法政大学

2008/09/22

構造主義と実存主義の弁証法的止揚?(第2版)

 構造主義は、現在においても社会構成主義などという形で、形を変えつつ影響力がまだまだ残っていると思うけど、いろんな次元のことに複眼的な観察と思考と判断能力を持つことと、そうした分析過程を経て、1個人がどのような「選択」をしていくかということは、ある意味では共存可能でありつつ、同時に別次元の問題だと思うのである。

(などと「止揚」してみる)

 単なる価値相対主義のニヒリズムに留まる構造主義「者」に留まるのもつまらないと思う。ある意味でこの人の論調そのものが、単に金魚鉢を神の視点から眺めようとしているだけの、今日ありがちな論壇のあり方に留まり、「現実の制約の中で『自分は』どう行動するのか」という問題を回避している気がする。


*****


以上、

九尾のキツネ

もとい、

王子のきつねさんサイトの、

●サルトル先生はそのような擁護に迷惑なのでは…

への私のレスより転載。
 

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2008/08/07

人間性心理学会大会、熊本は再来年。来年は法政多摩!!

 日本人間性心理学会大会、熊本大学は再来年(2010年)で、来年(2009年)は法政大学町田(多摩)校舎とのこと。

 ここには現代福祉学部があり、末武康弘先生というフォーカシングの代表的研究者のおひとりがおられます。

 今年は取りやめにしましたが、
 来年こそ、今年予定していた発表内容で、
 人間性心理学会、心理臨床学会、
 ともに個人発表するつもりです。

 皆様と再会できることを楽しみにしておりますので、どうかよろしくお願い申しあげます。
 

****


 私はこの法制多摩キャンパスの学生相談室のカウンセラーを10年以上つとめたのです。

 何かと町田との縁は続くこういちろうであった。

 (...と書いても、本当の真意がわかる人は約1名 f^_^; 
  追伸:そのご本人から発表は見に行くとレスいただいた)


*****

 なお、元八王子市民、および大学に勤務した者としてひとこと。

 法政大学町田キャンパスの最寄り駅は、決して町田でも橋本でもありません。
 JR中央線西八王子駅、あるいは京王高尾線めじろ台駅です(バスの本数もたいへん多い)。

 町田駅近郊からは約40分かかり、バス等の接続(これはJR横浜線相原駅から)もかなり本数が少ないです。

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2008/06/20

秋葉原通り魔殺人の彼が贖罪できるだけの「環境」があることを!!(第6版)

秋葉原通り魔殺人事件と、宮崎勤の死刑「執行」のタイミング関連の、前の記事の続きです。

現段階での私が知る情報の範囲内で観ると、恐らく「精神病的な」面はほとんどなくて、「精神病質」でもない。「分裂型人格障害(schizotypal)」あるいは「分裂病質(統合失調症質)」(schizoid)というDSM的診断は最大公約数としてできるだろうけど、その診断に当てはまる層の多くは社会的にごく真っ当に生きている人たちの10数パーセントは当てはまると思う。

 要するに,クレッチマーの性格分類でいう「分裂気質」のやや濃い人たちのある部分、あるいは中井久夫が「分裂病と人類」でいう「S親和者」=それを典拠を示しつつ拝借した浅田彰が、「逃走論」で「スキゾ」とポップに名前を付け替えた、「病理」というには過ぎ、社会の最前線で適応的に行けている人は、有名・無名を含めて五万(じゃなくて日本に500万?)といて、「人も歩けば棒に当たる」水準の範疇化(カテゴリー分け)しかできそうにない。

 こう分類できる人を排除したら、文化や政治に貢献したかなりの人は抹殺されることになるし、ただの「パラノ」だけでは社会そのものが機能停止し、全人類が窒息する(浜崎あゆみだって、後述の夜回り先生、水谷氏だって楽々このカテゴリーに入る。

 未熟な私だって堂々とその末席を穢(けが)せる(^^)

 宮台さんだって、ある意味では浅田彰よりはかしこく大人になって、しかもしたたかに社会にコミットする戦略を続けている「熱い」人物だろう。

 もっとも、あそこまで博学な、衒学的(ペダンチック)な饒舌さと感じさせてしまう多弁を押し付けると、「鼻持ちならなさ」とだけ感じられてしまいかねない限界はあるとして。

 安易に「大衆を啓蒙する」ノリにはまらないのはひとつの挟持だと思うが、まだまだ「身を守っている」気もする。

 宮台さんもあと一歩「突き抜ける」必要はある。

 いうまでもなく、私も。


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 今回の事件の犯人については、学習障害などの広汎性発達障害の可能性もそんなに高くないだろう。

いずれにしても、犯行時の「責任能力」は十分にあったと思う。

もし今後、彼についてまたぞろ「多重人格障害」とか出てきたら、それは弁護士と精神鑑定医の「ひいきの引き倒し」となるだろう。少なくとも故宮崎や故宅間よりは健康性が高かったまま凶行に及んでいると思う。

ちゃんと贖罪できるパーソナリティの筈。

そうならないなら法曹界や司法精神医学やマスコミがよってたかってこじらせたといわれてもしかたない。


人がきちんと贖罪できるためには、それを可能にする「環境」におかれていること!!


これは今後の展開のためにほぼ断言しておいていいと思う。


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もとより、現行法制のもとでは死刑以外になる可能性は全くに近くないと思いますが。

私はこの問題が「死刑の是非」論になった瞬間に本質を置き去りにした議論に過ぎなくなると確信しています。


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●【秋葉原通り魔事件】加藤容疑者のメル友女性告白「悩んでいるようには見えなかった」(msn=産経)

(前略)

 彼女がトモと初めて会ったのは昨年7月末だった。

 携帯電話の出会い系サイトで知り合い、メールを何通かやりとりした。送られてくるメールは笑顔や悲しい顔などのカラフルな絵文字入りで、2、3行の短いものがほとんどだったが、一度始まると何往復もした。

 お互いに青森市に住んでいることが分かり、トモは「会いたい」と言ってきた。

 市内の駐車場で待ち合わせをした。ありふれたチノパンとシャツを着て、髪形には気を使っていないような印象を受けた。

 「きっと彼女はいないんだろうな」

 そう思った。

 名前を「ともひろ」と読み当てると、トモは「珍しいな。1回で読めた人」と笑顔をみせた。彼女はトモと呼ぶことに決めた。

 トモの軽乗用車に何度か乗せてもらった。車内は整頓され、後部座席にはUFOキャッチャーで得たらしいディズニーなどのキャラクターもののぬいぐるみが4、5個並んでいた。会話はあまり弾まなかった。ラジオやCDはかけず、車内はシーンとしていた。

 「この車、ずっと乗っているの?」

 「前はスポーツカーに乗ってたんだけど、事故起こした。今度、GT−R買いたいんだ」

 2人ともゲームが好きで、よくゲームセンターでUFOキャッチャーをやった。一度だけカラオケにも行った。歌を歌うのは好きらしく、一般の人は知らないようなアニメ系の歌を次々と入れていた。

 8月1日には2人で「浅虫温泉花火大会」に遊びに行った。屋台で食べ物を買ったり、花火を携帯電話の動画に撮ったりして半日過ごした。2人でいる間、トモは携帯電話の着信などを気にする様子はなく、親しい友人はいないようだった。
     
 花火大会の翌日。「親に家を追い出された。アパートに引っ越したから来ないか」と自宅に誘われた。

 部屋はアパート1階の1LDK。電気はまだ通っておらず、中は真っ暗だった。壁紙は張り替えたばかりらしく、清潔な感じがした。玄関にはスリッパが2足並んでいた。向かって右側にトイレと風呂、その奥にキッチン。左側奥には居間、その手前に小さな寝室があった。

 居間は10畳以上あり、フローリング床でテレビと大きなクリーム色のL字型ソファが占拠していた。「お金には困っていないのかな」と思う一方でこうも思った。

 「こんな大きなソファに1人でいたら寂しいだろうな」

 寝室には青っぽい絨毯が敷かれ、しわひとつない黄緑色のカバーがかかったベッドがあった。自炊をしている様子はなく、冷蔵庫にはその日の分のコンビニで買ってきた食べ物やプリンなどしか入っていなかった。

 一度、コンビニで買ってきた缶入りのカクテルを部屋で飲んだことがあった。トモは何本か飲んでも変わらず、酒は強そうだった。

 部屋では2人でもっぱらテレビを見て過ごした。夕方にはニュース番組をみることが多かった。バラエティー番組を見ているときなどは、トモは口元に手を当ててクスッと笑うこともあった。

 「オレと一緒になればいいのに」

 本気かウソか分からないが、トモがそんなふうに言ってきたことがあった。彼女は「それはないから」と、それとなく交際を断った。

 帰り際には必ず、「また来ていいから」と言われた。何度目かに自宅を訪れたとき、突然、合鍵を手渡された。

 戸惑いながら「いや」と言うと、トモは「いつでも来ていいから」と鍵を手のひらに押し込んできた。

 「誰かに頼られたいのと、自分も誰かに頼りたいのかな」

 そう思って鍵を受け取ったが、彼女がその鍵を使うことはなかった。

 8月も終わりに近づき、気がつくとメールのやりとりは途絶えていた。

 彼女が連絡先を変えたこともあり、それ以降連絡は一切取っていない。

「生きていれば何とかなる」と言っていたのに…
     

 加藤容疑者は彼女にとって「お兄さん」のような存在だったという。口数は少なく、自分の家族や悩みについて話すことはなかった。

 その代わり、彼女の話はよく聞いてくれた。

 当時、人間関係に悩んでいた彼女に対し、加藤容疑者は「生きていれば何とかなる。何かあってもオレがいるから」と優しく励ましてくれたという。

 当時を振り返り、彼女は「あんなふうに言っていたのに、自分がそうなったら(事件を起こしたりしたら)ダメだよ」と語る。

 彼女は加藤容疑者について「病んでいたり、悩みがあるようには思えなかった。もし悩みがあったのなら、私が聞いてあげていれば、あんなにたくさんの人を殺さずにすんだかもしれない」と唇をかむ。

 わずか1カ月間のつきあいだったが、今回の事件で、彼女自身もショックから立ち直れないでいる


*******

 
.......この記事は、あまりにもリアリティがある気がする。


 もちろん、彼女の力ではどうしようもなかったと思う。

 彼女の深い後悔と傷つきは、まさに知り合いに「自殺された人」が誰でも陥る「あの日にこうしてあげたら」心理状態とかなりの程度同質のものとすら思うが。

 私が大学学生相談カウンセラー時代に何度も研修を受けた、自殺学の権威、高橋祥友氏が"postvention"(「自殺された」人のケア)の問題として、語っているものを熟読のこと。


一冊なら「青少年のための自殺予防マニュアル」がおすすめ。

これは「犯罪防止マニュアル」でもあるのかもしれないという思いから。
 

以上、トラックバックうまく張れないでいるけど、

●公共機関のために準備中の文章です。誤りのご指摘などお待ちします。第2部【上の第1部に続きます】(MIYADAI.com Blog)

に寄せて。

臨床心理士にできるのは「診断」ではなく「見立て(assesment)」であり、直接あっても居ないクライエントについてのこうした推論は慎むべきとされているのを承知の上で、精神科医や臨床心理士など現場臨床家の多くが首肯し得る非常に無難かつ最大公約数的なラインとして申し上げました。


マスコミや弁護士や留置のありかたが,彼の症状を今後こじらせ得る「原因」として機能し得るため、犯行時の真相究明をむしろ混乱させ、類似の状態にある人たちにも悪影響としてしか機能しなくなるということを示唆することこそ私の狙いです。「自己成就的予言」への危惧ですね。


●【人、瞬間(ひととき)】あの先生 夜回り先生、水谷修さん(52)(中)(msn=産経)

この記事、何か、自分を見るようです。

私自身は学生運動まっただ中の団塊世代ではないし、いわゆる「ノンポリ」だった。しかし、ロックアウトや学内で発煙筒が炊かれるを学内で体験できた「団塊余韻世代」、水谷氏の数年後輩を、東京千代田区のお隣の私立大学で「哲学科生」として体験した。

体験した哲学科生としての違和感は、水谷氏と接点が相当あると思う。

水谷氏自身は「遅れてきた」「時代遅れの」学生運動家みたいな世代的マージナル(辺縁)性を持っていたと思うので。

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2008/04/25

ジェンドリン「フォーカシング」をもう一度読んでみる -通信教育制作日記(1)-

 さて、「ナレッジサーブ」の通信教育講座、装いも新たに

言葉にならない自分の思いって何だろう?
      -実践的「フォーカシング」講座-

として再出発すると、前回の記事で申し上げました。

(ナレッジサーブ事務局からは、「GWを生かして取り組んで下さい」とのお返事。なお、開講の権利そのものは1月からずっと保持したままで、内容を変える権利はあるので、新たに開講の費用はいらないのです)


 今の私のフェルトセンス(自分の置かれた状況全体についての言葉にならない曖昧な感覚)は、そのことを脇に置いて他のネットの書き込みをすることに、猛烈な違和感を表明しております。

 ayuのライブについての報告を一気に怒濤のように書き込んだ時、さすがにこのライブのことを書いてしまわないことには、私の心に余裕ある空間は生じようもないという思いが強いのでそうしたのですが、そのあと、いよいよこのブログに書き込みをすることが億劫になる症候群が顕在化してしまいまして、ともかく生活の中で、エネルギーを浪費せずに。まずは「心身の余裕を貯めたい」という思いが強くなりました。

(それでも、宮台さんの記事関連や、重元さんからのコメントには誠意を持ってレスしたいと感じて、やや強迫的になってしまったのは、もう、私の「性(さが)」としか言いようがなく、途中で「今はこのペースは無理」などと突如申し上げてしまったこと自体、私の自己管理の不行き届きのなせる技と申し上げるしかなく(^^;;;)、重元さんに申し訳なかったと思っています) m(_ _)m  


*****


♪本当に大切なこと以外
 すべて捨ててしまえたらいいのにね
 現実はただ残酷で


.......なんていったら、それこそayuさんの"Dearest"になってしまいますが(今回のツアーの福井でも歌ったのかな? 自分で「喉つぶした」とコメントしていたみたいだけど)。

 単に現実の残酷さに強制される思いばかりではなく(^^;)。今の私が本当に書きたいことは、本部サイトで公開している「フォーカシング入門」(1997)以来10年ぶりに、現在の私のフォーカシングのやり方全体をとりあえず一般の皆様向けに形にしてみたいという思いの高まりでした(前回のは尻切れとんぼでしたし)。

 今度やろうとしている「2008年版」は、著作の草稿にできそうな水準をねらっています。その意味で、有料にさせていただくことに、何の躊躇もありません。

 そこには、このブログ時々顔を出す、日本のフォーカシングのあり方への愚痴めいたものは顔を出させないつもりです。このブログは、フォーカシング関係者も読むという前提があるからこそ、時々そういう本音も漏らすのであり(!)、フォーカシングをお金を払ってでも学んでみようという人にとっては、そんなことどうでもいいし、邪魔になる事柄でしょうから。


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 さて、今度の「通信教育版」で、無料で読めることになる「第1章」で、今を去ることちょうど25年前(.......そんなに歳を取ってしまったのか、私)、ジェンドリン著「フォーカシング」と偶然出会った時に、私が、「フォーカシングは既成の心理療法と発想が根本的に違う」という感慨を抱き、空から稲妻が落ちてくるみたいに「宿命の恋」に落ちた時のことを書いてみる形で、「フォーカシングの特色」を浮き立たせ、最終的には自己紹介も兼ねる内容の持っていこうと考えたのです。

 そこで、ほんと、10数年ぶりぐらいではないかと思うのですが、「フォーカシング」の、25年前の4月末(!)、本屋で最初にめくって、目に飛び込んだあたりを、新鮮な気持ちで読み返し始めたのですね。

 具体的に言うと、「自分の評論のためにいや気がさしたら」という部分です。(第8章 訳書p.134以下)


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 ここでいう「評論(critic)」とは、今日では「内なる批評家」と訳されることが多い、繰り返し自分を責め立ててくる内なる声のことです。
 

「自分の評論を信じてしまって、それがどんなに嫌な気分にさせているかに焦点を合わせることはしないでください」

「フォーカシングは顔なじみの嫌悪感とは違った、もっと広い何かからフェルトセンスを生まれさせることを含んでいます。古い顔なじみの落とし穴を避けて、後ろに下がり、嫌悪感を一部として含んでいる悩み事全体全体からくる広い感じを組み込むのです」

