人を見て、「これだけはしないでおこう」と思ったことは何?
ブログネタ: 人を見て、「これだけはしないでおこう」と思ったことは何?
- 単なる二次情報の受け売り。
- 周囲の様子ばかりをうかがって、「大人しく」ふるまう「だけ」になること。
「独創性」というのは、コンテンツ(内容)」の次元では幻想なのかみしれません。
ブログネタ: 人を見て、「これだけはしないでおこう」と思ったことは何?
「独創性」というのは、コンテンツ(内容)」の次元では幻想なのかみしれません。
このブログって、すでに創設4年9ヶ月、過去のエントリー記事総数が、「この」記事で1,914本め、なのに一日あたりの新エントリー、平均1.10本以上を現在も維持、しかも長文が多いという、へヴィー級ブログです。
おかげで、もはや@ニフティココログが割り振ってくれているサーバー負荷が相当なものになっているせいか、
・・・・・という、新しくおいでいただいた読者泣かせのブログになっていると思います m(_ _;)m
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もちろん、バックナンバー全体を表示してくれる、『アーカイヴ』ページ(自身がココログユーザー以外の読者の皆様、お気づきでしたか??? 右フレームの「バックナンバー」という文字そのものをクリックするとたどり着けます)というものも、あるにはあるわけです。
しかし、このページにお行きになっていただいたとしても、過去の個々のエントリー記事のタイトル一覧があるわけですらない。
このページからの「〇年〇月」を全部めくっていただくだけでも(全く休眠した数ヶ月を除いても、現在50か月分ほどあるわけですね(^^;)。その50ヶ月分、それぞれ月ごとに、毎月30から40エントリーずつはあるわけですから・・・・・
つまり、私がこのサイトでこれまで書いてきた主要記事がどんなものか、新しい読者の皆さんにおおよその見当をつけていただくには、もうデタラメにご不便をおかけしていることと思います il||li _| ̄|○ il||li
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この問題を一気に解決し、
そういうページが、実はずっと以前から存在します!!
●阿世賀浩一郎のホームページ/index
開設1995年12月(つまりWindows95発売直後)開設、日本において、インターネットで個人サイトを作ることが本格的に普及し始めた黎明期から、何と基本的なデザインを変えないまま運営し続けているサイトです。
かつては、ネットを代表するエヴァ・サイトのひとつ、「エヴァンゲリオン論考」で著名だった時代もありますけど、幸いにして著作化させてもいただきましたので、そのコーナーは全面削除いたしておりますが(「ちーちゃんの部屋」というアニメコーナーがかつて存在したことを覚えておられる方もあると嬉しかったりして ^^;)・・・・
そのトップページから、このブログでの新エントリー記事を書く度ごとに、固定リンクへのリンクを、たいてい速攻の連続作業でお貼りしてもいるのです。
恐らく、皆様のRSSリーダーに反映するスピードの比ではない「即時性」で「新着情報」が掲載され続けています。
同一エントリー記事の更新(改版)情報すら、可能な限り早くお伝えしています。
そこに並んでいる、当ブログ個別記事へのリンク数は、常時数百あるはずです(古いものから時々、精選のための「ダイエット」をかけますので、一定数以上には増えません)。
しかし、敢えて今でも、基本的には「素朴なhtml言語の手打ち」に依存し、javaスクリプトすらないに等しいということで、このトップページそのもののバイト数の多さの割には、表示が圧倒的に軽い筈です(このブログのトップページを表示するよりは軽いと思いますよ)
当方のアクセス解析によって、「こっちのページで新着情報見つけるほうが手っ取り早い」ことにお気づきの、毎日数名以上の固定ユーザーの方がおられることは掌握しています(感謝!!)。
しかし、そうした方の占める比率が以前よりもかなり減っているようにも思いましたので、改めてご紹介させていただきました。
今後とも、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」をよろしくお願い申し上げます。
一見これほど「お人よしが過ぎ」、傷つきそうな戦略はないわけです。
しかし、もしこの戦略を、更に、「裏切られることを最初から覚悟して」「涼しい顔をして」用いたらどうなるか?
「またお会いする機会を楽しみにしています」
(・・・・・・それなら、今度お会いしたら遠慮なく話しかけ、私の話やカラオケに引きずり込みますよ)
「困ったことがあったらいつでも相談して下さいね」
(・・・・・・それなら、お言葉に甘えて今度職場にアポなしで押しかけるかもしれませんよ。疲れていたり多忙だったりしたら、きちんと自己申告してそのことを私に告げて下さり、別の日時のアポを取ってくださるということですね?)
(「すでにAさんからお伺いかもしれませんが」.....という前置きをして話したことに対して)
「その話はまだAさんからは聞いていません」
(・・・・・・そうか、あなたとAさんって、私が思っていたよりも、実は肝心な情報交換をしていない場合がある、あるいは、二人には決して一枚岩の連携は存在しないと今後判断してよろしいのですね? まかりまちがっても、私は、Aさんに伝えておけばあなたにも伝わると考えていた私が「甘えていた」なんていうふうに、自責の念にとらわれたり反省したりはしないんですが、それでいいのですね?)
......以上、こういちろうの、「認知行動療法、究極の、ひとくち入門講座」でした(ウイット ^^;)
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子供の頃の私は、ある意味では天真爛漫(=空気を読めないKY)でしたが、その一方で過剰なまでに場の空気を読むところがあったと思います。
そこで、青年期になる頃には、いつの間にか、
「敢えて場の空気を読まない(読み過ぎない)」ことにしたのです。
それだけが私の、社会に参入し、友人を作り、人と出会い、世界を広げるための、不器用かつ前向きの戦略だったのだと思います。
私はほんとうの発達障害の皆様とは次元が違う気がしますが、でもどこかでそうした人たちに共感を覚えるのは、どうもそうした[サバイバル」をしてきたせいかと思います(^^)
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以上の内容は、「NPO京都ハートネットワーク」のkyotoさんが、
でお書きになったことへの感想という意味合いも込めています(^^)
なお、ここで私が書いたことに違和感をお感じの皆様がいたら、
●vol.55 女性の些細な言動が気になるんです(msn恋愛・結婚 人間ドキュメント・恋愛下手なオトコたち)
がおススメかな?
