中井久夫

2010/06/20

ドナ・ウィリアムズ著「自閉症だったわたしへ」を読み始めて。

 人は、ある意味で、外界からの刺激に対して、選択的に「心を閉ざす」能力を身につける中で、はじめて自我を形成し始めることができるのではないかと思う。

 特に、「生身の人間」という、得体のしれない他者から不用意に発信されてくる「意味不明の」働きかけに対して、選択的に「こころを閉ざす」能力である。

 今、これを書きながら思い出したのだが、「選択的不注意」という概念そのものは、サリヴァンが「現代精神医学の概念」の中で鍵概念として用いているものであるから、何ら目新しいものではない。

サリヴァン/現代精神医学の概念

 そして、人は自分の思う通り、感じるとおりではなくて、周囲の「重要な他者」(必ずしも養育者でなくてもいい、たった1回の出会いの同世代の子供の場合すらあるかもしれない!!)の言動の「まねをする」ことが「うまくなる」ことで、とりあえず、「仮の社会的自我」というものを形成して行くとも言えるのかもしれない。

 もとより、大抵の場合、思春期に到るまでのどこかで、そうした周囲への「順応」と、「自分だけの世界」と「他者にさらす世界」の使い分けだけでは生きづらくなる葛藤に直面するものだとは思うが。

*****

 どうも、私は周囲の子供たちとは「別の世界」に生きているようだという感覚を、私は、小学校に入学した頃からはっきりと感じ始めていた。

 幼稚園時代には、なかった感覚という気がする。

 ・・・・このように言うと、読者の皆様の中に、「いや、自分は、幼稚園に入る前から、周りの子とは違うという感覚に圧倒されていた」とおっしゃる方々がたくさんおられるであろうことは百も承知である。

 私の場合、環境因も大きかったと思う。私が入学したのは、いわゆる「教員養成大学の附属小学校」だったから。

 ところが、私には、こうした場合にありがちな「お受験」対策を受けた経験がない。そもそも、ある日親にある場所に連れて行かれたら、「附小の入試会場」だったので、ともかく問題を解いてみた・・・そういう成り行きである。

 正確には、学力選考のみではなくて、その後に「くじによる抽選」というプロセスも経ているので、お受験対策の加熱によって、最初から地域の優等生ばかりが集まりすぎることへのセーブは掛かっていたのかもしれない。

 だが、確実に言えるのは、入学した80名の新1年生の中で、地域の「お受験」対策幼稚園とされる2つの幼稚園の出身者ではない合格者は、私以外にもう一人だったということである。

 私以外の新入生たちは、みんなどちらかの幼稚園時代からの「友だち」がいる。そして、「どちらの幼稚園の出身者なの?」というのが、クラスメートからの最初の挨拶代わりだったのをよく覚えている。そして、「どちらでもない」こと自体に、怪訝な顔をされた。

 こうして、友達作りと集団への溶け込みという点で、私は入学当初から負荷要因を背負っていたことになる。そして、このことの特殊性とカルチャーショック抜きにして、私の「周囲の子供たちとは何か、基本的なところが違う」というギャップ感の背景を語ることはできまい。

 幼稚園時代にはできたはずの、鉄棒の「逆上がり」ができなくなった。これも何かストレス要因があったためだろう。

*****

 では、私の親が、何の「受験対策」も私にしていなかったかというと、そういうことではいない。

 もの心ついた頃から、私のまわりには、小学校上学年向けと思える図鑑や学習事典の類がたくさん準備されていた。私は、そうした図鑑や事典をむさぼり読む中で幼稚園時代を過ごした。

 だから、漢字力や、知識力だけなら、小学校2年生ぐらいまでは、なぜ周囲がそこまで「知らない」のかが、わけがわからなかった。

 ある意味で、「努力して勉強する」ということを知らない子だった。授業中も、先生の授業に上の空になり、鉛筆の先っぽを遠近法で見えるか見えないかの角度で目の斜め横にかざして遊ぶ一人遊び(↓)に没頭して、何度低学年の担任の先生に注意を受けたことだろう。

Enpitsu

(↑ピンぼけですが、まあ、だいたいこんなアングルで鉛筆の先端を見え隠れさせるひとり遊びだと思って下さい) 

 結構勘のきつい子で、すぐに大声で泣き出したりした。

 そうしたことも、幼稚園時代や家庭ではなかったことだった。運動は苦手で、小学校中学年頃には、典型的ないじめの標的にされた。

 「附小」から「附中」への進学はエスカレーターではない。附中には外部から純粋に受験で勝ち抜いてきた公立小出身の生徒が数十名加わる。

 放っておくと、そういう「外部からの受験組」の学力に「内部進学組」は圧倒されるので(実際、その傾向は防ぎ難かった)、全児童に対して、「小学6年生になったら附中合格のための受験勉強をすること最優先」というのが当然のこととされ、業者テストも繰り返し実施された。

(もちろん、中には、久大「付設」高校やラ・サールへの進学のための勉強をするものもいたが、それらを受験すると「内部進学」の道は閉ざされるという「二者択一」の「掟」があった。一方、附中に進学しても学力的に適応できないと判断された児童・・・それほどの人数ではない・・・・には穏便に前もって「肩たたき」をされることにもなっていた)

 この、業者テスト(8科目)の2回めで私は、何の弾みか学年で2番になってしまう。それまで、ほとんど成績が学内で中の中を上下していたに過ぎない私が、突然のこの結果に、周囲からも唖然とされた(社会科だけは、教師に、「私に君に教えることは何もない」と言わしめる圧倒的な高学力を小2から維持していたが)。

 しかし、第3回目(1学期の終わり)では再び中の中に逆戻り。「やっぱりあれは、たまたまだったんだ」というよう冷笑した目で周囲のクラスメートたちは私を見た(ような気がした)。

 私はこの時始めて、「自分から意識的に学力を上げることにチャレンジしてみること」に関心を向けた。

 いじめられっ子だった自分を一発逆転で周囲に見返す、これ以上良いチャンスはないではないか! あの「学年2位」は偶然ではなかった事を証明したい・・・・ただそれだけだった。

 目標は、「もう一度でいいいから、業者テストで2番になること」だった。

 そのために、自分から問題集をバリバリと解いて行った(親は何の口出しもしなかった。成績が悪くても決して叱らず、よくても決して褒めない親だった) 。

 そして、秋の5回目の業者テストで、私は再び「学年2番」を取ることで面目をほどこした。

 ただ、親が私の勉強にとことん不干渉だったために、私は「なぜ勉強するのか」というテーマに、中学に入ってからひたすら悩むこととなる。勉強に対する「外圧がない」というのも、それはそれで葛藤のぶつけ場所がないということになるので。

*****

 「附中」に進学してからは、そうやって「なぜ勉強するのか」を時には徹夜して日記を書きながら考えてしまう哲学少年になっていた。

 だから、「全力を尽くしていた」などとはいえないかもしれない。努力できた部分はあったに違いない。

 しかし・・・・

 数学が・・・・中1の途中から、私にとって、「圧倒的な壁」として立ちはだかり始める。

 これだけは、果たして「努力」の問題だったのかどうか? 半端ではなく、どう仕様もなくなっていたのである。

 私は、数学的な抽象性というものを、すべて「具体的な実感」として理解できる形に「還元」しないと全く理解できないタイプの人間だったようである。小学校時代も、他の科目より算数は最良でも10点は低かったのだが。いわゆる「幾何系」より「代数系」の方が小学校時点でも苦手だったのはよく覚えている。

 しかし、「公式のまる覚え」をすることは私の良心が許さなかった。悪戦苦闘した。・・・そのうち、学年で数学は下から2番というのが完全な定位置になってしまった。

 ところが!! 国語の業者テストに関しては、特に何の準備勉強もせずに、答案用紙に向かいさえすれば「学年1位」を何回も取れたのである。

 これは小学校時代にもなかったことだった。もともと得意の社会科の学力を維持するためには、かなりの努力が必要だったのに・・・である。

 こうして、国語と社会科「だけ」は得意なこういちろうと揶揄される中で、地域一番の公立進学校(はっきりいいって、「明善高校」ですね)には不合格となる。

******

 こうした次元のことを、「学習障害」などと呼んだら、実際にそういう診断を受けておられるみなさんにお叱りを受けることは承知している。

 しかし、もし、今の都市部での特別支援教育と同じ判断基準があったら??? 私は、いくら附属とはいえ、「何らかの」検討の対象になりはしなかったかと思う。

 ・・・こう感じる私は、まだまだ学習障害について不勉強なだけなのだろうか?

*****

 滑り止めで入った、当時は不良も結構いた高校(今では男女共学になり、大学には医学部はないのに、他大への医学部入学者も輩出する福岡市有数の進学校である)でも、私は数学では試験は「0点」のことすら稀ではなかった。つまり、レポート提出とかで「下駄を履かせて」もらえなかったら、私は永遠に高校で進級できなかったのである。

 国語の方は、古典は努力で勉強したが、現代国語は、「ともかく点数をぎりぎりまで上げるために」漢字の書き取りだけは熱心にやった。おかげで全国共通一次試験一期生として、国語198点、他方、数学は71点(数学の全国平均点140点台だったその年に!!)という極端な数字を取ることとなる。

 これで、地方大学の補欠合格には潜り込めたのだが、私は敢えて、東京の私大へと向かう道をとることになる。

 いとこが東京の大学に進学した時の、駅での見送りの光景が、私を東京への憧れへとかきたてたのである。

*****

 こうやって書いているうちに、読み始めたばかりの、ドナの「自閉症だった私へ」から、随分隔たったところに話題が来てしまった気がする。

自閉症だったわたしへ (新潮文庫)

(楽天ブックス)

 ただ、冒頭に書いた十数行こそが、私がこの本から受け止めた、まず最初の、私なりの新鮮な言葉としてお伝えしたかったことであることには代わりがない。

 ともかく、この「古典」を先入観なしに読むことから、私の発達障害について自己流の勉強は「一から出直し」のつもりである。

 ドナの文体のみずみずしさ(訳もいいのだと思う)には、心から魅惑されながら読み進めている。

*****

【追記】

 ドナは、良い治療者との出会いもあり、大変な努力を払って、自らの自閉症と「折り合いをつけた」稀有な人であることが読み通して伝わってきた。

 今日、精神医学の世界で、「発達障害」は市民権を得た一方で、ほんの2,3年前まで、なんでもかんでも「気分障害(特にうつ病)」の枠で捉えようとしていた「汎-気分障害」の時代から、やや過剰な「汎-発達障害」の時代にいつの間にかあっさりと移行してしまったことへの危惧も、不勉強なりに感じている。

 そこに「<コミュニケーション>ができること」に対する時代的な規範の独特の強化の反映も否定できない気がする。

 安易に「コミュ障」という言葉が独り歩きして、重度の発達障害や「高機能自閉症」の人はむしろ迷惑している状態だろう。

*****

 ちなみに、私自身の自己診断は、基本的には父の血を受け継いた、気分の持続性の強い職人肌の「執着気質」と思っている。

(強度の「執着気質」が、「高機能自閉症」とどこかで重複する可能性がないとは言えない気もするが)

