メラニー・クライン

2009/11/27

通算2000番目の記事 : バリント著「治療論からみた退行(Basic Fault)」

 ハンガリーに生まれ、フィレンツィに師事し、その後ドイツに渡り、更にイギリスに移住した、精神分析的対象関係論の大家、マイクル・バリント(ハンガリー読みにすると、姓と名が日本と同じで逆転するので「バーリント・ミハイー」)は、日本ではもっぱら故・土井健郎先生の「甘え」理論を国際的に紹介し、「甘え」理論との類似性で「一次的対象愛」という概念が精神分析系の専門家の間で人口に膾炙しているに留まる。

 しかし、バリントの真の集大成、主著というべき著作は、中井久夫先生の、もはや「原著を越えた超訳」とまで呼ばれる邦訳で、知る人ぞ知る、「治療論からみた退行」(原題:"Basic Fault")である。

マイクル・バリント/治療論からみた退行

 今、「超訳」と申し上げて置きながら、いきなりこのことに言及するのは気が引けるが、中井先生と縁が深い山中康裕先生が、たしか雑誌「こころの科学」で本書を紹介するにあたって、中井先生が、"Basic Fault"を「基底欠損」と訳し、その訳語が日本で普及してしまったことに対してだけは、敢えて唯一注文をつけておられる。

 山中先生曰く、「"fault"というのは地学でいう『断層』のことであり、何かが『欠けて』いるというのとは随分ニュアンスが異なるのではないか」。

・・・・ ごもっともな指摘である。

 「基底欠損(Basic Fault)」という概念を一言で説明するのはたいへん難しい。日本ではそれをまるでボーダーライン的心性と同一視するかのような理解がされがちだったように思う。

 確かに、バリントは本書の中で、「基底欠損」を、プレ・エディプス期の問題として位置づけてはいる。しかし、その切り込み方が、メラニー・クラインとも、マーラーの分離個体化理論を援用したマスターソン(「青年期境界例の治療」)とも異なる、独自の視点を持っている。

 私のみたところ、「基底欠損」の理論は、単なるボーダーライン性よりも幅広い現象を内包しているように思える。控えめにみても共通部分を持った、すっかりとは重なり合わないベン図のような構造になるのではなかろうか?

 バリントは、ウィニコットと共に、アンナ・フロイトの創始した「自我心理学」とも、「クライン正統派」とも一定の距離を維持する「独立学派」のひとりと呼ばれる。

 確かにウィニコットとの接点はたいへん大きい(それどころかビオンとの接点ですらバリントは本書で明言している!)。そして本書の「仮想敵」は、後述するように明確にメラニー・クラインであり、クラインへの批判に紙数を割きすぎたのが、少なくとも日本人の読者にはまどろっこしいのではないかと、訳者の中井先生ご自身が解説で感想を漏らしておられる。

 だが、ウィニコットの諸著作が日本でも熱心に読まれるのに比べると、バリントが本書で展開した独自の理論と治療的示唆に関心を持つ人は少数派であろう。

 そうなった最大の原因は、バリントがすでに先行する著作、「スリルと退行」の中で確立していた独自の新造語、オクノフィリアフィロバティズムという概念が、本書においても、更に発展された形で鍵概念とされていることが一見難解だと感じさせられることが大きいかと思う。

マイクル・バリント/スリルと退行

*****

 この2つの鍵概念についての概説に入る前に、バリントがなぜクライン理論にあそこまで反発したかという、本書の前半で展開される内容について私なりに概説したい。

 クラインやウィニコット、バリントは、神経症より重篤な事例に関連して、フロイト以降に展開され、プレ・エディプス期の早期対象関係を重視した、広い意味での「精神分析的対象関係論」に属することには変わりがない。

 広義の「対象関係論」とは、噛み砕いていえば、現実の「外的」他者の態度の摂り入れ(introjection)としてのみ人の自我形成過程をとらえるのではなく、個人内部での、一種の内的ファンタジーとしての「内的な」他者=「内的対象」との関係形成過程を重視する立場である。

 こうした観点は、実はフロイト自身もある程度予見し、示唆していたことでもある。そして何よりユングが「内なる他者」としてのアニマ・アニムス・影などとの交流過程を重視した先達なのだが、どうも対象関係論の人たちは、ユングを先達とみなすことは回避する傾向があるようだ。

 しかし、クライン正統派の場合、現実世界に存在する「外的対象」としての養育者の持つ意味が明確化されない「独我論」ではないかという批判は早くから生じた。

 そこで、ウィニコットは「内なる養育者」との関係と、「外的な他者」との関係を統合的に説明しようといいう方向性を強く打ち出し「錯覚(illusion)」「脱錯覚(disillusion)」という概念を巧妙に媒介とし、幼児の外界との一体化という「錯覚」に巧妙に応える時期から、次第にそれを遅延化させ、「脱錯覚」へと導き、信頼できる他者との成熟した関係性を確立する上での"good enough mothering"=「そこそこいい養育者」、あるいは「環境としての養育者」についての理論、あるいは養育者自身の代理、他者との継続的な関係性の媒介物ともいえる「移行対象」の理論、あるいは、親密な他者と共にいながら、それぞれが自分の世界に没頭できる能力形成が果たす役割を表現するための逆説的概念、「ひとりでいられる能力(ability to be alone)」、そして、ここでは概説しないが、「遊ぶこと(playing)」が治療関係で持つ意味などを次々に考察した。

 ウィニコットのこれらの最重要理論のほとんどは、

情緒発達の精神分析理論―自我の芽ばえと母なるもの (現代精神分析双書 第 2期第2巻)

遊ぶことと現実 (現代精神分析双書 第 2期第4巻)

・・・・この2冊だけで掌握可能である。

 バリントは、ウィニコットとは別の切り口から、プレ・エディプス段階における「内的対象関係」と「外的な他者との関係性」が果たす役割について統合的に考察しようとしたのである。

 このようにして、正統クライン派とも一線を画することをはっきり表明した分析家の一群を、フロイト以降の精神分析の領域で、狭義の「対象関係学派」あるいは「独立学派」と呼ぶ。

*****

 さて、前置きが非常に長くなったが、いよいよバリントの中核概念である「フィロバティズム」と「オクノフィリア」について概説しよう。

 バリントがクラインを批判する最大の立脚点は、「対象(object)」という概念それ自体にある。クライン理論は、対象関係=他者との関係を、まるで真空の中に浮かんでいる完全に自主独立した二つの固形的「物体」との間の相互作用のようにとらえているのではないか? 「対象(object)という概念それ自体の中に"objection"=「反発性がある」、輪郭が鮮明な「固体」的なものという含意があることにバリントは注目する。

 我々は、成熟してから後ですらも、ある意味で「前-対象(pre-object)」的な係わり合いの中にしか生きていないのではないか。ここでいう「前-対象」とは、バリントにおいては、もはや人間以外のすべての諸事象との関わり全般にまで拡張される。

 つまり、世界の諸事象と「調和的=相互浸透的渾然体」として融合されたあり方でしか存在していないという側面を背景として、現実の他者との関わりも考えるべきであるというのがバリントの視点である。

 そもそも「空気」がなければ人間は窒息することなど、普段は忘れているではないか?