「敢えて裏を読まないでみる」
「敢えて裏を読んでいないフリをしてみる」
こともできるのは大事では? ということを私はお伝えてしてみたいのです(^^)
このことについて、経験あるカウンセラーがどのように考えているかについて興味をお持ちの方は、短期療法の日本における代表的セラピスト、長崎純心大学の児島達美先生の発言を、
●こういちろうはいかに短期療法に入門したか(後編) -ライブ・コンサルテーションという名のケース・スーパービジョン-
でご紹介してみました。実は、この記事を書いた後で、児島先生の発言に接して、全く同じ発想だったのにいたく共感した・・・・という順序だったのですが。私の中に、短期療法的なアプローチにいつの間にか接近している面があったのでしょうね(^^)
現在鋭意ロビー活動と準備を進めている、カウンセラーこういちろうの故郷久留米での経済環境の抜本的安定のための改善計画における「最後の切り札」として、秘密裏に奨められている、「コロンブスの卵」的なアイデアに基づく、堅実な新業務計画に、このネーミングを冠することにした。
別に、フォーカシングを活用して、女子サッカー選手の心身のストレスと緊張をほぐし、集中力を高めることで、コーチとして副収入を得ようという計画ではない(^^;)
このコードネームに基づいてなされる機密プロジェクトには、2つの具体的な実行プログラムが含まれている。
指令1. 私が子供時代に住んでいた旧宅を活用した、現在の開業カウンセリングルームには、猫の額ほどの広さではあるが、住居南側に庭がある。
昨年帰郷してから冬を迎えるまでは、せいぜい雑草を抜く程度の手入れしかできず、おかげで、むき出しになった、結構肥沃な地面の土砂が雨が降るたびに流れ出し、溝を埋めてしまい、今度はそうやって埋まった溝から再び土砂を浚(さら)い出すといういたちごっこを繰り返すのみであった。
そこで、花屋さんと相談して、今年は、その庭の地面一面に、多年草であるなでしこを栽培し、雑草の繁茂を抑止し、私やクライエントさんの目を、わずかなりとも安らがせることを期待することにした。
指令2. 現段階ではまだ具体的な公表の段階ではないので守秘するが、なでしこの間に大麻草が植わっていたり、地中で人工衛星と偽って弾道ミサイルを栽培しているのではないことだけは保障できる(^^)
......しかし、これはやはり一種の「土壌改良を伴う栽培計画」であるとは思われる。.
さて、SARTについてのセミナー体験談本格掲載と並行して、私が現在まだ構想中なのは、フォーカシング指向心理療法セラピストの国際資格認定資格者である私が、「最近の」認知行動療法の良質な教科書をまる一冊読破してしまった上で、「実は私は現場臨床実践の上で、用語が違うだけで、実際にはここまで同じことをかなりの程度していたことになる」ことを評論してしまうという、これぞ究極の企画である。
これは結構凄い刺激的な企画であるぞ、読者の皆様(^^)
わかりやすくいえば、洗足クリニックの伊藤絵美先生(もう申し上げてもいいでしょうが、私が数年前、現場実践水準で感銘を受けたことがある認知行動療法の先生(の一人)って、実はこの先生です。具体的な現場臨床上の連携の接点が生じていたのですが、伊藤先生の方は私を個人としては絶対に覚えてはおられないでしょう。伊藤先生は恐らく「第2世代」ですよね?)が、アン・ワイザーさんの「フォーカシング・ニューマニュアル」を完全に読破し、自分の臨床実践と重ねて吟味した上で論じたらどうなるかということと同じくらいの大実験である。
敢えて書きますけど、私は、他流派のカウンセラーの誰よりも誠実に、ネットで公開する形でこのことを進めてみた結果、予選は通過して、あわよくばベスト4まで勝ちあがれるような気がするのである。
それ以上は望まない。なぜなら、これを機会に、絶対に、私も認知行動療法から実に多くのものを学び、技を盗めることがすでにわかっているからである。私はそれくらいは謙虚なつもりである。
このように断言できる背景には、認知療法の祖ともいえる、アルバート・エリスの「論理療法」(しかもエリス自身の著作の翻訳!!)こそ、私がフォーカシングに出会う前に、一番実用的に役に立つ本として熟読し、生活の中で実践していたからである!!
←これ、25年前と同じ本なんでしょうか???
(......このこと、確かこのブログではじめて書きますよね.....ああ、こういちろうのお腹がどらエもんのポケットといわれる所以である)
*****
私がここで、凝りもせずに(^^;)、なぜこういうゴーマニスト的で挑発的な書き方をするかというと、一部の認知行動療法のカウンセラーの人たちのネット上でのノリを、いくらなんでも傲慢不遜、臨床家として風上にも置けない無神経さと感じているからである。
「日本で民間の保険制度でカウンセリング特約がまだ成立しないのは、認知行動療法以外の、効果がない心理療法との区別が不可能だからである」
という趣旨の、大胆不敵なファシズム的発言をするカウンセラーが、どれだけ現段階で現場臨床で優秀であったと仮定しても、私はそうしたあり方をどうしても許せない。
【以下、第3版で追加】
もう! 愛を込めて引用してあげます:
=======引用はじめ========
認知行動療法はカウンセリング方法としてはグローバルスタンダードとなっている方法です。
アメリカやイギリスなどの医療先進国では保険会社や政府などで認知行動療法を推奨しています。
アメリカの保険会社が効果が実証されているカウンセリング方法を勧めるのは当たり前ですよね。
効果に乏しいカウンセリングをしているところにお金を払いたくないわけですから。
イギリスでも政府が認知行動療法を勧めていたりします。
怪しげなカウンセリングを政府は勧めないでしょう。
=======引用おわり========
【以下、第4版で追加】
このカウンセラーの方、鈴木さんといわれるのですが、ご自身のサイトでは「鈴木」と苗字だけお書きです。......これも不思議です。
第3版のあとで調べたのですが、少なくとも認知行動療法の世界に、同じ鈴木というお名前の「キャリアある」先生がおられることは確かなようです。しかし、これにより、この記事の以下の文面を変更する必要を私は一切感じませんでしたので(^^)。
私の過去の栄光にすがっていうと(ホントは今の私が一番のピークなんだけど、それは置いといて)、村瀬嘉代子先生にご自宅でカレーご馳走になった人間が何を今更怖いものはない(^^)
【以上、第4版で追加】
この方の、医者や周囲のカウンセラーの認知行動療法への不勉強を嘆きたい気持ちは十分に理解します。痛いほどに伝わります。
私も、まさにそういう意味で、フォーカシングについてのフォーカシング関係者自体のまだまだ不勉強な側面を、文字通り身を挺して告発してきた人間だから!!
