八王子

2010/11/25

「1カ所限定『どこでもドア』、行き先はどこにする?」

ブログネタ: 1カ所限定「どこでもドア」、行き先はどこにする?参加数拍手

 今回のお題への私の答えは、「東京駅丸の内口」でしょうかね。

 30年も関東に住みましたが、ひとつ思い入れのある場所を思い浮かべようとすると、こうなってしまう。八王子と横浜と鎌倉に住んでいたんですけど、ひとつには、月一度ぐらいの非常勤の勤務先が九段下でして、神奈川県在住時代に、横須賀線か東海道線で東京駅に出て、東西線の大手町駅まで丸の内口から地上を数百メートル歩いていた印象が強いからかもしれない。

 あと、有楽町駅との間にある「東京国際フォーラム」が、学会とかの行事が頻繁にある場所だったことも大きいかもしれない。

 八王子時代は新宿に出向くこと多かったですけど、鎌倉・大船時代は新宿とは縁遠くなって滅多に行かなくなっていたし。

 今は、倹約して生活すれば時間だけは有り余っている。

 ですから、関東への「恋しさ」の象徴は「東京駅」ということで。

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2009/12/23

「肉食系」的なやさしさ (第2版)

・・・・・というものがある気がしてきた。

 それは、いわゆる「草食系」のやさしさとは何か次元が違うのだけれども、今の日本(の特に若い男性)に、再度賦活されていく必要があり、それが今後の日本の舵取りの鍵を握ると思えるのである。

 Wikipediaによれば、「草食系男子」というのは、200610月に深澤真紀が『日経ビジネス オンライン』で連載している「U35男子マーケティング図鑑」(2007年に『平成男子図鑑』として単行本化)で「草食男子」として命名されたのがことのはじまりであるとのことだが、私はその原典やその後に続いた著作を読んでいるわけではない。

 しかし、広い意味で女性一般の方は何らかの意味で「肉食系」の側面を発現し続けて来た人が多い(これは見かけ上大人しめであるかどうかとは無関係。そのことに気づかないでいる男性がいるとすればちと御目出度すぎる)ものだから、余計に浮かび上がってきた現象ではないかと考えている。

 そして、私なりのネットフィールドワークの結果到達したのは、(数年前の小林よしのり信者がたくさんいた頃はまた別かもしれないが)、少なくともここ2,3年のネットのプチ〇翼の若者は、実は揃いも揃って「草食系」である、いや、「草食系男子」の心性と非常に親和的なものとしてプチ〇翼というスタンスが、非常に広範な若者に、ネットでこの種の発言をする匿名ピープルよりも相当に裾野が広い形で浸透しているというのが私の結論である。

 彼らはもはや、例えば小林よしのりや石原慎太郎に当たるような特定の「頭目」を押し立てることすらしない。フラットランド化したネットの2次情報,3次情報をシェアするだけで群れている、徹底的に「顔のない」集団である。

 ・・・・ちなみに私は"SPA!"を離れる以前の「ゴーマニズム宣言」の愛読者で、感想をしきりと送っていた人間であり、その頃のよしりん氏に「八王子の阿世賀浩一郎は凄い! 参考になる」と、コマの欄外でコメントされ(今刊行されている単行本のバージョンにも載っているかどうかは確認していない)、公式「ゴー宣」本にかなり長い感想文が実名で載っている人間である。

 "SPA!"との関係を辛抱し切れなくなったところで、小林氏はあるバランス感覚を喪失したというのが私の意見だが、それでも、「新しい歴史教科書をつくる会」との関係を絶つ時でしたか、「日本のこの種の人たちがアメリカとの関係ということになると急に態度を変えるのが納得がいかない」という趣旨の発言をしたことに関してはある共感を覚えた。

 ちなみに、よりのり氏も私と同じ福岡県出身である。最近の私のネット上での物言いに、思想それ自体というより、発言スタイルの点で、時々「ゴー宣」調のノリが無意識のうちにも出てしまってるあたりに我ながら苦笑している。福岡県人独特の、いざとなると嵩(かさ)にかかって斬り込む、直裁な「喧嘩節」の伝統という点では共通のルーツなのかなと(^^)

 宮崎哲弥さんが久留米出身で、今年初めて久留米で講演会を開いた時のことはこちらの記事で書きましたが、そういえば、今、自民党内部を引っ掻き回す発言をしている舛添要一さんも、(その政治姿勢にすべて賛同するわけではないが)北九州(八幡)出身の苦労人だものな・・・

*****

 実は、そういう、「いざとなると嵩(かさ)にかかって攻め込む」気概をむき出しにできる人間にしか発現しない、「肉食系のやさしさ」というものがどうもあるようだ、という気がしてきたのだ。

 少なくとも私の中で、明らかに、そういう意味での、潤いある「やさしさ」と「包含力」、むしろ「献身性」ですらあるものが、ここしばらくの間に、特にリアルワールドにおけるクライエントさんやオフィシャル・プライベートを含む人間関係の中で発現してきている気がする。

 それは決して「暑苦しくて」「脂肪分が多い」、「押し付けがましい」ものではないようなのだ。それは、狩人をしていない時の豹の母親が子供たちに対して示すような、何かそういう質の、静かな「母性」に近いもののようにすら思う。

*****

 それとどこまで関係あるかどうかわからないのだけれども、昨日東京に日帰り出張した時に、ANAの機内誌、「翼の王国」12月号を読んでいたら、「日本"山水”探訪記」というグラフィック特集で、「熊本・鹿児島編」として、「南九州の空と土」という記事に大部が割かれていた(pp.40-63。文・絵:堀越千秋 写真:阿部雄介)。

 装飾古墳として著名な熊本県山鹿市のチブサン・オブサン古墳、延々と続く謎の地下トンネル遺跡として著名な玉名郡菊水町の「トンカラリン」、鹿児島県南九州市川辺町の「清水(きよみず)磨崖仏群」、熊本県人吉市の青井阿蘇神社、熊本県上益城群山都町の、江戸時代を代表する潅漑用水道路の要というべき、古代ローマの水道橋を思わせる、時々の放水で著名な「通潤橋」などが取り上げられていた。

 それらの記事を眺めている時に、私は何ともいいようがない次元での、ほとんど元型的な次元での「血の共感」を覚えずにはいられなかったのである。

 すでに何回も書いてきましたが、福岡市から南に向かい、大野城市のあたりの地峡を越えて筑紫平野に入り、筑前の国から筑後の国に入り、更に筑後川を渡ってしまった久留米に入った途端に、同じ福岡県でも、古代からの文化の質は一変して、むしろ熊本県とも通底する「中九州」文化圏の北限に位置した土地ととらえる方が自然である。

 厳密には博多弁と久留米弁はかなり異なり、久留米弁はアクセントが明瞭ではないという点では日本の方言の中でも特異な位置を示す。(わかりやすくいえば「橋」と「箸」の音韻上の区別というのは、久留米人は学校教育を経ないとできるようにならない)。

 その「異様に平坦に」流れるような早口は、我が郷土の生んだ、本名「蒲池法子」さんに、実例をお示しいただこう(^^)(この番組、放送された時に観た記憶があります)

●松田聖子の久留米弁 その1(YouTube)

●松田聖子の久留米弁 その2(YouTube)

 ・・・・・私は父親が「大陸育ち(標準語圏)」だし(かなり久留米弁を戦後身につけましたが、母親の「ネイティブな」古式ゆかしき久留米弁ほどではない)、私自身は「久留米附属」(「久留米大付設」ではありません。聖子さんの確かお兄さんが「付設」出ですよね)という、教員養成大附属小中学校という、地域社会とは切り離された中で成育し、更に30年も関東暮らしをしたので、とてもとても聖子さんのように鮮やかなギアチェンジができる人間ではありません(^^)

