増井武士

2011/12/26

フォーカシング(?)がなんとなく苦痛 (転載)

リンク: フォーカシング(?)がなんとなく苦痛 (長文です) -OKWave.

OKWAVEではなくて、こちらで我田引水で回答めいたものを書いてみました。

 一方では、嫌な思い出を思い出さずに「蓋をしよう」とする自分の傾向に気づいておられる。でも、そうした嫌な思い出について具体的に思い出すことにかなりの不安と恐怖もお感じなのなと理解いたしました。

 夢の中で、過去のつらい体験と見事に響きあう感情体験もなさったご様子、さぞ途方にお暮れになったことかと思います。

 増井先生の「心の整理法」は、気がかりな事柄の置き場所探しをもっぱら中心的技法にしていますので、「置いたままにしておく」=「自分はその問題 から逃げているのではないか?」という葛藤も呼び起こし、「ほんとうにそれだけでいいのか?」ともお感じだったかもしれません。

 また、「置いておく」前に、過去の気がかり自体を思い出さないとならない、ということそのものが質問者の方のネックにもなっているように感じました。

 回答として私が思い当たるのは、次の3つの方向性です。

  1. フォーカシングは、必ずしも個々の具体的な気になる事柄について細々と思い出し、それについて脇に積み上げたり、その気がかり全体の感じ(フェルトセンス)をつかんでいくやり方だけがはじめ方ではありません。
     アン・ワイザー・コーネルさんという方が、フォーカシングの始め方のもう1つのやり方として、「その時の身体の感じに注意を向ける」というやりかたを案出しました。
      初めての人は、胴体の内側について「のどのあたりはどうかな?」「胸のあたりはどうかな?」「背中の辺りは?」「おなかは?」と順々に内側から注意を向け て、「十分申し分のない感じで居らてる」と問いかけるみたいにして、しばらく味わってみるのです、すると、数十秒のうちに、その部分の身体のモヤモヤの感 触が何かくっきりしてくることがあります。
    個々の部分にはっきりとした痛みや違和感は感じられなくても、胸の辺りとおなかの辺りを「比較してみて」下さい。
     例えば、
    「おなかのほうが温かくてゆったりしている」
    「胸の方が何か緊張していて・・・」
    「背中のほうの感じって、何て硬いんだ。まるで亀の甲羅を背負っているみたいだ」
    ・・・・などと感じの違いを感じられれば、それだけでも意味があります。
     そして、そうした感じの中で自分にとって一番居心地のいい感じを大事に感じてみるのもいいかもしれませんね。
     そして感じるのがしんどそうな感じには深入りせず、「どうも『あのへん』には少し厄介な感じがあるな」と「遠くから見守る」だけで十分です。
      そうした感じのどれかに気づくうちに、「そういえば、日常の中のあの場面で『この感じ』をいつも胸の辺りに感じていたかもしれないな・・・」みたいな連想 が浮かんでくることもあるでしょうけど、「その場面でのことと関係あるかもしれないし、それだけではないかもしれない」ぐらいに、とりあえずは受け止めて おくのでいいかと思います。
     ここまででも、普段意識していなかった様々な違和感やモヤモヤを自分が漠然と感じながら生きてきていたことを味わいなおし、「整理してみる」効果があるかもしれません。そのことに気づいてあげることを繰り返すだけでも、役に立つ人は少なくないかと思います。

     これ以上のことは、一人で取り組むより、フォーカシングのトレーナーに直接お会いして学ばれるのがふさわしいかと思います。
  2. 気がかりな事柄を直接一つ一つ思い浮かべるのではなく、こころの中のことが入っている壷を直接イメージして、置き場所を見つけ、味わっていく「壷イメージ療法」というものがあります。増井先生の盟友というべき、田嶌誠一先生が開発した技法です。詳しくはこちらで説明してみました。
     このやり方だと、「このことについては、この壷に入れる」などというふうにイメージする必要もなくて、ともかく「心のことが入っていそうな」壷を思い浮 かべて、並べだして行けばいいので、「過去の思い出の1つ1つ具体的に思い出さねばならない」という、質問者の方の懸念はぐっと小さくなる形で「こころの 整理」ができるでしょう。
     この技法は、技法を十分に習得した専門家の元で行なうと非常に安全度が高いものです。
  3. 夢について取り扱う「夢フォーカシング」という技法もあります。誰でも、起きた途端に、現在のつらい状況や過去のつらい体験と見事 に重なり合うようなつらい夢を見ることがあります。しかし、「夢フォーカシング」の専門家は、「バイアス・コントロール」という技法を心得ていまして、こ れを使うと、そうしたありがちな夢の理解を超えた、予想もしないほどに生産的な夢理解と共に、心身の新鮮な解放を得られ、日常にも好ましい大きな影響を与 えてくれることがあります。
     「夢フォーカシング」もまた、特に夢フォーカシングについて十分な訓練を受けた専門トレーナーの元で最初は体験されることがお勧めですね。

*****

もうひとつだけ、旧「フォーカシングQ&A」からの転載を追加しました。今度こそこれで完全移行です。

2010/06/20

ドナ・ウィリアムズ著「自閉症だったわたしへ」を読み始めて。

 人は、ある意味で、外界からの刺激に対して、選択的に「心を閉ざす」能力を身につける中で、はじめて自我を形成し始めることができるのではないかと思う。

 特に、「生身の人間」という、得体のしれない他者から不用意に発信されてくる「意味不明の」働きかけに対して、選択的に「こころを閉ざす」能力である。

 今、これを書きながら思い出したのだが、「選択的不注意」という概念そのものは、サリヴァンが「現代精神医学の概念」の中で鍵概念として用いているものであるから、何ら目新しいものではない。

サリヴァン/現代精神医学の概念

 そして、人は自分の思う通り、感じるとおりではなくて、周囲の「重要な他者」(必ずしも養育者でなくてもいい、たった1回の出会いの同世代の子供の場合すらあるかもしれない!!)の言動の「まねをする」ことが「うまくなる」ことで、とりあえず、「仮の社会的自我」というものを形成して行くとも言えるのかもしれない。

 もとより、大抵の場合、思春期に到るまでのどこかで、そうした周囲への「順応」と、「自分だけの世界」と「他者にさらす世界」の使い分けだけでは生きづらくなる葛藤に直面するものだとは思うが。

*****

 どうも、私は周囲の子供たちとは「別の世界」に生きているようだという感覚を、私は、小学校に入学した頃からはっきりと感じ始めていた。

 幼稚園時代には、なかった感覚という気がする。

 ・・・・このように言うと、読者の皆様の中に、「いや、自分は、幼稚園に入る前から、周りの子とは違うという感覚に圧倒されていた」とおっしゃる方々がたくさんおられるであろうことは百も承知である。

 私の場合、環境因も大きかったと思う。私が入学したのは、いわゆる「教員養成大学の附属小学校」だったから。

 ところが、私には、こうした場合にありがちな「お受験」対策を受けた経験がない。そもそも、ある日親にある場所に連れて行かれたら、「附小の入試会場」だったので、ともかく問題を解いてみた・・・そういう成り行きである。

 正確には、学力選考のみではなくて、その後に「くじによる抽選」というプロセスも経ているので、お受験対策の加熱によって、最初から地域の優等生ばかりが集まりすぎることへのセーブは掛かっていたのかもしれない。

 だが、確実に言えるのは、入学した80名の新1年生の中で、地域の「お受験」対策幼稚園とされる2つの幼稚園の出身者ではない合格者は、私以外にもう一人だったということである。

 私以外の新入生たちは、みんなどちらかの幼稚園時代からの「友だち」がいる。そして、「どちらの幼稚園の出身者なの?」というのが、クラスメートからの最初の挨拶代わりだったのをよく覚えている。そして、「どちらでもない」こと自体に、怪訝な顔をされた。

 こうして、友達作りと集団への溶け込みという点で、私は入学当初から負荷要因を背負っていたことになる。そして、このことの特殊性とカルチャーショック抜きにして、私の「周囲の子供たちとは何か、基本的なところが違う」というギャップ感の背景を語ることはできまい。

 幼稚園時代にはできたはずの、鉄棒の「逆上がり」ができなくなった。これも何かストレス要因があったためだろう。

*****

 では、私の親が、何の「受験対策」も私にしていなかったかというと、そういうことではいない。

 もの心ついた頃から、私のまわりには、小学校上学年向けと思える図鑑や学習事典の類がたくさん準備されていた。私は、そうした図鑑や事典をむさぼり読む中で幼稚園時代を過ごした。

 だから、漢字力や、知識力だけなら、小学校2年生ぐらいまでは、なぜ周囲がそこまで「知らない」のかが、わけがわからなかった。

 ある意味で、「努力して勉強する」ということを知らない子だった。授業中も、先生の授業に上の空になり、鉛筆の先っぽを遠近法で見えるか見えないかの角度で目の斜め横にかざして遊ぶ一人遊び(↓)に没頭して、何度低学年の担任の先生に注意を受けたことだろう。

Enpitsu

(↑ピンぼけですが、まあ、だいたいこんなアングルで鉛筆の先端を見え隠れさせるひとり遊びだと思って下さい) 

 結構勘のきつい子で、すぐに大声で泣き出したりした。

 そうしたことも、幼稚園時代や家庭ではなかったことだった。運動は苦手で、小学校中学年頃には、典型的ないじめの標的にされた。

 「附小」から「附中」への進学はエスカレーターではない。附中には外部から純粋に受験で勝ち抜いてきた公立小出身の生徒が数十名加わる。

 放っておくと、そういう「外部からの受験組」の学力に「内部進学組」は圧倒されるので(実際、その傾向は防ぎ難かった)、全児童に対して、「小学6年生になったら附中合格のための受験勉強をすること最優先」というのが当然のこととされ、業者テストも繰り返し実施された。

(もちろん、中には、久大「付設」高校やラ・サールへの進学のための勉強をするものもいたが、それらを受験すると「内部進学」の道は閉ざされるという「二者択一」の「掟」があった。一方、附中に進学しても学力的に適応できないと判断された児童・・・それほどの人数ではない・・・・には穏便に前もって「肩たたき」をされることにもなっていた)

 この、業者テスト(8科目)の2回めで私は、何の弾みか学年で2番になってしまう。それまで、ほとんど成績が学内で中の中を上下していたに過ぎない私が、突然のこの結果に、周囲からも唖然とされた(社会科だけは、教師に、「私に君に教えることは何もない」と言わしめる圧倒的な高学力を小2から維持していたが)。

 しかし、第3回目(1学期の終わり)では再び中の中に逆戻り。「やっぱりあれは、たまたまだったんだ」というよう冷笑した目で周囲のクラスメートたちは私を見た(ような気がした)。

 私はこの時始めて、「自分から意識的に学力を上げることにチャレンジしてみること」に関心を向けた。

 いじめられっ子だった自分を一発逆転で周囲に見返す、これ以上良いチャンスはないではないか! あの「学年2位」は偶然ではなかった事を証明したい・・・・ただそれだけだった。

 目標は、「もう一度でいいいから、業者テストで2番になること」だった。

 そのために、自分から問題集をバリバリと解いて行った(親は何の口出しもしなかった。成績が悪くても決して叱らず、よくても決して褒めない親だった) 。

 そして、秋の5回目の業者テストで、私は再び「学年2番」を取ることで面目をほどこした。

 ただ、親が私の勉強にとことん不干渉だったために、私は「なぜ勉強するのか」というテーマに、中学に入ってからひたすら悩むこととなる。勉強に対する「外圧がない」というのも、それはそれで葛藤のぶつけ場所がないということになるので。

*****

 「附中」に進学してからは、そうやって「なぜ勉強するのか」を時には徹夜して日記を書きながら考えてしまう哲学少年になっていた。

 だから、「全力を尽くしていた」などとはいえないかもしれない。努力できた部分はあったに違いない。

 しかし・・・・

 数学が・・・・中1の途中から、私にとって、「圧倒的な壁」として立ちはだかり始める。

 これだけは、果たして「努力」の問題だったのかどうか? 半端ではなく、どう仕様もなくなっていたのである。

 私は、数学的な抽象性というものを、すべて「具体的な実感」として理解できる形に「還元」しないと全く理解できないタイプの人間だったようである。小学校時代も、他の科目より算数は最良でも10点は低かったのだが。いわゆる「幾何系」より「代数系」の方が小学校時点でも苦手だったのはよく覚えている。

 しかし、「公式のまる覚え」をすることは私の良心が許さなかった。悪戦苦闘した。・・・そのうち、学年で数学は下から2番というのが完全な定位置になってしまった。

 ところが!! 国語の業者テストに関しては、特に何の準備勉強もせずに、答案用紙に向かいさえすれば「学年1位」を何回も取れたのである。

 これは小学校時代にもなかったことだった。もともと得意の社会科の学力を維持するためには、かなりの努力が必要だったのに・・・である。

 こうして、国語と社会科「だけ」は得意なこういちろうと揶揄される中で、地域一番の公立進学校(はっきりいいって、「明善高校」ですね)には不合格となる。

******

 こうした次元のことを、「学習障害」などと呼んだら、実際にそういう診断を受けておられるみなさんにお叱りを受けることは承知している。

 しかし、もし、今の都市部での特別支援教育と同じ判断基準があったら??? 私は、いくら附属とはいえ、「何らかの」検討の対象になりはしなかったかと思う。

 ・・・こう感じる私は、まだまだ学習障害について不勉強なだけなのだろうか?

