記号論理学

2009/09/03

「カウンセラーこういちろうの雑記帳」の主要過去記事を一番簡単に一覧するには

 このブログって、すでに創設4年9ヶ月、過去のエントリー記事総数が、「この」記事で1,914本め、なのに一日あたりの新エントリー、平均1.10本以上を現在も維持、しかも長文が多いという、へヴィー級ブログです。

 おかげで、もはや@ニフティココログが割り振ってくれているサーバー負荷が相当なものになっているせいか、

  • 私の方からトラックバックを送ることがもはや機能しない
  • pingも自動では飛ばせない(その割には随分多くの読者の皆様が、新記事アップ直後においでいただけることを幸いだと感じています)
  • カテゴリーにすべての記事が反映しない(カテゴリーによっては300から400エントリー分表示されようとするわけで)

・・・・・という、新しくおいでいただいた読者泣かせのブログになっていると思います m(_ _;)m

****

 もちろん、バックナンバー全体を表示してくれる、『アーカイヴ』ページ(自身がココログユーザー以外の読者の皆様、お気づきでしたか??? 右フレームの「バックナンバー」という文字そのものをクリックするとたどり着けます)というものも、あるにはあるわけです。

 しかし、このページにお行きになっていただいたとしても、過去の個々のエントリー記事のタイトル一覧があるわけですらない

 このページからの「〇年〇月」を全部めくっていただくだけでも(全く休眠した数ヶ月を除いても、現在50か月分ほどあるわけですね(^^;)。その50ヶ月分、それぞれ月ごとに、毎月30から40エントリーずつはあるわけですから・・・・・

 つまり、私がこのサイトでこれまで書いてきた主要記事がどんなものか、新しい読者の皆さんにおおよその見当をつけていただくには、もうデタラメにご不便をおかけしていることと思います   il||li _| ̄|○ il||li

*****

 この問題を一気に解決し、

  • 新記事の方が上に来る形で、
  • 過去の記事に関しては私がある程度絞り込んでセレクトしたものを、
  • 数百記事ばかり、1ページをスクロールできる形で
  • ブログのような表示の重さがない形で一覧したいただける

そういうページが、実はずっと以前から存在します!!

●阿世賀浩一郎のホームページ/index

 開設1995年12月(つまりWindows95発売直後)開設、日本において、インターネットで個人サイトを作ることが本格的に普及し始めた黎明期から、何と基本的なデザインを変えないまま運営し続けているサイトです。

 かつては、ネットを代表するエヴァ・サイトのひとつ、「エヴァンゲリオン論考」で著名だった時代もありますけど、幸いにして著作化させてもいただきましたので、そのコーナーは全面削除いたしておりますが(「ちーちゃんの部屋」というアニメコーナーがかつて存在したことを覚えておられる方もあると嬉しかったりして ^^;)・・・・

そのトップページから、このブログでの新エントリー記事を書く度ごとに、固定リンクへのリンクを、たいてい速攻の連続作業でお貼りしてもいるのです。

 恐らく、皆様のRSSリーダーに反映するスピードの比ではない「即時性」で「新着情報」が掲載され続けています。

 同一エントリー記事の更新(改版)情報すら、可能な限り早くお伝えしています。

 

そこに並んでいる、当ブログ個別記事へのリンク数は、常時数百あるはずです(古いものから時々、精選のための「ダイエット」をかけますので、一定数以上には増えません)。

 しかし、敢えて今でも、基本的には「素朴なhtml言語の手打ち」に依存し、javaスクリプトすらないに等しいということで、このトップページそのもののバイト数の多さの割には、表示が圧倒的に軽い筈です(このブログのトップページを表示するよりは軽いと思いますよ)

 
当方のアクセス解析によって、「こっちのページで新着情報見つけるほうが手っ取り早い」ことにお気づきの、毎日数名以上の固定ユーザーの方がおられることは掌握しています(感謝!!)。

 しかし、そうした方の占める比率が以前よりもかなり減っているようにも思いましたので、改めてご紹介させていただきました。

 

今後とも、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」をよろしくお願い申し上げます。

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2008/09/24

昨日からにほんブログ村に参加しています。どうかよろしく!!(第2版)

 すでにお気づきの方もあるかもしれませんが、やっと昨日午後から参加しています。

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 私のプロフィールはこちらです。


 《2008/9/25 19:08更新》

・メンタルヘルスランキング 573位 -5167サイト中
 └心理カウンセリングランキング 14位 -130サイト中
・音楽ランキング 1022位 -9033サイト中
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・総合ランキング 29793位 -218968サイト

です(^^)

今後は、以下のクリック、どうかよろしく!


