・・・と、今度は、のだめ風に、ますは感嘆の声を上げさせていただきます!
(当然、上野樹里さんの声の演技を想定して下さい ^^)
劇場版「最終楽章 前編」の次に、今度は、TVシリーズの後に制作された、いわゆる「パリ・スペシャル」前編(Lesson 1)を観る(DVDレンタルです)というのは、順序的にみると行ったり来たりですけど、私のように、遅れて来た「のだめ」ファンにとっては、これでもまだ「作法にかなった」鑑賞順序(?)でしょう。
(追記10/10/22 : 最終楽章 後編の感想はこちら)
※ ↑ どうもセル版は前後編2枚組のようですが、少なくとも私の借りたレンタル屋さんでは、「前編」と「後編」は別パッケージでした。当然、後編も同時に借りていますが、前編観た段階で、「千秋様」の投げる「人形のだめ」並みに「ぶっ飛ばされる」衝撃度だったので、後編を観るのは後回しで、以下の記事を書きます。
【注】このTV版スペシャルも、2年半以上前(2008年1月)の放送ですので、ネタバレ全開モードで書きます。
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まずは絡め手から。
千秋くんが、プラティニ指揮者コンクール第2次予選でりヒャルト・シュトラウスの交響詩、「ティル(・オイゲンシュピーゲルの愉快ないたずら)」を振った時に緊張し過ぎてオケぎくしゃくし、恐るべき「負」のオーラに取りつかれている時に、のだめが投げかけるセリフ。
のだめ:「ただ、オケの人に嫌われちゃっただけですよ。Sオケの時と同じで。音楽性より人間性」
千秋:「人間性・・・」
のだめ:「先輩って、誤解されやすいですよ。、粘着の、完全主義だから。でも、コンクールの先輩から言わせていただくと、ある意味で良かったんじゃないでしょうか。ポッキリ折れて、鼻が。人間は負けて大きくなっていくんですよオ!のだめのように」
千秋」:「(突如立ち上がり、のだめの首を締め上げながら)・・・お前ここにホントに何しに来たんだ?! 」
のだめ:「エール送ってるんですよオ!」
千秋:「どこがエール送ってるんだ? 人の傷口に塩を塗りやがって。お前だって、『負けた』と思ってるんだろ?」
のだめ:「のだめ、ジャン(注:コンクールでライバルの指揮者)に負けたと思ってないでしゅ!」
千秋:「俺だってジャンに負けたとは思ってねえよ。・・・(落ち着きを取り戻し)・・・負けたのは・・・・自分に・・・・」
のだめ:「・・・・・」
・・・・ここまでのセリフに、さりげなく「粘着」という言葉が入っているのが凄いです。
のだめは、どういうわけか、クレッチマーの「粘着質」概念を知っている=原作者は、千秋の性格をそのように造形している?!
>このタイプは几帳面で礼儀正しく義理がたい。着実で手堅く非常識な面が無い。 忍耐強い性格であるがストレスを内側に溜め込み、我慢が一定のレベルを超してしまった時の怒り方は凄いものがある。 また、非常に頑固な面を持ち、自分の意志を曲げようとしないことも多々ある。まかり間違えば独裁者になりうる素質の持ち主。
>地道な努力で、一度手がけた仕事は最後まで粘り強くやり通すが、その反面手際が悪く感じられることもある。 対人関係では、信頼はおけるが面白みに欠けるタイプである。
(以上、「アニメキャラクター分析(キャラ考)」サイト by 雪音 様 より引用。これは原典がしっかりしたものからの引用としか思えないレヴェルです)
・・・完全に、千秋くんそのものでしょ?
(千秋君はマッチョ体型ではないけど)
二ノ宮さんの考証って、半端じゃないことが、こういうさりげない所に出てます。
やはり、以前から書いてるように、実は非常に「構築的な」クールな作家というイメージが更に強まりました。
*****
次に、劇場版では始まって10分であっさりに「お断り」で妥協したのに、この「パリ・スベシャル前編」の中で、特に前半、のだめ(上野樹里さん)も千秋(玉木宏さん)もフランク(ウェンツ瑛士さん)もタチアーナ(ベッキーさん)も、フランス語をここまでしゃべくりまくるとは!!
ひょっとして、ハーフのウェンツさんとベッキーさんにはフランスの血が流れていないかと調査したところ、特にそうではないらしい・・・(呆然)
私は、大学(学部は法政)の第2外国語で、当時の日本で代表的なドイツ語の先生の講義を受けて全部「A」もらってます。哲学科でカントの原典購読していたし、クラシックファンでドイツリートも大好きですから、今でもドイツ語の文章なら、旅行会話水準の言葉("Wie geht es Ihrnen?"とか)ある程度口をついて出ますし、少なくともドイツ語の文章をいきなり読み上げて、単語の意味不明でも、やや古風かもしれない標準ドイツ語としておかしな発音は、ほぼしない自信あります("Ich-Laut"と"Ach-Laut"の使い分けまで)。
辞書さえ引けば、今でもだどたどしくなら翻訳できる・・・今の私のドイツ語力は、単語の語彙数を別にすれば、英語力よりそんなに低くないとすら。
(英語力が立教クラスの大学院出(更にその後、「院研究生」として、不肖ながら、何を間違ったか東大です・・・)としては低すぎるだけだって?)
