学会参加報告

2010/01/19

伝説の学会発表、「浜崎あゆみとスピリチュアリティ」完全公開!!(Ver.1.48)

 YouTubeで、浜崎あゆみさんのプローモーションビデオ全作品公式に公開されました(何と、貼付けも自由です!! avexの太っ腹さに感銘をうけました)。

 これを期に、日本人間性心理学会第23会大会(於:文教大学)の自主企画として私が催した、「浜崎あゆみとスピリチュアリティ」のパワーポイントファイル全体をウェブ上で公開することにしました(YouTubeの該当曲やその他の映像への個々のリンク付きにバージョンアップ!!)。

●浜崎あゆみとスピリチュアリティ  -プロモーションビデオにみるその精神の軌跡-(阿世賀浩一郎のホームページ)

学会大会論文集に掲載した文章こちらでそのまま閲覧できます。

*****

 なお、私が確かめたところ、どのブラウザでも「一応の閲覧」はできますが、ブラウザ上でスライドショーまでできる、完璧な再現(ワン・クリックごとの文字の出方まで忠実に再現できる)のは、Internet Explorer8、およびそれをレンタリングエンジンとする(=Trident系)、Lunascape、Grani(動作が軽快なので超お勧め)などに限定されます。

 もっとも、困ったことに、Windows版FirefoxのオリジナルのGeckoエンジンとは、文字表示上、かなり相性が悪いようです。文字が折り重なる現象が見られます(^^;)

 しかし、IE Tabというアドオンの追加をして、ブラウザの左下隅に表示されるFirefoxのシンボルマークをクリックして"e"マークに変更すると、その後は何の操作をしなくても、IEと全く同じ使い心地になります(^^)

 以前も書きましたが、このアドオンを追加インストールすれば、Firefoxを使ってのMicrosft updateにも対応出来てしまうのですね。

 それ以外のブラウザは、画面はほぼ適正に表示されますが、いずれの場合も、左側のフレームから1ページずつめくっていただくことで対応できます。 

 このやり方で、Google ChromeやWindows版Safari,Operaの場合は画面自体は、「小さく」て「静的に」ですが、綺麗に表示されますよ(^^)

*****

◆Ver.1.01→Ver.1.05の修正点(10/01/17 15:04)

  • IE系ブラウザのスライドショーでクリックだけで次のページに移行しない箇所の問題をとりあえず解決しました(ただし、各ページの「リンク先のページ」を一度クリックしてしまうとスライドショーには回帰できません。これは仕様上やむを得ないことのようです)。

◆Ver.1.05→Ver.1.06の修正点(10/01/17 18:00現在)

  • 途中に他の場所のファイルが2枚紛れ込んでいたので削除しました。もし文章の全くないページが出たら、もう一回クリックしたら表示されるのが私のプレゼンの意識的仕様です。

◆Ver.1.06→Ver.1.17の修正点(10/01/17 19:59現在)

  • すべての動画をYoutubeの埋込み動画表示として表示することに対応しました!! それに伴い、Windows Media Playerの呼び込みによる,wmvファイルの再生そのものを廃止しました。

◆Ver.1.17→Ver.1.48の修正点(10/01/18 14:17現在)

  • YouTube動画を一件追加 しました。
  • YouTube埋め込み動画とリンクテキストが折り重なって表示されないように調整しました。
  • 全ページにプレゼンの際のメモを記入しました。
  • アルファベットの全角文字を半角に修正しました(まだ見落としがあるかもしれません)。

◆現バージョン(1.48)でも残る問題点(10/01/18 14;17現在)

  • なぜが今回の段階で、YouTube動画への「テキストリンク」の一部が表示上文字化けに転じました。もっとも、リンクそのものは適切に機能します。

 おそらくMacユーザーの皆様の場合だと(これもまたブラウザ間格差が予想できます)、OSの使用フォントそのものの違いの関係で、文字表示がはみ出したり隠れたり、重なるなどの見づらさがあるかもしれないことを、どうかお許しください。スライドショーは機能しないと思います。

*****

●浜崎あゆみ / Dearest ~Acoustic Piano Version(YouTube)

blogram投票ボタン
ブログランキング・にほんブログ村へ
人気ブログランキングへ
携帯アクセス解析
ビジネスブログランキング
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 心理カウンセリングへ
にほんブログ村 ニュースブログ ニュース批評へ
にほんブログ村 音楽ブログへにほんブログ村

2009/12/27

フォーカシングとスピリチュアリティ -12年前のワークショップでの体験-

 前々から考えていたのですが、かつて日本フォーカシング協会ウェブサイトに掲載させていただいていた拙文を、これを機会に、再度そのまま全文ご紹介しようかと思います。

 実質、もうすぐ12周年にもなるのですね。

 しかし、この時得られた気づきが、その後の私を、ひとつの宿命のように支配し続けてきたのではないか・・・という深い感慨を抱きつつ、私はこの数年を生きてきました。

===========以下再掲===========

エルフィ・ヒンターコプフ 東京ワークショップ体験記

フォーカシング・ネットワーク in 東京 第4回ミーティング
1998年1月25日 於:立教大学

阿世賀 浩一郎  

 アメリカからフォーカシングの有力なトレーナー、エルフィ・ヒンターコフ(ヒンターコプフ)が来日して東京でもワークショップを開いた。そのワークシップが非常に面白かったので、そのことを書こうと思う。

 このヒンターコフという人は、アメリカ生まれだが、ヴイーン大学で、先年(1997)亡くなった、ナチの収容所体験とその極限状況下において生の意味を見いだせる人たちについて考察した『夜と霧』(みすず書房)で有名な、実存分析の大家、フランクルのもとで学んだ後、文化人類学に専攻を変え、ネイティヴ・アメ リカンについてのフィールドワークに打ち込み、更にシカゴ大学のフォーカシングの祖、ジェンドリンのもとでフォーカシングを学び、今や心理療法家、フォーカシングの代表的トレーナーとして活躍中の方である。

 ヒンターコフ自身の著書、"Integrating Spirituality in Counseling: A Manual for Using the Experiential Focusing Method"(邦訳「いのちとこころのカウンセリング―体験的フォーカシング法」 日笠摩子・伊藤義美訳 金剛出版)によれば、厳格なファンダメンタリズム(聖書を字義通りに理解し、進化論も否定する)の家庭で育ったが、13歳の時、やりたかったダンスを取るか宗教を取るかを決断せざるを得なくなり、彼女はダンスを選んだ。何事も「すべき」か「すべきでない」かでとらえようとするキリスト教の風土は彼女にとって無意味に思われた。それ以来彼女は宗教を拒絶したが、日常の中で、ある「無意味感」を抱え続け、彼女が「意味の探求」と呼ぶものをはじめたという。

 前述のフランクルは、生の意味は自分の内側からくみ取るしかないと諭したが、それがどういう意味なのか、この時点での彼女には実感としてはわからなかったという。「わたしは、内側から意味を見出すには何をすればいいのかわかっていなかった」。平和部隊に参加して訪れたインドではヨガの導師に教えを請い、瞑想を学んだが、瞑想をしている最中は安らぎが得られるものの、日常に帰ると、また再び、以前からの葛藤に翻弄されてしまったという。
 
 ジェンドリンとフォーカシングに出会って後、フォーカシング体験を積む中で、はじめて彼女は、以前フランクルが諭した「自分の内側から生の意味をくみ取る」ということ、すなわち、「内側からの、静かな、かそけき声」を聴くということ体験的に理解できるようになった。そして、更に、フォーカシングを深く進める中で、「神、人間、森羅万象と自分が共にある」という体験に至り、仕事や他者との関わりや余暇の過ごし方において、自分の実感を大切にしながら生活することができるようになったとのことである。

***

 さて、今回のヒンターコフの来日セミナーのテーマは「スピリチュアリテイとフォーカシング」というものだった。このテーマは、ひとつには、今述べてきたような、彼女の精神的遍歴と強く結びついたものなのであるが、それにとどまらず、およそ欧米で心理療法やカウンセリングに関わる限り、避けて通れない重大な問題と結びついている。

 ご存じの方も少なくないかも知れないが、欧米では、クライエントに、セックスに関する質問を面接の中でしても、日本でに較べれば遙かにフランクに話してくれることが少なくない。だが、相手の信じる宗教は何かについて訊ねることは、日本人からは想像がつかないくらいにタブー視されがちとのことである。

 ところが、それにも関わらず、広い意味での宗教的なことに関わるテーマが、多くの面接の中で不可避に登場する。違う宗派の人間同士の結婚にとどまらず、同じ家族の中で、それぞれ信じる宗教が異なり、3つも4つもの宗派に分かれてしまうことも稀ではない。

 しかも、そのような家族や周囲との宗教の違いが互いの葛藤に影を落とすことがあるばかりではない。クライエント個人が語る悩みのあり方そのものに、日本人ではあまりみられないものが頻繁に登場する。例えば、

「重要なのは、イエス・キリストと私がどんな関係にあるかということなんです」
「私は神に対して否定的な感情しか持てないでいます」
「私はこれまでの生涯でずっと信心深い人間だったつもりですが、実は一度も神を体験したことがないんです」
「私が前世で体験したことが今の私を支配しているんです」

などということが、カウンセラー相手の悩み相談のテーマとしても、かなり頻繁に登場するらしいのである。

 それに輪をかけて事態を厄介にするのは、カウンセラー個人が抱いている宗教的な信念と全く受け入れがたいクライエントの発言をいかに受け止めるかという葛藤も生じることだ。だが、このようなクライエントの発言を避けて通ることは、クライエントとの関係を基本的なところで傷つけるものになりかねない。

