自然言語学派

2009/09/03

「カウンセラーこういちろうの雑記帳」の主要過去記事を一番簡単に一覧するには

 このブログって、すでに創設4年9ヶ月、過去のエントリー記事総数が、「この」記事で1,914本め、なのに一日あたりの新エントリー、平均1.10本以上を現在も維持、しかも長文が多いという、へヴィー級ブログです。

 おかげで、もはや@ニフティココログが割り振ってくれているサーバー負荷が相当なものになっているせいか、

  • 私の方からトラックバックを送ることがもはや機能しない
  • pingも自動では飛ばせない(その割には随分多くの読者の皆様が、新記事アップ直後においでいただけることを幸いだと感じています)
  • カテゴリーにすべての記事が反映しない(カテゴリーによっては300から400エントリー分表示されようとするわけで)

・・・・・という、新しくおいでいただいた読者泣かせのブログになっていると思います m(_ _;)m

****

 もちろん、バックナンバー全体を表示してくれる、『アーカイヴ』ページ(自身がココログユーザー以外の読者の皆様、お気づきでしたか??? 右フレームの「バックナンバー」という文字そのものをクリックするとたどり着けます)というものも、あるにはあるわけです。

 しかし、このページにお行きになっていただいたとしても、過去の個々のエントリー記事のタイトル一覧があるわけですらない

 このページからの「〇年〇月」を全部めくっていただくだけでも(全く休眠した数ヶ月を除いても、現在50か月分ほどあるわけですね(^^;)。その50ヶ月分、それぞれ月ごとに、毎月30から40エントリーずつはあるわけですから・・・・・

 つまり、私がこのサイトでこれまで書いてきた主要記事がどんなものか、新しい読者の皆さんにおおよその見当をつけていただくには、もうデタラメにご不便をおかけしていることと思います   il||li _| ̄|○ il||li

*****

 この問題を一気に解決し、

  • 新記事の方が上に来る形で、
  • 過去の記事に関しては私がある程度絞り込んでセレクトしたものを、
  • 数百記事ばかり、1ページをスクロールできる形で
  • ブログのような表示の重さがない形で一覧したいただける

そういうページが、実はずっと以前から存在します!!

●阿世賀浩一郎のホームページ/index

 開設1995年12月(つまりWindows95発売直後)開設、日本において、インターネットで個人サイトを作ることが本格的に普及し始めた黎明期から、何と基本的なデザインを変えないまま運営し続けているサイトです。

 かつては、ネットを代表するエヴァ・サイトのひとつ、「エヴァンゲリオン論考」で著名だった時代もありますけど、幸いにして著作化させてもいただきましたので、そのコーナーは全面削除いたしておりますが(「ちーちゃんの部屋」というアニメコーナーがかつて存在したことを覚えておられる方もあると嬉しかったりして ^^;)・・・・

そのトップページから、このブログでの新エントリー記事を書く度ごとに、固定リンクへのリンクを、たいてい速攻の連続作業でお貼りしてもいるのです。

 恐らく、皆様のRSSリーダーに反映するスピードの比ではない「即時性」で「新着情報」が掲載され続けています。

 同一エントリー記事の更新(改版)情報すら、可能な限り早くお伝えしています。

 

そこに並んでいる、当ブログ個別記事へのリンク数は、常時数百あるはずです(古いものから時々、精選のための「ダイエット」をかけますので、一定数以上には増えません)。

 しかし、敢えて今でも、基本的には「素朴なhtml言語の手打ち」に依存し、javaスクリプトすらないに等しいということで、このトップページそのもののバイト数の多さの割には、表示が圧倒的に軽い筈です(このブログのトップページを表示するよりは軽いと思いますよ)

 
当方のアクセス解析によって、「こっちのページで新着情報見つけるほうが手っ取り早い」ことにお気づきの、毎日数名以上の固定ユーザーの方がおられることは掌握しています(感謝!!)。

 しかし、そうした方の占める比率が以前よりもかなり減っているようにも思いましたので、改めてご紹介させていただきました。

 

今後とも、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」をよろしくお願い申し上げます。

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2009/04/03

もうひとつの予告:「第3世代」認知行動療法と、私のフォーカシング指向心理療法の現場実践の比較論を連載する!? [第7版]

  さて、SARTについてのセミナー体験談本格掲載と並行して、私が現在まだ構想中なのは、フォーカシング指向心理療法セラピストの国際資格認定資格者である私が、「最近の」認知行動療法の良質な教科書をまる一冊読破してしまった上で、「実は私は現場臨床実践の上で、用語が違うだけで、実際にはここまで同じことをかなりの程度していたことになる」ことを評論してしまうという、これぞ究極の企画である。

 これは結構凄い刺激的な企画であるぞ、読者の皆様(^^)

 わかりやすくいえば、洗足クリニックの伊藤絵美先生(もう申し上げてもいいでしょうが、私が数年前、現場実践水準で感銘を受けたことがある認知行動療法の先生(の一人)って、実はこの先生です。具体的な現場臨床上の連携の接点が生じていたのですが、伊藤先生の方は私を個人としては絶対に覚えてはおられないでしょう。伊藤先生は恐らく「第2世代」ですよね?)が、アン・ワイザーさんの「フォーカシング・ニューマニュアル」を完全に読破し、自分の臨床実践と重ねて吟味した上で論じたらどうなるかということと同じくらいの大実験である。

 敢えて書きますけど、私は、他流派のカウンセラーの誰よりも誠実に、ネットで公開する形でこのことを進めてみた結果、予選は通過して、あわよくばベスト4まで勝ちあがれるような気がするのである。

 それ以上は望まない。なぜなら、これを機会に、絶対に、私も認知行動療法から実に多くのものを学び、技を盗めることがすでにわかっているからである。私はそれくらいは謙虚なつもりである。

 このように断言できる背景には、認知療法の祖ともいえる、アルバート・エリスの「論理療法」(しかもエリス自身の著作の翻訳!!)こそ、私がフォーカシングに出会う前に、一番実用的に役に立つ本として熟読し、生活の中で実践していたからである!!

 ←これ、25年前と同じ本なんでしょうか???

