神田橋條治

2009/11/26

「フォーカシング事始め」(村瀬孝雄・日笠摩子・近田輝行・阿世賀浩一郎 共著)

 私自身が共著者の一人として名前を連ねて1章だけ書いているので、ご紹介するのは少し恥ずかしいのですけれども、それでもやはり、日本(特に関東地区)におけるフォーカシングの普及において、ひとつのターニング・ポイントになった本だと思いますので。

 それはどういうことかといいますと、本書が刊行(1995年)された少し前、フォーカシングの有力なトレーナーであるアン・ワイザー・コーネル女史が初来日され、ワークショップを開催しました。その時の実習と、当時ワークショップ参加者だけが購入できたアンさん独自の技法マニュアル(それが後に刊行されたものが、あの「入門マニュアル」「ガイド・マニュアル」です)を元に、東京の日精研などを舞台として、恩師、故・村瀬孝雄先生や日笠摩子さん、近田輝行さんたちと共に、そのアンさんの技法を自己掌中のものにするべく勉強会を重ねました。

 そうした中で、村瀬先生の立案で、アン・ワイザー法を詳しく具体的に紹介することに大部を割いた本を4人で1冊書くことになったのです。

 つまり、本書は、日本における、公刊された、アン・ワイザー法フォーカシング「事始め」でもあるのですね。

 日本フォーカシング協会設立の、少し前の時期のことです。

フォーカシング事始め―こころとからだにきく方法

●神田橋條治先生による本書の書評(「精神療法」誌 第22巻 3号掲載)

******

 次に、本書の目次をご紹介します。

  1. フォーカシングとは?(村瀬孝雄)
  2. フォーカシングの不思議な力(村瀬孝雄)
  3. 熟練した2人のガイドとのフォーカシング経験(日笠摩子)
  4. あるワークショップの記録(村瀬孝雄)
  5. フォーカシングを実際にやってみるために(日笠摩子)
  6. フォーカシングQ & A(村瀬孝雄・日笠摩子)
  7. フォーカシングの歴史と理論(村瀬孝雄)
  8. フォーカシングの諸相と日本・世界の現況(村瀬孝雄)
  9. カウンセラーがフォーカシングを学ぶことの意味(近田輝行)
  10. フォーカシングの「臨床適用」について(阿世賀浩一郎)
  11. 補章:谷川俊太郎の詩 「きもち」を借りてフォーカシングを解説する(村瀬孝雄)
  12. フォーカシングについてもう少し知りたい人のために(村瀬孝雄)

*****

 その後、私たちは、後続するジェンドリンや奥様のメアリー・ヘンドリックス(The Focusing Institute 現CEO)、アン・ワイザー、エルフィー・ヒンターコフ、ジャネット・クライン、ケビン・マケベニュ、バラ・ジェイソンらの著書や論文、ワークショップ(邦訳はありませんが、メアリー・マクガイア、ドラリー・グリンドラーをはじめとする人たちによる、重篤事例についての重要な論文があります)からさらに多くのことを学び、日本国内でワークショップ・セミナー・研究会を仲間たちと実施したり、それぞれの臨床・教育現場の中での適用を模索する中で、更に研鑽を積んで行きました。

 しかし、今回、本書を久しぶりに読み返してみたのですが、(自画自賛じみて申し訳ありませんが)、よくもまあ、この段階で、ここまでフォーカシングの当時最先端の潮流を咀嚼し、広範囲の視点から総合的にご紹介できていたなと、ほっと胸をなでおろした次第です。

 私たちの「フォーカシングの青春時代」は無駄ではなかった(^^)・・・・まだ、古くなってないです。

*****

 本書の中の白眉のひとつは、日笠さんが苦心の末に編み出した、当時のアン・ワイザー法に基づく「フォーカシング・フローチャート」(p.pp.124-6)でしょう。このフローチャートを観てみるだけのためですら、本書を借り出したり、購入する価値があるかもしれません。

 ジェンドリン自身のオリジナルのフォーカシング技法が、単純に要約された、せいぜい1,2ページのマニュアルとして配布され、「それがフォーカシングというもの」と学習者に思い込まれてしまって伝播したことの最大の弊害は、フォーカシングの手順というものを、「空間づくり」にはじまり、「フェルトセンスをつかむ」→「手がかりとなる言葉やイメージを見つける」→「見出した言葉やイメージが実感にぴったりかどうか共鳴させる」→「フェルトセンスに問いかける」→「受け止める」という段取りを、順序だてて進めたときにはじめてフォーカシングしていたことになる・・・かのような誤解を広め、それでは思うように成果が上がらないと諦められてしまう事態を招いたことでした。

 (このことが、ジェンドリンも望まない事態で、もっと柔軟な適用が肝心であることについては、ジェンドリン自身の著作、「フォーカシング」を丁寧に読み解けば、繰り返し説かれていることなのですが)

 アンさんは、ジェンドリンの技法をベースにしながらも、それをわかりやすくて「勘所」を明確にした「5つのステップと5つのスキル」に再構成しました。

 その結果、気がかりな「事柄」からであろうと、その時の漠然とした「身体の感じ」からであろうと、柔軟にフォーカシングを始められるばかりか、内側から生じてきたものは取りあえずなんでも「認めてあげる(acknowledging)」ことと、フェルトセンスから性急な言語化を引き出さないまま「共にいる」ことを重視する丁寧でかゆいところに手が届くものとなりました。

 この「認めてあげる」や「共にいる」は、実はセッションの最中のいたるところで提案される教示なので、実は番号を振って直線的に順序だてて説明することになじみにくいところがあります。

 更に、フェルトセンスから「遠すぎる(too distance)」状態になった人と、「近すぎる(too closed)」状態になった人(アンさんのいうフェルトセンスを「脱同一化(disidentification)」して感じられる状態が程よく維持できないという点では、どちらの事態も共通です)への臨機応変な介入も必要です。

 これらをすべて表現しようとすれば、もはやフローチャート形式をとって空間的な表現にして、必要あればあっちに行ったりこっちに戻ったりということを一望できる図版にするしかない。

 日笠さんを中心とした人たちが取り組んだこの「図版化」は、アンさんの技法書のどこにも出てこないオリジナリティあふれるもので、これがアンさん来日2年目で達成されたことは、再評価されてしかるべきと思っています。

 (アンさんの技法体系そのものも、その後進化を続けていますが、この段階でのアン・ワイザー法の、几帳面な丁寧さのプラス面は、フォーカシングを「意図的なスキル」として緻密にトレーニングする場においては、決して過去のものにされてはならないというのが私の信念です。このフローチャートは、私の主催するささやかなグループでの恒例の配布資料で、現在もあり続けています(^^)) 

*****

 さて、私が執筆した第10章ですが、のっけから「臨床家自身がフォーカシングを身につけ、日常の中で役立てられていないうちは、臨床現場での適用なんていうことは考えない方がいいのでは?」という、不遜なまでに挑発的なメッセージからはじまっています。

 さすがに若気の至りではなかったかなと、その後多少自己嫌悪に襲われ、長らく読み返さないでいたのですが(^^;)、本書刊行から14年を経て、一読者の心境で客観的に読み返してみたところ・・・・ほっとしました。私なりに十分にジェントルで丁寧な語り口で書けている。

 (つい最近、認知行動療法の大家、伊藤絵美先生が、これからCBTを学ぶ専門家への心構えとして、実にそっくりの表現を、著作でなさっているのに気がつき、安堵したというのあります)

 そして、当時はジェンドリンが書きつつある「フォーカシング指向心理療法」のdraftを村瀬先生によって手渡されて、その一部を読み解くぐらいの段階でしたが、私がその時点で言葉にできた「臨床現場でフォーカシングをどのように生かすか」という方向性に、その後ブレはなかった、完全に今日の私のスタイルへと繋がっていると確信できました。

*****

 更に、この私の書いた章、さすがアニメおたくカウンセラーこういちろうですね(^^;)、私自身すっかり忘れていたのですが、次のような部分がありました(pp.241-2):

========引用はじめ=========

 このようなクライエントさんたちにとっては、自分が「どんな」感じでいるのかについて語ることは、まだサナギの状態でしかいられない昆虫が、性急に脱皮を急がされたような外傷体験に容易に結びついてしまう危険があるのです。・・・最近(95年7月)、「風の谷のナウシカ」等で有名な宮崎駿氏らスタジオジブリ制作による長編アニメ、「耳をすませば」が封切られ、映画館でご覧になった方も少なくないかと思いますが、この映画の中で、主人公の月島雫(しずく)という中学生の少女が、留学した恋人が日本に戻るまでに、自分もなにかをやり遂げようと一大決心をして、受験勉強を投げ出して、寝食を忘れてファンタジー小説の執筆に打ち込む展開があります。

 憔悴して眠り込んだ雫は、ある悪夢にうなされます。鉱脈の中の壁一面が原石でできた洞窟の中で、ほんとうに輝くただひとつの純粋なエメラルドを見つけ出そうと焦って探し回るけれども、なかなか見つからない。これぞと思って壁から抜き取った石は最初は光り輝くかに見えました。しかし次の瞬間にその石は、雫の手のひらの中で、まだ卵からかえっていないヒナの死体へと変容するのです。

 悲鳴と共に飛び起きる雫。目の前には一向に進まない、破り捨てた書きかけの原稿用紙の山があります。

 映画の中の雫の場合には、物語をともかくも書き上げるだけの自我の強さと、そうした彼女を理解して見守る幾人かの周囲の人たちのまなざしがあったから救われたのですが、私たちが現実の臨床現場の中で出会うクライエントの中には、まさに賽の河原で石を積んでは壊されるかのようにして、自分の中の「卵」や「サナギ」を性急に孵化させようとしては流産させることを繰り返す中で傷つき、内面をすり減らし、蟻地獄のような絶望と無力感に次第次第に沈んで行く人たちも少なくない思えます。

 むしろそうしたクライエントさんたちにまず必要なのは、自分なりにさなぎ(繭)をつくって、その内部で成長と分化が暗黙のうちに進展するのを見守ることが許されるような治療的な場の保障と関係性ではないでしょうか。

 すなわち、彼ら/彼女らは、まずは、自分たちの中にうごめく形(言葉)にならない混沌が、自分を破壊する可能性がある脅威ではないという安心感を抱けるように徐々になれる治療的な場を保障してもらえる必要があるように思います。

 そして、その言葉にならない混沌を、いとおしみながら育み育てるための子宮的な空間を、自分の身体の内部や外部に安定した形で確保できる自分なりの工夫を見出せるようにサポートされるべきです。

 (これが、本書でもすでに第5章で示した、アン・ワイザー女史の言う、フェルトセンスと「一緒にいる」ということにあたります)

========引用おわり=========

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2009/09/08

「クライエント中心療法」が押し付けられた時、メタ次元では「セラピスト中心療法」になる! -Mick Cooper博士による、心理療法における多面的(pluralistic)アプローチ-  (1) [第2版]

 日本人間性心理学会第28回大会の参加報告の続きです。

 今回招聘された特別講師は、イギリス(スコットランド)のグラスゴーにある、ストラスクライド(Strathclyde)大学教授、ミック・クーパー(Mick Cooper)氏であった。

パーソンセンタード・アプローチの最前線 -PCA諸派のめざすもの- (共著)

  私は、28日の夕刻に催された2時間の特別講演、「多面的心理療法における理論・研究・実践」のみに出席したが、30日には、氏を講師とするワークショップも開かれている。

 この講演内容が、今の私にはたいへんエキサイティングだったので、ここでご紹介したい。

(なお、この講演の時のパワーポイントファイルの日本語訳が、近日中に大会準備委員会サイトで公開される筈であるが、私はすでに手元にあるパワーポイントの印刷資料と、そこに書きつけたメモに基づいて以下の内容を書いていくことをお許し願いたい)

******

 ここでクーパー氏が言う、心理療法における「多面的(pluralistic)」アプローチというのは、ある観点からすると、俗に「折衷的(eclectic)アプローチといわれるものと、外見上は類似している。

 つまり、心理療法の各流派の技法を臨機応変に柔軟に取り入れて活用する性質を持っている。

 ただし、そこにあるのは、単に「役立ちそうなものなら何でもあり、片っ端から総動員」ということではなく、基本にある一本のポリシーが通っている。

 それはある意味で、私が準拠し、国際資格を取得している「フォーカシング指向心理療法」が、単にフォーカシング技法を臨床現場に適用するという次元を遥かに越えて、精神分析から認知行動療法、行動療法に至るすべての流派のアプローチの「エンジンオイル」(隠し味)として役立てる柔軟性を指向していることと共通項を持つ。

 だが、クーパー氏の「多面的」アプローチは、より包括的なビジョンと方法論を提供してくれようとしているものにすら思われた。

 それは一言で言えば、面接過程の個々の局面(micro-steps)でどの技法を選択するかという点において、治療者とクライエントさんとの意思疎通を極めて重視し、最終的判断をクライエントさんに委ね続けるという、「メタ次元でのクライエント中心性」を絶えず維持していくための、臨床現場での具体的な方法論を持つという点である。

 このことを具体的に解説していくために、クーパー氏は、ロジャーズのクライエント中心療法をはじめとする、パーソン・センタード・アプローチ(PCA)の基本に流れるものの再確認から話を説き起こした。

******

 クーパー氏は説き起こす:

 パーソン・センタード・アプローチには、今日さまざまな広がりが生じているが、それらが共通して強調しているのは、「人間存在の独自性(uniqueness)」「自己決定の権利」の尊重である。