*****

 滑り止めで入った、当時は不良も結構いた高校(今では男女共学になり、大学には医学部はないのに、他大への医学部入学者も輩出する福岡市有数の進学校である)でも、私は数学では試験は「0点」のことすら稀ではなかった。つまり、レポート提出とかで「下駄を履かせて」もらえなかったら、私は永遠に高校で進級できなかったのである。

 国語の方は、古典は努力で勉強したが、現代国語は、「ともかく点数をぎりぎりまで上げるために」漢字の書き取りだけは熱心にやった。おかげで全国共通一次試験一期生として、国語198点、他方、数学は71点(数学の全国平均点140点台だったその年に!!)という極端な数字を取ることとなる。

 これで、地方大学の補欠合格には潜り込めたのだが、私は敢えて、東京の私大へと向かう道をとることになる。

 いとこが東京の大学に進学した時の、駅での見送りの光景が、私を東京への憧れへとかきたてたのである。

*****

 こうやって書いているうちに、読み始めたばかりの、ドナの「自閉症だった私へ」から、随分隔たったところに話題が来てしまった気がする。

自閉症だったわたしへ (新潮文庫)

(楽天ブックス)

 ただ、冒頭に書いた十数行こそが、私がこの本から受け止めた、まず最初の、私なりの新鮮な言葉としてお伝えしたかったことであることには代わりがない。

 ともかく、この「古典」を先入観なしに読むことから、私の発達障害について自己流の勉強は「一から出直し」のつもりである。

 ドナの文体のみずみずしさ(訳もいいのだと思う)には、心から魅惑されながら読み進めている。

*****

【追記】

 ドナは、良い治療者との出会いもあり、大変な努力を払って、自らの自閉症と「折り合いをつけた」稀有な人であることが読み通して伝わってきた。

 今日、精神医学の世界で、「発達障害」は市民権を得た一方で、ほんの2,3年前まで、なんでもかんでも「気分障害(特にうつ病)」の枠で捉えようとしていた「汎-気分障害」の時代から、やや過剰な「汎-発達障害」の時代にいつの間にかあっさりと移行してしまったことへの危惧も、不勉強なりに感じている。

 そこに「<コミュニケーション>ができること」に対する時代的な規範の独特の強化の反映も否定できない気がする。

 安易に「コミュ障」という言葉が独り歩きして、重度の発達障害や「高機能自閉症」の人はむしろ迷惑している状態だろう。

*****

 ちなみに、私自身の自己診断は、基本的には父の血を受け継いた、気分の持続性の強い職人肌の「執着気質」と思っている。

(強度の「執着気質」が、「高機能自閉症」とどこかで重複する可能性がないとは言えない気もするが)

 父は対人関係が本当は不器用なのを戦後日本の貧しい時代からの努力の過程で乗り越えた「経理の職人」。数字のこととなると私からするととてもかなわないくらいに頭が回る。

 ただ、一見「礼儀をわきまえた」、そつない人との関わりに、何か「人工的に身につけた」ものを感じる。父にあるのは「職業的な」対人関係のみで、「友人」というものがいた試しがない。

 これに対して、母は明らかに、ひと好きのする「循環気質」圏(鬱状態にはほとんど振れない)の人である。私の人間好きな側面は母の血だ。

 ただ、かなりの高齢出産でもあったので、かすかに父の血にまじった発達障害因子が、遺伝子の微妙な傷として発現したかもしれない。

 私の場合はそこに更に、すでに10年前になってしまったが(2004年12月にこのブログを始める2年程前、2002年のことである)、はっきりとした新たな過酷なストレス状況(それについては私以外の人のプライバシーのも関わることなので、ブログ上では一切触れないことにしている)に対する「適応障害」の抑うつ状態となり、その際に、SSRIを不適切に投与されとことによる、かなり医原性の「双極性II型」の余波が残っている状態かと思う。

 ただ、そういう「軽躁性」が私の中から「重心が低い」形に安定しつつあることは、ここ数ヶ月の私の記事をお読みの方は、感じていただけるかと思う。

 職人的なこだわりのある、ねちっこい、完全主義で(「柔軟であろうとすること」もむしろ完全主義の一部である)、しかも精力的な「粘着」だとお感じかもしれない。(12/1/11記)

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2010/02/06

「臨在」="presence"(第4版)

 私の永年のフォーカシング観の基本にあるのは、

 「ひとりでフォーカシングできるようにならないと、フォーカサーとしても、リスナー・ガイドとしても十分に機能でき、現実の日常生活の中で持続的な変化と影響をもたらす領域に到達できないのではないか」

という発想であることは繰り返して述べてきました。

 なるほど、リスナーがいる方がフォーカシングのプロセスは「よく廻る」ことが多い。しかし、そこで体験した気付きは、そのセッションの場を離れ、日常に戻ると、実感の裏付けを喪失し、まるで全くの虚妄であったかのような「反動」に襲わせる危険がある。

 このことは、実は、少なくとも病理水準的に重篤なクライエントさんにフォーカシングを試みると、単にセッションのその場でうまく進まないばかりではなく、(恐らくセッションの最中には順調に進んだかにみえても)予後が悪化する場合が少なくないという形で、フォーカシングを学んだ多くの臨床家が手痛い思いをして気がついているはずのことです。

 この問題に公然と警鐘を鳴らし続けてきたのは、日本では、増井武士先生、田嶌誠一先生のお二人だけでしょう。

 さもなければ、フォーカシングはとっくの昔に、現場臨床に幅広く普及しているはずです(きっぱり)

*****

 なぜこうしたことが生じるのか?

 それは、フォーカサーの体験しているフェルトセンスは、単にフォーカサーが「内側で」体験している感覚についてのフェルトセンスではなく、セッションの「その時に」「その場で」フォーカサーが置かれた「外的状況」について身体で感受したフェルトセンスとしての側面を大幅に持つからです。

 当然そこには、リスナー/ガイドの側が、セッションのその場をどのように体験しているかというフェルトセンスも、フォーカサーに間接的に大きく影響してくる。

 ある観点からすれば、フォーカサーのフェルトセンスは、リスナー/ガイドが、フォーカサーへの「感情移入」のつもりでいて、実はフォーカサーへの「投影同一視」に他ならないかたちで「共有しているつもり」=実は「押し付けている」フェルトセンスによって暗々裏に「汚染され」続けているのであり、仮にそれが「心地よい」「普段ほど緊張しない」体験であったとしても、「フォーカサー自身の」体験ではなくて、セッションという「場」に「巻き込まれた」結果として生じている、一種の嗜癖的・麻酔的な解放状態に過ぎない場合が大いに考えられるわけですね。

*****

 少なくとも、私個人は、過去二十数年のフォーカシング経験の中で、自分自身の中に、他者をリスナーとした場面では決して生じてすら来ないフェルトセンスの領域というものがあり、その領域は、時と場合によっては、孤独の中で自分自身で向きあってあげないまま、もし仮に2日3日放置しようものなら、もう、自分が何をしでかすかわからないくらいくらいであることをよく知っています。いわば、他者の「絶対不可侵」領域です。

 そして、私以外のすべての人にも、安易な共感や受容にむしろ容易に傷つき、むしろ他者をはねつけかねないくらいの「トップ・プライベート」な心象域があり得るという仮定を持っている。

 サリヴァンならば、「プロトタクシス的(prototaxic)」と呼ぶかもしれない。しかし、この領域を、単に「自閉的」だとか発達論的に一番未熟とのみ位置づけるのは基本的な誤りであるというのが私の考えである。

 「パラタクシス的(parataxic 私なりの意訳をすれば「相互転移的=投影的二者関係の次元」)」と「プロトタクシス的」の間にある「自我境界」の重要性があって、人は個人としての人として自分を体験可能なのではないか?

 (サリヴァンの原義に従えば、プロトタクシス的というのが、むしろ自他未分化な状態を指すことを承知の上で、「自他未分化」と「自他分化」自体が曖昧な領域という、いわば国境沿いの「緩衝地帯」を保全すべきという意味で理解していただくと助かる)

サリヴァン/現代精神医学の概念(中井久夫訳)

 その「超個人的」領域には最大限の敬意を払い、その存在を「仮定しつつも、敢えてこちらからは触れないでおき」、本人が「そこ」から生起したものを「関係の中に持ち込もう」という内発性を示し、「差し出してきた」場合にのみ、非常に控えめに、全く自然に(バリントのいう「友好的な空間」と化して)応答する(非言語的な反応のみを含めてでいい。しかし相手にはっきりと「伝わる」必要はあろう)のがふさわしいと考えている。

*****

 こうした現象が認識されないままだとどういう事態が生じるか? 

 たいていの人たちは、フォーカシングのワークショップから去っていくであろう(きっぱり)。

 一部の、セッションでの「いい体験」が忘れられない人たちは、足繁くワークショップに通うかもしれない。しかし、その人の現実の日常生活は一向に変化しないだろう。

 ・・・・もっとも、「フォーカシングのワークショップに通う」という「憩いの場」は生活の中にひとつ増えたかもしれないが(^^;)

 それは「嗜癖的な」依存状態であるか、それとも、「フォーカシングのプロセスそのもの」ではなくて、「フォーカシングの集いの」に癒されている状態であるに過ぎない。

 それどころか、フォーカシングは、「言葉にならない、漠然としたかすかな違和感」に敏感になる技法である。

 これは、ひとつ間違うと、特に日本のようなムラ社会では、「自分に取って漠然とした違和感を感じさせる参加者を無意識のうちに、『場の安全』の名のもとに排除しようとする」集団力学を生み出す。

 (何のことはない、実は、そのグループのトレーナー格の人たち自身がキャパが一番低い『小(こ)山の大将』で、実に容易に参加者に気持ちを揺らされる程度の存在に過ぎず、そうした状況から「身を守ろう」としているだけの場合すら少なくないと思う。それどころか、はじめての一般参加者の方が実はタフで柔軟な受容性があるという、笑うに笑えない事態すら稀ではあるまい)

 こうして、フォーカシングを「最も必要としている」人たちはグループの場から疎外され(あるいは立ち去り)、もはやフォーカシングを自己成長のために役立てる感性が麻痺し、狭いムラ社会の中での矮小な自己愛的プライドを暖めあう人たちばかりによってフォーカシングのグループが成立しがちである・・・・・可能性を真剣に振り返る意味があるのではなかろうか?

 もとよりこれは、フォーカシングに限定されない、古今東西、およそすべての流派の教団や教育システムや心理療法流派が陥りがちだった通弊なのであり、そうした集団と関わりつつも、したたかに「どっこい生きてく」一部の人たちが、そうした集団の健全性を支え、再生させ続けてきたのも確かであろうが。

*****

 以前の私は、自分がリスナー/ガイドをしたセッションが、実は「私が」満足し、「私に」シフトを引き起こすことに貢献しつつも、フォーカサーには、ひとときの気付きの体験の援助はできても、その直後に先述の脱実感的な「反動」までは生じさせなくても、その後のその人の人生を、漠然とした違和感に敏感なのにそれを周囲とうまくコミュニケートに生かせないだけの「生き辛い」ものにしてしまったいるだけではないのかという疑念を容易に振り払えなかった。

 今にして思えば、それは、他ならぬ私が、そうやって自分のフェルトセンスに敏感であることと、現実の他者とのコミュニケーションとの間に、ある齟齬を来たすことの限界を今より遥かに強く感じていたからに他ならないと思う。

 もとより、フォーカシングを学びだしてほんの1年めに私に生じた外の世界とのとの関わりの変化はある意味で十分劇的だった。自分の感性を信頼し、自分を肯定し、そして、自分の気持ちを載せた形で言語表現する能力飛躍的に上昇した。

 それがなければ、例えばあの、ある意味で「オーバークオリティ」過ぎて編集者を困惑させた可能性が高い、伝説的な(?)アニメ論投稿者としての阿世賀浩一郎はこの世に存在しなかったろう(その一端はasegaの日記の方でも、実はこっちのブログではほとんど披露していないといっていい域にまで実は「無尽蔵」であることを最近示してきたが)。その時代にすぐには評価されなかったが、後には的確な位置づけがなされ、若い世代や外国のアニメファンには高く評価されるようになった作品を、私はどれだけ「孤高のスタンス」で援護できていたことになるのか?