「フォーカシングは重苦しい情動よりは軽いものです」


.......そうそう、このへん。

(今所有しているのはすでに「3代目」の訳本なので、買った当時の書き込みはもう残ってないのですが)。


 その頃の私は、自分をいろいろと分析して、自分を責め立てることが、自分に対して最も誠実で真摯なあり方だと思い込んでいたのです。

 心理学書をいろいろ読んでいると、自分がなぜこうしてうまく行かないでいるのかについての自己分析だけがどんどん洗練されていくことになりがちです。

 でも、通俗心理学書にありがちな、

「ネガティヴ思考はやめて、ポジティヴ思考になりましょう」

 なんていう言い方って、何か自分に暗示をかけているようで、自分を「思い込ませて」いるだけで、自分が奥底で感じている「何か」から逃げているとしか感じられないでいた私が当時いたことを、生々しく思い出しました。

 ジェンドリンは、著作を通して、深刻に悩むだけでも、自分の気持ち全体に向き合うことにならないことを、私にはじめて示唆してくれたのです。

 これをきっかけに、「真摯に自分と向きあう」ということへのスタンスそのものが、私の中で基本的に変化しはじめたのだと。


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 読み返してよかったと感じました。

 当時の私が出逢いを夢見ていた理想的なフォーカシングの先生になるつもりで、今の私が説明してあげるつもりになれば、いいではないか。

 今の私が読み返すと、当時の私がどういう点で読んでいて「躓(つまづ)き、違和感を感じていたか、そして、その後の経験を重ねる中で、ジェンドリンが言いたかったあたりの含蓄がどこにあったかが、手に取るようにわかるのを感じ始めています。なぜ、今の私のスタイルが確立されてきたかを含めて。


 .....もっとも、上に書いた内容そのものは、実際の通信講座のコンテンツにそのままは出て来ないかと思いますので、念のため。


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 正直に言って、さすがに4月中に講座をはじめることにとらわれて自分を追い込みすぎると無理が出るかなと感じはじめています。

 でもGWまでかければ、「第1期」開講は、イケそうかなと。

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2008/01/22

こういちろうの自分史

●@nifty TimeLine



このコンテンツは、刻々と増補されます(途中を含めて)

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2008/01/06

夢:こういちろう、ものすごいサクラ応援システムを背景に、発達障害の卒業生の裁判に協力するの巻

 恒例、「夢日記」ブログの方です。

 さっきこのブログで言及した夢は、もちろん非公開

 今朝にかけて観た、もうひとつの別の夢ですね(^^;)

   http://blogs.yahoo.co.jp/kasega1960/866341.html

 私の夢は、覚えているのはたいていSFじみていると同時に、妙に私の未来を予言している気もする。


 今回の夢は、バーチャルな今のネット社会についての、象徴的な夢ともいえますが、私の後味としては、非常にしたたかでポジティヴな夢です。

 是非、読んでみてください。

なぜ「ベン・ハー」かは、記事を読めばわかります!!

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2007/05/02

「牛」という言葉は現実のウシさんとは何の関係もない。

 さて、前回の話との関連で。

 私が、中学から高校の頃に、自分の哲学体系を作ろうなどと言う、ある意味でアブナいこと極まりない試みに熱中した時期があることについてはすでに述べたが、そうした果てにたどり着いた究極の「悟り」が、今回のタイトルにした一句である。

 「牛」という言葉は現実のウシさんとは何の関係もない。

 
 これで私は「救われた」のだ。

 わかる?


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 いくら、「うしー!」という言葉を100回唱えても、現実の生身のウシを目の前に生成できるわけではない。そのウシに「うし」という言語に対して何らかの条件反射が形成されている場合を除いては、ウシさんの目の前で「ウシ」と何回つぶやいても、それこそ「ウシの耳に念仏」だろう。

 もし、「ウシ」という言葉を「ウマ」という言葉にある日突然置き換えてしまうことに全人類が同意したとしても、それがウシさんやウマさんたちの運命に与える影響も何もないではないか。

 「牛乳」が「馬乳」と呼ばれ、「坂本龍牛」さんになり、茨城県「馬久」市となり、「競牛」が開かれるようになっても、もしそのことで混乱する人間や、スーパーでの商品表示にミスがないと仮定すれば、何の問題もない。

 こうして,私は、「言葉」というものから自由になった。

 そして、それから3年ぐらい後、この話を、大学の記号論理学のゼミの最初の飲み会で、その道の日本の権威とされていた担当教授の先生相手に力説して。

 「それは大事な問題意識だね」と言われた。

 その先生がビール片手に遠い目をして、「......今の私は、抜け殻になってしまった......」と,若き日を懐かしむようなまなざしをされたことが妙に忘れられない。


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 実はこの段階ではまだ知らなかったのだが、ウィトゲンシュタインの前期哲学(論理実証主義)を支えるもっとも重要なコンセプトのひとつのことを「写像説」という。ウィトゲンシュタインは、地図が実際の地形を見事に写し取っているという事実に「感動する」人でして(この心境がわからん人は哲学には向かない)、これを根拠に、言語と世界の間には一定の対応関係があると考えた。

 ところが、ウィトゲンシュタインの知り合いが、確か乗り合わせた汽車の中で、「じゃあ、あなた、『これ』、わかる?」と、確かあごの下を手でさする仕草をした。これは、その知り合いの出身地域でしか通用しないボディ・ランゲージだったわけです。


 こうして、ウィトゲンシュタインの「前期哲学」は一気に崩壊に向かう。

 一般の人が聞いたらコメディでしかないような信じられない話だろうが、このエピソードをご存知の哲学好きの人は少なくない筈である(今、記憶だけで書いてるので、多少の間違いがあっても許されよ)。

 論理実証主義というのは,一般には、「すべての哲学上の問題は、語の定義の曖昧性とその論理展開における誤謬によって生じたものであり、これらが解消された時、すべての哲学的問題は一気に解消できる」という考え方とされている。

(ウィトゲンシュタインの前期思想をそこにのみ還元するのはまちがいという見解がたくさんあるらしいが、ここでは「俗流」分析哲学とはこのようなもの、ぐらいにご理解のほどを)。

 これと,以前もご紹介した、「すべての命題はトートロジー(同義反復。A=A)である」という「論理哲学論考」における前期ウィトゲンシュタインの基本テーゼ(?)は表裏の関係にある。

 私の中高時代の哲学的な彷徨が,結局ウィトゲンシュタインのそれと相通じるものがあることを、その先生は看過して下さったのだろうと思う。

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 こうして、決して「論理的には言い負かされない」し、「非論理的」と言われようと馬耳東風(牛花北林????)で気持ちが全く揺るがない、でも「何となく深淵な文章」を書くけど、その背後にある「隠された論理性」なるものは後世の「こういちろう研究者」(?)が勝手にいろいろ「発見」して楽しくすれば? とまで開き直っている、こういちろうというパーソナリティが成立した。

 それは、いかなる意味での心理学的「実体論」をも排除し、すべての心理学的諸概念そのものが、最善の場合でも「その人のフェルトセンスにその時点でぴったりの言葉であるに過ぎず、専門家なるものの仲間うちで「間主観的同意」がなんとなく形成されているものであるに過ぎないというところで開きなおれる一面がある、ジェンドリンの体験過程理論への関心へとつながるわけである。


 私が「論理的」ということに過剰に拘泥する人間を迷妄だとしか思わず、その人自身が微細な箇所で無数にやらかしている概念定義の曖昧さと論理の飛躍を「悪意はないにしても、結局ただの詭弁術になってるのにね......」としか思えず苦笑する背景には、こうしたキャリアがあるわけです。

 「論理的」という言葉そのものには何の「論理性」も内包されていないのだから,この言葉を使う人の無自覚な「非論理性」をギャラリーが影でこそこそ嘲笑することになるだけなのだ。「論理性」なんて言葉を一言も使わないままの方が賢いのである。

 まして「論理」でなければ「直感」とか「直観」という言葉を持ち出す人そのものが、それだけでひどくつまんねえ,退屈な頭脳の持ち主であることを露呈しているだけである。ボキャブラリーの貧困と、アイゼンクふうにいえば「硬い心(tough mind)」であることをさらしているだけ。

 .....もちろん、ここで使った「硬い心」という概念そのものがわかんない人にはわかんねえでいいわけですね。ただの狭い世界で通用するだけの「符牒」に過ぎないので。でも少なからぬ外部の人にもフィーリングで通じる「効果」があればそれだけで現実へのささやかな波及効果という点では十分なのである。

 要するに、私は、この世に「アンチこういちろうサイト」を一つぐらい生み出す上で一番「罠にはめやすい」サイトを選んだだけで、そのことでほんの少しは浜崎あゆみさんにあやかりたい(爆)という、それが「目的」の一部であった「ともいえる」ことにすでに気がついているのなら、空しくなる筈ですが。

 公然とこっちのサイト名を取り上げ、リンクすら張ってくれるアンチサイトをひとつでも生みだせれば、それがその分ささやかに世間に認められるきっかけになるのである。その標的は、当然自分よりアクセス数が多くて、ちょっと思い上がったところがあるわりには何か勘違いに気づいていないサイトが望ましい

 その一方で、こういちろうが善人であり、少しお人よしで、謙虚でナイーブでピュアーですらあり、その一方この世の正義の味方であり、誤解をただし、学問的良心のかたまりであり、なおかつしたたかなリアリストでもある、愛すべき人物であること(誰か愛せよ!)は、このブログ実際に読んでいただければ伝わると思うので。

 (私の側にもっとキャパがあってもいいのではないか、あるいは、私の方が相手を買いかぶった挙げ句に勝手に幻滅しているだけでないかと言われれば、そうかもしれないのだが。.....ともかく、「物足りない」のである。カウンセリング関係のサイトの現状に。当面は、何より自分のサイトのあり方について、もっと吟味していきたい)


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 .....ああ、これでやっと、これまた,このブログの宿題の一つだった、ウィトゲンシュタインへの私の関心を具体的に書くことと、それがフォーカシングへの私の関心とどうつながるのかを一気に書けてしまった。


******


 なお、中井久夫先生は、ウィトゲンシュタインの「前期」論理実証主義から「後期」自然言語学派への転換を、「自己治癒の過程」としてとらえる小論を書き、それは中井久夫著作集に収められています。

 著作集「第3巻:精神医学の経験 社会・文化」所収の「ウィトゲンシュタインの”治療”」というエッセーです。

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2007/03/19

みんなみんな生きているんだ友だちなんだ!! -茂木健一郎さんの記事によせて(1)-

 しばらく前に、たまたまWikipediaで見つけた「クオリア(Qualia 感覚質)」概念とフェルトセンスとの関連についての、とりあえずの私見を書いたが、この「クオリア」の研究者である茂木健一郎さんが、この@niftyココログの著名ブロガーのお一人とは、「ココログセレブ」で特集が組まれるまで存じ上げていなかった。

 ここでは、「クオリア」概念いついては、興味深いのだが、まだ不勉強なのでさておき、茂木さんのこの特集での発言の興味深かったところについて述べてみたい。

*****

 のっけから、

> 「固定リンク」。それがブログの大発明!?

という小見出しが立てられている。もうこれだけでうれしくなってしまうこういちろうであった。


 つまり、各記事ごとに個別のURLがつくかつかないか、ということです。掲示板で日記を公開しても固定リンクがないのでどんどん記事が流れていってしまう。アーカイブ性がないっていうのかな。つまり、それまでは僕自身も読者もどこに何が書かれているのかわかりにくかったんですよね。

 ブログにはコメントやトラックバックといった機能もありますが、一番の大発明は『固定リンク』という機能にあると思います。要するに、記事単位で互いにリンクを貼ることができるようになったということですね。その機能があったからブログに移行したんです。 


 そう、この「アーカイブ(書庫)」性というのが、ブログのひとつの持ち味なのだ。

 私は、ご覧のとおり、ayuからトムとジェリーからiPodオーディオからフォーカシングから現場臨床カウンセラーのあり方への愚痴まで、まったくノンジャンルに気ままに記事を書いている。ひとつの記事の中でayuとフォーカシングとアニメとオーディオ関連と歴史の内容が混在してしまうことなどザラである。

 もう少し細かく整理して述べた方が読者にわかりやすいとは時々思うし、

「いっそのこと再構築して、カウンセリングとフォーカシング関係のサイトとしてわかりやすく整理したほうがアクセスも伸びますよ」

.......と、あるマスコミ関係のプロの方から再三アドバイスいただいていたりもする(^^;)

 しかし、私は、確かにあるわかりやすさは必要だと思うし、余裕があれば、ジャンルごとに記事を分割して書こうと「これでも」努めているつもりなのだけれども(^^;)、それでも、

ayuとフォーカシングが同居しているからこそこのサイトなのだ!! 

という基本スタンスを変えるつもりはまったくない。

 私は、カウンセリングが、世間の日常と切り離されて論じられるのが嫌いだ。

 ましてや、フォーカシングが他流派や現場カウンセリングや独立開業カウンセリングの経営的現実と切り離されて論じられることなど、「論外」と思っている。

 なぜなら、カウンセリングは、ごく普通の社会の中で具体的に生を享けたひとりひとりの人が、その人なりに社会に「棲息する」(中井久夫先生ふうにいえば、「世に棲む」)あり方への援助以外の何者でもないからである。

 (中井先生の名作論文のひとつ、「世に棲む患者」は、中井久夫著作集(岩崎学術出版)第5巻収録だが、現在古書市場でも稀観本のようである。たいていの大学の心理臨床系大学院のある図書館に在庫とは思いますが)

 今、「棲息する」という言い方をしたが、これは決してカウンセリングの対象になる人たちを差別しているつもりはない、私なりの用語法である。

 それこそ、私自身もまた、地球に「棲息」し、「寄生」している一個の生命体に過ぎないという認識の上で用いているつもりだ。

 そういう「棲息物」全体への大いなる連帯と共感と同族意識の上に成り立つものなのである。

 つまり、私は、野良猫や溝鼠やボウフラにも、浜崎あゆみやマドンナに対するのと同じ連帯意識を持つ(^^)

 それは「どっこい生きてる」ということなのである。

 これを読んでいて、

こっちではなく、

こっちを連想してほしいのだけれども(.......ああ、いつもながらのひねくれた衒学的なマニアック変化球( ^ ^;A

 ちなみに、私はかつて「ぽんぽこ」の舞台になっていた町田市町田回廊の山の中の某大学に勤務し、裏道で実際に行き返りに狸ばかりか狐や(恐らく捨てられた)フェレットとも遭遇していたのだが(最近は猪がでるそうで)、それは置いといて。


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 実はこの「どっこい生きてる」ネタは、まさにこの記事を書き出してから思いついた「即興」である。

 こうした「即興」で、当初書こうとしていた内容とはまったく別の方向に思考が膨らみ、タイトルまで変えてしまったりすることは、私の記事ではごくありふれている。しかもそれが、当初書きたかったことを見失ってしまう(missing)のではなく、たいてい当初の構想を統合しつつ、より進んだ内容に再統合することへと現在進行形で結びついていく。

 この種の、ハプニングをすべて生かしてしまう「ライブ性」こそが、どうも私の発想には欠かせないことのようである。

 そもそも、そういう「ライブ感覚」がなければ,現場カウンセリングは成り立たない。


 その意味で、ブログという媒体の即時性は、私にとっても重要だ。

 そして、頭の中のアーカイブの検索が自動的に始まり、

「そうか、このことについては関連事項もすでに書いたな」

.......と思い出し、茂木さんの言われるがごとく、とっさに「相互リンク」を張ってしまうわけである

(.......こうして、ちゃんと話の脈絡は見失わないのであった.....(^^:A


 それをフォーカシングでは「体験過程の推進(carry forward)」というのだが、これまた脇に置いといて。


*****


 コメントを読んだり、トラックバックをたどっていくと自分の勉強になることが多いんです。10人が僕のブログを読んだとすれば、その10人それぞれの異なった読み方になるんですよね。たとえば作家の村上春樹さんは、『読者が自分の作品を読んで誤読されたものの総体が自分の作品なんだ』と言っています。ブログの場合は誤読とまでは言いませんが、自分の日記がさまざまな形で読まれることを知ることにより、刺激を受ける。

 
 私のayu関連記事について、

「ここまでくるとayuへの片想いのラブレターだ。関係者や本人に取材してみようとしたことがあるのか」

.......というご意見もいただいた(^^;)

 しかし、私はそういう「片想いの思い込み満載」の文でどこまでいけるかにチャレンジしている(爆)

 ....というか、もし仮にayu自身(ないしayuスタッフ)がこのブログの記事を読んで下さっても(最もラディカルなayuサイトの一つを自負してますから、少なくともavexの「ネット監視担当者」の探索網には引っ掛かってると思う)、まさにそのような「勝手な思い込み」が書かれていることこそ、ayu(スタッフ)は面白がってくれるだろう確信しているからである(きっぱり)

 だって、

(.....この、「だって、」の時点でこの先を予想できた読者は、かなりのayuファンですが、きっと何人かいるよね)

ayuは、

「自分が絶望を歌ったつもりのところに、
君(聴衆)はきれいな花を見つけたりする」

高らかに歌い上げているからである!!

