動物

2009/12/23

「肉食系」的なやさしさ (第2版)

・・・・・というものがある気がしてきた。

 それは、いわゆる「草食系」のやさしさとは何か次元が違うのだけれども、今の日本(の特に若い男性)に、再度賦活されていく必要があり、それが今後の日本の舵取りの鍵を握ると思えるのである。

 Wikipediaによれば、「草食系男子」というのは、200610月に深澤真紀が『日経ビジネス オンライン』で連載している「U35男子マーケティング図鑑」(2007年に『平成男子図鑑』として単行本化)で「草食男子」として命名されたのがことのはじまりであるとのことだが、私はその原典やその後に続いた著作を読んでいるわけではない。

 しかし、広い意味で女性一般の方は何らかの意味で「肉食系」の側面を発現し続けて来た人が多い(これは見かけ上大人しめであるかどうかとは無関係。そのことに気づかないでいる男性がいるとすればちと御目出度すぎる)ものだから、余計に浮かび上がってきた現象ではないかと考えている。

 そして、私なりのネットフィールドワークの結果到達したのは、(数年前の小林よしのり信者がたくさんいた頃はまた別かもしれないが)、少なくともここ2,3年のネットのプチ〇翼の若者は、実は揃いも揃って「草食系」である、いや、「草食系男子」の心性と非常に親和的なものとしてプチ〇翼というスタンスが、非常に広範な若者に、ネットでこの種の発言をする匿名ピープルよりも相当に裾野が広い形で浸透しているというのが私の結論である。

 彼らはもはや、例えば小林よしのりや石原慎太郎に当たるような特定の「頭目」を押し立てることすらしない。フラットランド化したネットの2次情報,3次情報をシェアするだけで群れている、徹底的に「顔のない」集団である。

 ・・・・ちなみに私は"SPA!"を離れる以前の「ゴーマニズム宣言」の愛読者で、感想をしきりと送っていた人間であり、その頃のよしりん氏に「八王子の阿世賀浩一郎は凄い! 参考になる」と、コマの欄外でコメントされ(今刊行されている単行本のバージョンにも載っているかどうかは確認していない)、公式「ゴー宣」本にかなり長い感想文が実名で載っている人間である。

 "SPA!"との関係を辛抱し切れなくなったところで、小林氏はあるバランス感覚を喪失したというのが私の意見だが、それでも、「新しい歴史教科書をつくる会」との関係を絶つ時でしたか、「日本のこの種の人たちがアメリカとの関係ということになると急に態度を変えるのが納得がいかない」という趣旨の発言をしたことに関してはある共感を覚えた。

 ちなみに、よりのり氏も私と同じ福岡県出身である。最近の私のネット上での物言いに、思想それ自体というより、発言スタイルの点で、時々「ゴー宣」調のノリが無意識のうちにも出てしまってるあたりに我ながら苦笑している。福岡県人独特の、いざとなると嵩(かさ)にかかって斬り込む、直裁な「喧嘩節」の伝統という点では共通のルーツなのかなと(^^)

 宮崎哲弥さんが久留米出身で、今年初めて久留米で講演会を開いた時のことはこちらの記事で書きましたが、そういえば、今、自民党内部を引っ掻き回す発言をしている舛添要一さんも、(その政治姿勢にすべて賛同するわけではないが)北九州(八幡)出身の苦労人だものな・・・

*****

 実は、そういう、「いざとなると嵩(かさ)にかかって攻め込む」気概をむき出しにできる人間にしか発現しない、「肉食系のやさしさ」というものがどうもあるようだ、という気がしてきたのだ。

 少なくとも私の中で、明らかに、そういう意味での、潤いある「やさしさ」と「包含力」、むしろ「献身性」ですらあるものが、ここしばらくの間に、特にリアルワールドにおけるクライエントさんやオフィシャル・プライベートを含む人間関係の中で発現してきている気がする。

 それは決して「暑苦しくて」「脂肪分が多い」、「押し付けがましい」ものではないようなのだ。それは、狩人をしていない時の豹の母親が子供たちに対して示すような、何かそういう質の、静かな「母性」に近いもののようにすら思う。

*****

 それとどこまで関係あるかどうかわからないのだけれども、昨日東京に日帰り出張した時に、ANAの機内誌、「翼の王国」12月号を読んでいたら、「日本"山水”探訪記」というグラフィック特集で、「熊本・鹿児島編」として、「南九州の空と土」という記事に大部が割かれていた(pp.40-63。文・絵:堀越千秋 写真:阿部雄介)。

 装飾古墳として著名な熊本県山鹿市のチブサン・オブサン古墳、延々と続く謎の地下トンネル遺跡として著名な玉名郡菊水町の「トンカラリン」、鹿児島県南九州市川辺町の「清水(きよみず)磨崖仏群」、熊本県人吉市の青井阿蘇神社、熊本県上益城群山都町の、江戸時代を代表する潅漑用水道路の要というべき、古代ローマの水道橋を思わせる、時々の放水で著名な「通潤橋」などが取り上げられていた。

 それらの記事を眺めている時に、私は何ともいいようがない次元での、ほとんど元型的な次元での「血の共感」を覚えずにはいられなかったのである。

 すでに何回も書いてきましたが、福岡市から南に向かい、大野城市のあたりの地峡を越えて筑紫平野に入り、筑前の国から筑後の国に入り、更に筑後川を渡ってしまった久留米に入った途端に、同じ福岡県でも、古代からの文化の質は一変して、むしろ熊本県とも通底する「中九州」文化圏の北限に位置した土地ととらえる方が自然である。

 厳密には博多弁と久留米弁はかなり異なり、久留米弁はアクセントが明瞭ではないという点では日本の方言の中でも特異な位置を示す。(わかりやすくいえば「橋」と「箸」の音韻上の区別というのは、久留米人は学校教育を経ないとできるようにならない)。

 その「異様に平坦に」流れるような早口は、我が郷土の生んだ、本名「蒲池法子」さんに、実例をお示しいただこう(^^)(この番組、放送された時に観た記憶があります)

●松田聖子の久留米弁 その1(YouTube)

●松田聖子の久留米弁 その2(YouTube)

 ・・・・・私は父親が「大陸育ち(標準語圏)」だし(かなり久留米弁を戦後身につけましたが、母親の「ネイティブな」古式ゆかしき久留米弁ほどではない)、私自身は「久留米附属」(「久留米大付設」ではありません。聖子さんの確かお兄さんが「付設」出ですよね)という、教員養成大附属小中学校という、地域社会とは切り離された中で成育し、更に30年も関東暮らしをしたので、とてもとても聖子さんのように鮮やかなギアチェンジができる人間ではありません(^^)

 でも、私が「異様に早口でのっぺりした標準語」で延々と話す時があることは、ライブこういちろうをご存知の、特に同業者の皆様は、時々、ついて行けなくお困りのことがあろうかと思います(^^)

*****

 ・・・・話を本題に戻すと、久留米南部地域というのは、大和時代の豪族、磐井の乱(525年)でも日本史に名を残すように、ヤマト政権からは独立性が高い、ダイレクトに大陸側(新羅と書かれていますが)との交渉を維持した勢力が、かなり後の時代まで維持された土地柄です。

 記紀の世界で「熊襲(くまそ)」とされた民(ヤマトタケルの征伐神話からすれは一応2世紀頃に相当するが、これはどうみても「前倒し」の可能性が高いが)は熊本県球磨地域に一応同定されている。一応、「熊襲」よりも、その勢力はしぶとく残ったことになるとも言えるわけである。

 いくら当時までのヤマト王権の正当化のための歪曲ありとはいえ、「磐井の乱」を伝えた日本書紀は、物語的な古事記と異なりまだしも歴史書としての体裁がしっかりしており、編纂時から遡っても「200年未満」の時点で起きた事件についての著述には、何らかの史実の裏づけは濃厚と思える。

 私自身は、邪馬台国九州説は根拠薄弱という立場です(オーソドックスに、奈良県桜井市の纏向遺跡(まきむくいせき)を卑弥呼の墳墓とみなしたい)が、大和地域よりは、黒潮に乗った東南アジア、南洋地域、中国南部、そして朝鮮半島寄りの経路で中国北部との頻繁な交渉がダイレクトに早期から形成されていたであろう九州の持つ政治的独立性は、実際には九州北部沿岸のごくごく一部の地域を点と線でつなぐ形でしかヤマト政権の安定した覇権を置き得ない状況に、少なくとも663年の白村江の戦いの直前の頃まではあったのではないかと思います。