もっとも、この方自身は、やや「親方日の丸(親方ユニオンジャック!!)で、ほんとうに「身を挺して」来たかどうか、わかんないなあと思うんですが ^^;)
どうして彼のこうした傲慢をたしなめるだけの人が、認知行動療法の内部にいないのかな。
想像するに、彼の実力があまりに突出しているのかもしれない。でも、その場合にも、周囲の認知行動療法関係者が彼についていけない程度の不勉強なままということそのものが責められるべきと思う。
(埼玉には第3世代の認知行動療法の、かなり良質の研修組織があるみたいで、彼はその関係者だというのは想像はつくけど、でも、研究会本部のコンテンツで書かれている内容を読む限り、こうした謙虚さの欠落は全く感じない。この流派ならではの主張が十分にgentleに主張されているだけだ。......これはどういうことか? といぶかしく思う。「内部事情に憶測で踏み込んでる」と問われるのなら、ネットで公開している事柄から、「論理的に」たどり着いた検証ですとお答えしたい)
ほんとうに自戒を込めて言うと、感受性の豊かなクライエントさんたちには、リアル世界で彼と会った時にこそ、彼のこういう孤独と気負いとプライドの暴走が鼻につくと思いますけど。さもないと、不幸にして彼の信奉者になった彼のクライエントさんたちは、彼と同じような自己愛的な人間に育つだけだとかなりの確率で予測できるエピテンスが十分あると思う(^^;)。私はネット上の上記のこの記述だけで、認知行動療法の優秀そうなセラピストとして彼を紹介することだけは決してないと思う。
そもそも、自分が「誤解されることを嘆いて」いる人間はまだまだなんです。
「私はクライエントさんのためにいろいろ演出しています」も禁句かな。あなたは神様なんですね。
........そうか!! 「グローバルスタンダードです」って書くのも、クライエントさんを安心させるための演出・配慮なんですね!!
(もっとも、俗世間では、このように書いたら「怪しい商業主義」「権力におもねるとは何じゃ!」と誤解するのがグローバル・スタンダードだったりして^^;)
こうして、エビデンスを大事にし、科学的であることをどの流派よりもプライドにしているはずなのに、(自らの傲慢に気がつかないカウンセラーの手にかかると....という条件はつけますが)認知行動療法ほど、新興宗教じみたノリで、実際に認知行動療法を受けた一部のクライエントさんにとって憎悪の対象にすらなってしまっているという「究極の逆説」が成立するのである!!
(ああ、@niftyココログに「読者の拍手」の機能......

.....がないのは残念だなあ!! 代わりにコレ!を珍しく使っておこう →
)
認知行動療法のセラピストって、ユングの言う意味での「自我肥大」に陥る誘惑と戦うの、ホントにたいへんだと思う。
彼のサイトに、コメント欄もトラックバック欄も「存在しない」ことが、ひどくさびしく、悲しいのは私だけでしょうか?
ひどく防衛的になっているのは彼の方ではないですか?
もっとも、パーソナルなブログは別にお持ちなのかもしれません。しかし、実は実名公開であろうとなかろうと、臨床家ブログは、認証制でいいから、誰でもコメントやトラックバックを「送る」ことができることに背を向けた段階で、私に言わせれば、世間のクライエントさんたちに背を向けたのです。
「治療の枠」?
どんなことをブログのコメントで書いたらいいのか、書くべきでないのかについて、読者に自然な現実吟味能力をいつの間にか発揮させるだけのオーラをネット上でも発散できて、それだけで、そのサイトの「心のファイアーウォール」(またの名をATフィールド)になるのが本当の臨床家の放つオーラだっつーの。
私はともかく、そういう神々しい域に達した、ブログやってるけど「リア充」でもあることを存じあげている現場カウンセラーは、けっこうたくさんネット界におられ、私はそうした方々を心から尊敬しています!!
そうしたサイトに、私のこうした発言をきっかけに「意図的に不心得な」書き込みをする、悪魔のような人間がネットに存在するのを私は知っているから、ここでは具体的に推奨サイトをはご紹介しませんけども。
このブログでただの一度もご紹介せずに、しかも、私のほうからコメントしに行ったことも皆無の、私が隠れてROMしている、憧れのサイトが私もあるんです。私は時々そのサイトに行って、そのカウンセラーのすばらしいネット上のプレゼンス(リアルだときっともっととんでもないと思う。きっとリアルの「あの方」だろうとほぼ想定できているサイトもあります)のオーラを浴び、身を清め、自らの傲慢を戒めています(^^) そういう超五つ星サイトは公開RSSにも入れないことにしているので。
【ここから第6版で追加】
そして、すでに別の箇所でも追加紹介しましたが、次のような記事があると、いろいろと考えざるを得なくなる。
●Petition Against Over-Regulation of Psychotherapy(心理療法への過剰規制に反対する嘆願書) (Moving Toyshop)
この記事は、裕さんのサイトの、
というエントリーで紹介されていたものです。
心理療法家を国家資格化し、心理療法を国の公的保険の対象にしようとすれば、どうしても、「心理療法家」の質に関する公的評価による選別という問題を避けて通れなくなる。
それは了解できるが、それは「最低限の水準保障」といった「基礎資格」的位置づけにとどまるべきであり、更に言えば、「療法流派まるごと」の認定ではなくて、個々のセラピストの「流派を超えた基本知識と基本スキル」という次元での判定であるべきだろう。
CBT=認知行動療法のセラピストだけを唯一国家的に養成するセラピストという位置づけにし、地域医療制度と統合されたものとしての心理療法センター配置というところまでラディカルにイギリスが踏み込んだ時、それをジョージ・オーウェルの「1984年」的全体主義のはじまりと危惧し、クライエントの心の自由の侵害という観点からの国会請願という政治運動が生じてきたことは、実は全く自然な成り行きであるように思われます。
むしろそれは、認知行動療法本来のクリエイティビティすら硬直化させる危険をはらんでいるようにも思えるのですが。
【ここまで第6版で追加】
....え?
「親父にもぶたれたことないのに!」
.......坊やだからさ。
そして、
♪君は、
あまりにも、
これまでの僕に似ている気がしたから
僕は
自分の血を流しながら
これを書かずにいられなかったんだ......
と。
【以上、第3版および第5版で追加】
*****
これに対して、
「なぜ? あなたが私を許せないのは『自動思考』ではないですか」
とか、メタレヴェルに立って言い出した暁には、
「あなたはまるでロボットのような情報解析能力と応答しかできないのですね。それでは表層的なコミュニケーション水準での受容と応答にとどまります。そして、それ自体ひとつの『ゲーム』構造にはまり込んでいるのではないでしょうか? 言葉で表現された内容にとらわれているうちは『第2世代』の認知行動療法にとどまりますね」
と言い返してみたりして(^^;)
そもそも、認知行動療法の国、イギリスにおいて、論理における「階層」の問題を無視していると、『論理哲学論考』時代のウィトゲンシュタインを批判したという点で、バートランド・ラッセルは正しい。
******
結局、おごる平家は久しからずといいますか、本来心理療法の世界全体に貢献するさまざまなスキルを生み出したというだけでセラピーの歴史上輝かしい貢献を認知行動療法がすでにしていることを認めるにしても、およそ何らかの副作用や悪用が可能ではない発明品などこの世には存在しない。
私の予感では、このままでは、日本における認知行動療法は、たいへん残念なことに、英米における到達水準のような意味での、ある水準での手堅い普及を達成しないまま、いろいろな意味で、そろそろ、驕りから来る退廃と尻すぼみの危機に直面していくのではないかと思う。
なぜなら、欧米の「第3世代」の大家たち自身が、私をたいへん落胆させる発言を始めているからである!!