 父は対人関係が本当は不器用なのを戦後日本の貧しい時代からの努力の過程で乗り越えた「経理の職人」。数字のこととなると私からするととてもかなわないくらいに頭が回る。

 ただ、一見「礼儀をわきまえた」、そつない人との関わりに、何か「人工的に身につけた」ものを感じる。父にあるのは「職業的な」対人関係のみで、「友人」というものがいた試しがない。

 これに対して、母は明らかに、ひと好きのする「循環気質」圏(鬱状態にはほとんど振れない)の人である。私の人間好きな側面は母の血だ。

 ただ、かなりの高齢出産でもあったので、かすかに父の血にまじった発達障害因子が、遺伝子の微妙な傷として発現したかもしれない。

 私の場合はそこに更に、すでに10年前になってしまったが(2004年12月にこのブログを始める2年程前、2002年のことである)、はっきりとした新たな過酷なストレス状況(それについては私以外の人のプライバシーのも関わることなので、ブログ上では一切触れないことにしている)に対する「適応障害」の抑うつ状態となり、その際に、SSRIを不適切に投与されとことによる、かなり医原性の「双極性II型」の余波が残っている状態かと思う。

 ただ、そういう「軽躁性」が私の中から「重心が低い」形に安定しつつあることは、ここ数ヶ月の私の記事をお読みの方は、感じていただけるかと思う。

 職人的なこだわりのある、ねちっこい、完全主義で(「柔軟であろうとすること」もむしろ完全主義の一部である)、しかも精力的な「粘着」だとお感じかもしれない。(12/1/11記)

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2010/02/08

浜崎あゆみの詞における「僕」と「君」、「わたし」と「あなた」 -サリヴァン的次元で解説してみよう- (第2版)

 浜崎あゆみさんの詞って、驚くぐらいに具体的なシチュエーションが出てこない。

  •  地名・・・ゼロ。それどころか「海」という言葉は出てきても、「山」「川」はひとつもない。
  •  人名・・・中島みゆきなら「♪真理子の部屋に、電話をかけて(「悪女」中島みゆき - 寒水魚 - 悪女 (アルバム・ヴァージョン))」と出てくるくらいの、一般化した次元でもゼロ。
  •  学校時代をイメージさせる表現・・・・ゼロ。唯一の例外が、浜崎あゆみ - A BALLADS - 卒業写真荒井由実の「卒業写真」をカバーしたケースだけであるという、驚くほどの徹底性。
  •  「僕」「君」「あなた」という人称を異様に多用する。「彼」「彼女」も例外的では?

 そして、そもそも「君」「あなた」が誰なのかが非常に曖昧で多義的で、どのようにでも受け取れ、再解釈できる

  • 生身の「濱崎歩」
  • アーティストとしての「浜崎あゆみ」

    (ベスト盤浜崎あゆみ - A BALLADS"A Ballads"の最後に収録された「卒業写真」のカバーそのものが、「街で見かけた」かつての自分のポスター等との対話というシチュエーションで理解してもらうことをayuははっきり狙っていたと思う。アルバムジャケットも、←こんなふうですからね)
  • 聴衆
  • 過去の、そして現在の同性の親友たち。
  • 父親
  • 過去の、そして現在の異性の知り合い(max松浦もそのひとりだけど、それだけ強調するのは明らかに偏った理解。最近はさすがにこのこじつけはいい意味で廃れましたけど)
  • 過去の恋人
  • 現在の恋人
  • 聴衆にとっての大事な人

 ・・・ちょっと年季が入ったayuファンなら、実は今私が箇条書きにした順序くらいでとりあえずいくつも当てはめていくのが無難であることに気がついているかと思う。

 "teddy bear"浜崎あゆみ - Duty - Teddy Bearや"memorial address"浜崎あゆみ - Memorial address - Memorial Addressの「あなた」がもっぱら父親のことを指す、"ever free"浜崎あゆみ - Vogue - Ever Freeは亡くなった祖母のこと・・・などと、特定的に捉えていい・・・といったケースというのはむしろ例外的なのである。

 要するに、ayuの詞というのは、非常に純粋な形で、「外的」および「内的」な「二者関係」に無限に「投影」させ、「転移」させることに開かれ切っている。

 
似たようなことは、他の歌手でもある程度は曲によって見られるが、ayuのように「首尾一貫した厳密な方法論」と言える域の人を、私は知らない。

 ayuは、本当にこの経験則だけで詞を書き続けていられる。裏を返すとayuのような詞を他人が「模作」しても容易にメッキが剥げる筈と断言できるくらいである。

*****

 この現象をうまく説明するのに役立つ、私の守備範囲に入っている精神療法家は、誰をおいてもサリヴァンである。

 私はこのことを公然とネットで書いたことが実はないままなことに、直前の記事でサリヴァンに言及した際に気がついた。

サ リヴァン/現代精神医学の概念(中井久夫訳)

 サリヴァンが、 本書で、「パラタクシス的(parataxic 私なりの意訳をすれば「相互転移的=投影的二者関係の次元」)なもの」と呼ぶ対人的相互作用の次元での象徴化・言語化様式と、まさにぴったり符合するのだ。

=======以下引用(中井久夫訳。太字、および[ ]内はこういちろうによる)=======

 (前略)この合理化とは、実は「個性とは一人一人独自なものである」という妄想の特殊な一側面である。それは、「概念としての『私』と「概念としての『あなた』(conceptual "me" and "you")がそれぞれ特異的な境界線をもっているためにどうしてもそのように考えられてしまうのであるが、実際には、「概念としての『私』や『あなた』とは、個人の知覚の舵取り役をつとめるもののその人の経験の意識可能な範囲を限定する参照枠[frame of reference]となるものに過ぎない(邦訳p.111)。

=======引用終わり=======  

 サリヴァンは凄まじい逆説を述べているので、一見難解だが、ちょっと解説してみよう。

 サリヴァンは、本書の別の箇所で、「我々は、基本的には同じような人間である」という前提が大事ということを述べている。

 これは、一見「個性」というものを否定しているかに見えかねないが、一見精神病状態になるかに見える人間でも、基本的には自分と同じような人間として捉える基盤が大事だということを強調していると受け取れるだろう。

 そして、「個人」という自己完結的システムとして人間を捉えるのではなく、「対人関係的相互作用の場」過程という次元でとらえることを基本スタンスとしていることこそがサリヴァンの本質なのだ。

 この点はジェンドリンも「人格変化の一理論」の削除された草稿部分(TFI日本語サイトで村瀬孝雄訳を閲覧できます)で、サリヴァンとの比較論に紙数を割いて評価している。

 「性格は、対人関係の関数である」

・・・・サリヴァンの、もっとも有名な言葉のひとつである。

 ひとは、自我を持つ存在として他者と関わる限り、「共人間的有効妥当性確認(consensual validation)」ができる形での言語での意思疎通の能力を身につけねばならない。

 この"consensual validation"という概念は、中井先生の「超訳」の典型として著名だけれども、わかりやすく言えば「お互いに話が『通じあう』水準での言語使用になじむ」必要がある、ということ以外の何者でもない。対義語は、端的に、「自閉的(autistic)な言語使用ということになる。

 もとより、人はこの能力の獲得の過程で、「自己態勢(self dynamism)」から「私-では-ない-もの(not-me)」として解離しなければならない有機体的経験の膨大な領域を持つことになる。そのある部分は容易に他者に投影され、ある部分は端的に「否認」されることになるだろう。

 しかしそれはサリヴァン的な見地からすれば、人がその所属する文化に適応(accultualization)していくための必要悪でこそあれ、さまざまな精神的失調・・・・正確に言えば、そのは単に「個人内」の現象ではなくて、「対人的相互作用」における齟齬ということになる・・・・の温床でもある。

 そうした意味で、アイリッシュ系であるサリヴァンは、WASPを中心とする当時のアメリカの価値観がアメリカの青年、特に前思春期の男子の成長に与える悪影響についてむしろ非常に尖鋭な批判者であったことは是非とも述べておかねばならない。

*****

 さて、こうした前提で、「パラタクシス的なもの」自体についてのサリヴァンの言葉を引用しよう:

=======以下引用(中井久夫訳。太字、および[ ]内はこういちろうによる)=======

 パラタクシス的[paretaxic]な対人的関わり方とは、話し手の意識の枠内におさまるような内容規定を持った対人関係と並んで[="para-"=並行して] 、影が形に添うように、もう一個の対人関係が存在し、対人的なかかわり合い方の傾向が前者とは全く異なり、しかも話し手はその存在をまず完全に意識していない場合である。

 パラタクシス的な場においては、精神科医と患者とから成る二人組と並んで、ある特別な『あなた』パターンに迎合するように自己を歪めた精神科医」と「未解決の過去の対人的なかかわり合い追体験しながらそれに対応する特別な『私』パターンを現している患者」とから成る幻の二人組がある。コミュニケーションの過程がこの二つの形影相添うような対人的なかかわり合いの一方から他方へとめまぐるしく飛び移ることもあり、この移動が稀にしか起らないこともあるが、いすれにせよ、普通、話し手の気の配り方は、結構ちゃんとしていて、活用や語法、語順などまちがわないで文法に適った言明を作ることができる。そのため一見首尾一貫した議論の立て方となる。またかなりはっきりと聞き手を意識した語りかけ方となる。(邦訳pp.112-3)

=======引用終わり======= 

・・・・この最後のパラグラフなんて、全くもってayuの歌詞のありかたそのものについて言及していると言えるだろう。

 ayuって、びっくりするくらいに、はるか以前の対人関係のことを意識し続け、ひきずり、繰り返し歌い続けずにいられない人のようだ。

 このあたりの具体的な解析と人物の同定については、王子のきつねさんのブログの随所で繰り広がられてきた情報収集力と慧眼と説得力に私はとてもかなわない。

 念のために申し上げると、いわゆる「成熟した」対人関係を持つ人間同士でも、この「パラタクシス的」次元は容易に顔を出す。ベイトソンのいう「ダブル・バインド」も「パラタクシス的なもの」の特殊な形態のひとつといえる。

 興味深いのは、高機能自閉症の人にとっては、まさにこうやって「影のように寄り添う別次元の対人関係様式」という、いわゆる「健常者」が全く無自覚に撒き散らす「含み」の成分というものを厳密に「理解」「識別」できないとパニックに陥る場合があるということだ(私は発達障害の専門家ではないが、当事者やご家族の話をうかがう限り、いわゆる「アスペルガー」タイプの皆さんの少なからず場合にあてはまりそうだ)。

******

 ちなみに、先程の引用部分で、

>コミュニケーションの過程がこの二つの形影相添うような対人的なかかわり合いの一方から他方へとめまぐるしく飛び移ることもあり、

と述べたが、あゆの場合、同じ歌の内容が同じシチュエーション、同じ相手を指すと強迫的に捉えようとすると意味が全体として通じにくくなるケースが稀ではない。

 これについては、先述のきつねさんが、"(miss)understood"(アルバム名ではなくて曲の方浜崎あゆみ - (miss)understood - (miss)understood)について、見事な分析をしている。

●甘いスイカに砂糖をかける(王子のきつねOnLine)

●Miss Understood Lyrics - 浜崎あゆみ (English and Hiragana)(YouTube)

 私が大好きな歌です。

 ここでいう「君」って、全部ayu自身のことを指すものとして理解しなおしてみるだけで、ぐっと深みが出ますよね(^^)

*****

 もうひとつ、アルバム"(miss)understood"の「心臓」であり、もっとも深みある曲のひとつと私が感じている、"In the Corner"浜崎あゆみ - (miss)understood - In the Corner

●Ayumi Hamasaki - In the corner(YouTube)

 ちなみに、この歌詞を聴いて、ayuのことを「ボーダーチック」だとか"as if personality"だとか言い出すのは、私は心理の学部生までしか許さないから(^^)。

 自分のことを振り返ってみるとどうだろう?

