リンク: フォーカシング(?)がなんとなく苦痛 (長文です) -OKWave.
OKWAVEではなくて、こちらで我田引水で回答めいたものを書いてみました。
一方では、嫌な思い出を思い出さずに「蓋をしよう」とする自分の傾向に気づいておられる。でも、そうした嫌な思い出について具体的に思い出すことにかなりの不安と恐怖もお感じなのなと理解いたしました。
夢の中で、過去のつらい体験と見事に響きあう感情体験もなさったご様子、さぞ途方にお暮れになったことかと思います。
増井先生の「心の整理法」は、気がかりな事柄の置き場所探しをもっぱら中心的技法にしていますので、「置いたままにしておく」=「自分はその問題 から逃げているのではないか?」という葛藤も呼び起こし、「ほんとうにそれだけでいいのか?」ともお感じだったかもしれません。
また、「置いておく」前に、過去の気がかり自体を思い出さないとならない、ということそのものが質問者の方のネックにもなっているように感じました。
回答として私が思い当たるのは、次の3つの方向性です。
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もうひとつだけ、旧「フォーカシングQ&A」からの転載を追加しました。今度こそこれで完全移行です。
この質問は、たくさんの方からいただいた訴えです。
ひとりでフォーカシングする場合、自分のなかに、ガイド役とフォーカサー役を意図的に解離して同時に維持せねばならないので、試み始めた頃は、いつの間にか注意が他にそれたり、眠ったりというのは、実にありがちなことです。
そうした自分を責める必要は何もありません。
そもそも、フォーカシングをしているつもりで眠り込むほうが、そうではない場合よりもいい眠りになることも少なくないと思います。
いつの間にか注意がそれたり、その気がかりや身体感覚についてのいろいろな連想や思い煩いに流されていた場合には、
「その事柄(その身体の感じ)をめぐっては、そうやっていろいろな思いがあるわけね」
そうした思いの一つ一つに、
「自分の中のある部分には、そうした思いもあるんだね。なるほど、もっともだね、わかったよー」
と声をかけて、ひとつひとつ挨拶して、認めてあげていくことをまずはしてあげてみること。
そうした上で、
「そうしたこと全体を、からだはどのように受け止めているのかしらね?」
と、身体感覚全体に問いかけてあげて待ってみると、しばらくするうちに、身体のどこかが反応してきます。
その曖昧な感覚そのものと、しばらくそばに居てあげればいいのですね。
その感じは「どんな」感じか、ぴったりの言葉(フェルトセンスのハンドル)を捜そうと、焦る必要もありません。そうした言葉は自然と向こうから浮かんできます。
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そして、途中で寝てしまう場合ですが。
私が常々繰り返しているとおり、気がかりについての、曖昧な身体の感覚、あるいは、自分の状況や存在のあり方とどこかで何か結びついているかに感 じられる縛とした身体の不全感に、直接注意を向け、しばらくその感じと無理なく共にいられたならば、あなたはその時すでにフォーカシングしていたのです、
そういう感じを自分の中に見つけた途端に(あるいは見つけつつある最中に)睡魔に襲われ、いつの間にか寝入ってしまうということは、実は全く自然な現象だと思います。
そうやって寝てしまうのは、自分がその気がかりや漠とした身体感覚に、それまでどれだけ悩まされてきたかの証とも言うべきでしょう。まずは休息が必要なのです。
そして、新たな機会に、
「あの時つかみかけたあの感じはいまはどうかな?」
というふうに、内側に注意を向けてみると、以前よりは簡単に「その感じ」にアクセスできることも少なくないかと思います。
そうしたことを繰り返していくと、日常のなかで、特にフォーカシングをしようという意識がない場合ですら、その基本的には同じ感触と質感の不全感が、今も自分に訴えかけてきていることを自然に気がつけるようになります。
日常の中であなたが一度関心を持って声をかけたりした相手がいたとします。その時には、相手はやや無粋な反応しかしなかったとしてもに、繰り返し軽く挨拶だけでもしたいたら、いつの間にか、その人のほうから、あなたに何か声をかけたそうな視線は繰り返して帰ってくるようになることがあるでしょう?
自分のフェルトセンスへのアクセス性が高まるということは、そのような、人間関係において少しずつなじみになるのと同じような性質を持っているのですね(^^)
そうこうするうちに、きっと、ある晩、「(内なる)二人」の心は通じ合い、真剣にお互いに向き合え、言葉を交わせる条件が、無理なく整うのです。
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・・・・以上、この記事も、旧「フォーカシングQ & Aサイトからの「引越し」記事です。
」
・・・・以下、インターネットにまだあまり詳しくない、初心者向けの内容です。
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皆さんは、Skype(スカイプ)をご存知でしょうか?