 なぜ天岩戸伝説を日向の高千穂峡天孫降臨の神話を同じく日向の高千穂峰(もっとも、前者には異説がある)に同定しなければならなかったのか? これもそれだけ南九州にもともと強大な勢力があり、それを実際の歴史上は大化の改新(646)以降、天智・天武朝の頃にやっと臣従させた上で、その地域の神話(むしろ朝鮮か南方由来)と中国神話を加味して歴史を「数百年遡って塗り直す」だけの必然性があったればこそでしょう。

*****

 いずれにしても、久留米以南の中九州・南九州文化圏には、ちょうどヨーロッパ諸国が、ローマ帝国以前の原住民やゲルマン民族の歴史をキリスト教で塗り消し、地下に潜伏させたのと同じように、後のヤマト政権が上塗りして完成された「ヤマト民族主義」を一皮向けば、より古い層の元型的な無意識の世界が容易に溢れ出す地域性というものが潜伏しているのではないかと思います。

 それが、幕末における薩摩や佐賀を中心とする倒幕・維新勢力、あるいは真木和泉守ら、久留米の勤皇の志士に活躍の舞台を与える原動力にもなり、筑豊炭田で鉱夫たちが使う地下足袋の大量生産に起源を発する、ブリジストンの創業者、石橋正二郎(鳩山金脈の元はここにある!)をはじめとする日本の主要ゴム3社の発祥の地を久留米とし、そして、今日に至るまで、井上陽水、武田鉄矢、チェッカーズ、松田聖子や浜崎あゆみをはじめとする芸能界から、政治に至る様々な人材を関東に送り続ける、過激なまでの「上京指向」の人材バンクとして福岡が機能し続ける原点にあるのだと思います。

 私も、そのような福岡の久留米が生んだ「異能者」(?)として、関東での30年をむしろ「踏み台にして」、今後、地元久留米に根を張って、はじめて「地に足が着いた」形で、50代という一番脂が乗り切ったこれからの10年、身体が衰えを感じないうちに、本来のパワーを発揮し尽くせることを祈っています。

 BGMは、「エヴァンゲリオン」の、高橋洋子による、高橋洋子 - 魂のルフラン/心よ原始に戻れ - EP「魂のルフラン/心よ原始に戻れ」 以上にぴったりなの、ないでしょ?

そして、高橋洋子 - 残酷な天使のテーゼ 2009VERSION - EP「残酷な天使のテーゼ」もまた、久々に「封印を解いて」聴き返して、「肉食系の母親」の歌なんだとつくづく感じて、ふと目頭が熱くなったこういちろうである・・・・

 私がこのブログで、ずっと封印してきた、過去の軌跡、「エヴァ」。

・・・・・というわけで、もはや私には1円の稼ぎにもならない(・・・・あ、アフィリエイトで中古買ってもらうと少しはポイントになるのか・・・・)本の宣伝も久々に(^^;)

阿世賀浩一郎/エヴァンゲリオンの深層心理―「自己という迷宮」

*****

 更に、まさに我が母校に教育実習においでの際に、リアルのお姿を拝見した、「武田先生」に捧げる(?)、海援隊 - Acoustic Live ~君の住む町へ~ - 母に捧げるバラード「母に捧げるバラード」(Live)

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2009/12/19

「おい、しっぽを振れ!」

 これは、私の父親が、相手を侮辱的に軽蔑する時の「最終兵器」として、用いてきた言葉である(小声で、完全に相手に白けきったような調子で言う)。

 子供の頃、私がいじめを受けたりしてめそめそしている時、父がこの言葉を、「やさしさ」を込めて「逆説的に」つぶやいてくれた時の声は、今も私の耳底から離れない。

******

 ちなみに、私が使う最大限の最大級の皮肉は、

「私が自分の人生に失敗した時、あなたは『それみたことか!』とあざ笑う、いっときの快楽と癒しに身を委ねることができます。その快楽と癒しを提供して差し上げたのは私だということぐらいには、その時、少しは感謝していただけるとありがたく存じます。どうかローマのコロセウムの『外野席の』観客としてお楽しみくださいませ」

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2009/12/18

村上龍曰く、「草食系」どころか「死人」?!

RVR 草食系男子の時代
RVR 草食系男子の時代
(msnビデオ)

 「(今の若い男ドモは)何でもわかっていると思っている」。

 別に海外に行く必要はないのだ。

 遺伝子の中の肉食獣的本能を少しだけ呼び覚まし、身の回りの日常の中で「嗅ぎ回り」、「獲物を探し」、「味わい尽くせ」ば、日常世界はスリルと新鮮さに満ちたものに「豹変」する。

 龍さんではなくて春樹さんになっちゃいますが(^^;)、それこそ「ハードボイルド・ワンダーランド」に。

******

 私にとってひたすらキモいのは、顔の見えないぷちねと〇よの連中が、揃いも揃って「草食系男子」としか思えないということである。

 こんなことでは、再度の元寇襲来の際に、真っ先に肉饅頭にされて〇〇れちまったりしてね(爆)

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2009/12/02

浜崎あゆみの"SURREAL"

 ayuの代表作のひとつであり、ライヴでも繰り返し歌われ、私も幸い数回生あゆで聴けた曲ですが。

 以前にもこのブログで書きましたけど、私にとって、浜崎あゆみの曲でただ1曲選べといわれたら、やはり今でも、この曲。

 私の人生の一番辛い時期を支えてもらい、歌詞に完全に自分を同化させてしまう、いわば「こういちろうのテーマソング」ですね(^^)

 曲としても独創的。ayuの歌って、決して「3番」がないのですが、この曲にいたっては、クラシック風に言えば、ベートーヴェン風に「コーダの部分が果てしなく拡大」されてしまい、むしろこのコーダの部分の全く新たなメロディのインパクトが全曲の印象を決定付ける。

 ある観点からすると、よっちゃんがギターで超絶技巧でアドリブする部分を「展開部」として敢えて位置づけるなら、「単一主題による、コーダが第2展開部として拡張されたソナタ形式」(!)・・・・パーペキにベートヴェンです。

 そして、この曲が、ayuにおいて、まさに、ハ短調交響曲、つまり「運命交響曲」的な位置づけにあるといっても過言ではないでしょう。

 そして、PVがまた、「豹あゆ」で有名でもありますが、その細部に至る象徴表現はもはや一本の映画の域に到達した、不朽の名作でしょう。

●"Surreal(PV)" ←iTunes Store、敢えてプロモビデオ版に張っています。

●浜崎あゆみ / SURREAL(YouTube)

↑ これavexとayu様のYouTube「公式アップロード」なんですよ。貼り付けまで許可とはなんとも太っ腹!!

やっと "A COMPLETE -ALL SINGLES-"におけるリマスターを聴くことができましたが、泥臭さは低下したけど、透明感は随分アップしていますね。

←amazonのはCDのみバージョンにリンクさせています。

←楽天のはDVDつきバージョンにしてみました。

*****

 私自身、今、開業後最大の人生の大勝負にかかろうとしています(^^)

 そのための準備がこの一ヶ月ちょうど、ちょっとたいへんだったんですが(書くべき文章量と資料集めが・・・・) 。でも学会論文でも著作でもはありません(・・・・では、何のこっちゃ?でしょうが)

 いすれにしても、そのための作業は明日にクランク・アップが確定。

 そうなると・・・・・この1ヶ月間、その鎖に繋がれていた豹あゆならぬイリオモテヤマネこういちろうは・・・・

 ・・・・お約束しますよ。

このサイトが、再びayuサイトとしても本格復活することを!!

 「今の」こういちろうが再び一から浜崎あゆみを語り出すとどうなるか?

