英語

2010/10/15

「ぎゃほーーん!!」 -のだめカンタービレ in ヨーロッパ 前編-

・・・と、今度は、のだめ風に、ますは感嘆の声を上げさせていただきます!

(当然、上野樹里さんの声の演技を想定して下さい ^^)

 劇場版「最終楽章 前編」の次に、今度は、TVシリーズの後に制作された、いわゆる「パリ・スペシャル」前編(Lesson 1)を観る(DVDレンタルです)というのは、順序的にみると行ったり来たりですけど、私のように、遅れて来た「のだめ」ファンにとっては、これでもまだ「作法にかなった」鑑賞順序(?)でしょう。

(追記10/10/22 : 最終楽章 後編の感想はこちら

のだめカンタービレ in ヨーロッパ [DVD]

※ ↑ どうもセル版は前後編2枚組のようですが、少なくとも私の借りたレンタル屋さんでは、「前編」と「後編」は別パッケージでした。当然、後編も同時に借りていますが、前編観た段階で、「千秋様」の投げる「人形のだめ」並みに「ぶっ飛ばされる」衝撃度だったので、後編を観るのは後回しで、以下の記事を書きます。

 【注】このTV版スペシャルも、2年半以上前(2008年1月)の放送ですので、ネタバレ全開モードで書きます。

*****

 まずは絡め手から。

 千秋くんが、プラティニ指揮者コンクール第2次予選でりヒャルト・シュトラウスの交響詩、「ティル(・オイゲンシュピーゲルの愉快ないたずら)」を振った時に緊張し過ぎてオケぎくしゃくし、恐るべき「負」のオーラに取りつかれている時に、のだめが投げかけるセリフ。

のだめ:「ただ、オケの人に嫌われちゃっただけですよ。Sオケの時と同じで。音楽性より人間性」

千秋:「人間性・・・」

のだめ:「先輩って、誤解されやすいですよ。、粘着の、完全主義だから。でも、コンクールの先輩から言わせていただくと、ある意味で良かったんじゃないでしょうか。ポッキリ折れて、鼻が。人間は負けて大きくなっていくんですよオ!のだめのように」

千秋」:「(突如立ち上がり、のだめの首を締め上げながら)・・・お前ここにホントに何しに来たんだ?! 」

のだめ:「エール送ってるんですよオ!」

千秋:「どこがエール送ってるんだ? 人の傷口に塩を塗りやがって。お前だって、『負けた』と思ってるんだろ?」

のだめ:「のだめ、ジャン(注:コンクールでライバルの指揮者)に負けたと思ってないでしゅ!」

千秋:「俺だってジャンに負けたとは思ってねえよ。・・・(落ち着きを取り戻し)・・・負けたのは・・・・自分に・・・・」

のだめ:「・・・・・」

 ・・・・ここまでのセリフに、さりげなく「粘着」という言葉が入っているのが凄いです。

 のだめは、どういうわけか、クレッチマーの「粘着質」概念を知っている=原作者は、千秋の性格をそのように造形している?!

>このタイプは几帳面で礼儀正しく義理がたい。着実で手堅く非常識な面が無い。 忍耐強い性格であるがストレスを内側に溜め込み、我慢が一定のレベルを超してしまった時の怒り方は凄いものがある。 また、非常に頑固な面を持ち、自分の意志を曲げようとしないことも多々ある。まかり間違えば独裁者になりうる素質の持ち主。

>地道な努力で、一度手がけた仕事は最後まで粘り強くやり通すが、その反面手際が悪く感じられることもある。 対人関係では、信頼はおけるが面白みに欠けるタイプである。

 (以上、「アニメキャラクター分析(キャラ考)」サイト by 雪音 様 より引用。これは原典がしっかりしたものからの引用としか思えないレヴェルです)

 ・・・完全に、千秋くんそのものでしょ?

 (千秋君はマッチョ体型ではないけど)

 二ノ宮さんの考証って、半端じゃないことが、こういうさりげない所に出てます。

 やはり、以前から書いてるように、実は非常に「構築的な」クールな作家というイメージが更に強まりました。

*****

 次に、劇場版では始まって10分であっさりに「お断り」で妥協したのに、この「パリ・スベシャル前編」の中で、特に前半、のだめ(上野樹里さん)も千秋(玉木宏さん)もフランク(ウェンツ瑛士さん)もタチアーナ(ベッキーさん)も、フランス語をここまでしゃべくりまくるとは!!

 ひょっとして、ハーフのウェンツさんとベッキーさんにはフランスの血が流れていないかと調査したところ、特にそうではないらしい・・・(呆然)

 私は、大学(学部は法政)の第2外国語で、当時の日本で代表的なドイツ語の先生の講義を受けて全部「A」もらってます。哲学科でカントの原典購読していたし、クラシックファンでドイツリートも大好きですから、今でもドイツ語の文章なら、旅行会話水準の言葉("Wie geht es Ihrnen?"とか)ある程度口をついて出ますし、少なくともドイツ語の文章をいきなり読み上げて、単語の意味不明でも、やや古風かもしれない標準ドイツ語としておかしな発音は、ほぼしない自信あります("Ich-Laut"と"Ach-Laut"の使い分けまで)。

 辞書さえ引けば、今でもだどたどしくなら翻訳できる・・・今の私のドイツ語力は、単語の語彙数を別にすれば、英語力よりそんなに低くないとすら。

(英語力が立教クラスの大学院出(更にその後、「院研究生」として、不肖ながら、何を間違ったか東大です・・・)としては低すぎるだけだって?)

 恐らく、「米語」を聴く耳より「ドイツ語」を聴く耳のほうが今もいいはずです。

 ところが、全然学んでいないフランス語となると、読むこともできない(クラシックファンなのに、CD洋盤ショップで”Dutoit”って誰よ?・・・が大きな壁として立ちはだかった)。

 フランス映画を観ても、何かドイツ語に比べると「ふにゃふにゃ」した軟体動物のような声がするのを呆然と聴き、完全に字幕依存。「メルシー、ボク-」とか「コマンタレ・ブー」とかなんとかと聞こえる「音声」(「言語」以前の認識水準^^;)が頻発させるのは何だろう?ということになります。

 (閑話休題。実際に生身で遭遇すると、生粋のフランス女性(=アングロサクソン系の血が皆無と思える)の放つ「オーラ」って、ファッション以前にダイレクトに凄いですね・・・。これは、ちょっと慣れれば、アメリカ人と、「言葉を聞かずに、見た目だけで」容易に区別できるようになります)

 実は私、ドイツ語の場合なら、歌える「訳詞」でトイツリートの曲(「第9」はいうまでもなく、シューベルトの「魔王」や「流浪の民」、歌曲集「白鳥の歌」「冬の旅」「美しき水車屋の娘」の主要曲を覚えて歌い、更に原詩でもある程度歌おうとしていたくらいですが、フランス語は「超」別世界。

 ポップスやロックを聴く中で英語を覚えたという人は少なくないでしょうが、私がほんとうに熱中して聴いたのはビートルズぐらいですから、「イギリス英語」への耳はそこそこあっても、「米語」耳はほぼなしです。

 (でも、ビートルズで全曲歌い通せるのは”Yesterday”のみという情けない始末。逆に「魔王」や「白鳥の歌」からの何曲かならドイツ語で一応歌えます)。

 もとより、のだめたちが話しているフランス語は、ネイティヴよりは「日本語的発音」のものなので、聴いていてもカタカナで置き換えられそうですが、それにしても、セリフとして予想を遥かに超えるだけの量のフランス語。

 「のだめ」という作品の役者さんたちへの要求水準はかなり壮絶だったんだな・・・・と、つくづく。

 (突然ですが、来年の大河、「江」で時代劇初挑戦、しかもいきなり主役の上野樹里さん、役者として幅を広げる大チャレンジですが、「篤姫」の宮崎あおいさんに劣らぬ成果をおさめられますことを・・・)

 のだめならずとも、マジ、例えば「エヴァゲリオン」の英語版やフランス語版、ドイツ語版があれば、「スピードラーニング」私もできるかなと思った次第。

 エヴァ本、阿世賀浩一郎/「エヴァンゲリオンの深層心理―自己という迷宮」まで出させて頂いた私、今でもTVシリーズのセリフみんな覚えてますもんね(・・・そういう水準で書いた、「ガイナックス非公式黙認」を「公式に」ダイレクトに取った上での本でした^^;)。

でも、実際、海外の"OTAKU"の皆さんは、そうやって日本アニメに熱中する中で、ホントに日本語を、全く書けなくとも「耳から」覚えるらしいですから、この物語での「あの」描き方も、実は「リアル」の裏付けなしとは言えないでしょうね(^^)

*****

 さて、やっと、このブログ恒例、大真面目な「音楽(演奏)評」を書きます!

 「指揮者コンクール」とはこのようなものだということを、ここまで具体的にリアルに描いた「フィション」作品は「世界初」でしょう(=原作段階でもそうということ!)。

 私も、ピアノ・コンクールはいざ知らず、指揮者コンクールの「実像」について、ここまで勉強になるとは思えず。

 実は、このあたりは、このブログでは直前に記事として書いた、茂木大輔さんの、のだめ公式内幕本、「読んで楽しむ のだめカンタービレの音楽会」でネタ明かしされてます(ここだけ当書のネタバレお許しを)

 つまり、原作段階で、本格的な指揮者修行も経験した、茂木さん自身の監修が入っているのです。

 茂木さんご自身は、すでにオーボエ奏者として日本の第一人者を長年務められた上で、故・岩城宏之氏の門をたたき、更に外山雄三氏の指導をお受けになるなどの経験を重ねられた方で、何を今更指揮者コンクールそのものを経る必要はお持ちではなかったのですが。

 それでも、非常に謙虚な文章で、「一介のオーボエ吹き」が指揮をするに到るまでの壮絶な壁との格闘を本書でリアルにお書きになっています。

 そして、きっと、指揮者コンクールに、「オケの演奏者」の側で参加された経験はご豊富なのではないかと推察いたします)。

*****

 さて、この「スペシャル」でも、相変わらず、演奏が練り上げられるまでの音の変化や、指揮者ごとの「解釈の違い」まで、マジに実際の演奏として収録されて、使われているのですね。

 千秋の音は、ドイツのシュトレーゼマンに認められるだけのことはあって(?)、少なくともこの「パリ・スベシャル」では、正統派ドイツ風の、構築的で硬派な演奏=「黒」(^^)

 対抗馬であるフランスのジャンの音は、まさにエレガントで透明=「白」(^^)

 もうひとりの片平元の演奏も、確かに独創的! でも音楽が完全にその指揮ぶりと一致している。

 踏み込んだことを言えば(・・・以下のあたりのことは、何も参照しなくても、「湯水のように」書けるクラシックおたくです)、彼が演奏した、グリンカの「ルスランとリュドミーラ」序曲は、グリンカそのものがロシア最初の著名な作曲家ですが、「ルスランとリュドミーラ」は、実はロッシーニ系のイタリア(喜)歌劇の影響を大きく受けながら試行錯誤の中で作曲されている、ロシア初の「国民オペラ」なんですね。

 だから、実は「ロシア臭く」やると野卑に響きすぎるという自己矛盾を内包した曲であり、ここで「片平さん」が演奏しているような、軽快なスタイルだと、曲の持ち味が「本当に」出てます。名演です(^^)

*****

 次に、千秋君の本選曲のひとつである、チャイコフスキーのバイオリン協奏曲

 私はこの曲には好みがはっきりしています。オケは軽快かつシンフォニック(・・・自己矛盾!!)に、ソリストも、力演だと感じさせずに、何の苦労もなく演奏しているような、クセのない演奏でないと嫌なんですね。

 そのせいで、本当は、往年の名盤であるハイフェッツ/ライナー/シカゴ交響楽団の演奏以外、本当にいいと思ったことがありません(実はハイフェッツ盤には、録音当時(1950年代末かと思う)慣例だった「曲の省略部分」があるのですが)。

メンデルスゾーン&チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲

 ところが! 

 断片とは言え、コンマスをソリストとする[千秋君の」演奏は、私を十分に肯かせたのです!! 

 これには正直、驚きました。私の永遠の座標軸がハイフェッツですから!!

*****

 更に音楽面、別の観点から見てみます。

 コンクールの公演を聴いた直後の具体的感想のセリフを聞くと、のだめちゃんにしても、フランクくんやタチアーナにしても、若くして、オケ演奏の良し悪しへの「感度」が凄すぎる!!

 このへん、物語として「出来すぎ」なんですが、3人の感想そものは、実際に音になっている演奏に対して(!)、全くリアルなんですよ!

 本当に「恐ろしい水準」の「TVスペシャル」です。

*****

 おしまいに。

 敢えて細かく言及しませんが(それがこのブログの、「のだめ」関連記事の、正統派ではない、婉曲で意地悪なところ)、総合的に見ても、この「パリ・スペシャル」、ドラマとしても、コミカルなテンポ感、切れ味、TVシリーズを凌駕すらしていて、「映画」と言っても何の遜色もない。

 日本にいる登場人物たちとのコミュニケーションも、これ以上あり得ないくらいに絶妙にいい味出してますしね(^^)

 更にこの上を行く、「最終楽章」の劇場公開となっていることは「前編」だけで十分すぎるほど分かりましたので、本当に、この作品の実写映像化って、どんどん進化しかしなかった、「化け物」的奇跡だと思います!!

 まだ、「パリ・スペシャル」後編と、「最終楽章」後編観てないのに、キッバリ断言できます!!

(全部観るのは、もはや時間の問題。無理のないペスで記事化するのみです。・・・・ただし、原作の感想のみ、少し遅れる可能性があります。当サイトのAmazonアフィリエイトレポートの、最近のポイント累積傾向予測からすれば、予想では「11月下旬」です。もっとも、未着の10月分レポートで、クーポン引き換えまで「一気に」貯まってくれれば、「実質無料、全巻大人買い?」可能まで一気に累積完了!! 予想外に早まるかも)。

*****

 ・・・・・以上、「粘着質」かつ「執着気質」のあいの子で(爆)、時々「対他配慮」が行き過ぎて逆にコケるのが玉に傷の、こういちろうよりの、「のだめ」ワールド航海日誌、第5弾でした!!

