京都

2009/10/09

秋の近況報告

 春日武彦氏の書評についての感想記事について、改版を重ねて練り込むことにかなりの労力を注ぎ込んだために、最近の私としては記事更新のペースが少し緩みましたが、毎日カタカタと「その日できる最善のことをする」ことで一日が終わるパターンは相変わらずです。

 日照りの夏が終わって秋が来ると、むしろ庭にいろいろと雑草がいつの間にか生い茂るものですが、台風接近の直前に一気に手入れをしました。とことん枯れるまで敢えて放置したひまわりの種もたくさん回収できましたので、来年は自前で、今年よりも密生したひまわり畑を庭に現出できそうです。

 台風そのものは、九州山地の向こう側の海の上しか通過しなかったので、福岡県では風もほとんど吹かない曇り空に小雨程度で推移しました。

091009_1025001_2  つばきの一種ではないかと思える花も庭に咲き始めました。

 そういう季節なのですね、もう。

*****

 「久留米でうつと働き方を語る会」立ち上げに関しては、参加ご希望の反応はまだこれからの段階ですが、会の発足をお知らせした福岡の諸先達の先生方から、暖かい励ましのお言葉を幾つもいただけましたことに、心から感謝申し上げております。

 福岡・佐賀の関係諸機関へのお知らせも現在進めている段階です。しかしご当地久留米に関してのこの種の活動を進めるとなると、常々親父が言う、「足を使わんと!」こそ、地域に根をおろすということだと心得ています。そうなると簡潔で見やすいチラシも制作し、あちこち直接顔を出してご面会して話をする手間を惜しんではならない。今からその作業に取り掛かるところです。

*****

 これも以前にお知らせしましたが、佐賀県教育センターの教育研修講座の一貫としての「フォーカシング」の講師をさせていただくまで、ちょうど一ヶ月となりました。

 佐賀県教育センターは、てっきり佐賀市の市街地にあるものと思い込んでいたのですが、広域市町村合併というのは、あなどれないもので、「佐賀市大和町」というのは、北山ダム川上峡温泉が現在では含まれていることに気がつきました。その川上峡温泉の温泉街のすぐそばに教育センターの敷地があるらしいのです。

 川上峡温泉は、小学校低学年時代に親に連れられて親戚一堂の懇親会(「いとこ会」というものが、総勢何十名もの参加で、つい先年まで何十年も機能していたのです。まさに映画「サマーウォーズ」の世界そのもの!)で参加し、その後、小学校卒業時に、当時の親友と、別々の中学に進学するお別れ記念にサイクリング(久留米から峠を越えて往復80キロ!)で訪問して以来です。

 川上峡温泉は、別名「九州の嵐山」とも呼ばれますが、この言葉には偽りがなく、貯水池も兼ねているためにゆったりと幅広く流れる嘉瀬川 の両岸には、木々が生い茂る、確かに嵐山と似た地形の土地になっているのは、サイクリングで地面を走ってたどり着いた、もう35年以上も前(!)の記憶に照合しても確かに言えることだと思います。

 妙に懐かしさがこみ上げると同時に、恐らく秋の紅葉シーズン真っ盛りの頃になるので、ちょっと楽しみな小旅行の気分にもなって来ました。

 もとより、平日に「公務出張」の形で佐賀県各地からおいでになる学校の先生方を対象とした研修会です。打ちあわせの際の、教育センターの職員の方の、実に細やかな心配りにも感激しました。

 施設の装備もしっかりしているようですので、ここはひとつ張り込んで、これを機会に、これまで不精して作ったことがなかった「フォーカシング入門研修」用のパワーポイントファイルを新作するモチベーションが高まっています。一度作ってしまえば、それをテンプレートにして、今後、月例の「久留米でフォーカシングを学ぶ会」ばかりではなく、今後の学会発表や、もしまだいずれから講師としてお声がかかった時にバリエーションを制作すればいいことになりますので、この際作ろうと思います。

*****

 こんな具合で、結構面接時間以外にやれることは次から次に生じてくる状態です。

 私が中学校時代に心の支えとしたカール・ヒルティ曰く、

「仕事の対象を分散させ、一度にでなく、少しずつ、代わる代わるにやるのがいい」

 やっと、バランスよく、しかも常に1割の余力を意識的に維持して燃え尽きないように用心しながらも、カタカタと日々のtaskにいそしめるライフスタイルをつかめてきているのかなとも思う。

「だから、あすのことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である」

(マタイによる福音書 6:34)

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2009/09/03

「カウンセラーこういちろうの雑記帳」の主要過去記事を一番簡単に一覧するには

 このブログって、すでに創設4年9ヶ月、過去のエントリー記事総数が、「この」記事で1,914本め、なのに一日あたりの新エントリー、平均1.10本以上を現在も維持、しかも長文が多いという、へヴィー級ブログです。

 おかげで、もはや@ニフティココログが割り振ってくれているサーバー負荷が相当なものになっているせいか、

  • 私の方からトラックバックを送ることがもはや機能しない
  • pingも自動では飛ばせない(その割には随分多くの読者の皆様が、新記事アップ直後においでいただけることを幸いだと感じています)
  • カテゴリーにすべての記事が反映しない(カテゴリーによっては300から400エントリー分表示されようとするわけで)

・・・・・という、新しくおいでいただいた読者泣かせのブログになっていると思います m(_ _;)m

****

 もちろん、バックナンバー全体を表示してくれる、『アーカイヴ』ページ(自身がココログユーザー以外の読者の皆様、お気づきでしたか??? 右フレームの「バックナンバー」という文字そのものをクリックするとたどり着けます)というものも、あるにはあるわけです。

 しかし、このページにお行きになっていただいたとしても、過去の個々のエントリー記事のタイトル一覧があるわけですらない

 このページからの「〇年〇月」を全部めくっていただくだけでも(全く休眠した数ヶ月を除いても、現在50か月分ほどあるわけですね(^^;)。その50ヶ月分、それぞれ月ごとに、毎月30から40エントリーずつはあるわけですから・・・・・

 つまり、私がこのサイトでこれまで書いてきた主要記事がどんなものか、新しい読者の皆さんにおおよその見当をつけていただくには、もうデタラメにご不便をおかけしていることと思います   il||li _| ̄|○ il||li

*****

 この問題を一気に解決し、

  • 新記事の方が上に来る形で、
  • 過去の記事に関しては私がある程度絞り込んでセレクトしたものを、
  • 数百記事ばかり、1ページをスクロールできる形で
  • ブログのような表示の重さがない形で一覧したいただける

そういうページが、実はずっと以前から存在します!!

●阿世賀浩一郎のホームページ/index

 開設1995年12月(つまりWindows95発売直後)開設、日本において、インターネットで個人サイトを作ることが本格的に普及し始めた黎明期から、何と基本的なデザインを変えないまま運営し続けているサイトです。

 かつては、ネットを代表するエヴァ・サイトのひとつ、「エヴァンゲリオン論考」で著名だった時代もありますけど、幸いにして著作化させてもいただきましたので、そのコーナーは全面削除いたしておりますが(「ちーちゃんの部屋」というアニメコーナーがかつて存在したことを覚えておられる方もあると嬉しかったりして ^^;)・・・・

そのトップページから、このブログでの新エントリー記事を書く度ごとに、固定リンクへのリンクを、たいてい速攻の連続作業でお貼りしてもいるのです。

 恐らく、皆様のRSSリーダーに反映するスピードの比ではない「即時性」で「新着情報」が掲載され続けています。

 同一エントリー記事の更新(改版)情報すら、可能な限り早くお伝えしています。

 

