新幹線

2011/05/11

九州新幹線初乗車道中記 (第2版)

 5月2日にやっと九州新幹線に乗りました。

 私は定期的に久留米から福岡市まで所用で通うのですが、西鉄久留米とJR久留米、天神と博多はかなり距離があるので機会を逸していました。(西鉄久留米から900メートルしか離れていないので、下りの特急や急行のアナウンスが、通過しないうちにはじめられるという「屈辱」を受けている、西鉄櫛原が最寄り駅m)

 この日に限り、いつもなら西鉄電車で帰りも済ませるところ、「出来心」が生じまして(^^;)

 短い道中記ですが。

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↑新しい博多駅の堂々たる威容。

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↑N700系

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↑新鳥栖駅

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↑久留米駅ホーム

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↑久留米駅コンコース

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↑田中麗奈が久留米弁ば話しょったら、凄う笑えそうやけんね。

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↑駅そばに新装開店したイタリアン・レストラン。「明善高校特割」なるものがある。(地元一公立進学校で、駅からもそんなに離れてはいない)。

*****

 新幹線の強みは、在来線および西鉄は、福岡平野と筑紫平野の間の標高わずが70メートルの地峡を通る形で、逆「くの字」のルートを取るのに対して、背振山地をもろにぶち抜く、「背振トンネル」という九州一の大トンネルで直進したことだが、新鳥栖停車の便に乗る限り、20分かかる。新鳥栖通過便なら12分だが。これで1550円。西鉄は特急券なしで600円!!

 こいつはほんとに西鉄特急のあの爆進ぶりより速いのか? てめえ本気出してないだろ?と。JR在来線に比べても、西鉄の福岡ー久留米間は、一箇所大曲りするだけで、ほほ直線コースだからこそできるのだが、27分で天神まで爆走する、私鉄における日本で2番めの高速鉄道である。西鉄の牙城は、少なくとも福岡ー大牟田間に関しては崩れようがないと思う。

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↑西鉄特急用車両、8000系  西鉄久留米駅にて。

 熊本まで脚を伸ばせば久留米からでも新幹線のありがたみが分かるかもしれないが、ともかく九州新幹線の新鳥栖から熊本までの駅数が密集していて、フル規格新幹線の常識を越えている(新鳥栖ー久留米ー筑後船小屋ー新大牟田ー新玉名ー熊本)。そりゃ、在来線の「有明」よりは速いでしょうが、熊本までの各駅停車の場合、思ったほどではないなと感じる少なくなくなかろう。

 でも、あの、名古屋駅ぐらいしが対抗馬がなさそうな新博多駅は、じっくり再訪してみたい。

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2010/10/30

のだめ様ご一同、大川、ではなくて久留米に、ついに到着(ご帰省?)!

 先日の記事でお書きした経緯を経て、千秋様のようにタクシー代1万数千円なと全く不要のまま、なぜ佐賀県に一度突入し、有明海の干拓地のまっ平らな田んぼの中の一本道に白目を向かれることもなく。

 あのちっご川(筑後川)の堤防も、うちからも500メートルしこ離れとらんっとよ! でも、あのっさい、20キロばかし上流なだけじゃけんど、結構近かとよー、のだめちゃんち!・・・・などと「大川弁」ではなくて「久留米弁」であいさつするけん。

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 遠かとこからよう来(き)んしゃたのお。台風ば来(き)よったけん、雨ば降らんかと、ちぃーっと心配しょったけんど、「あの日」と同じこつ、曇り空からちぃーっと夕日が差しよるけど、あんまじ寒かのうて(寒くなくて)来(き)とくれしゃって、ほんなこつよかったばいねえ。

 ゆっくり読ませていただくけんね!!

【追記】:原作の感想はこちら

のだめカンタービレ 1-24巻セット (講談社コミックスキス)

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2009/12/27

フォーカシングとスピリチュアリティ -12年前のワークショップでの体験-

 前々から考えていたのですが、かつて日本フォーカシング協会ウェブサイトに掲載させていただいていた拙文を、これを機会に、再度そのまま全文ご紹介しようかと思います。

 実質、もうすぐ12周年にもなるのですね。

 しかし、この時得られた気づきが、その後の私を、ひとつの宿命のように支配し続けてきたのではないか・・・という深い感慨を抱きつつ、私はこの数年を生きてきました。

===========以下再掲===========

エルフィ・ヒンターコプフ 東京ワークショップ体験記

フォーカシング・ネットワーク in 東京 第4回ミーティング
1998年1月25日 於:立教大学

阿世賀 浩一郎  

 アメリカからフォーカシングの有力なトレーナー、エルフィ・ヒンターコフ(ヒンターコプフ)が来日して東京でもワークショップを開いた。そのワークシップが非常に面白かったので、そのことを書こうと思う。

 このヒンターコフという人は、アメリカ生まれだが、ヴイーン大学で、先年(1997)亡くなった、ナチの収容所体験とその極限状況下において生の意味を見いだせる人たちについて考察した『夜と霧』(みすず書房)で有名な、実存分析の大家、フランクルのもとで学んだ後、文化人類学に専攻を変え、ネイティヴ・アメ リカンについてのフィールドワークに打ち込み、更にシカゴ大学のフォーカシングの祖、ジェンドリンのもとでフォーカシングを学び、今や心理療法家、フォーカシングの代表的トレーナーとして活躍中の方である。

 ヒンターコフ自身の著書、"Integrating Spirituality in Counseling: A Manual for Using the Experiential Focusing Method"(邦訳「いのちとこころのカウンセリング―体験的フォーカシング法」 日笠摩子・伊藤義美訳 金剛出版)によれば、厳格なファンダメンタリズム(聖書を字義通りに理解し、進化論も否定する)の家庭で育ったが、13歳の時、やりたかったダンスを取るか宗教を取るかを決断せざるを得なくなり、彼女はダンスを選んだ。何事も「すべき」か「すべきでない」かでとらえようとするキリスト教の風土は彼女にとって無意味に思われた。それ以来彼女は宗教を拒絶したが、日常の中で、ある「無意味感」を抱え続け、彼女が「意味の探求」と呼ぶものをはじめたという。

 前述のフランクルは、生の意味は自分の内側からくみ取るしかないと諭したが、それがどういう意味なのか、この時点での彼女には実感としてはわからなかったという。「わたしは、内側から意味を見出すには何をすればいいのかわかっていなかった」。平和部隊に参加して訪れたインドではヨガの導師に教えを請い、瞑想を学んだが、瞑想をしている最中は安らぎが得られるものの、日常に帰ると、また再び、以前からの葛藤に翻弄されてしまったという。
 