インターネット上で、ライブで音声動画通信を行うソフト、要するにTV電話のようなもので、しかも使用料金は無料です。
ヘッドセットと呼ばれるマイク付きヘッドフォンさえ購入すれば、簡単な設定で、日本全国、いや、世界中のフォーカシング・ピープルとの間で、パートナーシップを持ったり、トレーニングを受けたりすることができる可能性がひらけます。
電話、ないし電子メールによるフォーカシングは、かなり前から欧米では行われていましたが、日本でもすでにSkype経由でフォーカシングを共有・提供しておられる方もすでに少なくないかと思います。
ここで改めて、まだご存知でない方のために、Skypeの活用が秘めた大きな可能性について、私なりにご紹介したいと思います。
私は、こうした意味で、Skypeを通して、フォーカシングのパートナーシップを共有される皆さんが、全国で更に増えることを祈っています。
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Skypeで私が有料でお引き受けしている内容(全くの初心者の方歓迎)。
●私を担当者とする場合の、有料個別指導のやり方、料金体系等、詳しくはこちらを御覧ください。
アメリカのフォーカシングの名教師、アン・ワイザー、コーネル女史による本書の原題は"Radical Acceptance of Everything"である。この"Radical"という言葉の含蓄と、邦題の「すべてあるがままに」という語感には著しいギャップがある。原題をう まく噛み砕いてキャッチーなものにするためのアイデアは他に容易になかったかもしれないが、本を開いてみた方が、内容に面食らうであろうことは相違に想像がつく。
"Radical Acceptance of Everything"とは何か。自分の中に生じてくる様々な思念や情動などをひとつひとつ対象化し、その存在をひとつずつ認めてあげて (acknowleging)、それらすべてのかたわらにに佇(たたず)んでいてあげることで、自分内部にスペースを見出すという、意図的な過程を経て見出された状態のことを指す。それが実現できれば、その人の変化は、自ずから着実に進行し始める。
アンはこれを本書の多くの部分で「プレゼンス状態」と呼ぶが、今度はこの"Presence"という言葉そのものが日本語として馴染みにくい。私は"Presence"を「臨在性」と訳すことを提案したい。(内的に対象化し得るすべての)「傍(かたわ)らに、たたずんでいてあげられること」を指すからである。そこには関係性が含意されている。
訳が分かりづらいというレビューをされている方があるが、私が精読した限り、上記のポイントを除けば、本書は原著を非常に精妙に翻訳したものである。実は、そのように精妙に訳さない限り、言語学者としての経歴を持つアン女史による本書の真意は伝えようがない。ほんとうに「繊細な」内的作業の仕方について書かれている本なのだから。
つまり、本書は読者を選ぶのである。フォーカシング技法について多少なりとも「体験的に」身につけている人であることが条件。
一定の目安を述べれば、少なくとも、アン・ワイザー女史の「フォーカシング入門マニュアル」を十分に読みこなせ、その技法を自分の為に、あるいは聴き手として実践できる人であれば、アンさんの他の著作を読まないまま本書に進まれても、熟読すればその真価ががわかるであろう。
そういう意味では、フォーカシングに対するある一定の熟練度がある人が「がっぷり4つに組んで」熟読するのための本である。
本書に収録された論考やエッセーそのものが、一部の書き下ろしを除き、実は国際フォーカシング機構(The Focusing Institute)の機関誌に寄せられたものである。ゆえに、「フォーカシング・ピープル」のための新たな刺激剤(しかも衝撃力がある起爆剤!)として 位置づけられる運命を背負っていると思う。
だが、本書で示唆されたレヴェル(実は、身につけてしまえばそんなに複雑とは感じないものになるのだが)を実践できる一団が日本に現れるならば、日本の心理臨床界におけるフォーカシングについての認識を、根本的に変革させるだけのパワーを秘めていると確信する。
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本書については、当ブログでもこれまで多少言及したことがありました(こちら参照)。しかし今回、Amazonレビューとして新たに書き起こしたものを転載しました。
本書は、「入門マニュアル」「ガイド・マニュアル」に続く、「ニュー・マニュアル」
の更に次の、アンの技法書として位置づけられます。
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アンさんの著作、あるいはワークショップへの参加から、私は大きな影響を受けてきました。本書は自分がそうした中で私が身につけてきたものを明確に再確認するのに役立ったと同時し、いくつか新しいアイデアももらえたと感じています。