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2008/01/22

こういちろうの自分史

●@nifty TimeLine



このコンテンツは、刻々と増補されます(途中を含めて)

2008/01/18

こういちろう学習障害あるいはADHD、あるいは「星の王子様」説(第2版)

 「この人ADHD(注意欠陥障害)? それとも学習障害(LD)かしら?」


 恐らく、このサイトをご覧いただいているカウンセリングの専門家の中で、ほんとうに勉強されている方は、そういうことをお感じの方っていると思います。

 さすがにもはや「躁うつ病」しかでみないようなら、現代臨床心理学におけるアセスメント能力としては欠陥が多すぎる(爆)

 そして、ここまで書いてきたら、そして、写真まで公然と掲載しているから、体型も資料になるわけで、私のベースが、どう見ても、クレッチマーのいう「躁鬱気質」からほど遠い(全然社交的ではないものね、本来は)こともおわかりのはず。

Ann_weiser__and_koichiro

 でも、人間は大好きだし、冷たい人間ではない(むしろ無茶苦茶ホットでハートフルな)ことも伝わってると思うし、体型も根っからの細身ではない、むしろ肩幅が広い、ずんぐりむっくりであることもわかるでしょう?(私の師、村瀬孝雄先生は、立教の研究室に私を迎える直前、他の院生に「今度来る奴は柔道の選手みたいな体型をしている」と事前に伝えていた) 。そうなると、分裂気質説も不十分(30%は分裂気質でしょうけど)


++++++


 そうなると、残るのは、てんかん型、あるいは闘士型といわれる執着気質、ないし中心気質と呼ばれるものですね。これについては私の古くからの知り合いで、私の「エヴァ」本プロデュースをはじめとしていろいろ引き立ててくれ、著作も凄く多いどころか、近年はTV出演もなさる、同じ開業カンセラーの矢幡洋さんが、「『星の王子様』の心理学」で書いたことがあまりに私にもあてはまります。

 (ちなみに、私のもうひとつの古くからの大事な人脈が、「あの」NHKアナウンサーを奥様にした、テレビでもおなじみ、文化人類学者の上田紀行さんです)

 人と、むしろ開けっぴろげまでに胸襟をひらいてつきあいたい。そして、「星の王子様」に出てくる薔薇のような女性の側面は嫌悪してますしね。女性のそういう側面に媚を売ることは死んでもするかと思っている(このことを肝に銘じていたら、私とつきあいやすくなるよ、女性のみなさん)。

 そして、圧倒的なまでのひとつの対象への持続的集中力としぶとい職人性。気難しさ、「瞬間湯沸かし器」、一種恍惚とした超越的世界に一瞬にして突き抜ける側面(空海さん)、そして、好戦的なところ、とくれば、むしろいよいよ『闘士型』こそベースとわかる。

 時代が違えば、私は宮本武蔵か、それこそ、中世スペインの英雄「エル・シド」なんです。

 あるいは、現代なら、言うもはばかれるけど、イチロー中田!! 


 だから、「お通さん」や「ヒメナ(エル・シドの妻。映画のソフィア・ローレンですね。この人、ホントにエル・シドの死後、2年ぐらいはバレンシアの領主を務め上げたくらいに「できた」人だったみたい)のような女性を心の中でずっと求めている(「イカ天」の頃の、イチローの奥様、もう、最高に好みの女性でした!!)し、そういう女性たちをほんとうに苦しめかねない。

 すぐに旅立っちゃたり、人質に取らせたり、やりかねないので。自覚してます。この点で女性に負担が大きいのは。

 でも、今は政略結婚やお世継ぎのためにで妾を増やす「現実的必要」ないでしょ?
 ほんとうは、すごーーーーーく、一途ですよ!!!


******


 ......となると、まずADHD(注意欠損障害)仮説はちょっと似合わない。確かに話題は次々飛ぶけど、私って、実は何を「話題」にしいていても、実は、手を換え品を換え、同じテーマを追求しているということは、すでに常連の読者の方はお気づきかと思います。

 学習障害仮説は肯定します。テスト用紙に向かいさえすえば、業者テストの国語は学年一、社会科も、普通に勉強して業者テスト全国上位、共通一次試験第一期生で国語自己採点198点。

 一方、数学は、幾何など、空間認識が関われば、あるいは「集合論」(記号論理学って、実は「集合論」との親和性が高いのは、学んだ人は知ってますよね!)には、ついていけたばかりか、ある種のセンスがあったけど、要するに微分・積分・方程式の世界を全く理解できない永遠の学年最下位


******

 もっとも、ほんとうの学習障害の人って、この程度のものではないことは、先日の研修会で笹森理絵さんのお話に接して、よくわかりました、彼女の100倍希釈に過ぎませんね。私の学習障害度は。


*****


 いずれにしても、これで私の今年の恋愛の抱負、「とことん高望みしてみる」の真意が少しつたわりましたよね。

「その人を自分が苦しめ、傷を負わせないかとうか、十分に吟味し、少しずつ交際を深める中でお互いを理解していく。できるだけいきなりセックス(セルクス)しない(爆)」

ということ!!