 人間の移動が激しくなり、家族関係の枠がゆるみ、神秘思想や従来の欧米以外に由来する宗教に関心を持つ人も増え、違う価値観の人が密接に交渉を持たざるを得ない状況が進む中で、もはや欧米でも、宗教的な問題を心理療法の現場で扱いづらいものとしてタブー視するだけでは済まされない状況がいよいよ進展し、臨床心理関係の学会でも重要なテーマとして取りあげられることが少なくないとのことである。

 最近はやりの言葉で言えば、心理療法の現場も、マルチカ ルチュラリズム(多文化主義)的な発想を必要とするようになって来ているのが時代の要請なのである。

***

 こうした中で、ヒンターコフは、まず、"religiousness(宗教性)""spirituality"(霊性。以下の文中では特に断りがない限りカタカナで「スピリチュアリティ」と表記する)を区別することを提案する。

 "religiousness"とは、「ある特定の、組織的な宗教団体や教会などの信念と実践を守ること」である。それに対して、"spirituality"とは、「超越的(transcendent 常識的・合理的な判断を越えた)」次元での、独特の、個人的に意味深い体験」全般のことを指す。

 このようにとらえると、個々の具体的な神秘思想や宗派を信じると言うより、遙かに広範な経験が「スピリチュアリテイ」の名のもとに包括されることになる。例えば、自然や芸術作品を味わう中で生じた深い感動なども含まれてくる。

 だが、これは後者が前者よりも幅広い、包括的な概念であり、"religiousness"が"spirituality"の部分集合として含まれてしまうことを意味するわけではない。つまり、"religiousness"であっても"spirituality"ではないという次元も存在する。 これは、すでに掲げた、

「私はこれまでの生涯でずっと信心深い人間だったつもりですが、実は一度も神を体験したことがないんです」

という例にも示されているように、形の上では熱心に宗教儀礼をしているつもりでも、「常識的・合理的な判断を越えた次元での、独特の、個人的に意味深い体験」の方はその人に得られていない場合などに典型的にあらわれている。

 では、ヒンターコフは、「スピリチュアルな」体験をどのように定義するのか。

  1. 漠然とした意味を含んだ、(何か意味ありげだが、何なのか当人はすぐにはうまく言葉が思い浮かばない)微妙な、身体で感じられる感じがあり、
  2. その感じの中から、新たな、はっきりとした意味が啓示される体験があり、
  3. 超越的(transcendent)な次元での成長過程を伴う

この3つの条件を満たす必要があるとのことである。

 実は、この中の1.と2.は、フォーカシングで言う、

  1. 身体で漠然と感じられたフェルトセンス(felt sense)に注意が向き、
  2. その感じの中から、身体の感じの変化と共に新たな気づきをもたらすfelt shiftが生じる

ということに他ならず、通常のフォーカシング体験や、生産的なカウンセリング場面、あるいは創造的な表現や発見の現場ではごく普通に生じている現象である。

 だが、このような「身体で感じられた曖昧なモヤモヤした何かの中から、身体の感じの解放と共にその個人固有の意味が啓示される」という実感ある体 験が、いくら信心しても得られていない人は少なくないらしい。仏教的に言えば「悟り」の経験が得られたという実感がないということにあたるかも知れない。

 しかも、それが通常のフォーカシング的体験ではなくて「スピリチュアルな」体験と言えるためには、

  3..超越的(transcendent)な次元での成長過程を伴う

が加わることとなる。

 ヒンターコフはこの「超越的」体験のことを、

「今までの自分の準拠枠(frame of reference)を越えて新しい次元に進んでいくこと」

「深いところから命を前に進めるエネルギー(life forward energy)があふれ出し、自分の中の何かが動き出すこと」

などとも説明している。いわば「世界」の体験の仕方そのものが全体としていきいきと変容していくような経験であるとも言えるかも知れない。

***

 ヒンターコフは、このようにスピリチュアルな体験をフォーカシング的に定義する上で、体験の「内容(content)」ではなくて体験の「過程(process)」という観点を重視した。

 つまり、「スピリチュアルな」体験の中で、具体的に「何を」体験し、それをどのように意味づけるかは人それぞれである。ある人はそれを「悟り」と 呼び、ある人は「神の臨在を体験した」と呼ぶだろう。ある人は「前世の自分の記憶を思い出した」といい、ある人は「宇宙と自分との合一を体験した」といい、あるひとは「イエスが神でありなおかつ人であり、いつも自分と共にあることが実感できた」というかもしれないし、ある人は「全てが<無>であることがはじめてほんとうにわかった」というかも知れない。

 それらを聞いていて、「内容」や「具体的な意味づけ」に感情移入できないどころか、抵抗や嫌悪すら感じる場合もあるだろう。

 しかし、「それは『あなたにとって』どういう意味があるのですか」などと、更に具体的に、そこに到る個人的な心情のひだの動きを更に傾聴していけ ば、かなりの程度まで、その人個人の中でどういう「感じ」が生じ、それがどのように変容していったのかが実感を持って共有できる可能性が開けてくるのである。つまり、はっきりしない漠然とした感じの中から生起した何かが、身体感覚のシフトを伴う気づきを生み出したプロセスそのものにシンクロし、共有することはかなりの程度可能になる場合がある。

 ヒンターコフは、このようなスピリチュアルな体験の「プロセス」の次元でならば、特定の宗教や神秘思想の用語への違和感などに振り回されずに共有可能と考えたのである。この人は「こんな」感じの中から「こんな」感じが生起してきた体験を、例えば「神の実在を体験した」と名付けているのだ、その名付け方には自分はなじめないが、その人にとっては、「その」体験をつなぎ止めるためのhandleとして、それを「神の実在体験」と呼ぶのがどうもぴったりらしいことは受容しよう……という形で接点を作るわけである。

 その体験をどのような「名前」で呼ぶかは、その個人固有の領域なのである。

 大事なのは、そこに身体感覚の変化と、その人にとって漠然と意味ありげに感じられていたものの中から何かがはっきりとした意味として実感できるようになる過程そのものを、相互作用の中で共有できることそのものなのだ。

***

 

「果たして、スピリチュアリティというテーマで人が集まるかのか?」

 このような疑問を抱いていた人は少なからずいたようである。私もその一人である。多くの日本人の宗教との関わりが形骸化している中で、果たしてピンと来てもらえる人がどのくらいいるのか?

 今回の東京セミナーは、幸いにして定員いっぱいの50名近い参加者に恵まれた。インターネットでのこのホームページ経由の宣伝によって関心を持って参加して下さった方も数名おられた。

 当初、やはり「スピリチュアリテイ」の定義について若干の質疑応答があった。 ヒンターコフ自身、欧米では「スピリチュアリティ」とさえ言えば多 くの場合自然と共通理解が得られる問題に、日本人が必ずしも易々とは反応してくれない可能性を感じた瞬間があったようである。

 ・・・が、前述したような、「例えば自然や、詩や、音楽への感動体験の場合にもスピリチュアルな体験と言える場合がある」というような説明の中で、「ス ビリチュアルな体験」とは、予想していたより幅広い範囲の体験を包含していいのだという共通理解が生まれてはじめて、ワークショップは順調に進みはじめたように私には思われた。

***

 さて、以上のような、ひとわたりのレクチャーが終わったところで、休憩をはさんで、全員一緒のワークがはじまる。

 最初はヒンターコフの教示に従い、全員一緒に行い、その後で数名の小集団に別れて互いの感想を共有、最後に、再び全体会で、自分の体験を全体で共有していいという人の自発的発言を求める。

 最初のワークは、英語版のパンフには

「聖なる言葉についてのフォーカシング」

と書かれ、

「まずは、あなたにとって聖なる意味を持つ言葉(sacred text)をまずはひとつ選んで下さい」

と書いてある!

 これだけでは大半の日本人は乗れそうにないところだが、ヒンターコフはすぐに付け加えた。

「これは、あなたに感銘を与えた詩の一節や、ことわざ、あるいは自然の風景などでもいいのです。『まだはっきりとした意味はわからないけれども、そこには<何か>がある』という印象を残したようなものがいいと思います」

 私にはこの、ヒンターコフが最後に付け加えた、

「『まだはっきりとした意味はわからないけれども、そこには<何か>がある』という印象を残したようなものがいいと思います」

という示唆にピンと来るものがあった。

 そんなに内面をまさぐらなくても、そのヒンターコフの言葉にインスパイアーされるようにして、ここ2,3年、しばしば私の脳裏に甦り、時々反芻してきた、ある光景と、その時の「説明しがたい身体の実感」がいきいきと浮かび上がってきてくれたのである。

***

 私の体験について語る前に、ヒンターコフがワークショップで、せいぜい15分前後のワークとして用いる際のワークの手順のひとつをここで示してみよう。

 以下の教示をひとつずつ、じっくりと間合いを置いて、相手の応答に即して提示していく。ひとりがこれを読み上げる形で集団で行うこともできる。

  1. 自分が選んだ言葉やイメージを思い出して下さい。
  2. 自分自身にその言葉やイメージをゆっくりと繰り返しましょう。自分の中に生じてくる「感じ」や「気持ち」に気づいて下さい。
  3. その言葉やイメージを繰り返し想起し、味わいながら、そこで生じてくる「気持ち」をしっくりと表現するちょうどいい言葉を探してみましょう。
  4. あなたの中に生じてきた、その「気持ち」や「感じ」とじっくりと一緒にいてあげてみて下さい。そこに、もっと「何か」がそこにあるという感じが感じられないかどうかに注意を向けてみて下さい。
  5. その「感じ」と一緒にいながら、その「感じ」に向かって次のように問い掛けてあげることもできるかもしれません:

     「この言葉やイメージの何が、私に<こんなふう>に感じさせるのだろう?」
     「この言葉やイメージの何が、私にとって最高なんだろう。あるいは、凄く意味深く感じさせるんだろう」

    こんな質問をして、「感じ」の方から「あなた」の方に、何か応答のようなものがやってくるのを待っていましょう。
     そのような応答が返ってきたら、それを繰り返し自分の中で味わい、その応答が自分の実感にしっくりくるものかどうか確認して下さい。
  6. そして、最初の言葉やイメージに戻ってみて、今の自分がそれをどう感じているか感じなおしてみて下さい。新しい自分の「感じ」や「気持ち」があれば、それを表現してみて下さい。

 ここでは詳しくは説明しないが、これらは、通常のフォーカシングのプロセスとそれぞれ対応している。つまり、

2.フェルトセンスを掴む
3.フェルトセンスにとりあえず実感の上でぴったりな付箋となるような言葉を見
  つける(get a handle)
4.フェルトセンスと一緒にいる(being with)
5.フェルトセンスに問い掛けて応答を待つ(asking)
  →生じてきたものを受け止める(receiving)

となる(詳しくはジェンドリン「フォーカシング」 福村出版 参照)。

***

 さて、私がこのワークで選んだのは、3年前の夏の終わり、蔵王に行った時の体験である。

 当時の私には、終末の仕事の帰りに、思いついたように一人旅に出たことが時々あった。帰り道の駅からビジネスホテルに電話して予約して、新幹線でその日のうちに移動できるところまで移動してしまう。あとは出たとこ勝負である。

 その時はその日のうちに新潟に出て、翌日米坂線まわりで山形に移動、山形の宿を確保した上で、蔵王に日帰りで向かうことにした。季節運行の山頂まで登れるバスがまだ出ていると知ったからである。

 8月29日、バスとリフトを乗り継いでたどりついた蔵王の山頂は、かなり風が強く、やや肌寒くすらあった。夏の山によくあるように、日は射しているけれども、雲が速いスピードで流れていき、いつ天候が崩れて雨になってもおかしくない感じだった。観光客はまばら。

 行かれた方はご存じのように、山頂の近くの展望台から、火口湖、お釜が見渡せる。見渡せると言っても眼下に間近にあるわけではない。1キロ近くは 彼方のやや斜め下に見下ろせる。その間には荒涼とした稜線が次第に落ちていき、お釜の右手の方は硫黄が吹き出す緩やかな谷となっていたと思う。

 日は射しているにもかかわらず、上空の雲を映して、「お釜」の水面はむしろ鉛色というのに近く、そのまま灰色の稜線と溶け込んでいた。

 なぜか私は、その時、遠くに見えるそのお釜の鉛色の水面と、右手に見える白っぽい谷が次第に地平線に向けて高度を下げている光景に「不気味な怖さ」のようなものを感じたのである。

 私は、海か山かと言われれば、山派だろう。九州に住んでいたから、霧島や阿蘇・九重・雲仙などには何回も行っているし、火口湖や噴火口の光景にも小さい頃から馴染んでいる。その私が感じたことがない、奇妙な「怖さ」だったのである。

 おかげで、それ以来、その時の光景が、この3年間の間、何回も自分の脳裏に自然と蘇り、反芻されていたのである。

 すでに述べたように、言葉やイメージを選ぶ際、ヒンターコフは、「『まだはっきりとした意味はわからないけれども、そこには<何か> がある』という印象を残したようなものがいいと思います」という示唆を付け加えた。この示唆の言葉に触発されて、全く自然に脳裏に喚起されたのは、この三年前の、蔵王のお釜を見下ろした時のイメージと「体感」だったのである。

***

 その、目に焼き付いた光景とその時の「体感」を自分の中に繰り返し反芻しながら味わった。(2.)

 すると、最初それは「不気味」あるいは「こわい」という言葉が、とりあえずふさわしいように思われた。(3.)

 だが、それだけでは言い尽くせないsomething moreが、その言葉にならない実感の中にはあると思えた。

 しばらく「その」実感と一緒にいてあげる(4.)うちに、身体に感じられている感じの質が少し別のものに変容してきた。

「不気味」あるいは「恐い」……というより、

……「厳しい」

そう、何か一種の「厳しさ」「畏怖」のようなもの。

その方が実感には近い。

 私は「厳しさ……のようなもの」という言葉を自分の中の記憶の光景と実感に重ねあわせながら、この言葉だけで実感にしっくりかどうか再度確認していく。

 ……これでもまだ不十分だ。まだ「先」がある。説明され尽くしていないエッセンスの核心、「何か」がそこにはある。

 そのうち、その心の中の蔵王の風景を眺めている私の身体の前面の方が、何かある独特の緊張感で満たされてくるのがわかる。身体前半分の皮膚がピリピリしてくる。まるで蔵王の風景に圧迫されるかのように。

そして、なぜか、目頭だけが熱くなる。

「絶対的に、そこにある」

「どうしようもなく、そこにある」

という言葉が浮かぶ。

 なぜか、この蔵王でお釜を見下ろした時だけ、「もし、仮にこの風景をハイビジョンの映像として眺めても、ここまでありありと<そこに-ある>という感じはしないだろうな」などということを連想していた自分がいたことを、この時やっと思い出しした。

 これは「映像」ではない

 湖は、<そこに-ある>

 谷は、<そこに-ある>

 どうしようもなく、<そこに-ある>

 私の中に、その、確かに<そこに-ある>光景に圧倒されつつ、ほとんどそれに涙を流しながら「ひれ伏したい」というのに近い思いがあることに気が付く。

 (後で、全体でshareする際に、拙い英語力でヒンターコフにこの時の感じを伝えるのに私が選んだ言葉は、

”surrender(降伏する)”

だった)。

 しばらくその感じと共にいた。

「こうふうふうな感じにさせるのは何なんだろう?」と内側に問い掛け、返事を待つ(5.)。

 しばらくして浮かび上がった言葉は、自分でも意外なものだった。

 「……絶対的父性……

  ……絶対的父性 ???」

この私の中に、絶対的な父性にひれ伏したいという感情のようなものがあるのだろうか?

 これは意外だった。というのは、私は、むしろ「絶対的父権」のようなものを心の中で軽蔑してきたとずっと思っていたからである。

 私は更に、6.の教示、つまり、

> 6.そして、最初の言葉やイメージに戻ってみて、今の自分がそれをどう感じているか感じなおしてみて下さい。新しい自分の「感じ」や「気持ち」があれば、それを表現してみて下さい。

に進むことになる。再びお釜を前にしたときの私のイメージと体感に戻ってみる。

 すると、これまた予想外なことに、私の身体にしみ通るように感じられてくるのは、先ほどまでの、あの、「恐い」「不気味」「厳しい」などという感覚とは打って変わって、ある柔らかくて、潤いと親しみに満ちた感覚だった。

  「その」感覚にぴったりの言葉を敢えて探し求めるならば、……そう、

「愛おしい」

というのがかなり近いという感じだろうか。愛する人やペットへの何とも切ない感覚に近い何か。

***

 恐らく、この私のフォーカシング体験の中で問題になるのは、ありふれた「父性復権」についての議論などではない。

 私が「絶対的父性」という言葉でとりあえずつなぎ止めている私の中の「体感」が含蓄するもののみが、私にとって重要なのである。 

 おそらく、

「どうしようもなく、そこにある」

という言い方の方こそが、肝心な本質に肉薄するものだろう。

 そこには、確かにあるひとつの布置(constellation)がある。つまり、私のおかれた状況が、非常に多重的な意味で、ある共通の構造を持って、その言葉と響きあっている。

 現在の私には、いくつもの意味で、以前よりも責任を負わされつつある。 様々な役職。結婚に際しての、実家との関係の変化。いずれ自分が父になるかもしれないこと。

 だが、何より、私自身が、私自身の「存在感(presence)」に、何か基本的なところで不満なのだ。

 あるいは、もっと、既成の経験ある先達に素直に心を開き、学びたい気持ちを押し殺して強がっていたのかもしれない。

 もちろん、こうした言い方は「ひとつの解釈」にすぎない。蔵王の光景とその時の理屈抜きの体感についてフォーカシングする中から私の中に生じてき た身体感覚そのものの変容は、このような特定の「意味づけ」だけに押し込めるわけには行かない、something more としてまるごと味わい続けるべきものなのだと思う。

 「そこ」から、無限に、果てしなく、意味が交差(crossing)し、あふれ出してくるのだ。その全てが、何らかの意味で、その時の私にとっては「的確な」象徴化のステップである。

 だが、その時その時の言葉の意味内容にしがみつくことはむしろ避けた方がいい。このことはジェンドリンも「夢とフォーカシング―からだによる夢解釈」などで繰り返し述べるとおりである。