 ・・・・今回は、そのさりげない序曲のつもりでもあります。

 私にとっての"momentum"(これまたayuの私の大好きな曲のタイトルですが)であるこの曲で、活を入れなおして、"NEXT LEVEL"に進ませていただきます(これは、比喩的な意味と、ayuのアルバム、両方の意味でね)

*****

【追記】

 おまけで、これにもライブ映像貼っておきます(^^) これも生で観た時のものだと(カウントダウン?)。最近のayuの円熟度の高い歌唱法は、以前のような身をよじるような歌い方の実存的燃焼性こそ一見後退しましたけど、ここまでライブで安定した歌唱力でパフォーマンスできてしまうということ自体、凄いことではないかと。ライブでの歌唱としてはこの時のが一番好きですね。

●Ayumi Hamasaki LIVE Surreal(YouTube)

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2009/09/25

「おくりびと」・・・・臨床ということ

 日本映画の最高の金字塔のひとつというべき「生きる」に引き続いて、同様に「死」をテーマにしつつも、黒澤監督もなし得なかった、アカデミー外国語映画賞を受賞したばかりのこの映画を鑑賞するというのも、何とも味があるものである。

 

おくりびと [DVD]

 先日「完全版」がテレビ放映されたものをHDレコーダーに録画しておいたものをやっと観たのだが、どうもDVD版での一部シーンのカットを惜しむ声も少なくないようなので、むしろこうした形で観ることができたのは幸いなことかもしれない。

*****

 今回は、またもやや私的な次元からの感想として書かせていただく。

 ただし私自身の近親者や関係者の死の問題と絡めるようなことはしませんのでご安心を。

 私は臨床心理士であるが、「臨床(clinic)」とは、本来「ベッドのそばにたたずむ」という意味のみならず、「死に至る患者さんのそばに臨(のぞ)み続ける」という含蓄が込められていた言葉であるという。これは確か中井久夫先生の著作のどこかで読んだことである。

*****

 私の業界では、「臨床」という言葉を意識的に使う時には、カウンセリングや心理療法などを通して、ひとりひとりのクライエントさんと向き合う現場を持っている・・・という含蓄で使われることが多い。

 つまり、机上の学者などではないということである。

 もっとも、今日指定校大学院で勤務されている先生方は、むしろそうした意味での臨床現場のプロだった先生方が「請われて」教職に身を転じられたケースが増えてきているので、以上のことは別に揶揄のつもりで申し上げているつもりはありません。

 むしろ、大学という組織の煩雑な雑務に忙殺されるくらいならは、臨床の現場にあと少しでも立ち戻れれば・・・という引き裂かれる思いも感じておられる中堅の先生方も少なくないのである。

 実際、「あの先生はついに大学教育の場に向かわれた」という情報を耳にしたと思っていたら、いつの間にかほんの数年のうちに教職をお辞めになり、またもや現場に戻られてしまった、功成り名を遂げた筈の臨床家の先生の再度の転身に驚いたこともある。

 もとより、ご本人の意思ばかりではなくて、「先生がいないと現場が成り立たない」という切望もあったのではないかと推察もするのだが。

*****

 医師という身分は、実は日本でも欧米でも、実は必ずしも敬意を払われる仕事として歴史上一貫して見なされてきたわけではない。「鍼灸師」「マッサージ師」などと同じように「士」ではなくて「師」の字が長い間通称としてあてがわれてきたことの中には、実は必ずしも階級が高くない、表舞台に登場する性格のものではない「日陰の職人」であるに留まるという含蓄がある。

 この、「師」と「士」の字の含蓄の違いについて私に教えてくれたのは、何と私の父である。父はそこから「だからお前は医者より偉いんだ!」という凄まじい論理展開で私に発破をかけてきたのだが、お医者様の皆様、これはあくまでも個人開業(私設心理臨床)している私への、父の溺愛のなせる技とお許し願いたい。

****

 この映画の中では、従来注目を浴びていなかった「納棺師」という職業にスポットライトが当てられているわけだが、「死人と接せざるを得ない」という点では大抵の医師と納棺師には共通項がある。

 何しろ、日本の法律上は歯科医師にすら、役所に提出する死亡届に必要な死亡診断書を書く公的な権限が、今でもあるのだ(このことの是非はとりあえず置くとして)。

 私のような臨床心理士も、少なくとも「死にたい」というクライエントさんからの訴えや、かつて自殺を考えた、試みた、あるいは重い身体病を乗り越えた、今も身体の中に「爆弾」をかかえているというお話、あるいは肉親や知り合いとの死に目のお話をうかがわない日はないと言っていい。

 そして・・・・実は今や脚光を浴びる仕事となった臨床心理士(もっとも、職場を得て、安定した生計を成り立たせることの大変さも知れ渡りつつあるが・・・・)においても、実は、ひと皮向けば、普段「おかしい」人たちばかりを相手にしている、だとか、人の泣きごとを聴くだけでお金を取る人種だとか、ほんとうは社会や家族、地域共同体が背負うべき、悩める人や行き詰まっている人たちを有料で救う専門家が存在すること自体が、人間疎外を更に押し進めるシステムだとか言われる立場にあり、実は「世間の普通の人がやる職種ではない」という偏見にさらされているのである。

 「私、臨床心理士になりたい!」と肉親に口にした途端に、この映画の中の主人公の妻が夫の職業について知った時に示した拒絶反応と実は似た体験をされた、心理臨床志望の若き人は決して稀ではないはずだ。

 その理由は、単に大学院まで出る学費や収入的な安定という面での懸念などではとても説明し尽くせない、「生理的な嫌悪」を感じさせられる世界に、自分の子息が身を投じたがっていることへの困惑という側面が内包されていることが多いのではないかと、なぜかこの映画を見ている中で気づかされた。

****

 この映画は観た人が少なくないでしょうから、ここからはネタバレになることをお許しください。

 広末涼子が演じる妻は、本木雅弘演じる夫がやっているのが納棺師だと気づく前は、直前に絞(し)めて捌(さば)いたばかりの鶏を目の前にすることに何の抵抗もなかった。それどころか、買ってきた蛸が「まだ生きている」ことに気がついた時に悲鳴を上げた。

 つまり、私たちの多くが、普段肉食(にくじき)をする際に、それが「死体」に他ならないことを忘却しているのと同じ次元に生きていたのである。

 この映画で殊に印象的なシーンのひとつが、社長と主人公たちが、

「うまいか?」

「困ったことに」

などと対話しながら、進んで肉食を繰り返すシーンであることは衆目の一致するところであろう。

 私はベジタリアンを貫こうとする人を揶揄する気はもともとない。中には健康上の理由からベジタリアンを貫くひともあろうが、欧米ではベジタリアンでありながらもキリスト教徒である人は少なくないかと思う。

 ところが、キリスト教という宗教そのものが、「我々の罪を背負って十字架にかかって下さった主イエス」への信仰であるばりか、多くの宗派において、「聖餐」という儀式を大変重視するものである。

 これは聖書に伝えられる「最後の晩餐」におけるイエスの発言に基づき、ワインをイエスの血、パンをイエスの肉として口にする儀式である。多くの宗派の公式の教義では、聖別されたワインとパンは、まさにイエスの肉体そのものなのであり、決して「象徴的な表現」などと見なしてはいないそうである。

 実はイスラム教徒は、このあたりを指して、「キリスト教は教祖の人肉を食らう野蛮な宗教」と喧伝した時代もあるとのことである。

****

 こうして私は、敢えて仏教的・東洋的な発想から一定の距離を取ったままこの映画についての小考察を進めてきたが、そろそろ、私なりの言葉で、今回書きたかったことの核心に触れていこう。

 人は、他者の生命の犠牲の上に立ってしか生きていない存在である。

 いかに自立・独立を尊ぶ人でも、一切の衣食住をすべて自分で賄(まかな)って生きる、ロビンソン・クルーソーのような生き方をしているわけではあるまい。

 人は幼年期を脱した後も、何らかの意味で他者に「寄生して」生きているのである。収入を得られるいうことは、回りまわって、誰かがお金を出してくれたということである。

 誰もが「人の生き血を吸って」生きている。このことに貴賎はないと思う。

 臨終から葬儀、火葬、埋葬、そして追供養と続く一連の儀式は、悲しむための儀式ではない。むしろ悲しみが感謝に昇華される過程となるのがふさわしいのだろう。

 「愛(いと)し」「恋し」「哀(かな)し」といった古語の意味を探っていくと、これらが自然と融合する接点が出てくるようである。

 死や病が日常世界から隠蔽され、不死と無限の健康へのファンタジーが満ち溢れかねない時代(今度の不況で、そこに少しブレーキがかかったかとは思うが)であればこそ、病や死と日常の間にある、目に見えない「門」をつなぎ、その間にさ迷うしかなくなっている、個々人の「成仏できない思い」の仲介者となる「渡し守」が職業としても必要な時代なのだとも思う。

 それはむしろ、個々人日常生活の中に、そうした「愛(いと)し」「恋し」「哀(かな)し」の思いが行き交う世界が復興するための、ささやかなお手伝いなのだと思う。

*****

 BGMは、中島みゆきの中島みゆき - 歌でしか言えない - 永久欠番「永久欠番」ということで。

 ・・・敢えて、「生きる」の記事ではなくて、こちらの記事の方に。

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2009/09/03

「カウンセラーこういちろうの雑記帳」の主要過去記事を一番簡単に一覧するには

 このブログって、すでに創設4年9ヶ月、過去のエントリー記事総数が、「この」記事で1,914本め、なのに一日あたりの新エントリー、平均1.10本以上を現在も維持、しかも長文が多いという、へヴィー級ブログです。