2007/05/02

「牛」という言葉は現実のウシさんとは何の関係もない。

 さて、前回の話との関連で。

 私が、中学から高校の頃に、自分の哲学体系を作ろうなどと言う、ある意味でアブナいこと極まりない試みに熱中した時期があることについてはすでに述べたが、そうした果てにたどり着いた究極の「悟り」が、今回のタイトルにした一句である。

 「牛」という言葉は現実のウシさんとは何の関係もない。

 
 これで私は「救われた」のだ。

 わかる?


******


 いくら、「うしー!」という言葉を100回唱えても、現実の生身のウシを目の前に生成できるわけではない。そのウシに「うし」という言語に対して何らかの条件反射が形成されている場合を除いては、ウシさんの目の前で「ウシ」と何回つぶやいても、それこそ「ウシの耳に念仏」だろう。

 もし、「ウシ」という言葉を「ウマ」という言葉にある日突然置き換えてしまうことに全人類が同意したとしても、それがウシさんやウマさんたちの運命に与える影響も何もないではないか。

 「牛乳」が「馬乳」と呼ばれ、「坂本龍牛」さんになり、茨城県「馬久」市となり、「競牛」が開かれるようになっても、もしそのことで混乱する人間や、スーパーでの商品表示にミスがないと仮定すれば、何の問題もない。

 こうして,私は、「言葉」というものから自由になった。

 そして、それから3年ぐらい後、この話を、大学の記号論理学のゼミの最初の飲み会で、その道の日本の権威とされていた担当教授の先生相手に力説して。

 「それは大事な問題意識だね」と言われた。

 その先生がビール片手に遠い目をして、「......今の私は、抜け殻になってしまった......」と,若き日を懐かしむようなまなざしをされたことが妙に忘れられない。


*****


 実はこの段階ではまだ知らなかったのだが、ウィトゲンシュタインの前期哲学(論理実証主義)を支えるもっとも重要なコンセプトのひとつのことを「写像説」という。ウィトゲンシュタインは、地図が実際の地形を見事に写し取っているという事実に「感動する」人でして(この心境がわからん人は哲学には向かない)、これを根拠に、言語と世界の間には一定の対応関係があると考えた。

 ところが、ウィトゲンシュタインの知り合いが、確か乗り合わせた汽車の中で、「じゃあ、あなた、『これ』、わかる?」と、確かあごの下を手でさする仕草をした。これは、その知り合いの出身地域でしか通用しないボディ・ランゲージだったわけです。


 こうして、ウィトゲンシュタインの「前期哲学」は一気に崩壊に向かう。

 一般の人が聞いたらコメディでしかないような信じられない話だろうが、このエピソードをご存知の哲学好きの人は少なくない筈である(今、記憶だけで書いてるので、多少の間違いがあっても許されよ)。

 論理実証主義というのは,一般には、「すべての哲学上の問題は、語の定義の曖昧性とその論理展開における誤謬によって生じたものであり、これらが解消された時、すべての哲学的問題は一気に解消できる」という考え方とされている。

(ウィトゲンシュタインの前期思想をそこにのみ還元するのはまちがいという見解がたくさんあるらしいが、ここでは「俗流」分析哲学とはこのようなもの、ぐらいにご理解のほどを)。

 これと,以前もご紹介した、「すべての命題はトートロジー(同義反復。A=A)である」という「論理哲学論考」における前期ウィトゲンシュタインの基本テーゼ(?)は表裏の関係にある。

 私の中高時代の哲学的な彷徨が,結局ウィトゲンシュタインのそれと相通じるものがあることを、その先生は看過して下さったのだろうと思う。

*****

 こうして、決して「論理的には言い負かされない」し、「非論理的」と言われようと馬耳東風(牛花北林????)で気持ちが全く揺るがない、でも「何となく深淵な文章」を書くけど、その背後にある「隠された論理性」なるものは後世の「こういちろう研究者」(?)が勝手にいろいろ「発見」して楽しくすれば? とまで開き直っている、こういちろうというパーソナリティが成立した。

 それは、いかなる意味での心理学的「実体論」をも排除し、すべての心理学的諸概念そのものが、最善の場合でも「その人のフェルトセンスにその時点でぴったりの言葉であるに過ぎず、専門家なるものの仲間うちで「間主観的同意」がなんとなく形成されているものであるに過ぎないというところで開きなおれる一面がある、ジェンドリンの体験過程理論への関心へとつながるわけである。


 私が「論理的」ということに過剰に拘泥する人間を迷妄だとしか思わず、その人自身が微細な箇所で無数にやらかしている概念定義の曖昧さと論理の飛躍を「悪意はないにしても、結局ただの詭弁術になってるのにね......」としか思えず苦笑する背景には、こうしたキャリアがあるわけです。

