山上敏子

2009/09/12

それにもかかわらず、セッションを前に進めている主役はクライエントさんである -Mick Cooper博士による、心理療法における多面的(pluralistic)アプローチ-  (4 完結)

 日本人間性心理学会第28回大会における、ミック・クーパー(Mick Cooper)博士による特別講演、「多面的心理療法における理論・研究・実践」を拝聴した報告記の、前回に続く第4回、今度こそ完結です(^^)

*****

 前回の終わりの方で述べた、「メタ・コミュニケーション」次元でのやり取りとして、クーパー氏は次のような例を持ち出した。

 子供時代に親からひどい虐待を受け、現在も社会不安障害的な症状に苦しんでいるクライエントさんがいたとする。

 この種の人物へのセラピーの場合、虐待を受けたときの記憶を繰り広げて探索して話していってもらう(exploring)ことが求められることが少なくない。この人もまた、それまで受けたセラピーではそうしたことを散々やってきた。

 果たして、このクライエントさんに、今回もまた、そのような自己開被的なやり方を取ってもらう必要があるのだろうか?・・・・

クライエントさんは語った:

 「私はもうフラッシュバック(災害時や虐待などのトラウマ的な経験の記憶が、突如、圧倒的なリアリティでその人の中に蘇ることを不意打ち的に繰り返す体験)に悩まされてはいないんですよ」

セラピストは問いかける:

 「虐待について整理するために、そのことに戻ってみる必要を感じておられますか?」

クライエントさんは応えます:

 「そこまで行きますかねえ? それって、やらなきゃならないことなんでしょうかねえ?」

セラピストは続けます:

 「あなたからの[対人恐怖を改善するにはどうすればいいかという]問いかけが、その[過去の虐待]問題と、どのくらい関連していると、あなた自身が、感じているのかどうかに関心を持っていたんです。私たち二人とも、その2つのことが関連しているかどうかなんて、実は何もわかってはいないんじゃないかと」

クライエントさんはしみじみ応えます:

 「・・・・・・ほんとうはわかっていないんですよね、それって・・・・・理性的に考え直してみると、私の今の[対人恐怖問題と、つながっていないのかも」

 クーパー氏はこの展開について次のように解説する:

  • (クライエントさんの不安の種になっている問題の原因や対処について)、他の可能性も点検してみること。
      ・・・・・・[家庭での親との関係だけではなくて]学校で恥をかかされた経験と関連している可能性は?
      ・・・・・・[親に限らず]、誰かががっかりしたり、「審判」を下して来る(judge)ことへの恐れと関係しているのかもしれない。

などなど。

 こうした流れの中で、このクライエントさんは、

 「・・・・・私は不安でした。ですからいつも、人前で話すことをせずに済むようにして来たように思います。
 だからもし・・・・・もし、何回かでも、そういう時に話をすることができていれば、そんなに大したことではないと思えるようになっていたかもしれませんね」 


 しかし、セラピストは、この方向にだけ安易に話が流れないように、更に次のようなことを述べていきます。

 「私たちは、あなたのそうした、人前で話すことのたいへんさについて、こうして話し合って来ているわけですけれども、でも、もっといろんな[とらえ方や解決法の]可能性があるのだと思いますよ。

  •  ・・・・・ひとつ言えることは、あなたのこれまでの人生の中で起こったことのおかげで、それがすごく厄介なことになってしまっていて、それがあなたをひどく押さえ込んでくるし、ほんとうに不安にさせるんだろうということです。
  •  ・・・・・もうひとつは、あなたがこれまでにやってきたことの中で、あなたが全然不得手で、ひょっとしたら諦めてしまった方がよかったようなことすら、たくさんあったのかもしれない。
  •  ・・・・・もうひとつあり得ると思いますよ。・・・・・さっきあなたがお話になったこととも関連して来るんですけど、あなたの中で[現在]悪循環のサイクルにはまってしまっている気もする。つまり、必ずしも過去の酷い体験が原因になっているとは限らない場合もあります。
     あなたは、[そうした過去の痛手によって]人前で話をせずに済むようにしてしまったばかりではなくて、そうやって実際に人前で話をしないことによって、ますます人前で話すのが怖くなってしたのかもしれない。ほんの少しでも、人前で話をすることを始めてみたら、まさにあなたが言われたように、『実はそんなに大したことではなくて、結構何とかなる』と感じられたのかもしれませんね」

 このように言葉の上でだけ読んでいくと、まるでセラピスト側が一気に畳み込んで誘導しているようにすら見えるかもしれない。

 しかし、私が思うに、セラピストは、かなり長い沈黙を挟みながら、クライエントさんの様子や非言語的な反応を絶えず確認しつつ、ひとつずつ、控えめに差し出すような言い方で、言葉を紡ぎ出して行ったのではないかと想像できる。

 (この「多面的アプローチ」との共通項が多い、フォーカシング指向心理療法において、「新たな提案は、押し付けにならないように、クライエントさんが簡単に振り払えるような形で、控えめに差し出されねばならない」ことを、ジェンドリンが繰り返して強調していることからの憶測である)

 クライエントさんは応える:

 「まさにそう思っていたんですよ。これって、私の中でいつの間にか習慣化していた行動パターンなんじゃないかって」

*****

 この事例(パワーポイントファイルでは、pp.47-9の”Session3”)を読んでいると、この内容が、ほとんど認知行動療法だ、いや、論理療法っぽくもあるな、ABA(応用行動分析)の影響もありそうだ、PCA(パーソン・センタード)でなりながら、ここまで指示的(directive)なやり方ってあり?とお感じの、専門家の読者の皆様もありそうである。

 私の理解する限り、忘れてはならないのは、次の2点である:

  1.  クーパー氏の「多面的アプローチ」は、個々のセッションの小さな局面局面(micro-steps)においては、クライエントさんに提供可能な技法は何でも柔軟に活用するものであるということ。
  2.  しかし、このセッションの展開は、実はクライエントさんの実際の発言にあくまでも付き従っていく形でのみ進行し、クライエントさんの自己決定権を尊重していること。

     つまり、

    •  「私はもうフラッシュバックに悩まされてはいないんですよ」
    • →「それ[子供時代のトラウマ体験について振り返ること]って、やらなきゃならないことなんでしょうかねえ?」
    • →「理性的に考え直してみると、私の今の[対人恐怖]問題と、つながっていないのかも」
    • →「私は不安でした。ですからいつも、人前で話すことをせずに済むようにして来たように思います。
       だからもし・・・・・もし、何回かでも、そういう時に話をすることができていれば、そんなに大したことではないと思えるようになっていたかもしれませんね」

     ・・・・・これらの発言の展開そのものは、クライエントさん自身が語り出した流れである。
     セラピストは、それに付き従って行き、その都度、メタ・コミュニケーション次元で展開を整理しなおし、

     「このあと、このような別メニューも可能ですが、いががなさいますか?」

    ・・・というような調子で、

    クライエントさんがひとつの方向に誘導されてしまい過ぎ、自分のことを「早急に」決め付けてしまい過ぎないように、その後の進行について「吟味しなおし」、「自己決定」する機会を与えるように、用心深くサポートすらしている
    のである。

     (フォーカシング指向心理療法的に言えば、セラピストが、「セッションをどう進めるのか」そのものについて、繰り返して、クライエントさんのフェルトセンス(実感そのもの)に照合してもらう機会を提供するのと、何かしら類似している)

 この観点からすると、この事例は、セラピストとクライエントさんのメタ・コミュニケーションの次元では、見事なまでに「クライエント中心(PCA)的」であるということになるだろう。

 もっとも、例えば非常に熟達した認知行動療法のセラピストに、こうしたクライエントさん尊重のセンスが透徹しているであろうことを私は信頼したい。

 また、例えば、日本における「暴露反応妨害法」の最高の権威のひとりである山上敏子先生の行動療法における行動計画の立て方が、まさにこれに匹敵する高度な「メタ・コミュニケーション」スキルを駆使したものであることを、私は先生のワークショップに参加して、事例を拝聴する中で、しみじみと味わっている。

*****

 クーパー氏は、この"Session 3"の事例とは別に、他のクライエントさんとの"Session 4"の事例も呈示した。

 その事例も、やはり子供時代に深刻な家族からの被虐待経験を持ち、現在陥っている悪循環の行動パターンについても検証し、ご本人もその日の面接の時点ではそのことに満足していた。

 しかしその次の回の面接で、その人は切り出したという:

 「先週のセッションで、私の[悪循環の]行動パターンのことについてお話しましたけど、私はその悪循環の中で、ほんとうに、今、身動きできなくなっている自分にも気づかされたんです。
 [ここからは、パワーポイントにはない、クーパー氏口頭での補足]・・・・ですから、やはり私は、このセラピーの場で、お父さんとの間にあったことについて、じっくり取り扱っていく必要があるように思えてきたんです」

 クーパー氏は、このようにして、前者の事例とは一見正反対の展開になっても、それはそれで全く自然な成り行きであると述べ、

 「この2つのケースのどちらが的確な展開だとか、重いクライエントかなどということは軽率に言えるはずもない。
 大事なのは、こうした展開を経て、クライエントさん自身が、今の自分がセラピーの中で何を必要としているのかを明確にしていくことができるということ」

 と強調した。

*****

 パワーポイントの印刷用図版には、なぜか省略されていることが残念なのだが、クーパー氏は、「多面的(pluralistic)アプローチ」と比較するための典型として、

  • 「古典的(classical)な」クライエント中心療法(明らかに、教条主義的(dogmastic)でかたくな(rigid)な・・・・というニュアンスを込めていると私は思う)
  • 「マニュアルチックな」認知行動療法(こっちの方は逆に、「高次元の」認知行動療法ならば、柔軟で、クライエントさんの主体性を損なわない筈という含みを感じる)

を持ち出し、

X軸=非支持的(non-directive)←→支持的(directive)
Y軸=メタコミュニケーション水準において、多面的(pluralistic)←→決まり切っている(monistic)

というグラフ上にマッピングした。

 すると、「多面的(pluralistic)アプローチ」X軸の非支持的(non-directive)←→支持的(directive)の両側の領域に広がりつつ、なおかつY軸側では、多面的(pluralistic)領域に幅広く分布する長円形の分散(?)を成す。

 ところが、「古典的(classical)な」クライエント中心療法「マニュアルチックな」認知行動療法はというと、X軸側では正反対の陣営なのに、Y軸側・・・つまり、メタコミュニケーションの次元で見ると、「決まり切っている(monistic)」という点では同じ穴のむじなである・・・・・という、イギリス的ウィット効かせまくりの表現をなさっていた(^^;)

****

 この後、「多元的アプローチ」の観点からのリサーチのあり方についてのいくつかの提案がクーパー氏からなされたが、このブログではその部分の報告は割愛したい。

 その後、フロアとのディスカッションを経て、2時間の、大変に密度の濃い特別講演は終了した。

****

 学会大会翌日の懇親会に現れたクーパー氏に、私は例のごとく(^^;)、大学院出とはとても思えない英会話力で話しかけ、前半半分はかろうじて自力で、後半部分は、そばにおられた、九州産業大学の平井達也先生に手伝っていただいて、多少なりとも講演の感想を具体的にお伝えする機会を持てた。 