恐らく、「米語」を聴く耳より「ドイツ語」を聴く耳のほうが今もいいはずです。
ところが、全然学んでいないフランス語となると、読むこともできない(クラシックファンなのに、CD洋盤ショップで”Dutoit”って誰よ?・・・が大きな壁として立ちはだかった)。
フランス映画を観ても、何かドイツ語に比べると「ふにゃふにゃ」した軟体動物のような声がするのを呆然と聴き、完全に字幕依存。「メルシー、ボク-」とか「コマンタレ・ブー」とかなんとかと聞こえる「音声」(「言語」以前の認識水準^^;)が頻発させるのは何だろう?ということになります。
(閑話休題。実際に生身で遭遇すると、生粋のフランス女性(=アングロサクソン系の血が皆無と思える)の放つ「オーラ」って、ファッション以前にダイレクトに凄いですね・・・。これは、ちょっと慣れれば、アメリカ人と、「言葉を聞かずに、見た目だけで」容易に区別できるようになります)
実は私、ドイツ語の場合なら、歌える「訳詞」でトイツリートの曲(「第9」はいうまでもなく、シューベルトの「魔王」や「流浪の民」、歌曲集「白鳥の歌」「冬の旅」「美しき水車屋の娘」の主要曲を覚えて歌い、更に原詩でもある程度歌おうとしていたくらいですが、フランス語は「超」別世界。
ポップスやロックを聴く中で英語を覚えたという人は少なくないでしょうが、私がほんとうに熱中して聴いたのはビートルズぐらいですから、「イギリス英語」への耳はそこそこあっても、「米語」耳はほぼなしです。
(でも、ビートルズで全曲歌い通せるのは”Yesterday”のみという情けない始末。逆に「魔王」や「白鳥の歌」からの何曲かならドイツ語で一応歌えます)。
もとより、のだめたちが話しているフランス語は、ネイティヴよりは「日本語的発音」のものなので、聴いていてもカタカナで置き換えられそうですが、それにしても、セリフとして予想を遥かに超えるだけの量のフランス語。
「のだめ」という作品の役者さんたちへの要求水準はかなり壮絶だったんだな・・・・と、つくづく。
(突然ですが、来年の大河、「江」で時代劇初挑戦、しかもいきなり主役の上野樹里さん、役者として幅を広げる大チャレンジですが、「篤姫」の宮崎あおいさんに劣らぬ成果をおさめられますことを・・・)
のだめならずとも、マジ、例えば「エヴァゲリオン」の英語版やフランス語版、ドイツ語版があれば、「スピードラーニング」私もできるかなと思った次第。
エヴァ本、阿世賀浩一郎/「エヴァンゲリオンの深層心理―自己という迷宮」まで出させて頂いた私、今でもTVシリーズのセリフみんな覚えてますもんね(・・・そういう水準で書いた、「ガイナックス非公式黙認」を「公式に」ダイレクトに取った上での本でした^^;)。
でも、実際、海外の"OTAKU"の皆さんは、そうやって日本アニメに熱中する中で、ホントに日本語を、全く書けなくとも「耳から」覚えるらしいですから、この物語での「あの」描き方も、実は「リアル」の裏付けなしとは言えないでしょうね(^^)
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さて、やっと、このブログ恒例、大真面目な「音楽(演奏)評」を書きます!
「指揮者コンクール」とはこのようなものだということを、ここまで具体的にリアルに描いた「フィション」作品は「世界初」でしょう(=原作段階でもそうということ!)。
私も、ピアノ・コンクールはいざ知らず、指揮者コンクールの「実像」について、ここまで勉強になるとは思えず。
実は、このあたりは、このブログでは直前に記事として書いた、茂木大輔さんの、のだめ公式内幕本、「読んで楽しむ のだめカンタービレの音楽会」でネタ明かしされてます(ここだけ当書のネタバレお許しを)。
つまり、原作段階で、本格的な指揮者修行も経験した、茂木さん自身の監修が入っているのです。
茂木さんご自身は、すでにオーボエ奏者として日本の第一人者を長年務められた上で、故・岩城宏之氏の門をたたき、更に外山雄三氏の指導をお受けになるなどの経験を重ねられた方で、何を今更指揮者コンクールそのものを経る必要はお持ちではなかったのですが。
それでも、非常に謙虚な文章で、「一介のオーボエ吹き」が指揮をするに到るまでの壮絶な壁との格闘を本書でリアルにお書きになっています。
そして、きっと、指揮者コンクールに、「オケの演奏者」の側で参加された経験はご豊富なのではないかと推察いたします)。
*****
さて、この「スペシャル」でも、相変わらず、演奏が練り上げられるまでの音の変化や、指揮者ごとの「解釈の違い」まで、マジに実際の演奏として収録されて、使われているのですね。
千秋の音は、ドイツのシュトレーゼマンに認められるだけのことはあって(?)、少なくともこの「パリ・スベシャル」では、正統派ドイツ風の、構築的で硬派な演奏=「黒」(^^)
対抗馬であるフランスのジャンの音は、まさにエレガントで透明=「白」(^^)
もうひとりの片平元の演奏も、確かに独創的! でも音楽が完全にその指揮ぶりと一致している。
踏み込んだことを言えば(・・・以下のあたりのことは、何も参照しなくても、「湯水のように」書けるクラシックおたくです)、彼が演奏した、グリンカの「ルスランとリュドミーラ」序曲は、グリンカそのものがロシア最初の著名な作曲家ですが、「ルスランとリュドミーラ」は、実はロッシーニ系のイタリア(喜)歌劇の影響を大きく受けながら試行錯誤の中で作曲されている、ロシア初の「国民オペラ」なんですね。
だから、実は「ロシア臭く」やると野卑に響きすぎるという自己矛盾を内包した曲であり、ここで「片平さん」が演奏しているような、軽快なスタイルだと、曲の持ち味が「本当に」出てます。名演です(^^)
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次に、千秋君の本選曲のひとつである、チャイコフスキーのバイオリン協奏曲。
私はこの曲には好みがはっきりしています。オケは軽快かつシンフォニック(・・・自己矛盾!!)に、ソリストも、力演だと感じさせずに、何の苦労もなく演奏しているような、クセのない演奏でないと嫌なんですね。
そのせいで、本当は、往年の名盤であるハイフェッツ/ライナー/シカゴ交響楽団の演奏以外、本当にいいと思ったことがありません(実はハイフェッツ盤には、録音当時(1950年代末かと思う)慣例だった「曲の省略部分」があるのですが)。
ところが!