Okama

 ご存じのように、蔵王は山岳信仰の地でもある。もとより、私の場合、ほとんど思いつきで、バスとリフトで背広姿のままでお気楽に昇ってきた人間の印象にすぎないわけだが、やはり、昔の人も、あの目の前の光景から何らかのその人なりの啓示を受けたのかも知れないとは思う。写真もない時代に、遠方からやって来て、苦労して自分の足で登った昔の人に与えたインパクトは遙かに大きなものだったのではなかろうか。

 ただ、私の場合、その時の光景から体感された「言葉にならないもの」を自分なりに消化することをはじめられるまでには、こうして3年間も反芻するしかなかったのである。

 ヒンターコフのワークを体験させていただいたことは、その停滞していたプロセスが再び化学反応をはじめる触媒として、私にとって、 確かに役に立っている。

***

 ヒンターコフは、ワークショップの後半で、もうひとつのワークを示した。彼女が持参した、世界各地の美術館の名画の絵はがきの中から、自分の中の何かを触発するものを選び、それを手元でじっくり観た上で、その中から生じてくる曖昧な実感そのものにフォーカシングするというものである(「ポストカード・セッション」と呼ばれる)。

 これは、心理療法の現場にも応用し易いだろう。既成の絵でもいいが、絵画療法や箱庭療法の中でクライエントが作った作品についてこの様なことをクライエント自身にやってもらうのも面白いかも知れない。

 あるいは、俳句や短歌の鑑賞にも応用できないだろうか。自分がなぜその句が気に入ったのかを、虚心に振り返り、ことばにしていくための。

 ちなみに、こちらのワークで私が選んだのは、北斎の富嶽三十六景の一枚と思われる武蔵野の光景だった。一面のススキの原の彼方に小さく富士が見える、青が基調のもの。

 絵そのものをみるとそんなでもなく見えるのだが、私の瞼の内側でのその光景は、強風で煽られてススキが激しくざわざわと音を立てている様になっていた。その激しさには、暗さというより、あるエネルギー感のようなものが伴っていたように思う。

 「何か」が、激しく、騒いでいる。

 残念ながら、このワークショップの中では、その意味まで開示できなかったが、その絵を見たときの感じは今も残っている。蔵王に代わる、私の新たな「宿題」かもしれない。

***

 最後に、この意義深いワークショップを開催して下さった、講師のヒンターコフ博士、そして主宰した「フォーカシング・ ネットワーク in 東京」の、近田輝行さん、日笠摩子さん、片山睦枝さんをはじめとするスタッフの方々に御礼申し上げたいと思います。ありがとうございました。

 そして、参加された皆様、楽しい一時を共にして下さってありがとうございました。この日は多忙のため、残念ながら懇親会までは参加できませんでしたが、皆様のご感想もうかがう機会を持てたらと思っております。

 

参考文献:

Hinterkopf,Ph.D.,
Integrating Spirituality in Counseling: A Manual for Using the Experiential Focusing Method,Amarican Counseling Association,1998.

邦訳
エルフィー・ヒンターコフ著
「いのちとこころのフォーカシング ~体験的フォーカシング~」
(日笠摩子・伊藤義美訳 金剛出版)

 なお、本文中で紹介したエルフィのワークのマニュアルの日本語訳については、当日配布された日英対訳のブックレットの、日笠摩子さんによる訳を参考にさせていただきました。

エルフィー・ヒンターコフ/いのちとこころのカウンセリング―体験的フォーカシング法

Integrating Spirituality in Counseling: A Manual for Using the Experiential Focusing Method

===========再掲終わり===========

blogram投票ボタン
ブログランキング・にほんブログ村へ
人気ブログランキングへ
携帯アクセス解析
ビジネスブログランキング
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 心理カウンセリングへ

2009/12/24

サンタクロースは子供の肥満を促進する

という研究が発表された・・・・と、一昨日東京に日帰り出張した時、コンビニか何かで流れていたラジオのニュースで聴きました。

 つまり、あのでっぷりとしたお腹とクリスマスの甘いお菓子が「条件結合」して、子供たちを間食にや甘食に走らせるので、サンタももっとダイエットさせたイメージで描かれるべきである・・・・という。

 欧米の実験心理学者の研究って、時々、こういうトンデモすれすれのがありますが(^^)

 サンタは実は男性の姿をしつつも、実は「おふくろさん」的母性の元型の理想的投影を受けていると思うので、深層心理学的にみても、そりゃ無茶な暴論だと思います。

 それはそうと、私が海外出た一回はハワイで、5月でした。調べたところ、真珠湾(アリゾナ・メモリアル)というのが日本人向けのツアーで組まれることはないのが不満で、当時の連れ合いの提案もあり、公営バスを乗り継いで訪問したら、ちゃんと日本語の同時通訳器も安価で(注:初稿で無料と書きましたが、確かに数ドル払いました)貸し出ししてくれるし、もちろん日系人が多いということもあるのでしょうが、全然アメリカ人観光客たちに白い目ではみられませんでした。

 私もハワイに行くからには日本人として真珠湾を訪問するのがむしろ礼儀だと賛同したのですが、行く前はちょっと勇気がいりました。でも、案ずるより産むが易しでした。

 沖縄には、最初の独身時代(?)に、日本心理臨床学会大会で、観光も兼ねて8日間滞在して毎日国際通りで飯を食い、本島は北端の辺戸岬以外すべてまわり尽くしましたが、これが12月。

 気温28度でこっちが汗を流しながらソフトクリーム食べて南部戦跡をめぐっているそばで、現地の人たちは毛糸の帽子をかぶり、セーターを着ているのですね(^^) 冬にはコタツも出すとか。

 毛糸の帽子は、緯度のせいで日射が強いからという理由で売りつけられた(?)のをよく覚えています。

 いすれにしても、ハワイも沖縄も、もう一度じっくり滞在したい。

 ほんとうはオーストラリア大陸横断鉄道にも乗りたい私です。

●Indian Pacific in the Blue Mountains(YouTube)

*******

 以上、kyupinの日記 気が向けば更新 (精神科医のブログ)の、「ハワイのクリスマス」というエントリーへの私のコメントの転載です(^^)

 ・・・・・クリスマスネタはこの後にこれこれに続きます(^^)

blogram投票ボタン
ブログランキング・にほんブログ村へ
人気ブログランキングへ
携帯アクセス解析
ビジネスブログランキング
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 心理カウンセリングへにほんブログ村 ニュースブログ ニュース批評へ

2009/12/21

明日は4ヶ月ぶりの東京です。

 明日は、東京に、一種の「公務」で日帰り出張です。

 思えば、明日という日を「次の寄港地」として座標軸を据えて、いろいろ風と波にもまれながらも舵を切り、帆の向きを変えて、ひたすらセイリングしてきた4ヶ月でした。

 8月末の町田の法政大学での人間性心理学会大会の時(正確には、その少し前のこの時がターニングポイントだとすでに書きましたが)から、4ヶ月の間に、すでにいろんなことをリアルワールドでじわりじわりと別の情勢に変化させてきてしまって来た、よくぞここまで「負荷試験」に耐えて、「基礎体力」そのものを別次元のものにできてきたとはしみじみ思います。ほんとうに「短いようで長い」、密度の濃い4ヶ月でした。

 でも、来年に入ってからの3ヶ月は、来年「度」に向けて、それこそ「残り5%」にこだわることになりそうに思います(^^)

 皆様や(田嶌先生以外の)先輩方をポカーンとさせる可能性がある「仕掛け花火」がすでにいろいろと仕込まれているのですが(^^;)、すべて不発に終わることはないと思いますよ(^^)

*****

 今日、「ある書類」に目を通した後の鬼コーチの父の背中がはじめて小さく見えました。少し支えてあげたくすらなった。

 星飛雄馬はほんとうに筋肉を断裂させることがないまま、復帰してしまえたのです。

 ありがとう。ほんとうにこれまで。

 これからも、末永く、見守って欲しい。

 私こそが、父の「後継者」になっていく様を。

blogram投票ボタン
ブログランキング・にほんブログ村へ
人気ブログランキングへ
携帯アクセス解析
ビジネスブログランキング
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 心理カウンセリングへ

2009/12/14

「未熟型うつ病」とは何なのか? -福岡県精神保健福祉冬期講座に参加して(2)-

 昨日は、県臨士会のSC研修会でネットは一日お休みしました(お会いできた皆様からたくさん刺激をいただけたことに、心から感謝申し上げます)。

 やっとこの記事の続編(・・・・というか、結論は先に書いてしまったことにもなりますが)を書かせていただききます。

*****

 午後の部の講演に招聘されていた講師の先生は、自治医科大学で奉職されている、精神科医の阿部隆明先生でした。

 先生は、「新型うつ病」の一類型としての「未熟型うつ病」概念の提唱者です。私がこのブログで繰り返しご紹介してきた、内海健先生や加藤忠史先生ともお親しいようで、いわば日本のうつ病治療の最前線におられる先生のお一人です。

 講演のタイトルは、『現代の多様なうつ病像とその治療』でした。

 いわゆる「新型うつ病」や「双極スペクトラム障害」をはじめとする現代日本のうつ病の諸相について、これほど明確かつ立体的に解説していただいたことはない、と申し上げたいくらいに素晴らしい内容で、参加させていただいて、本当によかったと思っています。

*****

 まず、この先生のスタンスでたいへん興味深かったのは、下田光造が1943年に提唱した、うつ病の病前性格概念としての「執着性格」と、1961年にドイツのテレンバッハが提唱した、同じく、うつ病の病前性格仮説としての「メランコリー親和型性格」を、共に、クレッチマー以来躁うつ病の病前性格として提出された来た「循環気質」に対して新たに提出された、両国の高度成長期に生じた、当時の「新型うつ病」概念であると、明晰にお語りになったことです(この点では、内海先生の路線と明確に符合しますね)。

