

 結局、例えば猫なんて、「喧嘩する時」と「さかりがついた時」以外は、普段は「猫同士は」全く「無言で」互いのコミュニケーションを取っているわけです。

(「人間向け」の「ニャーン」は、本来だと大人の猫なら「不安に陥った」時だけの鳴き方が、「人間界」で人間と共存する中で、人間への「どうかお手柔らかに」というメッセージに置き換わったものでしょう。直前でリンクを張った動物行動学者、伊澤雅子先生の研究による限り、群れを作るライオンとチーターいう例外を除くと、ネコ科の生き物は、本来は、人間で言えば、もろ、分裂気質的な「嫌人権」ならぬ「嫌猫権」を行使しながら,一匹ごとに,お互いにできるだけ出会わない形に別の縄張りを持ち、生殖-出産期以外は「ひとりで」行動するものみたいです。それが崩壊したのは、人間社会が「食べ物の食べ残し」「商品にならない魚介類」を大量に投棄しはじめることで、「人口密度」ならぬ「猫口密度」が増加し、「えさ場を共有」するために生じた「文化適応」とのこと!! 「猫集会」も、本来のネコ科にはみられなかった習性とのこと)

 今度は神田橋條治先生にご登場願うと(ああ、なんという「ひけらかし」野郎だ、全く)、

「人はvocal(鳴き声)コミュニケーション以外にverbal(言語の意味内容による)コミュニケーションなんぞを文化として持ったものだから、厄介な存在になった」

わけですね(ちなみに私は「フォーカシング事始め」の「共著者」です。.....ああこれでは、ひとり「虚栄の市(いち)」.....でも、さすがにサッカレーは読んでません、私)。

アフォーダンスについての記事もご参照のこと)

Genbakaranochiryouron_1
 このことを神田橋先生は"「現場からの治療論」という物語"という近刊でもお書きですけど、元はといえば精神医学は対人関係論であるサリヴァンが言ってることですよね。

↓こっちだったかな?

↓こっちにも出てきたと思う。

 いずれにしても、

 サリヴァンの
「パラタクシス的(parataxic)」「プロトタクシス的(prototaxic)」
(=バリントのいう「基底欠損(basic fault)」状態における言語交流)

と、

「シンタクシス的(syintaxic)」(=バリントの言う、「通常の成人言語水準」における交流)、つまり、サリヴァンの言う、「共人間的有効妥当性確認(consensual validation)」ができる言語交流

との間には、実は完全な断絶があるのではないと私は思う。

 文字による伝達を別にすると、人間のすべてのverbalコミュニケーションはvocalコミュニケーションと「併用される」ます。

 中島みゆきをはじめとするシンガーソングライターの歌う歌は、メロディーと歌詞とリズムと声の質、すべてが「総合的に」発揮されるからこそ、メッセージとしてのインパクトが強烈になる。

 (もとより、詩が「韻を踏む」とかいう事柄は、一種の間接的vocalコミュニケーションが暗在していると言えます。広い意味での「名文家」の文章には,必ず「リズム」があります。小才ながら、私の文も、私が「話している」つもりで読める人でないと、すーっと入ってきにくい筈です)

 また、いわゆる「非言語的コミュニケーション」を、「言語的コミュニケーション」に、一意的に「翻訳」することは、どれだけ動物行動学者が観察と実証の研究を積み重ねようと不可能なはずである。結局は、動物を「人間化」して意味づけ、理解する「比喩」であることを超えられないと思う。

 まして、生身の人間同士が相対している空間には,必ず固有の「空気の感触」や「匂い」や「息」の「相互伝達」すら存在する!! しばらく同じ空間にいるだけで,湿度や室温すら変化する筈です。

 要するに、「環界(environment)」との絶えざる相互作用の中にしか「個体」は存在しない。バリントが述べたように、

「魚のエラの中にある海水を海の中と問うか魚の中と問うかは愚問である」

(↓こっち「治療論からみた退行」ですけど、中古市場でも稀観本という理不尽が続いていますので、もしこのブログで表示されていたら、臨床家の方、即、買いと思ってください

 松木先生、バリントの正統派クライン派への批判をどうお読みですか? あるいは、サリヴァンをどう理解なさるのか?????

 私たちが有機体(organism(である限り、
 すべての存在と存在は、
 互いに
 「汚しあい」
 「清めあう」かたちでしか、
 存在しませんよ。

 それが
 「汚しあい」になるか、
 「清めあい」になるかすら、

 「紙一重」

 いや、「光」と「影」

 のような関係でしかないのではないでしょうか?????

******

 またもや、浜崎あゆみの
浜崎あゆみ - I Am... - Daybreak"Daybreak"

浜崎あゆみ/I am...4rdアルバム "I am..." 収録 

で締めくくらせていただきました。

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2006/08/12

「すべては偶然なんかじゃなく、すべては必然なコトばかりなのかも知れない」(第3版)

 先週もご紹介した、msnの「のだみ流・働(はた)楽(らく)論!」 の連載、、第12回 「計画された偶発性」の実践(前編)は、に続く、第13回の「後編」も、いよいよ素晴らしい内容です。

> クランボルツ教授は、
> 数百人のビジネスパーソンのキャリアを分析した結果、
> 「キャリアの80%は予期しない偶然の出来事によって
> 形成されている」という興味深い結論を導き出しました。

> 絶世の美女と付き合いたいなら、青山を歩け。

******

 すでにここでも詳しく書いたように、私の生涯そのものが、まるで「神様が仕組んでくれた偶然の積み重ね」めいたところがあります。

 そこでも書いたように、フォーカシングと、当時立教の村瀬孝雄先生との出会いそのものが、ほとんど「神がかり的」な偶然でした。

 更に、その孝雄先生(奥様の嘉代子先生と区別するためにこの言い方で通させていただきます)が、「不本意ながら」東大に引き抜かれてしまうという、更なる運命の転機。

 孝雄先生ご自身は、東大に移られることを「栄転」などとは全く考えておられず、立教の教授として勤め上げることしか考えていなかったのですね。

 そのくらい、学会政治的には無関心、ただ研究者としての己れの良心に誠実でありたいと願うという点では、ほんとうに「永遠の青年」のようなピュアさをお持ちでした。 「だからこそ」、一介の「フォーカシングおたく」に過ぎなかったはずの私を院生として迎えて下さったのだと思っています。

 私が決して忘れない光景。

 「これで私の人生設計はすべて無茶苦茶になった!!」

と、孝雄先生は、立教の研究室で、院生たちを目の前にして、公式発表の場で口にした途端、「号泣された」のです!!

 それは、当時M2だった私にとっても、将来への決定的危機でした。

 「村瀬あっての阿世賀の立教大学院入学」だったのだから!!

 「もし、私が立教に残っていれば、君を博士後期まで面倒見て、研究者としての道を開いてあげられたのになあ.......」

 私が博士後期課程の試験に不合格になった(これは、当時の教授会の「全く適切な」判断だったと思います。残された教授陣にフォーカシングを指導できる先生がおられなかった以上)その日、二人だけの時に、孝雄先生自身が漏らされた言葉です。

*****

 私はここで、孝雄先生自身すら考えも及ばなかった「生き残り策」探しを始めます。
 
 どうして「その時」そこまで勇気が出たのか今も思い出せません。

 「東大の大学院研究生になれないか??」

 この調査は、何と孝雄先生にも内緒、当然「置いて行かれる」他の院生にも内緒の「隠密行動」でした。

 自分で赤門をくぐり、東大大学院の入試課を訪れ、大学院研究生の募集要項を手にする。
 
 基本的には、東大の教育学研究科の教育心理専攻の博士前期課程修了者でないと資格がないことを示唆する内容が、必要条件の「第2項」までには書かれていた。

 ところが、それに続いて、次の「第3項」があるのを私は見落とさなかったのです。

> 3.これらと同じ水準にあると認められる者

 私はこのことを確認した時点で、はじめて電話で、孝雄先生に「東大の大学院研究生になれないか?」と打診しました。

「無理ではないか」

と最初言っていた孝雄先生の電話口の声が、私が、先ほどの「第3項」を伝えた瞬間に突如明るくなります。

「うん、それなら君を連れて行けるな!!」

 私が東大大学院研究生3年間という、実質博士後期満期退学に近い最後の学歴「のようなもの」を獲得し、東大や九大をはじめとする旧帝大系の心理教育相談室出身者と同等のキャリアと人脈という「財産」を手に入れるきっかけは、たったこれだけの、向こう見ずな勇気のなせる技でした。

  「フォーカシング研究者」としての阿世賀は、ここでこの決断をしなくてもこの世に存在したかもしれない。

しかし。

「開業カウンセリングにおいても十分にその能力を発揮できる、現場臨床家」

としての私は、現在、この世に存在しなかったと思います。

その後、村瀬孝雄先生が早世された「逆境」すら、私は「運」に転じてしまいました。

 亡くなった以上、自分の師に甘えられない。でもそれは、師に拘束されないということでもあります。

 それだけ自立心の強い存在になるしかない。

*****

 私の両親の健勝と経済的安定が私を支えた「だけ」ではないか、と感じる方には申し上げたい。

 仮に両親が同じ状態にあっても、私が大学院浪人のまま、ただの駄目社会人でアニメおたくであるに過ぎない人間に留まる確率は、いくらでもあったでしょう? と。

 両親が健勝で経済的に安定していさえすれば夢がかなうほど、世の中は甘いものではないでしょう? と。

 敢えて言います。両親の健勝を支えているのは、実は私がある意味で「逆境に対して不屈」で、すべてを「運」に変える力を発揮してきた「から」、でもあるのではないか?と!!