 ジェンドリンとフォーカシングに出会って後、フォーカシング体験を積む中で、はじめて彼女は、以前フランクルが諭した「自分の内側から生の意味をくみ取る」ということ、すなわち、「内側からの、静かな、かそけき声」を聴くということ体験的に理解できるようになった。そして、更に、フォーカシングを深く進める中で、「神、人間、森羅万象と自分が共にある」という体験に至り、仕事や他者との関わりや余暇の過ごし方において、自分の実感を大切にしながら生活することができるようになったとのことである。

***

 さて、今回のヒンターコフの来日セミナーのテーマは「スピリチュアリテイとフォーカシング」というものだった。このテーマは、ひとつには、今述べてきたような、彼女の精神的遍歴と強く結びついたものなのであるが、それにとどまらず、およそ欧米で心理療法やカウンセリングに関わる限り、避けて通れない重大な問題と結びついている。

 ご存じの方も少なくないかも知れないが、欧米では、クライエントに、セックスに関する質問を面接の中でしても、日本でに較べれば遙かにフランクに話してくれることが少なくない。だが、相手の信じる宗教は何かについて訊ねることは、日本人からは想像がつかないくらいにタブー視されがちとのことである。

 ところが、それにも関わらず、広い意味での宗教的なことに関わるテーマが、多くの面接の中で不可避に登場する。違う宗派の人間同士の結婚にとどまらず、同じ家族の中で、それぞれ信じる宗教が異なり、3つも4つもの宗派に分かれてしまうことも稀ではない。

 しかも、そのような家族や周囲との宗教の違いが互いの葛藤に影を落とすことがあるばかりではない。クライエント個人が語る悩みのあり方そのものに、日本人ではあまりみられないものが頻繁に登場する。例えば、

「重要なのは、イエス・キリストと私がどんな関係にあるかということなんです」
「私は神に対して否定的な感情しか持てないでいます」
「私はこれまでの生涯でずっと信心深い人間だったつもりですが、実は一度も神を体験したことがないんです」
「私が前世で体験したことが今の私を支配しているんです」

などということが、カウンセラー相手の悩み相談のテーマとしても、かなり頻繁に登場するらしいのである。

 それに輪をかけて事態を厄介にするのは、カウンセラー個人が抱いている宗教的な信念と全く受け入れがたいクライエントの発言をいかに受け止めるかという葛藤も生じることだ。だが、このようなクライエントの発言を避けて通ることは、クライエントとの関係を基本的なところで傷つけるものになりかねない。

 人間の移動が激しくなり、家族関係の枠がゆるみ、神秘思想や従来の欧米以外に由来する宗教に関心を持つ人も増え、違う価値観の人が密接に交渉を持たざるを得ない状況が進む中で、もはや欧米でも、宗教的な問題を心理療法の現場で扱いづらいものとしてタブー視するだけでは済まされない状況がいよいよ進展し、臨床心理関係の学会でも重要なテーマとして取りあげられることが少なくないとのことである。

 最近はやりの言葉で言えば、心理療法の現場も、マルチカ ルチュラリズム(多文化主義)的な発想を必要とするようになって来ているのが時代の要請なのである。

***

 こうした中で、ヒンターコフは、まず、"religiousness(宗教性)""spirituality"(霊性。以下の文中では特に断りがない限りカタカナで「スピリチュアリティ」と表記する)を区別することを提案する。

 "religiousness"とは、「ある特定の、組織的な宗教団体や教会などの信念と実践を守ること」である。それに対して、"spirituality"とは、「超越的(transcendent 常識的・合理的な判断を越えた)」次元での、独特の、個人的に意味深い体験」全般のことを指す。

 このようにとらえると、個々の具体的な神秘思想や宗派を信じると言うより、遙かに広範な経験が「スピリチュアリテイ」の名のもとに包括されることになる。例えば、自然や芸術作品を味わう中で生じた深い感動なども含まれてくる。

 だが、これは後者が前者よりも幅広い、包括的な概念であり、"religiousness"が"spirituality"の部分集合として含まれてしまうことを意味するわけではない。つまり、"religiousness"であっても"spirituality"ではないという次元も存在する。 これは、すでに掲げた、

「私はこれまでの生涯でずっと信心深い人間だったつもりですが、実は一度も神を体験したことがないんです」

という例にも示されているように、形の上では熱心に宗教儀礼をしているつもりでも、「常識的・合理的な判断を越えた次元での、独特の、個人的に意味深い体験」の方はその人に得られていない場合などに典型的にあらわれている。

 では、ヒンターコフは、「スピリチュアルな」体験をどのように定義するのか。

  1. 漠然とした意味を含んだ、(何か意味ありげだが、何なのか当人はすぐにはうまく言葉が思い浮かばない)微妙な、身体で感じられる感じがあり、
  2. その感じの中から、新たな、はっきりとした意味が啓示される体験があり、
  3. 超越的(transcendent)な次元での成長過程を伴う

この3つの条件を満たす必要があるとのことである。

 実は、この中の1.と2.は、フォーカシングで言う、

  1. 身体で漠然と感じられたフェルトセンス(felt sense)に注意が向き、
  2. その感じの中から、身体の感じの変化と共に新たな気づきをもたらすfelt shiftが生じる

ということに他ならず、通常のフォーカシング体験や、生産的なカウンセリング場面、あるいは創造的な表現や発見の現場ではごく普通に生じている現象である。

 だが、このような「身体で感じられた曖昧なモヤモヤした何かの中から、身体の感じの解放と共にその個人固有の意味が啓示される」という実感ある体 験が、いくら信心しても得られていない人は少なくないらしい。仏教的に言えば「悟り」の経験が得られたという実感がないということにあたるかも知れない。

 しかも、それが通常のフォーカシング的体験ではなくて「スピリチュアルな」体験と言えるためには、

  3..超越的(transcendent)な次元での成長過程を伴う

が加わることとなる。

 ヒンターコフはこの「超越的」体験のことを、

「今までの自分の準拠枠(frame of reference)を越えて新しい次元に進んでいくこと」

「深いところから命を前に進めるエネルギー(life forward energy)があふれ出し、自分の中の何かが動き出すこと」

などとも説明している。いわば「世界」の体験の仕方そのものが全体としていきいきと変容していくような経験であるとも言えるかも知れない。

***

 ヒンターコフは、このようにスピリチュアルな体験をフォーカシング的に定義する上で、体験の「内容(content)」ではなくて体験の「過程(process)」という観点を重視した。

 つまり、「スピリチュアルな」体験の中で、具体的に「何を」体験し、それをどのように意味づけるかは人それぞれである。ある人はそれを「悟り」と 呼び、ある人は「神の臨在を体験した」と呼ぶだろう。ある人は「前世の自分の記憶を思い出した」といい、ある人は「宇宙と自分との合一を体験した」といい、あるひとは「イエスが神でありなおかつ人であり、いつも自分と共にあることが実感できた」というかもしれないし、ある人は「全てが<無>であることがはじめてほんとうにわかった」というかも知れない。