 おかげで、もはや@ニフティココログが割り振ってくれているサーバー負荷が相当なものになっているせいか、

  • 私の方からトラックバックを送ることがもはや機能しない
  • pingも自動では飛ばせない(その割には随分多くの読者の皆様が、新記事アップ直後においでいただけることを幸いだと感じています)
  • カテゴリーにすべての記事が反映しない(カテゴリーによっては300から400エントリー分表示されようとするわけで)

・・・・・という、新しくおいでいただいた読者泣かせのブログになっていると思います m(_ _;)m

****

 もちろん、バックナンバー全体を表示してくれる、『アーカイヴ』ページ(自身がココログユーザー以外の読者の皆様、お気づきでしたか??? 右フレームの「バックナンバー」という文字そのものをクリックするとたどり着けます)というものも、あるにはあるわけです。

 しかし、このページにお行きになっていただいたとしても、過去の個々のエントリー記事のタイトル一覧があるわけですらない

 このページからの「〇年〇月」を全部めくっていただくだけでも(全く休眠した数ヶ月を除いても、現在50か月分ほどあるわけですね(^^;)。その50ヶ月分、それぞれ月ごとに、毎月30から40エントリーずつはあるわけですから・・・・・

 つまり、私がこのサイトでこれまで書いてきた主要記事がどんなものか、新しい読者の皆さんにおおよその見当をつけていただくには、もうデタラメにご不便をおかけしていることと思います   il||li _| ̄|○ il||li

*****

 この問題を一気に解決し、

  • 新記事の方が上に来る形で、
  • 過去の記事に関しては私がある程度絞り込んでセレクトしたものを、
  • 数百記事ばかり、1ページをスクロールできる形で
  • ブログのような表示の重さがない形で一覧したいただける

そういうページが、実はずっと以前から存在します!!

●阿世賀浩一郎のホームページ/index

 開設1995年12月(つまりWindows95発売直後)開設、日本において、インターネットで個人サイトを作ることが本格的に普及し始めた黎明期から、何と基本的なデザインを変えないまま運営し続けているサイトです。

 かつては、ネットを代表するエヴァ・サイトのひとつ、「エヴァンゲリオン論考」で著名だった時代もありますけど、幸いにして著作化させてもいただきましたので、そのコーナーは全面削除いたしておりますが(「ちーちゃんの部屋」というアニメコーナーがかつて存在したことを覚えておられる方もあると嬉しかったりして ^^;)・・・・

そのトップページから、このブログでの新エントリー記事を書く度ごとに、固定リンクへのリンクを、たいてい速攻の連続作業でお貼りしてもいるのです。

 恐らく、皆様のRSSリーダーに反映するスピードの比ではない「即時性」で「新着情報」が掲載され続けています。

 同一エントリー記事の更新(改版)情報すら、可能な限り早くお伝えしています。

 

そこに並んでいる、当ブログ個別記事へのリンク数は、常時数百あるはずです(古いものから時々、精選のための「ダイエット」をかけますので、一定数以上には増えません)。

 しかし、敢えて今でも、基本的には「素朴なhtml言語の手打ち」に依存し、javaスクリプトすらないに等しいということで、このトップページそのもののバイト数の多さの割には、表示が圧倒的に軽い筈です(このブログのトップページを表示するよりは軽いと思いますよ)

 
当方のアクセス解析によって、「こっちのページで新着情報見つけるほうが手っ取り早い」ことにお気づきの、毎日数名以上の固定ユーザーの方がおられることは掌握しています(感謝!!)。

 しかし、そうした方の占める比率が以前よりもかなり減っているようにも思いましたので、改めてご紹介させていただきました。

 

今後とも、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」をよろしくお願い申し上げます。

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2009/07/17

フォーカシングのグループ活動において、身体の感じを通して傾聴し、言葉にしていく関係性の場を、さりげなく生み出すということ(3)【第2版】

 さて、前回に引き続き、今回は、「聴き手が、話し手のいうことを、ボディ・センスを通して傾聴し、ボディ・センスを通して伝え返しをする」ということが、具体的にどういうことなのか、示して行ってみたいと思います。


 これから述べることは、基本的には、この前ご紹介した、

ジャネット・クライン/インタラクティヴ・フォーカシング・セラピー―カウンセラーの力量アップのために

で解説されている傾聴技法に準拠していますが、

アン・ワイザー・コーネル/フォーカシングガイド・マニュアル

で解説されている傾聴のあり方も融合させて解説することになるでしょう。

****

 聴き手が、話し手の話を、自分のボディ・センスを通して傾聴するということ・・・・これを「体験的傾聴」などと呼ぶ場合もあるのですが、こういう言い方だけでは、初めての人には、いったい何のことだかまるでわかりませんよね(^^;)

 まず、ちょっと狼のことを連想ししてみてください。

 一匹の狼が、闇の中で「ワオーーーーン!!」と吼えます。

 すると、しばらくすると、闇の彼方のどこかから、「ワオーーーーン!!」という泣き声が、まるで木魂のように返っています。

 最初の狼は、再び「ワオーーーーン!!」と叫び消すかもしれません。

 闇の彼方の狼は、さっきより早く「ワオーーーーン!!」と鳴き返し、次第に2匹の「ワオーーーーン!!」は、まるで輪唱かデュエットのように折り重なり、そのうちに3匹目、4匹目の狼の「ワオーーーーン!!」すら加わってくるかもしれませんね。

 同じような調子の声で、同じように鳴き交わす。

 まるで、相手の声の調子を模倣して返していくこと自体に、大きな意味があるかのようです。

 これが、動物同士のコミュニケーションの原点なのだと思います。

 そこには、敢えて言えば「同類がここにいるぞ!!」ということを相互確認すること自体に大きな意味があるのかもしれません。

 ・・・・でも、どうでしょうか?

 もし人間が、

「あなたは私の同類ですか?」

「ええ、同類です」

という、言語的(verbal)なやり取りをしていたとしても、それだけでは、狼同士の鳴き交わしのような、恐らく実存そのものを背負った連帯の絆は確立できていないであろうということ。

 身体に響かせ、vocal(音声的)に「鳴き交わすこと」にこそ、相互承認、相互連帯、世界の中で自分は一人ではない、お互いが繋がっているという感覚、そして、相互理解の実存的な基盤があるのだということ。

 ちょっと神田橋先生風の比喩にもなりましたが、確か、ジェンドリン自身も、「プロセス・モデル」という論文の中で、これと似たことを書いていると伝え聞いたことがあります。

 話し手の語りを身体を通して傾聴し、身体を通した言葉で応答していくということのベースラインには、こうした視点を持っている必要がある気がします。

**** 

 さて、この「ボディ・センスを通しての傾聴と応答のうち、今回はもっぱら傾聴のことを話題にします。これが、通り一遍の、共感的な「伝え返し」に留まる状態と、どのように異なるのか?

 ・・・・・ちょっと大胆な試みかもしれず、逆に困惑してしまう読者の皆さんが出てくるのを承知で、試しに、私がそうした「身体を通した」傾聴をしているときの実感そのものを描写してみますね(^^)

 相手の人が私に対して話をはじめました。私にはその「響き」が到達しています。私の「耳の鼓膜」は振動しているでしょうし、私の「頭の中」では、相手が話す言葉や、その脈絡に込めた「意味」を「理解しよう」とする働きが始まります。

 しかし、同時に、相手の言葉の響きは、相手の人と対峙している、私の身体の正面寄りの部分全体にも同時に響いて来ているわけです。私は、あたかも耳の鼓膜以上に、腹膜で、相手の話を聴いているようなつもりになってみることが少なくないです。

 腹膜を通して私の胴体という空洞に伝達された相手からの「響き」は、胴体全体を振動させ、共鳴させます。

 私はそうやって、自分の胴体が相手からの響きに共振ないし共鳴するのを自分に許した上で、そうした身体の振動にセンサーをめぐらせて、話し手の心境を「感受」し、読み取ろうとしていく「主体としての私」も堅持しています。

 今、「共鳴」という言葉を使いましたが、これはカウンセリングで使い古された「共鳴」という述語よりも、本来の意味、つまり、音響学的な現象としての「共鳴」というのに近い意味で使っています。