****

 ブログの記事としては、たいへん堅苦しい内容だったかもしれませんが、流派問わず、幅広い層のカウンセラーの皆様、臨床心理学研究者の皆様ににお伝えしたく、筆を取った次第です。

 (この連載 終わり)

※この連載(第1回)はこちらから始まっています。

blogram投票ボタン
ブログランキング・にほんブログ村へ
人気ブログランキングへ
携帯アクセス<br /><a href=ビジネスブログランキング
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 心理カウンセリングへ

2009/09/03

「カウンセラーこういちろうの雑記帳」の主要過去記事を一番簡単に一覧するには

 このブログって、すでに創設4年9ヶ月、過去のエントリー記事総数が、「この」記事で1,914本め、なのに一日あたりの新エントリー、平均1.10本以上を現在も維持、しかも長文が多いという、へヴィー級ブログです。

 おかげで、もはや@ニフティココログが割り振ってくれているサーバー負荷が相当なものになっているせいか、

  • 私の方からトラックバックを送ることがもはや機能しない
  • pingも自動では飛ばせない(その割には随分多くの読者の皆様が、新記事アップ直後においでいただけることを幸いだと感じています)
  • カテゴリーにすべての記事が反映しない(カテゴリーによっては300から400エントリー分表示されようとするわけで)

・・・・・という、新しくおいでいただいた読者泣かせのブログになっていると思います m(_ _;)m

****

 もちろん、バックナンバー全体を表示してくれる、『アーカイヴ』ページ(自身がココログユーザー以外の読者の皆様、お気づきでしたか??? 右フレームの「バックナンバー」という文字そのものをクリックするとたどり着けます)というものも、あるにはあるわけです。

 しかし、このページにお行きになっていただいたとしても、過去の個々のエントリー記事のタイトル一覧があるわけですらない

 このページからの「〇年〇月」を全部めくっていただくだけでも(全く休眠した数ヶ月を除いても、現在50か月分ほどあるわけですね(^^;)。その50ヶ月分、それぞれ月ごとに、毎月30から40エントリーずつはあるわけですから・・・・・

 つまり、私がこのサイトでこれまで書いてきた主要記事がどんなものか、新しい読者の皆さんにおおよその見当をつけていただくには、もうデタラメにご不便をおかけしていることと思います   il||li _| ̄|○ il||li

*****

 この問題を一気に解決し、

  • 新記事の方が上に来る形で、
  • 過去の記事に関しては私がある程度絞り込んでセレクトしたものを、
  • 数百記事ばかり、1ページをスクロールできる形で
  • ブログのような表示の重さがない形で一覧したいただける

そういうページが、実はずっと以前から存在します!!

●阿世賀浩一郎のホームページ/index

 開設1995年12月(つまりWindows95発売直後)開設、日本において、インターネットで個人サイトを作ることが本格的に普及し始めた黎明期から、何と基本的なデザインを変えないまま運営し続けているサイトです。

 かつては、ネットを代表するエヴァ・サイトのひとつ、「エヴァンゲリオン論考」で著名だった時代もありますけど、幸いにして著作化させてもいただきましたので、そのコーナーは全面削除いたしておりますが(「ちーちゃんの部屋」というアニメコーナーがかつて存在したことを覚えておられる方もあると嬉しかったりして ^^;)・・・・

そのトップページから、このブログでの新エントリー記事を書く度ごとに、固定リンクへのリンクを、たいてい速攻の連続作業でお貼りしてもいるのです。

 恐らく、皆様のRSSリーダーに反映するスピードの比ではない「即時性」で「新着情報」が掲載され続けています。

 同一エントリー記事の更新(改版)情報すら、可能な限り早くお伝えしています。

 

そこに並んでいる、当ブログ個別記事へのリンク数は、常時数百あるはずです(古いものから時々、精選のための「ダイエット」をかけますので、一定数以上には増えません)。

 しかし、敢えて今でも、基本的には「素朴なhtml言語の手打ち」に依存し、javaスクリプトすらないに等しいということで、このトップページそのもののバイト数の多さの割には、表示が圧倒的に軽い筈です(このブログのトップページを表示するよりは軽いと思いますよ)

 
当方のアクセス解析によって、「こっちのページで新着情報見つけるほうが手っ取り早い」ことにお気づきの、毎日数名以上の固定ユーザーの方がおられることは掌握しています(感謝!!)。

 しかし、そうした方の占める比率が以前よりもかなり減っているようにも思いましたので、改めてご紹介させていただきました。

 

今後とも、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」をよろしくお願い申し上げます。

blogram投票ボタン
ブログランキング・にほんブログ村へ
人気ブログランキングへ
携帯アクセス<br /><a href=ビジネスブログランキング
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 心理カウンセリングへ
にほんブログ村 音楽ブログ 女性ミュージシャン応援へ
にほんブログ村 ニュースブログ ニュース批評へ

 

2009/03/13

認知行動療法について -NHKスペシャル 「うつ病治療 常識が変わる」への感想(6 一応の最終回)- [第6版]

 さて、いよいよこの連載、前回に引き続き、このエントリーで最終回です。

 前回で紹介した、「非定型うつ病」の現在の診断基準と、その具体的治療法については、実に様々なサイトですでに詳しく言及されておりますので、そうしたサイトをご覧になる読者のご判断にお任せいたします。

*****

【ここから第2版で追加】

 でも、「非定型うつ病の人は、認知行動療法によってアサーティブさ(自己主張能力)を身につけることが必要

という意見を読むと、

「日本人は、うつ病に限らないこととして、むしろ心理療法全般を受けることによって自己主張能力を身につけたおかげで、周囲との摩擦に耐え、孤高の道を歩む苦しみを感じているんじゃないか」

とも思うし、その一方、

「今の若い世代は、生きる糧を得るために働くという経験に乏しく、自己主張的になっているので(!)、昔の人のように、典型的(=DSM-IVで、過去の遺物から突如復活(^^;)した、「メランコリー型」)うつ病になれなくなっている」

という全く正反対の記事を読むと、

「ああ、オヤジの『今の若い者は』のバリエーションに過ぎなくなってる。要するに、古典的うつ病の人のほうが従順で、扱いやすかったという医者本位の愚痴なんじゃない?」

と感じてため息をつくのは、私だけではないと思います。

 繰り返します。DSM-IVでの診断基準に適う意味での「非定型うつ病」と同じ病態の人は、昔も今もたくさんいただけです....と。

 【ここまで第2版で追加】

*****

 さて、いよいよ、番組後半で取り上げられた「認知行動療法」に関してですが。

 認知行動療法についても、この番組に関する、しないにかかわらず、様々なサイトを見ていくと、バランスのいい記事もたくさん見受けられます(お医者さんによるもの、実際認知行動療法を受けた人の体験談etc.)ので、多くはそちらにゆずるとします。

【ここから第5版】

 私としての推薦は、

●【認知行動療法とは】 (インチキWriterの棲みか by isshy☆さん)

 うつの人のではないのですが、「プロのライターさん」がマジになって書いたら、専門家の入門の文でもなかなか読めないような、これだけ小気味いい紹介の文章になるというあたりに注目!です(^^)

【ここから第4版】

 ただし、英語ですが、次の記事の存在は是非お知らせしておきます:

●Petition Against Over-Regulation of Psychotherapy(心理療法への過剰規制に反対する嘆願書) (Moving Toyshop)

この記事は、裕さんのサイトの、

* イギリスにおけるセラピーに対する国家の規制

というエントリーで紹介されていたものです。 

 これについての私の意見はこちらの記事で紹介。

【ここまで第4/5版】

 そして、次の点だけ、開業臨床心理士としての私のスタンスを明言させていただきます。

 私は、基本的に、ある特定の心理療法が他の心理療法と比較して優れているかどうかという論の建て方に懐疑的です。

 いいカウンセラーにめぐり合えば、それが精神分析でも行動療法でも箱庭療法でもフォーカシング指向心理療法でも(!)、さらに特定の心理療法流派を標榜しないカウンセラー(例えば村瀬嘉代子先生や増井武士先生.....来年度から九州産業大学です....)でも、うつ病に関するカウンセリングに関して、的確な見立てと、個々のクライエントさんにふさわしいカウンセリングの進め方、医療の必要性まで、クライエントさんの考えも尊重して、一緒に納得のいく解決を模索していく力があります。

 このNHK特集でたっぷりと矢面に立たされたお医者様たちへの公平のために申し上げれば、カウンセラーや臨床心理士の場合にも、専門能力として不十分な場合が「同じくらいにたくさん」見られる点では同じかもしれません。私もまた、多くのクライエントさんに、「未熟なカウンセラー」として記憶に残っていることも少なくないであろうことは十分認識しています。

 しかし、それでも敢えて断言します。

 標榜する心理療法の流派やアプローチの違いと、「現場」カウンセラーとしての力量とは無関係だと。

 むしろ、カウンセラーは、経験を積めば積むほど、

「他の流派のカウンセラーでも、現場臨床的に力量がある人は、根本的なところでは自分と共通のことを自明の前提としてやっている」

ことに気づき、そうした技法についても実際に謙虚に学んでみる姿勢を保てるカウンセラーこそ、実は、その人の標榜する心理療法に限定しても、奥の深い現場臨床での実力を持っているものです。

●参考記事 : 「「オモテ」技法と「ウラ」技法 または収穫逓減の法則(久留米フォーカシング・カウンセリングルーム)

 誠に僭越ながら、私が目指しているのも、まさにそのような、他の心理療法や技法に偏見のないカウンセラーに他なりません。

 私がそういうカウンセラーにどのくらいなっていて、現場臨床でも有能かを評価するのは、おいでいただくひとりひとりのクライエントさんに他ならないと思います。

 それどころか、クライエントさんに限らず、どんな人間同士でも、他人が自分のことを「誤解する権利(!)」が保障されていなければ、それは「支配」を原理とするファシズムであり、むしろお互いに更に理解を深めるきっかけを失ってしまうものだと確信しています。

(もちろん、「理解を深める」なんてしてほしくない、というクライエントさんの訴えがあれば、それも大事にしたいと思っています。自発的に訴えて下さらなくても、「私はこのクライエントさんにすでに踏み込み過ぎ、それを苦痛とのみ感じさせてはいまいか?」という自問自答はいつもして、チェックしているつもりではいます)

 クライエントさんからのどんな苦情や不信の念もぶつけてもらえることを、「クライエントさんが心の中でいつまでも抱え込んでいるだけにならずに済んで良かった」と、少なくとも心の中の「一方の自分」は受け止め、仮に、「他方で」、クライエントさんの誤解を解きたい気持ちがどうしてもカウンセラーの中にある場合にも、そのことでクライエントさんとの溝を深めるだけにはならないだけのことができること。