 それらを聞いていて、「内容」や「具体的な意味づけ」に感情移入できないどころか、抵抗や嫌悪すら感じる場合もあるだろう。

 しかし、「それは『あなたにとって』どういう意味があるのですか」などと、更に具体的に、そこに到る個人的な心情のひだの動きを更に傾聴していけ ば、かなりの程度まで、その人個人の中でどういう「感じ」が生じ、それがどのように変容していったのかが実感を持って共有できる可能性が開けてくるのである。つまり、はっきりしない漠然とした感じの中から生起した何かが、身体感覚のシフトを伴う気づきを生み出したプロセスそのものにシンクロし、共有することはかなりの程度可能になる場合がある。

 ヒンターコフは、このようなスピリチュアルな体験の「プロセス」の次元でならば、特定の宗教や神秘思想の用語への違和感などに振り回されずに共有可能と考えたのである。この人は「こんな」感じの中から「こんな」感じが生起してきた体験を、例えば「神の実在を体験した」と名付けているのだ、その名付け方には自分はなじめないが、その人にとっては、「その」体験をつなぎ止めるためのhandleとして、それを「神の実在体験」と呼ぶのがどうもぴったりらしいことは受容しよう……という形で接点を作るわけである。

 その体験をどのような「名前」で呼ぶかは、その個人固有の領域なのである。

 大事なのは、そこに身体感覚の変化と、その人にとって漠然と意味ありげに感じられていたものの中から何かがはっきりとした意味として実感できるようになる過程そのものを、相互作用の中で共有できることそのものなのだ。

***

 

「果たして、スピリチュアリティというテーマで人が集まるかのか?」

 このような疑問を抱いていた人は少なからずいたようである。私もその一人である。多くの日本人の宗教との関わりが形骸化している中で、果たしてピンと来てもらえる人がどのくらいいるのか?

 今回の東京セミナーは、幸いにして定員いっぱいの50名近い参加者に恵まれた。インターネットでのこのホームページ経由の宣伝によって関心を持って参加して下さった方も数名おられた。

 当初、やはり「スピリチュアリテイ」の定義について若干の質疑応答があった。 ヒンターコフ自身、欧米では「スピリチュアリティ」とさえ言えば多 くの場合自然と共通理解が得られる問題に、日本人が必ずしも易々とは反応してくれない可能性を感じた瞬間があったようである。

 ・・・が、前述したような、「例えば自然や、詩や、音楽への感動体験の場合にもスピリチュアルな体験と言える場合がある」というような説明の中で、「ス ビリチュアルな体験」とは、予想していたより幅広い範囲の体験を包含していいのだという共通理解が生まれてはじめて、ワークショップは順調に進みはじめたように私には思われた。

***

 さて、以上のような、ひとわたりのレクチャーが終わったところで、休憩をはさんで、全員一緒のワークがはじまる。

 最初はヒンターコフの教示に従い、全員一緒に行い、その後で数名の小集団に別れて互いの感想を共有、最後に、再び全体会で、自分の体験を全体で共有していいという人の自発的発言を求める。

 最初のワークは、英語版のパンフには

「聖なる言葉についてのフォーカシング」

と書かれ、

「まずは、あなたにとって聖なる意味を持つ言葉(sacred text)をまずはひとつ選んで下さい」

と書いてある!

 これだけでは大半の日本人は乗れそうにないところだが、ヒンターコフはすぐに付け加えた。

「これは、あなたに感銘を与えた詩の一節や、ことわざ、あるいは自然の風景などでもいいのです。『まだはっきりとした意味はわからないけれども、そこには<何か>がある』という印象を残したようなものがいいと思います」

 私にはこの、ヒンターコフが最後に付け加えた、

「『まだはっきりとした意味はわからないけれども、そこには<何か>がある』という印象を残したようなものがいいと思います」

という示唆にピンと来るものがあった。

 そんなに内面をまさぐらなくても、そのヒンターコフの言葉にインスパイアーされるようにして、ここ2,3年、しばしば私の脳裏に甦り、時々反芻してきた、ある光景と、その時の「説明しがたい身体の実感」がいきいきと浮かび上がってきてくれたのである。

***

 私の体験について語る前に、ヒンターコフがワークショップで、せいぜい15分前後のワークとして用いる際のワークの手順のひとつをここで示してみよう。

 以下の教示をひとつずつ、じっくりと間合いを置いて、相手の応答に即して提示していく。ひとりがこれを読み上げる形で集団で行うこともできる。

  1. 自分が選んだ言葉やイメージを思い出して下さい。
  2. 自分自身にその言葉やイメージをゆっくりと繰り返しましょう。自分の中に生じてくる「感じ」や「気持ち」に気づいて下さい。
  3. その言葉やイメージを繰り返し想起し、味わいながら、そこで生じてくる「気持ち」をしっくりと表現するちょうどいい言葉を探してみましょう。
  4. あなたの中に生じてきた、その「気持ち」や「感じ」とじっくりと一緒にいてあげてみて下さい。そこに、もっと「何か」がそこにあるという感じが感じられないかどうかに注意を向けてみて下さい。
  5. その「感じ」と一緒にいながら、その「感じ」に向かって次のように問い掛けてあげることもできるかもしれません:

     「この言葉やイメージの何が、私に<こんなふう>に感じさせるのだろう?」
     「この言葉やイメージの何が、私にとって最高なんだろう。あるいは、凄く意味深く感じさせるんだろう」

    こんな質問をして、「感じ」の方から「あなた」の方に、何か応答のようなものがやってくるのを待っていましょう。
     そのような応答が返ってきたら、それを繰り返し自分の中で味わい、その応答が自分の実感にしっくりくるものかどうか確認して下さい。
  6. そして、最初の言葉やイメージに戻ってみて、今の自分がそれをどう感じているか感じなおしてみて下さい。新しい自分の「感じ」や「気持ち」があれば、それを表現してみて下さい。

 ここでは詳しくは説明しないが、これらは、通常のフォーカシングのプロセスとそれぞれ対応している。つまり、

2.フェルトセンスを掴む
3.フェルトセンスにとりあえず実感の上でぴったりな付箋となるような言葉を見
  つける(get a handle)
4.フェルトセンスと一緒にいる(being with)
5.フェルトセンスに問い掛けて応答を待つ(asking)
  →生じてきたものを受け止める(receiving)

となる(詳しくはジェンドリン「フォーカシング」 福村出版 参照)。

***

 さて、私がこのワークで選んだのは、3年前の夏の終わり、蔵王に行った時の体験である。

 当時の私には、終末の仕事の帰りに、思いついたように一人旅に出たことが時々あった。帰り道の駅からビジネスホテルに電話して予約して、新幹線でその日のうちに移動できるところまで移動してしまう。あとは出たとこ勝負である。