 「魚とって、エラの中に存在する水が果たして『環界』なのか、魚の『内部環境』なのかを問うことに何の意味があるのだ?」と。

 これは「独立した自我を持つ主体」同士の交流を成熟した対人関係様式としてとらえる、欧米的な個人主義的な自我観を自明の前提としている人たちにとっては、何とも難解でぶっ飛んだ論の進め方に感じられたであろう。欧米で、正確に理解できた精神分析流域の専門家は稀れではなかったと推測できる。

 しかし、バリントには、東洋的な色合いも強く残した故国ハンガリーの血への基本的な共感が失われてはいなかったのだろう。

 人も万物もすべて同じ地平で眺めるという、非キリスト教的(いや、ユダヤ教やイスラム教にもそうした視点はない)=異教的な感性が脈々と受け継がれていたのであろう。

 ところが、数学・物理学・経済学の分野で名高いフォン・ノイマンをはじめとする数々のノーベル賞級科学者、科学哲学者ポランニから、指揮者(ライナー、セル、ショルティ、ドラティ)・作曲家(バルトーク)・音楽家(ブダペスト弦楽四重奏団)まで、非常に優秀な人材を一気に輩出した、第1次世界大戦後の長期にわたる度重なるハンガリー動乱の連続(1918-1956)の下での亡命ハンガリー人の知的階級の多くは、異国のでサバイバルのために、非常にタイトで厳格な方向のにのみ自分の技能を研ぎ澄ますところがあった気がする。クラインもその一人であろう。

 バリントがその道を歩まなかったのは、師、フィレンツィが、フロイトの時間厳守、中立性の原則を打ち破り、ついには心労で命を縮めた治療法の潜在的可能性を引き継いで完成させることを生涯の使命としたことが大きいようである。

*****

 さて、プレ・エディプス期において問題があった人="Basic Fault"を潜在的に抱えた人は、治療的面接場面が進むと、独特の退行様式を取り始める。

 それが「オクノフィリア」と呼ばれる現象である。

 オクノフォリアは、対象との全き融合の幻想が維持されることを求める。しかもその際に、対象と自分の間に「空隙」があることを「恐怖」する(「オクノフィリア」というギリシャ語をバリントが創出した背景)。

 その結果、対象が、自分の欲求を絶えず気遣い、先回り的に配慮してくれて「あたかも鍵穴に鍵をぴったり合わせてくれるように」対応してくれないと我慢がならないという状態になり、治療者を徹底的に翻弄する。そこにはすでに「通常の成人言語水準でのやりとり」は無力化する。

 治療場面のみならず、家族など親密な関係を持つ人物相手に、こうしたオクノフィリア的心性を顕わにする人たちは決して稀れではない。子供が少しでも「気が利かない」と逆上し、子供をいつまでたっても自分を補完する存在としてしか取り扱わない親など典型であろう。こうした親は、実は子供の方に際限なく「甘えて」いる現実に無自覚なままなのである。

*****

 ところが、この世には、「世界との完全な調和的一体感」を指向する点ではオクノフィリアと同じだが、全く正反対のアプローチを身につけた一群の人たちがいる。

 その人たちは、自らの持てる身体的技能(skill)を極限まで磨き上げ、古代ギリシャ以来「四大元素」と呼ばれたもの、すなわち「地(土)・水・火・風(空気)」をすべて自分の味方につけたかのような錯覚と万能感の中に生きている。

 これら4つの対象は、輪郭がはっきりせず、自由に形状を変容させ、対象を「包み込む」ことができるという点に特徴がある。

 典型的なのは、飛行機乗りやレーサーを一方の極とするスポーツ選手、演奏家、曲芸師などであろう。

 私流に言えば、「キャプテン翼」の「ボールは友だち」の世界である。「自分が」ボールを巧みに操っているのではない。「ボールの方が(そしてそれを包む空気やクラウンドの土の状態が)、まるで自分に『協力してくれている』かのような錯覚の世界にある。

 彼らにとっては、世界とは自分にとって「友好的な拡がり(frendly expanses)」として通常は機能してくれる。

 一般の人からすると危険でスリリングすぎる活動に身を投じることこそ、彼らの生の充実感、世界との一体感を支えている。中途半端なややこしい「社交的な」関係なんてほんとうはできるだけ回避したいくらいなのだ。

 (もっとも、フィロバティックな心性を持つ人の中にもオクノフィリア的心性は存在することをバリントは言い忘れてはいない。安心して深い絆を形成できる人物に「見守って」いてもらえていることが支えとなっていることが多いというのだ)

 一芸に秀でたスキルで世を渡っていくという点からすれば、非常に幅広い職種の人が含まれることだろう。アニメーターだって、ある意味ではカウンセラーだってその種の人間であろう。

 このような存在のあり方を「フィロバティズム」と呼ぶ。

 フィロバティズムを生きる人にも弱みはある。自分のスキルに故障が出た時。心身が燃え尽きた時。あるいは突然の気象の変化や機器の故障が生じた時、彼らは失調するばかりか「事故死」の危険と隣りあわせということにもなるのだ。

 自らが死や破滅と隣り合わせの生き方をしていることに、誰よりもフィロバティズムを生きる人たち自身が気がついている。それゆえに、安心してくつろげる、気の置けない対人関係も、限られた人たちとでいいいから大事にしようとするはずだと、私は思う。

*****

さて、バリントが、治療関係において必要なのはどういう関係であるかについて述べた部分を引用して終わりとしたい:

========引用はじめ========

 分析の場における沈黙の意味には二つあるだろうということには皆同意していただけると思う。ひとつは恐ろしい空虚という戦慄的な体験をしている場合である。空虚は疑惑に満ち、敵意に満ち、拒絶に満ち、攻撃性に満ちている。前進を阻む沈黙であり、結局不毛に終わる沈黙である。しかしまた、沈黙がおだやかな静かな調和体験の場合もある。平和と信頼と受容という雰囲気である。つまりおだやかな成長の時期、統合の時期でもありうるのだ。分析家にもっとも必要なのは、今向かいあっている沈黙がどちらの型なのかを識別することである。

 フィロバティズム的偏向をもつ技法においては、おそらく、解釈をわずかしか用いないだろう。特に退行した患者に対する時はそうなるだろう。分析者はたえず患者を見て、[次の]どちらの態度をとるべきか考えるだろう。すなわち、個別的な対象の役割をとり、退行した患者を安全な距離が見守り、この冷静で客観的な視座からことばで綴った解釈を与えて理解を求めるのがよいのか、あるいは自分も「友好的広がり」の一部と化して、何一つ要求せず、ただ息をしているだけの存在としてあり、患者に欲求が起こればさっそく役に立とうとする構えだけは持ちつづけるのがよいのかを考えるのである。(中略) 最大の危険は、この技法が患者にあまりに多くをゆだね、早すぎる時期に大きすぎる独立性を押しつけることであろう。 (中略)

 [もう]ひとつはオクノフォリックな方法であって「患者の手をとって」ゆく方法である。どうしてこの動きをしてあの動きをしなかったのかを一貫性を以て解釈してゆくことである。ここに内在する危機としては、患者が分析家を理想化してこれを寛大で慈愛こもった人物として取り入れるように誘導する恐れがある。こうなると患者の自由が制限されて、理想化された対象が処方し許容してくれる範囲から出られなくなってしまう。

 自由とは、私の考えでは「友好的広がり」の再発見のことである。それはフィロバティックな世界の中にあって、成人的なスキルを身に付けることを要求するものであるが、その背後には、何も要求せずに抱きかかえてくれる一次愛の世界が控えている。誤解されると困るので、「友好的広がり」の再発見があらゆる対象を完全にあきらめることを意味するものではないことを言っておかねばならない。