私のフォーカシング個別指導でも、本書で書かれた内容に準じたことをお伝え出来ていると感じて、ほっとしたところがあります。
このtogetterは、坂井 素思・岩永 雅也 (編著) 「格差社会と新自由主義」を読んで、経済学・社会学的見地から今の日本の生きづらさと解決の方向性について考えさせられ、引き続き、池上正樹(著)「ドキュ メント ひきこもり -<長期化>と<高年齢化>の実態-」を読んで感じた、世代や社会人経験を問わず、自分のあり方について熱心に内的に追求する層 こそ引きこもり=永遠の失業者に陥る現状に刺激を受けて、今度はそうした現代の「自分探し」の堂々巡りの解決のための具体的方法論としてのフォーカシングの可能性という、カウンセラーとしての私の専門領域での実践活動に到るまでを紹介するという、かなり越境領域的なツイートの連鎖です。
フォーカシングの名教師・アン・ワイザー・コーネルさんの"Radical Acceptance of Everything"(邦題:「すべてあるがままに」)で述べられた諸見解について、私なりに噛み砕いた紹介にもなっています。
途中、唐突にテーマが 変わるかに見える部分があるかと思いますが、繰り返して読み返していただければ、私の思考と連想の過程が浮かび上がるかと思います。
こちらからどうぞ。
mskzmmrさんのお許しを頂いた上で、とぅぎゃらせていただきました(Twitterのまとめ記事)。mskzmmrさんとの対話があって、初めてこういう解説に仕上げられました。感謝申し上げます。
主として"clearing a space"(空間作り)と"acknowleging"(認めてあげる)を技法的な中心として述べています。
なお、ここでの対話は、被虐待者をまずは虐待者から引き離すことが必要な場合があることは、すでに自明の前提とした上で、「過去の」虐待トラウマ体験のPTSDといかに対処すべきかという話の流れです。
過去の虐待者を「セラピーに」参与させる必要はすぐにはない、という意味でなされています。
mskzmmrさんもそういう脈絡で話を進めておられるかと思います。
こちらからご覧ください。
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開業は店をたたんでいますが、ネット上でのSkypeによるフォーカシング個別指導(有料)に限定して再開することにしました。
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詳しくは旧開業ブログ(表看板だけ閉鎖しただけで、実は個々のページは今でも閲覧可能、Googleでも検索できます)の、このページをご覧下さい。
ブログネタ: 思わずツッコミを入れてしまうのは?
心の中でだけ相手にツッコミ入れとく方が賢い場面では沈黙して、後で裏で動くのが懸命とみなすことも多いことは少し前にも書きました。
でも、なにより大事なのは「他人の言動にツッコミ入れる前に、自分の言動にウィットを込めてツッコミ入れ続ける「脱同一化(disidentification)」できるこころの余裕(ケン・ウィルバーおよびアン・ワイザー・コーネル用語)だと思いいます。
これって、単なる「自己批判」ではなくて、「ちびまる子ちゃん」のナレーターの「おいおい」的一人つっこみだと思っていただくといいかと。
以前にも、知人に「見せていただいた」段階での「ご紹介」記事を書きましたが、自分で実際「手に入れて」感想をお書きするまで、随分時間が空きました(^^;)
池見先生が徹底的に「自分の言葉で」お書きなのに非常に好意を持ちました。そうでないと「人に伝わらない」のです。
鹿児島でのワークショップへの旅立ちから大阪への飛行機での帰着までの、池見先生の内面を含む「実況中継」をメイン・ストーリーにした、池見先生の、早過ぎる「自叙伝」みないな雰囲気で一貫してますね。
驚いたのは、参加者8名全員に公開フル・セッションを行なうために鹿児島に行かれたという、そのやり方です。「ライブ・セッション」をして見せてはじめて関心を持ってもらえるわけというのは私も同意見、早々に「ペアになってやってもらう」ばかりでは上達しません。
更に言えば、カウンセリングにおける受容とか共感についての「大学での講義」や模擬面接、事例検討会、あるいは単なるグループ・集団型のワークショップだけでは伝わらない次元のものが「迫って」くる印象です。
本書でお書きになっておられますが、楽器の演奏でもスポーツでも基本の「型」があるし、それに馴染んで「身につけて」いることは基本前提です。しかしそれを現実のパフォーマンスとして「プレイ」する時には無意識のうちに縦横無尽に使いこなせないと本物にならない。
そういう「アドリブの仕掛け」まで解き明かしてくれているあたりが、これまでのフォーカシング関連の著作を超えた、たいへんな功績だと思います。
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