......このこと、確かこのブログではじめて書きますよね.....ああ、こういちろうのお腹がどらエもんのポケットといわれる所以である)

*****

 私がここで、凝りもせずに(^^;)、なぜこういうゴーマニスト的で挑発的な書き方をするかというと、一部の認知行動療法のカウンセラーの人たちのネット上でのノリを、いくらなんでも傲慢不遜、臨床家として風上にも置けない無神経さと感じているからである。

 「日本で民間の保険制度でカウンセリング特約がまだ成立しないのは、認知行動療法以外の、効果がない心理療法との区別が不可能だからである」

 という趣旨の、大胆不敵なファシズム的発言をするカウンセラーが、どれだけ現段階で現場臨床で優秀であったと仮定しても、私はそうしたあり方をどうしても許せない


【以下、第3版で追加】

 もう! 愛を込めて引用してあげます:

=======引用はじめ========

認知行動療法はカウンセリング方法としてはグローバルスタンダードとなっている方法です。

アメリカやイギリスなどの医療先進国では保険会社や政府などで認知行動療法を推奨しています。

アメリカの保険会社が効果が実証されているカウンセリング方法を勧めるのは当たり前ですよね。
効果に乏しいカウンセリングをしているところにお金を払いたくないわけですから。

イギリスでも政府が認知行動療法を勧めていたりします。

怪しげなカウンセリングを政府は勧めないでしょう。

=======引用おわり========


【以下、第4版で追加】
 

このカウンセラーの方、鈴木さんといわれるのですが、ご自身のサイトでは「鈴木」と苗字だけお書きです。......これも不思議です。

 第3版のあとで調べたのですが、少なくとも認知行動療法の世界に、同じ鈴木というお名前の「キャリアある」先生がおられることは確かなようです。しかし、これにより、この記事の以下の文面を変更する必要を私は一切感じませんでしたので(^^)。

 私の過去の栄光にすがっていうと(ホントは今の私が一番のピークなんだけど、それは置いといて)、村瀬嘉代子先生にご自宅でカレーご馳走になった人間が何を今更怖いものはない(^^)


【以上、第4版で追加】
 

 この方の、医者や周囲のカウンセラーの認知行動療法への不勉強を嘆きたい気持ちは十分に理解します。痛いほどに伝わります。

 私も、まさにそういう意味で、フォーカシングについてのフォーカシング関係者自体のまだまだ不勉強な側面を、文字通り身を挺して告発してきた人間だから!!

 もっとも、この方自身は、やや「親方日の丸(親方ユニオンジャック!!)で、ほんとうに「身を挺して」来たかどうか、わかんないなあと思うんですが ^^;) 

 どうして彼のこうした傲慢をたしなめるだけの人が、認知行動療法の内部にいないのかな。

 想像するに、彼の実力があまりに突出しているのかもしれない。でも、その場合にも、周囲の認知行動療法関係者が彼についていけない程度の不勉強なままということそのものが責められるべきと思う。

 (埼玉には第3世代の認知行動療法の、かなり良質の研修組織があるみたいで、彼はその関係者だというのは想像はつくけど、でも、研究会本部のコンテンツで書かれている内容を読む限り、こうした謙虚さの欠落は全く感じない。この流派ならではの主張が十分にgentleに主張されているだけだ。......これはどういうことか? といぶかしく思う。「内部事情に憶測で踏み込んでる」と問われるのなら、ネットで公開している事柄から、「論理的に」たどり着いた検証ですとお答えしたい)
 
 ほんとうに自戒を込めて言うと、感受性の豊かなクライエントさんたちには、リアル世界で彼と会った時にこそ、彼のこういう孤独と気負いとプライドの暴走が鼻につくと思いますけど。さもないと、不幸にして彼の信奉者になった彼のクライエントさんたちは、彼と同じような自己愛的な人間に育つだけだとかなりの確率で予測できるエピテンスが十分あると思う(^^;)。私はネット上の上記のこの記述だけで、認知行動療法の優秀そうなセラピストとして彼を紹介することだけは決してないと思う。

 そもそも、自分が「誤解されることを嘆いて」いる人間はまだまだなんです。

 「私はクライエントさんのためにいろいろ演出しています」も禁句かな。あなたは神様なんですね。

 ........そうか!! 「グローバルスタンダードです」って書くのも、クライエントさんを安心させるための演出・配慮なんですね!! 

 (もっとも、俗世間では、このように書いたら「怪しい商業主義」「権力におもねるとは何じゃ!」誤解するのがグローバル・スタンダードだったりして^^;)

 こうして、エビデンスを大事にし、科学的であることをどの流派よりもプライドにしているはずなのに、(自らの傲慢に気がつかないカウンセラーの手にかかると....という条件はつけますが)認知行動療法ほど、新興宗教じみたノリで、実際に認知行動療法を受けた一部のクライエントさんにとって憎悪の対象にすらなってしまっているという「究極の逆説」が成立するのである!!

(ああ、@niftyココログに「読者の拍手」の機能......

Wgreen

.....がないのは残念だなあ!! 代わりにコレ!を珍しく使っておこう →coldsweats01

 認知行動療法のセラピストって、ユングの言う意味での「自我肥大」に陥る誘惑と戦うの、ホントにたいへんだと思う。

 彼のサイトに、コメント欄もトラックバック欄も「存在しない」ことが、ひどくさびしく、悲しいのは私だけでしょうか?

 ひどく防衛的になっているのは彼の方ではないですか?

 もっとも、パーソナルなブログは別にお持ちなのかもしれません。しかし、実は実名公開であろうとなかろうと、臨床家ブログは、認証制でいいから、誰でもコメントやトラックバックを「送る」ことができることに背を向けた段階で、私に言わせれば、世間のクライエントさんたちに背を向けたのです。

「治療の枠」?

どんなことをブログのコメントで書いたらいいのか、書くべきでないのかについて、読者に自然な現実吟味能力をいつの間にか発揮させるだけのオーラをネット上でも発散できて、それだけで、そのサイトの「心のファイアーウォール」(またの名をATフィールド)になるのが本当の臨床家の放つオーラだっつーの。

私はともかく、そういう神々しい域に達した、ブログやってるけど「リア充」でもあることを存じあげている現場カウンセラーは、けっこうたくさんネット界におられ、私はそうした方々を心から尊敬しています!!