 そうではなくて、それはただ、[オクノフォリックな]絶望的なしがみつきをやめて対象から一定の距離を置いて独りで立つ能力すなわちスキルを身につけるだけのことであり、そしてそうすることは対象を「正しい釣り合いにおいて」眺め、「真のパースペクティヴ」の中で対象を獲得するために必要なのである。

 新規蒔き直し(new beginning)時期における分析者の役割は、多くの点で一次物質あるいは一次対象の役割に似ている。分析者は存在していなければならない。分析者は高度に可塑的でなければならない。あまり抵抗してはならない。破壊不能性を示さねばならない。これは確かなことだ。また一種の相互滲透的調和渾然体の中で分析者と共に生きることを患者に許容しなければならない。(中略) おおよそ、友好的物質という、一点の曇りない調和体だけがあり、その中から対象が成立する以前の体験である。

 [退行の]良性形では、患者はさほど外的行動[を治療者に「してもらう」こと]による満足を求めず、それよりも外的世界を活用して自己の内面の問題に前途の途がひらけること、私の患者のことばを借りれば”自分自身に到達できるようになること”をそっと認めていてほしいと希う。(中略)

 認識されるための退行(中略)では、あたかも大地や水が己れの体重を安んじてあずける者を支え返してくれるように、患者を受容し支え荷うことを引き受ける周囲の人々のいることが前提である。物質としての治療者は抵抗してはならない。引き受けねばならない。あまり摩擦を起こしてはならない。患者をある期間受容し荷い、自分は潰れないことを示さねばならぬ。境界線を越えないぞとつれなく言い通してはならない。患者と自分との一種の渾然体の発生展開をゆるさねばならない。

 以上はすべて、患者に同意し、関与し、巻き込まれることを意味するが、必ずしも具体的働きかけをする意味ではない。ただ理解と寛容だけでよい。ほんとうに大事なのは患者の内面つまりその心の中でさまざまの出来事が生じうる条件を維持し創造することだ。[分析者は患者を積極的に荷おうとはせずに、水が泳ぐ人を支え、大地が歩む人を支える具合に荷い支えるべきであるということ。すなわち患者のために存在し、またそうされることにあまり抵抗を感じないで患者に使用されることである。

 我々は立居振舞(behavior)、空気(climate)、雰囲気(atmosphere)などのことばを使うが、これらは皆、漠然としたカスミのかかったような、画然たる境界を欠くものを指すことばで、(中略)にもかかわらず”雰囲気””空気”というものは存在し、感じ取られ、しばしばことばでの表現を要しない。(中略)

 ”洞察”とは的を得た解釈の結果生まれるものだが、洞察が生まれるにふさわしい対象関係が創出されたならば、その結果は一種の”感じ(feeling)”である。

”洞察(insight)”が視覚と対応するとすれば”感じ(feeling)”は触覚と対応する。すなわち一次関係かさもなくばオクノフィリアである。

 ある一種類の対象関係に硬直的に固執すべきではなく、いつでも患者とともにオクノフィリア的とフィロバティズム的の両原始世界を往復する心構えが必要であり、時には両世界の彼方の一次関係まで行く心構えがなければならない。(中略)

 解釈は、分析者が「患者は確かに解釈を求めている」と確信できる時に限り与えるべきものである。こういう時に解釈を与えないことを不当な要求あるいは刺激と感じるだろうからである。(中略)

 仮に分析者が以上の条件の大部分を留保ぬきで誠実に満たすことができれば、ここに新しい関係が生まれ、それによって、患者は、自己の精神構造の欠損あるいは瘢痕形成の原因となったそもそもの欠陥と喪失の悔みと悼みをある形で体験できるようになる。その悼みは、現実に愛する人の喪失や、内的対象への打撃あるいはその破壊という、メランコリー[抑うつポジション]特有の事態が原因で生じる悼みとは全然別物である。

 私がいま頭に抱いている悔み悼みとは、自分自身の中に欠陥・欠損があるという動かしえない事実に対する悔みであり悼みである。(原注:この悼みは、元来基底欠損に対する過剰代償として生じたらしいナルシシズム的自己像を断念すること[こういちろう注:世界との、他者との全き調和の断念。自己のスキルに対する万能感の断念…とも読解できよう]と関連した悼みである。(中略)

  分析者がこの悼みのための時間を焦らずに十分長くとり、またその間、必須の原初的雰囲気を寛容と干渉的でない解釈によって維持できるならば、患者と分析者の共同作業の仕方は以前とは少しずつ変わってくる。それは、まるで、患者が対象との関係における自己の位置付けを進んでやり直し、自己の周囲の、魅力を欠き冷淡なことの少なくない世界を受容できないかと考え直そうとし、またその力が出てきた気がしはじめたことを思わせるような変化である。

========引用おわり========

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2009/09/03

「カウンセラーこういちろうの雑記帳」の主要過去記事を一番簡単に一覧するには

 このブログって、すでに創設4年9ヶ月、過去のエントリー記事総数が、「この」記事で1,914本め、なのに一日あたりの新エントリー、平均1.10本以上を現在も維持、しかも長文が多いという、へヴィー級ブログです。

 おかげで、もはや@ニフティココログが割り振ってくれているサーバー負荷が相当なものになっているせいか、

  • 私の方からトラックバックを送ることがもはや機能しない
  • pingも自動では飛ばせない(その割には随分多くの読者の皆様が、新記事アップ直後においでいただけることを幸いだと感じています)
  • カテゴリーにすべての記事が反映しない(カテゴリーによっては300から400エントリー分表示されようとするわけで)

・・・・・という、新しくおいでいただいた読者泣かせのブログになっていると思います m(_ _;)m

****

 もちろん、バックナンバー全体を表示してくれる、『アーカイヴ』ページ(自身がココログユーザー以外の読者の皆様、お気づきでしたか??? 右フレームの「バックナンバー」という文字そのものをクリックするとたどり着けます)というものも、あるにはあるわけです。

 しかし、このページにお行きになっていただいたとしても、過去の個々のエントリー記事のタイトル一覧があるわけですらない

 このページからの「〇年〇月」を全部めくっていただくだけでも(全く休眠した数ヶ月を除いても、現在50か月分ほどあるわけですね(^^;)。その50ヶ月分、それぞれ月ごとに、毎月30から40エントリーずつはあるわけですから・・・・・

 つまり、私がこのサイトでこれまで書いてきた主要記事がどんなものか、新しい読者の皆さんにおおよその見当をつけていただくには、もうデタラメにご不便をおかけしていることと思います   il||li _| ̄|○ il||li

*****

 この問題を一気に解決し、

  • 新記事の方が上に来る形で、
  • 過去の記事に関しては私がある程度絞り込んでセレクトしたものを、
  • 数百記事ばかり、1ページをスクロールできる形で
  • ブログのような表示の重さがない形で一覧したいただける

そういうページが、実はずっと以前から存在します!!