 (「パリ・スぺシャル 後編」への感想はこちらをどうぞ!!

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2010/02/08

浜崎あゆみの詞における「僕」と「君」、「わたし」と「あなた」 -サリヴァン的次元で解説してみよう- (第2版)

 浜崎あゆみさんの詞って、驚くぐらいに具体的なシチュエーションが出てこない。

  •  地名・・・ゼロ。それどころか「海」という言葉は出てきても、「山」「川」はひとつもない。
  •  人名・・・中島みゆきなら「♪真理子の部屋に、電話をかけて(「悪女」中島みゆき - 寒水魚 - 悪女 (アルバム・ヴァージョン))」と出てくるくらいの、一般化した次元でもゼロ。
  •  学校時代をイメージさせる表現・・・・ゼロ。唯一の例外が、浜崎あゆみ - A BALLADS - 卒業写真荒井由実の「卒業写真」をカバーしたケースだけであるという、驚くほどの徹底性。
  •  「僕」「君」「あなた」という人称を異様に多用する。「彼」「彼女」も例外的では?

 そして、そもそも「君」「あなた」が誰なのかが非常に曖昧で多義的で、どのようにでも受け取れ、再解釈できる

  • 生身の「濱崎歩」
  • アーティストとしての「浜崎あゆみ」

    (ベスト盤浜崎あゆみ - A BALLADS"A Ballads"の最後に収録された「卒業写真」のカバーそのものが、「街で見かけた」かつての自分のポスター等との対話というシチュエーションで理解してもらうことをayuははっきり狙っていたと思う。アルバムジャケットも、←こんなふうですからね)
  • 聴衆
  • 過去の、そして現在の同性の親友たち。
  • 父親
  • 過去の、そして現在の異性の知り合い(max松浦もそのひとりだけど、それだけ強調するのは明らかに偏った理解。最近はさすがにこのこじつけはいい意味で廃れましたけど)
  • 過去の恋人
  • 現在の恋人
  • 聴衆にとっての大事な人

 ・・・ちょっと年季が入ったayuファンなら、実は今私が箇条書きにした順序くらいでとりあえずいくつも当てはめていくのが無難であることに気がついているかと思う。

 "teddy bear"浜崎あゆみ - Duty - Teddy Bearや"memorial address"浜崎あゆみ - Memorial address - Memorial Addressの「あなた」がもっぱら父親のことを指す、"ever free"浜崎あゆみ - Vogue - Ever Freeは亡くなった祖母のこと・・・などと、特定的に捉えていい・・・といったケースというのはむしろ例外的なのである。

 要するに、ayuの詞というのは、非常に純粋な形で、「外的」および「内的」な「二者関係」に無限に「投影」させ、「転移」させることに開かれ切っている。

 
似たようなことは、他の歌手でもある程度は曲によって見られるが、ayuのように「首尾一貫した厳密な方法論」と言える域の人を、私は知らない。

 ayuは、本当にこの経験則だけで詞を書き続けていられる。裏を返すとayuのような詞を他人が「模作」しても容易にメッキが剥げる筈と断言できるくらいである。

*****

 この現象をうまく説明するのに役立つ、私の守備範囲に入っている精神療法家は、誰をおいてもサリヴァンである。

 私はこのことを公然とネットで書いたことが実はないままなことに、直前の記事でサリヴァンに言及した際に気がついた。

サ リヴァン/現代精神医学の概念(中井久夫訳)

 サリヴァンが、 本書で、「パラタクシス的(parataxic 私なりの意訳をすれば「相互転移的=投影的二者関係の次元」)なもの」と呼ぶ対人的相互作用の次元での象徴化・言語化様式と、まさにぴったり符合するのだ。

=======以下引用(中井久夫訳。太字、および[ ]内はこういちろうによる)=======

 (前略)この合理化とは、実は「個性とは一人一人独自なものである」という妄想の特殊な一側面である。それは、「概念としての『私』と「概念としての『あなた』(conceptual "me" and "you")がそれぞれ特異的な境界線をもっているためにどうしてもそのように考えられてしまうのであるが、実際には、「概念としての『私』や『あなた』とは、個人の知覚の舵取り役をつとめるもののその人の経験の意識可能な範囲を限定する参照枠[frame of reference]となるものに過ぎない(邦訳p.111)。

=======引用終わり=======  

 サリヴァンは凄まじい逆説を述べているので、一見難解だが、ちょっと解説してみよう。

 サリヴァンは、本書の別の箇所で、「我々は、基本的には同じような人間である」という前提が大事ということを述べている。

 これは、一見「個性」というものを否定しているかに見えかねないが、一見精神病状態になるかに見える人間でも、基本的には自分と同じような人間として捉える基盤が大事だということを強調していると受け取れるだろう。

 そして、「個人」という自己完結的システムとして人間を捉えるのではなく、「対人関係的相互作用の場」過程という次元でとらえることを基本スタンスとしていることこそがサリヴァンの本質なのだ。

 この点はジェンドリンも「人格変化の一理論」の削除された草稿部分(TFI日本語サイトで村瀬孝雄訳を閲覧できます)で、サリヴァンとの比較論に紙数を割いて評価している。

 「性格は、対人関係の関数である」

・・・・サリヴァンの、もっとも有名な言葉のひとつである。

 ひとは、自我を持つ存在として他者と関わる限り、「共人間的有効妥当性確認(consensual validation)」ができる形での言語での意思疎通の能力を身につけねばならない。

 この"consensual validation"という概念は、中井先生の「超訳」の典型として著名だけれども、わかりやすく言えば「お互いに話が『通じあう』水準での言語使用になじむ」必要がある、ということ以外の何者でもない。対義語は、端的に、「自閉的(autistic)な言語使用ということになる。

 もとより、人はこの能力の獲得の過程で、「自己態勢(self dynamism)」から「私-では-ない-もの(not-me)」として解離しなければならない有機体的経験の膨大な領域を持つことになる。そのある部分は容易に他者に投影され、ある部分は端的に「否認」されることになるだろう。

 しかしそれはサリヴァン的な見地からすれば、人がその所属する文化に適応(accultualization)していくための必要悪でこそあれ、さまざまな精神的失調・・・・正確に言えば、そのは単に「個人内」の現象ではなくて、「対人的相互作用」における齟齬ということになる・・・・の温床でもある。

 そうした意味で、アイリッシュ系であるサリヴァンは、WASPを中心とする当時のアメリカの価値観がアメリカの青年、特に前思春期の男子の成長に与える悪影響についてむしろ非常に尖鋭な批判者であったことは是非とも述べておかねばならない。

*****

 さて、こうした前提で、「パラタクシス的なもの」自体についてのサリヴァンの言葉を引用しよう:

=======以下引用(中井久夫訳。太字、および[ ]内はこういちろうによる)=======

 パラタクシス的[paretaxic]な対人的関わり方とは、話し手の意識の枠内におさまるような内容規定を持った対人関係と並んで[="para-"=並行して] 、影が形に添うように、もう一個の対人関係が存在し、対人的なかかわり合い方の傾向が前者とは全く異なり、しかも話し手はその存在をまず完全に意識していない場合である。

 パラタクシス的な場においては、精神科医と患者とから成る二人組と並んで、ある特別な『あなた』パターンに迎合するように自己を歪めた精神科医」と「未解決の過去の対人的なかかわり合い追体験しながらそれに対応する特別な『私』パターンを現している患者」とから成る幻の二人組がある。コミュニケーションの過程がこの二つの形影相添うような対人的なかかわり合いの一方から他方へとめまぐるしく飛び移ることもあり、この移動が稀にしか起らないこともあるが、いすれにせよ、普通、話し手の気の配り方は、結構ちゃんとしていて、活用や語法、語順などまちがわないで文法に適った言明を作ることができる。そのため一見首尾一貫した議論の立て方となる。またかなりはっきりと聞き手を意識した語りかけ方となる。(邦訳pp.112-3)

=======引用終わり======= 

・・・・この最後のパラグラフなんて、全くもってayuの歌詞のありかたそのものについて言及していると言えるだろう。

 ayuって、びっくりするくらいに、はるか以前の対人関係のことを意識し続け、ひきずり、繰り返し歌い続けずにいられない人のようだ。

 このあたりの具体的な解析と人物の同定については、王子のきつねさんのブログの随所で繰り広がられてきた情報収集力と慧眼と説得力に私はとてもかなわない。

 念のために申し上げると、いわゆる「成熟した」対人関係を持つ人間同士でも、この「パラタクシス的」次元は容易に顔を出す。ベイトソンのいう「ダブル・バインド」も「パラタクシス的なもの」の特殊な形態のひとつといえる。

 興味深いのは、高機能自閉症の人にとっては、まさにこうやって「影のように寄り添う別次元の対人関係様式」という、いわゆる「健常者」が全く無自覚に撒き散らす「含み」の成分というものを厳密に「理解」「識別」できないとパニックに陥る場合があるということだ(私は発達障害の専門家ではないが、当事者やご家族の話をうかがう限り、いわゆる「アスペルガー」タイプの皆さんの少なからず場合にあてはまりそうだ)。

******

 ちなみに、先程の引用部分で、

>コミュニケーションの過程がこの二つの形影相添うような対人的なかかわり合いの一方から他方へとめまぐるしく飛び移ることもあり、

と述べたが、あゆの場合、同じ歌の内容が同じシチュエーション、同じ相手を指すと強迫的に捉えようとすると意味が全体として通じにくくなるケースが稀ではない。

 これについては、先述のきつねさんが、"(miss)understood"(アルバム名ではなくて曲の方浜崎あゆみ - (miss)understood - (miss)understood)について、見事な分析をしている。

●甘いスイカに砂糖をかける(王子のきつねOnLine)

●Miss Understood Lyrics - 浜崎あゆみ (English and Hiragana)(YouTube)

 私が大好きな歌です。

 ここでいう「君」って、全部ayu自身のことを指すものとして理解しなおしてみるだけで、ぐっと深みが出ますよね(^^)

*****

 もうひとつ、アルバム"(miss)understood"の「心臓」であり、もっとも深みある曲のひとつと私が感じている、"In the Corner"浜崎あゆみ - (miss)understood - In the Corner

●Ayumi Hamasaki - In the corner(YouTube)

 ちなみに、この歌詞を聴いて、ayuのことを「ボーダーチック」だとか"as if personality"だとか言い出すのは、私は心理の学部生までしか許さないから(^^)。

 自分のことを振り返ってみるとどうだろう?

 「まずは罪なき者が石を投げよ」。

 相手への愛情を一瞬たりとも疑ったことがない人がいるとすれば、そういう人のほうが無理のしすぎで心配である(^^)

 ayuは、素直なだけなんだよ。

 あるいは時々、聴衆を意識して、こういうことを敢えて歌にして「予防ワクチン」をファンに打っておかないと、自分も持たないし、ファンも危ういと感じているだけ。

 そういう意味ではほんとに「ファンに気を使っている」からこそ、こんな、ファンを「脱錯覚(disillusion 幻滅)」させる危険がある「暗い曲」をアルバムに入れておく。

 私が聴いた、アルバム発売時のツアーの、少なくとも長野2日めと代々木の楽日という、私が臨席した2つのライブでは歌わなかったけど、最近はライブでも歌っているらしい。

 私なら、ayuをむしろ、若干分裂気質も合質しながらも、高エネルギー型執着気質をベースにした、適応水準の高い双極2型に分類する(・・・・って、それこそ私自身のパラタクシス的「投影」でもあるかもしれないけどね)

浜崎あゆみ/(miss)understood (DVD付)浜崎あゆみ - (miss)understood

(楽天市場の同商品)

*****

 最後に,YouTubeの「公式」動画より。

 敢えて次の初期の曲で、私が最初に提示した「君」の読み替えを徹底的にやってみてください。

●浜崎あゆみ / TO BE(YouTube)浜崎あゆみ - A COMPLETE ~ALL SINGLES~ - TO BE PVはTO BE

浜崎あゆみ/A COMPLETE ~ALL SINGLES~ (DVD付き)浜崎あゆみ - A COMPLETE ~ALL SINGLES~

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2010/02/06

「臨在」="presence"(第4版)

 私の永年のフォーカシング観の基本にあるのは、

 「ひとりでフォーカシングできるようにならないと、フォーカサーとしても、リスナー・ガイドとしても十分に機能でき、現実の日常生活の中で持続的な変化と影響をもたらす領域に到達できないのではないか」

という発想であることは繰り返して述べてきました。

 なるほど、リスナーがいる方がフォーカシングのプロセスは「よく廻る」ことが多い。しかし、そこで体験した気付きは、そのセッションの場を離れ、日常に戻ると、実感の裏付けを喪失し、まるで全くの虚妄であったかのような「反動」に襲わせる危険がある。

 このことは、実は、少なくとも病理水準的に重篤なクライエントさんにフォーカシングを試みると、単にセッションのその場でうまく進まないばかりではなく、(恐らくセッションの最中には順調に進んだかにみえても)予後が悪化する場合が少なくないという形で、フォーカシングを学んだ多くの臨床家が手痛い思いをして気がついているはずのことです。

 この問題に公然と警鐘を鳴らし続けてきたのは、日本では、増井武士先生、田嶌誠一先生のお二人だけでしょう。

 さもなければ、フォーカシングはとっくの昔に、現場臨床に幅広く普及しているはずです(きっぱり)

*****

 なぜこうしたことが生じるのか?