 「まずは罪なき者が石を投げよ」。

 相手への愛情を一瞬たりとも疑ったことがない人がいるとすれば、そういう人のほうが無理のしすぎで心配である(^^)

 ayuは、素直なだけなんだよ。

 あるいは時々、聴衆を意識して、こういうことを敢えて歌にして「予防ワクチン」をファンに打っておかないと、自分も持たないし、ファンも危ういと感じているだけ。

 そういう意味ではほんとに「ファンに気を使っている」からこそ、こんな、ファンを「脱錯覚(disillusion 幻滅)」させる危険がある「暗い曲」をアルバムに入れておく。

 私が聴いた、アルバム発売時のツアーの、少なくとも長野2日めと代々木の楽日という、私が臨席した2つのライブでは歌わなかったけど、最近はライブでも歌っているらしい。

 私なら、ayuをむしろ、若干分裂気質も合質しながらも、高エネルギー型執着気質をベースにした、適応水準の高い双極2型に分類する(・・・・って、それこそ私自身のパラタクシス的「投影」でもあるかもしれないけどね)

浜崎あゆみ/(miss)understood (DVD付)浜崎あゆみ - (miss)understood

(楽天市場の同商品)

*****

 最後に,YouTubeの「公式」動画より。

 敢えて次の初期の曲で、私が最初に提示した「君」の読み替えを徹底的にやってみてください。

●浜崎あゆみ / TO BE(YouTube)浜崎あゆみ - A COMPLETE ~ALL SINGLES~ - TO BE PVはTO BE

浜崎あゆみ/A COMPLETE ~ALL SINGLES~ (DVD付き)浜崎あゆみ - A COMPLETE ~ALL SINGLES~

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2009/12/16

田嶌誠一 著 「現実に介入しつつ心に関わる」

 私の臨床心理学上の恩師は、言うまでもなく、ジェンドリンの「フォーカシング」「体験過程と心理療法」の一介の一読者に過ぎなかった私を「拾ってくださった」、故・村瀬孝雄その人である。

 そして、精神医学を含めた意味での治療者のあり方において、私の「神」なのは、未だにお姿すら拝見したことがない中井久夫先生である。

 フォーカシング・トレーナーとしての偉大な先達にして、敢えて"fellow"とお呼びしたいのが、初対面の時から異様な意気投合に到達したアン・ワイザー・コーネル女史である。

 最後に、私が若い頃から声をかけてくださり、一緒に飲ませていただき、九州に戻ってからも色々相談に乗ってくださった、私にとっての、あまりにも頼もしい、「現場心理臨床の兄貴」、それが、現九州大学大学院教授の田嶌誠一先生である。

****

 福岡県大牟田市生まれ。十代はそこそこ不良でした(^^)。しかし、高校時代のある時、突如心機一転して猛勉強、九大を目指します。

 そして、催眠療法や臨床動作法であまりにも著名な、日本を代表する心理療法家、成瀬悟策先生門下の逸材(認められるまでが大変だったそうですが)として、最初は病院心理臨床で、重篤な患者さんとの面接のキャリアを積む中で、深い変化を静かに引きおこししつつも、患者さんの自我を危機に至らせない「安全弁」を持つ、独創的な心理療法、「壷イメージ療法」を開発。

 続いて、広島修道大学、更には九大で大学学生相談を担当、深刻な精神疾患、暴力や引き籠もりの学生との関係作りに、他の誰にもまねができない独創的かつ積極的なアプローチで成果を重ねます。

 引き続き、文部省のスクールカウンセラー事業の草創期に、もっとも荒れた中学校を担当、教師、家族、生徒たち全体を巻き込む「ネットワーク型アプローチ」を導入して、学校の空気そのものを一変させ、少年院送りを繰り返す水準の不良生徒たちからも卒業時には崇敬を集めるという、神がかりな活躍をなさいました。

 そして、現在取り込んでおられるのが、多くの場合、家族からの虐待から保護された子供たちが収容される、児童養護施設内部で陰惨に繰り広げられてきた、「施設内暴力」を一掃するシステムをコーディネートすることなのです。

 日本の心理臨床の生んだ、空前の「現場で行動する臨床心理士」、それが田嶌誠一先生です。

*****

 田嶌先生の新著について、かなり前からこのブログで記事を書くとお約束しながら、私自身が急激に多忙化する中でなかなか果たせないで来ました。 

●田嶌誠一:「現実に介入しつつ心に関わる -」(金剛出版)
ISBN:978-4-7724-1103-5

 

現実に介入しつつ心に関わる―多面的援助アプローチと臨床の知恵

(楽天ブックス)

 講演記録を元に、新たに書き下ろされた、児童施設内の暴力問題への対応についてを中心主題とする、本書冒頭の「総論に代えて 現実に介入しつつ、心に関わる」以外の論考は、その大半について、先生が最初に学会発表されたその場に臨席もしたし、学会誌でお読みしている。

 冒頭の章の概要そのものも、先述の記事で書いたように、先生に直接お会いする機会を持たせていただいた時にうかがっている。

 今回、実際の著作の内容と照合しても、その内容の最低限のイントロダクションの意味は、すでにあると思えたので、ご参照下されば幸いである。

*****

 そういう意味で、「ライブ田嶌」先生からすでにうかがった内容のほうが私の中で大きなインパクトを占め過ぎているために、どうもこのご著書の内容を改めて客観的に概説するとなると、私は心境的にちょっと重荷になりすぎる。

 ただ、申し上げたいのは、先述の、今回書き下ろされた、冒頭の「総論に代えて」の持つ、凄まじいまでのインパクトと、そこに示された先生の決然たる問題提起だけは、是非、多くのカウンセラーの皆様に、実際に目を通していただきたい。

*****

 いくつか、この「はし書き」と最初の章から、田嶌先生の言葉を、アフォリズム的に拾い上げてご紹介することとします:

=======以下引用========

 「私は、当事者のニーズの応えること、そしてできればもっとも切実なニーズに応えることを心がけてきたつもりである」(p.5)

 「現場のニーズを、『汲み取る、引き出す、応える』ためには、心理臨床家が従来のようにもっぱら心の内面や深層に関わるという姿勢(それも必要ですが)のみでは不十分で、『現実に介入しつつ心に関わる』とそれに基づく多面的アプローチが必要となります。これは、心理臨床が生き残れるかどうか、換言すれば心理臨床が社会に貢献できるかどうかに関わる重要なことだと私は考えています」(p.12)

 「しばしば間違えるのは、学校の先生と保護者とが『原因は何でしょう』と話し合うことです(中略)。すると、お互い内心は『こいつだな』と思っているわけです。そうすると、連携がちっともうまくいきません。
 それよりも、この子が元気になるために学校に何ができるか、保護者に何ができるか、それを一緒に話し合うというスタンスでいきますと、割合、無難な対応ができます。(中略)
 保護者の力、担任の先生の力、生徒たちの力、そして相談に乗った私と、いろいろな人がネットワークを活用してその子の援助をしていくという形になります。これが『ネットワーク活用型援助』です。心の内面だけではなく、現実に介入していくわけですね」(pp.18-9)

 「[まずは]いじめという現実がなくならないといけない。その解決は、いじめが沈静化する必要がある。完全な解決かどうかはともかく、とりあえずいじめがなくなる[ように、その学校内のネットワーク・システムに介入する]。その後、本人の心を扱うという形をとる。これが『現実に介入しつつ、心に関わる』ということの例のひとつですね」(p.19)

 「このように、いじめなどがそうですが、必ずしも本人が変わるべきではなく、周囲が変わるべきである場合もあると考えるようになりました(中略)。今では問題は、『主体と環境の関係』だというふうに言っています。主体と環境、つまり、内的環境と外的環境があって、その心、内面の問題は内的環境との関わりの問題なのだろうと考えるようになりました」(pp.19-20)

 「大事なのは、『個人の心理や病理』だけではなく[学校や地域の]『ネットワークの見立て』どということを強調しているわけです」(p.20)

 「[施設内暴力]に加担した加害児のうちのひとりは、1,2年前まではそのボスからおしっこを飲まされたり、散々いたぶられています。つまり、かつての被害児が加害児童になっているわけです」(p.25)

 「施設では多くの場合、[マズローの言う]『安全欲求』が満たされていないわけです。これは成長の基盤です。だから[まずは、施設内での]暴力をなくさないといけない。しかしこの理屈が意外と臨床心理の人に通りが悪かったんです。つまり、こどもたちが暴力を振るうのは、心の傷があって、それをケアすることが大事なんだという発想が強すぎて、理解が進まないんですね。心のケアは大事だけど、その前に、暴力を使わないで暴力をきちんと抑えるということが必要です」(p.27)

 「それらの問題行動は、過去の虐待や苛酷な教育環境への反応として、反応性愛着障害や発達障害の兆候として理解されてきたように思います。(中略)
 しかし、それらの問題行動は、子供間暴力(児童間暴力)や職員からの暴力等の、その子が現在[施設内で]置かれている状況への反応である可能性があるということになります。(中略)入所前に受けた虐待が主なる原因ではない」(p.27)

 「『愛着』や『トラウマ』関係のどの本でも、安心・安全が重要であると述べられていますが、その安心・安全を施設で実現していくことがいかに大変なことか、どうやって実現していったらいいかということが、まったくといっていいいほど言及されていないのです」(p.37)

 「[施設内暴力という問題それ自体に対する]専門家によるネグレクト、大人によるネグレクト、そして社会によるネグレクト」(p.38)

 「私は臨床家ですから、『告発者』としてではなく、外部から援助者として現場にうまく入らないとならない。そのためには、大変なエネルギーと技術が必要です。しばしば、「志は高く、腰は低く」という姿勢が必要です。そして問題を発見して、解決システムを模索して考案していくという順序になります(p.39)

======引用終わり=====

 田嶌先生が全国の児童養護施設に提案し続けている「安全委員会」システムとはどのようなものかについては、ネットでの情報などでは済ませずに、是非、実際に本書をお読み下さい!!