そうしたサイトに、私のこうした発言をきっかけに「意図的に不心得な」書き込みをする、悪魔のような人間がネットに存在するのを私は知っているから、ここでは具体的に推奨サイトをはご紹介しませんけども。

 このブログでただの一度もご紹介せずに、しかも、私のほうからコメントしに行ったことも皆無の、私が隠れてROMしている、憧れのサイトが私もあるんです。私は時々そのサイトに行って、そのカウンセラーのすばらしいネット上のプレゼンス(リアルだときっともっととんでもないと思う。きっとリアルの「あの方」だろうとほぼ想定できているサイトもあります)のオーラを浴び、身を清め、自らの傲慢を戒めています(^^) そういう超五つ星サイトは公開RSSにも入れないことにしているので。

【ここから第6版で追加】

 そして、すでに別の箇所でも追加紹介しましたが、次のような記事があると、いろいろと考えざるを得なくなる。

●Petition Against Over-Regulation of Psychotherapy(心理療法への過剰規制に反対する嘆願書) (Moving Toyshop)

 この記事は、裕さんのサイトの、

* イギリスにおけるセラピーに対する国家の規制

というエントリーで紹介されていたものです。 

 心理療法家を国家資格化し、心理療法を国の公的保険の対象にしようとすれば、どうしても、「心理療法家」の質に関する公的評価による選別という問題を避けて通れなくなる。

 それは了解できるが、それは「最低限の水準保障」といった「基礎資格」的位置づけにとどまるべきであり、更に言えば、「療法流派まるごと」の認定ではなくて、個々のセラピストの「流派を超えた基本知識と基本スキル」という次元での判定であるべきだろう。

 CBT=認知行動療法のセラピストだけを唯一国家的に養成するセラピストという位置づけにし、地域医療制度と統合されたものとしての心理療法センター配置というところまでラディカルにイギリスが踏み込んだ時、それをジョージ・オーウェルの「1984年」的全体主義のはじまりと危惧し、クライエントの心の自由の侵害という観点からの国会請願という政治運動が生じてきたことは、実は全く自然な成り行きであるように思われます。

 むしろそれは、認知行動療法本来のクリエイティビティすら硬直化させる危険をはらんでいるようにも思えるのですが。
 
【ここまで第6版で追加】

....え? 

「親父にもぶたれたことないのに!」

.......坊やだからさ。

そして、

♪君は、
あまりにも、
これまでの僕に似ている気がしたから
僕は
自分の血を流しながら
これを書かずにいられなかったんだ......

と。


【以上、第3版および第5版で追加】

*****

 これに対して、

「なぜ? あなたが私を許せないのは『自動思考』ではないですか」

とか、メタレヴェルに立って言い出した暁には、

「あなたはまるでロボットのような情報解析能力と応答しかできないのですね。それでは表層的なコミュニケーション水準での受容と応答にとどまります。そして、それ自体ひとつの『ゲーム』構造にはまり込んでいるのではないでしょうか? 言葉で表現された内容にとらわれているうちは『第2世代』の認知行動療法にとどまります

と言い返してみたりして(^^;)

 そもそも、認知行動療法の国、イギリスにおいて、論理における「階層」の問題を無視していると、『論理哲学論考』時代のウィトゲンシュタインを批判したという点で、バートランド・ラッセルは正しい。

 
******

 
 結局、おごる平家は久しからずといいますか、本来心理療法の世界全体に貢献するさまざまなスキルを生み出したというだけでセラピーの歴史上輝かしい貢献を認知行動療法がすでにしていることを認めるにしても、およそ何らかの副作用や悪用が可能ではない発明品などこの世には存在しない。

 私の予感では、このままでは、日本における認知行動療法は、たいへん残念なことに、英米における到達水準のような意味での、ある水準での手堅い普及を達成しないまま、いろいろな意味で、そろそろ、驕りから来る退廃と尻すぼみの危機に直面していくのではないかと思う。

 なぜなら、欧米の「第3世代」の大家たち自身が、私をたいへん落胆させる発言を始めているからである!!

 すなわち、自分たちの追求してきた道が、東洋的・仏教的な思想や禅との類似にたどり着いたことへの、私の目から見ると見苦しくてはしたないまでの礼賛である!!

 これに比べると、ジェンドリンも、その後継者たちも、周囲からの度重なる「東洋的なものとの類似」という示唆に対して、何と徹底的な禁欲と自重と、日本人に媚びない態度を一貫していることであろう。ジェンドリン自身、ユダヤ教のカバラ哲学を除いては、決して東洋的・宗教的な影響を口にしないのである。この点ではジェンドリンもアンも驚くほどに徹底した西洋合理主義の住人である。これだけで、認知行動療法は、フォーカシング陣営にゴールの寸前で抜き去られそうな予感がする。

フォーカシング国際会議の準備を進めておられる皆様、この点で少しでも勘違いしたら、CEOのメアリー・ヘンドリックス女史自らが準備委員長の池見先生を会議の席上でgentleにたしなめるという、「実はもの凄い、背筋が凍る」光景が繰り広げられる危険があると思う。少なくとも私が知るメアリーさんはそういう厳しさのあるお方です。言わずもがなかとも思いますが、世界のフォーカシングピープルは、このひどい経済状況の中、物見遊山で物価の高い日本においでになるのではない。ましてや、日本のフォーカシング・ピープルのエスニックなナルシシズムに媚びるために来日するのでもない。今世界で一番パワフルでやる気満々のなのは中南米の現実と戦うフォーカシング・ピープルなのだ。むしろ日本の「トレーナーの数が世界第2位の割には生ぬるい」現状を「結果として破壊して」、大学のセンセに言われるままに大動員をかけられた若い院生たちの間に深刻な危機意識をたぎらせるためにこそおいでになるのである!! 関係者よ、この点で、絶対に、絶対に、池見先生に恥をかかせる事態だけは誘引することなかれ!! ......取り越し苦労を承知で、この私の予言そのものがささやかな抑止力になることを祈っています)

 「第3世代」認知行動療法が日本に本格的に広まり始めた時、それが今の日本社会のエスノセントリズムと容易に共鳴を起こし、社会的現実と現場臨床の狭間で真に練磨されないまま、イギリス的な個人主義を良質な形で文化移殖することはすっ飛ばした(skipした)形で、日本的集団主義の走狗と化し、戦場へと若者を(PTSDになっても繰り返し)送り込むための道具に落ちぶれるであろう。