 しかし、私は、そうした、フォーカシングを通して抜きん出て開発されてしまったいくつかの自分の能力と、それ以外の点での未熟さや社会経験の乏しさの著しいギャップと戦い続け、それを一歩一歩、小さな勇気忍耐を持って埋めていくために、現実生活の中で少しずつ打撲を負い、血を流し続け、時には人を傷つけてしまう人生を、その後送らざるを得なかったのである。

 その意味では、フロイトが精神分析について語ったのと似たことを、私もやはり皆様にお伝えするしかないかもしれない。

 フォーカシングを学ぶことは、あなたに「牧歌的な幸せ」を約束することだけは、決してないであろう・・・・と。

 「牧歌的な幸せ」を味わえていると感じたら、その分だけあなたは誰かを押しのけ、傷つけていることに無感覚なだけではないかと我が身を振り返り続けることをこそ、私はお勧めしたい。

*****

 最後に、ジェンドリン自身の言葉を紹介したい。

 「セラピープロセスの小さな一歩」と題するエッセーからの抜粋だが、1988年にベルギーで開催された第1回クライエント・センタード・セラピーおよび体験過程療法国際会議での講演に基づき作成されたものである(池見陽訳)。

ジェンドリン/セラピープロセスの小さな一歩―フォーカシングからの人間理解(池見陽 編/解説)

 日本ではこの論文と同じタイトルの著作↑に収録されているが、この論文集には、ジェンドリンの体験過程理論の第一基本文献である「人格変化の一理論」も、旧村瀬訳を基本としたある程度の改訳(私見では更に徹底的な再吟味が十二分に可能である)の上で収録されている。

==========引用はじめ 太字化および[  ]内はこういちろうによる==========

私が言わなければならない、最も大切なことから始めよう。
すなわち、人とワークすることの本質は、
生きている存在として そこにいること(to be present)です。

そしてそれは幸運なことです。なぜなら、
もしも私たちが頭がいいとか、善良であるとか、
成熟しているとか、賢明でなければならないのなら
私たちは恐らく困ってしまうでしょう。
しかし重要なのはそれらではありません。
重要なことは
別の人間と共にいる人間であるということ。
相手をそこにいる別の存在として認識すること。
たとえそれが猫や鳥であっても
もしも、あなたが傷ついた鳥を助けようとしているのなら
知っておかなくてはらない最初のことは、
そこの誰かがいるということ。
そしてその「人[=person?]」、そこにいるその存在が
あなたに接触しようとするのを待たねばなりません。
それは私にとって、最も重要なことのように思えます。

(中略)

私が情緒的に安定していて、
しっかりそこにいる必要はないのです。
私がただそこにいることだけが必要なのです。

私がどういう人でなければならないという資格はありません。
大きなセラピープロセスや、大きな成長のブロセスにとって望まれることは、
そこにいようとする人なのです。
そこで私は「それならなれる」と確信して来ました。
たとえ私は、一人でいるときに疑いをもつにしても、
ある種の客観的な態度で、私は、
私が人であることを知っています。


(中略)

フォーカシングであれ、リフレクションであれ、他のものであれ、
二人の間に挟み込んではならないのです。

それをはさみこみとして使ってはならないのです。
「僕はリフレクション法があるからここにいてもいいんだ、
僕は卓球バトルがあるから君には負けない、
何か言ってみろ、返してあげるから」と言ってはならないのです。
武装しているという感じになってくる。
そうでしょう。
私たちには方法があるし、
フォーカシングも知っているし、
資格も持っているし、博士号ももっている。
私たちはこんなものをいっぱいもっています。
だから、二人の間に、こういうものをはさみこんで
座っておくのは簡単なことです。
はさみこんではならないのです。
それをどけなさい。
クライエントが持っているくらいの勇気はもてるでしょう。

(中略)

それは、ますます専門化する、つまり役立たずで高価になる[心理臨床という]分野で
とても必要なのです。

(後略)

========引用終わり========

 もちろん、ジェンドリンは技法というものを否定しているわけではない。そのあたりのことは実際に本論文の私が敢えて引用から省略した箇所をお読みいただきたい。

 重要なのは、ここでいう、相手と共に「そこに-いようとすること、すなわち"presence"である。

 ジェンドリンは「しっかりとそこにいる」とか「情緒的に安定している」必要はないと述べている。

 しかし、それは「ただそこにいさえすればいい」ということとは遠く隔たった状態であろう。

 この点で、「プレゼンス」というカタカナ語をふり回す、日本でのこの概念をめぐる議論は何か基本的に空疎であると私は感じている。

 なぜなら、「プレゼンス」という言葉に、肌になじんだが実感ない人間同士の論議だからである。それは現場実践臨床とは無縁の、ただの訓詁学(くんこのがく)であるに過ぎない。

 少なくとも、学校の授業で出席を取られた際に、

"Hi,Sir! I'm present."

と何も考えずに口をついて出る人間であることが大前提ではなかろうか?

 それくらいなら、例えば・・・・だが、「その人が具体的な人格を持った他者としてそこに存在しているという確かな実感」などと、各人各様に実感を込められる言葉に置き換えて語り合う方がよほど有益だろう。

*****

 私は、かつて、ジェンドリンの"presence"という言葉に「臨在」という言葉を当てることを提案したが、フォーカシング関係者には「やや宗教的に響きすぎる」と評判が悪くて、今日に至るまで省みられてはいない。

 しかし「臨床」という概念と非常に接近した用語法であるし、何より、「臨在」という言葉には自然と具体的な「関係性」が含意される気がする。

 そして、ひとりでのフォーカシングに立ち戻れた時の私は痛感するのだ。

 「やっと、『君』のそばに戻った」

・・・・と。

 それは、旧約聖書において、「アブラハムよ、どこにいるのか?」という神の声に、アブラハムが「ここにおります」と答えるまでに何らかの「インターバル」がありそうなことを連想してしまう。

 つくづく私が思っているのは、スピリチュアリティとは、スピリチュアルなものを別段高尚で深淵で特別なものとみなさないこと、あるいは、およそどのように世俗的で猥雑な現実の中にも聖なる真実があることを受け入れる、ある種ポストモダン的な「平準化」の中にこそあると思えてならないのだが。

 ・・・・ということで、何を今さらですが、

And the people bowed and prayed
To the neon god they made.
And the sign flashed out its warning.
In the words that it was forming.
And the signs said."The words of the prophets are written on the subway walls
And tenement halls."

And whisper'd in The Sounds of Silence.

●Simon & Garfunkel - Sound Of SilencePaul Simon - 1964/1993 - The Sound of Silence

 

Original Album Classics: Sounds of Silence/Parsley Sage Rosemary and Thyme/Bookends

セントラルパーク・コンサート [DVD]

*****

 そして、"presence"ということの本質をあまりにも見事に描き出した名歌を、日本人は持っているではないか。

 これ以上でもなく、これ以下でもないのが、"presence"だと私は確信する。

 そして、こうした人間が要所要所にいれば、セラピーなどというご大層な人工物を、さも意味ありげに、かつ有り難げにふりかざさなくても、現代日本の諸問題の大半は解決しているはずである。

●乙三. / 空と君のあいだに 【乙三.arrange】(YouTube)乙三. - お別れ - 空と君のあいだに【乙三.arrange】

 asegaの日記の方ではすでに一度紹介していますが、安達祐実が今度は教師役になってます。埋め込み無効ですので、まだご覧でない方は是非リンク先をどうぞ!!

 中島みゆき自身のオリジナル中島みゆき - Singles 2000 - 空と君のあいだにを聴くなら、選曲的に、次のベスト盤がベストでしょう(^^)

中島みゆき / Singles 2000中島みゆき - Singles 2000

 槇原敬之さんのカバーは、この曲のカバーの中では一番知られているかもしれませんね。

●槇原敬之 - 空と君のあいだに(YouTube)

 このカバーは、みゆき自身の歌唱によるオリジナルのリマスタリングと、豪華メンバー(岩崎宏美、小泉今日子、坂本冬美、徳永英明、福山雅治、小柳ゆきetc.)による新録のカバーを「同一曲で」収めた2枚のコンピレーションアルバム、「元気ですか」に収録されています(紛らわしいのですが、ジャケット緑がみゆき自身のリマスタリング、ジャケット青が他の歌手によるカバー集です。

元気ですか(中島みゆきカバー集) ← つまり、槇原さんの「空と君のあいだに」はこちらのジャケットです。

元気ですか(中島みゆきオリジナル リマスタリングバージョン) ←ハイビットサンプリングによると思われるリマスタリング効果による音の洗い直しがいかに成功しているかは誰の耳にもわかると思います。まさか・・・・と思うくらいに音質が上がってます。一見そうした音質向上が一番期待しにくそうな「狼になりたい」「世情」とかを聴くとよくわかるのでは? 細やかな音質になり、以前のCDの、音のレヴェルの低さの問題も解決。このベスト盤を先行試験とする形で、この後「紙ジャケ仕様」のリマスター盤が、アナログ期+デジタル初期のアルバムを網羅する形で発売される流れになるわけですが。

*****

 それはそうと、蛇足を承知で、やはり少し解説しておきます(^^)

 「ポプラの枝」として「ここにいる」という以上でもなく、以下でもない。

 「空と君との間に降る、冷たい雨」の空間を、カウンセリングルームを出た後、日常に戻っても、以前よりは「友好的な広がり(空間)」として体験してもらえることを持続的に可能にするのがカウンセラーの基本的な役割である。

 「孤独な人の心につけ込む」つもりはない。ただ、相談に来るからには、俺も「食ってかなきゃ」ならないから「同情するなら、金をくれ!」。

 中井久夫先生も、「あなたはなぜ療法家をしているのか」と患者に問われれば、「ただ日々の糧を得るため」と答えられるのが正しいと述べている。

病者と社会 (中井久夫著作集―精神医学の経験)所収の「軽症境界例について」という論文を参照。

 クライエントさんたちは、社会の中で生活者として生きて行くのであり、仮に障害者年金を受給している人たちですら、単に障害者であること、あるいは病者であることそれ自体を主なるアイデンティティとすべきではないと思う。

 それが一時的に不可避な場合もあるが、大抵のクライエントさんは、少なくともそれ以上のsomethingになれることを、実に切実に望んでいる。

 もしそうなっていないとすれば、はっきりいって、その人に関わる「関係者」の中に、その人が障害者や病者であることにとどまってくれないと、共依存的な対象を失い、「孤独になってしまう」ことの不安があり、それに当事者側が巻き込まれているのだ。

 「自立支援」の名のもとに、実は当事者にいろんな「無理をさせる」ことで結果的に挫折させ、元の鞘に納めさせて「自己満足的かつ防衛的な」安心を得ている「関係者」は少なくないと私はみなしている(特定の当事者を指しているつもりはない)。

 つまり、「単なる病者や障害者に留まりたくない」当事者の皆さんの心情にほんとうに無理なく寄り添えている="presence"ある関係者に包まれていたら、思いの外早くその活路は開けるように思えてならない。

 ある別の精神科医の先生の信念は「働けるかどうかで、あなたの価値に変わりがない」だそうである。それでもこのことはいえると思う。

 逆説的なことを言わせていただければ、およそボランティアとしてのみカウンセリングに携わっている限りは、結局は自分の精神的満足(欲求不満解消)のためにカウンセラーをしている域を抜け出せないと思う。

 いや、カウンセラー諸君、カウンセリングの収入が思うに任せず食うに困る経験を是非お積みください。これは時給いくらで、クライエントさんが「幾人」おいでになるかならないかと「無関係に」「一定の」収入が得られるうちはまだ見えてこない世界がありますよ。

 (つまり、カウンセリング機関にお勤めなら、面接料金の一定の割合が収入という完全歩合制のところをお勧めする。そういう相談機関はちゃんと日本にいくつかは存在します。ほら、「あそこ」がそのシステムですから。どうすれば、「見ず知らずの者」がそこのカウンセラーになれるかはよくわかりません。私もかつて在籍しましたけど・・・・)

 そして、それにも関わらず、安易に「副業」に依存せず、カウンセリング一本で食べて行く「王道」を目指してください(現在の私の収入源は9割が通常のカウンセリング(その中の9割が通院歴3-4年以上、社会人としてのブランクを2年は経験した、欝や双極性2型を中心とした気分障害の皆さん)、0.9割がフォーカシングのトレーナー、0.1割が、現金にはならない形でのアフィリエイト収入ってところでしょうか)。

 腕にそこそこの技量があるのに食うに困った経験がない人間は、同様な境遇の人間の目線に本当に立つことはできないと思います。

 もう、公然と書いても、決して覆らない自負をこの数カ月いよいよ高めていますので書きますけど、大抵のカウンセリングルームよりお安いばかりか、面接一回あたりの密度の濃さと充実度・・・・数年間通院しながら堂々めぐりしていた皆様が、遅くとも面接3回めから5回めまでに、それにその人の現実社会での生き方に確かに変化を実感し、何かがブレイクし始めた手応えを感じていただけることでは定評があります(もちろん、すべての課題解決とは行かなくても、「動かないと諦めていた山がひとつ大きく動いてしまった」とは)。

 はっきりいって、面接開始から3-5回以内にそれを感じさせられないカウンセラーは修行が足りなさ過ぎだと、今の私ならあっさり断言しちゃいます。そういう領域のカウンセリングを当たり前のように可能になれる! と(・・・私も49歳までかかりましたが)。

 ・・・・なのに、黒字に転じたとはいえ、はっきり言ってまだ独居の障害者年金+生活保護の人以下の月もあります。さすがに月収10万は確実ですが、20万切る月が多いってとこです、現在の私の収入は!

 だから時には理事会会場までの交通費が学会経費で全額支給で、本州への「公費旅行」もしたい(そういう機会に抱き合せで出会いたい人、行きたい場所もある)ので理事に立候補させていただいたというのは、3分の1ぐらいはマジな話です。

 3月27日に、往路スカイマークで神戸空港なるものに降り立てて(福岡からの関西出張のもっともお得で所要時間に無駄がないやり方ですね。空港からニュートラムで三宮駅までダイレクトに15分ですから、乗り継ぎし放題。便利さは関空や伊丹の比ではない。夕方の便の時間帯が早いのが残念ですが)、帰りは700系ひかりレールスターに乗れるのが非常に楽しみである。

*****

 そして、もう、このブログでこのことを書くのは何回めだろう。

 「君の心がわかると、たやすく言えるカウンセラーに
 なぜ客はついて行くのだろう、そして泣くのだろう」

  ここで、敢えて、村瀬嘉代子先生語録の冒頭を、リンク先でお読みいただければ幸いである。

 受容・共感という言葉などという、偽善的な"paternalism"(温情主義)のニオイがする、同性愛チックな、気持ちの悪い言葉は滅び去ってしまえ!!