 なお、こうした被虐待児を一箇所に百名以上収容する施設など、欧米には存在しないとのこと。だから、解決策には輸入できるモデルなんてないそうです。

 「里親制度」・・・・欧米は基本的にそっちなんですね。

 日本にも里親制度はありますが、時折、里親自体からの子供への陰惨な暴力がマスコミ記事になることはたいへん痛ましいことです。里親と子供への、地域の個別の公的サポート(監視)体制が不十分すぎるんですよね。

*****

【追記】:  この著作についてのご紹介シリーズ、追補して書かせていただくことにしました。こちらからどうぞ。

******

【更に追記】:

この本の続編、「児童福祉施設における暴力問題の理解と対応」が刊行されました。

その本のご紹介は、こちらでしています。

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2009/12/14

「未熟型うつ病」とは何なのか? -福岡県精神保健福祉冬期講座に参加して(2)-

 昨日は、県臨士会のSC研修会でネットは一日お休みしました(お会いできた皆様からたくさん刺激をいただけたことに、心から感謝申し上げます)。

 やっとこの記事の続編(・・・・というか、結論は先に書いてしまったことにもなりますが)を書かせていただききます。

*****

 午後の部の講演に招聘されていた講師の先生は、自治医科大学で奉職されている、精神科医の阿部隆明先生でした。

 先生は、「新型うつ病」の一類型としての「未熟型うつ病」概念の提唱者です。私がこのブログで繰り返しご紹介してきた、内海健先生や加藤忠史先生ともお親しいようで、いわば日本のうつ病治療の最前線におられる先生のお一人です。

 講演のタイトルは、『現代の多様なうつ病像とその治療』でした。

 いわゆる「新型うつ病」や「双極スペクトラム障害」をはじめとする現代日本のうつ病の諸相について、これほど明確かつ立体的に解説していただいたことはない、と申し上げたいくらいに素晴らしい内容で、参加させていただいて、本当によかったと思っています。

*****

 まず、この先生のスタンスでたいへん興味深かったのは、下田光造が1943年に提唱した、うつ病の病前性格概念としての「執着性格」と、1961年にドイツのテレンバッハが提唱した、同じく、うつ病の病前性格仮説としての「メランコリー親和型性格」を、共に、クレッチマー以来躁うつ病の病前性格として提出された来た「循環気質」に対して新たに提出された、両国の高度成長期に生じた、当時の「新型うつ病」概念であると、明晰にお語りになったことです(この点では、内海先生の路線と明確に符合しますね)。

 そして、「執着性格」が、こだわり、几帳面、完全主義的自我理想に動機付けられた高エネルギー型であるのに対して、「メランコリー親和型」は、秩序愛と他者のために尽くすことに動機付けられ、周囲への罪責感という超自我的な動機付けで動く、むしろ弱力型のうつの病態であると解説してくださいました。

 中井久夫先生のご著書(確か、「分裂病と人類」)で、ドイツにおいても、メランコリー親和型性格は、男権的なドイツ的価値観からするとあまり評価される性格ではないということはお読みしていましたが、なるほどと思った次第です。

 もっとも、日本の高度成長期においてはメランコリー親和型性格は、少なくとも、重責に就く以前のサラリーマン道徳としては、明らかに「適者」の存在様式であったことになります。

*****

 「双極スペクトラム障害」についての先生のご解説も、今や0.5型から小数点0.5刻みでVI型まで提唱されているそうで、興味深かったのですが(私個人は、原則的に、DSM-Vで双極スペクトラム概念が気分障害の「大分類」として導入されることに大きな期待をかけているひとりです)、詳細になりすぎるのでここでは割愛させて頂きましょう。

 むしろ、先生が、「軽症うつ病で安易に抗うつ薬が処方され過ぎている」こと、そして、「抗うつ薬をトリガーとした躁転」という問題の重要性をやはり強調されたことは特記しておきたいと思います。

*****

 さて、ここからが一番興味深い部分です。

 阿部先生は、「メランコリー型」「執着性格」を含む、現代のうつ病の諸相の相互関係について、実に明快な図版を呈示くださいました。

 原典は飯田真先生らとの共著にあるとのことですが、敢えてこの図だけはここで配布されたパワーポイントファイルの縮刷版を取り込ませていただくことをお許し下さい(私の書き込みも読めてしまうので、観づらいかとも思いますが。

Dr_abe

 

 この図だけではわかりにくいでしょうから、ここで、いわゆる「新型うつ病」について、阿部先生が実に簡潔にご紹介くださった既成の諸概念についての解説を、この図と関係ない部分を省略してそのまま転載します。

※青年期のうつ病像

●ディスチミア(dysthymia)親和型 (樽味)

  • 回避的な傾向が強い
  • 不全感と倦怠感
  • 「生き方」と「症状経過」の不分明

※成人期後期(20代後半-30代のうつ病像)

●逃避型抑うつ (広瀬)

  • 高学歴、上司との関係、選択的抑制(こういちろう注:すべてのことへの興味や関心が失われるわけではないということ)、弱力的ヒステリー性格、自己愛的

●未熟型うつ病 (筆者ら)

  • 20代前半までは周囲から庇護されて葛藤なし
  • 職業上、家庭生活上の挫折から発症
  • 経過中に不安焦燥感優位で、自責に乏しい病像
  • 周囲に対する依存攻撃性
  • 状況からのストレスが棚上げされる(庇護的な環境におかれる)と軽躁状態(双極II型-I型的)

 そして、「執着性格」と「未熟型うつ病」が、内因性・生得的な気分昂揚的・躁的素因を持つ「高エネルギー型」であり、「メランコリー親和型」と「逃避型抑うつ」は、そうした「気分高揚方向への」内因的素因がなく、むしろ神経症水準での「弱力型」ということになるようです。

 これに当てはめたら、私なんて、もう、絵に描いたような「執着性格」ってのが、本来のあり方ですね(^^・・・親父もそうだな・・・・)

*****

 さて、この図の鍵は、

  • 「希薄な愛情備給」→「メランコリー親和型」か「執着性格」
  • 「過保護・溺愛」→「未熟型」か「逃避型」

・・・・と一般化されている点でしょう。

 ここで私の頭の中は???で一杯になってしまいました。

 私の父親って、ややおせっかいなところはあったけど、「熱く」私を愛し続けてきてくれた。でも、私の進路や勉強については全く口出ししなかった。子供時代、私の好きな鉄道旅行にどれだけ付き合ってくれたことだろう。全然希薄な愛情備給ではない。

 母親も、ある意味では偏屈で頑固な父親のやさしい話の聴き手になれ、子供の頃から私の前で神経質になることも皆無、まもなく87歳の今も、情緒的な安定感の高さと同時に、頭脳明晰で愛嬌あふれ、腰が曲がったのを除くと、70前と思われかねないくらいのみずみずしい感性(肌の色艶も)を維持している。 

 そして、何より、「未熟型うつ病」の説明図式を追っていくうちに、確かに、こうした説明で典型的に理解できる「新型」うつの患者さんも一定数はいるかもしれないことは認めるにしても・・・・・

 これじゃまるで、育ちのいいぼんぼんやお嬢さんが、厳しい社会に出てはじめて傷ついて発病したみたいな印象与えないか???

 さすがに上の赤字の言い方まではフロアからの発言上は控えましたけど、私が現場で体験しているこのタイプに当てはまりそうなクライエントさんから詳しく訊いた生育暦や、親御さんと接した時の印象との隔たりがあまりに大きいと感じました。

 「未熟型うつ病」であるかに見える人に家族内での葛藤がなくて庇護されていたなんて、私の知る臨床的現実とはまるっきり正反対なのだ。

 確かに、この種の病態を示す人たちの、養育者との関係は「密着していた」時期を持つことが少なくないのは認める。

 でも、それは、断じて、子供の側が依存し、それに対して親が庇護を与えるという循環構造ではないのだ!! 

 得てして、気分変調的な側面をすでに持つ母親まずは存在する。その母親の機嫌を損ねないように、子供の頃から、涙ぐましいまでに気を使い、家庭の平和を守るためのキー・パーソンとして「世代間逆転」的な形で一家を支えてきたのが、患者として現れた若い人たちなのである。

 家庭に葛藤がないかに見えたのは、子供の方が親の気持ちにとことん寄り添って「平和維持」に努めてきたからこそではいか????

 その人たちには、むしろ親に安心して甘えられた経験など欠落している。

 そして、非常に孤独な努力を重ねて、親の引力圏から離脱するために、優秀な大学に入り(得てしてこの時に親元から離れた大学を選択する。それを可能にするためには、地元を離れるに値すると親に見なされるほどに優秀な大学である必要があるのだ!) 

 そして、これまた親のグーの根も出ないくらいの進路(留学、企業)へと進んでいく。ひたすら、親から自由になるために!!

 そうやって、どこまでも飛翔した先の企業などで、彼ら/彼女らはついに力尽きるのである。

 このような経緯を持つ患者さんが、医師との治療関係が一応ついて、「陽性転移」の時期を経たは何が起こるか????

 ・・・・もう、目に見えている。

 親や医師、社会を相手に恨みや攻撃性を爆発させることそのものが、不可避の「治療過程のプロセス」なのである。

 そうした「治療過程のプロセス」を、「疾病像」と誤認することの危険が、あまりに大きくはないのか?

*****

 もちろん、簡潔に、紳士的で丁重な表現を取らせていただきましたが、私がフロアから阿部先生にお伝えした感想は以上のようなものでした。

 このこととの関連で、この前の拙文、

●「過保護」という概念は安易に使われすぎていまいか?