 これは、日本のフォーカシングの今後の未来においても、共通して抱えている大問題であると私は認識しています。

*****

 
 私は、きっと、少なくとも学会シーズンの秋までには、たいていの認知行動療法インサイダーのカウンセラー以上に、認知行動療法のスピリットの醍醐味と、現場実践のためのコツについて、皆様に縦横に語り尽くせるネット上の存在になっていることを、ここにお約束する。

 私の勘では、とりあえず今の日本では、カウンセラーは、第3世代より、第2世代の認知行動療法を、ベーススキルを大事にしながら、深く細やかに探求し、身につける価値がある予感がします。

*****

【第2版追記】

.......なーんて、自分なりにひとりで悦に入っていたら、nanaさんのサイトで、すでに1年以上前に言及されていた問題でした(^^;)。

●『アクセプタンス&コミットメント・セラピーの文脈』記事( †tangine † by nanaさん)

* 武藤崇編著 S.C.ヘイズ序文 『アクセプタンス&コミットメント・セラピーの文脈:臨床行動分析におけるマインドフルな展開』ブレーン出版, 2006
 
の目次について、詳しい紹介をお書きです。

 この本の中で、武藤氏は、「フォーカシングとの小さな一歩 ~ 体験過程的アプローチとしてのACT」という1章を設けているとのこと。

> ACTの視点を借りることで、フォーカシングならびに体験過程理論を、対象化して観ることに、役立つと思います。

とのnanaさんの言及があります。

 nanaさん、いい形で、共に勉強して行くネットワークを身近にお築きですね(^^)

【追記 09/08/16】

 「第3世代」の著作まではまだ手が届かないでいるんで、恐らく「第2世代」水準止まりの、しかもかなり不完全な認識のままでしょうが、ともかく、私なりの「フォーカシング指向認知行動療法」(!)現段階での実践を、やっと書くことができました!!

●フォーカシング指向心理療法の認知行動療法的活用についてのとりあえずの覚え書き(当サイト)

 よろしければお読みください。

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2008/01/22

こういちろうの自分史

●@nifty TimeLine



このコンテンツは、刻々と増補されます(途中を含めて)

2008/01/18

こういちろう学習障害あるいはADHD、あるいは「星の王子様」説(第2版)

 「この人ADHD(注意欠陥障害)? それとも学習障害(LD)かしら?」


 恐らく、このサイトをご覧いただいているカウンセリングの専門家の中で、ほんとうに勉強されている方は、そういうことをお感じの方っていると思います。

 さすがにもはや「躁うつ病」しかでみないようなら、現代臨床心理学におけるアセスメント能力としては欠陥が多すぎる(爆)

 そして、ここまで書いてきたら、そして、写真まで公然と掲載しているから、体型も資料になるわけで、私のベースが、どう見ても、クレッチマーのいう「躁鬱気質」からほど遠い(全然社交的ではないものね、本来は)こともおわかりのはず。

Ann_weiser__and_koichiro

 でも、人間は大好きだし、冷たい人間ではない(むしろ無茶苦茶ホットでハートフルな)ことも伝わってると思うし、体型も根っからの細身ではない、むしろ肩幅が広い、ずんぐりむっくりであることもわかるでしょう?(私の師、村瀬孝雄先生は、立教の研究室に私を迎える直前、他の院生に「今度来る奴は柔道の選手みたいな体型をしている」と事前に伝えていた) 。そうなると、分裂気質説も不十分(30%は分裂気質でしょうけど)


++++++


 そうなると、残るのは、てんかん型、あるいは闘士型といわれる執着気質、ないし中心気質と呼ばれるものですね。これについては私の古くからの知り合いで、私の「エヴァ」本プロデュースをはじめとしていろいろ引き立ててくれ、著作も凄く多いどころか、近年はTV出演もなさる、同じ開業カンセラーの矢幡洋さんが、「『星の王子様』の心理学」で書いたことがあまりに私にもあてはまります。

 (ちなみに、私のもうひとつの古くからの大事な人脈が、「あの」NHKアナウンサーを奥様にした、テレビでもおなじみ、文化人類学者の上田紀行さんです)

 人と、むしろ開けっぴろげまでに胸襟をひらいてつきあいたい。そして、「星の王子様」に出てくる薔薇のような女性の側面は嫌悪してますしね。女性のそういう側面に媚を売ることは死んでもするかと思っている(このことを肝に銘じていたら、私とつきあいやすくなるよ、女性のみなさん)。

 そして、圧倒的なまでのひとつの対象への持続的集中力としぶとい職人性。気難しさ、「瞬間湯沸かし器」、一種恍惚とした超越的世界に一瞬にして突き抜ける側面(空海さん)、そして、好戦的なところ、とくれば、むしろいよいよ『闘士型』こそベースとわかる。

 時代が違えば、私は宮本武蔵か、それこそ、中世スペインの英雄「エル・シド」なんです。

 あるいは、現代なら、言うもはばかれるけど、イチロー中田!! 


 だから、「お通さん」や「ヒメナ(エル・シドの妻。映画のソフィア・ローレンですね。この人、ホントにエル・シドの死後、2年ぐらいはバレンシアの領主を務め上げたくらいに「できた」人だったみたい)のような女性を心の中でずっと求めている(「イカ天」の頃の、イチローの奥様、もう、最高に好みの女性でした!!)し、そういう女性たちをほんとうに苦しめかねない。

 すぐに旅立っちゃたり、人質に取らせたり、やりかねないので。自覚してます。この点で女性に負担が大きいのは。

 でも、今は政略結婚やお世継ぎのためにで妾を増やす「現実的必要」ないでしょ?
 ほんとうは、すごーーーーーく、一途ですよ!!!