 更に、それが単にクライエントさんの「言いなりになる」ことではなく、クライエントさんにほんとうに役立つ援助へと前進するきっかけになるということが、絵に描いた理想ではなく、試行錯誤を重ねつつも、クライエントさんと共に実現に近づけるカウンセラーでありたいと思いながら、ひとりひとりのクライエントさんと毎回お会いしているつもりです。

 そして、「どうしてすぐに治してくれないの?」というお話に対しても、一方的な説明にとどまることがないように努めているつもりです。

 これを読んだ私のクライエントさんたちへ:

 今度お会いした時に、これを機会にこれまで言えなかった本音をいってくださっても歓迎します(^^) 
 今度ではなくて、もう少し先のいいタイミングで言ってみよう、でも自分の中で決して忘れないではおこう、というのも歓迎です(^^)

*****

 更に、私のカウンセリングルームの宣伝めいたことも、もう少しさていただくことをお許しください(^^)

 私は、まだまだ不十分かと思いますが、精神分析、行動療法、認知行動療法(まもなくこれに「最新の」臨床動作法が加わる予定です)など、様々な心理療法流派の、現場で一流という評価がある先生方の研修会に参加するように努めてきました。

 私の『普段の』カウンセリングをお受けになったクライエントの皆様の中には、私のカウンセリングを、例えば「認知行動療法」っぽいなと感じた方も少なくないようです。

 別の方は「まるでユング派みたいだ」とお感じかと思います。

 更に別の方は「ゲシュタルト療法みたいだ」とお感じの方もあるようです。

 なんだ、普通のロジャース派(来談者中心療法)と何も変わらないではないか、とお感じの方もあるでしょう。

 通常の面接の際には、「どこがフォーカシングなのか見当もつかない」とすら言われます。

 なのに、フォーカシングを技法として教える教師としては、

 「これほど理論や技法に厳格で、実践的な指導を具体的にしてくれるトレーナーにはこれまで会ったことがない。どんなぶしつけな質問をしても答えてくれる」

というご意見と、

 「こんな和気あいあいの自由なフォーカシングを学ぶ場を体験したことがない」

というご意見が両方あるのです。

 更に、

 「私の個性が強過ぎる」

というご批判と、

 「ネットの記事から想像していたよりは、よほど控えめな方ですね」

という感想も両方いただきます(^^)

*****

 しかし、このように、おいでいただいた皆様によって全然異なる感想をいただけることは、「フォーカシング指向心理療法」本来の性質に、ある意味で厳格に従っている結果だという少なからぬ自負もあります。

 「フォーカシング指向心理療法」という著作のなかで、創始者ジェンドリンは次のように繰り返して書いています。

 「フォーカシング指向心理療法は、単に技法としてのフォーカシングを面接のさなかに時々部品として差し挟むような次元にとどまるものではない

 「フォーカシング指向心理心理療法は、それがどんな技法的アプローチであるかに関係ないものである。さまざまな技法的なアプローチをそれぞれ別種の「エンジン」だとすれば、フォーカシング指向心理療法はどのエンジンであるかに関係ないで生かせる「エンジンオイル」のようなものだ。

 「フォーカシング指向心理療法」の特に下巻は、まさに、そうやってさまさまな流派ややり方にフォーカシングをさりげなく生かすための、ジェンドリンなりのヒント集です。

 この下巻の、「認知行動療法的アプローチ」に関する章は、私が特に熟読して来た章のひとつです。

【ここから第3版への追加】

 私なりの部分的には認知行動療法的といえるアプローチのバリエーションのいくつかの具体は、こちらこちらで紹介しています。

【ここまで第3版への追加】

【ここから第6版への追加】

 私なりのフォーカシング指向心理療法的認知行動療法的アプローチとりあえずの総括(まだまだ不勉強で、初期の探索段階だと思いますが)を、やっとご紹介できました。ご参照頂ければ幸いです。

●フォーカシング指向心理療法の認知行動療法的活用についてのとりあえずの覚え書き(当サイト)

 

【ここまで第6版への追加】

 もとより、私よりもより優秀な「認知行動療法」本来のセラピストが、皆さんのより身近にもいらっしゃることを、私は心から祈っています。

*****

 ●謝辞●

 この記事を書くために何らかの意味で参照させていただいたサイトは、記事の途中でご紹介したサイトのみならず、非常に多くのサイトです。

 しかし、この記事を書くそもそものきっかけとなったのは、Lithiumianさんという方から3ヶ月ほど前にいただいた、私のプライベート・サイトのある記事への厳しいご批判でした。その方から、推薦サイトをいくつかご紹介いただいたことがそもそものきっかけです。Lithiumianさんには、特に篤く御礼申し上げます。

 更に、「ブログ論壇」というサイトを運営されている、ともあきさんから、最初は別の記事にいただいたトラックバックの記事の内容にも励まされました。この「精神療法の荒廃」と題するエントリー記事では、このNHKの番組の再放送を含む放映日程が詳しく紹介されているばかりか、この番組についての様々なコメントも掲載され、更に、ともあきさんご自身の認知行動療法体験についても、簡潔に自己レスコメントをされています。

 実は、私の方からも、今回の連載が進むたびに、繰り返しトラックバックをともあきさんサイトに差し上げ、ともあきさんからもトラックバックをそのたびごとに返していただきましたが、私の方のトラックバックの欄に見かけ上同じ記事からのトラックバックが並び過ぎてしまいますので(^^;)、私の勝手な判断で、私の方の表示はふたつに集約させていただきました。ともあきさん、どうかお許しください。

 更に、これまた少し以前の別の記事にトラックバックをいただきました、このサイトでもすでに具体的にご紹介した、ご自身精神科医である猫山司さんのブログ、「メンタルクリニック.net」の、他の様々な記事もたいへん参考になりました。私の愛読サイトになりました。ありがとうございます。

*****

 最後に、私は福岡県南部(筑後地方)に、私が知らないだけの、十分な診断と薬の処方をしてくださるお医者様が少しでも多いことを信じたいと思っております。

 筑後地区の病院のお医者様、あるいはこの地区の病院に通う患者様の中で、ご不快であったり、ご不安を増してしまわれた皆様もあるかと思います。

 まだ実際にクレームをいただいた例はございませんが、これからも、不適切な表現が見つかりましたら、できるだけ変更してまいります。 

****

 そして、何より、これまで私のカウンセリングルームに相談して、話を聞かせてくださったクライエントの皆様にこそ、ほんとうに厚く御礼申し上げます。

 この3ヶ月の間、この問題について私なりに猛勉強する中で私の認識が急に変化したことは、もう読者の皆様もお気づきかと思います。

 ここに書いたような、恐らくまだ不完全であろう認識すら不十分だった、久留米での開業初期にお会いした皆様、神奈川・大船開業時代のクライエントさんを含めた皆様、「もし現在お会いしていたら、まだ何かお役に立てたのでは?・・・」という後悔の念を禁じ得ないでいます。どうかお許しください。

(実はこの連載、ここで終わりませんでした

人気ブログランキングへ
携帯アクセス<br /><a href=ビジネスブログランキング
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 心理カウンセリングへ
にほんブログ村
にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 ニュースブログ ニュース批評へ
にほんブログ村

 

2008/09/17

NHKスペシャル「戦場 心の傷」を観て(第3版)

 2008年9月14日(日)、15日(祝)に二夜連続で放映された、

NHKスペシャル「戦場 心の傷

(1)兵士はどう戦わされてきたか
(2)ママはイラクへ行った

は、戦争がもたらす広範な社会的影響について、従来とは異なる、リアリスティックで、私たちの日常に隣接した問題提起をしたドキュメンタリーであったと思う。


Watch NHKã�¹ã��ã�·ã�£ã�«ã��æ�¦å ´ã��å¿�ã�®å�·ï¼�ï¼�ï¼�å�µå£«ã�¯ã�©ã��æ�¦ã��ã��ã��ã�¦ã��ã��ã��ã�� in ã��ã�­ã�¥ã�¡ã�³ã�¿ã�ªã�¼  |  View More Free Videos Online at Veoh.com

Watch NHKã�¹ã��ã�·ã�£ã�«ã��æ�¦å ´ã��å¿�ã�®å�·ï¼�ï¼�ï¼�ã��ã��ã�¯ã�¤ã�©ã�¯ã�¸è¡�ã�£ã��ã�� in ã��ã�­ã�¥ã�¡ã�³ã�¿ã�ªã�¼  |  View More Free Videos Online at Veoh.com


******


 このドキュメンタリーは、まずは、アメリカ海兵隊の新兵訓練(Boot Camp)において、イラクの派兵された対テロ市街戦を想定した、ハリウッドの協力を得た、映画撮影さながらの大規模セットを駆使しての、戦闘訓練の様子から始まり、続いて、イラク帰還兵のPTSDの深刻な現状をダイジェストで紹介する。

 そして、古い記録映像を駆使して、戦場での兵士が、当時「砲弾ショック(shell shock)」といわれた、精神的な傷を背負い、戦闘不能に陥り、心身に深刻な後遺症を残すという問題が、第1次世界大戦の頃から注目されるようになったことから解説をはじめ、それが、第2次世界大戦の頃には「戦争神経症」と呼ばれ、更に、ベトナム戦争後、ロバート・リフトンによる帰還兵士への大量の面接記録から、「心的外傷後ストレス症候群(PTSD)」としてDSM-3(アメリカ精神医学会診断基準第3版)に記載されるまでの歴史を、コンパクトに紹介していく。

 そうした際に、日本の陸軍病院に残された膨大な精神科診察記録を元に、第2次世界大戦当時の日本兵においても、今日で言うPTSDと全く共通の症状と患者の生々しい証言が記載されていたことを紹介してもいる。日本軍兵士ですら、「支那人」ひとりを殺すことに、これだけナイーブな反応をしていたのだ。


******

 このドキュメンタリーを観ていると、PTSDというのが、摩訶不思議な症状ではなく、そのときの環境に適応するために、高等哺乳類なら成熟に達しでも発揮する「学習」の過程の「後遺症」であり、パブロフ的な、実にシンプルな「条件付け」の結果として成立することが理解できる。

 帰還しても、大きな音が突然すると、戦場での爆裂音と時と同じように恐怖体験になってしまう。もはやそれは「ここは戦場ではない」などと頭で納得しようとしても、身体が条件反射を起こしてしまうことなのである。

 一見平和に見える通りや公園で遭遇する通行人が、実はテロリストであるという不安と緊張が、何かの弾みで止めようもなく生じて来る。

 これが繰り返しのパニック障害的な反応になるだけでも本人には苦しいのであるが、最悪の場合、「テロリストに包囲されている」という幻覚妄想状態になり、手にしていた銃で、銃弾を発射してしまうといった事件もまた、こうした「戦場での恐怖体験の刻印づけ」によるものとみなすとわかりやすい。