をお読み頂ければ幸いです。

*****

 BGMは、まさにこうした生き方をしてきたとしか思えない、浜崎あゆみさんを称えて、浜崎あゆみ - A Song for XX - Signal"SIGNAL"浜崎あゆみ - A Song for XX - Hana"Hana"浜崎あゆみ - LOVEppears - too late"too late"

●ayumi hamasaki SIGNAL~Hana~too late live

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2009/12/11

「過保護」という概念は安易に使われすぎていまいか?(第2版)

 これは、前の記事に続き、この後に予定している記事への伏線になる内容なのだが、そちらの記事でこのことまで一気に論じると長大化し過ぎるし、独立したトピックとして敢えて立ててみても大いに意味がありそうなので、こうして「先行掲載」する道を選んだ。

 一般の皆様は驚かれるかもしれないが、心理の専門家の間で、「過保護」という概念が使われることは滅多にない。

 そしてそれは「親に甘えている(甘やかしている)」という言い方を心理専門家が可能な限り排除するのと、実は共通の背景がある。「甘え」という概念が専門家と一般の皆様との間でどのくらいギャップがあるかは、すでにこの記事で詳しく論じた通りである。

 wikipediaの「過保護」の項は、この点についての配慮が行き届いているが、敢えて私なりの言葉で定義すれば、「過保護」とは、次のような現象に関して限定的に用いられるべき概念であると私は考える。


「養育者が、子供の欲求や願望の充足と、不快や不安や困難の低減や除去を何より優先する形で養育活動を行うこと」

 つまり、この場合、親は子供の完全な僕(しもべ)という位置に近い。

 実は、このような、「純粋な過保護」というべき現象は、一般に思われているよりもはるかに少ないはずである。

 英語には、確かに"overprotected"という言葉がある。私の知り合いによれば、ブリトニー・スピアーズにこのタイトルの歌があり、グラミー賞にもノミネートされたようである。ブリトニー・スピアーズ - Greatest Hits: My Prerogative - Overprotected PVが→Overprotected

●britney spears - overprotected(YouTube)

【第2版で追記】:ブリトニーは、同じテーマを別の曲でも歌っているようである。

●Britney Spears - I'm Not a Girl, Not Yet a Woman (720p HD) + Lyrics(YouTube>

 しかし、この歌は「私はもう少女ではないのだから、もっと好きにさせて」と歌う歌である。つまり、"protected"とは、むしろ親の「拘束」を示唆するものであろう。

*****

 ここでお気づきの方はお気づきだろう。

 「過保護」であるかに見えるケースのほとんどは、むしろ養育者の「過干渉」 とむしろ親和的なのだ。

 「過保護」も「過干渉」も、少なからぬ場合、養育者と子供との距離が過剰に密着しているという点では共通項があるかもしれない。

 しかし、「過保護な子供は葛藤なく育っている。ストレス耐性が低い」などという言い方が安易に使われるとしたら、実は養育者と子供との相互作用の上っ面だけを眺めているに過ぎないケースが大半だと思える。

 現実には、子供の方が親の気まぐれなまでのわがままな言動に必死にチューニングして、世代間逆転的な形で、親のメンタル面での安定を保とうと必死なまでに甲斐甲斐しく振舞ってきた経歴を持つことが少なくないのではないか。

 つまり「親子間の葛藤がない」かに見えるのは、子供の側から、必死になって「平和を支えてきた」からこそというべきケースが多いように思える。

 そのかりそめ平和の中で、一見「仲良し親子」のように端からは見えることが多いかもしれない。しかし、それは実は親のちょっとした不機嫌によってもろくも崩れ去る、薄氷を踏むかのような平和であることに周囲は(酷い時には母子の傍らにいるはずの父親も)、全く不感症である場合がある。

 養育者と当人の間の相互作用を丁寧に観察して吟味していくと、実は本人よりも養育者のほうが(控えめにいっても)よほど「気分変調症」的ではないかと思われてくる事例の多さに注意すべきである。

 子供の方が、むしろそういった親を「あやす」ことを子供の頃から求められ、「オトナとして振舞う」ことを強いられてきた側なのである。

 そうやって成長した子供が、真の自立を求められる局面で失調し、他罰性や攻撃性が強い存在に見かけ上大反転を起こしたとしても、それはまったく自然な展開ではないか? 目の前にいる、いわゆる「新型うつ病」患者は、実は、家族力動の犠牲になった"Identified-Patient(見なし患者)"なのかもしれないのである。

 いわゆる「新型うつ病」世代の気分障害全般を考える際、こうした視点は重要な鍵になる可能性があるように私は思えてならない。

 もちろん、だからといって、親を諸悪の根源視してもどうにもならない。親自身が、何らかの意味で、やはり自分の親やもう一方の配偶者との不幸な関係を背負っていることが少なくないからである。

****

 このようにいうと、あの懐かしいカタカナ語を思い出される方があるかもしれない。確かにある程度は重複することになるかもしれない。

 しかし、どのような概念として「説明」するかは、セラピーそのものの成否とは全く無関係である。

 何より大事なのは、目の前に現れた個々のクライエント(患者)さんと虚心に向き合い、安易なレッテル張りや分類を超えたところで相互作用を持ち、解決策を、一緒になって探していく、「テイラー・メイド」ないし「一品料理」を作れる専門家としての力量であろう。

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2009/11/27

通算2000番目の記事 : バリント著「治療論からみた退行(Basic Fault)」

 ハンガリーに生まれ、フィレンツィに師事し、その後ドイツに渡り、更にイギリスに移住した、精神分析的対象関係論の大家、マイクル・バリント(ハンガリー読みにすると、姓と名が日本と同じで逆転するので「バーリント・ミハイー」)は、日本ではもっぱら故・土井健郎先生の「甘え」理論を国際的に紹介し、「甘え」理論との類似性で「一次的対象愛」という概念が精神分析系の専門家の間で人口に膾炙しているに留まる。

 しかし、バリントの真の集大成、主著というべき著作は、中井久夫先生の、もはや「原著を越えた超訳」とまで呼ばれる邦訳で、知る人ぞ知る、「治療論からみた退行」(原題:"Basic Fault")である。

マイクル・バリント/治療論からみた退行

 今、「超訳」と申し上げて置きながら、いきなりこのことに言及するのは気が引けるが、中井先生と縁が深い山中康裕先生が、たしか雑誌「こころの科学」で本書を紹介するにあたって、中井先生が、"Basic Fault"を「基底欠損」と訳し、その訳語が日本で普及してしまったことに対してだけは、敢えて唯一注文をつけておられる。

 山中先生曰く、「"fault"というのは地学でいう『断層』のことであり、何かが『欠けて』いるというのとは随分ニュアンスが異なるのではないか」。

・・・・ ごもっともな指摘である。

 「基底欠損(Basic Fault)」という概念を一言で説明するのはたいへん難しい。日本ではそれをまるでボーダーライン的心性と同一視するかのような理解がされがちだったように思う。

 確かに、バリントは本書の中で、「基底欠損」を、プレ・エディプス期の問題として位置づけてはいる。しかし、その切り込み方が、メラニー・クラインとも、マーラーの分離個体化理論を援用したマスターソン(「青年期境界例の治療」)とも異なる、独自の視点を持っている。

 私のみたところ、「基底欠損」の理論は、単なるボーダーライン性よりも幅広い現象を内包しているように思える。控えめにみても共通部分を持った、すっかりとは重なり合わないベン図のような構造になるのではなかろうか?

 バリントは、ウィニコットと共に、アンナ・フロイトの創始した「自我心理学」とも、「クライン正統派」とも一定の距離を維持する「独立学派」のひとりと呼ばれる。

 確かにウィニコットとの接点はたいへん大きい(それどころかビオンとの接点ですらバリントは本書で明言している!)。そして本書の「仮想敵」は、後述するように明確にメラニー・クラインであり、クラインへの批判に紙数を割きすぎたのが、少なくとも日本人の読者にはまどろっこしいのではないかと、訳者の中井先生ご自身が解説で感想を漏らしておられる。

 だが、ウィニコットの諸著作が日本でも熱心に読まれるのに比べると、バリントが本書で展開した独自の理論と治療的示唆に関心を持つ人は少数派であろう。

 そうなった最大の原因は、バリントがすでに先行する著作、「スリルと退行」の中で確立していた独自の新造語、オクノフィリアフィロバティズムという概念が、本書においても、更に発展された形で鍵概念とされていることが一見難解だと感じさせられることが大きいかと思う。

マイクル・バリント/スリルと退行

*****

 この2つの鍵概念についての概説に入る前に、バリントがなぜクライン理論にあそこまで反発したかという、本書の前半で展開される内容について私なりに概説したい。

 クラインやウィニコット、バリントは、神経症より重篤な事例に関連して、フロイト以降に展開され、プレ・エディプス期の早期対象関係を重視した、広い意味での「精神分析的対象関係論」に属することには変わりがない。

 広義の「対象関係論」とは、噛み砕いていえば、現実の「外的」他者の態度の摂り入れ(introjection)としてのみ人の自我形成過程をとらえるのではなく、個人内部での、一種の内的ファンタジーとしての「内的な」他者=「内的対象」との関係形成過程を重視する立場である。

 こうした観点は、実はフロイト自身もある程度予見し、示唆していたことでもある。そして何よりユングが「内なる他者」としてのアニマ・アニムス・影などとの交流過程を重視した先達なのだが、どうも対象関係論の人たちは、ユングを先達とみなすことは回避する傾向があるようだ。

 しかし、クライン正統派の場合、現実世界に存在する「外的対象」としての養育者の持つ意味が明確化されない「独我論」ではないかという批判は早くから生じた。

 そこで、ウィニコットは「内なる養育者」との関係と、「外的な他者」との関係を統合的に説明しようといいう方向性を強く打ち出し「錯覚(illusion)」「脱錯覚(disillusion)」という概念を巧妙に媒介とし、幼児の外界との一体化という「錯覚」に巧妙に応える時期から、次第にそれを遅延化させ、「脱錯覚」へと導き、信頼できる他者との成熟した関係性を確立する上での"good enough mothering"=「そこそこいい養育者」、あるいは「環境としての養育者」についての理論、あるいは養育者自身の代理、他者との継続的な関係性の媒介物ともいえる「移行対象」の理論、あるいは、親密な他者と共にいながら、それぞれが自分の世界に没頭できる能力形成が果たす役割を表現するための逆説的概念、「ひとりでいられる能力(ability to be alone)」、そして、ここでは概説しないが、「遊ぶこと(playing)」が治療関係で持つ意味などを次々に考察した。

 ウィニコットのこれらの最重要理論のほとんどは、

情緒発達の精神分析理論―自我の芽ばえと母なるもの (現代精神分析双書 第 2期第2巻)

遊ぶことと現実 (現代精神分析双書 第 2期第4巻)

・・・・この2冊だけで掌握可能である。

 バリントは、ウィニコットとは別の切り口から、プレ・エディプス段階における「内的対象関係」と「外的な他者との関係性」が果たす役割について統合的に考察しようとしたのである。

 このようにして、正統クライン派とも一線を画することをはっきり表明した分析家の一群を、フロイト以降の精神分析の領域で、狭義の「対象関係学派」あるいは「独立学派」と呼ぶ。

*****

 さて、前置きが非常に長くなったが、いよいよバリントの中核概念である「フィロバティズム」と「オクノフィリア」について概説しよう。

 バリントがクラインを批判する最大の立脚点は、「対象(object)」という概念それ自体にある。クライン理論は、対象関係=他者との関係を、まるで真空の中に浮かんでいる完全に自主独立した二つの固形的「物体」との間の相互作用のようにとらえているのではないか? 「対象(object)という概念それ自体の中に"objection"=「反発性がある」、輪郭が鮮明な「固体」的なものという含意があることにバリントは注目する。

 我々は、成熟してから後ですらも、ある意味で「前-対象(pre-object)」的な係わり合いの中にしか生きていないのではないか。ここでいう「前-対象」とは、バリントにおいては、もはや人間以外のすべての諸事象との関わり全般にまで拡張される。

 つまり、世界の諸事象と「調和的=相互浸透的渾然体」として融合されたあり方でしか存在していないという側面を背景として、現実の他者との関わりも考えるべきであるというのがバリントの視点である。

 そもそも「空気」がなければ人間は窒息することなど、普段は忘れているではないか?