 それは、フォーカサーの体験しているフェルトセンスは、単にフォーカサーが「内側で」体験している感覚についてのフェルトセンスではなく、セッションの「その時に」「その場で」フォーカサーが置かれた「外的状況」について身体で感受したフェルトセンスとしての側面を大幅に持つからです。

 当然そこには、リスナー/ガイドの側が、セッションのその場をどのように体験しているかというフェルトセンスも、フォーカサーに間接的に大きく影響してくる。

 ある観点からすれば、フォーカサーのフェルトセンスは、リスナー/ガイドが、フォーカサーへの「感情移入」のつもりでいて、実はフォーカサーへの「投影同一視」に他ならないかたちで「共有しているつもり」=実は「押し付けている」フェルトセンスによって暗々裏に「汚染され」続けているのであり、仮にそれが「心地よい」「普段ほど緊張しない」体験であったとしても、「フォーカサー自身の」体験ではなくて、セッションという「場」に「巻き込まれた」結果として生じている、一種の嗜癖的・麻酔的な解放状態に過ぎない場合が大いに考えられるわけですね。

*****

 少なくとも、私個人は、過去二十数年のフォーカシング経験の中で、自分自身の中に、他者をリスナーとした場面では決して生じてすら来ないフェルトセンスの領域というものがあり、その領域は、時と場合によっては、孤独の中で自分自身で向きあってあげないまま、もし仮に2日3日放置しようものなら、もう、自分が何をしでかすかわからないくらいくらいであることをよく知っています。いわば、他者の「絶対不可侵」領域です。

 そして、私以外のすべての人にも、安易な共感や受容にむしろ容易に傷つき、むしろ他者をはねつけかねないくらいの「トップ・プライベート」な心象域があり得るという仮定を持っている。

 サリヴァンならば、「プロトタクシス的(prototaxic)」と呼ぶかもしれない。しかし、この領域を、単に「自閉的」だとか発達論的に一番未熟とのみ位置づけるのは基本的な誤りであるというのが私の考えである。

 「パラタクシス的(parataxic 私なりの意訳をすれば「相互転移的=投影的二者関係の次元」)」と「プロトタクシス的」の間にある「自我境界」の重要性があって、人は個人としての人として自分を体験可能なのではないか?

 (サリヴァンの原義に従えば、プロトタクシス的というのが、むしろ自他未分化な状態を指すことを承知の上で、「自他未分化」と「自他分化」自体が曖昧な領域という、いわば国境沿いの「緩衝地帯」を保全すべきという意味で理解していただくと助かる)

サリヴァン/現代精神医学の概念(中井久夫訳)

 その「超個人的」領域には最大限の敬意を払い、その存在を「仮定しつつも、敢えてこちらからは触れないでおき」、本人が「そこ」から生起したものを「関係の中に持ち込もう」という内発性を示し、「差し出してきた」場合にのみ、非常に控えめに、全く自然に(バリントのいう「友好的な空間」と化して)応答する(非言語的な反応のみを含めてでいい。しかし相手にはっきりと「伝わる」必要はあろう)のがふさわしいと考えている。

*****

 こうした現象が認識されないままだとどういう事態が生じるか? 

 たいていの人たちは、フォーカシングのワークショップから去っていくであろう(きっぱり)。

 一部の、セッションでの「いい体験」が忘れられない人たちは、足繁くワークショップに通うかもしれない。しかし、その人の現実の日常生活は一向に変化しないだろう。

 ・・・・もっとも、「フォーカシングのワークショップに通う」という「憩いの場」は生活の中にひとつ増えたかもしれないが(^^;)

 それは「嗜癖的な」依存状態であるか、それとも、「フォーカシングのプロセスそのもの」ではなくて、「フォーカシングの集いの」に癒されている状態であるに過ぎない。

 それどころか、フォーカシングは、「言葉にならない、漠然としたかすかな違和感」に敏感になる技法である。

 これは、ひとつ間違うと、特に日本のようなムラ社会では、「自分に取って漠然とした違和感を感じさせる参加者を無意識のうちに、『場の安全』の名のもとに排除しようとする」集団力学を生み出す。

 (何のことはない、実は、そのグループのトレーナー格の人たち自身がキャパが一番低い『小(こ)山の大将』で、実に容易に参加者に気持ちを揺らされる程度の存在に過ぎず、そうした状況から「身を守ろう」としているだけの場合すら少なくないと思う。それどころか、はじめての一般参加者の方が実はタフで柔軟な受容性があるという、笑うに笑えない事態すら稀ではあるまい)

 こうして、フォーカシングを「最も必要としている」人たちはグループの場から疎外され(あるいは立ち去り)、もはやフォーカシングを自己成長のために役立てる感性が麻痺し、狭いムラ社会の中での矮小な自己愛的プライドを暖めあう人たちばかりによってフォーカシングのグループが成立しがちである・・・・・可能性を真剣に振り返る意味があるのではなかろうか?

 もとよりこれは、フォーカシングに限定されない、古今東西、およそすべての流派の教団や教育システムや心理療法流派が陥りがちだった通弊なのであり、そうした集団と関わりつつも、したたかに「どっこい生きてく」一部の人たちが、そうした集団の健全性を支え、再生させ続けてきたのも確かであろうが。

*****

 以前の私は、自分がリスナー/ガイドをしたセッションが、実は「私が」満足し、「私に」シフトを引き起こすことに貢献しつつも、フォーカサーには、ひとときの気付きの体験の援助はできても、その直後に先述の脱実感的な「反動」までは生じさせなくても、その後のその人の人生を、漠然とした違和感に敏感なのにそれを周囲とうまくコミュニケートに生かせないだけの「生き辛い」ものにしてしまったいるだけではないのかという疑念を容易に振り払えなかった。

 今にして思えば、それは、他ならぬ私が、そうやって自分のフェルトセンスに敏感であることと、現実の他者とのコミュニケーションとの間に、ある齟齬を来たすことの限界を今より遥かに強く感じていたからに他ならないと思う。

 もとより、フォーカシングを学びだしてほんの1年めに私に生じた外の世界とのとの関わりの変化はある意味で十分劇的だった。自分の感性を信頼し、自分を肯定し、そして、自分の気持ちを載せた形で言語表現する能力飛躍的に上昇した。

 それがなければ、例えばあの、ある意味で「オーバークオリティ」過ぎて編集者を困惑させた可能性が高い、伝説的な(?)アニメ論投稿者としての阿世賀浩一郎はこの世に存在しなかったろう(その一端はasegaの日記の方でも、実はこっちのブログではほとんど披露していないといっていい域にまで実は「無尽蔵」であることを最近示してきたが)。その時代にすぐには評価されなかったが、後には的確な位置づけがなされ、若い世代や外国のアニメファンには高く評価されるようになった作品を、私はどれだけ「孤高のスタンス」で援護できていたことになるのか?

 しかし、私は、そうした、フォーカシングを通して抜きん出て開発されてしまったいくつかの自分の能力と、それ以外の点での未熟さや社会経験の乏しさの著しいギャップと戦い続け、それを一歩一歩、小さな勇気忍耐を持って埋めていくために、現実生活の中で少しずつ打撲を負い、血を流し続け、時には人を傷つけてしまう人生を、その後送らざるを得なかったのである。

 その意味では、フロイトが精神分析について語ったのと似たことを、私もやはり皆様にお伝えするしかないかもしれない。

 フォーカシングを学ぶことは、あなたに「牧歌的な幸せ」を約束することだけは、決してないであろう・・・・と。

 「牧歌的な幸せ」を味わえていると感じたら、その分だけあなたは誰かを押しのけ、傷つけていることに無感覚なだけではないかと我が身を振り返り続けることをこそ、私はお勧めしたい。

*****

 最後に、ジェンドリン自身の言葉を紹介したい。

 「セラピープロセスの小さな一歩」と題するエッセーからの抜粋だが、1988年にベルギーで開催された第1回クライエント・センタード・セラピーおよび体験過程療法国際会議での講演に基づき作成されたものである(池見陽訳)。

ジェンドリン/セラピープロセスの小さな一歩―フォーカシングからの人間理解(池見陽 編/解説)

 日本ではこの論文と同じタイトルの著作↑に収録されているが、この論文集には、ジェンドリンの体験過程理論の第一基本文献である「人格変化の一理論」も、旧村瀬訳を基本としたある程度の改訳(私見では更に徹底的な再吟味が十二分に可能である)の上で収録されている。

==========引用はじめ 太字化および[  ]内はこういちろうによる==========

私が言わなければならない、最も大切なことから始めよう。
すなわち、人とワークすることの本質は、
生きている存在として そこにいること(to be present)です。

そしてそれは幸運なことです。なぜなら、
もしも私たちが頭がいいとか、善良であるとか、
成熟しているとか、賢明でなければならないのなら
私たちは恐らく困ってしまうでしょう。
しかし重要なのはそれらではありません。
重要なことは
別の人間と共にいる人間であるということ。
相手をそこにいる別の存在として認識すること。
たとえそれが猫や鳥であっても
もしも、あなたが傷ついた鳥を助けようとしているのなら
知っておかなくてはらない最初のことは、
そこの誰かがいるということ。
そしてその「人[=person?]」、そこにいるその存在が
あなたに接触しようとするのを待たねばなりません。
それは私にとって、最も重要なことのように思えます。

(中略)

私が情緒的に安定していて、
しっかりそこにいる必要はないのです。
私がただそこにいることだけが必要なのです。

私がどういう人でなければならないという資格はありません。
大きなセラピープロセスや、大きな成長のブロセスにとって望まれることは、
そこにいようとする人なのです。
そこで私は「それならなれる」と確信して来ました。
たとえ私は、一人でいるときに疑いをもつにしても、
ある種の客観的な態度で、私は、
私が人であることを知っています。


(中略)

フォーカシングであれ、リフレクションであれ、他のものであれ、
二人の間に挟み込んではならないのです。

それをはさみこみとして使ってはならないのです。
「僕はリフレクション法があるからここにいてもいいんだ、
僕は卓球バトルがあるから君には負けない、
何か言ってみろ、返してあげるから」と言ってはならないのです。
武装しているという感じになってくる。
そうでしょう。
私たちには方法があるし、
フォーカシングも知っているし、
資格も持っているし、博士号ももっている。
私たちはこんなものをいっぱいもっています。
だから、二人の間に、こういうものをはさみこんで
座っておくのは簡単なことです。
はさみこんではならないのです。
それをどけなさい。
クライエントが持っているくらいの勇気はもてるでしょう。

(中略)

それは、ますます専門化する、つまり役立たずで高価になる[心理臨床という]分野で
とても必要なのです。

(後略)

========引用終わり========

 もちろん、ジェンドリンは技法というものを否定しているわけではない。そのあたりのことは実際に本論文の私が敢えて引用から省略した箇所をお読みいただきたい。

 重要なのは、ここでいう、相手と共に「そこに-いようとすること、すなわち"presence"である。

 ジェンドリンは「しっかりとそこにいる」とか「情緒的に安定している」必要はないと述べている。

 しかし、それは「ただそこにいさえすればいい」ということとは遠く隔たった状態であろう。

 この点で、「プレゼンス」というカタカナ語をふり回す、日本でのこの概念をめぐる議論は何か基本的に空疎であると私は感じている。

 なぜなら、「プレゼンス」という言葉に、肌になじんだが実感ない人間同士の論議だからである。それは現場実践臨床とは無縁の、ただの訓詁学(くんこのがく)であるに過ぎない。

 少なくとも、学校の授業で出席を取られた際に、

"Hi,Sir! I'm present."

と何も考えずに口をついて出る人間であることが大前提ではなかろうか?

 それくらいなら、例えば・・・・だが、「その人が具体的な人格を持った他者としてそこに存在しているという確かな実感」などと、各人各様に実感を込められる言葉に置き換えて語り合う方がよほど有益だろう。

*****

 私は、かつて、ジェンドリンの"presence"という言葉に「臨在」という言葉を当てることを提案したが、フォーカシング関係者には「やや宗教的に響きすぎる」と評判が悪くて、今日に至るまで省みられてはいない。

 しかし「臨床」という概念と非常に接近した用語法であるし、何より、「臨在」という言葉には自然と具体的な「関係性」が含意される気がする。

 そして、ひとりでのフォーカシングに立ち戻れた時の私は痛感するのだ。

 「やっと、『君』のそばに戻った」

・・・・と。

 それは、旧約聖書において、「アブラハムよ、どこにいるのか?」という神の声に、アブラハムが「ここにおります」と答えるまでに何らかの「インターバル」がありそうなことを連想してしまう。

 つくづく私が思っているのは、スピリチュアリティとは、スピリチュアルなものを別段高尚で深淵で特別なものとみなさないこと、あるいは、およそどのように世俗的で猥雑な現実の中にも聖なる真実があることを受け入れる、ある種ポストモダン的な「平準化」の中にこそあると思えてならないのだが。

 ・・・・ということで、何を今さらですが、

And the people bowed and prayed
To the neon god they made.
And the sign flashed out its warning.
In the words that it was forming.
And the signs said."The words of the prophets are written on the subway walls
And tenement halls."

And whisper'd in The Sounds of Silence.

●Simon & Garfunkel - Sound Of SilencePaul Simon - 1964/1993 - The Sound of Silence

 

Original Album Classics: Sounds of Silence/Parsley Sage Rosemary and Thyme/Bookends

セントラルパーク・コンサート [DVD]

*****

 そして、"presence"ということの本質をあまりにも見事に描き出した名歌を、日本人は持っているではないか。

 これ以上でもなく、これ以下でもないのが、"presence"だと私は確信する。

 そして、こうした人間が要所要所にいれば、セラピーなどというご大層な人工物を、さも意味ありげに、かつ有り難げにふりかざさなくても、現代日本の諸問題の大半は解決しているはずである。

●乙三. / 空と君のあいだに 【乙三.arrange】(YouTube)乙三. - お別れ - 空と君のあいだに【乙三.arrange】

 asegaの日記の方ではすでに一度紹介していますが、安達祐実が今度は教師役になってます。埋め込み無効ですので、まだご覧でない方は是非リンク先をどうぞ!!