 その時はその日のうちに新潟に出て、翌日米坂線まわりで山形に移動、山形の宿を確保した上で、蔵王に日帰りで向かうことにした。季節運行の山頂まで登れるバスがまだ出ていると知ったからである。

 8月29日、バスとリフトを乗り継いでたどりついた蔵王の山頂は、かなり風が強く、やや肌寒くすらあった。夏の山によくあるように、日は射しているけれども、雲が速いスピードで流れていき、いつ天候が崩れて雨になってもおかしくない感じだった。観光客はまばら。

 行かれた方はご存じのように、山頂の近くの展望台から、火口湖、お釜が見渡せる。見渡せると言っても眼下に間近にあるわけではない。1キロ近くは 彼方のやや斜め下に見下ろせる。その間には荒涼とした稜線が次第に落ちていき、お釜の右手の方は硫黄が吹き出す緩やかな谷となっていたと思う。

 日は射しているにもかかわらず、上空の雲を映して、「お釜」の水面はむしろ鉛色というのに近く、そのまま灰色の稜線と溶け込んでいた。

 なぜか私は、その時、遠くに見えるそのお釜の鉛色の水面と、右手に見える白っぽい谷が次第に地平線に向けて高度を下げている光景に「不気味な怖さ」のようなものを感じたのである。

 私は、海か山かと言われれば、山派だろう。九州に住んでいたから、霧島や阿蘇・九重・雲仙などには何回も行っているし、火口湖や噴火口の光景にも小さい頃から馴染んでいる。その私が感じたことがない、奇妙な「怖さ」だったのである。

 おかげで、それ以来、その時の光景が、この3年間の間、何回も自分の脳裏に自然と蘇り、反芻されていたのである。

 すでに述べたように、言葉やイメージを選ぶ際、ヒンターコフは、「『まだはっきりとした意味はわからないけれども、そこには<何か> がある』という印象を残したようなものがいいと思います」という示唆を付け加えた。この示唆の言葉に触発されて、全く自然に脳裏に喚起されたのは、この三年前の、蔵王のお釜を見下ろした時のイメージと「体感」だったのである。

***

 その、目に焼き付いた光景とその時の「体感」を自分の中に繰り返し反芻しながら味わった。(2.)

 すると、最初それは「不気味」あるいは「こわい」という言葉が、とりあえずふさわしいように思われた。(3.)

 だが、それだけでは言い尽くせないsomething moreが、その言葉にならない実感の中にはあると思えた。

 しばらく「その」実感と一緒にいてあげる(4.)うちに、身体に感じられている感じの質が少し別のものに変容してきた。

「不気味」あるいは「恐い」……というより、

……「厳しい」

そう、何か一種の「厳しさ」「畏怖」のようなもの。

その方が実感には近い。

 私は「厳しさ……のようなもの」という言葉を自分の中の記憶の光景と実感に重ねあわせながら、この言葉だけで実感にしっくりかどうか再度確認していく。

 ……これでもまだ不十分だ。まだ「先」がある。説明され尽くしていないエッセンスの核心、「何か」がそこにはある。

 そのうち、その心の中の蔵王の風景を眺めている私の身体の前面の方が、何かある独特の緊張感で満たされてくるのがわかる。身体前半分の皮膚がピリピリしてくる。まるで蔵王の風景に圧迫されるかのように。

そして、なぜか、目頭だけが熱くなる。

「絶対的に、そこにある」

「どうしようもなく、そこにある」

という言葉が浮かぶ。

 なぜか、この蔵王でお釜を見下ろした時だけ、「もし、仮にこの風景をハイビジョンの映像として眺めても、ここまでありありと<そこに-ある>という感じはしないだろうな」などということを連想していた自分がいたことを、この時やっと思い出しした。

 これは「映像」ではない

 湖は、<そこに-ある>

 谷は、<そこに-ある>

 どうしようもなく、<そこに-ある>

 私の中に、その、確かに<そこに-ある>光景に圧倒されつつ、ほとんどそれに涙を流しながら「ひれ伏したい」というのに近い思いがあることに気が付く。

 (後で、全体でshareする際に、拙い英語力でヒンターコフにこの時の感じを伝えるのに私が選んだ言葉は、

”surrender(降伏する)”

だった)。

 しばらくその感じと共にいた。

「こうふうふうな感じにさせるのは何なんだろう?」と内側に問い掛け、返事を待つ(5.)。

 しばらくして浮かび上がった言葉は、自分でも意外なものだった。

 「……絶対的父性……

  ……絶対的父性 ???」

この私の中に、絶対的な父性にひれ伏したいという感情のようなものがあるのだろうか?

 これは意外だった。というのは、私は、むしろ「絶対的父権」のようなものを心の中で軽蔑してきたとずっと思っていたからである。

 私は更に、6.の教示、つまり、

> 6.そして、最初の言葉やイメージに戻ってみて、今の自分がそれをどう感じているか感じなおしてみて下さい。新しい自分の「感じ」や「気持ち」があれば、それを表現してみて下さい。

に進むことになる。再びお釜を前にしたときの私のイメージと体感に戻ってみる。

 すると、これまた予想外なことに、私の身体にしみ通るように感じられてくるのは、先ほどまでの、あの、「恐い」「不気味」「厳しい」などという感覚とは打って変わって、ある柔らかくて、潤いと親しみに満ちた感覚だった。

  「その」感覚にぴったりの言葉を敢えて探し求めるならば、……そう、

「愛おしい」

というのがかなり近いという感じだろうか。愛する人やペットへの何とも切ない感覚に近い何か。

***

 恐らく、この私のフォーカシング体験の中で問題になるのは、ありふれた「父性復権」についての議論などではない。

 私が「絶対的父性」という言葉でとりあえずつなぎ止めている私の中の「体感」が含蓄するもののみが、私にとって重要なのである。 

 おそらく、

「どうしようもなく、そこにある」

という言い方の方こそが、肝心な本質に肉薄するものだろう。

 そこには、確かにあるひとつの布置(constellation)がある。つまり、私のおかれた状況が、非常に多重的な意味で、ある共通の構造を持って、その言葉と響きあっている。

 現在の私には、いくつもの意味で、以前よりも責任を負わされつつある。 様々な役職。結婚に際しての、実家との関係の変化。いずれ自分が父になるかもしれないこと。

 だが、何より、私自身が、私自身の「存在感(presence)」に、何か基本的なところで不満なのだ。

 あるいは、もっと、既成の経験ある先達に素直に心を開き、学びたい気持ちを押し殺して強がっていたのかもしれない。

 もちろん、こうした言い方は「ひとつの解釈」にすぎない。蔵王の光景とその時の理屈抜きの体感についてフォーカシングする中から私の中に生じてき た身体感覚そのものの変容は、このような特定の「意味づけ」だけに押し込めるわけには行かない、something more としてまるごと味わい続けるべきものなのだと思う。