すなわち、自分たちの追求してきた道が、東洋的・仏教的な思想や禅との類似にたどり着いたことへの、私の目から見ると見苦しくてはしたないまでの礼賛である!!
これに比べると、ジェンドリンも、その後継者たちも、周囲からの度重なる「東洋的なものとの類似」という示唆に対して、何と徹底的な禁欲と自重と、日本人に媚びない態度を一貫していることであろう。ジェンドリン自身、ユダヤ教のカバラ哲学を除いては、決して東洋的・宗教的な影響を口にしないのである。この点ではジェンドリンもアンも驚くほどに徹底した西洋合理主義の住人である。これだけで、認知行動療法は、フォーカシング陣営にゴールの寸前で抜き去られそうな予感がする。
(フォーカシング国際会議の準備を進めておられる皆様、この点で少しでも勘違いしたら、CEOのメアリー・ヘンドリックス女史自らが準備委員長の池見先生を会議の席上でgentleにたしなめるという、「実はもの凄い、背筋が凍る」光景が繰り広げられる危険があると思う。少なくとも私が知るメアリーさんはそういう厳しさのあるお方です。言わずもがなかとも思いますが、世界のフォーカシングピープルは、このひどい経済状況の中、物見遊山で物価の高い日本においでになるのではない。ましてや、日本のフォーカシング・ピープルのエスニックなナルシシズムに媚びるために来日するのでもない。今世界で一番パワフルでやる気満々のなのは中南米の現実と戦うフォーカシング・ピープルなのだ。むしろ日本の「トレーナーの数が世界第2位の割には生ぬるい」現状を「結果として破壊して」、大学のセンセに言われるままに大動員をかけられた若い院生たちの間に深刻な危機意識をたぎらせるためにこそおいでになるのである!! 関係者よ、この点で、絶対に、絶対に、池見先生に恥をかかせる事態だけは誘引することなかれ!! ......取り越し苦労を承知で、この私の予言そのものがささやかな抑止力になることを祈っています)
「第3世代」認知行動療法が日本に本格的に広まり始めた時、それが今の日本社会のエスノセントリズムと容易に共鳴を起こし、社会的現実と現場臨床の狭間で真に練磨されないまま、イギリス的な個人主義を良質な形で文化移殖することはすっ飛ばした(skipした)形で、日本的集団主義の走狗と化し、戦場へと若者を(PTSDになっても繰り返し)送り込むための道具に落ちぶれるであろう。
これは、日本のフォーカシングの今後の未来においても、共通して抱えている大問題であると私は認識しています。
*****
私は、きっと、少なくとも学会シーズンの秋までには、たいていの認知行動療法インサイダーのカウンセラー以上に、認知行動療法のスピリットの醍醐味と、現場実践のためのコツについて、皆様に縦横に語り尽くせるネット上の存在になっていることを、ここにお約束する。
私の勘では、とりあえず今の日本では、カウンセラーは、第3世代より、第2世代の認知行動療法を、ベーススキルを大事にしながら、深く細やかに探求し、身につける価値がある予感がします。
*****
【第2版追記】
.......なーんて、自分なりにひとりで悦に入っていたら、nanaさんのサイトで、すでに1年以上前に言及されていた問題でした(^^;)。
●『アクセプタンス&コミットメント・セラピーの文脈』記事( †tangine † by nanaさん)
* 武藤崇編著 S.C.ヘイズ序文 『アクセプタンス&コミットメント・セラピーの文脈:臨床行動分析におけるマインドフルな展開』ブレーン出版, 2006
の目次について、詳しい紹介をお書きです。
この本の中で、武藤氏は、「フォーカシングとの小さな一歩 ~ 体験過程的アプローチとしてのACT」という1章を設けているとのこと。
> ACTの視点を借りることで、フォーカシングならびに体験過程理論を、対象化して観ることに、役立つと思います。
とのnanaさんの言及があります。
nanaさん、いい形で、共に勉強して行くネットワークを身近にお築きですね(^^)
【追記 09/08/16】
「第3世代」の著作まではまだ手が届かないでいるんで、恐らく「第2世代」水準止まりの、しかもかなり不完全な認識のままでしょうが、ともかく、私なりの「フォーカシング指向認知行動療法」(!)の現段階での実践を、やっと書くことができました!!
よろしければお読みください。
この問題について、日本に十数名いる、The Focusing Institute(日本語版サイトはこちら)の認定コーディネーター(狭義のフォーカシング技法の「トレーナー」、および、「フォーカシング指向心理療法セラピスト」の訓練と資格認定そのものの資格の所持者である私が、個人的見解であるにしても、こうした場で表明することは、たいへんな責任を伴うことを私は十分自覚しています。
私以外のコーディネーターやトレーナー、一般のフォーカシング学習者の皆様からのご意見は誠実に尊重させていただきます(個人メールでも結構です。匿名でも歓迎です)。
もとより、個人情報保護の観点から、ご本人から主体的に公開の意思を表明された場合を除き、ネット上でその趣旨を、一般論としてすら、公開することはいたしません。
*****
まず、端的に、私なりの当面の結論を、解説抜きで列挙させていただきます。その上で、一項目ごとに詳しい説明と、情報提供をいたします。その結果が連載の形をとる可能性も十分考えられます:
1.日本のこれまでの趨勢としては、鬱状態にある人への、「単一技法体系」としてのフォーカシングの学習には慎重な意見が多かった。
2.特に、フォーカシング学習者の主体性尊重が十分でなく、専門家側ががみだりにフォーカシングを学ぶことを勧め、フォーカサー(フォーカシングを学習し、身につける人。クライエント側)が受身にフォーカシングを学ぶような形は回避すべきとされている。
3.国際的には、マクガイアの「自殺念慮のある重篤な欝状態にあるクライエントに対するフォーカシングの適用」という論文(私は約20年前にこの論文の英語オリジナルを個人的に日本語に全文訳してみました。その頃からこの論文にかなり大きな影響を受けています。英文がネット上で見つかればリングを張りますし、いずれ日本語で概要を紹介します)を古典とする形で、殊にヨーロッパでは、鬱を含む重篤な状態にあるクライエントへの、フォーカシング指向心理療法的なアプローチがなされて来ており、それらの中には、「試行的段階」を超えて、臨床キャリアを積み重ねた現場実践者も増え、論文も確実に増えている段階である。
4.日本では、特に増井武士、田嶌誠一という、現場心理臨床に卓越した、フォーカシングと一線を画するスタンスを保ってきた臨床家(二人共に福岡で活躍してきた)により、うつ状態や統合失調症などの重篤な患者さんにフォーカシングをそのまま学んでもらうことの問題点と、その原因についての仮説が具体的に究明され、ジェンドリンの体験課程理論そのものへの批判と新たな理論構築、更に、そうした欠点を解消できる独自の技法的アプローチについて早くから公表され、すでに臨床現場で幅広く適用されているている(増井の「こころの整理法」、田嶌の「壷イメージ療法」)。
5.私、阿世賀の私見によれば、増井・田嶌両氏は、臨床実践的には非常に鋭い着眼(増井の「にせフェルトセンス」論を含む。私の理解では、その本質は「関係性」論である)と、新たな平易で効果的な技法体系の提案と、その日本での普及という点で、たいへんな功績がある。しかし、一部ジェンドリンの体験過程理論への誤解に基づく側面があり、日本のフォーカシング「インサイダー」の研究実践者に、概念や用語の理解の上で、むしろ混乱の火種を蒔いているともいえる。もし、このような、フォーカシング「インサイダー」陣営と、この両氏の間で、専門用語の定義と相互誤解についての相互了解(論理実証主義的な問題解決)が深められていくと、日本の心理臨床全体に大きな貢献をすると私は考えている。(ちなみに、私は臨床家になりたての頃から、この先輩お二人と、懇意です!!)