第3坂で増補:
 
私はアニメファンを決して軽蔑はしていないつもりですし、アニメおたく、即社会人として駄目とか全然思っていませんので、誤解のないように。若いフリーターの皆さんにも、「私にできない生き方をしている」と心から敬意を払っています。

 ayuファンがアニメファンより上級という意識もないです。私がayuの熱烈ファンで、コンサートにも行き、学会発表までしたと知ると、大半が受験秀才であるに過ぎない若い院生たちの大半が「引く」のを学会の場でいくらでも体験してきましたしね

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 きっと、私がayuファンというだけでスーパーバイズを受けようかどうか迷っている人たちがきっとたくさんいるでしょうけど(^^;;;;;;;)、アニメへの詳しさという点だけなら、私が斎藤環先生に全然かなわないのは間違いないです。何しろ直接の面識があり、今ご紹介した本にあたる内容の講演も、ものすごいアニメの図版集付きのパワーポイントのプレゼン付きでお聴きし、エヴァンゲリオンの深層心理私のエヴァ本ですら「とっくに」読んでおられましたから。

「だからさ、今日の講演の企画者の中にあなたがいるとわかっていたから、今日は『エヴァ』ネタ多めにしておいたでしょ?」

私はむしろ、私の存在のあり方そのものを、

「アニメおたくでayuおたくだって、
何にだってなれるかもよ。
私の後に続け!!」

励みにしてもらえれば、とすら、思ってます。

 .....これこそ「傲慢な」言い方に写るかもしれませんけど、私が「おたく」ではあっても「エリート」でないことは、このブログの読者の皆様は、もうおわかりでしょ? 私は一介の「フォーカシングおたく」としての「出自」を決して忘れないつもりです。)

******

 実は、こうした成り行きをまるで「神秘」のように感じていることそのものが、私を最終的には傲慢に陥らせない「謙虚さ」を保たせています。つまり、

「神様は、私がそれにふさわしくないと思われたら、いつでも『容赦なく』私からその役割を取り上げてしまわれるに違いない」

と感じています。

では、「私に」できるのは何か?

自分にその時与えられた状況をすべて「神の意志」とみなして

「必死に『神の声』=『フェルトセンスの声』を聞き漏らさない生き方をすること」

だけなんです。

神(=フェルトセンス)が私に「開業せよ」と命じたから開業しただけです。

私は特定の宗教の信者ではありませんが、神の「臨在」は確信しています。

*****

 なお、「神との対話」とフォーカシングの関係については、スイスの偉大な法律家にして、「幸福論」「眠られぬ世のために」で著名な宗教的著述家、カール・ヒルティについて私が書いたことをご参照下さい。

 この記事のタイトルは、浜崎あゆみの
浜崎あゆみ - I Am... - Daybreak
"Daybreak"
の歌詞より取らせていただきました。

浜崎あゆみ/I am...4rdアルバム "I am..." 収録

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2006/08/04

MSNの「太陽」の記事、ご紹介(第2版)

 またもやMSNで見つけたのですが、「太陽」

昭和天皇の敗戦前後の数日間を描くという、途方もない企てに挑戦したのは、ロシア人の監督さんだったわけですね。

 もちろん俳優の多くは日本人。昭和天皇役はイッセー尾形、皇后役が桃井かおり。

 ちなみに、桃井かおりさんは、私が一番好きな「日本人の」女優さんです(^^)

 NHKのドラマ「天下堂々」(1974)以来のファンですから、完璧な同時代ファンですね(^^)

(しかし、ナスターシャ・キンスキー、中島みゆき、浜崎あゆみ、桃井かおり、と並べると、私の永遠の憧れの女性像って何となく伝わりますよね(^^;;;;;;;))

 侍従の人の、生前の陛下の御発言についてのメモが公開されるという、絶妙のタイミングに日本公開されることになりましたが、私、断然観たいです、この映画。

 恐らく、「月一度の東京23区内での仕事の日」に銀座に観に行きます。

 パンフは、またもや親へのプレゼントとして、一部余計に買うでしょう。

 以上、「なるちゃん」、「おわちゃん」、お父様に負けずに、おじいさんのいい跡継ぎになってよね!!....の、「一郎」という「運命の名前」(「宮様」と同じ年生まれ)をもらったこういちろうより。

 ちなみに、私の両親の結婚の日は、現天皇ご夫妻の結婚の日です。親はこのことを私にひた隠しに隠していたのですが、中学の頃かな、私が「古い地方新聞の切り抜き」を父の書斎から発掘してしまって.....小さな記事でしたけど、しっかり「あやかり結婚」の記事に父母の名前がありました。

 なお、公式ホームページはこちら

******

 ソクーロフ監督の作品には、他に、ヒトラーを描いた「モレク神」、レーニンを描いた「牡牛座」があり、この「太陽」と併せて「四部作」をめざしているそうです。しかしこの2作はまだDVD化されていないそうなので、90分ワン・カットという手法での美しい映像が話題となったという、エルミタージュ幻想「エルミタージュ幻想」をご紹介しておきます。私も未見の映画ですが。

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2006/07/30

演歌世代の親父に捧げる中島みゆき(第2版)

公表します!!

演歌世代の親父に捧げる中島みゆき
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 敗戦時に、大陸から引き上げる際に父(私の祖父)を亡くし、学歴もないまま自営業者として大成し、私を育ててくれた老父への感謝と、これからもよろしくという思いを込めて、業種こそ違うものの、独立自営の道を歩み始めた45歳の中年息子が捧げます。

 みゆきって、ある意味で、究極の「演歌」そのものだと思うんです。でも、父の世代はまだそのことに気づかないままなんですよね。それって、あまりにもったいないなあ、という思いを込めました。

 父の世代の皆様への、中島みゆき入門選集のつもりでもありますが、いかがでしょう?


      (以上、iMix上のメッセージより転載)

 ちなみに、この内容を読むには、iTunesの自動インストールを求められるはずです。

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ちなみに、今の私が一番思い入れのある中島みゆきの曲は.....

【CD】中島みゆき / Singles II <2004/7/21>中島みゆき/歌でしか言えない"Maybe"です。
中島みゆき - 歌でしか言えない - Maybe

 恐らく、カラオケで今歌えといわれたら、最後まで「冷静に」歌い通せる自信はないですね(^^)

 でも、この歌ぐらい、深い癒しがある曲はないと思いますよ。

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インタラクティヴ・フォーカシング
でいう、

"compassion"(=痛みを-共にする-こと)

極致の曲の一つ
だと思います。

 この歌と、この歌を好きだという人を、どのように受容できるか?

 そこに、そのカウンセラーの力量もろにあらわれると思います。

少なくとも、その場に居続けるのもつらくなる人や、表面的な「同情」の言葉しかかけられないようなら、そのカウンセラーは現場に出る資格はないと、私は確信していますが。

 逆に、この歌を、かっこいい、希望に満ちた歌だ....としか感じない人も、どんなもんでしょうかねぇ.......

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すでにiMix送信はしました

 あとは、iTunes Music Store側の処理を待つだけです。

 どれが私のiMixかは、私が掲載を確認した時点でお知らせします。

 でも、わかる人にはiMixのタイトルだけでもろわかりと思います。

 相当に、選曲と「曲順」にこだわりましたので、興味のある方はよろしく!!

 ちょっと「前期」に選曲が偏っているのは、同時代ファンから一度離れた「中期」以降がまだ聴き込み不足のせいです。このあたり、今後アップデートしていくと思います。

 iTunes Music Store(Japan)

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2006/07/20

今後、大学学生相談において、従来の「社会的引きこもり」に相当する学生についての相談は減って行く可能性がある(1) [第2版]

 30歳前後までの若い世代が陥りやすいとされていた問題として、「摂食障害」と、「引きこもり」が代表的なものとされてきたことに異論を挟む人は少なくないだろう。

 これら2つは、その時代の文化や社会、経済・雇用情勢や学校教育、マスコミの報道のあり方と密接に結びつき、ほとんど10年から12年という短期間のスパンで見ても、世代によって、その中心となる病態(私は「引きこもり」に対して「病気」という言葉を使うことに著しい抵抗感があるが)が、驚くほどのスピードで変化して来たことに特徴がある。

 摂食障害は、まずは「拒食症」(神経性無食欲症 anorexia nervosa)が注目を集めた。

karen そのひとつのきっかけが,1983年、カーペンターズ
Carpenters - The Carpenters: The Singles 1969-1981
のカレン・カーペンターがこの病の末に心臓発作で亡くなったことがマスコミで大きく取り上げられたことがが大きかったことを覚えておられる世代の方は少なくないだろう。

 なお、カーペンターズの伝記としては、
「カレン・カーペンター -栄光と悲劇の物語-」(レイ・コールマン著)
が、生育歴、音楽面、
私生活、カレンの病状を含めて、
たいへん秀逸である。

 しかし、摂食障害は、病態の中心を次第に、いわゆる「過食症」、すなわち「神経性大食症 Bulimia nervosa」に病態を移して行く。
 .....というか、「拒食症と過食症を往復する」形で、著しい体重の増減を繰り返す事例が多かった時代があるように思う。

 そして更に、無茶食いと自発的嘔吐を衝動的に「一気に引き続いて」行う、「過食嘔吐」を中心とする時代へと移行して来たように思われる。なお、過食嘔吐をする人は、実際には拒食症と近い、脳や身体の生理学的状態にあるとされることが多いようである。

 私は、20年弱におよぶ大学学生相談のカウンセラーとしての経験の中で、これらすべての病態のクライエントさんとお会いでき、その中心となる病態の変化をすべて体験できた世代である。