 「論理的」という言葉そのものには何の「論理性」も内包されていないのだから,この言葉を使う人の無自覚な「非論理性」をギャラリーが影でこそこそ嘲笑することになるだけなのだ。「論理性」なんて言葉を一言も使わないままの方が賢いのである。

 まして「論理」でなければ「直感」とか「直観」という言葉を持ち出す人そのものが、それだけでひどくつまんねえ,退屈な頭脳の持ち主であることを露呈しているだけである。ボキャブラリーの貧困と、アイゼンクふうにいえば「硬い心(tough mind)」であることをさらしているだけ。

 .....もちろん、ここで使った「硬い心」という概念そのものがわかんない人にはわかんねえでいいわけですね。ただの狭い世界で通用するだけの「符牒」に過ぎないので。でも少なからぬ外部の人にもフィーリングで通じる「効果」があればそれだけで現実へのささやかな波及効果という点では十分なのである。

 要するに、私は、この世に「アンチこういちろうサイト」を一つぐらい生み出す上で一番「罠にはめやすい」サイトを選んだだけで、そのことでほんの少しは浜崎あゆみさんにあやかりたい(爆)という、それが「目的」の一部であった「ともいえる」ことにすでに気がついているのなら、空しくなる筈ですが。

 公然とこっちのサイト名を取り上げ、リンクすら張ってくれるアンチサイトをひとつでも生みだせれば、それがその分ささやかに世間に認められるきっかけになるのである。その標的は、当然自分よりアクセス数が多くて、ちょっと思い上がったところがあるわりには何か勘違いに気づいていないサイトが望ましい

 その一方で、こういちろうが善人であり、少しお人よしで、謙虚でナイーブでピュアーですらあり、その一方この世の正義の味方であり、誤解をただし、学問的良心のかたまりであり、なおかつしたたかなリアリストでもある、愛すべき人物であること(誰か愛せよ!)は、このブログ実際に読んでいただければ伝わると思うので。

 (私の側にもっとキャパがあってもいいのではないか、あるいは、私の方が相手を買いかぶった挙げ句に勝手に幻滅しているだけでないかと言われれば、そうかもしれないのだが。.....ともかく、「物足りない」のである。カウンセリング関係のサイトの現状に。当面は、何より自分のサイトのあり方について、もっと吟味していきたい)


******


 .....ああ、これでやっと、これまた,このブログの宿題の一つだった、ウィトゲンシュタインへの私の関心を具体的に書くことと、それがフォーカシングへの私の関心とどうつながるのかを一気に書けてしまった。


******


 なお、中井久夫先生は、ウィトゲンシュタインの「前期」論理実証主義から「後期」自然言語学派への転換を、「自己治癒の過程」としてとらえる小論を書き、それは中井久夫著作集に収められています。

 著作集「第3巻:精神医学の経験 社会・文化」所収の「ウィトゲンシュタインの”治療”」というエッセーです。

2007/02/08

映画『マリー・アントワネット』追加報告。あるいは「学術研究」のあり方への感慨 (第2版)

 ブレイザーの原作、読了です。

 ブレイザーは、一カ所もツヴァイクに直接言及していませんが、明らかにツヴァイクを下敷きにして書いているとしか思えない部分は多いです。一方、ツヴァイクの名前こそ出さないものの、ツヴァイクに書かれてることを個々の点で否定することになる見解は、ところどころに観られます。

 例えば、アントワネットの兄のフランツ1世がフランスを訪問してルイ16世に会った目的が、ルイの「不能」問題の解決のためのルイへの忠告とアドバイスであったことはそのまま認めていますが、「手術」を勧めた、その結果「手術」をルイは受けた、ということには否定的です。

(映画ではだからそこまで言及しないのですね。....ああ、キルティン・ダンストが演じるアントワネットが「オクテ」ゆえにあの程度しかルイにベッドの上で「迫れ」ないことを繰り返したということが「画面で」伝わらないことを監督が問題にしなかったことが命取りに思えてきた.....。あるいは,台詞の字幕の訳にも限界があったり,観客が映像作品での露骨な性描写に慣れ過ぎているせいなのか?)