●阿世賀浩一郎のホームページ/index

 開設1995年12月(つまりWindows95発売直後)開設、日本において、インターネットで個人サイトを作ることが本格的に普及し始めた黎明期から、何と基本的なデザインを変えないまま運営し続けているサイトです。

 かつては、ネットを代表するエヴァ・サイトのひとつ、「エヴァンゲリオン論考」で著名だった時代もありますけど、幸いにして著作化させてもいただきましたので、そのコーナーは全面削除いたしておりますが(「ちーちゃんの部屋」というアニメコーナーがかつて存在したことを覚えておられる方もあると嬉しかったりして ^^;)・・・・

そのトップページから、このブログでの新エントリー記事を書く度ごとに、固定リンクへのリンクを、たいてい速攻の連続作業でお貼りしてもいるのです。

 恐らく、皆様のRSSリーダーに反映するスピードの比ではない「即時性」で「新着情報」が掲載され続けています。

 同一エントリー記事の更新(改版)情報すら、可能な限り早くお伝えしています。

 

そこに並んでいる、当ブログ個別記事へのリンク数は、常時数百あるはずです(古いものから時々、精選のための「ダイエット」をかけますので、一定数以上には増えません)。

 しかし、敢えて今でも、基本的には「素朴なhtml言語の手打ち」に依存し、javaスクリプトすらないに等しいということで、このトップページそのもののバイト数の多さの割には、表示が圧倒的に軽い筈です(このブログのトップページを表示するよりは軽いと思いますよ)

 
当方のアクセス解析によって、「こっちのページで新着情報見つけるほうが手っ取り早い」ことにお気づきの、毎日数名以上の固定ユーザーの方がおられることは掌握しています(感謝!!)。

 しかし、そうした方の占める比率が以前よりもかなり減っているようにも思いましたので、改めてご紹介させていただきました。

 

今後とも、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」をよろしくお願い申し上げます。

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2008/09/04

カウンセラーとクライエントの「こころ」が共同で生み出した「物語」への尊厳

 前の記事で、私のカウンセリングルームでの「個人情報のお取り扱いについて」に出発してひとつの問題提起をしました。

 今度は、別の条項を引き合いに出して、少し違った観点から問題提起をしましょう。


7.甲(カウンセラー)は、学会発表や著作等に、乙(来談者)との相談内容を具体的に事例として記述する場合には、乙の許可を受けて公表します。その場合も、乙との相談が終結して原則として満 1 年を経過した事例についてのみ公表します。乙 には事前に発表内容について閲覧し、甲に修正を求める権利があります。公表の際、聴衆や読者に乙という特定の人物が推測・同定できない水準まで、個人情報の一部を改変・省略して公表するように努めます。

 こちらの方は、すでに臨床心理士の共通理解として定着したものです。

 私も異論はありません。個人情報保護の観点からみても、必要なことですし。

 たいていのカウンセラーが実践しているのは、「発表についてクライエントさんの承諾をいただく」という水準のことかもしれません。

 しかし、特に日本心理臨床学会大会の多くの個人口頭事例発表に参加して気がついたのは、近年、クライエントさんに、発表草稿全体を文書の形で全文クライエントさんに読んでいただき、いただいた感想まで含めて発表なさるカウンセラーの皆さんが徐々に増えて来ている気がするということです。

 私はこうした発表者の姿勢に心から敬服しています。


*****


 一方、クライエントさん本人に「発表すること」の許諾は求めても「発表内容」全体までクライエントさんに開陳することには踏み切れないでおられるカウンセラーの皆様は、少なくないかと思います。

 
*****


 個人情報保護の観点ではなく、純粋に臨床的観点から考えた場合、「発表することをクライエントさんに許諾していただく」ということそのものが、治療的に悪影響を与えないか、という不安を、多くのカウンセラーは一度は抱くと思います。 クライエントさんの症状が再び悪化したらどうしよう?....などと。

 確かにこれは大変デリケートな問題なのですが、少なくとも、「発表の草稿をお読みいただくこともできます」と選択肢を提示したり、「私としては、むしろ一度お読みいただきたいのです。よろしければ、感想やご意見、間違いの指摘などをいただきたいのです」と、カウンセラーの側から提案することは、フランクになされていいのではないかと感じます。

 カウンセラーの方によっては、むしろ、これを「フォローアップ面接」のいい機会と受け止めておられる方もあるかもしれません。

 もちろん、こうした、発表についてのクライエントさんとの話し合いの中で、クライエントさんが発表に難色を示した場合には、どれだけ発表したくてもおやめになるカウンセラーの方が多いと思います。

 特に「成功事例」と考えるものを発表する場合、そこには、カウンセラーの中にある「評価を受けたい欲求」という厄介なものが介入していることも少なくないかもしれません。しかし、それが発表者の「記憶そのもの」を変容させる可能性は,確かにあると思います。

 しかし、「失敗事例」「中断事例」とカウンセラーご自身が考えているものを敢えて学会で発表したり、論文で書こうとされているカウンセラーも増えて来ているように思います。こうしたことは、一般にはあまり知られていないかもしれませんが、こうした事例で的確な考察がなされているもの、あるいは、座長やフロアの参加者と活発な議論がなされた上で、それも大事にして論文におまとめになることは、他の臨床家にとっても、大きな学びの場を提供して下さることとなり、敬意を表しています。


*****


 更に、事例研究発表を考える際に忘れてはならないのは、発表するために、記録に基づき再度事例を振り返り、まとめ直し、考察する過程そのものが、実は、カウンセラー自身による、面接過程の「再話」であり、「物語化」であるということです。

 私はこれを、必ずしも否定的な意味で述べているのではありません。そうした再検討の過程で、記録の中の、完全に忘れていたさりげないエピソードに気づくことをきっかけに、以前から頭の中で思っていたのとは別の形で事例全体が見えてくることは、実によくあることだからです(臨床家の皆さん、経験がありますよね?)

最近、「ナラティヴ(説話、あるいは「物語ること」)」という社会構成主義の観点からカウンセリング過程を検討することが盛んになっています。私は、実は未だにこの用語についてほんとうに納得できたと感じたことはない不勉強なものなので、以下の内容はこの概念の奥行きを理解していない浅学な者の引きつけ方かもしれませんが、ともかくナラティヴという概念も連想した、私個人の素朴な考えというぐらいのつもりで以下の内容をお読みいただければ感謝いたします。
 

*****

 
1. そもそも、クライエントさんが、カウンセラーに語り出す内容そのものが、すでに、クライエントさんが無意識のうちに創造したた「物語」だともいえます。

2. クライエントさんの周辺の人たちが、クライエントさんをどう見ているか、というのも、ひとつの「物語」です。

3. 更に「周囲の人たちが自分をどう見ているのか」というクライエントさんの「物語」という次元がある訳ですね。

4. カウンセラーがクライエントさんの話をどのように理解するかも「物語化」の過程です。

5. カウンセラーにどのように理解されているのか、というのも、クライエントさんの「物語」です。

6. そして、こうしたこと全体が複雑に相互作用している多元的なトポス(場)として、治療場面は存在します。


 いずれにしても、「事例発表」は、質のよい事例発表ですら、クライエントさんが聴いたらびっくりたまげかねないような「カウンセラーの物語」になっている可能性はたいへん高い。これは、カウンセラーが誠実であろうとしているか、などと言った次元でなく、生身の人間ゆえの限界でしょう。

 現実には、事例発表の段階で、すでにそのカウンセラーを直接指導する先生や、スーパーバイザー、事例検討会に参加した他の参加者の紡ぎだす「物語」との相互作用が進んでいるわけで、それらをもとに学会発表された時点ではすでにもの凄い「物語化」が生じているわけですね。

 それを学会で口頭発表する際に、クライエントさんの感想も聞く。

 更に、学会発表の際の座長やコメンテーターの先生や、フロアからの発言。

 それに輪をかけて、論文を投稿した後の、査読の3人の匿名の委員の先生との文書によるやり取りの繰り返し。

 ......果たして、これらがほんとうに、カウンセラーの見地を「より真実に迫らせた」といえるかどうか????