断片とは言え、コンマスをソリストとする[千秋君の」演奏は、私を十分に肯かせたのです!!
これには正直、驚きました。私の永遠の座標軸がハイフェッツですから!!
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更に音楽面、別の観点から見てみます。
コンクールの公演を聴いた直後の具体的感想のセリフを聞くと、のだめちゃんにしても、フランクくんやタチアーナにしても、若くして、オケ演奏の良し悪しへの「感度」が凄すぎる!!
このへん、物語として「出来すぎ」なんですが、3人の感想そものは、実際に音になっている演奏に対して(!)、全くリアルなんですよ!
本当に「恐ろしい水準」の「TVスペシャル」です。
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おしまいに。
敢えて細かく言及しませんが(それがこのブログの、「のだめ」関連記事の、正統派ではない、婉曲で意地悪なところ)、総合的に見ても、この「パリ・スペシャル」、ドラマとしても、コミカルなテンポ感、切れ味、TVシリーズを凌駕すらしていて、「映画」と言っても何の遜色もない。
日本にいる登場人物たちとのコミュニケーションも、これ以上あり得ないくらいに絶妙にいい味出してますしね(^^)
更にこの上を行く、「最終楽章」の劇場公開となっていることは「前編」だけで十分すぎるほど分かりましたので、本当に、この作品の実写映像化って、どんどん進化しかしなかった、「化け物」的奇跡だと思います!!
まだ、「パリ・スペシャル」後編と、「最終楽章」後編観てないのに、キッバリ断言できます!!
(全部観るのは、もはや時間の問題。無理のないペスで記事化するのみです。・・・・ただし、原作の感想のみ、少し遅れる可能性があります。当サイトのAmazonアフィリエイトレポートの、最近のポイント累積傾向予測からすれば、予想では「11月下旬」です。もっとも、未着の10月分レポートで、クーポン引き換えまで「一気に」貯まってくれれば、「実質無料、全巻大人買い?」可能まで一気に累積完了!! 予想外に早まるかも)。
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・・・・・以上、「粘着質」かつ「執着気質」のあいの子で(爆)、時々「対他配慮」が行き過ぎて逆にコケるのが玉に傷の、こういちろうよりの、「のだめ」ワールド航海日誌、第5弾でした!!
(「パリ・スぺシャル 後編」への感想はこちらをどうぞ!!
このブログって、すでに創設4年9ヶ月、過去のエントリー記事総数が、「この」記事で1,914本め、なのに一日あたりの新エントリー、平均1.10本以上を現在も維持、しかも長文が多いという、へヴィー級ブログです。
おかげで、もはや@ニフティココログが割り振ってくれているサーバー負荷が相当なものになっているせいか、
・・・・・という、新しくおいでいただいた読者泣かせのブログになっていると思います m(_ _;)m
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もちろん、バックナンバー全体を表示してくれる、『アーカイヴ』ページ(自身がココログユーザー以外の読者の皆様、お気づきでしたか??? 右フレームの「バックナンバー」という文字そのものをクリックするとたどり着けます)というものも、あるにはあるわけです。
しかし、このページにお行きになっていただいたとしても、過去の個々のエントリー記事のタイトル一覧があるわけですらない。
このページからの「〇年〇月」を全部めくっていただくだけでも(全く休眠した数ヶ月を除いても、現在50か月分ほどあるわけですね(^^;)。その50ヶ月分、それぞれ月ごとに、毎月30から40エントリーずつはあるわけですから・・・・・
つまり、私がこのサイトでこれまで書いてきた主要記事がどんなものか、新しい読者の皆さんにおおよその見当をつけていただくには、もうデタラメにご不便をおかけしていることと思います il||li _| ̄|○ il||li
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この問題を一気に解決し、
そういうページが、実はずっと以前から存在します!!