******


 ......となると、まずADHD(注意欠損障害)仮説はちょっと似合わない。確かに話題は次々飛ぶけど、私って、実は何を「話題」にしいていても、実は、手を換え品を換え、同じテーマを追求しているということは、すでに常連の読者の方はお気づきかと思います。

 学習障害仮説は肯定します。テスト用紙に向かいさえすえば、業者テストの国語は学年一、社会科も、普通に勉強して業者テスト全国上位、共通一次試験第一期生で国語自己採点198点。

 一方、数学は、幾何など、空間認識が関われば、あるいは「集合論」(記号論理学って、実は「集合論」との親和性が高いのは、学んだ人は知ってますよね!)には、ついていけたばかりか、ある種のセンスがあったけど、要するに微分・積分・方程式の世界を全く理解できない永遠の学年最下位


******

 もっとも、ほんとうの学習障害の人って、この程度のものではないことは、先日の研修会で笹森理絵さんのお話に接して、よくわかりました、彼女の100倍希釈に過ぎませんね。私の学習障害度は。


*****


 いずれにしても、これで私の今年の恋愛の抱負、「とことん高望みしてみる」の真意が少しつたわりましたよね。

「その人を自分が苦しめ、傷を負わせないかとうか、十分に吟味し、少しずつ交際を深める中でお互いを理解していく。できるだけいきなりセックス(セルクス)しない(爆)」

ということ!!

2007/11/01

コンビニで「結構です」と答えると割り箸を付けてくる法則

 最近は、そこそこ自炊が板についてきた私であるが、それでも時々コンビニや総菜屋で買うことがあるのだか、その際に、特定の店を越えて共通する法則に気がつき出した。

 箸もスプーンも自前のがいつも洗われて家にあるのが当たり前になったから、レジでの

  「お箸(スプーン)はお入れになりますか?」

との問いに、必要ないことを示す意味で、

  「結構です」

と答えるのだが、

そうすると、かなりの確率で、若い店員さんは、割り箸を入れようとするのである!!

 どうも、「結構です」が、「必要ありません」ではなくて、「入れてくれてかまわない」、あるいは、「結構なことですね」という意味に理解されてしまう場合があるようである。

 同じようなケースで、

「大丈夫です」っていう言い方を、今度はお客さんの方がする場合もある。


 このあたり、読者の皆様、特異な例だと感じますか?


*****


 私は、言葉の意味は時代と共に変化するものという認識が強く、「言葉の乱れ」という言い方が基本的に嫌いである。しかし、仮にここで書いたケースがまだ一般的ではないとしても、若い人にも、年長者にも、言葉の用法に世代的ギャップが出ている場合について、早めに察知し、認識して、うまくコミュニケーションをとって欲しいとは思っている。

 フォーカシング的に言えば、人は、フェルトセンスにぴったりな言葉を使おうとする。そして、人の話を聴く時は、相手がその言葉に込めた意図を脈絡から察して、柔軟にコミュニケーションする力が大事と思う。これも、聴き手が場の状況と相手のそぶりから汲み取るために、自分のフェルトセンスを通して感受する「センス」の問題だと思う。

2007/05/02

「牛」という言葉は現実のウシさんとは何の関係もない。

 さて、前回の話との関連で。

 私が、中学から高校の頃に、自分の哲学体系を作ろうなどと言う、ある意味でアブナいこと極まりない試みに熱中した時期があることについてはすでに述べたが、そうした果てにたどり着いた究極の「悟り」が、今回のタイトルにした一句である。

 「牛」という言葉は現実のウシさんとは何の関係もない。

 
 これで私は「救われた」のだ。

 わかる?


******


 いくら、「うしー!」という言葉を100回唱えても、現実の生身のウシを目の前に生成できるわけではない。そのウシに「うし」という言語に対して何らかの条件反射が形成されている場合を除いては、ウシさんの目の前で「ウシ」と何回つぶやいても、それこそ「ウシの耳に念仏」だろう。

 もし、「ウシ」という言葉を「ウマ」という言葉にある日突然置き換えてしまうことに全人類が同意したとしても、それがウシさんやウマさんたちの運命に与える影響も何もないではないか。

 「牛乳」が「馬乳」と呼ばれ、「坂本龍牛」さんになり、茨城県「馬久」市となり、「競牛」が開かれるようになっても、もしそのことで混乱する人間や、スーパーでの商品表示にミスがないと仮定すれば、何の問題もない。

 こうして,私は、「言葉」というものから自由になった。

 そして、それから3年ぐらい後、この話を、大学の記号論理学のゼミの最初の飲み会で、その道の日本の権威とされていた担当教授の先生相手に力説して。

 「それは大事な問題意識だね」と言われた。

 その先生がビール片手に遠い目をして、「......今の私は、抜け殻になってしまった......」と,若き日を懐かしむようなまなざしをされたことが妙に忘れられない。


*****


 実はこの段階ではまだ知らなかったのだが、ウィトゲンシュタインの前期哲学(論理実証主義)を支えるもっとも重要なコンセプトのひとつのことを「写像説」という。ウィトゲンシュタインは、地図が実際の地形を見事に写し取っているという事実に「感動する」人でして(この心境がわからん人は哲学には向かない)、これを根拠に、言語と世界の間には一定の対応関係があると考えた。

 ところが、ウィトゲンシュタインの知り合いが、確か乗り合わせた汽車の中で、「じゃあ、あなた、『これ』、わかる?」と、確かあごの下を手でさする仕草をした。これは、その知り合いの出身地域でしか通用しないボディ・ランゲージだったわけです。


 こうして、ウィトゲンシュタインの「前期哲学」は一気に崩壊に向かう。

 一般の人が聞いたらコメディでしかないような信じられない話だろうが、このエピソードをご存知の哲学好きの人は少なくない筈である(今、記憶だけで書いてるので、多少の間違いがあっても許されよ)。

 論理実証主義というのは,一般には、「すべての哲学上の問題は、語の定義の曖昧性とその論理展開における誤謬によって生じたものであり、これらが解消された時、すべての哲学的問題は一気に解消できる」という考え方とされている。

(ウィトゲンシュタインの前期思想をそこにのみ還元するのはまちがいという見解がたくさんあるらしいが、ここでは「俗流」分析哲学とはこのようなもの、ぐらいにご理解のほどを)。

 これと,以前もご紹介した、「すべての命題はトートロジー(同義反復。A=A)である」という「論理哲学論考」における前期ウィトゲンシュタインの基本テーゼ(?)は表裏の関係にある。