そこに並んでいる、当ブログ個別記事へのリンク数は、常時数百あるはずです(古いものから時々、精選のための「ダイエット」をかけますので、一定数以上には増えません)。

 しかし、敢えて今でも、基本的には「素朴なhtml言語の手打ち」に依存し、javaスクリプトすらないに等しいということで、このトップページそのもののバイト数の多さの割には、表示が圧倒的に軽い筈です(このブログのトップページを表示するよりは軽いと思いますよ)

 
当方のアクセス解析によって、「こっちのページで新着情報見つけるほうが手っ取り早い」ことにお気づきの、毎日数名以上の固定ユーザーの方がおられることは掌握しています(感謝!!)。

 しかし、そうした方の占める比率が以前よりもかなり減っているようにも思いましたので、改めてご紹介させていただきました。

 

今後とも、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」をよろしくお願い申し上げます。

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2009/09/01

解けた魔法

 街には街固有の風景の空気があります。

 同じ東京近辺でも、東京駅近辺と、新宿と、渋谷と、上野、あるいは横浜とでは、全然町並みの「雰囲気」が異なりますよね。

 まして、東京に住んでいる人が、例えば名古屋、京都、大阪、仙台、札幌の駅前に降り立って、相互比較しただけでも、そうした、街の雰囲気のテイストの違いは、肌にひしひしと伝わるものではないかと思います。

 大学入学時に上京して、その後時々久留米に帰省するようになって以来、私は福岡や久留米の町並みが醸し出す、東京は異なる町の「空気」に、もはや「違和感」のようなものしか感じられなくなることに苦しんできたのです。

 「故郷」のはずなんだけど、懐かしいというより、もう、嫌になってしまったんですよ。

 福岡っていうのは、昔から東京への憧れと「上京指向」が格別に強い土地柄です。古くは井上陽水、近年では松田聖子や浜崎あゆみ(最近の「某事件」の人もですが)に代表されるように、非常に多くのミュージシャンや芸能人・俳優が福岡出身ですし、自民党をはじめとする過去の大物政治家で、福岡出身や、何らかの意味で近い血縁者が福岡という人(麻生さんや鳩山邦夫さんだってそうだ。鳩山邦夫は私の選挙区)の人が占める比率も驚くべきものがあります。

 そのせいか、日本の大都市の中では、実は東京をもろに「模倣しよう」という傾向が、福岡市には特に強い気がします。私見では、東京に首都を持っていかれた京都はいうまでもなく、大阪や名古屋に比べても、東京への「対抗意識」みたいな形で、独自の街イメージをデザインしようという意識そのものが、福岡市には基本的に欠落している気がする。

 (もっとも、天神地下街の空間デザインの醸し出す、白い蛍光灯を全面排除したシックな空間の独創性だけは、1976年、つまり何と33年前に作られて以来、基本的に変更なしを貫いているのに、現在も全く古びることはない、日本に誇る都市空間デザインの傑作と思いますので、福岡においでの若い皆様、キャナルシティ(「カナルシティ」と発音する人も多い)にばかり目を奪われすに、地下鉄で博多から天神まで出て来て、必ず街ブラ楽しんでくださいね。キャナルシティの方が、まだとこにもありがちな光景に近く、すぐに歴史的に古びるデザインに過ぎない私は思う)。

 例えば、福岡の中心である西鉄福岡天神駅前に降り立って、道路を天神コア側に渡って駅側を振り返ってみると、そこに見えてくる、まるで城壁のように立ち並ぶ駅前のビル群の光景は、例えば、西武デパートなどのビル群が立ち並ぶ、池袋東口の光景を一瞬思い出させるようなところがあります。

Fukuokatenjinekimae

 そもそも福岡のベイエリアの風景なんて、ホントにびっくりするほど、「お台場」の模倣そのものなんですよ。このページの下の方に載せた写真だけで明白でしょ? ここまでくると恥も外聞もないといいたくなるくらいに。もっともお台場には「ドーム球場」はありませんけどね(^^;)

 でも、やはり「福岡市」には「福岡市」固有の町並みのにおいがあり、「居心地」的に東京の代用にはならない。ましてや、人口30万以上で福岡県南部地域では最大都市(九州全体でも、いくつかの県庁所在地を抜き去り第8位)の久留米の光景なんて・・・・東京の街に類似の光景を探すのは、ちょっと難しいのです。

 私は、福岡や久留米に戻るたびに、すでにここが自分の「居場所」感覚を抱ける街ではなく、「異郷」のようにしか感じ得ず、安らげる都市ではなくなっていることに、この30年間苦しみ続けていました。

 ところが、ほんとうに不思議なことなのですが、おとといの晩に福岡空港に降り立った時から、何かがすべて変わってしまったのですね。

 福岡空港は、日本を代表する大空港のひとつとはいえ、そりゃ、羽田に比べれば小さいのは当然です。ところが、到着ロビーを歩き、空港発の久留米行き高速バスを待ち合わせていた時から、

「なーんだ、ここって、東京と似たり寄ったりの、東京の「すぐそばの」街に過ぎないじゃん!!」

という感覚が始まったのです。こんなの、これまで一度も感じたことがない感覚でした。

 それが、高速バスが、深夜の西鉄久留米の駅・・・・そりゃ、新宿あたりの深夜0時でも続く大ラッシュの光景からすれば人通りは「ないも同然」・・・に降り立っても変化なし。

「西鉄久留米駅だって、新宿駅のすぐそばにある、新宿と直結した町並みなのだよ」

Nishitetsukurumenishiguchi16

 翌日、(つまり、こっちの記事本文を深夜に書いた昨日の昼になってからですね)、私用で久留米市街地をあちこち歩いて回ったんですが、そうやって昼間の街の光景を味わっても、

「そうなの。ここは新宿とも八王子ともしっかりつながっている、『私の町』という点では同じなんだよ」

 ・・・・・・ついに、30年間、私がかかっていた「魔法」が解けてしまったのです。

 私の心をがんじがらめに縛り続けていた魔法。
 「関東にしか今後の人生はない」という魔法。

 「日本のどこだって日本であることには変わりないし、私のふるさとである」
 「どこでどうやっていくにしても、直面する困難と、果たすべき役割なんて似たようなものさ」

(少なくとも、久留米のような、百万都市まで30分圏内(あと2年で新幹線開通後はわずか12分!)の人口30万の都市に生きている限りは)

 「この」感覚・・・・今後解けることは、もうありえない・・・・そんな気がします。

(この記事、こちらの記事への私のコメントからの繰上げ再掲載です)

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2009/04/25

久留米市寺町界隈のつつじ、そして高山彦九郎の生涯

 久留米の旬のつつじシリーズ第3弾です(実は前の回の写真もすでに増えてますよ)。

 今回は、今朝散歩してきた、久留米市寺町界隈です。私の家から徒歩5分ぐらい。

 この土地には、江戸時代から、城下町のお寺さんが集められていました。そういう古くからの風情が比較的残っていて、この季節から秋にかけての週末には、結構ハイカーの人たちで賑わいます。

 西鉄久留米駅西口から北上、蛍川通りとクロスする交差点から、今回の写真集を始めましょう(次第に私の家に近づく方向になります):


大きな地図で見る

 まずは、蛍川通りとの交差点から寺町通りにほんの少し入ったところにある、何ともさりげない、中華チマキと肉まんのお店、知味斉をご紹介。

K3100097
 ご覧のように、何ともささやかな間口と面積の店舗なんですが、土曜日の朝9時半の段階で、お客さんこそ私一人でしたが、お店の中では次々とせいろでチマキや豚まんを蒸していく活気が感じられ、昼ごろにはかなりのお客さんが立ち寄られるのだろうなというのが伝わりました。

 「知味斉(ちみさい)」という名のお店は、実は中華家のお店としては全国に散在しています。ある意味では中華系ではありがちな名前に属するみたい。「知味」という字を書く大きなチェーンもありますが、ここでご紹介するのは、久留米ラーメンの老舗、西鉄花畑駅近くにあった同名の店に由来する、全国にも名前が知れ渡り、遠方からおいでの方も多い(ウェブサイトの掲示板をご覧になるとわかります)、知る人ぞ知る老舗です。