浜崎あゆみ - I Am... - Flower Garden"flower garden"

 思い込みの危険を冒さないところに理解の糸口などない。こちらも参照)

 思い込みを避ける人は、実は「知ったかぶり」に「安住」しているだけだ。

 「脱錯覚(disillusion)」のスリルこそ、生きることの醍醐味である!!


 もとより、それが自分が傷を受けるだけならともかく、相手に傷を追わせないように努めるだけの思いやりは必要と思ってますが(^^;A

↑この脈絡でこの作品を紹介すな!! という声が聴こえて来るかもしれませんが、原作、傑作だと私は思ってます。まだアニメ版は観てないのですが。この作品を「マジに」けなす人より、「アブナいなあ...」と言いつつも、「心から」爆笑できる人の方が、私はオタクとして好きだなあ.....)


****


「もし夏目漱石が生きていたら、彼はブログを使って小説を書いていたのでは?」

「ブログというのは『不特定多数の読者への贈り物』であり、誰もがそういう意識で書くべきだと僕は考えています。有名人のブログなどでよく見られるのは、片手間に書いているような文章だけど、『もっと本気で書いてほしいな』と僕は思いますね。多くの人はブログというものを甘く見ている気がします。そんなに甘いもんじゃないですよ、ブログというものは」

 全面同意!!


****


 .......と、ここまででかなりの長さにもなったし、茂木さんについての記事の前編と後編でトラックバックを分割するとちょうどいいので(^^)、こちらも前編と後編にしてしまいましょう。

 まだ、未読なんですが、茂木さんの著作や関連グッズ(監修されたもの)もここで紹介させていただきます:

脳とクオリア -なぜ脳に心が生まれるのか-

脳を鍛える!パソコンでできるみんなの脳力トレーニング

「やわらか脳」

脳に快感 アハ体験! (PSPゲームの監修)

「ひらめき脳」

茂木健一郎のモーツァルト・モード (CD監修)

プロフェッショナル仕事の流儀(6)


 私の専門とももろにかぶりますので、寄り道せずに、これから、まずは「脳とクオリア」を読んでみようかと思っています。

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2007/02/09

パンフの郵便番号が間違っていた!!

 正しくは、〒244-0843です。

 すでに修正版を職場サイトのpdfにはupしております。

 すでに発送済みの皆様、関係機関の皆様にお詫び申し上げます。

 誤りをご指摘下さいました、大学学部時代の恩師.....ほんとうにおもしろい心理学の講義を、当時の視聴覚の水準をめいっぱい駆使してして下さり、私を心理の道に誘って下さった先生....に、心から感謝申し上げます。

*****

 郵便番号のミスの場合、郵政公社の職員さんのお手間を増やすだけかと思いますが。

 そのため、残り分の発送は遅れていますことをお許し下さい(刷り直しまではしないで、修正部分のはりつけで済ませますが)。

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2007/01/19

夢の「補償」作用(第2版)

 最近、自分の見た夢を公開するという、身も蓋もないことを敢えてやっていますが、私にとって、夢とは、正直すぎるくらいに自分の状態を見つめさせてくれるもので、ホントに自分の夢に感謝しています。

 ユング派の夢分析というのは、集合的無意識(collective unconsciousness)の「解釈」の問題になると凄い博識が必要になることを別にすれば、基本的に凄くシンプルな夢理解の原則を持っているという点で、個人的には好みです。

 一言で言えば

夢の中に登場するものは、人間であろうと、動物だろうと、植物だろうと、無生物であろうと、建物であろうと、自然であろうと、すべて自分の分身、自分の自我に十分統合されていない自分のあらわれだ」

「自我の偏ったあり方を『補償』し、再統合の機会を与えてくれ、『自己(Self)』の全体性のバランスを取るために夢は貢献している」

ということに尽きるのだと思います。

 原則同性の登場人物を『影』といい、異性の登場人物の場合を(男の人なら)『アニマ』、(女の人なら)『アニムス』ということは皆様もご存じでしょう。『影』というのはネガティヴなものではなく、むしろ個性化を進めるポジティヴな面をも持つこと。ただし、それは常にある危険性を併せ持つことも確かだということも、一般に知られているでしょう。

 だから、先日の夢の中の、ライブを抜け出して、抽選で選ばれた男性ayuファンと「謁見」することになっていたayuは、私のアニマ像の投影であると同時に、何らかの私の「影」の側面を内包するし、登場した他の男性のayuファンも、私の「影」だし、「唄うayu人形」も私の分身だし、3人の女子小学生も私の分身であることには変わりがないことになります(夢に登場したayuと謁見する男性ファンは、私を含めて3人であり、女子小学生の数と一致していることにお気づきで、「意味深」と感じた方は、すでに読者の中においででしょう)

 この夢をどう理解するかは、マジに読者の皆様におっぽり出して、好きにいじくってもらって結構ですが(^^;)、

(私は夢分析というものは、ご本人との実際の相互作用のない場での「一般論」としては語り得ないと思ってますので。そうなると、夢解釈「する」人の内面が夢解釈に「投影」される側面が濃厚になるだけのものに留まります。ですから、「どうぞお好きに」と言えちゃうのですね)

 むしろ、ここでもう一つ、私の今朝の夢を紹介しましょう。

*****

 題して、

 「親父の逆襲」

(^^;A.....やっぱりそうなるか.....ってか?)


 ......相変わらず、私は出来の悪い引き籠もり気味で鬱っぽい高校生である。3年生に進級することはできたが、父親は、今後を心配して、今度は、私を外に連れ出して、運動をさせ、鍛えようと私に迫ってくるのであった!!(星一徹モード)

 私は親父から逃げ出すように大学に向かう(え? 高校ではないの? そーなんです。ここで私は大学3年生にすり替わる)。

 通うのは、実際の母校、法政大学市ヶ谷校舎である。雰囲気からして、私が在学当時、つまり25年近く前である。

 私の「同級生」として、私と「同じ」か「少し年上」の全国のフォーカシング関係者の中の何名かがいることになっている(.....さ、さすがに名前はお控えします)。
 時期は4月。進級したばかりで、これから「履修登録」までの期間ということになっている。

 月曜日の午後の時間帯は、3コマぶっ通しで、(ここでは敢えて名前をお出しします。怒られないだろうし)日本のフォーカシング関係者にはおなじみの、村里忠之先生のフォーカシングのゼミということになっています(村里先生は、現実に東京で大学での教壇にもお立ちです。別な大学ですが)。

 みんなはそれに既に一回出たといいます。私は、関心は持ちますが、午前中に予習の必要な外国語必修科目の「英語」のひとつをとらなければならないのに加えて、このディープなゼミ(^^;)に参加するのは、ちょっとしんどいかなと逃げ腰です。

(......ほとんど業界の楽屋ネタですね。現場カウンセリングの経験も豊富で、誠実な、博識ある、日本を代表するフォーカシングの研究・実践家のひとりです。関係者の皆様、笑って許して!!

 しかし、そんなふうに迷ってばかりでいたら、科目登録前に希望する講義をひとまわり試しに聴けなくなるではないかと思いつつも、なかなか出る科目を決めて、実際に出てみる決心がつきません。

 追い詰められた私は、突如久留米の実家の父の元を訪ねて(久留米まで帰る経過なんて出てこない。時空を超えてワープしたとしか思えない)、父の前で両手をついて、次のように宣言します。

「一年間休学させてください!!
 その間、フリーターとして働いてみます!!」

 私は、夢の中で、自分の口をついて出た言葉に驚いています。

 そして、

「フリーターとして働くと先に宣言してしまえば、無理に運動させようしてとした父の機先を制したことになる。「運動」の代わりに「働く」と言ってしまえば父は文句を言えないはずだ」

と、自分のアイデアに感心したりしています。

 そして、更に、

自分からここまで決然と『働きます!!』と言い切れたことなんてこれまでないよなあ。これならホントに、明日からでもフリーターとして働きはじめてもいいかもな......

......などと連想するうちに、目が覚めます。

******

 意外かもしれませんが、私にとっては、何か凄く爽快な夢でした。科目登録から逃げ出し、父親の運動への鞭からも逃げ出すための窮余の選択のようでいて、実は夢の中の自分は、一番新鮮で、適切な、これまでのステップを踏み越えた態度を取れていると感じたのです。

(恐らく、私は夢のただ中でも、現実の日常でと同じように、フォーカシングのモードに当たり前のように入れるのでしょう。だから、一見内容と矛盾するかに見える、夢の中での「フリーターをさせてくれ!!」と言えた瞬間のさまざまな心の動きや「妙な」爽快感を、あっさりスキャンして『みとめてあげる(acknowledging)』ことができてしまうんでしょう。だから、「夢フォーカシング」でいう、「バイアス・コントロール」をあとであまりしなくていいのだと思います。そこまでやってみても、それはそれでおもしろく、ステップは更に進むはずですが.....と書きながら、すでに今「バイアス・コントロール」まではじめてますが、そっちの内容までは略。)

 明日からバイト探しはしませんが(^ ^ ;)、来年の「非常勤一日の求職活動」はとっくにしはじめているのはホントですが。これも私の独断です。すでに「結果待ち」の段階。

 でも、何か「お金を稼ぐ仕事のために」、もっと前向きにできることはいっぱいあるではないか、とは気がつきました。それがなぜか爽快だったんですね。

 なぜ、カウンセリングルームのための「本格的な」パンフレット作りにここまで億劫がって来たのか? デザインはともかく、文章は、既にウェブサイトに掲げたものを整理すれば十分とわかっているし、写真は十分あるし、高速プリンタと、少し上質の用紙も、とっくに安価で手に入れている。Publisherだってとうにインストールしているのに?

 できていて当然のこと、まだやってないでしょうか?....と。

******

 相変わらず、普通なら悪夢っぱくなりそうなな夢を、最後の最後に、夢の中で、むしろ「起死回生の転換点」にできてしまう印象的な夢にできてしまうパターンが続いていることには変わりがありません。

 これはこれで、私の、自分の無意識とのつきあい方が、ある円滑さを持ち、普段から、フォーカシングで、自分の内なる声を確認しながら、毎日の「一切のこと」を決めているがゆえの、無意識との「友好関係」ゆえの、無意識からの「はからい」のような気がします。

 夢が、適切なタイミングで、次のステップを導いてくれるのです。

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2006/10/25

世界史の教育「現場」はあまりにおかしなことになっている(第3版)

 Web版毎日新聞でいうとこの記事にあたる報道からその後全国あちこちで表面化している,高校社会科教育(世界史・日本史・地理)の、受験対策のための、学習指導要領に反した「ごまかし」の問題ですが。

 そもそも、「社会科教育」=「つめこみ教育」=「それなら世界史・日本史・地理の中のどれかだけしか学ばないでいい方向に授業そのものを組む」、

.......という流れそのものが、いわば社会科と国語の学力だけで、国公立大学の「共通一次試験」はじめての1979年を迎え、苦悶し続けた私(ちなみに、その年、「哲学科」ですが(^^)、現役で地方大学の補欠合格の実績あり。しかしその頃には現役合格した法政大学に通うための上京の準備でも忙しかったし、個人的ホンネとしては「親元から離れないと私はダメになる。何より東京」という思いが強かったので、電話に出た私は「何を今更」でした)からすると、想像を超えた事態です。

 日本史ではなくて「世界史」が「必須」というあたりは、教育基本法改正が強行採決されようと、決して逆転はして欲しくない事柄ですが(^^)。

 以前も書きましたが、社会科が無味乾燥になるのは、生徒自身が徹底的に「興味本位に」掘り下げることをしないからです。

 それこそ「カノッサの屈辱」でも、「ウエストファリア条約」でも「トゥール・ポアチエ間の戦い」でも、「エル・シドのバレンシア制服」でも、「張作霖爆殺事件」でも、「大河歴史小説」を読むつもりで、一つの事件から堀り下げて行くと、古代から現在に至る、世界全体の政治や社会や文化について、縦横無尽でスリリングで,深い感動と痛みに満ちた、刺激的な視野が開ける勉強が、一人でも、猛烈な密度と柔軟性で、短期間で凝縮して可能です。

 時には、一つの本で感動した歴史上の人物に、別の本で見事な説得力で批判されていることに傷つくこともあるかも。でも、「失恋」よりは人生の肥やしとして痛まないでしょうし、たとえ歴史上の人物の影の側面や、美化や、あるいは実はその人の業績というのが歪曲された歴史の産物であったとしても、その人が歴史上に果たした役割を公平に見るだけの「俯瞰的な眼力」は必要でしょう。

 それは、恋愛に限らず、人を見る目を養い、相手の欠点ばかりに目がいくのではなく、むしろ欠点と表裏一体の人物評価の上で、相手と関わりの「距離を見定める」修養にもなるのではないか?

 ハインリヒは雪の中で3日間裸足で立ち尽くして法王の許しを乞うた事実はないらしい。もとよりハインリヒに惚れる人はいないでしょうが、皇帝と法王の権力争いという西ローロッパの宿命的なテーマに関心を持つ「きっかけ」を作る上では、なぜカノッサの「屈辱」と呼ばれるかの原型になった言い伝えを「物語」として最初に接するのは悪いことではないだろう。

 日本史でも、家康の参謀となった天海上人が実は竹槍で刺されて死んでなかった明智光秀だった、という説が、繰り返し否定されつつも繰り返して語られ続けていることを知ると、最近単行本化されて評判の女信長佐藤賢一の「女信長」もそれを踏襲したものだとわかる。「女信長」とか、宝塚で舞台化したら極限の倒錯の世界になると思うけど(^^;).少なくともアニメやコミック化には向いている題材のような。実写映画でもいいか?

 実在の人物であることがウソみたいな、ジャンヌ=ダルクが,世界史に深入りするきっかけだった人物だったという人は多いでしょうし。ジャンヌ・ダルクまたはロメ佐藤賢一さんの「ジャンヌ・ダルクまたはロメ」傭兵ピエール「傭兵ピエール」は未読ですが。

 ジャンヌダルクの映画は古くからいろいろ作られていますし、(私が観たのはビデオメーカー 裁かるるジャンヌ クリティカル・エディションこれジャンヌ・ダルク(SUPERBIT)【0610w_大特価】これという、やたら古いのと新しいの。 安いのではNO.10 世界名作映画DVD『ジャンヌ・ダルク』こんなのもあるらしい。

 そして、傭兵ピエール/満天星大夜總会(DVD)これは既にあるとは知らなかったこういちろう。これなら「女信長」の舞台化も時間の問題?。

 クラシックの歌劇では火刑台上のジャンヌ・ダルク(トールケース仕様)【IVCF-2148】=>20%OFF!・...「火刑台上のジャンヌ・ダルク」が一番有名でしょう。小沢征璽の日本での舞台の録画は観ましたが。

 あと,「エリザベス一世/メアリー・スチュワート(同時期のスコットランド女王)」もの、という題材は、繰り返し歌劇や映画で描かれる宿命にあります(今回は省略)


*****


 歴史の勉強を、生涯の「趣味」の一つとすることぐらい、社会人として、そして一人の人間として「生き抜く」上で、はりあいのある見返りに満ちたとは少ないかも。TOFELの勉強に「だけ」大学生になって血眼になるよりいいのではないかと。

 更に「教科書的な歴史」で書かれていることを「旧説」に追いやっている最新の歴史学説(Wikipediaで調べればいい)と照らし合わせながら関心を広げて行けば、国際人になっていくためのものすごい教養が身につきます。

 それのみならず、自分の抱いてきた先入観から自由になり、まわりの常識にも流されず、容易に政治的・思想的なプロパガンダにも流されないで、自分が「今」をどう生きていくか、およそ人とどう関わるか、組織や個人として、プランをどのように立てていくかということそれ自体への、柔軟で、しかし、いい意味でのalternative(ここでは「二者択一で」ではなくて、「代案を出せる」という意味での)な、具体的な決断力も養成すると思うのですが。

*****

「でも、受験的にはこれが『正しい答え』とされている」

というあたりまで「使い分け」られればいいんですよね!!