 中島みゆき自身のオリジナル中島みゆき - Singles 2000 - 空と君のあいだにを聴くなら、選曲的に、次のベスト盤がベストでしょう(^^)

中島みゆき / Singles 2000中島みゆき - Singles 2000

 槇原敬之さんのカバーは、この曲のカバーの中では一番知られているかもしれませんね。

●槇原敬之 - 空と君のあいだに(YouTube)

 このカバーは、みゆき自身の歌唱によるオリジナルのリマスタリングと、豪華メンバー(岩崎宏美、小泉今日子、坂本冬美、徳永英明、福山雅治、小柳ゆきetc.)による新録のカバーを「同一曲で」収めた2枚のコンピレーションアルバム、「元気ですか」に収録されています(紛らわしいのですが、ジャケット緑がみゆき自身のリマスタリング、ジャケット青が他の歌手によるカバー集です。

元気ですか(中島みゆきカバー集) ← つまり、槇原さんの「空と君のあいだに」はこちらのジャケットです。

元気ですか(中島みゆきオリジナル リマスタリングバージョン) ←ハイビットサンプリングによると思われるリマスタリング効果による音の洗い直しがいかに成功しているかは誰の耳にもわかると思います。まさか・・・・と思うくらいに音質が上がってます。一見そうした音質向上が一番期待しにくそうな「狼になりたい」「世情」とかを聴くとよくわかるのでは? 細やかな音質になり、以前のCDの、音のレヴェルの低さの問題も解決。このベスト盤を先行試験とする形で、この後「紙ジャケ仕様」のリマスター盤が、アナログ期+デジタル初期のアルバムを網羅する形で発売される流れになるわけですが。

*****

 それはそうと、蛇足を承知で、やはり少し解説しておきます(^^)

 「ポプラの枝」として「ここにいる」という以上でもなく、以下でもない。

 「空と君との間に降る、冷たい雨」の空間を、カウンセリングルームを出た後、日常に戻っても、以前よりは「友好的な広がり(空間)」として体験してもらえることを持続的に可能にするのがカウンセラーの基本的な役割である。

 「孤独な人の心につけ込む」つもりはない。ただ、相談に来るからには、俺も「食ってかなきゃ」ならないから「同情するなら、金をくれ!」。

 中井久夫先生も、「あなたはなぜ療法家をしているのか」と患者に問われれば、「ただ日々の糧を得るため」と答えられるのが正しいと述べている。

病者と社会 (中井久夫著作集―精神医学の経験)所収の「軽症境界例について」という論文を参照。

 クライエントさんたちは、社会の中で生活者として生きて行くのであり、仮に障害者年金を受給している人たちですら、単に障害者であること、あるいは病者であることそれ自体を主なるアイデンティティとすべきではないと思う。

 それが一時的に不可避な場合もあるが、大抵のクライエントさんは、少なくともそれ以上のsomethingになれることを、実に切実に望んでいる。

 もしそうなっていないとすれば、はっきりいって、その人に関わる「関係者」の中に、その人が障害者や病者であることにとどまってくれないと、共依存的な対象を失い、「孤独になってしまう」ことの不安があり、それに当事者側が巻き込まれているのだ。

 「自立支援」の名のもとに、実は当事者にいろんな「無理をさせる」ことで結果的に挫折させ、元の鞘に納めさせて「自己満足的かつ防衛的な」安心を得ている「関係者」は少なくないと私はみなしている(特定の当事者を指しているつもりはない)。

 つまり、「単なる病者や障害者に留まりたくない」当事者の皆さんの心情にほんとうに無理なく寄り添えている="presence"ある関係者に包まれていたら、思いの外早くその活路は開けるように思えてならない。

 ある別の精神科医の先生の信念は「働けるかどうかで、あなたの価値に変わりがない」だそうである。それでもこのことはいえると思う。

 逆説的なことを言わせていただければ、およそボランティアとしてのみカウンセリングに携わっている限りは、結局は自分の精神的満足(欲求不満解消)のためにカウンセラーをしている域を抜け出せないと思う。

 いや、カウンセラー諸君、カウンセリングの収入が思うに任せず食うに困る経験を是非お積みください。これは時給いくらで、クライエントさんが「幾人」おいでになるかならないかと「無関係に」「一定の」収入が得られるうちはまだ見えてこない世界がありますよ。

 (つまり、カウンセリング機関にお勤めなら、面接料金の一定の割合が収入という完全歩合制のところをお勧めする。そういう相談機関はちゃんと日本にいくつかは存在します。ほら、「あそこ」がそのシステムですから。どうすれば、「見ず知らずの者」がそこのカウンセラーになれるかはよくわかりません。私もかつて在籍しましたけど・・・・)

 そして、それにも関わらず、安易に「副業」に依存せず、カウンセリング一本で食べて行く「王道」を目指してください(現在の私の収入源は9割が通常のカウンセリング(その中の9割が通院歴3-4年以上、社会人としてのブランクを2年は経験した、欝や双極性2型を中心とした気分障害の皆さん)、0.9割がフォーカシングのトレーナー、0.1割が、現金にはならない形でのアフィリエイト収入ってところでしょうか)。

 腕にそこそこの技量があるのに食うに困った経験がない人間は、同様な境遇の人間の目線に本当に立つことはできないと思います。

 もう、公然と書いても、決して覆らない自負をこの数カ月いよいよ高めていますので書きますけど、大抵のカウンセリングルームよりお安いばかりか、面接一回あたりの密度の濃さと充実度・・・・数年間通院しながら堂々めぐりしていた皆様が、遅くとも面接3回めから5回めまでに、それにその人の現実社会での生き方に確かに変化を実感し、何かがブレイクし始めた手応えを感じていただけることでは定評があります(もちろん、すべての課題解決とは行かなくても、「動かないと諦めていた山がひとつ大きく動いてしまった」とは)。

 はっきりいって、面接開始から3-5回以内にそれを感じさせられないカウンセラーは修行が足りなさ過ぎだと、今の私ならあっさり断言しちゃいます。そういう領域のカウンセリングを当たり前のように可能になれる! と(・・・私も49歳までかかりましたが)。

 ・・・・なのに、黒字に転じたとはいえ、はっきり言ってまだ独居の障害者年金+生活保護の人以下の月もあります。さすがに月収10万は確実ですが、20万切る月が多いってとこです、現在の私の収入は!

 だから時には理事会会場までの交通費が学会経費で全額支給で、本州への「公費旅行」もしたい(そういう機会に抱き合せで出会いたい人、行きたい場所もある)ので理事に立候補させていただいたというのは、3分の1ぐらいはマジな話です。

 3月27日に、往路スカイマークで神戸空港なるものに降り立てて(福岡からの関西出張のもっともお得で所要時間に無駄がないやり方ですね。空港からニュートラムで三宮駅までダイレクトに15分ですから、乗り継ぎし放題。便利さは関空や伊丹の比ではない。夕方の便の時間帯が早いのが残念ですが)、帰りは700系ひかりレールスターに乗れるのが非常に楽しみである。

*****

 そして、もう、このブログでこのことを書くのは何回めだろう。

 「君の心がわかると、たやすく言えるカウンセラーに
 なぜ客はついて行くのだろう、そして泣くのだろう」

  ここで、敢えて、村瀬嘉代子先生語録の冒頭を、リンク先でお読みいただければ幸いである。

 受容・共感という言葉などという、偽善的な"paternalism"(温情主義)のニオイがする、同性愛チックな、気持ちの悪い言葉は滅び去ってしまえ!!

 ・・・・ただ、ロジャーズのいう、「無条件のpositiveな関心」ということは、少し別な次元で、より重要な鍵を握っていると思う。

 "presence"ということを別の側面から言い表していると感じる。

 このことについてはいずれまた書いてみたい。

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2010/02/05

NHK 追跡A to Z 「問われる日本人の"言語力"」

 前回のワールドカップ、ドイツ大会において、日本代表サッカーチームは、予選リーグで一勝もできないまま敗退した。

 ワールドカップ後の報告書で、日本人選手の「自分の意思を伝える言語力不足」が課題の一つとして取り上げられている。

 サッカーは、野球とは異なり、試合の進行のひとつひとつの局面で、監督やコーチから直接指示を受けることが殆どないまま、各選手は状況判断して進めていかねばならない。

 そのためには、試合の進行中に実際に具体的に意思疎通を図るのみならず、練習やそれ以外の場面を含めての対話の中で、相手とはどういう人間で、どういう場面でどう考え、どう判断しがちかについてまで、お互いに知りあっている必要がある。

 ところが、ワールドカップ初戦の対オーストラリア戦、前半で1点リードの後、後半残り数分で同点に追いつかれた時、日本チームの中で何が生じていたか。

 このまま引き分けに持ち込めればよしという方向で行くのか?
 再度点を取ってリードするまで狙うのか?

・・・・・各選手の感じ方はバラバラであり、このバラバラさが相乗作用して不安を醸成する中で、瞬く間にオーストラリアに追加点を許して行ったのである。

 オシム元監督は語る。

 「日本選手はこちらから話しかけると怯えていた。生活において対話が欠けている。誰もが自分の考えを言葉にするのを恐れている」

*****

 日本人の「言語力」(対話力)不足は、産業分野でも深刻な問題となりつつある。

 団塊の世代が次々引退する中、工場での「職人芸」をいかに後続世代に伝承するかが課題になっている。「技は盗むもの」という感覚で生きてきた職人たちは、若い世代にうまくわかりやすく伝える言葉の力に乏しい。

 一方、技術や資格を持ちつつも、会議の議事録やちょっとした報告書をまとめることにすら苦労する若手社員が増加している。

 読んでも意味がわからない。「流れ」が読み取れない。起承転結がある文章が書けないのである。

 このことの影響として、携帯メールに若者が慣れ親しんでいることが番組では示唆されているが、携帯メールでやり取りする時ですら、「流れ」と「起承転結」を想定してやり取りを交わせる若い人は確かにいるので、単純な原因論にしてしまうことには、私個人は違和感がある。

*****

 我伝引水を承知でいうと、私のNHKのドキュメンタリー番組の紹介はこのブログのもはや名物のひとつになっており、ひとつ書く度に多くの読者の方にお読みいただいていることに感謝申し上げている。

 なぜ、私の記事を読んでいただけるのか?

 それは、番組の内容がどういう内容だったかが彷彿として伝わるからであると自負している。

 ところが、実際に番組をご欄になった皆様はお気づきだろう。非常に多くの場合、私は番組の実際の進行を大きく再構成して書いているのである。

 しかし、できるだけ私個人の感想と区別できる形で、番組そのものがどういう内容だったかを、臨場感あふれる形で「文章化」できているつもりである。映像的表現における構成や文法と、文章における構成と文法はかなり異次元のものであることを私は常に意識しているつもりである。

 そして、そもそも、私のブログにおける文章は、特に最近のものほど、「流れ」と「構成」がもたらす効果について、私なりに計算し尽くして、しかし、殆どの場合、前から後ろに「一気に即興で」書いて、誤字修正したものであるに過ぎない。昔のように「改版」を重ねることも珍しくなってきた。

 書き出す段階で、私の頭の中の「非言語的な」「暗々裏の」アウトラインプロセッサはほぼまとまっている。まとまっていないと書き出さない。タイトルが決まれば、本文の内容は、もう流れ出すように結論に向かって書いているわけです(^^)

 このような番組紹介記事の場合には、もちろん番組を見ながらのメモは取っているが、それをどのように「構成」するのかは全くの即興である。

*****

 今回の番組のゲストとして登場したのは、ユニクロのデザインやイメージ戦略を担当していて有名な、佐藤可士和(かしわ)氏であった。

 (佐藤氏は、我が勤務校だった、明治学院大学の学章等イメージデザイン全面リニューアルにも関与している)

 イメージやデザインという「非言語的な」媒体を取り扱うにもかかわらず、佐藤氏は、仕事の経験を深める過程で、言語的な対話能力の重要性に目覚めて行ったという。

 クライアント(顧客さん)相手にせよ、協働するスタッフ相互間にせよ、中途半端なやりとりだけだと、お互いに勝手に違ったものを思い描いていることに気づかない。

 そしてユニクロで共同作業をした、ドイツ人のデザイナーの圧倒的に雄弁な言語での表現力にも大きな刺激を受けたという。

 ドイツでは、幼稚園段階から、自分なりに自分の言葉で表現するための訓練がカリキュラムとして緻密に織り込まれている。まだ小学校低学年くらいの子供たちに、サッカーのコーチが練習中に「何が問題だと思う?」と問いかけた時の、各人各様のしっかりした意見の述べ方は見事なものだった。

 そして、ドイツの大学の入学試験はすべて論述式とのこと。日本では、ちょうど私の世代(1960年生まれ)から、マークシート全盛の時代に突入している。

*****

 日本サッカー界で、従来の常識を覆した選手がいる。

 本田圭祐。

 昨年の試合で、フリーキックの際に、中村俊輔に任せるのが通例だった流れに逆らい「俺に蹴らせてくれ」と何回もアピールした。

 彼はオランダの2部リーグでキャプテン、および司令塔として活躍、チームのリーグ優勝に貢献した。

 セン・ファン・ダイク監督は、彼をフリーキッカーに育てるつもりだったが、本田は、いざ試合中にそうしたタイミングになると、他の選手からの「俺に蹴らせろ!」というアピールの凄さにしばしば気押しされ、譲ってしまっていた。

 そうした彼の様子に、監督は、「フィールドでは常にリーダーであれ」と発破をかけたという。

 それから1年のうちに、本田はチームメイトからの信頼と敬意を集めるようになる。

 現地で覚えたブロークンな英語しかできないが、コミュニケーションの細やかさという点ではそれまでの欧米人のキャプテンにはみられなかったセンスを絶妙に発揮する。

 伸び盛りの若手には時として厳しく。
 プライドの高い選手には、気を使い、相手を具体的に納得させるような調子で。

 他の選手は語る:

 「これまでのキャプテンは、キャプテンの立場からしかものを言わないキャプテンばかりだった。でもホンダは相手を見て、もののいい方を変える」

 ひとりひとりの違いが見えてくるとは、相手がどう出てくるかが読めるようになるということでもある。

 気配を「察する」能力。これは日本人本来の「気遣い」の伝統にも一致している感性の世界だろう。

 これに、「わかりやすく伝えよう」というスイッチが加わった時に、何か大きな活路が開かれるはず

 オシム氏は語る:

「日本人は日本人らしさを追求しない。これも私の疑問だ。すぐに他の国と比べたがる。そうやって他の国を見習って追いついた時にはその国はもっと先へと行っているのに。追いつくのではなくて、追い越さないと」

 本田は今、ステップアップを目指してロシアのリーグに移籍している。

*****

 佐藤氏は、次のようにも付け加えた:

「言語力とは、『自問自答能力』ともいえるかもしれない。相手からこう訊(き)いてきたら、どう答えるか?・・・というシミュレーション能力みたいなものを鍛えられるかどうかということ」

「それは、自分の頭の中にばやーっと浮かんでいることをはっきりさせていくこと、ちょうど、ぼやけていた画像で、カメラのピントをはっきりさせていくようなことなんじゃないでしょうか?」

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2010/01/24

ジェンドリンもYouTubeでたくさん観ることができます。

フォーカシング技法の創始者、ユージン・ジェンドリン博士の、昨年のお元気そうな映像です。

●Gendlin at FOT quicktime.mov(YouTube)

 "slight"という言葉をジェンドリンは繰り返していますが、私なら「薄っすらと」と訳すことにこだわるでしょう(^^)

Eugene T. GendLin/Focusing (Bantam New Age Books)

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2010/01/23

Delta Goodremの"Fragile"

Delta Goodrem - Fragile(YouTube)

一度に6つのことが浮かぶ。1つにしかフォーカスできないよ。
一週間には7日あるけど、私の人生はまだ始まったばかりだよ。
そのうち、気持ちは落ち込んじゃって、何もできなくなった。

時には、ひとりだって感じる。
私はあんなに強くはないって思うことも。
どうにも儚(はかな)くて、小っちゃくって。
人の言うことに振り回されやすいしね。
ちょっと脆(もろ)いな、って思うことがある。
脆いな、って。

6千年前から、どういうことなの?って問いかけて来たよ。
こころの底から言葉にしたり、メロディにしたりして。
そのうち、気持ちにとらわれちゃって、打ち負かされてしまった。

時には、ひとりだって感じる。
私はあんなに強くはないって思うことも。
何も感じられなくなったり、
人の言うことに振り回されやすいしね。
ちょっと脆(もろ)いな、って思うことがある。
脆いな、って。

みんなが私の瞳を通して真実を観ることができるっていうのなら、
見せかけだけではない、開かれた通路のように感じれくれるのなら、
もう怖がらない。泣き叫ぶことを。
もう逃げないよ。内側で感じていることを、包み隠さず示してあげる。
ちょっと脆(もろ)いんだけどね。
脆(もろ)いんだけど。

時には、ひとりだって感じる。
私はあんなに強くはないって思うことも。
どうにも儚(はかな)くて、小っちゃくって。
人の言うことに振り回されやすいしね。
ちょっと脆(もろ)いな、って思うことがある。
脆いな、って。

(こういちろう訳)

******

 デリタ・グッドレム(Delta Goodrem)は、オーストラリアのミュージック・シーンで大活躍している、シンガーソングライター。

 Wikipediaによれば、スターダムに躍り出たデルタを襲った突然の悲劇が悪性リンパ腫ホジキンリンパ腫(Hodgkin's Lymphoma)であった。このニュースはオーストラリアで大々的に取り上げられ、連日新聞やTVなどで報道された。放射線治療により髪が抜け落ちたものの、家族やファンのサポートを受け快復したという。 

 この曲は、YouTubeで全く偶然に見つけ出したのだが、何の予備知識なしでも、一聴してそのインパクトに圧倒されたので、ご紹介することにした。

Innocent Eyes/Mistaken Identity

【送料無料】Delta Goodrem デルタ・グッドレム / Innocent Eyes / Mistaken Identity 輸入盤 ...

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2009/12/27

フォーカシングとスピリチュアリティ -12年前のワークショップでの体験-

 前々から考えていたのですが、かつて日本フォーカシング協会ウェブサイトに掲載させていただいていた拙文を、これを機会に、再度そのまま全文ご紹介しようかと思います。

 実質、もうすぐ12周年にもなるのですね。

 しかし、この時得られた気づきが、その後の私を、ひとつの宿命のように支配し続けてきたのではないか・・・という深い感慨を抱きつつ、私はこの数年を生きてきました。

===========以下再掲===========

エルフィ・ヒンターコプフ 東京ワークショップ体験記

フォーカシング・ネットワーク in 東京 第4回ミーティング
1998年1月25日 於:立教大学

阿世賀 浩一郎  

 アメリカからフォーカシングの有力なトレーナー、エルフィ・ヒンターコフ(ヒンターコプフ)が来日して東京でもワークショップを開いた。そのワークシップが非常に面白かったので、そのことを書こうと思う。

 このヒンターコフという人は、アメリカ生まれだが、ヴイーン大学で、先年(1997)亡くなった、ナチの収容所体験とその極限状況下において生の意味を見いだせる人たちについて考察した『夜と霧』(みすず書房)で有名な、実存分析の大家、フランクルのもとで学んだ後、文化人類学に専攻を変え、ネイティヴ・アメ リカンについてのフィールドワークに打ち込み、更にシカゴ大学のフォーカシングの祖、ジェンドリンのもとでフォーカシングを学び、今や心理療法家、フォーカシングの代表的トレーナーとして活躍中の方である。

 ヒンターコフ自身の著書、"Integrating Spirituality in Counseling: A Manual for Using the Experiential Focusing Method"(邦訳「いのちとこころのカウンセリング―体験的フォーカシング法」 日笠摩子・伊藤義美訳 金剛出版)によれば、厳格なファンダメンタリズム(聖書を字義通りに理解し、進化論も否定する)の家庭で育ったが、13歳の時、やりたかったダンスを取るか宗教を取るかを決断せざるを得なくなり、彼女はダンスを選んだ。何事も「すべき」か「すべきでない」かでとらえようとするキリスト教の風土は彼女にとって無意味に思われた。それ以来彼女は宗教を拒絶したが、日常の中で、ある「無意味感」を抱え続け、彼女が「意味の探求」と呼ぶものをはじめたという。

 前述のフランクルは、生の意味は自分の内側からくみ取るしかないと諭したが、それがどういう意味なのか、この時点での彼女には実感としてはわからなかったという。「わたしは、内側から意味を見出すには何をすればいいのかわかっていなかった」。平和部隊に参加して訪れたインドではヨガの導師に教えを請い、瞑想を学んだが、瞑想をしている最中は安らぎが得られるものの、日常に帰ると、また再び、以前からの葛藤に翻弄されてしまったという。
 
 ジェンドリンとフォーカシングに出会って後、フォーカシング体験を積む中で、はじめて彼女は、以前フランクルが諭した「自分の内側から生の意味をくみ取る」ということ、すなわち、「内側からの、静かな、かそけき声」を聴くということ体験的に理解できるようになった。そして、更に、フォーカシングを深く進める中で、「神、人間、森羅万象と自分が共にある」という体験に至り、仕事や他者との関わりや余暇の過ごし方において、自分の実感を大切にしながら生活することができるようになったとのことである。

***

 さて、今回のヒンターコフの来日セミナーのテーマは「スピリチュアリテイとフォーカシング」というものだった。このテーマは、ひとつには、今述べてきたような、彼女の精神的遍歴と強く結びついたものなのであるが、それにとどまらず、およそ欧米で心理療法やカウンセリングに関わる限り、避けて通れない重大な問題と結びついている。

 ご存じの方も少なくないかも知れないが、欧米では、クライエントに、セックスに関する質問を面接の中でしても、日本でに較べれば遙かにフランクに話してくれることが少なくない。だが、相手の信じる宗教は何かについて訊ねることは、日本人からは想像がつかないくらいにタブー視されがちとのことである。

 ところが、それにも関わらず、広い意味での宗教的なことに関わるテーマが、多くの面接の中で不可避に登場する。違う宗派の人間同士の結婚にとどまらず、同じ家族の中で、それぞれ信じる宗教が異なり、3つも4つもの宗派に分かれてしまうことも稀ではない。

 しかも、そのような家族や周囲との宗教の違いが互いの葛藤に影を落とすことがあるばかりではない。クライエント個人が語る悩みのあり方そのものに、日本人ではあまりみられないものが頻繁に登場する。例えば、

「重要なのは、イエス・キリストと私がどんな関係にあるかということなんです」
「私は神に対して否定的な感情しか持てないでいます」
「私はこれまでの生涯でずっと信心深い人間だったつもりですが、実は一度も神を体験したことがないんです」
「私が前世で体験したことが今の私を支配しているんです」

などということが、カウンセラー相手の悩み相談のテーマとしても、かなり頻繁に登場するらしいのである。

 それに輪をかけて事態を厄介にするのは、カウンセラー個人が抱いている宗教的な信念と全く受け入れがたいクライエントの発言をいかに受け止めるかという葛藤も生じることだ。だが、このようなクライエントの発言を避けて通ることは、クライエントとの関係を基本的なところで傷つけるものになりかねない。

 人間の移動が激しくなり、家族関係の枠がゆるみ、神秘思想や従来の欧米以外に由来する宗教に関心を持つ人も増え、違う価値観の人が密接に交渉を持たざるを得ない状況が進む中で、もはや欧米でも、宗教的な問題を心理療法の現場で扱いづらいものとしてタブー視するだけでは済まされない状況がいよいよ進展し、臨床心理関係の学会でも重要なテーマとして取りあげられることが少なくないとのことである。

 最近はやりの言葉で言えば、心理療法の現場も、マルチカ ルチュラリズム(多文化主義)的な発想を必要とするようになって来ているのが時代の要請なのである。

***

 こうした中で、ヒンターコフは、まず、"religiousness(宗教性)""spirituality"(霊性。以下の文中では特に断りがない限りカタカナで「スピリチュアリティ」と表記する)を区別することを提案する。

 "religiousness"とは、「ある特定の、組織的な宗教団体や教会などの信念と実践を守ること」である。それに対して、"spirituality"とは、「超越的(transcendent 常識的・合理的な判断を越えた)」次元での、独特の、個人的に意味深い体験」全般のことを指す。

 このようにとらえると、個々の具体的な神秘思想や宗派を信じると言うより、遙かに広範な経験が「スピリチュアリテイ」の名のもとに包括されることになる。例えば、自然や芸術作品を味わう中で生じた深い感動なども含まれてくる。

 だが、これは後者が前者よりも幅広い、包括的な概念であり、"religiousness"が"spirituality"の部分集合として含まれてしまうことを意味するわけではない。つまり、"religiousness"であっても"spirituality"ではないという次元も存在する。 これは、すでに掲げた、

「私はこれまでの生涯でずっと信心深い人間だったつもりですが、実は一度も神を体験したことがないんです」

という例にも示されているように、形の上では熱心に宗教儀礼をしているつもりでも、「常識的・合理的な判断を越えた次元での、独特の、個人的に意味深い体験」の方はその人に得られていない場合などに典型的にあらわれている。

 では、ヒンターコフは、「スピリチュアルな」体験をどのように定義するのか。

  1. 漠然とした意味を含んだ、(何か意味ありげだが、何なのか当人はすぐにはうまく言葉が思い浮かばない)微妙な、身体で感じられる感じがあり、
  2. その感じの中から、新たな、はっきりとした意味が啓示される体験があり、
  3. 超越的(transcendent)な次元での成長過程を伴う

この3つの条件を満たす必要があるとのことである。

 実は、この中の1.と2.は、フォーカシングで言う、

  1. 身体で漠然と感じられたフェルトセンス(felt sense)に注意が向き、
  2. その感じの中から、身体の感じの変化と共に新たな気づきをもたらすfelt shiftが生じる

ということに他ならず、通常のフォーカシング体験や、生産的なカウンセリング場面、あるいは創造的な表現や発見の現場ではごく普通に生じている現象である。

 だが、このような「身体で感じられた曖昧なモヤモヤした何かの中から、身体の感じの解放と共にその個人固有の意味が啓示される」という実感ある体 験が、いくら信心しても得られていない人は少なくないらしい。仏教的に言えば「悟り」の経験が得られたという実感がないということにあたるかも知れない。

 しかも、それが通常のフォーカシング的体験ではなくて「スピリチュアルな」体験と言えるためには、

  3..超越的(transcendent)な次元での成長過程を伴う

が加わることとなる。

 ヒンターコフはこの「超越的」体験のことを、

「今までの自分の準拠枠(frame of reference)を越えて新しい次元に進んでいくこと」

「深いところから命を前に進めるエネルギー(life forward energy)があふれ出し、自分の中の何かが動き出すこと」

などとも説明している。いわば「世界」の体験の仕方そのものが全体としていきいきと変容していくような経験であるとも言えるかも知れない。

***

 ヒンターコフは、このようにスピリチュアルな体験をフォーカシング的に定義する上で、体験の「内容(content)」ではなくて体験の「過程(process)」という観点を重視した。

 つまり、「スピリチュアルな」体験の中で、具体的に「何を」体験し、それをどのように意味づけるかは人それぞれである。ある人はそれを「悟り」と 呼び、ある人は「神の臨在を体験した」と呼ぶだろう。ある人は「前世の自分の記憶を思い出した」といい、ある人は「宇宙と自分との合一を体験した」といい、あるひとは「イエスが神でありなおかつ人であり、いつも自分と共にあることが実感できた」というかもしれないし、ある人は「全てが<無>であることがはじめてほんとうにわかった」というかも知れない。

 それらを聞いていて、「内容」や「具体的な意味づけ」に感情移入できないどころか、抵抗や嫌悪すら感じる場合もあるだろう。

 しかし、「それは『あなたにとって』どういう意味があるのですか」などと、更に具体的に、そこに到る個人的な心情のひだの動きを更に傾聴していけ ば、かなりの程度まで、その人個人の中でどういう「感じ」が生じ、それがどのように変容していったのかが実感を持って共有できる可能性が開けてくるのである。つまり、はっきりしない漠然とした感じの中から生起した何かが、身体感覚のシフトを伴う気づきを生み出したプロセスそのものにシンクロし、共有することはかなりの程度可能になる場合がある。

 ヒンターコフは、このようなスピリチュアルな体験の「プロセス」の次元でならば、特定の宗教や神秘思想の用語への違和感などに振り回されずに共有可能と考えたのである。この人は「こんな」感じの中から「こんな」感じが生起してきた体験を、例えば「神の実在を体験した」と名付けているのだ、その名付け方には自分はなじめないが、その人にとっては、「その」体験をつなぎ止めるためのhandleとして、それを「神の実在体験」と呼ぶのがどうもぴったりらしいことは受容しよう……という形で接点を作るわけである。

 その体験をどのような「名前」で呼ぶかは、その個人固有の領域なのである。

 大事なのは、そこに身体感覚の変化と、その人にとって漠然と意味ありげに感じられていたものの中から何かがはっきりとした意味として実感できるようになる過程そのものを、相互作用の中で共有できることそのものなのだ。

***

 

「果たして、スピリチュアリティというテーマで人が集まるかのか?」

 このような疑問を抱いていた人は少なからずいたようである。私もその一人である。多くの日本人の宗教との関わりが形骸化している中で、果たしてピンと来てもらえる人がどのくらいいるのか?