 何しろ、ロジャーズ派や一部の家族療法を除いては、面接の過程の記録を、録音や録画の形で検証可能な状態にないのが普通です。仮にそれらが存在したとしても、リアルタイムで面接と同じ時間をかけて)再生し、それらを全検討者が検証するというのは非現実的であり過ぎます。どこかで「圧縮」が必要なのです。


*****


 だとすると、最低限どのラインで、「物語化の副作用」を抑止し、修正することでけじめをつけるか。

 私の答えは、面接過程の中で、折々、クライエントさんと、それまでの面接過程について小刻みに振り返り、クライエントさんがそれまで感じていたけどコトバにならなかった違和感などを、面接のなかで取り上げて互いに納得いくまで相互作用することを繰り返し、学会発表のための草稿をまとめる時点でその一応の総決算をしておくことだろうと思います。

 まずは、このことがカウンセラーとクライエントさんとの相互作用の中で、丁寧になされていること。


 敢えて言います。

1. カウンセリングの過程をどう受け止めるかは、究極的にはまずはクライエントさんの内心の自由であること。

2. 続いて言えば、カウンセリング過程の直接の当事者であるクライエントさんとカウンセラーの共有物であるということ。

3. もし、これが、カウンセラーとスーパーバイザーや指導者との共通理解の方が、2.よりも長期にわたって優先するようになったら、もはや注意すべき状態ではないかということ(たとえ、いわゆる「現実吟味」が低下している重症精神障害や認知症や発達障害の場合ですら!!)。

4. 時として、カウンセラーとクライエントさんの間のいわゆる「転移/逆転移」関係の中で、一度お互いに何らかの意味で「クレージーな」状態を経過するリスクを幸いうまく切り抜けられたので、活路が開けるということもままあることである。指導者やスーパーバイザーは、そうした可能性を一方で必要な時点で示唆することを忘れるべきではないが、クライエントさんとの相互作用のただ中で、両者が自発的に脱錯覚していく権利は保証されるのが望ましいのではないか。


******


 面接過程は、担当カウンセラーとクライエントさんの共同作品です。

 いかなる権威も、指導者も、二人の関係に、ある「尊厳」を感じ、「抱え」の姿勢で見守る、フィロバティックな姿勢を堅持してこそ、自律的な、責任感ある、経験を消化する力の高い、良き治療者は育つのだと思います。


*****


 私は、6年ほど前、福岡在住で、ウィニコット、ビオンをはじめとするイギリス対象関係論のもっとも誠実な日本での指導者であり、現場カウンセラーとしては、重度の摂食障害患者との入院治療で知られた、松木邦裕先生に、かつて、大会場での事例のコメンテーターをお願いするという、怖い者知らずなことをいたしました(カウンセリング関係者なら、これがいかに無謀か、ご想像できるかと)。

 結局、例のごとく、カミソリで痛みもなく斬られました(^^;)。

 先生の見解にすべて納得したわけではありません。

 しかし、先生の


 「クライエントさんを汚しちゃいけないよ」 


という言葉だけは深い印象に残っています。

 ......ここからの自由連想なのですが、


 「クライエントさんと、カウンセラーの関係を、汚しちゃいけない」 


とも言えるのではないか。


 .......日本中のカウンセラーの指導者の先生方に向けて。


*****

この記事、更なる続編がこちらにあります。

*****


 臨床心理における社会構成主義的アプローチについては、東京大学の下山晴彦先生のセミナーに一回出た経験しかない。

 わかりやすい入門書は、以下の本だそうですね。


●ナラティヴ・セラピー入門 高橋 規子 (著), 吉川 悟 (著)  金剛出版
 

2008/08/13

「カウンセリング」?「心理療法」?「セラピー」?「ヒーリング」?

 「カウンセリング」という言葉は、今日、社会の中でいろんなジャンルにわたって流通しています。

 その一方、次のような言葉もありますよね。

A.心理療法
B.精神療法
C.サイコセラピー
D.セラピー
E.精神医療
F.精神分析
G.ヒーリング(癒し)


 .....これらの言葉の関係を整理してみましょう。


******

●「心理(精神)療法」(サイコセラピー)とは、専門家の言うとおりに受身に従うだけでは効果をあげないはず。

 「心理療法」と聞くと、


「心の病気や症状を抱えた人が、専門家によって心の治療を受けること」


というイメージが強いかと思います。


 しかし、どのような流派や手法のセラピーでも、セラピーを体験するとは、単にセラピスト(カウンセラー)に言われるままに受身に従っていくということではありません。

 およそ、流派に関係なく、相談に来た人(クライエントさん)からの反応や感じ方をカウンセラーが敏感に受け止め、面接や心理療法のその後の展開に臨機応変に役立てていかない心理療法やカウンセリングなど存在しないはずと私は考えます。

 心理療法やカウンセリングとは、相談においでの一般の皆様と、専門家としてのカウンセラーとの「共同作業」の中で、初めて真価を発揮するものです。

 そういう共同作業をうまく進めるために、相談においでの方からの、時として予想もしない反応を汲み取り、柔軟に生かすための技量こそ、カウンセラー(セラピスト)の「専門家としての能力」を決定づけるものであると私は考えます。


 ですから、(私のカウンセリングルームに限らず)カウンセラーに相談に来られる皆様、カウンセリングの進みかたやカウンセラーの言うことに違和感を感じたら、どうか遠慮なさることなく、できればその回の面接が終わる前に、カウンセラーに伝えてください。

 そうした際に、誠意をもって受け止め、むしろカウンセリングの進展に役立てようとする姿勢を柔軟にとれるのが、流派に関係なく、いいカウンセラーだと私は思います。


******


●カウンセリング=心理(精神)療法

 日本においては、戦後早い段階で紹介されたカール・ロジャーズの来談者中心療法の大きな影響もあり、

「カウンセリング」=「サイコセラピー」=「心理療法」

という共通理解が専門家の間ではほぼ定着していると思います。


つまり、


 (心理)カウンセラー=サイコセラピスト(あるいは単に「セラピスト」)=心理療法家


とみなしていただいてかまいません。


 どうも一般の皆様の中には、


「カウンセリング=具体的な事柄について解決するための軽い相談」


誤解されている場合も少なくない気がしますので。

※このサイトの記事でも、「カウンセリング」と「心理療法」という言葉を同じ意味に使いますし、心理療法の専門家(セラピスト)全般を指す意味で「カウンセラー」という言葉を使います。
 


*****


●心理療法=精神療法=サイコセラピー


 実は"psychotherapy"という英語の日本語訳が「心理療法」あるいは「精神療法」であるに過ぎません。

 訳しかたの違いに過ぎず、全く同じ意味なんですね(^^)

 どちらか深いもの、あるいは本格的なものというわけでもありません。

 では、こうした訳語の違いが生まれたかといいますと、日本では、精神科医・心療内科医など、医療関係者は「精神療法」と訳する伝統が生じ、臨床心理士など、医師資格を持たないカウンセリング専門家は「心理療法」と訳するという、暗黙の合意が、専門家の間でいつの間にか長年のうちに生じたということ。それだけです。

 もっとも、現在、現実には、精神科医が「心理療法」という言葉を使ったり、臨床心理士などの心理カウンセリング専門家が「精神療法」という言葉を使うことも現在では普通です。


※臨床心理士である私は、このサイトの中では、「心理療法」という訳語に今後統一します。すでに述べましたように、「カウンセリング」という言葉を使った場合でも「心理療法全般」という意味と区別していないのですが。