Chimisaimap2お店のチラシ

 私は10年近く横浜近郊に住んでいましたので、中華街の肉まんの名店はいくつか知っていますが、そういう場所のに比べると、肉まんはややあっさりめ、そう、ベトナム料理の生春巻きをどこか連想させるあっさり感がある気がします。西鉄久留米駅から徒歩5分でたどり着けますが、時間がない方は十分に場所の下調べをしておいてください。東西を走る蛍川通りから来る人にも目に入りやすいのぼりを立てていますので、そののばり目印にするといいかもしれませんね。

 ちなみに「売り切れ御免」のお店ですので、その点もご注意ください。


*****


K3100114
↑この店の辺りから北に向けての、両側にお寺が軒を並べる、あまり広くはない通りが寺町です。

K3100098
 週末、土曜日の朝ということもあってか、通りにこうしたのぼりを次々に立てていく、町内会有志の皆様(?)がおられました。


*****


 さて、そうやっていくつかのお寺を左右に見ながら北上していくと、徒歩2,3分で、久留米を代表する寺院のひとつ、庭園で有名な遍照院にたどり着きます。

●遍照院(㈱サンセレモ 寺社探索)

K3100099

 1622年の開山だから、筑後国久留米藩21万石の城下町でも、江戸時代初期、大坂の陣で戦功があった藩祖有馬豊氏が丹波国福知山から転封されて来て2年後に遡り得る古いお寺に属するが、このお寺を有名にしているのは、「寛政の三奇人」のひとりといわれた高山彦九郎の墓(国指定史跡)があるからである。

 高山彦九郎といっても、かなりの日本史ファンでも今では思い浮かばないかもしれない。しかし、京都の京阪三条駅前=三条大橋のたもとで土下座のようなことをしている銅像」がその人、とまで説明すると、思い出してくださる人も結構あるかな?

Takayama_hikokuro_statue
↑この銅像を、京都観光の際に観た人は結構多いと思います(^^)

 戦前の国定教科書では、吉田松陰の先駆者、つまり、ペリー来航よりかなり以前、外国船が日本沿海にそこそこ出没しはじめたばかりの頃の、尊王・謹王運動の初期、日本中を説いて回った「伝道者」のような存在として、この三条大橋からの皇居望拝のエピソードが描かれ、戦争終結までの数十年に関しては、日本でこの名前を知らない人は珍しかったくらいの「偉人」あつかいだったとのこと。

●頼山陽 高山彥九郎傳現代語訳(日本漢文の世界)

 しかし、次第にそうした活動に、この段階では朝廷をあくまでも幕府の管理下に置こうとしていた、未だ強大な幕府からの締め付けが加わるようになり、久留米の地に生涯3回目に立ち寄った際に、自刃して果てた。

K3100113
↑私が幼稚園の頃から、通園途中にその前を通り過ぎる際に、言い様のない怖さがふと兆す瞬間があった、市指定史跡「高山彦九郎終焉の地」(遍照院から北東400m)の写真。

 彦九郎がその終焉の地を久留米に選んだのは、その頃の久留米には、少し時代を下ると、水天宮総本宮の神官にして、京都蛤御門の変の長州藩の実質的総大将になった真木和泉守など、その後の尊王の志士の重要な活動舞台となるだけの土壌があったことと関連することだけは間違いない。時の有馬家藩主が将軍から嫁を迎えるという事態がなかったならば、久留米は薩長土肥と並ぶ倒幕と明治維新の「5番目の」立役者になったことはほぼ間違いないと歴史家は語る。

 彼は一種の扇動的デマゴーグだったともいえる。幼少時から周囲からのひどい扱いに耐え忍び、「太平記」を読んで感銘を受け、勤皇の遊説士となったいきさつには、周囲に流されずに孤高と保ち、彼なりの理想に生きる、強烈な分裂気質パーソナリティを感じさせる。

 頼山陽が書き残したように、大名をはじめとする自分よりも身分が上の者にも、礼節を貫きつつも媚びへつらわず、一度心を許した知り合いには心を開き、深く交わる対人関係様式、更には、どうして突如自分の腹に刀を突き立てたのか、イマイチ理解不能な振る舞いなども、分裂気質パーソナリティの特性を見事に描き出している生々しさがある。

 頼山陽の父は江戸や京都・大阪のあちこちで繰り返して彦九郎の遊説活動に接し、頼山陽は幼少時に繰り返し父からその時の体験談を聞かされていたということなので、彼の証言は、伝記としては、伝承に塗(まみ)れる以前の「リアル彦九郎」のプレゼンス(存在感)を、実に生き生きと伝えた、準一級史料といえると思われます。

K3100102
↑これが明治になって立てられた、境内の銅像です。

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↑建物の奥の真ん中に小さく見えるのがお墓です。

 さて、ここに付属している庭園は、実際には戦後に整備されたもの。

K3100100
↑案内板

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K3100109

 百年公園の品種よりも、少し渋めの花の色なのも、歴史のなせる技でしょう(^^)


*****


K3100110_3
 ↑自宅近くまで帰り着いた時に見つけた、石垣の間に慎ましやかに咲いていた、いかにも野生のすみれの花。

 何か、私のカウンセリングルームのポリシーを象徴してくれるようなので、公式サイトのトップページの下段にも掲示することにしました(^^)


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2007/08/04

安倍さん続投が決まるまで?

●参院選:消えた「福田暫定内閣」構想 3氏会談の内幕(msn=maichi)

 この種の記事って、情報源が明かされていないけど、ほんとうに確かな情報なら、この3人の中の誰かが取材に応じたかリークしたということになる(f ^^;)

 想定記事だとしても、リアルだと思う。

 しかし、いずれにしても、不信任案可決か内閣総辞職か衆議院解散総選挙にまではなることを暗黙の前提にしているわけで。

 自民党幹部までそのつもりでいるとすれば、ホントにこの秋のうちに解散総選挙となるのかもしれない。

******

 2年前の秋だったか、先ごろ1年の闘病の末に亡くなった河合隼雄先生が、京都での心理臨床学会の大事な催しの日に、文化庁長官として小泉首相に急遽呼び出された翌日が解散。が決まった後、参加者の少なからぬ部分は、「解散することを伝えられるために呼び出されたのか」と当然のように理解していましたっけ。

 それ以前の学会でも、河合先生が急遽永田町に呼び出されて学会会場へとトンボ帰りするハードスケジュールをこなされることは時々ありました。

 こんなふうだったから、お亡くなりになったことに「ほんとうに、お疲れ様でした」としか言いようがなくなるのですが。

2007/07/19

河合隼雄先生ご逝去

訃報:河合隼雄さん死去79歳 元文化庁長官(msn=毎日)

 脳梗塞でお倒れになったまま意識が戻らないでいることは、近い立場におられる先生からもつい先日うかがっていたのです。

 日本の心理臨床を広める上でのかけがえのないご活躍と業績に、改めて感謝申し上げます。

 天国で佐治先生や、我が師、村瀬孝雄先生と、これからじっくりと旧交を暖めていただきながら、まだまだおぼつかない私たちを、これからもずっと見守っていただければと思います。

2007/03/25

「訊き上手」の勧め -会話下手で困っている人のための、プロカウンセラーのテクニック公開!!-

 学生相談をしていた頃、よく、「周囲の話す話題の輪に入れない」という相談を受けたものである。

 男なら野球やサッカー、女優やタレント、女性だと、ファッションや恋や男性タレントや男優の話とかに、自分は興味も関心もなかったし、今の音楽でどんなのが流行ってるかもよく知らないし、車の話もわかんないし.....というわけである。