●阿世賀浩一郎のホームページ/index
開設1995年12月(つまりWindows95発売直後)開設、日本において、インターネットで個人サイトを作ることが本格的に普及し始めた黎明期から、何と基本的なデザインを変えないまま運営し続けているサイトです。
かつては、ネットを代表するエヴァ・サイトのひとつ、「エヴァンゲリオン論考」で著名だった時代もありますけど、幸いにして著作化させてもいただきましたので、そのコーナーは全面削除いたしておりますが(「ちーちゃんの部屋」というアニメコーナーがかつて存在したことを覚えておられる方もあると嬉しかったりして ^^;)・・・・
そのトップページから、このブログでの新エントリー記事を書く度ごとに、固定リンクへのリンクを、たいてい速攻の連続作業でお貼りしてもいるのです。
恐らく、皆様のRSSリーダーに反映するスピードの比ではない「即時性」で「新着情報」が掲載され続けています。
同一エントリー記事の更新(改版)情報すら、可能な限り早くお伝えしています。
そこに並んでいる、当ブログ個別記事へのリンク数は、常時数百あるはずです(古いものから時々、精選のための「ダイエット」をかけますので、一定数以上には増えません)。
しかし、敢えて今でも、基本的には「素朴なhtml言語の手打ち」に依存し、javaスクリプトすらないに等しいということで、このトップページそのもののバイト数の多さの割には、表示が圧倒的に軽い筈です(このブログのトップページを表示するよりは軽いと思いますよ)
当方のアクセス解析によって、「こっちのページで新着情報見つけるほうが手っ取り早い」ことにお気づきの、毎日数名以上の固定ユーザーの方がおられることは掌握しています(感謝!!)。
しかし、そうした方の占める比率が以前よりもかなり減っているようにも思いましたので、改めてご紹介させていただきました。
今後とも、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」をよろしくお願い申し上げます。
私としては自分から進んで買ってまで読むつもりはなかったが、たまたまうちを訪れた親父が、恐らくNHKのドラマ(私の感想はこちら)を見て原作を買って読んだ上でと思うが、私の住処に置いて行っていたので、正編・続編とも、一気に読めてしまった(^^;)
原作のメインのストーリーの大半は、ドラマ版で、十分な肉付けの上で語りつくされていると感じた。風吹ジュンの演じた女医さんは、ドラマのオリジナル・キャラみたいですね。
視聴者によっては、単純な漫画の線だから耐えられたのに、実写ドラマでリアルに演技されると、自分が鬱だった時の体験が蘇って辛かったという感想もお持ちの方があったようですね。
ただ、私が鬱患者の立場から見た場合、ドラマ版が原作よりも秀でている点がある。それは、原作では、鬱の患者さん自身が読んだら、うつのツレさんと言葉を交わすテンさんの一つ一つのコトバが、無神経に刺さるような性質をかなり秘めていたように思える。そうした面はドラマ版では払拭されているということだ。
この点で別に原作者を責めるつもりまではない。原作の「続編」の方になると、そういう「鬱の読者自身に無神経に刺さりかねない」側面が、きれいに感じられなくなっている。これは「正編」を出版して読者の反響を得てみて、はじめて気が付ける性質のものだったろうと想像できるので。
*****
原作を読んではじめて、ツレさんが、クラシック音楽で特にでロシアものファンであり、私と同じようにヘッドフォンで細かく音楽を聴くタイプだったことを知った。
こうした音楽すら聴く気になれなくる時期が、実際、ツレさんにとって一番うつが酷かった時期と重なるのだが、確かに、鬱がひどくなると、最後には自分が一番好きだったものすら楽しめなくなるものである。「音楽好き」だった人にとってはむしろ音楽は耐え難くすらなる時期があっても何もおかしくない。
私も、そうした時期は巧妙に音楽ジャンルを乗り換えたり、結構音楽を遠のけて過ごしたりしてきたように思える。
私にとっても、音楽というのは「能動的に聴く」もののようで、BGM的な「ながら聴き」は基本的には苦手なようだ。
この半年ぐらいの間に気が付いたのは、今の私の場合、「音楽」よりも「映像」の方が遥かに癒されるということだった。ことに、「映画作品」というのは古今東西、ジャンル無関係な形で、音楽の場合ほどにも対象を選ぶことなく、スーッと作品世界に入り込んで味わえるようであり、いったん作品世界に入り込んでしまえば、その直前まで感じていた神経の高ぶりや疲れも吹っ飛んで、ただただ身を委ねて癒されてしまえるようである。
たとえ、アクションでもミステリーでもホラーでも、重厚歴史モノでも、なーーーんでも「癒し」なのだということに。
一番無理なく自然に、脳内のセロトニンが増え、「海馬が潤いを取り戻す(?)」気がしてならない。
(私の場合、ジャンル無関係に「セロトニン」増加優位のようで、「アドレナリン」や「ドーパミン」分泌ではないのである。私とはそれだけ「映像の中に、リアル現実の日常に身を浸すのと同じようにどっぷり淫する」タイプなのだと思う。これって、実写映画とアニメ映画に基本的な差異を認めない、押井守さんの作風との一致度が高くて当然というべきか?)
コネタマ参加中: ここぞというときの「おまじない」ある?
これは以前も一度自分でこのブログのネタにしたことがあるんですけど、私は、小学生時代に、帝政ロシア時代の盗賊のリーダーで、ツァーリにはむかう抵抗のシンボルとして民衆の間で伝説的英雄となった、ステンカ・ラージン(スチェパン・ラージン)についての有名なロシア民謡、
♪ヴォルガの流れ流れは、果てなく続き....
の歌詞の直訳を最後まで通して読んだ時、船上のラージンは、ペルシャ遠征で虜にした姫を自分が寵愛する姿に、部下たちが嫉妬交じりの陰口を言っていることにいくら気がついたからといって、なぜ突然ヴォルガの流れに姫を放り込んでしまうのかということがどうにもわけがわかんない!!! と、一種独特の戦慄と恐怖と共に感じ取った時以来、自分が窮地に陥ったり、理解不能な現実に直面するたびに、心の中で「すてんか・らーじん」といつの間にか唱えるようになったのですね。
wikipediaより。「姫投げ」はこの後の出来事とされる。
私にとっての、「あんびりーばぼー」や"Oh,my God!!の代わりといえば言えます(^^;)
「超時空要塞マクロス」のぜんとら語で言えば、「でかるちゃー!!」というところでしょうか。
大人になった今の私から振り返ると恐らく、ロシア時代からソビエト時代においては、部下たちの恨みを買うぐらいならば、自分の宝物を犠牲にしてしまうことも厭わないラージンの姿に、民衆のためのヒーローというファンタジーを読み込んだのだと思います。確かラージンは石川五右衛門みたいな義賊であったという伝説もあったと思いますが。
思わずこの映画"GOEMON"のブログパーツ(^^;)
しかし、私は今では全然別の解釈をしています。彼にはてんかんの素質があり、そのために普段は静けき人、むしろぼーっとして何を考えているのかよくわからないような人でも、突如火山のように乱心する性質があったのだと。
つまり、突如の脳内異常放電の結果として我を失い、前後不覚にああいうことをやらかしたのだと。
更に言えば、「欠神(けっしん)発作」説。 実は姫を「投げた」のではなくて、抱いていた両腕から、ヴォルガ川に「落とした」のかもしれないと。
実は、このようにとらえるあたりが、私が子供時代に歌詞を読んで感じた、あの「狂気に等しい仕業」という戦慄感と一番リアルに一致する気がするのである。
クレッチマーの体型三分類による性格論的に言えば、てんかん質の人は筋肉や骨格系が発達した「闘士型」の体格を持つとされます。大盗賊の首領だったラージンがこのような骨格であった可能性は決して低くないでしょう、残されている肖像画(wikipedia参照)をみても、ずんぐりむっくりの「闘士型」体型に見える気がしなくでもない(想像画の可能性もあるのだろうが)。
......で、私が、なぜ「すてんか・らーじん!」がパニック時の呪文になったのか?