*********

 さて、これと似た、比較的短期間における、主たる様式の変化があったのが、大学における、いわゆる「退却神経症」である。

 大学生における退却神経症は、古典的な分類においては、「1.選択的退却」「2.全面退却」とに分類されていた。私はこれらに加えて「3.進路選択延期型退却」という分類も考えてみたい。

 1.「選択的退却」とは、

 「学生における本分である(???)学業、すなわち、講義への出席と試験、レポートの提出をほとんどやれない状態になっているが、アルバイトやサークル活動などの形での集団や社会への参加には積極的であり、しかも卒業後のそなえての求職活動はほとんどしないまま、ずるずると卒業を延期するが、すっぱりと大学をやめてしまったり、他大学や他学科、専門学校などへの転学をするわけでもなく、今日で言う「フリーター」としての生き方や、少なくとも自分がほんとうに就きたい職業を目指しての積極的活動(大学院受験、小説家や漫画家や、インディーズであってもミュージシャンとして生計をたてることをめざしての活動、職人への弟子入りなど含む)を「積極的に」していくわけでもない学生たち」

といったあたりであろうか。

*******

 2.これに対して大学学生相談における「全面退却」とは、

「学業のみならず、大学の対人関係そのものになじめず、友達もできず、サークルも、入ったとしても短期間のうちにやめてしまい、かといってアルバイトもほとんどしないまま、大学や社会に『居場所がない』と感じつつ、ずるずると進級→卒業を延期する学生。得てして自宅やアパートに引きこもり、近くのコンビニや買い物以外の活動はできず、主なる生活資金は親からの援助に依存している

......こういった場合である。

 私は、この「2.全面退却」型の中に、更に、

2-a.「特定の趣味などへの強烈な好奇心と、そのための『消費活動』(ネットブログや掲示板への書き込みにも積極的)という形で、限定された接点ではあるが、外の世界や対人関係への強烈な関心と『経済活動』『社会参加』はできるタイプ」

と、

2-b.「好きなものは何か? と尋ねられても答えに困惑するばかりで、毎日をテレビやネットの『閲覧』のみで『漫然と』過ごすタイプ」

が更に分類でき、これらのの二つのサブ・タイプはかなり異質だと、学生相談現場での経験から、感じ続けていた。

 (最近は、それこそアフィリエイトのネットショップネットオークション、中古市場取引で利ざやを稼ぐ人や、有料会員制のサイトの運営、ソフトの制作・販売などのインターネット活動は積極的に繰り広げる中で、生活資金は自前で見事に稼いでいるという人たちも増えて来た。このタイプの人は、この2つの「古典的な」退却神経症のイメージにはまらない、独特の社会「適応」・社会経済活動への「積極参加」の様式と考えられるが、そうしたケースはここではまだ詳しく論じず、別の機会に譲りたい)。

********
 3. さて、もう一つのケースとして私が提案する、「進路選択延期型退却」というのは、

「大学での学業には非常に積極的に関与し、成績も得てして優秀であり、講義やゼミへの出席率もきわめて高い。しかし、自分からのブライベートな対人関係の形成や、自分からの自発的なバイト探しはできず、大学内部を離れると友人関係は、高校や中学時代からの友人に限定される。かといって、大学院に進学するなどして研究者や専門家(司法資格や臨床心理士)への道を踏み出そうという、「積極的な努力」にはなかなか踏み切れない。そして、就職活動に対しては極めて消極的で、自分が「一般社会」で大人として生きて行けるかどうかに不安を抱えたまま、「卒業延期」したり、「卒業しても」、他大学や大学院、司法試験に向けての積極的な「受験勉強」にはなかなか「身が入らない」

 はっきりいいますが、すでにここで書いた通り、私は3.タイプの学部学生でした。A獲得率92%、いわゆる「落とした」単位ゼロ、講義やゼミへの無遅刻無欠席。就職課に入ったことなし。所属したサークルは「臨床心理自主ゼミ(この自主ゼミはその後、実際の臨床心理士や福祉専門職ばかりではなく、「意外な」業界の「意外な」人材を何名も輩出するのだが)」、心理療法やカウンセリングの本は山ほど読んでいるけれども、他大学の心理学大学院への「受験勉強」、特に「非・臨床系」の勉強には内的葛藤が激し過ぎて、現役合格似失敗。(心理学系の大学院は「その当時」その大学になかった)
 でも、卒業はしてしまい、親に許しを得て、「専業大学院浪人」となり、幾つもの大学の心理系の聴講生となる。
 私の場合には、そうやって実質「プータロー」になりたての年の5月、ジェンドリンの著書「フォーカシング」との運命の出会いがあり、フォーカシングの専門の先生のもとでフォーカシングを更に深く学ぶためなら、実験系や学習心理、社会心理、統計などの「非-臨床系」の心理学を独学で勉強することにも積極的になろう、と思えたところで、やっと人生の方向がとりあえず定まったことはすでに別の記事で書きました。

 この時点では、「研究者」を目指すか、「現場臨床家」を目指すかは判断がつきませんでした。ただ、本音のところでは、優秀な「現場臨床家(psychotherapist)」の方が「臨床心理学者(clinical psychologist)」よりも偉い!!(^^;A .......となぜか感じていましたね。そちらになれる自信は「まるで」なかったのですが。

 その後、非常勤12年、そして「常勤」の学生相談カウンセラーを5年務め、フォーカシングでは、「国際資格認定資格者」としてまで認めていただき、そして独立開業したわけですから、私は、職業面では、すでに自分の人生の最大の夢の実現者です。

 あとは、職業人としては、

現場臨床家としての腕を『生涯、絶えず、更に』磨き続けたい」

ということと、

「も少し生計安定したい」

そして、

「自分が学んで、身につけて来たものを、きちんと後続の世代に遺産として残したい」

だけですね。

 ま、3つめは、いつ私が死んでも、「このブログを遺著として編集して出版して欲しい」という遺言だけは、『すでに公然と』このブログ自体で繰り返して書いて来た通りです。
 もちろん、生きられるなら100まで絶対生きたいし、許されるならば、身体が動くうちに、世界の私が本でしか知らない国々を、実際に旅してまわって、観てみたいのですが。優先順位は、イスラエル、ドイツ・オーストリア、スペイン・ボルトガル、スイス、ペルー・チリ、アイルランド、イギリス、オーストラリア、オランダというあたりかな。

************

 ちょと一息、私のフェルトセンスが「一息つきたい」と言い出しましたたので、未完のままでとりあえずアップします。

 続き、すなわち、今後これまでの意味での「引きこもり」は、少なくとも「大学の学生相談の対象としては」確実に減少する、という、私の肝心な見解の部分は、また今度に。

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2006/07/13

あなたの身近な「町のカウンセラー」を目指しています。(第3版)


ispot ココロとカラダの癒しすぽっと検索ispot
会員の皆様、はじめまして。

 神奈川県の大船で「湘南フォーカシング・カウンセリングルーム」を開業しております、臨床心理士(資格証明書↑)の資格を持つカウンセラーの、阿世賀(あせが)と申します。

(「臨床心理士」ですが、「医者」ではありません)

 20年近くにわたる、大学学生相談と、社会人の方を中心とするカウンセラーのキャリアを経て、2005年7月11日に独立開業いたしました(ちょうど1周年!)

 臨床心理士と共に、アメリカに本拠を置く、フォーカシングのNPO国際組織、"The Focusing Institute"から、

  ○フォーカシング・トレーナー
  ○フォーカシング指向心理療法(FOT)セラピスト

更に、

  ○コーディネーター
  (トレーナー、FOTセラピストの養成、資格認定資格者)   

としての国際資格を頂いております。

 フォーカシングを学べる場所は日本各地に数十箇所ありますが、土日、平日問わず、定休日以外、一日8時間開業しており、しかもその相談機関の公式名称そのものに「フォーカシング」を冠した常設相談機関は、不肖私が、「日本初」のようです(2006年7月13日現在)。

*****

 では、私に相談して下さる場合に、その「フォーカシング」という技法だけが使われるのか.....ですって?

 いえ、そんなことはありません!!

 私が開業をする際に心に決めたこと、それは、地域に溶け込む、

   「町医者」ならぬ、

   「町のカウンセラー」

になるぞ!! ということでした。

 「町医者」は、もちろん重たい疾患の場合でしたら、検査や入院・手術のの施設の整った「専門の病院」や「地域の中核となる総合医療施設」、「大学病院」などを紹介するでしょう。

 でも、「町医者」は、とりあえず「内科」の看板を抱えていても、傷の応急手当のような「外科」的な緊急処置もとらねばならないでしょう。「目や耳にゴミが入って取れない」という訴えにも応じなければならない。時には、時間の余裕があれば、孤独な老人の話し相手にもなるのが自然かもしれませんよね。

 実は、「現場カウンセリング」というのも、そのような「町医者」と、似たところがあると思っています。

 現実の医療現場では、特に緊急の場合、

「私は『内科医』だから、『外科』『脳神経外科』『婦人科』がふさわしい方は最初からお断りします」

.....なんてことないでしょ? 