 DSMの診断基準の「統合失調症」の項の鑑別基準において「PTSDの条件には当てはならないこと」ということが特記されているのはこうしたためである。


******


 特に、戦場で民間人を誤射して殺してしまったときの体験は、兵士の中で深刻に後を引く。

 多くの映画やドラマでは描かれていないが、人をひとり殺すということは、それだけで深刻なトラウマとなるのだ。

 第1時世界大戦初期の頃、兵士が戦闘場面でどのくらい実弾を発砲したかについての膨大な聞き取り調査がなされた。その結果、発砲経験がある兵士は、実際には2割いないという予想外の結果に軍は驚くこととなる。

 一般の兵士ですら、そのようにナイーブな存在なのだ

 そこで、その調査をした研究者は、軍に次のように提案する。

 兵士に実際に実弾を人に向けて発射することに慣れさせるためには、従来の、静止した的(まと)の真ん中を狙わせるような射撃訓練ではもはや意味がない。人型のシルエットを持った標的を、戦場を模した演習場に配置し、突如物陰から立ち上がり、命中したら倒れるという仕掛けにする。そうした標的を相手に反復練習させるなが望ましい....と。

 そうすれば、戦場で人影を観たら無意識のうちにも射撃するという「条件反射」が兵士の中に形成される.....とも。
 
 今日、映画やドラマで誰もがおなじみの射撃訓練のやり方である。


*****


 こうした訓練の改良の結果、朝鮮戦争時のアメリカ軍の前線の兵士の実弾射撃率は5割に達し、その研究者はアメリカ陸軍から勲章をもらうことになる。

 その後、ベトナム戦争において、一般民衆に紛れてゲリラ戦術を取るベトナム解放戦線相手の戦いの中で、いかに「戦争の大儀」を確信していた兵士でも、一般住民を誤認し、それこそ「条件反射的に」実弾発射、結果的に殺害したことで深刻な罪悪感に悩む兵士が続出する。相手の死ぬときの記憶映像や、近づいて一般住民と確認できたときの衝撃、その死体のむごたらしさの記憶などが、その兵士の脳裏に繰り返し繰り返し「頭に圧入されるように」よみがえることが止めようもなくなるのである。いわゆる「フラッシュバック」である。

 これもまた、高等ほ乳類なら、成熟した後でも、危機的な事態に体験したことだと、たとえ一回であっても身体に刻み込んでしまうという、生存本能に導かれた「刻印付け」なのだ。

 (飼い犬が、一度虐待して来た人間には、二度と決して愛想を向けなくなるのを思い出して欲しい)

 帰国後も、こうした罪悪感とフラッシュバック、突然の感情発作、抑うつなどに苦しむ中で、アルコールや薬物に手を出し、暴力や犯罪行為に走る帰還兵士が深刻な社会問題となる。良心的徴兵拒否者も増加する。

 こうしたベトナム帰還兵問題の深刻化の中で社会に高まる厭戦ムードと反戦運動の激化の中で 兵士の接近銃撃戦を回避し、上空からの爆弾投下などの戦術に切り替えないと、もはや兵士のなり手がなくなるという事態に直面しする。

 徴兵制も志願兵制に切り替えざるを得なくなり、当時独立した働き口に乏しかった女性の兵役志願、更には前線への派遣にも依存するようになる。

 更にアメリカは、トマホークなどのハイテクミサイル誘導兵器による攻撃に戦闘の主軸を移すことになる。

 ある意味で、帰還兵のPTSDが引き起こす社会問題が、アメリカの戦術そのものの変化を後押ししたのである。単なる科学技術の進歩の帰結などではないのだ。


*****


 ところが、9.11テロをきっかけに、戦争の様式が、再びベトナム戦争当時と同じようなゲリラ戦抜きには考えられなくなる。 

 そこで、アメリカ軍は、冒頭に紹介したような、一般人とゲリラ兵士を的確に識別するための、実戦さなからの訓練というところまで戦闘訓練を高度化するしかなくなったのである。

 こうして、母国での軍隊の訓練と現実の戦場との間で「条件付け」のいたちごっこが果てしなく続く。

 しかし、決して兵士による民間人の誤射がなくなるわけではない。むしろ、民間人とテロリストを識別せよということが絶対の軍規として兵士に教育される中で、誤射した兵士の罪悪感とPTSDの症状一層増幅するという悪循環が生じるのである。

 アメリカ軍はPTSDに陥った兵士の治療に力を入れるようになる。

 しかし、あくまでもそれは、そうした実戦経験のある兵士を再び戦場に送り出し、勇敢に戦ってもらうためなのである。

 兵士は、修理しては現場に戻される「ロボット」ななる。

 そうした動きに、精神療法や精神医療の一部も協力する。


 元々非人間的な状況に、あたかも健康人であるかのように適応できることそのものが、まさに歪みの蓄積に他ならないこと。


 ......これは、私が、自身の鬱体験と、鬱状態のクライエントさんとのカウンセリングの中で、深刻に直面した問題である。

 心理療法や精神療法の目的とは何なのか、深刻に考えさせられる。

 誤解なきように言えば、誠意ある治療者の行なう「行動療法」は、このようなものではない。単に自分を思ったとおりに「改造する」ものでもない、ましてや、他者を強制的に、自分たちの思う理想像に向けて改善するものでもない。私はそのことを山上敏子先生の行動療法から学んだ。


*****


 しかし、このドキュメンタリーを見る限り、兵士ではなくて、ひとりの一般市民としての日常の中での兵士のメンタルヘルス、夫婦や家族関係への影響という視点は、セラピー先進国であるアメリカですら、まだ現在手が行き届いていないように思えた。

 こうした帰還兵士の家族問題全体に積極的に介入する「家族療法的なアプローチ」が、ただの一例も、このドキュメンタリーでは描かれていなかったのである。

 現実には、帰還兵士自身やパートナー、子供、老いた親などの個人的な努力でこうした問題を切り抜けている例しか紹介されなかったのである。

(10歳の眼鏡っ娘の少女が、故郷へのお里帰りの際に、飛行機に乗ってパニックを起こしそうな予期不安を抱える母親を細かく気使うシーンを見ていると、私は、こうした「世代逆転」的な形で「娘が母親の母親役」を演じ続けなければならない家族関係は、この娘さんが将来アダルトチルドレンに育ってしまいかねないなと感じて、痛々しかった)

 しかし、そうした個人的な努力には限界がある。

 戦場から帰還して、一歳になる息子に愛情ある態度を取れなくなってしまったことに苦しんでいる母親の例が紹介されていた。公園での散歩の様子も描かれていたが、歩き始めたばかりの子供がちょっと石いじりをはじめるだけで、まるで新兵の行儀悪さをこまめに注意するような言葉をどうしても連発してしまう母親。

 彼女は、そのように振舞ってしまう自分に、本当は、涙ながらに深刻に自己嫌悪している。実際に子供を前にすると、理性ではとても統御できない振る舞いをしてしまうのである。

 しかし、彼女たちは、それを、あまりに不器用な次元での、「話し合いによる解決」で何とかしようとする泥沼に陥っている。彼女らの背後に、家族関係についてまで援助しようとする、専門的な援助的専門家がいる形跡が、全く感じられないのである。

 「愛している」と言葉では伝え、抱き上げる母親に対して、幼い息子の方は、決してアイコンタクトをしないようすが悲惨であった。


 この夫婦は、協議離婚の相談を始めている。

 恐らく、養育権は父親という形での。


*******

 
 日本において、PTSDが引き合いに出される場合、地震などの不慮の大規模災害の被害者や、 残虐な犯罪に巻き込まれた人の心の傷について論じるケースにのみ、ある意味で偏っているように思う。

 アメリカでのPTSD概念の確立の歴史は、第1次大戦、第2次大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、9.11後のイラクヘの介入という、ほとんど途切れることなく続いた兵士の実戦への参加の中で、大量に生み出された帰還兵の精神状態の悪化が、犯罪や薬物汚染、DVを含む家族関係や子供の成長に大きな影を落とすという、「近所にいる誰か、友人の誰かそういう状態にある」という、一見平和な社会の日常に深く根を張った問題に結びついているからこそ、先進的な研究と対策の対象となりえたものである。

 どうもそうした背景については、日本の一般市民の常識のレヴェルには浸透していない。

 日本も、集団安全保障の観点から、自衛隊の海外派兵が更に広がったり、ましてや憲法第9条の改正がされたら、こうしたアメリカ社会の状況は、帰還した自衛官の社会復帰過程でそのまま日本社会でも現実化し、子供の成長から犯罪まで、深刻な社会不安を引き起こす可能性があるという視点など、今日、ほとんど論じられていないといっていいのではなかろうか。

 あえて言えば、海外派兵にほとんどの自衛官が関与しない現状においてですら、戦闘訓練の過程で、自衛隊員の心身にこうした問題が生じ、深刻な家族関係の危機をすでに引き起されている可能性など、あえて言えば、「闇に葬られている」問題のように思われてならない。

 その一端が、自衛隊員の自殺や、隊内でのいじめの問題としてのみ、今日語られているのではないか。

 例えば、駐留アメリカ軍兵士の婦女暴行等の問題を考える際に、もちろん、被害者の悲惨は言うまでもないが、単に「軍の規律を引き締める」ように要請するなどという次元を超えた、こうした深刻な問題が潜んでいる可能性について、論じられた記事を私は読んだことがない。

 ひとりひとりの生身の人間であり、親であり、パートナーの伴侶であり、家族の一員であるという視点から、兵士のメンタルヘルスをとらえ、社会問題として波及していく可能性というシミュレーションに目が届かないまま、戦争と平和について語られることの空しさを、このドキュメンタリーを通して感じた。


****


 昔、日本でも欧米でも、そうやって戦場でのトラウマで戦闘能力を失う兵士は、「根性なし」で「精神が弱い」人間であるとして蔑まれていた。

 実は今日においてもかなりの程度そのように思われおり、それは、子供や、企業で働く「戦士」としての、サラリーマンたちの不適応問題においても、無意識のうちに陥りがちな偏見であるように思われる。

 しかし、実は、そういう社会の中で一見適応的にやれて「生き残って」、見かけ上平穏な暮らしを送っている子供や親たちによって構成されている家族においても、隠れた形でそのひずみは蓄積して、さまざまな問題を引き起こしている可能性が高いだろう。


*****


 以下は、この番組を見た、アメリカへの留学経験がある知り合いから昨晩聞いたことである。

 その人は、ホームステイ先の近所に、同じように外国からの留学生(日本人ではない)のホームステイを受け入れている家庭があり、その留学生や、オーナーの家族ともつきあいがあったそうである。

 その友人の留学生のオーナーご夫婦は、二人とも退役した軍人であった。もっとも、戦場に出た経験はなかったという。

 夫妻は、たいへん親切でないい人たちではあったが、家に、十数丁ものライフルや銃が、人目に触れるところに陳列されていた、そして、当時まだ小学生低学年ぐらいだった男の子へのしつけの際の言動や教育方針が、何か「大人じゃあるまいし、そこまでこの年齢の子には理解し、やらせるのは無理では?」と、一抹の違和感を感じていたという。