 つまり、話し手という「音響発生体」(?)の中で、一定の周波数で音叉が鳴ったとします。その音波は「空気伝染」して、私の身体の中の、同じ周波数の音叉を鳴らすことになります。

 相手と同じ周波数の音叉が共鳴するがままに任せるためには、私の方で勝手に自分の中の音叉を鳴らしてしまってはなりません。

 これが、私なりの実感としての、「相手の身になって」傾聴するということです。

 受容と共感、話し手の言葉を正確に伝え返すことは、ロジャーズ派に限らず、多くのカウンセラーの基本的な傾聴のあり方として実践されていますが、正直なところ、多くのクライエントさんはそうした傾聴をしてもらうでけではうんざりしています(^^;) 

 その理由は、単に、カウンセラーが「どうすればいいのか」の答えをくれないなどということだけではなく、クライエントさんの実感では、そもそも、カウンセラーに「話を本当に聴いてもらっている気がしない」という状態にすでになっているのですね。

 なぜか?・・・・私は、カウンセラーが、単に「耳の鼓膜で」聴いていて、耳のすぐそばの「脳で」理解しようとしているだけだからだと思います。

 つまり、多くのカウンセラーは、首から上だけでクライエントさんと関わって、首から上だけで共感したつもりになっているのです。

 しかし、クライエントさんの側は、自分の悩みや言葉にならないモヤモヤをを、身体で一身に背負って面接室を訪れているはずです(別に身体症状がない人ですら、そうです)。

(フォーカシング関係者で、それぞれ「私の実感の上では、もう少し違う比喩がぴったりだ」という方がおられてもおかしくありませんが^^;)

*****

 こうして、身体を通して(くぐらせて)傾聴した上で、語り手に伝え返しをしようとすると、一見ロジャーズ派的な「反射的」な伝え返しに似ているかに見えて、単に「耳で」聴き、「頭で」理解したものを伝え返す場合とは、自ずから、若干スタンスが異なってくる気がしています。

 語り手が次々と繰り広げる、出来事についての語りや言葉の「意味内容」を、単に几帳面に追いながら克明に伝え返すことが、むしろ何か不自然なことであるかのように感じられ始めます。

 (もちろん、場面によっては、むしろそうした丁寧な受け止めと逐語的に近い伝え返しが必要なひと時もあります。でも、そこそこ経験を積むと、そう いう伝え返しをこそ語り手が必要としている時はまさに今だ!!ということを、かなりの程度感受できるようになるものです。例えば、語り手自身、慎重に、自分の中の言葉にならない実感と照合しながら、言葉を少しずつ紡ぎだしているような場面です)

 語り手が、個人的な心境や気持ちの綾を込めて語っている部分については、語調や言い回し、話すスピードや間合いすら同調させながら、丁寧に、大事に投げ返す。

 しかし、それ以外の部分については、その語り手が物語る状況について基本的に誤解していないことの確認という意味で、ストーリーをなぞる最小限の 必要性が出て来る点を別にすると、かなり簡素に要約された伝え返しでも、語り手の側は特に不満を感じないことが少なくないようです。

****

 フォーカシング的な傾聴を学んで来た皆さんは、フォーカサーが用いた言葉を、同じ意味に思えるからといって別の言葉にリスナーが勝手に置き換えて伝え返すべきではないことをご存知でしょう。

 人が語る言葉には、その言葉を媒介としてはじめて注意を向けることができている、非常にパーソナルな、「実感それ自体」の領域があります。言葉とは単なる「記号」ではなく、その時のその人にとって、非言語的に感受された経験の暗黙の全体性を意識につなぎとめ、保持するための、その人だけの「とりあえずの荷札」(フェルトセンスをつなぎとめておくための「取っ手」)という側面があります。

 その人は「悲しい」と言っている時に、単に「悲しみ」という、ユニット化された感情を感じているのではありません。「とりあえず『悲しみ』と名づけてみたけれども、悲しみと言う言い方だけでは汲み尽くせない、もろもろの思いを含んでいそうな『何か』(something)」を感じている。その『何か』それ自体を大事にするようにさりげなく促すのが、フォーカシング的な態度です。

 だから、そうした際に、

「そのことについて、あなたは、悲しんでいる」

などと言葉を返す代わりに、

「そのことをめぐって、あなたは、何か『悲しみ』のようなものを感じているんですね」

などと、感情についての意味づけを固定することなく、感じている実感そのものにさりげなく注意を向けてもらう返し方をすることに、フォーカシングを学んだ人は慣れているし、普通のカウンセリング場面ですら普段使いしている方も少なくないかと思います。

 しかし、こうした言葉の返し方が、聞き手の中での単なる「応答テクニック」に留まるべきではないはずです。

 聴き手は、そこまで語り手が話してきた事件のてん末について想像し、そうした場面に自分が「身を置いた」ら、どんな居心地になり、どんな場の空気肌に感じ、どんな心境になるのかを、「あたかも」自分が体験しているフェルトセンスである「かのようにして」身体を通して感受しようとしていく必要があります。

 もとより、そうした際に、聴き手は勝手に妄想を膨らませていいというわけではありません。

 あくまでも、語り手が新たに紡ぎ出していく言葉のニュアンスや語調、表情の変化などを身体をくぐらせて感受し、それと照合し、修正していく中で、聴き手の中の、語り手の身になった「感情移入的フェルトセンス」が、その時の語り手に更に寄り添う方向に、刻々と変化していくことを許していく中で紡ぎだされた応答へと刻々と繋がっていく必要があります。

 つまり、語り手の実感そのものに更に寄り添う応答になっていく必要がある。

 そうなった時にはじめて、語り手にとって、聴き手の応答が、ある安全感を感じさせ、まるで語り手自身の身体の延長であるかのように自由に活用できる「鏡」=自分の「実感」そのものと、実際に自分ができている「言語表現」を、自然発生的に、無理のない範囲で「照合」し、語り手自身が味わい直し、より的確な言語表現を、自分なりに、深い実感の中から紡ぎだしていく手がかりになるのだと思います。

 聴き手は絶えず旅の過程で、身体性を伴う存在感(presence)を持って「そこに-いて」くれているのです。

*****

  ところが、こうやって「身体を通して傾聴し、身体を通して言葉を返す」というあり方が身についてくると、伝え返しの際に定石とされてきた一般原則のひとつを、ある程度緩めてもいいという心境に私はなりました。

 それは、「伝え返しの際、語り手が実際には使ってもいない表現で提示してもいいのか」という点について、私の中の禁則が緩んだということです。

 これをどう説明するかということは、私にとってかなりチャレンジングな未踏の領域(?)ですが、次回、何とか挑んで見ましょう。

(続く)

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2009/06/18

「治療」と「養生」の違い。人類は鬱になった人に「恩」を感じ、「感謝」を忘れてはならないということ(第4版)

 精神科医、神田橋條治先生の用いるキーワードのひとつとして、「養生」という言葉があることは、臨床家に知れ渡っているかもしれない。

 この言葉は、広く使われる、「治療」という言葉に対するアンチテーゼとしての側面を強く持っている。

 「治療」とは、

  1. 専門の治療者(医師、セラピスト)が、患者(クライエント)に対して施す行為。
  2. 「治療」行為の具体は、特別な専門家のみが継承する「秘儀」としての性格を持つ。
  3. 「健康な」状態を「正常」とみなし、それが傷害されたり、失調した「異常な」状態を「病気」とみなす。「健康」状態は、まるで生命が永遠に続くかのようにして維持されることを理想とする。
  4. 治療とは、その「異常な」状態から、以前の「正常な」状態に「回復」させる行為。
  5. 「異常な」状態は、いわば機械の故障や部品の脱落のようなものであり、それを専門家が「修理」しない限りは「回復」しない。
  6. 治療行為は、非日常的な、専門家がいる「特殊空間」で、「回復」するまでなされる、終わりある、一時的行為である。