6.薬物療法なしでも、フォーカシングが、その代わりとして、単独で、うつ状態の解決に貢献するという発想は決してとるべきではない。
7. 恐らく、欝状態になる前から、すでにひとりで日常の中でもフォーカシングをすることに慣れ親しんで来ていて、人生の最重要クラスの困難の解決にフォーカシングが役立った経験もそれまでに積み、それゆえにこそ、自分にとってのフォーカシングの効用の限界と、「無理のない形での」フォーカシングの役立て方にも習熟したフォーカサーの場合には、鬱とつきあい、克服していく上で、フォーカシングを学んでいたことによるメリットの方がデメリットより大きいのではないかと思う。
● このメリットがどのようなものであるかについて:
A.医者や家族とのつきあい方を改善する可能性
B.症状や、薬の効果・副作用についての自己認識と表現能力の洗練
C.鬱病の「二次症状」としての様々な感情を自分で細やかに識別し、言語化でき、自分の中に生じてくるそうした諸感情に振り回されにくくなり、比較的自然に受容するためのセルフスキルを主体的に持っているという効力感(efficiency)、自己統御への安心感を獲得できる可能性がある。
●具体的に考えられるデメリット:
A.鬱が軽いうちは、フォーカシングである程度緩和できてしまうことも少なくないために(!)、医療の受診や専門的カウンセリングにつながるのが遅れる可能性。
B.言語的(絵画的表現など)に自分の状態を表現するのがすでにしんどいうつ状態の人が「実感にぴったりの言語化(絵画などの表現)が必要」と過剰に思い込んで、結果的に心身を疲労させる可能性(これは、トレーナーの側の技法的熟練があればさまざまのやり方で回避できるはずと私は考える)
.
C.前よりもフォーカシングがやりにくくなった時には、それだけ以前より心身が消耗している証しであり、むしろフォーカシングを試みるのをやめて、休息をとったり眠ってみようとするための内側からのサインとして歓迎する方がいいということまで、フォーカシングのトレーナーやセラピストが(一般論としては伝えていても)、いざと言う時にフォーカサー(クライエント)自身が思い出せるような十分に実践的なたちでは教え切れていないことが少なくない現状があるのでは?
(更に言えば、そうやろうとしても、今度は休息をとったり眠ったりできないという新たなジレンマにはまることも少なくなく、その切実度が半端ではないということを、トレーナーやセラピストは、仮に頭で知っていても、フォーカサーが安心する形で受容できるだけの経験に乏しいことが現段階では多いだろうと予測する)
*****
ここからナンバーリングを7.の続きに戻そう:
8.うつ状態の人が、病院やカウンセリングルーム、あるいはフォーカシングの集いの場に通うということだけですでに消耗し、更に帰宅の際に消耗するということへの、本人を傷つけない形での配慮が十分になされていない現状があるように思われる。
具体的に言えば、その配慮とは、
「病気なので断られて医者に回された」
だとか、
「鬱(軽躁)状態の人間が感じるフェルトセンスはすでに病的である、あるいは、現実吟味能力が低下しているので、フォーカシングでは解決できない」
などと主催者やトレーナーに判断されたと、参加者が思い込んでしまわないための配慮である。
なお、ジェンドリン自身が、
「フォーカシング・スキルを学ぶ能力はのその人の『病理水準』とは無関係である。つまり、例えば統合失調症の人の中に、スキル上達が早い人と大変な人がいて、同様に、いわゆる『神経症圏』の人の中に、スキル上達が早い人と大変な人がいて、いわゆる『健常者』の中にスキル上達が早い人と大変な人がいる。そうした違いの方がよほど大きい」
と明言するのを日本で聞いた数十名の中の一人が私でもあります。
(ことフォーカシングに「全然」限らないが、NHKの鬱特集の番組でも描かれたとおり、医者やカウンセラーの中に、「古典的なうつ病患者(メランコリー型)はおとなしくて文句を言わず従順なので相手をしやすい」という感じ方をする人たちが少なくない。そうした医者やカウンセラーの側に、患者(クライエント)が従順に従わないというだけで、「双極性障害」「非定型うつ病」「境界性人格障害」というふうに、ひとつの差別的な含蓄すら込めて誤診することへの悪魔の誘惑が生じる危険は少なくない現状があるだろう。境界例人格障害の診断が「ほんとう適切な」人に対してすら、気分障害的な側面については「気分調整剤」の処方がまずなされるべきというのが最新のAPA国際的標準処方とのことです)
9.日本では、個別セッションにしても、グループの場合にしても、リスナーやガイドを相手としてのフォーカサーのフォーカシング体験が、そのフォーカサー個人の生活や日常における悩みや心身の状態よりも、セッションのその場の雰囲気や、リスナー・フォーカサーとの関係性の影響を、より強く受ける可能性という問題についての認識がまだまだ不十分である。
もっとも、「関係性が大事」ということを、フォーカシング関係者も、まるでお題目のようにすでに繰り返している。しかし、それを、セッションの只中でhere and nowな形で臨機応変に形成していく技量がトレーナーやカウンセラー個々人の中にどれだけ育成されているかとなると、あまりにもばらつきが凄いといわざるを得ない。
10. 面接室や会場を出て、一人になった後や、家に帰ってしばらくしてから生じる、フォーカシングの場で体験者したことがことごとく虚妄と感じ、現実感そのものがまるで失われる場合があるという「リバウンド現象」を、私はちょうど20年前、学会誌掲載処女論文で「セッションの『反動』」と名づけて以来警鐘を鳴らし続けてきた。
しかし、未だにこの件について具体的にどう対処するかという議論は全くもって成熟していないと私は思う。
11.これと関連するのだが、
「大きな洞察と気づきの体験は、いわゆる「健常者」の場合ですら、一時的軽躁状態に類似している面がある」
ということを、フォーカシング関係者も、もはやあっさりと認めた方がいいと思う。