 「そこ」から、無限に、果てしなく、意味が交差(crossing)し、あふれ出してくるのだ。その全てが、何らかの意味で、その時の私にとっては「的確な」象徴化のステップである。

 だが、その時その時の言葉の意味内容にしがみつくことはむしろ避けた方がいい。このことはジェンドリンも「夢とフォーカシング―からだによる夢解釈」などで繰り返し述べるとおりである。

Okama

 ご存じのように、蔵王は山岳信仰の地でもある。もとより、私の場合、ほとんど思いつきで、バスとリフトで背広姿のままでお気楽に昇ってきた人間の印象にすぎないわけだが、やはり、昔の人も、あの目の前の光景から何らかのその人なりの啓示を受けたのかも知れないとは思う。写真もない時代に、遠方からやって来て、苦労して自分の足で登った昔の人に与えたインパクトは遙かに大きなものだったのではなかろうか。

 ただ、私の場合、その時の光景から体感された「言葉にならないもの」を自分なりに消化することをはじめられるまでには、こうして3年間も反芻するしかなかったのである。

 ヒンターコフのワークを体験させていただいたことは、その停滞していたプロセスが再び化学反応をはじめる触媒として、私にとって、 確かに役に立っている。

***

 ヒンターコフは、ワークショップの後半で、もうひとつのワークを示した。彼女が持参した、世界各地の美術館の名画の絵はがきの中から、自分の中の何かを触発するものを選び、それを手元でじっくり観た上で、その中から生じてくる曖昧な実感そのものにフォーカシングするというものである(「ポストカード・セッション」と呼ばれる)。

 これは、心理療法の現場にも応用し易いだろう。既成の絵でもいいが、絵画療法や箱庭療法の中でクライエントが作った作品についてこの様なことをクライエント自身にやってもらうのも面白いかも知れない。

 あるいは、俳句や短歌の鑑賞にも応用できないだろうか。自分がなぜその句が気に入ったのかを、虚心に振り返り、ことばにしていくための。

 ちなみに、こちらのワークで私が選んだのは、北斎の富嶽三十六景の一枚と思われる武蔵野の光景だった。一面のススキの原の彼方に小さく富士が見える、青が基調のもの。

 絵そのものをみるとそんなでもなく見えるのだが、私の瞼の内側でのその光景は、強風で煽られてススキが激しくざわざわと音を立てている様になっていた。その激しさには、暗さというより、あるエネルギー感のようなものが伴っていたように思う。

 「何か」が、激しく、騒いでいる。

 残念ながら、このワークショップの中では、その意味まで開示できなかったが、その絵を見たときの感じは今も残っている。蔵王に代わる、私の新たな「宿題」かもしれない。

***

 最後に、この意義深いワークショップを開催して下さった、講師のヒンターコフ博士、そして主宰した「フォーカシング・ ネットワーク in 東京」の、近田輝行さん、日笠摩子さん、片山睦枝さんをはじめとするスタッフの方々に御礼申し上げたいと思います。ありがとうございました。

 そして、参加された皆様、楽しい一時を共にして下さってありがとうございました。この日は多忙のため、残念ながら懇親会までは参加できませんでしたが、皆様のご感想もうかがう機会を持てたらと思っております。

 

参考文献:

Hinterkopf,Ph.D.,
Integrating Spirituality in Counseling: A Manual for Using the Experiential Focusing Method,Amarican Counseling Association,1998.

邦訳
エルフィー・ヒンターコフ著
「いのちとこころのフォーカシング ~体験的フォーカシング~」
(日笠摩子・伊藤義美訳 金剛出版)

 なお、本文中で紹介したエルフィのワークのマニュアルの日本語訳については、当日配布された日英対訳のブックレットの、日笠摩子さんによる訳を参考にさせていただきました。

エルフィー・ヒンターコフ/いのちとこころのカウンセリング―体験的フォーカシング法

Integrating Spirituality in Counseling: A Manual for Using the Experiential Focusing Method

===========再掲終わり===========

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2009/09/03

「カウンセラーこういちろうの雑記帳」の主要過去記事を一番簡単に一覧するには

 このブログって、すでに創設4年9ヶ月、過去のエントリー記事総数が、「この」記事で1,914本め、なのに一日あたりの新エントリー、平均1.10本以上を現在も維持、しかも長文が多いという、へヴィー級ブログです。

 おかげで、もはや@ニフティココログが割り振ってくれているサーバー負荷が相当なものになっているせいか、

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  • pingも自動では飛ばせない(その割には随分多くの読者の皆様が、新記事アップ直後においでいただけることを幸いだと感じています)
  • カテゴリーにすべての記事が反映しない(カテゴリーによっては300から400エントリー分表示されようとするわけで)

・・・・・という、新しくおいでいただいた読者泣かせのブログになっていると思います m(_ _;)m

****

 もちろん、バックナンバー全体を表示してくれる、『アーカイヴ』ページ(自身がココログユーザー以外の読者の皆様、お気づきでしたか??? 右フレームの「バックナンバー」という文字そのものをクリックするとたどり着けます)というものも、あるにはあるわけです。

 しかし、このページにお行きになっていただいたとしても、過去の個々のエントリー記事のタイトル一覧があるわけですらない

 このページからの「〇年〇月」を全部めくっていただくだけでも(全く休眠した数ヶ月を除いても、現在50か月分ほどあるわけですね(^^;)。その50ヶ月分、それぞれ月ごとに、毎月30から40エントリーずつはあるわけですから・・・・・

 つまり、私がこのサイトでこれまで書いてきた主要記事がどんなものか、新しい読者の皆さんにおおよその見当をつけていただくには、もうデタラメにご不便をおかけしていることと思います   il||li _| ̄|○ il||li

*****

 この問題を一気に解決し、

  • 新記事の方が上に来る形で、
  • 過去の記事に関しては私がある程度絞り込んでセレクトしたものを、
  • 数百記事ばかり、1ページをスクロールできる形で
  • ブログのような表示の重さがない形で一覧したいただける

そういうページが、実はずっと以前から存在します!!