 私の知り合いがアメリカから帰国して数年後、その留学生からのメールで、思春期になったその男の子が、自宅に並んでいたその拳銃で自殺したことを知らされたという。


*****
  

 これはひとつの例であるに過ぎない。引き付け過ぎかもしれないが、戦場とは無縁で、一見問題がない両親であったとしても、兵士の家庭に、こうした「PTSDにならないままサバイバルできた」がゆえの、さりげない歪みが蓄積され、子供の成長に大きく影響していることも少なくないのではないかとも想像させるのである。 


******


 なお、このNHKスペシャルの前に、2008年8月にBS-hiで放送していた「兵士たちの悪夢」というドキュメンタリー番組に関して、モラルハラスト問題のカウンセラーである惠美さんが、ご自身のブログで、モラハラの家族力動と兵士のおかれた状況を比較する形で、たいへんまとまりのいい考察をなされているので、ご紹介します。

●録画してあった「兵士たちの悪夢」というドキュメンタリー番組をやっと見た (カウンセラーママの日々つれづれ)

 私は、この惠美さんの記事に触発されて、今回のNHKスペシャルを観ました。

 ここに感謝申し上げます。


 更なる追記が、自己レスコメントとしてこちらにあります。


*******


※ なお、私の専門とするフォーカシング技法とトラウマ治療に関しての序論的な紹介が、

●フォーカシングとトラウマについて
(The Focusing institute日本語版公式サイト)
http://www.focusing.org/jp/jp_trauma.htm

で読めます。


人気ブログランキングへ
ビジネスブログランキング
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 心理カウンセリングへ
にほんブログ村 ニュースブログ ニュース批評へ

2008/08/12

「一緒に考えて行きましょう」.....(第3版)

●カウンセラーと来談された方の「共同作業」とは何か

 誰が悪いのかを言い当てて
 どうすればいいかを書き立てて
 評論家やカウンセラーが米を買う
 迷える子羊たちは彼らほど賢いものはいないと思う
 あとをついて行けば何とかなると思う
 見えることとできることは別物だと米を買う

 これは、若き日の中島みゆきの傑作アルバム、「寒水魚」に収録された「時刻表」という歌です。

 かなり皮肉っぽい脈絡で「カウンセラー」が引き合いに出されています。

 もし、カウンセラーというものが、社会の大多数の人から、クライエントさん(カウンセリングに来られた一般の皆様)から悩み相談を受ければ、答え一発、適切なアドバイスをしてくれて、それに従っていれば問題や悩みは見事解決、というふうな存在として、すでに信頼されて来ていたとすれば、カウンセラーは、とうの昔に、弁護士以上に人気が集まり、収入も多い、専門職の筆頭になっていたことでしょうね。

*****

 でも、だからといって、カウンセリングをはじめるにあたって、カウンセラーの方から、

「カウンセリングとはそのようなではありません」

とか、

「あなた自身が答えを見つけていくお手伝いをするのです」

「本当の答えはあなた自身の中に眠っているのです」

などと前もって解説してしまうことに、私は大きな違和感があります。

 やっぱり、どこか、クライエントさんの機先を制して、過剰な期待を抱かないように前もって警告することで、カウンセラーが「自己防衛」しているかのような漠然とした居心地悪さを、カウンセラーである私自身が感じてしまって。

*****

 一見これと似ていますが、
 カウンセリングを始める時に、

「これから、時間をかけて、一緒に考えて行きましょう」

という言い方を添えることもよくなされています。

 私は、この言い方の方がまだしもいいかなとは感じています(^^)

 しかし、そもそも「一緒に考えていく」とはどういうことなのかについて、そのカウンセラーに明快なビジョンがあるのでしょうか?

 少なくとも、一般の人同士が「お互いに知恵を絞って解決策を探す」ということを超えた、カウンセラー側の専門性を生かした「何か」をも意味するはずです。

 このことについての、私なりのとらえ方をこれから述べてみたいと思います。

*****

●カウンセラー側の「思い込み」が少しずつ壊されていくことが、好ましいカウンセリングの必要条件

 カウンセラーにとって重要なのは、学んだ知識とそれまでの様々な現場でのカウンセリング体験に基づき、クライエントさんのや、やり取りの中での反応に基づき、そのクライエントさんについての的確な「見立て」を立てて、「仮説」を刻々と形成していく能力と、その後の展開に即してそうした一度立てた「仮説」を刻々と「修正」し、それに応じて更にクライエントさんへの対応を調整していく能力だと思います。

 仮説を立てる際には、カウンセラーは知識と過去の経験を総動員して、クライエントさんをある「タイプ」に類型化し、シミュレーションしようとします。

 そうした仮説を「修正する」とは何か? それは、カウンセラーが、そうしたいったん立てた仮説と「矛盾する」とも感じられることをクライエントさんの反応や発言から敏感に感受し、拾い上げるということです。

 これは、カウンセラー自身が、それまでの、クライエントさんについての自分自身のそれまでの「思い込み」「錯覚」から目覚める(「脱錯覚」する)ことを自分に許すことができるかどうかというセンスです。

 つまり、クライエントさんの反応が、カウンセラーの予想を裏切る「意外な」方向に向かうという刺激がある程度ないと、カウンセラーは「その」クライエントさん固有の状況や心理に更に迫ることはできない。

 素朴な例を出しましょう。

 名門とされる中高一貫女子校、エリートを輩出し、洗練された人間が多いという大学に入学し、しかも在学中に1年間の留学経験もして外資系企業に勤務した女性がいたとします。見た目も話しぶりも「いいところのお穣さん」ふう。こうなると、カウンセラーといえども、「彼女は裕福な中流以上の家の恵まれた環境で育った」という方向に思い込みやすいわけですね。

 ところが、その彼女が、かなり田舎の酒屋の娘であり、父母ともに際立った高学歴でもなく、酒屋の経営は不安定だった、などということも話し出したら、カウンセラーといえども一瞬戸惑うのが自然でしょう?

 カウンセラー自身がいつの間にか思い描いていた「幻想」=クライエントさんについての「思い込み」が大いに揺るがされるわけですね。

 こうした「理解を超えた矛盾した事実」に直面したときに、冷静さを失わず、むしろ彼女の真実に更に迫れるチャンスを得たことに感謝すらしながら、こうした見かけ上の「矛盾」を大事に抱えながら面接を続け、適切なやり取りを重ねる中で、そうした「矛盾」に適切な「補助線」を引いてくれる事柄をクライエントさんから自然に引き出せるやり取りができてこそ、カウンセラーの専門性なんですね。

 そして、こうしたやり取りの中で、クライエントさん自身の自己理解が深まり、その結果、更に、クライエントさんにも思いもよらないことが思い出され、語られたりして、それがまたもや、カウンセラーに、自明の前提として立てていた仮説の何らかの見直しの必要を感じさせる.....といったジグザグの相互作用が進んでいくのが、クライエントさんにとっても、カウンセラーにとっても好ましい、カウンセリングの展開だと思います。

 こうして、いわば正-反-合の「弁証法的な」相互作用が進んでいくということが、カウンセリングがカウンセラーとクライエントさんの「共同作業」の本質だと私が考えているものなのです。

 敢えて言うと、カウンセラーの「予想を覆す」ことをクライエントさんが語るということが、ある程度以上頻繁に生じてこない面接過程というのは、むしろ何かおかしな状態に面接全体がはまり込みつつある可能性が高いと思います。

 あるいは、カウンセラー側の「思い込み」に反することを、クライエントさんが何も言葉にできなくなっているのかもしれない。

 例えば、カウンセラーの方が、自分の仮説で引っ張り過ぎているために、カウンセラーの仮説を補強する方向の話題しか拾い上げられず、そうでなければ、クライエントさんが自然と語りだしたかもしれない方向にわだいがそもそも向かわなくなっているのかもしれません。

 あるいは、クライエントさんの語ったさりげない言葉の中に含まれている含蓄に気がつかないままでいたり、同じ「ええ、そうですね...」といった応答の声の調子に含まれる、「一応そうとはいえるけど、それだけではない」だとか、微妙な違和感のトーンを拾いきれないままになっている場合も考えられます。

 クライエントさんは、カウンセラーを「先生」と思っていることが少なくないので、一応うなづいて、そのまま受け入れてみようとすることも少なくないであろうことも配慮せねばなりません。カウンセラーの語ることを修正したり、否定したり、話題を転じることだけでも、クライエントさんにとってはなかなか勇気がいったり、タイミングがつかめないものです。

 ことに、カウンセラーの指摘が、そのクライエントさんが普段から思い悩んだり、「そこを衝(つ)かれたら痛い」と感じている点だったりしたら、なおさらのことです。

 仮に、クライエントさんが否定的にのみとらえすぎている点を、さりげなく評価する発言だったとしても、その段階のクライエントさんが受け入れるには、まだ早すぎるという場合もあるでしょう。「先取りのし過ぎ」も、面接の流れをおかしくすることがあるのです。

****

 実は、カウンセリングの醍醐味は、カウンセラーのいかなる予想とも、クライエントさん自身のいかなる予想とも異なるけれども、思いもよらない新鮮な次元で二人とも納得でき、専門家であるはずのカウンセラー自身のそれまでの人間観や臨床的経験知にすら微妙な変化が生じるような展開が直後のやり取りの中で生じることなのだと私は常々思っています。

 クライエントさんだけでも、カウンセラーだけでも、注意を向けなかったようなところにどちらからともなく立ち止まり、それをきっかけに新たな認識の地平を二人が共有できる、小さなステップが小刻みに進むのがいい面接なのだとおもいます。

 二人とも、思いもよらない新鮮な次元で二人とも納得でき、カウンセラー自身のそれまでの人間観や臨床的経験知にすら微妙な変化が生じるような、新たな地平を二人が共有できる、小さなステップが小刻みに進むのがいい面接なのだとおもいます。

 これは、カウンセラーとクライエントが「共に流される」ことと似ているようで、実は異なる「何か」です

 つまり、カウンセラーにとってですら、それまでのやり方がそのまま通用し、何ら新鮮な体験を伴わないような面接が繰り返されるようなら、それはカウンセリング経験が深まり、ある一定の境地に達した結果などではなく、むしろそのカウンセラーのカウンセリング能力が「硬直」し、「形骸化」する弊害の方が大きくなり始めた兆候であるとすら、私は考えます。

 カウンセラーの言った事に対して、クライエントさんが「いや、そうではなくて....」と口にして言ってくれたら、むしろそのことをクライエントさんが与えてくれた絶好のチャンスと感じられること。
「まさにそのとおりです」といわれたら、クライエントさんは無理してカウンセラーに迎合している可能性も一応疑ってかかるくらいが、いい塩梅(あんばい)だと私個人は感じています。

 .......もっとも、このことを大事な信念としているはずの私であるにもかかわらず、いまだに「思い込み」のままに面接を進め、クライエントさんに違和やご不満くすぶっているケースもまだ結構見られる気がいたします。

 どうか、そういう際には、面接の中で、遠慮なくご指摘いただけることを祈っています。

*****

 こうして私は、面接の中で、クライエントさんによって、カウンセラーですらも、自分の思い込みから少しずつ目覚めさせられていくものだということを述べてきました。

 これは、カウンセリングとは、カウンセラーの方が、客観的な見方をできていて、クライエントさんの方は、自分の一面的な、あるいは、歪んだものの見方を修正されていくもの、という、常識的な考え方に敢えて一石を投じるつもりで書いてみたものです。