 必要な基本的診察はした上で、患者や家族が必要以上の動揺しないようにいさめた上で、自分で対応できないと感じたら他院への紹介状を書いたり、連絡先は教えるでしょう? 一刻を争うようなら救急医療の手配までしてくれるでしょう。

 これと同じようなことがカウンセラーにも必要だと思います。 

 「ストーカーの被害に遭っているんです」
 「.....それじゃ警察に行きなさい」

 「キャッチセールスにひっかかったようです」
 「....それなら、消費者センターに電話しなさい」

 「リストラの後、仕事が見つからなくて、困っています」
 「....それなら、ハローワーク(職安)に行ったらどうですか?」

だけで終わらせているカウンセラーがいるとすれば、

  「そんなことは、とっくにわかっている」
   はずのその人が、
   なぜ「カウンセリングの」門をたたいたのか

という、「一番大事な」その人の「思い」を見落としていると思うんですよね。

 もちろん、私も、それが適切と考えれば、警察や医療、地域精神保健、消費者センターなどを速(すみ)やかにご紹介しますし、そういう外部機関との関わり方についての「コツ」も伝授いたします。

 でも、恐らくその人は、

  「誰にも相談できない」という、
  「孤立無援」の思い

を抱えて、行き詰まった果てに、まずはカウンセラーの門をたたいた、ということは、決して忘れてはならないと思っています。

******

 あと、もうひとつ、

    なかなかよそでは読めない、
    「ホンネの話」

を書きますね(^^)

 カウンセリングや心理療法、いろんな「流派」「手法」があります。

「精神分析」「分析心理学(ユング派)」「来談者中心療法(ロジャーズ派)」「認知行動療法」「行動療法」「論理療法」「森田療法」「内観療法」「催眠療法」「箱庭療法」「絵画療法」「プロセス指向心理療法」「解決指向(ソリューション・フォーカスド)心理療法」「EMDR」などなど。

 どの療法が「すぐれている」かですって?

 実は、特殊なケースを除くと、

  ある「療法」より、
  別な「流派」の別の「療法」の方が
  効き目がある

なんていうことは「ほとんど全くない」ですよ!!

 どの「流派」を看板に掲げていても、大抵のクライエントさん(相談においでになる方)にとって、

  いいカウンセラーはいいカウンセラー

なんです!!

 おもしろいもので、そういう、各流派の「達人」の域に達したカウンセラーの人同士は、

  「カウンセリングのエッセンス」

のところではお互いに予想外に理解し合えるし、他流派のカウンセラーの方々からも尊敬され、その他流派の「達人」の発言や著作に、感銘を受け、耳を傾け、謙虚に学ぼうとするものなのです。

 私も、まだとても「達人」の域には届きませんが、20年のキャリアの中で培われた「経験値」のすべてを動員して、皆様のお役に立てるように努めるつもりです。

*****

 実は、そういう「現場から学ぶ」経験値を高める上では、「私が」何より「自分個人のための」スキルとして、フォーカシングを学んできたことは、「私にとって」役に立ってきたという確信はあります。

 そして、皆様にとっても、フォーカシングを学び、身につけることは、例えば、

「経営者として」
「営業担当として」
「インディーズの街頭ミュージシャンとして」
「ファッションデザイナーとして」
「理系の研究者として」
「求職中のリクルーターとして」
「コンビュータのSEとして」
「役者として」
「地域の自治会役員として」
「専業主婦として」
「サーファーとして」
「イラストレーターとして」
「運動選手として」
「浜崎あゆみのコンサートツアーの『追っかけ』として」
「牧畜業者として」
「趣味のオーディオファンとして」
「新聞記者として」
「フリーターとして」
「テレビ局のディレクターとして」
「政治家として」

そして、

「カウンセラーとして」

のあなたの「経験値」を、分野に関係なく、

   「最大限に効率よく」

高めるものではないか.....とは、思っています。

(2006/7/12 23:38 記)

================

以上、
ispot ココロとカラダの癒しすぽっと検索
「支店」Websiteの、「メッセージ」という、私が自由に書き換え可能な部分に掲載した文章のタイトルまで、そのまんまの転載です。

*******

 7月11日に開業一周年を迎えました。
 
 その節目に当たり、

この文章ほど、私の経営理念を、現段階で「総括」した文章はない、

という確信が持てました。

 そして、

  なぜこのブログが、
「こういう」何でもありのブログなのか

についても、これ以上の解答はないとも自負いたします。

*******

 なお、私がこの「メッセージ」を書く時に、絶えず脳裏に浮かべていたのが、中島みゆきの中島みゆき/銀の龍の背に乗って銀の龍の背に乗ってであり
中島みゆき - 恋文 - 銀の龍の背に乗って

(アルバム【CD】中島みゆき / 恋文 <2003/11/19>「恋文」
および、スタジオライブDVD、ライヴ!〜Live at Sony Pictures Studios in L.A."Live at Sony Pictures Studios in L A."収録)

であり、しかも正確には、中島みゆき/歌姫 LIVE in L.A.収録のブロモーションビデオの方の映像が脳裏に浮かび続けていたことは、白状しておきます(^^;A

つまり、◆ただいまポイント2倍! Dr.コトー診療所 スペシャル・エディション 1 ◆20%OFF!「Dr.コトー診療所」っぽかったりして?(ちなみに、私はこのTVドラマ,全然観てませんので)

いかにも、過ぎる?
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2006/07/10

フォーカシングは、分野に関係なく、その人が「現場経験」から学び取る力を圧倒的に高める(第2版)

  フォーカシングを、
  「心理療法」や「カウンセリング」、
  「癒し」
  の観点からのみとらえるのは
  「あまりにも狭い」。

  フォーカシングとは、
  人が、この世を生きる上で
  自分の「経験(experience)」から学び、
  それを「消化し」、
  「活用する」力を
  最大限に拡張する可能性を秘めた、

  「現実を生き抜く」ための技能(skill)である。

******


ispot ココロとカラダの癒しすぽっと検索
「支店」Websiteの方は、「メニュー」のコースごとの詳しい解説のアップはすでにアップされましたね( ^ ^ )

(文体が違うって? 臨機応変、これも私の書いたもの「そのまんま」を編集者の方に部分的に切り詰める添削していただいただけですよん!)。

 ところが、何と「メッセージ」の方、まだシステムに不慣れな私の操作ミスのせいか、送信したままネットのブラックホールに吸い込まれてしまったらしいです(^^;A

 そこで、私が、この前、自分で思い浮かんだ途端に「肩の荷が降りた」といいつつ出し惜しんだ後半部分を、ispot用決定稿(7/13追記:記憶を頼りに2度書いたおかげで、むしろ遥かに練り込まれたものになりました)ほどくだけていない表現(???)で、先に公開します。

******

 ジェンドリン自身、ある論文の中で、"economical instinct"=経営的な「勘」と呼ばれてきたものも、実は、その人が、特に技法として学ばなくても身につけていた「フォーカシング能力」そのものではないか、と、明言しています。

 そしてまた、ジェンドリンは、フォーカシングと政治との関わりについても、いくつかの言及をしてます。そこに「茨の道」が待っていることを示唆しつつも。

フォーカシングで経営的に成功できるか?
フォーカシングで政治家として大きな足跡を残せるか?
フォーカシングでワールドカップの名選手になれるか?

 .....そこまでいかなくても、それがどのような分野であれ、その人の可能性が、本人自身驚くような紆余曲折ある展開を経ながらも、実は一番無理がない、足が地に着いた形で、最後には少なからぬ人に理解される形で、その人なりのささやかな花を咲かせるとは思っています。

 なぜなら、経験から学び取り、活用する消化力だけは抜群に高めるから。

 名もなき「地上の星」ぐらいには歴史に刻印されると。

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2006/07/06

続・『信』なき理解 -援助職の人自身の人間関係の光と影-(第3版 画龍点晴的増補!!)

 大好評をいただきました「『信』なき理解」ですが、

  今度はこの問題を、
  クライエントさんとカウンセラーの関係の問題から、
  カウンセラー同士、
  あるいは、看護や福祉、
  地域精神保健等を含む、
  広い意味での「援助職の人間どうし」や、
  「私的な」人間関係

に拡張してみようかと思います。

*****

 流派や個人差によってある程度違いがあるかとは思いますが、一般に援助職に携わる人間は、

  「相手の話をまずは受容的に傾聴し、
   相手を不要に傷つけないように応答する」

のが「習い症」になっています。

 これを、クライエントさんとの関係を離れたら、即座にスイッチを切り替えて、相手に愚痴も言えば怒りもぶつける「普通の」人間関係切り返られるものかとうか?

  援助職に就く人というのは、
  もともと他人の痛みに
  我がことのように「同情」し易く、
  普段の日常の人間関係でも、
  周囲の人の相談相手としても、
  「聴き役」になったり、

  あるいは少なくとも、
  家族や集団の中で、
  相手に不平不満をいわないで
  大人しく「いい子」として
  従順に、
  あるいは、 
  「甲斐々々(かいがい)しく」
  ふるまったり、

  自分を殺して「いじめられ役」
  になっていた人

.......が、(すべてではないですけど)かなりのパーセンテージを占めていることは確かでしょう。

 自分で自分の人生に悩んだり、
自分自身が、「救いがない(helplessness)」人生経験をした教訓を生かして、自分が、人を援助する仕事に就こうと思うようになった人たちが少なくないはずです。

*****

  こういう人が、
  相手のことを受容し、
  傷つけない応対の仕方を、
  更に「職業的訓練」として学んでしまうと
  私生活での対人関係はどうなるか?

****

 .......もう、目に見えていますよね。

 場合によっては、前回書いた、クライエントさんとカウンセラーとの関係より悲惨な状況が待ち構えていることは。

 何しろ、問題は、もはや、

  1時間なら1時間の「『枠』のある面接構造」、
  一日8時間の「勤務時間」
  の外側での私生活の領域なんだから、
  24時間営業、逃げ場がないのです。

*****

 そして、援助者同士の人間関係というのも、職場の中であるか否かに関係なく、一つ間違うと、悲惨な側面を抱え込みます。

   「この人はじっくり話を聞いてくれる」
    からといって、
    それが「相手の本心」からかどうか、
    まるで信頼できない。
    
   だって、
   その話し相手は
   「カウンセラー」
   なんだもの!!