 ・・・・ただ、ロジャーズのいう、「無条件のpositiveな関心」ということは、少し別な次元で、より重要な鍵を握っていると思う。

 "presence"ということを別の側面から言い表していると感じる。

 このことについてはいずれまた書いてみたい。

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2009/11/26

「フォーカシング事始め」(村瀬孝雄・日笠摩子・近田輝行・阿世賀浩一郎 共著)

 私自身が共著者の一人として名前を連ねて1章だけ書いているので、ご紹介するのは少し恥ずかしいのですけれども、それでもやはり、日本(特に関東地区)におけるフォーカシングの普及において、ひとつのターニング・ポイントになった本だと思いますので。

 それはどういうことかといいますと、本書が刊行(1995年)された少し前、フォーカシングの有力なトレーナーであるアン・ワイザー・コーネル女史が初来日され、ワークショップを開催しました。その時の実習と、当時ワークショップ参加者だけが購入できたアンさん独自の技法マニュアル(それが後に刊行されたものが、あの「入門マニュアル」「ガイド・マニュアル」です)を元に、東京の日精研などを舞台として、恩師、故・村瀬孝雄先生や日笠摩子さん、近田輝行さんたちと共に、そのアンさんの技法を自己掌中のものにするべく勉強会を重ねました。

 そうした中で、村瀬先生の立案で、アン・ワイザー法を詳しく具体的に紹介することに大部を割いた本を4人で1冊書くことになったのです。

 つまり、本書は、日本における、公刊された、アン・ワイザー法フォーカシング「事始め」でもあるのですね。

 日本フォーカシング協会設立の、少し前の時期のことです。

フォーカシング事始め―こころとからだにきく方法

●神田橋條治先生による本書の書評(「精神療法」誌 第22巻 3号掲載)

******

 次に、本書の目次をご紹介します。

  1. フォーカシングとは?(村瀬孝雄)
  2. フォーカシングの不思議な力(村瀬孝雄)
  3. 熟練した2人のガイドとのフォーカシング経験(日笠摩子)
  4. あるワークショップの記録(村瀬孝雄)
  5. フォーカシングを実際にやってみるために(日笠摩子)
  6. フォーカシングQ & A(村瀬孝雄・日笠摩子)
  7. フォーカシングの歴史と理論(村瀬孝雄)
  8. フォーカシングの諸相と日本・世界の現況(村瀬孝雄)
  9. カウンセラーがフォーカシングを学ぶことの意味(近田輝行)
  10. フォーカシングの「臨床適用」について(阿世賀浩一郎)
  11. 補章:谷川俊太郎の詩 「きもち」を借りてフォーカシングを解説する(村瀬孝雄)
  12. フォーカシングについてもう少し知りたい人のために(村瀬孝雄)

*****

 その後、私たちは、後続するジェンドリンや奥様のメアリー・ヘンドリックス(The Focusing Institute 現CEO)、アン・ワイザー、エルフィー・ヒンターコフ、ジャネット・クライン、ケビン・マケベニュ、バラ・ジェイソンらの著書や論文、ワークショップ(邦訳はありませんが、メアリー・マクガイア、ドラリー・グリンドラーをはじめとする人たちによる、重篤事例についての重要な論文があります)からさらに多くのことを学び、日本国内でワークショップ・セミナー・研究会を仲間たちと実施したり、それぞれの臨床・教育現場の中での適用を模索する中で、更に研鑽を積んで行きました。

 しかし、今回、本書を久しぶりに読み返してみたのですが、(自画自賛じみて申し訳ありませんが)、よくもまあ、この段階で、ここまでフォーカシングの当時最先端の潮流を咀嚼し、広範囲の視点から総合的にご紹介できていたなと、ほっと胸をなでおろした次第です。

 私たちの「フォーカシングの青春時代」は無駄ではなかった(^^)・・・・まだ、古くなってないです。

*****

 本書の中の白眉のひとつは、日笠さんが苦心の末に編み出した、当時のアン・ワイザー法に基づく「フォーカシング・フローチャート」(p.pp.124-6)でしょう。このフローチャートを観てみるだけのためですら、本書を借り出したり、購入する価値があるかもしれません。

 ジェンドリン自身のオリジナルのフォーカシング技法が、単純に要約された、せいぜい1,2ページのマニュアルとして配布され、「それがフォーカシングというもの」と学習者に思い込まれてしまって伝播したことの最大の弊害は、フォーカシングの手順というものを、「空間づくり」にはじまり、「フェルトセンスをつかむ」→「手がかりとなる言葉やイメージを見つける」→「見出した言葉やイメージが実感にぴったりかどうか共鳴させる」→「フェルトセンスに問いかける」→「受け止める」という段取りを、順序だてて進めたときにはじめてフォーカシングしていたことになる・・・かのような誤解を広め、それでは思うように成果が上がらないと諦められてしまう事態を招いたことでした。

 (このことが、ジェンドリンも望まない事態で、もっと柔軟な適用が肝心であることについては、ジェンドリン自身の著作、「フォーカシング」を丁寧に読み解けば、繰り返し説かれていることなのですが)

 アンさんは、ジェンドリンの技法をベースにしながらも、それをわかりやすくて「勘所」を明確にした「5つのステップと5つのスキル」に再構成しました。

 その結果、気がかりな「事柄」からであろうと、その時の漠然とした「身体の感じ」からであろうと、柔軟にフォーカシングを始められるばかりか、内側から生じてきたものは取りあえずなんでも「認めてあげる(acknowledging)」ことと、フェルトセンスから性急な言語化を引き出さないまま「共にいる」ことを重視する丁寧でかゆいところに手が届くものとなりました。

 この「認めてあげる」や「共にいる」は、実はセッションの最中のいたるところで提案される教示なので、実は番号を振って直線的に順序だてて説明することになじみにくいところがあります。

 更に、フェルトセンスから「遠すぎる(too distance)」状態になった人と、「近すぎる(too closed)」状態になった人(アンさんのいうフェルトセンスを「脱同一化(disidentification)」して感じられる状態が程よく維持できないという点では、どちらの事態も共通です)への臨機応変な介入も必要です。

 これらをすべて表現しようとすれば、もはやフローチャート形式をとって空間的な表現にして、必要あればあっちに行ったりこっちに戻ったりということを一望できる図版にするしかない。

 日笠さんを中心とした人たちが取り組んだこの「図版化」は、アンさんの技法書のどこにも出てこないオリジナリティあふれるもので、これがアンさん来日2年目で達成されたことは、再評価されてしかるべきと思っています。

 (アンさんの技法体系そのものも、その後進化を続けていますが、この段階でのアン・ワイザー法の、几帳面な丁寧さのプラス面は、フォーカシングを「意図的なスキル」として緻密にトレーニングする場においては、決して過去のものにされてはならないというのが私の信念です。このフローチャートは、私の主催するささやかなグループでの恒例の配布資料で、現在もあり続けています(^^)) 

*****

 さて、私が執筆した第10章ですが、のっけから「臨床家自身がフォーカシングを身につけ、日常の中で役立てられていないうちは、臨床現場での適用なんていうことは考えない方がいいのでは?」という、不遜なまでに挑発的なメッセージからはじまっています。

 さすがに若気の至りではなかったかなと、その後多少自己嫌悪に襲われ、長らく読み返さないでいたのですが(^^;)、本書刊行から14年を経て、一読者の心境で客観的に読み返してみたところ・・・・ほっとしました。私なりに十分にジェントルで丁寧な語り口で書けている。

 (つい最近、認知行動療法の大家、伊藤絵美先生が、これからCBTを学ぶ専門家への心構えとして、実にそっくりの表現を、著作でなさっているのに気がつき、安堵したというのあります)

 そして、当時はジェンドリンが書きつつある「フォーカシング指向心理療法」のdraftを村瀬先生によって手渡されて、その一部を読み解くぐらいの段階でしたが、私がその時点で言葉にできた「臨床現場でフォーカシングをどのように生かすか」という方向性に、その後ブレはなかった、完全に今日の私のスタイルへと繋がっていると確信できました。

*****

 更に、この私の書いた章、さすがアニメおたくカウンセラーこういちろうですね(^^;)、私自身すっかり忘れていたのですが、次のような部分がありました(pp.241-2):

========引用はじめ=========

 このようなクライエントさんたちにとっては、自分が「どんな」感じでいるのかについて語ることは、まだサナギの状態でしかいられない昆虫が、性急に脱皮を急がされたような外傷体験に容易に結びついてしまう危険があるのです。・・・最近(95年7月)、「風の谷のナウシカ」等で有名な宮崎駿氏らスタジオジブリ制作による長編アニメ、「耳をすませば」が封切られ、映画館でご覧になった方も少なくないかと思いますが、この映画の中で、主人公の月島雫(しずく)という中学生の少女が、留学した恋人が日本に戻るまでに、自分もなにかをやり遂げようと一大決心をして、受験勉強を投げ出して、寝食を忘れてファンタジー小説の執筆に打ち込む展開があります。

 憔悴して眠り込んだ雫は、ある悪夢にうなされます。鉱脈の中の壁一面が原石でできた洞窟の中で、ほんとうに輝くただひとつの純粋なエメラルドを見つけ出そうと焦って探し回るけれども、なかなか見つからない。これぞと思って壁から抜き取った石は最初は光り輝くかに見えました。しかし次の瞬間にその石は、雫の手のひらの中で、まだ卵からかえっていないヒナの死体へと変容するのです。

 悲鳴と共に飛び起きる雫。目の前には一向に進まない、破り捨てた書きかけの原稿用紙の山があります。

 映画の中の雫の場合には、物語をともかくも書き上げるだけの自我の強さと、そうした彼女を理解して見守る幾人かの周囲の人たちのまなざしがあったから救われたのですが、私たちが現実の臨床現場の中で出会うクライエントの中には、まさに賽の河原で石を積んでは壊されるかのようにして、自分の中の「卵」や「サナギ」を性急に孵化させようとしては流産させることを繰り返す中で傷つき、内面をすり減らし、蟻地獄のような絶望と無力感に次第次第に沈んで行く人たちも少なくない思えます。

 むしろそうしたクライエントさんたちにまず必要なのは、自分なりにさなぎ(繭)をつくって、その内部で成長と分化が暗黙のうちに進展するのを見守ることが許されるような治療的な場の保障と関係性ではないでしょうか。

 すなわち、彼ら/彼女らは、まずは、自分たちの中にうごめく形(言葉)にならない混沌が、自分を破壊する可能性がある脅威ではないという安心感を抱けるように徐々になれる治療的な場を保障してもらえる必要があるように思います。

 そして、その言葉にならない混沌を、いとおしみながら育み育てるための子宮的な空間を、自分の身体の内部や外部に安定した形で確保できる自分なりの工夫を見出せるようにサポートされるべきです。

 (これが、本書でもすでに第5章で示した、アン・ワイザー女史の言う、フェルトセンスと「一緒にいる」ということにあたります)

========引用おわり=========

耳をすませば [DVD]

(楽天ブックス)

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2009/09/08

「クライエント中心療法」が押し付けられた時、メタ次元では「セラピスト中心療法」になる! -Mick Cooper博士による、心理療法における多面的(pluralistic)アプローチ-  (1) [第2版]

 日本人間性心理学会第28回大会の参加報告の続きです。

 今回招聘された特別講師は、イギリス(スコットランド)のグラスゴーにある、ストラスクライド(Strathclyde)大学教授、ミック・クーパー(Mick Cooper)氏であった。

パーソンセンタード・アプローチの最前線 -PCA諸派のめざすもの- (共著)

  私は、28日の夕刻に催された2時間の特別講演、「多面的心理療法における理論・研究・実践」のみに出席したが、30日には、氏を講師とするワークショップも開かれている。

 この講演内容が、今の私にはたいへんエキサイティングだったので、ここでご紹介したい。

(なお、この講演の時のパワーポイントファイルの日本語訳が、近日中に大会準備委員会サイトで公開される筈であるが、私はすでに手元にあるパワーポイントの印刷資料と、そこに書きつけたメモに基づいて以下の内容を書いていくことをお許し願いたい)

******

 ここでクーパー氏が言う、心理療法における「多面的(pluralistic)」アプローチというのは、ある観点からすると、俗に「折衷的(eclectic)アプローチといわれるものと、外見上は類似している。

 つまり、心理療法の各流派の技法を臨機応変に柔軟に取り入れて活用する性質を持っている。

 ただし、そこにあるのは、単に「役立ちそうなものなら何でもあり、片っ端から総動員」ということではなく、基本にある一本のポリシーが通っている。

 それはある意味で、私が準拠し、国際資格を取得している「フォーカシング指向心理療法」が、単にフォーカシング技法を臨床現場に適用するという次元を遥かに越えて、精神分析から認知行動療法、行動療法に至るすべての流派のアプローチの「エンジンオイル」(隠し味)として役立てる柔軟性を指向していることと共通項を持つ。

 だが、クーパー氏の「多面的」アプローチは、より包括的なビジョンと方法論を提供してくれようとしているものにすら思われた。

 それは一言で言えば、面接過程の個々の局面(micro-steps)でどの技法を選択するかという点において、治療者とクライエントさんとの意思疎通を極めて重視し、最終的判断をクライエントさんに委ね続けるという、「メタ次元でのクライエント中心性」を絶えず維持していくための、臨床現場での具体的な方法論を持つという点である。

 このことを具体的に解説していくために、クーパー氏は、ロジャーズのクライエント中心療法をはじめとする、パーソン・センタード・アプローチ(PCA)の基本に流れるものの再確認から話を説き起こした。

******

 クーパー氏は説き起こす:

 パーソン・センタード・アプローチには、今日さまざまな広がりが生じているが、それらが共通して強調しているのは、「人間存在の独自性(uniqueness)」「自己決定の権利」の尊重である。