 その理由は、麻酔や痛み止めがない当時、一度手術を受けたら、2,3ヶ月は、とても乗馬できる態勢にないにもかかわらず、ルイ16世のその頃の狩りの記録にそれにあたる空白がないことを指摘しています。

 私には実際の馬の鞍にまたがってみた経験は、ごく短時間しかありませんが、なるほど、鞍というものは予想外に硬いものだし、早馬の時に腰を浮かせるにしても、股間に筋肉の力がかかるでしょう(^^;)。

 更に、二人が床を共にした日に、シーツに、「的を外した発射後の痕跡があった日」の公式記録なるものは存在するらしい。王妃の「将軍夫人」の日(脈絡でわかりますよね)も逐一公式記録があるとのことなので(^^;)

 こんな記録が召使いによって逐一確認され、記録され、実家の母親(テレジアのこと)にまで「手紙での報告義務」があったりすれば、「最初の一回に成功するか否か」に不安がある若者同士の心理的プレッシャーを考えれば、悪循環そのものであり、我々でも失敗と自己嫌悪、相互の気まずい思いを連発して、その気が失せそうである(^^;)

 だから、手術は受けないまま。フランツ1世は、女性経験のある男なら誰でも想像できる次元の「ちょっとした工夫」のアドバイスをしただけ、ということになります(^^)。
 おそらく、事前に「人工的あるいは意図的に」潤滑性を十分に高めるための手法、そして、そうした上で「ちゃんと動かせ」!!「抜かずにいろよな!」ということです(爆)

 これらのことから想像して、マリーちゃんもルイ君も、基本的にセックスに淡白で、悦楽の花園に誘惑する異性そのものに「実習を伴うレッスン」を受けて欲望開発してもらう機会もないまま長期間放置される環境にいたと想定するしかなくなるのであります。

 「一回目は立たなかった」「一回めの更に一回目は誤爆した(服脱ぐ間もなく「暴発」し、その後立たなかった)」「一回目は(男の方も)痛いばかりで傷だらけで、一番デリケートな部分の傷や炎症や痒さにその後苦しんだ(液体や雑菌への免疫がないので)」などというのが真相という皆様が、実は非常に高いパーセンテージでいないとは言わせませんが(^^;)。どっちかが経験者でない限り(そうであったとしても)、そんなものでしょう。

 「心とからだの感じ」にデリケートに依存する「習熟スキル」である限り、双方未経験から、いきなり両方が絶頂に達し、本音のところで満足できる、百点満点のことができるなんて、幻想でしょう(きっぱり)。

(おいおい、「専門家」としておまえはここで、そこまで「アブナい橋を渡る」暗示的比喩を使うか? って? 

 ....いや,別に、私は、スポーツや車の運転ですら、全く未経験の人が、知識だけ詰め込んで、いきなり試合や路上の運転をすらすらと楽しめるなんてあるかね? と、「いろんなジャンルのことがらに共通のあたりまえのこと」をいいたいだけです。

 .......皆さん、妄想的にならないように(^^;))

 何事においても、「失敗」や「気まずい思い」、「試行錯誤」は避けて通れず、少しずつ「うまく」なり、少しずつ「おもしろくなって」くること。そしてそのことをお互いに理解しあうための相互の思いやりや気配りなしにはなりたたない。適切なタイミングでの適切なアドバイザーの配慮あるピンポイントの助言がないばかりに,深刻な悩みへの悪循環になってしまっているだけだったりするわけですね。一回のアドバイスだけですべてがバラ色、というのもウソですが。

 これは、個々人が、そのことをどこまでできるか、どこまでめざすか、どこまで興味を持つか、どこまで「際し障りがないくらいに最低限身につけ、演技もするか」否かの判断の自由を認めた上でのことです(^^;)

*****

 ツヴァイクの伝記そのものは、同時代人でない以上、「一次資料」にふんだんにあたっていても一次資料そのものではない
 そして,他の人の、推測による、あるいは政治的/意図的に歪曲された歴史解釈を厳しく退けつつも、ご自身はといえば「文学的創作」の誘惑に明らかに負けている部分もある。

 それに対して、フレーザーという人は、奥ゆかしい人で、「私の商品は『ここが』従来の他社製品とは違う!!」なーんていう自己喧伝で評価されることに無関心、ないし、そういうの、見苦しいという価値観の持ち主なんでしょう。イギリスの名門の人みたいですしね。

 古今のオックスブリッジ出身の学者で、こういう点で「商品差」の喧伝に存在意義を露骨にかけるひとはいくらでもいるにしても。
 ウィトゲンシュタインの前期論理実証主義哲学なんて、師、ラッセルの数理哲学と記号論理学への重大な「誤解」(「階層」の問題についての)を前提としているわけです。

 ........でも、すでにツヴァイクを十分読み込んだ人には、どこでツヴァイクの見解を否定したかはわかる筈の書き方はしている、というあたりでしょう。

*****

 思わず、学術論文というものだと、「既成研究をどこまで押さえていて、どこからが独自性か」を明示できないとならないことそのものが、実はそれだけでは必ずしも既成研究への謙虚な理解を前に進ませるとは限らないものである現実を、自戒を込めて振り返ってもしまいました。(^^;)

 だって、既成研究そのもの読解を筆者が間違っていたり、論文審査委員の方が間違っていることはいくらでもあるのだ。私は、両方の立場での実経験があります。

 誤解.誤読、流行、権威主義、知ったかぶり、売名への野心、党派性、媚びへつらい、プライド、受け売り、嫉妬....こうしたものからほんとうに自由な研究というのは、結局最後にはひとりひとりの良心性、そして「自分の間違いを認める勇気」なしには成り立たないのかもしれません。

2006/09/07

これは誰でしょう?