  
   裏でどんな陰口を言われているか、
   わかったものじゃない。
   それどころか、
   自分のいない席では、同僚たちは、

   「あの人は『病気』だ」

   という噂すら立っているのに、
   普段は全くにこやかに、
   「職業的仮面」をかぶって、
   「私にも」、みんなぐるになって

   「何ともないかのような」
   「しらばっくれた」

   顔をしているのではないか????


.........こういうふうにカウンセラーひとりひとりが「お互いに」職場で同僚に「疑心暗鬼」の中で「腹の探り合い」ばかりしていたとしても、

   それはその人個人の「被害妄想」ではなく

   そういう状況におかれたら、
   誰でも陥る可能性がある
   「集団心理的」な
   異常な対人関係の場

であるからだということは、一般の皆様にも、お察しいただけるかと思います。


******


 この問題について、私が知る限り、唯一真正面から取り扱った名著をご紹介します。

Machtvonhelfer
グッゲンビュール=クレイグ著「心理療法の光と影 -援助的専門家の「力」-」

 この方は、ユング派の重鎮のひとりですから、ユング派の用語が多く使われていますが、書かれている内容の「普遍性」に関しては、最低限のユング派用語を理解できる援助的専門家の方は、胸をえぐられる思いをなさるかもしれません。

 スイスのユング研究所の研修生の間では「青本」と呼ばれる、必読の教科書の一つとのことです。

   ここで展開される、
   「傷ついた癒し手」
   という元型をキーワードとする論述は、
   援助職に就く者の内面の暗部(「影」)
   情け容赦なく抉り出すと同時に、
   そうした「影」との戦い、克服の過程で
   はじめて得られる癒しについて、
   すべての「援助職」の人に
   生きる勇気と希望の「光」となり、
   「標(しるべ)の星」ともなる、
   感動的な名著だと思います。

 永らく再販されていなかったこの本の復活を私は心から喜んでいます。

    「私の敬愛する本ベスト5」のひとつ。

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2006/06/25

「ユーミンのデニース伝説 III」、『第2版』公開を敢えてここでご報告します!!

直前の記事、「ユーミンのデニース伝説 III」、第2版を公開しました。

前半は初版のままです。一文字も変えていません。
第2版では、後半に大幅な加筆があります。

初版をお読みの方、どうか「必ず」ご再読下さい。

********

 敢えて付言します。

 初版をアップした後、私の中に残った、微妙な、言葉にならない違和感

    「何なんだ、このモヤモヤは?」

これが、フォーカシングで言う「フェルトセンス」です!!

 フォーカシングが完全に身に付いている私は、こういう時、教示の段取りとか、関係なく、もはや無意識的にフォーカシング状態に入ります。

 すると、生じて来た、忘れていた細部の記憶の蘇り。

なぜ私はあの『母」と『子』、両方を救いたくなったのか」

について、私自身がショックを受けるくらいの「気づき」「洞察」が突然訪れ、

更に、みゆきの

> 私の敵は 私です

という歌詞が唐突に思い浮かんだ瞬間、

私は涙が止まらなくなりました。

これが、フォーカシングを「身につけている」ということです!!

|

2006/05/02

見捨てないで

どうか、精神科医カウンセラーを、

「見捨てないであげて」欲しい。

*****

そして、精神科医やカウンセラーたちよ、

「立ち-往生」させられること(=生きながらにして、殺されること)を、

光栄に思いなさい。

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2006/04/19

My Policy

「善良なる者或いは凡庸なる人の前方へ、より優れた人に道を開けてやるだけの見識や自己犠牲の気持ちを持たない者は誰でも『悪しき目で見る者』即ち妬む者である」

ラモン・メネンデス・ピダル

Elcidbook「エル・シッド・カンペアドル」安達丈夫訳 p.329より

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2006/02/24

「エル・シド」こそ、今の時代に世界中の人にもう一度見てもらいたい名画である!!

前回の書き込みの第4版の時点で追加した、エル・シド「エル・シド」、結局、どうしてもまた見たくなってDVD発注していたんです。

なぜ、この映画の細部を忘れているのに、子供心に、「訳の分からないくらいのインパクト」があったのか?

30数年ぶりに見て、その謎は簡単に解けました。

敢えて、内容については触れません。

ただ、いわゆる「スペイン」という国か「成立」するまでの、中世末期の歴史を頭に入れてから見直すと、実はこの映画の、時代を超えた「名画」(ひょっとしたら、「深み」という点ではベン・ハー コレクターズ・エディション <初回限定生産>「ベン・ハー」すら超える「超傑作」)であることが一層よくわかります。

たとえこの映画に「多少の」史実との違いがあったとしても、

「政治」を担うとは何なのか、

「外交」とは何なのか

について、ここまで深く考えさせる映画は稀でしょう。

******

ただの

「贅沢に費用をつぎ込んだ歴史ものスペクタクル」

と思っていた方、

実はこの映画の「ほんとうの凄さ」の鍵を握っているのが、

「脚本」を書いた人物の卓抜な「歴史観」「政治観」なのではないか

ということは、強調しておきたいと思います。

****


エル・シドについては、こちらに続きがあります。

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2006/02/17

「歴史」が、たいていの若い世代にとって「暗記科目」に過ぎない現状では.....(第6版 「エル・シド」の項大増補!!)

「侵略」であろうと「進出」であろうと、どっちでもいいでしょ?

といいたくなります。

そういう「言葉尻」が問題になるという背景には、

「歴史教育についての『統一見解』を『国家の責任』で作り、『国民に教育』する義務がある」

ということが「自明の前提」として含まれているわけですね。

......ということは、「歴史教科書批判」をしてくる国も、「それへの対応を迫られる国」も、

およそ、

「『正しい』「公教育」というものを『政府が検閲』し、正しい認識を『与える』べきである」

という大前提を、

政府も国民の多くも、暗黙のうちに受容してしまっている、

「不精な」国民・国家

なのだと、私は判断します。

*****

歴史上のどんな事件でも結構です。

例えば「トゥール=ポアチエの戦い」としますね。

西暦732年に、イスラム教徒国家が「フランク王国」にそれ以上進入しようとするのを食い止めた、という意味で、イスラム教国家の、ヨーロッパ大陸「西側からの」それ以上の「進入=進出=侵略」を不可能にした、世界史上の重大な転機がかこの戦いであることには変わりがありません。

しかし、恐らく日本の「大学受験生」なら、

1.この時のフランク王国がまだ「メロヴィング朝」であり、「カロリング朝」ではないこと

2.この時のフランク王国の実質的な支配者が「宮宰」(摂政のようなもの)の「カール・マルテル」であり、いわゆる「シャルルマーニュ大帝{カール1世)(追記参照)」ではないこと

(追記:私は正確には、これでは「シャルル『大』大帝」になることを知っている。「シャルル大帝」か「カール大帝」か「シャルルマーニュ帝」か、単に「シャルルマーニュ」にしないとおかしいのは知っている。しかし、それこそ、この「カール(シャルル)」帝へは、法王からの「ローマ帝国皇帝」の王冠を捧げられ(ゲルマン人初?)、孫3人に、今日の「ドイツ」「フランス」「イタリア」の原型となる形で国を分割相続する伏線となり、「カロリング朝ルネサンス」といわれる、旧ローマ帝国の学問・文化を積極的に復興することへの積極的貢献など、ラテン(旧ローマ帝国)系とゲルマン系を統合した意味での「中世ヨーロッパ」世界の「とりあえずの」確立において政治的・文化的に果たした役割のあまりの「巨大さ」から、「唯一無比の」の「カール」という意識が無茶強いので、「確信犯的に」、この、屋根屋を重ねる言い方を「好んで」いる(^^;)。

ちなみに、彼の祖父、いわゆる、「カール・マルテル」は、イスラム教徒軍勢のイベリア半島を越えた本格的侵入に)『鉄槌』かました『カール』」と言う意味で、後の時代の人が読んだことに由来。世界史的に大事なのは、何より「祖父(マルテル)」と「この人(大帝)」を混同しないことであろう)

3.この戦いを、「ローランの歌」で有名な、778年の「ロンズウォーの戦い」における「カール大帝」の「バスク人への」勝利と混同しないこと

4.しかしこれらの戦いの後にイスラム教国家が、即、イベリア半島から消滅したのではなく、「レコンキスタ」の完全な成功は、何とスペイン(カスティーリア王国)による1492年のグラダナ陥落までかかっていること。

..........ここまで掌握していれば、私の大学受験時代、私立文系の最難関といわれた、早稲田政経学部の世界史の要求水準を満たしていたでしょう。

(「以下の記述の中から、間違っているものを選べ」的設問の「引っ掛け」選択肢になりそうなのは、これらのポイントです)


(この20年の間に、偏差値の数字と受験学力との関係は「ものすごい大暴落」を起こしていて、当時の早稲田の政経合格に必要な水準の「受験勉強」など、今の日本の「どの」大学でも求めていない、「とてつもない」域であったことを忘れてはなりません)

ちなみに、「ローランの歌」は、これら「すべての」混同に加えて、イギリスの「アーサー王伝説」(6世紀から8世紀にかけて成立)における「円卓の12人の騎士」の伝説すら「一緒くたに」なって、しかも11世紀の「十字軍派遣」を背景に成立した叙事詩であります。

(以下アーサー王関係商品のリンク)
王様の剣劇場未公開部分約16分を追加した“ディレクターズ・カット版”ブエナビスタ・ホームエンターテ...魔法の剣 キャメロット 特別版(期間限定) ◆20%OFF!エクスカリバー戦記 【OPSD-S107】=>18%OFF!エクスカリバー戦記【送料一律380円】【新品】 ブロークン・ソード 〜眠れる竜の伝説〜(PS2)バンダ・シンフォニア/リック・ウェイクマン〜アーサー王と円卓の騎士達〜イギリス生まれの物語たち図説アーサー王百科〈民族起源〉の精神史感動の世界名作アニメ アーサー王物語

ですから、この「ローランの歌」成立当時(のヨーロッパ人は、もはや自分たちの過去の歴史を「その程度」にしか掌握していない、まさに『歴史認識』における「中世の暗黒時代」にあったという点では、もはや同時代のイスラム教国家の歴史家の高度な客観性に全く歯が立たない状態だったみたいです。

(ただ、イスラム教国家側の王の武勇を賞賛する内容も含まれているので、ダンテの「神曲」が、ムハンマド(モハメット)が地獄に落ちた醜い悪者として描写されたためにイスラム教国家でも「禁書」扱いになっているのと同様な扱いは至っていないようです。

*****

ちょっと年号だけはwikipediaで再確認させていただきましたが、ロランの歌岩波版の「ロランの歌」の訳者の解説の部分まで読めば、こうしたことはほとんど全部掌握できます!!