 でも、私が「異様に早口でのっぺりした標準語」で延々と話す時があることは、ライブこういちろうをご存知の、特に同業者の皆様は、時々、ついて行けなくお困りのことがあろうかと思います(^^)

*****

 ・・・・話を本題に戻すと、久留米南部地域というのは、大和時代の豪族、磐井の乱(525年)でも日本史に名を残すように、ヤマト政権からは独立性が高い、ダイレクトに大陸側(新羅と書かれていますが)との交渉を維持した勢力が、かなり後の時代まで維持された土地柄です。

 記紀の世界で「熊襲(くまそ)」とされた民(ヤマトタケルの征伐神話からすれは一応2世紀頃に相当するが、これはどうみても「前倒し」の可能性が高いが)は熊本県球磨地域に一応同定されている。一応、「熊襲」よりも、その勢力はしぶとく残ったことになるとも言えるわけである。

 いくら当時までのヤマト王権の正当化のための歪曲ありとはいえ、「磐井の乱」を伝えた日本書紀は、物語的な古事記と異なりまだしも歴史書としての体裁がしっかりしており、編纂時から遡っても「200年未満」の時点で起きた事件についての著述には、何らかの史実の裏づけは濃厚と思える。

 私自身は、邪馬台国九州説は根拠薄弱という立場です(オーソドックスに、奈良県桜井市の纏向遺跡(まきむくいせき)を卑弥呼の墳墓とみなしたい)が、大和地域よりは、黒潮に乗った東南アジア、南洋地域、中国南部、そして朝鮮半島寄りの経路で中国北部との頻繁な交渉がダイレクトに早期から形成されていたであろう九州の持つ政治的独立性は、実際には九州北部沿岸のごくごく一部の地域を点と線でつなぐ形でしかヤマト政権の安定した覇権を置き得ない状況に、少なくとも663年の白村江の戦いの直前の頃まではあったのではないかと思います。

 なぜ天岩戸伝説を日向の高千穂峡天孫降臨の神話を同じく日向の高千穂峰(もっとも、前者には異説がある)に同定しなければならなかったのか? これもそれだけ南九州にもともと強大な勢力があり、それを実際の歴史上は大化の改新(646)以降、天智・天武朝の頃にやっと臣従させた上で、その地域の神話(むしろ朝鮮か南方由来)と中国神話を加味して歴史を「数百年遡って塗り直す」だけの必然性があったればこそでしょう。

*****

 いずれにしても、久留米以南の中九州・南九州文化圏には、ちょうどヨーロッパ諸国が、ローマ帝国以前の原住民やゲルマン民族の歴史をキリスト教で塗り消し、地下に潜伏させたのと同じように、後のヤマト政権が上塗りして完成された「ヤマト民族主義」を一皮向けば、より古い層の元型的な無意識の世界が容易に溢れ出す地域性というものが潜伏しているのではないかと思います。

 それが、幕末における薩摩や佐賀を中心とする倒幕・維新勢力、あるいは真木和泉守ら、久留米の勤皇の志士に活躍の舞台を与える原動力にもなり、筑豊炭田で鉱夫たちが使う地下足袋の大量生産に起源を発する、ブリジストンの創業者、石橋正二郎(鳩山金脈の元はここにある!)をはじめとする日本の主要ゴム3社の発祥の地を久留米とし、そして、今日に至るまで、井上陽水、武田鉄矢、チェッカーズ、松田聖子や浜崎あゆみをはじめとする芸能界から、政治に至る様々な人材を関東に送り続ける、過激なまでの「上京指向」の人材バンクとして福岡が機能し続ける原点にあるのだと思います。

 私も、そのような福岡の久留米が生んだ「異能者」(?)として、関東での30年をむしろ「踏み台にして」、今後、地元久留米に根を張って、はじめて「地に足が着いた」形で、50代という一番脂が乗り切ったこれからの10年、身体が衰えを感じないうちに、本来のパワーを発揮し尽くせることを祈っています。

 BGMは、「エヴァンゲリオン」の、高橋洋子による、高橋洋子 - 魂のルフラン/心よ原始に戻れ - EP「魂のルフラン/心よ原始に戻れ」 以上にぴったりなの、ないでしょ?

そして、高橋洋子 - 残酷な天使のテーゼ 2009VERSION - EP「残酷な天使のテーゼ」もまた、久々に「封印を解いて」聴き返して、「肉食系の母親」の歌なんだとつくづく感じて、ふと目頭が熱くなったこういちろうである・・・・

 私がこのブログで、ずっと封印してきた、過去の軌跡、「エヴァ」。

・・・・・というわけで、もはや私には1円の稼ぎにもならない(・・・・あ、アフィリエイトで中古買ってもらうと少しはポイントになるのか・・・・)本の宣伝も久々に(^^;)

阿世賀浩一郎/エヴァンゲリオンの深層心理―「自己という迷宮」

*****

 更に、まさに我が母校に教育実習においでの際に、リアルのお姿を拝見した、「武田先生」に捧げる(?)、海援隊 - Acoustic Live ~君の住む町へ~ - 母に捧げるバラード「母に捧げるバラード」(Live)

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2009/09/30

最近このブログの内容の性格がずいぶん変わってきた

・・・・と、自分でも感じています。

 特にこの9月になってからの1ヶ月

 文字通り、「カウンセラー」こういちろうの雑記帳という、ブログのタイトルそのものになってきて、次から次へと、新たに接した素材(それが映画であろうと)について、ハードに煮詰めた形で書くようになって来た気がする。

 文体も、硬質でタイトなものになって来たように思うし。

 読者によっては、遊びがなさ過ぎるというか、要求水準が上がりすぎているとお感じの方もあるかもしれない。

 アクセス解析を観ても、読者層の皆さんの入れ替わり現象みたいなものがかなり顕著になって来たようですね。

*****

 そうなったひとつの刺激剤は、8月末の、1年1ヶ月ぶりの東京上京と、日本人間性心理学会第28会大会への参加だと思う。

 それが私にとって、久留米で生きることについて、やっと本格的に腹が据わる契機となったことはこちらの記事でも書いた。

 そして、東京からの帰途の飛行機の中で発想し、構想を煮詰めていったのが、昨日突如公式ウェブサイトを、秀吉の「墨俣一夜城」のごとく公然化させた「久留米でうつと働き方を語る会」発足に向けての動きである。

 私としては珍しいことだが、この構想を、幾人もの先達の諸先生方、何人ものグループ体験のあるクライエントさん、元クライエントさんに打ち明け、ご意見やご感想を頂き、もちろん既成のこの種の団体のウェブサイトをあちこち検索して参考にさせていただきながら、慎重に構想を煮詰めて行った。

*****

 もっとも、あのサイトそのものの「ウェブデザイン」は、マジに28日に半日で仕上げました(^^;)。私の作ったウェブサイトではこれまででもっとも美しいですね。どうしてこれまではこうはいかなかったのかと自分でも苦笑しています。cssまで使いこなしたのは今回が初めてです。

(追記:画面右端が空白だった問題は、すでにどのブラウザで見ても解決されているはずです)

***** 

 もうひとつ、東京での学会参加が、私を思いの他刺激したのは、一方でこれから地域に根を張る現場臨床にいよいよ踏み込むというのと同時に、アカデミズムというか、臨床心理「学」の領域で、まだ私にもできる、残された仕事がありそうだという思いだった。

 体調回復まで、思ったようにまとめられなかったため、このブログで再三「今年は個人発表する」と繰り返しながら、ここ4年ほどブランクが空いている。

 私の現場臨床における関心がうつのクライエントさんをいかに支援するかに重点が置かれ、フォーカシング指向心理療法に関しても「そのために」いかに役立てられるかという観点から探求の試みをしている最中である。