●阿世賀浩一郎のホームページ/index

 開設1995年12月(つまりWindows95発売直後)開設、日本において、インターネットで個人サイトを作ることが本格的に普及し始めた黎明期から、何と基本的なデザインを変えないまま運営し続けているサイトです。

 かつては、ネットを代表するエヴァ・サイトのひとつ、「エヴァンゲリオン論考」で著名だった時代もありますけど、幸いにして著作化させてもいただきましたので、そのコーナーは全面削除いたしておりますが(「ちーちゃんの部屋」というアニメコーナーがかつて存在したことを覚えておられる方もあると嬉しかったりして ^^;)・・・・

そのトップページから、このブログでの新エントリー記事を書く度ごとに、固定リンクへのリンクを、たいてい速攻の連続作業でお貼りしてもいるのです。

 恐らく、皆様のRSSリーダーに反映するスピードの比ではない「即時性」で「新着情報」が掲載され続けています。

 同一エントリー記事の更新(改版)情報すら、可能な限り早くお伝えしています。

 

そこに並んでいる、当ブログ個別記事へのリンク数は、常時数百あるはずです(古いものから時々、精選のための「ダイエット」をかけますので、一定数以上には増えません)。

 しかし、敢えて今でも、基本的には「素朴なhtml言語の手打ち」に依存し、javaスクリプトすらないに等しいということで、このトップページそのもののバイト数の多さの割には、表示が圧倒的に軽い筈です(このブログのトップページを表示するよりは軽いと思いますよ)

 
当方のアクセス解析によって、「こっちのページで新着情報見つけるほうが手っ取り早い」ことにお気づきの、毎日数名以上の固定ユーザーの方がおられることは掌握しています(感謝!!)。

 しかし、そうした方の占める比率が以前よりもかなり減っているようにも思いましたので、改めてご紹介させていただきました。

 

今後とも、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」をよろしくお願い申し上げます。

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2009/09/01

解けた魔法

 街には街固有の風景の空気があります。

 同じ東京近辺でも、東京駅近辺と、新宿と、渋谷と、上野、あるいは横浜とでは、全然町並みの「雰囲気」が異なりますよね。

 まして、東京に住んでいる人が、例えば名古屋、京都、大阪、仙台、札幌の駅前に降り立って、相互比較しただけでも、そうした、街の雰囲気のテイストの違いは、肌にひしひしと伝わるものではないかと思います。

 大学入学時に上京して、その後時々久留米に帰省するようになって以来、私は福岡や久留米の町並みが醸し出す、東京は異なる町の「空気」に、もはや「違和感」のようなものしか感じられなくなることに苦しんできたのです。

 「故郷」のはずなんだけど、懐かしいというより、もう、嫌になってしまったんですよ。

 福岡っていうのは、昔から東京への憧れと「上京指向」が格別に強い土地柄です。古くは井上陽水、近年では松田聖子や浜崎あゆみ(最近の「某事件」の人もですが)に代表されるように、非常に多くのミュージシャンや芸能人・俳優が福岡出身ですし、自民党をはじめとする過去の大物政治家で、福岡出身や、何らかの意味で近い血縁者が福岡という人(麻生さんや鳩山邦夫さんだってそうだ。鳩山邦夫は私の選挙区)の人が占める比率も驚くべきものがあります。

 そのせいか、日本の大都市の中では、実は東京をもろに「模倣しよう」という傾向が、福岡市には特に強い気がします。私見では、東京に首都を持っていかれた京都はいうまでもなく、大阪や名古屋に比べても、東京への「対抗意識」みたいな形で、独自の街イメージをデザインしようという意識そのものが、福岡市には基本的に欠落している気がする。

 (もっとも、天神地下街の空間デザインの醸し出す、白い蛍光灯を全面排除したシックな空間の独創性だけは、1976年、つまり何と33年前に作られて以来、基本的に変更なしを貫いているのに、現在も全く古びることはない、日本に誇る都市空間デザインの傑作と思いますので、福岡においでの若い皆様、キャナルシティ(「カナルシティ」と発音する人も多い)にばかり目を奪われすに、地下鉄で博多から天神まで出て来て、必ず街ブラ楽しんでくださいね。キャナルシティの方が、まだとこにもありがちな光景に近く、すぐに歴史的に古びるデザインに過ぎない私は思う)。

 例えば、福岡の中心である西鉄福岡天神駅前に降り立って、道路を天神コア側に渡って駅側を振り返ってみると、そこに見えてくる、まるで城壁のように立ち並ぶ駅前のビル群の光景は、例えば、西武デパートなどのビル群が立ち並ぶ、池袋東口の光景を一瞬思い出させるようなところがあります。

Fukuokatenjinekimae

 そもそも福岡のベイエリアの風景なんて、ホントにびっくりするほど、「お台場」の模倣そのものなんですよ。このページの下の方に載せた写真だけで明白でしょ? ここまでくると恥も外聞もないといいたくなるくらいに。もっともお台場には「ドーム球場」はありませんけどね(^^;)

 でも、やはり「福岡市」には「福岡市」固有の町並みのにおいがあり、「居心地」的に東京の代用にはならない。ましてや、人口30万以上で福岡県南部地域では最大都市(九州全体でも、いくつかの県庁所在地を抜き去り第8位)の久留米の光景なんて・・・・東京の街に類似の光景を探すのは、ちょっと難しいのです。

 私は、福岡や久留米に戻るたびに、すでにここが自分の「居場所」感覚を抱ける街ではなく、「異郷」のようにしか感じ得ず、安らげる都市ではなくなっていることに、この30年間苦しみ続けていました。

 ところが、ほんとうに不思議なことなのですが、おとといの晩に福岡空港に降り立った時から、何かがすべて変わってしまったのですね。

 福岡空港は、日本を代表する大空港のひとつとはいえ、そりゃ、羽田に比べれば小さいのは当然です。ところが、到着ロビーを歩き、空港発の久留米行き高速バスを待ち合わせていた時から、

「なーんだ、ここって、東京と似たり寄ったりの、東京の「すぐそばの」街に過ぎないじゃん!!」

という感覚が始まったのです。こんなの、これまで一度も感じたことがない感覚でした。

 それが、高速バスが、深夜の西鉄久留米の駅・・・・そりゃ、新宿あたりの深夜0時でも続く大ラッシュの光景からすれば人通りは「ないも同然」・・・に降り立っても変化なし。

「西鉄久留米駅だって、新宿駅のすぐそばにある、新宿と直結した町並みなのだよ」

Nishitetsukurumenishiguchi16

 翌日、(つまり、こっちの記事本文を深夜に書いた昨日の昼になってからですね)、私用で久留米市街地をあちこち歩いて回ったんですが、そうやって昼間の街の光景を味わっても、

「そうなの。ここは新宿とも八王子ともしっかりつながっている、『私の町』という点では同じなんだよ」

 ・・・・・・ついに、30年間、私がかかっていた「魔法」が解けてしまったのです。

 私の心をがんじがらめに縛り続けていた魔法。
 「関東にしか今後の人生はない」という魔法。

 「日本のどこだって日本であることには変わりないし、私のふるさとである」
 「どこでどうやっていくにしても、直面する困難と、果たすべき役割なんて似たようなものさ」

(少なくとも、久留米のような、百万都市まで30分圏内(あと2年で新幹線開通後はわずか12分!)の人口30万の都市に生きている限りは)