・・・・・おおよそ、こうした含意があるように思える。

 これに対して、「養生」とは、

  1. 養生する主体は一般の生活者自身である(「養生の助言者」は存在し得るにしても)。
  2. 養生の心得は生活者の間で伝承される「オープンな生活の知恵」の一部である。
  3. およそ、生命体は、ある一定の状態を維持するものではなく、内的・外的な要因で絶えず「調子の波」があるものとみなす。そして、その「調子の波」が、何かの弾みで「調子がよすぎる」方向や「調子が悪すぎる」方向にはまり込み、容易に抜け出せなくなることは、誰にでも生じる可能性があり、生涯のうちに何らかの形でこうした状況に陥り、乗り切る必要がことが出てくることは、必然であるとみなす(その最大のものは、誰にでも寿命があるということである)。
  4. 養生においては、状態が悪くなる以前の状態にまで復することを必ずしも求めない。以前とは別なライフスタイルとなり、以前よりも制限された生き方しかできなくても受けとめる。これは単に「耐え忍ぶ」「諦める」ということではなく、以前無理が効いて何でも思い通りにできた頃の自分のライフスタイルこそ、バランスを欠き、「不養生」だったからこそ可能だったものに過ぎないとすら達観する。敢えて言えば、「養生しつつ生きる」人間の方が、「健康な」ライフスタイルに到達したとみなす逆説がある。
  5. 生体は、調子を崩すと、自然と、普段の活動状態から退却し、休息をとったり、身体に必要な滋養を補給しながら、自然な回復力が徐々に発現するまで「無理をしない」ことをおのずから行なうものであるという前提がある。人間は本来持っている筈の自然な自己治癒力が「退化」した存在なので、文化として「養生」術が伝承されるしかなくなった存在であるに過ぎない。
  6. 「養生」は、生活場面の中、あるいはせいぜいその延長といえる領域まで出向くのに留まる形で、形を変えながらも生涯続く「生活術の一部」として、なされ続ける。

 これは、私なりの理解をまとめなおしたもので、神田橋先生の著作のどこにも、そっくりそのままの部分は出てこないかと思います(^^)

神田橋條治/精神科養生のコツ 改訂版

 

*****

 私は、実は「単に『健康で』あり続ける人間」よりも、「『養生』しながら、新たなライフスタイルを模索してきた人間」の方が、無用な紛争や経済的な軋轢を生み出さず、多様な他者のあり方を受容し、痛みを分かち合い、地球環境も大事にする、これからの人類に必要な資質に富んだ人たちだとすら思いますが。

 

・・・・実は淘汰される弱者ではなくて、「どっこい生きてる」生存率の高い遺伝子保持者であるとすら。

 中井久夫先生が『分裂病と人類』でお書きですが、確か、ダーウィン派の進化学者、ジュリアン・ハックスレーが、「なぜ統合失調症の人は遺伝的に淘汰されず、一定の比率で生まれ続けるか?」という命題を掲げ、それに「貧窮困苦への耐性」という仮説を立てたそうです。

 これに対して、中井先生自身は、自ら「性的伴侶の獲得において有利な形質を持つから」ではないかと述べ、社会が大きな危機に瀕し時、社会の前景に躍り出て、先例にとらわれず、かすかな兆候から、変化を刻々と先読みしながら(=微分回路認知能力)、先見の明で時代を切り開けるは「S(分裂病)親和者」であるから・・・という仮説を提示したわけですが。

中井久夫/分裂病と人類

 

 

 うつ病になってしまうほどの几帳面に努力できるまじめな人たちに実は有形無形で支えられていたから、多くの家族や集団や企業は成り立っていた。

 上司や同僚は、まずは何より、「それまでの」その人の働きと功績に心からの「感謝」を伝え、労(ねぎら)いの言葉を形にすべきです(この実はシンプルなはずのことが、現実にはいかに抜け落ちたままのことが多いか)。「早く良くなって帰ってきてね」も余計です。

  極論を申し上げると、もし、鬱の素質がある人を全部最初から遺伝子レヴェルで受精直後に排除したりしたら、人類の滅亡は更に急速に早くなるでしょうね(・・・・勘違いしないで下さいね、鬱の皆さん。これは、あくまでも、鬱の人への恩を忘れ、困ったものだとみなす人たちへの皮肉です^^)

 これは、おそらく、いわゆる「こころの病気」を持つ人全体に言えることでしょう。

 ヒトゲノム計画における遺伝子の「意味づけ」って、実は常に一面的な意味づけであり、一見「病気を引き起こす因子」と見えるものが、同時に、「ある特定の状況下では、その個体をサバイバルさせる因子」、あるいは少なくとも、「自分は犠牲になっても他の個体を生かすための活動ができる因子(人類という種全体を維持しようとする因子)」としても働くという、「両価的な」ものである可能性が見過ごされないか、心配です。

 優生学とヒトゲノム計画を安易に同一視するつもりはありませんが、遺伝子の選別、いや場合によっては「遺伝子『治療』」という発想を常に注視しなければならないのは、それが単に人間の平等や人権に反する危険があるからばかりではないと思います。

 実は、上記の理由で、人類が存続するのに実は必要な大事な「表裏一体の」形質の遺伝子を「修正してしまう」結果、気がついたら、システムとしての人類全体を「弱体化」させるというパラドクスを秘めている可能性があることまで考えねばなならない。

 神ならぬ人間自身の浅知恵なんて、そんな水準のものを容易に越えられないのではないかと。

 仮に、人類が、いずれ衰亡するする運命にあるにしても(^^;)、そうした、人類全体への「治療」めいた形で、いよいよ衰亡を早めることなく、スロー・ライフで「養生しながら」地球と共存して生き長らえるのでいいのではないかと。

*****

 誤解なきように最後に言い添えますが、私が基本的に薬物療法の積極的支持者であることはこのブログで明言し続けている通りです。神田橋先生自身が、薬物療法の「超職人的な」使い手であることを忘れてはならないかと。

 しかし、ある物質を体内に投入しさえすれば精神疾患が治療できるというのは、恐らくどんな時代が来ても夢のまた夢でしょう。

 なぜなら、精神疾患に親和的な人たちとは、常に、文明と文化が生み出す歪みの結果であり、なおかつ、新たな文明と文化を生み出し、維持するエネルギーとなる人たちの供給源であり続けると考えられるからです(この発想の点では、私は中井先生の影響を強く受け続けていますね)。

 そして、薬という「異物」によって心身に生じる反応は本人に「違和」を引き起こしがちなものです。そういう薬剤によって変化させられる心身の反応を患者さん本人が「受容し」「消化して」、自我に統合し続ける過程というものが、結局は薬の効能の成否を決めるものであり、それを支えるのは、やはり、薬の効能にも通じた治療者との関係性であり、更に言えば、薬物療法を理解しながら見守る、家族やパートナーとの日常的な信頼関係なのだと思います。

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2009/06/12

NHKドラマ「ツレがうつになりまして。」第3話(第2版)

 これで全3話完結です。(第1話) (第2話)

 最初の方に出てくる、風吹ジュンさん演じるお医者さんの言葉:

「動物は調子が悪ければ、じっとしているだけ。
でも、ヒトは言葉なんていうものを持っているから考えてしまう」

 この前半は私が鬱をとらえる上でのモットーで、このサイトの記事の中でも似たことを何回か言及したことがありますし、先日「こころ相談.com」のインタビューでも使わせていただきました。

 ことばが生み出した「こころファントム(幻影)」の問題というのも、先日ご紹介した神田橋先生の著書の鍵概念ですが、実は、別に鬱についてと限定して先生はお語りだったのはないのですが、「動物は調子が悪ければ、『元気がなくなり』、じっとしているだけ」という言葉に私が出会って、心引かれたきっかけも、この本なんですね(・・・・と、やっと「元ネタ」を明かします)。

神田橋條治/「現場からの治療論」という物語―古稀記念


******


 以下、しばらくこのドラマの展開からは離れますが、このブログをお読みになればお分かりのように、私もまた言葉に淫した人間そのもの、完全主義者ですし、理屈っぽいし、旺盛な文章力と関心ジャンルの広がりという点から見て、かなり「スーパーマン」じみた存在として読者の皆様にも感じられてしまうのではないかとも思います。

 もっとも、私の場合にはこのドラマのツレさんのような、「メランコリー型うつ病」の典型に近いと思われるタイプではなくて、躁鬱的なものが(躁状態の方は目立たない形で)合質している、いわゆる「双極性障害II型」です。

 完璧主義とすごい気分屋でてきとーな部分、感情のままにふるまう部分、事務的な仕事を几帳面にやることが何よりも苦手で、消耗度が人より高い面を、欝なる遥か以前の思春期から併せ持っているかと思います。でも、基本に「人間好き」な面を強く持っているから、カウンセリングという仕事が性に合ったのだとも思います(今でも、私のことを学者やライターがあっていると思っている人は、私の本質が全く見えていないと思う。私の本領は、生身の人間がいる「ライブの」場面。更にうつ病から脱するにつれて、それはいよいよ明確になってきた手応えはああります)