 「独自性の強調」とは、個々の人格を、交換可能ではない、かけがえのない独自性を持つものとみなすということである。

 更に言えば、「それぞれの人が生きている経験的なリアリティというのは、初源的にひとりひとり独自のものである(ロジャーズ)」。

 これは、裏を返すと、自分にとっての他者存在は、自分とは異なる独自の人格を持ち、独自の経験世界に生きていることを認めるということでもある。クーパー氏は、哲学者、レヴィナスの、

「他者の他者性は初源的に知りえないもの」

という言葉を引用している。

*****

 さて、こうした背景のもとに、例えばロジャーズのクライエント中心療法の「非指示(non-direstive)性」は成立した。クライエントさんの語りをひたすら受容・共感・セラピストの自己一致の原則で傾聴して行くものの、セラピーの時間に何をどこまでどのように語るか、あるいは、どこまでたどりついたらカウンセリング関係を成功し、終結していいものとみなすのかは、クライエントさん側の完全な主体性に委ねられることになる。

 そして、面接場面でのセラピストとの関係性の中での相互作用によって、クライエントさんは、それまでの生育暦の中で経験した、ある一定の条件を満たした場合にのみ価値ある存在として認められ、受容された(「条件付きの」肯定的配慮の)経験に基づく歪みから己れを解放し、その人らしいライフスタイルを自ら見出していくプロセスを歩み始めるものとされている。

 ところが、こうしたことを面接場面で可能にする理論と方法論を、ひとつだけに一元化しようとする傾向を、パーソン・センタードの療法家すら持っている(例えば、ロジャーズの「必要にして十分な条件」)。

 「これは、あらゆる時、すべてのクライアントに対して、ほんとうなのだろうか?」

・・・・と、クーパー氏は問いかける。

 様々な実証的リサーチの結果は、同じ技法を用いていても、クライエントさん個人によって、そのセラピーが有効であるかどうかが異なることを示しているという。

 例えば、多くのクライエントさんは、セラピストから共感してもらえたと感じる水準が高ければ高いほど、最善の成果を挙げていくことは確かである。

 しかし、セラピスト側の反応に人一倍過敏な傾向があるクライエントさん、疑い深さが強いクライエントさん、治療への動機付けに乏しいクライエントさんの場合には、セラピスト側の共感能力の高さが効果を発揮しないことがある。

(こういちろうの私見・・・・そして恐らく神田橋條治先生や、増井武士先生、田嶌誠一先生らの見地によれば、あまりにも細やかにセラピスト側が言語的にチューニングして応答したら、場合によっては[特に統合失調症や境界例性が強いクライエントさんの場合]、むしろ弊害が出るケースもあるように確かに思える。クライエントさんが「曖昧に、漠然と」感じていることを、それ以上明確化しないままに暗に認めてあげつつも、むしろクライエントさんの中で、適切な「体験的距離を見出す」ことを援助する方が望ましい場合が、確かにあるのである)

 逆に、ロジャーズ派的なセラピーから最善の成果を引き出し得るタイプのクライエントさんは、高い水準での抵抗力(resistance)・・・・私が推測するに、神田橋先生のいう、健全な「拒否能力」とほぼ同じもの・・・・、要するに、自分にとって違和を感じさせる外界からの働きかけに揺るがされにくく、応じない傾向が強く、自分自身に生じる様々な問題を、認知行動療法で言うところの「コーピング・スタイルの内在化」・・・・問題を容易にacting outすることなく、自分自身の関わる課題として引き受けて直視する力のようなものが高い場合が多いという。こうしたクライエントさんには、確かに、古典的でオーソドックスなクライエント中心療法で一貫して進めることが向いているといえる。

 いずれにしても、もし、クライエントさんがどう望もうと、自分の担当カウンセラーが、古典的なロジャーズ派の「非指示的な」カウンセリングでしか対応してくれず、それがそのカウンセラーに期待できる「唯一可能な」セラピーのあり方だったとすれば?

 この時、クライエントさんは、セラピストから、「非指示的な」カウンセリングを押し付けられる=「指示される」、という、メタ次元ではむしろ「指示的」療法に屈する渦中に置かれることになる!!

 これほどのパラドクス(逆説)があろうか?

*****

 ここで、クーパー氏の、「多面的(pluralistic)」アプローチの提唱の意義が明らかになりはじめるのだが、連載として第2回にまわすこととしたい。

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2009/09/05

「ランナーズ・ハイ」の行き着く先

 熊木氏の著作を読み始めた段階で、私が草稿として書きながら、ここ1ヶ月、掲載棚上げにしていた記事を正式にアップしていい心境になった。

 以下はその内容である。

 臨床心理士の分際をわきまえない内容すら入っているであろうこと、部分的に脳生理学的に不正確な著述があってもお許しいただきたい。

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 私は、このサイトで、これまで何回か、「人は鬱になることで『鬱』になる」という表現を繰り返してきた。

 現在のDSMなどの診断基準では、鬱病は「気分障害(=mood disorder)」の下位分類になっているが、この「気分障害」という言葉は非常に誤解を招きやすい側面があると思う。

 「気分」という言葉にしても、moodという言葉にせよ、日本語では何か曖昧な「気持ちの」状態であるに過ぎないかのように受け止められかねないからである。

 単に「落ち込みが持続する」のが鬱状態ではないのだ。私の考えでは、「落ち込み」とは、気分障害の「本態」としてその人の心身に生じている慢性的な脳生理的消耗状態(正確には、脳生理上の消耗に至らせる悪循環的なループ)の、二次的な「随伴物」のひとつであるに過ぎないようにすら感じられる。

 これも何回もこのサイトで書いてきたことだが、鬱(双極性障害も含む)の「本態」は、心身が極度に消耗したのに、それを「疲労」と実感できなくなってしまう形に脳内のメカニズムが慢性的に変化して、とりあえず不可逆的になってしまうという脳生理学的変容そのものではないか。

(このことを書いた最初が、当ブログの永遠の代表記事のようにして、アクセスランキングNo.1・・・・時には1位ではなくなるが・・・・を維持してきた、この記事である)

 そのごくごく軽微で、慢性化しないまますぐに回復するミニマムな形態は、一般の人でも実は何回も体験している。

 徹夜覚悟で仕事や勉強をしている時に、眠い眠いと思っていたのに、ある時から突如スイッチが切り替わる。

 頭が冴え、意欲が亢進し、いくらでも起きていられるかのようにすら感じ、実際に仕事が終わって横になった後も、頭が冴えて眠れなくなって困ってしまった経験が、これまでの人生で1回もないという人は滅多にいないと思う。

 そういう時には、独特の「脳が暖まっている」ともいえる感覚と、身体全体の「ふわふわした」感覚も伴うはずである。一種の「ランナーズ・ハイ」状態である。

 もちろん、そうやって眠れない夜を過ごしても、朝になる頃にはいつの間にか寝入っていて、目覚めた時には、今度は前の晩の無理のリバウンドであるかのように、心身に泥のような疲労感が襲い掛かるものであり、昼間は眠い目をこすりながらも何とか切り抜け、その日の晩に、文字通り爆睡する形になって、やっと普段の状態が回復するというケースがほとんどだろう。

 精神科医の中井久夫先生の言葉を借りれば、「48時間で帳尻が合う」というサイクルである。これが健康な人の「無理」→「疲労回復」過程なのだ。

 欝になる人の多くは、はっきり鬱になる前の時期のおいて、必ずしも徹夜仕事を重ねるわけではないにしても、長期に渡って非常に「気を張り詰めて」仕事や勉強を続けねばならない状況に身をさらすうちに、いわば慢性的な「ランナーズ・ハイ」状態に陥っていき、むしろ人間の心身の本来自然なバランス機能として生じるはずの、「リバウンド」としての怒涛のような疲労→爆睡ということそのものが、徐々に生じなくなって行く体験をしている(後から振り返ってみて、はじめて気がつけることなのだが)。

 こうしたことを繰り返す中で、疲労物質が生じると心身の活動水準を落とすという、動物である限りは当然備わった、休息に向けてに脳内の自然なフィードバック回路が徐々に機能不全になるともいえるだろう。

 素朴な比喩を承知で言うと、「レースコース」から一時的に「ピット・イン」させる方向にポイントを切り替える、本来自律的な脳内安全制御システム(フィードバック回路)に、いつの間にか、常に「ピット・インさせないまま走り切れ」という指令を出す、非常に危険なバイパス指令回路が形成されてしまうのだと思う。

 私の考えでは、これは行動主義心理学的な意味での、環境適応のための「条件付け」形成過程であると同時に、困ったことに、脳のある部分にある脳神経系の回路内で、神経繊維同士が、そういうバイパス回路を形成することそのものを「学習」してしまうという、生粋の脳生理学的次元での変化すら伴っているようにも思えるのである(お医者様向け追記:「シナプス可塑性」のことを言いたかったのです)。

 このような、他の動物の動物の常識ではあり得ない異常な心身の使い方で「脳神経を痛める」ことまでやらかしてしまえるのは、人間が文明の発展の中で、一日の半分は働くということを当然のこととするようになったことと大きく関係している。

 そして、むしろ、周囲が自分に何を求めているかに敏感で、働くということに過剰適応できる強靭な精神の持ち主こそが、結果的に脳の生理学作用を破綻にまで追い込んでしまうわけである。

(最近、「新型うつ病」に関連して、病気になる前は勤勉ではないタイプも増えているのではないかということも取りざたされ、何かというと「性格的な問題」という言い方が安易に使われる。しかし、そうした人の成育暦を探ってみると、学校時代の少なくともある段階までは、親の期待に応える非常な優等生だったり、親には決して迷惑をかけない「いい子」として育ったり、精神的にはもろさを持った親のいる不安定な家庭の中で、親の気配を察して必死に「トラブルシューター」として子供の頃から頑張り、親の不安をケアしてきた人まで含めると、やっぱり「過剰なまでの無理をする頑張り屋さん」だった歴史をどこかで長期にわたって持つという点では、共通項を持つことが多いことに気がつく。つまり、子供時代からずーっと一貫して無気力でアパシー的だった「新型うつ病」の人となると、なかなかいないのではなかろうか???) 

*****

 いずれにしても。本格的に鬱が出現する「直前の」、まだ仕事等の活動水準を維持できており、「落ち込み」は自覚しなかった時期に、持続的な睡眠障害を経験しなかったという人は滅多にいないだろう。

 本人はそれを「苦しい状況を切り抜ける強い自分になった」などとすら思い込んでしまうことも多いものである。実際には、そうやって無理を重ねた「負債」は心身のどこかに慢性的に蓄積されている筈だからである。

 それが実際に身体の調子を崩して(風邪ぐらいのこともあるが、実際にはっきりとした身体病になることがある。私にとってのそれは「尿管結石」になることだった)休みを取らざるを得なくなる機会を提供してくれればまだ幸いですらあるかもしれない。

 もとより、その身体疾患から取り合えず回復すると、また働いていた時のモードに戻って行くことが少なくない。でもそれは、身体病という形での「坑道のカナリア」からのせっかくのイエローカードを無視して更に突っ走る形になりやすいのである。

 こうして、その人の中の「疲労を感知して休息させる」脳内システムが、一度完全に機能不全に陥り、脳神経の伝達回路内での物質のやり取りの中で悪循環のループを確立してしまい、「疲れを疲れとして体験できない」状態で固定化してしまう。この段階で、脳そのものがかなりややこしい心身症状態に突っ込んでいるとも言えるだろう。

 本格的に鬱を発症する直前の数ヶ月の間に、こうした「以前よりも疲れを疲れとして感じずに、状況を切り抜けられてしまう」時期を持っていた人は非常に多いはずなのだが、なぜかこのことは意外なまでに鬱に関する本で語られていない気がする。

 漫画「ツレがうつになりまして。」では、ご主人のツレさんがソフトウェア会社で働けていた時代の末期の状態として、このことがはっきりと描かれている(NHKドラマ版ではこの点はやり過ごしている)。

 そして、こうして疲れを疲れとして体験できなくなって最低数ヶ月が経過した時点で、突如、「ブレーカーが下りる」。仕事を滞りなく進める気力が枯渇し、そういう自分にやっと「落ち込み始める」のである。

 私が「人は鬱になることで『鬱』になる」という時の、1つめの鬱という文字は、実は、この、脳内で形成されてしまった「疲労を疲労と感じなくなる悪循環のループ」(慢性ランナーズ・ハイ状態)の確立それ自体のことである。むしろ、健康な人にでも生じておかしくない次元での「普通の」落ち込みや疲労を感じられなくなるということなのだ。

 2つめの『鬱』という文字は、そういう慢性ランナーズ・ハイがついに限界に来て、心身が一気に消耗してしまって何もできなくなった後の自分に対する、深刻な絶望感のことである。

 長期的な無理を切り抜けるために自分の身体が産出した「脳内麻薬」の慢性的な中毒状態に一度陥り、身体自身の脳内麻薬生成プラントをことごとく食い尽くし、「操業停止」に陥らせるところまで心身の消耗が進んだ時に生じた、深刻な「脳内麻薬切れ」=神経伝達物質の「自己破産」状態が、おもてに表れた「うつ状態」の発症の時だとも言えるかもしれない。