 今回の東京セミナーは、幸いにして定員いっぱいの50名近い参加者に恵まれた。インターネットでのこのホームページ経由の宣伝によって関心を持って参加して下さった方も数名おられた。

 当初、やはり「スピリチュアリテイ」の定義について若干の質疑応答があった。 ヒンターコフ自身、欧米では「スピリチュアリティ」とさえ言えば多 くの場合自然と共通理解が得られる問題に、日本人が必ずしも易々とは反応してくれない可能性を感じた瞬間があったようである。

 ・・・が、前述したような、「例えば自然や、詩や、音楽への感動体験の場合にもスピリチュアルな体験と言える場合がある」というような説明の中で、「ス ビリチュアルな体験」とは、予想していたより幅広い範囲の体験を包含していいのだという共通理解が生まれてはじめて、ワークショップは順調に進みはじめたように私には思われた。

***

 さて、以上のような、ひとわたりのレクチャーが終わったところで、休憩をはさんで、全員一緒のワークがはじまる。

 最初はヒンターコフの教示に従い、全員一緒に行い、その後で数名の小集団に別れて互いの感想を共有、最後に、再び全体会で、自分の体験を全体で共有していいという人の自発的発言を求める。

 最初のワークは、英語版のパンフには

「聖なる言葉についてのフォーカシング」

と書かれ、

「まずは、あなたにとって聖なる意味を持つ言葉(sacred text)をまずはひとつ選んで下さい」

と書いてある!

 これだけでは大半の日本人は乗れそうにないところだが、ヒンターコフはすぐに付け加えた。

「これは、あなたに感銘を与えた詩の一節や、ことわざ、あるいは自然の風景などでもいいのです。『まだはっきりとした意味はわからないけれども、そこには<何か>がある』という印象を残したようなものがいいと思います」

 私にはこの、ヒンターコフが最後に付け加えた、

「『まだはっきりとした意味はわからないけれども、そこには<何か>がある』という印象を残したようなものがいいと思います」

という示唆にピンと来るものがあった。

 そんなに内面をまさぐらなくても、そのヒンターコフの言葉にインスパイアーされるようにして、ここ2,3年、しばしば私の脳裏に甦り、時々反芻してきた、ある光景と、その時の「説明しがたい身体の実感」がいきいきと浮かび上がってきてくれたのである。

***

 私の体験について語る前に、ヒンターコフがワークショップで、せいぜい15分前後のワークとして用いる際のワークの手順のひとつをここで示してみよう。

 以下の教示をひとつずつ、じっくりと間合いを置いて、相手の応答に即して提示していく。ひとりがこれを読み上げる形で集団で行うこともできる。

  1. 自分が選んだ言葉やイメージを思い出して下さい。
  2. 自分自身にその言葉やイメージをゆっくりと繰り返しましょう。自分の中に生じてくる「感じ」や「気持ち」に気づいて下さい。
  3. その言葉やイメージを繰り返し想起し、味わいながら、そこで生じてくる「気持ち」をしっくりと表現するちょうどいい言葉を探してみましょう。
  4. あなたの中に生じてきた、その「気持ち」や「感じ」とじっくりと一緒にいてあげてみて下さい。そこに、もっと「何か」がそこにあるという感じが感じられないかどうかに注意を向けてみて下さい。
  5. その「感じ」と一緒にいながら、その「感じ」に向かって次のように問い掛けてあげることもできるかもしれません:

     「この言葉やイメージの何が、私に<こんなふう>に感じさせるのだろう?」
     「この言葉やイメージの何が、私にとって最高なんだろう。あるいは、凄く意味深く感じさせるんだろう」

    こんな質問をして、「感じ」の方から「あなた」の方に、何か応答のようなものがやってくるのを待っていましょう。
     そのような応答が返ってきたら、それを繰り返し自分の中で味わい、その応答が自分の実感にしっくりくるものかどうか確認して下さい。
  6. そして、最初の言葉やイメージに戻ってみて、今の自分がそれをどう感じているか感じなおしてみて下さい。新しい自分の「感じ」や「気持ち」があれば、それを表現してみて下さい。

 ここでは詳しくは説明しないが、これらは、通常のフォーカシングのプロセスとそれぞれ対応している。つまり、

2.フェルトセンスを掴む
3.フェルトセンスにとりあえず実感の上でぴったりな付箋となるような言葉を見
  つける(get a handle)
4.フェルトセンスと一緒にいる(being with)
5.フェルトセンスに問い掛けて応答を待つ(asking)
  →生じてきたものを受け止める(receiving)

となる(詳しくはジェンドリン「フォーカシング」 福村出版 参照)。

***

 さて、私がこのワークで選んだのは、3年前の夏の終わり、蔵王に行った時の体験である。

 当時の私には、終末の仕事の帰りに、思いついたように一人旅に出たことが時々あった。帰り道の駅からビジネスホテルに電話して予約して、新幹線でその日のうちに移動できるところまで移動してしまう。あとは出たとこ勝負である。

 その時はその日のうちに新潟に出て、翌日米坂線まわりで山形に移動、山形の宿を確保した上で、蔵王に日帰りで向かうことにした。季節運行の山頂まで登れるバスがまだ出ていると知ったからである。

 8月29日、バスとリフトを乗り継いでたどりついた蔵王の山頂は、かなり風が強く、やや肌寒くすらあった。夏の山によくあるように、日は射しているけれども、雲が速いスピードで流れていき、いつ天候が崩れて雨になってもおかしくない感じだった。観光客はまばら。

 行かれた方はご存じのように、山頂の近くの展望台から、火口湖、お釜が見渡せる。見渡せると言っても眼下に間近にあるわけではない。1キロ近くは 彼方のやや斜め下に見下ろせる。その間には荒涼とした稜線が次第に落ちていき、お釜の右手の方は硫黄が吹き出す緩やかな谷となっていたと思う。

 日は射しているにもかかわらず、上空の雲を映して、「お釜」の水面はむしろ鉛色というのに近く、そのまま灰色の稜線と溶け込んでいた。

 なぜか私は、その時、遠くに見えるそのお釜の鉛色の水面と、右手に見える白っぽい谷が次第に地平線に向けて高度を下げている光景に「不気味な怖さ」のようなものを感じたのである。

 私は、海か山かと言われれば、山派だろう。九州に住んでいたから、霧島や阿蘇・九重・雲仙などには何回も行っているし、火口湖や噴火口の光景にも小さい頃から馴染んでいる。その私が感じたことがない、奇妙な「怖さ」だったのである。

 おかげで、それ以来、その時の光景が、この3年間の間、何回も自分の脳裏に自然と蘇り、反芻されていたのである。

 すでに述べたように、言葉やイメージを選ぶ際、ヒンターコフは、「『まだはっきりとした意味はわからないけれども、そこには<何か> がある』という印象を残したようなものがいいと思います」という示唆を付け加えた。この示唆の言葉に触発されて、全く自然に脳裏に喚起されたのは、この三年前の、蔵王のお釜を見下ろした時のイメージと「体感」だったのである。

***

 その、目に焼き付いた光景とその時の「体感」を自分の中に繰り返し反芻しながら味わった。(2.)

 すると、最初それは「不気味」あるいは「こわい」という言葉が、とりあえずふさわしいように思われた。(3.)

 だが、それだけでは言い尽くせないsomething moreが、その言葉にならない実感の中にはあると思えた。

 しばらく「その」実感と一緒にいてあげる(4.)うちに、身体に感じられている感じの質が少し別のものに変容してきた。

「不気味」あるいは「恐い」……というより、

……「厳しい」

そう、何か一種の「厳しさ」「畏怖」のようなもの。

その方が実感には近い。

 私は「厳しさ……のようなもの」という言葉を自分の中の記憶の光景と実感に重ねあわせながら、この言葉だけで実感にしっくりかどうか再度確認していく。

 ……これでもまだ不十分だ。まだ「先」がある。説明され尽くしていないエッセンスの核心、「何か」がそこにはある。

 そのうち、その心の中の蔵王の風景を眺めている私の身体の前面の方が、何かある独特の緊張感で満たされてくるのがわかる。身体前半分の皮膚がピリピリしてくる。まるで蔵王の風景に圧迫されるかのように。

そして、なぜか、目頭だけが熱くなる。

「絶対的に、そこにある」

「どうしようもなく、そこにある」

という言葉が浮かぶ。

 なぜか、この蔵王でお釜を見下ろした時だけ、「もし、仮にこの風景をハイビジョンの映像として眺めても、ここまでありありと<そこに-ある>という感じはしないだろうな」などということを連想していた自分がいたことを、この時やっと思い出しした。

 これは「映像」ではない

 湖は、<そこに-ある>

 谷は、<そこに-ある>

 どうしようもなく、<そこに-ある>

 私の中に、その、確かに<そこに-ある>光景に圧倒されつつ、ほとんどそれに涙を流しながら「ひれ伏したい」というのに近い思いがあることに気が付く。

 (後で、全体でshareする際に、拙い英語力でヒンターコフにこの時の感じを伝えるのに私が選んだ言葉は、

”surrender(降伏する)”

だった)。

 しばらくその感じと共にいた。

「こうふうふうな感じにさせるのは何なんだろう?」と内側に問い掛け、返事を待つ(5.)。

 しばらくして浮かび上がった言葉は、自分でも意外なものだった。

 「……絶対的父性……

  ……絶対的父性 ???」

この私の中に、絶対的な父性にひれ伏したいという感情のようなものがあるのだろうか?

 これは意外だった。というのは、私は、むしろ「絶対的父権」のようなものを心の中で軽蔑してきたとずっと思っていたからである。

 私は更に、6.の教示、つまり、

> 6.そして、最初の言葉やイメージに戻ってみて、今の自分がそれをどう感じているか感じなおしてみて下さい。新しい自分の「感じ」や「気持ち」があれば、それを表現してみて下さい。

に進むことになる。再びお釜を前にしたときの私のイメージと体感に戻ってみる。

 すると、これまた予想外なことに、私の身体にしみ通るように感じられてくるのは、先ほどまでの、あの、「恐い」「不気味」「厳しい」などという感覚とは打って変わって、ある柔らかくて、潤いと親しみに満ちた感覚だった。

  「その」感覚にぴったりの言葉を敢えて探し求めるならば、……そう、

「愛おしい」

というのがかなり近いという感じだろうか。愛する人やペットへの何とも切ない感覚に近い何か。

***

 恐らく、この私のフォーカシング体験の中で問題になるのは、ありふれた「父性復権」についての議論などではない。

 私が「絶対的父性」という言葉でとりあえずつなぎ止めている私の中の「体感」が含蓄するもののみが、私にとって重要なのである。 

 おそらく、

「どうしようもなく、そこにある」

という言い方の方こそが、肝心な本質に肉薄するものだろう。

 そこには、確かにあるひとつの布置(constellation)がある。つまり、私のおかれた状況が、非常に多重的な意味で、ある共通の構造を持って、その言葉と響きあっている。

 現在の私には、いくつもの意味で、以前よりも責任を負わされつつある。 様々な役職。結婚に際しての、実家との関係の変化。いずれ自分が父になるかもしれないこと。

 だが、何より、私自身が、私自身の「存在感(presence)」に、何か基本的なところで不満なのだ。

 あるいは、もっと、既成の経験ある先達に素直に心を開き、学びたい気持ちを押し殺して強がっていたのかもしれない。

 もちろん、こうした言い方は「ひとつの解釈」にすぎない。蔵王の光景とその時の理屈抜きの体感についてフォーカシングする中から私の中に生じてき た身体感覚そのものの変容は、このような特定の「意味づけ」だけに押し込めるわけには行かない、something more としてまるごと味わい続けるべきものなのだと思う。

 「そこ」から、無限に、果てしなく、意味が交差(crossing)し、あふれ出してくるのだ。その全てが、何らかの意味で、その時の私にとっては「的確な」象徴化のステップである。

 だが、その時その時の言葉の意味内容にしがみつくことはむしろ避けた方がいい。このことはジェンドリンも「夢とフォーカシング―からだによる夢解釈」などで繰り返し述べるとおりである。

Okama

 ご存じのように、蔵王は山岳信仰の地でもある。もとより、私の場合、ほとんど思いつきで、バスとリフトで背広姿のままでお気楽に昇ってきた人間の印象にすぎないわけだが、やはり、昔の人も、あの目の前の光景から何らかのその人なりの啓示を受けたのかも知れないとは思う。写真もない時代に、遠方からやって来て、苦労して自分の足で登った昔の人に与えたインパクトは遙かに大きなものだったのではなかろうか。