 それを構築するためには、まだまだうつ医療や認知行動療法をはじめとする様々なアプローチについての膨大な文献を読むことになるだろう。

****

 だから、今回は控えめにお伝えしておくと、来年の人間性心理学会第29回大会は、何しろ久留米から特急で1時間弱の熊本大学であることは確定しているので、そこで「何かについての」個人発表はします。これはうつに関するテーマをおもてに押し立てるかどうかは未定くらいに考えておきたい。

 ところが、更に翌年、2011年の日本心理臨床学会第30回秋季大会は、どうも九州大学が当番校になる可能性が高いそうですね。

 少なくともこの段階までには、「うつ」というテーマに関する私なりの現場臨床での実践のとりあえずの「総まとめ」を「学界で公表できること」を目指そうと思います。

*****

 ともかく、「うつと働き方を語る会」立ち上げ準備までのプレッシャーからは解放されました。

 私の、このブログでの立ち振る舞いも、10月は、別の意味で"Next level"に変容するかもしれません(^^;)

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2009/09/22

「あと3年」と宣告されたら、あなたは何をするのをやめますか? (第2版)

 物騒なタイトルをお許しくださいcoldsweats01

 これは、日本人間性心理学会第28回大会の最終日、8/30に私が参加した、九州大学留学生センターの高松里先生と、九州産業大学の平井達也先生によるワークショップ、「”私”の働き方研究」の中で、お題として出されたワークのひとつなのです。

 高松先生は、数年前に、一度末期がん、余命数ヶ月という診断を受け、検査入院をします。

 検査の結果、それは結局杞憂に終わるのですが、それをきっかけに、人生観がまるで変わってしまい、それまでいろいろと引き受けてきた仕事を思い切って整理し、自分がほんとうにやりたいこととは何か? 日本人の働き方には、アジアを含む諸外国と比べても何かおかしなところはないか?・・・という問題意識が深まったとのこと。

 確かに、「今」という時を、常に未来のための投資・準備として位置づける日本人の生き方は、こうして、単に不況であるばかりではなく、雇用構造そのものが大転換しつつある昨今の社会情勢の下で、大きく揺るがされていると思います。

*****

 そうした中で高松先生たちが発想したのが、「捨てるワーク」と名づけたもの。

「あなたが余命あと3年と宣告されたとします。あなたは今、何をするのをやめてしまいますか? 何を捨てますか?」

 これを、紙に10項目、実際に具体的に箇条書きにしていくのです。

****

 ただ、ここで肝心なのは、「残りの3年で何をするか?」ではないということかと思います。

 何をするかのリストアップに過ぎなければ、映画の原題"Backet List"こと「最高の人生の見つけ方」になってしまいます。

 「何をやめるか」「何を捨てるか」と自問することは、単なる我執に過ぎないものをチョイスするというより、自分の今やっていることの中で実はそんなにこだわりはないはずのことに深い次元で気がついていくことになるのだと思います。

 ですから、実際にこのリストを書き連ねようとすると、「〇〇するのをやめる」という表現を言葉の上で取ろうとするのと裏腹に、「ほんとうは△△を自由にのびのびとやりたかったんだ!」という、生活の中で実行可能な、ささやかな気づきが浮かび上がるという、逆説性があるのですね。

*****

 私もいくつかリストアップしましたが、昨年、関東から九州に引き上げる段階で、実際、マジにいろいろ諦めたり、処分しまくった人間なので、思い浮かべるのが大変でした。

 いくつかひねり出した挙句、少し合間を置いて、最後に書き加えたのが、

「年齢を気にするのをやめる」

ということでした(^^)

*****

 実は、高松先生たちのこのワークのアイデアの発想の源のひとつには、映画「死ぬまでにしたい10のこと」があるそうです。

【以下、第2版で追加】

 学会ワークショップの後で、知り合いから多少は流れを訊いた上で、本日やっとDVDレンタルして観ましたが、なるほど、原題"My life without me"がいかにふさわしいものかに気がつきました。

 「愛と哀しみのボレロ」の原題("Les Uns et les Autres")は、英語に直訳すると「"THE WE"and"THE OTHERS"」というような感じでしょうが、その本来のタイトルと内容が切っても切れない関係にあるのとも似ていた気がします。

 こういうタイトルのつけ方は、何らかの意味で文学性も高い、ヨーロッパ映画(合作を含む)に少なくない気もします。

【第2版での追加部分、終わり】

*****

 これを書いている最中に、情報収集のためのネットサーフィン中に気がついたのですが、もうすぐ「2012」という「あと3年後」映画も公開されるそうですね(^^)

●「2012」公式サイト

 なお、この映画と引き付けることを「狙って」この記事を書いたわけではないことを、ここに宣誓させていただきます(きっぱり)

 要は「最高の人生の見つけ方」「死ぬまでにしたい10のこと」について再確認することを目的でググっただけでございます。

*****

●更なる追記:

 この記事との関連で、黒澤明監督の映画「生きる」の感想も、こちらにアップしました。

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2009/09/12

それにもかかわらず、セッションを前に進めている主役はクライエントさんである -Mick Cooper博士による、心理療法における多面的(pluralistic)アプローチ-  (4 完結)

 日本人間性心理学会第28回大会における、ミック・クーパー(Mick Cooper)博士による特別講演、「多面的心理療法における理論・研究・実践」を拝聴した報告記の、前回に続く第4回、今度こそ完結です(^^)

*****

 前回の終わりの方で述べた、「メタ・コミュニケーション」次元でのやり取りとして、クーパー氏は次のような例を持ち出した。

 子供時代に親からひどい虐待を受け、現在も社会不安障害的な症状に苦しんでいるクライエントさんがいたとする。

 この種の人物へのセラピーの場合、虐待を受けたときの記憶を繰り広げて探索して話していってもらう(exploring)ことが求められることが少なくない。この人もまた、それまで受けたセラピーではそうしたことを散々やってきた。

 果たして、このクライエントさんに、今回もまた、そのような自己開被的なやり方を取ってもらう必要があるのだろうか?・・・・

クライエントさんは語った:

 「私はもうフラッシュバック(災害時や虐待などのトラウマ的な経験の記憶が、突如、圧倒的なリアリティでその人の中に蘇ることを不意打ち的に繰り返す体験)に悩まされてはいないんですよ」

セラピストは問いかける:

 「虐待について整理するために、そのことに戻ってみる必要を感じておられますか?」

クライエントさんは応えます:

 「そこまで行きますかねえ? それって、やらなきゃならないことなんでしょうかねえ?」

セラピストは続けます:

 「あなたからの[対人恐怖を改善するにはどうすればいいかという]問いかけが、その[過去の虐待]問題と、どのくらい関連していると、あなた自身が、感じているのかどうかに関心を持っていたんです。私たち二人とも、その2つのことが関連しているかどうかなんて、実は何もわかってはいないんじゃないかと」

クライエントさんはしみじみ応えます:

 「・・・・・・ほんとうはわかっていないんですよね、それって・・・・・理性的に考え直してみると、私の今の[対人恐怖問題と、つながっていないのかも」

 クーパー氏はこの展開について次のように解説する:

  • (クライエントさんの不安の種になっている問題の原因や対処について)、他の可能性も点検してみること。
      ・・・・・・[家庭での親との関係だけではなくて]学校で恥をかかされた経験と関連している可能性は?
      ・・・・・・[親に限らず]、誰かががっかりしたり、「審判」を下して来る(judge)ことへの恐れと関係しているのかもしれない。

などなど。

 こうした流れの中で、このクライエントさんは、

 「・・・・・私は不安でした。ですからいつも、人前で話すことをせずに済むようにして来たように思います。
 だからもし・・・・・もし、何回かでも、そういう時に話をすることができていれば、そんなに大したことではないと思えるようになっていたかもしれませんね」 