*****


 推薦"BGM"ならぬ"BGV"は、浜崎あゆみ『Free & Easy』浜崎あゆみの"Free & Easy"です(^^)。私は、このビデオクリップの映像から「だけ」でその背景にある歴史上の人物をあっさり見抜いたことで、某サイトの歴史記録に残っている筈ですが.......
 

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2006/10/19

「スピードラーニング」補遺。あるいは、フランス語には無能な私。

 遂に出た!! この記事の続編!!

......といっても、むしろ「補足」みたいなものです(^^)



*****

 恐らく「スピードラーニング」英語版が一番即効があるのは、学校での英語の勉強で「発音の聴き取り」以外は、多少なりとも、いやいやでも学んだ経験がある人たちでしょう。

 そして、

1.海外に一度でも行って、「英語で直接いろんな人と話せたらな」と素朴に感じた強い経験がある人。

2.英語のポピュラーソングは、意味がわかろうがわかるまいが楽しんできた人。

3.(アニメは別として)実写映画やドラマは、邦画よりは、字幕入りであろうがなかろうが、吹き替えだろうが、原語が英語の洋画が好きな人。

....などでは?

 もっとも、そうなると、中学生時代に苦手であろうとなんであろうと、英語の勉強をした人、ほぼ全体の、ほぼ「部分集合」になるわけですね。恐らく、三人称単数の”s"の付け方や、時制のことはまるで苦手な人でもOKでしょう。

(スピードラーニングには、中国語をはじめとしていくつかのバージョンがあるようです)

*****

 ちなみに、私、即興でできる日常会話力だけなら、大学で第2外国語だったドイツ語も現状では英語にさほど劣らないはず。

 Wie kost ist es,bitte?
(=How much is it,please?)

 Wie heissen Sie,bitte?
(What your name,please?)

Bach nicht beim Bach wohnt.
(バッハは「小川」のそばには住んでない)

......てな具合で。

カンニングしてないので若干のミスがあるかも!!)

 恐らく、今後ドイツでフォーカシング国際会議が開かれ、出席できたら、ドイツ語の簡単な日常会話の通訳(特にアメリカ人は、教養ある人でも、ドイツ語を「全くに近く」解さない人が、予想外に多いみたいです)なり、「寸劇」の俳優なり、ドイツリートの歌手なり、できるでしょう(少し練習すれば、現時点での浜崎あゆみの歌の広範なレパートリーでのカラオケ熱唱水準すら、「楽々」凌駕するはず)

 なぜなら、クラッシック音楽が好きで、ドイツ音楽がずっと好きだったからです。シューベルトのリートの何曲か(「野ばら」「魔王」、「糸を紡ぐグレートヒェン」、「セレナード」、「我が宿」、「海辺にて」「鳩の使い」)ぐらいまでならドイツ語で、少なくとも途中までなら、ごまかしながら歌えますから(^^)
ディースカウ/シューベルト:白鳥の歌 偉大なる名歌手たち~ヘルマン・プライオムニバス/シューベルト:歌曲集

  ベートーヴェンの「第9」の歌詞も、中途半端な覚え方だと思うけど、あれ、シラーの長い詩全体の一部だけ、しか同じ歌詞の繰り返しが多いので、全曲「勢いで」何とかなるかも。

耳から覚えて、なじんでいるんですよね。


*****

 ところが一転して、フランス語は、ほぼ全滅。ラテン語やイタリア語の方が、意味がわからなくても「聴き取れ」ます。オペラはイタリア語が多いし、筋の内容を知っているし、結構文字はカタカナ読みのままでいいので!! 

  ビゼー:歌劇《カルメン》ビゼーの「カルメン」(舞台はスペインでも、フランス語のみ)だけです。フランス語で、日本語字幕なしでも「道に迷わない」のは。

 バレエは、フランスのが多いけど、「歌舞伎」と同じで『定番』や『名場面』は異様に限られてるし、仕草(マイム)と筋だいたい知ってるし、何より、ダンサーの身体での表現を「感じる」ことが味わいの徹底的本質だから。モダンバレエの新作でも、素直にただ浸ればいい。

 でも、フランス語は、無声音がやたらと多くて、単語と発音の文節が一致しないから、全く「聴き分けられない」のです。

 是非、2008年にモントリオールで予定されている筈のフォーカシング国際会議には、トロント再訪を兼ねて出られるくらいには「稼げる」ようになりたいのたいのだけど(コーディネータとしてのオフィシャルな事柄で、行く「べき」事情もあります)、モントリオールは、ケベック州なので、カナダ唯一の、フランス語地域です。

 ドイツなら今でも街をぶらつけそうだけど、モントリオールの街では、外国人の観光やビジネスが関係する場所でないと、英語を、少なくとも日常会話では「全く」話さない人も多いらしいし、自信がないです。

 正直に言って、昨年、トロント行きの「ひとり旅の往路」の飛行機の中で、近くの席ででしきりに会話している西洋人の老婦人二人組が、かなりなまりのある「カナディアン・フレンチ」(???)を話して「いた」のだと気がついたのは、その席から「モントリオール」と「聞こえる」言葉が会話に急に増えだした、着陸直前でした。
 恐らく、トロント・ピアソン空港で、モントリオール行き「国内線」への乗り継ぎだったのでしょう。そして、モントリオールから、更に離れた地域のケベック州の田舎から、はるばる日本においでだったのでしょう(^^)。

*****

 実際、私、ほんの10年ぐらい前ですか、

「"Dutoit"って」、誰?

......と、CD輸入盤の店で真剣に悩み抜きました(^^;)

 
Francois-Jo!)l Thiollier - Debussy / Ravel : Piano Music - Ravel: Pavane Pour Une Infante Defunte - Pavane Pour Une Infante Defunte
ドビュッシーやラヴェルの「フランス輸入盤」
に至っては、そもそも今でも「曲名が」ほとんど全く読めない!!


......これは「今」ネットで調べたのですが、

”La fille aux cheveux de lin”

と書かれていても、何もわからないでしょう。


****


.....ということで、

 推薦BGMは、

島谷ひとみ CD【Delicious !】通常盤■送料無料■12月25日発売島谷ひとみの"亜麻色の髪の乙女"

とします(^^;)


(ひねくれもの~!! おかげでiTunes music Storeには、まだなかったりするではないか!! 

 代わりに、

 オルゴールの世界 - 夕陽が泣いている (懐かしのグループサウンズ オルゴールの世界) - 亜麻色の髪の乙女 (ザ・ヴィレッジ・シンガーズ)「オルゴール」版(しかもビレッジ・シンガーズの曲としての)

 ......avexも、何のかのといって、スゴク戦略的にiTunesへの提供曲を選んでますネ!!)

*****

追記:やっぱり
Maurizio Pollini - Debussy: Pr!)ludes I - Pr!)ludes, Book I: 8. La fille aux cheveux de lin
「素直な」リンクも、超大物ピアニストで!!

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2006/08/12

「すべては偶然なんかじゃなく、すべては必然なコトばかりなのかも知れない」(第3版)

 先週もご紹介した、msnの「のだみ流・働(はた)楽(らく)論!」 の連載、、第12回 「計画された偶発性」の実践(前編)は、に続く、第13回の「後編」も、いよいよ素晴らしい内容です。

> クランボルツ教授は、
> 数百人のビジネスパーソンのキャリアを分析した結果、
> 「キャリアの80%は予期しない偶然の出来事によって
> 形成されている」という興味深い結論を導き出しました。

> 絶世の美女と付き合いたいなら、青山を歩け。

******

 すでにここでも詳しく書いたように、私の生涯そのものが、まるで「神様が仕組んでくれた偶然の積み重ね」めいたところがあります。

 そこでも書いたように、フォーカシングと、当時立教の村瀬孝雄先生との出会いそのものが、ほとんど「神がかり的」な偶然でした。

 更に、その孝雄先生(奥様の嘉代子先生と区別するためにこの言い方で通させていただきます)が、「不本意ながら」東大に引き抜かれてしまうという、更なる運命の転機。

 孝雄先生ご自身は、東大に移られることを「栄転」などとは全く考えておられず、立教の教授として勤め上げることしか考えていなかったのですね。

 そのくらい、学会政治的には無関心、ただ研究者としての己れの良心に誠実でありたいと願うという点では、ほんとうに「永遠の青年」のようなピュアさをお持ちでした。 「だからこそ」、一介の「フォーカシングおたく」に過ぎなかったはずの私を院生として迎えて下さったのだと思っています。

 私が決して忘れない光景。

 「これで私の人生設計はすべて無茶苦茶になった!!」

と、孝雄先生は、立教の研究室で、院生たちを目の前にして、公式発表の場で口にした途端、「号泣された」のです!!

 それは、当時M2だった私にとっても、将来への決定的危機でした。

 「村瀬あっての阿世賀の立教大学院入学」だったのだから!!

 「もし、私が立教に残っていれば、君を博士後期まで面倒見て、研究者としての道を開いてあげられたのになあ.......」

 私が博士後期課程の試験に不合格になった(これは、当時の教授会の「全く適切な」判断だったと思います。残された教授陣にフォーカシングを指導できる先生がおられなかった以上)その日、二人だけの時に、孝雄先生自身が漏らされた言葉です。

*****

 私はここで、孝雄先生自身すら考えも及ばなかった「生き残り策」探しを始めます。
 
 どうして「その時」そこまで勇気が出たのか今も思い出せません。

 「東大の大学院研究生になれないか??」

 この調査は、何と孝雄先生にも内緒、当然「置いて行かれる」他の院生にも内緒の「隠密行動」でした。

 自分で赤門をくぐり、東大大学院の入試課を訪れ、大学院研究生の募集要項を手にする。
 
 基本的には、東大の教育学研究科の教育心理専攻の博士前期課程修了者でないと資格がないことを示唆する内容が、必要条件の「第2項」までには書かれていた。

 ところが、それに続いて、次の「第3項」があるのを私は見落とさなかったのです。

> 3.これらと同じ水準にあると認められる者

 私はこのことを確認した時点で、はじめて電話で、孝雄先生に「東大の大学院研究生になれないか?」と打診しました。

「無理ではないか」

と最初言っていた孝雄先生の電話口の声が、私が、先ほどの「第3項」を伝えた瞬間に突如明るくなります。

「うん、それなら君を連れて行けるな!!」

 私が東大大学院研究生3年間という、実質博士後期満期退学に近い最後の学歴「のようなもの」を獲得し、東大や九大をはじめとする旧帝大系の心理教育相談室出身者と同等のキャリアと人脈という「財産」を手に入れるきっかけは、たったこれだけの、向こう見ずな勇気のなせる技でした。

  「フォーカシング研究者」としての阿世賀は、ここでこの決断をしなくてもこの世に存在したかもしれない。

しかし。

「開業カウンセリングにおいても十分にその能力を発揮できる、現場臨床家」

としての私は、現在、この世に存在しなかったと思います。

その後、村瀬孝雄先生が早世された「逆境」すら、私は「運」に転じてしまいました。

 亡くなった以上、自分の師に甘えられない。でもそれは、師に拘束されないということでもあります。

 それだけ自立心の強い存在になるしかない。

*****

 私の両親の健勝と経済的安定が私を支えた「だけ」ではないか、と感じる方には申し上げたい。

 仮に両親が同じ状態にあっても、私が大学院浪人のまま、ただの駄目社会人でアニメおたくであるに過ぎない人間に留まる確率は、いくらでもあったでしょう? と。

 両親が健勝で経済的に安定していさえすれば夢がかなうほど、世の中は甘いものではないでしょう? と。

 敢えて言います。両親の健勝を支えているのは、実は私がある意味で「逆境に対して不屈」で、すべてを「運」に変える力を発揮してきた「から」、でもあるのではないか?と!!

第3坂で増補:
 
私はアニメファンを決して軽蔑はしていないつもりですし、アニメおたく、即社会人として駄目とか全然思っていませんので、誤解のないように。若いフリーターの皆さんにも、「私にできない生き方をしている」と心から敬意を払っています。

 ayuファンがアニメファンより上級という意識もないです。私がayuの熱烈ファンで、コンサートにも行き、学会発表までしたと知ると、大半が受験秀才であるに過ぎない若い院生たちの大半が「引く」のを学会の場でいくらでも体験してきましたしね

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 きっと、私がayuファンというだけでスーパーバイズを受けようかどうか迷っている人たちがきっとたくさんいるでしょうけど(^^;;;;;;;)、アニメへの詳しさという点だけなら、私が斎藤環先生に全然かなわないのは間違いないです。何しろ直接の面識があり、今ご紹介した本にあたる内容の講演も、ものすごいアニメの図版集付きのパワーポイントのプレゼン付きでお聴きし、エヴァンゲリオンの深層心理私のエヴァ本ですら「とっくに」読んでおられましたから。

「だからさ、今日の講演の企画者の中にあなたがいるとわかっていたから、今日は『エヴァ』ネタ多めにしておいたでしょ?」

私はむしろ、私の存在のあり方そのものを、

「アニメおたくでayuおたくだって、
何にだってなれるかもよ。
私の後に続け!!」

励みにしてもらえれば、とすら、思ってます。

 .....これこそ「傲慢な」言い方に写るかもしれませんけど、私が「おたく」ではあっても「エリート」でないことは、このブログの読者の皆様は、もうおわかりでしょ? 私は一介の「フォーカシングおたく」としての「出自」を決して忘れないつもりです。)

******

 実は、こうした成り行きをまるで「神秘」のように感じていることそのものが、私を最終的には傲慢に陥らせない「謙虚さ」を保たせています。つまり、

「神様は、私がそれにふさわしくないと思われたら、いつでも『容赦なく』私からその役割を取り上げてしまわれるに違いない」

と感じています。

では、「私に」できるのは何か?