副読本として、シャルルマーニュ伝説ブルフィンチの「シャルルマーニュ伝説」があれば一層パーペキです!!

なお、はっきりバラしますけど、「中世初期のフランク王国とイスラム勢力との関係」というのは、私が(後で詳しく述べるようなきっかけを経て、中学時代から関心を深めてきた特別「興味の深い」領域だから、wikipediaの助けだけで、即席でこの程度に仕上げられるという「だけ」のことですから(^^;)

*******

歴史的「叙述」というものには、およそどんな場合でも、その時代の「政治状況」や「国民的偏見」から自由になれません。

まして、歴史上の登場人物や階層、民族が「どういうと意図で」のそのように行動したか、という時限になると、結局、その歴史叙述をする人の「世界観」ばかりか、個人としての「価値観」や「もののとらえ方」によって再構成された「物語」であることとを私は決して越えられないと思います。

歴史や政治とは、どの時代のどんな特定の「事件」だけをサカナにしても、このような、羅生門芥川の「藪の中」(=黒澤明のジェネオン エンタテインメント 羅生門 デラックス版映画「羅生門」に陥ることに目覚め、人からの受け売りや新聞やテレビの報道を妄信しないことが大事だ、ということに気づき、自分なりにいろんな情報をいろんな次元で探したり、場合によっては「事件の現地や史跡や博物館の展示」に足を運んででも、「自分なりに」視野を広げることそのものに「醍醐味がある」のです。

そのことに目覚めさせないような、そんな「歴史教育」なら、無意味です。

例えば、「世界史」の時間の1ヶ月間が、例えば「トゥール-ポアティエ間の戦い」という一つのテーマに絞って、生徒ひとりひとりにネットや図書館とかを駆使して勝手に調べさせ、

先ほど述べたような、「果てしないくらいに無尽蔵な」当時のさまざまな社会的現実や事件との連鎖反応的関連について何でも自分なりにレポートにまとめ、「どんな方法で」それをプレセンテーションしてもいいとします

例えば、●3000円以上購入で全国送料無料!(一部地域除)ジョン・ウィリアムズ/アルハンブラ宮殿の思...ギター曲の「アルハンブラ宮殿の思い出」を弾いてみせる生徒がいてもいいし、

ひとりの生徒の提案で、何なら3コマ分ぐらいブッ通しで、映画、「エル・シド」の鑑賞会をしてもいいではないですか。

*******

エル・シド「エル・シド」は、私が子供の頃、偶然、テレビで見て、ともかく、スペインでの、イスラム教徒との戦いということだけは当時の私にもわかりまました。

迫り来る圧倒的な数の「海を渡って来た」イスラムの大群の脅威を前にして、自分の城で瀕死の身体でありつつ、「スペインの『英雄』であることを「一身に引き受けた」、エル・シドの、何とかスペインを守りたいという強烈な使命感と「今、生きて戦いに赴ける身体ではない」ことへの「断腸の思い」がひたひたと伝わって来たのだけは覚えていました。

そして、ラストシーンの記憶は失われていたのに、見終わった直後、とてつもない「衝撃」をうけたことだけは「身体が」覚えていました。

(そういう彼を支える妻の役って、ソフィア・ローレンだったんですね。主人公役がパラマウント ホーム エンタテインメント 十戒 スペシャル・コレクターズ・エディション「十戒」ベン・ハー コレクターズ・エディション <初回限定生産>「ベン・ハー」と同じ人(=チャールトン・へストン)なのは子供の私にもわかりましたが)。

私の、広い意味での、中世のヨーロッパ西方でのイスラム国家との戦いに関心を持つ「原点」が実はこの映画です

ただ、当時の受験参考書や百科事典水準の史料では「エル・シド」の名前を見つけられなかったもので、

この戦いは「トゥール・ポアチエ」か? あ、違った

あれ、「ロランの歌」の「ロンズウォー」でもないな?

いつ、どこでの戦いなんだ〜!!

などと模索するうちに、

フランス建国の父「とされる」、メロヴィング朝の「初代の王」クロヴィスからはじまる中世初期から中世末期に至る、ヨーロッパ人と、イスラム教勢力との「ヨーロッパ西方での」ぶつかり合い全体が「特別な」興味の対象としてどんどん育っていったのです。

******

一方的に出来合いのマニュアルに基づく歴史の流れを「通史的に」教える(これだけなら、受験勉強のためなら、講義より、参考書一冊読む方がよほど情報量多くて手っ取り早い)のではなく、

生徒各人が各人なりに歴史を「おもしろい」と感じる切り口を見つける「きっかけ」を作り、

通説や世間のその事件と関連する事項への「常識的理解」への疑問符、

立場が違えば状況が違って見える可能性

その歴史上の登場人物や民衆の心情への「感情移入的理解」のさまざまな可能性.......

,,,...などなどに気づかせるきっかけになれば、

それ以上立派な「歴史教育」(それどころか、「社会」や「政治」への、各自なりのもののみ方を養う訓練)はないと思います。

私は、その領域に詳しい人が、「私を」さらに納得させてくれることを言ってくれたら、たとえそれが小学生の言うことであったとしても、「敬意をもって」拝聴するつもりです。

そういう「出会い」がなければ、人生って楽しくないじゃないですか!!

******

日本史だと、これが「南北朝」時代への別格的な関心ということになりますが。

何しろ私は『小沢昭一が選んだ 恋し懐かしはやり唄』「青葉茂れる桜井の」(「大楠公」)を小学生にしてフルコーラス歌えましたし、今でも歌えます!!

日本の「軍歌」のほとんども、もし歌詞カードがあれば歌えます。

当時の政治は政治として、これら戦前の文部省唱歌や軍歌を避けて、日本の音楽史を語らないと、「卑怯」だとすら思います。

日本神話を「教え『ねばならない』」という考えには反対ですが、

自国の神話や伝説について個人個人が学ばないでいるとすれば、『もったいないなあ』と思うし、少なくとも、口語訳古事記『古事記』なんて、素晴らしい『文学作品』だと思いますが。

(図説地図とあらすじで読む古事記と日本書紀この本なんて日本神話と大和朝廷がほんとうに安定するまでの歴史/文化/社会/文学についての入門書として、偏らないさまざまな見地からの理解への道を開く、図版盛りだくさんの、簡潔ですごく読みやすいたいへん上質の『記紀』入門書です)

これらを教えるだけで『右』とみられる場に教師がいるのなら、その先生、わかいそ過ぎますね。

*****

もとより私個人は、政治的には「ある意味では急進的、でも現実主義的慎重さを失わない『リベラリスト』」そのもののつもりです!!

*****

でも、靖国神社隣の「昭和館」は時間をかけてじっくり見ました(政治的な中立性を十分に保った展示がなされています)。

弘前城の場内展示された「仇討ち」の資料の話はこの前の記事のコメントの最後の方で書きましたし、

私の友人が住む、水戸を訪問した際、常盤神社でも、歴史上の事実としての「黄門様」の解説や自筆の手紙の文面を読めたのは楽しかったですね(^^)

そろそろ偕楽園は梅の季節でしょうか?

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2006/02/11

とことん興味本位であることが本当に「身につき」「使いこなせる」」(+ iTunes Music Store の隠れ技、公開!!)(第9版)

最近一時期の書き込みのペースが落ちたとお感じの方もいるかもしれませんが、別に本業が忙しくなって来たからではありません(^^;)。

「顧客さん」を「増やすために増やす」つもりでのネットへの投資はあまりし過ぎたくないし、マジ、体調の関係で、もし今の2倍のクライエントさんが来たらまだ身体が持たないでしょう。

むしろ、当面書きたかったことを「やっと」かなり書き尽くしてそれなりに満足したというのが大きい気がします。

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本業そのものは「ぼちぼちでんな」というところで、時間が空いた時は、読書などの、ある意味では「先行投資」的活動の方が多いでしょうか。

ちなみに、その多くは歴史書や日本/世界問わず、歴史関係の20世紀半ば頃の代表的かつ独創的な研究者の著作か、日本語訳だけど「超古典」に属する「原典」ですね。

例えば、今の今、並行してかわるがわる(! )読んでるのは、まずは、

gariasebki
カエサルの「ガリア戦記」

キリスト生誕を遡ること50年前、「紀元前」に、実際戦争の将軍をやったカエサル(シーザー)「本人が」刻々と「戦況報告」としてローマの元老院に送ったものをその直後に本人が推敲したと考えられている!!