 
*****

 例えば、行動療法ですら、行動計画をクライエントさんが実現できない壁にぶつかった時に、クライエントさんに実現可能そうな、更に小さな行動ステップをクライエントさんに「創造的に」提案し、新鮮に受け止めてもらえ、セラピストとクライエントが協力して達成しようという関係性が成立した時に効果が目覚しいのではないか。

 山上敏子先生の行動療法の事例報告に触れる度に私が感じることですが。

 認知行動療法のセラピストですら、ほんとうの達人の先生方は、このこと....つまり、クライエントさんからの話を謙虚に傾聴し、思いもよらない次元の話をたくさん聞かせてもらってはじめて、そのクライエントさんの心情や状況にほんとうにフィットする、無理のない提案ができ、クライエントさんにも、率先してやってみようと感じてもらえ、モチベーションを高めてもらえることを、よくわきまえておられる気がしてなりません。
 

*******

◇この問題について更に関心を深めたい人にお勧めの本:

●ユング「心理療法論」林道義 編訳 みすず書房

 この本の更に詳しいご紹介と、いくつかのユングの文章の抜粋をこちらの記事で詳しく紹介しています。

2008/07/15

前の記事で書いたことは、(第2版)

ある意味で、フォーカシングで、アン・ワイザーさんが、

"Inner Relationship"(内的関係性)

=自分の内側に生じてくる身体の感じや気分や気持ちやさまざまな思いを対象化して、
 それらを無理のない距離感でひとつひとつ「認めてあげて」、「共に居られる関係」をじっくりと作ること

 (フェルトセンスからのメッセージを無理矢理引き出さないままで)


を、現実の「外的」他者との関係に逆応用したとも言えることに、お気づきの方もあるかと思います。


 ......そのようにも受け取れる、ぐらいにご理解ください。

 私は、技法の杓子定規な応用は嫌いな人間です。

 むしろ、私の経験から出てきたものであると受け止めていただければと思います。

 
 フォーカシングを身につければ、このことはより無理なくできるでしょう。


*****


 ちなみに、

 もし、「一緒に居るのが苦しい」とい気持ちが自分の中に出てきたら、

 そのような気持ちが「私の中のある部分」にあることを静かに「認めてあげて」、

 その「一緒に居るのが苦しい」気持ちを感じている部分と、無理ない距離感で「そばに居て」あげながら、

 目の前にいるその人と「ともかく一緒に居て」あげるようなつもりになってみるのはいかがでしょう?


 更に言えば、特に意識はしていなかったが、私の尊敬する山上敏子先生行動療法(暴露反応妨害法)の影響もあるかと、まさにこれを書いていて、感じたのです。

 「自律訓練法」や「形成化(シェイピング)」的であると申し上げると、「暴露反応妨害法」そのものはご存知ではない、心理学に詳しい方にもある程度想像していただけるかもしれない。

 更に言えば、斎藤環さんが「社会的引きこもり」で述べられた、オートボイエーシスを背景にした、実践的処方箋の影響もありそうです。

2008/02/15

私がカウンセリングを受けたい人は誰か?

 私も、ある意味で、精神分析を「仮想敵」にして書いてしまっていることは自覚しています。

 他ならぬフォーカシングそのものが、ある種の「島宇宙化」の弊害を抱えている。ただ、「フォーカシング指向心理療法」が、意識的に、すべての流派のアプローチに開かれた心理療法であることを標榜しているということです。

 このあたりは、まだ一般にはよく知られていないかもしれない。ジェンドリンの「フォーカシング指向心理療法」の下巻を読むと、そのスタンスがよくわかります。行動的アプローチ、認知的アプローチ、解釈的アプローチ、ゲシュタルト的アプローチ、夢へのアプローチ、身体に直接働きかけるアプローチ、もう「エンジン」はなんでもありであり、その「エンジンオイル」がフォーカシングなのだという徹底。

 ただ、治療者の逆転移の処理というところまでは、この本でも踏み込み不足。

 ここから先は、ジェンドリンも未踏の領域。

 私はこの本を読んでから10年近く、その領域を前に進めることにエネルギーを注ぎ(その結果、バリントやウィニコット、オグデンの「第3主体論」について、更に深く読み込む必要が生じました)、そこに実践水準ではすでにおおよそのめどがついたので、今は認知行動的アプローチによる適用へ、主なる関心を移しています。

>もし自分自身が神経症やうつ病になったときには、○○さんやこういちろうさん自身はどういうカウンセリングなら受けてみたいと思われるのかな。

 これ、私にとっては「仮定の問い」ではありませんので(^^)

 前の職場をやめたのが、欝のためであることは公言しています。おかげで「薬物療法」を生かすにはどうすればいいのかについての経験値が一気に上がりました。

 その過程で「某派の」国際資格を持つ人(個人的関係は皆無だった先生)に、一年カウンセリングも、一クライエントとして受けていますよ。

 そういう中ではっきり感じたのは、「心理療法は流派と無関係」という強烈な思いです。

 そこそこいい先生なら、セラピストは誰でも「利用できる」(^^)

 そして、私が最後に頼ったのは、他ならぬ私自身の一人フォーカシング能力を極限まで磨き上げることでした。

 私は日本のフォーカシングの領域の頂点のひとりですから(このことをさらりと口にした方がいいなと最近感じてます)、フォーカシング関係者にセラピーを受けることは、あまりにも「政治的問題」であり、関係性の次元での厄介な問題がありすぎるのです(^^)

 それでも敢えて心理療法を受けてみたい人の名前を挙げれば、村瀬嘉代子先生山上敏子先生でしょうか(^^)


*****


・・・・・・恒例、セーイチさんの「発展途上臨床さいころじすとの航跡blog版」のエントリー、「外れた解釈」(すでに119コメント)への私のコメントからの転載。

2007/01/13

「疲れた」「つらい」筈なのにそう感じていな「かった」時の「独特の感覚」は本人にも「実感」できる(第5版)

 「欝とは、自分が無理をしていることを認識できなくなる時期にすでに始まっている」

 ......この記事は、このブログの個別記事別で、通算最多アクセス記録を現在も更新し続けている記事であり、週ごとの「ベスト20」でも20週連続ランクインを続け、たいへん多くの皆様にお読みいただいて来ています。

 それが、

> 少しでもこれが世間の「欝」についての著作より「新鮮に」響けば幸いです。

と、私がその記事の最後に記した思いが伝わった結果であるとすれば、たいへん光栄なことと感じています。

*****

 ただ、最近。

 この記事について、次のようには誤解されたくないなあ、という思いも生じてきました。

「鬱の人は自分が無理していることを自覚できない人なのだから、まわりが無理してでも本人にそのことを自覚させるしかない」

 私は、カウンセラーとして、このように受け取っていただきたくはないのです。

****

 その理由は、大きく分けて2つあります:

1. 私は、およそどのような場合でも、

  「自分自身の感覚や判断を信用するな、
  なぜなら、あなたは『こころの病気』だからである」

というふうに、クライエントさんに受け取られる危険のあるメッセージを発することは治療的ではないと考えます。

 もとより、クライエントさん本人が、自分が病気なのではないか、病気故にこうなっているのではないか、と感じて悩んでいる場合には、それを受容的・共感的に受け止めて、その「悩み」とどう向き合うかについて一緒に考えて行くことをしてまいります。

 しかし、それはあくまでも「病気」という現象を「括弧に入れて」、「病気」であるかないか、「病気」故に現状から抜け出せないのか、というクライエントさんの苦悩とおつきあいするということに他なりません。このスタンスを失うと、実はほんとうのカウンセリングにはならないと考えています。

 例えば医者からはっきり『鬱病』と診断された人がいたとします。これは告知された診断名が『鬱状態』であろうと、『感情障害』であろうと『適応障害』であろうと、本人にとっては大差なく、これらの告知は、ご本人に最初「ある衝撃」を伴います。たとえ「やっぱりそうか」とご本人が受け止めたつもりの場合ですら!!

 「これが、世間で言う『鬱』ということなのか?」

 たいていの人は、自分が思い描いていた『鬱』というものとの違いに驚きます。

 たとえ、カウンセラーであっても、自分が実際に鬱になってみたら、習い覚えていた知識だけではとらえきれない「何か」を実感として感じます。そして、学んだ事柄が「こういうこと」だったんだ、と、今更のように新鮮に少しずつ気がつきます。

 その一方で、一般に流通している、「鬱の人にはこのようにかかわるべき」という、専門家向けのマニュアルめいたものが、いかに表面的で、ひとつ使い方を誤ると、本人をいかに傷つけ、それこそ「鬱を悪化させる」危険すらある「際どさ」を秘めているかに気がつきます。

*****

 例えば、

「がんばれ」というな

という、皆様も恐らくご存じの、鬱状態の人への接し方の「基本的なドグマ」みたいなものがあります。

 このことを、鬱状態とされるその人の、以前のように思うように活力を持ってものごとをできないことへの、ほとんど衝撃的な絶望感と無力感、ふがいなさを汲んだ上でない形で、表面的にだけ伝えると、クライエントさんにとってはほんとうに行き場のない思いを呼び起こす場合があります。

 「がんばらなくてもいいよ(You may...)」
→「がんばってはならない(You must.....)」
→「自分は社会的に有意義な活動ができない無能者とみられている」

あるいは、

 がんばろうとすると、カウンセラーの人は、苦虫をかみつぶしたような表情で、私(クライエントさん)に、「拒否的」になる。カウンセラーの先生に「嫌われない」ためには、「がんばらない」ようにしないとならないのがつらい

 実は、単に「がんばらなくていいよ」といわれたら、このように感じてしまうのが、まさに、いわゆる「鬱的な」人の「発想法」らしいのではないかと私は思いますが.......。

 自責感が強く、「周囲に」存在意義を受け止められ、友好的に溶け込んでいられることこそ、鬱的な人が自明としていることなのですから。

 その意味では、鬱状態の苦しさの本体は、心身のエネルギー低下そのものではない(これ自体は生物として、全く自然な生体恒常性の営みである)とも言えます。

 神田橋先生ふうにいえば、「元気がない」状態で、かなりペースを落として生活することに、もしご本人が全く違和感や抵抗感がなければ、それは「こころの病」とは言えないことになります。

 「心身のエネルギーが低下すると、それまで周囲に認められていたような活動ができなくなる」=「自分は存在意義の根幹を喪失する」

という根源的恐怖こそ、鬱状態の「苦しさ」の本体だといってもいいのではないかと思います。

 あるいは、「がんばらなくていい」といわれて持て余す、時間をどう過ごしたらいいかという空虚感と焦燥感にこそ苦悩するのが鬱状態の人である。

 逆説的にいえば、人は「鬱」になったこと自体で二次的に鬱になることにこそ苦しむ。

 このようにクライエントさんが受け止める可能性への「想像力」を持ち、以前のように全力を出したいのに出せないことへのふがいなさ気持ちを十分過ぎるほどに汲んで、その上で、クライエントさんがいつの間にか無理をしていないかに目配りする姿勢こそが必要です。