*****

●「セラピー」と「心理療法」(=「サイコセラピー」)との関係


 セラピー"therapy"という言葉には、単に「治療(法)」という意味しかありません。医師やカウンセラーの行なう「専門的」治療法にとどまりません。心に限らず、もっぱら身体を治療する技法全般も含まれます。

 例えば、「温泉」だって十分にセラピーだし、都市を離れ、自然に包まれた環境で静養したり散策することだってセラピー、何を食べるかに注意を払うことや、音楽や絵画を解消することセラピー、スポーツ・運動すらセラピーといえる場合があることになりますね。

 敢えて申し上げると、薬物「療法」ですらセラピーともいえます。

 しかし、今日、日本に限らず、世界的に見ても、身体の治療や健康増進のみを目的とするのでなければ、カウンセリングや心理療法、ヨガや瞑想などを含めたすべての技法を「セラピー」と呼ぶことが増えているように思います。

 ヨガや瞑想に関心を持ち、真剣に深く極めている臨床心理士もたくさんいます。

 しかし、単に「セラピー」といった場合にも、もっぱら臨床心理士などの資格ある専門家が行なう、狭義の、学術的とされる「心理(精神)療法」やカウンセリングを指す場合も多く、「心理療法(サイコセラピー)」との厳密な区別はなくなっているようにおもいます。


*****


●スピリチュアルな次元での悩み


 私はそうした東洋的修行の体験はありませんが、いわゆる「スピリチュアル」な次元についてのご相談にも、信じる宗教・宗派に関係なく誠意を持って応じています。

 欧米では、「私は教会の行事やお祈りは熱心にささげて来ましたが、実は神の存在を本当に確信したことがないことで悩んでいます」というような相談はありふれているとのことですし。

(メアリー・ヒンターコフ著「スピリチュアリティとフォーカシング」による)

*****


●「ヒーリング」という言葉


 さて、最近は「ヒーリング」(癒し)という言葉が流行しています。

 「ヒーリング」という言葉は、実はそれを用いる人、聴く人によって全く異なる次元で理解されている気がします。

 「苦しい修行や内面を見つめ抜くことをしなくても、受身に体験するだけで心身が癒されること」

と理解している人がいる一方、正反対の極には、

 「通常の心理療法やセラピーは、個々の症状や問題を解決するという次元にしか届かない。<たましい>の救済、スピリチュアル(霊的・超越的)な次元での<癒し>は、時として苦しい修行を重ねて、やっとたどり着ける」

と理解している人もあるように思います。

 そして、どちらに理解するにしても、そうした癒しを求め続けて、たどり着けなくて悩んでいる人、「そういう癒しは現実逃避に過ぎない」と批判的にとらえて、家族や知り合いを批判しながらも、対処に困っている人もいれば、そうした疑いに自分の中で苦しんでいる人もいるかと思います。

 私は、「ヒーリング」の正しい理解と何かを判断する立場に自分があるとは思いません。

 しかし、こうした様々な次元での理解と困惑を背景としてのひとりひとりの皆様のご相談にお応えしていくのが務めだと考え、実践しているつもりです。

***

●狭い意味での「心理療法」


 「心理療法(=精神療法=サイコセラピー)」という言葉は、


カウンセラーとクライエント(相談においでの皆様)の間で、
1対1で行なう、
主として言葉のやりとりを通してなされる技法


.....を指すことがあります。


 こうした場合、「心理療法ではないもの」として、次のようなものと比較して使われているのですね。


* 観点a:「薬物療法」 との区別

 .....別の項で述べますように、心身の「診察」をして、法律的効力のある「診断」を行うこと、そして「薬物」を処方する権限は医師にしかありません。

 また、精神科医・心療内科医でも、カウンセリングや心理療法に熟達し、研修を重ねたた人はいます。そういうお医者さん行なう、薬物療法以外の診療活動全般を「心理療法(精神療法」と呼ぶこともあります。

 もっとも、お医者さんの少なからぬ場合、お医者さん自身が、得てして30分から10分程度、ともかく患者さんの話をきくことをしていれば「精神療法(心理療法)」と呼ぶことも少なくありません。

 時間が短いからといって、1時間かけた臨床心理士のカウンセリングよりも価値が低いとは限りません。 

 実力のあるお医者さんは、1回ごとは短時間であっても、密度の高いやり取りを続けるすることによって、十分に「治療的」で、クライエントさんの役に立つやりとりをするだけのセンスを磨いていますので。

* 観点b:「言語のやりとり」以外も重視する療法との区別


 例えば、

「行動療法」(内面の洞察よりも問題行動そのものをなくすことを重視する療法)
「表現療法(=芸術療法)」=絵画療法・箱庭療法・音楽療法・身体を動かす療法など

と区別するために「心理療法」という言葉を使う場合があります。

 最近は、誤解を避けるために「対話的」心理療法という言い方もよく使われるようになりましたが。

 もっとも、行動療法や箱庭療法でも、多くの場合、カウンセラーとクライエントさんとの言葉のやりとりは、時々はなされていることが少なくないわけです。

 一方、主として言葉のやりとりを中心とするかに見える心理療法でも、クライエントさんの表情の変化や、実際には言葉に出して言えないでいる思いがあるのではないかことを大事にしない心理療法はありえない気がします。

 そうした際にどのように対処していくかも、そうしたセラピーの効果に大きく影響します。

 あるいは、主として言葉による対話によるやり取りを中心としてやり取りを進めていても、そうした中で、絵や図に書いてみることをクライエントさんに提案したり、カウンセラーの側から絵や図を描いてみたり、クライエントさんが自分で書いてきた、あるいは持ってきた詩や俳句や絵や漫画や音楽をネタにしたコミュニケーションを柔軟にしていくカウンセラーさんも多いと思います。私もそうした立場です。

 ですから、行動療法や表現療法を含めて「心理療法」という言い方をするのでかまわないと私は思っています。


******


●「精神分析」という言葉

 
 一般の皆様の中には、カウンセリングや心理療法に当たる専門家とのやり取りのことを「精神分析」と呼び、精神科医による薬物治療によらない治療法全般を指すつもりで理解されておられる方も少なくありません。

 「精神分析を受けたいのですが」と相談申し込みをされた時、どんな流派に属するカウンセラーであっても、安易に「ここでは精神分析はやっていません」と口にしてしまうと、それだけで不必要な誤解の火種をまくことになる気がします。

 一般のクライエントさんに,

「精神分析とは、フロイトの創始した心理療法のことで、厳密に言えば寝椅子に横たわっての自由連想をしていくことを基本とする。厳密には、フロイトから離反したアドラーの療法は「個人心理学」と呼ばれ、ユングの「分析心理学」を精神分析の一流派と位置づけることにも問題がある。その後、精神分析は、アメリカを中心とした「自我心理学派」、メラニークライン正統の「クライン派」、両者を仲介する立場にある「対象関係学派」に別れている.....」

......などと講釈することには、決してクライエントさんの求めに答えることではないはず(^^;)


 ますは、その人がイメージし、期待している「精神分析」とはどのようなものかをじっくり聞いてみることがまずは大事かと思います。

 フロイトが始めたように、ほんとうに、寝椅子に横になって自由連想をすることを期待されている場合もあるでしょう。

 むしろ、ユング派の夢分析に近いことを期待されている場合もあります。

 しかし、実は手法なんか役に立つ限り、広い意味での「カウンセリング」を受ける中で悩みや症状が解決していくならそれでいい、薬物療法にだけは不安がある、という人もあるかもしれません。

 薬物療法でもOKだという人すらいるでしょう(^^)


******


●たいていのカウンセラーは実は特定の「心理療法流派」に所属し、その技法にのみ忠誠を誓っているわけではない。


流派の違いというものはカウンセリングの効果の違いに結びつかないことが多い。

(未完)

2007/11/25

生得的触発機制?