自分にその時与えられた状況をすべて「神の意志」とみなして

「必死に『神の声』=『フェルトセンスの声』を聞き漏らさない生き方をすること」

だけなんです。

神(=フェルトセンス)が私に「開業せよ」と命じたから開業しただけです。

私は特定の宗教の信者ではありませんが、神の「臨在」は確信しています。

*****

 なお、「神との対話」とフォーカシングの関係については、スイスの偉大な法律家にして、「幸福論」「眠られぬ世のために」で著名な宗教的著述家、カール・ヒルティについて私が書いたことをご参照下さい。

 この記事のタイトルは、浜崎あゆみの
浜崎あゆみ - I Am... - Daybreak
"Daybreak"
の歌詞より取らせていただきました。

浜崎あゆみ/I am...4rdアルバム "I am..." 収録

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2006/07/20

今後、大学学生相談において、従来の「社会的引きこもり」に相当する学生についての相談は減って行く可能性がある(1) [第2版]

 30歳前後までの若い世代が陥りやすいとされていた問題として、「摂食障害」と、「引きこもり」が代表的なものとされてきたことに異論を挟む人は少なくないだろう。

 これら2つは、その時代の文化や社会、経済・雇用情勢や学校教育、マスコミの報道のあり方と密接に結びつき、ほとんど10年から12年という短期間のスパンで見ても、世代によって、その中心となる病態(私は「引きこもり」に対して「病気」という言葉を使うことに著しい抵抗感があるが)が、驚くほどのスピードで変化して来たことに特徴がある。

 摂食障害は、まずは「拒食症」(神経性無食欲症 anorexia nervosa)が注目を集めた。

karen そのひとつのきっかけが,1983年、カーペンターズ
Carpenters - The Carpenters: The Singles 1969-1981
のカレン・カーペンターがこの病の末に心臓発作で亡くなったことがマスコミで大きく取り上げられたことがが大きかったことを覚えておられる世代の方は少なくないだろう。

 なお、カーペンターズの伝記としては、
「カレン・カーペンター -栄光と悲劇の物語-」(レイ・コールマン著)
が、生育歴、音楽面、
私生活、カレンの病状を含めて、
たいへん秀逸である。

 しかし、摂食障害は、病態の中心を次第に、いわゆる「過食症」、すなわち「神経性大食症 Bulimia nervosa」に病態を移して行く。
 .....というか、「拒食症と過食症を往復する」形で、著しい体重の増減を繰り返す事例が多かった時代があるように思う。

 そして更に、無茶食いと自発的嘔吐を衝動的に「一気に引き続いて」行う、「過食嘔吐」を中心とする時代へと移行して来たように思われる。なお、過食嘔吐をする人は、実際には拒食症と近い、脳や身体の生理学的状態にあるとされることが多いようである。

 私は、20年弱におよぶ大学学生相談のカウンセラーとしての経験の中で、これらすべての病態のクライエントさんとお会いでき、その中心となる病態の変化をすべて体験できた世代である。

*********

 さて、これと似た、比較的短期間における、主たる様式の変化があったのが、大学における、いわゆる「退却神経症」である。

 大学生における退却神経症は、古典的な分類においては、「1.選択的退却」「2.全面退却」とに分類されていた。私はこれらに加えて「3.進路選択延期型退却」という分類も考えてみたい。

 1.「選択的退却」とは、

 「学生における本分である(???)学業、すなわち、講義への出席と試験、レポートの提出をほとんどやれない状態になっているが、アルバイトやサークル活動などの形での集団や社会への参加には積極的であり、しかも卒業後のそなえての求職活動はほとんどしないまま、ずるずると卒業を延期するが、すっぱりと大学をやめてしまったり、他大学や他学科、専門学校などへの転学をするわけでもなく、今日で言う「フリーター」としての生き方や、少なくとも自分がほんとうに就きたい職業を目指しての積極的活動(大学院受験、小説家や漫画家や、インディーズであってもミュージシャンとして生計をたてることをめざしての活動、職人への弟子入りなど含む)を「積極的に」していくわけでもない学生たち」

といったあたりであろうか。

*******

 2.これに対して大学学生相談における「全面退却」とは、

「学業のみならず、大学の対人関係そのものになじめず、友達もできず、サークルも、入ったとしても短期間のうちにやめてしまい、かといってアルバイトもほとんどしないまま、大学や社会に『居場所がない』と感じつつ、ずるずると進級→卒業を延期する学生。得てして自宅やアパートに引きこもり、近くのコンビニや買い物以外の活動はできず、主なる生活資金は親からの援助に依存している

......こういった場合である。

 私は、この「2.全面退却」型の中に、更に、

2-a.「特定の趣味などへの強烈な好奇心と、そのための『消費活動』(ネットブログや掲示板への書き込みにも積極的)という形で、限定された接点ではあるが、外の世界や対人関係への強烈な関心と『経済活動』『社会参加』はできるタイプ」

と、

2-b.「好きなものは何か? と尋ねられても答えに困惑するばかりで、毎日をテレビやネットの『閲覧』のみで『漫然と』過ごすタイプ」

が更に分類でき、これらのの二つのサブ・タイプはかなり異質だと、学生相談現場での経験から、感じ続けていた。

 (最近は、それこそアフィリエイトのネットショップネットオークション、中古市場取引で利ざやを稼ぐ人や、有料会員制のサイトの運営、ソフトの制作・販売などのインターネット活動は積極的に繰り広げる中で、生活資金は自前で見事に稼いでいるという人たちも増えて来た。このタイプの人は、この2つの「古典的な」退却神経症のイメージにはまらない、独特の社会「適応」・社会経済活動への「積極参加」の様式と考えられるが、そうしたケースはここではまだ詳しく論じず、別の機会に譲りたい)。

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 3. さて、もう一つのケースとして私が提案する、「進路選択延期型退却」というのは、

「大学での学業には非常に積極的に関与し、成績も得てして優秀であり、講義やゼミへの出席率もきわめて高い。しかし、自分からのブライベートな対人関係の形成や、自分からの自発的なバイト探しはできず、大学内部を離れると友人関係は、高校や中学時代からの友人に限定される。かといって、大学院に進学するなどして研究者や専門家(司法資格や臨床心理士)への道を踏み出そうという、「積極的な努力」にはなかなか踏み切れない。そして、就職活動に対しては極めて消極的で、自分が「一般社会」で大人として生きて行けるかどうかに不安を抱えたまま、「卒業延期」したり、「卒業しても」、他大学や大学院、司法試験に向けての積極的な「受験勉強」にはなかなか「身が入らない」

 はっきりいいますが、すでにここで書いた通り、私は3.タイプの学部学生でした。A獲得率92%、いわゆる「落とした」単位ゼロ、講義やゼミへの無遅刻無欠席。就職課に入ったことなし。所属したサークルは「臨床心理自主ゼミ(この自主ゼミはその後、実際の臨床心理士や福祉専門職ばかりではなく、「意外な」業界の「意外な」人材を何名も輩出するのだが)」、心理療法やカウンセリングの本は山ほど読んでいるけれども、他大学の心理学大学院への「受験勉強」、特に「非・臨床系」の勉強には内的葛藤が激し過ぎて、現役合格似失敗。(心理学系の大学院は「その当時」その大学になかった)
 でも、卒業はしてしまい、親に許しを得て、「専業大学院浪人」となり、幾つもの大学の心理系の聴講生となる。
 私の場合には、そうやって実質「プータロー」になりたての年の5月、ジェンドリンの著書「フォーカシング」との運命の出会いがあり、フォーカシングの専門の先生のもとでフォーカシングを更に深く学ぶためなら、実験系や学習心理、社会心理、統計などの「非-臨床系」の心理学を独学で勉強することにも積極的になろう、と思えたところで、やっと人生の方向がとりあえず定まったことはすでに別の記事で書きました。

 この時点では、「研究者」を目指すか、「現場臨床家」を目指すかは判断がつきませんでした。ただ、本音のところでは、優秀な「現場臨床家(psychotherapist)」の方が「臨床心理学者(clinical psychologist)」よりも偉い!!(^^;A .......となぜか感じていましたね。そちらになれる自信は「まるで」なかったのですが。

 その後、非常勤12年、そして「常勤」の学生相談カウンセラーを5年務め、フォーカシングでは、「国際資格認定資格者」としてまで認めていただき、そして独立開業したわけですから、私は、職業面では、すでに自分の人生の最大の夢の実現者です。

 あとは、職業人としては、

現場臨床家としての腕を『生涯、絶えず、更に』磨き続けたい」

ということと、

「も少し生計安定したい」

そして、

「自分が学んで、身につけて来たものを、きちんと後続の世代に遺産として残したい」

だけですね。

 ま、3つめは、いつ私が死んでも、「このブログを遺著として編集して出版して欲しい」という遺言だけは、『すでに公然と』このブログ自体で繰り返して書いて来た通りです。
 もちろん、生きられるなら100まで絶対生きたいし、許されるならば、身体が動くうちに、世界の私が本でしか知らない国々を、実際に旅してまわって、観てみたいのですが。優先順位は、イスラエル、ドイツ・オーストリア、スペイン・ボルトガル、スイス、ペルー・チリ、アイルランド、イギリス、オーストラリア、オランダというあたりかな。

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 ちょと一息、私のフェルトセンスが「一息つきたい」と言い出しましたたので、未完のままでとりあえずアップします。

 続き、すなわち、今後これまでの意味での「引きこもり」は、少なくとも「大学の学生相談の対象としては」確実に減少する、という、私の肝心な見解の部分は、また今度に。

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2006/05/20

私がポラニーの哲学とフォーカシングを関連づけたきっかけ

やっと,ハンガリーのポランニ(ポラニー、ポランニーと表記することもあり)の著書、暗黙知の次元「暗黙知の次元」への私の関心について、1からもう一度書く気持になりました。

実はこの関心は私の中でたいへん古くからあるもので、今を去ること15年前、1992年に刊行された「人間性心理学研究」第9号に掲載された、

「フォーカシングにおけるセラピストとクライエントの弁証法的相互作用について:技法論を越えた視点から」 

という、私のたった2つしかない「学会誌原著論文」のうち、最初のもので、ポランニを引用して論じたものが、唯一公式に発表したものです。

業績目録を参照下さい)

私がフォーカシングと運命的な出会いをしたのは1982年5月ですから、もう25年、ちょうど四半世紀のつきあいになります(法政大学の学部を卒業した年の卒業直後の5月、市ヶ谷の法政の生協で、ということは、生涯忘れまいとずっと思っていたので、簡単に正確な年月が出てくるのです)。

ポランニとの出会いは、すでにフォーカシングと出会ったしばらく後、恐らく1985-86年頃、本屋でたまたま偶然に、上述の「暗黙知の次元」というタイトルが目に止まり、これはジェンドリンの体験過程理論と関係あるのではないかという直感で手に取った結果でした。

今はついていませんが、当時刊行の紀伊國屋書店の発行の訳本(訳者も違います)

(これ↓)

には「~言語から非言語へ~」というサブタイトルもついていましたし、

ジェンドリンの体験過程理論において、「暗黙の意味(implicit meaning)」「明示的な意味(explicit meaning)」相互作用というのが重要な鍵概念であることはすでに熟知していましたから、

「暗黙知」という言葉だけで思わず私のアンテナが反応して、それこそたまたま当時の紀伊國屋書店の新宿本店で、中身もめくらずにタイトル買いしたのをよく覚えています。

ちなみに、ジェンドリンの体験過程理論についての必読文献が、「人格変化の一理論(A Teory of Personality Change,原書1964)」であることはすでに何回かこのブログでも書いてきました。

この英語原典(後日その表紙をこで、例によってスキャナでご紹介します)の書籍としての入手はもはや困難になっていますが、幸いThe Focusing Instituteのwebsiteで、今もhtmlとpdfファイルの形で全文入手できます。

恩師村瀬孝雄による日本語旧訳も、websiteで入手できます。この旧訳の今も捨てがたいところは、ジェンドリンが「最終的には削除」した、フロイト、サリヴァン、ロジャーズの理論との比較論の長大な部分を、村瀬先生が敢えてお訳しになっていることです。website版にもそのまま収録されています。

話がわき道にそれますが、実はこの「最終的には削除された草稿部分」があるないのとでは、ジェンドリンの体験過程理論そのものの「臨床的理解」に「雲泥の差」がでるはずの部分です。

ところが先に述べたinstitute公開のジェンドリンの原文でもこの部分はカットしたままなので、何と、この「草稿」部分に接することができるのは,現在でも、村瀬旧訳=日本語がわかる人だけなのです!!

(その草稿の部分を村瀬先生がジェンドリンにお返ししたのか、それとも日本のどこかにまだあるのかは、さすがに私も生前の先生にお伺いしないままでした。私もその現物は見せていただいたことはないままです)

ジェンドリンの英語は「ドイツ語で考えた英語」ですから、関係代名詞や、動名詞を正確にどう読み解くかにはかなり困難な個所も多いのですが、私は、研究対象としてフォーカシングにに関心を持つ臨床家は、「人格変化の一理論」の原文を、日本語訳と比較しながらでいいので、目を通すべきと考えています。

ちなみに、この村瀬旧訳が今日本で新たに中古書籍として入手可能かを改めて調べてみましたが、検索不能でした。

この村瀬訳は、若干の改訂の上で、
Ippo
池見陽先生編・解説のジェンドリン論文集、「セラピープロセスの小さな一歩」に収録されていますが、前述のフロイト、サリヴァン、ロジャースとの比較論の部分は掲載されていないことが、私には残念です。

******

話がポランニから離れてしまいましたが、

ポランニにおける、


「暗黙知」

と日本語で訳されている言葉は、英語版では、実は

"tacit knowing"

なんですね。

ジェンドリンの体験過程理論における、

"implicit meaning"

とは全く異なります。

しかし、やはり、理論的にcrossingさせると、興味深い共通項がやはり浮かび上がります。

このあたりについては次回、解説することにします。

*****

なお、なぜ私とポランニ哲学の出会いが1985-6年と「推定」したかと言いますと、

ジェンドリンの2回目の来日の際の東京・中野サンプラザにおけるワークショップが、1987年9月であり、その時、私はジェンリンに直接ポランニの哲学についての見解をお尋ねしたかったのですが、

当時の私は小心者過ぎて

結局、この数日間のワークショップで彼と出来た会話は


「エレベーターはどっちだ?」

「この階の向こう側のロビーです」


だったことを何年も後悔していたからです。


(え? 今の私からは想像できない?

ただの大学院マスター1年目でしたから)

****

ちなみにこの時のワークショップ全体の記録

Fseminor
村山正治編「フォーカシング・セミナー」

として出版されています。

巻末に掲載された、ジェンドリンの奥様、メアリー・ヘンドリックス先生による、

「治療変数としての体験過程レベル」(大田民雄訳)

は、カウンセラーの皆様におすすめの論文です。

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2006/02/02

やはり、耳栓型イヤフォンの名機、SHURE E5cについて書きます(万国iPod向けヘッドフォン博覧会 最終回)(第2版)

SHURE シュアー E5C

この前は敢えて言及しなかったけど、やはり書くことにしました。

上のアフィリエイト写真では小さいので、私の所有品をデジカメで撮ったものを。

(以下の画像そのものはサムネイルに過ぎず、グリックすると「大きな画像」が別ウインドウに出ます)

(「単3」電池はサイズの比較のため一緒に写しています)

e5ckakudai


室外で、乗り物の中など、他人に全く迷惑をかけない、

「耳栓型のイヤフォン」

としては、別格の高みにある逸品です。

SHURE社のホームページのこの製品紹介{英語)はこちら

このページも、イヤフォンの画像をクリックすると、拡大写真が出ますよ(^^)

ちなみにApple Storeさんはこちら!!

更に、楽天の、この製品に限らない、「SHURE製品大図鑑」こちらからどうぞ!!

輸入品で、そもそもオープンプライスですから、お店によって、売っている価格が4万台から6万近くと、無茶苦茶差があります。しかし、Apple Storeさんの価格が「適切な」相場のラインでしょうね。

それより安い場合、アフターケアはどうなのかということは、はっきりそのネットショップに記載ががなければ、メールで確認した方がいいでしょう。

...というより、ネットで検索する限り、どうもSHUREについては「正規販売店」はたくさんあっても、「日本総代理店」というのがないのではないか?

少なくとも、このお店は「正規販売店」であることをうたい文句にしています。このお店の解説はわかり易いですね。

もっとも、この商品なんて、耳栓の部品さえ商品として供給できる限り、「修理」という概念は何もないも同然の「超精密機器」です。最初から動かない場合を除けば、「アフターサービス」なるものの意味はあまりありませんが(^^;)。


Bose直販のQuiet Comfort 2
のように、「本体交換」が保証(保証書なしでの場合は有料ですが)修理である、というポリシーまで持ってくれるかどうか?????

*****

【使用上の注意】

1..このイヤフォン、耳たぶの後ろの方に、中に太い針金(?)の入ったコードをぐるりと巻きつけて、いわば耳を270度回り込ませる形で装着する、というその独特の装着法に慣れるまでが結構コツがあります。特に、普段から眼鏡をかけている人とか。私がそうだったんですが、使い慣れるまでは、耳たぶの外側に「靴ズレ」みたいなのができる可能性すらあります。

2.そして、一度、100円ショップにも売っている、プラスチックの先に粘着性のゴムをつけた、使い捨ての「耳かき」で、一度でいいから徹底的に耳掃除してから使うこと!!

耳垢が音の入り口の管から奥に進入したら、もうアウトのはずですから!!


3.数種類の、素材も形態も異なる様々な耳栓が最初から附属しています.が、遮音効果と確実な装着感という点では、シュアー トリプルフランジイヤパッド(ペア)【税込】 PA755(SHURE) [PA755SHURE]このタイプが「私には」ベストでした。これ、最初から取り付けてあるのとは別の奴です

(リンク張ったのは、消耗して交換する際の耳栓「単品」です。800円台ですから安いですね。もっと安いヘッドフォンで「イヤパッド交換だけで5000円」なんていう機種もありますから!!)

4.最初は耳の穴にどの程度どう押し込むといいか自体に戸惑うでしょうが、かなり思いっきり深く差し込むつもりぐらいでいいです。日本を含む他社の「類似品」の多くは、耳栓部分と本体が外れて抜けてしまいやすいけど、この製品はそんなことありません。片方だけ音がしない時には、耳の穴にぴったり差し込まれていないので管が押し曲げられているだけです。

「♪更に言うとすれば~」(^^;)、装着した状態で外部の騒音が左右とも同じ大きさで聞こえる(「.....でしか聞こえない」というべきでしょうが)のがベストな状態です。

1週間も使い慣れれば、こうした独特の装着法は「無意識のうちに」できるようになります(^^)

5.このイヤフォン、何とあの小さい中に「高音用振動版」と「低音用振動版」を内蔵した、「2ウェイ」イヤフォンなんですよね{そのメカニズムが半透明の函体(?)から透けて見えるあたりもメカ心をくすぐる)。だから、一ヶ月近くは使い込まないと本来の純粋な響きになりません。

最初は、たいていの「1ウェイ」イヤフォンより、音が「不透明」で「帯域が狭く」すら聴こえるかも。

6.実はこのイヤフォン、iPod向けに開発されたものではありません!!