少なくとも、うつ病の人に、カウンセラーや医師、家族、そしてフォーカシングの仲間たちに、少し元気になったり鬱を脱してくると、安易に「躁状態になった」というネガティヴなレッテルを貼られたと感じている人は決して例外的ではないように思われる。
そうやって人の心理状態を安易に型にはめず、虚心に感じなおしてみて、言語化すら性急に目指さずに、「その感じ」そのものと無理なく共にいられるスタンスを自分で作れるようになる方向にフォーカサーを援助するという点にこそ、フォーカシング・トレーナーのベーシックな務めであるはずなのにである。
そうやって躁にせよ鬱にせよ、気分障害と診断されている患者さんへの日本独特のトレーナー側の気おくれが生じているのは、先輩からの「うつ状態の人のフォーカシングを深めさせると悪化する」という忠告をただ鵜呑みにしているためだと思われる。「患者に害を与えないことが最大の治療」ということは真実ではあるが、トレーナーを目指す人なら、少なくとも自分で自分のためにフォーカシングをやり過ぎるほどやってみて、フォーカシングを深め過ぎると、どういう副作用や弊害が出るかについて自分に試してみるくらいの好奇心と探究心は持ってほしいと私は念じている。
(これらの点については、フォーカシングに限らず、洞察的あるいはリラクゼーション重視のセラピー全般において考慮されるべきことだろう。
12. 更にく言うと、前述の「セッション後の反動」体験に深刻な次元ではまった人は、自分のフォーカシング学習が未熟であるという、実は誤った劣等感に陥ったり、そもそもフォーカシングを学ぶ場に二度と現れないのではないか。
そして、フォーカシング指導者の側も「もともと自我が弱い人、躁鬱のある人、あるいは境界例人格障害っぽい人」だから不向きなのだ、という循環論法で済ませているのだと思う。
13.こうなると、何と、脳内の神経伝達物質上のメカニズムの仮説として、わたしのいわゆる「セッションの『反動』」が説明できる可能性があることに、最近やっと、はっきりと私は気がついた。
フォーカシングのセッション(特にシフト体験)そのものに、セロトニンとノルアドレナリン、ドーパミンの分泌を、それぞれ促進(抑制)する作用がある可能性を真剣に検証すべきではないか。
それがいいバランスで生じると、弱いにしても「抗うつ剤的な作用」を若干果たし、その人の鬱の改善に貢献している場合もあるだろう。
しかし、その一方、今度は、薬理作用という物質的なバックアップがないままで、脳内物質の過剰分泌のスイッチが入ることで、その「反動」として、数時間後にはそれらの物質の枯渇(あるいはバランスの変化)がはじまり、急激にうつ状態を喚起したり、鬱的とはいえない、鬱と誤解されやすい、別次元での心身反応を引き起こしたとしても何もおかしくないではないか?
つまり、フォーカシング「成功した」学習体験そのものが、不適切な抗鬱薬の投薬と同じようにして、躁鬱の素質がある人ばかりか、もっぱら単極性の鬱だった人にすら躁鬱の波を「喚起する」可能性については、今後研究調査が重ねられるべきである。
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もとより、く今日の技術水準の限界もあるかもしれない。しかし、脳内神経伝達物質レヴェルでの直接の検証とまでは言わなくても、せめて、NHKスペシャル「うつ病治療 常識が変わる」で実際に描かれたような、脳の血流量を脳の部位ごとに比較し、映像化する技術はすでに存在するではないか。
[第4版で追加] 番組で紹介された技術は、恐らく、理化学研究所のfMRI (functional magnetic resonance imaging) というニューロイメージング手法である。
そうした測定法をうまく活用すれば、フォーカシングセッションをライブで進めながら、脳内変化を「ある程度間接的に」かもしれないが、継続的に測定し、統計的分析を加えること、すでに容易なはずである。
(続編はこちらです)



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ここで問題提起したことが、実は、こと「技法としてのフォーカシング」を学ぶことや「フォーカシング指向心理療法的」アプローチに限らず、すべての心理療法アプローチにあてはまることに、すでに皆さん気づいていただいているかと思います(^ ^)
●関連記事(久留米フォーカシング・カウンセリングルーム)
.......今回の記事とは少しだけアングルが異なる部分があります。
......私自身が担当した、通院中のうつのクラクィエントさんに対する認知行動療法的ともいえるフォーカシング指向心理療法的アプローチの実例。この記事に関して私(阿世賀)の側は一切取材を受けず、クライエントさんに入った読売の取材そのままの内容である。
ジェンドリンの直弟子、日本フォーカシング協会前会長でもある、関西大学の池見陽先生のコメントもその記事に掲載されているが、まさかこのような形で新聞の上で遭遇するとは、クライエントさんも私も池見先生も、実際記事を読むまで想像していなかったという裏話がある。
この記事に対する追加コメントとして、薬物療法や鬱の人へのフォーカシングの適用について、池見先生の見解が研究室サイトに更に掲載されたが、その記事へのリンクはこちら。
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※この記事の著作権は阿世賀浩一郎にあります。そのことを明示してくださる限り、ネット上でのご紹介、一部の引用、リンクは自由といたしますが、トラックバック等があれば感謝いたします。なおこの記事に基づく学会発表を2009年度中に行ないます。この記事を参考文献として明示して下さった上で学会発表に役立て下さる方があれば、ご批判も含めて、歓迎いたします。 (C)阿世賀浩一郎
すでにお気づきの方もあるかもしれませんが、やっと昨日午後から参加しています。
私のプロフィールはこちらです。
《2008/9/25 19:08更新》
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です(^^)
今後は、以下のクリック、どうかよろしく!