 「この」感覚・・・・今後解けることは、もうありえない・・・・そんな気がします。

(この記事、こちらの記事への私のコメントからの繰上げ再掲載です)

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2009/05/12

「久留米でフォーカシングを学ぶ会」、5月は17日(日)開催です。

 以前の告知に少しだけ手を入れて再掲いたします(^^)

 「久留米でフォーカシングを学ぶ会」、次回は、通常より1週遅れて、5/17(日)に開催します。

兵庫県淡路市でのフォーカシング国際会議(5/12-16)、残念ながら私は今回参加できませんが、スタッフの準備の皆様の、ただならぬご尽力は、準備委員会のメーリングリストを通して、陰ながら応援申し上げておりました。ご盛会を心からお祈り申し上げております。


(ここからは、会議の準備を最後までお手伝いできず、参加も見送るしかなかった私からの、フォーカシング・ピープルへの最大限の、ウィットを込めたエールと思ってお読みください!!)  


 残念ながらこの会議に参加できなかった皆様、この「久留米フォーカシング・カウンセリングルーム」があります!!

 いや、これを期に、世界のフォーカシング・ピープルの皆様、フォーカシング国際会議のアフター・オプショナル・ツアーとしてどうぞ。

成田・関空から久留米へのアクセスについては、なぜかこちらにむやみと詳しい英語解説があります(^^;)

 なお、JR新神戸駅から博多駅のアクセスについては、省略させていただきますことをお許しください。

 以上、久留米大学から徒歩10分久留米フォーカシング・カウンセリングルームより(^^)

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●↓ カウンセラーの皆様が国際会議やワークショップ・セミナーご出席の際、あるいは日常の面接記録作成(クライエントさんご本人の許可を取らないで録音してはなりませんが)のための必需アイテムのアフィリエイトコーナー : 時すでに今回は遅し!?


2009/05/07

たそがれの久留米市役所(第2版)

Kurumeshiyakusho

 日本建築界の大御所、菊竹清訓(私の高校時代の学友の父)設計による。

 高さ91m、地下2階、地上20階。
 ある時期まで九州一の高層ビルだった。

 JRでも、西鉄でも、福岡市から筑紫野市近辺を過ぎて、筑後平野が見渡せはじめると、20キロは遥かかなたからそそり立って見えて来る、久留米のシンボルである。

Image570
↑上のほうにあるUFOのように張り出した部分が、よりによって市議会会議場

 その上の最上階はカフェテラスで市民の憩いの場。展望台にもなっている。
Image569

 当然、筑後地区随一の眺望を誇るのだ。


Image568
↑画面を奥を斜めに横切って、向こうの山並み(脊振山地)に吸い込まれていく高架の鉄路は、2011年開業予定の、九州新幹線、久留米ー新鳥栖-筑紫トンネル(11.6キロ。九州新幹線最長)までの工事中の線路である。トンネルを抜けると、そこは福岡市だった・・・となるわけで、久留米からわずか12分の最短ルートとなる。鉄ちゃん向けに言いますと、このパノラマは久留米市役所ビルでしか味わえません(^^)


Kurumecitycenter_2
後日撮影した、昼間の姿。


●久留米市庁舎(建築のページ-Architecture Guide-)

●菊竹清訓のページ


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2009/04/14

うどんのウエストとかしわめし弁当(と大砲ラーメン) [第4版]



コネタマ参加中: オススメの駅弁や“ご当地グルメ”を教えて!

 久留米ご当地ネタもうひとつ。

 久留米っつーたらラーメン発祥の地、久留米ラーメンという話になりそうなんだけど、あの、かぐわしい、呼び戻しによる豚骨・白湯系のニオイが店の入り口や屋台から漂うラーメンがラーメンだと子供の頃から当たり前のように思って育った人間(しかもラーメン発祥地説がピンポイントで濃い通外町から東櫛原町一帯こそが根城だったからね)ですから、この際、それこそ「中華思想」に徹させてもらって、あまり薀蓄を書かないことこそ、ご当地のプライドと言わせてもらおう(^^)

●Centre for Evidence-Based Ramenology in Kurume University(当サイト内に転載)

●福岡県久留米市久留米ラーメン観光地図(Googleマップ)
●ラーメン九州ドットコム


●【ラーメンWalker】(YouTube)


【追記】

Taihoramen_2
 ↑ .......といいつつ、翌日(4/15)には大砲ラーメン本店(久留米市通外町11-8西鉄久留米駅より北東徒歩5分。こういちろうん家から南東徒歩12分)に行って来てしまったこういちろう(^^)

【送料無料】福岡・久留米の名店の味(8食入)大砲ラーメン

 「昔ラーメン」の大盛りセットで替え玉までして860円くらいだったか。私には、これで全然脂っこく感じない。そして、2代目店主になって、これでも昔に比べるとずっーーーと洗練されてしまったと感じる。つまり、この世の[ラーメンなるもの」の大半は、単なる「和風中華そば」である!! ayuさん帰福時ご用達の、いわゆる「長浜ラーメン」も含めて!!

Mukashiramenお店のチラシより。

*****


 ラーメンの話題はさておき。

 こっちに戻ってきて感心したのは、福岡由来のチェーン店であるウエストのうどんである。一見ファミレス感覚で、交通量の多い国道(たとえば3号線)だと、郊外地にあたりまえのように支店があるんだけど、これが、関東から戻ってきた私のような人間には目からうろこ(舌から舌サック?)とも言いたくなるくらいの絶妙な味加減・舌触りなのである。

Image481
↑ウエストうどん諏訪野町店


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 まず、うどんの麺そのものが卓抜。この繊細な舌触りのよさ。むしろ「腰が弱い」。もちろんこれは麺が延びているという意味ではない(^^;)舌の中で「砕けて」いく感触がすばらしいのね。極論すれば、スープもだしもない素うどんとして湯がいてもはっとする水準と思う。

 そして、関東系のしょうゆ味ではなくて、あくまでもだしだけで勝負する薄味の味付けバランスが実にいい。私は基本的にはそば党なので、うどんに関してはよほどのことがないと味に記憶が残らないのだが、私の体験で言うと、JR高松駅の立ち食い讃岐うどんですらここまで驚かない、ありふれた「腰の強さ」系うどんだった。

 そこに敢えて、ドッピング(90円)のかき揚げ(もちろん作り置きのしけったのではない。目の前で時間をかけてからっと揚げてくれる。しかもそれがびっくりするほど大きい!!)を載せて、混ぜながら食べる。至福である。