 自分の身体の資源を切り刻むようにして、身体の内部から麻薬物質の捻出して、過酷な状況を自力で切り抜けようとしたのだ。大量の飲酒癖にすらならず、ましてや不法な薬物に手を出すこともなく、自分をひたすらランナーズ・ハイに誘導するという、文字通り「身を削る」形でである。

****

 実は、こうして脳内麻薬の「異常な産出回路」が脳神経内に確立されてしまうと、その悪循環ループというものは容易にその人から消え去らなくなる。

 薬を飲んで休養して、少しやる気が出てきたかなと思って活動し始めると、またもや悪循環ループのスイッチが入り、無理を無理と感じないまま活動し始めてしまう。

 その人の中の「脳内麻薬精製プラント」は壊滅的な打撃からとりあえず「復旧した」に過ぎないので、活動の再活性化は長持ちせず、再びブレーカーが落ちる。

 そして、「もう治りはじめたかと思ったのに、実はそうではなかった」という事実にその人は落胆し、落ち込む(これが私が「二次的な鬱」と呼ぶものである)。この時の落ち込みこそが、むしろ死にたくなるほどの絶望を招き寄せやすいものなのである。

 こうして「少し元気が出る→動いてみる→簡単に消耗する→挫折感」というサイクルが単に積み上げられるだけだと、その人の自信喪失と絶望感はどんどん深刻化する危険がある。

 実は、休養して鬱から相当程度回復したかに見える人にも、この、トリガーを引いたら暴走する悪循環ループは脳内にしっかりと残っていることが少なくないのである。

 SSRIなどの抗鬱剤そのものがこの悪循環ループ自体を消してくれるわけではないのではないか。薬物療法に真に見識のある医師の処方する薬物・・・・狭い意味での抗鬱剤に限らず、気分調整薬、抗不安薬、睡眠誘導剤などを含む・・・・が適切な効果を上げる際に生じているのは、実は一方で脳内麻薬の枯渇による、生へのエネルギー自体の「破産」に対する最低限の「公的救済処置」(自殺に至らないために)という側面を持ち、他方では、その人の中で再び自己破壊的な脳内麻薬産出プラントが安易に操業再開をする「引き金(トリガー)」になるような神経伝達物質の発動そのものやセンサーでの受容をむしろ妨げ、じっくり穏やかに休養してもらい、生体が本来持っている自然回復能力が徐々に賦活する中で、脳内でいつの間にか異常な回路形成に到達していた物質代謝メカニズムが、自然なバランスと働きにを取り戻すことをサポートするという、絶妙のカクテルを、その時のうつ患者のにふさわしい「一品料理」として調合するという形になっているはずである。

****

  少し前にも書いたが、いったん鬱になった人の中では、回復期になっても「その時の自分の心身がどのくらい疲労・消耗していて、どのくらいまでの無理なら、どのくらいの休息で回復できるか」というセルフ・モニタリング能力が決定的に損なわれたままになっているともいえる。

 これは、そうした「自分の無理と疲労度のシミュレーション」が当たり前のようにできた、以前の自分のことを思うと、ほんとうに悲しくなるまでに「自分の実感があてにならなくなる」ことなのである。

 穏やかな休息だけでは、社会で再びサバイバルするだけの脳の自然な働きまではなかなか回復しないのである。

 このセルフ・モニタリング能力の「再建」が必要なのである。いや、はっきりいって、それは「再建」ではないのだ。それまでは言わば「勘」に頼っていたセルフ・コントロール(それはすでに脳内で一度壊滅的に崩壊した)を自覚的に運用できるようになるために、それまで人の中に存在しなかった新たなスキルとして、自分の生体の無理と疲労のメカニズム監視と統御・・・・・休息にせよ、活動にせよ、その時に適切な行動選択を自律的にできる技能を「人工的に学習する」必要が生じてくるともいえるだろう。

 それは一度学習して身についてしまえば、言わば特定のスポーツのための運動能力や楽器の演奏、自動車の運転のように、普段はほとんど無意識に、まるで本来の天性のようにして活用できるものになるだろう。

 私が思うに、それこそが、鬱の人「のための」心理療法として展開されていくべき領域なのである。

 もちろん認知行動療法もそのひとつの重要な展開であろうし、応用行動分析(ABA)も非常に参考になる業績を含んでいるように私は感じている。

 私は、それらも視野に入れながら、フォーカシング技法を、鬱の人の心身状態のセルフモニタリングスキルと、そのモニタリングに基づいて生活の中でどのように小刻みなアクション・ステップを組み上げ、またもや燃え尽き→挫折の堂々巡りに陥らせることなく、休養時から新たに「持続的な成長可能な形で(経済用語!)」社会的活動範囲を広げていくために活用可能な、「学習可能なプログラム」として特化させて発展させることはたいへんな可能性を秘めていると考えて、模索しているところである。

(追記:この試みについてのとりあえずのまとめは、この草稿を書いた後、こちらの記事で書いた)

 恐らくそこには最近の神田橋條治・熊木徹夫両氏が探求している方向性も大きく関わりあってくるような予感があるが、まだ著作を手に入れて熟読できてはいない。

[・・・・・以上、09/08/11に書いたまま、掲載保留のままにしていた草稿を、上記の「追記」以外は、今回はじめて「そのまま」UP!]

=========================

 この段階で書いたことは、実際に熊木氏の著作を読み始めた今、いよいよ確信になってきている。

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2009/09/04

運命の出会いかもしれない・・・・・ (第2版)

 ついに、中井久夫先生と神田橋條治先生の「後継者」とまで言われる、熊木俊夫氏の著作に実際に目を通し始めることとなった。

精神科医になる―患者を“わかる”ということ (中公新書)


 実はまだ40ページばかり読み進めたに過ぎないのだが、もう、この段階できっぱり書いてしまおう!!

まさに「こんな」精神科医療の本をこそ、
私は読みたかったのだ!!

 敢えて不遜なことを言わせて頂ければ、私が現段階で精神医療に期待している理想のあり方とは、まさにこの著作で展開されている内容「それ自体」である。

 
更にいよいよ不遜なことをもうひとつ書くと(^^;)、私がこのブログで精神医療との連携の可能性について書いて来た内容とのシンクロ度半端ではない高さではないか!!

 きっと、私のことを、とっくに熊木シンパであると思っておられた読者の方もあるかもしれないが、とんでもない。

 だって、今日はじめて、めくってるんだもん!!

*****

 「<臨床感覚>は、個々の治療者が自らの身体を用いて、よりなまなましく対象に関わろうとすることでしか得ることはできない」(p.vii) 

 「やはり精神療法はこころに効くのだ。さらにそういった精神療法は、薬物療法と並行して行なわれているのが常であり、このことにいたく衝撃を受けた」(p.6)

 「治療者にとって薬物療法とは、単に一治療技法であるにとどまらず、薬を介した<生体との会話>なのである。(中略)そして<生体との対話>とは、言語表現としては到底すくいとれず、治療者・患者双方の身体感覚を通してしかわかりあえないような、より未分化で普遍的な生体とのコミュニケーション方法を指す」(pp.11-2)

 「私は今後、臨床家および患者の「薬物の官能評価[実際に飲んでみた結果として心身に徐々にどのような変化が生じるのかについての身体感覚次元での主観的効き心地。もちろん、不快感や、「効かない感じ」も含む]」の情報収集が成されることを強く期待する。
 患者という揺れ動く<構造>に対処するには、唯一の正解はない。
 治療上多くのパラメーター[変数]を同時に取り扱うためには、集積され各々の臨床家や患者に還元された種々雑多な「薬物の官能評価」の中から、臨床家各人が自分の感覚になじむものを鋭敏に選び取らなくてはならない。この営為もまた、治療的<構造>把握に向けての感度を上げていく過程で必要不可欠なプロセスであろう。
 そしてひいては、患者も、より自らの身体感覚に即した治療を受けることができるようになるのではなかろうか」(p.29)

 「<生体との会話>とは、言語表現というかたちをとる以前の、より未分化で普遍的な<わかりかた>のプロセスである」(p,32)

 「この人の話している<モゾモゾした気持ちの悪さ>とはどんな感じなんだろうか。実際のところ、この人のつらさをわかってあげられるのであろうか。いや、完全にわかることは不可能だろう。どれほど想像力を膨らまそうとも、この人に成り代わるわけではないのだから」(p.33)

・・・・この箇所など、私がこのブログで、すでに何回となく、北山修先生の作詞家としての代表作、「あな素晴らしい愛をもう一度」

 あの時同じ花を見て
 美しいと言った二人の
 心と心は
 今はもう通わない

を引き合いに出して伝えたかった「間主観性」の限界に関わる事柄を、嫌が上でも髣髴とさせる。

 そして、熊木氏は更に続ける:

 「そもそも、同じ感覚をわかってあげなくても、治療的関わりは可能なはずである。だとしたら、どのように関わっていけばよいのだろうか。やはり私なりの<患者の生体に対するわかり方>の方法論が必要となるだろう。この患者は治療という場において、特定な他者に開かれていなければならない・・・・・・。そんなことを考えながら患者のの身体を触診している時、私の身体はいくぶんなりとも患者の身体に同調してゆく。
 その感じに浸っているうちに、この身体は患者自身のものなのか、それとも、もしかすると私自身のものなのかもしれないという不分明さが生じてくる・・・・・」(pp.33-4)

 「「主観的身体像(P)[=患者さん(Patient)自身の感じている身体の感じ]」とは、<患者の有する自己の身体イメージ>と表現したものであり、対自的、ゆえに自閉的[阿世賀注:サリヴァン(中井訳)の言う「プロトタクシス的」]であるのが大きな特色である。たとえば、患者自身の頭痛の自覚などがこれにあたる。
 「主観的身体像(T)[=治療者Therapist)側の、患者の身体感覚についての、患者の身になっての「主観的」感覚]」は、これまでその重要性があまり顧みられなかったものである。<治療者が患者の身体について感じたこと>というのが、その意味するところのものなのだが、これではわかりにくいので、<治療者が自らの身体を映し鏡にして、患者の身体をモニタリングしたもの>とすればイメージが浮かびやすいだろう。
 治療者が自らの頭に頭痛があることを想定して、それをもとに想像してみた患者の訴える頭痛のつらさなどが、この一例である」(p.38)

 「私は、治療者が[患者自身の]「主観的身体像(P)」を共有しようとするすることが、まず必要なのではないかと考える」(p.39)

 「ただ誤解なきように付言すると、「主観的身体像(P)」と「主観的身体像(T)」は最終的には同じになることをめざすものではないし、また同じになっていくはずもない。
 治療において必要なのは、治療者が[患者の]「主観的身体像(P)」がどのようなものかを認識し、自らの[患者の身になって感じているつもりの]「主観的身体像(T)」についても自覚的になることである。
 その結果
、ともすれば硬直化しやすい患者の「主観的身体像(P)」がマイルドにほぐされていく[!!!!]
 
  (中略)

 治療者が患者の<からだをわかる>ということは,患者にとってみれば、「主観的身体像(P)」が治療者によって容認されたと感じられること。
 治療者にとってみれば、「主観的身体像(P)」の共有過程で「主観的身体像(P)」と「客観的身体像[測定可能な身体状態]」とを引き比べ,腑に落ちた』と感じられることである。それは同時に、主観的身体像(T)がひとまず完成を見ることである」(pp.40-1)

 「一般に世間で、患者に対する「受容と共感」の重要性が説かれているにもかかわらず、その方法化、いや、方法の意識化が不足しているのではなかろうか」(p.41)

こういちろう、激しく同意!!

 医者と違って、カウンセラーは「触診」ができないというだけのことで。

***** 

 更に、今日読んだ部分のダメ押し。

 「しかしどうしても、治療者が[患者の]「主観的身体像(P)」の理解に及ばない時もある。その場合、治療者の心のうちで一種のジレンマが生じてくる。それは、了解し得ないものに対する無力感と苛立ち、同時にその感情を受け入れまいとする否認の規制である。だが、この内なるジレンマにどのように向き合うかどうかが、治療のカギとなるであろう。
 もし、患者の訴える主観的身体像の<わからなさ>を容認することができるなら(治療者の「主観的身体像(T)」の歩み寄り)、患者の持つ苦痛と絶望をいくぶんか和らげ、訴えも少なくしてゆけるだろう」
(p.44)

 ・・・・これって、結局、私が常々このブログでも書いてきたし、

現代のエスプリ (No.410) 「治療者にとってのフォーカシング」(伊藤研一・阿世賀浩一郎 編)

でお書きした、

クライエントさんに対する「感情移入的フォーカシングモード」と、治療者自身の体験している「自己指向フォーカシングモード」の間に矛盾が生じて、クライエントさんに「感情移入したい自分」「しきれない自分」(feeling about feeling)の両方をsplitさせて「認めてあげる(acknowledging)」ことができたら、なぜかそれだけで、治療者としての私の中に生じた余裕が「空気伝染」して、クライエントさんにも「何となく」余裕を回復させ、そこから面接の膠着が再び開け出すことが多い・・・・という、私の面接術の奥義と同じこと言って下さってるようものではないか!!