 しかし、セラピストは、この方向にだけ安易に話が流れないように、更に次のようなことを述べていきます。

 「私たちは、あなたのそうした、人前で話すことのたいへんさについて、こうして話し合って来ているわけですけれども、でも、もっといろんな[とらえ方や解決法の]可能性があるのだと思いますよ。

  •  ・・・・・ひとつ言えることは、あなたのこれまでの人生の中で起こったことのおかげで、それがすごく厄介なことになってしまっていて、それがあなたをひどく押さえ込んでくるし、ほんとうに不安にさせるんだろうということです。
  •  ・・・・・もうひとつは、あなたがこれまでにやってきたことの中で、あなたが全然不得手で、ひょっとしたら諦めてしまった方がよかったようなことすら、たくさんあったのかもしれない。
  •  ・・・・・もうひとつあり得ると思いますよ。・・・・・さっきあなたがお話になったこととも関連して来るんですけど、あなたの中で[現在]悪循環のサイクルにはまってしまっている気もする。つまり、必ずしも過去の酷い体験が原因になっているとは限らない場合もあります。
     あなたは、[そうした過去の痛手によって]人前で話をせずに済むようにしてしまったばかりではなくて、そうやって実際に人前で話をしないことによって、ますます人前で話すのが怖くなってしたのかもしれない。ほんの少しでも、人前で話をすることを始めてみたら、まさにあなたが言われたように、『実はそんなに大したことではなくて、結構何とかなる』と感じられたのかもしれませんね」

 このように言葉の上でだけ読んでいくと、まるでセラピスト側が一気に畳み込んで誘導しているようにすら見えるかもしれない。

 しかし、私が思うに、セラピストは、かなり長い沈黙を挟みながら、クライエントさんの様子や非言語的な反応を絶えず確認しつつ、ひとつずつ、控えめに差し出すような言い方で、言葉を紡ぎ出して行ったのではないかと想像できる。

 (この「多面的アプローチ」との共通項が多い、フォーカシング指向心理療法において、「新たな提案は、押し付けにならないように、クライエントさんが簡単に振り払えるような形で、控えめに差し出されねばならない」ことを、ジェンドリンが繰り返して強調していることからの憶測である)

 クライエントさんは応える:

 「まさにそう思っていたんですよ。これって、私の中でいつの間にか習慣化していた行動パターンなんじゃないかって」

*****

 この事例(パワーポイントファイルでは、pp.47-9の”Session3”)を読んでいると、この内容が、ほとんど認知行動療法だ、いや、論理療法っぽくもあるな、ABA(応用行動分析)の影響もありそうだ、PCA(パーソン・センタード)でなりながら、ここまで指示的(directive)なやり方ってあり?とお感じの、専門家の読者の皆様もありそうである。

 私の理解する限り、忘れてはならないのは、次の2点である:

  1.  クーパー氏の「多面的アプローチ」は、個々のセッションの小さな局面局面(micro-steps)においては、クライエントさんに提供可能な技法は何でも柔軟に活用するものであるということ。
  2.  しかし、このセッションの展開は、実はクライエントさんの実際の発言にあくまでも付き従っていく形でのみ進行し、クライエントさんの自己決定権を尊重していること。

     つまり、

    •  「私はもうフラッシュバックに悩まされてはいないんですよ」
    • →「それ[子供時代のトラウマ体験について振り返ること]って、やらなきゃならないことなんでしょうかねえ?」
    • →「理性的に考え直してみると、私の今の[対人恐怖]問題と、つながっていないのかも」
    • →「私は不安でした。ですからいつも、人前で話すことをせずに済むようにして来たように思います。
       だからもし・・・・・もし、何回かでも、そういう時に話をすることができていれば、そんなに大したことではないと思えるようになっていたかもしれませんね」

     ・・・・・これらの発言の展開そのものは、クライエントさん自身が語り出した流れである。
     セラピストは、それに付き従って行き、その都度、メタ・コミュニケーション次元で展開を整理しなおし、

     「このあと、このような別メニューも可能ですが、いががなさいますか?」

    ・・・というような調子で、

    クライエントさんがひとつの方向に誘導されてしまい過ぎ、自分のことを「早急に」決め付けてしまい過ぎないように、その後の進行について「吟味しなおし」、「自己決定」する機会を与えるように、用心深くサポートすらしている
    のである。

     (フォーカシング指向心理療法的に言えば、セラピストが、「セッションをどう進めるのか」そのものについて、繰り返して、クライエントさんのフェルトセンス(実感そのもの)に照合してもらう機会を提供するのと、何かしら類似している)

 この観点からすると、この事例は、セラピストとクライエントさんのメタ・コミュニケーションの次元では、見事なまでに「クライエント中心(PCA)的」であるということになるだろう。

 もっとも、例えば非常に熟達した認知行動療法のセラピストに、こうしたクライエントさん尊重のセンスが透徹しているであろうことを私は信頼したい。

 また、例えば、日本における「暴露反応妨害法」の最高の権威のひとりである山上敏子先生の行動療法における行動計画の立て方が、まさにこれに匹敵する高度な「メタ・コミュニケーション」スキルを駆使したものであることを、私は先生のワークショップに参加して、事例を拝聴する中で、しみじみと味わっている。

*****

 クーパー氏は、この"Session 3"の事例とは別に、他のクライエントさんとの"Session 4"の事例も呈示した。

 その事例も、やはり子供時代に深刻な家族からの被虐待経験を持ち、現在陥っている悪循環の行動パターンについても検証し、ご本人もその日の面接の時点ではそのことに満足していた。

 しかしその次の回の面接で、その人は切り出したという:

 「先週のセッションで、私の[悪循環の]行動パターンのことについてお話しましたけど、私はその悪循環の中で、ほんとうに、今、身動きできなくなっている自分にも気づかされたんです。
 [ここからは、パワーポイントにはない、クーパー氏口頭での補足]・・・・ですから、やはり私は、このセラピーの場で、お父さんとの間にあったことについて、じっくり取り扱っていく必要があるように思えてきたんです」

 クーパー氏は、このようにして、前者の事例とは一見正反対の展開になっても、それはそれで全く自然な成り行きであると述べ、

 「この2つのケースのどちらが的確な展開だとか、重いクライエントかなどということは軽率に言えるはずもない。
 大事なのは、こうした展開を経て、クライエントさん自身が、今の自分がセラピーの中で何を必要としているのかを明確にしていくことができるということ」

 と強調した。

*****

 パワーポイントの印刷用図版には、なぜか省略されていることが残念なのだが、クーパー氏は、「多面的(pluralistic)アプローチ」と比較するための典型として、

  • 「古典的(classical)な」クライエント中心療法(明らかに、教条主義的(dogmastic)でかたくな(rigid)な・・・・というニュアンスを込めていると私は思う)
  • 「マニュアルチックな」認知行動療法(こっちの方は逆に、「高次元の」認知行動療法ならば、柔軟で、クライエントさんの主体性を損なわない筈という含みを感じる)

を持ち出し、

X軸=非支持的(non-directive)←→支持的(directive)
Y軸=メタコミュニケーション水準において、多面的(pluralistic)←→決まり切っている(monistic)

というグラフ上にマッピングした。

 すると、「多面的(pluralistic)アプローチ」X軸の非支持的(non-directive)←→支持的(directive)の両側の領域に広がりつつ、なおかつY軸側では、多面的(pluralistic)領域に幅広く分布する長円形の分散(?)を成す。

 ところが、「古典的(classical)な」クライエント中心療法「マニュアルチックな」認知行動療法はというと、X軸側では正反対の陣営なのに、Y軸側・・・つまり、メタコミュニケーションの次元で見ると、「決まり切っている(monistic)」という点では同じ穴のむじなである・・・・・という、イギリス的ウィット効かせまくりの表現をなさっていた(^^;)