そう!! 私に隠されたてんかんの素質があったからに違いない!!
この言葉をつぶやくことによって、私の脳内異常放電は抑止されるのである!!
この、全然科学的根拠のない、論理の飛躍を重ねた大仮説を検証すべく、私は久留米での国際的なてんかん医学会に参加することにしたのです (3分の1ぐらいはマジにそれが理由です)。
(だって私自身、現に、ハルプロ酸ナトリウムだけにしたら、ここまですっきり、あっさりと元気になったんだもの!! こんなに効き目の安定した薬は未体験ゾーンだったわけです)
※なお、私のてんかんについてのまだまだ知識や臨床体験の乏しさを暴露してしまうようなことを書いているのかもしれませんが、少なくともこれは、実際にてんかんで苦しんでいる皆様やご家族を誹謗中傷する意図は全くございません。この点でお気に障る皆様がいないことを祈っています。
●【正論】京都大学教授・佐伯啓思 「民意を問え」という政治暴論(msn=産経)
「いまの国会に足りないものは率直な議論とユーモアであり、多過ぎるものは野卑な言動である」と。その原因は何か。それは、指導者や政治家が、市民や消費者、労働者、国民、といった目に見えない集団の力におもねり、その力の前に平身低頭しているからだ、というのである。
私なら、「ユーモア」ではなくて、イギリス風の「ウィット」と置き換えるだろう。
日本の国会の論戦はこの点をなんともはやはき違えている。
麻生首相の熟語の読みの力の低さを、パネルまで持ち出して、国会の場で「テスト」しようとすることなど、これこそ大人が子供に「いじめの手本」をして見せているようなものでしかない。
日本人は、ウィットの言い方も受け止め方も知らない。そもそもウィットとは、ウィットをウィットとして受け止めてくれる相手があってはじめて成り立つものである。つまり「関係の場」があって始めて成立する。
もし、ウィットを「仕掛ける」人が、周囲にそれがウィットだと気がつかせ、相手に傷ついたとばかり感じさせずに、「こりゃ一本とられた」と感じさせ、場を和ませ、良質の「ウィット返し」を引き出すことをきっかけに、双方に真剣かつ建設的な共同作業としての議論を活性化するきっかけを作れるとすれば、そういう人物こそが、まさに真の意味での大政治家の器であろう。
そういうウィットを、単なる陰険な応酬ではなく、場の安全に守るための一種の騎士道精神に基づく交渉術、つまり、平和外交のための成熟したスキルのようなものとして受け止められるようになることこそ、真の意味でのグローバル化であることはいうまでもなるまい。
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「北朝鮮の金正日が自らの健康状態に言及した」という公式報道がなされたこと(いうまでもなく、それがほんとうにご本人が主体的に口にしたかどうかなど問題ではない。北朝鮮首脳部が国策としてそういう国内・国外へのアピールを選択したことが大事なのだ)は、暗に、北朝鮮が、今後ドイツ統合の際と同じようにして問題解決する可能性を視野の選択肢に入れたことを示唆すると私は理解している。
(今後10年の展望としても、後継者を指名するのではなくて、当面金正日が指導者であるという体制を堅持するという意思表明でもあるはずだ)
そうした際に重要なのは、韓国は言うに及ばず、中国・日本・アメリカが、この問題の解決の上で堅く連携して、「できれば平和的かつ緩やかに社会システムを変化させ、鎖国的でなくなって行こうと模索する北朝鮮への、ロシアの軍事進入による、北部朝鮮地域のグルジア化」を断固阻止することであることはいうまでもあるまい。
幸いにして、現在北朝鮮となっている地域は、正式に「ソビエト連邦」に組み込まれた歴史が存在せず、過去の長い歴史において、実は中国や日本に屈すること以上に、北部・中央アジアやロシア側の覇権下に「直接」置かれることに対して、圧倒的な拒絶反応をしてきた長い歴史を持つ(高句麗時代を含めて、沿海州に近い辺境地域は微妙だろうが、この点では専門ではないので留保する)。
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これから10年の北東アジア地域とロシアとのかかわりにおいて日本の政治家に必要な真の意味でのしたたかな外交能力を思う時、絶対に今後首相になるべきではない人物は、恐らく石原慎太郎であろう。彼は、東京オリンピック開催まで「東京都知事」でい続けてもらい、国政に乗り出さないでもらわないと日本ばかりかアジアの大衆にとっても大迷惑である。
よって、日本は、どんな根回しをしてでもいいから、東京オリンピックを誘致すべきである!! そのことと引き換えに、石原氏は政権への野望を未来永劫捨てるべきなのである。
なぜなら、石原氏に存在するのは、ウィットからは程遠い、ただの独裁者気取りの無神経さだからである。そこには何の「精妙さ」はない。よきにつけ悪しきにつけ、ここ四半世紀の世界に躍り出た最大の政治的才能である、プーチンと渡り合えるわけがない。
参考:●没落…新興寡占資本家 進むロシアの国家支配 (msn=産経)
金融危機の打撃を受けているロシアで、ソ連崩壊後に台頭したオリガルヒ(新興寡占資本家)と呼ばれる大富豪たちの没落が決定的になった。かつて優雅な生活や浪費ぶりで話題をさらったオリガルヒは一転、公的資金による救済を国に仰ぐ身だ。政権がこれを機に新興財閥への国家統制を推し進め、経済の主導権をオリガルヒから奪還するとの見方が強まっている。