●「受容・共感と自己一致の相克」シリーズ(5連作)

●フォーカシングのグループ活動において、身体の感じを通して傾聴し、言葉にしていく関係性の場を、さりげなく生み出すということ (2)-(7)

*****

 更に言えば(今回はっきり言ってしまおう)、私の今後の最大のテーマのひとつは、精神医療における薬物療法が更に効果を上げる上で、薬を飲む前と飲んだ後とでの未分化で曖昧な身体感覚の変化への感受性を、まずは治療者側が、ひょっとすると患者さん側も上げるためのトレーニングとしてフォーカシングを「限定的」かつ「特殊な」技法形態で発展できる可能性である。

 すでにそのための試論は書いています:

●フォーカシング技法を活用した、鬱状態のクライエントさんのための「主導型積分的フェルトセンス照合」スキルアップトレーニング(案)

 更に、これを機会に、この1ヶ月間、とりあえず掲載見合わせにしていた次の記事を正式にUPしました。

●「ランナーズ・ハイ」の行き着く先

 

*****

 熊木氏に影響を与えている神田橋條治先生が、実はフォーカシングの熱血応援団長みたいな役割を務めてくださっていということ、そして、中井久夫先生に至っては、どうみても天才型ナチュラル・フォーカサーですから、こういう結果になることは、予想できなくもなかったんですけど、まさかこれほどとは・・・・・。

 40ページ読む中でも、私にとって幾つも新たな発見や刺激になった部分が他にもたくさんあります。

 ほんとうに、すごい才能がある新世代精神科医が生まれたものである。

****

 それでも敢えて書いてしまいます。

 精神科医の皆様、熊木氏の本を読んでいて理解不能になったり、

「では具体的にどうすればそうしたセンスが磨けるのだ?
 これではアートだ!!」


・・・・などとお感じでしたら、どうか試しに、フォーカシングを、まずはご自身のセンス向上のためにお学びになって見てください(^^)

 きっと、スラスラ読めて、納得してしまいますよ!!

 

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2009/09/03

「カウンセラーこういちろうの雑記帳」の主要過去記事を一番簡単に一覧するには

 このブログって、すでに創設4年9ヶ月、過去のエントリー記事総数が、「この」記事で1,914本め、なのに一日あたりの新エントリー、平均1.10本以上を現在も維持、しかも長文が多いという、へヴィー級ブログです。

 おかげで、もはや@ニフティココログが割り振ってくれているサーバー負荷が相当なものになっているせいか、

  • 私の方からトラックバックを送ることがもはや機能しない
  • pingも自動では飛ばせない(その割には随分多くの読者の皆様が、新記事アップ直後においでいただけることを幸いだと感じています)
  • カテゴリーにすべての記事が反映しない(カテゴリーによっては300から400エントリー分表示されようとするわけで)

・・・・・という、新しくおいでいただいた読者泣かせのブログになっていると思います m(_ _;)m

****

 もちろん、バックナンバー全体を表示してくれる、『アーカイヴ』ページ(自身がココログユーザー以外の読者の皆様、お気づきでしたか??? 右フレームの「バックナンバー」という文字そのものをクリックするとたどり着けます)というものも、あるにはあるわけです。

 しかし、このページにお行きになっていただいたとしても、過去の個々のエントリー記事のタイトル一覧があるわけですらない

 このページからの「〇年〇月」を全部めくっていただくだけでも(全く休眠した数ヶ月を除いても、現在50か月分ほどあるわけですね(^^;)。その50ヶ月分、それぞれ月ごとに、毎月30から40エントリーずつはあるわけですから・・・・・

 つまり、私がこのサイトでこれまで書いてきた主要記事がどんなものか、新しい読者の皆さんにおおよその見当をつけていただくには、もうデタラメにご不便をおかけしていることと思います   il||li _| ̄|○ il||li

*****

 この問題を一気に解決し、

  • 新記事の方が上に来る形で、
  • 過去の記事に関しては私がある程度絞り込んでセレクトしたものを、
  • 数百記事ばかり、1ページをスクロールできる形で
  • ブログのような表示の重さがない形で一覧したいただける

そういうページが、実はずっと以前から存在します!!

●阿世賀浩一郎のホームページ/index

 開設1995年12月(つまりWindows95発売直後)開設、日本において、インターネットで個人サイトを作ることが本格的に普及し始めた黎明期から、何と基本的なデザインを変えないまま運営し続けているサイトです。

 かつては、ネットを代表するエヴァ・サイトのひとつ、「エヴァンゲリオン論考」で著名だった時代もありますけど、幸いにして著作化させてもいただきましたので、そのコーナーは全面削除いたしておりますが(「ちーちゃんの部屋」というアニメコーナーがかつて存在したことを覚えておられる方もあると嬉しかったりして ^^;)・・・・

そのトップページから、このブログでの新エントリー記事を書く度ごとに、固定リンクへのリンクを、たいてい速攻の連続作業でお貼りしてもいるのです。

 恐らく、皆様のRSSリーダーに反映するスピードの比ではない「即時性」で「新着情報」が掲載され続けています。

 同一エントリー記事の更新(改版)情報すら、可能な限り早くお伝えしています。

 

そこに並んでいる、当ブログ個別記事へのリンク数は、常時数百あるはずです(古いものから時々、精選のための「ダイエット」をかけますので、一定数以上には増えません)。

 しかし、敢えて今でも、基本的には「素朴なhtml言語の手打ち」に依存し、javaスクリプトすらないに等しいということで、このトップページそのもののバイト数の多さの割には、表示が圧倒的に軽い筈です(このブログのトップページを表示するよりは軽いと思いますよ)

 
当方のアクセス解析によって、「こっちのページで新着情報見つけるほうが手っ取り早い」ことにお気づきの、毎日数名以上の固定ユーザーの方がおられることは掌握しています(感謝!!)。

 しかし、そうした方の占める比率が以前よりもかなり減っているようにも思いましたので、改めてご紹介させていただきました。

 

今後とも、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」をよろしくお願い申し上げます。

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2009/08/24

「双極性II型」気分障害と高度成長期との関連 -星飛雄馬や矢吹丈や岡ひろみのように生きてしまうこと- (本文第4版のまま 最終更新)

 安易な「世代論」は慎みたいのだが、現在40代までの世代のうつ病のあり方が、以前とは異なってきていること(いわゆる「非定型」うつ病や「双極性障害II型」と診断を受ける人が増加していること)を検討する上で、やはり必要な観点として、ちょっと大胆すぎるかもしれないことを、敢えて書いてみたくなった。

 日本の「高度成長期」とは、狭い意味では、オイルショック(1973)に至るまでの1955年から1973年までの18年間であるという前提で以下の話を進めたい。

 そして、「高度成長期に育っている」世代というのを、私なりの、やや強引かもしれない境界線として、少なくとも小学校時代全体を1973年度までに終えていると設定することに同意していただければ幸いである。

 そうなると、単純計算で、そうした世代の一番若い人間は、1961年(昭和36年)生まれであり、今年度(2009年)のうちに満48歳を迎える人間であるということになる。

 更に、上限も規定しよう。高度成長期に突入した時点(1955年)で、いろいろな幼年期の記憶が残りはじめていることが確実な年齢層。それを3歳から5歳ごろと仮定すると、2009年現在は58歳から60歳の人たちということになる。

 この範囲におさまる人たちは、まさに12年=1世代である。いわゆる「新人類」世代といわれるものと、実にぴったり重なることになる。

 現在では、この世代の人たちが、社会を実質上動かす「壮年期後期世代」として活躍していることになる。一世代ばかり上には「団塊の世代」が今も「ボス」として君臨していることになるわけだが。

 この世代の人間は、子供時代の重要な時期を、未来に向けての「人類の進歩と調和」を疑わず、日本もどんどん経済成長する中で、「親がすでに獲得した立ち位置で、更に努力を重ね、精進していけば、会社での昇進や事業拡張に伴う収入増加と、家庭の生活水準が向上していく」ことを非常に楽観的に信じていられる中で育っている。

「会社のために尽くせば尽くすほど、その忠誠心に応えて、会社は必ず自分に報いて生活水準の向上をさせてくれる」

ということを素朴かつお人よしなまでに信じていられたという点では、高度成長期のサラリーマンは、バブル崩壊以降、リストラ等の現実に直面し辛酸を舐めて来た世代に比べると、信じがたいくらいに純情ですらあり、(敢えてこの言葉を使わせていただく)日本的な『甘え』の構造に、骨の髄まで浸かっていたと思う。

 このわずか十数年の間に、年功序列も有名無実化し、終身雇用制度も風前の灯の「実力主義」の生き馬目を抜く競争社会に日本も急速に変貌してきた。

 天下泰平の江戸時代の武家社会以来命脈を保って来た、「忠義には恩賞で応える」という職業倫理観そのものがもはや崩壊してしまった。

 日本における古典的な「うつ病」のあり方が、実は欧米社会のそれとは、メンタリティが一見似ていて内実は異なる点が得てして見落とされている。中井久夫先生が「分裂病と人類」の中で指摘しているがごとく、うつ病の病前性格とされた「メランコリー親和型性格」とは、欧米(この概念をテレンバッハが生み出したドイツにおいてですら!!)では、当初から、むしろあまり高い価値づけを与えられるパーソナリティ・タイプではなかったのである。

 (私が目にできた範囲では、このことに真正面から言及しようとしている文献に最近の著作でなかなかお目にかかれない気がするのだが)日本における狭い意味での「古典的な鬱病者」とは、実はこうした、すでに過去のものとなった「会社への『忠義』が報われる」という社会システムへの過剰適応者に生じる失調形態であり、今や、古き良き日本の職業観に基づき生きてきた、すでに60歳より年長の世代に固有の「社会的性格」を担う人たち(および、その世代の「超自我」を、不幸にしてもろに転写する形で受け継いでしまった、「すでに時代とズレた」メンタリティを持つ、後継世代の中の一部分 を占めるに過ぎない人たち)に、かろうじて残存しているに過ぎないと考えるべきなのである。

 はっきり言う。このことに、うつ病についての著作を書く現在の日本の精神科医の先生方の多くがなかなか(少なくとも一般の人向けの)著作の中で言及しないのは、ひとつにはDSMというアメリカの診断基準を「治療的輸入文化」として「丸呑みに」受け止めるという、未だにアメリカという「親」への媚びへつらいから脱却できない、主体性に欠ける精神医学観しか持ち得ていないまま、「未だに『戦後』をやっている」状況から抜け出せていないためであり、フロムやリースマンの水準での超古典的「社会的性格」論ですら実は掌中にしないまま、せいぜいありふれた社会評論家の水準でしか現代社会を論じる力がないままに、目の前の患者さんと漫然と会い続けているに過ぎないということであり、医者自身が無意識的に身を浸している、「ある世代(特に「新人類世代」)より上の指導的職業人一般に共通する」職業倫理観を「相対化」して「突き放して」見つめなおすというパースペクティブを確保しえていないということかとも思う。

(もちろん、すでに日本における「超古典」の域の中井先生ないし神田橋先生によるものでなくても、こうした点での大局的洞察力に富んだ、「ポスト中井世代」の精神科医の先生方の近年の著作も確かに幾つも存在するようだ。それらについては今後の記事で紹介しながら、私の問題意識と重ねた詳しい考察を試みるつもりである、・・・・・そもそも、私が今書いているこの記事を「インスパイア」したのがどの先生のどの著作かまで具体的に「言い当てる」ことができる慧眼な読者の皆さんがおいでになっておかしくないはずだ。ただ、何と私はその著作を現在私自身が「まだ所有していない」ままなので[追記、購入して、書評の連載をこちらから始めています]、その先生がすでにその著作で具体的にお書きの細部と私の今回の論考が重なるのかすらわからないまま「見切り発車で」とりあえず書いてしまっているのである!! ・・・・ヒントを出すと、今回の記事は、中井先生や神田橋先生の「後継者」の呼び声が高い、熊木俊夫先生の著作をヒントにしているわけではないので、念のため!! 熊木先生の代表的著作については、遂に入手しましたので、遠からず何かこの場で書ける具体的スケジュールに入りました![追記:書きました]。あと、ほんとは、中井先生に代わって今や少なからぬ現場精神科医の尊敬を一身に担っているという濱田秀伯先生の大著「精神症候学」を精読するのがひとつの小さな夢なんだけど、までスケジュールに入れられる段階ではないのです・・・・つまり濱田先生の「洗礼」を著作水準ではまだ受けていないのであるし、この記事の内容とも直接の関連性はないはずである )

*****

 もっとも、「新人類世代」は、高度成長期においては、まだ十代ないしそれ以下の「扶養家族」であり、本人自身はまだ実社会に出た「就労者」ではなく、家族の生計の当事者ではなかった。実はこの点こそが肝心である。

 現実社会の中で「努力と根性」で生きて、一家を支えているのは、戦前(昭和10年代=1935年前後以降)・戦中に生を享けて、戦後初期の貧しさの中で子供時代から十代を過ごす中から、死に物狂いで家の生活水準を上げてきた「親世代」なのだ。

 新人類世代の人の子供時代においては、「努力と根性」の果てに立身出世するという倫理は、自分がそれをやるかどうかは別として、ひとつの「理想像」としては、結構素直に受け入れられていたと思う。まさに「巨人の星」「エースをねらえ!」を子供時代から十代前半に堪能していた世代そのものなのであるから。

 ところが、それはあくまでもひとつの「ファンタジー」ないし「自我理想」として存在しても、自分の身にひしひしと差し迫るリアリティとしては体験していない。

 そうした中、当時の子供にとって、唯一の例外の「努力と根性」へのプレッシャーを社会から否応なしに受けるリアルな場が、現在よりも「遥かに」過激な受験戦争だったろうとは思う。

  しかし、(敢えて言わせて頂ければ)受験勉強というのは、一度乗っかってしまえば、ゲームの上達と同じような、シンプルな仕掛けの「バーチャルな」次元での競争であるに過ぎない(ネットゲームやセカンドライフ的仮想世界では、ある種の「対人関係スキル」がある程度問われることは否定しない。ここでいう「ゲーム」とは、あくまでも、「スタンドアロンな」ゲームの場合である)。

 受験とは、複雑な人間関係や駆け引きなどへの対処を含めた、実社会でのサバイバルや栄達までの修羅場で必要な、複雑で多次元の「全人的能力」の総合性が試されるフィールドではないのだ。

 いくら「学歴信仰」が今よりも強い時代だったとはいえ、大人になった自分が「実際に」世間の荒波に飲まれてどこまで「通用するか」とは別次元の問題であることなど、子供心にもうすうす懸念していたことが多かったはずである。

 つまり「勉強ばかりさせられる」ことだけで、大人として通用する未来が開けるわけではない筈だと、心のどこかで気づいていたのではないかということだ。

 大人になって、世の中を生きるとは、そんな単純には行かないものでないか?