 私にしても、親が自家用車のユーザーでなくて私も免許を持っていないせいもあるが、極論すれば、「『あの』マークがついてたらベンツ」「昔のフォルクスワーゲンなら形でわかる」....以上、終わりである。

 ちなみに、私はまだ「エビちゃん」なるもの(蛯原 友里)の動く映像をテレビで観てないとおもう(^^;)

 ちなみに、はっきりいいますけど、(みゆきやユーミンとか、上の世代は「殿堂入り」として)浜崎あゆみと大塚愛とELTと宇多田ヒカルを除いてしまうと、私は今のJ-POPシーンに「全く無知」である。chemistryやゆずの曲すら一曲もidentifyできないし、椎名林檎は「りんごの歌」しか聴いたことがない。矢井田瞳「は」、一枚聴いたことある。島谷ひとみのベスト盤は「持ってる」。要するにBoAや倖田未來すら、耳に入ったことはあるが、恐らく「一曲も」identifyできない。あとはすべて大晦日の紅白歌合戦とその後のMTVCDと、年に一度のa-nationのDVDで「一年まとめて掌握している」だけである(avexに異様に偏ってるけど、それでもこんな調子なのだ)。今度、YUI「という人」のを聴いてみるつもりなのだが。

 これが、クラシックとなると、はっきりいってこの10年新譜をほとんど全く買ってないので、今のアーティストの動向には無知そのものだが、古くはグレゴリオ聖歌やヒルデガルド・フォン・ビンゲンから、少なくともブーレーズやベリオや武満ぐらいまでは(一部民族音楽を含めて)「まんべんなく」守備範囲にしている。基本的に「きらいな作曲家」「きらいなジャンル(管弦楽、室内楽、独奏とか)」というものはありません、みんなそれなりの持ち味で楽しめます、といえるくらいに。言葉の障壁から、歌曲と歌劇はやや手薄です、というくらい。10年以上前にとっくに輸入盤中心にCD1000枚を超えていたわけでして。

 私はクラシック音楽と心理療法と世界史と洋画(そしてかつてのアニメ)を除けば、実は自分の関心を巧妙に「狭く深く」に追い込み、わき目をふらなくていいようにするタイプである。

 確か、浜崎あゆみも、基本的には本来特別な音楽好きでは「なかった」し、実は他の人の音楽を驚くほどに限定してしか聴いていないと、何かで読んだような気がする。Madonnaや、日本で言えば、レベッカ(Rebecca)とかは、確かにある程度早くから意識していたと思うけれども(avex以前のオーディションの時に"moon"を歌ったそうで、これは妙に納得。レベッカは私も以前からLD(!)やアルバムの大半持ってますし、iPod入ってますよん。....まあ、レベッカそのものが、"Love is Cach!"は"Material Girl"のパクリでないかいというくらいにMadonna意識していたと思うけど。....レベッカのライブ記録とかと比較すると、ayuのライブの歌やバンド演奏やダンスが、もはや比較にならない高水準が「当たり前」になったことを痛切に感じますが)


*****


 話が大幅に横道にそれかかった(^^;)。

 このように、いざとなると話すネタだけなら無尽蔵に出てくる私が保証するが、友達の輪の中に入って「話に入っていけない」原因は、ほとんどの場合、「話題についていけるかどうか」とは無関係なのではないかとは断言したい。

 バブルがはじける前に二十代を送った私の世代は、「クライ」「明るい」二分法が、いまからは想像がつかないくらいに猛威をふるっていた。「中島みゆきのファンである」ということは公言するのもはばかられると感じていた人が実際たくさんいたのである。オタクネタを口にするのはかなりの蛮勇が必要だった。

 だが、今や宇多田ヒカルのゲーム好きはみんな知ってて、若いメジャーな女性タレントが、コスプレチックなことをあまり恥ずかしがることもなく、ひとつの趣向としてやれてしまうわけで、その点では、20年前がウソのような状況が実現している。そういう意味では、関心や話題の「ボーダーレス化」が進んでいて、私は若い世代がうらやましいくらいである。

 問題は、「話題の内容」ではない。自分の側の話せる話題など豊富でなくてもいい。

 決定的なのは、「聞き上手」であるかどうかである。


*****


  しかも、
  ここでいう

  「聞き上手」

  とは、
  必ずしも

  「聴き上手」

  のことではない。

  「訊(き)き上手」

  でありさえすればいいのである。


 カウンセラーは「傾聴(Lintenning)」について専門的に学ぶ。

 しかし、現実の日常会話では、実は、「聴く」力と同じくらいに「訊く」センスがものを言う。


 実はこの点を、カウンセラーももう少しふりかえるべきではないかと私は考えている。

 「カウンセラーの先生に話をしても、『ウン、ウン』ときいてくるばかりで、何も言ってくれないんです」

とよくいわれるし、
多くの場合、それは、

 「具体的アドバイスをしてくれない」

という意味に受け止められているけれども、実は、

「カウンセラーは何も『訊いて』くれない」

という点にこそ、核心がある場合が多いのではないかという気がする。

******

 ここでいう、『訊く』とはどういうことか?

 「質問する」「尋ねる」「問いかける」="asking"と言い変えるだけでは、うまく言い尽くせない。

 手元の「広辞苑」には「たずねること、問いただすこと」としか、実際、出ていないのだが。


 例えば、

 「母には、そのことを嫌がられている気がしてならないんです」

という話が進行していたとします。

 「お母さんには嫌がられているんじゃないか......というと?」

と水を向けて、しばらく「聴いて」いても、

 「だって、私は、○○だし、△△だし.....」

という話は繰り広げられても、お母さんに「実際に」どう言われたかの「具体例」に決して話が広がらないとしますね。

 こういう時、話の聴き手は、「現実のところ」どう言われたのか、についての関心をはっきり意識的に伝えることによって、単に話を「聴いて」いる状態よりもさりげなく半歩踏み込んでもいいのだと思います。

 「例えばどんなこと言われたの?」

でもいいんですね。

 すると、実は「お母さんがそのことを嫌がっている」というその人の思いこみが大きくて、実際にはそのことについて拒否された体験があるわけではない、ということが、二人に見えてくる場合もあるでしょう。

 あるいは、実際にどんなふうに言われたかまで話してもらって、はじめて相手の話が、自分が予想していたのとは別の次元での、親との対立なのだということが、いきいきと伝わってきて、

 例えば、軽率に、

 「おかあさんの言うことなんて、気にし過ぎないで、無視、無視、やりたいようにやってしまったら?」

とか、アドバイスして済ませなくて良かった!! ということなど、よくあることでしょう。


 時には、どうアドバイスしたらいいかわからなくなるかもしれない。

 そういう時には、ただ黙り込んでしまうぐらいなら

 「たいへんだね」

 「難しい問題だね」

 「凄いお母さんだね」

などと、ともかく言葉にしてしまう方が、ただ相づちを打つよりはよほど「具体的な」応答だと思います。

 そういうことを、心の中で思っているだけではなくて、実際に相手に言葉にしてしまうことです。
 それだけで、話の「間が持つ」し、相手に、自分のことに関心を持ってくれているという「絆」感が生じる。....いや、あなた自身に、その人と「関わっている」という「手応え」が生じる筈です。

*****

 かといって、私は、面接初回に、機械的な形で、いわゆる「生育歴」「既往歴」「相談歴」などを訊いてしまうあり方には違和感があります。

 「生育歴はどうなっているのですか?」

 ......なつかしい思い出なんですが、ロジャーズ派の佐治先生の薫陶が深かった東大の心理教育相談室に在籍していた当時、年に一度、「五大学」と通称された、東京・名古屋・京都・広島・九州の5大学の教育学部心理教育相談室合同の、合宿形式の事例検討会が、5大学持ち回りで2泊3日で開かれていました。大学院研究生だった私はその催しに3年連続参加させていただいたのですが、その際に、東大の相談室員の事例発表に対して、他の4大学の相談室員から、「実に頻繁に」ぶつけられていたのがこの問いかけでした。