 私の中高時代の哲学的な彷徨が,結局ウィトゲンシュタインのそれと相通じるものがあることを、その先生は看過して下さったのだろうと思う。

*****

 こうして、決して「論理的には言い負かされない」し、「非論理的」と言われようと馬耳東風(牛花北林????)で気持ちが全く揺るがない、でも「何となく深淵な文章」を書くけど、その背後にある「隠された論理性」なるものは後世の「こういちろう研究者」(?)が勝手にいろいろ「発見」して楽しくすれば? とまで開き直っている、こういちろうというパーソナリティが成立した。

 それは、いかなる意味での心理学的「実体論」をも排除し、すべての心理学的諸概念そのものが、最善の場合でも「その人のフェルトセンスにその時点でぴったりの言葉であるに過ぎず、専門家なるものの仲間うちで「間主観的同意」がなんとなく形成されているものであるに過ぎないというところで開きなおれる一面がある、ジェンドリンの体験過程理論への関心へとつながるわけである。


 私が「論理的」ということに過剰に拘泥する人間を迷妄だとしか思わず、その人自身が微細な箇所で無数にやらかしている概念定義の曖昧さと論理の飛躍を「悪意はないにしても、結局ただの詭弁術になってるのにね......」としか思えず苦笑する背景には、こうしたキャリアがあるわけです。

 「論理的」という言葉そのものには何の「論理性」も内包されていないのだから,この言葉を使う人の無自覚な「非論理性」をギャラリーが影でこそこそ嘲笑することになるだけなのだ。「論理性」なんて言葉を一言も使わないままの方が賢いのである。

 まして「論理」でなければ「直感」とか「直観」という言葉を持ち出す人そのものが、それだけでひどくつまんねえ,退屈な頭脳の持ち主であることを露呈しているだけである。ボキャブラリーの貧困と、アイゼンクふうにいえば「硬い心(tough mind)」であることをさらしているだけ。

 .....もちろん、ここで使った「硬い心」という概念そのものがわかんない人にはわかんねえでいいわけですね。ただの狭い世界で通用するだけの「符牒」に過ぎないので。でも少なからぬ外部の人にもフィーリングで通じる「効果」があればそれだけで現実へのささやかな波及効果という点では十分なのである。

 要するに、私は、この世に「アンチこういちろうサイト」を一つぐらい生み出す上で一番「罠にはめやすい」サイトを選んだだけで、そのことでほんの少しは浜崎あゆみさんにあやかりたい(爆)という、それが「目的」の一部であった「ともいえる」ことにすでに気がついているのなら、空しくなる筈ですが。

 公然とこっちのサイト名を取り上げ、リンクすら張ってくれるアンチサイトをひとつでも生みだせれば、それがその分ささやかに世間に認められるきっかけになるのである。その標的は、当然自分よりアクセス数が多くて、ちょっと思い上がったところがあるわりには何か勘違いに気づいていないサイトが望ましい

 その一方で、こういちろうが善人であり、少しお人よしで、謙虚でナイーブでピュアーですらあり、その一方この世の正義の味方であり、誤解をただし、学問的良心のかたまりであり、なおかつしたたかなリアリストでもある、愛すべき人物であること(誰か愛せよ!)は、このブログ実際に読んでいただければ伝わると思うので。

 (私の側にもっとキャパがあってもいいのではないか、あるいは、私の方が相手を買いかぶった挙げ句に勝手に幻滅しているだけでないかと言われれば、そうかもしれないのだが。.....ともかく、「物足りない」のである。カウンセリング関係のサイトの現状に。当面は、何より自分のサイトのあり方について、もっと吟味していきたい)


******


 .....ああ、これでやっと、これまた,このブログの宿題の一つだった、ウィトゲンシュタインへの私の関心を具体的に書くことと、それがフォーカシングへの私の関心とどうつながるのかを一気に書けてしまった。


******


 なお、中井久夫先生は、ウィトゲンシュタインの「前期」論理実証主義から「後期」自然言語学派への転換を、「自己治癒の過程」としてとらえる小論を書き、それは中井久夫著作集に収められています。

 著作集「第3巻:精神医学の経験 社会・文化」所収の「ウィトゲンシュタインの”治療”」というエッセーです。

2006/10/06

「幻想」vs.「幻滅」? 「錯覚」vs.「脱錯覚」? [後編]

.....で、前回の続きです(^^)

 日本語でいう「錯覚」という言葉には少しnegativeな響きがあります。でも英語の"illusion"は、某サーカス的パフォーマンスの名称に使われていたことからもわかるように、否定的なニュアンスは必ずしもないのですね(^^)

 ところが、日本語で「幻滅」という言葉になると、明らかにnegativeな響きになる。このあたりが、"illusion"という言葉、ましてや、否定形("dis-")である、"disillusion"という言葉の翻訳を、更にデリケートな問題にしてしまうのであります(^^;)

少なくとも、

「幻滅」よりは

  「脱錯覚」
  「脱幻想」

の方がニュートラルな感じで、好ましいでしょう。

*****

 しかし、この際、「日本語心理臨床」を更に突き詰めて行くなら、

(き、北山修先生! .....皮肉や悪意は何もないです。浜崎あゆみの「曲は知らない」と去年の日心臨の懇親会で言われて"disillusion"したことなんて、ぜーんぜん気にしてません、信じてください!!..........なーんて書いたらダブルバインド......ではなく、ウィットとして理解して下さるでしょう(^^;)。このへんが、日常会話ほどネットの文字ではニュアンスが伝わらないということの厄介さ!!)

 例えば、

”disillusion”=「醒(さ)める」こと

なんていかがでしょう?

夢から「醒める」という時の、「醒める」です。

    「醒める」ことは、
   「劇的な」プロセスではなく、
   秘(ひそ)やかに、
   静かに、
   生じる

ことという気がしますので(^^)

*****

推薦BGMは、もちろん、


en-Ray - Chai Chai サントリー烏龍茶ソングコレクション - あの素晴らしい愛をもう一度「あの素晴らしい愛をもう一度」

ということで(^^)

 オリジナルではなく、en-Rayの「中国語」カバーを引っ張ってきましたので、若き日の北山先生のお声ではありませんが.....(^^)v!

2006/09/07

これは誰でしょう?