 「独自性の強調」とは、個々の人格を、交換可能ではない、かけがえのない独自性を持つものとみなすということである。

 更に言えば、「それぞれの人が生きている経験的なリアリティというのは、初源的にひとりひとり独自のものである(ロジャーズ)」。

 これは、裏を返すと、自分にとっての他者存在は、自分とは異なる独自の人格を持ち、独自の経験世界に生きていることを認めるということでもある。クーパー氏は、哲学者、レヴィナスの、

「他者の他者性は初源的に知りえないもの」

という言葉を引用している。

*****

 さて、こうした背景のもとに、例えばロジャーズのクライエント中心療法の「非指示(non-direstive)性」は成立した。クライエントさんの語りをひたすら受容・共感・セラピストの自己一致の原則で傾聴して行くものの、セラピーの時間に何をどこまでどのように語るか、あるいは、どこまでたどりついたらカウンセリング関係を成功し、終結していいものとみなすのかは、クライエントさん側の完全な主体性に委ねられることになる。

 そして、面接場面でのセラピストとの関係性の中での相互作用によって、クライエントさんは、それまでの生育暦の中で経験した、ある一定の条件を満たした場合にのみ価値ある存在として認められ、受容された(「条件付きの」肯定的配慮の)経験に基づく歪みから己れを解放し、その人らしいライフスタイルを自ら見出していくプロセスを歩み始めるものとされている。

 ところが、こうしたことを面接場面で可能にする理論と方法論を、ひとつだけに一元化しようとする傾向を、パーソン・センタードの療法家すら持っている(例えば、ロジャーズの「必要にして十分な条件」)。

 「これは、あらゆる時、すべてのクライアントに対して、ほんとうなのだろうか?」

・・・・と、クーパー氏は問いかける。

 様々な実証的リサーチの結果は、同じ技法を用いていても、クライエントさん個人によって、そのセラピーが有効であるかどうかが異なることを示しているという。

 例えば、多くのクライエントさんは、セラピストから共感してもらえたと感じる水準が高ければ高いほど、最善の成果を挙げていくことは確かである。

 しかし、セラピスト側の反応に人一倍過敏な傾向があるクライエントさん、疑い深さが強いクライエントさん、治療への動機付けに乏しいクライエントさんの場合には、セラピスト側の共感能力の高さが効果を発揮しないことがある。

(こういちろうの私見・・・・そして恐らく神田橋條治先生や、増井武士先生、田嶌誠一先生らの見地によれば、あまりにも細やかにセラピスト側が言語的にチューニングして応答したら、場合によっては[特に統合失調症や境界例性が強いクライエントさんの場合]、むしろ弊害が出るケースもあるように確かに思える。クライエントさんが「曖昧に、漠然と」感じていることを、それ以上明確化しないままに暗に認めてあげつつも、むしろクライエントさんの中で、適切な「体験的距離を見出す」ことを援助する方が望ましい場合が、確かにあるのである)

 逆に、ロジャーズ派的なセラピーから最善の成果を引き出し得るタイプのクライエントさんは、高い水準での抵抗力(resistance)・・・・私が推測するに、神田橋先生のいう、健全な「拒否能力」とほぼ同じもの・・・・、要するに、自分にとって違和を感じさせる外界からの働きかけに揺るがされにくく、応じない傾向が強く、自分自身に生じる様々な問題を、認知行動療法で言うところの「コーピング・スタイルの内在化」・・・・問題を容易にacting outすることなく、自分自身の関わる課題として引き受けて直視する力のようなものが高い場合が多いという。こうしたクライエントさんには、確かに、古典的でオーソドックスなクライエント中心療法で一貫して進めることが向いているといえる。

 いずれにしても、もし、クライエントさんがどう望もうと、自分の担当カウンセラーが、古典的なロジャーズ派の「非指示的な」カウンセリングでしか対応してくれず、それがそのカウンセラーに期待できる「唯一可能な」セラピーのあり方だったとすれば?

 この時、クライエントさんは、セラピストから、「非指示的な」カウンセリングを押し付けられる=「指示される」、という、メタ次元ではむしろ「指示的」療法に屈する渦中に置かれることになる!!

 これほどのパラドクス(逆説)があろうか?

*****

 ここで、クーパー氏の、「多面的(pluralistic)」アプローチの提唱の意義が明らかになりはじめるのだが、連載として第2回にまわすこととしたい。

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2009/09/03

「カウンセラーこういちろうの雑記帳」の主要過去記事を一番簡単に一覧するには

 このブログって、すでに創設4年9ヶ月、過去のエントリー記事総数が、「この」記事で1,914本め、なのに一日あたりの新エントリー、平均1.10本以上を現在も維持、しかも長文が多いという、へヴィー級ブログです。

 おかげで、もはや@ニフティココログが割り振ってくれているサーバー負荷が相当なものになっているせいか、

  • 私の方からトラックバックを送ることがもはや機能しない
  • pingも自動では飛ばせない(その割には随分多くの読者の皆様が、新記事アップ直後においでいただけることを幸いだと感じています)
  • カテゴリーにすべての記事が反映しない(カテゴリーによっては300から400エントリー分表示されようとするわけで)

・・・・・という、新しくおいでいただいた読者泣かせのブログになっていると思います m(_ _;)m

****

 もちろん、バックナンバー全体を表示してくれる、『アーカイヴ』ページ(自身がココログユーザー以外の読者の皆様、お気づきでしたか??? 右フレームの「バックナンバー」という文字そのものをクリックするとたどり着けます)というものも、あるにはあるわけです。

 しかし、このページにお行きになっていただいたとしても、過去の個々のエントリー記事のタイトル一覧があるわけですらない

 このページからの「〇年〇月」を全部めくっていただくだけでも(全く休眠した数ヶ月を除いても、現在50か月分ほどあるわけですね(^^;)。その50ヶ月分、それぞれ月ごとに、毎月30から40エントリーずつはあるわけですから・・・・・

 つまり、私がこのサイトでこれまで書いてきた主要記事がどんなものか、新しい読者の皆さんにおおよその見当をつけていただくには、もうデタラメにご不便をおかけしていることと思います   il||li _| ̄|○ il||li

*****

 この問題を一気に解決し、

  • 新記事の方が上に来る形で、
  • 過去の記事に関しては私がある程度絞り込んでセレクトしたものを、
  • 数百記事ばかり、1ページをスクロールできる形で
  • ブログのような表示の重さがない形で一覧したいただける

そういうページが、実はずっと以前から存在します!!

●阿世賀浩一郎のホームページ/index

 開設1995年12月(つまりWindows95発売直後)開設、日本において、インターネットで個人サイトを作ることが本格的に普及し始めた黎明期から、何と基本的なデザインを変えないまま運営し続けているサイトです。

 かつては、ネットを代表するエヴァ・サイトのひとつ、「エヴァンゲリオン論考」で著名だった時代もありますけど、幸いにして著作化させてもいただきましたので、そのコーナーは全面削除いたしておりますが(「ちーちゃんの部屋」というアニメコーナーがかつて存在したことを覚えておられる方もあると嬉しかったりして ^^;)・・・・

そのトップページから、このブログでの新エントリー記事を書く度ごとに、固定リンクへのリンクを、たいてい速攻の連続作業でお貼りしてもいるのです。

 恐らく、皆様のRSSリーダーに反映するスピードの比ではない「即時性」で「新着情報」が掲載され続けています。

 同一エントリー記事の更新(改版)情報すら、可能な限り早くお伝えしています。

 

そこに並んでいる、当ブログ個別記事へのリンク数は、常時数百あるはずです(古いものから時々、精選のための「ダイエット」をかけますので、一定数以上には増えません)。

 しかし、敢えて今でも、基本的には「素朴なhtml言語の手打ち」に依存し、javaスクリプトすらないに等しいということで、このトップページそのもののバイト数の多さの割には、表示が圧倒的に軽い筈です(このブログのトップページを表示するよりは軽いと思いますよ)

 
当方のアクセス解析によって、「こっちのページで新着情報見つけるほうが手っ取り早い」ことにお気づきの、毎日数名以上の固定ユーザーの方がおられることは掌握しています(感謝!!)。

 しかし、そうした方の占める比率が以前よりもかなり減っているようにも思いましたので、改めてご紹介させていただきました。

 

今後とも、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」をよろしくお願い申し上げます。

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2009/07/06

「甘え」と「KY」  -土居健郎先生ご逝去に寄せて- (第2版)

●土居健郎さんが死去=「甘え」の概念提唱(時事ドットコム)

========引用はじめ=======

 日本人の心理を説明する「甘え」の概念を提唱し、さまざまな分野に影響を与えた精神医学博士の土居健郎(どい・たけお)さんが5日午後3時27分、老衰のため死去した。89歳だった。東京都出身。葬儀は親族のみで行い、後日お別れの会を開く予定。喪主は長男望(のぞむ)さん。
 東大医学部卒。米メニンガー精神医学校に留学し、日米の人間の行動様式や心理状況の違いに着目した。帰国後は東大教授や国際基督教大教授、国立精神衛生研究所所長を歴任した。
 1971年に発表した「『甘え』の構造」は国内で140万部を超えるベストセラーとなり、数カ国語に翻訳された。日本人特有の「甘え」をキー概念として精神分析したもので、政治学や社会学、文化人類学などの諸領域に影響を与えた。 
 近年は、「甘え」が必ずしも日本人独特ではなく、ある程度普遍的なものではないかという考察に達していたという。(2009/07/06-13:00)

========引用おわり=======

 謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

土居健郎/「甘え」の構造 [増補普及版]

 このことはこのブログでもこれまで言及したことがあったかと思いますが、土井先生の「甘え」概念は、その発表以来、「甘え」という言葉だけが独り歩きし、土居先生がそこに込めた含蓄は、的確に理解されないまま今日に至っているように思えます。

 つまり、日常語としての「甘え」のことと安易に同一視されてしまい、なぜ、土井先生が「  」つきで、『甘え』と表記したのかということがすっ飛んでしまったままだと思うのです。

 私なりの理解を解説すると、土井先生の言う『甘え』とは、

「自分の中に生じてくる欲求を、自分から主体的に相手に言語的に明確に伝達することをしないまま、気持ちを『汲んで』もらい、『察して』もらおうとする、他者との関係性の様式」

を指します。

 つまり、例えば、子供が、デパートのおもちゃ売り場で、「○○が欲しいよう!!」などと叫びながら、床に根っころがって泣き叫んでいたとしますね。これは、日常語で言う甘えではあっても、土井先生が言わんとした『甘え』には、必ずしも該当しないのではないかと思えます。

 同じシチュエーションでいえば、デパートで、おもちゃ売り場に近づいた時に、子供が、何とはなしにおもちゃ売り場の方に目を向け続ける。親はそれを「察して」、おもちゃ売り場の辺りをうろついてあげる。

 でも、子ども自身は、自分からは「これが欲しい」とすらなかなか言い出さない。子供の視線や表情を観察していた親のほうから、「これが欲しいの?」と言い出して、子供ははじめて、遠慮がちにうなづく。

 ・・・・・もし、こうした流れだったら、それは、土井先生が言わんとした意味での『甘え』に非常にぴったりした状態ということになります。

 ある観点からすると、自分から主体的・能動的に、アサーティブに一定の現実吟味を持って)甘えるだけの自我を獲得したら、その人は、土井先生が言わんとした意味での『甘え』の段階を卒業したことになる・・・・というパラドクスがあるわけですね。

*****

 土井先生の『甘え』理論を国際的に紹介したのは、ハンガリー出身のイギリスの精神分析医、マイクル・バリントです。この事実は専門家に幅広く知られていても、、バリントが土井生の『甘え』理論を紹介する際に用いた文言を実際にお読みの方は少ないと思いますので、その箇所のひとつから抜粋してみましょう。

========引用はじめ=======

人間がそういう(『甘え』たい)場合にとる態度は西洋人もみんな知っているものばかりだが、西欧では手軽な単語では表現できず、例えば「思い切り甘えたい気持ちを出してはいけないと思い、自分の中に精神的苦痛(恐らく自虐的苦痛)を鬱積させたために、口を尖らせて仏頂面をしている」などといった複雑な句を用いなければならない。

========引用おわり=======

(以上、バリント「治療論からみた退行」(中井久夫訳) 邦訳p.99)

 上記の引用内の例えで、長々と語られている心の状態を日本語で表現しようとすれば、「(甘えを押さえつつも)『すねて』いる」といえば済ませられることになるわけですね。

 『甘え』にあたる言葉は日本語以外にもあることが様々に論じられていますし、先ほど述べた「自分の欲求を他者に察してもらい、かなえてもらえたい衝動」ということだけを取り出せば、例えば生まれたばかりの赤ん坊は、泣くという行為から、養育者が、何がどう不快でどうして欲しいのかを「読み取り」、ビオンふうにいえば「もの思い(reverie)」して、かなえてもらうことによってはじめて欲求がかなえてもらえるわけです。

 また、人の中には、幾つになっても、自ら語らずとも、相手に自分の気持ちを察して欲しいという思いはあり、そうした思い全体を「未成熟な」ものだとみなすのは、明らかに行き過ぎでしょう。自分の欲求を自分の内部で冷静に客観的に吟味し、意識化した上で、言語的にアサーティブに伝える形で人とコミュニケーションするあり方のみを理想化し過ぎになるのも、「独立した自我を持つ人間」というものについての過剰に理念化したなファンタジーであると私は考えます。

 つまり、文化や言語を超えて、土井先生の言わんとした『甘え』の問題は普遍的であるということは間違いないので、確かに、単なる「日本人論」としての『甘え』論は、その歴史的役割を終えつつあるのかもしれません。