 つまり、当時の東大のカウンセリングの伝統には、「生育歴・来談までの経過」を面接初回にクライエントトさんからひと渡り「訊いて」しまうという「文化」そのものがなかった!! これは、他の4大学の院生の「常識」を覆す事態だったようです。

 「治療目標とは何ですか?」

この問いに困ってしまうのも、東大組でした(^^)

 まあ、面接がどこまでたどりついたら終結かなんていうのを早い段階で設定してしまえるなんてウソで、当初の相談内容が、クライエントさんもカウンセラーも予想もしない方向に展開してこそほんとうのカウンセリング的相互作用だと、私は今でも信じて疑いませんけどね。

 もちろん、その段階その段階で、治療者が「見立て」についての「仮説」を立てること、それに応じて「見通し」についての「仮説」を持っていることは大事でしょう。しかし、それは何回も何回も手直しされ、変化していくのがむしろ自然ですらあるということです。

 それはそうと、私も、今も、生育歴・家族構成・来談までの経過を、カウンセリングの開始の回に「機械的に」訊いていくことは避ける姿勢を保っています。

 面接一回目で、話を自然に聴いていれば、いつの間にかそうした情報のかなりの部分が「自然と」クライエントさんから話してもらっている、という流れになれるのが本来の姿です。

 面接初回は、クライエントさんに最初提示された相談内容にとらわれがちで、ベテランにならないとそうはできないといわれそうですが、今の私の考えでは、カウンセラーが、先ほど述べていた、一般の人の日常会話において全く自然に機能するはずの「訊く能力」をタイミング良く発揮すれば、それほどキャリアを積まないうちにでも、できるひとには十分できるはずという気がしてきました。

 そして、そうした「話しそうで話さないままの」話を、その後の面接の、どういう脈絡で、どういうふうにクライエントさんが話し始めるか、ということそのものが、まさにクライエントさん固有のあり方の本質が伝わって来る、絶好の機会なのだと思っています。

 例えば、「学校を中退した」という経歴が語られているのに、その理由についてクライエントさん自身が自分からは話さなかった場合には、私は焦って「どうして辞めたの」とは訊かないことも多いです。心の片隅にはそのことを置いておきます。

 面接の流れの中で、クライエントさんの方から自然と語られるかもしれないし、カウンセラーとしての私が「なぜ中退したか」を是非訊いてみたくなるタイミングが必ず来るとあっさり信じています。

 そういう「旬」の瞬間にクライエントさんに「訊いてみる」と、場合によっては、面接の展開の上で、クライエントさんにとっても、カウンセラーとしての私にとっても、新鮮で意外な発見となる、予想外の形での、問題の更に核心についての発見を、自然と二人で共有できることが多いようです。


*****


 「あなた、ご実家が経営的にたいへんだといつも話してくれてたけど、具体的に、どんな仕事なさってるの?」

 日常の対人関係でも、いきなり相手の個人的事情を根掘り葉掘り「訊き」すぎるのもどうかと思いますけど、あまり相手の個人的事情を詮索して嫌がられたくないという思いからの「抑制」が効き過ぎているのが現代の対人関係という気もします。


「ね、ね、彼のお母さん、働いてるって言ってたけど、何して働いてるの?」

「え?........私も、そこまで彼に訊(き)いたことないんだけど.......」

2006/11/30

親鸞の「歎異抄」の精神とパーソン・センタード・アプローチ(第6版)

 私は実際に浄土真宗の家に生まれていますけど、親鸞については、ほんとうに日本史の教科書的な記述以上のことはほとんど何も知らなかったんです。「他力本願」「悪人正機説」、僧の妻帯を認めた、一向一揆と、その後の本願寺の権力者による抑圧、ぐらいのことで。

 この前も書きましたが、11月はじめのの人間性心理学会大会で、池見先生とアンの「対談」を聞く中で、突如私の中で、シフトが生じ、

> 「ジェンドリンは、『フォーカシング』の中で、
>
> ぴったりなコトバがなかなか浮かび上がってこないようなフェルトセンスが生じてきたら、それはむしろ歓迎されるべきである
>
> というようなことを述べていた。
>
> そういう時に、焦ることなく、
> 心の中のスペースを大事にして、
>  新鮮な『言葉』が
>  おのずから立ち現れてくるのを
>  じっくりと待てるということは、
>
>  新たな『状況』が、
>  おのずから生じてくるのを
>  じっくりと待てることと同じことだと思う」

......と、自分でも、口にしてからびっくりするような、思いよらないことを口にしていたその数時間後、今度は、シンポジウムで、シンポジストとのひとりの山折哲雄先生がいわれたことで、不思議と気に入った(実は、この言葉を聴いた瞬間に居眠りから醒めたのであった....)のが、その時点では出典すら記憶になくてメモにも取らなかった、

「彌陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」

という言葉のうろ覚えが私の中でなぜか響きあい、実際にネットで「歎異抄」を調べ始めて、実際に原文を読み通してみて、いよいよ興味深くなったという順序なんですね。

*****

 「歎異抄」という著作そのものは、実は親鸞自身ののものではありません。唯円という僧が、若い時代に関東からはるばる京都の親鸞のもとを学友と訪ねた時に歓迎され、滞在時に伝え聞いた話ををまとめたものである。

 書かれたのは、親鸞唯一の直弟子となった、親鸞の入滅後30年、唯円自身が亡くなる前、1年以内とされる。

 後述する梅原氏の説によれば、恐らく、第3門主に覚如(親鸞の曾孫にあたる)が就く際に、再び京都に赴き、彼に親鸞の真意を伝えることによって教えが風化しないことを祈って事前に書き留めた上で講釈したのではないかと推理している。本来「ただひとりの人間」にのみ伝えるつもりの「秘伝」だったらしい。

 親鸞自身は、実は師の法然の忠実な継承者に過ぎないと思っていた。法然も親鸞も天台宗の総本山、比叡山で修行を積んだ。学問や厳しい修行がなくても、「南無阿弥陀仏」と唱えれば、「誰でも」浄土に行けるという思想そのものは法然が既に確立したものである。法然自身が叡山で危険視されたが、あまりの博識と、僧としての持戒の深さ(伝統的に僧が犯してはならないとされる戒めをきちんと守ることの潔癖さ)のために一目置かざるを得なかったようである。

 もとより、法然の時点では、「悪人も」「肉食妻帯者も」、念仏さえ唱えれば浄土に行けるという教えだったのだが、親鸞に至り、僧の肉食妻帯を「公然と」認めた(「非公然に」ならば、実際にはなされることが多かったのは、そもそも天台の始祖、最澄自らが歎いていた現実だった。天台宗そのそのものが、最初は既成仏教への改革運動そのものだったのである)。親鸞は、それどころか、「悪人の方が浄土に近い」という大逆説まで公然と唱えるようになっていくこととなる。

 若い頃は、法然の兄弟子たちの間すら「無学な過激派」とみられていたが、法然自身は弟子たちの集まった前で、「親鸞の念仏は自分の念仏と同じ信心である」と、親鸞が若い頃にすでに公式に発言したという。
 
 宮中の侍女たちとの弟子たちのゴシップを体のいい理由づけにされて、弟子4人は死罪、法然と親鸞は遠隔地に流罪となっている。法然はすぐに京都に戻ったが、親鸞は福井に俗人として長期間滞在し、妻子を設ける。
 
 そして次に歴史の舞台に現れた時は、常陸の国を中心とする関東で長期間布教活動をして、中年期を過ぎてやっと京都に戻る。もっとも、知り合いのところをあちこち点々とするという、地味な暮らしぶりだったらしいが,何と90近くまで生きることになる。