あくまでも、ライブミュージシャンが、ステージのあの轟音の中でも、PAにミキシングされた後の音を聴きながら歌ったり演奏したりする際の必要性から生まれたものなんです!! PAの音って、実は1秒近く遅れてしかホールに響いていないんですよ。ホールエコーばかりか、電気にも「伝達速度」があるのをお忘れなく。

場合によっては、マイクから、コンソール、アンプ、ステージの上方の大スピーカーまで、数十メートルから数百メートルもの配線をしてあり、なおかつホールエコー、時には「満単位」の聴衆の叫び声でしょ?

******

このイヤフォンは使わないわけですが(^^;)、クラシックのオーケストラですら、指揮者からの距離や全体の配置の違いで、他の楽器の音が耳に届く時間差を指揮者とオーケストラの個々の奏者はわきまえ、更に、「指揮者の位置ではなく」、ホールの観衆にとってベストに聴こえる音のバランスまで配慮するという、「長年の職人芸」によってはじめて美しい響きを出せることは、オケや吹奏楽の経験者なら、皆ご存知ですよね(^^)

だから、オーケストラには「ホームグラウンド」となる演奏会場が是非必要なんです。(ayuにとってはやはり代々木の体育館かな?)

そこで音を「練りこんで」はじめて、ホールと一体になったオーケストラの伝統的な響きが生まれます。ウィーン・フィルは、ムジークフェラインザールなしには語りえないし、今のべルリン・フィルの響きは、最初は「カラヤン・サーカス」となじられ、音響面での調整を果てしなく繰り返した、ベルリンのあの多角形ホール抜きには語りえない。

そういう「ホームグラウンド」で長年本番演奏を積んでいるからこそ、海外ツアーとかでもその土地のホールの特性に、限られた時間{得てして数時間!!)で「なんとかかんとか」「少なくとも無難に」順応するものさしが、指揮者にも団員にも形成される

オーケストラも、ピアニストのソロ・コンサートでも、その日はじめて実演するホールの音響特性を意識して、曲の響かせ方かなりの程度コントロールするわけですね。響きの「多過ぎる」、しかも変な乱反射のある会場では、速すぎるテンポは決してとらない。そんなことしたら、まずオケの奏者が「音を合わせ」られなくなる!!
しかも、実際に演奏会場でのリハーサルの段階では、「客席に人がいない」ため、人体という柔らかい吸音材がないわけです!! その違いすら考慮しないとならない。

ブルックナーの「ゲネラル・パウゼ(「ジャン!!」という総奏のあとに休符を挟むやり方)」の多用や、金管楽器のファンファーレの多用、弦の渋くて繊細な響きで、一見派手ではないメロディーをしっとりと歌い上げるスタイルが、天井の高い、ドーム状のカトリックの「教会オルガン奏者」だった彼の経歴と深く結びついていることはクラシック・ファンにはおなじみですよね。

だから、残響がほとんどない、そのくせ湿っぽくてデッドで、空間に響きの癖がある会場で、ブルックナーの、特に3番以降の交響曲を演奏する羽目になったオケと指揮者は悲惨です!!

NHKの大ホールがクラシックにはかなり悲惨な会場ということはコンサート・ゴーアなら言うまでもなくご存知でしょう。そういう中での、70年代中盤のベーム/ウィーン・フィルの日本初公演の放送録音が、今から10数年前にグラモフォンから限定発売されてましたが、今の私のiPodとヘッドフォン(SHUREかグラドかベイヤー)にして、やっと、ベームとウィーンフィルが「あの」ホールでいかに「熱演」したのかがほんとうに「迫真的」に生き生きと伝わるようになりました(^^;)

ちなみに、もう20年以上前のこと、サントリーホールもない頃、東京文化会館という、当時の東京では一番「無難な」響きのホールで、ブロムシュテット/ドレスデンシュターツカペレ(当然、まだ「東ドイツ」です)の演奏で、ブルックナーの「ロマンティック」を聴いた時、私は始めて、第2楽章第2主題の、ビオラによる主題の「あの」深みに感動したのをよく覚えています。これを境に、たとえオーディオを通してとはいえ、ブルックナーの7番や8番の「真の美しさ」に目覚めたことは忘れれられない思い出です。

*****

更に、「♪更に言うとすれば~」(^^;)、

私は、私の地元、久留米の石橋文化ホールの響きと共に育ちました(知る人ぞ知る、名ホールです)。幼稚園の「お遊戯会」すら「あそこ」でしたから!!

だから、はじめて生のオーケストラ(「九響」でした)」を聴いた時の、弦のいわゆる「松やにが飛び散る響き」の、ナマととオーディオとの「根本的な」違いにショックがありました

外国の団体では、デムスとウイーン八重奏団を、このホールで高校生ぐらいに聴きましたが、確かモーツァルトの弦楽四重奏曲の後に続いて、シューマンのピアノ五重奏曲が鳴り出した瞬間、その「分厚い交響的な響き」に凄い衝撃を受けました

【音楽CD】シューマン:ピアノ五重奏曲 変ホ長調 作品44、ピアノ四重奏曲 変ホ長調 作品47この、往年の名盤とピアニストは同じで、他の奏者はもろに同じウィーンの伝統を「直接」引き継ぐ「後継者たち」ですね。

私のこの曲との「宿命的な」出会いは、こうして、第1級の演奏家と当時日本屈指の名ホールという幸せな形で幕を開けたのです。

だから、大学生になって東京に上京したら、

「東京にはろくな演奏会場がない」

ことに驚きあきれました。文化会館すら「他よりまし」程度にしか感じなくて。

******

.....などと、例のごとく「大迂回」しましたが(^^;)、

私の音の要求水準の根底には、幼い日から刷り込まれた、当時の久留米「石橋文化ホール」の響きを私の「身体が」決して忘れていないことにあることは、是非強調しておきたいのです。

その文化センターの前で営業していたというコーヒー屋さんが、今も別の土地に移転して、ささやかに営業しています。

ほんの○年前、帰省した時に、母と共に、父との待ち合わせ時間をつぶすために「全く偶然に」入ったのですが、壁中の百数十枚以上のサインがもう、無茶苦茶に凄いラインナップ!! 

ジャズ、歌謡曲、洋楽、クラッシック問わず、「戦後の世界の音楽界の縮図」でした。

ピンクレディからカウント・ベイシーまで当たり前!!

場所は、泥棒が出ると困るので(ごめんなさい、ネットやる限りは「お人よし」にはなれないのです)、おせーたげません!!

*****

さて、ですから(どーこーが!!!!)

恐らく、E5cはiPodには「オーバークオリティ」なんです。

ちょっと聴き、意外と帯域が狭くておとなしいと感じる(でも、鳴らしこんだ後の、ジャンル不問の「音のつややかさ」と、「各声部の定位のよさと音の溶け合いの両立」は「超絶品」です!!)

この音が「好みに合わない」人はいてもいいけど、鳴らしこんでも、「不快な」音しかしないと感じる人は、音源の装置の側の問題や限界を疑うべきでしょう。

この、一見渋い音の世界は、アナログカートリッジ以来「伝統の」SHUREの「絶対的な」音のポリシーでもあると同時に、

iPodの周波数特性を上回るためではないか?

と個人的には思っています。

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あと、このイヤフォン、他と比較すると目に見えて「ハイ・インピーダンス」なんです。音量コントロールの多機種とのあまりの違いで一目瞭然。

一般に、音源とのマッチングでハイ・インピーダンス過ぎると、むしろ音が少し「こもって」聴こえるものと思います。一見「大きい」音なんだけど。

ややローインピーダンスのマッチング(例えば私の愛用するベイヤーのDT-250やグラドの方)だと、むしろ「音のエッジが立ち」ます。高域端の「繊細感」が凄くなる。昔で言えば「MCカートリッジ」の、あの繊細さと、ヘッドアンプとの相性の神経質さを、アナログ経験の長い人は思い出してみてくださいそのかわり、装置のボロやs/n比のよしあしも、簡単に聴こえてしまうことが多い。

その意味では、逆に、かつて「MM型カートリッジの頂点」とみなされていたSHUREらしい音、そのものですね。

****

でも、途中で述べたように、これはライブステージに立つプロ・ミュージシャンの要請に応えて作られたイヤフォンです。コードを耳の後ろに回すという独特の装着法は、

1.激しく動いても外れない

2.ステージ上で目の前にコードが垂れ下がる「見栄えの悪さ」がない

(浜崎あゆみはライブではソニーのイヤフォンの愛用者みたいですけど、背中に電池式の無線装置隠してることはライブのファンでDVDも持ってたらみんな知ってますよね(^^)

それどころか

「超小型で透明な本体」と「銀色に輝く」透明ビニール皮膜のコードって、

ステージでも「美しいアクセサリー」として光り輝くことになります。

*****

そして、前述の「超ハイ・インピーダンス仕様」は、音質使われる環境から見ても、

まさにライブステージで、観衆の熱狂やPAを通したバリバリのエレクトリックギターやドラムスの「超弩級の」轟音の中でも、それに決してマスキングされずに、それを超えるだけの「ものすごい大音量で再生」しても、聴き取りやすい、「音楽性に富んだ」「美しい」響きで「装着者に聴き取れる」こと

が前提にあるのでしょう、

その点での「大音量での音の歪まなさ」も半端ではありません!!

ボリューム上げすぎるのに慣れてしまい、難聴にならないようにご用心!!

スピーカーを含め、プロ用の発音機器は、ローインピーダンスのものが多いと思っていたのですが、それはあくまでも「録音スタジオ」でのことなのだと納得。

******

やれやれ、明日が「定休日」で何も外出の予定がないのを幸い、コンソールのメーターがレッドゾーンに振り切れるまで「ライヴ熱演」してしまいました(^^;)

当初予定していたより数倍以上長い文になりました。

でも、少し前までに比べると、これでも「肩の力を抜いて」、「気軽に」書けたな、という、「身体の実感」はあります(^^)

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2006/01/30

ほとんど「オーディオの奇跡」という領域のヘッドフォン!!(+ 私の20余年におよぶヘッドフォン選定のさまよえる歴史)(第5版)

グラド プレステージシリーズ【税込】 SR325I(GRADO) [SR325IGRADO]【0127アップ祭2】GRADO SR325I

私の愛用する「iPodで使っている」ヘッドフォンの中の「横綱」をついに紹介します。

この製品のアフィリエイトを張っている楽天Joshin Webさんは、ネット上で売っているヘッドフォンの選択という点では、ちょっと他に類例を見ないセンスで商品を選んでいます。既に私が紹介したヘッドフォンの幾つかもここに含まれています。

でも、いつもここで買っているわけではなくて、ほとんどはお店で実際に試聴しないと私はヘッドフォン買わない主義なんですよね。

ホントに比較的最近になって、私が他の店でiPodで(!)試聴して合格点を出した製品の多くが取り上げられていることに、アフィリエイト・リンク探す過程で気がついた、という順序なんです


*****

学生時代(まだアナログ全盛の頃です!!)から非常に長い間、今はすでにとっくに製造中止となっている、ゼンハイザーの「黄色いイヤパッドの」ミドルインピーダンスのオープンエア.....といっても、かの名器410(だっけ?)でないあたりが、私のチョイスの、「絶対に自分の耳しか最後には信じない」ところですが......を、製品が自然に壊れるまで(要するに、振動板が経年変化でへなへなになってまともな音がしなくなるまで.)愛用していました。柔らかめの、ビニールに近いブラスチックの製品なのに、1000円もしないイヤパッドの交換さえし続ければ、例えば、誤って踏んづけるとかしても(^^;)、ちょっとやそっとでは壊れない製品で、この超シンプルな原理での「柔構造的堅牢さ(????)」はもはや今のゼンハイザーにはないものです(^^;)

でも、その私が、学生時代から、

「ゼンハイザーを凌駕するとすればベイヤーだな」と、

お金がないのに、自分の耳「が」うらやましがっていたのは確かです。

ゼンハイザーが「モニター的」というより、「音の演出のうまさ」で酔わせるというのは全然変わっていないあたり、凄すぎる「ブランドの誇り」、全然変わってない!!

そういう意味では、「年代物の」グッチとかを大事に使い続ける、「本物のブランド志向」の女性の皆様のお気持ち、理解できます。

つまり、時代が変わって、デジタル全盛、そしてiPod旋風の今に至るまで、この2社、音のポリシーの基本は「頑固一徹なまでに」変わっていないわけです!!

*****

私は、中学1年時代(1973年ですね!!)に、父親からのお下がりの「会話録音用」モノラル携帯カセットレコーダー(そうですね、「新書版サイズ」で厚さ4センチぐらいだったかと。マイクは内蔵されていない)に、「片耳のクリスタルイヤフォン」で、交響曲を聴いていた(!!!!)という、

ウォークマン登場より「遥か以前」からの「モバイルオーディオ愛好者」

です!!!

これはどiPodを語るにふさわしい人物は、滅多なことではいない!?

父親は、特に音楽好きではなくて、オーディオマニアでもない。チューナーとアナログブレーヤー内蔵のアンプでスピーカーだけはセパレートできるシスコン(という言葉もなかったろうと思う)で歌謡曲や軍歌や演歌を聴く程度の人間でした。

ただ、当時はビクターからでていた8枚組の、豪華な装丁の「クラシック音楽全集」(何しろ、この前書いたように、カラヤンを排斥しようとしたヴァイオリン名曲集ハイフェッツの「メン・チャイ」「ツィゴイネルワイゼン」(ここでは敢えてこれらが少しずつ聴ける抜粋盤を紹介しました)とチャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番ルービンシュタインの「チャイコの1番」ベートーヴェン:交響曲第5番「運命」/シューベルト:交響曲第8番「未完成」ミュンシュの「運命/未完成」(「未完成」はものすごい名演と今でも思ってます)【音楽CD】美しく青きドナウ~ウィーン・フィル・シュトラウス・コンサートカラヤン/ウイーン・フィルのワルツ集が含まれる!! 私のクラシック音楽との出会いって、今から思うと凄く高水準のものだったことになります)、 

そして、この前紹介した【音楽CD】アンセルメ/ビゼー:《カルメン》《アルルの女》アンセルメの「カルメン組曲/アルルの女組曲(ただし後者は抜粋)」と、「ウィーンフィルの10人の偉大な指揮者たち」という1枚ものオムニバスのLP(これに該当するもには今は出ていないみたいなので、ウィーン・フィルハーモニーと名指揮者たち新装版タイトルがそっくりの本(写真集みたいです)をご紹介)、

さらに、これはさすがに「ロンドンレコード(キング)」に発売元が移ってからの。【音楽CD】チャイコフスキー:組曲《白鳥の湖》/情景(第2幕) ワルツ(第1幕) 小さな白鳥た...カラヤン/ウィーン・フィルの「白鳥の湖」「くるみ割り人形」組曲抜粋

さらに、なぜかSPで「庭の千草」と「ソルヴェークの歌」が入った奴、

そして、通信販売の「ソノシート」で4枚組の。たしか、クルト・ヴェスという指揮者とベルリンなんとか交響楽団の「新世界交響曲」全曲、

以上、クラシックは持っていたんですね。

でも、親がそれを自発的に聴いていた記憶はないです。

ただ、『マドンナの宝石』フィドラー/ボストンポップスの「ベルシャの市場」をかけてくれと私が繰り返しせがんでいた幼き日の記憶はあります。

そして、中学1年の時、学校の音楽の時間で聴かされた、先述のビゼーの組曲「アルルの女」で、完全にクラシック音楽に突如目覚めます。

「そういえば、うちにもあったな」と。

だから、アルルの女は、主人公フレデリばかりではなくて、私にとってもFemme Fatale(ファム・ファタール=その女と出会った為にその男の人生が悲劇に至る「宿命の女」)なんです!!