 極論すれば、自分が多少は無理をしようとしてみないと、自分が現在それが「無理」だということには、その人なりに実感としては気がつけないという逆説がある気がします。クライエントさんに、ほんの少しだけacting outする自由を与え、ちょっとだけ無理をしてみる自由を保障することが必要だとすら言えるかと思います。

 これは「試行錯誤(try and error)の自由の保障」とも言えるでしょう。もとより、それを安全な形で許容できるには、すでに治療者とクライエントさんの信頼関係の《絆》が、『抱え』の構造を生み出している場合に限定されますが。

 その結果、

 「やっばり以前ほど踏ん張りが効きませんね。くやしいことですが」

といったことを正直に打ち明けても、

だから私の言ったとおりでしょ? 今のあなたには無理なのよ!!」

と、あきれるように、あるいは勝ち誇るように(と、敢えていいますね!)言葉を返してくるのではない対応をしてくれる、医者やカウンセラーでないと、信頼の絆は生まれないし、治療もはかどれない(たとえ薬物治療中心でも)筈です。

 単に「治療者に嫌われたくないからそうする」というのを超えた治療者との関係性が築かれていないことには、鬱的な状態にある人は、自分なりの節度をまきまえたライフスタイルにたどりつくことはないと私は考えます。

*****

2.別な観点からすると、実は、

鬱的な人に「自分が『無理をしている』『疲れている』と自覚する能力がない

というのは誤りなのです。

「無理をしていた筈なのに無理をしていたという実感がなかった
「疲れていた筈なのに疲れていたという実感がなかった

などという場合、実は、何の実感もなかったし、その時の「実感」を、、呼び起こせないということではないのですね。

 つまり、「無理をしていたはずなのに無理していると感じなかった」時の「独特の感じ」というのは、本人も実感可能なことが多いのです。

 「疲れていたはずなのに疲れを感じなかった」時の「独特の感じ」というのは、本人も実感可能なことが少なくないのです。

 それらは、ほんとうに「無理をしていない」時、「疲れていない時」の「実感」とは、別の「感触」や「感覚」であることを、本人が実はかなりの程度弁別できることを期待していい場合が、実はほとんどだと思います。

 「あの時は、普段よりも宿題が多くて、思わずピッチをあげてしまった。でも、数日後、疲れていた、無理をしていたのだと突然気がついたことがあった。でもそれをお医者さんには言わないままだった。そしたらその直後に学校を1週間休むしかなくなった」

などと通院中のクライエントさんが語る時、

「その、無理をしていると気がつかなかった時の、独特の自分のノリというか、気分、調子」というのがあったんじゃないですか。その時の感覚を今も少しだけ呼び覚ますことはできるかしら? 簡単に言葉にならないかもしれないけど、実感それ自体としては?

と尋ねると、少なからぬクライエントさんは、そのクライエントさんなりに「その『独特の』感覚」を、感覚そのものとして「思い出せる」のです。

「それなら、今後、『その』感覚が出た時点で、少し注意信号かな、と自覚できる(acknowledging)だけでも、すでに少しセーブが効き出していると思うから、大事にしたら?」

などと伝えると、

「そうですね。もう、あんなふうに、直後に寝込んでひどい思いはしたくありませんから。今度『ああいう』感じになったら、すぐにお医者さんに打ち明けます」

などと、あっさりと受け止めてもらえる場合があります。

 これは、サリヴァンが言い出し、中井久夫先生も強調する、「辺縁的身体感覚」の賦活というのと、基本的に共通のことだと思います。

 私が、フォーカシングで言う、言葉にならない曖昧な心身未分化の感覚それ自体としての「フェルトセンス」と重ねていることにお気づきのかたは少なくないかと思います。フォーカシング指向心理療法的な「認知行動療法」的アプローチとも言えます。

 結果的に、その人が悪循環に陥る際の認知と行動のパターン細かく振り返っていただき、そこに「ピンポイント的」な認知と行動の修正の「提案」をしていますから。 

 しかし、言葉で表現しにくい微弱な心身未分化な感覚それ自体その人固有の味わい="taste"を直接指標にできるという点では、より繊細なアプローチの可能性を開くともいえるかと思います。

 そして、認知行動療法において決定的なのは、クライエントさん自身が自分の内部感覚と認知と行動の連鎖の細やかな「観察者」になることへの内発的な興味と関心(=好奇心!!)を喚起できるかどうかにこそ成功のポイントがあると思います(行動療法の山上敏子先生の「暴露反応妨害法」ですら、ある意味でそうだと思いますが)。

 つまり。自分の日常の堂々巡りを生じさていた「感覚」→「認知」→行動」→「感覚」→.....という連鎖に、クライエントさん自身が更に探索し、気がつき、できるところからピンポイントで修正していく「ゲーム」の主体となることに興味と好奇心を持ち、その結果生活が円滑になり、ストレスも減り、以前よりも快適で、実は真の意味で「効率がよく」て(悪循環の無駄な繰り返しがなくなるから、実は時間もエネルギーも「浪費」されなくなるのである。休息の意味も生産的に自然ととらえられるようになる)、余裕感を感じられるようになる。

 そうした、生活そのものの中での「成功報酬」を得られ更なる動機付けとして、自発的に(オペラント!!)そうした自分の中の悪循環をち切る小さなステップを探していくことそのものが、ある意味で楽しくすらなった時こそ、認知行動的アプローチの真の成功のはずと思います。

(「治療者に褒められるから」、だけではまだ悪循環の火種がある。治療者が、それらがクライエントさんに「摂り入れ」られ、「内在化」されることだけを予定調和的に期待するだけでは、また落とし穴にはまると思います)

*****

 こうして、自分の「つらいはずなのにつらくない」「無理しているはずなのに無理をしていない」時の、その人なりの独特の曖昧な感覚自覚してもらい、クライエントさん自身がセルフコントロール上での指標とする状態が学習されていった時にこそ、いわゆる「鬱状態」の人は、自律性の回復という最大の課題を少しずつ消化できていく。

 カウンセラーは、それをサポートする存在でこそあるべきと思います。

*****

 なお、ここでいう「自律性の回復」とは、私と同じTFIの国際資格認定資格者(コーディネータ)である、九州大学の吉良安之先生の提唱された、最大の業績のひとつ、「『主体感覚』の賦括」というテーマにもつながるものだと思います

(ネット上では、吉良先生ご自身の「臨床経験にもとづく体験過程療法の再吟味」という論考が、日本フォーカシング協会のサイトで一般の皆様にも公開されています)。

blogram投票ボタン
ブログランキング・にほんブログ村へ
人気ブログランキングへ
携帯アクセス解析
ビジネスブログランキング
人気ブログランキングへ
にほんブログ村 
メンタルヘルスブログ 心理カウンセリングへ

2007/01/02

「オモテ」技法と「ウラ」技法 または収穫逓減の法則 (第5版)

 ある特定の流派の技法だけでどんなクライエントさん相手にも対応できるものではないと思う。

 また、あるタイプのクライエントさんにはこの技法がふさわしいということすら、一般に思われているほどには決定的でもないとも思う。

 同様に、同じクライエントさん相手に、毎回同じやり方で面接を繰り返すことも実はできないのだと思う。

 もし、これらにはまると,必ずといっていいほど、「収穫逓減の法則」に直面する気がする。一回あたりの面接の密度が下がり始めるのですね。

 もちろん、当初は、余計な力みが治療者側にあって、見かけの成果は一見大きいけど、それは結果的にクライエントさんにもいつの間にか、治療してもらうという「大仕事」において無理をさせている場合もあると思います。

 ですから、ある意味では、治療者から見ても「腹八分目」の対応が出来るくらいで、実は一番成果が安定してくる(治療の副作用が生じにくくなる)。

 しかし、ここで私がいいたい「収穫逓減の法則」とは、それとは似ていて異なる。

 むしろ、「成功例」に気をとられるばかりになって、いつの間にかセラピーのやり方が型にはまり、細やかな配慮を喪失して、機械的にルーティン・ワーク化した場合の弊害のことです。

 面接場面において、治療者側も、同じクライエントさんに毎回ごとに「ある新鮮さ」をもって接することが出来なくなるのはやはりひとつの危険信号ではないかと思うのですね。


*****


 もちろん、最低何かひとつの心理療法の技法について、厳密に理解し、しかも、その本質的エッセンスを、単に教科書的ではないパーソナルな次元で「掌握」できていることは大事だと思う。これは偉い先生の講義とかを漫然と聴いているだけでは決して生じないと思う。

 亡き恩師、村瀬孝雄が研究室でしばしば口にされていた言葉を借りれば、「著作と格闘する」努力を惜しまないということ「にも」あたる。

しかし、それだけに留まらないsomethingでもあると思う。


****


 「パーソナルな次元で掌握できる」とは何か。それは、私なりに定義をすれば、「その技法を自分自身に自分で適用して、明らかにそれまでの自分の長年の問題が変化して行くのをしみじみと実感できる」ということである。

 (もちろん、クライエントさんに適用する臨床経験の蓄積でも十分であろうが、例えば、身体障害者や発達障害者向けの技法や行動療法ですら、その技法を自分が受ける立場になってみて、その味わいにある手応えを感じたという経験がない人のことを、私は信頼できそうにない)

 そうなって来ると、次第に、別な流派の考え方やそのエッセンスについて、以前よりも開かれた耳を持ち、自分なりに納得できるように、少しずつなりはじめる気がする。以前は「字面」だけで「わかったつもりでいたことが、いかに浅薄であったかに気がつき始め、突如、「脈絡が読めて」来た感じがするのである。

 そういう経験を重ねるうちに、実は、各流派の現場の「達人」、いや、現場精神科医療の「達人」と言われる人たちがやっていることが、本質的な部分ではみな共通のエッセンスを持っているかのように感じられ始める。

 わかりやすい例でいうと、行動療法の山上敏子先生(2007年まで久留米大学文学部心理学科教授。2008年から福岡市・早良病院)の「暴露反応妨害法」が効果を上げるのは、先生の、クライエントさんへの、いわゆる「共感的理解」のセンスが半端ではないことと、クライエントさんとの「いい関係性」を維持する上での抜群のセンスによって支えられているから、というのは、先生の事例の紹介のライブに接した臨床家の間では,結構知られていることだろう。

 むしろ、行動療法内部での、「山上先生命!!」で技法を学んで来た人の事例発表の方が、何か面接過程がぎこちなくて、「共感的理解」と「関係作り」の点で物足りないと感じたことがある。

 逆に、まだ経験が浅くて、「とりあえず行動療法してみました」という人あたりの方が、行動療法としては荒削りでも、相手への共感と関係作りのセンスによってむしろクライエントさんとの関わりに好ましい展開が生じたのではないかと評価したくなることなど、学会やセミナーで経験したことがある。