 以下は、ゆみっちょん♪さんサイトの、「本能理論と対象理論(Instinct theory and Object theory)」というエントリーに私がコメントした内容です。ご本人のエントリーはリンク先をお読み下さい。

==========(引用はじめ)===========

 非常にコンパクトにまとまった概説ですね(^^)

 この辺は、確かガントリップの対象関係論についての概説書、「対象関係論の展開(小此木啓吾 訳)」で問題になっていたテーマとも関わるかも。そこでは「システム自我」と「パーソン自我」という図式でしたが、前者が本能(イド)に対する自我機構の形成という視点が強く、後者はまさに「対象関係」としての相互的な自我形成論になります。

 敢えて分類すれば、フロイトは前者的で、ハルトマンはそれを自我心理学の方向に体系化する立役者。どちらもやや生得主義。

 クラインは本能論的な面も残しつつも、対象関係論の先駆けともなった。

 クライン派から分岐した対象関係論学派においては、論者にもよりますが、基本的には本能論は「背景に退いて」います。でも、ウィニコットを考える際には、ウィニコットの言う意味での「真の自己」とは、実は生まれついて環境とバランスを取ろうとする自律的機能であるけど、「偽自己」とは、いわばユング的に言うと「ペルソナ」に近く、(ユングと同様に)社会性形成の過程で必要なものとみられているあたりをマスターソンやR.D.レインはものの見事に「誤読」した(^^;)

 それは置いといて(おいおい)ご存じでしょうが、生得的触発機制というものがあり、赤ん坊が適切な「キューだし」をしてくれるからこそ、motheringは養育者に形成されていく、という「親が親になっていく」成長過程との相互作用という脈絡を切り離して赤ちゃんの成長や自我形成をとらえるのは大問題というのは、もはや流派を超えて発達心理学の常識の域かも。もっともこのことはお母さんなら素朴な水準で気がついていることですよね(^^)

 自閉症や発達障害を考える場合、こうした乳児側の「キュー出し」の生得的な弱さが「親を」成長させる機会を奪う、という二次的な障害という側面も考慮すべきと言うことになります。

 あー、この問題についてここまでコンパクトに書けたのも、ゆみっちょんさんのエントリーの文章に「触発」(^^;)されてのことです。

 ついに林檎「完全制覇」したこういちろうより。

==========(引用おわり)===========

2007/06/26

カウンセラーが、「これを訊いたらクライエントさんを傷つけるのではないか」と感じる瞬間

 前回の「訊(き)く」論再論への更なる補足。

 少なくとも、カウンセラーが、「これを訊いたらクライエントさんを傷つけるのではないか」と感じる瞬間に、それをはっきり「自覚する」(アンのフォーカシング用語で言えば"acknowledge"する)ことは大事ではないかという気がする。

 一般に、

「これを訊いたクライエントさんを傷つけるのではないか」

と感じる時というのは、

「それを聞いて(敢えて文字を使い分けている)しまうと、自分(カウンセラー自身!!)が動揺して(傷ついて!)しまうのではないか」

という恐れが「投影同一視」されたものである可能性は、考量して見る意味があるのではないかと思う。

 「ひいて」いるのはカウンセラーではないかということ。

 クライエントさんが、その,カウンセラーの側の微妙な「引き」を、非言語的に覚知して、それ以上話すのを引っ込めるということは大いにあり得る。

 少なくとも、クライエントさんの側に、そういう「踏み込んだ」話をしようとすると、相手が「無関心な態度を何となく示して来る」という、歪曲された(?)認知(これ自体投影同一視)が日常の中で固執されている可能性はある。

 .....恐らく、これは、多かれ少なかれ、両者の「共謀」だろう。


*****


 .....少なくとも、カウンセラーの側が、

「ここから先まで『立ち入って』話を聞くことに躊躇している自分がいる」

ことをはっきり自覚してしまえば、それでカウンセラーは自己一致しているのである。

 それだけで、カウンセラーからが、更にその件について具体的に話してもらうように促さなくても、どういうわけか,クライエントさんは、そこから先の話を自分から語り出すかもしれない!!

 なぜなら、クライエントさん自身も、その瞬間に、「躊躇している自分」と向き合い、受容する方向に、関係性の中で、何となく、なってしまうから!!

 ........論理的ではないが、そんな気がする。

2007/04/08

「妄想」系VS.「知ったかぶり」系

 この世には、どうも、人のことを「妄想系」と呼ぶのが好きな、「知ったかぶり系」の人がたくさんいるようである。

(「知ったかぶり」については、こちらで書いたことを参照。間違っても茂木さんを「知ったかぶり」と言うつもりはないので念のため)


*****


 繰り返していいますけど、「思い込みをめぐらす」力は、人が生きて行く上で最も重要な能力のひとつだと思う(こっちも参照)。

 すべてを「気のせい」で済ませていたら、その人は確実に「破滅」する。

 大事なのは、思い込みをめぐらしにめぐらした上で、その思い込み全体から「自由になる」プロセスなんだよね。

 このことを、ビオンは、「もの思い(reverie)」と言ったのだとも、理解できると思う(突如、精神分析的対象関係論の話)


*****


 異性の俳優やタレントや歌手の「ファンになった人」で、その人と交際したり深い関係になったり結婚した場合について一度も「妄想した」ことがない人というのがいたら、何か「嘘くさい」(「水臭い」ではなく(爆))と思う。

それであんたはその人のファンか!! といいたくなる。


*****


 もとより、私もまた「知っかぶり」系でもある。

 何しろ、どれだけ多角的に情報集めたって、自分が知っている以上のことは何も知らないのだから。

 このことに謙虚であること

そして、

知らないことについては、結局想像の世界で埋めるしかないこと

(数学的・統計的推定ですら、ここでいう「想像の世界」のことと思って欲しい)

を受容していることが、「知ったかぶり系」の人が滅亡しないために心がけるべきことだろう。


******


 ちなみに、前の記事で、私が、今の自分が「水臭い」関係しか持っていないのではないかと気づいた、特定の相手として、ayu様しか連想できない人がいたら、

その人の方が、よっぽど立派な「妄想系」やな....

ユーブック

2007/03/12

今週の「地上の星」候補?

こうなったら多少の「情報操作」(CM)も自分にOKにしてしまいましょう(^^)。


"cord of love" -ストーカーの加害者と被害者の間の相互作用的悪循環-

........なぜかすでに今週に入ってアクセス上位に突如踊り出しつつあります。

読み返してみたら、まるで藤子不二雄さんのSF短編みたいなペーソスある持ち味の、「佳作」記事かなと,自分でも改めて「一読者」になって読んでみて、思いました。

2007/03/08

JASRAC:改変版「おふくろさん」の使用不可を通達(第2版)

msn=毎日版より。

やっと、この件もまさに「日本の最高決定機関」が「公式に注意」したことで、収まる形に収まりそうだけど(このようにしか収めようもない)。

ただ、それでも、私は敢えてこれを機会に、繰り返して言いたい。


ある時期まで、

「親心」とか何とか称して

「許容」していたことを、

ある時点から突如撤回して「正論」に立ち返るということだけは、

人を育てる者は、絶対にやってはならない!!