****

 この後、「多元的アプローチ」の観点からのリサーチのあり方についてのいくつかの提案がクーパー氏からなされたが、このブログではその部分の報告は割愛したい。

 その後、フロアとのディスカッションを経て、2時間の、大変に密度の濃い特別講演は終了した。

****

 学会大会翌日の懇親会に現れたクーパー氏に、私は例のごとく(^^;)、大学院出とはとても思えない英会話力で話しかけ、前半半分はかろうじて自力で、後半部分は、そばにおられた、九州産業大学の平井達也先生に手伝っていただいて、多少なりとも講演の感想を具体的にお伝えする機会を持てた。 

****

 ブログの記事としては、たいへん堅苦しい内容だったかもしれませんが、流派問わず、幅広い層のカウンセラーの皆様、臨床心理学研究者の皆様ににお伝えしたく、筆を取った次第です。

 (この連載 終わり)

※この連載(第1回)はこちらから始まっています。

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2009/09/10

面接場面でのメタ・コミュニケーション自体を話題にする -Mick Cooper博士による、心理療法における多面的(pluralistic)アプローチ-  (3)

 ミック・クーパー(Mick Cooper)博士による特別講演、「多面的心理療法における理論・研究・実践」を拝聴した報告記の、前回に続く第3回です(^^)

 すでに連載第1回で述べたように、クーパー博士は、本来非指示的(non-directive)で、面接場面での、クライエントさんの主体性と自己決定権を最大限尊重するはずのクライエント中心療法的アプローチ(パーソン・センタード・アプローチ[PCA])そのものが、もしクライエントさんに、その治療者に対して唯一期待し得る心理療法の技法となった場合に、それが、メタな次元では、クライエントさんが、クライエント中心療法に従うように強制されるという、セラピスト側からの「指示性(directive)」のある関係性転倒してしまうという、究極の逆説を提起した。

 カウンセリングにおいて、クライエントさんに何の成果もあがっていないように見える場合にも、面接だけはずるずると繰り返される場合があることはよく知られている。

 クーパー氏は、こうしたケースのことを「クライエントが面接を引き伸ばす(defer)傾向」と名づけ、「PCAを押し付けられた」場合、すなわち、クライエントにPCAアプローチが適していなかったにも関わらず、治療者側からのPCA的な介入を受け入れて(私なりに言い換えると、受け身に「甘受して」「甘んじて」いたに過ぎないことの示唆ではないかと述べた。

 心理セラピーにおける治療者とクライエントさんとの相互作用を見つめるに当たって、「メタ・コミュニケーション」の次元を重視することが大事であるということになる。

 具体的には、セラビー初期の段階で、

  • 「セラピーに何を望んでいますか?」
  • 「あなたは、私たち(セラピスト)が、どのようなことができるかもしれない(may)と感じていますか?」
  • 「これまでの経験の中で(そこにはそれまでのセラピー経験も含まれる)、あなたにとって、役に立ってきたことや、役立たなかったことは何ですか?」

などというテーマで、じっくりと話を聞いておくことが重要であるとする。

 また、面接の各回のはじめにも、

  • 「今回のセッションで何を得たいですか?」
  • 「今日は何を話し合ったら役立ちそうですか?」

などと率直に問いかけておくことも大事だとクーパー氏は述べた。

 パワーポイント上には書かれてはいないが、

「このような話し合いが十分なされないまま、漫然と面接が繰り返されることは、治療同盟上の傷を深めるだけだ」

・・・・クーパー氏はそこまで明言した。

*****

 クーパー氏らの教育・研修活動によって、すでに現在、最初から多元的アプローチに熟達すべく臨床専門教育を受けたカウンセラーが、育ち始めているという。

 そうした臨床実践家は、PCAに限らず、精神分析でも、認知行動療法でも、行動療法でも、様々な臨床実践の多種多様性の中から、その時の個々のクライエントさんに適した方法を提案できる能力を備えていくことが目指されている。

 つまり、クライエントさんが、セラピーから望むものを得ることをサポートするような実践である。

 (これが、クライエントさんが望むがままのものを差し出せる、無制限なまでの「何でも屋」になれ!ということとは異なることは、すでに第2回で述べた)

 そこに必要になってくるのは、「より拡張され、高められた次元で(enhanced)、メタコミュニケーションをしていく」ということだと、クーパー氏は論じる。

 そうした面接の実際では、そうした、治療者-クライエント間の「メタ・コミュニケーション」次元での話題が頻繁に出てくることになるはずだという。

 具体的に言うと、セラピーでクライエントさんが望むことやしたいことを、治療者がクライエントさんに確かめたり、それについての対話を進める場面が、かなりの頻度で出てくるはずということである。

 例えば、

 「確かに、私たちは、この時間帯に、この話題について話し合おうと決めていたわけです。私たちの間で、その話題の意味について理解を深めるような分かち合い方ができるかどうか[が肝心なん]ですよね。

 ・・・・・ちょっと思ったんですけど、その話題について、私の方から、いくつかの具体的な質問をして差し上げた方が、あなたの役に立ちそうですか? それとも、[そうした私からの質問なんて邪魔で、]あなたにとって話す必要があることを話してもらうことに時間を使った方がよろしいでしょうか」

などといった、セラピスト側からの問いかけを挟むことなどがそれである。

*****

今回で最終回にしたかったのですが、この部分、長さの割にはへヴィーとも感じましたので、残りの部分を更に分割して、次回に続く・・・・とさせていただきます。

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2009/09/09

メタ次元で「クライエント中心的」でありつつ、各流派の心理療法を、セラピーのひとつひとつの局面ごとに、柔軟に有効活用すること -Mick Cooper博士による、心理療法における多面的(pluralistic)アプローチ-  (2) [第3版]

 日本人間性心理学会第28会大会の特別招聘講師、ミック・クーパー(Mick Cooper)博士による特別講演、「多面的心理療法における理論・研究・実践」を拝聴した報告記の、前回に続く第2回である。

*****

 今回は、博士が実際に「多面的心理療法」を臨床現場で具体的にどのような形で実施するのかの方法論について述べたい。

 すなわち、治療者とクライエントの関係性というメタ次元で、クライエントさんの主体性と自己決定権を尊重する「クライエント中心(PCA)的」でありつつ、心理療法の諸技法を柔軟に使い分け、有効活用するための方法論である。

 クーパー氏は、基本的な仮説として、次のようなものを提起する:

「心理的な困難には、多数の原因があるだろう。

 ・・・・すべての用件にあてはまるような『正しい』セラピー方法は、ひとつではなさそうである。

 ・・・・異なる時、異なるプロセスが、異なる人の役に立つ」

(Cooper & McLeod,2007)

 そのためには、ある特定のクライエントさんとの間で進行しつつあるセラピーのプロセスを、個々の局面としてとらえて概念化する枠組みが必要だという。

 クーパー氏のいう「多面的アプローチ」は、あるクライエントさんにはクライエント中心療法が向いている、別のあるクライエントさんには認知行動療法が向いている、などと、単に、クライエントさんによって、セラピー手法を「使い分ける」というような「大まかな割り振り方」の域を完全に超えている、遥かに緻密なものなのである。

 詳しくは、大会準備委員会サイトにまもなくアップされるであろうパワーポイントファイル日本語版(講演時に配布されたものに更に大幅な修正がなされるとのことである)の図表31ページ以下の流れを追っていただくのが望ましいが、簡単にいうと、次のような項目を列挙して、矢印で相互関係を図示してある。