 ただ、私の場合、その時の光景から体感された「言葉にならないもの」を自分なりに消化することをはじめられるまでには、こうして3年間も反芻するしかなかったのである。

 ヒンターコフのワークを体験させていただいたことは、その停滞していたプロセスが再び化学反応をはじめる触媒として、私にとって、 確かに役に立っている。

***

 ヒンターコフは、ワークショップの後半で、もうひとつのワークを示した。彼女が持参した、世界各地の美術館の名画の絵はがきの中から、自分の中の何かを触発するものを選び、それを手元でじっくり観た上で、その中から生じてくる曖昧な実感そのものにフォーカシングするというものである(「ポストカード・セッション」と呼ばれる)。

 これは、心理療法の現場にも応用し易いだろう。既成の絵でもいいが、絵画療法や箱庭療法の中でクライエントが作った作品についてこの様なことをクライエント自身にやってもらうのも面白いかも知れない。

 あるいは、俳句や短歌の鑑賞にも応用できないだろうか。自分がなぜその句が気に入ったのかを、虚心に振り返り、ことばにしていくための。

 ちなみに、こちらのワークで私が選んだのは、北斎の富嶽三十六景の一枚と思われる武蔵野の光景だった。一面のススキの原の彼方に小さく富士が見える、青が基調のもの。

 絵そのものをみるとそんなでもなく見えるのだが、私の瞼の内側でのその光景は、強風で煽られてススキが激しくざわざわと音を立てている様になっていた。その激しさには、暗さというより、あるエネルギー感のようなものが伴っていたように思う。

 「何か」が、激しく、騒いでいる。

 残念ながら、このワークショップの中では、その意味まで開示できなかったが、その絵を見たときの感じは今も残っている。蔵王に代わる、私の新たな「宿題」かもしれない。

***

 最後に、この意義深いワークショップを開催して下さった、講師のヒンターコフ博士、そして主宰した「フォーカシング・ ネットワーク in 東京」の、近田輝行さん、日笠摩子さん、片山睦枝さんをはじめとするスタッフの方々に御礼申し上げたいと思います。ありがとうございました。

 そして、参加された皆様、楽しい一時を共にして下さってありがとうございました。この日は多忙のため、残念ながら懇親会までは参加できませんでしたが、皆様のご感想もうかがう機会を持てたらと思っております。

 

参考文献:

Hinterkopf,Ph.D.,
Integrating Spirituality in Counseling: A Manual for Using the Experiential Focusing Method,Amarican Counseling Association,1998.

邦訳
エルフィー・ヒンターコフ著
「いのちとこころのフォーカシング ~体験的フォーカシング~」
(日笠摩子・伊藤義美訳 金剛出版)

 なお、本文中で紹介したエルフィのワークのマニュアルの日本語訳については、当日配布された日英対訳のブックレットの、日笠摩子さんによる訳を参考にさせていただきました。

エルフィー・ヒンターコフ/いのちとこころのカウンセリング―体験的フォーカシング法

Integrating Spirituality in Counseling: A Manual for Using the Experiential Focusing Method

===========再掲終わり===========

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2009/10/04

世界のフォーカシング指向心理療法セラピストは、双極性障害にどのように対処しているか

 フォーカシングの国際組織、The Focusing Instituteには、"Focusing Discussion List"というメーリングリストがあるのですが、この数日間、そこで、フォーカシングの双極性障害の人たちに対する適用についてのいくつかのやり取りが続いています。

 大変興味深い内容ですが、そこでのやりとりをそのまま引用するのは問題があるかもしれませんので、私なりに要約してご紹介しようかと思います。

 そこで発言しているフォーカシング指向心理療法(FOT)セラピストたちの見解には共通項が非常に多いので、その要点を箇条書きにします。

  •  医療機関で気分スタビライザをはじめとする処方を受けている人に併用した場合に効果が上がること。
  •  しかし、医療機関での薬物治療だけで十分な成果を得られない人も多く、何らかのセラピー的援助を必要とすること。
  •  薬物療法を終わらせていく段階で、FOTが援助的であること。
  •  双極性障害の人においては、身体感覚や感情や情動を通常のフェルトセンスとして体験できていない場合が多いが、そうした人たちにおいても、フェルトセンス(あるいは、フェルトセンスに「触れられない」、フェルトセンスから「遊離している」というフェルトセンス)を、さまざまな状況やさまざまな次元において形成する潜在力はあること。
  •  FOTが役に立つためには、その人の中に、躁うつの往復の中で様々な生活上、対人関係上の問題が生じること、そしてそれまで受けてきた治療への傷つきと後悔に根ざした、セラピーへのモチベーションが形成されていること。
  •  まずはそうした傷つきや後悔についてじっくり傾聴する必要があること。
  •  一人の方が特に強調していたのは、双極性障害になった人の親も双極性障害であることが稀れではなく、幼少時から親の気分変化に伴う激しい振る舞いにさらされ、それがトラウマになる経歴を持つこと。そして、そうした「システムとしての家族」の持つ悪循環構造に対処するため、家族全体へのアプローチが必要なことが多いこと。
  •  その方がもうひとつ言及していたのは、フォーカシングを学ぶことで、「薬がうまく効いていないこと」への「早期警戒信号」を身体が感受するセンスが高まること

*****

 こうしたやりとりを読んでいて、不肖私も、蛮勇を奮って(?)、英語での書き込みにチャレンジしました。自動翻訳の助けも借りましたが、ご存知のように、それに頼るだけではまともな英文になりませんので、何とかかんとか、これなら意味が通じるだろうという水準まで修正を重ねました。部分的な文法のおかしさなどが残っているかもしれませんが。

 結果的には、私がこのブログで繰り返して書かせていただいてきた内容の要約に他なりませんので、敢えて原文のままで、恥をかくのは承知で転載します。

*****

Title:[focusing-discuss] Re: Focusing and bipolar disorder

I am very interested in the discussion about bipolar disorder.

I've interviewed a lot of clients who received medical treatment as mood disor
ders,especially,bipolar spectrum disorder,these several years.

Moreover,I've experienced the medical treatment as bipolar disorder("type 2",p
erhaps,it was caused by my having been prescribed not the mood stabilizer but
only SSRI).and have recovered this disorder by mood stabilizer.

My obtained standpoint is as follows:

The first. The patient overworks for a long term before it gets depressed seri
ously.They become difficult that their mind and body's consumption is noticed
for the period. Seemingly, they experience like being able to work without con
suming it than before,like a kind of "superman". They cannot experience tiredn
ess as "tiredness" for the period though begin to consume in reality.

However, this is a kind of "mild manic" stage.

At this stage, a kind of isolation is caused between their superficial emotion
and bodiy deeply felt sense.

After all, this state of chronic "marathon runner's high" (does this t
erm pass also in the sphere in English? or Japanized English?)may not be conti
nued.

If they feel "retroactively",they didn't act only pleasantly but with "unnatur
ally light feeling" or "a sense of urgency"etc.

The second.According to my viewpoint,Orthodox Focusing training cannot necessa
rily effects in the client who experiences in the "whirlpool" of in such a (mi
ld)manic stage.

However, a kind of FOT approach is effective in the client who have the motiva
tion of make it out of the vicious circle,i.e.the round trip of such in a mani
c stage and a depressive stage repeatedly, who have experienced the regret and
be damaged in the circle.

The person may continuously acknowledges and monitors the pattern of his/her c
ognition and emotion and action and situation,before and after he/she experien
ces his/her "personal" felt sense,as a kind of message to request healthy bala
nce from his/her organism,in daily life,as if inner "ocean weather-ship observ
ation"

I help so that he/she may make a habit of it in daily life.

I am groping the refinement of it as a kind of Focusing-oriented cognitive-beh
avioral therapeutic approach, right now.

Thanks.


Koichiro Asega,M.A.
Certified Psychotherapist in Japan.
Certified Focusing Trainer and Focusing-Oriented Psychotherapist.

Kurume Focusing-Counseling Office
Kurume-shi,Fukuoka-ken,JAPAN
Email:kurumefocusing@live.jp

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2009/09/12

それにもかかわらず、セッションを前に進めている主役はクライエントさんである -Mick Cooper博士による、心理療法における多面的(pluralistic)アプローチ-  (4 完結)

 日本人間性心理学会第28回大会における、ミック・クーパー(Mick Cooper)博士による特別講演、「多面的心理療法における理論・研究・実践」を拝聴した報告記の、前回に続く第4回、今度こそ完結です(^^)

*****

 前回の終わりの方で述べた、「メタ・コミュニケーション」次元でのやり取りとして、クーパー氏は次のような例を持ち出した。

 子供時代に親からひどい虐待を受け、現在も社会不安障害的な症状に苦しんでいるクライエントさんがいたとする。

 この種の人物へのセラピーの場合、虐待を受けたときの記憶を繰り広げて探索して話していってもらう(exploring)ことが求められることが少なくない。この人もまた、それまで受けたセラピーではそうしたことを散々やってきた。

 果たして、このクライエントさんに、今回もまた、そのような自己開被的なやり方を取ってもらう必要があるのだろうか?・・・・

クライエントさんは語った:

 「私はもうフラッシュバック(災害時や虐待などのトラウマ的な経験の記憶が、突如、圧倒的なリアリティでその人の中に蘇ることを不意打ち的に繰り返す体験)に悩まされてはいないんですよ」

セラピストは問いかける:

 「虐待について整理するために、そのことに戻ってみる必要を感じておられますか?」

クライエントさんは応えます:

 「そこまで行きますかねえ? それって、やらなきゃならないことなんでしょうかねえ?」

セラピストは続けます:

 「あなたからの[対人恐怖を改善するにはどうすればいいかという]問いかけが、その[過去の虐待]問題と、どのくらい関連していると、あなた自身が、感じているのかどうかに関心を持っていたんです。私たち二人とも、その2つのことが関連しているかどうかなんて、実は何もわかってはいないんじゃないかと」

クライエントさんはしみじみ応えます:

 「・・・・・・ほんとうはわかっていないんですよね、それって・・・・・理性的に考え直してみると、私の今の[対人恐怖問題と、つながっていないのかも」

 クーパー氏はこの展開について次のように解説する:

  • (クライエントさんの不安の種になっている問題の原因や対処について)、他の可能性も点検してみること。
      ・・・・・・[家庭での親との関係だけではなくて]学校で恥をかかされた経験と関連している可能性は?
      ・・・・・・[親に限らず]、誰かががっかりしたり、「審判」を下して来る(judge)ことへの恐れと関係しているのかもしれない。

などなど。

 こうした流れの中で、このクライエントさんは、

 「・・・・・私は不安でした。ですからいつも、人前で話すことをせずに済むようにして来たように思います。
 だからもし・・・・・もし、何回かでも、そういう時に話をすることができていれば、そんなに大したことではないと思えるようになっていたかもしれませんね」 


 しかし、セラピストは、この方向にだけ安易に話が流れないように、更に次のようなことを述べていきます。

 「私たちは、あなたのそうした、人前で話すことのたいへんさについて、こうして話し合って来ているわけですけれども、でも、もっといろんな[とらえ方や解決法の]可能性があるのだと思いますよ。

  •  ・・・・・ひとつ言えることは、あなたのこれまでの人生の中で起こったことのおかげで、それがすごく厄介なことになってしまっていて、それがあなたをひどく押さえ込んでくるし、ほんとうに不安にさせるんだろうということです。
  •  ・・・・・もうひとつは、あなたがこれまでにやってきたことの中で、あなたが全然不得手で、ひょっとしたら諦めてしまった方がよかったようなことすら、たくさんあったのかもしれない。
  •  ・・・・・もうひとつあり得ると思いますよ。・・・・・さっきあなたがお話になったこととも関連して来るんですけど、あなたの中で[現在]悪循環のサイクルにはまってしまっている気もする。つまり、必ずしも過去の酷い体験が原因になっているとは限らない場合もあります。
     あなたは、[そうした過去の痛手によって]人前で話をせずに済むようにしてしまったばかりではなくて、そうやって実際に人前で話をしないことによって、ますます人前で話すのが怖くなってしたのかもしれない。ほんの少しでも、人前で話をすることを始めてみたら、まさにあなたが言われたように、『実はそんなに大したことではなくて、結構何とかなる』と感じられたのかもしれませんね」

 このように言葉の上でだけ読んでいくと、まるでセラピスト側が一気に畳み込んで誘導しているようにすら見えるかもしれない。

 しかし、私が思うに、セラピストは、かなり長い沈黙を挟みながら、クライエントさんの様子や非言語的な反応を絶えず確認しつつ、ひとつずつ、控えめに差し出すような言い方で、言葉を紡ぎ出して行ったのではないかと想像できる。

 (この「多面的アプローチ」との共通項が多い、フォーカシング指向心理療法において、「新たな提案は、押し付けにならないように、クライエントさんが簡単に振り払えるような形で、控えめに差し出されねばならない」ことを、ジェンドリンが繰り返して強調していることからの憶測である)

 クライエントさんは応える:

 「まさにそう思っていたんですよ。これって、私の中でいつの間にか習慣化していた行動パターンなんじゃないかって」

*****

 この事例(パワーポイントファイルでは、pp.47-9の”Session3”)を読んでいると、この内容が、ほとんど認知行動療法だ、いや、論理療法っぽくもあるな、ABA(応用行動分析)の影響もありそうだ、PCA(パーソン・センタード)でなりながら、ここまで指示的(directive)なやり方ってあり?とお感じの、専門家の読者の皆様もありそうである。

 私の理解する限り、忘れてはならないのは、次の2点である:

  1.  クーパー氏の「多面的アプローチ」は、個々のセッションの小さな局面局面(micro-steps)においては、クライエントさんに提供可能な技法は何でも柔軟に活用するものであるということ。
  2.  しかし、このセッションの展開は、実はクライエントさんの実際の発言にあくまでも付き従っていく形でのみ進行し、クライエントさんの自己決定権を尊重していること。