いかに世界があるかということではなく、世界があるということが神秘なのである」


「レイに音読させるのは非常にいいことだと思います。声に出してうまく、つまり注意深く読むということを練習させるということは、ひとに沢山のことを教えます。たとえば、多くの人たち、それに新聞は、何と下劣で無茶な書き方をすることか。考えながら書くからです」


「ムーアは、20フィートぐらいしか離れていない家を見つめ、それから特別な口調で

 『そこに家があることを私は知っている』

と言いたいのであろう。

 かれはそうするのは、自己のうちに知っているという感じを作り出したいからである。」


「知識は特定の顔の表情を伴わない。疑いの調子、確信の調子はあるが、知識の調子など存在しない」

「表現というものは、生の流れの中でのみ、意味を持つ」


..........ノーマン・マルコム「回想のウィトゲンシュタイン」(藤本隆志 訳 法政大学出版会)より。下線は恐らく原文のイタリック)


 上記の引用はすべて、ウィトゲンシュタイン自身の言葉。ひとつめは「論理哲学論考」6:44にあります。残りは、マルコムへのウィトゲンシュタインの私信、あるいは対話メモより。

 レイとは、綾波ではなくて、マルコムの娘です(^^;)。

 ムーアとは、ウィトゲンシュタインのライバルだった哲学者。


*****

「お友達」がまた増えた(^^;)


2006/09/02

500番目の記事:大いなる幻影とただの日常(第2版)

 文字の世界がファントム(幻影)界です。そしてこの本はファントムであるわたくしのこころが文字を介して、ファントムであるあなたのこころに語りかけているのです。いえ「語りかける」とは音声言語の領域なのですから、語りかけるふりをしているのです。

 つまり事実としては、文字言語でのコミュニケーションであるものを、音声言語でのコミュニケーションに似せようとしているのです。

 そのためには、

1.語り言葉風の文章にする

2.同じ内容をくり返すことで、
  各章の間で内容が少しずつ重なり合うようにする。
  そうすることで、文章の区分けを乗り越えて、
  濃淡のような一連の語りのような雰囲気を作る。

3.日常体験を例にあげる、などの工夫をしています。

Genbakaranochiryouron_1_1 事実としては文字言語でありながら、
読んでいるあなたの内側で音声言語として再イメージ化されて、
事実としての語りへ内部変換され、
からだの世界まで伝わるようにと願っているのです。


...............神田橋條治 "「現場からの治療論」という物語" 第3章冒頭 p.39より

******

 2,3日前から、特に夕方から明け方にかけては,関東地方はめっきり秋めいてきましたね。

 この記事が、当ブログ、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」通算500番目の書き込みです。

 かなり長文の、毎回完結型の,ブログとしてはある程度かっちりしたスタイルの記事が多かった私の場合、結構(相当?)多めのアップ数かと思います。

 私の場合、既成の情報を整理して紹介したり、時事ネタで書くことが少ない人間。カウンセリング系にしても音楽系にしても、何より私の「感じ方」「考え方」を、いかに私なりに表現するかの、いわば「構想ノート」みたいなものをそのまま現在進行形で公開しているようなもので、その意味では「雑記帳」というタイトルそのもの。

 記事を順番に続けて読んでいただくと、仮にテーマが別の内容に飛んだかに見える場合ですら、そこに「暗黙の思考の連鎖」があり、あたかもすべてが仕組まれた「伏線」であるかのようにすら感じられてしまうことが、手に取るように伝わる「ような気がする」ところがあるんではないかと思います。

 もっとも、内容が専門的過ぎ、越境ジャンル性が高いので、ついていくだけでたいへんで、そこまで感じ取っていただけない皆様も少なくないであろうことは想像に難くありませんが。

 その一方、恐らく、私の文章に「はまってしまう」ひとにぎりの読者層を生み出してしまったはず、とは感じています。

 恐らく、心理臨床系の大学の研究室によっては、「若い学生への刺激が強過ぎる」と、「禁書」扱いになったのではないかとマジに想像します(^^)......あの、インターネットはどこでも観れるし、それなしでは研究も成り立たない時代になっているはずなんですけどね。

*****

 マジに、一件だけ、「内容証明つき」で抗議してきて下さった、結構著名な先生がおられました。

 この先生、何をここまで力んでおられるのかな?
 いや、何に「怯えて」おられるのかな? 

 たかだか一日平均アクセス数300のささやかなブログです。

 私はちょうど11年前に個人ホームページをはじめました。あのwindows95による、インターネット大衆化の黎明期にです。当時のインターネット環境で、パソコンにど素人の私が、パソコン買って2ヶ月めに、ホームページなるものを、我もしてみむとてするなり、というわけですが(^ ^)

 それから、パソコン通信、メーリングリストなど、様々な媒体を活用してみる中で、この媒体の「怖さ」と同時に、「裏事情」も、私なりにささやかに、ですが、見えて来てしまったところがあります。

 つまり、インターネットには現状では「実際の社会的影響力」はまだまだ乏しいのに、、どうもそこに「巨大なファントム」がそびえたって見えるものらしいということ。まるでそこにものすごい力があるかのように。

 でも、これはネットに限らず、およそ「現場」の最前線に出て長期間接してみれば、多くの領域でそんなものでしょう。小泉首相だって、ブッシュ大統領だって、そして浜崎あゆみさんたって、「ただの人」なんだなあという感慨を感じるかもしれませんね。

 そうやって、ある意味で、人やものごとが、すべてささやかで平凡な日常の積み上げに過ぎないと気がついて行くこと、それが、ある意味で「癒し」であり、「成熟」なのではないか、と,私なりに感じています。

 ユングも、フロイトも,確かそんなふうなことを言ってましたよね。
 
 言ってた通りにご本人が生きていたかどうかは,わかりませんが、「気づいて」はいた筈だと思います。

 そして、自分という「ファントム」を目の前にして、弟子たちがわけもわからぬ感情的闘争や、派閥争いをはじめるのを、さみしそうな目で見ていたのではないかと思います。

 「でも、これって、私が蒔いた種なんだよね」

と思いながら。


 こころという「ファントム」は、自由を、束縛と逆境の中でしか体験できない。

 しかし、人は時々、"A=A"である世界に回帰するという、往復運動を繰り返す人生を、最後まで送り続ける。

Henyonoshocho

ユングの「変容の象徴」という、私が心理の世界に入って一番感動して読んだ本のメッセージを,私なりに、今、言葉にしたら、そうなります。

*****

タイトルは、

「大いなる幻影とただの日常」

としましたが、

「大いなる日常とただの幻影」

と入れ替えてみて、

どちらも味わうあたりが「バランス点」かなと思います。

*****

推薦BGMは、


【Aポイント付】中島みゆき / 臨月 (CD)みゆきの「夜曲」
中島みゆき - 臨月 - 夜曲
(アルバム 「臨月」所収)

浜崎あゆみ/Memorial address [CD+DVD]ayuの"forgiveness"
浜崎あゆみ - Memorial address - Forgiveness
(アルバム"Memorial address"収録)

にしたいと思います。

******

それでも,

次章においては、ドン・キホーテの、荒唐にして無稽なる、新たなる旅立ちの物語が語られる......