Image482
↑牛丼セット+かき揚げドッピングの配膳時のお姿(^^)。注文して2分でした。


 [第3版で追記]:

 うどんのウエストは、09.05/03、FBS日曜夜22:30の人気番組「ナイトシャッフル」でも紹介されましたね。この番組でもやはり、かき揚げのドッピングは別格であることを見事に紹介しておりました。

*****


 さて、JR久留米駅の駅弁といえば、明治25年創業を誇る中央軒「かしわめし弁当」が全国にその名を知られている。

 久留米中央軒が廃業して鳥栖に拠点が移ったことは残念で、しかも、久留米駅の在来線ホームからそもそも売店が撤去されたままなのがわびしい。新幹線開業と共にコンコースの売店という形で本格的に復活することを祈っている。

 ちなみに、かしわめし弁当として、福岡県内の各所の駅で販売にされているのは、北九州の一部を除いて、たいてい「東筑軒」系のものである。中央軒系は鳥栖駅と久留米駅のみ。ちょっとだけ華がある印象は東筑軒系でしょうけど、惣菜もシンプルで安くて「味で勝負」はやはり中央軒と感じるのは地元の身びいきでしょうか(^^)


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2009/04/13

にほんじんは、せんそうのしかたをしらない? (第7版)

(のっけから、雑記帳恒例の、挑発的な一言)

 日本人は、どうも殖産興業のあり方についても、未だに高度経済成長時代の計画の歪みと戦い続けている。

 だが、九州自動車道の久留米ICに隣接する東合川地域の総合開発事業の一環としての、「ゆめタウン久留米」を中心センターとする商業コンプレックスは、旧市街地から車で数分、筑後川堤防沿いの水田地帯の広大な敷地に、九州でも最大級の一大ショッピングモールを建設するという計画であった。

K3100039_2

 それは幸いにして、久留米では大成功をおさめた。シネコンプレックスや大ゲームセンターなど、久留米の若者の娯楽の中心そのものを旧市街から大移転させることにまんまと成功、今や中学生ですら、久留米市内の市街地を徘徊しない。福岡県南半分、筑後地区最大の商業・娯楽施設群である。

 九州内の全鉄道駅で乗降客数第5位を誇る西鉄久留米駅からは、夜23時まで毎時最低3本、休日には日中毎時6本のシャトルバスによるピストン輸送体制があるので、中学生でも比較的健全に近場で娯楽やショッピングを楽しめる体制が整っているわけである。

Nishitetsukurume西鉄久留米駅西口

K3100116
↑だが、そのぶん、明治通りを中心とする、西鉄久留米駅とJR久留米駅の間の旧市街地の地盤沈下は進み、創業80年を誇った、久留米井筒屋(旧旭屋デパート)は、今年2月でついに閉店となった(地図参照)。


大きな地図で見る

 2年後に迫ったJR久留米駅への九州新幹線の開通に関しても、JR駅のごく周辺部での、博多駅までわずか12分という、福岡市の衛星都市化を見越しての高層マンションの建設ラッシュが進むばかりであり、商業圏としての明治通りルート(旧東西ルート)は見捨てられたかのようである。

S35meijistreet
↑昭和35年の明治通り、西鉄久留米駅側から西=旧国鉄久留米駅方面に向けての眺望。一番奥に見える中層のビルが当時の久留米井筒屋デパート。

大砲ラーメン本店に設置のチラシより転載)

 このままでは、明治通りルート(旧東西ルート)に抜本的な対策が取られないまま、旧市街地北郊外の、櫛原バイパス-久留米東バイパスを通って、

「JR久留米駅-久留米大学医学部-百年公園-ゆめタウン-久留米IC」

という「新」東西ルートを通しての、マイカー利用中心の商業圏(このルートを貫通する公共バス路線もできそうにない)がこのまま確立しそうなことに危機感を抱く市民はたいへん多いはずである。

K3100089_2
↑久留米東バイパス・百年公園前陸橋より、東側、ゆめタウン久留米・久留米IC方面を臨む。遠くに見える山は高良(こうら)山。


 日本はほんとうに、群馬県みたいに、アメリカ的な車社会=郊外型ショッピングモール中心社会になっていいのか?

 神奈川県大船時代には考えられなかったのは、私のカウンセリングルームにおいでになるクライエントさんのほとんどがクルマでしかおいでにならないということだ。福岡市からでも、鹿児島県からですら!! 

Kfcmap1a

 それはさておき。

 西鉄久留米駅、岩田屋側の新しい東口から国道3号線沿いに南に広がる諏訪野町にかけての一帯は、以前から税務署、ハローワーク、旧久留米市公会堂など、筑後地区のさまざまな官公庁が軒を連ね、古くからの学校の跡地も連ねる(?)一角であったが、そこに忽然と建設された、巨大総合公共施設が、「えーるピア久留米」である。

K3100037_2

 この施設は、ひろびろした立派なエントランスを持ち、

* 生涯学習センター
* 男女平等推進センター
* 人権啓発センター
* 消費生活センター

が置かれている。

 付言すれば、「男女平等推進センター」とは、DVやモラハラやストーカーなどの諸問題についての筑後・久留米地区の公的な相談窓口の中心であり、「消費者センター」とは、ネット詐欺や通販・キャッチセールス等の解約問題・それに伴う借金問題と関連する、同地区の公的な相談窓口の中心である。

****

 繰り返します。

 必要なのは、実は戦争の技術でも訓練でも、老獪な外交でもありません!!

地域における「殖産興業」と「失業者対策」、
更には、「田地開発」と「潅漑・治水」、
年貢や租税の厳密な管理、
 「観光事業」(この記事も久留米の宣伝!!)、
そして「○○○○」に貢献した者のみ、
真のよき領主となるのである!!

 「天地人」で脚光を浴びた直江兼続真の功績は、実はそのあたりにこそあるのである。

 それが兼続の主君(米沢上杉家)の遠縁ともいえる、吉良上野介の、領地三河国幡豆郡での評価と類似していることを知る人も少なくないかと思う。

 もっとも、米沢上杉家にとって吉良は、上杉鷹山による藩政改革までは米沢藩の藩財政を窮乏させる要因のひとつであり、むしろこの三河の領地でのみの評判は、一種の「判官びいき」では?という見解がwikipediaには紹介されているが。

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2009/04/12

鹿児島が私を呼んでいる?!

詳細はいずれご報告できると思います(^^)

こういちろうの「ロビー活動」、あと2つ別に進行中。

その分、記事の更新が遅くなっていることをお許しください。


残りの2枚のカードのうち1枚は「正統派」の戦略

進行中のもう1枚は、かなり驚愕の定石破りか、それとも結構ありふれたものなのか、私にも不明 (これではじめてチェックメイト!です)


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