 そして、「執着性格」が、こだわり、几帳面、完全主義的自我理想に動機付けられた高エネルギー型であるのに対して、「メランコリー親和型」は、秩序愛と他者のために尽くすことに動機付けられ、周囲への罪責感という超自我的な動機付けで動く、むしろ弱力型のうつの病態であると解説してくださいました。

 中井久夫先生のご著書(確か、「分裂病と人類」)で、ドイツにおいても、メランコリー親和型性格は、男権的なドイツ的価値観からするとあまり評価される性格ではないということはお読みしていましたが、なるほどと思った次第です。

 もっとも、日本の高度成長期においてはメランコリー親和型性格は、少なくとも、重責に就く以前のサラリーマン道徳としては、明らかに「適者」の存在様式であったことになります。

*****

 「双極スペクトラム障害」についての先生のご解説も、今や0.5型から小数点0.5刻みでVI型まで提唱されているそうで、興味深かったのですが(私個人は、原則的に、DSM-Vで双極スペクトラム概念が気分障害の「大分類」として導入されることに大きな期待をかけているひとりです)、詳細になりすぎるのでここでは割愛させて頂きましょう。

 むしろ、先生が、「軽症うつ病で安易に抗うつ薬が処方され過ぎている」こと、そして、「抗うつ薬をトリガーとした躁転」という問題の重要性をやはり強調されたことは特記しておきたいと思います。

*****

 さて、ここからが一番興味深い部分です。

 阿部先生は、「メランコリー型」「執着性格」を含む、現代のうつ病の諸相の相互関係について、実に明快な図版を呈示くださいました。

 原典は飯田真先生らとの共著にあるとのことですが、敢えてこの図だけはここで配布されたパワーポイントファイルの縮刷版を取り込ませていただくことをお許し下さい(私の書き込みも読めてしまうので、観づらいかとも思いますが。

Dr_abe

 

 この図だけではわかりにくいでしょうから、ここで、いわゆる「新型うつ病」について、阿部先生が実に簡潔にご紹介くださった既成の諸概念についての解説を、この図と関係ない部分を省略してそのまま転載します。

※青年期のうつ病像

●ディスチミア(dysthymia)親和型 (樽味)

  • 回避的な傾向が強い
  • 不全感と倦怠感
  • 「生き方」と「症状経過」の不分明

※成人期後期(20代後半-30代のうつ病像)

●逃避型抑うつ (広瀬)

  • 高学歴、上司との関係、選択的抑制(こういちろう注:すべてのことへの興味や関心が失われるわけではないということ)、弱力的ヒステリー性格、自己愛的

●未熟型うつ病 (筆者ら)

  • 20代前半までは周囲から庇護されて葛藤なし
  • 職業上、家庭生活上の挫折から発症
  • 経過中に不安焦燥感優位で、自責に乏しい病像
  • 周囲に対する依存攻撃性
  • 状況からのストレスが棚上げされる(庇護的な環境におかれる)と軽躁状態(双極II型-I型的)

 そして、「執着性格」と「未熟型うつ病」が、内因性・生得的な気分昂揚的・躁的素因を持つ「高エネルギー型」であり、「メランコリー親和型」と「逃避型抑うつ」は、そうした「気分高揚方向への」内因的素因がなく、むしろ神経症水準での「弱力型」ということになるようです。

 これに当てはめたら、私なんて、もう、絵に描いたような「執着性格」ってのが、本来のあり方ですね(^^・・・親父もそうだな・・・・)

*****

 さて、この図の鍵は、

  • 「希薄な愛情備給」→「メランコリー親和型」か「執着性格」
  • 「過保護・溺愛」→「未熟型」か「逃避型」

・・・・と一般化されている点でしょう。

 ここで私の頭の中は???で一杯になってしまいました。

 私の父親って、ややおせっかいなところはあったけど、「熱く」私を愛し続けてきてくれた。でも、私の進路や勉強については全く口出ししなかった。子供時代、私の好きな鉄道旅行にどれだけ付き合ってくれたことだろう。全然希薄な愛情備給ではない。

 母親も、ある意味では偏屈で頑固な父親のやさしい話の聴き手になれ、子供の頃から私の前で神経質になることも皆無、まもなく87歳の今も、情緒的な安定感の高さと同時に、頭脳明晰で愛嬌あふれ、腰が曲がったのを除くと、70前と思われかねないくらいのみずみずしい感性(肌の色艶も)を維持している。 

 そして、何より、「未熟型うつ病」の説明図式を追っていくうちに、確かに、こうした説明で典型的に理解できる「新型」うつの患者さんも一定数はいるかもしれないことは認めるにしても・・・・・

 これじゃまるで、育ちのいいぼんぼんやお嬢さんが、厳しい社会に出てはじめて傷ついて発病したみたいな印象与えないか???

 さすがに上の赤字の言い方まではフロアからの発言上は控えましたけど、私が現場で体験しているこのタイプに当てはまりそうなクライエントさんから詳しく訊いた生育暦や、親御さんと接した時の印象との隔たりがあまりに大きいと感じました。

 「未熟型うつ病」であるかに見える人に家族内での葛藤がなくて庇護されていたなんて、私の知る臨床的現実とはまるっきり正反対なのだ。

 確かに、この種の病態を示す人たちの、養育者との関係は「密着していた」時期を持つことが少なくないのは認める。

 でも、それは、断じて、子供の側が依存し、それに対して親が庇護を与えるという循環構造ではないのだ!! 

 得てして、気分変調的な側面をすでに持つ母親まずは存在する。その母親の機嫌を損ねないように、子供の頃から、涙ぐましいまでに気を使い、家庭の平和を守るためのキー・パーソンとして「世代間逆転」的な形で一家を支えてきたのが、患者として現れた若い人たちなのである。

 家庭に葛藤がないかに見えたのは、子供の方が親の気持ちにとことん寄り添って「平和維持」に努めてきたからこそではいか????

 その人たちには、むしろ親に安心して甘えられた経験など欠落している。

 そして、非常に孤独な努力を重ねて、親の引力圏から離脱するために、優秀な大学に入り(得てしてこの時に親元から離れた大学を選択する。それを可能にするためには、地元を離れるに値すると親に見なされるほどに優秀な大学である必要があるのだ!) 

 そして、これまた親のグーの根も出ないくらいの進路(留学、企業)へと進んでいく。ひたすら、親から自由になるために!!

 そうやって、どこまでも飛翔した先の企業などで、彼ら/彼女らはついに力尽きるのである。

 このような経緯を持つ患者さんが、医師との治療関係が一応ついて、「陽性転移」の時期を経たは何が起こるか????

 ・・・・もう、目に見えている。

 親や医師、社会を相手に恨みや攻撃性を爆発させることそのものが、不可避の「治療過程のプロセス」なのである。

 そうした「治療過程のプロセス」を、「疾病像」と誤認することの危険が、あまりに大きくはないのか?

*****

 もちろん、簡潔に、紳士的で丁重な表現を取らせていただきましたが、私がフロアから阿部先生にお伝えした感想は以上のようなものでした。

 このこととの関連で、この前の拙文、

●「過保護」という概念は安易に使われすぎていまいか?

をお読み頂ければ幸いです。

*****

 BGMは、まさにこうした生き方をしてきたとしか思えない、浜崎あゆみさんを称えて、浜崎あゆみ - A Song for XX - Signal"SIGNAL"浜崎あゆみ - A Song for XX - Hana"Hana"浜崎あゆみ - LOVEppears - too late"too late"

●ayumi hamasaki SIGNAL~Hana~too late live

blogram投票ボタン
ブログランキング・にほんブログ村へ
人気ブログランキングへ
携帯アクセス解析
ビジネスブログランキング
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 心理カウンセリングへ
にほんブログ村 音楽ブログ 女性ミュージシャン応援へ

続きを読む "「未熟型うつ病」とは何なのか? -福岡県精神保健福祉冬期講座に参加して(2)-" »

2009/12/10

派遣労働者は企業メンタルヘルスや産業カウンセリングの蚊帳の外? -福岡県精神保健福祉冬期講座に参加して(1)-

 やっはり記事の順序をもう一度再入れ替えしましょう(^^)

 一昨日参加させていただいた、福岡県精神福祉冬期講座「不況を生き抜く -多様化するうつ病と休職・失業からの再出発-」の報告記、第1弾。まずは午前の部についてご紹介します。

 講演午前の部に招聘された先生は、大正大学の廣川進先生。「休職・失業のキャリアカウンセリング -人生の危機・転機を越えていくために」という演題でした。

 ベネッセで18年間勤務され、雑誌「ひよこクラブ」などの編集に携われた後、衛生管理者としてヘルスケア部門を担当され、採用・教育研修など、人事の業務も経験されたとのことです。

 40歳を迎えるにあたり、臨床心理士になることを決意されて大正大学大学院に社会人入学。病院臨床の経験も積まれ、現在も大正大学の准教授をお勤めの傍ら海上保安庁にも勤務され、先日の佐世保での事故の際にも危機介入のため活躍されたとのことでした。

*****

 企業人から産業カウンセラー・キャリアカウンセラーに転じられた経歴をお持ちというだけのことはあり、企業の内部事情にも精通された上で、個別処遇を重視する、会社内のさまざまな関係者を「チーム」としてフル活用した、うつ状態に陥った中間管理職の社員への細やかな復職支援の統合的アプローチの実践例を例示いただき、たいへん参考になりました。