****

 しかし、日本では、今でも、さまざまなメンタルな問題について日常的に批判的に語られる際に、何かというと「甘えている(のではないか)」という言葉が登場します。「甘え」という言葉が日本人の集団的な超自我に深く食い込んだ特殊な含蓄があり、安易に振り回されていること、そしてそれが、病める人の悩みを一層深める言葉であることには変わりがないといえるでしょう。

 更に言えば、最近流行の「KY=空気が読めない」という言葉ですが、この言葉は、「自分や集団が暗に求めていることを察して、気持ちを汲んでふるまってくれない」相手への批判的レッテルだといっていいでしょう。

 つまり、若い世代を含めて、日本人全体が未だに「『甘え』の構造」そのものの社会性に身を浸しているからこそ、「KY」なる言葉が、「甘えの通じない人たち」に浴びせかけられているのではないかという視点はあっていいはずだと思います。

 つまり、「KY」という言葉を振り回す人たちは、実はオールド・タイプの「日本人」そのもののままなんだと私は思っています。

 物言わずとも相手が自分の気持ちを察して対処してくれることを当然のものとして期待し続けていることには変わりがないのですから

 ぶっちゃけていえば、集団の中で、周囲に迎合しない人には、今や情け容赦なく「KY」という言葉が降り注ぎかねない。

 安易にKYを振り回す人はまだ成熟した大人ではない。

 ほんとうの大人とは、KY気味の人にすら、自分から働きかけて、コミュニケーションして、関係を作って、相手から成熟した力を引き出す人たちのことではないかとも思えます。

*****

 もとより、これだけはたいへん一方的な言い方でしょうね。

 そうした人たちが「KYな」人たちを責めたくなるのは、自分たちが、周囲の人たちや、親や、既成の大人社会から、「はっきり言葉で言われなくても、気配を察して、場の空気に反しない言動を取るように」子供時代から言外の圧力で求められ続け、それにしぶしぶ従ってきたのに、そういう自分たちが従ってきた規範を平然と踏み越えていくかに見える人たちに遭遇すると、むかついて、押さえ込みたくなるという側面があるのだと思います。

 更に言えば、自分が「周囲の空気を読む」ことによってはじめて自分に許容されるようになった地位や集団内での安定、そして、集団そのものの安定を、そうした「KYな」人たちが崩してしまうことへ不安の反映ともいえるかもしれません。

 人の気持ちを汲み取ろうとするスキルは、単に相手を怒らせないとか、むかつかせない、波風立てないということではないはずです。もっと能動的で個別的な「相手の身になる想像力」であり、相手との相互コミュニケーションのスキルの向上だと思います。

 その点から見ても、「KY」という言葉を安易に連発する人たちに、果たしてほんとうに、人の「気持ち汲んだ」コミュニケーション力を持っているのかどうか、自問してみていただきたい思いがあります。

 KYな人たち=困ったちゃん

 KYではないこと=「社会性」があること

・・・・という論調に、昨今の日本が染まっていて、一億総「KYでなくなろう」キャンペーンみないな風潮に違和を覚えていたので、これを機会に書かせていただきました。

  ・・・・・恐らく、こうしたあたりにこそ、土井先生の『甘え』理論が示唆した問題が、『甘え』という概念そのものは、今後使われなくなっても、今の時代のホットなテーマであり続けるためのヒントがあるのだと思います。

*****

 なお、「場の空気を読めない」人のことを、即、場の空気に「鈍感」だとか「無関心」だととらえるのは明らかに間違いです。

 そうした人たちは、むしろ場の空気を「過剰に」全身で感じ過ぎているために、それを「的確に距離をとって」、俯瞰して、味わった上で、適切な「読み取り」を確立できないのだという方が、現場臨床的には妥当なことが少なくないはずです(増井武士先生なら、そのようにおっしゃるでしょうね)

*****

【第2版で追記 09/11/02】

 ネットサーフィンしていて見つけたのですが、"KY"(空気が読めない)という言葉の濫用に関しての論考としては、次の記事が、痛快なまでに秀逸です。お勧め!!(^^)

●「おまえも空気の奴隷になれ」って?「空気読め」の扱い方次第で人生台無し(分裂勘違い君劇場)

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2009/06/11

壺イメージ療法とフォーカシング(第3版)

 以前にもご紹介したかとも思うのですが、改めて、現在九州大学で奉職されている、田嶌誠一先生(研究室情報はこちら。先生のメッセージもあります)の開発した「壷イメージ療法」について取り上げてみたいと思います。

 まず、壷イメージ療法についての田嶌先生ご自身の著作(単著、およびそれに準ずる著作)は次の二つです。

壷イメージ療法―その生いたちと事例研究(成瀬悟策監修)

 専門家向けの包括的な著作としては結局この本に勝るものはないのですが、中古市場でたいへんな高値がつく状況です。もちろん、伝統ある臨床心理系の大学院のある図書館には結構所蔵されている可能性が高いでしょう。

 研究会の、シンポジウム形式での発表と討論の記録という体裁をとっているのですが、そこで討論者に指定された先生方が超豪華です。

 倉戸ヨシヤ先生・栗山一八先生・中井久夫先生・増井武士先生・(我が恩師、亡き)村瀬孝雄先生。(司会はもちろん田嶌先生の恩師、成瀬悟策先生です)

 ・・・・もう、これだけで、一読したい若手臨床家の皆さんは少なくないかと(^^)

イメージ体験の心理学 (講談社現代新書)

 この本は、壷イメージ療法についての解説書というよりも、イメージ体験全般が人の変化に持つ意味についての平易な解説書という側面が強いので、「壷イメージ療法」の臨床現場での適用についての解説本を期待された読者には少し物足りないかと思います。

 ただ、田嶌先生の「イメージの体験様式の変化」論について、そのおおよそを掌握したい人には向いているかと思います。

*****

 この中の前者の著作で書かれていますが、壷イメージ療法のルーツは、あくまでも、田嶌先生の恩師である成瀬悟策先生のイメージ療法催眠療法です。いつの間にかフォーカシングのバリエーションとして生み出された技法であるかのように受けとめる人が増えていますが、この点は安易に混同すべきではないでしょう。

 更に、壷イメージ療法を、

1.気になる事柄について、
2.それを入れるのにぴったりの壷を思い浮かべて、
3.の中にその気がかりを入れて
4.蓋をして封印して、
5.置き場所を決めて「距離をとる」

・・・・そういう技法だと思い込んでいる皆様も少なくないようです。

 すでに10年以上前になりますが、私は、田嶌先生ご自身が講師のワークショップに参加して、こうした理解がいかに一面的だったかに重々気づかせていただきました。

 それ以来、私は、フォーカシングのインサイダーであるにもかかわらず、壷イメージ療法を行なう際には、田嶌先生のエッセンスを絶対に外さない、オリジナルほぼそのままを使うようにしています。

 現場の日常のカウンセリングでも「壷イメージ療法」は全くの「普段使い」の技法のひとつですし、「久留米でフォーカシングを学ぶ会」や「フォーカシング個別指導」の場でも、ご希望があれば、いつでも「オリジナル・バージョン」のままでお伝えしています(^^)

 そこで、ネット上にいくつかある、「壷イメージ療法」についての解説記事よりも更にメリハリを明確にして、できるだけシンプルに、この技法の勘所の私なりの解説を試みてみたいとお思います。

*****

1.深呼吸などをして、リラックスできる態勢を作ってもらう。

2.「あなたのこころの中のことが入っているた、壷のような『容れもの』があると想像してみるのはいかがでしょうか?・・・・・・しばらくすると、浮かんできますよ」。

【Tips 2-1】・・・・・ここで肝心なのは、標準技法においては、先に、「こころの中のこと」が具体的に何なのか想像してもらい、次に、それを入れる壷を想像してもらうのではないということです(このことは、田嶌先生に直接ご質問してはっきりと確認済みです)。

 のっけから「自分のこころの中のことが入っている壷」をいきなり想像してもらうわけですね、こころの「内容(content)」は何なのかに意識的に注意を向けるように誘導することをむしろ回避し、contentは曖昧のまま、それを包含する「容れもの(container)」の方をイメージしてもらう方向に仕向けているあたりに大きな鍵があります。

 もちろん、こうした教示の結果、クライエントさん自身が、壷のイメージを見つけ出す前にせよ、見つけ出した後にせよ、自分から、「これは、○○についての壷」などと命名することはあるかと思いますし、それは当然受容的に受け止めていくことになりますが、それが何についての壷なのか、クライエントさん自身にずっとピンとこないままでも、壷イメージ療法を進める上では何も障害にはなりません。

 田嶌先生は、「あなたのこころの中のことが入っている」って何? と怪訝な様子のクライエントさんには、そこすらすっ飛ばして、ともかく壷を思い描いてみることを勧めてみることすらあると言われていたと記憶します。

(もちろん、応用編として、具体的な、扱いづらい課題や感情について、それを入れる壷を思い浮かべるという方法はあり得るわけですが)

【Tips 2-2】・・・・・「壷」という指定イメージは、たいていの人にとって思い浮かべやすいものなのですが、「いれもの」のようなものであれば、壷ではなくて、ビンだとか、袋だとか、箱だとか、ともかく、「容器めいた形状」であればいいことを多少示唆するサポートが役に立つクライエントさんも少なくないようです。

******

3.壷が浮かんできたら、少なからぬクライエントさんは、簡単な誘いかけだけで、「どんな壷か」について、形状や、そのたたずまい(かもし出す雰囲気)、更には、眺めているとどんな気持になるか、それに似た壷を以前どこかで見たことがある・・・・・などという話を、自分から物語り始めるので、それを受容的に受け止める(ロールシャハでいう「自由反応段階」みたいなもの)。

【Tips3-1】 大きさや形、色、陶器か磁器か、表面の材質、触り心地の感触など、いくつかの具体的観点から、セラピスト側から、控えめに若干質問してみるくらいはいいだろう。

 私(阿世賀)個人は、こういう時に、「どんな『感じ』がしますが」という言い方をオープン・クエスチョンで一般的な形で軽率に使いすぎること自体を回避したい気持ちが強い。それなら、せめて、「壷を眺めていてどんな気持ちがしますか」ぐらいに設定を明確にしたい。

 なお、私は、フォーカシングの場合には、フォーカサーがイメージ的な象徴化をしても、イメージそれ自体について、「大きさは?」「色は?」などどいう、イメージの具体的な詳細化を直接求める問いかけをすることをほとんど禁忌とすらしている(もっとも、夢フォーカシングだけは例外である)。 

 フォーカシングにおいてイメージは不可欠に必要な過程ではない。アン・ワイザーのいうがごとく、イメージは、身体感覚や情動や、気になる事柄についての具体的な語りなど、フェルトセンスが響きあういくつかの側面の中のひとつであるに過ぎない。

 フェルトセンスをとりあえずつなぎとめるためのハンドルとして生起したイメージは、リスナーやガイドからの具体的な詳細化の求めがあると、フォーカサーのフェルトセンスから離れて「一人歩き」し始める、むしろフォーカサーに体験過程の軌道を見失わせるからである。

 ところが、壷イメージ療法の場合には、壷のイメージをリアルに具体化させる方向に若干誘導する(=拡充する)ことそのものが、促進的なブロセスとみなしていいようだ。

 つまり、ロールシャハで言う「質問段階」みたいなものにある程度踏み込んでもいいということである。

(そもそも、壷という課題を提示したのは治療者の側であるため、クライエントさんの中で固有のイメージ化のプロセスを具体的に促進する援助が必要ということにもなるのだろう)

 この点で、私は壷イメージ療法とフォーカシングとでは、そもそもイメージについての質問や応答のしかたそのものをはっきりと使い分けている。

 もっとも、クライエントさんの語りを丁寧に受け止めていけば、そのような喚起的質問は最小限でも、クライエントさんは、思いの外自発的に、細やかにこうした語りを紡いでいくものであり、性急に質問を繰り出すのは、本人のプロセスを妨害するだけであることは、両技法共に変わりがない。

******

4. 「他にも浮かんでくる壷はないか?」と問いかけ、2..-3.までの段取りを繰り返す。

 田嶌先生自身、「ひとつしか壷が思い浮かばない人の場合の方が注意を要する」と、1つ目の著作でお書きである(p.57)。「1つの壷の中に多様なものを含みすぎている状態であろうと思われる。ただし、『他にもあるけどはっきりしない』とか『たくさんあるけど一個だけはっきりしてる』という場合はこの限りではない」(pp.57-8)という示唆は興味深い。

 私の経験では、意外と少ないのは、個数が2個で終わるケースである。3個や4個というケースは、壷の形状とそこから語られる連想もバラエディに富み、セッションとしてまとまりがいい気がする。「序・破・急」あるいは「起・承・転・結」ということを連想させる不思議な順序で壷自体が浮かぶのである。

 つまり、単にこころのいろんな側面の表れというより、新たな壷について語られ出した時、新たな体験過程のステージが開かれていくばかりか、治療者がそれにうまく付き添う限り、新たな壷の登場そのものが、そのセッションで可能な範囲での無理のない「人格再統合」すら暗々裏に指向しているかのようなのである。

 (ここまでは田嶌先生は言われていない。ただ、私の場合、フォーカシングにおいても、clearing a spaceを進めていくことは、思いよらない新たな気がかりに『気づいて』いくことであり、丁寧にclearing a spaceが進むと、すべてを積み出した時には、単にすっきりしたというのを超えた大きな気づきを伴うシフト体験にすでになっていて、それ以降のフォーカシングの部分は不要とフォーカサーも感じていることが少なくない現象を早くから指摘してきた立場(阿世賀,1992)なので、私が療法家として新たな壷を思い浮かべていってもらう過程でも、類似のことが生じやすいとも想定できるかもしれない)