古典ラテン語の代表的教科書であり、その簡潔な、主観を排した文体は「歴史記録の鏡」とまで言われる。

キリスト教以前の政治家がどういう倫理観で、すでにローマの脅威になりつつあった「ゲルマン民族」および、ゲルマン民族とローマとの板挟みにあった、今で言うフランスにあたる地域の「ケルト民族」をはじめとする「先住民」という、異世界の族長や将軍たちと、実際戦闘に入る前に、どのような賭け引きや裏交渉をしたのかまで生々しく伝わる、統計的数字にも誇張がない、カエサルその人が、恐ろしく「醒めた知性」の持ち主だったことが伝わる、ある意味で凄い本である。

欧米人の根底にある異文化相手の国際政治観/戦争観を、古代最高の軍事制度システムを持った「超大国」の、これまた最高の現実主義的「政治的/軍事的知性」を持った人間が、自ら書き残しているという意味で、この本など、今の時代にこそ、日本人に読まれるべきだろう。

なお、「ケルト民族」は、こうしてローマに支配が及ぶ中で、今で言うフランス中部あたりからブリテン島や今で言うフランスの辺境地区などに本格的に移住。

【Rock/Pops:エ】エンヤEnya / Watermark (CD) (Aポイント付)エンヤの音楽で一気に日本でも脚光を浴びたケルト人(=実はローマ人にとっての「ガリア人!!」)は「イギリス由来の」ものでは「ない」のだ。wikipediaによれば、インドに近い中央アジアから移動して来たケルト人そのものが先住民を制服し、現在フランスの中央部にあたる地域を占領し、一度定住したたのである。

その「一部」が「将軍」カエサルをはじめとするローマ帝国の拡張もあり、以前から進出していたブリテン島とアイルランドに「本格的に」移動し、先住民をまたもや征服して定住、そして更に後から流入して来たアングル民族、サクソン民族に支配の優位を明け渡す、しかし、イギリス/アイルランドをはじめとして、今もケルト語系の言語を日常語とする層が、何十万人もいるのである!!

実は、文字文化を当初持たなかったケルト人が、ローマの進出の中で世俗化し、方言化したラテン語を早くから話しはじめた場所にこそ、例の「中世ロマンス語」圏の成立が始まるのである!!

keltojinnnogariasenkiちなみに、ケルト人の立場で史料を読み込み、ローマから「侵入される」過程をとらえてみた、
「ケルト人のガリア戦記」(原修二 著) という本、届きました。図版も豊富で、ケルト人側だけではなくて、ローマ側の文化や政治機構についても客観的、かつ、劇画タッチの図版盛りだくさんの視覚的に訴えるやり方で解説してある、「ガリア戦記」の副読本としてこれ以上考えられないくらいの絶対のお勧め本

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次に、

sezokushijindante
アウエルエルバッハの「世俗詩人ダンテ」と、

ブルフィンチのシャルルマーニュ伝説「シャルルマーニュ伝説」です。

コーラン(上)改版コーラン(中)改版コーラン(下)改版井筒俊彦訳「コーラン」はいつ届いてもいいはず。

私にとって「世界史」って、受験勉強ではなくて、そういう興味本位の読書で形成された「好きなもの」です。ただ、なぜか、「歴史小説(ふうのもの)」はほとんど読んだことないです。


でも、気がついてみると、後にイスラム教の影響も強く受ける「南ヨーロッパのロマンス語地域」という一点で、私の最近の読書傾向は「交差」してます
ね(^^;)。

ほとんど「ロマニスト」です。

「ロマンティスト」ではなくて、

「『ロマンス語系』文学研究者」のことらしい。

上述のアウエルバッハの本は、『神曲』はヒルティの影響でとうの昔に手元にある(「天国編」は読まないまま)ので、「ダンテ関係」ということで「勘」だけで楽天ブックスで選んだんだけど。

実は今世紀最大の「ロマ二スト」の処女出版らしい。しかし、これを「楽しく」読める人は相当歴史や哲学思想に「ロマン」を感じて自分から接して来た人だろうと思う。

でも、精神分析の精神分析の方法(1)ビオンの翻訳に比べたら、私には遥かに、遥かに「楽しい」本です。訳者の、かつて心理臨床学会の個人発表で座長をお願いした藤山直樹先生、ごめんなさい(^^;))

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大長編ローマ人の物語(1)「ローマ人の物語」で著名な、「学者」の書いた「学術書」ではなく、「歴史教養書」の部類と思われる著作活動を続ける塩野七生も、すでに2年ぐらい前に読んだコンスタンティノープルの陥落「コンスタンティノープルの陥落」だけ。


「ガリア戦記」とか、なぜこれまで私が読んでなかったのがむしろ不思議なくらい。

歴史(上)歴史(中)歴史(下)ヘロドトスの「歴史」

(ギリシャ時代、ペルシャ帝国滅亡後に、当時の中近東地域を「実際に」訪ね、当時のクフ王のピラミッドやスフィンクスの印象、ミイラの製法までこと細やかに書いている。まだクレオパトラよりずっと前の時代、今日の「風化が進む前の」スフィンクスやピラミッドを実際に見ているのである!!)
ゲルマーニア改訳タキトゥスの「ゲルマニア」

(これもローマ時代当時、実際にケルマン民族地域をを旅してはいないが、当時「蛮族」と見られていたゲルマン人を含む北部ヨーロッパ人への敬意を持って書かれた)、
インディアスの破壊についての簡潔な報告ラス・カサスの「インディアスの破壊についての簡潔な報告」

(これまた、何とコロンブスの航海に「同乗」した宣教師という同時代人による、宣教師であるにもかかわらず、披征服民へのスペインの政策を批判し、変えさせようとする政治運動を実際に続けた当事者による「現地報告」)

とかは、高校時代にとっくに読んでるのに。

.....あ、そうか!! 見地を多角的にするには、

中世イスラムの歴史家、イブン=ハルドゥーンの古典的歴史書、

歴史序説(1)「歴史序説」も注文しておこうかな)

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何か、「ひけらかし」みたいで気が引けますけど、

こういう本をいつも「楽しんで」読む人間が、学校教育の枠にはまらない面があったことは、想像して頂きたくて。

私はこうした「歴史好き」と同じようにして、浜崎あゆみや中森明菜や松田聖子やクラシック音楽や鉄っちゃんやアニメをや実写映画を、

そして「フォーカシングを」

「楽しんで」いるだけなのです。

そして、そういうふうにして(強制ではなく)自分の好奇心のままに「身につけ」た時、人はそれを、「仮面」としてではなく、自分が主人公となる形で「身につけ」られるのだと思います。

「優等生」の中に囲まれているのが、苦手で、もの足りないし。エリート主義者でもない、

自分がなりたいものになってきた(注:ただし現在進行形)その成り行きで、現在ただの「在野の一臨床家」をしていることに心から納得している私の心境をお伝えしたいだけです。

これが、「健全な」自己愛を育んだまま、強迫性ともまた別な探究心を失わず、「時には」したたかかつ自由に、「社会的ペルソナ」を使い分けることそのものを「遊んでしまう」生き方、ということになるかもしれません。

そこには、劣等感コンプレックスの裏返しとしての、みせかけだけ自分を「人より上位の」人物に見せたい欲求など(時には生じても)、

結局、

「ズル」や「カン二ング」で動くのは『つまんない』や」

という気持ちの方が勝ってしまい、

「ね、ね、僕、すごいでしょ?」

と、まわりに無邪気に「ほんとは」思わず口走りたい、3,4才の頃の私が、ただその上に「経験値」を積みあげると同時に「年食った」だけの存在として、そこにいるのだと思います。

(直前の部分、第3版と第4版で表現を大きく変え、タイトルも変えさせて頂きました。今の今、「はじめて」言葉にできたことです)

そして、

浜崎あゆみが、今、

「みんなに見せたい『景色』」

とは、

そのことではないかと。

「オリジナリティ(originality)」って、

「本来的、始源的」

ということであり、

「人と違う」

ということとは本来関係ないんではないか?


(以上、第5版で追加)


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さて、話題を変えます。

「検索ページ上位掲載率増加」のための対策にも、信頼できる「大手の2社」に投資していますが、それも「むやみな掛け金」ではないんですよね。金を積めばもっとアクセス数増えるのはわかってます。

楽天から得られる「楽天通貨=ポイント」の収益は、私は次第に何をどのように、どのようなやり方をして、楽天を通して(通さずに)買うと、「必要な、今後絶対投資した見返りがあるもの」を買えるか、のコツが見えてきました、

もっとも、もう、本以外はこれからの自分の生活に必ず役立ち、「減価償却」できるか(税理士事務書取り仕切ってた父が、私が母親の胎内にいる頃から、何千回、何万回も、繰り返し口にする中から「理屈抜きにしみ込んでいた、「経営用語」である)という観点から揃えたかったものは揃えたので、むしろ楽天での買い物額自体は一時期より落ちているでしょう。

アフィリエイトは、自分が紹介したい商品を紹介しているだけですから「料率狙い」はほとんど全くしません。(「一カ所だけ」意識的に本部トップページでやってます)


ところが、楽天の方、気がつくと、やり方次第で結構ぎょっとするポイント還元が得られる「からくり」も自分なりに見えて来た気がするのです。

(例えば、毎月、小額でいいから各コーナー「満遍なく」利用するとか。私は「ゴルフ」と無縁なので「倍率5倍」までしか持っていけないのが残念ですが)

いきなり「ひと月○万ポイント」に跳ね上がって来て、驚いているのです。

こうした「どっと還元された」分については、どうしても読んでみたいけど価格の関係で先送りしていた本(中古市場/フリマも点検する)や、「効果」確実で継続購入することにした消耗品(消臭剤とか)のまとめ買いなど、「確実な先行投資」にむしろ「手堅く」使っています。

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CDは、ayu以外で、よほどの高音質で聴きたい場合を除いては、すでに繰り返し触れるようになったiTunes Music storeでまずは探すように急速に変化しました。

ただ、もともとクラシックはかなり偏ってるし、J-POP系はアーティストによってある人とない人の格差が、今の段階では日本人向けには極端で、まだ日々刻々とレパートリーを増やしている段階ですね。

でもこのレパートリーの幅の問題が「ある程度」解決した瞬間、

若い世代は

「音楽を聴くためにiPodを多少無理してでも買う」

時代に雪崩式に一気に流れ込む

かもしれません。

中島みゆきはCD高めのままなのに、何と"Singles""singles II"以外「全部」あります。30年かけた30数枚のフルアルバム、そして新譜のシングルまで「すべて」があります。

みゆきは本質はアルバム・アーティストですが、有名曲でもなぜかアルバムにないシングルのみの曲(例えば「「誘惑」)があるので、「全曲購入」に恐らく10曲ぐらい足りないのかな?