  • 目標(Goal)・・・・クライエントさんは、具体的に何がどうなることを求めているのか(セラピスト側が勝手に設定するのではない点が大事である)。
     例えば、「自尊感情を高めたい(自分にもっと自信をつけたい)」「お母さんとの関係をもっとうまくやって行きたい」「嗜癖的な習慣を止めたい」などといったことが、面接の中で、クライエントさんが求めていることとして、具体的に浮かび上がってくる可能性があるかもしれない。
     これらの「目標」は、互いに関連しあっているかもしれないし、別々の次元でとらえる方がいい場合もあることになる。
  • 課題(Task)・・・・クライエントさんのために、何ができるかについての、「一般的な方向性」のことを指す。
     例えば、「自己理解を深める」「具体的な場面での問題解決スキルを高める」など。
  • 【方法(Method)・・・・これは更に、「クライエントさんの(面接場面での具体的な)活動」と、「セラピストの(面接場面での具体的な)活動」に別れる。
     ここで大事なのは、面接場面でセラピスト側が何をするかが最終的に重要なのではなく、クライエントさんが何を選択をするかを尊重する「共同作業」としてなされていくことである。

 クーパー博士が具体例として掲げたのは、同一のクライエントさんの中に次のような系列が同時に構成要素としてあるケースである(p.33以下)

  • 【目標1】自尊感情を高める
    • ←【課題1】もっと自己受容できるようになる
    ←【クライエント側の行なう方法1】否定的な思い込みを覆すこと
     ←【セラピスト側が行なう方法1】
      否定的な思い込みに立ち向かう[ように促す]
      (恐らく、論理療法や認知行動療法、行動療法に近いアプローチであろう)

    ←【クライエント側の行なう方法2】自分についてオープンに語る
     ←【セラピスト側が行なう方法2-1】受容する
     ←【セラピスト側が行なう方法2-2】傾聴する(上記2つはクライエント中心療法的であろう)
     ←【セラピスト側が行なう方法2-3】質問する(「具体的な話題を引き出す」という意味ではなかろうか?)

    • ←【課題2】自分の中の肯定的な特質をリストアップする

  • 【目標2】お母さんともっとうまくやっていく

(以下略)


 ブログの表示能力の限界があるのでわかりにくいかもしれませんが、これは【目標】を頂点とするツリー構造のようにして、末広がりに枝分かれさせる形で、←【課題】←【クライエントの方法】←【セラピストの方法】を構造的に概念化する試みである。

 これらの構造は、セラピスト側が一方的に整理し、デザインし、具体的な方法を押し付ける形になってはならず、セラピー過程の実際の個々の具体的局面の中で、クライエントさんとセラピストの間の「共同作業」として形成され、試みられ、修正されていくことが重視されている。

 セラピー空間における変化の過程で、クライエントさんが「アクティブな行為者」として機能できるように援助するのがセラピストの務めということになる。

 そのためには、セラピスト側が、「どうすれば自分がクライエントさんのお役に立てそうか?」ということについて、クライエントさんにオープンに問いかけ続ける姿勢が必要となる。

 例えば、鬱状態のクライエントさんに対して、「多面的アプローチ」のセラピストだと次のように問いかけるかもしれない。

T:「鬱を改善する上で、あなたにとって、これまでどんなことをするのが役に立ちましたか?

C:「運動することです」

T:「ではどうやったら、運動する機会を増やせるのでしょうね?

 このようなやり取りを進める中で、クライエント自身も、それどころかセラピストの側ですら(!)思いつきもしなかった、予想外の、「コロンブスの卵」的な改善のための方法が見つけられるかもしれない。

 たとえば、そうしたやり取りを進める中で、その鬱のクライエントさんが、いつの間にか、「自分の現状について、誰かに、もっとオープンに話してみてもいいのではないか?」ということに気がついていく・・・・などという展開も、大いにありである。

****

 もっとも、こうした際に、クライエントさんの希望を訊く中で、そのセラピストにとって、できることとできないことがあることをも率直に伝えることが必要であることも、クーパー氏は強調している。

 例えば「自分が何をどうすればいいか」を逐一導いて欲しい、などとクライエントさんに言われたら、(中井久夫先生流に言えば)「治療者は、クライエントさんに自分を高く買わせてはならず」、それは自分には無理だということもフランクに伝えることが大事だということのようである。

 この点に関連して、フロアから池見陽先生が質問に立ち、

「そのクライエントさんに適切なアプローチが治療者としての自分の技法の引き出しをはみ出してあり、より適格者がいると感じた場合、他のその技法専門のセラピストに紹介する場合もあることも、クーパーさんの射程に入っていると理解していいのか?」

とお尋ねになった。

 クーパーさんの応えは”Yes, of course!"(「もちろんそうです」)であり、クライエントさんがある特定の課題実現について援助してもらうために、他の流派の専門家に手助けしてもらうことも十分に選択枝の中に組み入れるべきであると明言された。

 (池見先生が危惧されたのは、恐らく、聴衆であるカウンセラーたちが、いろいろの技法を学ぶのはいいけれども、「自分だけで何でも抱え込んで」セラピーを進める必要があるかのように理解しまいか? という思いではなかったろうかと、私は想像する)

*****

  次に、クーパー博士は、「多面主義アプローチ」をとるセラピストが、他のセラピストに対して取るべき立場について、次の3点を述べた。

  •  PCAの流れそのものが現在多様性を帯び、さまざまに分化した技法やアプローチが試みられているが、その時の個々のクライエントさんにふさわしい形でカスタマイズ(特化)された、[私なりに言い換えると、「テイラー・メイド」で「一品料理」化した]ひとつひとつのセラピー実践は、あくまでも尊重して、異論を挟むことはしない。
  •  しかし、「教条的で独善的(dogmastic)なパーソンセンタード性」には立ち向かっていく。
  •  PCAのセラピストが、他の流派のセラピーの諸原則や諸技法に対して、一定の的確な評価を持てるように促す役割とる。
     流派を問わず、セラピー領域が、ひとつの包括性を持つ文化であり、諸流派のセラピスト同士がお互いに適切に認めあって行けるような動きを擁護する。
     むしろ、積極的に、各流派の無用な対立(認知行動療法[CBT]のみが「国定」心理療法になってしまったイギリスでは特に顕著らしい・・・・英文だが、この記事などをお読みになると想像がつくだろう)に対する積極的な調停者の役割を果たす。

*****

 残りは、第3回にまわします。

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2009/09/08

「クライエント中心療法」が押し付けられた時、メタ次元では「セラピスト中心療法」になる! -Mick Cooper博士による、心理療法における多面的(pluralistic)アプローチ-  (1) [第2版]

 日本人間性心理学会第28回大会の参加報告の続きです。

 今回招聘された特別講師は、イギリス(スコットランド)のグラスゴーにある、ストラスクライド(Strathclyde)大学教授、ミック・クーパー(Mick Cooper)氏であった。

パーソンセンタード・アプローチの最前線 -PCA諸派のめざすもの- (共著)

  私は、28日の夕刻に催された2時間の特別講演、「多面的心理療法における理論・研究・実践」のみに出席したが、30日には、氏を講師とするワークショップも開かれている。

 この講演内容が、今の私にはたいへんエキサイティングだったので、ここでご紹介したい。

(なお、この講演の時のパワーポイントファイルの日本語訳が、近日中に大会準備委員会サイトで公開される筈であるが、私はすでに手元にあるパワーポイントの印刷資料と、そこに書きつけたメモに基づいて以下の内容を書いていくことをお許し願いたい)

******

 ここでクーパー氏が言う、心理療法における「多面的(pluralistic)」アプローチというのは、ある観点からすると、俗に「折衷的(eclectic)アプローチといわれるものと、外見上は類似している。