 双極性障害親和的な躁鬱気質と、メランコリー型の単極性鬱病と親和的な執着気質は実は全く別のものであり、両者のライフスタイルの違いを軽んじてはならない(投薬も全く異なりますし)ことについてもすでにご紹介しました

 私は中井久夫先生の「分裂病と人類」を学生時代に読んで感銘を受けて以来、自分をS親和者的=分裂気質的と思っていましたので、自分が医者に「鬱」と診断された時にはかなりの驚きがありました。ちなみに私に「非定型薬」を出す可能性を考えた医師は全くいません(わかるひとにだけわかればよろしい^^)。

 その後SSRIから気分安定化薬のデパケンに切り替えてからはじめて症状が劇的に改善したわけですが、それ以降、自分を、以前ならば全く思いもよらない、「躁鬱気質」の脈絡でとらえなおしてみることをはじめてみたのですね。そうすると、今後の自分のライフスタイルとして一番無理がないのではないかとすら思え始めた。

 ドラマ後半で登場した、ツレさんの「あ・と・で」のモットー、すなわち、

せらない」
「(自分は決して)く別ではない」
きることから」

というのも、これでも以前よりは相当板についてきたかなとも思っています。


 このドラマのこの回でも描かれているように、鬱には波があり、もう大丈夫かと思ったら突然ぶり返すこともごく普通です。そのことに本人も家族も動揺したり落胆したりしがちです。

 しかし、本当は、波があるのが普通である、という前提に立ち、波がないことのほうがおかしいという前提で、人間や動物が、四季の移り変わりや、年毎の旱魃や長雨に対応するために、五感を働かせて刻々とチューニングし、そこそこに無理のないラインで生活できていくことの方が自然なのだと思います。

 ある観点からすると、人間が高性能を維持して故障のない機械になれることこそ理想の労働力とみなされ、日々の生活においても、一年中空調の聴いた部屋の中で、季節の収穫と無関係に同じようなものを食べられて当然と思い込み始める中で、退化し、鈍くなり、自分を年から年中同じ状態にあるかのように欺くのがうまくなったことの裏返しとして、自分の置かれた状況の変化に不感症になり、無理を無理と感じなくなり、鬱の準備状態にはまっているのに、まだそのことに気がつかない人も増えたのかなとも思います。

 今の私は、以前よりも、自分の無理の兆候や、逆にややハイになっている兆候、そして、欝っぽくなっている兆候にはるかに敏感です。

 一度鬱という病に本格的に陥ってしまった皆様の中には、そうした自分の些細なまでの敏感さそのものにむしろ苛立ちを覚え、むしろそれに振り回されて困っている方たちもたくさんおられるかと思います。

 でも、その敏感さが、むしろしなやかで柔軟な、新たなライフスタイルをあなたに導くための羅針盤にもなるはずです。

 羅針盤とは、どっちが北でどっちが南かを見失わないためのものです。多少、航路から外れてきたなと気がついたら、その段階で航路を「完全補正」するのではなく、風向きや地形や気象や波の状態も配慮しながら、そこそこ回り道をして目的地に向かうのも大事な「航海術」かと思います。

 そうした皆様に、その羅針盤を共に見守って、航海を共にしてくれるような人たち(専門家・非専門家問わず)との出会い(出会いなおし)がありますことを。

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2009/04/29

豚インフルエンザに対する、舛添厚生労働相の今後の発言への注目点!!(第2版)

●豚インフルの疑い、メキシコ死者103人 カナダも確認(asahi.ocm)

 【ワシントン=勝田敏彦、ロサンゼルス=堀内隆】豚インフルエンザの拡大を受け米政府は26日、全米に公衆衛生上の緊急事態宣言を出すとともに、5千万人分備蓄している抗ウイルス薬のタミフルとリレンザの4分の1を配ることを決めた。メキシコでは豚インフルエンザの疑いのある死者が100人を超えた。カナダでは初めて6人の感染が確認され、感染地域は3カ国に広がった。

 緊急事態宣言についてナポリターノ米国土安全保障長官は記者会見で、財政支出をはじめ態勢を整えるハリケーン対応などと同じ手続きであることを強調。過剰反応しないよう求めた。

 米疾病対策センター(CDC)のリチャード・ベッサー所長代行は、手洗いの励行など、普通のインフルエンザ対策と同じ注意を呼びかけ、「米国内の流行はメキシコほど深刻ではない」と述べた。CDCは当初、米国内の感染者の数を21人と発表したが、20人に修正。同所長代行は、米国の感染者の症状が軽いことについて原因究明を進める方針も示した。

 しかし、「ウイルスの変異は非常に予想しにくいし、状況に応じて国民が取るべき行動は変わる」として注意を呼びかけた。豚インフルエンザに対応するため新たなワクチン生産の検討に入ったことも明らかにした。

 一方、メキシコのコルドバ保健相は、豚インフルエンザの疑いがある死者が26日、メキシコ市や北部ヌエボレオン州で6人確認され、全国の豚インフルエンザの疑いがある死者が103人になったと発表した。うち22人が豚インフルエンザと確認された。感染者数も1614人に増えた。カルデロン大統領は国民向けメッセージで、患者の大半が退院したことを明らかにし、冷静になるよう呼びかけた。

 また、カナダ保健当局などによると、感染が確認された6人のうち4人はノバスコシア州の私立高校生で、4月上旬にメキシコへの修学旅行に参加。2人はブリティッシュコロンビア州で確認された。いずれも症状は軽い。

 感染が疑われる例も各国で増えている。メキシコから戻った高校生10人に豚インフルエンザ感染の疑いがあるニュージーランドでは、別の学校の3人もインフルエンザ症状を示していることが分かったほか、米国から帰国した2人にも感染の疑いが出ている。

 また英スコットランド自治政府の医療当局は26日、メキシコから先週帰国した2人が豚インフルエンザに感染していないか検査を受けていることを明らかにした。

この件についての、非常に「コアな記事」を紹介します。

問題は、ミフのことです。(注:フミは亀田某に負けた[負けてあげた?]ボクサーの名前!!)

この薬、鳥インフルエンザの特効薬といわれつつ、実は副作用問題で日本でもたたかれ続けたわけですが。

wikipedia「タミフル」の項より引用:

=====引用はじめ======

「タミフル」の全世界での使用量のうちおよそ75%を日本での使用が占めており、世界各国のうちで最も多く使用されている上、同2位のアメリカ合衆国と比べ、子供への使用量は約13倍とされる。これは2003年頃にインフルエンザ脳症の危険性が大きく報道されて国内での使用量が急増したことに加えて、国民皆保険制度により患者の金銭負担が少なくて済むことも原因である(「タミフル」は高価なため、海外では富裕層でないと使えない)。

# 2007年2月28日、「タミフル」服用後に仙台の中学生がマンションから転落死するなどの事故の報告が続いたことから、厚生労働省は「インフルエンザ治療に携わる医療関係者の皆様へ[8]」という文書を発表し、「現段階でタミフルの安全性に重大な懸念があるとは考えておりません」としつつも、医療関係者に対し「万が一の事故を防止するための予防的な対応として、特に小児・未成年者については、インフルエンザと診断され治療が開始された後は、タミフルの処方の有無を問わず、異常行動発現のおそれがあることから、自宅において療養を行う場合、(1)異常行動の発現のおそれについて説明すること、(2)少なくとも2日間、保護者等は小児・未成年者が一人にならないよう配慮すること」と患者や家族に説明するよう、注意を喚起することとなった。

2007年3月22日、厚生労働省が十代の未成年患者の使用制限を緊急発表。「タミフルは01年2月の国内発売以来、のべ約3500万人が使用した。昨年までに服用後の死亡が報告されたのは54人で、転落などの異常行動で、2007年2月28日までに死亡したのは5人。5人の死亡時の年齢は12~ 17歳。」(一部意訳修正済み)

# 2007年9月29日、(私立)ワシントン大学精神医学教授の和泉幸俊らは、オセルタミビルおよびその代謝産物を、若いラットより摘出した脳細胞に浸すと、神経細胞が一斉に興奮(発火)することを報告した。実際の組織内濃度をはるかに超えた状態で行われた実験のため、これが臨床的意味を持つものかどうかは未確定である。これらの成分が生体内において、血液脳関門を通過し実際に脳に至るとは証明されていない(現時点では、血液脳関門を通過できないとみられている)[10]。