 その頃には、親鸞の弟子や「また弟子」たちが、各地で勝手に親鸞の教えを広め、お互いに誰が真の弟子かを競い合う混乱状態が生じていた。しかも、妻帯を公然と認めたものだから、必然的に宗主は、子孫や親族たちの後継者争いになり、それはそれぞれが当時の有力諸候と癒着した生臭いものになる。(親鸞自身は、まさに「異説を広めた帳本人」として長男を廃嫡するしかなかった)。

 それは、時代を下るにつれて、時の権力者をも脅かす政治勢力としての性格を強めるしかなくなった。「浄土真宗」と「浄土宗」の分化は完全に歴史の産物なのである。親鸞自身が独立した宗主を自認する発言は全くしていない。親鸞の墓所が正式に本願寺として成立するまで数代、本願寺が独立宗派の総本山と自他共に幅広く認められる存在になるのは、革命的布教者で、かの「石山本願寺」を建てた8代めの蓮如の代である。この連如ですら一度は焼き討ちにあい,各地を転々としている。「本願寺」そのものが、数回場所を変えて建立されるしかなかった。秀吉に京都に本願寺を移すように命じられ、跡地に大阪城作られてしまい、更には家康にそそのかされて東本願寺が分離独立した時点で、浄土真宗は、大勢力ではありつつも、政治家に屈服してしまうのである。

 話を遡ると、3代めの覚如は、教団の維持に都合の悪いところは無視して、でも「歎異抄」をもろに剽窃して、自分の書いた「口伝抄(親鸞から、2代めの如信に口伝されたものを『如信から』3代めの自分に口伝されたものの抄録)」として公式に示すことにより、女系の曾孫という、血縁的には遠い自分こそが親鸞の後継者という位置づけを強化したのだろうと梅原氏は推測している。

 結果的に、単なる無名の地方の僧侶だった唯円が著者だということそのものが歴史に直接は残らなかった。幸い、本山に「お蔵入り」はされていて、唯円という僧についての他の行跡の断片的記録を照合すると、「点と線」は見事につながり、著者唯円が、親鸞自身から聴いたことを書き留めたのは間違いないことは,学界でも宗学の上でも『今は』ほぼ定説化している。

 少なくとも、新約聖書の4大福音書の成立(2世紀ぐらい)までに比べたら、直弟子だった人物のまとまった唯一の記録として、親鸞の生の発言が忠実に反映されている度合いが格段に高いとされている。

 しかし、この書の存在は長い間知られず、学問的・教学的吟味がはじまったのは、江戸時代中期、本居宣長らによって古事記をはじめとする古い文献への文献学的再吟味が始まった潮流に乗って以降である。この時点で著者唯円説を説得力ある形で唱えた学僧ははいたが、あまり問題にされなかったようである。

 この書を有名にしたのは、明治時代になってから、清沢満之とその門弟たち(金子大栄はそのひとり)が真宗改革運動の乗り出す際にこの著作を重視してからであり、それまでは、そもそも「布教に使われることのないまま」埋もれていた。その内容が、基本的に教祖の親鸞自身が「教団」というシステムそのものを否定する、激越な内容を含んでいたためである。

 要するに、親鸞が若い熱心な弟子に向かって、問わず語りに、おそらくかなりくつろいだ気分で、ざっくばらんに繰り返し語った「ホンネ」集みたいなもの。

 鎌倉時代の、しかもかなり口語的にくだけた文語なので、少なくとも源氏物語を読もうとするのに比べれば(徒然草よりもだと思う)、古文に普段なじんでいなかった人でも、そんなに多くはない独特の仏教用語そのものすら前後の脈絡から何となく推理でき、現代語訳で解説的に「翻訳」されてしまうと失われる「泥臭いまでに生身の人間の匂いがする」味わいがダイレクトに堪能できるのではないかと思います。

 何しろ、私がはじめて「読破」した仏教についての単著がいきなりこの原典、というくらいです。

 岩波の金子大栄氏校注(現代語への非常に解説的な意訳付き)で、昔でいう★の厚さにしかならないもので、原文だけならほんの20ページで終わってしまうでしょう。

****

 私が妄想した、ある光景。

「だってさあ、そうだろ、お前。わかるかあ? 阿弥陀様は、こんな俺のことだけを思って救って下さろうとしたのではないか、とすら感じた気持ち。これって、一見傲慢だろうけどさ、自分が本当に救われた、それは私の意志やがんばりなんかではなくて、師匠の法然様が救ってくださったのですらなくて、本当に、人間の思慮分別を超えた阿弥陀様というものがおられて、何でかわからんけど私なんぞを「救って下さった」というしかない、って。自分を超えた「何か」の「はからい」がないとこうなるわけない!! と心底感じたから、阿弥陀様に念仏を唱えずにいられないわけだよ。」

「俺は「弟子」なんてひとりも持った覚えはないから。俺の教科書をありがたがって知識として「勉強する」だけの奴らなんて何もわかってないの!! ホントぞっとするね(きはめて荒涼のことなり)。そうやってただの生身の人間であるに過ぎない私を崇拝する奴らなんて!! 俺をありがたがるなよ!! 凄いのは阿弥陀様であって俺ではない。俺であってはならないわけ!!」

「 そして、信者たちにありがたがられて、まるで自分が救い主みたいな自己陶酔するなっつーの!! そういうのが俺の高弟でごさい、みたいな態度取ってると虫酸が走るよ。救ってくださるのは阿弥陀様であって、連中が、努力や修行を積んでいけば人々を「救える」ようになりたいと「願う」ことのがそもそも傲慢だよ。どこまでいっても人間はこの世では煩悩から抜け出せないよ。阿弥陀様だけが、俺たちを含む人間の救済を本当に「願う」(本願)力を持っている。「祈って」待つしかないんだ。阿弥陀様の慈悲がその人をお救いになることを。人が人を救える、自分もそういう人間に修行を積めばなれる、なんて発想そのものが、そもそも不届きで傲慢で「煩悩そのもの」なんだよ」

「そういう人間は、自分は徳を積んだ善人だと確信犯してるからいよいよどうにもならん。俺はいろんな欲や感情にとらわれ、悪いことをして生きていくしかない、そのことへの自嘲と絶望を密かに感じている人間の方が、本当に人を超えた何かに救われたいという思いに近いとすら思うね。阿弥陀様もえらいモンだよ。そういう「独善的」エゴイズムにとらわれた人間すら念仏「させてくださって」救ってくださろうっていうんだから(「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」・・・・いわゆる「悪人正機」説

「......もっとも、逆に、どんな悪いことをしても、色と欲に開き直っても、阿弥陀様は念仏しさえすれば救ってくださると開き直る連中も、逆方向にどんでもない勘違いしている。念仏ってのはさ、実は自分の意志で「する」か「しない」か自由に決められるものだと思ってるだろ、そいつら。念仏「できる」ことのものが、阿弥陀様の慈悲あってのものだっていう、肝心なことに気がついてない」

「.......え? 『念仏していても全然幸せな気持ちになれないし、そもそも極楽浄土って、そんなにいい場所なんでしょうか?』って? .........正直な奴よのう、お前。......実は、わしもそう思う時がある(爆)。でも、そうやって煩悩や迷妄にとらわれる存在でしかないからこそ、救っていただけるありがたみがあるんじゃないかの? 念仏するかしないかは、勝手にすればあ? としか思ってないんだけどね。」

「....実は、俺すら、この程度の人間だから、阿弥陀様がまっすぐ極楽に連れて行ってくれる保証はないと思うね。すべては阿弥陀様の手の内にありだし、どうみても、一度は地獄行きでもしかたない程度のものだと思うし。でも、そうなっても先生の法然様が俺をたぶらかしたなんて、師のせいにして一切恨まないからね。すべては阿弥陀様の手の内にある、その慈悲にすがるしかないってのは、俺の人生かけて悔いはない帰結なんだからから」