 つまり、心理療法の各流派の技法を臨機応変に柔軟に取り入れて活用する性質を持っている。

 ただし、そこにあるのは、単に「役立ちそうなものなら何でもあり、片っ端から総動員」ということではなく、基本にある一本のポリシーが通っている。

 それはある意味で、私が準拠し、国際資格を取得している「フォーカシング指向心理療法」が、単にフォーカシング技法を臨床現場に適用するという次元を遥かに越えて、精神分析から認知行動療法、行動療法に至るすべての流派のアプローチの「エンジンオイル」(隠し味)として役立てる柔軟性を指向していることと共通項を持つ。

 だが、クーパー氏の「多面的」アプローチは、より包括的なビジョンと方法論を提供してくれようとしているものにすら思われた。

 それは一言で言えば、面接過程の個々の局面(micro-steps)でどの技法を選択するかという点において、治療者とクライエントさんとの意思疎通を極めて重視し、最終的判断をクライエントさんに委ね続けるという、「メタ次元でのクライエント中心性」を絶えず維持していくための、臨床現場での具体的な方法論を持つという点である。

 このことを具体的に解説していくために、クーパー氏は、ロジャーズのクライエント中心療法をはじめとする、パーソン・センタード・アプローチ(PCA)の基本に流れるものの再確認から話を説き起こした。

******

 クーパー氏は説き起こす:

 パーソン・センタード・アプローチには、今日さまざまな広がりが生じているが、それらが共通して強調しているのは、「人間存在の独自性(uniqueness)」「自己決定の権利」の尊重である。

 「独自性の強調」とは、個々の人格を、交換可能ではない、かけがえのない独自性を持つものとみなすということである。

 更に言えば、「それぞれの人が生きている経験的なリアリティというのは、初源的にひとりひとり独自のものである(ロジャーズ)」。

 これは、裏を返すと、自分にとっての他者存在は、自分とは異なる独自の人格を持ち、独自の経験世界に生きていることを認めるということでもある。クーパー氏は、哲学者、レヴィナスの、

「他者の他者性は初源的に知りえないもの」

という言葉を引用している。

*****

 さて、こうした背景のもとに、例えばロジャーズのクライエント中心療法の「非指示(non-direstive)性」は成立した。クライエントさんの語りをひたすら受容・共感・セラピストの自己一致の原則で傾聴して行くものの、セラピーの時間に何をどこまでどのように語るか、あるいは、どこまでたどりついたらカウンセリング関係を成功し、終結していいものとみなすのかは、クライエントさん側の完全な主体性に委ねられることになる。

 そして、面接場面でのセラピストとの関係性の中での相互作用によって、クライエントさんは、それまでの生育暦の中で経験した、ある一定の条件を満たした場合にのみ価値ある存在として認められ、受容された(「条件付きの」肯定的配慮の)経験に基づく歪みから己れを解放し、その人らしいライフスタイルを自ら見出していくプロセスを歩み始めるものとされている。

 ところが、こうしたことを面接場面で可能にする理論と方法論を、ひとつだけに一元化しようとする傾向を、パーソン・センタードの療法家すら持っている(例えば、ロジャーズの「必要にして十分な条件」)。

 「これは、あらゆる時、すべてのクライアントに対して、ほんとうなのだろうか?」

・・・・と、クーパー氏は問いかける。

 様々な実証的リサーチの結果は、同じ技法を用いていても、クライエントさん個人によって、そのセラピーが有効であるかどうかが異なることを示しているという。

 例えば、多くのクライエントさんは、セラピストから共感してもらえたと感じる水準が高ければ高いほど、最善の成果を挙げていくことは確かである。

 しかし、セラピスト側の反応に人一倍過敏な傾向があるクライエントさん、疑い深さが強いクライエントさん、治療への動機付けに乏しいクライエントさんの場合には、セラピスト側の共感能力の高さが効果を発揮しないことがある。

(こういちろうの私見・・・・そして恐らく神田橋條治先生や、増井武士先生、田嶌誠一先生らの見地によれば、あまりにも細やかにセラピスト側が言語的にチューニングして応答したら、場合によっては[特に統合失調症や境界例性が強いクライエントさんの場合]、むしろ弊害が出るケースもあるように確かに思える。クライエントさんが「曖昧に、漠然と」感じていることを、それ以上明確化しないままに暗に認めてあげつつも、むしろクライエントさんの中で、適切な「体験的距離を見出す」ことを援助する方が望ましい場合が、確かにあるのである)

 逆に、ロジャーズ派的なセラピーから最善の成果を引き出し得るタイプのクライエントさんは、高い水準での抵抗力(resistance)・・・・私が推測するに、神田橋先生のいう、健全な「拒否能力」とほぼ同じもの・・・・、要するに、自分にとって違和を感じさせる外界からの働きかけに揺るがされにくく、応じない傾向が強く、自分自身に生じる様々な問題を、認知行動療法で言うところの「コーピング・スタイルの内在化」・・・・問題を容易にacting outすることなく、自分自身の関わる課題として引き受けて直視する力のようなものが高い場合が多いという。こうしたクライエントさんには、確かに、古典的でオーソドックスなクライエント中心療法で一貫して進めることが向いているといえる。

 いずれにしても、もし、クライエントさんがどう望もうと、自分の担当カウンセラーが、古典的なロジャーズ派の「非指示的な」カウンセリングでしか対応してくれず、それがそのカウンセラーに期待できる「唯一可能な」セラピーのあり方だったとすれば?

 この時、クライエントさんは、セラピストから、「非指示的な」カウンセリングを押し付けられる=「指示される」、という、メタ次元ではむしろ「指示的」療法に屈する渦中に置かれることになる!!

 これほどのパラドクス(逆説)があろうか?

*****

 ここで、クーパー氏の、「多面的(pluralistic)」アプローチの提唱の意義が明らかになりはじめるのだが、連載として第2回にまわすこととしたい。

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2009/09/03

「カウンセラーこういちろうの雑記帳」の主要過去記事を一番簡単に一覧するには

 このブログって、すでに創設4年9ヶ月、過去のエントリー記事総数が、「この」記事で1,914本め、なのに一日あたりの新エントリー、平均1.10本以上を現在も維持、しかも長文が多いという、へヴィー級ブログです。

 おかげで、もはや@ニフティココログが割り振ってくれているサーバー負荷が相当なものになっているせいか、

  • 私の方からトラックバックを送ることがもはや機能しない
  • pingも自動では飛ばせない(その割には随分多くの読者の皆様が、新記事アップ直後においでいただけることを幸いだと感じています)
  • カテゴリーにすべての記事が反映しない(カテゴリーによっては300から400エントリー分表示されようとするわけで)

・・・・・という、新しくおいでいただいた読者泣かせのブログになっていると思います m(_ _;)m

****

 もちろん、バックナンバー全体を表示してくれる、『アーカイヴ』ページ(自身がココログユーザー以外の読者の皆様、お気づきでしたか??? 右フレームの「バックナンバー」という文字そのものをクリックするとたどり着けます)というものも、あるにはあるわけです。

 しかし、このページにお行きになっていただいたとしても、過去の個々のエントリー記事のタイトル一覧があるわけですらない

 このページからの「〇年〇月」を全部めくっていただくだけでも(全く休眠した数ヶ月を除いても、現在50か月分ほどあるわけですね(^^;)。その50ヶ月分、それぞれ月ごとに、毎月30から40エントリーずつはあるわけですから・・・・・

 つまり、私がこのサイトでこれまで書いてきた主要記事がどんなものか、新しい読者の皆さんにおおよその見当をつけていただくには、もうデタラメにご不便をおかけしていることと思います   il||li _| ̄|○ il||li

*****

 この問題を一気に解決し、

  • 新記事の方が上に来る形で、
  • 過去の記事に関しては私がある程度絞り込んでセレクトしたものを、
  • 数百記事ばかり、1ページをスクロールできる形で
  • ブログのような表示の重さがない形で一覧したいただける

そういうページが、実はずっと以前から存在します!!