もっとも、「幸せな」出会いであり、何の後悔もありませんが(^^)

父も、実はそれまでは、私が自分でステレオ(「ステレオ」=一体型の装置全体を差す)で「レコード(=LP、EPの円盤のこと)をかけると怒っていたのですが、私がクラシックファンになった途端に自由にさせてくれ、「あ、この音じゃ、針がもうすり減ったんだ、買って来てやる」といろいろ世話を焼いてくれる始末。

そういう、私の「自発的興味」にはひたすら「阿吽の呼吸で」「投資する」親でした。思春期以降、何かを押し付け、命令してくることは皆無。まさに「空気のように」私を助けてくれたのです

今でも.....かな? でもさすがにこの歳にして「直接の仕送り」「借金の肩代わり」とかは全くないですよ。

楽天への「投資」と楽天からの「利益還元」および「借り入れ」「返済」でバランスとってます(マジ!!)。

「アフィリエイトの現金収入」は「リンクシェア」さんのがそれでも一番多いかも。要は「楽天社会主義経済(???)」が私の経済の「結構」重要な部分です。正直なところ、このブログでアフィリエイトした商品の9割は、「すでに自分が同等品持っていた商品(たいていJ-POPや異常に偏った「洋楽」やクラシックのCD、DVDや本)、あるいは「持ってもいない」商品です。職場および自宅から歩いていけるヤマダ電気大船店の方が楽天より(更に、交通費が数百円かかるヨドバシより)安いパソコン関連や家電商品はそっちで、できるだけ「現金一括で」買って、「ヤマダの(ヨドバシの)」ポイント還元を「最大限に」生かすし、JCBカードのポイントも今やみんな楽天で「5倍で交換」できちゃうし、いわゆる「100円ショップ」も頻繁に器用に使ってます。

なぜか「米の蓄え」は1,2年分ではすまないくらいにある(これこそ「こういちろう最大の謎」かも)。服は紳士服量販店で「しか」買わない。中島みゆきやayuの旧譜コレクションのかなりは中古で集めたもの。1000枚を越すクラシックCDの大半は一番円高の頃(10年くらい前?)に輸入盤あさりしたもの。世界史は「気がついてみたら」学年どころか全国模試2桁の順位。国語はこれまた「なぜか」共通一次198点。今普段乗ってる自転車は楽天フリマの落札品。出張時の宿も楽天トラベル楽天トラベル(旧「旅の窓口」)経由で安いのや早割のしか探さない。東海道新幹線はこだまの自由席、小田原乗り換えしか普段は使わない(「滅多に隣に人が座らない」快適さ!! のぞみに追い抜かれるためのほとんど各駅の長い停車時間は、電波は絶対強い場所だし、「使い放題のモバイル」に最適環境!! すし詰めの指定席に「たった1,2時間早く着くために」乗るメリット、ストレス増やすだけで何もなし)。夜行寝台は料金同じのB「個室」の早期予約こそ最高!!福岡への帰省はそりゃもちろんスカイマークの早期予約が最近は多い!!

 「だから」(どこが!!)楽天の「画像表示可能なアフィリエイト商品リンク」に興味を引かれてこのブログ始めたんですよ。いずれにしてもライブドアでなくてよかった(爆))

*****

話をもとにもどします。

それくらいの筋金入り

「音楽を『イヤフォン』できいて持ち歩く

先駆者の大学生時代まで。

当時は当然CD規格そのものがまだ「なかった」わけで、秋葉原のオーディオの店(当時は完全に「オーディオの街」でした)では、数台のアナログブレーヤーを音源としてスイッチ切り替えで試聴できるという、現在では想像もできない売り場の光景がありました。

その10年間の間に、かの「携帯カセットプレーヤ」としてのSONY「ウォークマン」がはじめて開発され、それまでのヘルメットみたいな(^^;)ヘッドフォンが急速に軽量指向となりました。

これに、日本ばかりか世界のヘッドフォンとマイクロフォンの老舗の専業メーカーすら振り回され、危うく「軽量型薄利多売」路線に巻き込まれかかった不幸な時代が始まるのです。

コンデンサー型高級「イヤ・スピーカー」(「ヘッドフォン」と呼ばれることをかたくなに拒否していた(爆))で「あの」スタックスですら、

「携帯用コンデンサー型、電池式超小型アンプで中継するイヤフォン」という、ぶっ飛んだ領域に手を出したわけです。

音はスタックスの本道を行く大型コンデンサー型イヤ・スピーカーと比較すると

「まあ、一応健闘はしているけどねー」

でしたが(^^;)

スタックス コンデンサー式イヤースピーカーシステム【税込】 SR-001MK2(スタツクス) [SR001MK2...何と今もその機種、型番すら同じまま、「現役商品」です!!

この店でなくても、ヨドバシにすら置いてありますよ!!

(こういうあたりが、日本のメーカーにはあり得ないこと)

*****

さて、グラドのヘッドフォンの話でしたね(^^:::)

ジャンルは選びません。

そして、もののみごとに「後面開放型」だから、個室寝台でもない限り、とても他人のいる電車や飛行機の中では聴けません。

ブラグもステレオ標準ブラグのみですから、ステレオミニプラクへの変換プラグは自分で買って下さいね。プラグアダプターSONY PC-233Sこの機種のような、表面がプラスチック製やビニール製ではない、金属削り出しのものがお勧めです。

更にその筒状の表面にフチルゴムを2、3重くらいに巻き、表面がそのままではべたつくので、ティッシュを一巻きして余分をちぎってしまうと、しばらく使っているうちに、ティッシュの白さがフチルゴムの黒さに同化して、べたつかなく見栄えもそこそこに仕上がります。

こうすると、金属の鳴きが止まり、しかもプラスチックやビニール皮膜のものよりずっと音が澄んだものになります。

(しかし、そうなると、iPodで聴くとなると、ヘッドフォン端子から10センチは「固形物」が張り出すわけですから、てこの原理でへし折らないように用心して下さい。もっとも、力学的に見て、「ミニジャック端子が」折れるだけで、落としでもしない限り構造が堅牢そのもののiPod側のイヤフォン受け入れ端子はこわれないだろうと思いますが、万が一はあり得ます)。

あと、「振動板が凄く繊細そう」ですから、置き場所や持ち運び、尖ったものと接触しないようには細心の注意を!!

ちなみに、振動板のことを別にすれば、イヤパッド以外、すべてアルミ削り出しですので、並みの製品以上に堅牢です。

頭へのかけ心地ですか? 

軽いし、装着していることを忘れるくらい、「耳当たり」も自然です。

私は、「他の」ヘッドフォンに付属していたビロードのきんちゃく状の袋に入れて、一昨日までの四日市行きにも持参しました。

だから、危険を全く冒したくないなら、

自分の部屋でiPod音楽を聴くための製品と割り切った方がいいでしょう。

*****

(もうわかりましたよね、「音楽性は凄く違う」けど、「音楽を聴きながら」人ごみや電車へ「外出する」際に最高の機種と私が考えているのがどの製品か。

消去法でわかりますけど、「その製品」については敢えて直接書かずに、この、知る人が日本では「一層」限られているであろう製品の紹介を持って、代えさせて頂きます)

*****

ただ、Joshin Webさん、あの宣伝文句じゃ、クラシックファンがそっぽを向きますよ!!

もの凄いのは、少なくともiPod直結で聴く限り、

ロスレスかAACか、それどころかコピーするCDの音源が新しいか古いかすら全く関係なしに。異様なまでの生々しさですべての音楽ジャンルが聴こえることです。

アナログ時代の、しかも70年代ぐらい録音された、特に優秀録音といわれていたわけですらない、「マルチ録音の」オーケストラ曲を聴いてみるとわかります。

木管楽器のソロが、決して「音像肥大」せずに、適切なサイズで、間接音成分やホールトーンまで、信じられない「臨場感」で聴こえること!!

アコースティック音楽についても、恐ろしく繊細にして、恐ろしく解像度が高く、同時にバリバリのハードロックまで、迫力満点で「熱く」聴けます!!

.......というのが適切な宣伝文句でしょうね。

******

新品は一見少し音がハードに堅く聴こえる人もあるかと思いますが、2,3日の鳴らし込みで、ayuの最新アルバムも、まるで「現実のライブすら超えるくらいのライブ感」で、激しく、しかも繊細に(!)聴けると私は感じてますが!!

もっとも、例えば、浜崎あゆみ MaxiCD【Fairyland】同じマキシシングル収録なのに、実は"alterna"の方が"fairyland"より「遥かに」音がいい、どいうことまで容易に聞き分けられてしまいます(^^;)

要するに、デジタル録音で、録音時点での、マイクやコンソール、音のチューニングやミキシングに問題があると、それはむき出しで露呈されるようです。

その意味ではデジタル録音のスタジオでのモニタリングにおいても最高の機種の一つでしょう。

古い録音でアナログへのリマスタリングが「平均的」水準に達しているものの方がよく聴こえるわけです

******


もとより、現段階では、フルサイズのiPodの第2-第4世代機で、しかも「補助バッテリー付き」であってもなくてもいいから)家庭用電源から「切り離して」聴いた場合に限定した感想です。

しかし、これで、パソコン本体はWinでもMacでもいいから持ってるとして、

一番値段の高いIPod最新機種とあわせても実売10万前後

という、信じられないコスト・パフォーマンスことになります。

私の場合、これを超える音楽体験は、知人の紹介で、さるオーディオショップの試聴室で、LINNをはじめとするヨーロッパ最高級のビュア・オーディオの組み合わせ(1000万に乗っていいたかも....)でクラシックを聴いてみた時だけだということ。

*****

ただし、

以前書いたことを繰り返します。


「あなたの耳が」

確かに凄いと感じたときだけ買って下さい。


私は、ただの「情報源」になりたくはありませんので。

AVアンプへのリンク

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2006/01/10

夢はきっとかなう? -浜崎あゆみ”Pride”に寄せて-(第3版)

私が大学院に入った頃、フォーカシングは(今でもそうですが、今よりずっと)カウンセラーの間でも知られていませんでした。

(今は、「フォーカシング」と「体験過程」について最低限数行ぐらいは書けないと、臨床心理士資格試験の1次試験向け受験勉強としては、明らかに不十分です。つまり、若い「臨床心理士」がフォーカシングについて「何も知らない」というのはモグリです.....と断言します)」

focusing_hyoushi
左サイドの"My Fovorite Books"でも紹介している、ジェンドリンの著作、「フォーカシング」の項でも書きましたが、私にとっては、フォーカシングとの出会いは、それこそ、電撃が走る「運命の出会い」でした。

法政大学市ヶ谷校舎の大学の生協(今はきっとすでに2回ぐらいは店舗改築してて、当時の見る影もないのでは?)で立ち読みしていただけなんですから。

それまでも、おととしだったか、亡くなられた、小此木啓吾先生の著作を入門書とする形で、精神分析の本はかなり読んでいたし、自由からの逃走新版「自由からの逃走」で著名だった、エーリヒ・フロムの本は当時出ていた訳書を全部読んでいました。

(フロムの本で私の一番のお勧めは、"Man for Himself"(当時の翻訳タイトル「人間的自由の本質」です。すでに絶版、図書館で探してください)。

今とは違い、ユングには何かピンとこなかった。

なのに、このジェンドリンという人は、私が読んできた「すべての」心理学者が見落としていた事柄について見事に捕らえている!!!

「言葉にならない曖昧な『感じ』そのもの(=フェルトセンス)が一番大事なんだ!!」

これは、私にとっては、それこそ「ニュートン力学」から「アインシュタインの相対性理論」への跳躍に匹敵する「パラダイム」の変換、心理療法の世界における「大革命」としか思えなかったのです。そのことに気づくのに、ページをめくりだして5分もかからなかったんですね。

しかし、その時の私は、臨床心理の他大学の大学院を受験して落第したばかりの、一大学院浪人生(法政や早稲田や都立大学の正規の聴講生はしていました)に過ぎなかったのです。

そして、何とすでに「先ごろ」受験したばかりの立教におられる村瀬孝雄先生が、前述の訳書にも共訳者として名を連ねる、日本のフォーカシングの第一人者知らないまま、「一回目」の大学院受験を立教ですでにしていたことに気づいて呆然としたのです!!

****

それからの3年間は、先日書いたような、実験心理や行動主義心理学などを含む、心理学全般についての私の学力が独学で上昇して、村瀬先生「以外の」立教研究室の先生方が、

「阿世賀の合格、やむなし」

と「根負け」するまでの我慢比べ(爆)になったわけです。

*****

そこまでが凄かったですよ。2年目の村瀬先生を含む教授会面々を前にした面接で、私は、

「どうして私を合格させないんだ!!」

と叫んだくらいです。

*****

これ、「思い込み」がそれだけ強かったとか、「自信過剰のナルシスト」だからではないのです。

私なりにその段階で日本人の研究者が書いたフォーカシングの論文に目を通してみたら、

「そもそもジェンドリンの著作を『きちんと』読んでいたらこのような『誤解』をするわけがない」

という水準のものばかりであることに気がつき始めていたからでした。

それは私にとっては悪い「冗談」としか思えない状況でした。

たかが一大学院浪人の私が、当時の日本のフォーカシング研究者「全体」よりもジェンドリンを正確に理解している「らしい」

こんなことが許されていいのか!!!

(これは、ある種の「恨み」と「悲しみ」「呪詛」すら秘めた感情です。だって、ことフォーカシングに関しては、ほんとうに「甘える」ことができる「先達」が誰もいないということですから)

私は、その時点で、自分が思いもよらない「十字架」を背負わされたことに気づき始めていたのです。

まさに、● 浜崎あゆみ ”Duty ”CD (2000/9/27)"duty"ですね(^^)

****

この段階で、私は目標を「ステップアップ」し始めていました。

「ここまでは、日本中の研究者に『馬鹿馬鹿馬鹿!!」

と叫びたくなるくらいに「予想外にあっさり」クリアーできた。

もう、日本のフォーカシングの『研究者』として大成するだけでは『つまらない』。

ただのフォーカシングの「トレーナー」にとどまるのも「嫌だ」。

『現場臨床のカウンセラー』としても、第一線で活躍できることを目指そう!!

そこまでたどり着けなかったら、フォーカシングそのものが「無意味」である。

しかし、フォーカシングの可能性は必ず「現場カウンセラー」として役立つものを秘めている。

たとえジェンドリン自身がそこまでたどり着けなくても、私は「そこ」まで目指す!!

精神分析が、フロイト以降、メラニー・クラインやバリントやウィニコット、ビオンなどによって更に発展して行ったように。

フォーカシングを「輸入学問」にさせてたまるか!!

もちろん、日本や世界のフォーカシング研究者や実践家のさまざまな挑戦の中で、「私にとって」ほんとうに刺激的で、可能性を秘めたアプローチはどしどし「参考にする」し、そういう人たちとはお互い刺激し、切磋琢磨しあう「ライバル」関係にすすんでなろう。

でも、何より最後には、「自分の」試行錯誤、そう、私自身が「フォーカシング」を重ねる中で、フォーカシングそのものが刻々と「更新」されていくはずだ!!

「南海の」野村捕手ではないけど、

「生涯1フォーカサー」

であり続けよう.....と。

****

夢を見続けるには、

安易に妥協せず、

(少なくとも心の中では「不満な自分」を認めてあげて(aknowledging))

「絶望」し続けられる「能力」が必要なのです。

(この部分、絶望「しない」能力、と書いていないことがミソです)

時には、妥協した「フリ」だけして、ゲリラ戦的に「チャンスをうかがう」方が効果が゙ありますが(^^;)、

「ミイラ取りがミイラにならない」ようにするのもたいへんです。

そのためのコツは、「自分の盲目的な信奉者になる」弟子を決して作ろうとしないことだと思います。

(私は「さる筋」からの情報で、ジェンドリン自身がそういう考えであることを知っています。単に自分の「寵愛を受ける愛弟子」になろうという人を遠ざけ、他の人には「あの人にはオリジナリティがないから」と本音を漏らす人だということを。私はそれでけで、「自分の限界を踏み台にして、自分の死屍(しかばね)を『食って』、踏み越えてでも、更に先に進め」と本音のところでは思っている人というだけで、ジェンドリンを尊敬します)


私は、見込みがある人ほど、ある意味で「突き放し」ます。

その人自身が、「その人自身」の十字架を背負うことを願って。

****


BGMは、■送料無料 初回盤■浜崎あゆみ CD+DVD【(miss)understood】 06/1/1【11/30発売 新作CD】浜崎あゆみ /Bold&Delicious/Pride(CD+DVD)<2005/11/30>浜崎あゆみの”Pride"でした。

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2006/01/05

カテゴリー分けとはパーソナルなものでしかあり得ない?