*****

 「歎異抄」とは、自分本来の教えの意図がが右にも左にも誤解されて『異』なった姿で論じられるようになったことへの師の『嘆(なげ)き』に共鳴した弟子が、師に繰り返し言われたことの核心を要約してまとめ(『抄』録し)、後続の章で、唯円自身による解説を付記した書物なのである。

 ここからは、現段階での私の想像です。

 どうも身近な弟子たちは私に媚びてるので信頼ならない。でもはるばる関東の地からやってきたこいつ(唯円)なら、情熱はあるけど頭でっかちではなくて全然スレてない。「浄土ってそんなにすばらしいところか信じられない時もあるんですけど」、とか、無礼な質問すら平気でしてくる誠実さを持っている、こいつなら気を許せる、と見込まれてしまって、飲み屋での老人の繰り言のように、熱弁をふるい出す師の話に「繰り返しつきあわされる」みたいな状態だった唯円。

 京都滞在時代の若い頃を思い返すうちに、いよいよ混迷し、政治にも巻き込まれて変節していく教団のありようと引き比べるうちに、師の語った「逆説の山」の真意をいよいよ悟っていった。

 親鸞の直接の教えを受けた人たちがみるみる世を去り、直弟子唯一の生き残りとなったところに、関東の外れに「無名だが、直弟子がまだひとりだけ存命」と知った京都の本山からお呼びがかかったが、あまりに過激なその内容に、唯円が精魂込めて書いた持ってきたテキストは、あっさり「お蔵入り」となってしまった。

*****

 「他力本願」というのは、実はカウンセラーに必要な究極の姿勢ではないかと思う。

 カウンセラーは、自分が修行を積めば人を「救える」ようになるなどとうぬぼれてはならない。「願って」もならない。

 ましてや、自分の流派が優れているとか、自分こそが真の弟子だとか論争するのは、恐らくカウンセリングを受けるクライエントさんにすら有害な、もっての他である。
 
 実は相手が以前よりいい状態になることを『願う』ことののものが、カウンセラーの煩悩であって、身勝手なのではないか。

 我が身を振り返ってみろ。そんなに幸せか? そんなにものごとをうまくやれているか? 時には色んな欲や感情に振り回され、ごまかしをし、先生や先輩として慕われることにいい気になり、逆に先達の機嫌を損ねないために媚びへつらい、自分の業績へのこだわりから他人を批判する。身近な人たちを傷つけ、失望させ、他人の命をむしり取るようにして生きている、いつまでたってもそんな人間ではないか。

 ******

 私は、自分が現場カウンセラーが「天職」な人間などとはほとんど思っていません。でも、それは周囲と比較してのの劣等感とか、そんなものでもないのです。むしろ、少し前まで思っていたより、カウンセラーの実力差など、実は「ない」のではないかとすら感じ始めています。

 私は、なぜか、フォーカシングとの出会いから一貫して、ジェンドリン自身すら含めて、フォーカシングの世界の中で、特定の誰かを「師」と感じたことがない、というあたりはこのブログでも平然とボロボロ書いてきました。ジェンドリンの理論が、心理療法の世界のアインシュタインと言いたいくらいの「コペルニクス的展開」を秘めたものであるということは確信してますが。

 そして、「私はそれを確信している」と言っておきながら、それを積極的に宣伝することにはあんまり興味がないようである。親鸞が法隆寺六角堂で阿弥陀様から受けた啓示と同じようにして、フォーカシングと出会ったという意識しかないから、「特に臨床家のみなさんがピンとこないことが『わからない』ともいえるし、『仕方がない』とも思っている」と開き直るところがある。

 (もっとも、これは、フォーカシングについて「実体験がないままの人に、実体験がないまま『理解」』してもらおうという意識がとことん欠けている」ということです。もとより、実際に実習してみようとおいでになった個々の皆様に対してとなると、個々のフォーカサーの方のペースに寄り添おうと努めるトレーナーであろうと務めています。フォーカサーの「お口に合う」、「一品料理」としてのフォーカシング体験になるように最大限の配慮をします。消化不良にもならないように。この点は、こちらで書いた通りです)

 フォーカシングとは、フェルトセンスを感じてみるという、ただそれだけのことで、しかもフェルトセンスはすでにそこにあって、こっちに気づいてもらいたがっているものであることは、ジェンドリンの本を最初にめくった瞬間から自明のものだった。ジェンドリンはそれに言葉を与え、「自覚させて」くれただけの存在なのだ。フェルトセンスに「どのくらい」従って「いない」かだけは、どんな瞬間にも実は感じて「いた」としかいいようがない。

 アンはすばらしい「先達」だし,わかりやすくツボを押さえて技法化する上でのセンスは圧倒的だし、個人的にも全然構えずに気持ちが通じやすい人だと感じてますが、いわば「タメ口安心してたたける先輩」みたいな意識です。

 そして、村瀬孝雄先生は、そういうどこの馬の骨ともわからない私を引き立ててくださった。村瀬先生との出会いなしでは、今日の私はありません。でもそれは、何と村瀬先生が、ひたすら私の聴き役をして下さるという、驚くべき謙虚さをお持ちだったからに他なりません。

 もちろん、今でも、個々の点で、その人を「見くびっていた」な、この人はこの人なりに、私にはない持ち味があると感じて自分の傲慢さを恥じることはしょっちゅうですが。

 そして、フォーカシングとの出会いを、ほとんど運命的な「神からの恩寵」と感じていることは繰り返し書いてきました。それこそ、「私を」癒すために、フォーカシングという技法が生まれ、遣わされたのだとすら思っているところが確かにある(^^;)。

 もとよりこれは、各人が、各人なりに、フォーカシングとの出会いをそれくらいに「私的な」邂逅(かいこう)として体験できることを信じたいからこそ、おおっぴらにいうことなのです。

 いずれにしても、私は、この世の誰の影響の元にフォーカシングに導かれたのでもない、という事実は変えようもない。

 でも、フォーカシングというものそのものが、自分のコントロールを超えた何かだと感じているのですね。

 どうして、「あの時」ではなく「この時」フェルトセンスに改めてじっくり注意を向けようという気に「なれた」のか???

******

 「クライエントさんは、自分の力で治っていく」という言い方も、結局行きすぎだと思います。

 なぜかしらんけど、そのひとの「状況」が味方をし始めた、としかいえないことって、多い気がして。

 そこまで、クライエントさんを何とかしようという「悪魔の誘惑」にも負けてしまわず、クライエントさんに何も変わらないという絶望を感じさせ、クライエントさんに見捨てられたと感じる無力感からも目をそらさず、「なぜか」関係が維持されていることそのものに感謝を覚えなから、何か活路が生じることを「祈る」ことしかできない。

 ちょっと、カウンセラーを「変えよう」と力んでいた私が恥ずかしくもなっています。

 出口は、常に「向こうから」やってくる。

 そう感じている人だけが、技法に「使われる」ことなく、技法を「なぜか無理なく有効に使えてしまう」ようにも思います。

*****

 ともかく、たまたま浄土真宗の家に生まれたことも、何かの巡り合わせかなと思いました。

 梅原猛先生の訳注の、はるかに分厚い「歎異抄」を読みました。すでに更なる読み返しの最中です。梅原先生の本を読むことすら初めてのこの私(^^;)

 金子大栄氏の岩波版は、現代語訳が親切に「意訳」しすぎて、逆に原文の生々しさが薄れて、洗練され過ぎている気がしましたが、梅原先生の現代語訳は、より逐語的でありつつも、平易で、原文の情熱が伝わる訳と感じました。もうちょっと下品でもいいかなとは個人的には思いますけど。解説は、ちょっと親切すぎるくらいだけど、歴史考証も含めて、たいへん読み応えがあります。