 少なからぬ場合、配置転換されてきた、業績至上主義の新上司からのパワハラの問題が関わること、今の日本企業は競争社会になったために、「かわいがった部下に先に昇進される」リスクがあるため、社内の空気そのものがギスギスしているため対話が少なくなっていること。会社再建のために銀行から派遣された役員によって、実力ある管理職がスケープゴート的に詰め腹を切らされ、リストラされることが引き金となるうつの発症などがあるというお話は興味深かったです。

 また、うつによる休職と並行して、家族構成員に様々な問題が「同時多発」することが多いということ。子供の引きこもりや行動化、配偶者の抑うつ、親の介護などの問題が、一気に表面化=「同時多発化」しやすいようです。それまで、「ともかくも働いてしっかり稼いできてくれる」ということによってかろうじて見かけ上の平衡を維持していた家族力動の、潜在的な歪みが一気にあふれ出すということのようです。

*****

 廣川先生のお話は更に、失業者のメンタルヘルスの問題について、ハローワークを訪れる求人者の意識の実態調査に基づいて踏み込んだ問題提起へと展開しました。

 多くの退職者は、見かけ上は、キャリアアップや「今の会社があわない」などの理由を真っ先に挙げますが、実際には社内(特に上司)との人間関係に悩んだ末であることが少なくないそうです(これは私見ですが、いわゆるリストラの場合ですら、その対象として選ばれるかどうかには、この人間関係上の問題が少なからず影を落としていることがあると思います)。

 そして、求職者は、もはや仕事が見つからない「恐怖」に脅かされており、それまでのキャリアが通用しないことによるアイデンティティの喪失、求職活動しては不採用になることを繰り返す中で、精神的消耗やうつ状態、身体症状の悪化、場合によってはアルコールやギャンブル嗜癖に向かうなど、潜在的に「自殺者予備軍」となる危機にさらされている。

 しかし、ハローワークの現段階でのメンタルヘルス相談の体制は、まだ専門的訓練を受けた相談員が少なく、場合によっては「説教され、発破をかけられる」に留まる状況は何とか改善されていかねばならないことを先生は示唆されました。 

*****

 しかし、こうしたお話をうかがう中で、私の中に、何か大事な問題が抜け落ちているという思いが生じてきました。

 質問タイムが最後に取られたので、私は口火を切ってフロアから感想をお伝えいたしました。

 「大企業の管理職の方々の復職支援における統合的アプローチ、そしてハローワークを訪れる求職者のメンタル状況のついてのお話はたいへん示唆に富むお話でした。しかし、今日のうつ病患者の増加は、20代後半から30代において顕著であり、私がお会いしてきた通院中のクライエントさんの非常に多くが正社員ではなくて、その世代の派遣勤務です。

 リストラされなかった正社員のバーンアウト症候群の問題は確かに深刻ですが、それと平行する形で、それまで派遣社員を統括していた正社員自体が配置転換され、「ベテランの派遣社員」に、その正社員の業務が「丸投げ」される現象が生じてきているようです。

 その結果、一番優秀な派遣社員がオーバーワークになり、深刻なうつの危険に直面している気がします。

 しかし、多くのケースにおいて、派遣社員は産業カウンセリングや企業メンタルヘルスのシステムの蚊帳の外に置かれたままという気がしてなりません」

*****

(以下、第2回、午後の部についての記事に続く。午後の部は、「未熟型うつ病」概念についての非常に詳細な解説と問題提起を含みます。こういちろう畢生の超大作になりますので、明日になってから書きます)

(【追記】・・・といいつつ、その序曲だけをまずは書きました)

blogram投票ボタン
ブログランキング・にほんブログ村へ
人気ブログランキングへ
人気ブログランキングへ
携帯アクセス解析
ビジネスブログランキング
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 心理カウンセリングへ

続きを読む "派遣労働者は企業メンタルヘルスや産業カウンセリングの蚊帳の外? -福岡県精神保健福祉冬期講座に参加して(1)-" »

2009/12/09

予告:福岡県精神保健福祉協会の冬季講座参加報告を書く前に

明日まではは少しゆったりと過ごし、明日はまずは全然無関係なことを書くと思います。

報告記は、目一杯掘り下げた内容を構想しています。だって、あの「フロアから質問した」「久留米で開業している者」とは・・・・)

 ・・・・といっても、その「間奏曲」記事は、浜崎あゆみではなくて、また「あっち方面」です(^^)

 どうも、「このネタ」って、私の過去のアイデンティティを振り返る意味でもやっぱり抜かせないなと数日前から感じられてきたのですが、驚くべき偶然の符合!・・・・・今書くと、現在公開中の映画協賛(?)にもなることにも気がつきましたし。今日、DVD借りてきて、実に久々に通してじっくり観ることにしました(^^)

 ここまで書くと、「そっち方面」の皆様の、察しのいい人の「勘」はほぼ外れないでしょうね(^^)

blogram投票ボタン
ブログランキング・にほんブログ村へ
人気ブログランキングへ
携帯アクセス解析
ビジネスブログランキング
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 心理カウンセリングへ

続きを読む "予告:福岡県精神保健福祉協会の冬季講座参加報告を書く前に" »

2009/10/21

やさしさに包まれたなら -「魔女の宅急便」とバリントのフィロバティズム-

 キキは突然飛べなくなった。

 最大の引き金は、依頼人のおばあさんがせっかく孫娘のために心を込めて焼いた包み焼き・・・しかもその完成のためにキキも古い薪オーブンを稼動させるお手伝いをしている・・・を、突然の雨にずぶ濡れになりながら届けた先の孫娘の反応、

「だから、いらないって言ったよ。あたし、このパイ嫌いなの」

との言葉と共に扉が冷たく閉ざされたことだった。

 キキは下宿先のオソノさんの心配りもあって一度は立ち直る。しかし、せっかく初デートに出かけたトンボの友達に「あの孫娘」が含まれていると気がついた時、突如豹変して家にひとりで帰ってしまう。

「ジジ、私、どうかしてる? 素直で明るいキキはどこかに行っちゃったみたい」

 ところが、ジジはただの普通のネコのようニャーと応えるのみ。ジジはすでに恋人のメス猫ができてから、関心がそちらに向かい始めて以来、「普通のネコ化」が徐々に進行していたようだが。

 しかし、ジジの言葉が解せさなくなったことに気がついた瞬間、キキは嫌な予感に襲われ、箒(ほうき)にまたがってみる。

 魔法の力が、ほんとうに弱くなっている。

 それでも飛ぼうと繰り返し試みるうちに、旅立ちの際に母から譲り受けた箒そのものが折れてしまう。

 こうして、キキは完全に、故郷との「つながり」の証し、(人語を解するジジと母の箒)、すなわち、精神分析的対象関係論のウィニコットが言う「移行対象」を喪失する。

ウィニコット/遊ぶことと現実 (現代精神分析双書 第 2期第4巻)

(楽天ブックスはこちら

 生まれ故郷から大都会に舞い降りた段階から、何か人との間に、独特のよそよそしい「隙間」を感じることが時たまあることに当惑し続けていたキキの慢性的なストレスは、ついに限界に達したのだ。

 キキの生まれ育った故郷とは、我々の少なからぬ部分が、遥か彼方の幼児期に体験していた、世界との幸福な一体感、まさに「やさしさに包まれた」頃の体験世界の理想化された象徴である。

 (・・・・それにしても、宮崎駿さんの、キキのくるくる変わる感情の移り変わりを画面上だけで表現し切れてしまう力は、今観直しても、とてつもない域ですね)

****

 キキに救いの手を差し伸べてくれたのは、すでに偶然の縁があった、夏の間は森に住む、絵描きのウルスラだった。

 ウルスラは、前にキキに会った時の印象に触発されて、一枚の絵を描きつつあった。しかしキキに当たる少女の顔の部分の表情がどうしても決まらないで、その絵をやめてしまおうかとすら思い悩んでいた。キキ自身をモデルに写生することから立て直しを図りたくてしかたなくて、なかなか再来しないキキに会いに行ったというのがほんとうのところだろう。

 ウルスラはキキを写生しながら思わず口にする:

「あんたの顔いいよ。この前よりずっといい顔してる」

 落ち込んでいたキキは、恐らくこの言葉に内心きょとんとしたことだろう。

「魔法も絵も似てるんだね。私もよく描けなくなる」

 寝る前の語らいの中で、ウルスラは口にする。

「そういう時、どうするの? ・・・・私、前は何も考えなくても飛べたの。でも、今はどうやって飛べたのかわからなくなっちゃった」

と、思わず尋ねるキキ。

「そういう時にはじたばたするしかないよ。画いて画いて画きまくる」

「それでもうまく行かなかったら?」

「画くのを止(や)める。散歩をしたり、景色を観たり、昼寝をしたり、何もしない。・・・・そのうちに、急に画きたくなるんだよ」

「なるかしら?」

「なるさ。・・・・私も絵を画くのが面白くって仕方がなくて始めたんだけど、ある時、画いた絵が気に入らなくなった。誰かの真似に過ぎないって気がついたんだよ。どこかで見たことあるってね。自分の絵を描かなくっちゃ!ってね。・・・・でも、その後、少し前より、絵を描くってこと、わかったみたい」