     つまり、

    •  「私はもうフラッシュバックに悩まされてはいないんですよ」
    • →「それ[子供時代のトラウマ体験について振り返ること]って、やらなきゃならないことなんでしょうかねえ?」
    • →「理性的に考え直してみると、私の今の[対人恐怖]問題と、つながっていないのかも」
    • →「私は不安でした。ですからいつも、人前で話すことをせずに済むようにして来たように思います。
       だからもし・・・・・もし、何回かでも、そういう時に話をすることができていれば、そんなに大したことではないと思えるようになっていたかもしれませんね」

     ・・・・・これらの発言の展開そのものは、クライエントさん自身が語り出した流れである。
     セラピストは、それに付き従って行き、その都度、メタ・コミュニケーション次元で展開を整理しなおし、

     「このあと、このような別メニューも可能ですが、いががなさいますか?」

    ・・・というような調子で、

    クライエントさんがひとつの方向に誘導されてしまい過ぎ、自分のことを「早急に」決め付けてしまい過ぎないように、その後の進行について「吟味しなおし」、「自己決定」する機会を与えるように、用心深くサポートすらしている
    のである。

     (フォーカシング指向心理療法的に言えば、セラピストが、「セッションをどう進めるのか」そのものについて、繰り返して、クライエントさんのフェルトセンス(実感そのもの)に照合してもらう機会を提供するのと、何かしら類似している)

 この観点からすると、この事例は、セラピストとクライエントさんのメタ・コミュニケーションの次元では、見事なまでに「クライエント中心(PCA)的」であるということになるだろう。

 もっとも、例えば非常に熟達した認知行動療法のセラピストに、こうしたクライエントさん尊重のセンスが透徹しているであろうことを私は信頼したい。

 また、例えば、日本における「暴露反応妨害法」の最高の権威のひとりである山上敏子先生の行動療法における行動計画の立て方が、まさにこれに匹敵する高度な「メタ・コミュニケーション」スキルを駆使したものであることを、私は先生のワークショップに参加して、事例を拝聴する中で、しみじみと味わっている。

*****

 クーパー氏は、この"Session 3"の事例とは別に、他のクライエントさんとの"Session 4"の事例も呈示した。

 その事例も、やはり子供時代に深刻な家族からの被虐待経験を持ち、現在陥っている悪循環の行動パターンについても検証し、ご本人もその日の面接の時点ではそのことに満足していた。

 しかしその次の回の面接で、その人は切り出したという:

 「先週のセッションで、私の[悪循環の]行動パターンのことについてお話しましたけど、私はその悪循環の中で、ほんとうに、今、身動きできなくなっている自分にも気づかされたんです。
 [ここからは、パワーポイントにはない、クーパー氏口頭での補足]・・・・ですから、やはり私は、このセラピーの場で、お父さんとの間にあったことについて、じっくり取り扱っていく必要があるように思えてきたんです」

 クーパー氏は、このようにして、前者の事例とは一見正反対の展開になっても、それはそれで全く自然な成り行きであると述べ、

 「この2つのケースのどちらが的確な展開だとか、重いクライエントかなどということは軽率に言えるはずもない。
 大事なのは、こうした展開を経て、クライエントさん自身が、今の自分がセラピーの中で何を必要としているのかを明確にしていくことができるということ」

 と強調した。

*****

 パワーポイントの印刷用図版には、なぜか省略されていることが残念なのだが、クーパー氏は、「多面的(pluralistic)アプローチ」と比較するための典型として、

  • 「古典的(classical)な」クライエント中心療法(明らかに、教条主義的(dogmastic)でかたくな(rigid)な・・・・というニュアンスを込めていると私は思う)
  • 「マニュアルチックな」認知行動療法(こっちの方は逆に、「高次元の」認知行動療法ならば、柔軟で、クライエントさんの主体性を損なわない筈という含みを感じる)

を持ち出し、

X軸=非支持的(non-directive)←→支持的(directive)
Y軸=メタコミュニケーション水準において、多面的(pluralistic)←→決まり切っている(monistic)

というグラフ上にマッピングした。

 すると、「多面的(pluralistic)アプローチ」X軸の非支持的(non-directive)←→支持的(directive)の両側の領域に広がりつつ、なおかつY軸側では、多面的(pluralistic)領域に幅広く分布する長円形の分散(?)を成す。

 ところが、「古典的(classical)な」クライエント中心療法「マニュアルチックな」認知行動療法はというと、X軸側では正反対の陣営なのに、Y軸側・・・つまり、メタコミュニケーションの次元で見ると、「決まり切っている(monistic)」という点では同じ穴のむじなである・・・・・という、イギリス的ウィット効かせまくりの表現をなさっていた(^^;)

****

 この後、「多元的アプローチ」の観点からのリサーチのあり方についてのいくつかの提案がクーパー氏からなされたが、このブログではその部分の報告は割愛したい。

 その後、フロアとのディスカッションを経て、2時間の、大変に密度の濃い特別講演は終了した。

****

 学会大会翌日の懇親会に現れたクーパー氏に、私は例のごとく(^^;)、大学院出とはとても思えない英会話力で話しかけ、前半半分はかろうじて自力で、後半部分は、そばにおられた、九州産業大学の平井達也先生に手伝っていただいて、多少なりとも講演の感想を具体的にお伝えする機会を持てた。 

****

 ブログの記事としては、たいへん堅苦しい内容だったかもしれませんが、流派問わず、幅広い層のカウンセラーの皆様、臨床心理学研究者の皆様ににお伝えしたく、筆を取った次第です。

 (この連載 終わり)

※この連載(第1回)はこちらから始まっています。

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2009/09/09

メタ次元で「クライエント中心的」でありつつ、各流派の心理療法を、セラピーのひとつひとつの局面ごとに、柔軟に有効活用すること -Mick Cooper博士による、心理療法における多面的(pluralistic)アプローチ-  (2) [第3版]

 日本人間性心理学会第28会大会の特別招聘講師、ミック・クーパー(Mick Cooper)博士による特別講演、「多面的心理療法における理論・研究・実践」を拝聴した報告記の、前回に続く第2回である。

*****

 今回は、博士が実際に「多面的心理療法」を臨床現場で具体的にどのような形で実施するのかの方法論について述べたい。

 すなわち、治療者とクライエントの関係性というメタ次元で、クライエントさんの主体性と自己決定権を尊重する「クライエント中心(PCA)的」でありつつ、心理療法の諸技法を柔軟に使い分け、有効活用するための方法論である。

 クーパー氏は、基本的な仮説として、次のようなものを提起する:

「心理的な困難には、多数の原因があるだろう。

 ・・・・すべての用件にあてはまるような『正しい』セラピー方法は、ひとつではなさそうである。

 ・・・・異なる時、異なるプロセスが、異なる人の役に立つ」

(Cooper & McLeod,2007)

 そのためには、ある特定のクライエントさんとの間で進行しつつあるセラピーのプロセスを、個々の局面としてとらえて概念化する枠組みが必要だという。

 クーパー氏のいう「多面的アプローチ」は、あるクライエントさんにはクライエント中心療法が向いている、別のあるクライエントさんには認知行動療法が向いている、などと、単に、クライエントさんによって、セラピー手法を「使い分ける」というような「大まかな割り振り方」の域を完全に超えている、遥かに緻密なものなのである。

 詳しくは、大会準備委員会サイトにまもなくアップされるであろうパワーポイントファイル日本語版(講演時に配布されたものに更に大幅な修正がなされるとのことである)の図表31ページ以下の流れを追っていただくのが望ましいが、簡単にいうと、次のような項目を列挙して、矢印で相互関係を図示してある。

  • 目標(Goal)・・・・クライエントさんは、具体的に何がどうなることを求めているのか(セラピスト側が勝手に設定するのではない点が大事である)。
     例えば、「自尊感情を高めたい(自分にもっと自信をつけたい)」「お母さんとの関係をもっとうまくやって行きたい」「嗜癖的な習慣を止めたい」などといったことが、面接の中で、クライエントさんが求めていることとして、具体的に浮かび上がってくる可能性があるかもしれない。
     これらの「目標」は、互いに関連しあっているかもしれないし、別々の次元でとらえる方がいい場合もあることになる。
  • 課題(Task)・・・・クライエントさんのために、何ができるかについての、「一般的な方向性」のことを指す。
     例えば、「自己理解を深める」「具体的な場面での問題解決スキルを高める」など。
  • 【方法(Method)・・・・これは更に、「クライエントさんの(面接場面での具体的な)活動」と、「セラピストの(面接場面での具体的な)活動」に別れる。
     ここで大事なのは、面接場面でセラピスト側が何をするかが最終的に重要なのではなく、クライエントさんが何を選択をするかを尊重する「共同作業」としてなされていくことである。

 クーパー博士が具体例として掲げたのは、同一のクライエントさんの中に次のような系列が同時に構成要素としてあるケースである(p.33以下)

  • 【目標1】自尊感情を高める
    • ←【課題1】もっと自己受容できるようになる
    ←【クライエント側の行なう方法1】否定的な思い込みを覆すこと
     ←【セラピスト側が行なう方法1】
      否定的な思い込みに立ち向かう[ように促す]
      (恐らく、論理療法や認知行動療法、行動療法に近いアプローチであろう)

    ←【クライエント側の行なう方法2】自分についてオープンに語る
     ←【セラピスト側が行なう方法2-1】受容する
     ←【セラピスト側が行なう方法2-2】傾聴する(上記2つはクライエント中心療法的であろう)
     ←【セラピスト側が行なう方法2-3】質問する(「具体的な話題を引き出す」という意味ではなかろうか?)

    • ←【課題2】自分の中の肯定的な特質をリストアップする

  • 【目標2】お母さんともっとうまくやっていく

(以下略)


 ブログの表示能力の限界があるのでわかりにくいかもしれませんが、これは【目標】を頂点とするツリー構造のようにして、末広がりに枝分かれさせる形で、←【課題】←【クライエントの方法】←【セラピストの方法】を構造的に概念化する試みである。

 これらの構造は、セラピスト側が一方的に整理し、デザインし、具体的な方法を押し付ける形になってはならず、セラピー過程の実際の個々の具体的局面の中で、クライエントさんとセラピストの間の「共同作業」として形成され、試みられ、修正されていくことが重視されている。

 セラピー空間における変化の過程で、クライエントさんが「アクティブな行為者」として機能できるように援助するのがセラピストの務めということになる。

 そのためには、セラピスト側が、「どうすれば自分がクライエントさんのお役に立てそうか?」ということについて、クライエントさんにオープンに問いかけ続ける姿勢が必要となる。

 例えば、鬱状態のクライエントさんに対して、「多面的アプローチ」のセラピストだと次のように問いかけるかもしれない。

T:「鬱を改善する上で、あなたにとって、これまでどんなことをするのが役に立ちましたか?

C:「運動することです」

T:「ではどうやったら、運動する機会を増やせるのでしょうね?

 このようなやり取りを進める中で、クライエント自身も、それどころかセラピストの側ですら(!)思いつきもしなかった、予想外の、「コロンブスの卵」的な改善のための方法が見つけられるかもしれない。

 たとえば、そうしたやり取りを進める中で、その鬱のクライエントさんが、いつの間にか、「自分の現状について、誰かに、もっとオープンに話してみてもいいのではないか?」ということに気がついていく・・・・などという展開も、大いにありである。

****

 もっとも、こうした際に、クライエントさんの希望を訊く中で、そのセラピストにとって、できることとできないことがあることをも率直に伝えることが必要であることも、クーパー氏は強調している。

 例えば「自分が何をどうすればいいか」を逐一導いて欲しい、などとクライエントさんに言われたら、(中井久夫先生流に言えば)「治療者は、クライエントさんに自分を高く買わせてはならず」、それは自分には無理だということもフランクに伝えることが大事だということのようである。

 この点に関連して、フロアから池見陽先生が質問に立ち、

「そのクライエントさんに適切なアプローチが治療者としての自分の技法の引き出しをはみ出してあり、より適格者がいると感じた場合、他のその技法専門のセラピストに紹介する場合もあることも、クーパーさんの射程に入っていると理解していいのか?」

とお尋ねになった。

 クーパーさんの応えは”Yes, of course!"(「もちろんそうです」)であり、クライエントさんがある特定の課題実現について援助してもらうために、他の流派の専門家に手助けしてもらうことも十分に選択枝の中に組み入れるべきであると明言された。

 (池見先生が危惧されたのは、恐らく、聴衆であるカウンセラーたちが、いろいろの技法を学ぶのはいいけれども、「自分だけで何でも抱え込んで」セラピーを進める必要があるかのように理解しまいか? という思いではなかったろうかと、私は想像する)

*****

  次に、クーパー博士は、「多面主義アプローチ」をとるセラピストが、他のセラピストに対して取るべき立場について、次の3点を述べた。

  •  PCAの流れそのものが現在多様性を帯び、さまざまに分化した技法やアプローチが試みられているが、その時の個々のクライエントさんにふさわしい形でカスタマイズ(特化)された、[私なりに言い換えると、「テイラー・メイド」で「一品料理」化した]ひとつひとつのセラピー実践は、あくまでも尊重して、異論を挟むことはしない。
  •  しかし、「教条的で独善的(dogmastic)なパーソンセンタード性」には立ち向かっていく。
  •  PCAのセラピストが、他の流派のセラピーの諸原則や諸技法に対して、一定の的確な評価を持てるように促す役割とる。
     流派を問わず、セラピー領域が、ひとつの包括性を持つ文化であり、諸流派のセラピスト同士がお互いに適切に認めあって行けるような動きを擁護する。
     むしろ、積極的に、各流派の無用な対立(認知行動療法[CBT]のみが「国定」心理療法になってしまったイギリスでは特に顕著らしい・・・・英文だが、この記事などをお読みになると想像がつくだろう)に対する積極的な調停者の役割を果たす。

*****

 残りは、第3回にまわします。

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