 だからこそ、多くの子供は、受験勉強にばかり縛り付けられることに、自分の未来への、漠然としてはいるが深刻な危機意識の中で「抵抗し」、ほんとうは、何か別のものをこそ、大人から吸収したかったのではないかと思う。

*****

 そういう中で、自分が成長していく上で見習っていく先達=「大人」としての手本を、その世代はリアルワールドの中では見失っていたのではないかとも思う。

 いわゆる「ポスト全共闘」しらけ世代にあたる、自分より少し年長の、大学生から社会人になりたての世代は、自分の目から見ても、「身体を張って生きてきた」親世代そのものに比べると、心優しいけど、どうにもこうにも軟弱で、「お兄さん」「お姉さん」ではあっても、「大人としてのあり方」として憧れるというのにはイマイチだ。

 そういう、自分よりも少し年長の世代にあたる「物語上の」主人公たちが「努力と根性」で社会に巣立っていくまで支え、見守り、鍛え上げる、更に上の大人世代・・・・まさに星一徹や宗方コーチの「大人としての厳然たる存在感」がなかったならば、その種の成長ドラマは、子供にとっても、全然魅力的なものとはならなかったはずである。

 しかし、自分の親そのものは?・・・・厳しい小言はいうけれども、少なくとも家庭で見るその姿は、経済的豊かさを「消費」しながら、休日はぐったりと横になっているばかりで、全然かっこよくない(ほんとうは、多くの場合、職場では地道にその人なりに奮闘していたであろう、親の大変さまでは子供にはリアルに実感できないのだから)。

***** 

 私は、この「新人類」世代の人が鬱になる場合は、それ以前の世代の人が鬱になる場合と比べても、すでにかなりの傾向差があるし、更に「新人類」世代以降になると、更に別の傾向を示すのではないかとも感じている。

 大雑把過ぎるのを承知で、敢えて大胆に言うならば、「新人類世代」=特に「双極性2型親和的」な世代ではないか?・・・という思いが私の中に生じてきているのである。

 古典的なメランコリー鬱病親和的な人たちは、「新人類世代」になると、ぐっと割合が減り始め、それと交代するかのように、「双極性II型」と診断される人の率が増える・・・・という仮説である。

 現状では双極II型の診断を日本の精神科医の多くが十分に的確にできるまでの「途上段階」に過ぎないので、日本における「双極II型」と診断される患者さんの年齢別・世代ごとの分布の統計が、もし仮にあったとしても、十分に信頼できる水準のものが日本にあると言える段階ではないかもしれない。

****

 しかし・・・・・ふと思ってしまうのである。

 星飛雄馬は、大リーグボール3号を編み出しこそしたものの、それはまさに「身を削る」投法に他ならず、最後には腕の筋肉が断裂するという形になったではないか。

 矢吹丈にしても、そうだ。ホセ・メンドーサとの死闘の後で、皆さんご存知の通り「真っ白な灰」になった。

 岡ひろみも、宗方コーチの死のショックから立ち直って、再びウインブルドンに旅立つまでに、どれだけぼろぼろな日々を送ることになったか。.

 この3人の生き方って、もう、びっくりするくらいに、双極性II型気分障害に陥った人の「現実の人生」と類似しているのではないか?

 双極性障害II型の人に内在する超自我は、まさに「星一徹」や「宗方コーチ」のような超然たる厳しさを持ったものではないか?

 そうした「内的コーチ」の期待と信任に応えるべく、極限までの努力を孤独の中で重ねて、遂には燃え尽きる・・・・

 (宗方の死で幕を閉じた、アニメのTV版「新・エースをねらえ!」あるいは劇場版「エースをねらえ!」しかご覧になったことがない皆さんは、原作の物語がその後延々と岡ひろみの「リハビリ」の過程(!)を描き続けたことまでご存じないかもしれません。実は、原作における宗方の死以降のストーリーも、原作とはかなり異なる展開ですが、かなりたってから、実に丁寧にアニメ化され、2クールかけたオリジナルビデオアニメシリーズという形で発売されています(「エースをねらえ! 2」 「エースをねらえ! ファイナルステージ」)。もっとも、その後衛星放送やCSや深夜時間帯で何回も放送された筈なので、そういうきっかけでご覧になった皆さんもあるかとも思いますが)

*****

 こうした、「新人類」世代の子供時代のヒーロー、ヒロインが「努力と根性」の果てに燃え尽きていくドラマを、あたかも自分自身が現実の中で再演する「かのようにして」、結果的に生きてしまったのが、双極性障害II型の人の生き様である・・・・という、大胆な仮説はどうだろう?

「現状がいかにしょぼくて、疎外されたものであろうとも「努力と根性」さえあれば、いつか報われるに違いない」

「 ・・・・・その前に、自分程度の者は、燃え尽きてしまい、安住の地にたどりつけないのではないか?」

「でも、このやり方しか自分にはできないんだ! きっとそのうちに誰かが認めてくれる・・・」

「それにしても、この、一見のどかで平和な時代って、何か、ふわふわしていてさ、生きている実感に乏しくて、どこか「嘘くさく」ないか?」

「きっと、「ほんとうの現実」っていう奴が、どこか別のところにあるんだよ」

「もし、そこに待ち受けているのが悲劇の幕切れであろうとも、自分が「ほんとうの現実」に触れた充実感に出会えるのならば、それが一瞬の花火でもいいではないか!」

・・・・まるで、徐々にパンチ・ドランカー症状に苦しみ始めた矢吹丈が、試合の前に、川辺で(ジョーを慕っていた)紀子に語った、かの有名な「真っ白な灰になる」という結語に至る一連のセリフみたいであるが、双極性II型の皆さんの中に、ある共感を抱いてくださる方が少なからずあるのではないかと思う。

 そして、そういう生き方が、自分を苦しめ、燃え尽きることを繰り返す双極性の病に陥らせたことへの、砂を噛むような不毛感も。

●あしたのジョー2 傷だらけの栄光(YouTube)

****

 もちろん、こうしたことを「テレビやマンガの悪影響」などという次元で私は語っているつもりは全くない。

 (恐らく、ここで書いてきたことは、「メディアの子供への悪影響」という論を張るのがお好きな人たちにはむしろ絶対に思いつけないし、お知りになったら「呆然とする」見解(?)であろう。星飛雄馬や岡ひろみの生き方を「不良」で「不健全」呼ばわりする人など、そういう人たちの中にこそ、一番いそうではない気がするので)。

 私が伝えたいのは、そうした人たちが子供時代を過ごした社会全体の「時代の空気」豊かさと、「成長」幻想の影に隠された不安と焦燥)との「隠された」親和性の問題である。

 この世代の、少なくともある一定範囲以上の人たちが、社会に出るまでの間の成長過程で育んだ、「成長」や「自己実現」の理想化されたイメージと、大きな共振作用を起こす形で、こうしたヒーロー・ヒロインの物語上での生き方として社会的=象徴的に「表象された」のではないか?

(このようなメジャーな雑誌に連載される、すでに人気が出た物語の原作者というものは、その時代の読者層をいかに感動させる物語展開にするかにこそ、神経をすり減らしているものであることはいうまでもないでしょうから)

*****

【追記】この記事を書くヒントは、

内海健/うつ病新時代 -双極2型障害という病-

実際には1ページも読んだことがないままに、amazonにおける本書についてのいくつかの書評からのみインスパイアされたものです。

 書評をお書きの皆様(特にSeaMount様)に厚くお礼申し上げます。

 すでに内海先生の本を「実際に読み」ましたが、この記事を「後出しじゃんけん」で増補改訂することは一切しないことにしました。

*****

※関連記事

●胸がすく思いの名著!! ・・・・内海健 著「うつ病新時代 -双極性II型という病-」 書評 (第1回) 

2009/9/14 NEW!!

●若手カウンセラーの方が、私たちよりも「したたかに」実力をつけていくのではないかという、大いなる期待(・・・実は「おゆとり様」世代の大肯定論です)

■Amazonの関連商品:巨人の星エースをねらえ!あしたのジョー

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2009/07/17

フォーカシングのグループ活動において、身体の感じを通して傾聴し、言葉にしていく関係性の場を、さりげなく生み出すということ(3)【第2版】

 さて、前回に引き続き、今回は、「聴き手が、話し手のいうことを、ボディ・センスを通して傾聴し、ボディ・センスを通して伝え返しをする」ということが、具体的にどういうことなのか、示して行ってみたいと思います。


 これから述べることは、基本的には、この前ご紹介した、

ジャネット・クライン/インタラクティヴ・フォーカシング・セラピー―カウンセラーの力量アップのために

で解説されている傾聴技法に準拠していますが、

アン・ワイザー・コーネル/フォーカシングガイド・マニュアル

で解説されている傾聴のあり方も融合させて解説することになるでしょう。

****

 聴き手が、話し手の話を、自分のボディ・センスを通して傾聴するということ・・・・これを「体験的傾聴」などと呼ぶ場合もあるのですが、こういう言い方だけでは、初めての人には、いったい何のことだかまるでわかりませんよね(^^;)

 まず、ちょっと狼のことを連想ししてみてください。

 一匹の狼が、闇の中で「ワオーーーーン!!」と吼えます。

 すると、しばらくすると、闇の彼方のどこかから、「ワオーーーーン!!」という泣き声が、まるで木魂のように返っています。

 最初の狼は、再び「ワオーーーーン!!」と叫び消すかもしれません。

 闇の彼方の狼は、さっきより早く「ワオーーーーン!!」と鳴き返し、次第に2匹の「ワオーーーーン!!」は、まるで輪唱かデュエットのように折り重なり、そのうちに3匹目、4匹目の狼の「ワオーーーーン!!」すら加わってくるかもしれませんね。

 同じような調子の声で、同じように鳴き交わす。

 まるで、相手の声の調子を模倣して返していくこと自体に、大きな意味があるかのようです。

 これが、動物同士のコミュニケーションの原点なのだと思います。

 そこには、敢えて言えば「同類がここにいるぞ!!」ということを相互確認すること自体に大きな意味があるのかもしれません。

 ・・・・でも、どうでしょうか?

 もし人間が、

「あなたは私の同類ですか?」

「ええ、同類です」

という、言語的(verbal)なやり取りをしていたとしても、それだけでは、狼同士の鳴き交わしのような、恐らく実存そのものを背負った連帯の絆は確立できていないであろうということ。

 身体に響かせ、vocal(音声的)に「鳴き交わすこと」にこそ、相互承認、相互連帯、世界の中で自分は一人ではない、お互いが繋がっているという感覚、そして、相互理解の実存的な基盤があるのだということ。

 ちょっと神田橋先生風の比喩にもなりましたが、確か、ジェンドリン自身も、「プロセス・モデル」という論文の中で、これと似たことを書いていると伝え聞いたことがあります。

 話し手の語りを身体を通して傾聴し、身体を通した言葉で応答していくということのベースラインには、こうした視点を持っている必要がある気がします。

**** 

 さて、この「ボディ・センスを通しての傾聴と応答のうち、今回はもっぱら傾聴のことを話題にします。これが、通り一遍の、共感的な「伝え返し」に留まる状態と、どのように異なるのか?