******

 5. とりあえずの、ちょうどいいいくらいの壷の「置き場所」について「相互調整」してもらう。

 【Tips4-1】田嶌先生のオリジナルに従えば、一つ一つの壷に「ちょっと入ってみて」配置を決めるのだが、私は、壷を眺めていての心地だけで決めてもらうことしかやったことがない。

 一般的に言えば、なじみやすい壷を手前に置くことになるだろう。「ちょっと奥に置いて眺めてみるのもいいし、右手寄りでもいいし、左手よりでもいいし・・・・」ぐらいの曖昧な示唆しか与えない。置き場所に高低の「段差」があったほうがいいので「台」や「棚」や「スロープ」を自発的に設定してしまう人もいる。

 この段階で、自発的に、「実家の土間に置いてあるイメージが浮かぶ」とか、自発的に具体的なことを語る人も出てくるし、中には「腕の中に抱えていたい」などと、思いもよらないことを言い出す人もあるが、受け入れている。

******

6.一番入りやすそうな壷を選んでもらい、壷の中にゆっくりと入ってみて、じばらく中の居心地を味わってみる→出てきてもらう→壷に蓋(ふた)をする

 田嶌先生自身、これは無理な人にやってもらう必要はないことを強調している。このステップを最初から省略する前提でもいいように思う。田嶌先生自身短いワークショップではこの部分を割愛している。

 この「入ってもらう」体験は、一般に思われているよりは、恐ろしい体験として本人に体験されることは少ないようである。

 ただし、仮に壷に「入ってもらわない」ままで済ませたとしても、個々の壷との関わりの終了の前に、「蓋(ふた)を見つけてもらう」ように促すことは大事なことである点は強調したい。

 しかも、どんな蓋がいいかを吟味してもらうプロセスが大事である。 コルクの栓という人もいれば、油紙やラップを何重にも重ねたものを壷の口に載せ、紐でぐるぐる縛りあげる人もあるかもしれない。

 このことと延長して、壷そのものの「梱包」まで進むのが自然な人も少なくない。「壷が本来入っていた木箱に納めたい」というような人も少なくない。

 私の場合には、個々の壷の栓のしかたと、その日のセッションの段階でのその壷の「置き場所探し」は、連続的な手続きとして進めてもらうことが多い。

 「置き場所探し」に関して、私は「それは現実の場所でもいいですし、空想上の場所でもいいです。この面接室の中のどこかでもいいです。(小さな壷の場合)もし、持ち歩きたいというのでしたら、それを入れるための空想上のバックやポーチをしつらえてもいいですよ」

などとアドバイスします。少し変わった例では、「その壷を置いた建物の『外観』を写真に撮ってパスカードに入れて持ち歩くつもりでいたい」というような例もあった。

 「栓のしかた」と「置き場所探し」は、私の見たところでは、実は別々のことではなくて、多くの人にとって、相互補完的なワン・セットの段取りのように思う。

 中には、「別に蓋をしなくても大丈夫です、実家の神棚のお神酒のところに置いてあるつもりになれば」などと、置き場所にだけこだわれば十分という人も珍しくはないように思う。これは、私の場合、以下に述べるとおり、壷に「入ってもらう」ことを滅多に行なわないことも深く結びついているのではないかとも思えている。

 実は、私の場合、この「入ってもらう」段階は、面接現場ではほとんどの場合省略している。それは、ここまでのプロセスですでに十分すぎるほどのことがクライエントさんとの間で進んでいる気がしてならないことが多いからである。

 少なくとも、この「入ってもらう」部分を、壷イメージ療法におけるクライマックスとして想定する必要はなく、むしろ、可能な人向けの追加オプションと見なしてもいいのではないかとすら私は判断している。

 では、壷イメージ療法の中で一番肝心なことが生じているのは?

 実は、壷を思い浮かべて、無理のない距離感で、しばらく壷の様子を味わった、その段階だと私は思っています(^^)

 この点では、フォーカシングにおいて、フェルトセンスをつかまえ、無理なくしばらくそのそばに『共に-居られた』経験それ自体を繰り返し可能になれることが大事で、後のことは無理して引き起こすことではないというのと似ているかと思います。

******

 
7. 次の壷に入りたければ、6.と同じようにして入ってもらう→壷の置き場所を見つけてもらう。

8.そのセッションで相手をしなかった壷についても、蓋をしたり、置き場所を見つけたりが必要なものもあるだろう。強迫的にすべての壷の封印や置き場所探しは不要で、「目を開ければ消えてしまう」ということでいいという壷もあるかもしれない。

 しかし、セッションの中で不快な、あるいは不気味な印象のみを残したり、混乱させたり、後味の悪い壷については、封印や置き場所探し、あるいは、田嶌先生自らが「補助的技法」として紹介している「金庫に入れて、鍵は治療者が預かる」という厳重なやり方、更には「次にこの面接室に来て、また開ける気になった時まで、その壷を一人で家で開けてみたりは決してしない」という約束などが重要なこととなるだろう。

 私は、この「この面接室だけで壷の蓋を開けよう」という約束を興味深く思っている。面接室の中で、クライエントさんが壷との関わりでそこそこ安全な体験をできたのも、実は、治療者がクライエントさんの内面の"container"(ビオン的な意味を込めてもらっていい)としての役割を果たし、更に、面接室とい特殊な心理=社会的かつ物理的な「容れもの」空間にも保護されていたからだと言えるかと思う。

 面接室の一歩外に出たら、あの冷たい世間の風なのだ。あるいは、家に帰ったら、家族との関わりの中で心の壁にたくさんの弾痕ができている人も多い。そういう人が、面接室と同じような調子で壷のふたを開けたら、自分自身のこころのcontainerだけでは中からあふれ出してくるものに対応できない可能性は高い。仮に時折壷を思い出しても、外側から眺めたり、撫でてみる程度までにとどまっていれば、実は安全度が高い形で、日常に裏面的なプロセスを持ち帰っていることになると思える。

******

 壷イメージ療法の最大の逆説は、心の"内容(content)"に具体的に注意を向け、言語化し、表現し、説明・分析していくという、対話的心理療法の方向性を逆手に取り、「壷」という、誰にとっても視覚イメージが喚起しやすいばかりか、ディティールが細やかで皮膚感触的な感覚性も高く、太古的・原型的で、人間の身体構造のアナロジーともなる絶妙な指定イメージのもつ、

「具体的な中身(content)を包み隠しつつも安全に保持するが、密閉はされていない『容れもの(container)』」

を思い浮かべて味わうことに、巧妙にすり替えている点だと思う。

 「すり替えて」という言葉は今の私にとってもぴったりではないが暫定的に採用したい。

 少なくともここで私が言う「すり替えて」とは、いい意味での「すり替え」なのだ。ただのガムの銀紙を金箔に「すり替える」みたいな方向での。

 目に見え、触ることもできる『容れもの』をイメージ的・身体感覚的に観照し、味わい、体験することは、ユング風に言えば、その『容れもの』の中で胚胎され、発酵していく、たましい(soul)そのものの変容過程という、目に見えないし、言葉で説明しきれないものに関わるのだと思う。

 神田橋先生ふうに言えば、実はファントムに過ぎない「言語化まみれ」の泥沼から「こころ」を救出し、大事に守り育てるための、ひとつの営みなのだと思う。

神田橋條治/「現場からの治療論」という物語―古稀記念

 壷イメージ療法の効能について、旧来の心理学や精神医学の力を借りればさまざまな説明ができる。でも、それらによって説明し尽くそうとすることと、この優れたアプローチを、現場で臨床家がどう職人的に役立て得るかは別次元の問題であろう。

 どうも、フォーカシングの方が、壷イメージ療法よりも「難易度が高い」技法のようだとは、私すらも感じています(^^;)

****

 なお、田嶌先生が理事長をお務めになる形で、NPO法人として、開業カウンセリングルームが、福岡市の西新プラザで開設されています。

 詳しくは、

●九州大学こころとそだちの相談室

サイトをご覧下さい。
    

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2009/05/12

Every Little Thingの"Graceful World"と"fragile"

 王子のきつねさんが、Every Little Thingについてかなり以前にお書きの論考3本を再度紹介されています。みんな力作です。

●Every Little Thing(ELT)三部作(王子のきつねOnLine)

 その記事に対するコメントとして私が投稿したものを、若干省略の上でご紹介:

============引用はじめ===========

 ELTについては、初の海外旅行だったハワイに行った時、機内のポピュラーチャンネルに偶然遭遇した"Graceful World"が出会いだったことは、自分のブログでも書いたことがあります。

 歌詞と共に、途中でマイナーになるあたりのベースの音の進行に新しさを感じて、それを聴きなおしたいばかりに、時差ぼけがいよいよひどくなるのを承知で眠らないまま1時間ほどで番組が繰り返されるのを待ち構えていました(^^)

 でも、この曲、ELTのシングルの中でもそんなにヒットした方でhないし、PVのラストも何か意味シンになっていて、歌詞の内容と意識的に矛盾するものにしている。

 あとでELTの曲をさらうううちに気がついたのは、少なくともこの頃のもっちんは、こういう「自分探し」系の歌詞を、しかもここまで高らかに書くことは、ちょっと珍しい時期に突入していたのではないかと。

 メンバーから五十嵐さんが抜けた直後の、ひとつの試行錯誤過程なのか、それともドラマのタイアップを意識しての意に沿わない歌詞になってしまったのかとも思います。

 もっちんの唄う表情も冷たいままで。

 ただ、この曲の、

Fulfill your Dreams この先にどんな試練が待ち受けていようとも
目を背けずにいて欲しい 幸せはほら目の前にある

という部分に、私は「万感の思い」を賭けて、その後の自分の激動の人生(?)に乗り出したというのも確か。

 そういうあり方が、悲劇や犠牲を伴わないわけがない・・・・というあたりまで「見越した」PVだったとしたら、予想外に深みがあったということなのかもと、思っております(^^)

●Every Little Thing - Graceful World(YouTube)

******

(中略)

 "fragile"は名曲ですねえ(^^)

「傷つきやすさ」と訳せるタイトルに響きもいいし。

ちなみに、自分のサイトでついおととい書きましたけど、自閉症と深く関係することが判明した遺伝子の中に、

"fragile X"

と名づけられたものがあると知りました(^^)

こちらを参照:

●第12回 乳幼児てんかん研究会国際シンポジウム 1日めの報告

 この遺伝子があると、ニューロンの間の神経伝達物質の興奮と抑制のバランスが壊れやすいそうです。

 それが、その人を「過覚醒(hyperarousal)」状態にしてしまう。つまり、内的な刺激・外的な刺激を普通の人の何十倍もの強度で体験する。

 新鮮な、不意打ちの体験がみんな耐え難いパニックになるので、毎日、同じ生活習慣を頑固に変えられなくなる(常同行動といいます)あたりは、映画「レインマン」で、トム・クルーズが、重度自閉症の、ダスティン・ホフマン演じる兄の好きなテレビ番組を、毎日大陸横断のドライブ中に見せるのにどれだけ苦労したかのエピソードでもおなじみです。

レインマン (アルティメット・エディション) [DVD]

 こうなると、人は環境や他者との接触から引きこもるわけですね。「鈍感」だからではなく、不均衡に「敏感に過ぎる」神経を生まれ持ってしまっているがゆえに。

 これが、世間一般でいう「傷つきやすさ」などとは超異次元の、いかに凄い心の世界かは、自閉症についての専門書を読んでいただくもらうしかありませんが。

===========引用終わり=============

●fragile PV(YouTube)

↓「フラジール」って、女性ブランドだと知人に聞いたので、柄にもなくですが、思わず追加(^^;)

CDやiPodの音楽を楽しめるコンパクトオーディオ【送料無料】amadana(アマダナ)デスクトップオーディオ2

↑音は聴いていません。でも、iPodオーディオ系の商品の中で、デザインセンスがしっかりしていて、女性にも向いているなと思ったので。このamadanaブランドは、デザインセンスが興味深い。
SAL pocket video camera
↑つい最近、携帯ビデオカメラ(ビデオカム)として、こんなコンパクトでキュートな商品も出しました("SAL" 今のところ直販のみ)。

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2009/03/20

医者に鬱病と診断され薬物療法も受けている人へのフォーカシングの適用について。 [第4版]

 この問題について、日本に十数名いる、The Focusing Institute(日本語版サイトはこちら)の認定コーディネーター(狭義のフォーカシング技法の「トレーナー」、および、「フォーカシング指向心理療法セラピスト」の訓練資格認定そのものの資格の所持者である私が、個人的見解であるにしても、こうした場で表明することは、たいへんな責任を伴うことを私は十分自覚しています。

 私以外のコーディネーターやトレーナー、一般のフォーカシング学習者の皆様からのご意見は誠実に尊重させていただきます(個人メールでも結構です。匿名でも歓迎です)。

 もとより、個人情報保護の観点から、ご本人から主体的に公開の意思を表明された場合を除き、ネット上でその趣旨を、一般論としてすら、公開することはいたしません。


*****


 まず、端的に、私なりの当面の結論を、解説抜きで列挙させていただきます。その上で、一項目ごとに詳しい説明と、情報提供をいたします。その結果が連載の形をとる可能性も十分考えられます:

1.日本のこれまでの趨勢としては、鬱状態にある人への、「単一技法体系」としてのフォーカシングの学習には慎重な意見が多かった。

2.特に、フォーカシング学習者の主体性尊重が十分でなく、専門家側ががみだりにフォーカシングを学ぶことを勧め、フォーカサー(フォーカシングを学習し、身につける人。クライエント側)が受身にフォーカシングを学ぶような形は回避すべきとされている。