# 2007年12月25日、厚生労働省の薬事・食品衛生審議会安全対策調査会は、前年冬にインフルエンザと診断された17歳以下の患者約1万人を対象とした疫学調査の結果、異常行動の発生率は「タミフル」を服用しなかった患者(22%)に対して服用患者では10%で、10~17歳でも同様とした上で、生命にかかわる異常行動では発生率に大きな差が見られなかったことから「まだ解析の余地があり、タミフルと異常行動の因果関係は現時点で判定できない」として、十代への使用制限措置を「妥当」とする見解を発表[11]。

============引用済み===========


この知識を前提として、次の記事をお読みのこと。

●豚インフルエンザ感染拡大は、タミフル在庫処分を目的の一つとして起こした騒動(言の葉の幹を捜す)


==========リンクが切れてたら=======

 そもそも「タミフル」は、感染が流行すると考えられていた「鳥インフルエンザ」のH5N1亜型[注:A (H5N1)とも表記する]ウイルス対策用に開発されたものです。そして、今回メキシコで発生した「豚インフルエンザ」のウイルスは、H1N1亜型[注:A (H1N1)とも表記する]です。

 日本を代表する防疫研究組織の国立感染症研究所は、今年の1月19日に「H1N1亜型」ウイルスの98%が、タミフルの効かない耐性ウイルスであると発表したのに、4月24日に米国疾病予防管理センター (CDC) が人から人へと感染したと発表した後、国立感染症研究所感染症情報センターのHPに掲載されている、「ブタインフルエンザとあなた Q&A」の中では、何と治療薬として「タミフル」を推奨しています。 

 (以下転載)
 ブタインフルエンザの治療薬はありますか?
ブタインフルエンザの治療薬はあります。CDCはブタインフルエンザウイルスの感染の治療や予防にオセルタミビル(訳註:商品名タミフル)またはザナミビル(訳註:商品名リレンザ)の使用を推奨しています。
抗ウイルス薬は処方薬(錠剤、液体または吸入)であり、体内でインフルエンザウイルスの増殖を防ぐことによりウイルスと戦う役割をします。もしも感染したら、抗ウイルス薬が症状を和らげるか回復を早くすることが可能です。また、抗ウイルス薬はインフルエンザの重篤な合併症を予防できるかもしれません。治療のために、発症後すぐ(症状が出てから2日以内)に抗ウイルス薬の使用を開始すれば、抗ウイルス薬は最善の効果が期待できます。
 (転載終わり)

参照:インフルエンザH1N1型、98%がタミフル耐性(Tout est bien qui finit bien.)

 なのに昨日(4月27日)舛添厚生労働相は、豚インフルエンザ用のワクチン開発を急がせると発表したのです。 もしも何らかの感染症の効果的な治療薬があるのならば、ワクチンの開発を急がせる必要など全く無いはずです。

 要するに、今回のメキシコ発の豚インフルエンザ感染拡大は、すでに業界関係者の一部からインフルエンザ治療薬としては欠陥薬だとの烙印が押されている「タミフル」の在庫処分を目的の一つとして起こした騒動だということであり、その片棒を日本政府も担がされているということです。

============引用終わり=========


 念のために、まずこの記事への重要な異議を明記します。

豚インフルエンザ流行そのものが虚構の作り話ということはますありえませんし、とりあえずの緊急対策としてタミフルを「ダメもとで」緊急配布していることを、上記のブログの執筆者のように「在庫処分」のため、とまで決め付けるのはどうでしょうか? ちょっと陰謀論的でありすぎる気も。

しかし、アメリカにしても、日本にしても、一方で「新型ワクチンの開発が急務」という公式見解を発表した上で動き出している点にこそ問題の核心があります。この点ではこの方の指摘は全くあたっていると思う。

万が一、日本でも豚インフルエンザの症例が発見された時、厚生労働省が「実際に」どう動くか?

結論から言えば、タミフルの供給に関しては、日本はすでにストックがありすぎるし、更に言えば、日本の薬事行政は、全体としては、あの、HIV非加熱製剤「薬害エイズ事件」を悲惨で醜悪な、痛恨の超例外にすれば、アメリカに比べるとかなりいい意味で慎重かつ健全です。

私の畑で言えば、SSRIプロザックをはじめとして、アメリカで頻繁に使われている抗鬱薬や抗精神薬の幾つかが、結局日本では未承認のままのものが多いこと、あるいはMAO阻害薬のようにパーキンソン病の治療を除いてむしろ改めて認証取り消しになったりしたことについては、たいていの場合、深い意味と、それ相応の「積極的な」理由があります。個人輸入についてのサイトに踊らされる前に、次の記事を是非お読みください!!

●プロザックの秘密(ADBUSTERS)

つまり、アメリカの製薬会社の思惑に抵抗して、新薬とされる薬を容易には認証せず、治験を徹底的にやるという「防波堤」として、相当「頑張っている」ことはかなり信頼していいです。

そもそも体格も食生活も気候風土も違う日本人だと、薬の用量や副作用の出方がかなり異なることは言うまでもないので。

そういう意味で、舛添厚生労働相の今後の発言を、こうした観点から徹底的に注視すべきかと思います。 


※参考記事;

●【豚インフル】効果期待のワクチン製造、でも実現は… (msn=産経)

【第2版での追記 09/05/06】:

 その後、今回のウイルスは幸いにして、鳥インフルエンザよりも弱毒性という報告が、幸いにも、流れているようですね。一方で「レヴェル6」への引き上げも検討とのことですが、事態の展開を冷静に見守りたいものです。ここで書かれているように、変種が出て毒性が増す可能性は視野に入れるべきでしょうし:

●【新型インフル】新型ウイルス、正体が徐々に判明(msn=産経)

===========リンクが切れていたら=========

人類にとって未知のウイルスである新型インフルエンザウイルス。米国疾病予防管理センター(CDC)による4月24日の感染発表以降、ウイルスの正体が徐々に判明しつつある。


◇弱毒性ウイルス

 一番の安堵(あんど)情報は、ウイルスが弱毒性である可能性が高いことだ。世界保健機関(WHO)の緊急委員会にも参加した国立感染症研究所の田代真人氏は、「弱毒性の可能性が高い」と繰り返し情報を発信している。

 メキシコでの致死率が高いものの、他国では深刻な症状となった例は少ない。メキシコでも、進行中の調査でインフルエンザ以外の死因が判明した例があるなど、死亡件数は絞り込まれている。

 今回発生したウイルスは、豚由来のH1N1型と呼ばれるタイプ。一般にH1型のウイルスは弱毒性とされる。H1型ではウイルスの構造から、体内への侵入が呼吸器や消化管にとどまるからだ。強毒性のウイルス(H5型、H7型)だと、全身の細胞に入りこんで重症化する。新型への変容が懸念されている鳥インフルエンザは強毒性のH5型で致死率も高い。

人類にとって未知のウイルスである新型インフルエンザウイルス。米国疾病予防管理センター(CDC)による4月24日の感染発表以降、ウイルスの正体が徐々に判明しつつある。

◇第2波の懸念

 弱毒性とはいえ、懸念すべき点も多い。ウイルスが変容を繰り返し、毒性を増す可能性もあるからだ。

 1918(大正7)年から世界中で4000万人とも言われる犠牲者を出したスペイン風邪(H1N1)は、流行中にウイルスが変容したことが、被害を大きくした原因と指摘されている。

 しかし、田代氏はWHOでの議論などから「病原性が若干強くなる可能性はあるが、鳥インフルエンザのように強毒型になる可能性はない」と断言しており、安心材料となりそうだ。

 CDCによるウイルスの解析でも、今回のウイルスがスペイン風邪ウイルスが保有していた病原性に関する遺伝子は持っていないことが判明。スペイン風邪より病原性が弱い可能性を示している。

 
◇ルーツは10年前

 毒性と感染拡大は全く別。新型インフルエンザは例年の季節性インフルエンザ並みの強い感染力を持っているとみられている。CDCなどは「第1波の押さえ込みに成功したとしても、今冬、あるいはそれ以前に、第2波となる流行が発生する可能性もある」と警告している。

 また、米コロンビア大などの研究チームでは、ウイルスが「北米の豚」「アジアの豚」「欧州の豚」など少なくとも4種類のウイルスが混合して生まれたとの解析結果をまとめた。「北米の豚」のウイルスには鳥と人に由来するウイルスの遺伝子も交じっていた。

 チームは過去の検出状況から、1998(平成10)年ごろまでには北米の豚の体内で、豚、鳥、人のウイルスが混合したのではないかとみている。ウイルスの解析は、今後の治療などに役立つものと期待されている。

===========引用ここまで(記事全文)=========


******


以上、「王子のきつねOnLine」の、

●パンデミック?!

への私のコメントより、若干増補の上で転載します。

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