いかに世界があるかということではなく、世界があるということが神秘なのである」


「レイに音読させるのは非常にいいことだと思います。声に出してうまく、つまり注意深く読むということを練習させるということは、ひとに沢山のことを教えます。たとえば、多くの人たち、それに新聞は、何と下劣で無茶な書き方をすることか。考えながら書くからです」


「ムーアは、20フィートぐらいしか離れていない家を見つめ、それから特別な口調で

 『そこに家があることを私は知っている』

と言いたいのであろう。

 かれはそうするのは、自己のうちに知っているという感じを作り出したいからである。」


「知識は特定の顔の表情を伴わない。疑いの調子、確信の調子はあるが、知識の調子など存在しない」

「表現というものは、生の流れの中でのみ、意味を持つ」


..........ノーマン・マルコム「回想のウィトゲンシュタイン」(藤本隆志 訳 法政大学出版会)より。下線は恐らく原文のイタリック)


 上記の引用はすべて、ウィトゲンシュタイン自身の言葉。ひとつめは「論理哲学論考」6:44にあります。残りは、マルコムへのウィトゲンシュタインの私信、あるいは対話メモより。

 レイとは、綾波ではなくて、マルコムの娘です(^^;)。

 ムーアとは、ウィトゲンシュタインのライバルだった哲学者。


*****

「お友達」がまた増えた(^^;)


2006/09/02

500番目の記事:大いなる幻影とただの日常(第2版)

 文字の世界がファントム(幻影)界です。そしてこの本はファントムであるわたくしのこころが文字を介して、ファントムであるあなたのこころに語りかけているのです。いえ「語りかける」とは音声言語の領域なのですから、語りかけるふりをしているのです。

 つまり事実としては、文字言語でのコミュニケーションであるものを、音声言語でのコミュニケーションに似せようとしているのです。

 そのためには、

1.語り言葉風の文章にする

2.同じ内容をくり返すことで、
  各章の間で内容が少しずつ重なり合うようにする。
  そうすることで、文章の区分けを乗り越えて、
  濃淡のような一連の語りのような雰囲気を作る。

3.日常体験を例にあげる、などの工夫をしています。

Genbakaranochiryouron_1_1 事実としては文字言語でありながら、
読んでいるあなたの内側で音声言語として再イメージ化されて、
事実としての語りへ内部変換され、
からだの世界まで伝わるようにと願っているのです。


...............神田橋條治 "「現場からの治療論」という物語" 第3章冒頭 p.39より

******

 2,3日前から、特に夕方から明け方にかけては,関東地方はめっきり秋めいてきましたね。

 この記事が、当ブログ、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」通算500番目の書き込みです。

 かなり長文の、毎回完結型の,ブログとしてはある程度かっちりしたスタイルの記事が多かった私の場合、結構(相当?)多めのアップ数かと思います。

 私の場合、既成の情報を整理して紹介したり、時事ネタで書くことが少ない人間。カウンセリング系にしても音楽系にしても、何より私の「感じ方」「考え方」を、いかに私なりに表現するかの、いわば「構想ノート」みたいなものをそのまま現在進行形で公開しているようなもので、その意味では「雑記帳」というタイトルそのもの。

 記事を順番に続けて読んでいただくと、仮にテーマが別の内容に飛んだかに見える場合ですら、そこに「暗黙の思考の連鎖」があり、あたかもすべてが仕組まれた「伏線」であるかのようにすら感じられてしまうことが、手に取るように伝わる「ような気がする」ところがあるんではないかと思います。

 もっとも、内容が専門的過ぎ、越境ジャンル性が高いので、ついていくだけでたいへんで、そこまで感じ取っていただけない皆様も少なくないであろうことは想像に難くありませんが。

 その一方、恐らく、私の文章に「はまってしまう」ひとにぎりの読者層を生み出してしまったはず、とは感じています。

 恐らく、心理臨床系の大学の研究室によっては、「若い学生への刺激が強過ぎる」と、「禁書」扱いになったのではないかとマジに想像します(^^)......あの、インターネットはどこでも観れるし、それなしでは研究も成り立たない時代になっているはずなんですけどね。

*****

 マジに、一件だけ、「内容証明つき」で抗議してきて下さった、結構著名な先生がおられました。

 この先生、何をここまで力んでおられるのかな?
 いや、何に「怯えて」おられるのかな? 