 「魚とって、エラの中に存在する水が果たして『環界』なのか、魚の『内部環境』なのかを問うことに何の意味があるのだ?」と。

 これは「独立した自我を持つ主体」同士の交流を成熟した対人関係様式としてとらえる、欧米的な個人主義的な自我観を自明の前提としている人たちにとっては、何とも難解でぶっ飛んだ論の進め方に感じられたであろう。欧米で、正確に理解できた精神分析流域の専門家は稀れではなかったと推測できる。

 しかし、バリントには、東洋的な色合いも強く残した故国ハンガリーの血への基本的な共感が失われてはいなかったのだろう。

 人も万物もすべて同じ地平で眺めるという、非キリスト教的(いや、ユダヤ教やイスラム教にもそうした視点はない)=異教的な感性が脈々と受け継がれていたのであろう。

 ところが、数学・物理学・経済学の分野で名高いフォン・ノイマンをはじめとする数々のノーベル賞級科学者、科学哲学者ポランニから、指揮者(ライナー、セル、ショルティ、ドラティ)・作曲家(バルトーク)・音楽家(ブダペスト弦楽四重奏団)まで、非常に優秀な人材を一気に輩出した、第1次世界大戦後の長期にわたる度重なるハンガリー動乱の連続(1918-1956)の下での亡命ハンガリー人の知的階級の多くは、異国のでサバイバルのために、非常にタイトで厳格な方向のにのみ自分の技能を研ぎ澄ますところがあった気がする。クラインもその一人であろう。

 バリントがその道を歩まなかったのは、師、フィレンツィが、フロイトの時間厳守、中立性の原則を打ち破り、ついには心労で命を縮めた治療法の潜在的可能性を引き継いで完成させることを生涯の使命としたことが大きいようである。

*****

 さて、プレ・エディプス期において問題があった人="Basic Fault"を潜在的に抱えた人は、治療的面接場面が進むと、独特の退行様式を取り始める。

 それが「オクノフィリア」と呼ばれる現象である。

 オクノフォリアは、対象との全き融合の幻想が維持されることを求める。しかもその際に、対象と自分の間に「空隙」があることを「恐怖」する(「オクノフィリア」というギリシャ語をバリントが創出した背景)。

 その結果、対象が、自分の欲求を絶えず気遣い、先回り的に配慮してくれて「あたかも鍵穴に鍵をぴったり合わせてくれるように」対応してくれないと我慢がならないという状態になり、治療者を徹底的に翻弄する。そこにはすでに「通常の成人言語水準でのやりとり」は無力化する。

 治療場面のみならず、家族など親密な関係を持つ人物相手に、こうしたオクノフィリア的心性を顕わにする人たちは決して稀れではない。子供が少しでも「気が利かない」と逆上し、子供をいつまでたっても自分を補完する存在としてしか取り扱わない親など典型であろう。こうした親は、実は子供の方に際限なく「甘えて」いる現実に無自覚なままなのである。

*****

 ところが、この世には、「世界との完全な調和的一体感」を指向する点ではオクノフィリアと同じだが、全く正反対のアプローチを身につけた一群の人たちがいる。

 その人たちは、自らの持てる身体的技能(skill)を極限まで磨き上げ、古代ギリシャ以来「四大元素」と呼ばれたもの、すなわち「地(土)・水・火・風(空気)」をすべて自分の味方につけたかのような錯覚と万能感の中に生きている。

 これら4つの対象は、輪郭がはっきりせず、自由に形状を変容させ、対象を「包み込む」ことができるという点に特徴がある。

 典型的なのは、飛行機乗りやレーサーを一方の極とするスポーツ選手、演奏家、曲芸師などであろう。

 私流に言えば、「キャプテン翼」の「ボールは友だち」の世界である。「自分が」ボールを巧みに操っているのではない。「ボールの方が(そしてそれを包む空気やクラウンドの土の状態が)、まるで自分に『協力してくれている』かのような錯覚の世界にある。

 彼らにとっては、世界とは自分にとって「友好的な拡がり(frendly expanses)」として通常は機能してくれる。

 一般の人からすると危険でスリリングすぎる活動に身を投じることこそ、彼らの生の充実感、世界との一体感を支えている。中途半端なややこしい「社交的な」関係なんてほんとうはできるだけ回避したいくらいなのだ。

 (もっとも、フィロバティックな心性を持つ人の中にもオクノフィリア的心性は存在することをバリントは言い忘れてはいない。安心して深い絆を形成できる人物に「見守って」いてもらえていることが支えとなっていることが多いというのだ)

 一芸に秀でたスキルで世を渡っていくという点からすれば、非常に幅広い職種の人が含まれることだろう。アニメーターだって、ある意味ではカウンセラーだってその種の人間であろう。

 このような存在のあり方を「フィロバティズム」と呼ぶ。

 フィロバティズムを生きる人にも弱みはある。自分のスキルに故障が出た時。心身が燃え尽きた時。あるいは突然の気象の変化や機器の故障が生じた時、彼らは失調するばかりか「事故死」の危険と隣りあわせということにもなるのだ。

 自らが死や破滅と隣り合わせの生き方をしていることに、誰よりもフィロバティズムを生きる人たち自身が気がついている。それゆえに、安心してくつろげる、気の置けない対人関係も、限られた人たちとでいいいから大事にしようとするはずだと、私は思う。

*****

さて、バリントが、治療関係において必要なのはどういう関係であるかについて述べた部分を引用して終わりとしたい:

========引用はじめ========

 分析の場における沈黙の意味には二つあるだろうということには皆同意していただけると思う。ひとつは恐ろしい空虚という戦慄的な体験をしている場合である。空虚は疑惑に満ち、敵意に満ち、拒絶に満ち、攻撃性に満ちている。前進を阻む沈黙であり、結局不毛に終わる沈黙である。しかしまた、沈黙がおだやかな静かな調和体験の場合もある。平和と信頼と受容という雰囲気である。つまりおだやかな成長の時期、統合の時期でもありうるのだ。分析家にもっとも必要なのは、今向かいあっている沈黙がどちらの型なのかを識別することである。

 フィロバティズム的偏向をもつ技法においては、おそらく、解釈をわずかしか用いないだろう。特に退行した患者に対する時はそうなるだろう。分析者はたえず患者を見て、[次の]どちらの態度をとるべきか考えるだろう。すなわち、個別的な対象の役割をとり、退行した患者を安全な距離が見守り、この冷静で客観的な視座からことばで綴った解釈を与えて理解を求めるのがよいのか、あるいは自分も「友好的広がり」の一部と化して、何一つ要求せず、ただ息をしているだけの存在としてあり、患者に欲求が起こればさっそく役に立とうとする構えだけは持ちつづけるのがよいのかを考えるのである。(中略) 最大の危険は、この技法が患者にあまりに多くをゆだね、早すぎる時期に大きすぎる独立性を押しつけることであろう。 (中略)

 [もう]ひとつはオクノフォリックな方法であって「患者の手をとって」ゆく方法である。どうしてこの動きをしてあの動きをしなかったのかを一貫性を以て解釈してゆくことである。ここに内在する危機としては、患者が分析家を理想化してこれを寛大で慈愛こもった人物として取り入れるように誘導する恐れがある。こうなると患者の自由が制限されて、理想化された対象が処方し許容してくれる範囲から出られなくなってしまう。

 自由とは、私の考えでは「友好的広がり」の再発見のことである。それはフィロバティックな世界の中にあって、成人的なスキルを身に付けることを要求するものであるが、その背後には、何も要求せずに抱きかかえてくれる一次愛の世界が控えている。誤解されると困るので、「友好的広がり」の再発見があらゆる対象を完全にあきらめることを意味するものではないことを言っておかねばならない。

 そうではなくて、それはただ、[オクノフォリックな]絶望的なしがみつきをやめて対象から一定の距離を置いて独りで立つ能力すなわちスキルを身につけるだけのことであり、そしてそうすることは対象を「正しい釣り合いにおいて」眺め、「真のパースペクティヴ」の中で対象を獲得するために必要なのである。

 新規蒔き直し(new beginning)時期における分析者の役割は、多くの点で一次物質あるいは一次対象の役割に似ている。分析者は存在していなければならない。分析者は高度に可塑的でなければならない。あまり抵抗してはならない。破壊不能性を示さねばならない。これは確かなことだ。また一種の相互滲透的調和渾然体の中で分析者と共に生きることを患者に許容しなければならない。(中略) おおよそ、友好的物質という、一点の曇りない調和体だけがあり、その中から対象が成立する以前の体験である。

 [退行の]良性形では、患者はさほど外的行動[を治療者に「してもらう」こと]による満足を求めず、それよりも外的世界を活用して自己の内面の問題に前途の途がひらけること、私の患者のことばを借りれば”自分自身に到達できるようになること”をそっと認めていてほしいと希う。(中略)

 認識されるための退行(中略)では、あたかも大地や水が己れの体重を安んじてあずける者を支え返してくれるように、患者を受容し支え荷うことを引き受ける周囲の人々のいることが前提である。物質としての治療者は抵抗してはならない。引き受けねばならない。あまり摩擦を起こしてはならない。患者をある期間受容し荷い、自分は潰れないことを示さねばならぬ。境界線を越えないぞとつれなく言い通してはならない。患者と自分との一種の渾然体の発生展開をゆるさねばならない。

 以上はすべて、患者に同意し、関与し、巻き込まれることを意味するが、必ずしも具体的働きかけをする意味ではない。ただ理解と寛容だけでよい。ほんとうに大事なのは患者の内面つまりその心の中でさまざまの出来事が生じうる条件を維持し創造することだ。[分析者は患者を積極的に荷おうとはせずに、水が泳ぐ人を支え、大地が歩む人を支える具合に荷い支えるべきであるということ。すなわち患者のために存在し、またそうされることにあまり抵抗を感じないで患者に使用されることである。

 我々は立居振舞(behavior)、空気(climate)、雰囲気(atmosphere)などのことばを使うが、これらは皆、漠然としたカスミのかかったような、画然たる境界を欠くものを指すことばで、(中略)にもかかわらず”雰囲気””空気”というものは存在し、感じ取られ、しばしばことばでの表現を要しない。(中略)

 ”洞察”とは的を得た解釈の結果生まれるものだが、洞察が生まれるにふさわしい対象関係が創出されたならば、その結果は一種の”感じ(feeling)”である。

”洞察(insight)”が視覚と対応するとすれば”感じ(feeling)”は触覚と対応する。すなわち一次関係かさもなくばオクノフィリアである。

 ある一種類の対象関係に硬直的に固執すべきではなく、いつでも患者とともにオクノフィリア的とフィロバティズム的の両原始世界を往復する心構えが必要であり、時には両世界の彼方の一次関係まで行く心構えがなければならない。(中略)