構造主義は、現在においても社会構成主義などという形で、形を変えつつ影響力がまだまだ残っていると思うけど、いろんな次元のことに複眼的な観察と思考と判断能力を持つことと、そうした分析過程を経て、1個人がどのような「選択」をしていくかということは、ある意味では共存可能でありつつ、同時に別次元の問題だと思うのである。
(などと「止揚」してみる)
単なる価値相対主義のニヒリズムに留まる構造主義「者」に留まるのもつまらないと思う。ある意味でこの人の論調そのものが、単に金魚鉢を神の視点から眺めようとしているだけの、今日ありがちな論壇のあり方に留まり、「現実の制約の中で『自分は』どう行動するのか」という問題を回避している気がする。
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以上、
もとい、
王子のきつねさんサイトの、
への私のレスより転載。
前の記事で、私のカウンセリングルームでの「個人情報のお取り扱いについて」に出発してひとつの問題提起をしました。
今度は、別の条項を引き合いに出して、少し違った観点から問題提起をしましょう。
7.甲(カウンセラー)は、学会発表や著作等に、乙(来談者)との相談内容を具体的に事例として記述する場合には、乙の許可を受けて公表します。その場合も、乙との相談が終結して原則として満 1 年を経過した事例についてのみ公表します。乙 には事前に発表内容について閲覧し、甲に修正を求める権利があります。公表の際、聴衆や読者に乙という特定の人物が推測・同定できない水準まで、個人情報の一部を改変・省略して公表するように努めます。
こちらの方は、すでに臨床心理士の共通理解として定着したものです。
私も異論はありません。個人情報保護の観点からみても、必要なことですし。
たいていのカウンセラーが実践しているのは、「発表についてクライエントさんの承諾をいただく」という水準のことかもしれません。
しかし、特に日本心理臨床学会大会の多くの個人口頭事例発表に参加して気がついたのは、近年、クライエントさんに、発表草稿全体を文書の形で全文クライエントさんに読んでいただき、いただいた感想まで含めて発表なさるカウンセラーの皆さんが徐々に増えて来ている気がするということです。
私はこうした発表者の姿勢に心から敬服しています。
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一方、クライエントさん本人に「発表すること」の許諾は求めても「発表内容」全体までクライエントさんに開陳することには踏み切れないでおられるカウンセラーの皆様は、少なくないかと思います。
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個人情報保護の観点ではなく、純粋に臨床的観点から考えた場合、「発表することをクライエントさんに許諾していただく」ということそのものが、治療的に悪影響を与えないか、という不安を、多くのカウンセラーは一度は抱くと思います。 クライエントさんの症状が再び悪化したらどうしよう?....などと。
確かにこれは大変デリケートな問題なのですが、少なくとも、「発表の草稿をお読みいただくこともできます」と選択肢を提示したり、「私としては、むしろ一度お読みいただきたいのです。よろしければ、感想やご意見、間違いの指摘などをいただきたいのです」と、カウンセラーの側から提案することは、フランクになされていいのではないかと感じます。
カウンセラーの方によっては、むしろ、これを「フォローアップ面接」のいい機会と受け止めておられる方もあるかもしれません。
もちろん、こうした、発表についてのクライエントさんとの話し合いの中で、クライエントさんが発表に難色を示した場合には、どれだけ発表したくてもおやめになるカウンセラーの方が多いと思います。
特に「成功事例」と考えるものを発表する場合、そこには、カウンセラーの中にある「評価を受けたい欲求」という厄介なものが介入していることも少なくないかもしれません。しかし、それが発表者の「記憶そのもの」を変容させる可能性は,確かにあると思います。
しかし、「失敗事例」「中断事例」とカウンセラーご自身が考えているものを敢えて学会で発表したり、論文で書こうとされているカウンセラーも増えて来ているように思います。こうしたことは、一般にはあまり知られていないかもしれませんが、こうした事例で的確な考察がなされているもの、あるいは、座長やフロアの参加者と活発な議論がなされた上で、それも大事にして論文におまとめになることは、他の臨床家にとっても、大きな学びの場を提供して下さることとなり、敬意を表しています。
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更に、事例研究発表を考える際に忘れてはならないのは、発表するために、記録に基づき再度事例を振り返り、まとめ直し、考察する過程そのものが、実は、カウンセラー自身による、面接過程の「再話」であり、「物語化」であるということです。
私はこれを、必ずしも否定的な意味で述べているのではありません。そうした再検討の過程で、記録の中の、完全に忘れていたさりげないエピソードに気づくことをきっかけに、以前から頭の中で思っていたのとは別の形で事例全体が見えてくることは、実によくあることだからです(臨床家の皆さん、経験がありますよね?)
最近、「ナラティヴ(説話、あるいは「物語ること」)」という社会構成主義の観点からカウンセリング過程を検討することが盛んになっています。私は、実は未だにこの用語についてほんとうに納得できたと感じたことはない不勉強なものなので、以下の内容はこの概念の奥行きを理解していない浅学な者の引きつけ方かもしれませんが、ともかくナラティヴという概念も連想した、私個人の素朴な考えというぐらいのつもりで以下の内容をお読みいただければ感謝いたします。
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1. そもそも、クライエントさんが、カウンセラーに語り出す内容そのものが、すでに、クライエントさんが無意識のうちに創造したた「物語」だともいえます。
2. クライエントさんの周辺の人たちが、クライエントさんをどう見ているか、というのも、ひとつの「物語」です。
3. 更に「周囲の人たちが自分をどう見ているのか」というクライエントさんの「物語」という次元がある訳ですね。
4. カウンセラーがクライエントさんの話をどのように理解するかも「物語化」の過程です。
5. カウンセラーにどのように理解されているのか、というのも、クライエントさんの「物語」です。
6. そして、こうしたこと全体が複雑に相互作用している多元的なトポス(場)として、治療場面は存在します。
いずれにしても、「事例発表」は、質のよい事例発表ですら、クライエントさんが聴いたらびっくりたまげかねないような「カウンセラーの物語」になっている可能性はたいへん高い。これは、カウンセラーが誠実であろうとしているか、などと言った次元でなく、生身の人間ゆえの限界でしょう。
現実には、事例発表の段階で、すでにそのカウンセラーを直接指導する先生や、スーパーバイザー、事例検討会に参加した他の参加者の紡ぎだす「物語」との相互作用が進んでいるわけで、それらをもとに学会発表された時点ではすでにもの凄い「物語化」が生じているわけですね。
それを学会で口頭発表する際に、クライエントさんの感想も聞く。
更に、学会発表の際の座長やコメンテーターの先生や、フロアからの発言。
それに輪をかけて、論文を投稿した後の、査読の3人の匿名の委員の先生との文書によるやり取りの繰り返し。
......果たして、これらがほんとうに、カウンセラーの見地を「より真実に迫らせた」といえるかどうか????