 たかだか一日平均アクセス数300のささやかなブログです。

 私はちょうど11年前に個人ホームページをはじめました。あのwindows95による、インターネット大衆化の黎明期にです。当時のインターネット環境で、パソコンにど素人の私が、パソコン買って2ヶ月めに、ホームページなるものを、我もしてみむとてするなり、というわけですが(^ ^)

 それから、パソコン通信、メーリングリストなど、様々な媒体を活用してみる中で、この媒体の「怖さ」と同時に、「裏事情」も、私なりにささやかに、ですが、見えて来てしまったところがあります。

 つまり、インターネットには現状では「実際の社会的影響力」はまだまだ乏しいのに、、どうもそこに「巨大なファントム」がそびえたって見えるものらしいということ。まるでそこにものすごい力があるかのように。

 でも、これはネットに限らず、およそ「現場」の最前線に出て長期間接してみれば、多くの領域でそんなものでしょう。小泉首相だって、ブッシュ大統領だって、そして浜崎あゆみさんたって、「ただの人」なんだなあという感慨を感じるかもしれませんね。

 そうやって、ある意味で、人やものごとが、すべてささやかで平凡な日常の積み上げに過ぎないと気がついて行くこと、それが、ある意味で「癒し」であり、「成熟」なのではないか、と,私なりに感じています。

 ユングも、フロイトも,確かそんなふうなことを言ってましたよね。
 
 言ってた通りにご本人が生きていたかどうかは,わかりませんが、「気づいて」はいた筈だと思います。

 そして、自分という「ファントム」を目の前にして、弟子たちがわけもわからぬ感情的闘争や、派閥争いをはじめるのを、さみしそうな目で見ていたのではないかと思います。

 「でも、これって、私が蒔いた種なんだよね」

と思いながら。


 こころという「ファントム」は、自由を、束縛と逆境の中でしか体験できない。

 しかし、人は時々、"A=A"である世界に回帰するという、往復運動を繰り返す人生を、最後まで送り続ける。

Henyonoshocho

ユングの「変容の象徴」という、私が心理の世界に入って一番感動して読んだ本のメッセージを,私なりに、今、言葉にしたら、そうなります。

*****

タイトルは、

「大いなる幻影とただの日常」

としましたが、

「大いなる日常とただの幻影」

と入れ替えてみて、

どちらも味わうあたりが「バランス点」かなと思います。

*****

推薦BGMは、


【Aポイント付】中島みゆき / 臨月 (CD)みゆきの「夜曲」
中島みゆき - 臨月 - 夜曲
(アルバム 「臨月」所収)

浜崎あゆみ/Memorial address [CD+DVD]ayuの"forgiveness"
浜崎あゆみ - Memorial address - Forgiveness
(アルバム"Memorial address"収録)

にしたいと思います。

******

それでも,

次章においては、ドン・キホーテの、荒唐にして無稽なる、新たなる旅立ちの物語が語られる......

......かもしれない(^^)

******

大いなる幻影(DVD)LA GRANDW ILLUSION(1937)「大いなる幻影」←※私,この映画について,タイトル以外何も知らないまま、上記の記事,書きましたので念のため。 

2006/08/31

心理療法的な諸概念は、現場臨床家のフェルトセンスにぴったりの「象徴化」であり、しかも、現場臨床家の多くにとって「間主観的同意」が形成されるものであるに過ぎない。(第2版)

あるいは、そうなるのが「望ましい」。

 ......これって、私にとっては当たり前の「定理」なんですけど、ここでは書いたことがありませんでしたよね。

 要するに、治療者の体験過程の推進と、シフトを引き起こし、それを他の治療者とも共有できる度合いが高い(サリヴァンのいう、「共人間的有効妥当性確認(consensual vaildiation)」が高い)ものが、有意義な「心理臨床的」概念である。

サリヴァンの言う今述べた概念、consensual vaildiationを、「共人間的有効妥当性確認」と訳した、中井久夫先生の、ほとんど「超訳」には感服するしかありません。

 ただ"consensual"という言葉には、sense(意味/感覚)を"con-"=共有するという意味が含まれるわけです、これ、よりわかりやすい言葉で言えば、

「意味が-お互いに-『通じる』」

ということになります。

*****

 ただ、この、要するに「言葉が-通じる」とは、どういうことか

 これは、方程式を解く過程のようにして、例えば、

X="dog"
Y="犬"

とたてて、XとYが等号(=)で結ばれることを「論理的に」証明できるものではない。
そこにいる「犬」を指差して(direct reference!!)、

「That is イヌ」
"Oh,That is a"dog!!"