 解釈は、分析者が「患者は確かに解釈を求めている」と確信できる時に限り与えるべきものである。こういう時に解釈を与えないことを不当な要求あるいは刺激と感じるだろうからである。(中略)

 仮に分析者が以上の条件の大部分を留保ぬきで誠実に満たすことができれば、ここに新しい関係が生まれ、それによって、患者は、自己の精神構造の欠損あるいは瘢痕形成の原因となったそもそもの欠陥と喪失の悔みと悼みをある形で体験できるようになる。その悼みは、現実に愛する人の喪失や、内的対象への打撃あるいはその破壊という、メランコリー[抑うつポジション]特有の事態が原因で生じる悼みとは全然別物である。

 私がいま頭に抱いている悔み悼みとは、自分自身の中に欠陥・欠損があるという動かしえない事実に対する悔みであり悼みである。(原注:この悼みは、元来基底欠損に対する過剰代償として生じたらしいナルシシズム的自己像を断念すること[こういちろう注:世界との、他者との全き調和の断念。自己のスキルに対する万能感の断念…とも読解できよう]と関連した悼みである。(中略)

  分析者がこの悼みのための時間を焦らずに十分長くとり、またその間、必須の原初的雰囲気を寛容と干渉的でない解釈によって維持できるならば、患者と分析者の共同作業の仕方は以前とは少しずつ変わってくる。それは、まるで、患者が対象との関係における自己の位置付けを進んでやり直し、自己の周囲の、魅力を欠き冷淡なことの少なくない世界を受容できないかと考え直そうとし、またその力が出てきた気がしはじめたことを思わせるような変化である。

========引用おわり========

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2009/11/25

書評 : 鎌田實 著 「言葉で治療する」

 精神科医の中井久夫氏によると、精神分析医のバリントが、「医者という名の薬」ということを言っているという。

 中井氏ご自身、著作集第5巻「病者と社会」収録の、「心に働くくすりは信頼関係あってこそ効く」という短い論考(pp.163-8)で、

「医師への信頼関係があれば少量で効くし、量が増えない。不安を抑えるくすりを不安な状況で飲むのが得策でないのはわかっていただけよう。薬への信頼は、究極には医師への信頼である」

「私は、患者が苦情をいうことが医師に対する最大の協力であると思っている」

「(患者に)苦情を言ってもらうことで次第に正しい処方に到達するものである」

と書いておられる。

病者と社会 (中井久夫著作集―精神医学の経験 第5巻)

 これは精神科の薬の処方に限るまい。医師の前では「優等生」にしかなれなくなり、実際にはたいへんだったり不安があってもそれを語れない患者さんは実に多い。

 医者の側に、苦情をいわれても嫌な顔ひとつしないだけの応対の力があっても、医師と患者というのは、自分の命や身体症状を公式に預け得る唯一の「絶対的権威」であり、「対等」ではあり得ない構造的な関係性が布置されているのだ。

 そしてそれは、精神科の薬物療法ばかりではなく、例えば救急医療やがん医療において、外科的処置が必要な場合ですら共通の問題といえるはずである。

*****

 ここで紹介する、「言葉で治療する」という本の著者、鎌田實氏は、救急医療の現場に始まり、がん病棟、救急医療、小児科をはじめとするさまざまな現場 で、医師と患者の間のコミュニケーション不全がどれだけ大きな問題を引き起こしているかに現実に関与し続けて来られたお医者様である。

鎌田實/言葉で治療する

(楽天ブックス)

 がん患者ご本人やそのご家族の実に30-40%近くがうつ状態、ないし、本格的なうつ病に陥っていることを著者は指摘する(統計によってはもっと高い数値を指摘するリサーチもあるという)。

 がん医療に力を入れているといわれる病院、ホスピスなど終末期医療に力を入れていると喧伝している病院ですら、医者の不用意な言葉が単に患者さんを傷つけるのみならず、両者のディスコミュニケーションが、症状の変化に気づくタイミングを逸してしまうことになり、早過ぎる死に至らしめていることが疑念されるケースすら稀れではないらしい。

 その一方、万策を尽くしても患者を救い得なかった医者に対して、患者が感謝の言葉を捧げるような関係性が成立している場合も確かにあるのである。

 まだ、医療チーム内部でのコミュニケーション不足が、患者さんとの信頼関係をいかに損なうのかについてもとりあげられている。

******

 こうした状況が生じたひとつの背景には、医師不足の問題に加え、小泉政権が推し進めた社会保障費の抑制の中で、医師に限らずコメディカルなスタッフ全体が疲弊し、患者さんに丁寧な応対をする余裕を喪失させたことも大きいと著者は論じる。

 「インフォームド・コンセント」の重要性は、歯科医すら含む形で医療全体に浸透してきたはずではないかといわれるかもしれない。だが、インフォームド・ コンセントの広まりを支えて来たのは、リアリスティックにいえば、医療訴訟に対する医療側の自己防衛という側面があり、(これは私の考えだが)開業医が多い地域では、経営的「生き残り」のために悪評を立てられたくないという側面も後押ししたのではなかろうか。

 いわゆるクレイマーやモンスターペイシェント(ペアレント、ファミリー)の問題については、鎌田氏は、

「医療現場を萎縮させ、今日の医療危機を招く一因になっていることもたしかだ。いまだにモンスターペイシェントはいることはいるが、潮の目が変わったように思う」(p.36)

と書いておられる。

******

 実はまで読み始めて3分の1だが、すでに日本人の死亡率第1位になったがん医療、そして高齢化社会で更に必要性が高まるであろう終末期医療の現場が、現実にはこれほどまでにコミュニケーション上の課題山積であることについては、次々と登場する実例を読んでいると呆然とした思いに駆られる。

 1998年に自殺者が3万人を越えた段階で、がんの次は自殺予防対策だという声があがりはじめて久しい。

 しかし、うつ状態(ないし気分障害)になって入院したり通院歴があるクライエントさんがほとんどを占める私の開業カウンセリングの現場で痛感するのは、 単純にお医者様を悪者にしてしまうつもりは毛頭ない(一日に50人もの患者さんの診察をするなど、欧米では考えられない状況らしい)が、患者さんとお医者様の間でのコミュニケーションの行き違いが、症状の遷延化と、そして、「こころの支えとしての医者への信頼」を持てないまま、あちこちの病院を何年も転々としてきた軌跡である。

 この本は、「精神科医療」についての本でも「カウンセリング」についての本でもない。しかし、底に流れるマインドは、お医者様やカウンセラーに限らず、すべての援助的専門家が自分の「現場」を振り返る上で、直面するしかない課題に気づかせてくれそうだ。

 

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2009/11/16

NHKスペシャル「魔性の難問 -リーマン予想 天才たちの戦い-」

 実は最近の私は、「天地人」をたいてい予約録画で観る以外、テレビ番組を殆ど全く観ない生活を送っている。ところが昨晩、事前の予告とかをまるで知らないままに、このNHKスペシャルに遭遇できた。

●この番組のNHK公式サイト

 番組がはじまった段階で、映画「ビューティフル・マインド」を観ていた私は「ひょっとして在世中のナッシュへのインタビュー出てくるのでは?」と期待したが、その期待はかなえられた。

(楽天ブックス)

 「リーマン予想」とは、数学上の最大の未解決の難問のひとつとされる。wikipediaの記述だけでは、私を含めた数学の素人には何がなんだか?になっちゃうけど、ひとことでいえば、素数(割り切れない数)の配列というのには、一見全然規則性がないんだけど(1,2,3,5,7,11,13,17,19,23,29,31,37,41,43,47,53,59,61,67,71,73.....でよかったかな?)、そこに一定の法則がある可能性について、19世紀半ばに、ドイツの数学者、ベルンハルト・リーマンが立てた予測とのこと。

 このリーマン予想については、イギリスのハーディとリトルウッドのコンビをはじめとする当代髄一クラスの数学者が長年たいへんな情熱を注いで証明に取り組んだけど、この2人に関しても、結局部分的な傍証に当たる証明しかできないまま、最後にはリーマン予想そのものが間違っている可能性まで示唆するところまで諦めてしまった。

 その次にリーマン予想の証明に多大な情熱を注ぎ込んだのが、プリンストン大学で、すでに「非協力ゲーム理論」をはじめとする分野で多大な功績があった、ナッシュである。

 しかし、彼がこの難問と格闘し、リーマン予想についての講演会を開いた時のナッシュの姿は、ラッセル・クロウがナッシュ役を演じた上述の映画でも描かれたとおり、以前とは異なる惨憺たる様子だった。

 この段階で、すでに統合失調症の本格的発症の兆しがあったのである。ただし、映画でも描かれたとおり、実はそれ以前からも、多くの人には気づかれないし、本人にも自覚できない形で火種はあったので、リーマン予想についての研究への没頭し過ぎが「原因」であるとまでは誤解しないで欲しい。単なるストレスだけでは統合失調症に至ることはありません。

 仮にストレス要因が「トリガー(引き金)」になる可能性を認めるとしても、番組では紹介されていませんでしたが、アマゾンの書評欄によれば、ナッシュはこの時妻との間に子供ができるというタイミングでもあったようです。

 ここからは私の推測なんですが、実はこうした一見さりげない、ごく普通の事柄の方が、統合失調症の人の発病トリガーとして意外と大きな意味があることが少なくないことを、私は中井久夫先生の著作で学んできました。

 それでも、すでに統合失調症から回復して幸せな余生を送っている(明らかに頭脳にある種の明晰さが十分に回復しているのは表情からも見て取れる)81歳のナッシュが、

「数学的探求というのは、合理的思考を突き詰める側面と、そこから跳躍して、非合理の領域に身と投じることを繰り返す必要があるのです。そのことが自分を追い詰めた側面はあったのかもしれませんね」

といった感慨を漏らしているのは興味深かった。

*****

 なお、映画では幻覚として描かれているナッシュの症状は、ほんとうは幻聴だったと、何かの機会に伝え聞いた気がする。恐らくそれは、映画の原作である、以下の本に書いてあることなのだろう:

ビューティフル・マインド 天才数学者の絶望と奇跡(邦訳すでに絶版)

 この本、訳に相当問題があるとのことなので、原書も紹介します。

A Beautiful Mind: The Life of Mathematical Genius and Nobel Laureate John Nash

(Googleブックスで一部が読めます)

 なお、映画「ビューティフル・マインド」については、自殺学の権威である、精神科医の高橋祥友先生がお書きの、「シネマ処方箋」という本でも1つの章を割いて言及されています。

*****

  なお、「幻覚とはあそこまで鮮明に見えるものなのか?」という疑問をお感じの方は、一般の方ばかりではなくて実際の患者さんにもあるようですが、ああやって幻覚と日常的に対話するという次元まで行くと確かにフィクションめいてくるかと思いますが、患者さんによっては、幻覚とは、多くの方がイメージするような、「ぼんやり浮かんで見える」なとという次元ではなく、まさに「3D実体」としてくっきりと生々しく「そこにある」ように感じられる例も少なくないことを、私は過去の臨床体験の中で、何人かの方からうかがって来ました。