 更にいうと、私が参加した場では、それらの発表者にコメントする山上先生のスタンスそのものが、まさしく「受容的・共感的」で、決して批判的な発言にはならないのにも、ちょっと驚かされた。

*****

 私は、いうまでもなく、フォーカシングを自分のベースラインにしているし、そのことを公言するし、私が少しでもカウンセリング業界で知られているとすれば、実際、「フォーカシングの先生」としてである。そして、自分の開業した、常設相談機関の名称に、日本ではじめて「フォーカシング」という言葉を含めた時点で、まさにエリクソンのいう意味での、臨床家としての「アイデンティティ」の確立は一定の段階に達したと言える。「自他共に認める」というのは、アイデンティティの重要な側面だからである。

*****

 ところが、そういう私は、現実には、面接現場でフォーカシングをクライエントさんに技法として学んでもらうことで成果をあげることの難しさに、誰よりも数多く直面して来たひとりではないかという思いもある。

 学生相談の常勤カウンセラーを務めた数年間で、守秘義務を守る範囲で、ご家族や教職員との連携や、コンサルテーション、大学の他部署や内部機関や外部機関との適切な「分業」と連携、カウンセラー間のチームプレー、相談業務を円滑化する事務的なシステムの重要性、組織全体、学生の皆さんへの広報活動、あるいは相談室運営についていかに意見を聞くかの意味など、いろいろ学ぶ中で、とても、面接室の中で「心理療法としてのカウンセリング」をするカウンセラーでござい、だけではやれない現実を身にしみて体験した。

 キャリアコンサルタントであり、ケースワーカーでもあり、プロデューサーであり、広報担当者でもあり、他の部署の大学職員の「同僚」であり、上司に「従う」存在であり、学内政治家でもあり、事務処理のコツもわきまえるということを、「現場カウンセラー」の分をまきまえつつも,少しずつは身につけないとやっていけないことに気がついた。

 .....その頃には一度体調を崩して、その職場を離れることになるのだが、「独立開業」という、全く別の条件の中で、実はこの頃の経験値がみんな,真の意味で生きているのである。何しろ、ひとりで、「組織としてのすべての機能」を果たす必要があるわけでして。こういう多様な経験値の「一身具現」は、大組織には不可能な、たいへんな「小回りの良さ」を効率的に発揮できることにも、殊に最近、気がついている。

*****

 そうした中で、「一般カウンセリングコース」において、「フォーカシングをこちらからお勧めすることはありません」と最初から宣言して開業するという、たいへんに逆説的な選択をした。

 面接場面の中で、フォーカシングし続けているのは、他ならぬカウンセラーとしての私というのが現場臨床としては適切というベースラインに立ったのである。

 私のフォーカシングに対する基本姿勢は、

「生涯一フォーカサー」

の一言に集約できる。

(南海の野村捕手兼監督ではないけれども....などという言い方からは、時代はあまりに遠くへ来てしまったが)

 私の人生における日々の出来事や、危機の解決にフォーカシングが役立つというベースラインを見失ったら、それは通常のカウンセリング場面での臨床家としてのセンスの伸びが止まるその時だと思い定めているのである。

******

 もとより、学会発表や講演等で接してみると、現場の実力が高いと感じられる臨床家の方は、結果的に、「フォーカシング的」と私にはかんじられる姿勢で面接の場全体を感じ、適切な応答や反応や提案をリアルタイムで吟味しているという点では、見かけのアプローチの違いや用語の違いを超えて、共通のエッセンスを感じる経験が、すでに私の中で蓄積されていた。

 私はそういう時に「それが自分の中でフォーカシングするということです」などとフロアから発言することは、たとえ知り合いだった座長に「フォーカシングの立場から見たらどうですか」などと振ってもらえても決してしない私は、学会で、自分の流派に引きつけるようなコメントの仕方をフロアから「自分で」するのも、なぜかすごく気が乗らないし、ほとんど嫌悪すらしているのである。

 まずは、その人の発表の趣旨に沿ったフレームワークの中で理解しようとした上で、何か釈然としない点について具体的に「追加説明」を求めていくというスタイルがフロアからの質問の作法として正しいと思っている。そのようにしていくと、その発表者の発表内容の問題点があるとすれば、おのずから浮かび上がり、会場全体でシェアできる議論になる筈である。


*****


 よくいわれる喩えだが、

「登山口は別々でも、結局同じ山の頂きに達する」

とは感じている。
 
 これは、最初から、何でも同じくらいにバランスよく学び、それらの中から自分に向いた技法を「選ぶ」とか、「場面場面で使い分ける」とか、「折衷」する、ということと似ていて、まるで違う、それはひとつの、その治療者における、「パーソナルな」統合に至る過程なのだと思う。ユングのいう意味での「個性化」とはまさにこのことであり、むしろその人の壮年期までの「灰汁(あく)の強さ」は次第になりを潜め、いわゆる「個性」がむしろ消えて行くかのようにすら見える現象である。

 厄介なのは、多くの心理療法流派の創始者は、今日に伝わる業績の、技法化として「一目を置かれる」部分を、たいてい人生の前半期に確立してしまっていて、それだけが教科書的に流布していることが多いということである。例えば、「フロイト個人に取って、フロイト個人のために」、精神分析はあのような「終わりなき分析」そのものの発展過程をとるしかなかった筈なのにである。

******

 ここでやっとこの記事のタイトルに引きつけられるまとめの言葉が書ける。

 私もそういう「個人的統合」の中途の段階にあるひとりに過ぎない。こうした段階では、自分が主たるオリエンテーション(拠って立つ基盤)にしている「オモテ技法」を「現場で支えて」いるのは、実はすでに、他の流派でもすでに言われ尽くしている個々の事柄の臨機応変な活用だったことに気がつくプロセスが、少しずつ具体的に実感できる形で進んで行くように思う。

 こうして、自分なりの「ウラ技法」体系が徐々に自覚されて行くのではないか。

 「オモテ技法」は、無数の,得てして治療者自身ですら部分的にしか自覚していない、無数の「ウラ技法」と表裏一体のものなのではないか。

 とりあえずの、仮説です。


人気ブログランキングへ
ビジネスブログランキング
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 心理カウンセリングへ

2006/09/27

私なりの減量のコツ(第2版)

 現在、栄養士さんの指導のもとに、ダイエットが本気で「進んでいる」こういちろうです。
 
 あくまでもそこから得られた私個人の教訓:

 A.ストレスがたまったままだと健康なダイエットの習慣はつかない。

.........ストレスたまったまま、ダイエットだけしようとすると、更にストレスが増すだけですので、その反動としての無茶食いは私もとまりませんでした。


 B.パンよりご飯

.........夜食や間食に思わずパン(ましてや菓子パン)を食べると、それだけでもの凄くカロリーと脂肪を摂取することになります。パンの制作には、食パンですらバターが欠かせないことをお忘れなく。

 パンに比較すれば、ご飯そのものは、カロリーがないも同然です。ですから、例えば夜に小腹がすくようなら、同じコンビニで夜食や間食買うにしても、おむすび(もちろん、マヨネーズや肉系のもの以外が具のもの)系のものは、たとえ2コ食べても、パン系より、腹にたまる感じがはるかに残りやすい点でも圧倒的に有利です。


 C.肉を食べるならお魚系のみにする

.............私、ハンバーガーすらここしばらく食べた記憶なしです。


 D.外食でおまけに一つ注文するのは「サラダ」にしてしまう習慣をつける

..............もちろんマヨネーズではない、しそやゆず系のドレッシングしか使わない。


 E.ペットボトル系を買うにしても、夜になったらお茶やコーヒー・紅茶などを決して飲まない

................夜6時以降は、ミネラルウォーター、せめてウーロン茶どまりに統一)。これは、寝入りをよくするコツです。いい眠りは、昼間のストレスを沈静化する最大の特効薬です。 

......実は、睡眠誘導剤がまるで効かない人が、実は夕方以降、この種の「カフェイン」を大量に飲んていたことが大きかった、という、わかってみれば「効果打ち消し当たり前」のことに自分で気がついて苦笑した、という話があります。

********

 私は、これらの生活で、4週間ごとに2キロというペースで全く無理なく「いつの間にか」体重落ち始めました。栄養士さんも驚く優等生ダイエット。煙草の本数まで減りだしてます。

「体質そのものが変わってきたのかもしれませんね」

と栄養士さんには言われました。

 昔好きだったチョコレートも、ほとんど食べなくなっている。

 (私のフェルトセンスが、店先で商品を見ると、「く、食いたくない!!!!)」と拒絶反応起こすのです。

 これはあくまでも私見ですが、今の世の中の「ダイエットサプリ」ブームや健康器具ブームって、結局何なのかな??? 焼け石に水のようなこと、していないかな????.......と、我ながら思うに至った次第。

 人間、身体が軽くなれば運動量増えます!!!

 そうなれば善玉コレステロールも増えます!!

****

 そういえば、私の栄養士さんは、まるで山上敏子先生の行動療法みたいに、

1.「その」クライエントさんのできそうなことから、
2.一ヶ月の『宿題』を、
3.ほんの1,2のポイントに限定して、
4.共同で探して

決める

というやり方なんですね。

 先述のE.なんて、「私が提案した」アイデアで、「栄養士さんの方が」、その後自分自身や、他の事例で参考にしている、とのこと。

いきなり

「一日3食!!」
「外食を減らせ」

とか全然言わない人。

私の食生活生活状況を丁寧に詳細に聴いた上で、

「今度は、パンをおむすびに代えてはどうでしょう?」

だけで、その新たな課題「のみ」実行後、に現実に2キロやせましたものね(^^)

*****

 ここに、流派を問わず、いいカウンセリングが進む場合と似た何かを感じます。

 面接とは、クライエントさんとの「共同作業」です

とか、

 「(クライエントさんと)一緒に考えていきましょう」

ということは、多くのカウンセリング教科書に出てきますが、まだまだその真意を納得しないままに、形だけ言葉にして使ってしまっているカウンセラーの皆様もおられるのではないかと、想像いたします(^^;)。

コメント・トラックバックについて

  • このブログのコメントやトラックは、スパム防止および個人情報保護の観点から認証制をとらせていただいております。これらの認証基準はかなり緩やかなものにしています。自分のブログの記事とどこかで関係あるとお感じでしたら、どうかお気軽にトラックバックください。ただし、単にアフリエイトリンク(成人向けサイトへのリンクがあると無条件で非承認)ばかりが目立つRSSリンク集のようなサイトの場合、そのポリシーにかなりの独自性が認められない場合にはお断りすることが多いことを、どうかご容赦ください。

最近のコメント

はてなブックマーク


最近のトラックバック

last.fm


フォーカシングの本1

フォーカシングの本2

フォト
2012年1月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ

banner

  • 携帯アクセス解析
  • Google Sitemaps用XML自動生成ツール
  • Firefox3 Meter
  • ブログランキング・にほんブログ村へ

ブログパーツたち

  • track feed カウンセラーこういちろうの雑記帳
  • アクセス状況
    アクセス解析

カテゴリー