ゆえに

「イヌ」="dog"

........なんてものではない。

 それこそ、その「犬」を「タロウ」と名付けている人が、

「That is タロウ」

と言った瞬間、その外国人が、

「イヌとは、日本語で『タロウ』というのだ」

と「思い込む」可能性はある。

 バイリンガルの人は、こんなふうにして頭の中で方程式を「高速CPUで」演算して、いちいち解いているわけではないですよね。

 上記のような「直示的定義」にすら依存せず、しかも、もっと、「感覚的な(sensual)」相互了解の成立に依存している。

*****

 ましてや、心理臨床家が使う言葉には、「実体(entity)」としての「イヌ」すら直接指し示せないのに、人(ましてや第3者)の-心の-中に、まるで「もの」であるかのように、

「劣等感」
「罪悪感」
「自己愛的」

 なものが「ある」みたいに、言葉でお互い、「伝えたつもり」「わかったつもり」になれるんだから、凄いものです(^ ^)。

 例えば、「劣等感」なるものが、「健全な自尊感情」なるものに「変化」したとは、いったい何を「指して」述べているのか?

Genbakaranochiryouron_1_1 神田橋條治先生は、以前もご紹介した、"「現場からの治療論」という物語"の中で、こうした「心的なコトバ」そのものを(神田橋先生が言う意味での)「ファントム」(幻影)に過ぎない、とまで言い放ちました。

 覚醒された意識状態とその内容はまだ、からだの領域ですが、そこへ命名機能すなわち概念言語プラス文字としてのこころが参入してくると」、症状という世界が生じます。ファントムであるこころが参入することで、感覚域は命名され、意味づけられて物語の世界となります。

「こころは病まない」

「こころには[身体とは異なり]自然治癒力はない」。生体恒常性がないので制御不能です。

(上掲書 p.33,34より 下線、[ ]内はこういちろうによる)

 これは、ジェンドリンが、体験過程理論において、「内容モデル("content paradigm"」として、旧来の心理臨床概念をまるごと批判するあたりを、神田橋先生なりに少しかみくだいて,少なくとも「ある観点からは」説明して下さったことになります。

 これこそまさに、ウィトゲンシュタインが「前期」論理実証主義で夢見ながら挫折した問題に通じるポイントなわけですが。

****

 そして、

「語り得ぬものには、沈黙するしかない」

ではなくて、

「語り得ぬものは 沈黙してその『感覚』それ自体と『共にいる』ことがまずはできればいい」

としたのが、ジェンドリンともいえます。

****

いずれにしても、"consensual vaildiation"って

「お互いに気持ちや意図が通じているという感覚的共有」

というあたりに、もっと「ひらがなで」中井先生、お訳しになって欲しかった!!

***

デートでずっとみつめあう二人。

「......そうなんだね」

「......そうなの」

といって,お互い微笑む。

 そこまで端から十数分観察していても、「何」が「そう」なのか、全然会話に出て来てないではないか!!

 でも、「この」一体感こそ、人が永遠に続くことを信じたい関係でしょうね、恐らく。

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2006/01/15

フォーカシングしながら文を推敲すること

直前の記事、ほんの数十分の間に、どんどん「改訂版」を私が繰り出したのを「リアルタイムで」「ライブで」お楽しみいただいた方が、今回は、日本フォーカシング協会メーリングリスト"focusing-net"への私の書き込みによる勧誘/動員なしで(! .....もう、「動員」かけなくても1日300アクセス手堅くなりましたから)100名弱おられたかと思います。

どんどんユーモラスになり、しかも最後には世界全体の抱えた普遍的問題にまで拡張しましたでしょ?

これが、

自分の中の「言葉にならない曖昧な感じ」=「フェルトセンス」と「照合」しながら

(=フォーカシングしながら)

文章を書く

ということでして、

"Thinking at the Edge"(「=曖昧な感じの輪郭の部分で考える」、略称"TAE")

という、創造性開発技法として、

今現在の、ジェンドリンが"Work in Progress"で体系化しようと取り組んでいる事柄なんです。

興味のある方は、英語ですが、ジェンドリン自身の草稿です。こちらをどうぞ!!

****

もっとも、私はこの技法、2,3回日本でのワークショップに出たんですが、全然なじめません(爆)。

まどろっこしくて、もう(^^;)

私は、「ナチュラル”TAE”イスト」過ぎるんでしょうね!!

この技法をわざわざ「技法として」学ばなくてもいい!!

(この点だけはすでにジェンドリン自身をも「超越している」のかもしれない)

日本では、少なくとも関東圏では、村里忠之先生や、近田輝行先生が、この技法の権威です。私の100倍詳しいです!!

*****

でも、私は、子供の頃から、ともかく長い文章を書くのは得意でしたが、

エンドレスの行き先不明のラビリンス(迷宮)に迷い込み、

「ここはどこ? 私はだれ?」

にいつもなって、「完結した」文を書けませんでした。

でも、「普通の」フォーカシングを学ぶ中で、急速に、まとまりのいい、起承転結のくっきりした文章を、「これだけの」クオリティを「毎回」そろえて「連発」できるようになったのは確かです。

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