*****

 ナッシュの件ばかりではなく、多くの数学者が証明に失敗し続ける中、リーマン予想に関わることは、数学界で次第に回避される時期に入ったという。

 しかし、それでもリーマン予想の証明に情熱を注ぎ続け、2回の失敗にもめげずに、70代になった今も挑戦し続けているのが、フランスのルイ・ド・ブランジュである。

 彼は、リーマン予想が、単に数学上の問題だけではなく、様々な科学法則の解明に役立つと確信していたが、時代はいつの間にか彼に追いつき、ある数学者と物理学者の茶話会でのさりげない対話をきっかけとして、学際的な形で、「リーマン予想」を、現在最大の学問的テーマとして掲げる国際的な取り組みが大がかりに始まっているという。

 ところが、そうした国際学会とは距離を置き、孤高を保ったまま、ド・ブランジュは、ついに3度目のチャレンジとなる論文を完成させるまでを、このドキュメンタリーでは追っている。

 論文を封筒に入れて、家を出て鼻歌を歌いながら歩き出した彼は、それでもなお言葉にする。

 「仮に今回の証明がまた失敗に終わっても、私は諦めない。再挑戦し続けるよ」

 そして、番組の最後のテロップでは流されるのだ。

 「数学的証明が認められるまでには、論文発表から2年間、世界中の数学者からの厳しい検証に耐えられるものとならねばならない」

*****

 この番組では、インターネット界の暗号化証明書の分野で名高い、VeriSign社の一番厳重な管理をくぐった金庫の下にある「宝物」が、スーパーコンピューターを駆使して見出された、物凄い桁数の素数のデータベースであることも紹介され、クレジットカードの電子決済など、私たちの身近なところで素数が大きな意味を持つことも紹介している。

 その一方では、学者たちの中に、リーマンの予測の証明が、宇宙法則全体を説明する「万物の理論」の成立につながることへの壮大な期待もあることが語られている。

 古くはギリシャの哲学者に始まり、ニュートン(彼も統合失調症だった可能性が高いことを中井久夫氏と飯田真氏は「天才の精神病理」の中で述べている)、多くの数学者や物理学者が、この「万物の理論」を求めての魔性の探求にエネルギーを注ぎ込む生涯を送った。

 しかし、この番組を観ていて、数学の門外漢である私(難しい理屈は可能な限り噛み砕いて、3D画像を駆使して直感的に何となくわかるような番組になっています)にとっても、学問を極めようとする挑戦者たちの、何度失敗しようと、夢と情熱を失わず、しつこいまでに粘り強く、同時に自由奔放ですらある人間くさい生き様に触れる機会となり、また、専門が違う意外な人との偶然の出会いが学問の大展開のきかっけになることへの感慨等、不思議と「元気がもらえる」後味を残したのである。

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2009/11/04

「乱造される心の病」は英文学者ではあっても、結局医学や心理のアマチュアの書いた、トンデモ本スレスレ水準だと思う。(第3版)

 前と後ろから攻めて3分の2読みましたけど......

 もうだいたいのところはつかめました。

 2009年10月4日付読売新聞における春日武彦氏による本書の書評は、まるで本書がうつ病と診断されている人について書かれた本であるかのような誤解を与えかねない記述になっているが、本書の実態はそうではない。

 この本はあくまでも、単に内気(原題:"Shyness")な人が、特に「社会不安障害」という診断に祭り上げられる過程について告発する意図で書かれたものである。

 しかも原著者は精神医学の専門家ではなく、気鋭のジャーナリストですらない。英文学者である。amazonの英語版サイトで星ひとつの人の酷評ぶりはすさまじい。

 「この本は教養課程キャンパスの象牙の塔の中で広まっているように思える、奇妙で、反科学的なパラノイアの典型です」(Gina Pera氏)

 結局、純情なまでの「フロイトおたく」の英文学者が、「正義の」力動精神心理学(=「フロイトの」精神分析。しかもかなり単純化されている)の旗の下、クレペリンに始まる「伝統的精神医学=脳科学主義者=薬物療法推進論者」の系譜という「悪の枢軸」を「仮想敵」として仕立て上げて、熱心にいろいろ調べて書いた、「まずは結論ありき」の本である。

 フロイトを引用する時の意図も、時々あまりに強引に自説に好都合な形になっている(それは、素直に読めば、「フロイトは将来の薬物療法の可能性に期待をかけていた」ことを示唆する筈の、「精神分析学入門 (中公文庫)」で書かれたフロイト自身の叙述を引用した、p.213以下で顕著に明らかとなる)。

 DSMを「脳科学=薬物療法的」観点からのみとらえるのは強引。むしろそこから一定の距離を取ることに腐心している面もある。

 むしろ、DSMが良きにつけ悪しきしつけ、行動主義的な「操作的定義」であり、特定の見地からの「原因論」に立ち入らないことを目指したとみるのが正道のはずである。

 薬物療法を使う医者が、まるですべて生得的な脳の問題としてしかとらえていないかのような「極論化」が行き過ぎている。心理的・社会的要因を無視する精神科医はそう滅多にいないと思う。

 つまり、医者が、DSMに「基づいて」診断や治療を「決めて」いるというのは、もはや「都市伝説」の領域に近い。

 心ある医師は、DSMが「診断基準」としては全く表層的なのを承知で、「共通語としての診断名」をDSMから慎重に「あてはめている」だけのことである。

 (もっとも、どういうわけか、本書では、統合失調症と「重たいうつ病」についてだけは、同じ論理では斬り掛らない。もうこの段階で「内因性精神病」概念の確立者としてのクレペリンを肯定していることになる「自己矛盾」があるのだが)

*****

 更に、裕さんのサイトふうに(^^)、翻訳の誤りを指摘すると、pp.41-42に出てくる「フランスのピエール・ジャネット」は、もちろん「ジャネ」が正しい。

・・・・ああ、フロイトの先駆者である筈の「力動心理学の雄」のジャネ様に何たる仕打ち。

(ジャネのフロイトの先駆者としてのあまりの重要性については、エレンベルガー(エランベルジェ)の「無意識の発見」(中井久夫訳)の上巻に詳しい)

エレンベルガー/無意識の発見 上 - 力動精神医学発達史

*****

 読んでいるうちに、精神分析系の人なら、大学院生の皆さんでも、内心(^^;;;;)な本だとお思いになるんじゃないかと。

 ひ・い・き・の・ひ・き・た・お・し

*****

 ●Amazonにレビュー掲載 しています。

 ★★にしているのは、著者レーン氏の旺盛な資料収集や取材量に敬意を表して★ひとつ余計につけたというだけのこと。

 冨高氏の著作の方を、その誠実さに敬意を表して★★★プラス2分の1とみなしていただいていいくらい、というのが本音です。

【第2版で追補 09/11/8】:

 Amazonレビュー版、本書を読み終えた段階で、更に推敲を重ねて、密度の高いものに練り上げました。

【第3版で追補 09/11/10】:

 Amazonレビュー版更に更に練り上げて、「止めを刺して」おきました(^^)

 この、長文のクリティカルなレビューが、なぜかすんなり掲載できた裏話をひとつ。

 Amazon日本版のレビューでは、"Amazon"あるいは「アマゾン」という言葉が入っていると、それだけで掲載されないフィルターがかかっているようです。これは煽りや議論のフレーム化を防止する対処なのでしょう。

 ところが、私が初稿をアップした時、私はいつの間にか、amasonとミスタイプしていたのですね(^^;) あとになってそのことに気がつき、その部分を"amazon"ないし「アマゾン」と打ち直して再アップしようとすると、その場合にだけ更新が反映されないことに気がつきました。ですから上記の「禁止語フィルター法則」は間違いないと思います。

 他の箇所は、一度掲載された以上は、どれだけ、どのように書き換えても瞬時で受け付けてくれます(^^;)

*****

 本論の続編、レーン氏がフロイトをいかに恣意的に引用し、自説に都合のいいように解釈しているかの典型例の指摘はこちら

クリストファー・レイン/乱造される心の病

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2009/10/28

カウンセリングの中で、自分の内面に気づけるようになってからが実は大変なのに・・・・

 以下は、裕’s Object Relational Worldの裕さんのエントリー、

単純な関係にしか耐えられないカウンセラー

へのコメントとして私が書かせていただいた内容の転載です。

*****

 田嶌誠一先生の言葉をお借りすれば、「カウンセラー」がただ自分の縄張りの中に待機していて、話を聴くだけの「密室カウンセリング」の打破は、これからの臨床心理士が否応なしに突きつけられるテーマだと思います。

田嶌誠一/現実に介入しつつ心に関わる―多面的援助アプローチと臨床の知恵

 早い話、「カウンセラーだけが」、クライエントさんのかかえた課題に応えていく「すべてを握っている」かのような思い込みは有害でしかない。

 カウンセラー(いや、援助的専門家全般)は、クライエントさんの置かれた「状況・環境全体との」相互作用を良循環に持ち込むためのアシストをする「ひとつの触媒」であるに過ぎない。しかし「たかがひとつの触媒、されどひとつの触媒」として尽力すべきなのである。

 仮に直接お会いしたり連絡を取らなくても、クライエントさんの家族だとか、主治医、担当教師、同僚、上司、治療クループの他のメンバー、いきつけのお店の人、近郊の住民(!)との相互作用の「良循環化」が生じる端緒がどこにあり、それが現実にどれくらい生じつつあるのかという「巨視的な」視点から状況全体を見守り、ここぞというタイミングで、クライエントさんにとって最小の努力と決断できる可能性がある「ささやかなこと」をアドバイス・提案できる「超プチ・危機介入」(クライエントさんがこちらの提案したとおりのことをする必要などない。ささやかな刺激剤になれば、あとは、無理のない範囲で、適切なタイミングで、こちらが思いもよらない切り口と方略で、クライエントさん自身が「勝手に動き出す」のを見守れればいいのだ)のセンスが臨床家には必要だと思う。

 さもないと、洞察的なセラピーを受け、下手に自分の内面に気づき、漠然とした違和感に敏感になり、「自分に嘘がつけなく」なる方向に「目覚めてしまった」クライエントさんは、場合によっては、以前よりも、苦しくて傷つきやすい形での現実との直面を強いられ、なのにカウンセラー側はそれに気づかず、勝手に舞い上がっているなどという事態は生じ得る。実は「気づける」ようになってからがクライエントさんは大変なのだ(・・・以上、自戒と過去の反省を込めて)。

 ・・・・書いているうちに思い出しましたが、こうした「患者さんを支えている隠れた対人ネットワークを細やかに観察する」発想法のひとつの古典として、中井久夫先生の「世に棲む患者」(1980年に書かれ、著作集第5巻「病者と社会」所収)は、やはり凄い論文だったと思う次第です。

*****

 「ポニョ」についての記事はこの次です(^^)

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