追記:私って、やはり、法然(村瀬先生)にとっての親鸞であり、まさにフォーカシング界の「歎異抄」(のもとに未来になる予定の「雑記帳」)を、ここで必死に書いて来たんだと思います。

2006/11/25

速報!! 2009年5月、フォーカシング国際会議、日本の淡路島で開催決定!!(第3版)

 フォーカシング国際会議が、2009年5月12日(火)から5月16日(土)にかけて、5日間、日本で開催されることになりました。

●公式サイト

 場所は、兵庫県淡路島の北端、明石大橋を渡って十数分の、「淡路夢舞台」にある、淡路島Westin、そしてこのホテルと直接つながった、兵庫県立国際会議場(Wikipediaはこちら)です。

 海を眺望できる、自然に包まれた北淡路の高台にありながらも、日本とは思えない、すべてが完全に「外国人向け高級仕様」の超ゴージャスな外資系リゾートホテルと、これまた窓からの眺望のいい分科会用の小会議室をたくさん備えた国際会議場での体験は、日本に居ながらにして外国旅行の気分も味わえる素晴らしい会場です。

 (団体割引が適用されますので、一泊あたりの食事込み宿泊料金そのものは、施設の「超」ゴージャスさからすれば「予想外なまでに」リーズナブルとなります)。

 茶室や植物園も隣接していますし、京都のお寺とをバスで往復しながらのレクチャー付きの、移動形式の、東洋と西洋のスピリチュアリティの出会いの参加企画などもすでに有力な構想に浮上しています。

 神戸方面からの公共交通の便も、バスが10-20分に1本という、至便の地です。

 主催:フォーカシング国際大会実行委員会(会長:池見陽)
 後援:日本フォーカシング協会(次期会長:吉良安之)
    The Focusing Institute日本コーディーネータ−会

 参加資格は特にありません。フォーカシングに関心のある世界中の皆様に開かれた催しです。

 「会議」と銘打ってはおりますが、単なる国際学会大会というより、むしろ「全世界のフォーカシングに関心を持つ人たちの、年に1度の交流の集い、お祭り」というべきものです。

 これまでも、すでに年一度、18回にわたり、各国のThe Focusing Instituteのコーディネータ有志を主催者とする形で、それぞれの持ち味を生かしながら、北米(アメリカ/カナダの各地域)、西欧各国(イギリス・アイルランド・ドイツ・オランダなど)、中南米(コスタリカ)で開催されて来ました。

 来年、2007年はイスラエル、2008年はカナダのモントリオールでの開催がすでに予定されています。

 学術研究発表というよりは、自由に参加できるさまざまな20近い分科会やパーティー、オプショナルツアーなどを包含する、宿泊形式の数日かけての体験中心複合ワークショップとイメージしていただくといいかと思います。

 フォーカシング体験がない人ですら全く違和感なく参加でき、なおかつ世界各地のフォーカシングの各領域の「最先端」のディープさも体験可能という、何とも懐の広いプログラムとなっています。

 現場心理臨床のみならず、さまさまな経歴を持つ人たちが、各国のさまざまな状況下での教育現場、宗教、開発途上国への支援活動、芸術、民族問題、差別や貧困の問題、国際平和活動、哲学、東洋思想など、独自の観点からアプローチして、フォーカシングを活用しようと情熱を傾ける人たちかいるのだという、それらの方々の生き様とプレゼンス(ひとりの人間としての存在感)に触れるだけでも刺激的な体験です。フォーカシングについての既成概念を覆すさまざまな「発見」と「出会い」に満ちあふれたものになるでしょう。

 そして,世界のフォーカシング関係者は、世界有数のフォーカシング大国になりつつある「日本では」フォーカシングがどのような広がりと展開を見せつつあるのかに、たいへんな関心を抱いています。日本の草の根のフォーカシング・ピープルたちからむしろ啓発される、刺激的な出会いを待ち望んでいます。

 日本各地のフォーカシング関係者からの、自発的な分科会「開催」申し込みも幅広く受け付けます

 すでに来日してワークショップを実施してきたトレーナーの先生方のみならず、「日本では」まだあまり知られていない、欧米(ギリシャ含む)や中南米、イスラエルの、さまさまなジャンルにおけるフォーカシングの実践家や愛好者、数十名以上が来日して下さるものと思います。

 日本からの一般参加者も、流派や経験、専門家であるか否かを問わず、幅広く歓迎し、総参加者200名ほどとなるものと思われます。

 使用言語は日本語と英語を予定しています。

 なお、特に日本では5日間連続で、普段の仕事を休んで、宿泊形式のワークショップに参加するとなると二の足を踏む皆様が少なくないかと思いますが、日程の部分参加も歓迎できる方向で検討中です。

******

 ここ数年、日本からも毎年数名から十数名の参加者が各国での国際会議に参加して来ましたが、ついに3年後日本ではじめて開催することとなり、本日まで開催されておりました「フォーカサーの集い in 島根」で、正式に、有志による実行委員会の発足が決まりました。

 このような大規模な催しですので、国際会議の具体がどのようなものになり、プログラムの具体や参加参加申し込みのシステムなどもこれから検討されて、徐々に具体化されて行きます。

 いずれこの大会のための日本語版・英語版の公式サイトも立ち上げられる予定です。ネット上でのそうした動きが進みましたら、この場でもお知らせいたします。

 (私もすでに実行委員のひとりではありますが、今後は、具体的な開催内容についての情報は、公式サイトに譲りたいと思います。「こんなことも既に公式サイトで正式公表されました」ということをは、折々こちらのブログでも「私的に」お伝えするかと思いますが)

 具体的なお問い合わせは、日本大会公式サイトが立ち上がってから、公式サイト経由でお願い申し上げます。


*******


 ちなみに、当ブログの1年少し前のフォトアルバム、「淡路島縦断の旅」は、実は、大会参加経験がある関東のTFIコーディネーターとして、「会場候補地」を、他のコーディネータの皆様の了解の元に「お忍び視察」(?)させていただいた時のものだったのですね(^^)。実は、この時に、すでに営業の方に会議場を含めた「全施設」を見せていただいていました。

 つまり、すでに2年以上にわたり、日本のコーディネーター会で、2009年のフォーカシング国際会議誘致については検討を重ねて来て、やっと本日から、「国際会議開催」と参加への呼びかけを広めることが可能にになりました(^^)。

 まもなく、このフォトアルバムは「フォーカシング国際会議開催予定地はこんなところ」みたいなタイトルで、分割・再構成いたします(注:あくまでもプライベートな紹介記事です)

 私が参加した、2005年のトロントでの国際会議の写真集「トロントだより」こちら。フォーカシング国際会議が堅苦しくない、ユーモアに満ちた催しなのは、この写真集からも汲んでだいただけるものと思います。


******

追伸:

「フォーカサーの集いin 島根」に参加された皆様、またの出会いを楽しみにしております。

 土江正司さんをはじめとする、島根の「集い」を企画・運営して下さった皆様、盛りだくさんの楽しい日々、ありがとうございました。お疲れさまです。

 明日(26日)は、これらの島根のスタッフの皆様が企画して下さった、出雲の神話の里をめぐるオプショナルツアーに参加します。


           松江より こういちろう

2006/08/18

河合隼雄先生に、お見舞い申し上げます。

 今日は朝早くから所用で外出していたため気がつかなかったのですが、文化庁長官、河合隼雄先生がお倒れになったそうですね。

 幸いご回復に向かわれたと続報で知りましたが、これで公職は離れられることになるでしょうから、一言だけ、ほんとうに心からの言葉です。

 日本の心理臨床を一身に背負って下さり、

 お疲れさまでした。

 ありがとうございます。

 天国の村瀬孝雄先生も、そうおっしゃっていることでしょう。

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