先達とは、最初から厳しくて、晩年には優しくなることは自然だ。
また、最初から晩年から一貫して厳しいのもありだ。

 でも、最初は猫かわいがりに育てておいて、最後になって「その分借金返せ」だけはなしです。

晩年になって、突如「恩を売る」ことをはじめるくらいなら、最初から「恩を売って」欲しいものである。

 少なくとも、古今の政治の世界では、この種の「途中から恩着せがましくなる」君主は、確実に臣下に滅ぼされる運命にあった。

 一度、後続世代に自分の身を捧げる覚悟をしたら、生涯、そのことの「見返り」が自分に返ると思ってはならない。

それは、あくまでも、「順送り」に、未来の世代に支払われるのみである。

 さもなければ、生命は連鎖を紡げない。

 私は、今後、膨大化した老人世代が、数少ない若い世代に対する「たかりの構造」の中で生き延びる方向に豹変したら、もう日本の未来はないと信じる。

 生涯、後続世代のために、身を捧げてください。

 その時、こころある後続世代は、はじめて、先達の「恩」を忘れず、自ら進んで中島みゆき - 転生 - 命のリレー「命のリレー」をつなぐ、「先達」としての人生を、自ら歩むでしょう。

 人は、先行世代を自分が「犠牲にした」ことを自覚し、その「加害者性」を生涯十字架として背負った場合に、はじめて、「人の道」を生きるのです。

(精神分析的対象関係論に置き換えると、親を自分の攻撃性で「破壊して」しまった、という、「抑うつポジション」のファンタジーの超克として、「償い」という、創造的な活動が人間の中に生じる。でも、これが機能するには、親世代は子供の中のファンタジーのようには「破壊されてしまわず,生き残っている」ことを示し続ける必要がある。その意味では、川内氏の更なる長寿を心からお祈りします。今回の件で体調とかを崩されたら、逆に森さんに与えるダメージ大きくなるので、むしろしぶとく「憎まれ親父」で生き続けてもらう方が、ここまできたらむしろ,日本の歌謡界のために「必要」でしょう)


 でもねえ......まるで、「おふくろさん」が、生涯の終わりになって突然「これまでの恩に報いろ」とわめき出したみたいで、その点では、かっこ悪すぎるんです。川内氏は。

 「おふくろさん」への感謝は、おふくろさんから「強制された」ものでないから「こそ」、深いものになるのでしょう。

 これからの老齢化社会の「悪い見本」の先駆けに終わらないで。

 これからの若い世代には、あなたたちを食わせる余力なんてないのです。

*****

 BGMは、もちろん
浜崎あゆみ - A BEST 2 -BLACK- - part of Me"part of Me"

iconicon

2006/10/05

「幻想」vs.「幻滅」? 「錯覚」vs.「脱錯覚」? [前編]

 タイトルに示したのは、本人の死後、半世紀近くになりながらも、イギリスの精神分析の領域における「対象関係論」学派の中で、最も良識的、現場臨床的で,歴史的評価が定まり、もはや学派を超えて、臨床心理や精神療法を学ぶ専門家にとって,拠ってたつ学派を超越する、広汎な「共通理解」が得られる「諸概念」を山のように生み出し、現在も、臨床家にさまざまな「活きた」発想と刺激の源泉になり続け現ている、第2次大戦後の、ある意味で「最大の大家」と呼ぶべき、ウィニコットの業績の中でも、恐らく「最重要概念」である、

"illusion"

と、その反対語、

"disillusion"

を、どのように日本語に訳すかについての,未だに統一されているとはいえない訳語の、おおまかにいって2つの「説」(?)です。

(まるで関係代名詞の羅列を,「後ろから」直訳したような、とんでもない、長いセンテンスになってすみません。....私の思考法って、どこか「英文あるいはドイツ語文『直訳』調」だと常々思っています。ある意味ではドイツ語.英語圏的な「脳みそ」なのかもしれない。ジェンドリン自身がそうなのだから仕方ないか(^^;))

  「幻想」は"phantasy""fantasy"にこそふさわしい、ということにこだわられたのは、牛島定信先生だったか? いや,牛島先生は、"phantasy"と"fantasy"の違いに拘泥していたんだっけ??? ...と、漠然とした記憶だけでとりあえず書いておきます(あとで,この問題について論じた該当箇所を探し出して,間違っていたら修正します)。

 もともとは、メラニー・クラインの理論体系において、「内的対象」としての「母親」との係わりに終始した、いわゆる「独我論的自己完結」性と一般に批判されている問題について、ウィニコットが、

 「そんなら、クラインの「内的対象」理論を、現実の「外的対象」としての養育者との関係ときちんと対応させて理解してしまおうじゃないの」

.....とばかりに持ち出してきた概念で、厳密には、ここから「正統派クライン派」から分化し、フロイトの娘であるA.フロイトに起点を持つ「自我心理学」派との間の「独立学派」「中間学派」ともいわれる、狭義の「イギリス対象関係論」学派がスタートするのである(バリントは同時代人の「独立学派」のもうひとりの代表者で、ウィニコットに好意的立場でした)。

 (私はこのあたりを、今から24年も前に、当時ほんとうに東急東横線の「都立大学」駅の近くにあった都立大学の聴講生をしていた時に、早世せれた小川捷之(かつゆき)先生が黒板に書いた図とともに、確かその時はじめて学んだ記憶が鮮明にあります)

******

 すなわち、クラインのプレ・エティプス段階の発達理論の「分裂的=妄想的態勢」において、赤ん坊はまだ自他未分化なので、自分の中に「快」が生じると、それが即「投影同一視」され、「内的対象」としての>「良き母親」から「愛されている」という、天国的体験の世界となる。

 ところが、赤ん坊が「不快」になると、赤ん坊にはまだ「時間」の概念がないので、それまた即、「投影同一視」され、「内的対象」としての「悪しき母親」から「迫害されている」という、地獄的体験へと一変し、しかもこれらの体験は本人の中でも完璧にスプリットされて、「良き母親」と「悪い母親」が同一人物であることすら体験されない、と,クラインはいうわけです。

 それに対して,ウィニコットは、赤ん坊が不快になりつつあるタイミングに「現実の」母親がお乳を与えたら、それは「快」の投影同一視としての「内的対象としての「良き母親」がそこにいるという"illusion"が成立した、ということなのだ、と説明をつけたわけですね。

 (^^;A .....ああ、やっと話が本題に入れる)

 これを日常水準でとらえれば、自分の好きな人に「愛されている」「嫌われた」という「思い込み」の世界と対応させるのが,一番わかりやすいかも。

*****

 ちなみに、ウィニコットはしっかりわかってらっしゃって、

「ここでいう『母親』とは現実のその子の『母』であることとは無関係だし、人工栄養としての授乳にもあてはまる」

最初から注釈つけていたと思います。つまり、「お父さん」が「哺乳瓶で」ミルクを与えても、同じことな訳ですね。

*****


.......と、ここまで書いたところで、私の用事の時間になってしまったではないか!!

 当初は、「全文」ほんの数行で終わる筈だったのに!!

.......ということで、「後編」に続く。


*****


 なお、以上の文章は、あくまでも「フォーカシング指向心理療法」セラピストで「町のカウンセラー」であるに過ぎない人間が、記憶だけでとりあえず書いた文章だから、精神分析の先生が教員としておられる臨床心理系の学生の皆様、間違ってもこれをレポートに引き移して活用しないように!!

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