敢えて言うが、石原政権ができるくらいならば、橋下政権が今後の日本の内政を数年支えるくらいの方が望ましい。
そうしたうちに、10年後には、新しい世代の中からこそ、ウィットに富んだ、真の政治的指導者は現れるだろう。
現在はまだ30代だったりするかも(^^)
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宮崎の死刑の是非は置く。
死刑論議にも関与すまい。
ただ、このタイミングでの「死刑執行」が(すでに言われていることらしいけど)秋葉原の事件を受けての、早速の「見せしめ」効果を狙ったと受け取られてもおかしくない(少なくともそう受け取られる可能性が高いことを承知で出さないとすればおかしい)あたりを「うさん臭い」と思うのは全く自然なことと思います。
はっきりいって、それを狙ったとすれば、現代日本とは、何とも「野蛮な」仕方で治安を守る、中世前期ヨーロッパの異民族との戦争クラスの前近代的な社会でしかない。
今は「モーロ人」と戦ったシャルルマーニュやエル・シドの時代ではないのである。
「異民族」に新たに虐殺された見せしめに、ずーーーっとロンドン塔かバスティーユに監禁していた「その異民族」の「有名人」を公開処刑したようなもので。
何か、最近の「正論」って、ものごと割り切り過ぎて自分もその正論の犠牲者になる可能性を考えてもいない気がする。
そこで政府の政策(あるいはポピュリズム的世論)の支持をしても誰もそのぶん自分たちを助けても援護してもくれないよ.....といいますか。
ユングの「影」や「相補性」の概念を持ち出すまでもなく、
「私は『あいつ』のような人間ではない」
という論理よりも、
「自分の中にも『あいつ』と同じようなところがある」
という感覚がある人間の方が,結局は強い気がしてね。
*****
かつて、東京埼玉幼女連続誘拐殺人事件で宮崎が逮捕された日の報道が「おたく差別」になる危険を、逮捕の当日の夕刊を各紙買い占めて読んで、その晩のうちに朝日新聞「声」欄に投書し、数日後掲載された人間として。
私は、あの投稿をしたその日から、自分はカウンセラーだから彼とは異次元だ、なんてただの一度も感じたことはない。
もっとも、宮崎のことを「多重人格」という方向で鑑定しようとした人たちは、精神医学の中で蓄積された「多重人格」という診断の価値を「安く」してしまった張本人だと思う。
ちょっとした臨床家なら、あそこで「多重人格」の診断を持ち出すことが「あまりに素人臭いアマチュアリスム」の次元だと気がついた筈だ。
精神医学の世界ですら、明らかに診断に「流行」がある。
鬱病は古代ギリシャから普遍的に観察された病だが。
いや、およそ社会に置ける新しい概念は「過剰使用」されたあげくバブル崩壊して見事な値崩れを起こす。
何でもかんでもその概念を当てはめるうちに、別のものに化けるのだ。
「地球温暖化」や「グローバリスム」ですら、20年後には陳腐な概念として振り返られるかもしれない。
いつの間に「アダルトチルドレン」は差別語になったの?
*****
すでに公開されている情報から見る限り、彼には責任能力はあったと思う。ただ、拘置の過程で抗禁性精神病状態に入っていた、あるいは、いろいろな人が勝手にいろんな診断をする中で、彼自身がそれに振り回されていよいよ混乱していった(あるいは彼の中のよこしまな心を更にかき立て、更に邪悪にした)可能性は否定できないだろう。
敢えていうが、彼がこのタイミングで見せしめ的に死刑執行されたことで、実は、45歳前後以下の世代のマジョリティすら持っている危機的な「何か」が一緒くたに「葬り去られた」気がする。
法務大臣は、今後仮に無差別殺人は減ったとしても、20代から40代の自殺者はぐっと増えかねないことをやらかしている気がしてならないのね。
オイルショックの頃、石油に限らず、世界中の資源がまるで21世紀初頭にすべて枯渇してしまうみたいな「政府公報」が繰り返し流されていたことを忘れない世代として。
「それが世界の潮流である」
ということは、その潮流に乗っていたら社会がうまく行くこと、自分も生き残れることはみじんも意味しない。
30年スパンで見たら、笑いたくなるくらいに「世間の常識」は変動しているということ。
******
宮台さんが自分のブログで、
●公共機関のために準備中の文章です。誤りのご指摘やご意見をお待ちします。(MIYADAI.com Blog)
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=652
として載せている原案、「社会包摂性」ということがキーワードとされています。
宮台さんなりに、最近の状況について、単に「評論」するのではなく、社会的に「コミットメント」しようというスタンスを感じます。
「フリーター」という言葉に変わって「ワーキングプア」という言葉が一般化するまでに、実は2年もかかっていないということ。
少なくとも20代後半から40代前半ぐらいの世代って、誰からも具体的な処方箋を政治水準では提案してもらえないまま、責められるばかりになっている気がします。
それを超えていくパラダイムを日本社会に提示しようとしているだけで、その心意気は買いたいですね。