何しろ、ロジャーズ派や一部の家族療法を除いては、面接の過程の記録を、録音や録画の形で検証可能な状態にないのが普通です。仮にそれらが存在したとしても、リアルタイムで面接と同じ時間をかけて)再生し、それらを全検討者が検証するというのは非現実的であり過ぎます。どこかで「圧縮」が必要なのです。
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だとすると、最低限どのラインで、「物語化の副作用」を抑止し、修正することでけじめをつけるか。
私の答えは、面接過程の中で、折々、クライエントさんと、それまでの面接過程について小刻みに振り返り、クライエントさんがそれまで感じていたけどコトバにならなかった違和感などを、面接のなかで取り上げて互いに納得いくまで相互作用することを繰り返し、学会発表のための草稿をまとめる時点でその一応の総決算をしておくことだろうと思います。
まずは、このことがカウンセラーとクライエントさんとの相互作用の中で、丁寧になされていること。
敢えて言います。
1. カウンセリングの過程をどう受け止めるかは、究極的にはまずはクライエントさんの内心の自由であること。
2. 続いて言えば、カウンセリング過程の直接の当事者であるクライエントさんとカウンセラーの共有物であるということ。
3. もし、これが、カウンセラーとスーパーバイザーや指導者との共通理解の方が、2.よりも長期にわたって優先するようになったら、もはや注意すべき状態ではないかということ(たとえ、いわゆる「現実吟味」が低下している重症精神障害や認知症や発達障害の場合ですら!!)。
4. 時として、カウンセラーとクライエントさんの間のいわゆる「転移/逆転移」関係の中で、一度お互いに何らかの意味で「クレージーな」状態を経過するリスクを幸いうまく切り抜けられたので、活路が開けるということもままあることである。指導者やスーパーバイザーは、そうした可能性を一方で必要な時点で示唆することを忘れるべきではないが、クライエントさんとの相互作用のただ中で、両者が自発的に脱錯覚していく権利は保証されるのが望ましいのではないか。
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面接過程は、担当カウンセラーとクライエントさんの共同作品です。
いかなる権威も、指導者も、二人の関係に、ある「尊厳」を感じ、「抱え」の姿勢で見守る、フィロバティックな姿勢を堅持してこそ、自律的な、責任感ある、経験を消化する力の高い、良き治療者は育つのだと思います。
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私は、6年ほど前、福岡在住で、ウィニコット、ビオンをはじめとするイギリス対象関係論のもっとも誠実な日本での指導者であり、現場カウンセラーとしては、重度の摂食障害患者との入院治療で知られた、松木邦裕先生に、かつて、大会場での事例のコメンテーターをお願いするという、怖い者知らずなことをいたしました(カウンセリング関係者なら、これがいかに無謀か、ご想像できるかと)。
結局、例のごとく、カミソリで痛みもなく斬られました(^^;)。
先生の見解にすべて納得したわけではありません。
しかし、先生の
「クライエントさんを汚しちゃいけないよ」
という言葉だけは深い印象に残っています。
......ここからの自由連想なのですが、
「クライエントさんと、カウンセラーの関係を、汚しちゃいけない」
とも言えるのではないか。
.......日本中のカウンセラーの指導者の先生方に向けて。
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この記事、更なる続編がこちらにあります。
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臨床心理における社会構成主義的アプローチについては、東京大学の下山晴彦先生のセミナーに一回出た経験しかない。
わかりやすい入門書は、以下の本だそうですね。
●ナラティヴ・セラピー入門 高橋 規子 (著), 吉川 悟 (著) 金剛出版
「この人ADHD(注意欠陥障害)? それとも学習障害(LD)かしら?」
恐らく、このサイトをご覧いただいているカウンセリングの専門家の中で、ほんとうに勉強されている方は、そういうことをお感じの方っていると思います。
さすがにもはや「躁うつ病」しかでみないようなら、現代臨床心理学におけるアセスメント能力としては欠陥が多すぎる(爆)
そして、ここまで書いてきたら、そして、写真まで公然と掲載しているから、体型も資料になるわけで、私のベースが、どう見ても、クレッチマーのいう「躁鬱気質」からほど遠い(全然社交的ではないものね、本来は)こともおわかりのはず。

でも、人間は大好きだし、冷たい人間ではない(むしろ無茶苦茶ホットでハートフルな)ことも伝わってると思うし、体型も根っからの細身ではない、むしろ肩幅が広い、ずんぐりむっくりであることもわかるでしょう?(私の師、村瀬孝雄先生は、立教の研究室に私を迎える直前、他の院生に「今度来る奴は柔道の選手みたいな体型をしている」と事前に伝えていた) 。そうなると、分裂気質説も不十分(30%は分裂気質でしょうけど)
++++++
そうなると、残るのは、てんかん型、あるいは闘士型といわれる執着気質、ないし中心気質と呼ばれるものですね。これについては私の古くからの知り合いで、私の「エヴァ」本プロデュースをはじめとしていろいろ引き立ててくれ、著作も凄く多いどころか、近年はTV出演もなさる、同じ開業カンセラーの矢幡洋さんが、「『星の王子様』の心理学」で書いたことがあまりに私にもあてはまります。
(ちなみに、私のもうひとつの古くからの大事な人脈が、「あの」NHKアナウンサーを奥様にした、テレビでもおなじみ、文化人類学者の上田紀行さんです)
人と、むしろ開けっぴろげまでに胸襟をひらいてつきあいたい。そして、「星の王子様」に出てくる薔薇のような女性の側面は嫌悪してますしね。女性のそういう側面に媚を売ることは死んでもするかと思っている(このことを肝に銘じていたら、私とつきあいやすくなるよ、女性のみなさん)。
そして、圧倒的なまでのひとつの対象への持続的集中力としぶとい職人性。気難しさ、「瞬間湯沸かし器」、一種恍惚とした超越的世界に一瞬にして突き抜ける側面(空海さん)、そして、好戦的なところ、とくれば、むしろいよいよ『闘士型』こそベースとわかる。
時代が違えば、私は宮本武蔵か、それこそ、中世スペインの英雄「エル・シド」なんです。
あるいは、現代なら、言うもはばかれるけど、イチローか中田!!
だから、「お通さん」や「ヒメナ(エル・シドの妻。映画のソフィア・ローレンですね。この人、ホントにエル・シドの死後、2年ぐらいはバレンシアの領主を務め上げたくらいに「できた」人だったみたい)のような女性を心の中でずっと求めている(「イカ天」の頃の、イチローの奥様、もう、最高に好みの女性でした!!)し、そういう女性たちをほんとうに苦しめかねない。
すぐに旅立っちゃたり、人質に取らせたり、やりかねないので。自覚してます。この点で女性に負担が大きいのは。
でも、今は政略結婚やお世継ぎのためにで妾を増やす「現実的必要」ないでしょ?
ほんとうは、すごーーーーーく、一途ですよ!!!
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......となると、まずADHD(注意欠損障害)仮説はちょっと似合わない。確かに話題は次々飛ぶけど、私って、実は何を「話題」にしいていても、実は、手を換え品を換え、同じテーマを追求しているということは、すでに常連の読者の方はお気づきかと思います。
学習障害仮説は肯定します。テスト用紙に向かいさえすえば、業者テストの国語は学年一、社会科も、普通に勉強して業者テスト全国上位、共通一次試験第一期生で国語自己採点198点。
一方、数学は、幾何など、空間認識が関われば、あるいは「集合論」(記号論理学って、実は「集合論」との親和性が高いのは、学んだ人は知ってますよね!)には、ついていけたばかりか、ある種のセンスがあったけど、要するに微分・積分・方程式の世界を全く理解できない。永遠の学年最下位。
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もっとも、ほんとうの学習障害の人って、この程度のものではないことは、先日の研修会で笹森理絵さんのお話に接して、よくわかりました、彼女の100倍希釈に過ぎませんね。私の学習障害度は。
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いずれにしても、これで私の今年の恋愛の抱負、「とことん高望みしてみる」の真意が少しつたわりましたよね。
「その人を自分が苦しめ、傷を負わせないかとうか、十分に吟味し、少しずつ交際を深める中でお互いを理解していく。できるだけいきなりセックス(セルクス)しない(爆)」
ということ!!
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