あと、ライブの「夜会」シリースは別です。あれは、今や、映像が残っている限り、DVDの映像で売りに出されるべき思います)

浜崎あゆみは、1stと2ndのフルアルバムの内それぞれ何曲かはまだですし、リミックスとベストアルバム、シングルCD時代のB面曲、一部のマキシシングルにしか納められていない曲を除くと「すべて」あります、何より、新発売の"(miss)understood"すら買えてしまう

(ちなみに、「CDの場合」、このアルバムに収録された曲でマキシシングルで先行した曲、すべてリマスタリングされ、音質は向上し、楽器間のバランスとかも再吟味されて統一感が出るようになってますから!! そして、曲順とかにも明らかにそこのひとつの「コンセプト」が与えられている。そして、アルバムでしか聴けない曲にこそayuの本音がストレートに出ているのは今回も同じ。

つまり、ayuも本質は「アルバム・アーティスト」です。だから、今後フルアルバムに「必ず」マキシのプロモーションビデオが収録されるとならば、焦らないならマキシではCDのみで、DVDとセットのを買わないままフルアルバムを待つのも手です。

しかし、ayuの場合は、PVが曲のメッセージを「補完」していることが多いので、ayuの「神髄」に「リアルタイムで」迫りたい人、ayuのためなら出費を無理してもしていいというに人は、今後も、シングル段階での「(CD+DVDのセット買い」がおすすめです)

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ITunes storeの話題に戻ります。

このように、最新フルアルバムまでラインアップに既にある浜崎あゆみとは対照的に、同じavex所属でもはや売れるCD枚数も浜崎あゆみより上かもしれず、曲のアレンジ、ライブでのパフォーマンスに至るまで、すでにayuと異質な存在感を歴然と示している、「ほんもの」のアーティスト(本人はこの言い方、好まないでしょうが)である、大塚愛の場合だと、■送料無料■大塚 愛 CD+DVD【LOVE COOK】12/14同時期発売の最新3rdフルアルバム、まだiTunes Storeで出し惜しんでますものね。「ブラネタリウム」もシングルですらまだ。

(この違いは何かというと、浜崎あゆみは満単位の会場での、かなりハードな日程のコンサートツアーでほぼ満員になる「集客力」が今もある(「追加公演」すでに公示されましたものね)ので、「CD では稼がなくていい」、でも大塚愛は、ライブでもお客さんを楽しませる才能はあるが、もっと小さめな会場向きだし、結果的にもチケットでは浜崎あゆみより「稼げない」ので、新作をCDでしか買えない期間を長期化して、CDの売り上げから収入を得たいという、avexのまことに健全な企業戦略の結果生じた違いに過ぎないでしょう)

ちなみに、レコード会社は別だけど、iTunes Storeでダウンロードでき出したら、確実にNo.1ダウンロート数を築くはずの「世界にひとつだけの花」という切り札を持つSMAPは、まだ登録ゼロです!! 会社とAppleの交渉がまだまとまらないのでしょう。

iTunes Store圧倒的に強いのが、「英米音楽、しかもクラシック『以外』系」であることは言うまでもないことのようです。何しろ、「日本の」ストアにはまだPVは一曲も置いてないので、第4世代iPodのビデオ機能は「合法的には」(!)活かせないままなわけです(パソコン用AVソフトで署名な某社は、すでに公然と「コピーソフト」を出してますが)。

しかし、トップページではなくて、「パワーサーチ」の方に回ると、何と倍以上の「隠れジャンル」検索があるんですよ!! これはどの国のiTune storeであるかを「越境した」データベースのようで、日本円で、JCBで、最初のダウンロード契約を国別とかでやり直さなくとも、そんまま購入できてしまいます(たたし、値段設定が日本円ですっきりしてますから、恐らく日本版ではアクセス不能な曲はたくさんあるのだと思います。iTuneを「英語版として」セットアップして、AMEXやMasterのカードで英語で登録するとどうなるかは、まだ実験してませんが(パソコンを2台持っていて、OSも同じにして、ダウンロードした曲のファイルの「置き場所」さえ共有してしまえば、論理的には日本版とアメリカ版、いや、ドイツ版すら動かせるはずで、そうなればクラシックのレパートリーもよほど広いかもしれませんが(^^)、まだやってません。

でも、現状でも、"Germann folk"とか、「日本人の多くに未開の広野」が、首都圏の巨大な輸入盤屋さんをたよらなくても、ともかくそのジャンルの代表的なものはあるみたいです。

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そういう中で、今私が突如関心を持った「ある」音楽ジャンルが、前回述べた「○○○(中略)○○」です。

などと、「この」ネタ、まだ先送りにして練り込んでからにするつもり!!

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2006/02/05

「資格」とは、「コネなし」で社会的に「就労活動」する上の最低限の保障となる「パスポート」であるに過ぎない、とも考えられる(第4版)

再び「資格制度」についてなんですが、

たとえそれが「国家資格」であったとしても、それが「就職活動」をする上での「決定的切り札」にはなり得ない

ということは、専門学校や大学の卒業前に就職活動した人なら、みんな身にしみて感じておられることだと思います。

今や留学した経験とか、TOFELでの得点すら、国際的な仕事をする上で「ないよりまし」程度のものだ、ということも、それらの経験や高得点をお持ちの方はご存知でしょう

(どうしても語学力が必要なら、会社に入れてから会社の経費で「研修」で仕込む方が効率がいいと「企業」もわかっているのです)

「資格さえあれば食っていける」というのは、例えば弁護士や、医師のような超高度な資格の場合ですら、「幻想」といっていいわけですね。

******

ある臨床心理士の人と、資格がどうであるかとカウンセリングの実力は無関係、という話で盛り上がったことがあります、

しかし、その人が次の話を始めた時、私は心の中でその人を「軽蔑」しはじめ、凄い「興醒め」を味わいました。

「私の元でみっちり学んでいたその人、臨床心理士ですらなかったんだけど、『よいスクールカウンセラーを捜している』という学校の校長先生に、私が「この人なら大丈夫です」と紹介したんですよ、そしたらやっぱりその人、その後その学校ですごく評判のいい『スクールカウンセラー』として活躍しているくらいだからね」

(あのさー、それって、まるであなたの手柄話にしか聴こえないんですけど。それに、要するにその人、自分でその学校に志願したわけでもないんでしょう? もし、それなら、あなたがそういう立派な弟子を育てたことを自慢する資格も一応あるかもしれないけど。それに、それって結局、あなたの「コネ」が効いた、という話でしょう? 「コネなし」でも最低限の就労資格の「パスポート」として「売り込みに使える」ことが、『資格』の存在意味じゃないかしら?)

私は、もう、疲れていたので、このことをその方に言葉で言い返す気力も無かったし、

「『やっぱり』この先生は、『ここ』が限界で、クライエントさんの『この種の』問題すら超克できるカウンセラーを、育てることできないでいるんだよな〜 自分が「セクト主義」の反体制気取りに過ぎない「小山の大将」だって、はやく気付いてほしいのになあ」

なんて、よほどの覚悟と適切な「場」でないと、面と向かって、こちらから言葉にできませんものね!!

(注:以前も一度使った、「山の大将」、とは私の「新造語」です。「実は『世間が狭い』のに、自分を崇拝する人を身の回りに集めて自己満足している、その崇拝者たちの真の自己実現を疎外すらする人のこと」を指します。もちろん「固有名詞」ではありません!!)

その「結構『業界』で著名な」先生と、その弟子の方に、この記事が目に入ることを念じつつ

*****

BGMは、自戒の念を込めつつ(^^;)

そして我が福岡が生み出し、教育実習生としてわが母校に赴任、全生徒の前での体育館での「教生先生(=教育実習生)」とのお別れ会で、「目の前でギターを弾き語りした」はず、と、元クラスメートから伝え聞いて、私ははっきり記憶になかった(^^;)、
海援隊『あんたが大将』かの武田鉄也さんの名曲、『あんたが大将』でした(^^;)

この歌は、私の高校時代からの「代表的」カラオケレパートリーです(^^)

(別に体育館で目の前で武田さんが歌ったらしいのがこの曲、ということではありませんよ。でも、この曲、最初はアルバムにの中の一曲だったのに、ラジオでのリクエストを通してどんどん人気が出て、シングルカットに至ったという、ほんとうにリスナーが名曲として「発掘」したエピソードは結構知られているかも

カーペンターズのThe Carpenters『Top Of The World』”Top of the World"もまずは日本のファンの間で人気が出て国内限定でシングルカット、そして本国でもシングルカットという、ファンが見出した「名曲」であることは、
karen
私の読んだ伝記に、

「本人たちも日本で火がついたことに驚いた」

と明言されています)


******


さて、「あんたが大将」に立ち返りまして、


"ストレートに言わせてもらっちゃあ、何ばってん、

(中略)

parhaps ,may be,あんたにゃ、わからんめーもん!!”