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恐らく、私の世代は、実の親が、単に「銃後」ではない、大陸での戦争の現実を体験し、背負いながら戦後を行きてきたことを肌で感じている最後の世代かもしれない。
団塊世代よりも前の世代の「戦争体験者」感覚が、自分の中に濃厚に生きているのを感じる。
私の祖父は、関東軍の軍属で、ソ連の戦車におわれて引き上げる中で、何か非常に不透明な状況下で「殺されて」いる。父も銃で死んだ死体しか観ていない。
父親の兄のひとりは、現地で徴兵され、阿片窟で死んだことは歴史資料からほぼ確実らしい。(父親が長年かけて史料を読みあさり、執念で突き止めたようだ)
「阿片窟」で連想する映画といえば「ラ・マン(愛人)」ですが。
生き残った父と祖母は、昭和21年まで1年間大陸で生き延びた。
その優しくも気骨があった祖母こそが、私の中にある親より上の世代の「原像」であり、私の高校時代までの人格形成に大きく影響していると思う。
引き上げた先の福岡の実家は、東京生まれですぐ大陸に渡った父にとっては「故郷」ではなく、「異郷」だった。
私は,私なりに父親の身体に染み付いた「闇の部分」を引き継ぐだろう。
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昨日、「愛と哀しみのボレロ」(Les Uns et les Autres)を実に久しぶり(恐らく20何年ぶり)に、しかも完全版で観た。
私の大学学部生時代の映画。
原題と邦題が全然ニュアンスが違う映画としてマニアには知られているかと思う。
"Les Uns et les Autres"って、英語でいえば「"THE WE"and"THE OTHERS"」というあたりか。 直訳だと「私たちと他人」あるいは「俺たちとあいつら」ってとこ?
実は作品の中で繰り返して出てくる歌のタイトルでもある。
自分たちと他人
自分たちと他人
お互いが他人なのに
尽くす人は少ない
理屈ではわかっていても
救いを求める声を聞き流す
他人のことを聞き流す
人は皆平等だけど
特別大事な人もいる
ジョージ・オーウェル言うとおり
他人は他人
他人は他人
私が学部学生時代に読んだ、反精神医学の旗手、イギリスのR.D.レインの「自己と他者」っていう本(私がレインの本の中で一番親しめた本)のタイトルも連想するけど、これはあながち思い込みではない気がする。
DVDは完全版ではない3時間10分ほどのもの。現段階でVHSビデオ2巻組の中古でしか観れない完全版は4時間です。ビデオの画質は「凄く良好な」部類と思いますよ。DVDにダビングしても良好な画質保てます。ブルーレイ時代の本格突入待つしかないか? 入手難の作品です。
参考までに。確かPart1のビデオが冒頭の予告編付きで2時間25分くらいでヌレエフ(がモデル)のソ連ダンサーのパリ空港での亡命シーンまで。Part2のビデオが2時間6分です。
これ、カラヤンとヌレエフとピアフとグレン・ミラーをモデル(といっても史実とはいろいろ違うが)にした4家族の歴史が交錯する大河ドラマ、というくくりかたが紹介でよく使われるけど、実は完全版まで観ると、ベタン政権とナチ占領軍にゴマをすって戦後一転して転向して大物になった人物とその娘やら、アルジェリア戦争帰還兵という無名の男性4人とそれに絡む男女関係やら、実は「有名人」ではない人々を含む、合計8家族が緻密に織りなす(ひょっとしたらフランス人だとモデルとなる人物がもっといろいろ思い当たるのかも)からこそ面白い、よくこれだけの人数の登場人物の関係を緻密に統合できたと感じる、実に厚みのある大河ドラマなのだ。それが本来のこの映画の持ち味。
少なくともカラヤンのナチとの関係やヌレエフの亡命事件ぐらいは自明の教養水準として要求されるけど、あとはフランスのベタン政権(ヴィシー政権)とアルジェリア独立戦争とノルマンディ上陸作戦についての世界史の教科書クラスの知識があれば、この作品を味わうのに何も困らないと思う。
これは完全版で2回ぐらい通して観ると、どんどん味わい深くなる映画だと思います。一回観ただけでは登場人物の互いの絡み、とらえきらないし。
クライマックスの、ベジャール振り付けの、今は亡きジョルジュ・ドンのカリスマ的な「ボレロ」シーンだけがひとり歩きしているけど、このシーンにすべてが結実するこうした数多くの登場人物の歴史こそが本題。いわばその収束的救済のための「虚構の祝祭」がクライマックスということにあるわけで。
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この映画に「我がことのように」共感する感性を、現代はもはや失いつつあるのだろうと感じる。
すっと以前の映画だが、私は、「日本の一番長い日」も「白い巨塔」も子供時代に鮮烈な印象で同時代的に観た世代である。
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何か脈絡が散文的になってしまったが、
ここで書いたことの中に、恐らく今後の私の人生を決める、何かが含まれている気がする。
続きはこちら。
もう一本追加です(^^)
どうして、対人恐怖のかたまりで、自分は一生女性とセックス(セルクス)なんてできないと感じていた私が、そこそこ女性との無理のない距離感作りに、ある水準の自信を持つまでに到ったのかなあ?