 ・・・・・ちょっと大胆な試みかもしれず、逆に困惑してしまう読者の皆さんが出てくるのを承知で、試しに、私がそうした「身体を通した」傾聴をしているときの実感そのものを描写してみますね(^^)

 相手の人が私に対して話をはじめました。私にはその「響き」が到達しています。私の「耳の鼓膜」は振動しているでしょうし、私の「頭の中」では、相手が話す言葉や、その脈絡に込めた「意味」を「理解しよう」とする働きが始まります。

 しかし、同時に、相手の言葉の響きは、相手の人と対峙している、私の身体の正面寄りの部分全体にも同時に響いて来ているわけです。私は、あたかも耳の鼓膜以上に、腹膜で、相手の話を聴いているようなつもりになってみることが少なくないです。

 腹膜を通して私の胴体という空洞に伝達された相手からの「響き」は、胴体全体を振動させ、共鳴させます。

 私はそうやって、自分の胴体が相手からの響きに共振ないし共鳴するのを自分に許した上で、そうした身体の振動にセンサーをめぐらせて、話し手の心境を「感受」し、読み取ろうとしていく「主体としての私」も堅持しています。

 今、「共鳴」という言葉を使いましたが、これはカウンセリングで使い古された「共鳴」という述語よりも、本来の意味、つまり、音響学的な現象としての「共鳴」というのに近い意味で使っています。

 つまり、話し手という「音響発生体」(?)の中で、一定の周波数で音叉が鳴ったとします。その音波は「空気伝染」して、私の身体の中の、同じ周波数の音叉を鳴らすことになります。

 相手と同じ周波数の音叉が共鳴するがままに任せるためには、私の方で勝手に自分の中の音叉を鳴らしてしまってはなりません。

 これが、私なりの実感としての、「相手の身になって」傾聴するということです。

 受容と共感、話し手の言葉を正確に伝え返すことは、ロジャーズ派に限らず、多くのカウンセラーの基本的な傾聴のあり方として実践されていますが、正直なところ、多くのクライエントさんはそうした傾聴をしてもらうでけではうんざりしています(^^;) 

 その理由は、単に、カウンセラーが「どうすればいいのか」の答えをくれないなどということだけではなく、クライエントさんの実感では、そもそも、カウンセラーに「話を本当に聴いてもらっている気がしない」という状態にすでになっているのですね。

 なぜか?・・・・私は、カウンセラーが、単に「耳の鼓膜で」聴いていて、耳のすぐそばの「脳で」理解しようとしているだけだからだと思います。

 つまり、多くのカウンセラーは、首から上だけでクライエントさんと関わって、首から上だけで共感したつもりになっているのです。

 しかし、クライエントさんの側は、自分の悩みや言葉にならないモヤモヤをを、身体で一身に背負って面接室を訪れているはずです(別に身体症状がない人ですら、そうです)。

(フォーカシング関係者で、それぞれ「私の実感の上では、もう少し違う比喩がぴったりだ」という方がおられてもおかしくありませんが^^;)

*****

 こうして、身体を通して(くぐらせて)傾聴した上で、語り手に伝え返しをしようとすると、一見ロジャーズ派的な「反射的」な伝え返しに似ているかに見えて、単に「耳で」聴き、「頭で」理解したものを伝え返す場合とは、自ずから、若干スタンスが異なってくる気がしています。

 語り手が次々と繰り広げる、出来事についての語りや言葉の「意味内容」を、単に几帳面に追いながら克明に伝え返すことが、むしろ何か不自然なことであるかのように感じられ始めます。

 (もちろん、場面によっては、むしろそうした丁寧な受け止めと逐語的に近い伝え返しが必要なひと時もあります。でも、そこそこ経験を積むと、そう いう伝え返しをこそ語り手が必要としている時はまさに今だ!!ということを、かなりの程度感受できるようになるものです。例えば、語り手自身、慎重に、自分の中の言葉にならない実感と照合しながら、言葉を少しずつ紡ぎだしているような場面です)

 語り手が、個人的な心境や気持ちの綾を込めて語っている部分については、語調や言い回し、話すスピードや間合いすら同調させながら、丁寧に、大事に投げ返す。

 しかし、それ以外の部分については、その語り手が物語る状況について基本的に誤解していないことの確認という意味で、ストーリーをなぞる最小限の 必要性が出て来る点を別にすると、かなり簡素に要約された伝え返しでも、語り手の側は特に不満を感じないことが少なくないようです。

****

 フォーカシング的な傾聴を学んで来た皆さんは、フォーカサーが用いた言葉を、同じ意味に思えるからといって別の言葉にリスナーが勝手に置き換えて伝え返すべきではないことをご存知でしょう。

 人が語る言葉には、その言葉を媒介としてはじめて注意を向けることができている、非常にパーソナルな、「実感それ自体」の領域があります。言葉とは単なる「記号」ではなく、その時のその人にとって、非言語的に感受された経験の暗黙の全体性を意識につなぎとめ、保持するための、その人だけの「とりあえずの荷札」(フェルトセンスをつなぎとめておくための「取っ手」)という側面があります。

 その人は「悲しい」と言っている時に、単に「悲しみ」という、ユニット化された感情を感じているのではありません。「とりあえず『悲しみ』と名づけてみたけれども、悲しみと言う言い方だけでは汲み尽くせない、もろもろの思いを含んでいそうな『何か』(something)」を感じている。その『何か』それ自体を大事にするようにさりげなく促すのが、フォーカシング的な態度です。

 だから、そうした際に、

「そのことについて、あなたは、悲しんでいる」

などと言葉を返す代わりに、

「そのことをめぐって、あなたは、何か『悲しみ』のようなものを感じているんですね」

などと、感情についての意味づけを固定することなく、感じている実感そのものにさりげなく注意を向けてもらう返し方をすることに、フォーカシングを学んだ人は慣れているし、普通のカウンセリング場面ですら普段使いしている方も少なくないかと思います。

 しかし、こうした言葉の返し方が、聞き手の中での単なる「応答テクニック」に留まるべきではないはずです。

 聴き手は、そこまで語り手が話してきた事件のてん末について想像し、そうした場面に自分が「身を置いた」ら、どんな居心地になり、どんな場の空気肌に感じ、どんな心境になるのかを、「あたかも」自分が体験しているフェルトセンスである「かのようにして」身体を通して感受しようとしていく必要があります。

 もとより、そうした際に、聴き手は勝手に妄想を膨らませていいというわけではありません。

 あくまでも、語り手が新たに紡ぎ出していく言葉のニュアンスや語調、表情の変化などを身体をくぐらせて感受し、それと照合し、修正していく中で、聴き手の中の、語り手の身になった「感情移入的フェルトセンス」が、その時の語り手に更に寄り添う方向に、刻々と変化していくことを許していく中で紡ぎだされた応答へと刻々と繋がっていく必要があります。

 つまり、語り手の実感そのものに更に寄り添う応答になっていく必要がある。

 そうなった時にはじめて、語り手にとって、聴き手の応答が、ある安全感を感じさせ、まるで語り手自身の身体の延長であるかのように自由に活用できる「鏡」=自分の「実感」そのものと、実際に自分ができている「言語表現」を、自然発生的に、無理のない範囲で「照合」し、語り手自身が味わい直し、より的確な言語表現を、自分なりに、深い実感の中から紡ぎだしていく手がかりになるのだと思います。

 聴き手は絶えず旅の過程で、身体性を伴う存在感(presence)を持って「そこに-いて」くれているのです。

*****

  ところが、こうやって「身体を通して傾聴し、身体を通して言葉を返す」というあり方が身についてくると、伝え返しの際に定石とされてきた一般原則のひとつを、ある程度緩めてもいいという心境に私はなりました。

 それは、「伝え返しの際、語り手が実際には使ってもいない表現で提示してもいいのか」という点について、私の中の禁則が緩んだということです。

 これをどう説明するかということは、私にとってかなりチャレンジングな未踏の領域(?)ですが、次回、何とか挑んで見ましょう。

(続く)

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2009/06/19

「ゴースト」と「ファントム」 -押井守と神田橋條治の共通項-

 ・・・・というわけで、長年の封印を解き、押井守さんの劇場版「攻殻機動隊」二部作をやっと観終わったばかりです(^^)

 第1作"Ghost in the Shell"の方は、その長期の封印の間にVer.2.0になって、大幅なCG化に留まらない、すべてのシーンの手直しがなされていたみたいでしたし。


 予備知識ゼロでぶっ通しで観たわけですが、観てよかったですね。今の押井さんのを観たら、少し頭が痛くならないかと勝手に思い込んでずっと億劫がっていたんですけど、押井さんの硬質のリリシズムの世界って、やはり私には「癒し効果」の方がよほど強かったんだ・・・・と、何を今更ながら感じた次第coldsweats01

 押井守さんというと、私にとっては、「うる星やつら」TVシリーズの中の超異色作、「みじめ、愛とさすらいの母?!」(第101話)を本放送で観た時点で圧倒的に熱狂し、この回の拡大バージョンというべき劇場版第2作「ビューティフル・ドリーマー」、は、映画館で見た回数18回という私にとっての最高記録を保持しています。(この件についてはこの記事参照)

うる星やつらDVD vol.20(「みじめ!愛とさすらいの母?!」収録

うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー [DVD]

 その後、「天使のたまご」を経て、劇場版「パトレイバー」の2本で、止まっちゃってたんですね。後を追うのが。

 今回、この2本を見て、これらの作品の延長線上に、押井さんはやはり押井さんであり続けたまま、それらを全部総合しつつも、なおも前を進んでいるのを感じて、むしろほっとする、故郷に帰ったかのような思いすら感じました(^^)

*****

 予備知識なしで観て、最初に何より驚いたのが、この「攻殻機動隊」の作品世界の世界観というのが、最近私が改めてご紹介してきた、精神科医、神田橋條治先生の考え方と実にいろいろと「かぶる」ことに気がついたことなんです。

 この近未来の世界では、人体に及ぶ「電脳化」と「サイボーグ化」が、多かれ少なかれ、人々に進行しています。

 ここでいう「電脳化」とは、神経にネットに接続する端末が埋め込まれていて、思い切ってわかりやすく言えば、無線LANで常時接続されているような状態にあるということです(個体によってその性能に落差はあるし、高度な情報セキュリティの問題や膨大な情報のやり取りをするとなると、首の後ろの端子を外部機器に接続するやり方がとられるようですが)。

 これによって、人は言葉を話さなくても対話できるし、資料を観たり読んだりしなくても、脳に直接情報をインプットできる。情報検索したければ、もはやパソコンを立ち上げ、インターネットブラウザを開けなくても、例えば、いろいろな格言を見つけ出して、臨機応変に口にすることなども自由自在である(おかげで、第2作、「イノセンス」は、古えのことわざや格言やアフォリズムの山となってむやみに格調高いセリフが多い)。

 自分の体験したことや感じたこと全体をパソコンに「バックアップ」することもできることになる。つまり、脳内に刻み付けられたその人のパーソナルな体験世界全体・・・その人の人生の痕跡すべてが「外部記憶媒体」に記録されていくことにもなる。

 しかしこれは、自分の思いや記憶や体験のどこまでが「自分自身」のものなのか、それとも、ネットを通して取り込まれた情報による「疑似体験」なのかの境界が曖昧化し、「本当の自分とはどこにあるか」と悩みだしたらキリがない状態に置かれているということでもある。

 更に、ネットを通しての「ハッキング」が生じると、自分の体験ではないものが植えつけれて、他人により「捏造」された過去を本当の過去のように思い込まされたり、戦いの中で目に見えてもいないものを見えたと錯覚させられて(見えるはずのものを見えないとされる方も当然可能)、混乱させられる可能性もでてくることになる。

 そうした、「電脳化」と完全に一体化したものとして身体の「サイボーグ化」を位置づけ、「もはや自分の本来の生身の身体がほとんど残っていない存在」と人間が化した時に生じる可能性がある、アイデンティティーの危機の問題も同時に取り扱えているのが、この作品の実に興味深い点だと思える。

 さて、では、ここうやって、身体的にも、脳に及ぼされる情報、蓄積された体験という観点からしても、どこまでが「自分固有のものか」という境界があいまい化した時、最後に頼りにするものはいったい何なのか? 

 人工知能(これには他人の記憶の複製が使われる)を備えたアンドロイド(この作品世界では「ただの『人形』」という言い方がなされる)と人間の違いはいったい何なのか?

 「私の『ゴースト』が、そうささやくのよ」

・・・・主要登場人物二人が、一かバチの決定的な判断を迫られた時に繰り返しつぶやく「決め台詞」である。

フォーカシングを学んできた私には、「私のフェルトセンスがそうささやくのよ」という感覚にひどく通じるのが嬉しかったが)

 『イノセンス』に付録としてついている「解説ビデオ」(!)に頼らなくても、この『ゴースト』とはどのようなものか、映画を見ていく中で漠然と察することができる作りになっているので、この言葉に明快な定義を与えないままのほうがいいとすら私は感じるが、

 「まるで幻に過ぎないかのように曖昧で不確かに感受できるだけだけれども、その人の奥深くに隠れていると感じられる、<こころ>のようなもの(が指し示す方向性)

のようなもののことを指しているようにも思われた。そしてそこにはどうも、命をつなごうという生命体の本能のようなものが関与しているような描かれ方であった(この本能が、時として残虐で利己的なダークサイドを持つことすら、「イノセンス」では描かれているが)

****

 こうしてみてくると、ここでいう、「ゴースト」としての「こころ」という発想は、神田橋先生の思想を知るものにとっては、神田橋先生の「ファントム(幻影)」としての「こころ」という思想を、嫌が上でも思い出させる側面が出てくる。

神田橋條治/「現場からの治療論」という物語―古稀記念

 もとより、神田橋先生が、こころを「ファントム」であるという時には、もっぱらその否定的な面が強い。つまり、自分自身の「思考」や、様々な外部からの「言語的情報」(そこには、精神医学や臨床心理学者の専門的な分析や解釈も含まれる)や、言葉で表現できる「価値観」によってこねくりまわされ、その人を惑わすだけの存在なのに、何かすごく大事なものであるという「幻想」として「実体化」している「こころ」という概念の徹底的な「価値の引き下げ」こそ、神田橋先生がまずは意図しているものなのだ。

 そして、人間が「コトバ文化」の虚妄から解放され、動物には備わっている生体恒常性に従うかたちで生きていく状態をある程度回復していくことをこそ、神田橋先生は理想としている。

 厳密に言うと、この点では、「攻殻」の作品世界観と神田橋先生のそれとの間には方向性のズレがあるかもしれない。

 押井氏の場合には、そうやって電脳ネットワークにまみれ、情報の渦に巻き込まれ、更には一切の生まれついての生身の身体をすべて失っても、サイバー空間の中で、固有の「個」として存在し続ける「ゴースト=ひとのこころ」との交感の可能性にすら期待をかけているのであるから。