●阿世賀浩一郎のホームページ/index

 開設1995年12月(つまりWindows95発売直後)開設、日本において、インターネットで個人サイトを作ることが本格的に普及し始めた黎明期から、何と基本的なデザインを変えないまま運営し続けているサイトです。

 かつては、ネットを代表するエヴァ・サイトのひとつ、「エヴァンゲリオン論考」で著名だった時代もありますけど、幸いにして著作化させてもいただきましたので、そのコーナーは全面削除いたしておりますが(「ちーちゃんの部屋」というアニメコーナーがかつて存在したことを覚えておられる方もあると嬉しかったりして ^^;)・・・・

そのトップページから、このブログでの新エントリー記事を書く度ごとに、固定リンクへのリンクを、たいてい速攻の連続作業でお貼りしてもいるのです。

 恐らく、皆様のRSSリーダーに反映するスピードの比ではない「即時性」で「新着情報」が掲載され続けています。

 同一エントリー記事の更新(改版)情報すら、可能な限り早くお伝えしています。

 

そこに並んでいる、当ブログ個別記事へのリンク数は、常時数百あるはずです(古いものから時々、精選のための「ダイエット」をかけますので、一定数以上には増えません)。

 しかし、敢えて今でも、基本的には「素朴なhtml言語の手打ち」に依存し、javaスクリプトすらないに等しいということで、このトップページそのもののバイト数の多さの割には、表示が圧倒的に軽い筈です(このブログのトップページを表示するよりは軽いと思いますよ)

 
当方のアクセス解析によって、「こっちのページで新着情報見つけるほうが手っ取り早い」ことにお気づきの、毎日数名以上の固定ユーザーの方がおられることは掌握しています(感謝!!)。

 しかし、そうした方の占める比率が以前よりもかなり減っているようにも思いましたので、改めてご紹介させていただきました。

 

今後とも、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」をよろしくお願い申し上げます。

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2009/09/01

解けた魔法

 街には街固有の風景の空気があります。

 同じ東京近辺でも、東京駅近辺と、新宿と、渋谷と、上野、あるいは横浜とでは、全然町並みの「雰囲気」が異なりますよね。

 まして、東京に住んでいる人が、例えば名古屋、京都、大阪、仙台、札幌の駅前に降り立って、相互比較しただけでも、そうした、街の雰囲気のテイストの違いは、肌にひしひしと伝わるものではないかと思います。

 大学入学時に上京して、その後時々久留米に帰省するようになって以来、私は福岡や久留米の町並みが醸し出す、東京は異なる町の「空気」に、もはや「違和感」のようなものしか感じられなくなることに苦しんできたのです。

 「故郷」のはずなんだけど、懐かしいというより、もう、嫌になってしまったんですよ。

 福岡っていうのは、昔から東京への憧れと「上京指向」が格別に強い土地柄です。古くは井上陽水、近年では松田聖子や浜崎あゆみ(最近の「某事件」の人もですが)に代表されるように、非常に多くのミュージシャンや芸能人・俳優が福岡出身ですし、自民党をはじめとする過去の大物政治家で、福岡出身や、何らかの意味で近い血縁者が福岡という人(麻生さんや鳩山邦夫さんだってそうだ。鳩山邦夫は私の選挙区)の人が占める比率も驚くべきものがあります。

 そのせいか、日本の大都市の中では、実は東京をもろに「模倣しよう」という傾向が、福岡市には特に強い気がします。私見では、東京に首都を持っていかれた京都はいうまでもなく、大阪や名古屋に比べても、東京への「対抗意識」みたいな形で、独自の街イメージをデザインしようという意識そのものが、福岡市には基本的に欠落している気がする。

 (もっとも、天神地下街の空間デザインの醸し出す、白い蛍光灯を全面排除したシックな空間の独創性だけは、1976年、つまり何と33年前に作られて以来、基本的に変更なしを貫いているのに、現在も全く古びることはない、日本に誇る都市空間デザインの傑作と思いますので、福岡においでの若い皆様、キャナルシティ(「カナルシティ」と発音する人も多い)にばかり目を奪われすに、地下鉄で博多から天神まで出て来て、必ず街ブラ楽しんでくださいね。キャナルシティの方が、まだとこにもありがちな光景に近く、すぐに歴史的に古びるデザインに過ぎない私は思う)。

 例えば、福岡の中心である西鉄福岡天神駅前に降り立って、道路を天神コア側に渡って駅側を振り返ってみると、そこに見えてくる、まるで城壁のように立ち並ぶ駅前のビル群の光景は、例えば、西武デパートなどのビル群が立ち並ぶ、池袋東口の光景を一瞬思い出させるようなところがあります。

Fukuokatenjinekimae

 そもそも福岡のベイエリアの風景なんて、ホントにびっくりするほど、「お台場」の模倣そのものなんですよ。このページの下の方に載せた写真だけで明白でしょ? ここまでくると恥も外聞もないといいたくなるくらいに。もっともお台場には「ドーム球場」はありませんけどね(^^;)

 でも、やはり「福岡市」には「福岡市」固有の町並みのにおいがあり、「居心地」的に東京の代用にはならない。ましてや、人口30万以上で福岡県南部地域では最大都市(九州全体でも、いくつかの県庁所在地を抜き去り第8位)の久留米の光景なんて・・・・東京の街に類似の光景を探すのは、ちょっと難しいのです。

 私は、福岡や久留米に戻るたびに、すでにここが自分の「居場所」感覚を抱ける街ではなく、「異郷」のようにしか感じ得ず、安らげる都市ではなくなっていることに、この30年間苦しみ続けていました。

 ところが、ほんとうに不思議なことなのですが、おとといの晩に福岡空港に降り立った時から、何かがすべて変わってしまったのですね。

 福岡空港は、日本を代表する大空港のひとつとはいえ、そりゃ、羽田に比べれば小さいのは当然です。ところが、到着ロビーを歩き、空港発の久留米行き高速バスを待ち合わせていた時から、

「なーんだ、ここって、東京と似たり寄ったりの、東京の「すぐそばの」街に過ぎないじゃん!!」

という感覚が始まったのです。こんなの、これまで一度も感じたことがない感覚でした。

 それが、高速バスが、深夜の西鉄久留米の駅・・・・そりゃ、新宿あたりの深夜0時でも続く大ラッシュの光景からすれば人通りは「ないも同然」・・・に降り立っても変化なし。

「西鉄久留米駅だって、新宿駅のすぐそばにある、新宿と直結した町並みなのだよ」

Nishitetsukurumenishiguchi16

 翌日、(つまり、こっちの記事本文を深夜に書いた昨日の昼になってからですね)、私用で久留米市街地をあちこち歩いて回ったんですが、そうやって昼間の街の光景を味わっても、

「そうなの。ここは新宿とも八王子ともしっかりつながっている、『私の町』という点では同じなんだよ」

 ・・・・・・ついに、30年間、私がかかっていた「魔法」が解けてしまったのです。

 私の心をがんじがらめに縛り続けていた魔法。
 「関東にしか今後の人生はない」という魔法。

 「日本のどこだって日本であることには変わりないし、私のふるさとである」
 「どこでどうやっていくにしても、直面する困難と、果たすべき役割なんて似たようなものさ」

(少なくとも、久留米のような、百万都市まで30分圏内(あと2年で新幹線開通後はわずか12分!)の人口30万の都市に生きている限りは)

 「この」感覚・・・・今後解けることは、もうありえない・・・・そんな気がします。

(この記事、こちらの記事への私のコメントからの繰上げ再掲載です)

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