 ・・・・このウルスラのセリフ全体が、宮崎さんの経験談それ自体であり、肉声そのものであることはつとに知られているだろう。

 「魔法って、呪文を唱えるんじゃないんだね」

 「うん、血で飛ぶんだって」

 「魔女の血、絵描きの血、パン職人の血、神様かだれかが与えてくれたんだよね・・・・おかげで苦労もするけどさ」

 ウルスラが、夏場は森の中でひとりで生活し、冬場は都会ではなくても、すでに開拓された田園地帯か何かで生活するという、森と平地との間「辺境人」的性質を持つ存在であることは興味深い。

 精神科医の中井久夫先生が、壮年期の二大名著、姉妹作というべき「分裂病と人類」「治療文化論―精神医学的再構築の試み」で強調するところによれば、洋の東西を問わず、古来、森の中とは人間界から切り離された「異界」であり、森の中に独居する、「薬草を栽培する老婆の文化」は、地域共同体の辺縁に置かれつつも、地域治療文化の大事な一部として暗々裏に統合されていた。

 それがいわゆる「魔女狩り」の対象とされるのは、実は中世のことではなく、宗教改革以降の近世初頭以降の出来事であることは、実は誤解されがちなことである。

 ところが、ヨーロッパにおいて、多くの宗教者や社会改革家(急進的な「世直し」をしようとする人たち)、そして近代の「力動的」精神医学の基礎を築いた大家たちの故郷は、非常に多くの場合、こうした「すでに切り開かれた平地」と「森」の辺縁地域の出身者が多いことを中井先生は指摘する。

 フロイトの出身地然(しか)り。ユングの出身地然り。精神分析が発展を遂げたヴィーンそのものが森の都に他ならない。

 ウルスラが、この物語の中で、図らずも魔女であるキキの癒し手として機能できたのは、ウルスラ自身が、そのような俗世間と森の世界の「境界人」的側面を強く持っていたからではないかと思われる。

 これはこじつけでもなんでもないと思う。

 宮崎さんだって、思っているはずだ。アニメーターなんて、世間の桧舞台に立つのは実はおかしくて、もっと「ひっそりとした」「地味な」商売だったはずなのに・・・・と。

*****

 さて、この作品に限らず、宮崎作品の飛行シーンは、他の誰も真似ができない域のものであることはよく言われるとおりである。

 そのことの最大の秘密は、実は宮崎さんが、飛行を支えているのは空気に他ならないということに徹底的にこだわっているためだと思う。

 日本のアニメは、「宇宙戦艦ヤマト」の時代から、宇宙空間を中心に飛行シーンを描くことに特異的に発展したために、この「空気があっての飛行」ということに対する感性がアニメーターの間でほんとうには熟成されないままになりがちだった。

 振り返ってみれば、これまで宮崎さんが関与した作品の中で、宇宙空間を舞台にしたものが、果たして一本でもあったろうか???

 飛行機乗りは、そうやって「大気を味方につけ」ないと飛行機を操れないことを嫌というほど知っている。

 そして、更にはその大気との関係と共に重要なのは、飛行するための道具としての「機体」と操縦者が、自分の体の延長であると感じられるところまで「一体化」できるかどうかである。

 この「魔女宅」のクライマックスシーンにおいて、故障し、大破した飛行船にぶら下がったトンボを助けんがためにキキが活用したのは、たまたま通りがかりの清掃夫のおじさんが持っていた、ありきたりのデッキブラシだった。

 キキがこのデッキブラシの操縦に手こずったのは、スランプ脱出直後の初飛行のためばかりではなかろう。更に、単に箒の場合とは勝手が違うというだけですらなく、心を込めて魔女が手作りしたハンドメイドではなくて、量産型の既製品だったからに他ならないだろう。

 おかげでその「機器」との「対話」が成立しにくいのだ。「人馬一体」にはほど遠い。

「こら! いい子だから言うこと聞いて!」

「まっすぐ飛びなさい! 燃やしちゃうわよ!」

 このような、「モノ」に過ぎない筈の対象に身体ごと「潜入(dwell in)」して、試行錯誤の身体的「対話」を重ねて、はじめて高度な習熟スキルとして自在に操れるという点が、単なるマニュアル的な「技術(technique)」と習熟的な「技能(skill)」の違いであることは、ハンガリー出身の科学哲学者、マイケル・ポランニ(ポランニュイ・ミハイー)の「暗黙知の次元」 で詳しく述べられている。

 そして、このような、多くの人にとっては身の危険を犯すスリリング過ぎる活動(曲芸や楽器の演奏やスポーツなども含まれよう)に没頭する人たちのことを、ハンガリー出身のイギリスのもうひとりの精神分析の大家、マイケル・バリント(バーリント・ミハイー)は、「フィロバット」と呼んでいる。

バリント/スリルと退行

バリント/治療論からみた退行―基底欠損の精神分析

 (このバリントの2大名著はまたもや再販されない状態に入ったみたいなので、この件については、私の学会発表時の添付資料としての2冊の抜粋がPDFとしてサイトに載せ続けているので、興味のある方はこちらからご覧いただきたい)

 「フィロバット」的人物=「フィロバティズム」が優勢な人物においては、はっきりとした輪郭と「固形の」性質を持った、「反発(objection)性」がある、自分からは独立した「対象(object)」との関わりに生きているのではない。

 古代ギリシャから言われてきた四大元素、すなわち、「土」「水」「火」「風=空気」という、自由に形状を変え、流動的で、対象を「包み込む」こともできる「前-対象」との友好的(frendly)な関係の中に生きている。

 バリント自身の言葉を借りれば、「魚にとっての水のごとき」環界との友好関係信頼していられないと、自由闊達にそのスリリングな能力を発揮できないのがフィロバットなのだ。

 突如別のアニメ・コミックを引き合いに出せば、「キャプテン翼」の名言、「ボールは友だち」の世界である。

 観ている人は、サッカー選手がいとも鮮やかにボールを「操って」いるかに見えるかもしれない。しかし、選手の主観は正反対のはずだ。まるでボールの方が自分のために最大限の協力を惜しまないかのようにして自発的に協調してくれているという感覚のはずである。

*****

 ところが、このフィロバディズムを生きる人たちは、自分をつつむ外界との圧倒的な信頼感・一体感に亀裂隙間が生じると、たいへんな危機を迎える場合がある。

 キキが陥った「飛べなくなる」状況は、まさにその典型だろう。あの孫娘が冷たく扉を閉じた瞬間、キキとキキを包む「世界」全体の間に深刻な「壁」と「亀裂」「隙(す)き間」が立ちはだかったのである。

 キキはもはや心から自由に「呼吸」することができない状態に陥った(風邪を引いた)。そして、せっかく心が通い合ったかに見えたトンボが、「あの孫娘」とも友達であると知った瞬間、トンボも「向こう側の世界」=「同じ空気を吸ってはいない存在」ではないかという疎外感に一気に引き込まれ、キキは自ら心を閉ざしたのであろう。

 (確かにそれはキキのひとつの思い込み・・・いかにも思春期的な・・・に過ぎず、エンディングではこの孫娘と二人が親しく会話しているシーンが挿入されてすらいる! これは単にキキが有名人になったからだけではなくて、その後交流するうちに孫娘の人間の全体像が見えていなかったことにキキも気づいたのではなかろうか)

*****

 不幸にしてそうでない人もいるが、多くの人は、全く天真爛漫に、世界との一体感に浸り、心安らかに浸っていられたかすかな記憶のようなものを抱えて生きている。

 そのさりげない記憶の世界でその人を「包んで」いる「やさしさ」とは、必ずしも人からのやさしさではないはすだ。

 陽の光、何げない風景の一つ一つ、それどころか室内の家具調度のひとつひとつ、つまり、自分を包む「世界」全体が、自分をやさしく見守ってくれているかのような体験だったのではないかと思う。

 (私がそのことをはっきり思い出した時の記録は、先述の学会発表時の論文集の本文の方にエピソードとして記載している。そちらもPDF化してあるので、興味のある方はこちらをご覧いただきたい)。

****

 さて、「魔女宅」のエンディング・テーマは、ユーミンこと荒井由実(松任谷由実)の初期の名曲、荒井由実 - ミスリム - やさしさに包まれたなら「やさしさに包まれたなら」である。

 こちらからリンクをたどっていただいて、歌詞をもう一度丁寧に読みなおしていただくと、ある事実にお気づきになるかも。

 ここに登場する「やさしさ」で包んでくれる存在の「正体」(?)とは、実は恋人ですらなく、生身の人間ですらなく、世界そのものだということ。

*****

 そして、きっと、

> 大人になっても、奇跡は起こる

のである。

*****

 ところで、エンディングをよく観ると、キキの乗っている箒は、掃除夫のおじさんに「必ず返します」と言った筈のデッキブラシのままなのである。

 トンボが作りつけてくれた鋳物の看板ですら、デッキブラシ姿ですよね。

 これは単に「事件」を解決した象徴だからとか、縁起かつぎ(?)などではなくて、ひょっとしたら、キキ自らが「選択した」行動だとも思えるのですが。

 このあたりの意味、考えてみるに値すると私は思えてきました。

*****

 この記事への「あと書き」がこちらにあります。

 【追記】:この記事の姉妹作(?)となった、「崖の上のポニョ」論はこちらです。

 バリントの「治療論からみた退行」についての総論を、こちらで書きました。

魔女の宅急便 [DVD]

MISSLIM(「魔女宅」で使用されたのと同じ、テンポの速いバージョンが収録)