カテゴリー分けの問題、面白いので、アドリブで続けます(^^)。

ひとつ、元哲学科学部生、そして一応実験系や行動主義心理学や知覚心理、社会心理や統計についても、ある水準以上の受験勉強をしないと、「臨床心理」や「カウンセリング」を学びたくても心理学科「大学院」に進めなかった時代の大学院出らしいことを、思いつくままに書き連ねてみましょうか。

今の認知心理学は、ゲシュタルト心理学全盛の時代と打って変わって、コンピュターのシミュレーションをモデルにして人間の知覚や認知や問題解決能力について模索する、ほとんど情報工学との境目のない領域に突き進んでいるわけですが、その段階に至る以前にも、哲学や物理学、そして心理学の領域で、様々な形で、「常識に挑戦する」思考実験がくり広げられてきました。

私はその一端しか知らない程度ですが、

たとえば、「因果関係」つまり、「原因」と「結果」の関係の「客観性」「普遍性」というのは、古代から哲学の永遠のテーマの一つなんですが、

イギリスの経験論的哲学者の代表格、デビット・ヒュームが、ごくかいつまんでいえば、

「実はある『一つの事象』が生じた時、同時に、あるいは、それに引き続いて『別の事象』が生じる」というということがその人の経験世界で反復されると、それが普遍的な『因果関係』であるかのような『錯覚』に過ぎない『因果関係の法則化』が生じるだけではないのか」

という「極論」を提示しました。

要するに、例えば冬の日本で、NHKで朝6時のニュースが流れる「から」夜が明けるわけではないし、夏は「ポケモン」が始まる「から」夜になるわけではない(^^)

発達心理学の領域では、ピアジェがこういうのを「転導的推理」と呼び、ある時期の幼児に顕著な普遍的認知様式であると述べました。


でも、こういうこともカウンセリングとは無関係ではないわけですね。

「思い込みを、現実社会で生きるしたたかなシミュレーション能力に転換させよう」の記事で書いた通り、


「すれ違う女の人が『嫌ねえ』と言ってる声が聞こえた「から」あなたがオタクだと『見破られた』」

確率は必ずしも高くないわけでして。

****

これ、実はワトソンやパブロフに始まる「行動主義心理学」にものすごい影響を与えたわけですね。ベルが鳴ると唾液腺が活動し始めるバブロフの犬の実験なんて、まさにこの路線です。

そして、実証的な心理学の統計的手続きにおいて、そこで見いだされた「統計的な相関関係」が「ほんとうの」相関なのか、「見かけの」相関なのかを「検定」する手続きが重視され、「この研究の『妥当性(validity)』はほんとにあるんですか?」などと、修論の中間発表会などで先輩や先生から吊るし上げられる、心理学科恒例の光景が見られるようになったわけです(^^;)


****


これは、社会心理学の世界では、「帰属理論(attribution theory)」というジャンルに引き継がれます。

例えば「内包特性理論(implicit personality theory)」という領域がありまして、その人個人が自分や他者の性格を判断したり評価したりする際の基準は、実は個々人にとってまるで異なることを実験的/統計的に証明しようとしました。

この流れの一つとして、オスグッド(Osgood)の「意味微分法(semantic dificiential method)」というのがあり、今回私が踏み切ったものすごく多いオリジナルカテゴリーの同時併用は、ある意味ではこのオズグッドの考えに近いかもしれません。私が「なぜ」その記事についてそのような複数カテゴリーを選択したか、ということを統計的に解析すれば、私個人の抱く「内包特性理論」は容易に数値化できるはずです(^^)


****


ぜぇぜぇ。

ええっと、臨床心理学「以外の」領域についても、このくらいの内容を「英語で」書いてある試験問題に楽々答えられないと、20数年前の立教大学大学院の心理学専攻修士課程では、最終選考に残れませんでした(^^)

それを3年かけて、当時立教におられた村瀬孝雄先生のもとでフォーカシングを学びたいばかりに(!)、ほとんど「独学で」何とかクリアーしたのがこの私だったりする(^^;)

わざと、何の文献も参照せずに一気に書きましたから、各用語については、wikipediaでも参照して、私が「今でも」当時の立教大学院に入れるかとうか、皆さん採点してください。

この記事は、決して更新しませんので(^^)

*****

ほんとうは、私の法政大学文学部哲学科学部学生時代の専攻だった、

ウィトゲンシュタイン「前期」=「論理実証主義」から、「後期』=「自然言語学派」への転換のきっかけのエピソード

という、これ知ってない奴は哲学科のモグリだよ、というくらいに有名なエピソードを引き合いに出したいところですが、これはまたいずれかの機会に。

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2006/01/02

ブログのカテゴリー分けをより具体化させる形に徐々に更新していきます(第10版)

@niftyのココログって、一度凝り出したらカスタマイズがし放題に近く、しかも文の長さにも制約がないので、ある程度HTMLタグを自分で打ち込めるくらいのホームページ制作能力があれば、凝り出したら切りがないのが特徴です。

同時に複数のカテゴリーをいくつ指定してもいいし、オリジナルカテゴリーも無尽蔵に作っていいみたいなんですよね(^^)


私のブログって、私の文章の「ワープ」的越境能力をとことん駆使してやろうという方針ですから、一つの記事について10幾つものカテゴリーを設定するという「荒技」を駆使してきました。

しかし、現在の@niftyココログのシステムからすれば。例えば「心理学」「心理療法」「精神療法」「カウンセリング」「開業カウンセリング」「サイコセラピー」「セラピー」などというふうに微妙な表現の間の違いでも、例えばこれらの言葉と「ヘッドフォン」との間にある差異と同じくらいに、「意味論的差分」の上で等価的/並列的に別のカテゴリーになってしまうことにもなります。

私はこれを、インターネットが「フラットランド」と呼ばれるものであることの「諸刃の剣」の側面についてのひとつの理解であると思っています。

ちょっと難しい言葉でいうと、「階層的分類」というものには、実は凄く個人的な側面があり、どうしても、誰もが納得する分類分け(パソコン風に言えば、「ツリー構造」)などあり得ないということになります。

その意味では、実はカテゴリーのパーソナライズを、完全に増えるに任せて野放しにしている@niftyのココログの方針は、「現実主義的に見て」、無難でしょう。さもないとクレームの山に忙殺されてしますでしょうから。

****

もっとも、記事をアップする前に、内容から自動的にカテゴリー「候補」を選び出し、作者に表示するまでなら、単語のデータベースとかと連動させれば、今のサーバー管理コンピュータでも容易にできるでしょう。

もっとも、アップロードまでのトラフィックがいよいよ渋滞する危険は高いですが(^^;)

しかし、今のコンピュータは、まだ、文章の本格的な「意味論的解析」という点では、まだ開発の歴史の初期段階なのは確かでしょう。最優秀といわれる自動翻訳ソフトの現状をみればどなたもお分かりですよね(^^)

「心理療法用語をまるでひとつも使わずに」カウンセリング関連の奥深いエッセイを仕上げるなんて、少しキャリアをつめば、ある程度できるようになりますから。


******

いずれにしても、私のブログ、カテゴリーの設定の個別化・具体化・パーソナライズという点では、これまでほとんど手を付けていない分、新たな読者の皆様を増やし、読みたいタイプの記事を過去に遡って検索して頂くには実に不便な状態だったと思います。

なんらかの意味でカウンセリング・マインドに関わる記事については、敢えて「手作業で」、「ウェブ上のカウンセリング論集 index」を制作してあり、右側(この点改訂)のテーブルの、ずずずず〜っと下の方に常設の入り口があります(以外と気づかれてなかったりして)。

でも、これじゃ、純粋の音楽系、例えば「J-POP」や「歌手別」の検索や、「オーディオ系」の記事は、はみ出してしまうわけですよね。


*****


そこで、本日、オリジナルカテゴリーの大量設定に踏み切りました。

先ほど述べたような理由で、極論すると、「心理療法」「精神療法」「サイコセラピー」「セラピー」という用語の間の違いですら、これらの言葉と「ヘッドフォン」「HDCD」という言葉の間にある差異意味論的「差分」の上で「等価」というのでやむなしというのが@niftyココログの「方針」(個人の「パーソナルな世界観」を尊重する開かれたネットワークを目指す限りこの方針はぜひ守り続けて来ださい!!)のようである限り。

私は敢えてこれらの「同義」の言葉を並列的に別のカテゴリーとして登録することに決断しました。

カテゴリーのリストがかなり長大化することは、どうか皆様お許しください。

なお、この記事で「だけ」、今後私が普段使用するカテゴリー「ほとんどすべて」にリンクを張っています。@niftyココログの「標準カテゴリー」の中で、ここにに含まれていないのは「ギャンブル」「スポーツ」「ファッション・アクセサリ」「グルメ・クッキング」など、ほんの幾つかということになりますが、こらら幾つかのカテゴリーですら、過去すでに適切と判断して使ったことがあります。

「ギャンブル」で意識的に私がどの記事でリンクを張ったか、すぐに思い当たる方は、相当ディープなこのブログの読者の方ですね(^^)

しかし、こういう「告知記事」でそこまで含めるのはそのカテゴリーの読者に迷惑なだけと考えて、敢えて今回は外しているだけです。

普段はもっとすっと短いので、どうかご安心を、

******

もっとも、私のブログの場合、個々の記事について、カテゴリーの再分類をするのは、なにしろこれが1年ちょっとなのに、すでに272件、しかも長い文が多い私のブログの性格上、とても一気にはできません。

最近の、しかも皆さんの関心を引く度合いが高そうな記事からカテゴライズの再構築をボチボチしていきますので、どうかじっくりお待ちください。

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2005/12/11

無遅刻無欠席の哲学科学生だった私が「カウンセラー」になった途端に一度見失ったものとは?

私が学生相談をしていた頃、非常に頻繁にうけた相談の一つは、

「友達ができない。まわりの連中はお互いにノートの貸し借りとかをして試験を受けているのに、自分はノートを『貸す』側にしかまわったことがない。大学のどこにいても『居場所』がない」

などというものでした。

実は私もそのタイプで、学部生時代、知り合いの代理で一日だけ国際交流の催しに出た1日を別にすると、
何と「無遅刻無欠席」で4年間を過ごしました(^^;)

しかも、教室が開いている限り、早い時間からその教室で過ごすのが恒例だったので、講義開始直前になっても私が教室にいないと、「休講掲示」が出ていないかとマジで掲示板を見に走る学生もいたとか。これは同期生の間ではささやかな「伝説」と化しています。

当然、成績はAが多かったです。だいたい、他人の書いたノートなんかを読むだけでテストでいい点が取れる奴らもいるというのが信じられなかったですが。

それなりに友達はいました。いつでもつるんでる友達も2人いました。

でも、周囲の学生たちの「恋愛談義」とかになると全然入ってはいけず、そういう自分にものすごい劣等感を感じていました、そして心理系の読書や音楽やアニメやオーディオの世界に没頭していたんですね

ちなみに、学部は法政の哲学科です。

専攻は「記号論理学」、ウィトゲンシュタインでした(^^;)。だから前回の須賀原さんのマンガも、普通の人よりは、須賀原さんがどれくらいその哲学者を「理解して」書いているかはよくわかる立場にいます。

今から振り返れば、ある意味で、何とももったいない4年間の使い方だったかな、もし、「今の私」が今の私の経験値と感性のままで人生やリ直せるなら、自分からもっと幅広い経験をして、いろんなタイプの友達とも付き合い、恋愛と幾つかもしたかなとも思いますが、でも、決して「後悔」はしていません

******

学生相談を始めたばかりの頃は、私は最初のような相談に対して、もっぱら「友達ができない孤独感や劣等感」に共感ばかりしていた気がします。

でも、その学生の劣等感や孤独感の更に奥深くにある、

「普通に周囲と楽しくやれている学生たち」

に対する

ものすごい「嫉妬心」

や、

ほとんど「怒り」の域に達した、

「のけものにされているかのような思い」、

自分は「普通の人間」にはなれない、

社会人としてもやっていけないのではないかという「絶望感」

まで汲み取ってあげていたかなという反省があります。

*******

私自身、ともかくも「カウンセラー」という職業に就け、

「一人前の社会人のふり」

ができるようになった段階で、

本当はその「カウンセラー」という

「外面(そとづら)」

の背後に、あいも変わらず深刻な形で存在する

圧倒的な疎外感や

他人への「逆恨み」的攻撃性(=ねたましい)

が隠れていることに自分で直面できなくなっていたんですね。

カウンセラーが、自分で直面できてもいないものについて、クライエントさんに真の共感を向けられるはずがない。

******

それが、この前書いたような次元での「うらやましい」につき抜けるまでは、更に数年要したわけです。

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2005/08/01

「湘南フォーカシング・カウンセリングルーム」の「カウンセラーこういちろうの雑記帳」をよろしく

えーっと、永らくの読者の方には何をいまさらということになるんですけど、実は「プラス」コースにアップグレードした時点でいろいろ高度な設定ができ,RSSリーダやらpingサーバーの設定、更新通知などの機能をぜんぜん生かしていなかった、ということに気がつき、これを機会にご新規様もおいでになるかと思いますので、改めてこのブログについて紹介させていただきます。

私、阿世賀浩一郎(あせが・こういちろう)は、神奈川県の大船で「湘南フォーカシング・カウンセリングルーム」という名前で独立開業している臨床心理士(心理カウンセラー)です。

しかし、根っから性格がクロスオーバーしてまして、心理やカウンセリングの話がいつの間にかayuこと浜崎あゆみ、中島みゆき、ユーミン、ELTなどのJ-POP、それどころかクラシック音楽の話題にすり替わったり、iPODの音質向上対策の話になったり、社会保険の任意継続制度の話になったり(未だに毎日1件はこの用語で検索してこのページに確実にお見えになる方、いるもんなあ)、アニメの話になったり、鉄ちゃん系の話題になったり、英語ができないままの無謀な海外旅行の話になったりします。

本部の個人WebSite、「阿世賀浩一郎のホームページ」に行けば、野猫ウォッチャーに凝った時期もあることがお分かりになります。

そういう自分の節操のなさを、実はいろんな検索用語にひっかかり、予想外の分野からの「お客様」の増加にもむすびつけようというせこい魂胆もないとはいいません!!

しかし、お読みいただければわかりますが、実際には、カウンセリングや心理療法の本質について、私がup to dete に感じていること、換言すれば、フランスの現代音楽作曲家・指揮者のピエール・ブーレーズの言葉を借りれば"Work in Progress"、つまり、まだ目に見えぬ、曖昧な「何か(something)」としてしか感じられないもののcompleteに向けて、ひたすらギリギリ限界の思索の試行錯誤を、遊びながら、かつ心身をすり減らしながら構築していく、"Thinking at the Edge(TAE)"の「実験現場」を公開しているのであり、しかもそれが生半可な「有名」心理学者や精神分析医の大半よりもスリリングで新鮮で生き生きとした文章で綴られていると自負してもいます。

というわけで、興味をもたれた方は、半年分たまっているバックナンバーを読んでみてください。


*****


恒例、今回の「強引アフィリエイト」ネタ。

ピエール・ブーレーズの指揮で私が一番好きな、【音楽CD】ストラヴィンスキー:バレエ《ペトルーシュカ》(1911年原典版)バレエ《春の祭典》ストラヴィンスキーの「春の祭典」「べトルーシュカ」がひとつ。ほんとは私、旧盤の方が好きです。

もうひとつは、私が専門としていてトレーナー養成・認定国際資格を持っている「フォーカシング」という技法こそ、マジに、まだ自分の中ではっきりしない、言葉にならない心身のモヤモヤ、まさに"something"との対話を深め、その人独自の完成に導く技法である、ということと関連付けて、もろ、【Rock/Pops:ヒ】ビートルズBeatles / Abbey Road(CD) (Aポイント付)The Beatles の"something"です。

これはこじつけでも何でもなく、今年5月に出席したトロントでのフォーカシング国際会議で、会議最後の「フォリー」と呼ばれる、いわば「打ち上げお楽しみ会」で、フォーカシングの名教師として著名なAnn Weiser女史が、ホントに歌ったのです!!

もっとも、途中から、だんだん曲がおかしくなり、恐らくAnnさんのお好きなオペラのコロラトゥーラのアドリブに化けていってしまったのですが(^^)。

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