3.国際的には、マクガイアの「自殺念慮のある重篤な欝状態にあるクライエントに対するフォーカシングの適用」という論文(私は約20年前にこの論文の英語オリジナルを個人的に日本語に全文訳してみました。その頃からこの論文にかなり大きな影響を受けています。英文がネット上で見つかればリングを張りますし、いずれ日本語で概要を紹介します)を古典とする形で、殊にヨーロッパでは、鬱を含む重篤な状態にあるクライエントへの、フォーカシング指向心理療法的なアプローチがなされて来ており、それらの中には、「試行的段階」を超えて、臨床キャリアを積み重ねた現場実践者も増え、論文も確実に増えている段階である。

4.日本では、特に増井武士田嶌誠一という、現場心理臨床に卓越した、フォーカシングと一線を画するスタンスを保ってきた臨床家(二人共に福岡で活躍してきた)により、うつ状態や統合失調症などの重篤な患者さんにフォーカシングをそのまま学んでもらうことの問題点と、その原因についての仮説が具体的に究明され、ジェンドリンの体験課程理論そのものへの批判と新たな理論構築、更に、そうした欠点を解消できる独自の技法的アプローチについて早くから公表され、すでに臨床現場で幅広く適用されているている(増井の「こころの整理法」、田嶌の「壷イメージ療法」)。 

5.私、阿世賀の私見によれば、増井・田嶌両氏は、臨床実践的には非常に鋭い着眼(増井の「にせフェルトセンス」論を含む。私の理解では、その本質は「関係性」論である)と、新たな平易で効果的な技法体系の提案と、その日本での普及という点で、たいへんな功績がある。しかし、一部ジェンドリンの体験過程理論への誤解に基づく側面があり、日本のフォーカシング「インサイダー」の研究実践者に、概念や用語の理解の上で、むしろ混乱の火種を蒔いているともいえる。もし、このような、フォーカシング「インサイダー」陣営と、この両氏の間で、専門用語の定義と相互誤解についての相互了解(論理実証主義的な問題解決)が深められていくと、日本の心理臨床全体に大きな貢献をすると私は考えている。(ちなみに、私は臨床家になりたての頃から、この先輩お二人と、懇意です!!)

6.薬物療法なしでも、フォーカシングが、その代わりとして、単独で、うつ状態の解決に貢献するという発想は決してとるべきではない。

7. 恐らく、欝状態になる前から、すでにひとりで日常の中でもフォーカシングをすることに慣れ親しんで来ていて、人生の最重要クラスの困難の解決にフォーカシングが役立った経験もそれまでに積み、それゆえにこそ、自分にとってのフォーカシングの効用の限界と、「無理のない形での」フォーカシングの役立て方にも習熟したフォーカサーの場合には、鬱とつきあい、克服していく上で、フォーカシングを学んでいたことによるメリットの方がデメリットより大きいのではないかと思う。

 ● このメリットがどのようなものであるかについて:

A.医者や家族とのつきあい方を改善する可能性
B.症状や、薬の効果・副作用についての自己認識と表現能力の洗練
C.鬱病の「二次症状」としての様々な感情を自分で細やかに識別し、言語化でき、自分の中に生じてくるそうした諸感情に振り回されにくくなり、比較的自然に受容するためのセルフスキルを主体的に持っているという効力感(efficiency)、自己統御への安心感を獲得できる可能性がある。

  ●具体的に考えられるデメリット

A.鬱が軽いうちは、フォーカシングである程度緩和できてしまうことも少なくないために(!)、医療の受診や専門的カウンセリングにつながるのが遅れる可能性。

B.言語的(絵画的表現など)に自分の状態を表現するのがすでにしんどいうつ状態の人が「実感にぴったりの言語化(絵画などの表現)が必要」と過剰に思い込んで、結果的に心身を疲労させる可能性(これは、トレーナーの側の技法的熟練があればさまざまのやり方で回避できるはずと私は考える)
.
C.前よりもフォーカシングがやりにくくなった時には、それだけ以前より心身が消耗している証しであり、むしろフォーカシングを試みるのをやめて、休息をとったり眠ってみようとするための内側からのサインとして歓迎する方がいいということまで、フォーカシングのトレーナーやセラピストが(一般論としては伝えていても)、いざと言う時にフォーカサー(クライエント)自身が思い出せるような十分に実践的なたちでは教え切れていないことが少なくない現状があるのでは?

 (更に言えば、そうやろうとしても、今度は休息をとったり眠ったりできないという新たなジレンマにはまることも少なくなく、その切実度が半端ではないということを、トレーナーやセラピストは、仮に頭で知っていても、フォーカサーが安心する形で受容できるだけの経験に乏しいことが現段階では多いだろうと予測する)


*****

 ここからナンバーリングを7.の続きに戻そう:

8.うつ状態の人が、病院やカウンセリングルーム、あるいはフォーカシングの集いの場に通うということだけすでに消耗し、更に帰宅の際に消耗するということへの、本人を傷つけない形での配慮が十分になされていない現状があるように思われる。

 具体的に言えば、その配慮とは、

 「病気なので断られて医者に回された」

だとか、

鬱(軽躁)状態の人間が感じるフェルトセンスはすでに病的である、あるいは、現実吟味能力が低下しているので、フォーカシングでは解決できない

などと主催者やトレーナーに判断されたと、参加者が思い込んでしまわないための配慮である。

 なお、ジェンドリン自身が、

「フォーカシング・スキルを学ぶ能力はのその人の『病理水準』とは無関係である。つまり、例えば統合失調症の人の中に、スキル上達が早い人と大変な人がいて、同様に、いわゆる『神経症圏』の人の中に、スキル上達が早い人と大変な人がいて、いわゆる『健常者』の中にスキル上達が早い人と大変な人がいる。そうした違いの方がよほど大きい」

と明言するのを日本で聞いた数十名の中の一人が私でもあります。

 (ことフォーカシングに「全然」限らないが、NHKの鬱特集の番組でも描かれたとおり、医者やカウンセラーの中に、「古典的なうつ病患者(メランコリー型)はおとなしくて文句を言わず従順なので相手をしやすい」という感じ方をする人たちが少なくない。そうした医者やカウンセラーの側に、患者(クライエント)が従順に従わないというだけで、「双極性障害」「非定型うつ病」「境界性人格障害」というふうに、ひとつの差別的な含蓄すら込めて誤診することへの悪魔の誘惑が生じる危険は少なくない現状があるだろう。境界例人格障害の診断が「ほんとう適切な」人に対してすら、気分障害的な側面については「気分調整剤」の処方がまずなされるべきというのが最新のAPA国際的標準処方とのことです)


9.日本では、個別セッションにしても、グループの場合にしても、リスナーやガイドを相手としてのフォーカサーのフォーカシング体験が、そのフォーカサー個人の生活や日常における悩みや心身の状態よりも、セッションのその場の雰囲気や、リスナー・フォーカサーとの関係性の影響を、より強く受ける可能性という問題についての認識がまだまだ不十分である。

 もっとも、「関係性が大事」ということを、フォーカシング関係者も、まるでお題目のようにすでに繰り返している。しかし、それを、セッションの只中でhere and nowな形で臨機応変に形成していく技量がトレーナーやカウンセラー個々人の中にどれだけ育成されているかとなると、あまりにもばらつきが凄いといわざるを得ない。


10. 面接室や会場を出て、一人になった後や、家に帰ってしばらくしてから生じる、フォーカシングの場で体験者したことがことごとく虚妄と感じ、現実感そのものがまるで失われる場合があるという「リバウンド現象」を、私はちょうど20年前、学会誌掲載処女論文「セッションの『反動』」と名づけて以来警鐘を鳴らし続けてきた。

 しかし、未だにこの件について具体的にどう対処するかという議論は全くもって成熟していないと私は思う。

 
11.これと関連するのだが、

 「大きな洞察と気づきの体験は、いわゆる「健常者」の場合ですら、一時的軽躁状態に類似している面がある

ということを、フォーカシング関係者も、もはやあっさりと認めた方がいいと思う。

 少なくとも、うつ病の人に、カウンセラーや医師、家族、そしてフォーカシングの仲間たちに、少し元気になったり鬱を脱してくると、安易に「躁状態になった」というネガティヴなレッテルを貼られたと感じている人は決して例外的ではないように思われる。

 そうやって人の心理状態を安易に型にはめず、虚心に感じなおしてみて、言語化すら性急に目指さずに、「その感じ」そのものと無理なく共にいられるスタンスを自分で作れるようになる方向にフォーカサーを援助するという点にこそ、フォーカシング・トレーナーのベーシックな務めであるはずなのにである。

 そうやって躁にせよ鬱にせよ、気分障害と診断されている患者さんへの日本独特のトレーナー側の気おくれが生じているのは、先輩からの「うつ状態の人のフォーカシングを深めさせると悪化する」という忠告をただ鵜呑みにしているためだと思われる。「患者に害を与えないことが最大の治療」ということは真実ではあるが、トレーナーを目指す人なら、少なくとも自分で自分のためにフォーカシングをやり過ぎるほどやってみて、フォーカシングを深め過ぎると、どういう副作用や弊害が出るかについて自分に試してみるくらいの好奇心と探究心は持ってほしいと私は念じている。

(これらの点については、フォーカシングに限らず、洞察的あるいはリラクゼーション重視のセラピー全般において考慮されるべきことだろう。


12. 更にく言うと、前述の「セッション後の反動」体験に深刻な次元ではまった人は、自分のフォーカシング学習が未熟であるという、実は誤った劣等感に陥ったり、そもそもフォーカシングを学ぶ場に二度と現れないのではないか。

 そして、フォーカシング指導者の側も「もともと自我が弱い人、躁鬱のある人、あるいは境界例人格障害っぽい人」だから不向きなのだ、という循環論法で済ませているのだと思う。


13.こうなると、何と、脳内の神経伝達物質上のメカニズムの仮説として、わたしのいわゆる「セッションの『反動』」が説明できる可能性があることに、最近やっと、はっきりと私は気がついた。

 フォーカシングのセッション(特にシフト体験)そのものに、セロトニンとノルアドレナリン、ドーパミンの分泌を、それぞれ促進(抑制)する作用がある可能性を真剣に検証すべきではないか。

 それがいいバランスで生じると、弱いにしても「抗うつ剤的な作用」を若干果たし、その人の鬱の改善に貢献している場合もあるだろう。

 しかし、その一方、今度は、薬理作用という物質的なバックアップがないままで、脳内物質の過剰分泌のスイッチが入ることで、その「反動」として、数時間後にはそれらの物質の枯渇(あるいはバランスの変化)がはじまり、急激にうつ状態を喚起したり、鬱的とはいえない、鬱と誤解されやすい、別次元での心身反応を引き起こしたとしても何もおかしくないではないか?

 つまり、フォーカシング「成功した」学習体験そのものが、不適切な抗鬱薬の投薬と同じようにして、躁鬱の素質がある人ばかりか、もっぱら単極性の鬱だった人にすら躁鬱の波を「喚起する」可能性については、今後研究調査が重ねられるべきである。


****


 もとより、く今日の技術水準の限界もあるかもしれない。しかし、脳内神経伝達物質レヴェルでの直接の検証とまでは言わなくても、せめて、NHKスペシャル「うつ病治療 常識が変わる」で実際に描かれたような、脳の血流量を脳の部位ごとに比較し、映像化する技術すでに存在するではないか。

[第4版で追加] 番組で紹介された技術は、恐らく、理化学研究所のfMRI (functional magnetic resonance imaging) というニューロイメージング手法である。
 
 そうした測定法をうまく活用すれば、フォーカシングセッションをライブで進めながら、脳内変化を「ある程度間接的に」かもしれないが、継続的に測定し、統計的分析を加えること、すでに容易なはずである。


(続編はこちらです)
 

Nhkadd1
Nhkadd2
Nhkadd3

******


 ここで問題提起したことが、実は、こと「技法としてのフォーカシング」を学ぶことや「フォーカシング指向心理療法的」アプローチに限らず、すべての心理療法アプローチにあてはまることに、すでに皆さん気づいていただいているかと思います(^ ^)

●関連記事(久留米フォーカシング・カウンセリングルーム)

* カウンセリングに熱を入れすぎると欝症状が悪化する?

   .......今回の記事とは少しだけアングルが異なる部分があります。


* 読売新聞での紹介記事 -心は更地 安らぐ表現-

   ......私自身が担当した、通院中のうつのクラクィエントさんに対する認知行動療法的ともいえるフォーカシング指向心理療法的アプローチの実例。この記事に関して私(阿世賀)の側は一切取材を受けず、クライエントさんに入った読売の取材そのままの内容である。
 ジェンドリンの直弟子、日本フォーカシング協会前会長でもある、関西大学の池見陽先生のコメントもその記事に掲載されているが、まさかこのような形で新聞の上で遭遇するとは、クライエントさんも私も池見先生も、実際記事を読むまで想像していなかったという裏話がある。
 この記事に対する追加コメントとして、薬物療法や鬱の人へのフォーカシングの適用について、池見先生の見解が研究室サイトに更に掲載されたが、その記事へのリンクはこちら


*****

※この記事の著作権は阿世賀浩一郎にあります。そのことを明示してくださる限り、ネット上でのご紹介、一部の引用、リンクは自由といたしますが、トラックバック等があれば感謝いたします。なおこの記事に基づく学会発表を2009年度中に行ないます。この記事を参考文献として明示して下さった上で学会発表に役立て下さる方があれば、ご批判も含めて、歓迎いたします。 (C)阿世賀浩一郎



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