●王子のきつねさんサイトでユーミンの代表曲のYouTubeをまとめたエントリーへのリンク

blogram投票ボタン
ブログランキング・にほんブログ村へ
人気ブログランキングへ
携帯アクセス<br /><a href=ビジネスブログランキング
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 心理カウンセリングへ
にほんブログ村 音楽ブログ 女性ミュージシャン応援へ

2009/09/30

最近このブログの内容の性格がずいぶん変わってきた

・・・・と、自分でも感じています。

 特にこの9月になってからの1ヶ月

 文字通り、「カウンセラー」こういちろうの雑記帳という、ブログのタイトルそのものになってきて、次から次へと、新たに接した素材(それが映画であろうと)について、ハードに煮詰めた形で書くようになって来た気がする。

 文体も、硬質でタイトなものになって来たように思うし。

 読者によっては、遊びがなさ過ぎるというか、要求水準が上がりすぎているとお感じの方もあるかもしれない。

 アクセス解析を観ても、読者層の皆さんの入れ替わり現象みたいなものがかなり顕著になって来たようですね。

*****

 そうなったひとつの刺激剤は、8月末の、1年1ヶ月ぶりの東京上京と、日本人間性心理学会第28会大会への参加だと思う。

 それが私にとって、久留米で生きることについて、やっと本格的に腹が据わる契機となったことはこちらの記事でも書いた。

 そして、東京からの帰途の飛行機の中で発想し、構想を煮詰めていったのが、昨日突如公式ウェブサイトを、秀吉の「墨俣一夜城」のごとく公然化させた「久留米でうつと働き方を語る会」発足に向けての動きである。

 私としては珍しいことだが、この構想を、幾人もの先達の諸先生方、何人ものグループ体験のあるクライエントさん、元クライエントさんに打ち明け、ご意見やご感想を頂き、もちろん既成のこの種の団体のウェブサイトをあちこち検索して参考にさせていただきながら、慎重に構想を煮詰めて行った。

*****

 もっとも、あのサイトそのものの「ウェブデザイン」は、マジに28日に半日で仕上げました(^^;)。私の作ったウェブサイトではこれまででもっとも美しいですね。どうしてこれまではこうはいかなかったのかと自分でも苦笑しています。cssまで使いこなしたのは今回が初めてです。

(追記:画面右端が空白だった問題は、すでにどのブラウザで見ても解決されているはずです)

***** 

 もうひとつ、東京での学会参加が、私を思いの他刺激したのは、一方でこれから地域に根を張る現場臨床にいよいよ踏み込むというのと同時に、アカデミズムというか、臨床心理「学」の領域で、まだ私にもできる、残された仕事がありそうだという思いだった。

 体調回復まで、思ったようにまとめられなかったため、このブログで再三「今年は個人発表する」と繰り返しながら、ここ4年ほどブランクが空いている。

 私の現場臨床における関心がうつのクライエントさんをいかに支援するかに重点が置かれ、フォーカシング指向心理療法に関しても「そのために」いかに役立てられるかという観点から探求の試みをしている最中である。

 それを構築するためには、まだまだうつ医療や認知行動療法をはじめとする様々なアプローチについての膨大な文献を読むことになるだろう。

****

 だから、今回は控えめにお伝えしておくと、来年の人間性心理学会第29回大会は、何しろ久留米から特急で1時間弱の熊本大学であることは確定しているので、そこで「何かについての」個人発表はします。これはうつに関するテーマをおもてに押し立てるかどうかは未定くらいに考えておきたい。

 ところが、更に翌年、2011年の日本心理臨床学会第30回秋季大会は、どうも九州大学が当番校になる可能性が高いそうですね。

 少なくともこの段階までには、「うつ」というテーマに関する私なりの現場臨床での実践のとりあえずの「総まとめ」を「学界で公表できること」を目指そうと思います。

*****

 ともかく、「うつと働き方を語る会」立ち上げ準備までのプレッシャーからは解放されました。

 私の、このブログでの立ち振る舞いも、10月は、別の意味で"Next level"に変容するかもしれません(^^;)

blogram投票ボタン
ブログランキング・にほんブログ村へ
人気ブログランキングへ
ビジネスブログランキング
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 心理カウンセリングへ

2009/09/22

「あと3年」と宣告されたら、あなたは何をするのをやめますか? (第2版)

 物騒なタイトルをお許しくださいcoldsweats01

 これは、日本人間性心理学会第28回大会の最終日、8/30に私が参加した、九州大学留学生センターの高松里先生と、九州産業大学の平井達也先生によるワークショップ、「”私”の働き方研究」の中で、お題として出されたワークのひとつなのです。

 高松先生は、数年前に、一度末期がん、余命数ヶ月という診断を受け、検査入院をします。

 検査の結果、それは結局杞憂に終わるのですが、それをきっかけに、人生観がまるで変わってしまい、それまでいろいろと引き受けてきた仕事を思い切って整理し、自分がほんとうにやりたいこととは何か? 日本人の働き方には、アジアを含む諸外国と比べても何かおかしなところはないか?・・・という問題意識が深まったとのこと。

 確かに、「今」という時を、常に未来のための投資・準備として位置づける日本人の生き方は、こうして、単に不況であるばかりではなく、雇用構造そのものが大転換しつつある昨今の社会情勢の下で、大きく揺るがされていると思います。

*****

 そうした中で高松先生たちが発想したのが、「捨てるワーク」と名づけたもの。

「あなたが余命あと3年と宣告されたとします。あなたは今、何をするのをやめてしまいますか? 何を捨てますか?」

 これを、紙に10項目、実際に具体的に箇条書きにしていくのです。

****

 ただ、ここで肝心なのは、「残りの3年で何をするか?」ではないということかと思います。

 何をするかのリストアップに過ぎなければ、映画の原題"Backet List"こと「最高の人生の見つけ方」になってしまいます。

 「何をやめるか」「何を捨てるか」と自問することは、単なる我執に過ぎないものをチョイスするというより、自分の今やっていることの中で実はそんなにこだわりはないはずのことに深い次元で気がついていくことになるのだと思います。

 ですから、実際にこのリストを書き連ねようとすると、「〇〇するのをやめる」という表現を言葉の上で取ろうとするのと裏腹に、「ほんとうは△△を自由にのびのびとやりたかったんだ!」という、生活の中で実行可能な、ささやかな気づきが浮かび上がるという、逆説性があるのですね。

*****

 私もいくつかリストアップしましたが、昨年、関東から九州に引き上げる段階で、実際、マジにいろいろ諦めたり、処分しまくった人間なので、思い浮かべるのが大変でした。

 いくつかひねり出した挙句、少し合間を置いて、最後に書き加えたのが、

「年齢を気にするのをやめる」

ということでした(^^)

*****

 実は、高松先生たちのこのワークのアイデアの発想の源のひとつには、映画「死ぬまでにしたい10のこと」があるそうです。

【以下、第2版で追加】

 学会ワークショップの後で、知り合いから多少は流れを訊いた上で、本日やっとDVDレンタルして観ましたが、なるほど、原題"My life without me"がいかにふさわしいものかに気がつきました。

 「愛と哀しみのボレロ」の原題("Les Uns et les Autres")は、英語に直訳すると「"THE WE"and"THE OTHERS"」というような感じでしょうが、その本来のタイトルと内容が切っても切れない関係にあるのとも似ていた気がします。

 こういうタイトルのつけ方は、何らかの意味で文学性も高い、ヨーロッパ映画(合作を含む)に少なくない気もします。

【第2版での追加部分、終わり】

*****

 これを書いている最中に、情報収集のためのネットサーフィン中に気がついたのですが、もうすぐ「2012」という「あと3年後」映画も公開されるそうですね(^^)

●「2012」公式サイト

 なお、この映画と引き付けることを「狙って」この記事を書いたわけではないことを、ここに宣誓させていただきます(きっぱり)

 要は「最高の人生の見つけ方」「死ぬまでにしたい10のこと」について再確認することを目的でググっただけでございます。

*****

●更なる追記:

 この記事との関連で、黒澤明監督の映画「生きる」の感想も、こちらにアップしました。

blogram投票ボタン
ブログランキング・にほんブログ村へ
人気ブログランキングへ
携帯アクセス<br /><a href=ビジネスブログランキング
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 心理カウンセリングへ
にほんブログ村 ニュースブログ ニュース批評へ

より以前の記事一覧

コメント・トラックバックについて

  • このブログのコメントやトラックは、スパム防止および個人情報保護の観点から認証制をとらせていただいております。これらの認証基準はかなり緩やかなものにしています。自分のブログの記事とどこかで関係あるとお感じでしたら、どうかお気軽にトラックバックください。ただし、単にアフリエイトリンク(成人向けサイトへのリンクがあると無条件で非承認)ばかりが目立つRSSリンク集のようなサイトの場合、そのポリシーにかなりの独自性が認められない場合にはお断りすることが多いことを、どうかご容赦ください。

最近のコメント

はてなブックマーク


最近のトラックバック

last.fm


フォーカシングの本1

フォーカシングの本2

フォト
2012年2月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29      
無料ブログはココログ

banner

  • 携帯アクセス解析
  • Google Sitemaps用XML自動生成ツール
  • Firefox3 Meter
  • ブログランキング・にほんブログ村へ

ブログパーツたち

  • track feed カウンセラーこういちろうの雑記帳
  • アクセス状況
    アクセス解析

カテゴリー