 もっとも、物語の中に「神の次に完璧なのは(人間以外の)動物だ」という意味のセリフが登場するし、一見ストーリーと無関係だが、重要な存在感を持つものとして主人公の愛犬が克明なまで描かれていること、更には、

孤独に歩め
悪をなさず
求めるところは少なく
林の中ののように

という『阿含経』の一節が、「イノセンス」を象徴するメッセージであるという観点からすると、押井氏の世界観と神田橋先生の世界観のめざす方向性は、意外と同じまなざしなのかもしれない。

*****

 いずれにしても、私は、まだ『ポニョ』見てませんけど、

「神経症の現代に贈る・・・・」

・・・・うんぬんというキャッチフレーズを、押し付けがましくて、うっとおしく感じ(^^;)、

そのくらいならば、『イノセンス』に出て来るセリフ、

「『ゴースト』があるからこそ、人は狂気にもなれるし、精神分裂にもなれるんだ!!」

というメッセージの方が肌にあう人間のようである。

※続編はこちら

「スカイ・クロラ」評こちら「人狼」評こちらにあります。

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2009/06/18

「治療」と「養生」の違い。人類は鬱になった人に「恩」を感じ、「感謝」を忘れてはならないということ(第4版)

 精神科医、神田橋條治先生の用いるキーワードのひとつとして、「養生」という言葉があることは、臨床家に知れ渡っているかもしれない。

 この言葉は、広く使われる、「治療」という言葉に対するアンチテーゼとしての側面を強く持っている。

 「治療」とは、

  1. 専門の治療者(医師、セラピスト)が、患者(クライエント)に対して施す行為。
  2. 「治療」行為の具体は、特別な専門家のみが継承する「秘儀」としての性格を持つ。
  3. 「健康な」状態を「正常」とみなし、それが傷害されたり、失調した「異常な」状態を「病気」とみなす。「健康」状態は、まるで生命が永遠に続くかのようにして維持されることを理想とする。
  4. 治療とは、その「異常な」状態から、以前の「正常な」状態に「回復」させる行為。
  5. 「異常な」状態は、いわば機械の故障や部品の脱落のようなものであり、それを専門家が「修理」しない限りは「回復」しない。
  6. 治療行為は、非日常的な、専門家がいる「特殊空間」で、「回復」するまでなされる、終わりある、一時的行為である。

・・・・・おおよそ、こうした含意があるように思える。

 これに対して、「養生」とは、

  1. 養生する主体は一般の生活者自身である(「養生の助言者」は存在し得るにしても)。
  2. 養生の心得は生活者の間で伝承される「オープンな生活の知恵」の一部である。
  3. およそ、生命体は、ある一定の状態を維持するものではなく、内的・外的な要因で絶えず「調子の波」があるものとみなす。そして、その「調子の波」が、何かの弾みで「調子がよすぎる」方向や「調子が悪すぎる」方向にはまり込み、容易に抜け出せなくなることは、誰にでも生じる可能性があり、生涯のうちに何らかの形でこうした状況に陥り、乗り切る必要がことが出てくることは、必然であるとみなす(その最大のものは、誰にでも寿命があるということである)。
  4. 養生においては、状態が悪くなる以前の状態にまで復することを必ずしも求めない。以前とは別なライフスタイルとなり、以前よりも制限された生き方しかできなくても受けとめる。これは単に「耐え忍ぶ」「諦める」ということではなく、以前無理が効いて何でも思い通りにできた頃の自分のライフスタイルこそ、バランスを欠き、「不養生」だったからこそ可能だったものに過ぎないとすら達観する。敢えて言えば、「養生しつつ生きる」人間の方が、「健康な」ライフスタイルに到達したとみなす逆説がある。
  5. 生体は、調子を崩すと、自然と、普段の活動状態から退却し、休息をとったり、身体に必要な滋養を補給しながら、自然な回復力が徐々に発現するまで「無理をしない」ことをおのずから行なうものであるという前提がある。人間は本来持っている筈の自然な自己治癒力が「退化」した存在なので、文化として「養生」術が伝承されるしかなくなった存在であるに過ぎない。
  6. 「養生」は、生活場面の中、あるいはせいぜいその延長といえる領域まで出向くのに留まる形で、形を変えながらも生涯続く「生活術の一部」として、なされ続ける。

 これは、私なりの理解をまとめなおしたもので、神田橋先生の著作のどこにも、そっくりそのままの部分は出てこないかと思います(^^)

神田橋條治/精神科養生のコツ 改訂版

 

*****

 私は、実は「単に『健康で』あり続ける人間」よりも、「『養生』しながら、新たなライフスタイルを模索してきた人間」の方が、無用な紛争や経済的な軋轢を生み出さず、多様な他者のあり方を受容し、痛みを分かち合い、地球環境も大事にする、これからの人類に必要な資質に富んだ人たちだとすら思いますが。

 

・・・・実は淘汰される弱者ではなくて、「どっこい生きてる」生存率の高い遺伝子保持者であるとすら。

 中井久夫先生が『分裂病と人類』でお書きですが、確か、ダーウィン派の進化学者、ジュリアン・ハックスレーが、「なぜ統合失調症の人は遺伝的に淘汰されず、一定の比率で生まれ続けるか?」という命題を掲げ、それに「貧窮困苦への耐性」という仮説を立てたそうです。

 これに対して、中井先生自身は、自ら「性的伴侶の獲得において有利な形質を持つから」ではないかと述べ、社会が大きな危機に瀕し時、社会の前景に躍り出て、先例にとらわれず、かすかな兆候から、変化を刻々と先読みしながら(=微分回路認知能力)、先見の明で時代を切り開けるは「S(分裂病)親和者」であるから・・・という仮説を提示したわけですが。

中井久夫/分裂病と人類

 

 

 うつ病になってしまうほどの几帳面に努力できるまじめな人たちに実は有形無形で支えられていたから、多くの家族や集団や企業は成り立っていた。

 上司や同僚は、まずは何より、「それまでの」その人の働きと功績に心からの「感謝」を伝え、労(ねぎら)いの言葉を形にすべきです(この実はシンプルなはずのことが、現実にはいかに抜け落ちたままのことが多いか)。「早く良くなって帰ってきてね」も余計です。

  極論を申し上げると、もし、鬱の素質がある人を全部最初から遺伝子レヴェルで受精直後に排除したりしたら、人類の滅亡は更に急速に早くなるでしょうね(・・・・勘違いしないで下さいね、鬱の皆さん。これは、あくまでも、鬱の人への恩を忘れ、困ったものだとみなす人たちへの皮肉です^^)

 これは、おそらく、いわゆる「こころの病気」を持つ人全体に言えることでしょう。

 ヒトゲノム計画における遺伝子の「意味づけ」って、実は常に一面的な意味づけであり、一見「病気を引き起こす因子」と見えるものが、同時に、「ある特定の状況下では、その個体をサバイバルさせる因子」、あるいは少なくとも、「自分は犠牲になっても他の個体を生かすための活動ができる因子(人類という種全体を維持しようとする因子)」としても働くという、「両価的な」ものである可能性が見過ごされないか、心配です。

 優生学とヒトゲノム計画を安易に同一視するつもりはありませんが、遺伝子の選別、いや場合によっては「遺伝子『治療』」という発想を常に注視しなければならないのは、それが単に人間の平等や人権に反する危険があるからばかりではないと思います。

 実は、上記の理由で、人類が存続するのに実は必要な大事な「表裏一体の」形質の遺伝子を「修正してしまう」結果、気がついたら、システムとしての人類全体を「弱体化」させるというパラドクスを秘めている可能性があることまで考えねばなならない。

 神ならぬ人間自身の浅知恵なんて、そんな水準のものを容易に越えられないのではないかと。

 仮に、人類が、いずれ衰亡するする運命にあるにしても(^^;)、そうした、人類全体への「治療」めいた形で、いよいよ衰亡を早めることなく、スロー・ライフで「養生しながら」地球と共存して生き長らえるのでいいのではないかと。

*****

 誤解なきように最後に言い添えますが、私が基本的に薬物療法の積極的支持者であることはこのブログで明言し続けている通りです。神田橋先生自身が、薬物療法の「超職人的な」使い手であることを忘れてはならないかと。

 しかし、ある物質を体内に投入しさえすれば精神疾患が治療できるというのは、恐らくどんな時代が来ても夢のまた夢でしょう。

 なぜなら、精神疾患に親和的な人たちとは、常に、文明と文化が生み出す歪みの結果であり、なおかつ、新たな文明と文化を生み出し、維持するエネルギーとなる人たちの供給源であり続けると考えられるからです(この発想の点では、私は中井先生の影響を強く受け続けていますね)。

 そして、薬という「異物」によって心身に生じる反応は本人に「違和」を引き起こしがちなものです。そういう薬剤によって変化させられる心身の反応を患者さん本人が「受容し」「消化して」、自我に統合し続ける過程というものが、結局は薬の効能の成否を決めるものであり、それを支えるのは、やはり、薬の効能にも通じた治療者との関係性であり、更に言えば、薬物療法を理解しながら見守る、家族やパートナーとの日常的な信頼関係なのだと思います。

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2009/06/11

壺イメージ療法とフォーカシング(第3版)

 以前にもご紹介したかとも思うのですが、改めて、現在九州大学で奉職されている、田嶌誠一先生(研究室情報はこちら。先生のメッセージもあります)の開発した「壷イメージ療法」について取り上げてみたいと思います。

 まず、壷イメージ療法についての田嶌先生ご自身の著作(単著、およびそれに準ずる著作)は次の二つです。

壷イメージ療法―その生いたちと事例研究(成瀬悟策監修)

 専門家向けの包括的な著作としては結局この本に勝るものはないのですが、中古市場でたいへんな高値がつく状況です。もちろん、伝統ある臨床心理系の大学院のある図書館には結構所蔵されている可能性が高いでしょう。

 研究会の、シンポジウム形式での発表と討論の記録という体裁をとっているのですが、そこで討論者に指定された先生方が超豪華です。

 倉戸ヨシヤ先生・栗山一八先生・中井久夫先生・増井武士先生・(我が恩師、亡き)村瀬孝雄先生。(司会はもちろん田嶌先生の恩師、成瀬悟策先生です)

 ・・・・もう、これだけで、一読したい若手臨床家の皆さんは少なくないかと(^^)

イメージ体験の心理学 (講談社現代新書)

 この本は、壷イメージ療法についての解説書というよりも、イメージ体験全般が人の変化に持つ意味についての平易な解説書という側面が強いので、「壷イメージ療法」の臨床現場での適用についての解説本を期待された読者には少し物足りないかと思います。

 ただ、田嶌先生の「イメージの体験様式の変化」論について、そのおおよそを掌握したい人には向いているかと思います。

*****

 この中の前者の著作で書かれていますが、壷イメージ療法のルーツは、あくまでも、田嶌先生の恩師である成瀬悟策先生のイメージ療法催眠療法です。いつの間にかフォーカシングのバリエーションとして生み出された技法であるかのように受けとめる人が増えていますが、この点は安易に混同すべきではないでしょう。

 更に、壷イメージ療法を、

1.気になる事柄について、
2.それを入れるのにぴったりの壷を思い浮かべて、
3.の中にその気がかりを入れて
4.蓋をして封印して、
5.置き場所を決めて「距離をとる」

・・・・そういう技法だと思い込んでいる皆様も少なくないようです。

 すでに10年以上前になりますが、私は、田嶌先生ご自身が講師のワークショップに参加して、こうした理解がいかに一面的だったかに重々気づかせていただきました。

 それ以来、私は、フォーカシングのインサイダーであるにもかかわらず、壷イメージ療法を行なう際には、田嶌先生のエッセンスを絶対に外さない、オリジナルほぼそのままを使うようにしています。

 現場の日常のカウンセリングでも「壷イメージ療法」は全くの「普段使い」の技法のひとつですし、「久留米でフォーカシングを学ぶ会」や「フォーカシング個別指導」の場でも、ご希望があれば、いつでも「オリジナル・バージョン」のままでお伝えしています(^^)

 そこで、ネット上にいくつかある、「壷イメージ療法」についての解説記事よりも更にメリハリを明確にして、できるだけシンプルに、この技法の勘所の私なりの解説を試みてみたいとお思います。

*****

1.深呼吸などをして、リラックスできる態勢を作ってもらう。

2.「あなたのこころの中のことが入っているた、壷のような『容れもの』があると想像してみるのはいかがでしょうか?・・・・・・しばらくすると、浮かんできますよ」。

【Tips 2-1】・・・・・ここで肝心なのは、標準技法においては、先に、「こころの中のこと」が具体的に何なのか想像してもらい、次に、それを入れる壷を想像してもらうのではないということです(このことは、田嶌先生に直接ご質問してはっきりと確認済みです)。

 のっけから「自分のこころの中のことが入っている壷」をいきなり想像してもらうわけですね、こころの「内容(content)」は何なのかに意識的に注意を向けるように誘導することをむしろ回避し、contentは曖昧のまま、それを包含する「容れもの(container)」の方をイメージしてもらう方向に仕向けているあたりに大きな鍵があります。