......かもしれない(^^)

******

大いなる幻影(DVD)LA GRANDW ILLUSION(1937)「大いなる幻影」←※私,この映画について,タイトル以外何も知らないまま、上記の記事,書きましたので念のため。 

2006/09/01

フォーカシングは「転移/逆転移」すら一気に超え得るはずである。(第2版)

 直前の書き込みを読み返してあっさり気がついたのですが、

 たった2回のカウンセリング(その2回めの1時間だけ)で、


 「実は、前回のフォーカシング・セッションの、終わりの方で言わすに済ませたのは、自分の中に『せっかち』という言葉が浮かび、それがいろんな連想に結びつきはじめた、その中身だ」

 「子供の頃母親が『せっかち』な人で、食事の時もそわそわしていて、落ち着いて飯食べられなかった」

 「自分の彼女が、デートの度に『ふくれる』のは、実は自分が『せっかち』で、観光したり一緒に展覧会に行く時も、さあ、次はこれ、次はこれ、と、彼女のペースにあわせてじっくり『味わう』ことをしていなかったからだなあ。だから別れ際が「じゃあね!!」とさっさと歩き去られてしまい、後のフォローがたいへんだったのだとしみじみ思った」

 「職場でも、上司に、『お前は先を焦るあまり、数は『こなす』が、一つ一つの仕事の仕上げが雑になってる』と先日叱られた」

 「実は、前々回までのセッションの中で、先生(ガイド、トレーナー)が『せっかち』なものだから、[私=クライエントさん.......は]『消化不良』に陥っていた」


 ........これだけのことを、クライエントさんが一気に自発的に語り出すということは,通常のカウンセリング場面では滅多にあり得ないことでしょう。

 『せっかち』というキー・ワード以外の『』内の言葉の多くが、「消化(「こなす」こと)(digest)」に関わる、しかも「日本的な」言葉であることにお気づきでしょうか。要するにこの人は、およそ何に関しても「『せっかち』な早食いで、いつも胃が『もたれて』いた」人だったんでしょう。

 しかも,ガイド(カウンセラー)側にもどこか実際に(つまりフォーカサーの「投影同一視」[(c)メラニー・クライン]ばかりではなく)『せっかち』なところがあるので、「場の雰囲気」を通して、お互いを「環界」((c)バリント ウィニコット)の一部とする中で「共振れ」((c)土井建郎)を起こし、フォーカサーの「身体」という"container"(容れ物)」((c)ビオン 田嶌誠一)を通して生じた「ファントム」((c)安永浩、神田橋條治)としてのフェルトセンスとして現れたのだと思います。

(フォーカサーは、リスナー側個人の体験過程を促進する"container"でもある、ということ、以前どこかで書きましたよね。少なくともこちらこちらを参照)

 「せっかち」というキー・ワード自発的に見いだしたフォーカサーの「気づき」は、

「子供の頃の親子関係」
「異性関係」
「職場の人間関係」
「治療者との面接の場での関係性」

へと自然に拡張する場合が、フォーカシングのセッションでは、かなりありふれた形で生じ得る得るわけです。

(改めて読み返してみて、我ながらぎょっとしました)

 このような、同じような「布置(constellation)」((c)ユング ジェンドリンも使います)にある対人関係についての気づきの連鎖反応のことを、ジェンドリンは、「人格変化の一理論」

ジェンドリン著、池見陽著/編訳、/村瀬孝雄・日笠摩子他 訳 所収)

で、「全面的な適用(grand application)」と呼び、ロジャーズやジェンドリンが開発した「体験過程尺度」(experiencing scale)」という、治療的面接においてクライエントさんが自分の内面に「どのように(how)」関わるかの深さを計る尺度においては、stage 7ピーク値となります。

 (体験過程尺度については、沢山の方々の研究や論文等がありますが、池見陽先生の「心のメッセージに聴く」でのやさしい解説が一番入手しやすいかと思います)

.......このような連鎖反応が生じた場合、「転移」についての洞察を、クライエントさん自らが一気にしてしまっていることになりませんか?

 実は、フォーカシング・セッションにおいては、フォーカサー(クライエントさん)の中のフェルトセンスは、そこでのガイド/リスナーの共にいる「場の雰囲気」「関係性」が反映されたものとしてしか形成されていません。

 ガイドの人の教示のみならず、すべての言語的、非言語的応答も、実は、その場の「関係性」の枠の中でしか生じていないはずです。

 ガイドの人のガイディングや言語的.非言語的応答が、ガイドの人自身の体験過程に開かれたもので、単なるマニュアル的手順ではなく、全くライヴに「自己一致」し続けた「活(い)きた」応答である限りフォーカサーもまた、、フォーカシングの場のただ中で、目の前のガイド役の人との「関係性についての気づき」をライヴで自発的に語り、.親をはじめとする、面接室外での対人関係と二重写しして「まさに体験しつつある自分を体験する」という、転移についての「真の」洞察が一気に自発的に生じる可能性があることになります。

 これが、どういう範囲の人に、どのくらい「安全な形で」生じるかは、まさに、治療者自身の「個人としての」フォーカシング能力がどこまで日常活用され、スキルアップしているかにかかっている、といえると思います。

 ****

「論文で書けばいいのに、いいのか?」(←内なる批評家)

「いいよ。他流派の心理臨床家の顧客さんが増えることに結びつけば。私だけではなく、フォーカシング「業界」全体に


 

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