(忘れないでね。私は、モチ、プレーボーイとは程遠い。恐らく、男女関係に積極的で、同時に冷静に経験値を積んでもいる、普通の高校生や大学生の水準に追いついたに過ぎないことを書いてるだけと思う。.....と、少し謙遜)
これ、あるクライエントさんと話していて、自然に思い浮かんだことなんだけど。
私は、少なくとも当面、自分が社会人として進む道を、深い次元で納得しながら受け入れられる。
大学教授になるのは、私の予定では、55歳ごろ。
しかも、どこかからお呼びがあった時です(爆)
それはあくまでも、
研究費と老後の生計の基盤が欲しいのと、
サバティカルで世界鉄道旅行したいのと(カナダ横断鉄道が、アメリカ大陸横断鉄道が、オーストラリア横断鉄道が、シベリア鉄道が、TGVが、オリエント急行が、私を呼んでいる......爆)、
その頃になったら、
日本の心理臨床学の大学における学問的発展と、大学における研究者・臨床実践家の養成に関与することから逃げない責務があると思うから。
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でも、若い人の恋愛って、そういう心理=社会的なアイデンティティの形成課題と、伴侶の獲得っていう、二兎を追う時期って、遅かれ早かれ、どうしてもあるではないですか!!
たいへんだよね!!
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私は、その苦悩は感じないまま、結婚暦、育児暦まで経験させていただきました。
(今にして思えば、「キヨブタ」=「清水の舞台から飛び降りる」そのものだったな。恋愛結婚だったし)
そういう意味では、いわゆる「自我同一性尺度」でいう、「早期完了型」のバリエーションそのもの。
.....ま、多くの大学のセンセ、多かれ少なかれそうだけどね(^^)
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更に、もうひとつ『贈る言葉』。
経験を重ねることより、ひとつひとつの経験を消化していくこと。
●【断 神田茜】人を信じられない寒さ(msn=産経)
私のつけたタイトルは、恐らく個々の読者にとって、実にさまざまな意味に読解されるだろう。私は、それでいいと思っています。
ただ、個人的信念として思っているのは、
他人が自分に対して肯定的評価をしてきたり、
受け入れてくれたり、
声をかけてくれる時は、
すべて、
自分をだまそうとしているか、
利用したいかのいずれかである可能性がある。
他者が私を名指しで公然と批判してくれる時は、
すべて、
私のことを「見ていられない」と心配しているか、
私とあえて関係を作る(継続する、失わない)ことを切望しているか、
私のことがうらやましいか、
単にその人が私と無関係なことでムカついていた八つ当たりか
のいずれかである
.....と、とりあえず発想してみるということです(^^)
人を安易に信じていていい社会とは、裏を返すと、ものすごく統制されたファシズム的社会に完全に順応した状態でしか体験できないのかもしれませんよ(^^)
このことは、すでに山のような数のSF作品が描きつくして来ましたが、超古典を一発。
この、解釈が無限に可能な不朽の作品を、そういう「信頼」のドラマとして読み込むのはいかがでしょうか。
惑星ソラリス(タルコフスキー)
私が最近書いた記事で、一番ぶっ飛んでいたのは、msnと産経の連携が実際に始まった際に書いた、「ステンカ・ラージン!!」の雄叫びを上げた記事だろう(^^;)
実は昨日、私が子供時代に、
ロシア民謡「ステンカ・ラージン」のヴォルガ川にラージンがペルシャの姫を突如投げ込んだシーンになぜ異様な衝撃と興奮を覚えたのか?......という、35年越しぐらいの謎がある程度、しかし、かなり一気に解けた。
その辺、ある男友達とやりとりをする中で、一見全然別の話題の脈絡で気がついて、この記事も読んでいたその人と話し合ったりもしたのだが。
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ステンカ・ラージンのこの姫投げ伝説は、史実ではないのかもしれない。ペルシャの宮廷を滅ぼしたのは事実で、ペルシャの姫を手に入れ、凱旋の際に同行させたのも十分あり得ることだろう。
しかし、このような姫投げを実際にもやっていたとして、この一部始終をを目撃したのは、当時の木造の手漕ぎ舟の船団の、せいぜい10数名ぐらいしか乗り込めない船の上にいた手下たち(ラージンの娘のひとりも同乗していたが)であろう。もちろん近くの船からもある程度見えたかも。
次の絵画は、この時の情景(正確にはまだカスピ海のあたり、事件の前)について、後世Surikovによって描かれた絵画である(wikipediaより)。
私は結局、この時のラージンの行為に、ある狂気と戦慄を覚え、そこに同時にわけのわからない興奮を覚えたのだろう。何か合理的な理由を超越した、発作的なスパークである。
それがてんかん気質の人の、発作的な爆発だったとしたら?
英雄や宗教者の中には、こうした気質の持ち主は少なくない。クレッチマーの分類における「筋骨型」(闘士型)と呼ばれるように、すんぐりむっくりで肩幅が広く、分裂気質的痩せ型や躁鬱質的太り型とはかなり異なる。普段が地道でこつこつとした職人性と生真面目さ、見かけによらない人のよさをもつ。
しかし何かのきっかけで突如頭の中にスパークが起こり(^^;)、ヒロイックなまでの勇猛果敢さや激しさを発揮したりもする。そういう時は一気に頭の中が回りすぎる。空海などもてんかん気質の典型と書かれることがある。彼の宗教的啓示の体験はそういう瞬間ということである。
まわりはその急変についていけない。しかし、昔の武将や宗教家や芸術家のようなタイプだと、何かすごくカリスマチックに見えたかもしれない。
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私は、自分の体型も性格も、かなりてんかん気質的な面がベースにあり、そこに分裂気質がまじり、実は躁鬱気質の人からは素質的には一番遠いと感じている。そういう私の生来の「何か」が、伝説上のステンカ・ラージンにシンクロしたのが、子供時代の鮮烈な体験なのではないかとも思える。
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