 もちろん、こうした教示の結果、クライエントさん自身が、壷のイメージを見つけ出す前にせよ、見つけ出した後にせよ、自分から、「これは、○○についての壷」などと命名することはあるかと思いますし、それは当然受容的に受け止めていくことになりますが、それが何についての壷なのか、クライエントさん自身にずっとピンとこないままでも、壷イメージ療法を進める上では何も障害にはなりません。

 田嶌先生は、「あなたのこころの中のことが入っている」って何? と怪訝な様子のクライエントさんには、そこすらすっ飛ばして、ともかく壷を思い描いてみることを勧めてみることすらあると言われていたと記憶します。

(もちろん、応用編として、具体的な、扱いづらい課題や感情について、それを入れる壷を思い浮かべるという方法はあり得るわけですが)

【Tips 2-2】・・・・・「壷」という指定イメージは、たいていの人にとって思い浮かべやすいものなのですが、「いれもの」のようなものであれば、壷ではなくて、ビンだとか、袋だとか、箱だとか、ともかく、「容器めいた形状」であればいいことを多少示唆するサポートが役に立つクライエントさんも少なくないようです。

******

3.壷が浮かんできたら、少なからぬクライエントさんは、簡単な誘いかけだけで、「どんな壷か」について、形状や、そのたたずまい(かもし出す雰囲気)、更には、眺めているとどんな気持になるか、それに似た壷を以前どこかで見たことがある・・・・・などという話を、自分から物語り始めるので、それを受容的に受け止める(ロールシャハでいう「自由反応段階」みたいなもの)。

【Tips3-1】 大きさや形、色、陶器か磁器か、表面の材質、触り心地の感触など、いくつかの具体的観点から、セラピスト側から、控えめに若干質問してみるくらいはいいだろう。

 私(阿世賀)個人は、こういう時に、「どんな『感じ』がしますが」という言い方をオープン・クエスチョンで一般的な形で軽率に使いすぎること自体を回避したい気持ちが強い。それなら、せめて、「壷を眺めていてどんな気持ちがしますか」ぐらいに設定を明確にしたい。

 なお、私は、フォーカシングの場合には、フォーカサーがイメージ的な象徴化をしても、イメージそれ自体について、「大きさは?」「色は?」などどいう、イメージの具体的な詳細化を直接求める問いかけをすることをほとんど禁忌とすらしている(もっとも、夢フォーカシングだけは例外である)。 

 フォーカシングにおいてイメージは不可欠に必要な過程ではない。アン・ワイザーのいうがごとく、イメージは、身体感覚や情動や、気になる事柄についての具体的な語りなど、フェルトセンスが響きあういくつかの側面の中のひとつであるに過ぎない。

 フェルトセンスをとりあえずつなぎとめるためのハンドルとして生起したイメージは、リスナーやガイドからの具体的な詳細化の求めがあると、フォーカサーのフェルトセンスから離れて「一人歩き」し始める、むしろフォーカサーに体験過程の軌道を見失わせるからである。

 ところが、壷イメージ療法の場合には、壷のイメージをリアルに具体化させる方向に若干誘導する(=拡充する)ことそのものが、促進的なブロセスとみなしていいようだ。

 つまり、ロールシャハで言う「質問段階」みたいなものにある程度踏み込んでもいいということである。

(そもそも、壷という課題を提示したのは治療者の側であるため、クライエントさんの中で固有のイメージ化のプロセスを具体的に促進する援助が必要ということにもなるのだろう)

 この点で、私は壷イメージ療法とフォーカシングとでは、そもそもイメージについての質問や応答のしかたそのものをはっきりと使い分けている。

 もっとも、クライエントさんの語りを丁寧に受け止めていけば、そのような喚起的質問は最小限でも、クライエントさんは、思いの外自発的に、細やかにこうした語りを紡いでいくものであり、性急に質問を繰り出すのは、本人のプロセスを妨害するだけであることは、両技法共に変わりがない。

******

4. 「他にも浮かんでくる壷はないか?」と問いかけ、2..-3.までの段取りを繰り返す。

 田嶌先生自身、「ひとつしか壷が思い浮かばない人の場合の方が注意を要する」と、1つ目の著作でお書きである(p.57)。「1つの壷の中に多様なものを含みすぎている状態であろうと思われる。ただし、『他にもあるけどはっきりしない』とか『たくさんあるけど一個だけはっきりしてる』という場合はこの限りではない」(pp.57-8)という示唆は興味深い。

 私の経験では、意外と少ないのは、個数が2個で終わるケースである。3個や4個というケースは、壷の形状とそこから語られる連想もバラエディに富み、セッションとしてまとまりがいい気がする。「序・破・急」あるいは「起・承・転・結」ということを連想させる不思議な順序で壷自体が浮かぶのである。

 つまり、単にこころのいろんな側面の表れというより、新たな壷について語られ出した時、新たな体験過程のステージが開かれていくばかりか、治療者がそれにうまく付き添う限り、新たな壷の登場そのものが、そのセッションで可能な範囲での無理のない「人格再統合」すら暗々裏に指向しているかのようなのである。

 (ここまでは田嶌先生は言われていない。ただ、私の場合、フォーカシングにおいても、clearing a spaceを進めていくことは、思いよらない新たな気がかりに『気づいて』いくことであり、丁寧にclearing a spaceが進むと、すべてを積み出した時には、単にすっきりしたというのを超えた大きな気づきを伴うシフト体験にすでになっていて、それ以降のフォーカシングの部分は不要とフォーカサーも感じていることが少なくない現象を早くから指摘してきた立場(阿世賀,1992)なので、私が療法家として新たな壷を思い浮かべていってもらう過程でも、類似のことが生じやすいとも想定できるかもしれない)

******

 5. とりあえずの、ちょうどいいいくらいの壷の「置き場所」について「相互調整」してもらう。

 【Tips4-1】田嶌先生のオリジナルに従えば、一つ一つの壷に「ちょっと入ってみて」配置を決めるのだが、私は、壷を眺めていての心地だけで決めてもらうことしかやったことがない。

 一般的に言えば、なじみやすい壷を手前に置くことになるだろう。「ちょっと奥に置いて眺めてみるのもいいし、右手寄りでもいいし、左手よりでもいいし・・・・」ぐらいの曖昧な示唆しか与えない。置き場所に高低の「段差」があったほうがいいので「台」や「棚」や「スロープ」を自発的に設定してしまう人もいる。

 この段階で、自発的に、「実家の土間に置いてあるイメージが浮かぶ」とか、自発的に具体的なことを語る人も出てくるし、中には「腕の中に抱えていたい」などと、思いもよらないことを言い出す人もあるが、受け入れている。

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6.一番入りやすそうな壷を選んでもらい、壷の中にゆっくりと入ってみて、じばらく中の居心地を味わってみる→出てきてもらう→壷に蓋(ふた)をする

 田嶌先生自身、これは無理な人にやってもらう必要はないことを強調している。このステップを最初から省略する前提でもいいように思う。田嶌先生自身短いワークショップではこの部分を割愛している。

 この「入ってもらう」体験は、一般に思われているよりは、恐ろしい体験として本人に体験されることは少ないようである。

 ただし、仮に壷に「入ってもらわない」ままで済ませたとしても、個々の壷との関わりの終了の前に、「蓋(ふた)を見つけてもらう」ように促すことは大事なことである点は強調したい。

 しかも、どんな蓋がいいかを吟味してもらうプロセスが大事である。 コルクの栓という人もいれば、油紙やラップを何重にも重ねたものを壷の口に載せ、紐でぐるぐる縛りあげる人もあるかもしれない。

 このことと延長して、壷そのものの「梱包」まで進むのが自然な人も少なくない。「壷が本来入っていた木箱に納めたい」というような人も少なくない。

 私の場合には、個々の壷の栓のしかたと、その日のセッションの段階でのその壷の「置き場所探し」は、連続的な手続きとして進めてもらうことが多い。

 「置き場所探し」に関して、私は「それは現実の場所でもいいですし、空想上の場所でもいいです。この面接室の中のどこかでもいいです。(小さな壷の場合)もし、持ち歩きたいというのでしたら、それを入れるための空想上のバックやポーチをしつらえてもいいですよ」

などとアドバイスします。少し変わった例では、「その壷を置いた建物の『外観』を写真に撮ってパスカードに入れて持ち歩くつもりでいたい」というような例もあった。

 「栓のしかた」と「置き場所探し」は、私の見たところでは、実は別々のことではなくて、多くの人にとって、相互補完的なワン・セットの段取りのように思う。

 中には、「別に蓋をしなくても大丈夫です、実家の神棚のお神酒のところに置いてあるつもりになれば」などと、置き場所にだけこだわれば十分という人も珍しくはないように思う。これは、私の場合、以下に述べるとおり、壷に「入ってもらう」ことを滅多に行なわないことも深く結びついているのではないかとも思えている。

 実は、私の場合、この「入ってもらう」段階は、面接現場ではほとんどの場合省略している。それは、ここまでのプロセスですでに十分すぎるほどのことがクライエントさんとの間で進んでいる気がしてならないことが多いからである。

 少なくとも、この「入ってもらう」部分を、壷イメージ療法におけるクライマックスとして想定する必要はなく、むしろ、可能な人向けの追加オプションと見なしてもいいのではないかとすら私は判断している。

 では、壷イメージ療法の中で一番肝心なことが生じているのは?

 実は、壷を思い浮かべて、無理のない距離感で、しばらく壷の様子を味わった、その段階だと私は思っています(^^)

 この点では、フォーカシングにおいて、フェルトセンスをつかまえ、無理なくしばらくそのそばに『共に-居られた』経験それ自体を繰り返し可能になれることが大事で、後のことは無理して引き起こすことではないというのと似ているかと思います。

******

 
7. 次の壷に入りたければ、6.と同じようにして入ってもらう→壷の置き場所を見つけてもらう。

8.そのセッションで相手をしなかった壷についても、蓋をしたり、置き場所を見つけたりが必要なものもあるだろう。強迫的にすべての壷の封印や置き場所探しは不要で、「目を開ければ消えてしまう」ということでいいという壷もあるかもしれない。

 しかし、セッションの中で不快な、あるいは不気味な印象のみを残したり、混乱させたり、後味の悪い壷については、封印や置き場所探し、あるいは、田嶌先生自らが「補助的技法」として紹介している「金庫に入れて、鍵は治療者が預かる」という厳重なやり方、更には「次にこの面接室に来て、また開ける気になった時まで、その壷を一人で家で開けてみたりは決してしない」という約束などが重要なこととなるだろう。

 私は、この「この面接室だけで壷の蓋を開けよう」という約束を興味深く思っている。面接室の中で、クライエントさんが壷との関わりでそこそこ安全な体験をできたのも、実は、治療者がクライエントさんの内面の"container"(ビオン的な意味を込めてもらっていい)としての役割を果たし、更に、面接室とい特殊な心理=社会的かつ物理的な「容れもの」空間にも保護されていたからだと言えるかと思う。

 面接室の一歩外に出たら、あの冷たい世間の風なのだ。あるいは、家に帰ったら、家族との関わりの中で心の壁にたくさんの弾痕ができている人も多い。そういう人が、面接室と同じような調子で壷のふたを開けたら、自分自身のこころのcontainerだけでは中からあふれ出してくるものに対応できない可能性は高い。仮に時折壷を思い出しても、外側から眺めたり、撫でてみる程度までにとどまっていれば、実は安全度が高い形で、日常に裏面的なプロセスを持ち帰っていることになると思える。

******

 壷イメージ療法の最大の逆説は、心の"内容(content)"に具体的に注意を向け、言語化し、表現し、説明・分析していくという、対話的心理療法の方向性を逆手に取り、「壷」という、誰にとっても視覚イメージが喚起しやすいばかりか、ディティールが細やかで皮膚感触的な感覚性も高く、太古的・原型的で、人間の身体構造のアナロジーともなる絶妙な指定イメージのもつ、

「具体的な中身(content)を包み隠しつつも安全に保持するが、密閉はされていない『容れもの(container)』」

を思い浮かべて味わうことに、巧妙にすり替えている点だと思う。

 「すり替えて」という言葉は今の私にとってもぴったりではないが暫定的に採用したい。

 少なくともここで私が言う「すり替えて」とは、いい意味での「すり替え」なのだ。ただのガムの銀紙を金箔に「すり替える」みたいな方向での。

 目に見え、触ることもできる『容れもの』をイメージ的・身体感覚的に観照し、味わい、体験することは、ユング風に言えば、その『容れもの』の中で胚胎され、発酵していく、たましい(soul)そのものの変容過程という、目に見えないし、言葉で説明しきれないものに関わるのだと思う。

 神田橋先生ふうに言えば、実はファントムに過ぎない「言語化まみれ」の泥沼から「こころ」を救出し、大事に守り育てるための、ひとつの営みなのだと思う。

神田橋條治/「現場からの治療論」という物語―古稀記念

 壷イメージ療法の効能について、旧来の心理学や精神医学の力を借りればさまざまな説明ができる。でも、それらによって説明し尽くそうとすることと、この優れたアプローチを、現場で臨床家がどう職人的に役立て得るかは別次元の問題であろう。

 どうも、フォーカシングの方が、壷イメージ療法よりも「難易度が高い」技法のようだとは、私すらも感じています(^^;)

****

 なお、田嶌先生が理事長をお務めになる形で、NPO法人として、開業カウンセリングルームが、福岡市の西新プラザで開設されています。

 詳しくは、

●九州大学こころとそだちの相談室

サイトをご覧下さい。
    

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